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空挺部隊年表

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明治13年(1880年)
米軍のトーマス・ボールドウィン大尉が気球から落下傘降下。

明治22年(1889年)
米国のレリュークスが1500m上空の気球から落下傘降下。
2カ月後、漂流気球の受領にドイツへ赴き、ドイツ軍シューネベルグ飛行場で降下実演を披露。

明治23年(1890年)
明治天皇の前で、英国人スペンサーが日本初のパラシュート降下を披露
米国人ボールドウィンが上野博物館前広場にて気球からパラシュート降下実演。


明治41年(1908年)
宮崎県児湯郡上江村に軍馬補充部高原支部設置。
8月21日、高原支部川南派出部着工。

明治42年(1909年)
4月18日、高原支部川南派出部落成式。

明治43年(1910年)
軍馬補充部高原支部を高鍋支部へ改称。

大正元年(1912年)
米国のアーヴィングが飛行機から落下傘降下。

大正7年(1918年)
10月20日、フランス軍のエブラール少佐他1名がアルデンヌに落下傘降下、後方攪乱作戦を実施。

大正8年(1919年)
米軍のウィリアム・ミッチェル大佐が大規模空挺作戦を立案(前年末に終戦となった為に中止)

大正10年(1921年)
米国バースバーサーカス団が東京洲崎埋立地上空で飛行機からパラシュート降下を披露

大正11年(1922年)
イギリス海軍よりオードリース少佐を招聘し、日本人初のパラシュート降下を實施
陸軍1名、海軍4名、民間人1名が気球より落下傘降下。
玉川第二遊園地開園。

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昭和2年(1927年)
立川飛行場上空で航空機分解事故が発生した際、パイロットの中尾純利氏がパラシュートでの脱出に初成功。
ソ連軍が冬季演習にて空挺降下を実施、8名の空中歩兵が降下。民族紛争鎮圧のため、ソ連軍が後方攪乱部隊をパラシュートで投入。
ウィリアム・ミッチェルが第1次大戦時の空挺作戦計画を公表。

昭和4年(1929年)
アメリカで降下法を学んだ留学生の帰国を機に、ソ連が落下傘手の大量養成に着手。

昭和6年(1931年)
ソ連軍が空挺部隊を設置。

昭和8年(1933年)
フランス軍が落下傘学校を設立。
ソ連共産青年同盟中央委員会がパラシュート降下を党員の軍事技術教育課目に採用。
ソ連の落下傘部隊・同好会数26、練習場数3ヶ所、落下傘学校数1校。

昭和9年(1934年)
ソ連の落下傘部隊・同好会数218、練習場数12ヶ所、落下傘学校数2校、落下傘練習塔数120基。

昭和10年(1935年)
キエフ大演習にて600名の赤軍兵がパラシュート降下。装甲車、軽戦車、トラックの空輸にも成功。
ソ連の落下傘部隊・同好会数1300、練習場数115ヶ所、落下傘練習塔数370基。

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戦時ドイツの一コマ漫画より

昭和11年(1936年)
ドイツ軍が空挺部隊の研究に着手。
ソ連国内の過去10年間落下傘降下経験者数が延べ140万6千人に達したと発表。空挺部隊兵力は6万人。

昭和12年(1937年)
ミンスクでの演習にてソ連空中歩兵1200名が降下。
モスクワでの演習にてソ連空中歩兵1個大隊2200名が降下。
フランス軍の演習にて、落下傘部隊70名が降下。

昭和13年(1938年)
宮崎県新田村、富田村(現・新富町)に陸軍飛行場建設を決定。
イギリス軍が落下傘部隊の研究を開始。

昭和14年(1939年)
2月1日、新田原飛行場建設着工。
3月、宮崎市赤江町に傷痍軍人寮宮崎療養所開設。

昭和15年(1940年)
4月9日、ドイツ降下猟兵がデンマークのオールボー空港を占拠。
5月10日、ドイツ軍空挺隊員がグライダーでベルギーのエバン・エマール要塞を奇襲、占拠。
7月15日、熊谷陸軍飛行学校新田原分教場設置。
8月15日、地元住民へ新田原飛行場への立ち入り禁止の通告。
11月、日本海軍が空挺部隊の研究「第1001実験」に着手。
11月7日、二子玉川の読売遊園に落下傘塔開設。
11月17日、大刀洗陸軍飛行学校新田原分教所開所式。
12月、日本陸軍が浜松陸軍飛行学校に落下傘の練習部を創設。落下傘部隊の要員養成と研究を開始。
米軍が第501空挺部隊をフォート・ベニングにて編成。

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二子玉川の讀賣落下傘塔

昭和16年(1941年)
1月、陸軍落下傘基幹要員整備。
2月20日、第一回目の降下訓練に成功。
5月、東條大臣の勧めにより挺進練習部を満州国の白城子陸軍飛行学校へ移転。
5月20日、ドイツ軍、クレタ島降下作戦に降下猟兵を大規模投入。連合軍の反撃で大損害を蒙った為、以後の空挺作戦は縮小へ。
イタリア海軍が空挺部隊を編成。
8月、白城子は地理・気候的条件が悪い為、宮崎県の陸軍新田原飛行場へ移転開始。教導挺進第一聯隊(4個中隊)及び挺進飛行隊、材料廠を編成。
9月、日本海軍が初の空挺部隊である横須賀第1特別陸戦隊を編成。
9月4日、落下傘降下場(唐瀬原)設置のため兵300、都農駅到着(黒木浩町長日記より)
9月8日、落下傘降下場建設始まる。都農より奉仕作業に100名(永友百二日記より)
10月、川南の高鍋軍馬補充部塩付分厩を落下傘降下場に転用完了。
10月12日、新田原および唐瀬原を使用しての〇〇(落下傘部隊の秘匿名)降下演習挙行。
11月、英陸軍将校スターリングがSASを創設。
11月2日、日本海軍横須賀第三特別陸戦隊を編成。
12月1日、教導挺進第1聯隊は挺進第1聯隊として動員下令。パレンバンへ出撃。それに伴い、挺進飛行隊を挺進飛行戦隊(4個飛行中隊及び1個飛行場中隊)へ改編。
12月10日~12日、落下傘降下場整備に都農より1200名動員(黒木浩町長日記より)
12月30日、落下傘部隊長久米大佐、地元町長に出征の挨拶(黒木浩町長日記より)

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宮崎県で上映された映画「空の神兵」

昭和17年(1942年)
1月3日、挺進第1聯隊を載せた明光丸が火災で沈没、全員救助。
1月9日、陸軍中野学校出身者が新田原で空挺部隊に合流。川南と都農が要塞地と同等の扱いに。
1月11日、海軍横須賀第1特別陸戦隊がメナドで降下作戦を決行。
1月15日、行動不能に陥った挺進第1聯隊の増援として、挺進第2聯隊が門司を出港
1月30日、挺進第2聯隊がカムラン湾へ到着
2月、ソ連軍空挺部隊が積雪地帯へパラシュートなしで降下。
2月9日、国道3号線を軍機密保持のため新町~都農駅~福原尾~新田~分子村~垂門(川南)に変更決定。
2月14日、日本陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊がパレンバンへ降下。
2月20日及び21日、日本海軍横須賀第3特別陸戦隊がクーパンに降下。
4月29日、挺進第1聯隊がラシオ空挺作戦に出撃するも悪天候により中止。1機が失速事故で墜落、1機が行方不明となり隊員20数名が殉職。
6月、第1挺進團が帰国。混雑のため挺進第2聯隊だけは熊本の菊池飛行場で一時待機。
同月、新編成した教導挺進第1及び第2聯隊を挺進第3聯隊および第4聯隊へ改称。
挺進練習部内にグライダー操縦を研究する「滑空班」を設立。
イタリア陸軍のネンボ空挺連隊などを第185フォルゴーレ空挺師団へ再編成。
7月22日、挺進第1聯隊が宇都宮の天覧演習に参加。
映画「空の神兵」公開。
8月、米陸軍の第82および第101空挺師団を再編成。
8月7日、都農にて、118部隊(挺進第3聯隊)50名の民宿割当を決める(黒木浩町長日記より)
9月、滑空班を新田原基地から所沢へ移動。
12月23日、西部116部隊、菓子工場を都農の中町文明堂に委託。

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日本軍空挺部隊の精強さを養蚕に結び付けたイラスト。昭和17年

昭和18年(1943年)
グライダー操縦者を養成する滑空班を所沢から西筑波へ移動。
2月14日、英軍ウィンゲート空挺旅団がビルマ方面に侵入、日本軍への後方攪乱を開始。
3月、横須賀第3特別陸戦隊、横一特に合併され消滅。
5月、海軍空挺部隊がアッツ島救援計画を立案。
5月29日、アッツ島守備隊玉砕にて作戦中止。
6月1日、陸軍の射的場を都農の朝草に設置。
6月18日、小丸川を渡河訓練中の挺進第4聯隊新任将校が増水で流され、教官1名を含む8名が殉職。
訓練責任者の榊原大尉が自殺未遂。「忠烈八勇士殉職之碑」を小丸川岸に設置。
同月、第一挺進團に動員命令、ペリリュー及びスマトラへ待機するも出撃の機会はなし。
7月5日、西部119部隊(挺進第4聯隊)60余名、都農で田植奉仕活動(黒木浩町長日記より)
7月10日、連合軍空挺部隊がシチリアで降下作戦。
8月、挺進第5聯隊、挺進飛行第2戦隊、挺進工兵隊、挺進通信隊を編成。グライダーによる滑空強襲部隊として西筑波へ移動。
同月、唐瀬原にて挺進戦車隊(戦車中隊、自動車中隊、材料廠)を編成。
9月、挺進第1聯隊がベナベナ、ハーゲンへの降下作戦中止を決断。
9月13日、グラン・サッソをスコルツェニー少佐率いるSS特殊部隊がグライダーで急襲、幽閉中のムッソリーニを奪還。
9月18日、暴風雨被害甚大、都農の軍射的場水害の原因となる(黒木浩町長日記より)。
11月、挺進通信隊を第一挺進通信隊へ改称。

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昭和18年発行の本に載ってたんですが、何ぞコレ?

昭和19年(1944年)
1月、海軍のコマンド部隊である佐世保101特別陸戦隊(S特部隊)編成。
3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」にてパレンバン降下作戦を再現。
5月、挺進第4聯隊の榊原大尉ら一行が延岡高女を訪問。同校の女生徒と交流。
5月25日、第500SS空挺大隊がチトーの拠点を襲撃するも失敗。
6月、滑空部隊がグライダーを曳航する第14、第15輸送飛行中隊を編成。
6月3~6日、挺進第4聯隊の将兵650名、都農にて麦刈作業奉仕。
6月6日、連合軍空挺部隊がノルマンディー降下作戦を開始。
6月15日、サイパンに米軍が上陸開始、現地の海軍横須賀第1特別陸戦隊は1名を残し壊滅。
7月、サイパン守備隊玉砕により、日本本土がB-29の爆撃圏内へ。
7月16日、唐瀬原に滑走路建設開始、延岡商業、高鍋中学、飫肥中学の生徒を学徒動員。
8月、第一挺進集団、宮崎県へ帰還。
9月、挺進練習部長が久米少将から塚田少将へ。
9月17日、マーケット・ガーデン作戦で連合軍空挺部隊が降下。
10月20日、第二挺進團(団長徳永大佐)に動員下令。東京朝日新聞が陸軍落下傘部隊特集を連載。
10月20日、米軍がレイテに上陸。
10月24日、挺進第三聯隊にフィリピンへの出撃を下令。動員完結。
10月25日、挺進第三聯隊が唐瀬原を出発。挺進第四聯隊にフィリピンへの出撃を下令。
10月30日、挺進第三聯隊が空母隼鷹で佐世保出港。
11月、挺進第五聯隊を滑空歩兵第一聯隊、第二聯隊、及び第一機関砲隊へ再編成。挺進飛行團(3個飛行戦隊、通信隊)を編成。
11月3日、挺進第四聯隊が門司港を出発。
11月4日、新田原飛行場にて挺進飛行第一戦隊の編成完結。
11月5日、挺進司令部と挺進飛行第一戦隊にフィリピンへの動員下令、飛行戦隊は台湾へ移動。第二飛行戦隊からも三浦中隊が参加。
これにより第二挺進團、通称「高千穂空挺隊」を編成。
11月8日、第二挺進団長及び指揮部隊がマニラへ前進。
11月10日、挺進飛行第一戦隊が新田原を出発。
11月11日、第二挺進団長がマニラ着。第四航空團司令官の指揮下へ。挺進第三聯隊がマニラへ上陸。
11月12日、第二挺進團司令部が挺進第三聯隊を掌握。第四航空軍の指揮下へ。
11月14日、挺進司令部と挺進第三聯隊がクラーク基地に到着。挺進飛行第一戦隊が台湾にて作業準備。
11月15日、挺進第三聯隊が南サンフェルナンドへ転進。
11月25日、挺進練習部を第一挺進集団へ改編。それに伴い、材料廠を挺進整備中隊(地上担当中隊及び航空担当中隊)へ改編。
11月26日、中野学校出身者と高砂族で編成された台湾軍遊撃隊「薫空挺隊」4機がブラウエン飛行場を空挺強襲するも失敗。
11月27日、教導航空司令官から挺進練習部に対しサイパン攻撃部隊の編成命令。挺進第一聯隊第四中隊選抜隊員126名により神兵皇隊(後の義烈空挺隊)を編成。隊長は奥山道郎大尉。
挺進飛行第二戦隊の編成完結。唐瀬原にて第一挺進機関砲隊の編成着手。
11月30日、挺進第四聯隊がサンフェルナンドに到着。第一飛行團通信隊を新田原で、滑空歩兵第一聯隊を筑波にて編成完結。
12月1日、挺進飛行第一戦隊がアンフェレス到着。滑空歩兵第二聯隊が筑波にて編成完結。
12月2日、挺進飛行第二戦隊が新田原を出発。
12月3日、挺進第四聯隊がクラーク基地に到着。
12月4日、滑空歩兵第二聯隊に動員下令。
12月5日、高千穂空挺部隊の出撃は1日延期。奥山隊が川南から埼玉県豊岡へ移動。
挺進飛行第二戦隊がアンフェレスへ到着。川南にて第一挺進工兵隊と第一挺進機関砲隊の編成完結。
12月6日、高千穂空挺隊がブラウエン北、南、サンパブロ、ドラッグ、タクロバンの米軍飛行場に降下。輸送機の被害多数により後続部隊の降下に失敗。
タクロバン、ドラグへ向かった第四挺進連隊員と三浦飛行中隊は全滅、生存者は捕虜4名のみ。
12月7日、オルモックに米軍上陸。
鈴木大尉以下40名の高千穂空挺隊第二波降下隊がブラウエンへ向うも、4機中2機不時着、2機行方不明により増援中止。この際30名が戦死傷。
12月8日、オルモック支援のため高千穂空挺隊444名がバレンシアへ降下開始。牟田中尉指揮の挺進第四連隊残余は南サンフェルナンドへ待機。
12月9日、悪天候の為バレンシア降下中断。
12月10日、斉田第4連隊長以下84名がバレンシアへ降下、第35軍司令官の指揮下へ。
白井第3連隊長一行がブラウエン飛行場から撤退、重松大隊と合流。
12月11~13日、高千穂空挺隊後続部隊がバレンシアへ降下。
12月13日、米艦隊出現の報により高千穂空挺隊残存部隊500名をバドロゴへ空輸。60名を空輸した時点で輸送機2機を撃墜され中断。
12月14日、重火器中隊32名がバレンシアへ降下。第1師団と合流。
12月16日、米軍が日本軍陣地を突破、斉田聯隊は撤退。
12月17日、奥山隊126名に第三獨立飛行隊32名と陸軍中野学校出身者10名が合流、総勢168名に。
同部隊名を「義烈空挺隊」と命名。
フィリピンへ出撃する滑空歩兵第一聯隊主力と村川中尉指揮の第一挺進通信隊135名が空母雲竜に乗艦して宇品を出港。
12月19日、台湾西方海上にて魚雷攻撃を受けた雲竜が沈没。
挺進集団司令部の一部、滑空歩兵第一聯隊主力、滑空飛行戦隊第一次輸送先発隊、挺進工兵隊第一中隊、挺進機関砲隊の一部、挺進通信隊有線中隊が海没。生存者3名のみ。
滑空歩兵第二聯隊と挺進工兵隊及び挺進通信隊主力が門司を出港。
唐瀬原に残留する挺進戦車隊に歩兵1個中隊を追加。
義烈空挺隊、サイパン突入のため茨城県西筑波へ移動。
12月21日、第一師団と高千穂空挺隊がリモン峠を撤退。
12月22日、義烈空挺隊が出撃前の夜間演習。飛行隊の技量不足が露呈。
12月24日、義烈空挺隊のサイパン出撃延期。
12月25日、サンパブロから撤退中の白井連第3隊長が第16師団同行の土屋少佐と連絡をとろうとするも失敗。挺進司令部及び高千穂空挺隊予備戦力がマニラに集結。第一挺進飛行團通信隊が台湾へ。
12月29日、第一挺進集団の残存兵力が北サンフェルナンドへ上陸。滑空歩兵第一聯隊は生き残った舘大尉の中隊と作業中隊だけが到着。挺進工兵隊主力は分断され、滑空歩兵第一聯隊戸田中隊と共にバギオで道路構築作業へ。
12月30日、挺進機関砲隊と挺進通信隊の残存兵力がサンフェルナンドへ上陸。
12月31日、第一師団がカンキポットへ到着。

