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空挺給水塔 其の11 唐瀬原にて

Category : 第十一部・戦後の空挺史 |

その昔、営外駈歩で顎を出したであろう、垂門の長い坂道を登りながらふりかへりみれば、同じ距離で隔てた自動車の縦列が、白い砂塵をあげながら続く。
その白塵の両側後方はるかに廣がる唐瀬原の高台狭しと、かつて落下傘部隊、七つの新しい兵営の存在を、誇らかに表徴するかのように天空に聳え立っていたあの懐しい特異な形の七つの給水塔も、十年の流れと共に、たびたびの金ヘンの波にゆり崩されて、年々その姿を消して、今では旧挺進第三連隊兵営、現在の国立川南療養所のたった一つの給水塔となり、孤高清節を保ち、淋しさに堪へ、世俗の外に超然と聳えながらも、有情!無情!たった今断腸の訣別を惜んだ霊堂に溢れる情感に共鳴したのであろうか。
日の丸の大旗と共に永えに英霊諸士を見送るかのやうである。
神武御東征後今日に至るまで厳然として、七つの海を越え來る潮風をうけ、立ちつゞける高千穂の神峯を胸にえがきながら、
給水塔よ、永久に栄あれと祈ったのである。


第1挺進集団第1挺進団長 中村勇 「英霊遷座に侍ろうの記」より 昭和32年

陸軍落下傘部隊
川南町PR用の看板。落下傘部隊のことも記載されています。

(第10部からの続き)

昭和20年夏。
第1挺進集団は飢餓地獄のフィリピンで死闘を続け、第2剣部隊や烈號部隊は特攻作戦の準備を済ませ、挺進第2聯隊は川南で米軍上陸に備えていました。

そして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。
国家の総力を挙げた戦いは、無惨な敗けという結果に終わります。

【敗戦の日】

日本が敗北した日のこと。
川南の挺進團司令部では「重大放送あり」との連絡を受けて挺進神社前に拡声器3台を設置、玉音放送に備えました。
しかし、電波妨害で受信状態が悪かったせいか放送内容は殆んど聴き取れず、中村挺進団長も「ソ連の参戦があっても我に神州不滅の信念さえあれば、そしてこの挺進神社の英霊に続かんとする意志変らざる限り必ず勝つ!」と訓示してその場は解散となります。

8月15日に意気軒昂だったのは軍部だけ。その姿を、宮崎県の幹部は空しく眺めていました。
実は前の晩、県庁には敗戦の決定が伝えられていたのです。
「常会は徴古会館前の広場で、午前十時ごろからはじまった。長友久八警察部刑事課長はこの日の朝、ラジオが予告した「正午の重大放送」が気がかりだった。
常会では樋口(陸軍第156師団長)の勇ましい演説が長々と続く。
「いよいよ、決戦だ。国民義勇隊を招集する。戦力増強に役立つものは全部、回収する」。訓示はいつ果てるともわからない。
たまりかねた谷口(宮崎県知事)は、演説中の樋口に何か耳打ちした。
中将の顔は一瞬青ざめたようだった。
十四日夜、“終戦”のしらせが内務省から県特高課へ暗号電報で入った。これを知っていたのは軍電報員、特高課長、警察部長、知事の四人だった(長友氏の証言より)」

玉音放送の真意を知った各師団では、大混乱が始まります。
徹底抗戦を叫ぶ者、責任を取って自決を図る者、軍需物資を奪って姿を消す者、故郷を目指す者、ただ呆然と立ちすくむ者。
滑空挺進隊の山本春一少佐から停戦受諾との電話連絡を受けた中村挺進団長の元に、「第1挺進団長は速やかに総軍司令部に出頭すべし」との航空総軍指令が届いたのは22時過ぎのこと。

翌朝、中村挺進団長は唐瀬原飛行場を出発。市ヶ谷にて13時より開催された会合で、河辺正三郎大将らと敗戦処理が話し合われました。
その場に於いて、総軍司令官より
一、神州不滅の信念に徹し隠忍持久、百難を克服して國體の護持に邁進すること。
一、粛然として統制のある皇軍の特色を発揮し、堅確なる軍人精神を飽迄堅持して良民たるの基調たらしむること。
一、努めて農に帰し、一致團結永く皇國再興の基盤たらしむること。
の3つが示されます。

総参謀長からの通達は重要書類・物資の焼却と軍需資材の民需転換でした。

一、書類の整理
残地書類は死没者のみとし命令下達上必要最小限とすること。兵器保管原簿は焼却し、軍需資材の民間への転換メモは確實に。
職員長兵器、暗号書類の焼却は確實に。
二、人員の整理
下士官兵の除隊は即時在営人員の一割を目途とし、農業出身者で増産適任者を優先すること。除隊者の給与は金銭従来の通りとし、夏冬被服は一揃、毛布一、糧秣十日分以内、日用品若干、特に不軍紀を戒む。
三、通信連絡
概ね現在通りとし、つとめて有線電話を利用、防諜に努め暗号書は現用最小限を残置し他は確實に焼却すること。
四、資材関係
五、(空欄)
六、諸施設
破壊焼却せず。現在実施中の工事は直ちに中止す。秘匿飛行場はそのまゝ民間に返還す。空地は民間関係へ。


16日には各都道府県へ軍需物資の移管命令が出され、宮崎県庁の佐藤経済部長と都城署の黒田次席は鹿児島県境にある第五七軍司令部へ向かいます。

「終戦の詔勅を聞いてまる一日しかたっていない。軍司令部の参謀たちは、まだ目を真ツ赤に泣きはらし、気もたっていた。
「お前たちはトラの威をかりて物資をもらいにきたのか……」
佐藤は、もう軍をおそれなかった。「戦争は終わった。長い耐乏生活で、県民は物資の不足にあえいでいる。何とかご配慮を……」
ていねいなことば使いに、きびしさをこもらせた。
しばらく気まずい沈黙のときが流れた。それをうち破ったのがテンビン棒で一升ビンと魚をかつぎ込んだ桜井菊池師団長。
「やー、みんなごくろうであった―。まあ一ぱい」
桜井中将のねぎらいの酒。しらけた座に、やがてうつろな笑い声もまじった」

桜井徳太郎少将のお蔭で、宮崎県側への軍需物資移管は承認されます。
酒を持ち込んだのは仲裁のための演技であって、当の桜井師団長も戦後処理に頭を悩ませていました。彼が指揮する第212師団でも復員兵による物資の略奪や横流しは頻発しており、一部の指揮官は自決を図って制止されるなど大混乱に陥っています。

この時点での陸軍空挺部隊は下記のような状況にありました。
挺進第1聯隊は、20年4月から千葉県横芝へ移動(千歳の剣號部隊を除く)。
挺進第2聯隊は、オリンピック作戦に備えて挺進司令部と共に川南空挺基地に残留。
挺進第3及び第4聯隊は、多大な犠牲を払いながらフィリピンの各地に展開中。
滑空歩兵第1聯隊の残余は、第23師団及び挺進工兵隊と共にルソン島で戦闘中。
滑空歩兵第2聯隊は、挺進通信隊、挺進機関砲隊と共に戦闘後、ピナツボ山中に籠城中。
第1挺進戦車隊は、オリンピック作戦に備えて宮崎県都城市近郊へ展開中(福生の烈號部隊を除く)。
第1挺進機関砲隊は、クラーク防衛の末全滅。
第1挺進工兵隊残余は、滑空歩兵第1聯隊戸田中隊と共に第58旅団指揮下に入り、米軍と戦闘中。
第1挺進通信隊は、クラーク方面での通信任務にあたる中で壊滅。
挺進飛行第1及び第2戦隊は、レイテ作戦で受けた損害を北朝鮮で回復中。
滑空飛行第1戦隊は、挺進戦車隊の一部と共に福生で沖縄特攻準備中。

IMG_0004_R.jpg
戦闘を続ける日本兵へ、終戦を伝える米軍の伝単

フィリピンに展開している徳永第2挺進団長指揮下の高千穂空挺隊と、塚田集団長率いる滑空歩兵部隊についてはどうしようもありません。
中村第1挺進団長は、内地に分散している配下部隊の掌握に急ぎます。

事態は一刻を争いました。
園田大尉のサイパン特攻部隊と田中少佐の沖縄特攻部隊は出撃寸前、挺進第1聯隊2個中隊と第2聯隊は戦力を保持したまま国内で待機中。
まず、中村団長は停戦命令を伝えるために横芝の挺進第1聯隊の元へ駈けつけます。その日は第1聯隊の将校達と敗戦への対応を語り合いました。
剣作戦の指揮により山田第1連隊長は不在だったので、以降の敗戦処理は同連隊の弓削少佐に托されます。

千歳でサイパン特攻の準備を終えていた第2剣部隊は、状況を掴めないまま玉音放送を聞いていました。

司会者
「そうこうしておると突如、終戦の玉音放送があったのですが、それはどこで聞きましたか」
細村
「玉音放送は、私らはその当時ちょうど十四日ですべての準備は終りましたので、十五日は千歳川で魚採りやりました。
小隊全部を引連れて、それで爆薬がたくさん余りましたので、澱みに爆薬を入れてはねらかして、下流に兵隊をずっと並ばして、浮いてくるやつをすくい上げていた。
そのときに将校集合の伝令が来まして、隊解散。
玉音そのものは直接は聞かれなかったのですが、それで終戦でした」
星野
「うちは、中隊長室にみんな集まれということで、ちょどその日は機関短銃の射撃があったんですけれど、十一時頃かなあ、何か射撃をしておる連中全部中隊長室に集まれというんで」
細村
「射撃はしていない。魚採りだ。小隊ごとに別だったのかな」
星野
「何か近いところでね。やめてすぐ中隊長室に集まって放送を聞いたと思います」
細村
「私ら聞かなかったね」
星野
「ところが全然何を言っているのかわからない。で、午後からじゃすぐ体操だというんで、体操の服を着て駈歩で千歳の街へ出たんです。外へ出て聞いたんです。街の人から「負けたんじゃないか」なんて」
司会者
「それで中隊長から何かそのことについて集まって話があったか、あるいは二個中隊全部集めて園田隊長が話をしたか」
細村
「その記憶はありませんね」
星野
「それはなかったみたいですね」
司会者
「それからの行動は?」
細村
「帰ったのが何日だったかな。北海道から皆さん方は帰しまして、私は残りましたよ」
司会者
「私は生前園田さんから「部隊を引連れ一式陸攻に乗って松島まで行った。本当は発進基地の厚木まで行こうとした」という話を聞きましたが、この中で誰か一緒だった者おりますか」
細村
「行った筈ですよ。私が残務整理で千歳に残ったが」
星野
「松島だったですかね。行きましたよ」
細村
「隊本部と中隊指揮班は終戦後松島に行きました。私共残務整理班は一中隊と二中隊合せて二五名だったですか、千歳に残ったのです。それで今度は所属は陸軍復帰になったんですね。
海軍の指揮下から離れたと思います。
帰らなきゃならないのに帰る計画を全然海軍の方で作ってくれないのです。それでさんざん交渉をして、やっと二十四日に千歳から出てきたのです。
残留組の中には北海道出身の者が五、六名おりましたので、その人は現地で除隊解散して、あとは内地の者を引連れて横芝へ帰ってきました」
司会者
「へえ、横芝まで帰ったのですか」
細村
「そのときには、中隊は解散してもうおりませんでしたが、うちの中隊では大屋さんだけが残っておって下さって。
大屋さんにそれを報告してあそこで解散ということになったのです」
星野
「横芝です」
司会者
「鉄道で」
星野
「ええ、そうです。あの頃のことはどうも全然わかんなかったんですが、何か海軍の飛行機を出せとは言ってましたkど。それがどこだったか」
森上
「私は渡辺源一中尉の記録を預かってきたんですけれども。八月二十四日に解散式をやっているんですね。それで解散式に園田隊長の訓示があったということがここに書いてありますけれども」
司会者
「場所はどこで」
森上
「横芝です。八月十八日に横芝に戻ってきたと書いてあります」
渡辺(紙上参加)
「北海道千歳において終戦となるや、園田隊長は泰然自若、意気鎖沈する部下を励まし、また興奮して荒れている部下を鎮撫しつつ、八月十八日に原駐屯地横芝に帰着し、二十四日に特攻隊解散式を行った。
解散式の訓示要旨次の通り

サイパン奪回突撃は決行されることなく戦争は終った。無念遣る方ないが、諸子は今から父母兄弟の待つ故郷に帰れ。
これからの日本の行方はわからぬが、我々は終戦の詔勅を心に体し、お互いに一生懸命に生きてゆこうではないか。
気の緩みから夏かぜなどを引かぬよう健康に留意せよ。
元気で生きておれば、またいつか逢う日があろう。そのときは靖国神社で会うことにしよう。まだ世情混沌としているが、途中道草を食わずに真直に帰れ」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直」より

挺進第1聯隊の元へ出向いた中村挺進団長は、翌日には沖縄特攻に備えていた烈號部隊を慰撫するため福生飛行場へ飛びます。
福生飛行場では徹底抗戦を叫ぶ軍用機が檄文を投下していきましたが、烈號部隊の大部分はそのまま解散。苦労して揃えたグライダー群は、翌週の暴風雨で破壊されてしまいました。
特攻部隊の制止に成功した中村団長は唐瀬原飛行場へ帰還。
戦後処理のため、宮崎県や川南村との交渉手続きに入ります。

こうして、国内に残留していた挺進団司令部と挺進第1及び挺進第2聯隊、挺進戦車隊、サイパン及び沖縄への特攻部隊は行動を停止。各部隊は解体され、施設・装備の廃棄と復員業務が始められました。