昭和20年(1945年)
1月1日、挺進第四聯隊の一部を軍司令部直轄に。聯隊主力はオルモック北側に展開して50回に亘る斬り込み作戦を開始。今堀支隊の軍旗救出に協力。
1月5日、第二挺進團にマニラ死守命令、高千穂空挺隊はマニラ中地区隊へ。
1月6日、滑空歩兵第二聯隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊がクラークへ到着、現地の建武集団と共に行動。
1月7日、挺進機関砲隊の主力をアンヘルス、一部をストンチェンバーグへ展開。
1月9日、第二挺進司令部がルソン、エチアゲへ転進。
1月11日、挺進司令部主力がエチアゲ到着。
1月12日、挺進飛行第一戦隊主力が台湾へ撤退、取り残された岡島大尉以下312名が「挺進飛行第一戦隊比島派遣隊」として第二挺進團直轄部隊へ。挺進通信隊がクラークに展開。
1月16日、マニラの第四航空軍富永司令以下が台湾へ逃亡。司令部の護衛にあたっていた第二挺進團徳永団長以下400名の高千穂空挺隊員は山下軍司令官の予備隊に移動。
1月21日、第一挺進集団の各部隊がクラーク防衛戦開始。
1月25日、滑空歩兵第二聯隊と米軍が交戦状態に突入。
1月26日、白井第3聯隊長がカンキポットへ到着。
1月27日、義烈空挺隊、サイパン突入計画を中止。宮崎県へ帰還。
2月1日、挺進飛行第一戦隊比島派遣隊がコルドンにて戦闘開始。
2月4日、白井第3連隊長陣没により、高千穂隊第一波降下部隊全滅。
2月5日、斉田第4連隊長がカンキポットへ到着。高千穂空挺隊の残存は第3連隊十数名、第四聯隊が百数十名。司令部直轄だった大村大尉の部隊が再合流。
2月6日、第二團挺進司令部に遊撃戦命令。久富少佐以下高千穂空挺隊300名はコルドンにて遊撃隊へ再編、大城大尉以下挺進第3連隊残余100名はエチアゲにて別途警備行動。
3月5日、レイテに出撃していた第一挺進飛行團司令部が新田原飛行場へ帰還。
3月10日、第35軍司令部がセブ島へ転進。高千穂空挺隊も同行。第3連隊久富部隊がトバツスクへ転進。
クラークの挺進機関砲隊が本丸陣地守備隊帳柴田少佐の指揮下へ。
3月11日、本丸陣地守備にあたる挺進機関砲隊が戦闘で3分の1を失い、陣地から撤退。
3月12日、徳永団長が高千穂空挺隊を8個遊撃隊に再編成。義烈空挺隊が硫黄島突入作戦の為に土浦へ移動。
3月13日、徳永遊撃隊がバレテ峠付近に展開、米軍へのゲリラ攻撃を開始。義烈空挺隊が西筑波で飛行隊と合流、硫黄島突入訓練を開始。
挺進機関砲隊は柴田少佐の指揮から離れ、奥山陣地の守備に配置。
3月14日、第2挺進團は第10師団長指揮下に入り、独立歩兵11聯隊を指揮。
3月15日、台湾の第1挺進飛行團通信隊が唐瀬原に帰還。
3月16日、鈴鹿峠に独立歩兵本部と大城警備隊が到着。
3月17日、徳永遊撃隊、鈴鹿峠に布陣。
3月18日、九州沖航空戦開始、午前3時、6時に警戒警報発令、唐瀬原飛行場を米軍機が機銃掃射。
第35軍が地號作戦開始、挺進第4聯隊第1梯団は司令部直衛隊に。木下大尉指揮の第2梯団はデヨット海岸に待機。挺進飛行第1戦隊員が臨時遊撃第7中隊としてバレテ防衛に参加。
3月19日、第1梯団がセブ島に上陸、玉兵団と連携へ。奥山陣地の挺進機関砲隊が5分の1の戦力を失い、第1深山陣地守備に転進。
3月20日、徳永遊撃隊、臨時歩兵松野大隊指揮下へ。
3月27日、日向市冨髙に撃墜されたB29搭乗員7名がパラシュート降下。
3月28日、挺進機関砲隊が第1深山陣地から第2深山陣地へ転進。斬り込み戦闘に参加。
3月29日、徳永遊撃隊、牛山米軍前進陣地を襲撃。
3月末、義烈空挺隊硫黄島突入作戦中止。奥山隊は宮崎へ帰還。
4月、挺進第1聯隊主力が宮崎から千葉の横芝へ移動。
4月1日、米軍が沖縄へ上陸。
4月2日、バギオ北方1052高地の戦闘で滑空歩兵第1連隊第1中隊竹内浩三兵長が戦死。
4月5日、挺進飛行第一戦隊主力が新田原へ帰還。
4月6日、徳永遊撃隊、秀山敵陣地を襲撃。
4月10日、第35軍司令部がミンダナオ島へ海路転進、高千穂空挺隊22名が警護チームとして同行。
斉田連隊長の2番艇はミンダナオへ到着。4番艇はネグロス島守備隊に合流。其の他の艇は空襲とゲリラの襲撃にて全滅。
4月11日、徳永遊撃隊17組、正面に展開する米軍砲兵陣地を奇襲。大城警備隊20組、5号道路交差点の敵陣地へ斬り込み。
4月12日、長編アニメ「桃太郎 海の神兵」公開。
4月14日、バギオで挺進工兵隊と米軍が交戦開始。
徳永遊撃隊は増田、牟田、野口、朝川、伊東の5個中隊30組で攻撃準備。
4月26日、第一挺進飛行團司令部と挺進飛行第一戦隊が朝鮮半島の連甫へ移動。
4月30日、徳永遊撃隊が金剛山米軍陣地を襲撃、大城警備隊がほぼ壊滅。
5月1日、クラーク防衛にあたる挺進通信隊が戦闘能力を喪失、残存人員は自活行動へ。生存者は5名のみ。
5月4日、第一挺進飛行團通信隊が朝鮮半島の連甫へ移動。
5月8日、義烈空挺隊が唐瀬原を出発、熊本県健軍飛行場へ移動。
5月9日、第10師団参謀平林少佐指揮の斬込隊20組がバレテの戦闘に参加。
5月10日、久富遊撃隊が高千穂山で米軍に対し防衛戦闘。
5月13日、菊池兵団の先遣隊26名が都農着。
5月17日、読谷・嘉手納飛行場強襲「義号」作戦を正式発令。
5月19日、義烈空挺隊の奥山・諏訪部両隊長と直協飛行部隊長との最終打ち合わせ。
5月22日、第11聯隊が滝山へ転進、徳永遊撃隊が師団長直轄部隊に。滝山にて戦闘地区を左右に分割。
5月23日、義烈空挺隊の沖縄出撃延期。
5月24日、義烈空挺隊12機が沖縄へ出撃するも、機体故障により4機が途中帰還。残る8機中1機が着陸成功、沖縄へ突入した隊員112名は全滅。熊本県八代へ不時着した10番機は橋脚に激突炎上、飛行士の水上曹長が殉職。
5月26日、外国の報道機関が義烈空挺隊攻撃の様子を報道。
5月27日、米軍が義烈空挺隊による飛行場の損害を復旧。
5月28日・6月2日、義烈空挺隊帰還組の中から、獨立飛行隊パイロットに沖縄への物資輸送命令。再度沖縄へ向かった全ての飛行士が戦死。
5月下旬、挺進第一連隊のうち、園田直大尉指揮の中隊は千歳へ移動して海軍空挺部隊と共同のサイパン突入「剣」作戦に参加。海軍空挺部隊側は呉鎮守府第101特別陸戦隊と横須賀第105特別陸戦隊が参加。義烈空挺隊残存隊員も参加。
挺進司令部と挺進第二聯隊は川南にて米軍九州上陸に備えて待機。
6月、挺進戦車隊を第五十七軍へ配属、宮崎県都城市郊外へ展開。
アメリカ軍空挺部隊の本土侵入に備え、民間に空挺部隊対処マニュアルを発表。
6月1日、桜井徳太郎菊池兵団長が都農に着任、司令部は不動滝。
6月5日、徳永遊撃隊の田村隊が宝満山へ転進。松野少佐指揮の遊撃隊を新規編成。
6月10日、田村遊撃隊が帰還。高千穂山防衛中の久富遊撃隊、隊員の半数を喪失。
6月11日、徳永遊撃隊、獨立第11聯隊と合流。田村遊撃隊の佐藤中尉、郷主計中尉指揮の輸送班がビルクーク、カガヤン渓谷へ糧秣輸送に出発。臨時遊撃第7中隊がバレテを撤退、北部ルソンへ移動。
6月12日、敵中を突破した義烈空挺隊員1名が現地32軍と合流したとの報告。
6月13日、第2挺進團司令部が誠心山西側渓谷へ移動。
6月16日、鉄兵団が無断で撤退、徳永遊撃隊が敵中に孤立。右地区隊と久富隊残余を誠心山北側へ配置、津田部隊は鈴鹿峠防衛へ。
6月20日、2番艇にてミンダナオ島に辿り着いた斉田第4連隊長がピナムラ付近での戦闘中行方不明に。
7月4日、第2挺進團司令部がビルクークへ転進。久富・松野遊撃隊がピナパガンへ転進。津田部隊がカロバル山系を占拠。徳永遊撃隊主力はスガクへ集結。
7月5日、米軍上陸に備え、町民の移動と避難について都農町長、桜井兵団長と協議。
7月10日、第2挺進團がトオンに到着。飢餓により兵力4分の1を喪失。
7月24日、三沢飛行場空襲により輸送機喪失、剣部隊のサイパン出撃延期。
8月5日、米軍上陸に備え、菊池兵団管区住民戦闘隊結成式。
8月1日、徳永遊撃隊の久富少佐戦死。鈴木大尉が指揮官に。
8月4日、挺進戦車隊と滑空飛行第一戦隊による沖縄への烈號特攻隊を編成し福生へ移動。

8月15日、日本がポツダム宣言を受諾。

挺進司令部では雑音により玉音放送を受信できず、戦闘態勢継続を訓示。
敗戦の報により第1挺進飛行團司令部と挺進第1飛行戦隊が新義州へ移動。
滑空飛行戦隊が宣徳を出発。
満州へ侵攻したソ連軍が降下作戦を展開。樺太でも空挺作戦。
8月16日、第一挺進飛行團通信隊が新義州へ移動。中村挺進団長が川南から東京の総軍司令部へ出頭、終戦会議開催。
横芝にて団長と挺進第一聯隊将校が終戦処理について打ち合わせ。
8月17日、滑空飛行戦隊が大橋着。中村挺進団長が横芝から福生へ移動、烈號部隊を慰撫。
8月19日、滑空飛行戦隊が平壌着。
8月22日、第2挺進團司令部がピナパガン着。飢餓により3分の1となった久富、田村部隊を掌握。
8月23日、徳永遊撃隊が残存部隊を集めて自活行動開始。
8月24日、第1挺進飛行團の一部が北朝鮮沙星院にてソ連軍と遭遇。
8月26日、川南在営中の空挺隊員半数に故郷への復員を指示。
8月27日、阿久根台風襲来、延岡の沿岸に集積されていた震洋艇が流失。
8月31日、敗走する滑空飛行戦隊が組織崩壊、各人が独力で朝鮮半島を南下。一部は興南捕虜収容所へ。
9月4日、クラーク防衛隊の軍使と米軍が接触。
9月10日、塚田集団長、軍使の報告によって日本の敗戦を確認。滑空歩兵第2聯隊を含む建武集団武装解除。日豊線全線復旧、復員軍人の移送開始。
9月12日、挺進第4聯隊がタモンガン草原にて投降。
9月17日、枕崎台風襲来、川南トロントロン地区の戦没者招魂堂が破損。
9月18日、徳永団長以下高千穂空挺隊残余と陸海軍将兵900名がヨネスにて武装解除。
9月25日、菊池兵団、9月中に司令部を新町憲兵隊跡に移転、兵器庫軍需品倉庫を都農競馬場、都農駅へ設置命令。
10月3日、第1挺進飛行團司令部が博多に復員。
10月5日、進駐軍先遣隊が宮崎県に到着。民政部マスマン少佐の指揮により、川南空挺部隊の組織解体に着手。
11月30日、川南挺進司令部の残務処理が完了、川南の空挺基地は民間に開放。
元空挺隊員や菊池兵団が川南の落下傘降下場跡地へ入植。空挺隊員の帰農者集団は「挺進團」と呼称。
12月、赤江の傷痍軍人寮を厚生省へ移管、国立宮崎療養所へ。
戦地から復員してくる高千穂空挺隊傷病隊員受入れの為、挺進司令部残務処理班メンバーを療養所職員に採用。

昭和21年(1946年)
進駐軍が川南の挺進神社を焼き討ち。焼跡の釘は地元在住の石川富之助氏が御神体として保管。
空挺兵舎跡にて、宮崎師範学校生が幽霊を目撃との報道。
中村挺進団長が空挺部隊と川南の戦没者を合祀する慰霊施設建設に奔走。
これとは別に挺進團メンバーが挺進神社再建を計画するも、土地を没収されて頓挫。
4月、赤江の国立宮崎療養所を唐瀬原の第3挺進聯隊兵舎に入っていた国立唐瀬原病院と合併。空挺給水塔は病院敷地内に保存。

昭和22年
2月23日、川南、都農、高鍋3000町歩の川南原国営開墾事業起工式。

昭和24年(1949年)
トロントロン地区に川南護国神社の前身となる霊堂完成。戦没空挺隊員1万2千柱を合祀。
3月21日、川南護国神社例祭開始。
5月、川南村長・都農町長と両協議会長連名で、唐瀬原飛行場跡国道10号線復元促進を陳情。

昭和26年(1951年)
二子玉川の読売落下傘塔を江ノ島へ移設。

昭和29年(1955年)
陸上自衛隊に第一空挺団発足。

昭和31年(1956年)
空挺会報発行。
和歌山県高野山に「陸軍空挺落下傘部隊将兵之墓」建立。
9月21日、川南護国神社から高野山へ英霊1万2千柱を遷座。陸上自衛隊が川南護国神社から宮崎市まで、航空自衛隊が赤江飛行場(宮崎空港)と伊丹空港間にC-46輸送機を派遣して位牌の輸送を担当。
宮崎県川南にて英霊遷座式典開催。
9月22日、陸上自衛隊信太演習場にて英霊遷座式典。陸上自衛隊第一空挺団衣笠隊長以下90名が記念降下(悪天候の為降下したのは半数)。
9月23日、高野山奥の院にて除幕・開眼式典を開催。
バギオで戦死した空挺隊員竹内浩三の遺作集発行。

昭和38年(1963年)
川南護国神社に「空挺落下傘部隊発祥之碑」を建立。
映画「パレンバン奇襲作戦」公開。

昭和40年(1965年)
8月、小柳次一写真展「軍靴の響き」開催。忘れられていた義烈空挺隊の存在に再び注目。
小丸川水難事故の殉職空挺隊員慰霊碑、護岸工事に伴って高鍋大師へ移設。

昭和47年(1972年)
ルバング島に潜伏中の小野田寛郎少尉捜索に、義烈空挺隊生き残りの熊倉順策氏(陸軍中野学校の同期)が協力。

昭和51年(1976年)
5月24日、沖縄県糸満市字摩文仁に義烈空挺隊慰霊碑を建立。

平成2年(1990年)
川南の空挺落下傘部隊発祥之碑に碑文を追加建立。

平成5年(1993年)
陸軍挺進部隊の活躍を描いた松本武仁氏の油絵17点2組完成。1組は陸上自衛隊習志野空挺団へ、1組は宮崎県川南町へ寄贈。

平成6年(1994年)
8月、元報道班員小柳次一氏死去。
習志野空挺館保管の義烈空挺隊員日誌を遺族に返還。

平成10年(1998年)
宮崎日日新聞が「空の神兵の悲話」を連載。

平成14年(2002年)
江ノ島の展望台(旧落下傘塔)撤去。

平成20年(2008年)
フロンティア・デーの催しとして、陸上自衛隊空挺隊員3名が64年振りに川南町へパラシュート降下。

平成22年(2010年)
4月、川南町にて家畜伝染病の口蹄疫が大規模発生。初動の遅れにより県内各地へ飛び火。空挺給水塔前の道路も封鎖。
8月27日、口蹄疫終息宣言
11月23日、川南護国神社慰霊祭を例年通り開催。

平成23年(2011年)
国立病院機構宮崎病院が大規模改修工事に着手。

八紘之基柱・平和の塔(宮崎県宮崎市)

Category : 宮崎市の戦跡 |

紀元二千六百年の行事として、宮崎県では「八紘一宇」の塔を建てることとなり、男女学生は毎日のように下北の現場でモッコの土運びに励みました。
現在の平和の塔です。
東京では有名な写真家だという人が来ました。後日、その写真家が土門拳氏であったことがわかりました。
さっそく写真を撮ることになりました。
各学校入り乱れての作業でしたので、すぐ近くにいた者が、土手の上から下へと並びました。私は上の方です。
立っていると、土の中に足がうまるので、日向乙女の心意気を見せようと、手前にスコップを突っ立てて撮ってもらいました。


安田郁子著「モスグリーンの青春」より

八紘一宇

【紀元2600年奉祝事業】

宮崎市にある広大な平和台公園。その一角には、御幣を象った巨大な石塔が聳え立っています。
現在は「平和の塔」と呼ばれていますが、正式名称は八紘之基柱(あめつちのもとはしら)。完成したのは、神武天皇即位紀元2600年を迎えた昭和15年のことです。



なんでこんな田舎に立派な塔を建てる必要があったのでしょうか?
それは、宮崎県に天孫降臨の地(かもしれない)というプライドがあったからに他なりません。
他に自慢できるものがないと、極端な自虐か背伸びへ走ってしまいがちですからね。

先日のこと。軍馬補充部の史料を調べていたら「日向八郡人口僅か十四萬餘、九州の北海道といふ異名ある此國に於て(宮崎縣獣医會 「宮崎通信」 明治27年)」などと書いてあるのを見つけてホゲーとなりました。
「猿と人とが半々に住んでいるような気がする山の中(延岡は海辺の街ですけどね)」などと某文豪に揶揄されるまでもなく、自虐をかまし続けて120余年。そんなに卑屈にならんでもいいと思うのですが。

深い山地に囲まれて大きな港湾も無い宮崎は、昔から発展が遅れていました。それを象徴するのが西南戦争で、薩摩軍の退却戦に巻き込まれて戦場と化した挙句、戦後復興は鹿児島優先。ばら撒かれた西郷札も紙切れ同然という踏んだり蹴ったりの扱いに。
旧島津領だった都城・西諸県・佐土原地域を除く日向人は鹿児島偏重の行政へ反感を募らせ、後の宮崎県独立運動に繋がってゆくのです。まあ、鹿児島から独立したところで陸の孤島状態は変わらなかった訳ですが。

戦前の大きな転換点となったのが、岩切章太郎による宮崎の観光開発です。
しかし、観光宮崎の知名度といえば九州地域が精一杯。全国へアピールするには今ひとつでした。
更に、日本の観光業界は戦争によって大打撃を受けます。
昭和12年から近衛内閣が推進した国民精神総動員運動により、観光旅行が自粛されるようになったのです。反面、国家の成り立ちを訪ねる史跡巡りなどは盛んになりました。
これを機に、鹿児島県と宮崎県の間で争いが勃発します。
その主たる原因は観光客誘致。両県は、「天孫降臨の地」の称号を巡って(考古学的考証そっちのけで)熾烈な競争を続けてきました。それが戦時下に再燃したのです。
自粛ムードの中でも「皇祖ゆかりの地を訪問する」という大義名分があれば、堂々と観光客を呼び込めるとあって両県は必死。
昭和13年、鹿児島は与謝野晶子や斉藤茂吉、宮崎は井伏鱒二や地元出身の中村地平ら有名作家を招待し、彼等のお墨付きを得ようと懸命のPR活動を開始します。作家らが両県の意図を知ったのは来訪後のことだった様ですが、発表された旅行記では敢えてその部分には触れていません。
日向路の旅情を筆で広めたのが、先程の中村地平だったとのこと(渡辺一弘氏「中村地平の日向への旅と国策旅行ブーム」の受け売りですけど)
競争の結果、両県を訪れる観光客……じゃなかった参拝客も増加。直後の紀元2600年記念行事が拍車をかけ、「観光宮崎」の知名度は全国へ広がります。
宮崎が鹿児島よりも有利だったのは、西都原古墳群に陵墓参考地(埋葬者は特定できないものの、宮内庁が皇族の墳墓としているもの)である男狭穂塚と女狭穂塚があったことです。
「陵墓参考地の発掘は無理でも、周囲の古墳ならば……」と、有川忠一知事が大正時代におこなった西都原古墳群の発掘調査も決定打に欠け、「天孫降臨の地」の根拠はウヤムヤに。
他にソレっぽいモノといえば、坂本龍馬が引っこ抜いた天逆鉾くらいですか。両県ともその程度の根拠しか示せないので、イメージ戦略に打って出るしかありませんでした。

アレやコレやの取組みによって、神話を掲げた宮崎県の観光誘致は大成功。戦後には島津貴子夫妻や皇太子夫妻の新婚旅行、川端康成原作のドラマ「たまゆら」などの影響も加わって、「宮崎への新婚旅行ブーム」として結実しました。
観光客が沖縄やハワイへ流れると共に、それも廃れちゃったんですけどね。マジで「どげんかせんといかん」のですが、歴史ある街並みも空襲と開発で消えてしまったし(美々津、高鍋、飫肥あたりを除いて)、温泉も霧島附近でしか出ないし、オーシャンドームは廃墟と化しているし。

「天孫降臨の地」の濫用は困った状況も生み出しまして、観光面での宮崎県史が神話からスタートするというムーな展開も見受けられます。旧石器人や縄文人涙目。
それもこれも、宮崎を焼き尽くした姶良カルデラと鬼界カルデラが悪いのです。

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完成当時の八紘之基柱

以上が当時の時代背景。
追いすがる鹿児島にトドメを刺す意味……ではなかろうと思いますが、相川宮崎県知事を会長とする宮崎県奉公会は「紀元2600年奉祝事業」として宮崎県民あげての記念施設建設を発案しました。
昭和14年に36万円の国家予算がつけられたことで、「世界中から石を集めて、八紘一宇(はっこういちう)の精神を表現した日本一高い塔を建てる」ことが決定します。
ナゼに宮崎神宮の整備から塔の建設となったのかよく分かりません。大阪万博における太陽の塔みたいなノリだったのでしょうか?
建設地は皇宮屋(神武天皇が東遷前に居住していたとされる場所。現在の平和台病院裏手)附近を予定していましたが、そこからちょっと登った丘の上に変更。建設の宣伝には東京日日新聞と大阪日日新聞が協力してくれました。
高さ37メートルは当時の建造物としては日本一で、これは当時日本一高かった丸ビルより数メートル高くしようとした結果なのだとか。

塔のデザインは御幣を象ったものとなりました。
発案者の相川知事によると、「基柱は罪穢を祓ふ御幣なのです。この国民の総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ、世界の罪穢を祓ひ、真に八紘一宇の正しき平和を確立する。之れ即ち建国の大理想実現のため御幣のかたちを採つた所以であります(黒岩明彦「北原白秋と八紘之基柱」より)」という考えからこのデザインにしたのだとか。

塔の設計について自ら名乗り出たのは、彫刻家の日名子實三でした。世間一般では、日本サッカー協会の八咫烏をデザインしたことで有名な人です。
なお、鹿児島県も皇紀2600年記念事業として、霧島神宮の「宮址の顕彰竝びに参道の改修」をおこなっております。

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塔の建設にあたり、縦45センチ、横60センチ、幅15センチの石材1789個が東洋、欧州、南米各地の日本人会から「寄贈」されます。県内産の石材を使えばのちのち問題なかったのにね。
地元住民や学生ら「祖国振興隊」による勤労奉仕もあり、塔の建設は順調に進みました。写真家の土門拳も現場を訪れ、建設の様子を撮影しています。
しかし、工事に動員された学生にとって、この建設作業は大変な重荷となっていました。
学業に専念させるべき学生(女生徒も含みます)を、こんな記念碑の建設なんかに従事させる必要があったのでしょうか。
勤労奉仕なので重労働の割にバイト代も出ず、モノがモノだけに文句を言える雰囲気でもありませんし。

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【八紘一宇と日本】

塔に刻む八紘一宇の文字ですが、「天皇陛下では畏れ多い」との理由から、相川宮崎県知事が欧州留学中に知り合った秩父宮に御真筆を仰ぐこととなります。

「当時非常にお元気で、英気さっそうとしたご様子の殿下はだまってお聞きの後、開口一番「もっと大きくならないか」と言われた。私は「日本一の高さでございます」と申し上げると殿下は「なるだけ大きくしよう」と仰言った。
そして「いつまでに書いたらよいか」と聞かれたので、私はたしか秋ごろまでにとお答えしたように覚えている。
殿下は「ゆっくりしてほしい。私は手習いせねばならぬから」と仰言られた。殿下は聞き届けてくださるご意思であることがわかり、私は感激しつつ宮邸をさがった」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

建設に奔走した相川知事は完成前に広島へ赴任した為、長谷川知事が御真筆を宮邸で賜っています。宮崎への帰路、長谷川知事は廣島に立ち寄って相川知事に面会したのだとか。
八紘之基柱が完成したのは昭和15年11月25日。前夜には500名が参列して、秩父宮御染筆を塔内の祭壇に納める「奉安式」が執り行われます。
このときより、塔に刻まれた「八紘一宇」の文字が人々の目に触れることとなりました。

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八紘之基柱の歴史を辿る時、その名称に関わる「八紘一宇」の問題を避けて通ることはできません。

八紘一宇とは、日本書紀を元に作られた大正時代の造語。
「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、もともとは「人類みな兄弟」とか「世界村」などと似たような言葉です。
中国大陸へ渡った日本人が「八紘一宇」を口にするようになったのは、満洲事変あたりから。内地では数年遅れて昭和12年前後です。
伝統ある言葉と思いきや、意外と歴史は浅いんですね。
で、勢力拡大を目論んだ当時の日本が「大東亜共栄圏」とセットで使用しまくった結果、八紘一宇は戦後になって叩かれている訳です。
経緯が経緯だけに仕方ないのでしょう。

八紘一宇とか大東亜共栄圏といったスローガンは、海外へ活路を見出そうとする近代日本の大義名分となりました。
ただし結果からいうと、「理想と現実が乖離していた」と言わざるを得ません。
理想の実現に取り組んだ個人や組織は確かに存在しました。
しかし、いくら現地住民の宣撫工作に努めたところで、後からやって来た兵士や入植者の横暴極まる行動が反感を買いまくるという悪循環の繰り返し。東亜の大黒柱どころかDV親父状態だった訳です。
勘違いされやすいのですが、これは戦後の反省に立っての話ではなく、戦前から問題化していたコト。
五族協和を掲げる満洲國ですら、当時から民族差別が問題視されていました。内地では余り目立たなかった日本人の差別意識が、多民族国家満洲で露呈したのです。
満洲事変直後の証言を例に挙げましょう。

「満洲國といふ民族協和の自意識の強いところでさへ、日本人かくの如しとすれば、支那だの南洋だのでは思ひやられるのではなからうか。
私は支那事変の始る一年半ほど前に北支に遊びに行つた時、天津の南開大学校長 張伯岑にあつたことがある。この人は「日支親善といふことはよくわかるけれど、日本人の不愉快な事件を毎日ニ三度見てゐると、そんなことはどうにも考へられないくなる」といつてゐた。張伯岑は支那教育界の大元老で、今は重慶に居る。
その時にはわたしも目にあまる日本人を数多く見た。
無賃乗車をとがめられて車掌をなぐる日本人。三等切符で二等に乗りこみ梃子でも動かぬ日本人。人絹や銀の密輸を手傳ふ日本人の女。どてらを着て北京や天津の驛ホームをのしあるく日本人。阿h密賣をやつてゐる半島人、等々である。
奉天に帰つて當時の特務機関長D将軍に「あなたがたがいくら理想を描いて居られても、あれではすべてぶちこはしではありませんか」と話したら「いや、あまり多いので閉口して居るのです」とこぼして居られた。
わたしはそれ以後の北支を知らない。中支・南支も知らぬ。たゞ現在では、いかがはしい日本人にビシ〃退去命令をくはせて居ることも承知してゐる。だから、時代の進歩をもあはせ考へて、その當時よりははるかに日本人本來の姿にかへつてゐるだろうことを確信する。それとともに在満日本人がこの際、弊風打破に一奮發することを要請したいのである」
満洲國民政部簡任編審官 寺田喜治郎「日本人心得帳」より 昭和8年

熱心な教育者であっただけに、寺田先生は相当の危機感を抱いていた様です。
現地他民族に對して多少の蔑視観をもつてゐることは、文化度の差異から生じやすい弱點ではあるが、“八紘一宇”の手前もある。気をつけなければならない(同上)」という彼の警告は、しかしどこまで通じたのでしょうか。
後年には今田荘一大佐などの軍人も満洲の状況を憂う始末でしたから、改善は困難だった筈。
「八紘一宇」を巡る議論が噛み合わないのは、対立する双方の主張が当時の理想と現実を論拠にしているからです。

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八紘之基柱の四隅には「大篝火台」が設置されています。これは戦時中、塔建設記念日「八紘祭」の夜に篝火を焚いていた名残り。闇のなか炎に浮かび上がる塔の姿は、神秘性を増すのにも効果があったことでしょう。

話を宮崎県に戻します。
完成した八紘之基柱は、大東亜共栄圏のシンボルとしてPRされました。
宗教施設ではなくでっかい記念碑に過ぎないのですが、ここを“参拝”する人々も増えて新たな観光スポットと化します。誘致作戦大成功。
正式名称の「あめつちのもとはしら」では面倒だったのか、いつしかこの場所は「八紘台」と呼ばれるようになりました。

平和台公園

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塔の右側面

基柱の設計構造は一切純日本式とし、斯界の泰斗日名子実三が精魂を傾け、全知全能を打込み、畢生の心血を注いで造られたもので、わが国近代芸術作品の最高峰をなすものである。

苑地
総設計 林学博士 田村剛
総面積 実測一二,〇五四坪
塔を含む広場面積 二,六〇〇坪

基柱
設計 彫刻界の泰斗日名子実三、昭和十四年三月二十三日模型完成。
この模型により建築界の権威日本大学講師南省吾仕様設計書作製。
施行 株式会社大林組
着工 昭和十四年五月二十日
定礎 昭和十五年四月三日
竣功 昭和十五年十一月十五日

三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

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塔前面のテラス部分。現在とは景色も違いますね。

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八紘一宇の名のもとにアジアでの勢力拡大をはかった日本。
戦争の時代、八紘之基柱が軍国主義に利用されたのも当然の流れでしょう。
面白いのは、八紘台が陸軍の行軍演習コースにも組み入れられていたこと。ここは川南空挺史のブログなので、私の手許にある落下傘部隊の演習地図を例に挙げましょう。
新富町の新田原飛行場を飛び立って川南町の塩付降下場へパラシュート降下した空挺隊員は、そのまま新田原飛行場方面へUターンを開始。飛行場手前で西都市へ進路変更し、国富町方面へ山中を行軍突破。そこで一泊の後、大淀川沿いにゴールの宮崎駅を目指す……途中でわざわざ八紘台へ立ち寄るルートが記入されております(地名は現在のもの)。
八紘一宇の精神訓示だったのか、単なる観光だったのか、目的は不明。まあ、地元の部隊はそれなりに塔を有効利用していたのでしょう。

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【宮崎空襲と八紘台】


沖縄に米軍が迫りつつあった昭和20年。
米軍上陸が予想された宮崎県沿岸部には、上陸牽制部隊の第154師団(西都市)と156師団(国富町)、それを側面支援する第212師団(都農町)、霧島山麓には後衛の第25師団(小林市)が展開。八紘台にも地下陣地が構築されました。
昭和20年3月には陸軍落下傘部隊の第1挺進戦車隊が川南空挺基地から宮崎市へ南下します。これは、宮崎を訪問中の三笠宮へ演習を披露するのが目的でした。
偶然にも、演習予定日の18日は米軍機の宮崎初空襲と重なってしまいます。
同じ日、米機動艦隊が都井岬沖へ出現。空母から飛び立った艦載機群は、夜明けと共に九州南部へ奇襲攻撃を仕掛けました。
沖縄進攻作戦の前に、特攻隊の出撃拠点であるこのエリアを「露払い」しておく必要があったのです。

空襲を受けた宮崎県内の赤江、新田原、富高、都城西の各飛行場は多大な損害を蒙り、当然ながら空挺部隊の演習も延期されました。
三笠宮は八紘台の地下壕へ避難しており、空襲の被害を免れます。日本側も、アメリカ機動部隊の接近を察知していたのでしょう。三笠宮が宿泊する筈だった旅館の御主人は、「前夜のうちに宮崎が攻撃される可能性ありと極秘の警報が届き、宿泊先を八紘台へ変更された」と証言しています。
18日3時20分には警戒警報が発令されたものの、内陸部の都城西飛行場は米軍の第一撃を受けるまで完全に油断していました。事前に迎撃機を上げていたのは富高飛行場のみで、他は一方的に爆撃を受けています。

その後も激しい空襲に晒された宮崎県ですが、ぺったんこな宮崎平野で目立ちまくっていた八紘之基柱自体は爆撃を受けることもなく、不思議と破壊を免れました。
宮崎を空襲する米軍機にとっては、便利なランドマークだったのかもしれません。

しばし止んでいた宮崎空襲も、沖縄戦の終結と共に再開されました。更に、艦載機による軍事目標限定の空襲から、B29爆撃機による無差別爆撃へと激化していきます。
沖縄の次は、九州南部が戦場になると予想されていました。宮崎県警本部は沿岸部住民の山間部疎開計画(艦砲射撃の射程圏外)を練っていましたが、米軍上陸が決行されたならば、沖縄と同じ凄惨な地上戦が再現されたことでしょう。
米軍が大淀川沿いに侵攻した場合、八紘台を間に挟んで国富町の陸軍第156師団と激突する構図になります。そうなれば、塔も破壊を免れなかった筈。

幸いにも、8月15日の敗戦によって本土決戦は回避されます。
B29の空襲で叩きのめされた宮崎平野には、八紘之基柱が空しく聳え立っていました。
「基柱は罪穢を祓ふ御幣なのです。この国民の総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ……」という相川知事の言葉が、皮肉にもこのような形で帰結してしまったのです。

平和台公園

【戦後の八紘台】

戦後、八紘台を撤去しようとする動きがありました。
昭和20年10月から宮崎に進駐したアメリカ軍は、マスマン少佐の指揮下で民政化に着手。残存兵器の破壊や教育改革など、軍事色の排除に動きました。
当然ながら八紘之基柱も問題視され、宮崎市民に塔撤去の是非を問います。しかし、周囲の目を怖れて誰も関わろうとしませんでした。
困り果てた進駐軍が西村楽器店の池田鋼士郎社長に相談したところ、「建設の経緯から考え、安易にミリタリズムと直結すべきではない」との答えを得て保存が決定。
昭和21年8月、「塔に軍国主義の色を留める「八紘一宇」の文字が刻まれ、また背面には穏当ならざる碑文がある」との理由で八紘一宇の文字と武人像は削り取られ、塔は進駐軍の監視下に置かれました。
また、塔内に収められていた秩父宮の御真筆にも進駐軍から焼却命令が出されます。
これだけは何としても回避したい宮崎県知事と宮崎神宮は極秘会談を重ねました。その結果、遂に御真筆奪回作戦が決定されます。


「当時の谷口明三知事は心配してどうするか、ということで関係者は毎日のように県庁に集まって協議しました。
ある日、宮崎神宮から片岡常男宮司、吉野房見官房主事、赤星寛秘書課長らを交えて協議した結果、吉野主事の「御真筆」を焼くわけにはいかない、隠そう」という提案に皆が賛同しました」

「メンバーの中にいた宮崎神宮の菅原喜一禰宜が「それでは私が命をかけてやってみましょう」ということになりましたが、菅原禰宜には二人の子供がいました。
万一の場合、切腹する覚悟であった菅原禰宜の胸中を察してか、吉野官房主事が「後の面倒は自分が見る」との最終協議でことが運ばれました」

「ナッパ服を着て浮浪者を装った菅原禰宜は、占領軍がテントを張って見張っている塔の周辺を、スキあらば塔の中に入ろうと、毎日出掛けていたという。そして遂にそのチャンスがやってきた」

三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

ある日、八紘台の警備兵たちが青島キャンプへ出かけることになりました。
菅原氏から「アメリカ兵不在」との通報を受けた県職員たちは塔へ急行、御真筆を運びだして地中に隠します。戻ってきたアメリカ兵には別に燃やした紙を示し「さっき焼却処分したところだ」と騙しました。
アメリカ側も特に追及せず、奪回された御真筆は6年半に亘って秘匿され続けます。

この御真筆ですが、秩父宮が亡くなった昭和28年1月4日に存在が公表されました。

八紘一宇

戦後はロッククライミングの練習台と化し、荒れ果てていた八紘台。しばらく後になってから歴史的価値を再評価され、公園としての整備が進みました。
現在は「県立平和台公園」と名を変えて、森林散策コースを備えた宮崎市民憩いの場となっています。

その過程で、武人像と八紘一宇の文字も昭和37年と40年にそれぞれ復旧が決定。ただし、前述の「穏当ならざる碑文」は削られたままとなりました。
八紘一宇の文字復旧には反対意見も強く、シンポジウムなどで激しい議論が重ねられたものの「いまさら軍国主義もないだろう」との結論により再建へと至りました。
「八紘一宇復活」を巡る当時の記録もたくさん残っていますから、興味がある人は調べてみましょう。
で、「八紘一宇の文字を復元すべき」「復活反対!戦争への反省がないのか!」「文字を復元しないのは侵略戦争の隠蔽だ」などと、削ったまま案も復元案も両派からの非難ゴーゴー。
そのような意見の対立を経て、現在の歪な平和台がある訳です。

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塔の裏側

このブログでご紹介した宮崎県内の戦時遺構は、大部分が「貴重な歴史的資産」という捉え方をされていますが、平和の塔だけは違います。
「八紘一宇」への賛美や反発からか、個人レベルでの主義・思想を振りかざす人ばっかり。派手なアジテーションばかり目立って、地道に塔の歴史を掘り下げた資料を探すのは難しいですね。
論点が塔限定ならまだしも、興奮のあまりアサッテの方向へ暴走している主張もすくなくありません。
塔の話をしていた筈が、いきなり現代アメリカの政策を罵り始めたり、軍事慰霊碑か何かと勘違いしたのか矢鱈と美化してみたりね。
そうやって選挙カーみたいに自説をがなり立てられると、読んでいるこちらは鼻白むだけです。
単純に地域の歴史を調べたい人にとっては、誠に困った状況ですねえ。

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【平和台公園へ】

賛成・反対の両派が真剣な調査と議論を重ね、(渋々ながら)折り合いをつけた姿が現在の平和台公園。
その辺の経緯すら知らず、ネット検索程度で調べた気になった人々が、走り幅跳びの批判や賛美をしてもナニがナニやらですよ。
極めつけは「平和台公園の名前は欺瞞だ!」とか喚く人までいて、だったら八紘台に戻せばいいのかと。戻したら戻したで激怒するんでしょうね、あの手の人は。

「平和の塔」に関する議論のうちで、実物を見た上での主張が幾つあるのか怪しいものです。
見た事がないモノの批評に対しては、得てして個人の妄想や先入観が混じりがちですからねえ。私も気を付けなければ。

まあアレですよ。
まずは宮崎まで来て、己が批評している対象物を実見して、ハニワ園から新池をぐるっと一周しつつ展望台まで足を伸ばし(途中で迷子にならないようにね)、広大な自然の中でアレコレ思索されては如何でしょうか。ネットに閉じこもっているとヒートアップしやすいですからね。

広場のベンチでボーッと眺めていると、駐車場に乗り付けて、10分くらい塔の写真を撮っただけで、そそくさと去って行かれる人もお見受けします。忙しいのは分かりますが、入り口でUターンするとは勿体無い。
そのような方々のため、平和台公園内をご案内しましょう。

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まずは塔の広場からハニワ園へ下ります。

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更に下ると池の畔公園が見えてきます。

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新池沿いに歩くとアスレチック広場が

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新池では水中からにょきにょき樹が生えていますが、水没したのではなくそういう種類です。

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対岸に塔が見えてきました。

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昔はこんな感じ

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一周二キロ位。運動するには丁度良いコースです。

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やっと半分位歩きました。ここにも水中林が。

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紅葉の季節は綺麗なんだろうな

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元の場所へ戻ってきました。

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ここを登ればゴール。といっても、平和台公園を半周しただけですが。

まあ、公園で散策を楽しむ皆さんは「単なる記念碑」みたいな捉え方でいいと思います。
ネットの中とは違い、公園には目を血走らせて70年前のことを罵り合う人もいませんしね。それよりも、平和台公園の美しい自然とハニワちゃんを楽しんだ方が百万倍マシ。
八紘之基柱自体、広大な公園の入り口にあるモニュメントに過ぎませんし。
知るにしても、塔の由来くらいで充分です(あくまで国内向けの見解ですが)。

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そういう訳で、平和台公園の歴史を論じたければ塔をその目で見て、色々な資料を読み比べて、複雑な経緯があることを知りましょう。
くれぐれも、敵味方識別装置全開でハッコーイチウだ何だと議論している人達には近寄らないように。地域の歴史を知りたいワケではなく、手前が主張する歴史観のネタとして八紘台を持ち出す人に対しては尚更です。
迂闊に近寄ると「お前はどっち側だ!」とイキナリ踏み絵を強要されたりしますよ。
怖いですねえ。

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県立平和台公園全体図。因みに、塔があるのは赤丸部分。

参考資料一覧

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参考にさせていただいた資料は下記の通りです。

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【陸軍落下傘部隊の作成による史料】
落下傘部隊概説/ 帝國陸軍第一挺進團司令部
落下傘部隊衛生部員ノ記録/ 第一挺進團司令部
南方出動間ニ於ケル患者統計報告/ 第一挺進團司令部
挺進部隊航空衛生(特ニ選兵)ニ関スル報告/ 陸軍挺進練習部
降下訓練前後ニ於ケル體力消長(※別冊含む)/ 陸軍挺進練習部
挺進兵選兵對策/ 唐瀬原陸軍病院