いっぽうで悲惨を極めたのは、北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行団です。
現地にいた挺進飛行隊と滑空飛行戦隊は敗戦の報に呆然としたまま、朝鮮半島からの脱出が遅れました。ようやく南下を開始した時には、ソ連軍が間近に迫っていたのです。
また、内地にいた滑空飛行戦隊の塩田少尉が自ら命を絶つという悲劇も起きてしまいます。滑空飛行戦隊の塩田少尉は北朝鮮から立川飛行場へ向かったのですが、悪天候により鳥取の米子飛行場へ一時退避。
挺進団から孤立した状況で敗戦の報せに接したため、独り自決の道を選んでしまったのでした。

「8月9日、ソ聯の卑怯な参戦により北鮮も俄かに騒々しく、悲しむべく8月15日のあの日
当時、空中部隊(※挺進飛行隊)は新義州に、地上部隊は鉄路新義州に向け移動中。聯隊本部若干は連浦に在り。
地上部隊は新義州に到着するも、下車することなく直ちに先づ平壌に引返へし待機、空中部隊の大邱移動と共に平壌出發。
途中沙里院北偶にてソ軍に掴まり、1部は脱出して大邱に於て収容せるも少数の者は直路内地に向いたるものゝ如く。
一方、大邱に在りては輸送任務の為立川に向った1ケ中隊は内地航空兵団の命令を受けてそのまゝ立川に留まり、この間塩田少尉、米子飛行場に於て自刃……」
空挺同志会資料より

各個バラバラに朝鮮半島から撤退中、ソ連軍に捕えられた挺進飛行戦隊員の多くはシベリアへ送られます。
フィリピンへ展開した挺進第3及び第4聯隊、滑空歩兵第2聯隊、挺進工兵隊の残存兵は、戦後しばらくして米軍に投降しました。
敗戦を知らずに戦い続けていた彼等も、8月15日以降に何人かの戦死者を出してしまいます。

空挺部隊の主な犠牲者数は下記の通り

・第1挺進集團司令部
空母雲龍の撃沈及びクラーク付近の防空戦闘にて235名中174名が戦死。

・第2挺進團司令部
高千穂空挺隊指揮の為にレイテへ赴き、140名中戦死31名、行方不明52名。

・挺進第1聯隊
ラシオ降下作戦中止の際に2機が墜落、20数名が殉職・行方不明。
昭和20年5月には義烈空挺隊168名12機が沖縄北・中飛行場へ特攻、第3獨立飛行隊と中野学校出身者を含め8機の112名戦死。機体不調で途中帰還した4機のうち、八代に不時着した機で飛行士1名が殉職。

・挺進第2聯隊
パレンバン降下作戦での戦死・行方不明者39名のみ。

・挺進第3聯隊
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。834名中白井連隊長をはじめ711名戦死。

・挺進第4聯隊
小丸川水難事故で8名殉職。
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。881名中斉田連隊長をはじめ792名戦死。

・第1挺進飛行團司令部
高千穂空挺隊の空輸任務の後に新田原へ帰還、北朝鮮で再編成中に終戦。100名中28名戦死。

・第1挺進飛行團通信隊
台湾にて挺進飛行隊の支援後帰国。更に北朝鮮に移動した時点で敗戦、ソ連軍に遭遇。189名中、49名死亡。

・挺進飛行第1及び第2戦隊
高千穂空挺隊レイテ降下作戦支援に従事。440名中71名戦死。

・滑空歩兵第1聯隊
主力はフィリピンへ向かう途中に空母雲龍撃沈により海没。生存者3名のみ。
残存の中隊は北サンフェルナンド及びバギオ防衛戦に従事。858名中727名戦死。

・滑空歩兵第2聯隊
滑空歩兵第1聯隊と共にフィリピンへ赴き、クラーク防衛戦に従事。862名中735名戦死。

・第1挺進機関砲隊
第1挺進集団としてクラーク防衛に参加、312名中301名戦死。

・滑空飛行第1戦隊
先発隊がフィリピンへ海路移動するも雲龍撃沈の際に全滅。残余は北朝鮮と福生で待機中に終戦。498名中77名戦死。

・第1挺進通信隊
第1挺進集団としてクラーク防衛に参加、416名中411名戦死。

・第1挺進工兵隊
フィリピンへ向かう途中、雲龍撃沈により海没。別動の残余は第1挺進集団としてクラーク及びバギオ防衛に参加、403名中357名戦死。

・第1挺進戦車隊
国内待機で実戦の機会なく戦死者もなし。


誕生から4年半。
こうして、帝国陸軍空挺部隊の闘いは終わります。
空挺隊員1万2千名のうち、約1万名の命が失われました。

降下兵

本土決戦は免れたものの、空襲による宮崎県民の死者は646名、負傷者559名。全焼8105戸、半壊八百二十戸。
県から出征した陸海軍人11万7千人中、復員できたのは8万人。大陸へ移住した民間人の詳細は不明。
宮崎各地の飛行場から飛び立った特攻隊員、県上空での空中戦や対空砲火で戦死した日米両軍のパイロットも多数にのぼります。

8月15日の後、更に多くの兵士が命を失いました。
8月21日、鹿屋航空基地の兵士に復員命令が出されます。空襲で小丸橋が損傷した日豊線は不通となっていたので、鹿屋の海軍兵達は薩肥線を使って故郷を目指しました。
22日、都城駅では第57軍の陸軍兵まで汽車に乗込みます。復員列車は超満員の状態で山間部へと向かいました。
吉松駅から先はスイッチバックを使う程の急勾配が続き、喘ぐように坂道を登っていた列車も、えびの市郊外にある第2山神トンネル内で身動きできなくなってしまいました。
暗闇に充満する煤煙に耐えられず、兵士達は立ち往生した列車を降りてトンネル内を引き返します。そこへ退避しようとした列車が後退し始め、トンネル内の人々をはね飛ばしながら入口まで滑り落ちていきました。
この事故により、海軍軍人42名、陸軍軍人13名、民間人1名が死亡。
家族との再会を夢見て故郷を目指した56名は、暗いトンネルの中で命を落としたのです。

復員の日まで、枕崎台風の復旧作業に従事していた第25師団第40連隊の工兵作業班でも事故が発生します。
えびの大迫の兵舎が土砂崩れに巻き込まれ、16名が生き埋めに。必死の救助作業にもかかわらず、12名が犠牲となりました。

DSC02308_R.jpg
崩落事故現場付近に建立された第40連隊兵士の慰霊碑。

特攻基地であった鹿屋は混乱の極にあり、占領軍から逃げようと1万人もの海軍兵が都城へ押し寄せてきました。
23日から都城地域の軍人を復員させようと計画していた都城駅は、鹿屋からの復員兵でパンク状態になります。
都城駅長から「鹿屋の海軍兵殺到中」の急報を受けた小林の国兵団(陸軍第25師団)司令部は、陸軍の復員計画を3日先延ばしして海軍の復員を優先させつつ、鹿屋市へ参謀を派遣して現地を視察。
敗戦で自暴自棄になった海軍兵の無法行為は目に余るものがあり、国兵団と積兵団(陸軍第86師団)は鹿屋へ鎮圧部隊を投入しました。


都城から引き返した私は、すぐに司令官に報告し、鹿屋は軍の作戦地域内でもあるし、厚木飛行場に次いで八月末には米軍が着陸することになっているので行ってみる必要があると意見具申しました。
即座に私に行って見ろと命ぜられましたので、一期下の参謀を伴なって車を飛ばしました。
その実情は語ることを避けますが、私はとりあへず近くの積兵団に、二ヶ中隊の兵力を地下倉庫の警備に出すように連絡して帰り、改めて軍命令を出して貰いました。
又「歩兵三中隊、工兵一中隊、自動車二十輛を使っても飛行場の応急修理に一週間以上かゝる」と報告しましたところ、「お前に任せる」と司令官は申されるので、その夜小林の師団司令部に参り、直ちに師団命令を出していたゝきまして、各聯隊から最も精鋭の一ヶ中隊を出してもらい、翌朝九時には高原の赤塚三叉路を出発いたしました。
夕刻鹿屋中学校に到着し、宵闇の中で大隊長以下全員に対して「海軍航空とともに二十六年を暮らしてきた鹿屋の市民は潰乱的解散によって軍隊に対する信頼を失っている。
我々は我々自身の行動によって軍隊に対する市民の信頼をとり戻し、消え行く皇軍の最后の姿を国民の眼底に残して行かねばならない」と訓示し、公務以外将校以下の外出を禁じました。
永田鹿屋市長も「私は海軍航空を二十六年間育てゝ来たが、今度は裏切られた。陸軍嫌いだったが、あなたのつれて来た軍隊こそ本当の皇軍だ」と激賞され、その後海軍特別警備隊も大村から送られ、又宇垣中将が終戦翌日沖縄に突っ込んで、多数の部下の後を追われましたので、第五航空艦隊司令長官には草鹿中将が連合艦隊参謀長から転ぜられて、鹿屋まで進出されることになり、参謀達も来て居りましたけれども、先に軍需品の管理を鹿屋市長に譲って解散してしまっていたので、それを使うことができない。それで私が仲介に入ってとりなして、海軍に渡すことに致したような一幕もありました。
八日間、一生懸命に飛行場の整備をやって、愈々明朝は帰ると云う晩、大隊長が参りまして「将校だけでも今夜外出を許してほしい」と申しましたが、私はとう〃許しませんでした。
そして翌日、市長以下市民や、海軍の人達に見送られて堂々と自動車行軍で西海岸を廻って帰って来たことが部隊を指揮しての最后の勤めだったので、未だに記憶に生々しいものがございます。

陸軍第25師団参謀 高橋照次氏「終戦当時における郷土の防衛態勢について」より

8月30日には福岡の捕虜収容所へ物資投下に向ったB29が視界不良により高千穂町の祖母山へ激突、H・ベイカー機長以下12名が即死。
年末には、森源市氏がB29墜落現場から少し離れた小河内山中に不時着している日本軍戦闘機を発見します。
それは8月7日に夜間航法訓練で目達原飛行場を飛び立ったまま行方不明となった飛行第65戦隊の隼であり、操縦席からは徳義仁軍曹の遺体が回収されました。
佐賀県沖に墜落したと思われていた徳軍曹機が高千穂山中で発見された理由は、今となっては誰にもわかりません。

更に昭和44年、三股町の椎八重に墜落した海軍爆撃機の3名、天神山に墜ちた陸軍爆撃機の7名の遺体が現地に残されていた事実が判明。敗戦から24年経って、10名の遺骨はようやく故郷へ帰りました。

終戦によって川南の広大な軍用地も農林省の管轄下へ置かれ、満州からの引揚者、戦災被害者、復員軍人のための入植用地へ転用。
その開拓計画面積は軍馬補充部高鍋支部跡地が768.89ha、塩付パラシュート降下場が990.21ha、唐瀬原空挺基地群で1,249.63haなど、計3008.73haにも及びました。
当面は既存の施設群を流用しながら、入植者の受け入れ事業が始まります。

【進駐軍】

敗戦直後、各自治体の間では進駐軍への懸念が広まっていました。
今にも進駐軍が上陸してくると早合点した萱島陸軍中将(宮崎市長)は、「これは大変なことになる」と市内の婦女子に対して退避勧告の回覧板を出してしまいます。
この回覧板によって、宮崎市内の全女性が郊外へ一斉避難する大騒動へ発展しました。
あとから笑い話になったそうですが、敗戦直後は誰もが疑心暗鬼に陥っていたのです。

回覧板事件から二ヶ月後、10月5日の朝。
佐世保からやって来た進駐軍将校が、宮崎駅へと降り立ちます。
先遣チームはアメリカ海兵隊のマスマン少佐、スミス大尉、マイヤー大尉、バレット中尉ら4名。
宮崎県庁へ移動した彼等は、案内役の吉野知事官房主事に向かって早速訊問を始めました。

マスマン少佐「ピストルはどうしたか」
吉野主事「回収した」
マ少佐「県内に伝染病が発生してはいないか」
吉野「していない」
マ少佐「日本刀はどうしたか」
吉野「なにもしていない」
吉野主事の返事の通訳が終わるか終わらぬうちに、マ少佐は顔を真っ赤にして怒りだした。
「ニッポン・トー」「ニッポン・トー」
日本刀の回収をしていないのは職務怠慢でけしからぬというのだ。
日本刀の回収指令は、県にきていなかった事をマ少佐は三日後に知った。
事情を知った後でマ少佐は吉野にあやまった。
「宮崎縣政外史」より

進駐軍先遣チームは、10月17日に民生部の発足を宣言。
宮崎県知事に対しては、進駐軍との窓口である宮崎・都城・延岡地区連絡委員会の設置、旧軍物資の計画的配布、県下すべての電気式アイロン(制服クリーニング用)と塩素(上水道殺菌用)の調達、進駐軍宿舎の確保が命じられました。
何もかもが不足している敗戦直後のこと、県職員たちはアイロンと消毒剤を求めて走り廻りました。

11月10日、鹿児島へ上陸した第2海兵師団第2連隊3000名が宮崎・都城・延岡の各市に到着し始めます。
CIC(指揮所)は養蚕会館を、MP(憲兵隊)は医師会館を接収。接収を知った医師たちから反発の声が上がりました。
「アメリカ海兵第2連隊本部は陸軍第23聯隊駐屯地跡へ入る」との通知には、都城市側が大慌てになります。備品を撤去した後、職人を急募。空襲で破壊された都城駐屯地兵舎を僅か一週間の突貫工事で再建し、何とか海兵隊の到着には間に合いました。