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【一般書籍】
空挺部隊写真集/ 全国空挺同志会編
唐瀬原/ 空挺戦友会
義烈空挺隊攻撃計画/ 昭和史談会資料 日軍空中挺進№1
義烈空挺隊とともに/ 昭和史談会編
陸軍落下傘の神兵 パレンバン實戰繪話/ 畫・文 山川惣治
空挺隊員園田直/ 全日本空挺同志会
戦死やあわれ/ 竹内浩三
純白の花負いて 詩人竹内浩三の筑波日誌/ 桑島玄二
あゝ純白の花/ 延岡高女藤蔭会
あゝ純白の花負いて/ 田中賢一著
大いなる賭け/ 田中賢一著
大空の華 空挺部隊全史/ 田中賢一著
高千穂降下部隊 レイテ作戦挽歌/ 田中賢一著
帰らぬ空挺部隊 沖縄の空にかける墓標/ 田中賢一著
会報特攻/ 財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編
沖縄陸・海・空戦史/ 太田嘉弘著
沖縄決戦 高級参謀の手記/ 八原博通著
陸軍中野学校 秘密戦士の実態/ 加藤正夫著
従軍カメラマンの戦争/ 石川保昌 文・構成、小柳次一 写真
誠心/ 井上裕子
川南開拓の記録 新旧開拓農民の群像/ 河野助編集
図説・児湯の歴史/ 甲斐 亮典著
八十年を省みて/ 二杉房次著
南九州文化/ 南九州文化研究会
もろかた/ 都城史談会
都城疾風特攻振武隊/ 寺井俊一著 
モスグリーンの青春/ 安田郁子著 
埋もれた青春/ 鎌田政孝編集 三州東洋社
いのち輝く 高鍋高等女学校生戦争体験の記録/ 杉田樹子編 
宮崎の戦争遺跡 旧陸・海軍の飛行場跡を歩く/ 福田鉄文著 
みやざき仰天話 松本こーせいの宮崎歴史発見/ 松本こーせい著 
ガイドブック都農・川南・高鍋の戦争遺跡/ 宮崎の戦争遺跡保存を求める市民ネットワーク
ガイドブック日向市の戦争遺跡/ 宮崎の戦争遺跡保存を求める市民ネットワーク
赤江あの日あの頃/ 赤江ふるさと塾
我が故郷に戦火燃ゆ 延岡大空襲の記録/ 渡木真之
死者を追って―記録・宮崎の空襲/ 三上謙一郎
日本の空襲―八/ 日本の空襲編集委員会 
宮崎特攻基地慰霊碑合祀者名簿/ 宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会
故・松浦元次郎の業績/ 宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会
海軍落下傘部隊 栄光と苦闘の戦歴/ 山辺雅男著
続・海軍よもやま物語/ 小林孝裕著
日米最後の戦闘/ 米国陸軍省編・外間正四郎訳
月刊コンバット・マガジン別冊PX/ 株式会社ワールドフォトプレス
歴史群像/ 学習研究社
オスプレイミリタリーシリーズ世界の軍装と戦術6 日本軍落下傘部隊/ ゴードン・L・ロットマン×滝沢彰共著
写真集特別攻撃隊/ 国書刊行会編纂
レイテ戦記/ 大岡昌平著
戦世を生きて/ 国富町文化協会
目で見る太平洋戦争史/ 文芸春秋
栗田彰子の生涯/ 原作 永井ヨシ子 翻訳 荒武千穂
父がいた幻のグライダー歩兵部隊―詩人竹内浩三と歩んだ筑波からルソンへの道/ 藤田幸雄著

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【公的機関資料】
写真週報/ 内閣情報局
JAPANESE PARACHUTE TROOPS/ MILITARY INTELLIGENCE DIVISION(米陸軍情報部)
戦史叢書/ 防衛研修所戦史室
川南町史/ 川南町
空挺落下傘部隊/ 川南観光協会
川南町観光ガイド―宮崎県―かわみなみ/ 川南観光協会
宮崎県史・近現代/ 宮崎県
宮崎縣政外史/ 宮崎県
宮崎市史/ 宮崎市
市広報みやざき/ 宮崎市秘書課広報広報室
延岡市史/ 延岡市
日向市史通史/ 日向市
西都市史/ 西都市
日南市史/ 日南市
串間市史/ 串間市
都城市史/ 都城市
小林市史/ 小林市
えびの市史/ えびの市郷土史編さん委員会
串間市史/ 串間市
都農町史/ 都農町
都農町史年表/ 都農町
高鍋町史/ 高鍋町
新富町史/ 新富町
新田原基地二十年史/ 航空自衛隊
新田原基地三十年史/ 航空自衛隊
三股町史/ 三股町
高原町史/ 高原町史編さん委員会
国富町郷土史/ 国富町郷土史編さん委員会
戦後50年私の戦争体験談「道/ 都城市教育委員会

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【報道関係資料】

東京日日新聞
大阪毎日新聞
別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦史別巻4/ 毎日新聞社
読売新聞
大東亜戦争報道写真録/ 読売新聞社
東京朝日新聞
共同新聞
日向日日新聞 
宮崎日日新聞連載 「空の神兵の悲話」「特攻隊のいたまち」「忘れない 戦後70年へ」
宮崎県大百科事典/ 宮崎日日新聞社編
証言・私の昭和史/ 東京12チャンネル報道部編

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【特設展示・サイト】

宮崎の戦争記録継承館 / 宮崎県庁
戦場の兵士たち―陸軍従軍カメラマン小柳次一の見た戦争―/ 宮崎県立図書館 2014年
特別展「戦後70年記念 戦争の証言」/ 宮崎県立図書館 協力:「宮崎この人」企画 2015年
川南町観光サイト
宮崎特攻基地資料展/ 宮崎特攻基地慰霊祭実行委員会 2015年
知覧特攻平和会館/ 鹿児島県南九州市
久野正信中佐 ~愛する我が子たちへ~ 特別展示/ ミュージアム知覧 2014年
都城歴史資料館/ 林野庁・都城市教育委員会
郷土館/ 陸上自衛隊第43普通科連隊
航空参考館/ 航空自衛隊新田原基地
アジア歴史資料センター
航空自衛隊新田原基地HP
国立病院機構宮崎病院HP
九州農政局尾鈴農業水利事務所HP

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【映像】
映画「空の神兵」/ 日本映画新社
映画「加藤隼戦闘隊」/ 東宝映画
ドキュメンタリー「塔は黙して語らず 特攻“義烈空挺隊”の真実」/ MRT宮崎放送
ドキュメンタリー「義烈空挺隊~沖縄特攻までの記録~」/ テレビ熊本
ドキュメンタリー「忘れ得ぬ戦友へ 台湾高砂義勇隊」/ RKB毎日放送
記録映像「義烈空挺隊」/ 財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

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第1挺進集団司令部および唐瀬原飛行場(宮崎県児湯郡川南町)

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川南護国神社慰霊祭にて

昭和16年以降、陸軍落下傘部隊の戦力化と錬成にあたったのが「挺進練習部」です。
その役目を終えた昭和19年秋、挺進練習部は全ての陸軍空挺部隊群を指揮下に置く「第1挺進集団司令部」へ再編されました。
今回は、陸軍空挺部隊の中枢であったこれらの組織を紹介しましょう。

挺進練習部があったのは、宮崎県児湯郡川南(かわみなみ)町。2010年の口蹄疫騒動で畜産業が大打撃を受けた地域です。
当時は随分と報道されていたあの町が、帝国陸軍空挺部隊の本拠地だったということは余り知られていません。

満洲国から九州へ

昭和15年、陸軍空挺部隊は静岡県の陸軍浜松飛行学校で創設されました。
翌16年5月には、防諜上の理由により満洲国の白城子飛行学校へ移転が決定します。7月から新天地での訓練を開始したものの、白城子は半年のあいだ雪に閉ざされることが判明。これでは訓練もままなりません。
飛行場と降下場を有し、冬でも温暖な訓練地として、宮崎県の陸軍新田原飛行場へ再移転したのが同年9月のこと。
更に、北側の川南村(現在の川南町)にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換した陸軍空挺部隊は、「挺進練習部」として落下傘部隊を戦力化すべく努めます。
アメリカとの開戦を目の前に、猛スピードで部隊の錬成が進められました。

宮崎県のパラシュート部隊
満洲国から新田原飛行場へ移転した挺進練習部は、戦況の激化に伴って規模を拡大していきました。
パレンバン作戦に第1挺進団(挺進第1聯隊と挺進第2聯隊)を投入した後、更に第2挺進団(挺進第3聯隊と挺進第4聯隊)も新設。
それによって新田原飛行場が手狭になると、唐瀬原飛行場を中心とする川南空挺基地も建設されました。
挺進練習部の司令部と挺進第1聯隊、挺進第2聯隊は睦~東地区、飛行場は黒坂地区(10号線海側)、降下場は塩付~夜明原一帯(10号線尾鈴山地側)に設置されています。

茨城県のグライダー部隊
昭和17年には、パレンバンの戦訓を元に重装備を輸送可能なグライダー部隊も誕生しました。
将来的にパラシュート空挺師団とグライダー空挺師団への発展を目指す挺進練習部では、茨城県西筑波飛行場に5番目の連隊を移動し、グライダー空挺部隊の拡充に取り組みます。
以降、唐瀬原のパラシュート部隊、西筑波のグライダー部隊、新田原の空輸部隊に分れての運用が進みました。

挺進練習部から第1挺進集団へ
昭和19年10月、フィリピンに米軍が上陸。レイテ島防衛のため、直ちに第2挺進団が派遣されました。
11月、その役目を終えた挺進練習部は「第1挺進集団」へと改編。新田原・唐瀬原・西筑波に分散していた挺進飛行団、第1および第2挺進団、滑空歩兵2個連隊、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊を傘下に置きます。
準師団規模となった陸軍空挺部隊ですが、実際は各個バラバラに運用されていきます。
12月19日、既にフィリピンへ出撃していた第2挺進団、国内で戦力を温存していた第1挺進団と挺進戦車隊を除き、挺進集団司令部は残る戦力を率いてルソン島へ向かいました。
しかし、空母雲龍に乗船していた滑空歩兵第1聯隊の主力と挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、滑空飛行戦隊の先遣チームが、海路移動中に撃沈されて全滅。
第1挺進集団は、戦う前に兵力の半数を失ってしまったのです。
別の船団でフィリピンに上陸した残存部隊は、米軍の空襲を避けながらクラーク基地に集結。
空路でフィリピンへ到着した塚田集団長は、建武集団に組み込んだ滑空歩兵第2聯隊を主力としてクラーク防衛にあたりました。

フィリピンでも第1挺進集団の全部隊が集結することはなく、挺進集団司令部、滑空歩兵連隊、挺進工兵隊、第2挺進団、挺進飛行隊などが各地に分断されつつ戦闘を繰り広げました。
国内に残る空挺部隊は第1挺進団長が指揮をとり、サイパン・沖縄への特攻作戦や本土決戦に対応しています。

戦争末期、フィリピンの陸軍空挺部隊は飢餓に苦しみつつジャングルへ立て籠もりました。
彼等が米軍に投降したのは、終戦から一ヶ月も後のことです。
国内に残留していた第1挺進団は、敗戦と共に特攻作戦の中止と復員業務、唐瀬原飛行場の農地開放、宮崎県への物資引渡し、進駐軍との交渉など終戦業務に奔走。
すべての残務処理を終えた昭和20年末、やがてフィリピンから帰国するであろう傷病空挺兵のため唐瀬原病院職員として幾名かの空挺隊員を潜入させ、その活動を終えました。

第1挺進集団司令部および挺進第1連隊・挺進第2連隊兵舎

川南
第1挺進集団司令部と第1挺進団(挺進第1連隊・第2連隊)の兵舎があったのは東地区と睦地区。現在の県立畜産試験場川南支場から川南町立東小学校付近でした。
唐瀬原飛行場滑走路は隣接地の黒坂地区に、国道10号線を挟んだ塩付地区の夜明原あたりにかけてはパラシュート降下場が設置されています(現在はお茶畑)。

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第一挺進集団司令部および唐瀬原飛行場全景。かつては画面奥に空挺部隊の基地が広がっていました。

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このへんの公的施設が、かつてここに挺進司令部が存在した痕跡を示すのみ。

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宮崎県畜産試験場川南支場。口蹄疫終息宣言から随分と経ちますが、畜産施設入口には消毒用の石灰が散布され続けています。この付近から小学校あたりにかけて、第1挺進集団司令部の各種施設や病院・倉庫・慰霊施設が集中していました。

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戦後、東地区の空挺兵舎は空襲で焼け出された宮崎師範学校の臨時校舎として利用されます。続いて町立小学校が移転してきた後、昭和40年代の改築工事によって旧軍の施設は完全に消滅してしまいました。
現在は、小学校のアルバムに木造二階建て兵舎の姿を記すのみです。

唐瀬原飛行場

滑走路
かつて唐瀬原飛行場があった国道10号線黒坂交差点付近。
秘密部隊であった空挺部隊の川南転入とともに国道10号線(当時は3号線)は封鎖され、川南から海岸沿いを都農町へ抜ける迂回道路の建設が始まりました。
国道10号線といえば、今も昔も宮崎県の動脈です。それすら遮断した川南空挺基地の建設は、宮崎県の交通や物流にも多大な影響を与えました。

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この道路の左側に、1500メートルの滑走路が並行するように設置されていました。

黒坂
滑走路部分は表土を剥ぎ取られた上に砕石を敷き詰めてあった為、戦後の開墾作業では凄まじい苦難を強いられたとか。
かつてを偲ばせる飛行場の遺構は、何も残っていません。

塩付パラシュート降下場

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JA果汁工場裏の夜明原に広がる農地。元々は軍馬補充部高鍋支部塩付分厩の牧場でした。
ここ一帯がパラシュート降下場へ転換され、映画「空の神兵」のロケ地にもなりました。

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尾鈴山方面より眺める塩付降下場跡。この広大な平野に、かつては沢山のパラシュートが舞っていました。

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2010年に口蹄疫の大打撃を受けた川南町には、このような家畜慰霊碑が設置されています。

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空の神兵たちが訓練に励んだ塩付降下場も、現在は静かな農村となっています。

川南空挺基地の戦後
昭和20年8月15日、川南の挺進集団司令部留守部隊では、塚田集団長が不在のまま戦後処理へ移行。
中村第1挺進団長のもと、陸軍上層部や宮崎県庁との交渉を経て復員業務と川南空挺基地の農地開放が行われました。
同時に海外引揚者による大規模な集団入植が始まります。軍都川南は、開拓の町として再スタートしたのでした。

空挺兵舎の一部は病院や学校、開拓者の臨時住居として利用されたものの、多くの人にとっては開拓の邪魔に過ぎませんでした。やがて、巨大な空挺施設群は次々と取り壊されてしまいます。
昭和40年代あたりで空挺基地の遺構はほぼ消滅。現在は挺進第3聯隊兵舎の給水塔を残すのみとなります。
歳月が流れると共に、「川南の落下傘部隊」の記憶も風化していきました。
今では唐瀬原基地のことを知る人も少なく、某Wikipediaの解説ですらちょっと触れる位。かくして、空の神兵は国内のどこで訓練していたのかも分からない「幽霊部隊」となってしまいました。



せめて軍事専門家や軍事オタクならば、自国の空挺部隊司令部が何処に在ったかくらい知っているだろう。
……などと思っていたらそうでもないんですよね。

かれこれ10年以上ネットや書籍を観察してきましたが、当時から川南空挺基地を取材してきたのは、宮崎県の自治体と新聞社、そして郷土史研究家くらいですか。地道な調査のおかげで、宮崎県には貴重なレポートが残されました。
その他は「酷い」のひと言に尽きます。
高千穂空挺隊や義烈空挺隊について展示している知覧特攻平和会館でも、唐瀬原飛行場に関する解説は何故か皆無。
元空挺隊員の手による著作を除き、ミリタリー雑誌はモチロン、戦時遺構や特攻をテーマにした書籍からも完全に無視されています。せいぜい「PXマガジン」と「歴史群像」で名前だけ登場したくらいですか。
「空の神兵を讃えよう」と叫ぶ人々も、実際に興味があるのは戦場の武勇伝ばかり。対象の部隊がどこでどうやって実戦レベルへ成長したのかは見向きもしません。
言葉だけ飾り立てたところで、「空の神兵」に対する実際の認識はこの程度なのです。

例えば、ゴードン・L・ロットマン、滝沢彰両氏の共著「日本軍落下傘部隊」では、下記のように解説しています。
「結局のところ、同年8月に同部隊は日本に戻って、宮崎県高鍋の新田原飛行場に駐屯することになった。以降、新田原は終戦まで陸軍落下傘部隊の根拠地として機能する(「日本軍落下傘部隊」より)」

この記述は間違いではないのですが、正しくもありません。
新田原飛行場と唐瀬原飛行場を混同した上、地名も間違っています。現地取材をするまでもなく、日本地図で確認できるんですけどね。
新田原飛行場があったのは「児湯郡高鍋町」ではなく「児湯郡新富町(当時の新田村と富田村)」。高鍋町と新富町は戦前から別々の地方公共団体です。
この辺はかつての日本陸軍も似たり寄ったり。新田原飛行場を「高鍋飛行場」と命名しようとして、新田村会の猛反発を喰ったという騒動が起きています。今も昔も、地域への傲慢な目線がこのような失敗をやらかす原因なのでしょう。

空挺歌碑
降下兵を空輸する挺進飛行隊が配置されていたのは「新田原飛行場」
現在の航空自衛隊新田原基地にも空挺歌碑が設置されています(新富町にて)

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挺進部隊の各聯隊がいたのは「唐瀬原飛行場」
唯一現存する挺進第3聯隊兵舎の給水塔(川南町にて)

ウソをつくな!新田原飛行場は高鍋町にあるのだ!専門書に書いているから間違いない!とおっしゃるならば、新富町役場と高鍋町役場と川南町役場の位置をグーグルマップか何かで確認してみてください。西都市あたりは無視して。
軍事専門家が本で何を書こうと、現実世界における空挺部隊の遺構は高鍋町ではなく川南町に存在しています。九州の地理なんか知った事ではないかもしれませんが、事実は事実。
陸軍空挺部隊が新田原と唐瀬原と西筑波に配置されていたコトを明確にするだけで、無用な混乱も避けられるのですが。
   
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海軍第5特攻戦隊第33突撃隊・第5回天隊特殊潜航艇基地(宮崎県日南市南郷町栄松)

Category : 日南市の戦跡 |

昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に特攻艇の部隊が配備されます。
県北部には佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)が、県南部には同じく第33突撃隊(33突)が展開しました。
35突の所属は、北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻。

33突の所属は日南市油津の第03回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第05回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、日南市南郷町に展開していた第33突撃隊第5回天部隊の遺構について取り上げます。


回天2

人間魚雷「回天」は、文字通り乗員もろとも敵艦に体当たりする特殊潜航艇です。
昭和20年4月、米軍は沖縄へ進攻し、九州上陸も間近に迫ります。米軍の上陸地点が宮崎沿岸・志布志湾・吹上浜である事を正確に予想していた軍部は、宮崎県沿岸部に「回天」および特攻モーターボート「震洋」部隊を展開しました。
宮崎南部に配置されたのは、海軍第33突撃隊「嵐部隊」。
沿岸部には特攻兵器の格納トンネルが掘られ、百数十名の特攻隊員が出撃に備えます。

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対岸から見た栄松特攻基地。この湾の奥、栄松観音崎には第5回天隊8隻が、更に北方の猪崎鼻岬には第10回天隊3隻と第117震洋隊50隻が潜んでいました。

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配備される回天は潜水艦で海中輸送され、宮崎沖で切り離されて海面へ浮上。そのまま格納庫へ揚陸されます。一連の作業は深夜ひそかに行われ、地元住民ですら気付かなかった程でした。
搭乗員は、後から陸路で到着しています。

第5回天隊隊員到着日
6月17日 永見、小原、多賀谷、高館、鳶村、中村隊員
7月14日 佐賀’、緑川隊員
8月14日 青木、野村、本橋隊員

第5回天隊が準備を整えた頃、すでに宮崎県内の軍用飛行場はB29爆撃機の猛爆撃に晒されていました。
袋叩きに遭った赤江、新田原、都城西の各飛行場は機能を停止。辛うじて都城東、都城北、富高飛行場が特攻機の出撃・中継拠点となっているだけで、航空戦力の支援は期待できません。
宮崎県には上陸牽制部隊の陸軍第154師団(西都市)と156師団(国富町)、それを側面支援する212師団(都農町)、後方支援部隊の第25師団(小林市)が展開。

宮崎沿岸に米艦隊が接近すれば、まずは延岡、日向、日南の各特攻艇部隊が突入する手筈だったのです。
この美しい海辺で、死ぬ為の訓練が開始されました。

回天3
日南市南郷町贄波の展望台にある「人間魚雷回天訓練の地碑」。

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回天1

回天4

回天5

南海にたとえこの身ははつるとも 幾年のちの春をおもえば
  特攻隊員詠

かつてこの地は第三三突撃隊人間魚雷回天の乗組員たちが、祖国の存亡を憂いて猛訓練をつづけた海である。
年移りて星変わりて平和な祖国は国定公園日南海岸としてその絶景をたたえている。
あの島この島陰に大東亜戦争の必勝を念じ生命を捧げて永遠の平和を渇仰した尊い若人の血のにじむ猛訓練のあとを偲び、祖国の為に散った戦友を追悼し永遠の平和を祈念してこの碑を建立する。


南郷

【回天格納トンネル】

海岸沿いに構築されていた特攻艇の格納庫は、戦後の道路拡張工事などで大部分が埋没してしまいました。
現在も少数が残存しているらしいのですが、確認可能なのは栄松観音崎にある第5回天隊の格納トンネルのみです。

回天格納庫2

回天格納庫1

回天格納庫3

回天格納庫4

回天格納庫5
現在も複数残されている第5回天隊の格納トンネル。
栄松地区には回天8隻と8名の搭乗員が配置されていました。ひとつのトンネルあたり回天を2隻格納するので、合計4つのトンネルがあった訳ですね。

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回天格納トンネル前の海中にある土管。干潮時は水上に露出しています。
造船所の古い設備なのか、回天隊のものなのかは分かりませんでした。

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回天トンネルから先は岩礁地帯となっており、この辺に特攻用の陣地は無い様です。

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米軍も宮崎沿岸に軍事施設があることを察知していたらしく、執拗な攻撃を加えています。
漁船に紛れて繋留してあった日向細島港の震洋は空襲で撃沈され、昭和20年7月16日には米軍の油津梅ケ浜爆撃によって住民29名、海軍兵士4名が死亡。
内海港では、第5回天隊基地設営に油津から派遣されていた第3回天隊員2名が米軍機の奇襲を受けて戦死しました。
日南沖では激しい空中戦も展開され、撃墜された軍用機が海へ沈みました。何名かは救助されたものの、多くの遺骨は回収すらされていません。



空襲の激化によって訓練も儘ならない状況となり、第33突撃隊の特攻隊員らはひたすら出撃を待ち続けます。
米軍側は志布志湾から都井岬にかけての日本軍砲台を破壊した後、南郷、大堂津の特攻艇基地を攻撃。志布志湾岸の陣地を一掃してから第11軍団(第1騎兵師団、第43歩兵師団、アメリカル師団)を上陸させる計画でした。
オリンピック作戦が決行された場合、回天隊の大部分は出撃前に壊滅したことでしょう。

幸いにも本土決戦は回避され、日南の特攻隊も待機のまま終戦を迎えます。
震洋は爆薬を除去したのち廃棄されましたが、回天がどうなったかは不明。
細島などの格納トンネル跡には、今も回天が埋まっているとの噂もあります。爆薬が除去されていない可能性もあり、発掘調査は許可されていません。

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海軍第5特攻戦隊第33突撃隊・第54及び第117震洋隊特攻基地(宮崎県日南市大堂津)

Category : 日南市の戦跡 |

佐世保鎮守府第5特攻戦隊第33突撃隊第54及び117震洋部隊

昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に特攻艇の部隊が配備されます。
県北部には佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)が、県南部には同じく特攻第5戦隊第33突撃隊が展開しました。
35突の所属は、北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻。
33突の所属は日南市油津の第03回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第05回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

此処では、日南市の大堂津に展開していた震洋部隊の史跡について取り上げます。

●海軍第117震洋部隊基地
117震洋


猪崎鼻2

宮崎県日南市の油津港と大堂津港の中間にある岬、猪崎鼻。
猪崎鼻は岬全体が展望公園と無線中継基地になっており、晴れた日には美しい海原を一望する事ができます。

昭和20年の春、自爆攻撃をおこなう特攻隊がここで待機を続けていました。
宮崎県沿岸は、米軍の南九州侵攻「オリンピック作戦」の第一目標と予測されており、米軍上陸を迎え撃つ為に特攻ボート「震洋」と特殊潜航艇「回天」の基地が設置されたのです。
特攻艇が展開したのは県北部の延岡と日向、そして県南部の日南でした。
そして、日南の油津には第54及び第126震洋部隊、大堂津には第117震洋部隊が配置されます。

第54「丸井」部隊は、震洋50隻、将校9名、特攻隊員53名、整備員50名、基地隊50名、本部付18名の総員180名で構成されていました。

5月に鹿児島県内之浦へ展開するも、後続部隊と大堂津で合流。
しかし、格納壕は先に同地に進出した同じ第三十三突撃隊の回天隊が使用していたため、浜辺に木枠で格納壕を作り上に砂で覆った。そこに入りきらないものは山林の中やトンネルに運び入れた。進出当初に空襲があり、7、8月は空襲が激しく、訓練どころではなかった。

奥本剛著「陸海軍水上特攻部隊全史」より

第117「小林」隊は、震洋26隻、将校7名、特攻隊員50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名の総員188名。
第54部隊と共に大堂津へ展開しました。

117震洋a
猪崎鼻公園の一角には「平和の祈り」と記された石碑が建てられていました。

117震洋b
昭和60年4月17日建立。

117震洋c

元海軍第一七七震洋特別攻撃隊基地跡
太平洋戦争末期の昭和二〇年四月、ここ大堂津に海軍第一七七震洋特別攻撃隊基地が設けられ、三重海軍航空隊飛行予科練習生一九期三学年卒業生当時十六歳から十九歳までの若き搭乗員五〇名が、日夜猛訓練に励んでいました。
水上特攻舟艇「震洋」は長さ五メートル、幅一,二メートル、のベニヤ板製モーターボートで頭部に二五〇キログラムの爆薬を積んだまま敵艦船に体当たりし、搭乗員自らも爆死するという特別攻撃兵器でした。
あれから四十二年の歳月が流れ、日本は今、驚異的な経済発展を遂げ、自由と平和に満たされた民主国家として栄えています。
日本はもう二度とあのような苛酷な戦争を起こしてはなりません。
この碑に当時をかえりみ、戦死した幾多の友の霊を奉祭し、心から悠久の平和を祈念いたします


大堂津
猪崎鼻から見た大堂津漁港。

油津
同じく猪崎鼻から見た油津港。油津の大節鼻には人間魚雷「回天」部隊が展開しています。

猪崎鼻3

七つ岩

「8月上旬、出撃準備の大命が下る。第一一七震洋隊全員は鬼神の如き力を発揮し、全艇に弾頭の装着、燃料の搭載、機関の整備等を完了、格納壕には日本酒四斗樽を併置したが(出撃時の別杯)、終戦により中止(117部隊)」

「8月15日、敗戦の通達はあったが、敵艦が見えたらいつでも出撃できる状態に配備する旨の命令があったため、敵潜水艦発見の報で第二艇隊より出撃準備を行った。
16日、浜辺にあった格納壕内の震洋が火事となったが消火に成功(54部隊)」
奥本剛著「陸海軍水上特攻部隊全史」より

灯台

米軍上陸作戦前に終戦を迎え、延岡、日向、日南の宮崎県沿岸部に展開していた特攻艇部隊も解散します。
爆薬を抜かれた震洋は海岸に放置されていましたが、直後に襲来した枕崎台風によって流失しました。
当時建設された震洋格納トンネルも、現在は一部しか残っていません。

第54部隊では2名が死亡。
第117部隊は全員が復員しました。

第1挺進集団第1挺進団 挺進第1連隊(宮崎市住吉および児湯郡川南町)

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挺進第一聯隊隊歌

雲に聳ゆる高千穂の
峯を仰ぎて生い立ちし
我が丈夫(ますらお)の雄心は
八紘一宇の神意もて
天孫降臨たる其の太古の
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

二千六百一年の
師走の八月朝ぼらけ
新田が原の碧空に
米英撃ての詔賜い
誠をただに誓ふとき
我出陣の式を挙ぐ
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

唐瀬の原に技を練り
鍛え磨きしつはものが
腕を撫しつつ征くところ
佛印馬來将緬甸
我が征くところ敵はなく
御稜威は燦と輝けり
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

想は遙か緬甸路の
ラシオの空の血しぶきは
我が兄弟の咲く姿
いざ出撃に空征かば
雲染む屍山征かば
草むす屍悔はなし
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

來らば來れ国の仇
精鋭部隊はここにあり
我等舞い下り撃ち討ちて
大義に生きるつはものの
不滅の凱歌永久に
皇御国を護りなん
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊


作詞 陸軍曹長 相澤久義
作曲 陸軍戸山学校軍楽隊

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昭和20年5月24日、熊本県の健軍飛行場から出撃する奥山隊長と義烈空挺隊員。
この部隊は爆薬の扱いに長けた工兵出身者で構成される第1挺進連隊第4中隊から選出され、第3獨立飛行隊と合流したコマンド部隊。
当初の目標であったサイパン突入作戦、続く硫黄島突入作戦が中止となったあと、沖縄の米軍飛行場へ特攻します。
なお、第4中隊自体は作業中隊として第1聯隊に残され、指揮は奥山大尉から浪花大尉へ引き継がれました。

義烈空挺隊の拠点が健軍であったかのように誤解される事もありますが、熊本県に居たのは2週間だけでした。
この部隊について取り上げる人は多いのですが、彼等の原隊である挺進第1連隊の拠点がどこにあったかは誰も書いていません。不思議ですねえ。



宮崎県の新田原飛行場で「教導挺進第1聯隊」が編成を完結したのは昭和16年11月のこと。
陸軍で最も早く戦力化されたパラシュート連隊でした。
しかし、パレンバン降下作戦に投入された挺進第2連隊、レイテ降下作戦に赴いた挺進第3及び第4連隊と比べ、挺進第1連隊は影が薄い存在となっています。
パレンバン降下作戦は輸送船沈没事故とパラチフスの集団感染で参加出来ず、ラシオ降下作戦は悪天候で中止。
空しく帰国した第1聯隊は、日向住吉の海岸にある兵舎で悶悶とした日々を送ります。

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当時の日向住吉。中央が高等農林学校、画像向かって左手に行くと国道10号線と日向住吉駅、右手に行くと塩路住吉神社と住吉海岸です。阿波岐原と宮崎市街は手前方向、新田原飛行場と唐瀬原飛行場は画面上方の遙か彼方に位置していました。一ツ葉有料道路や佐土原バイパスが無い当時は、住吉~新田原間の往復も不便だった事でしょう。

続いて計画されたのがベナベナとハーゲンへの降下作戦でした。
しかし、この作戦も戦況悪化で中止。再び帰国した第1聯隊は、本土決戦の予備戦力として扱われます。

戦機を逸し続けた挺進第1連隊で実戦に参加したのは、第4中隊から抽出されて沖縄へ突入した義烈空挺隊のみ。
この部隊は昭和19年にサイパン特攻を命じられ、川南から豊岡へ移動しました。出撃地の浜松で待機を続けるも、戦況悪化により作戦は中止。
翌年に川南へ帰還した奥山隊は、硫黄島突入命令を受けて西筑波へ移動します。しかし硫黄島玉砕によって作戦中止が決定され、再び川南へ帰還。
昭和20年5月には沖縄への突入を命じられ、健軍へ移動してから2週間後に出撃しました。
目まぐるしく変遷する計画に翻弄された、悲劇の特攻隊だったのです。

残る第1聯隊の主力は、昭和20年4月に米軍の九州上陸を避けて千葉県横芝へ移動。そこから園田直大尉率いる2個中隊をサイパン特攻部隊として差し出すも、出撃直前に8月15日を迎えます。

第1聯隊の犠牲は義烈空挺隊のほか、ラシオ空挺作戦時の墜落事故で失った30名のみ。
フィリピンで壊滅的な損害を受けた挺進第3聯隊、第4聯隊と違い、国内での待機が多かった挺進第1聯隊と第2聯隊は戦死者も比較的少数です。



今回は、その挺進第1連隊の遺構を調べに行きました。
第1連隊が最初に入っていたのは日向住吉地区の陸軍兵舎。そこから佐土原町を通って新田原飛行場へ通っていた訳です。
この住吉兵舎の場所、最初は日向住吉駅ちかくの宮崎大学農学部住吉フィールドあたりかと思ったのですが、どうも違うようです。戦時中も住吉フィールドは農場のままでしたから。

住吉兵舎の証言は多数残っていますが、調べても金吹山(現在のシーガイア付近)にあったことしか分りません。
第1連隊の兵員や物資の移動には、日向住吉駅ではなく花ヶ島駅(現在の宮崎神宮駅)を利用していました。だから兵舎も塩路ではなく阿波岐原附近にあった訳ですね。因みに、中間地点に蓮ヶ池駅が出来たのは戦後のこと。

終戦、そして再び学校に帰った。ある朝、朝礼台の上から三羽ガラスの栗原先生が「本日より映画見物も自由、男女交際も許可」とのたまわった時には、全校生徒の間に、ざわめきが起こった。
自由を得られたのはよいが、延岡から帰ってみて困った事は、通学の苦労である。
校舎は住吉の兵舎にうつり、家は八代村に疎開していた。朝早く一里に近い砂利道を、弟と二人で歩いて本庄に出る。そこからバスで神宮前へ、そして又歩いて住吉まで行くわけであるから、時々しか学校には到着せず、途中から帰ることも多かった。

「宮中と歌と私」より 川越毅さんの証言

学校のほうは、焼け残っていた寄宿舎を教室にして二部授業が開始され、さらに何日もしないうちに、住吉のはずれの旧兵舎に移った。
ここの印象は人里離れた砂丘の掘っ立て小屋の殺風景さと、登下校がやたらと遠かった記憶しか残っていない。
歩くのはヨダキイ(※宮崎弁で「面倒くさい」「ダルい」の意味)ので、友達と砂ぼこりの達、でこぼこの国道へ出て、おんぼろの木炭トラックにぶらさがったり、よじ登ったりしたこともあった。
うんざりしながら、住吉に通ったのはどのくらいの期間だったろうか。大宮高校百年史の記録では、翌二十一年二月に大淀の宮崎工業高校へ引越したとなっている。

「私の宮中時代」より 本條敦巳さんの証言
その他としては
交通が不便なので、赴任した英語教師が2日で辞表を出した」とか、
交通が不便なので、近くの蓮ヶ池に駅を造ってほしいと訴えたが却下された」とか
交通が不便なので、父兄が進駐軍に訴えて住吉兵舎からの転出を命じて貰った」などと
碌でもない証言ばかり残されています。
空挺部隊の衛生資料でも「あの環境で伝染病が発生しないのは不思議」と書かれる程に酷い兵舎でした。

さて。
住吉兵舎跡を調べるにしても、現在の金吹山はシーガイアとゴルフ場と市民の森公園となっているのでどうにもこうにも。
シーガイアの写真を載せて「ここが第1連隊兵舎跡」と書けば済むのですが、それでは全く面白くありません。イヤ、あの辺の広大な森を散策するのは楽しいんですけど、軍事遺構は綺麗サッパリ無くなっていますからね。
二番目の兵舎である川南の方が確認し易いでしょう。そうしましょう。

陸軍精鋭部隊の兵舎の位置がよく分らない、というのも間抜けなハナシではあります。
第3聯隊兵舎みたいに給水塔が残っていたり、第4聯隊兵舎のように中学校となっていたら調査もカンタンなのですが。

通山
軍馬補充部高鍋支部跡地。

戦後に再現された地図上では、第1連隊兵舎は川南村通山(とおりやま)地区に記されています。
しかし、第1連隊側の証言では「唐瀬原の挺進司令部近くに移った」となっております。
当時の通山地区にそれらしい大型施設は見当たらないので、睦地区あたりの兵舎を誤記載したのかもしれません。

「第1連隊兵舎は唐瀬原飛行場にありました」では面白くないので、とりあえず通山地区に兵舎があったと仮定しましょう。
戦後、挺進司令部及び挺進第2連隊兵舎は川南町立東小学校、挺進第3連隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第4連隊兵舎は川南町立唐瀬原中学校となりました。

挺進第1連隊兵舎も、何かしらの公共施設として再利用されたのでは?
そう思って目当てを付けたのが、宮崎県立農業大学校。農大の敷地は、戦時中に軍馬補充部高鍋支部が拠点としていた場所です。

農大

ルピナスパーク

軍馬補充部5

農大の敷地には立ち入れないので、隣接するルピナスパークを散策しながら探してみます。
しかし、広々として綺麗な公園ですねー。天気もいいし、寝転がって昼寝でもしたい気分です。
公園内をウロウロした挙句、見つかったのは高鍋軍馬補充部の記念碑のみでした。

農業大学校の周囲で「この辺だろう」と推測される場所を歩いてみたのですが、今では一面の水田になっており当時の面影すらありません。

通山

通山

通山
川南町の資料では、この水田あたりに「住吉第一聯隊」の拠点が書き込まれています。

第1聯隊兵舎の一部が、何かしらの公共施設の資材に流用された可能性はないでしょうか。
農業大学校周囲の公共施設といえば、国光原中学校と通山小学校があります。国光原中は戦時中に騎兵部隊の駐屯地だった場所。空挺部隊とは無関係です。
だとすれば通山小学校はどうでしょうか?