非常に頭の良い参謀の一人は、米軍から残務処理要員として私とともに指名されていたにも拘らず、彼は逃げてしまいました。結局軍参謀としては一番新米の私だけが十二月一日に全軍復員后も一人残りまして兵器処理に当り、宮崎地区、都城地区、大隅地区、それに財部の兵器廠関係と一人づゝ残つた参謀を指揮し、二月十五日までかゝつて一切を終了致しました。
この様に残務整理のために転任したようなものでしたが、十一月初めには、マスマン軍政長官を引つ張り出して、兵器集積所を廻り乍ら此の車は残せ、此の無線機は警察にやれと、なるべく破壊させないで今后の復興に役立たせようと努力しました。
都城兵営で「明十一月五日午后から米軍が入つて来るから正午迄に兵器以外の一切の物品を持出せ」とマスマンが言い出したもの、此の集積所廻りの途中の出来事でありました。突然の命令にビツクリした県の係官達は四日かゝると尻込みするので、私が引受けまして約束通り、翌日十一時まで終りました時、彼は「日本の将校のすぐれた指揮を初めて見た」とお世辞を云つて居りましたが、その為か後日私ども参謀が揃つて進駐してきた米軍の司令官に敬意を表した時に「高橋とはどれか」と尋ねたことがありました。

そんな工合で、米軍側でもその后は、私の要望もきいてくれるようになりました。

DSC01678_R.jpg
マスマン長官が宿泊した松之枝旅館(現在は老朽化により解体撤去)

終戦后十一月の五日、先に述べました都城兵営明渡しの日ですが、都城の松之枝旅館にマスマン軍政長官と泊まりましたとき、米軍の海兵第二師団の情報参謀をしていたハイ大尉が同宿しました。
彼は大学で商業史を教へていたと云うプロフエツサーで日本語が相当わかりますので、私のブロークンイングリツシユとつき合わすと結構話が出来ます。
二人で青白い月を窓から眺め乍ら四時間も話し合いました。

陸軍第25師団 高橋参謀の証言より


狼藉の限りを尽くすと恐れられた進駐軍兵士でしたが、憲兵隊の徹底取り締まりによって犯罪件数は75件に抑えられます。
アメリカ兵よりタチが悪かったのは、進駐軍の威光を笠に威張り散らす日本人通訳のほうだったとか。
進駐軍への苦情殺到で一旦は解雇されたものの、問題通訳は軍属として再び米軍へ潜りこみ、県職員に対して更なる横暴を極めました。
それでも、敗戦国としては我慢する他なかったのです。

民政部長マスマン少佐の指揮下、進駐軍は海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や川南空挺基地を中心とする陸海軍施設の接収・解体に着手。
日本陸軍の野砲24門、重砲72門と多数の砲弾が清武町・花ヶ島・住吉に集積されました。
軍用機と戦車は国富の六野原飛行場へ集められます。
小銃や銃剣でさえ、リストと照らし合わせながら厳重なチェックが行われました。

県北の武器弾薬類は細島港へ、県南では油津港へ集積。
これら何万トンもの砲弾類は、宮崎県警の監督下で沖合8海里の場所へ運ばれ、海中投棄されます。
日南・日向・延岡に展開していた33突撃隊および35突撃隊の震洋や回天などの特攻艇は爆薬を抜かれた後に遺棄され、直後に襲来した枕崎台風によって海没しました。

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昭和21年の公示より

都城盆地に展開していた挺進戦車隊の車両も、このような形で処分されたのだと思われます。
画像の兵器処理委員会都城出張所があったのは、現在の陸上自衛隊都城駐屯地附近。
霧島山系に配置されていた第六戦車旅団の戦車や武器類は、解体もしくは山腹にある御池の湖底へ沈められます。
「御池の戦車」については、先年の湖底調査では発見できませんでした。長い年月の間に朽ち果てたか、こっそり引揚げられてスクラップにされたのでしょう。

「六野原の戦車は、火薬で爆破された。小銃・砲身・日本刀は切断機を持ち込んでバラバラにくだく。
巡視に行った高橋参謀長は日ごとに積みあげられるスクラップの山をながめ、感慨無量だったという。
敗戦直後のことだった。
残務整理の兵隊たちの軍規を維持するため、師団司令部は臨時憲兵隊を組織しかけたことがある。
兵力はざっと一個大隊。
だが、それも、旧日本軍の解体を急ぐ占領軍は許さなかった」
「宮崎縣政史」より

松根油製造、食糧増産、トーチカや防空壕の建設などと米軍上陸に備えていた宮崎県は、進駐軍の受け入れと戦後復興へ移行。
次々と暴かれる大本営発表の嘘に戸惑いながら、やがて新しい時代に順応していきます。

宮崎県内のアメリカ海兵隊は7カ月後に佐世保へ引揚げますが、進駐軍による占領政策は昭和27年4月の日米講話条約締結まで続きます。

【戦後の唐瀬原飛行場】

戦争が終わったとはいえ、唐瀬原の空挺基地では山の様な戦後処理に忙殺されていました。
戦没者名簿、功績者名簿の整理や家族・遺族との処理連絡は鈴木副官と戸次准尉が担当します。
米軍への物資引渡し業務は上田少佐が指揮しました。
兵器は木下大尉、糧秣被服は竹田主計大尉、車輛・燃料・工場・施設は伊佐見少佐、医薬品は黒沢軍医中佐が担当。
空襲を避けて尾鈴山中から日向灘一帯の百箇所以上に分散秘匿していた武器弾薬・糧秣関係の収拾、集積、品目員数の整理も大変な作業でした。
トラックや荷馬車が何十台も動員され、秘匿物資を集めに川南一帯を走り回ります。その中ではトラブルも頻発しました。

11月にやって来た進駐軍側は、軍事物資の在り処を徹底的に調査しました。
空挺部隊がパラシュートを隠していた高鍋高等女学校も、その捜査対象となります。

「兵隊が使用した教室を掃除したり、山と積まれた残り物は燃やし、軍用トイレを埋めたり消毒したり、本当に沢山の仕事を残して消えてしまった部隊でした。
体育館の落下傘も置きざりです。とても数えられない程、沢山でした。
布類の無い時ですから、裁縫の先生は大よろこびで教材に使用され、ワイシャツ、ベビー服、絞りの風呂敷、クッション、テーブル掛けなど作りはじめられました。役場でも落下傘を引き取って家庭に配給があったようでした。
(中略)
進駐軍が初めて学校に来た時、教師全員廊下に出て最敬礼をしました。前日、学校中を大掃除してピカピカに光る板床を軍靴で上って来るのがなんとも情けなく、自分が踏まれるような気がしました。
高鍋高女は落下傘(武器なんだそうです)を置いていたので戦犯学校とマークされ、調査や事情聴取をされました。
落下傘を教材に使用したのは武器を勝手に持出したとの解釈です。
軍隊が勝手に置いたのだといくら説明しても、その理屈は通らないのです。もう一つ印象を悪くしたのは、体育用具倉庫の中に垣根を作る予定だった有刺鉄線がいっぱい積んであったのです。
「これは何に使用するのか」「なぜ、こんなものを隠しているのか」と厳しいものでした。
校長、教頭先生はとても心配され善後策に走り廻られていました。万策つきて、落下傘で作ったクッション、マフラ、ふろしき、ガウン等をおみやげに持参し「生徒が教材として使っている」と説明すると、すっかり上機嫌で「もっとほしい」とのことだったと、肩の荷を下した表情で教頭先生が帰って来られました。
次の日から、おおっぴらに、おみやげ品作りでした。職員も厳しい目でみられました。私は雑誌に「戦争と人口問題」と題して寄稿したのが調べられ、質問を受けたり、資料の提出を求められました。
当時はこんな事はとても恐ろしいことでした。
痛くもない腹をさぐられるのが嫌で、私はこの時、戦争中の貴重なメモや日記をことごとく焼きました。
本当に残念なことをしたものです。
進駐軍の人々から、人に接するには柔かいが、仕事となると、とても厳しく、いい加減なことは決して許さない姿勢を学びとりました。しかし習慣や考え方の相違は誤解を招き、いらだちや気苦労をしたものです。
三月の雛節句の時、おひな様を飾り進駐軍の人に見せてあげたら、それを見て「神様か」と険しい表情で聞くので「日本の人形で、女の子がとても大切にして、三月には家庭で飾って楽しむのだ」と言うと「オーケ、カワイイ。キレイ」の連発でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言


パラシュートとは別に、トラック十数台分にもなる軍衣類は宮崎県へ寄贈されました。しかし、この際も挺進団長の許可書類が無いと受け取れないとの回答で宮崎県庁と川南空挺基地の間を担当者が往復する羽目になっています。
空挺部隊の保有する武器弾薬は唐瀬原飛行場へ集められ、米兵監視の下で破壊処理されました。

空挺部隊が保有していた施設や200台ほどのトラックについては、整備隊長の伊佐見少佐が官公庁や宮崎交通株式会社への移譲を進めます。
それでも捌ききれなかったので、田中挺進戦車隊長により50台規模の運送会社設立が計画されました。
傷ついた高千穂空挺隊員の療養もかねて、会社の拠点は温泉地の霧島にすることまで決まります。
しかし、進駐軍のマスマン中佐は「一企業あたりの将校数は3名が限度」とこの計画を認めてくれません。
軍人が、しかも空挺隊員が何十人もの集団を結成するなどもっての他だったのです。
この決定で空挺隊員の集団帰農も否決。各個人が帰農手続することとなりました。
既に終戦直後には一割の空挺隊員、8月28日には在営人員の半数がそれぞれの故郷に復員していましたが、進駐軍はそれを加速するよう要求。
つまり、一刻も早く目障りな空挺部隊を解体したかったのです。

11月には緊急開拓事業が閣議決定され、川南の再開拓も始まりました。
復興に取り組んだのは宮崎県民だけではありません。
沖縄から疎開したまま焦土と化した故郷に戻れなくなったり、敗戦で職を失った軍人などの中から、宮崎県への定住を選んだ人々もいました。
農地として解放された川南の落下傘降下場には、満州から引き揚げてきた開拓団が入植します。
取敢えず、この入植グループには挺進第4聯隊の施設が宿舎として宛がわれました(後の川南開拓協同組合)。

翌年春以降は戦地からも次々と高千穂空挺隊や滑空歩兵の生存者が帰国してきます。
空挺隊の帰還者については、戦闘と病、そして飢餓による身心への影響が予想されました。
その為、療養を兼ねての営農宿営施設の設置も着手されます。
空挺隊員の中には帰る家や家族を空襲で失ったケースもありました。彼等のうち、川南への帰農希望グループについては滑空歩兵部隊の山本春一少佐が指導にあたり、被服、寝具、糧秣が配当されます。
また、建築資材や耕作適地、高鍋軍馬補充部からは百数十頭の軍馬も川南への入植団へ渡されました。
※軍の焼印が記された馬は、進駐軍から睨まれるのを怖れて当初引取り手がいなかったという話もあります。

山本少佐は、高千穂空挺隊員の帰国に備えて農地と住居確保に奔走していました。
当初は百名程度だった川南の入植者も、暫くたつと全国から続々と押し寄せ始めたのです。
宮崎に展開していた菊池兵団や護路兵団からも帰農希望者が続出。遂には過剰入植ともいえる様相を呈し始めます。

昭和21年、戦争によって中断されていた川南原開拓事業が再開されました。
戦後の開拓対象はそれまでの民有地から軍用地へと変更。
塩付パラシュート降下場地区、唐瀬原飛行場地区、高鍋軍馬補充部地区の3大軍用地は農地へ開放、空挺部隊の兵舎は学校や病院へと転換されていきます。



8月27日の暴風と9月17日の枕崎台風によって講堂屋根損壊、寮倒壊、窓ガラス全損の被害を受けた高鍋国民学校では、川南の第一挺進集団司令部兵舎から復旧用資材を譲渡されています。
石丸氏が保存していた堀之内校長の日誌より抜粋してみましょう。

十月五日
的場訓導、倉永訓導の職員への紹介。
九時より古谷訓導同伴、町長とともに川南村、九九四四部隊の兵舎貰ひに赴く。途中トラック、スリップして多賀より自転車にて赴き困難せり。
兵舎二棟を譲り受く。
帰校午後五時。四日間に取片付を了せねばならぬので、倒壊校舎後片付の奉仕を、この方へ変更する事に決意せり。
十月六日
男子職員、兵舎取こはしに川南に赴く。製塩場の件にて中学校に折衝す。
十月七日
倒壊校舎復旧用として部隊より譲渡を受けし兵舎こはしに、町民の奉仕を乞ふ。意外に多数の献身的奉仕に全く感激せり。
兵舎は全長四十四間、幅八間、総計三百五十二坪なり。時価二十万円を要すといふ。微雨ありけれ共、殆んど休息もなしに町民の努力を傾けられし事、全く感謝の詞なし。

石丸恵守氏「堀之内恒夫日誌について 終戦前後の高鍋国民学校」より

戦争によるインフラの破壊により、電力・水道の復旧は遅れに遅れます。
そのような状況下、川南開拓は苦難の連続となりました。
入植者は全国から集まっているので、そもそもお互いの方言が理解できません。
福岡県から転入してきた人でさえ「同じ九州なのに言葉が通じない」「福岡に比べて十数年遅れた世界だ」と驚くほど、戦後の川南は大混乱に陥っていたのです。
火山灰が厚く堆積した国光原と唐瀬原の台地は、水源に乏しく痩せた土地でした。要するに、農業には不向きなので江戸時代から馬の放牧地にしか使われなかった訳です。

一大農業地帯へ生まれ変わったものの、入植当初の各農家では深刻な食糧不足に苦しみました。
更に、空挺兵舎の取り壊しが始まると間借りしていた入植者は追い出され(モチロン転出先の手配は無し)、廃材を集めた掘立小屋暮しを余儀なくされます。
水源地付近を耕地に割り当てられた人が、「水源の開墾は認めない」と押しかけた地元農家と一触即発の状態になったこともありました。川南入植者の中には、あまりの過酷さに離農したケースも少なくありません。
それでも残った人々は兵舎を撤去し、突き固められた滑走路を掘り返し、火山性の酸性土壌を改良し、灌漑施設を整備するなど忍耐強く努力を続け、この地を豊かな農業地帯へと変えていったのです。

やがて、平田川上流域に青鹿ダムが完成。ここから唐瀬原地区へ農業用水が導入されました。
水不足の解決によって、川南原開拓は大きく進展していきます。

再び開拓の地となった川南は、後に「川南合衆国」と呼ばれるようになりました。



農地へ転用された川南空挺基地跡には、全国から集った開拓団に混じって菊池兵団や元空挺隊員らが入植していきます。
酸性土壌の改良、施肥、灌漑設備の整備。
軍用地を農地へ転換するには、その後20年もの月日がかかります。それでも、入植者の努力によって軍都川南の解体と戦後復興は着実に進んでいきました。
その頃の様子について書かれたレポートがあります。

「会議室の一隅に、わたしもチヨコンと坐つて傍聴さしてもらつた。
県農政課の赤木氏をはじめ、約四十名の人達によつてはじめられた会議は、實に生き生きと血が通つたものであつた。
開拓、帰農といふことは、趣味や道楽ではなく「食べること。生きること」に對する切実な「國と個」の要請に立脚したものであるからであらう。
“落下傘の降下場であつた八百町歩の土地は、どの様な人々によつて拓かれるのであらうか”
視線を落せば、机の下に居ならんだ脚にはかれた履物は、軍靴が大部分、次に地下足袋、役場関係の人の短靴。
履物によつて示される通り、菊池兵団の残留者が、有力なグループの一つを形づくつてゐる。
剣を鍬に代へて、作戦図ならぬ土地図付の青写真のまはりで、誰も彼もが、真剣なひとみで、村長のむちの先を追つてゐる。
菊池五部隊はここを、七部隊はここをとかつての参謀長は、部下の将来をおもんばかつて、村長の計画と兵隊の現實の間にたつてテキパキと交渉をすゝめていく。
「何でもいゝからつくれ、つくれ」
といふ国家の掛声はあまりにも非現實的である。考へて見ても、折角土台石を据ゑ、一片の土地を耕した後、そこが民間へ払下げになる土地だなんと言ふことにならぬとも限らず、現に、他図に引かれた境界線からはみ出してゐる数戸があり、村長さんを悩ましてゐる。
これは、元の土地の所有者と諒解がつけばよい問題である。
ひるが来ても誰も弁當をひらくものもなく、鍬を下す土地の決定へと強引に議事をすすめて行く……。
「實際皆、グラグラしてますからなあ」
終戦になつてから、今日まで流れた月日の中での、これ等若い帰農者の心境が、大塊のやうに私の心にもひびいてくる。
實際に作づけするまでには何と知られざる多くの日数と経費と精神の消耗があることであらう。
菊池兵団の他に挺進団とよばれるいはゆる落下傘部隊であつた組と、北川村、南郷村から三年前満州へ開拓団として移住して行つた人達と、まづこの三つの團體によつて、唐瀬原の八百町歩の原つぱは拓かれて行くのである。
県の方から斡旋する戦災者や帰農希望者の数を入れれば、地図の上ではもはや目白押の感がある位である。
「ここは芋村だから、芋位はでるぢやろ」
と誰かの預言が的中して、もろぶたに湯気立のぼる唐芋が運ばれ、二時前会議終了とともに遅いひるが始まつた。
やがて現地へ、参謀長殿のくるまへ皆のりこんで、空の神兵を生んだ土地へ今の分割図をひろげるべく出かけるのである。
現地が一望にをさめられる高台ではじめられた。何にもない草原、これで八百町歩もあるのかしら、右手にさへぎるものもなく海が見える。
「ここは立派な松林ぢやつた。それを毎日毎日振興隊で松を引つこぬいて大急ぎ降下場をつくつた。
えらいもんで七千人の人がここに入ると、どけいつたか(※何処へ行ったのか、の意)と言ふ位でなあ」
村長の言葉に、いまになれば感嘆とも悲哀ともとれない沈黙が答へるばかりであつた。
「すみません」
もはや地方人である元の落下傘部隊の一将校がぽつんといひ
「いやあ」
と皆の口辺に、ほろ苦い微苦笑がのぼつたけれど
「この傾斜地は防風林薪炭地として残す」
「あの松の下の所へ道路が通じる」
といはれて見て、この落莫とした秋枯の野は、豊かな畑地に、骨組ばかりのチラホラと立ちかけた家は、質朴な部落へと、私達の眼前で変貌して行く思ひであつた」
森千枝「新しき村を見る・川南村開拓地の巻」より 昭和20年

「開拓地の配分も家の近くに決まり、毎日荒地の開拓に努めましたが、耕作されていく畑地が全ての苦労を忘れさせて呉れました。
甘藷を主とした食料が、物資欠乏の時代でありましたから、これ程有り難いものは有りませんでした。
其の後、落下傘部隊本部裏に雨天体操場が有りました。鉄柱が林立した様な土地ですが、伊倉の矢野助役さん、登り口の永友美義さん、其の他の方々が、男の子供が三人も居る事だからと言う事で配分して頂きました。
現在は手の施し様もできなかったコンクリート鉄柱の跡も無くなり、美田と成りました。その当時頂いた温情は、年と共に感謝の念を深くして居りますし、又、家族一同折にふれて、話して居ります」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 鍋倉サダ氏の証言

「十一月の中旬に、やっと長野恵組合長にお遭いをして、私の入植目的を話して、唐瀬原開拓地の降下場に配分地をお願いした。
組合運営上の組織として小組合長会が有り、組合長から私の入植の話を出して頂き、菊友小組合の坂上清一小組合長が、菊友地区の一人分の配分地を世話して貰い、初めて開拓者として入植が決定致しました。十二月三日に川南に移って来て、屯田僧としての生活が開始されました。
高鍋管財局から兵舎の一部を借り受けて、一先ず其処に入りました。
大きな空屋の旧兵舎の南向きの部屋に、破れた窓ガラスを修理して何とか生活できる様にして生活が始まりました。
配分地の降下場までは4km近く有り、それから毎日通い開墾に取り掛かりました。
降下場の原野に木一本無く、見渡す限りの草原で、ニ~三入植者の家が有っただけでした」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 僧侶 菊友三蔵氏の証言

川南一帯に散在する空挺部隊の兵舎は、まずは入植者の仮宿舎、やがては公共施設に再利用されていきました。

挺進第二聯隊
挺進司令部、第1挺進團、唐瀬原飛行場などが集中していた川南町睦地区。
空挺基地の大部分は農地として開拓され、兵舎群は県の畜産試験場や東小学校となっています。

挺進第1聯隊
画像は通山小学校の門柱。
軍馬補充部高鍋支部跡地は、宮崎農業大学校と国東中学校となっています。パラシュート降下場だった塩付分厩は農地開放されました。

給水塔
国立病院機構宮崎病院の敷地内に残された、挺進第3聯隊兵舎給水塔。
挺進第3聯隊兵舎跡地には国立療養所が転入し、現在も医療機関として使用されています。

挺進飛行隊
航空自衛隊新田原基地周辺に4基残されている旧軍掩体壕。
新田原飛行場は農地開放されますが、航空自衛隊の発足により新田原基地として再スタートします。

開拓への道を歩み出した川南で、空挺部隊は最後の時を迎えていました。

昭和20年10月1日、挺進司令部は各部隊の状況説明者、監視および経理要員のみを残して在営隊員の復員を完了。
同月中旬に挺進司令部は解散、残務整理班の編成が認可されます。
第1挺進團司令部残務整理班は、下記の業務にあたりました。
一、比島出動部隊主力の帰還を予想する一月中旬を目途とし、当面的支援の達成。
一、復員者の援護
一、経費
一、帰還者の受入要領
一、補導事務所開設の促進
一、川南国立療養所(復員兵療養目的)設置への協力と連携
この残務整理班も、12月31日には解散。個別の復員支援業務へと移行して行きました。

川南国立療養所(現在の国立病院機構宮崎病院)は、唐瀬原の挺進第3聯隊兵舎跡に入居します。
国立療養所長には、幸いにも空挺部隊と関係の深い唐瀬原陸軍病院の水上軍医大佐が就任していました。水上所長の計らいで、残務整理班の竹田主計大尉らは病院の庶務担当として採用されます。
こうして、戦地から復員してくる高千穂空挺隊員の療養体制が確立したのでした。

この川南国立療養所派遣業務を最後に、帝国陸軍空挺部隊はひっそりと活動を終えます。

挺進第三聯隊
現在の国立病院機構宮崎病院(もと挺進第3聯隊駐屯地)

戦後の川南は、開拓の地として再出発します。
広大な落下傘降下場や飛行場は農地となり、挺進第1聯隊兵舎は通山小学校、挺進第2聯隊兵舎は東小学校、挺進第3聯隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第4聯隊兵舎は唐瀬原中学校へ姿を変えました。
灌漑施設の整備により、苦難を極めた開墾作業もようやく軌道に乗り始めます。生活にも余裕が生まれ、川南は畜産の町として再スタートしたのです。

川南原の大開拓地に全国からまた、海外からも入植し、八,一一三人に達しました。
開拓者は困苦欠乏に堪えています。
水と燃料に不自由し、また地力が低いために生産はあがらず苦労しております。水は国営開田を待っております。
開拓地の大部分は未だ電力が通じておりませんが、前方の落下傘降下場地区だけは近く電力導入の運びになっております。
入植者は一般に教養の高い人が多いので、三千町歩の旧軍用地も自然の恵みと開拓者自身の努力によりまして、全地域が沃土と化し、やがて日本の興隆に大きな役割を果たす日も遠くないと信じております。

昭和24年6月6日 昭和天皇川南訪問の際の岩切秋雄村長の挨拶
河野弥市「傘寿記念 懸命に生きる」より 

そのまま、「軍都川南」の記憶は忘れ去られる筈でした。

空挺部隊解体後、中村勇挺進団長は川南の竹山地区に残り、農作業をしつつ空挺隊員の帰農支援、戦死者を祀る挺進神社の世話を行っていました。
進駐軍は中村団長以下空挺隊員らの動向に監視の目を光らせており、妨害行為もあったといいます。

【挺進神社焼討ち事件】

終戦直後の話。
5月11日の空襲で焼け出された宮崎市の師範学校が空挺兵舎跡に間借りする事となりました(空襲の際、生徒6名が死亡)。
中村団長は、兵舎の提供ついでに挺進神社の世話を彼等に委託します。
突如進駐軍が川南に現れ、師範学校生達の抗議も聞き入れずに神社を焼き払ったのは、それから暫く後の事でした。
この頃、「空挺兵舎の師範学校生が、夜な夜な周囲を駆け回る白衣の集団や進軍ラッパの音に怯えて眠れない」という記事が地元新聞に載ったこともあります。

地元の人から「新聞に神社が焼き払われたと書いてある」と知らされた中村団長が急いで神社へ駆けつけた時、全ては終わった後でした。
団長が神社の焼け跡から拾い集めた釘は、御神体として地元の石川富士之助氏宅の祭壇に祀られます。石川氏は三男を戦争で亡くしており、地元戦死者を祀るトロントロンの招魂堂復興を願っていました。挺進神社の釘も、その気持ちから預かったのでしょう。
ただ、いつまでも個人の厚意に頼る訳にもいかず、中村団長は慰霊施設の建設に取り掛かります。
団長とは別に、かつての降下場付近に集団入植した空挺隊員たちも挺進神社復興を計画していました。
独自に農地の一部を整備しつつありましたが、正式な神社建設手続きを経ていないとして用地を没収されてしまいます。

中村団長は挺進神社の復興を断念、新たな慰霊施設の建設を目指しました。
遺族会の協力も得て、招魂堂を改装した神社建設の募金集めに奔走。
川南村民もその熱意に動かされ、トロントロン地区で護国神社の建設が開始されました。
進駐軍に怯えながらの建築作業でしたが、妨害行為は無かったといいます。 

ルソン島の飢餓地獄を体験した挺進集団長の塚田理喜智中将は、千葉県へ戻ったあと農業の研究に没頭していました。
各方面で戦没空挺隊員慰霊の動きが始まると、そちらの支援もおこなっています。

新たに建設される護国神社には、川南から出征し、戦没した空挺隊員や地元出身兵士らの御霊1万2千柱が祀られる予定でした。
戦没空挺隊員の名簿は挺進神社と共に灰になってしまった為、中村団長は復員局へ出向いて空挺部隊の名簿を書き写しています。

川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来

昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった 
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である

平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同

川南護国神社の空挺碑文より

空挺慰霊碑

理不尽な焼き討ちから4年後の昭和24年、遂に川南護国神社が完成します。
3月21日、第1回の慰霊祭には2千人を超える川南住民が詰めかけました。あまりの多さに、付近の道路が通行止めになるほどだったといいます。
以降、川南の慰霊祭は毎年開催されることとなりました。