地図
地図の左側が国道10号線、中央の大きな区画が宮崎農業大学校、右側が日向灘です。
第一聯隊があったとされるのは、水色の部分と農業大学の中間付近(紺色の線が大きく膨らんでいる場所)。

通山地区
通山小学校付近の状況

通山

通山地区の地図を眺めてみたのですが、耕作地として細かく区画されたこの地域で旧軍用地らしき場所はありません
通山小学校の周囲もぐるっと一周してみたのですが、のどかな農地が広がっているだけで旧軍の遺構や記念碑らしきものは一切ナシ。

川南は口蹄疫の惨劇からも一歩一歩回復しつつある様ですね。近くの畜舎に牛の姿を見かけてホッとしました。

この場所はハズレかな、と思いつつ小学校正面にまで戻った時。妙なものを発見しました。
古い石柱が2本、学校の入口に立っています。
第1連隊

第1連隊2

第1空挺連隊
片方には、何か書かれたプレートが貼ってありました。

旧校地

「この門柱は 旧校地使用の門柱」

旧校地?何ですかソレ?
「旧校地」が建て替え前の学校施設のことなのか、学校が建つ前にあった別の施設のことなのか、判然としない書き方ですね。もし軍事施設だったとしても、教育上宜しくないからこのような表現にしているのでしょうか。
とりあえず、通山地区で見つけた古い遺構はこの門柱だけでした。

おそらく、戦後に作成された川南基地の地図は間違っているのでしょう。
しかし、挺進司令部と唐瀬原飛行場があった睦地区あたりも耕作地に姿を変えており、畜産試験場と東小学校の区画が当時の痕跡を残すのみです。

陸軍落下傘部隊の最精鋭、挺進第1聯隊の痕跡は川南から消えてしまったのですね。
まあ、空挺兵舎の写真は東小学校のアルバムに幾らでも載っているのですが。

ツツジ
通山小学校の前には、綺麗な花々が咲いていました。






海軍第5特攻戦隊第35突撃隊・第48及び第116震洋特攻艇基地(宮崎県延岡市土々呂)

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佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第48及び第116震洋部隊
48震洋5

48震洋


昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に特攻艇の部隊が配備されます。
県北部には佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)が、県南部には同じく特攻第5戦隊第33突撃隊が展開しました。
35突の所属は、北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻。
33突の所属は日南市油津の第03回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第05回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、土々呂の赤水地区に展開していた震洋部隊の遺構について取り上げます。
延岡空襲については別記事にて。

赤水6

赤水7

赤水8

赤水9
赤水地区の湾内風景。とても静かな漁港で、戦時中に自爆ボート部隊が展開していたなど想像もできません。

戦争末期の土々呂には、2つの特攻艇部隊が展開していました。
5月5日に到着したのが第48「藤島」部隊。震洋48隻、将校8名、特攻隊員53名、整備員38名、基地隊73名、本部付21名の総員193名で構成されていました。
最初は33突、続いて35突の所属となります。

続いて到着したのが、沖縄に展開する筈だった第116「磯野」部隊。
震洋26隻、将校7名、特攻隊員50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名の総員188名で構成されていました。
4月1日に33突へ配備され、5月16日には美々津へ到着。しばらくは美々津海岸の松林に特攻艇を秘匿していました。
6月10日には35突へ所属が変更され、土々呂へと移動します。

48震洋1

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48震洋3

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48震洋7

48震洋8

1つ目の特攻ボート格納トンネル。復元された震洋の実物大模型が展示してあります。
震洋はベニヤ板製のモーターボートであり、250㎏の爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻兵器でした。
昭和19年から研究に着手、1人乗りの一型と噴進砲(ロケット砲)と機銃を搭載した2人乗りの五型が終戦までに6197隻生産されました。

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2つ目の特攻ボート格納トンネル。

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3つ目の特攻ボート格納トンネル。

赤水4

赤水5

赤水

延岡沖に米艦隊が接近すれば、この入江から出撃した震洋艇の群れが襲い掛かる計画となっていました。しかし、実際に出撃したとしても戦果を挙げられたかどうかは疑問です。
戦地に展開していた震洋の記録では、敵艦隊に発見されて壊滅したケースもありました。

8月には第2艇隊の震洋が整備中に爆発事故を起します。特攻隊員1名が火傷を負いますが、何とか誘爆の大惨事は免れました。


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赤水の復元震洋ですが、最近は水色から濃緑色へ塗り直されています。

8月15日、突撃隊本部に呼び出された藤島隊長および磯野隊長には敗戦と部隊解散が通告されました。
爆発事故で重傷者は出たものの、延岡の特攻隊は戦死者ゼロのまま終戦を迎えることができました
爆薬を抜かれた震洋は海岸に放棄されましたが、やがて暴風雨や枕崎台風によって海に沈んだとのことです。


赤水2

赤水3
入江の奥から見た震洋格納庫の様子。


海軍第5特攻戦隊第33突撃隊・第126震洋隊及び第3回天隊特攻基地(宮崎県日南市油津)

Category : 日南市の戦跡 |

第3回天隊の特攻要員には、軍歌「同期の桜」の原曲「戦友の桜」作詞者である帖佐裕大尉も配属されていました。
昭和二十年の終戦後、何月だったか記憶がさだかでないが、人間魚雷「回天」一基が港内の広場で解体され、無残で不気味な姿をさらけだしていた。
当時、私は八歳であったが、人間が操縦し、敵艦に体当りして轟沈させる強力な魚雷であることはよく知っていた。

湯浅倉平氏「内海港の人間魚雷発進基地検証」より

第3回天2

油津港
回天と震洋部隊が展開していた日南の油津港。

戦争末期、宮崎県沿岸には本土決戦に備えた特攻艇部隊「第5特攻戦隊」が配置されました。
第5特攻戦隊のうち、県南部には「第33突撃隊」、県北部には「第35突撃隊」が展開します。
33突の所属は日南市油津の第3回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第5回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、油津の第126震洋隊と第3回天隊について紹介しましょう。

第33突撃隊が拠点を置いていたのは油津港大節鼻埠頭の手前、埋め立て地と漁港の境付近です。
現在は海辺の道路沿いにコンクリート製の遺構のみが残されており、繁茂した藪の為に回天格納トンネルの有無は確認出来ません。

第3回天14

第3回天5

第3回天4

第3回天6

第3回天11

第3回天12

昭和20年、香川芳明技術大尉を長とする「海軍第514設営隊」「呉海軍施設部第931部隊」が宮崎県の海軍赤江飛行場に配備されます。

「昭和二十年、私は弱冠二六歳の技術大尉で、呉海軍施設部第九三一部隊(徴用工員一二〇〇名)と、海軍第五一四設営隊(召集軍人八〇〇名)の二個部隊の長を命ぜられ、部隊本部を宮崎の赤江飛行場に置いて、沖縄戦の支援と同時に日向灘からの対上陸防塞施設の構築を担当し、宮崎県の海岸線全体にわたり、延岡・富高・美々津・都農・高鍋・内海・油津・大堂津・榮松などに分遣隊を出して、特攻隊のための飛行場の補修・整備や水上特攻隊の甲標的(特殊潜航艇)・震洋(爆装したモーターボート)・回天(人間魚雷)などの基地を構築していた。
油津の水上特攻隊の隊舎が間に合わず、海岸にあった遊郭を移転させて応急の隊舎にして大石大佐の率いる水上特攻隊を受け入れたこともあった。
沖縄戦の終了した六月に、油津方面の呉海軍施設部は、佐世保の施設部に移管され、私は、軍人設営隊を連れて、福岡県築城基地に転進した」
香川芳明氏の証言より

証言のとおり、震洋部隊の油津基地は建設が難航。そのまま外浦港へ移転となり、待機を続けました。
呉施設隊と交代してやって来たのが佐世保施設隊です。彼等は、陸軍部隊と共に防衛陣地の構築にあたりました。

第3回天16

第3回天10

第3回天9

第3回天3

第3回天7

第3回天8
回天基地跡前の海中には、コンクリート製の構造物が幾つか残されています。
海軍のものなのかどうかは不明。

油津回天
この付近の山にも回天の格納庫があったと伝えられますが、立ち入りが出来ないので詳細は不明です。

第126「青木」隊は5月5日に佐世保で編成され、特攻艇26隻、士官7名、特攻隊員48名、整備員31名、基地隊76名、本部付9名の総員171名。
外浦港の特攻ボート格納トンネルは6本が構築中で、震洋は基地完成まで飫肥駅に保管されていました。

また、油津に完成した特殊潜航艇格納トンネルには8基の回天が格納されます。
あわせて、これに乗込む10名の特攻隊員も油津へやって来ました。
海軍大尉 帖佐裕
海軍中尉 羽田育三
海軍少尉 塩津礼二郎
海軍兵曹 佐賀正一・奥山繁勝・浅野豊・佐藤登・高野進・稲永眞・前田敏郎
特攻隊の一人であった佐藤氏は、当時の様子をこう述懐しています。

「私は、海軍甲飛予科練十三期、土浦航空隊出身で、昭和十九年九月から山口県徳山市沖の大津島で人間魚雷搭乗員として訓練を受け、同二十年六月二日、油津港配備の「回天」搭乗員として油津に赴任した。
当時、油津港に駐屯していた嵐部隊は「回天」乗組みの帖佐大尉を隊長に、士官三名、下士官五名、計八名に整備員。
基地隊員は司令大石大佐以下百数十名で配置についており、「回天」八基は、東海岸(現在宇部セメント~石油基地群)に掘削された壕四本に二基ずつ格納された。
搭乗員宿舎は、下町東遊郭にあり、同二十年十一月に予想される米軍上陸に備え、米機動部隊撃滅を期して勤務した。
油津港出撃予定の特攻隊名を第三回天隊とよび、大堂津三基が第十回天隊、榮松七基が第五回天隊となっていた」
佐藤正一氏の証言より

彼らはまた、宮崎市内海(うちうみ)港に展開する第9回天隊の潜航艇受領にも従事しています。
第9回天隊の内海到着は7月に遅れたため、内海基地建設時は第3回天隊がカバーしました。
こちらは山中の谷間に回天の格納トンネルを掘り、そこから内海港までレールで曳き出す方式。「鬼の洗濯岩」で知られる岩礁地帯が広がる遠浅の内海では、目の前の海へ直接出撃する訳にはいかなかったのです。
宮崎市から日南市までの距離(当時の日南海岸は道路事情も悪く、鉄道も全線開通していませんでした)を行ったり来たりと、なかなか忙しい部隊でした。

米軍側は宮崎沿岸への特攻隊布陣を察知していたらしく、内海港を奇襲攻撃しました。
そして、第3回天隊員から戦死者を出してしまいます。

「七月十六日、内海港入口に輸送用潜水艦が着艦。運ばれてきた回天六基を小型船で収容、近くの山あいに築かれた掩体壕に搬入と、昼夜兼行の作業を続け、翌十七日早朝二時頃完了、そして眠りにつきました。
五時半起床、夏堀、井手籠の両君がいない。内海港防波堤に好きな釣りに出かけたらしい。朝食をとっていた七時三十分頃、突然P51戦闘機二機による銃爆撃の急襲を受ける。
約二十分後、基地隊員より搭乗服の一名が防波堤電柱の陰に倒れているとの通報があり、二手に別れて捜索しました。
防波堤に倒れていたのは井手籠君で、頭部、腹部に十三粍機銃貫通で即死。
夏堀君は走り込んだ二階建住宅への爆撃による倒壊の下敷となっていた。遺体は軽爆弾の直撃を受けたとみえ、頭髪と骨の一部を残し、肉片は残していなかった。
納棺、軍艦旗につつみ、トラックで油津基地に帰還。翌十八日、ガソリンの補給を受け荼毘に付した。海軍葬を近くの正行寺で行い、遺骨の分骨は隊舎に安置された。
両君はともに北海道の釧路中出身で中学、海軍生活、出撃先も一緒と、兄弟以上の親友でした。
回天を搬入した内海基地には、光訓練基地より六名の特攻搭乗員が正式に七月二十二日に着任しました。両君の無念をはらさんと、米軍上陸を待ちかまえておりましたが、まさか一ヶ月にもならないうちに終戦になろうとは、予想もしませんでした。追いたてられるようにようにそれぞれの故郷へ帰されました」
第3回天隊 佐藤登氏の証言より

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戦前の油津港

特攻隊が展開する前の3月1日には油津上空で空中戦があり、鹿屋飛行場から飛び立った703飛行隊の一式陸攻2機がグラマンに撃墜されました。
「米軍爆撃機が撃墜された」と勘違いした小玉与八氏が漁船で現場海域へ赴くと、海面に漂っていたのは日本軍の飛行士たち。
油津沖700m附近に墜ちた83号機の搭乗員のうち7名の遺体が回収されるも、残る5名の遺体は機体と共に沈みました。
7名の遺体は油津漁協の事務所に運ばれ、翌日鹿屋基地から到着した係員によって荼毘に付されます。

鵜戸沖に墜ちた81号機の搭乗員は5名が救助されるも、7名が戦死。
2機の機体と搭乗員の遺体は、今も日南の海に眠っています。


もと攻撃七〇三飛行隊員河原文久および倉垣宗、謹んで十二勇士のみ霊に告げまいらせます。
命たちの八十三号機は、昭和二十年三月一日、鹿屋基地を発進、八十一号機と二機で徳島基地へ向かう途中、十四時五十二分、都井岬上空で敵小型機と空戦し、ここ油津沖に墜落し、つぎの十二名のかたがたが戦死されました。
海軍少尉 渡辺勉
海軍上等飛行兵曹 内海憲太
海軍一等飛行兵曹 田中龍雄
海軍一等整備兵曹 斉藤邦政
海軍一等整備兵曹 大原貴四郎
海軍一等整備兵曹 磯部義光
海軍飛行兵長 上田信夫
海軍飛行兵長 杉村正一
海軍飛行兵長 長野正夫
海軍整備兵長 国吉房長
海軍整備兵長 小村登
海軍上等整備兵 渋谷甚市

またもう一機の八十一号機(機長岡北愛伯中尉)は、鵜戸村南方五千メートルの海上に不時着し、五名が重軽傷、七名の方が戦死されました。
誠に痛恨にたえず、謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
命たちの状況は、永らくわかりませんでしたが、まず八十一号機の状況が判明し、昨年二月二十九日、現地宮浦へ通い、地元のかたがたにお礼を申し上げ、慰霊祭をおこなってきました。
その後、もと隊員の証言をもとに地元の青木繁様、細田純市様のご尽力を得て本日ここにみ霊をお慰めするために参りました。
実に四十八年目のことで、遅きに失し、甚だ申し訳なく存じております。
本日のことは、ご遺族、もと隊員の諸兄にも報告し、命たちのご功績をしのびたいと存じます。
今後とも、ご遺族とわれわれ生存者にご加護を賜わり、お導きくださるようお願い申し上げます。
どうぞ安らかにお眠りください。

平成五年三月一日
もと攻撃七〇三飛行隊員 河原文久 倉垣宗


油津海上慰霊祭にて 平成5年

回天格納庫跡から岬の突端へ向かう途中、山の方へ左折する道路があります。真っ直ぐ行くと大節鼻の埠頭で行き止まりですから、此処を左折しましょう。
道路を進んでいくと、波に浸食された奇岩がずらりと並ぶ日南海岸の美しい景色が見えてきます。
海岸から道路を挟んだ場所にあるのが日南市立油津中学校。付近の集落が梅ケ浜地区です。

戦争末期、油津の海で米艦隊への突入に備えていた震洋や回天の搭乗員達。
しかし、生命の危機に晒されたのは油津の人々も同じでした。

「飫肥警察練習所は、飫肥高等女学校寄宿舎を若干改修して創設された。
そこは飫肥城址東台で見晴しもよく、広い敷地に校舎風に建てられた寄宿舎は、六人部屋六室と教官室教場等もあって、練習所にふさわしく即刻対応の建物だった。玄関前は点検場になり、宿舎の裏側は食糧難から耕作されて甘藷畑になった。
女学校と寄宿舎の境界は高さ三メートルの崖になっていて、私たちはこの崖を利用して防空壕を構築した。警察操練は女学校の校庭で実施されたが、訓練中何度かグラマン機に急襲されて、慌てて木の陰に隠れたり、防空壕に逃げ込んだりした。
五月二十九日、私たち第一六六期生三十六名の入所式と帯刀式があった。生れて晴れて官服を着用し、一人ひとり前に進み出て、警察部警務課長からサーベルを貸与されて帯刀した。天気は曇りから雨になった。
この日、油津港の沖では漁船がグラマンに襲われて沈没し、十一人が犠牲になった。このような戦況の中、晴の入所式もそこそこに終了し、きびしい門出となった。
警察訓練所の下には、飫肥青年学校と、明治政府の外務大臣小村寿太郎公も学んだ藩校の振徳堂があり、ここに人間魚雷「回天」の出撃をまつ海軍特攻隊が駐屯していた。
特攻隊は学徒動員兵で、飛行服に身を包み、白いマフラーを首に巻き、酒をあおって新撰組気取りで街を闊歩していた。
私たちはこの特攻隊を意識して、「下に負けるな」が合言葉であった」
宮崎県警 長崎静男氏「私と太平洋戦争」より

油津沖で日本軍爆撃機が撃墜されてから二週間後、九州南部は米軍機の奇襲攻撃を受けます。
造船所などがあった油津も、その標的となりました。

日南3

日南海岸

日南
油津港から梅ケ浜に続く海岸

3月18日に始まった宮崎への空襲は、その後も執拗に繰り返されます。
5月29日には沖合で操業中の特殊漁船が米軍機の襲撃を受け、大平丸と第五日置丸が沈没。計21名が死亡しました。

そして昭和20年7月16日、11時半。米軍機の編隊30機が梅ケ浜を奇襲攻撃、多数の死傷者を出す惨事となりました。
何故、油津港から離れた小さな集落が集中攻撃を受けたのか。
もしかすると、梅ケ浜が日本軍の爆薬集積所であったことを米軍が察知していたのかもしれません。

梅が浜2
●梅ケ浜にある被爆者慰霊碑

「一九四五年(昭和20)七月十六日、その頃ぼくは油津小学校の五年生でした。
ぼくの家は梅ケ浜下町で、となりに天理教教会があり、海軍の宿舎になっていて、数人の兵隊さんが寝とまりしていました。
そこへ遊びに行っていて恐ろしい目にあいました。よくぞ今生きていると思います。
この日は朝から空襲のため学校は休みで、よく行く教会へ、その日も遊びに行きました。
佐賀から来たという兵隊さんが、テントで、コウリャン飯と白米飯をたいていました。
肉もありました。
その朝一〇時頃、トラックが来て教会へ弾薬の運びこみがありました。
一一時半頃、「敵機襲来、大島を北上中、B24、数機」の声が聞こえると、すぐアメリカ軍機が油津をこえて鵜戸の方へ飛んだと思うと、すぐ引き返してきました。
今度は低い、こちらの方を向いている。
「テッキライシュウ」の大声。シュルシュルー、爆弾か。
「こどもは早く、かくれろ」
それから先はおぼえていません(あとから聞きました。爆弾のふる中を走って逃げてきたようです)。
気づいたら大人にかこまれていました。
ここは今の油津中学校横の稲荷神社の防空壕でした。教会から三〇〇メートルくらい離れたところです。
「体があちこち痛い。体にささった破片が熱い。腰が一番痛い。足、背中も傷をおい血が流れている」
まわりの大人が三角巾でしばってくれました。
戸板にのせられ、斃れた家や煙の中を、梅ケ浜上町の病院に運びこまれました。
病院は負傷者でいっぱいで、庭のござにいて、包帯をまかれました。
あちこち痛いけど、少し眠ったみたいでした。
しばらくして「お前の父ちゃん、近くにいるよ」とまわりの人がいうので、痛いのをがまんして会いにいくと、病院の庭のござの上にお父さんが寝ていました。
「お父さん、お父さん…。返事がない…。死んでいる」
全身から力がぬけて、すわりこんでしまい、わんわん泣きました。
その頃五時だったことを、おぼえています。
(中略)
地区民二九人、海軍の兵隊さん四人、あわせて三三人の犠牲者が出たと。遊んだあの兵隊さんもいない。その外たくさんの負傷者が出ました。
教会はテニスコートぐらいの荒地になり、深い穴ができていました。
弾薬の連続大爆発があったという。約三五戸あった梅ケ浜下町は、爆弾でやられた黒い柱、かわらや石がとびちり、がれきと化して、それはひどいもんでした。
爆弾は一〇数個落ちたと言われます。
爆弾や弾薬爆発の激しさに、身ぶるいしました。
ぼくのうちのうら山の弾薬倉庫に近い所は、赤い岩がむき出しで、遠くの木はなぎ倒され、根っこが上を向いたりしていました。
今でもわかりません。どうして天理教教会に弾薬があることが分かったんだろう。
ぼくの家族は母子四人となってしまいました」
宮崎県退職教職者連絡協議会編「語りつぐ―ふるさとの太平洋戦争―」より 梅ケ浜被爆体験記(三十三人に祈る) 片衛意文氏の証言

梅が浜3

梅が浜

現在、梅ケ浜の片隅には空襲による死者を弔う「被爆者慰霊碑」が建立されています。

太平洋戦争末期の昭和二十年七月十六日午前十一時三十分頃
数十のアメリカ機が日本軍の弾薬庫となっていた天理教教会を襲ったため 
附近一帯は一瞬のうちに修羅場と化し
地区民二十九名 海軍兵四名が亡くなった
ほか多数の負傷者が出た
平成七年五月七日「梅ケ浜を語ろう会」に集まった当時を知る人びとの間に「被爆者慰霊碑」建設の議が起った
ここに広く浄財を募って空襲の犠牲となり
この地に眠る人びとの霊を慰めるためこの碑を建立する


沖縄を占領した米軍は、九州上陸作戦の準備へ取りかかります。
九州各地の特攻基地でも、臨戦態勢を整えていました。しかし、彼等は出撃することなく8月15日を迎えたのです。

それは終戦を間近に控えた二十年七月二十一日のこと。特攻隊員宿舎近くにあった青木宅に顔見知りで十八歳になる学徒兵2人が訪れた。
「お世話になりました。明日出撃します」
どこに何の任務で出撃するのか学徒兵は語らない。しかし、青木さんは察しがついた。
「いよいよこの若者も死ぬのか」
このとき青木さんはかん詰めの赤飯で出撃を祝った。そして翌日から二人の姿を見ることはなかったのである。
今も青木さんには学徒兵の生死はわからない。また本当に敵を求めて、出撃したのかどうかも不明だ。すべてが軍機密で、憲兵が監視に目を光らせていた時代のひとこまだったからである。
八月十五日終戦。
油津の人々が玉音放送を聴いて半ば放心状態になっているとき、サイドカーがけたたましく町内を回った。
車上で顔を引きつらせた特攻隊員が日本刀を振りかざした。
「日本は敗けやせん。軍は戦うのだ」
若い少尉が叫んだ。
死を覚悟し、冷静そのものだった特攻隊員が初めて見せた動揺だったろうか。このあと基地をのぞいた地元義勇軍情報担当の野崎正雄さんも「デマにまどわされるな」と隊員から日本刀で脅された。
やがて時がたつにつれ隊員も冷静さを取り戻し、それぞれの郷里へ。回天は戦後、進駐した米軍により解体された。
死と隣り合わせの時代は終わった。
そんな中にも特攻隊員と地元娘との間に数組のロマンが咲いた。うち一人は油津にとどまり、幸福な家庭を築いてマグロ船に乗り組んでいる。