川南護国神社例祭の日は毎年11月23日。
全国から集まった元空挺隊員、宮崎県や川南町、地元遺族会、航空自衛隊や陸上自衛隊の関係者も参列しています。
慰霊祭は川南町のお祭りの一環として開催されており、当日は町の人々が大勢神社に集まっていました。
普段とは違い、参道には屋台も並んでいます。
その日の朝から川南護国神社の周囲を歩いてみて分りました。
会場の設営作業や受付を含め、川南の人々が一体となってこの慰霊祭を支えているのですね。
地元の学校からも生徒さんが参加されており、三脚を据えて慰霊祭の様子をビデオ撮影して居ました。

慰霊祭はモノモノしい雰囲気や派手な催しなど無く、静かに進行されます。
式典会場を取囲むように空挺部隊の活躍を描いた油絵17点(松本武仁画)が並べられ、それらを熱心に見ている人もいました。

慰霊祭は1時間ほどで終了します。
参列者が退去すると同時に式場や絵画は撤去され、すぐさまお祭りのイベント会場へ早変わり。
自衛隊関係者は隣の広場へ移動し、落下傘部隊碑の前で記念写真なんかを撮っていました。
慰霊祭後の護国神社は、お祭りを楽しむ家族連れで夕方まで賑わいます。
※陸軍空挺部隊の慰霊行事としては、他に高野山や健軍などでもおこなわれています。

設営
慰霊祭の設営風景

慰霊祭

慰霊祭

川南神社

川南護国神社が完成してから6年後、和歌山県の高野山に「陸軍空挺落下傘部隊英霊碑」の建立計画が持ち上がりました。
戦没空挺隊員の慰霊に奔走する中村勇挺進団長と元挺進第3聯隊付軍医の中村秀雄氏(旧姓深田)により、聖地である高野山に建墓しようという事で意見が纏まったのです。

「高野山でなくてもとの意見は、当然あると存じます。
日向の地を離れることについては釈然としない方もあるようで、他の地につていも色々と考えましたが、東京駅頭も、銀座の真中も人目にはつくでしょうが、やはり霊は霊地にあるべきで、日本全国から霊が集っていて、全国の人の参拝の絶間ない処で、最も幽玄な地と思って高野山を選びました(中村秀雄氏「唐瀬原」より 昭和31年)」

高野山本山の近藤本玄大僧正もこの申出に賛同、墓域の付与を許可します。
墓はあっても、空挺隊員の遺骨はありません。代わりに戦没空挺隊員の名簿が収められました。

昭和31年9月21日、川南護国神社から高野山への英霊奉遷式典がおこなわれます。
戦没空挺隊員の名簿作成に協力した防衛庁は、赤江飛行場(宮崎空港)に航空自衛隊のC46輸送機を派遣。
川南町から宮崎市までの位牌1万2千柱の輸送は都城駐屯地の陸上自衛隊が担当しました。

「美しい川南を英霊を先頭にして、日の丸の小旗を振って送ってくれる町の人達と別れ、つわもの共の夢の跡を辿りながら、十三里の日向路を赤江飛行場に向う。
昭和十八年の渡河演習で、一瞬にして八名を呑んだ恨みの思出を持つ小丸川。それを渡れば高鍋である。
英霊にも懐しい町並を抜け、更に南下して、最近竣工した一ツ瀬川橋梁を渡る。
右後方に紫色に霞むのが新田原の台である。
こゝで降下訓練を行うとき、日向灘から進入すればこの国道の上では既に扉を開いて降下姿勢をとっている。
“まなじり高きつわものの、いづくか見ゆる幼な顔”。決死の訓練が反復されたのである。
川は昔のまゝに流れ、台上は変ることなく紫色につゝまれているが、紅顔の若人達は今何処。
万感交々迫り来る。
一時四十分赤江飛行場を離陸、思出の日向の山野にもう一度別れを惜しみ、C-46輸送機は伊丹に向う
(全日本空挺同志会「高野山建墓の由来 英霊ここに眠る」より)」

関西へ到着した位牌は、翌日に陸上自衛隊信太山演習場へ運ばれます。元空挺隊員と遺族たちも演習場へ集合しました。
予定では、習志野から派遣された陸自空挺教育隊40名および海上自衛隊員が木更津を離陸、信太山でパラシュート降下を披露することになっていました。しかし折からの悪天候で、米軍の気象観測では「降下不可能」との判断が下されます。
落胆している人々の元へ、橋詰幕僚長が「はりきった空挺隊の人々は、悪天候を冒し予定通り空挺を続けております」と報告を持ってきました。

14時20分、3機のC46輸送機が葛城山方面から姿を現します。

真黒い二つのフットボール様のものが一機の両側から転げ落ちた。
「アッ」
音にならない叫びであろうが、数万の数である。……生涯初めて聞く声である。
十年の夢に見果てぬ我が子、我が夫の姿……。
真黒い玉がつぎつぎと転げ落ちる。
パッパッ。音なき音を遺族の胸に響かせながら、世紀の華、落下傘は開く。舞降りる。
玉は嬰児の如く大きくなる。頭も手も足も見える。傘を操作している。
「空の神兵」である。その上前方には、まだ黒い玉が落ち続ける……。
一瞬の出来事である。八つの神兵は天降る。しぐれ始めた原の中で、八名は傘をたゝみ、煙幕をたき標識を設ける。後続部隊の降下を誘導するのである。
見事な活躍振りである。
それもその筈である。後で解ったことであるが、それは英霊と共に練武に練武を重ね、現在空挺教育隊の骨幹幹部となって活躍中の、田中、本間、大城、徳村、名井、それに海軍の海保軍の諸氏で、千軍万馬の古強兵であったのである。
かくして時雨をついて第二陣四十数名が続いて降下する。高架線にひきかゝるもの、松の木にぶら下がるもの、屋根の上、畑の中、さまざまである。
「編隊をくみ得ず」との空中よりの連絡により、第三回を中止する。あのときの遺族を初め、満場の瞳に輝く安堵の光。終生の思い出である。

「祭典行事の経過」より

新旧の「空の神兵」は、こうして相見えたのです。

9月23日午前10時、高野山に建墓された空挺落下傘部隊将兵之墓にて納霊・除幕式典は開催されました。

空挺落下傘部隊
川南空挺慰霊祭に参列した陸自の第一空挺団

“祖國日本の彌栄を願い 後に續く者を信じ 空挺落下傘部隊将兵の霊は此處に静かに眠る”

副碑に刻まれた碑文を読んで「慰霊碑があるということは、和歌山県に空挺部隊がいたのだろう」と勘違いする人もいる様ですが、あの慰霊碑が高野山に建てられた経緯は以上のようなものです。

給水塔

【川南合衆国】

戦後暫くの間、特攻隊は軍国主義の象徴と見られ、元空挺隊員やその遺族達も周囲からの非難や無理解に苦しみました。
片方のエンジンが停止して乗機が不時着、生還した義烈空挺隊の和田曹長は当時の状況をこう回想しています。

「“特攻隊か、馬鹿の寄せ集めか”と思たんと違いますか。
“特攻隊にいたからというて戦争に勝てる訳でもなし”と」

人々が日々の暮らしに追われていた、復興の時代の話です。

そんな中で忘れ去られていた義烈空挺隊の存在に、再び光を当てる機会が訪れます。
それは、戦後20年目の節目としてカメラ雑誌で戦争特集をする企画が持ち上がり、小柳次一氏の撮影した写真が使われる事となったのが発端でした。
終戦時には報道写真の多くが廃棄処分されたのですが、小柳氏は撮影した写真を自宅に保管しており、貴重な記録が失われずに済んだのです。
結局この企画は流れましたが、かわりに昭和40年8月、写真展「軍靴の音」が開催されます。
義烈空挺隊出撃の写真も展示され、元隊員や「ここに夫がいます」と涙する遺族達が会場を埋め尽くしました。

―ご主人が、この出撃の写真にですね、つまり美都子さんのお父様が写っていらっしゃるということを、どうしてお知りになりましたか。
長谷川
昨年の八月の五日から一二日まででしょうか、あの小柳さんが個展を開いてくださったんです。そのときに、東京の知人の方から速達で送っていただきまして、もしや義烈空挺隊の中にご主人の写真があるかもわからないからとお知らせいただいたもんですから、とりあえず会場の方へかけつけてまいりました。
―で、お探しになったら、まさしく……。もう一目でわかりますね。
長谷川
そこで初めて出撃の様子を聞かせていただきまして……。
―初めてとおっしゃると、御主人からはなにもお聞きになっていらっしゃらなかったのですか。
長谷川
はい、どこからたったのかも、全然知らなかったんです。二〇年間探し求めていたんです。
原隊は輸送隊におりましたから、戦友の方なんかも必死になって全国の方に呼びかけて資料を集めてくださったんですけど、具体的なこともわからず、どこからたったのかすらわからなかったんです。

三國一朗「証言 私の昭和史」より 義烈空挺隊パイロット 長谷川道明曹長の家族の証言

小柳氏の写真は一躍有名となったものの、これらを借りていく出版社の対応は酷いものだったそうです。
「載せたのを送ってきたのを読んでみたら、日本軍はこういう悪いことをしておったという使い方ばっかりでしょ。
ひどいのになったら、写真を載せましたから本を買えですからね。
情けなくなったですね」
小柳次一「従軍カメラマンの戦争」より

小柳氏は目を悪くした事もあり、写真の世界から離れます。

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都城駐屯地に降下する第一空挺団

戦争の記憶も薄れかけた宮崎県に、再び落下傘部隊が現れたのは昭和45年11月22日のこと。
陸上自衛隊第43普通科連隊の秋季演習にて、仮想敵として第1空挺団がパラシュート降下したのです。
場所は都城市高木町。
現在の宮崎自動車道都城インター付近です。

この演習には数万もの都城市民が見物に詰めかけました。
第1挺進戦車隊が都城市防衛に派遣されてから20年。
市民にとって、空に舞う落下傘は忌わしき戦時の象徴ではなく、かつて都城を護った「空の神兵」のイメージであり続けていたのかもしれません。
親戚知人に誰かしら自衛隊員がいるような土地柄でもありますし、アレルギーも少なかったのでしょう。

第一空挺団
都城毎日新聞より 昭和45年

昭和49年、小柳氏は空挺同志会員からの招きで、長年暮らしていた鎌倉から川南へ転居して晩年まで過ごしました。
川南護国神社の慰霊祭には毎年出席していたとの事です。
そういえば、慰霊祭に参加される元空挺隊員のかたがたも年々少なくなってきていますね。

義烈空挺隊
毎年11月23日に開催される、川南護国神社の空挺慰霊祭。宮崎県、川南町、遺族会、空挺同志会、陸上及び航空自衛隊関係者などが参列されます。
空挺隊戦没者だけではなく、地元川南から出征し、戦死された人々も含めた慰霊行事です。

空挺部隊の基地から農業・畜産の町として復興を遂げた川南。
その川南に、再び試練が訪れたのは平成22年の春でした。

口蹄疫ウィルスが宮崎へ侵入したのは、この年の3月頃だったと推測されています。
侵入ルートについてはネット上で根拠不明の噂が飛び交っていますが、公式調査での真相は不明のまま。

都農町と川南町で発生した口蹄疫は瞬く間に町全体へと広がっていきました。
防疫への軽視と風評被害への配慮から、県の対応と情報公開は後手後手に回ります。
4月9日から県への発症報告が入ってきたにも関わらず、行政側が動き出すのは口蹄疫と確認できた20日になってから。
この初動の遅れが致命傷となりました。

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消毒用の石灰で覆われた道路。

4月20日には口蹄疫防疫対策本部が設置され、国と県は口蹄疫対策に乗り出しました。
感染拡大に伴って、川南町も全力で消毒作業にあたります。
至る所で農道が封鎖され、消毒用石灰が道路いっぱいに散布されました。
国道に設置された消毒ポイントでは、防護服を着た消毒班がゴールデンウィーク返上で畜産車両の消毒作業。
川南町役場には自衛隊や県警の車両が続々と集結し、獣医師も応援に駈けつけました。
これだけ対応すれば大丈夫なんだろう。所詮は家畜の伝染病だし。
防疫対策本部で指揮をとってきた農水大臣は30日に海外へ出かけてしまいましたし、県知事も奥歯にモノが挟まったような談話しか発表しませんし。
テレビや新聞も地元メディア以外は騒いでいないから、そんな大した問題ではないのでしょう。

初期の段階で、人々はそう思っていました。

傍から見て不思議だったのは、川南の真中を突っ切る国道10号線での全面消毒措置が取られなかったこと。
肝心の10号線を放置すると、県北と県南に拡散するのでは?
当初の国道消毒ポイントは僅か4箇所。しかも一般車両は消毒の対象外でした。
渋滞を防ぎたかった、というのが行政側の本音だった様です。

国道通行車両の全面消毒に踏み切ったのは、5月も半ばになってから。ウィルスの潜伏期間を考えると、もはや手遅れでした。

「まあ、前回の発生でも大した事なかったし」「農業関係の車だけ消毒すれば大丈夫なんだろう」
県民が呑気な事を囁き合っているうちに、口蹄疫ウィルスは県内各地へ爆発的に拡散。
たかが家畜伝染病といえど、その影響は想像の域を越えていました。

国と県が責任の押し付け合いを演じている間に、川南はおろか宮崎県の畜産は壊滅の危機に陥ります。
ついには一万頭を擁する大規模畜産場が口蹄疫に感染。
これによって、封じ込め作戦は破綻しました。
厖大な数の家畜を殺処分しようにも、人手も薬剤も埋設処分地も足りません。
県と市町村、獣医師、警察、自衛隊の命令系統や担当範囲もバラバラで、各組織の連携にも手間取りました。
防疫スタッフの対処能力も限界を迎えつつあり、状況は加速度的に悪化していきます。

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都城駐屯地から災害派遣された車両

畜産界の壊滅を防ぐため、県内全域で人やモノの移動も大幅に制限されます。
あっという間に地域経済は悪化していきました。
「家畜の伝染病如き」でひとつの県が身動きできなくなってしまったのです。

宮崎県は情報共有に消極的だと判断した隣接県は危機感を高めます。感染は治まるどころか、遂には県境の都城市やえびの市へ飛び火。
九州全域への拡散という最悪の事態が目の前に迫っていました。

高速道路のインターや県境のあらゆる道路に車両消毒用のプールが設置され、県外への拡散阻止態勢が敷かれます。
農作物への風評被害に続き、宮崎ナンバーの車両お断り、宮崎産品は扱いませんなどと宣言する店舗が出現したのもこの頃のこと。
やがて農家はおろか企業や店舗の入口にも消石灰が散布され、「次はどこへ飛び火するんだろう」と息が詰まるような日々が続きました。

現地視察直後に辞任表明した首相以下、神経を逆撫でするような対応しかできない政府。
破滅的な状況の中ですべての対応が後手後手に回り、疲弊しきった県と市町村。
これらを見て「お上が何か指示するまで待っていよう」などと構えていた県民も遅ればせながら自衛策をとり始めます。
県外出張は止めて可能な限り電話とメールで済ませ、催事や会合も次々と中止。
職場の飲み会ですら「人が動くとウィルスが拡散するかも」などと自粛ムードへ。
他に出来る事は何でしょう。
畜産家への支援募金と、県産品の購入と、……あとは神仏に祈るくらいですか。

そして8月27日。
ようやく口蹄疫の終息宣言が出された時、川南から牛や豚の姿は消えていました。
残されたのは、石灰に白く覆われた空の畜舎だけ。
宮崎全体で殺処分された家畜の総数は、29万7千800頭にのぼりました。
かつてこの地に空挺部隊がやって来た時とは比較にならない、まさに大打撃となったのです。

口蹄疫

やがて、全国からの支援を受けて、川南は再び復活への道を歩み始めます。
その年の11月23日、護国神社での空挺慰霊祭も例年通り開催されました。

口蹄疫の傷が癒えるには、この先も長い時間がかかるのでしょう。明るみになった防疫体制の欠陥が改善されたのかも疑問です。
あまりの被害に畜産業から離れた人も少なくありません。
けれど、徐々にですが家畜の姿も戻りつつあります。
月末恒例のトロントロン軽トラ市を覗いて来ましたけど、なかなか盛況なようで。ホッとしました。

塔は黙して語らず

こうして川南の姿は変わりつつあります。

2012年より、国立病院機構宮崎病院では大規模な病棟改修工事が着工。
給水塔の隣にあった保育所や、川南の歴史を発信して来た尾鈴水利事務所も新築移転が決定し、周囲でも工事用の整地作業が進められています。

耐震の問題から古い建物が消えていく中、このさき老朽化が進む給水塔はどうなるのでしょうか。
川南町としては貴重な歴史的遺産として保存したい筈ですが、町有地ではないですからね。

川南給水塔のある風景も、いずれは大きく変化していくのでしょう。
部外者には、その時々の姿を記録することしか出来ません。

塔は黙して語らず
給水塔が子供たちの成長を見守り続けてきた保育所も無人となり、あとは解体を待つばかり。

川南が陸軍空挺部隊の拠点であったことは殆んど知られていない。
私がそう確信したのも口蹄疫パニックの時でした。ネット上で口蹄疫の話題を眺めていても、ニュースになっている川南にどのような歴史があるか知っている人はほぼ皆無。
「知られていないならば、こちらから情報発信していく必要があるんだな」と痛感しました。

地元宮崎でさえ、川南に空挺部隊が存在していたことなど遠い過去の話となってしまいました。
平成10年に宮崎日日新聞が連載した「空の神兵の悲話」あたりで、初めて知ったという人も多いのではないでしょうか。
いっぽうで、その記憶を消すまいと努力された方々もいらっしゃいます。

小丸川水難事故を目撃した高鍋町の黒木三夫さんは、殉職空挺隊員慰霊碑の供養を欠かしませんでした。
古代の人々の霊を慰めるために巨大な石像を刻み続けた岩岡保吉氏は、工事で撤去される殉職八勇士の碑を高鍋大師に受け入れてくれました。
高千穂空挺隊の無残な最期を知った林公子さんと藤原美々子さんは、少女時代に延岡で出会った榊原大尉の話を地元の子供たちに伝え続けました。
小柳・藤波カメラマンをはじめとする義号作戦を取材した報道関係者、健軍で隊員の世話をしてた堤ハツさんも、元義烈空挺隊員や遺族と関わり続けました。
そして、川南町の人々によって空挺隊員の慰霊祭は受け継がれています。

その想いは、下記の一文に集約されているのでしょう。

「国の護りに征った彼等の心情を、厚く厚く汲んでやらなければ、その遺志を踏みにじることになると、私は思えてならない」
「義烈空挺隊を撮る 小柳次一」より

小柳氏は平成6年8月に他界されます。享年87歳。
晩年のインタビューで義号作戦について訊かれ、病の床でこう答えていました。

「考えてみると、馬鹿馬鹿しい、ですね。
今になって考えて、馬鹿馬鹿しいなあと思いますね……」



西の地平へ沈んでいく夕陽に照らされ、唐瀬原の給水塔はオレンジ色に染まっています。
半世紀前の夕刻にも、ここで塔を眺めていた兵士がいたのでしょうか。
昔の出来事など、いつかは人々の記憶から忘れ去られてゆくのかもしれません。
ただ、かつて「空の神兵」と謳われた者達が此の地に存在していた証として
異形の塔は、今も静かに聳え立っているのです。

国立病院2


跳下ノ感想

Category : 空挺隊員の証言 |

陸軍落下傘部隊では、空挺隊員の身体および心理面におけるデータを大量に集めて分析していました。
得られたデータを隊員の選抜基準などにしていたのです。
また、実戦での降下に役立てる意味もあったのでしょう。

初降下時の心理状態を探るため、専門知識を持つ衛生隊員の「自己分析」も集められていました。
ここでは、その貴重な証言の数々を掲載しましょう。
新田原飛行場を飛び立ってから、塩付降下場へパラシュート降下するまでのルートも窺い知ることができます。





跳下感想ヲ落下傘兵ノ跳下ニ関スル一般感想ト黎明跳下見学ノ感想ト前日ノ感想ト飛行機搭乗直前ノ感想トニ區別シテ論述セムトス。

唐瀬原陸軍病院「挺進兵選兵對策」より

第一項 落下傘兵の跳下に関する感想
落下傘兵四四六名につき跳下に関する感想を聞くと、無事降下がニ八.九%、着地姿勢のよくなること四.ニ%、開傘が非常に長く思はれる者八.一%、傘の操縦に興味を持つものが五.四%、早やく降下したい氣持一杯のため飛行機内に居るのが嫌ひとなる三.一%、ブザーの音が嫌ひとなる二.四%、何回降下しても不安のとれぬ者二.四%、開傘に不安のある者二.四%、開傘のときは父母に會つたときの様に嬉しい二.一%、開傘より着地が心配二.一%、市井のうつりかはりが解る二.一%、飛行機内で眠気がする二.一%にして、斯くの如く種々雑多な感情が起つて来る様である。
参考として、感想表と個人感情の例證を記述せり。

落下傘兵の跳下に関する感想
落下傘兵四四六名に関する自己反省による感想を見るならば、次の如き事実を得たり。

感情の種類・實数・割合
段々嫌ひとなる 三 〇.九%
予備傘を離すのが困難 四 一.二%
生命の歓喜 一 〇.三%
開傘衝撃へ恐怖 九 二.七%
慎重に降下しなければ失敗すると思ふ 一 〇.三%
降下後身体がだるくなつた者 一 〇.三%
早く降下したい氣持一杯のため機中に居るのが嫌ひ 一〇 三.一%
開傘より着地が心配 七 二.一%
戦友の負傷を思ひ出す 三 〇.九%
ブザーの音が嫌ひ 八 二.四%
開傘と同時に頭を打たる 一 〇.三%
兵の開傘を思ふ様になつた 二 〇.六%
予備傘を使用した者 一 〇.三%
腹わたをかきまわされた 一 〇.三%
地方新聞に落下傘部隊の記事が載つて居た為、勇気が出た 一 〇.三%
搭乗中あまり帯を締ると吐気がする 一 〇.三%
頭が下向になつた時衝撃あり 二 〇.六%
開傘後は常に愉快 四 一.二%
着地と同時に萬歳を唱ふ 二 〇.六%
降下中吐気がする者 二 〇.六%
跳び出す迄は嫌だつたが跳びだしてしまへば愉快 一 〇.三%
無事降下 九六 二八.九%
最後の降下の為張切つて行ふ 二 〇.六%
自動索やけいし紐の處より切れるを感ず 二 〇.六%
戦友に後れまいとする氣持で一杯 四 一.二%
姿勢のうつりかわりが解る 七 二.一%
足を揃へなかつた為捻挫 一 〇.三%
風圧が強い為嫌な氣持 三 〇.九%
精神動揺 八 二.四%
自信がつき早まつて跳出し失敗 二 〇.六%
空中浮遊が嫌ひ 一 〇.三%
上昇気流が恐しい 二 〇.六%
ドアが開いた時恐怖感あり 二 〇.六%
(現在作成中)

殉職空挺隊員の碑

Category : 空挺隊員殉職事故 |

パラシュートで飛び降りる空挺部隊には、常に危険がつきまといます。
ただし、陸軍空挺部隊の降下装備は安全性の向上が追求されていた上、管理専門の第1挺進整備隊の奮闘もあって、国内でのパラシュート訓練で死亡事故が起きたのは公表されている2件のみ。
満洲白城子の事故を合せても3件だけです。
しかし、それ以外の原因で多くの空挺隊員が殉職しました。

川南空挺基地に関する宮崎県民の証言には「開かないパラシュートを見た」という目撃談が多々あります。
これは、敵の銃撃を避けるために低空ギリギリまで開傘しない訓練や、武器コンテナの投下を遠方から見て「墜落事故だ」と早トチリしたものだと思われます。
当時の川南空挺基地では国道10号線(当時は3号線)すら都農町~川南役場間が封鎖されていたのです。
真近で降下を見学できた民間人など殆んどいません。

陸軍落下傘部隊の殉職事故で一般に知られているのは下記の三つ。

・昭和16年、満州国白城子飛行場墜落事故
降下訓練中、初宿曹長が墜落死亡。陸軍落下傘部隊にとって初の殉職事故となります。
事故原因は、初宿曹長の降下靴にパラシュートの紐が絡みついたこと。創設初期に採用したパラシュートには予備傘がなく、空中でのトラブルには為す術がありませんでした。
以降、装具の改善と新型落下傘の開発が進められます。

・昭和17年4月29日、ラシオ降下作戦墜落事故
悪天候で作戦中止の際、引返す途中に輸送機二機が墜落。
一機はトングーへ着陸直前に失速して墜落炎上、全員が死亡しました。
もう一機は飛行中に消息を絶ち、搭乗していた隊員も行方不明となります。

ラシオ降下作戦殉職者
挺進飛行隊第4中隊
古川武大尉(24)
岡部貞男准尉(27)
四元泰憲曹長(24)
戸澤一曹長(24)

挺進第1聯隊
副島馨大尉(24)
大江忠准尉(27)
伊藤植太准尉(26)
大倉光隆准尉(27)
金田庄助曹長(25)
鹽里傳曹長(26)
小林秀圓曹長(27)
羽藤笹一曹長(25)
高野淸曹長(23)
小澤活曹長(24)
福王子秀一軍曹(24)
中島三郎上等兵(24)
神保機搭乗員は機体未発見につき全員の生死不明(氏名略)

・昭和17年7月21日、宇都宮天覧演習の死亡事故
挺進第一聯隊による天覧演習中、松浦軍曹が墜落死しました。
主傘が絡みついた為に予備傘を開くも、間に合わずに地上へ激突したものです。
入念な準備がおこなわれる大規模演習で起きた、不幸な事故でした。なお、翌年に宮崎県小林軍馬補充部でおこなわれた国内最大の降下演習(全ての空挺連隊が参加)は、無事に終了しています。

この三つ以外にも殉職事故がありました。

・昭和17年2月14日、パレンバン降下作戦での墜落事故
まるで楽勝だったかのように語られる昭和17年のパレンバン降下作戦も、実際は苦戦の末に勝ち取ったものでした。
降下の際に1名の隊員が墜落死したらしいという証言もありますが(ハーネスが脱落)、書類上は戦死として処理されたとか。
また、一連の作戦で南方へ赴いている間、事故や病気で7名の隊員が殉職しました。

3月25日 挺進第2聯隊第4中隊の大谷俊夫曹長(26)が台湾にて事故死
5月17日 プノンペン兵站病院にて挺進飛行隊第3中隊の星野儀作兵長が病死
5月24日 輸送船上で挺進第1聯隊の岡本光雄軍曹(22)が病死
5月31日 プノンペンでロ式輸送機が離陸直後に墜落、挺進飛行隊第1中隊長の筒井四郎少佐(27)が事故死
6月1日 同事故で治療中だった挺進飛行第1中隊の奥村修准尉(28)が死亡
6月2日 昭南島にて第2聯隊臨時第5中隊の來野來兵長(24)が病死
6月5日 ラングーンにて第2聯隊臨時第5中隊の松本周二上等兵(23)が病死
第一挺進團司令部「別冊 昭和十七年 自一月 至六月 戦没者名簿(昭和17年8月9日作成)」より抜粋