宮崎日日新聞社「宮崎の昭和史」より 青木繁氏の証言

こうして、油津の戦争は終わりました。
第3回天隊では、第9回天隊の受け入れ準備のため内海港に派遣された2名が空襲により戦死。
第126震洋隊171名は、幸いにも戦死者なしで復員を果します。

東宝映画「加藤隼戦闘隊」撮影録

Category : 空挺隊員の証言 |

昭和19年3月に公開された東宝映画「加藤隼戦闘隊」。
映画に登場するパレンバン降下作戦のシーンは、「空の神兵」と同じく唐瀬原の塩付降下場で撮影されました。
宮崎県での撮影は、陸軍空挺部隊の全面協力の下でおこなわれます。
エキストラとして降下したのは、新設されて1年余となる挺進第3聯隊及び第4聯隊。
これらの隊員から聴取した撮影前日から降下直前までの心理について、様々な記録が残されています。

川南空挺基地にあった唐瀬原陸軍病院では、空挺隊員の心身両面にわたるデータを大量に収集分析していました。

この年の秋、挺進第3連隊と第4連隊で構成される第2挺進團「高千穂空挺隊」はレイテ島へ出撃。
米軍との戦闘で両連隊とも白井・斉田連隊長以下多数を失うという損害を蒙ります。



映画撮影前日の感想 

跳下前日の跳下を概括的と個別的例証とに區別せむとす。

一、概括
西部一一八部隊(挺進第三聯隊)

自信 15名
1.一回一回自信が増す喜び 2名
2.平常心 5名
3.自信 8名
不安 14名
1.若干の不安 5名
2.着地の心配 1名
3.一年振で氣持が平穏ならず 4名
4.跳下離脱姿勢の心配 1名
5.平気を装ふ氣持 2名
6.前回を想ひ冷汗を覚え 1名
覚悟 16名
1.萬一を懸念して身辺を整理す 1名
2.爾後奉公の影響を慮り事故絶無を期す 1名
3.萬一を懸念して父母友輩に便りを書く 1名
4.決意(思い残すことない) 2名
5.体衣服を潔め母からの御守を身につく 1名
6.やるぞ決意 6名
不快 3名
1.ガソリン臭厭で苦しみ 1名
2.恐ろしい様な厭な様な氣持 1名
3.早く降下して降下前の氣持を抜たい 1名
心の動揺 11名
1.飛行場で発動機の運転音やガソリン臭に心が乱れる 1名
2.第一回の折の感想を忘れ得ず 1名
3.何となく胸が躍動する 3名
4.急な命令に驚愕した 1名
5.降下前に對して楽な気持になりたい 1名
6.人の降下を見ると降下したい自分と決る様な氣持になる 1名
7.延期した時は生き延びた氣持になつた 1名
8.跳下瞬時は名状し難い氣持 1名
9.明日のことのみで頭が一杯 1名
誇り又は喜び・熱意又は緊張 28名
1.挺進兵の意気を現せ 3名
2.栄光ある軍神加藤の映畫に微力ながら協力の出来る喜び 12名
3.雨天続きで気抜 2名
4.雀喜躍動 2名
5.明日を迎ふる喜び 1名
6.映畫として全國民に見られると思と緊張 6名
7.一刻も早く降下したい(待遠しい) 2名
8.立派にやつて映畫として國民に感銘を与えたい 1名
9.挺進兵としての任務感 3名
10.映畫なれば一層立派にせなければならぬ 1名
11.人より降下回数の多くなる喜び 1名
12.跳下したかつたので嬉しい 2名
13.跳下瞬間の矜持を持つ 2名
14.年に一回は降りたかつたので嬉しい 2名
15.挺進兵として跳下し得る事の喜び 3名
16.愉快 4名
其他の感想
1.準備注意を全うし無事終了を待つ 2名
2.天候気流の心配 3名
3.明日は愈々降下の念 5名
4.気にかゝらず 1名
5.元気でやりたい 2名
6.十回は跳びたい 1名
7.久しぶりだ 12名
8.人間的感じを超越した爽快感 5名
9.立派に終了したい 1名
10.又かの思い 1名
11.雨天延期で残念 1名
12.達成せんことを祈る 1名
13.映畫に出るのは莫迦げて居るけれど軍神加藤映畫なる故に思い返して跳下を元気に終らんと思ふ 2名

西部第一一九部隊(挺進第四聯隊)

自信 23名
1.傘は信頼自信満々 15名
2.傘は必開の信念 1名
3.平常の心 5名
4.無感想 2名
不安 15名
1.矢張り傘や姿勢の事が気にかかる 6名
2.跳下する時は人間の氣持はしない 1名
3.胸が一パイになる 1名
4.平気をよそつて居る気だ 2名
5.天候のため日延となるにつれて畳んだ傘が何となく心配になる 2名
6.若干の心配(無事を祈る) 1名
7.降下をしらされてハツと思ふ 1名
8.瞬間的な光景を想起すると一縷の不安を禁じ得ない 1名
覚悟 14名
1.任務の自覚に体が引締る 1名
2.萬一を思い身辺を整理す 1名
3.遺書の事も考へたが今朝になつて止めた 1名
4.成否は天にまかせて 2名
5.腹が定つた 2名
6.陛下の軍人たる自分の回顧 5名
7.降下は決死肉弾突撃の氣持 1名
8.運命感を持つ 1名
動揺・異常 5名
1.日常物事を常より事新く感ず 1名
2.名状し難い氣持がする 1名
3.降下直後及びグン〃降下する時の名状しがたいこわい様な何とも云ひ様のない気持ちを思ひ出す 2名
4.天候の都合で跳下場の上まで来て中止して帰る様なことがなければよい。そんな場合の精神的疲労は茲には語れない 1名
喜び 4名
1.挺進兵たる自覚と誇を新にする 3名
2.跳下出来る幸福感 1名
其の他の感想 16名
1.降下の神聖感 1名
2.久し振りの感 6名
3.明日は跳下だ 1名
4.天候を心配す 4名
5.あの瞬間の姿勢は自分乍ら實に尊いものに思へる 1名
6.訓練事項の一ツ一ツを回想する 1名
7.除隊迄あと一度は降下したかつた 1名
8.只演習の感がする 1名
雑感 3名
1.女の聯想 1名
2.帝國の最精鋭将兵が単に映畫として撮影のため跳下するのは何となく莫迦らしい 1名
3.酒保の甘酒が早く飲みたい 1名

唐瀬原陸軍病院

……第4連隊には正直な人が多いですね。

降下前日の感想・挺進第3連隊員内田某

私は今侘しい電燈の下で明日の降下の事を真検に考へて居る。
あの大空よりあの愛機より吾〃が跳を決して飛出すのだ。
私は今日故郷の父母と世話になつた先輩達に便を出した。降下を明日に控え萬一の事が懸念されるからである。
吾〃の体は本より陛下に捧げまつゝたもの、何處で斃れようと何の悔もない。
唯軍人らしく最期を内の者に傳上たいからだ。
最後になる様な入浴も終つた、ひげもそつた、肌着も褌も全部新しいものと取替た。
窓を開けるとひんやりと冷たい風が流れて来る。
明日は上天気らしい。星が無類にきらめいて居る。
戦友達はもう夢を追つて居る。私は此の間母が頂いて送つてくれた御守をしつかりと身にだきしめながら床に就いた。


挺進第3聯隊員湯本某

強烈な風圧に敢然跳下窓を跳て空中に飛躍する一瞬、この真に挺進兵としての矜持あり。
快哉〃。
只今此の命を受けて勇躍本領を発揮せんが思ふだに、身の緊張を憶えたり。
まざ〃と浮びしは入隊當初の猛烈果敢なる跳下訓練を招来各種跳下に方りての尊き教訓を忘れかや、心に残るもの何もなし。
唯氣魄実行のみ。想此處に致し今日の跳下たるや正に吾にとりて深く肝銘すべき秋なり。
実戦に非ずして参戦準備に邁進感なきを期す所なり。心固まれり。
来たるべき栄ある日に備えて勇飛せん。

挺進第3聯隊員柴田某

我等の任務たる跳下に對し日頃訓練の一端に報ひん。
一線を遙に離れた此地日向にありて来たるべき日を待つて訓練に励む我等は、一線の戦友の様に落日孤城に敢然と第一線を死守する様な強い姿はないにしても、我等の心は勝ともつかることなし。
戦友の區別もない我等は唯情と愛と血の中に育まれ凡に道徳を超越したものに落つけいるのだ。
風粛として易し。壮士一度去つて遷らじか、國民の大なる期待をされて帰る時に益〃此の跳下を他に許されない。
我々のみに与へたるものである。
故に誉として今日の跳下にのぞむ。

挺進第3連隊員奥井某

愈々降下。
余りにもにわかなる命令にて、自分も少しおた〃した。何となく恐しい様ないやな様な氣持がする。
「恐しいイヤだ」と思ふだろうとが実際かざり氣のない所だろう。しかし我々は挺進兵である。挺進兵は呼んで字の通り身を挺すると言ふ事である。
何も恐れることではない。あくまで自分の職務を、いや挺進兵の本分を盡さねばならぬと固く心に誓つた。
自分と言ふ男にかけても是非立派に降下して見せるぞ。
そうして帝國國民に軍神加藤少将閣下の気魄を植え付けなければならない。
別に感想としてもこれ位のものだ。
初めての降下の様に感想がない。

挺進第3聯隊員緒方某

今日は愈々跳下だ。
我我は跳下することに依て戦斗は實施される。
第七回目であるので跳下其のものには馴たが、氣持だけは何時も変た事はないが、ガソリンのいやな臭は自分としても唯一の苦しみを感じるのである。
今日もヤーア!の一声に依り跳下するのだ。


挺進第4聯隊員鳥井某

愈々翌日は跳下だ。
何分地上訓練及び降下には自信あると思つて居るが、なにしろ五百米の高度より降下するのであるから、何分人間の氣持はしないものです。
又傘には絶對自信を持つてヰる。何の氣持も出らない。

挺進第4聯隊員磯田某

明日は又吾等の降下である。
待に待つた降下である。
日本男子として生し来て、これ程嬉しい事はない。又大日本帝國の一員として元気で行こうと心に誓ふ。
傘は絶對に安心だ。信頼して跳出せるぞ。
今迄の體験で自信がある。
自分達はもう一人前の落下傘兵であるといふ事を深く思ひ込んで忘れない。


挺進第4聯隊栗原某

愈々跳下は目前に迫つて居る。
幾分の不安はあるけれども傘と自分の心身を信じてゐる自分である。
出来るなら美しい姿勢で跳びたいものと願つてゐる。
あの瞬間の姿は自分ながらも尊いものに思へる。天のみが知る我々の運命である。
我々は信じきつた姿で跳べばよいのである。
大后に捧げた命、何悔ゆることがあらう。
忠に生き忠に死すのが最大の願ひなのである。
空よ地よ美しくあれ。

挺進第4聯隊員粟妻某

或る朝の事である。
聯隊長殿より降下するとの通知あり。其の直後は自分も長く降下を止めて居た為気が引さがりましたが、一度降下する事に腹が定まると別に通り過ぎし事を返す事にて心配する事余り少く、明日降下するのに此まで落ついていいのか其の事にかへつて心配する程である。
傘には必開の心念もある為めであろう。

挺進第4聯隊員入田某

再び降下が来た。
数回に経験を持つ自分なれど矢張り人間共通の感情はまぬがれない。
開傘は自分も承知なれど、過去にあの瞬間的な光景を想起すると一縷の不安も禁ずるを得ない。
但しこうした氣持に依り降下の時機をおくれたり、ちゆうちよする様な事は絶對ない。こうした氣持は己が輸送機に搭乗する時すでに一掃されたのが今迄の持つ経験である。
唯、人も真に感情を吐露するならば金言美句しないこと。

挺進第4聯隊員吉野某

降下訓練の済で早一年余月。
降下演習をやらない當時、人の降下を見た時俺も降下したいと思ひついた時。
本當に明日は降下なのだ、傘は信じて居る。
あの降下直前の氣持も有り〃と思ひ出されるが離脱してからの傘が開いて降りて来る時の氣持は誰に知れ様。
我々のみが飛び出す時の氣持、こはいといをうか、何とも地上に着く間の氣持其の味を知るものはきつと落下傘兵のみであらう。



さてその翌日、降下直前の感想を。
前日と違って第4聯隊は除外。
降下直前の感想もいずれも短いものなので、一緒に掲載しておきます


飛行機搭乗直前の感想

飛行機搭乗時間前に新田原飛行場に於て跳下準備の一切出来た挺進兵についてその時の感想をその場で記述せしむると、
不安動揺大なる者は三二、〇九%、喜び熱意緊張覚悟の感想は二四、五%である。
今それを概括的表と例証として示す。

西部第一一八部隊

自信  七名 八.六四%
・挺進兵の意気の自覚・自負 四名
・断行の意気旺盛 一名
・自信 二名

不安動揺に大 六名 三二.〇九%
・どうでもなれの一瞬 一名
・どうでもなれの緊張感 一名
・跳下直前の事が脳裏に浮ぶ 一名
・この位のことと思へど中々容易ならず 一名
・時間を待つのが厭になる 一名
・飛行機上下の心配 一名
・願つては降下したくない 一名
・跳下接迫を負に感ず 一名
・エンヂンの音により跳下を想起すると心がみだれる 一名
・落ちつかず 一名
・無事に終りたい 三名
・早く終りたい 三名
・胸の動悸が高まる 二名
・気持ちが幾らか変る 一名
・死生感を覚え、何となく氣持が悪い 一名
・飛行場に来ると若干腰が痛み小便が多くなる 一名
・待機時間が長くて待遠しい 三名
エンヂンの音で跳下直前が思はれる  不明

覚悟 一四名 一七.二八%
・元気に跳下せん 七名
・立派に終りたい 一名
・任務感 一名
・目的を遺憾なく発揮せん 一名
・旺盛なる気魄を以て遂行せん 三名
・大君の為なり 一名

判読不能  名 %
・快味を思ふ愉快さ 一名
・総て国を想ふ心より 一名
・久方振りで嬉しい 二名
・国民に観られると元気が溢れる 一名
・待ち兼ねた跳下だ 一名
・軍神映画参加の光栄感 二名
・張切つて終らん 四名
・晴天に嬉しく思ふ 二名

他の感想 十七名 一〇.九八%
・平常と異ならず 五名
・無感想 一名
・場内のガソリンの臭が厭だ 一名 
・何くそと云ひたい・元気でやりたい 一名
・気流の心配 二名
・搭乗を待つのみ 二名

雑感 三名 三七.〇三%
・後三十分だ 一名
・只跳べばよいのだ 一名
・離脱着地姿勢が良好でありたい 一名
・今迄にない落付いた氣持 一名
・傘の操縦空中間の意識をしつかりして見よう 一名
・日向ぼつこをしながら搭乗を待つ 一名
・前回と飛行場の風景が変化した 一名
・映画の為ならず軍神加藤の活躍を生さんためなり 一名


村上某
跳下を直前にして只無事に任務の完遂を思ふ。

竹内某
跳下直前の事が脳裏に浮んで来る。其の他は平常通り。

竹久某
過去の自信を以て元気に終らんと思ふ。

原田某
吾が誇りとする。又も跳下時機到来、大地を眼下に見下し快気を味ふと思ふと、愉快でならない。
我が先輩の活躍振りを生すも皆我の双肩にあり、だ。

姫野某
後何程もなく降下決定せねばならぬ。氣持は平常と変りなく、異常に落付いて居る様な気もするが、緊張せざるを得ない。
どうにもなれ。
唯、降下を断行せんとの意気旺盛なり。

柏原某
跳下を前にして搭乗の時間を待つばかり。氣持は平常と変りなし。

高橋某
跳下の接迫せしを身に感じ、発動機関の廻転音を聴くに何となく過し、跳下を想起すると何分心の乱れを来たす。
然し今日の跳下も傘に信頼し、之の気で行ふ。
張切つて居る。
今日の跳下へ何等の懸念することなく、平常の氣持ちと変りなし。

?坪某(一字判読不能)
愈々目指す新田原飛行場に来たる。昨日迄の雨模様はすつかり晴れて、絶好の跳下日和だ。今迄にない落付いた氣持ちだ。
今日はいやなガソリンのにほいもない。格納庫前で日向ぼつこをしながら搭乗を待つ。

武井某
出発直前隊将校より大胆にしかも細心の注意を以て元気にやつてこいといわれた。搭乗機より飛び出る時はただ大君の為にやるぞそれのみである。

早坂某
今日の跳下は五回目だが、何等心の変りは前の跳下と同じである。只跳下時は父母兄弟又郷里を忘れ、任務を完遂するのみ。

森国某
唯元気一ぱいで飛降りるだけの心境なり。飛行場に来て身振りの降下同じ氣持である。

印刷劣化で判読不能
何ヶ月振りの跳下演習に於て、訓練當時が思ひ出される。我には死生をちやうえつしたりといへども、やはり生をうけている以上、なんだか氣持ちの悪い様に思はれる。

大西某
心境には特別なる変化なけれども、約十ヶ月目の跳下故、左記事項(※唐瀬陸軍病院によるアンケート)に就き感想を得。
離脱時の姿勢良好なりや、着地動作良好なりや。

石?某(一字判読不能)
絶好の跳下日和、隼の援護とは心強き限り。元気で跳ぶぞ。

小林博某
三日延期の跳下も今日は来る。一年振りの跳下だが別に感ずることなし。只雨天後の今日のことなれば、飛行中の上下の移動なきや否やを心配するのみ。

岩井某
ナニクソと言ひたひ様な元気で跳下してみたいと思ふ。

緒方某
何回跳下するも飛行場に来るとガソリンの強い臭気が急にいやになる。跳下そのものは別にどういふ起らないが、平常に比べると氣持ちは普通に変る。

唐瀬原陸軍病院

海軍富高飛行場(宮崎県日向市財光寺)

Category : 日向市の戦跡 |

突如としてグワラグワラガラガラッと凄い低空らしい爆音に異常なものを感じ、壕から怖々と顔を出して見ると今屋根から屋根の上空100メートル位を黒煙を噴きながら一機の双発機が南東へ去っていく。
思わず「やられている!」「友軍機だ!!」と叫ぶ。
機体の日の丸が目に焼きつき、午後の太陽が尾を引く一筋の太い煙を焦げ茶に染めて、愛宕山上方をすれすれによぎって消えた。
やがて10分も飛行すれば富高の海軍航空隊の基地がある。
「落ちるなよ。もうすぐだ。ガンバレ!」と心で祈るのだった。


渡木真之著「我が故郷に戦火燃ゆ」より 昭和20年3月18日、延岡市上空での空中戦目撃談

富高
富高飛行場司令部の門柱跡。

富高

富高
この門柱は、現在も富島中学校の校門として保存されています

現在の街並みからは想像も出来ませんが、戦時中の日向市には海軍の飛行場がありました。

海軍呉鎮守府による富高海軍飛行場の建設が始まったのは、昭和4年4月のこと。
用地買収は宮崎県への委託でおこなわれ、まず24万㎡、2回目に約53万㎡、3回目の買収により132万㎡まで用地を拡大。
拡張工事は昭和10年まで続きます。
当初は常駐の飛行隊など無く、管理人が置かれた程度でした。近くで艦載機の演習や訓練がある時だけ飛行隊が間借りする形をとっていたそうです。

昭和16年10月、富高飛行場に連合艦隊空母「赤城」「加賀」艦載の99式艦上爆撃機が集結。沖合にある岩礁「トドロバエ」などを標的とした急降下爆撃訓練を開始しました。
その訓練の意味はやがて判明します。彼等は、真珠湾攻撃を想定した訓練をおこなっていたのでした。