・滑空飛行戦隊墜落事故
陸軍空挺部隊滑空班が所沢でグライダーの研究を始めた頃、曳航機がグライダーの墜落に巻き込まれて高山中尉が殉職。
後に茨城県の西筑波で滑空飛行戦隊と滑空歩兵連隊が編成された時の演習では、曳航索の切離しに失敗したグライダーがワイヤーを引きずったまま降下。それを樹木に引っ掛けて墜落、搭乗していた滑空歩兵が全員死亡したとの記録があります。
滑空飛行戦隊では、空襲を避けて北朝鮮へ移転した昭和20年にも死亡事故が続発しました。

「(唐瀬原での)演習終了直後梅雨入りしたため帰還が大幅に遅れ六月下旬宣徳に帰還した。帰還し間もなく挺進団より安井少尉が派遣され執銃地上戦闘が一週間に亘り午前・午後行なわれた。
連日の夜間訓練―午後十一時起床、十二時より払暁に至る訓練、翌日九時より一一時三〇分迄の少飛の人達の滑空訓練など―により、疲労の累積による大事故が六月二十八日惹おこし、吉村・杉田少尉、梅戸准尉が殉職し、山田少尉他一、二名の人が重傷した」
岩佐陽太郎氏「一一七部隊追憶記」より

・昭和18年6月18日、小丸川水難事故
昭和18年には、空挺部隊の国内演習で最悪となる死亡事故が発生。
宮崎県児湯郡高鍋町(川南町と新富町の間にあります)での渡河訓練中、伊藤中尉以下8名もの空挺隊員が溺死したのです。
事故は、挺進第4連隊の新任将校に対する集合教育中に起きました。
川南空挺基地から高鍋町へ行軍した200名は、「対岸の敵が小丸橋を占拠中の為、渡河して対岸へ進出」との想定で小丸川(おまるがわ)の浅瀬を4列縦隊で渡り始めます。
雨上りではありましたが、演習指揮官の榊原中尉は事前の渡河で安全と判断していました。
しかし演習前夜、尾鈴山地の上流域には大雨が降っていたのです。
渡河の最中、小丸川はみるまに増水。その勢いで命綱が切れ、渡河中の隊員は重い装備を身に着けたまま濁流に飲まれます。
縦隊と共に渡河していた教官達と一緒に。

小丸橋
現在の小丸川。この日も前日の雨で増水していました。

岸から見ていたら、中央付近で黄色い流れに吸い込まれるように川の中へ消えていった(宮崎日日新聞「空の新兵の悲話」より)」と、事故を目撃した黒木三夫氏の証言が残されています。
教育隊は何とか岸に這い上がったものの、補助教官の鈴木少尉や演習小隊長の伊藤中尉ら8名の姿はありませんでした。
必死にもがくうち所持していた銃を流失し、上官から怒鳴られた兵もいたそうです。

「兵隊さんが溺れちょる」と叫ぶ声が聞こえました。川のあちこちに死体が流れ着いて町じゅうが大騒ぎでした。

事故発生時付近にいた、陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊 川原正雄曹長の証言より

付近住民や高鍋中学の生徒も駆けつけ、小丸川の河口まで含めた捜索が開始されます。
その中には、高鍋中学に通っていた榊原中尉の実弟もいました。

周囲はやがて暮れなずみ、岸辺ではたき火がたかれた。水死状態の兵士を裸にして体を温めた。人工呼吸をしながら横たわる兵士の名を大きな声で呼ぶ声が聞こえた。
「担架に乗せられ、毛布をかぶせられた死者の足が、たき火の明かりに異様に白く見えた。その印象は鮮やかに残っている

元旧制高鍋中学 押川国秋氏の証言より

3日間の捜索によって、8名の遺体が川の中から引き揚げられました。
ある遺体は、しっかりと小銃を握り締めていたそうです。

これほどの大事故であるにもかかわらず、8名の死は伏せられました。当時の地元新聞にも記事は見当たりません。
ただひっそりと、殉職空挺隊員の慰霊碑が小丸川の岸辺に建立されました。

昭和40年代の護岸工事に伴い、この慰霊碑は小丸川近くの高鍋大師へ移設されています。
かなり異色の宗教施設ですが、高鍋大師の岩岡保吉氏が受け入れてくれたおかげで、慰霊碑は失われずに済みました。

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高鍋大師に設置されている殉職空挺隊員の慰霊碑。戦時中から現在に至るまで、地元の人々が供養し続けています。

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移設された慰霊碑は事故現場を向いています。

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「忠烈 八勇士殉職之地」の碑文より

陸軍大尉 伊藤成一
陸軍中尉 鈴木寛
陸軍准尉 河原田津留吉
陸軍曹長 平方國三郎
陸軍兵長 池本治登
陸軍上等兵 杉村博
陸軍上等兵 山崎茂男
陸軍上等兵 大森良市

昭和十八年六月十八日挺進第四聯隊では新に所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。
前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押流されて八名が殉職した。
この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思い止まった。
翌十九年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と連携できる見込みの全く無いタクロバン降下部隊指揮官を志願し、八名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。
殉職八柱の魂魄もレイテ作戦に参加したのである。
碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか
何日散るかは知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事の為昭和四十年に現在地に移された。


碑文にあるとおり、責任を感じた榊原中尉は何度も自殺を試みます。
酔って延岡市にある病院へ押しかけ、自殺用の薬を処方するよう強要した事もあったとか。
その病院の医師が親身になって指導してくれたお蔭で次第に落ち着きを取戻した彼ですが、実は死に場所を捜していたのかもしれません。
昭和19年の高千穂空挺隊レイテ降下作戦時、榊原大尉は生還の見込みが無いタクロバン飛行場攻撃部隊を志願。
水難事故で殉職した隊員達の位牌を抱いて出撃しました。

レイテ上空へ現れた高千穂空挺隊に対し、米軍は陸海から激しく応戦します。
タクロバンとドラグ飛行場へ向かった編隊13機は凄まじい対空砲火によって全滅。榊原大尉も戦死します。
ブラウエン飛行場群へパラシュート降下した高千穂部隊は一時占拠に成功しますが、悪天候と輸送機の被弾損傷により第二派降下部隊の投入に失敗してしまいました。
翌日から開始された米軍の反撃によって大損害を被った白井第3連隊長は撤退を決断します。
生存者をまとめて第16師団や第26師団の斬込隊と合流、カンギポットを目指しますが、飢えと病によって全員が戦没。ブラウエンに残って抵抗を続けた空挺隊員も、袋の鼠となって全滅します。
高千穂空挺隊第一波降下部隊の生存者は、撃墜されてレイテ湾を漂流中に捕虜となった飛行士1名、空挺隊員3名のみでした。

派手な活躍ばかり喧伝される陸軍空挺部隊史のなかで、小丸川の悲しい出来事を知る人はあまり居ません。
それでもいいのだと思います。
碑の移設を受け入れた岩岡氏の遺志を継ぎ、今でも高鍋町の人々が殉職隊員たちを手厚く弔ってくれているのですから。

・昭和19年12月6日、レイテ降下作戦での不開傘事故
高千穂空挺隊がブラウエン飛行場上空へ到達した際、一機で開傘用スタティックラインを結ぶ機内ケーブルが破損。それに気づかず不開傘状態のまま飛び下りた空挺隊員が複数いたというパイロットの証言があります。
しかし、戦闘中の混乱ゆえ記録には残っていません。被弾損傷をおして再出撃した挺進飛行隊機も、何機かが未帰還となっています。

・昭和20年5月24日、八代不時着事故
昭和20年に決行された義烈空挺隊の沖縄特攻でも1名のパイロットが殉職しています。
健軍飛行場を離陸した12機のうち、沖縄へ突入したのは8機(1機のみ着陸に成功)。
4機は機体トラブルで反転帰還し、そのうち11番機は八代郊外の川へ不時着水を試みました。
しかし、機体は橋桁に激突炎上。
空挺隊員は脱出したものの、機内にとり残された飛行士の水上清孝曹長が死亡します。



戦争末期、フィリピン各地に展開した第1挺進集団司令部、第2挺進団(挺進第3、第4聯隊)、滑空歩兵第2聯隊、挺進機関砲隊、挺進工兵隊、挺進通信隊はジャングルに立て籠もります。
とうの昔に食料も尽きており、空挺部隊では多数の餓死者や戦病死者を出してしまいました。
あまりにも悲惨な状況に、フィリピンで散った個々の空挺隊員の最期は殆んど分かっていません。

内地で戦力を温存していた第1挺進団(挺進第1、第2聯隊)と挺進戦車隊も、本土決戦に備えて臨戦態勢に入ります。挺進第一聯隊は千葉の横芝と北海道の千歳に移動。挺進戦車隊は都城と福生に展開。
川南空挺基地に残された空挺戦力は、挺進第2聯隊と挺進整備隊のみとなりました。挺進戦車隊では訓練中に戦車が横転、跨乗していた挺進兵が死亡する事故も発生しています。


・昭和20年7月12日、高鍋駅爆発事故
国内における陸軍落下傘部隊最後の殉職者は、戦争末期の高鍋空襲で犠牲となった三浦少尉でした。
この日、宮崎県沿岸部を襲った米軍機は高鍋駅に機銃掃射を浴びせます。
高鍋駅には、陸軍154師団(西都市)や212師団(都農町)、空挺部隊(川南町)用の武器弾薬が集積されていました。
砲弾や手榴弾を満載した貨物車も被弾し、空襲が終ると同時に煙を吹き始めます。
駅員による必死の消火活動もむなしく、火勢は強まるいっぽう。諦めて待避した途端、貨車は大爆発を起します。
その威力は凄まじく、駅周辺の建物はなぎ倒されます。空襲の被害を上回る程の爆発でした。

爆発がおさまった高鍋駅では、改札付近に一人の将校が倒れていました。
彼は陸軍落下傘部隊の三浦少尉であり、頭に傷を受けて即死状態だったといいます。他の空挺隊員が駆け付けるも、手の施しようがなかったとか。
この日、高鍋では三浦少尉を含め3名のかたが亡くなりました。



書籍やネットで繰り返し伝えられるパレンバンの武勇伝や義烈空挺隊の悲話の蔭には、このような殉職者たちの記録も残されています。
ハデな話に飛び付くばかりではなく、彼等の記録をひとつでも多く掘り起こす作業が我が国の空挺部隊史にも必要なのでしょう。

川南護国神社空挺部隊慰霊祭

Category : 空挺慰霊祭 |

1943(昭和18)年に高鍋町・小丸川で敢行された渡河訓練で亡くなった兵士8人を供養する慰霊祭は16日、水神碑が立つ同町北高鍋の稲荷神社境内であった。地元の御屋敷、萩原地区の住民が毎年欠かすことなく70年以上続けているもので、雨が降りしきる中、約30人が参加。住民たちは「高鍋で起きた悲劇を忘れることなく、後世に語り継いでいかねばならない」と誓いを新たにしていた。
宮崎日日新聞「小丸川の悲劇後世へ 住民ら、70年超慰霊続ける」より 2016年6月16日

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宮崎県児湯郡川南町トロントロンにある、川南護国神社の空挺落下傘部隊発祥之地碑。厳密な意味での「発祥」は浜松陸軍飛行学校であり、川南は陸軍空挺部隊が4個連隊へ規模を拡大した地です。

和歌山県の霊場・高野山。まだ観光客が少ない早朝に散策すると、この地に記された長い歴史を実感できます。陸軍空挺部隊の慰霊碑「空挺落下傘部隊将兵之墓」が安置されているのも高野山ですね。
ただし、和歌山県に陸軍空挺部隊が駐屯した史実など一切ありません。

千葉県の陸上自衛隊習志野駐屯地では、空挺館で旧軍落下傘部隊の資料が展示されています。自衛隊と日本軍の区別もつかないのか、ここが旧軍落下傘部隊の拠点であったかのように勘違いしている人もいます。
しかし、習志野で陸軍空挺部隊が演習を行ったのは1回程度。ほぼ無関係です。

熊本県の陸上自衛隊健軍駐屯地と沖縄県の摩文仁には、義烈空挺隊(第1挺進団挺進第1連隊第4中隊および第3独立飛行隊)の慰霊碑が設置されています。
健軍飛行場が義烈空挺隊の出撃地であり、沖縄が散華した場所だったからです。ただし、義号部隊が健軍に駐留していたのは僅か2週間程度。部隊結成からの大部分の期間は豊岡、浜松、唐瀬原、西筑波の各飛行場を転々としていました。

鹿児島県の知覧特攻平和館でも、高千穂空挺隊(第2挺進団)や義烈空挺隊の展示があります。
「知覧に落下傘部隊がいたのか!」と早合点する観覧者もいるようですが、陸軍特攻作戦の記録として館内に展示してあるだけで、鹿児島県と陸軍空挺部隊は全くの無関係です。
知覧では、ごく最近まで唐瀬原飛行場の説明展示が欠落していたのも(欠落の理由は不明。先年、昭和史談会さまの監修でようやく掲示されました)誤解の原因でしょう。これは知覧側の責任ではなく、特攻の記憶から目を逸らせ続けてきた「観光宮崎」の罪です。鹿児島に次いで多くの特攻隊員が出撃した宮崎は、なるべくして「忘れられた特攻の地」と化しました。

その宮崎県の高鍋町にも、陸軍落下傘部隊挺進第4連隊員の慰霊碑が人知れず設置されています。
冒頭のとおり、小丸川渡河演習で溺死した空挺隊員8名と、レイテ降下作戦で散った同僚たちの冥福を祈るためのものです。

高鍋町の南側にある新富町の航空自衛隊新田原基地には、「空挺歌碑」が設置されています。
陸軍新田原飛行場が、満州から移転した第1挺進団や挺進飛行隊の基地だったからです。