昭和18年から飛行場の規模は更に拡大され、昭和19年4月には築城航空隊富高分遣隊として赤トンボが飛び立つ訓練部隊へ改編。予科練の少年航空兵300名が配置されました。
7月からは勤労学生を動員して掩体壕の建設がスタートし、11月には岡村徳長中佐を長とする富髙航空隊が発足しました。
戦争末期の昭和20年になると零戦隊が集結、富高飛行場は特攻作戦の中継拠点へと変貌します。

昭和二十年三月、当時の県立富高農学校の入学試験の日でありました。
学校の上空をバリバリと轟音を響かせて零戦が編隊で飛行していました。財光寺からお倉ケ浜にかけて海軍の飛行場が在ったのです。
低空飛行の零戦の勇姿は頼もしく見えてなりませんでした。
四月六日が入学式で、翌七日に父は召集で都城連隊に入営しました。この日農学校の運動場から見えた父の乗っている下列車の汽笛と黒い煙を今でも覚えています。

盛武義美氏「戦後五十年に思う」より

神風

神風2

神風3

神風4
向洋会協和病院敷地内に建立された特攻隊慰霊碑。

爆撃

爆撃2
富高飛行場が爆撃された際、地面に残された爆発孔。

昭和20年3月18日早朝、南九州各地に突如として米軍艦載機の大編隊が襲来します。
襲撃を受けた新田原飛行場が県内の飛行場へ警報を発した時は既に遅く、赤江、都城西、富高飛行場にも敵機が殺到していました。
「本土決戦に備えて戦力温存」の命令によって県内各飛行場が戦闘機を隠す中、富高飛行場からは第721航空隊戦闘307飛行隊の64機が迎撃に飛び立ちました。
307飛行隊は、高鍋から延岡にかけた空域で米軍機と激しい空中戦を展開します。
この日、米軍が4機、冨髙航空隊も多数を喪失。
翌日にも百機近い米軍機が襲来、富高の飛行隊は再び迎撃し、双方あわせて20機以上の損害を出しました。

沖縄侵攻への露払いとして始まった九州沖航空戦により、宮崎県内の航空隊は(草原と見間違えられた)都城東および北飛行場を除いて大打撃を受けます。
沖縄戦の勝敗が決する頃から米軍はB29戦略爆撃機を投入、宮崎県の各飛行場へ凄まじい爆撃を加えました。
袋叩きに遭った赤江、新田原、唐瀬原、富高、都城西の各飛行場は、迎撃機の温存どころか機能停止に追い込まれます。

孤軍奮闘するも、緒戦で力尽きた富高の307飛行隊は特攻隊護衛任務のため鹿児島へと去っていきます。
防空戦力を失った冨髙飛行場は、鹿屋基地への移動を待つ特攻隊の中継地点と化しました。
※誤解されやすいのですが、富高から特攻機が直接出撃した訳ではありません。

宮崎の空は米軍が支配するようになり、市街地は為す術もなく焼失していきました。
米軍上陸に備え、県内には陸軍3個師団が送り込まれたものの、梅雨時の悪天候と資材不足で陣地構築は停滞。延岡~串間までの沿岸に展開する特攻艇や人間魚雷部隊も、空襲を避けてトンネルに潜むしかありません。
大本営の本土決戦計画など机上の空論。二転三転する防衛計画のためベトンで固めた砲兵陣地も完成が遅れ、立てこもる地下壕掘りに兵力が注ぎ込まれます。宮崎県警本部に丸投げされた住民避難計画も、敗戦1ヵ月前に県内各自治体へ通達される有様でした。
これが「本土決戦の最前線」である宮崎の現実だったのです。

雨の朝でも空襲はありました。
学校と飛行場は塩見川を挟んで二kmぐらいしか離れていないのに、良くも正確に投下できるものだと変に感心もしていました。
雨曇りの上空を旋回するB29の独特のエンジン音がうなる様に聞こえる間に、ザーザーと大雨の様な音がしたかと思っていると
ズドドドン、バババンと強烈な爆弾が炸裂し、ユサッと地揺れがあり、砂がパラパラと落ちる。
やはり爆撃は恐ろしいものでありました。
ようやく学校に慣れてきた五月頃の晴れた日でした。
西畑の農場に実習に出ていると、細島の上空を低い機影が数機、キラキラと門川の方に飛んで行った様に思っていました。
味方機かとも思えたのでした。
ところが突如北の方からグラマンが襲いかかってきたのです。
バリバリ、ダダダダと機銃掃射を浴びせてきました。誰かの指図で杉と孟宗竹の山中に逃げ込んで、杉の木を盾にかくれていると又やってくる。杉の枝がボキッと折れ、竹にカチッカチッと弾が当たりました。
両主翼の先が角ばっているグラマン機と、搭乗兵の姿を横に見たのでありました。
近くに海軍の兵たん壕があったので、おそらく私達は海軍兵と間違われたのであります。だが学校もやられ、機銃弾がたくさん落ちていました。
また青空にくっきりとB29の編隊が西の方向に横切って行く下を、ミカン山の裏に全生徒が避難したことがありました。
空襲警報解除のあと山を降りる頃、飛行場の周辺からボンと音がしては黒煙が上っていました。
時限爆弾が破裂していたのです。
富高の海軍航空隊は特攻基地になっているとの噂でありました。同期の桜の軍歌の一節に、同じ神雷の庭に咲くと云う風に私達も歌っていた記憶があります。
上り汽車の帰り時刻は午後五時四十分でした。
ホームに男子生徒だけ並ばされ、先輩の説教を毎日の様に聞かされていました。
そんな折に、上空を赤トンボ(※練習機)に乗った特攻兵が白いマフラーをなびかせて旋回し、飛び立って行く光景が幾度かありました。
鹿屋の基地を経て、南海に還らぬ出陣をされたのに相違ありません。

盛武義美氏「戦後五十年に思う」より

やがて8月15日を迎え、日本は降伏。幸いにも九州の地上戦は回避されました。
もしも本土決戦がおこなわれたら、沖縄戦の惨状がこの地でも展開された筈です。
沿岸部の陸軍師団は空襲と艦砲射撃で壊滅、大量の避難民を巻き込んだ山間部への撤退戦が演じられたことでしょう。

死を覚悟していた冨髙の特攻隊員達にも、やがて復員命令が出されました。その心境は複雑だった筈。
終戦時の冨高飛行場の様子が記録されています。

終戦の翌日、旭化成に動員されていた私達は、延岡市から宮崎市まで徒歩で帰校する事となった。国道十号線も未だ砂利道で、真夏の太陽の下、ほこりまみれの行軍で、時間がたつにつれ隊列は乱れ、他校の学徒や、女子挺身隊も加わって、無気力に只歩を運ぶだけと云った状態だった。
ちょうど昼頃に富高(現日向市)に着き、小学校の校庭の木蔭で久し振りの白い握り飯をただき、生き返るおもいがした。こちらにおられた先輩方の御厚意であった様だった。
折しも財光寺にあった海軍飛行場では、敗戦の情報に反抗するかの如く戦闘機が垂直に急降下をくり返していた。耳をつんざく様なその金属音が敗戦のむなしさと悲しみを感じさせたのを記憶している。
ほこりと汗にまみれながら、無言で歩いているうちに、佐土原(?)で夜となった。広いお寺のお堂の中で、全員ゴロ寝をした様な記憶がある。
翌朝、又歩くのかと思っていたら、なつかしい宮交のバスが迎えに来ており、宮崎まで送ってくれるとの事。万歳と云った想いであった。今考えると大先輩の故岩切章太郎氏(※宮崎交通グループ創業者)の御厚意であったと思われる

「八月十五日前後」より 渡辺三郎氏の証言

価値観を180度変えた戦後日本に対し、生き残った特攻隊員の心は荒れました。彼等は「特攻崩れ」と呼ばれるようになります。
宮崎の学校でも、復学した少年特攻兵が授業に乱入。後輩たちへの狼藉行為に及んだという証言が残されています。
かつて彼等に軍国教育を施した教師たちは、黙ってそれに耐えるしかありませんでした。



敗戦により、日向・延岡方面に備蓄されていた砲弾類は細島へと集められ、警察の管理下で沖合へと投棄されます。あまりの多さに、爆破処分する余裕が無かったのでしょう。
細島や梶木に展開していた特攻艇は延岡の海岸に集められ、直後の枕崎台風によって海の藻屑と消えました。

戦後、日向市は復興に向けて動き始めます。富高飛行場も解体され、軍用地も民間へと開放されました。
住宅地となった現在では、ごく僅かな飛行場の痕跡だけが残されています。

滑走路跡

滑走路跡2

協和記念病院の駐車場に残る当時の駐機場滑走路跡。
これら戦時遺構は、昭和32年に同病院が置かれた時から保存措置がとられています。
昭和52年、初代理事長である掘彰夫氏(学徒動員で同飛行場の建設に参加)の厚意によって記念碑などを追加、末永く伝えてゆく事が決定されました。

富高4

富高3

富高2

富高1

塩見川にかかる大瀛橋(たいえいばし)の袂、しらさぎ公園に展示してある軍用機のプロペラ。
日本海軍のものではなく、海上自衛隊が寄贈したKM-2練習機のプロペラです。傾いた写真しか撮れないのか俺は。

富高飛行場の滑走路や格納庫は塩見川の南岸に、兵舎群は北岸に設置されており、海軍将兵は大瀛橋を渡って飛行場へ通っていました。
当時の大瀛橋は木造だったそうです。

富高
現在の大瀛橋

富高
しらさぎ公園の対岸より。煙突のあたりにかけて滑走路がありました

お倉ヶ浜

トドロバエ

お倉が浜(小倉ヶ浜)海水浴場、塩見川河口沖に浮かぶ岩礁「トドロバエ」。
戦時中、富高の飛行隊はこの岩を目標に対艦攻撃訓練をしていたと伝えられています。

富高5

小倉ヶ浜有料道路の料金所脇にも記念碑が建っています。こちらは海側へ離陸する滑走路が設置されていました。
有料道路を進んだ先にある細島港には、戦争末期に回天特殊潜航艇と震洋特攻艇の部隊が展開。
米艦隊の九州接近に備え、夜間突入訓練を繰返していました。

富高6

富高7

富高8

日向市往還地区には掩体壕も残されていたのですが、道路拡張工事で一部(というか破片ですね)を残して撤去されてしまいました。
記念プレート脇にある、コンクリート製の物体が掩体壕のカケラです。

まあ、掩体壕など古くて何の役にも立たない物体に過ぎません。道路建設で生活も便利になりましたし、やむを得ない措置なのでしょう。
日向市の貴重な歴史遺産がひとつ消えただけの話です。二度と取り戻すことはできませんけどね。

我が国は、近代化遺産や戦跡の價値を軽視する向きがあります。保存するお金も足りませんし。
宮崎も歴史を強調した観光PRをしていますが、地域の遺構を破壊しておいて観光資源の確保もヘッタクレもないと思うのですが。

富高飛行場の遺構は破壊されてしまいましたが、せめて、赤江飛行場と新田原飛行場の掩体壕11基は後世に伝えていただきたいです。
それが特攻の地・宮崎としての責任なのですから。


陸軍都城北飛行場(宮崎県都城市野々美谷町)

Category : 都城市の戦跡 |

森田原ハ田アリ畑アリ農村唯一ノ恵沢ノ地タリ
偶大東亜戦争トナリ此地モ亦守備陣営ノ枢地トナリ
亀沢村長ノ時空軍基地ニ採用 農民ノ楽土ハ一瞬ニシテ飛行場ノ使命ノ許ニ地
均埋立滑走路砂利敷兵舎等設備サレ 農地ノ望絶チ殖産ノ光ヲ失フ
斯テ昭和廿年終戦トナリ 一切ノ軍用施設ハ解除サレ官有地モ亦民有ニ返還愁眉ヲ開ク
此ニ於テ村長地主ヲ集メ 復旧対策トシテ耕地整理組合法ニ基キ区画ヲ整理シ
井然タル農道ヲ作製シ農地配分ヲナスノ利ヲ説キ
一同大ニ賛シ直ニ委員選定ヲナシ組合長ニ堀之内助利氏当選シ
外別表ノ役職員ヲ設ケ事務員技術者ノ専任ヲシテ実施ノ運トナリシモ
茲ニ事業面ニ大ナル癌ニ遭遇シタリ

北飛行場跡 耕地整理記念碑より 碑文の一部

都城北飛行場

戦争末期、特攻隊の出撃拠点・本土防衛戦の前線基地となった宮崎県都城市。
交通の要衝である都城盆地は古くから北郷氏(都城島津氏)の領地となっており、幾つかの城址も点在しています。いつぞや、「島津発祥の地」を巡ってNHKと都城市が喧嘩したこともありましたね。
明治時代は西南戦争に巻き込まれ、そして昭和の戦争では陸海軍の軍事拠点と化しました。

霧島
森田原から眺める霧島連山。美しい姿の山ですが、2011年には画面奥の新燃岳が大噴火。
一年前は、この辺一帯も降灰で砂浜みたいになっていました。

戦時中、都城市には3つもの飛行場が押し込まれるように建設されていました。
現在はいちいち宮崎空港か鹿児島空港まで行かなければならないのに、昔は便利だったんですねえ。
……などという呑気な状況ではなく、これらの飛行場は米軍に対抗する特攻基地と化しました。
鹿児島・志布志湾・宮崎沿岸部と三方面に対応できる地理的条件から、都城が建設地に選ばれたのでしょう。

都城市の谷頭に「北飛行場」が建設されたのは昭和19年のことでした。

陸軍は陸軍に、海軍は海軍に、それぞれの輸送打合をいたして少しでも早く輸送が出来る様に斗った。
八の日が大詔奉戴日となって居て戦に勝つため献身奉国の実を誓った私達輸送人は、殊の外はりきって朝は暗い中より夜の入るまで輸送に励んだ。
発着の貨物が非常に多く、青年学校の生徒さん達も上級生は学徒動員のため下級生だけ。なれぬ作業に無理があり、殊にせっかく協力いたして下さる各報国隊の人達も女の人が多くて能率も半減いたしました。輸送協議会、軍用会等々警察の階上や役場やその他にて厳しく会議などが重なって、実績を実績をと云ふうちに昭和十九年も早半ば過ぎとなった。
はりきった心は暑さも寒さもなんのその、明けても暮れても輸送作業で追はれている。
鹿屋にも飛行場はあるが、軍部ではどうしても飛行場が不足すると云ふので、谷頭の平野に飛行場が出来る事になり、附近の各町村より奉仕隊が徴発された。
九月に入り小林町(現在の小林市)も又各部落毎に作業を奉仕する事になり、朝は早くより貨物列車に乗って行く人達も又一億一心勝利のための奉仕である。

橋口与蔵氏 「終戦直前の輸送」より

丸野小
森田原の丸野小近辺。北飛行場があった場所です。

そして、この隣接する3飛行場はそれぞれ全く違う運命を辿る事となります。

昭和20年3月18日早朝。
陸軍新田原飛行場から緊急通信が発せられ始めました。
都城西飛行場が電文の内容を問い合わせている間に、新田原飛行場を襲撃した米軍機は赤江・富高の海軍飛行場、そして内陸部の都城西飛行場へ殺到。各飛行場は凄まじい爆撃に晒されます。
沖縄侵攻への露払いとして、米軍は南九州の航空基地を奇襲攻撃したのでした。
この日以降、都城西飛行場は徹底的に空襲で叩かれ、遂に航空基地としての機能を停止します。

都城西飛行場と違い、都城東飛行場は全く攻撃を受けませんでした。
おそらく草原と見間違えられたのだと思われますが、こうして東飛行場は航空特攻の拠点となります。
東飛行場からは振武隊の特攻機が次々と飛び立ち、敵艦へ向けて突入して行きました。

同時期には、北飛行場にも特攻隊が展開します。
それが第95および第96振武隊。
名前は勇ましいこの部隊ですが、彼らが受領した「特攻機」はとんでもない機体でした。

昭和二〇年二月下旬、筆者は温井戸里の第十九教飛で特攻要員に指名された(少年十五期主体)。
四月十三日付で第六航軍に転属となり、特攻隊二ケ隊(二四名)が編成され、第九五および第九六振武隊と命名された。
隊員は飛行機受領の為に五月帰国、母校熊谷飛行学校で暗緑色に塗装された九五中練を受領、後部座席にドラム缶一本が搭載された改造機であった。
搭乗員として初めて与えられた愛機であったが、喜びと失望が相半ばした。
大空に憧れて始めて乗ったのがこの九五中練で、而もそれを操って出撃することになるとは感慨無量であった。
愛機の整備点検も終へ岡山飛行場に転進。此処での訓練は主として洋上に於ける実戦さながらの超低空水平攻撃、また児島湾内の漁船を仮想敵に見立てての体当たり等を約一ヶ月間行ない、七月下旬岡山を後に都城に向け出発。
瀬戸内海洋上を二四機編隊、翼を連ねて意気揚々途中防府で給油、豊後水道、日豊海岸沿いに飛び、宮崎市上空を経て都城上空に到着。
東西両飛行場の滑走路が視野に入って来た。
我々は都城北飛行場を捜し求めて旋廻を繰返し、北方の畑の中に村道を拡張して偽装された一本の急造滑走路を発見、これが北飛行場の滑走路であることを確認、全無事着陸、直ちに滑走路から南北に出る数本の砂利道誘導路を通り、囃子の中の掩体壕或は農家周辺の繁みに迷彩して格納を終え、林中に散在する三角兵舎に入った。

牧外吉「鎮魂」より 都城市史掲載

陸軍北飛行場

彼らに与えられた特攻機は、陸軍95式1型練習機。つまり、「赤トンボ」と呼ばれた訓練用の複葉機でした。
最新鋭の航空機と針ネズミのような対空火器で武装した米艦隊に対し、木の葉の様な練習機で立向えというのです。
無謀を通り越して呆れるしかない話ですが、これが戦争末期の現実でした。
しかし、北飛行場の特攻隊員達は粛々とこの現実を受け入れます。
南を眺めれば西飛行場はB29の猛爆撃を受け、目と鼻の先にある東飛行場からは続々と特攻機が飛び立って行く。
北飛行場では、「次は自分達の番だ」と覚悟を決めていたのでしょう。

八月になって基地上空はグラマンの跳梁が激しくなり、我々の飛行訓練も一、二回日南海岸の地形偵察飛行をしただけで中断され、来る日も来る日も待機が日課となり、次第に三角兵舎には重苦しさが漂い始め、互いの口数も徐々に減り、間近に迫り来る死の恐怖を肌で感じながら、遺書を認めたり私物の整理が続いた。
都城市史掲載 牧外吉「鎮魂」より 

森田原1
森田原2
森田原を横切る送電線鉄塔。1600メートルに及ぶ北飛行場のX状滑走路も、これと並行する場所に設置されていました。

しかし、幸いなことに北飛行場から特攻機は飛び立ちませんでした。
出撃待機状態のまま、8月15日を迎えたのです。

【戦後の北飛行場】

戦後、北飛行場の滑走路は農地として解放されました。
現在の谷頭駅東側に広がる「森田原」がソレです。今ではのどかな耕作地が広がっており、当時の面影などありません。
農道の片隅に立てられた小さな案内板だけが、かつてこの場所が特攻基地だったことを伝えています。

開墾碑
丸野耕地整理組合による記念碑。森田原開墾の歴史が刻まれており、北飛行場についても触れられています。

開墾碑2

開墾碑3

そういう訳で、都城北飛行場の痕跡を探すことは不可能。完全に消滅してしまったのです。
木脇飛行場みたいにトーチカか何か残ってないかなー、と思ってウロウロしていたら……
古墳1
こんなのとか

古墳2
こんな物体を発見。
おお!掩体壕かもしれない……と思ったら古墳でした。
宮崎県は沿岸部に大小無数の古墳が存在しますが、こんな内陸部にもあったんですねえ。
そういえば、陸軍新田原飛行場建設の際も遺跡保存が問題になったそうですけれど。

そういう訳で、当時を偲ばせるものは記念碑と案内板だけです。
都城北飛行場
陸軍北飛行場2

現在の平和な農村風景こそが、高千穂の峰を望むこの地に相応しい姿。
しかし、かつて複葉機による特攻を命じられた若者たちが待機を続けていた事だけは、長く記憶に留めておきたいものです。

高千穂
この日は高千穂の峰も冠雪していました。
雨と火山灰しか降らないと思われている九州南部にも、ごく偶には雪が降るんですよ。


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