高鍋町の北側にある川南町にも、「空挺落下傘部隊発祥之碑」が設置されています。
この地が陸軍落下傘部隊の本拠地「唐瀬原飛行場」であり、かつ空挺隊員の慰霊施設「挺進神社」の在った場所だからです。

空挺歌碑
航空自衛隊新田原基地に設置されている空挺歌碑。中村第一挺進団長による陸軍空挺隊史のほか、高千穂空挺隊員や義烈空挺隊員が出撃前に詠んだ歌が刻まれています。
宮崎県新富町にて

水難事故
宮崎県高鍋町にある、挺進第4連隊小丸川水難事故の慰霊碑「八勇士殉職碑」拓本。唐瀬原飛行場から新田原飛行場への演習行軍中に起きた悲劇でした。
演習担当者の榊原中尉は責任を取って自決を図りますが、毒薬を求めて訪れた延岡市で医師が思いとどまるよう説得。しかし後のレイテ降下作戦で、彼の部隊は片道特攻に等しいタクロバン飛行場攻撃を志願します(地上部隊との連携作戦が前提だったのはブラウエン飛行場攻撃隊のみ)。溺死した部下たちの位牌を抱いて出撃した榊原中尉ですが、タクロバンおよびドラグ降下部隊はレイテ湾上空で全機撃墜されました。
冒頭に掲げたとおり、戦時中の水難事故については現在でも高鍋の人々による慰霊が続けられています。

国立病院1
川南町にある、陸軍落下傘部隊・挺進第3連隊兵舎の給水塔。挺進第1~第4連隊は、唐瀬原飛行場や塩付パラシュート降下場周辺に駐屯していました。国内に残る、唯一にして最大の陸軍空挺部隊の遺構です。
川南空挺基地は戦後の農地開拓で消滅しましたが、この給水塔だけは町のシンボルとして保存の努力が続けられてきました。観光パンフの表紙を飾ったりしてもいるのですが、宮崎県民以外には知られていません。
川南町唐瀬原にて、2004年撮影

高千穂空挺隊
高千穂空挺隊(第2挺進団・挺進第3連隊および第4連隊)が、出撃前に遺した「花負いて 空射ち征かん雲染めん 屍悔なく吾等散るなり」の碑文。レイテに降下した高千穂空挺隊ですが、悪天候により後続部隊の投入に失敗。米軍の反撃と飢餓地獄の逃避行により、白井挺進第3連隊長以下、第一波降下部隊は文字通り全滅します。生存者は、搭乗機が撃墜されて海上漂流中に捕虜となった4名のみでした。
残る高千穂空挺隊の予備兵力は、徳永第2挺進団長と斉田挺進第4連隊長の指揮下に分散し、フィリピン各地での死闘を展開します。
川南護国神社にて

こうして各地で慰霊が続けられる中、高野山が空挺部隊の慰霊を受け入れたのは、敗戦から11年後のこと。
陸軍空挺部隊とは縁もゆかりもない和歌山県に、なぜ慰霊碑が存在するのでしょうか?

因みに、陸軍空挺部隊の国内拠点は以下の三箇所でした。
・第1挺進集団司令部があった唐瀬原飛行場(宮崎県児湯郡川南町)
・第1挺進飛行団司令部があった新田原飛行場(宮崎県児湯郡新富町)
・滑空歩兵連隊と滑空飛行戦隊の訓練地であった西筑波飛行場(茨城県つくば市)

日本陸軍空挺史を知りたければ、先ずこの3飛行場について調べましょう。

「陸軍落下傘部隊の慰霊施設は高野山のみ」という短絡思考は、こと「空の神兵」を美化・賞賛する人々に目立ちます。
通常、何かの碑に対しては対象の成り立ちやエピソード、建立に至る経緯などが掘り下げられるのですが、陸軍落下傘部隊の慰霊を語る者が口にするのはパレンバンやレイテの戦闘場面ばかり。対象の部隊がどうやって誕生し、どこで成長し、個々の隊員がどのような日常をおくり、なぜ高野山へ建てられたかの経緯は完全無視です。
彼らが落下傘部隊史のバックグラウンドに目を向けず、せいぜいお手軽ネット検索で調べた気になった結果、戦場の武勇伝ばかりに偏向している証でもあるのでしょう。

その手の人々による「口先だけの慰霊」を見せつけられては、「英霊を讃えよ」という言葉が空しく聞こえます。

「空の神兵」を真に讃えてきたのは、ネット上で聞きかじりの武勇伝を喧伝する軍事オタクではありません。それぞれの地域で、半世紀以上も慰霊碑に手を合わせ、花を手向け続けてくれた人々なのです。
そういった人々にもきちんと目を向け、取材し、記録してきたのは、もちろんミリタリー雑誌などではありません。地道な取材活動による貴重な記録を残してくれたのは、軍事オタクが「マスゴミ」などとあざける地元紙の記者。そして丹念に歴史を掘り起こしてきた郷土史家でした。

その体たらくを見ていれば、「口先だけの慰霊」などと揶揄したくもなるのです。

前提条件として、陸軍空挺部隊の慰霊を語る者は、挺進神社の存在とその焼失から説明してください。聞かされる方は高野山慰霊碑建立の経緯なんか知らないのですから、慰霊史を調べて説明するのは解説者としての義務でしょう。
誰も彼も、なぜそこを省略するのですか?まさか、解説する側のくせに陸軍落下傘部隊の歴史すら調べていないの?

戦後70年間、「空の神兵」を蔑ろにしてきたのは一体誰なんですかね。

戦争遺跡
川南護国神社(宮崎県児湯郡川南町)

【空挺兵舎の幽霊事件】

その勇ましさばかりが喧伝される陸軍落下傘部隊。
書籍やネットで取り上げられるのはパレンバン降下作戦をはじめとする派手な活躍ばかりです。
だから、敗戦によって宮崎県の空挺部隊がどのような運命を辿ったのかを知る人は少ない筈。川南から殆んどの空挺部隊施設が消滅してしまった現在、かつて「軍都」と呼ばれた時代の記憶は薄れてきています。

さて。
嘘かマコトか、敗戦直後の宮崎県児湯郡川南で「空挺隊員の幽霊が出た」という騒動の記録があります。
バカバカしいと思われるかもしれませんが、この事件は川南護国神社の碑文や地元新聞でも取り上げられているんですよね。

まずは、川南護国神社建設の切っ掛けとなったこの事件について記します。

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「川南護国神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」より、護国神社建設の経緯が記してあります。

川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来
昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった 
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である

平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同

川南護国神社の碑文より

空挺部隊の基地であった面影を唐瀬原に残すのは、一基だけの給水塔だけだろうか。
かつては九つあったという。
戦友、遺族が川南町護国神社に「空挺部隊発祥之地」の慰霊碑を建てたのは六三(同三八)年。日本の神兵桜に守られて立つ。
戦後すぐにこんなうわさが立った。
空挺部隊の旧兵舎を校舎にしていた宮崎師範学校で、「夜になると白い体操服姿の青年たちが走り回る」と。
この年、落下傘部隊戦死者の霊が慰められた

宮崎日日新聞特集記事「空の神兵の悲話」より

その後、誰れ言うとなく、この神社の森の中で夕方になると、大勢の兵士達がザク〃〃と軍靴の音をたてゝ行進し、森の奥に入ったかと思うと、しばらくして軍歌が聞こえてくる。
遠くなり近くなり、さもこの地で、あたかも兵士達が教育を受けていたかの如く、当時そのまゝである。
当時の新聞まで載り騒がれたというが、誰れいうとなく、これはまさしく一萬の英霊が社を焼かれ、その果てにこの森にさまよっているのだ

「川南開拓史」より

戦後の川南で起きた幽霊騒ぎ。
碑文にある通り、これはある出来事に端を発していました。

【空挺部隊と挺進神社】

昭和19年、睦地区にあった陸軍挺進練習部(落下傘部隊の訓練司令部)本部庁舎右手に挺進神社が建立されます。
これは、コンクリートで固めた高さ1メートルの台にたつ小さな社で、戦死および殉職した空挺隊員を祀るものでした。
同年秋、挺進練習部は「第一挺進集団」に改編されてフィリピンへ出撃。第二挺進団「高千穂空挺隊」のレイテ降下作戦や滑空歩兵連隊によるルソン防衛戦で、米軍との死闘を演じることとなります。降下作戦を支援する挺進飛行隊や滑空飛行戦隊も、少なからぬ損害を被りました。
第一挺進集団のうち、国内には第一挺進団の2個空挺連隊、挺進整備隊、挺進戦車隊のみが温存されました。留守を預かる第一挺進団司令部は、神社の管理も担当しています。
戦時中、数多くの空挺隊員が南方で、沖縄で、訓練基地のある宮崎や茨城で命を落としました。
挺進神社は、彼等を末永く弔うためのシンボルだったのです。

昭和16年、浜松飛行学校から満州国白城子飛行学校へ移転した陸軍落下傘部隊は、実戦化へ向けた研究と訓練を開始しました。
しかし、白城子は年の半分が雪に閉ざされ、訓練不可能と判明。迫る日米開戦へ向け、わずか3か月ほどで内地への帰還が決定されます。
選ばれたのは、冬でも温暖で軍用飛行場とパラシュート降下場を確保できる宮崎県でした。
昭和16年、満洲から宮崎県新田原飛行場へ移転した陸軍落下傘部隊は、猛訓練を開始します。危険の多い部隊ですから、当時の挺進連隊は兵舎近くの宮崎神宮や日向住吉神社に安全祈願を依頼していました。
日米開戦後、戦地へ投入された空挺部隊では、多数の隊員が命を落とします。戦況の激化により、更なる犠牲も予想されました。
そこで、川南の挺進司令部では独自の戦没者慰霊施設設置を計画しました。
挺進練習部本部庁舎右手に「挺進神社」が建立されたのは、昭和19年のこと。これは、コンクリートで固めた高さ1メートルの台に立つ小さな社で、戦死および殉職した空挺隊員を祀るものでした。
同年秋、挺進練習部は第1挺進集団へ再編。
塚田集団長率いる第1挺進集団(挺進集団司令部、第2挺進団、挺進飛行戦隊、滑空飛行戦隊、滑空歩兵第1連隊、滑空歩兵第2連隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊)はフィリピンへ出撃。
川南には、本土防衛に備えて第1挺進団(挺進第1連隊、挺進第2連隊)、挺進戦車隊、挺進整備隊のみが残されました。
神社の管理も、留守を預かる第1挺進団司令部が担当しています

そして昭和20年夏、日本は敗北。同時に、川南の第1挺進団には塚田集団長不在のまま戦後処理が命じられます。
東京へ呼び出された第1挺進団長には「唐瀬原飛行場と塩付パラシュート降下場の農地開放」が指示され、千歳や福生で出撃準備中だった特攻部隊もそのまま解散。
米軍九州上陸に備えて川南一帯に備蓄していた軍需物資も、宮崎県側に移譲されました。
10月になって宮崎県へ展開し始めた進駐軍は、復員業務の促進、武器装備の捜索、地元に帰農した挺進団幹部や元空挺隊員の動向監視など、川南の空挺部隊を徹底的に解体します。
戦地から復員してくる空挺隊員の療養・就職先として、元隊員らによる霧島温泉地での運送会社設立も検討されました。しかし、進駐軍は空挺隊員の再集結を阻止。
昭和20年11月30日に残務処理班も解散となりますが、メンバーは国立宮崎療養所(旧唐瀬原陸軍病院)に職員として潜入します。これは、やがてフィリピンから帰国してくるであろう空挺傷病兵たちを受け入れるためでした。

【挺進神社焼失】

戦後の川南では大規模な農地開拓がスタート。同地の空挺兵舎群には入植開拓者や空襲で焼け出された宮崎師範学校が間借りする事となりました。
戦後処理にあたる第1挺進団長の中村勇大佐(当時、塚田挺進第1集団長や徳永第2挺進団長はフィリピンに展開中)は、その後も川南に留まります。
戦後、借家を引き払った後はあばら屋に住み(この家は、団長の困窮生活を見かねて挺進司令部の木下大尉が高鍋町役場から貰ってきた廃材で作ったものでした)、農作業の傍らパラシュート降下場跡へ入植する元空挺隊員の帰農支援や挺進神社の世話を続けていました。
しかし、とても挺進神社の管理までは手が回りません。神社の管理は、空挺兵舎に寄宿する宮崎師範学校へ委託されました。

川南村に進駐軍が姿を現したのは、翌年初夏のことです。

竹山の藷畑も順調に伸びた頃である。
部落の人が日向日々新聞に「白衣の軍歌と駈歩に悩まされている師範学校生徒」という見出しで、落下傘部隊跡に移住した師範学校寄宿舎の生徒が、白衣の亡霊の軍歌や駈歩に悩まされて眠れぬ云々、という記事が出ていると告げてくれた。
それと前後して、挺進神社が進駐軍に焼払われたという噂も耳にしたので、取るもの取り敢えず一里の道を駆けつけてみると、豊原の森と調和のとれたあの美しい社が、跡形もなく消え失せているではないか。
茫然自失、夢ではないかと疑いながらよく見れば、コンクリートの台上には、冷たい焼釘が散乱して哀れをとどめている。
庶務の先生が言うのには、数日前にアメリカの兵隊が役場の吏員を伴って現れ「学校の庭に神社があるのは怪しからん。直に焼払え、中村大佐にも申渡してある」と言うので、命ぜられる通り焼払ったのだとのことである。
祭政一致を目の仇にしている占領政策、しかも散々米軍を悩ました精鋭部隊の戦死者を祭る神社ともなれば、早晩辿るべき運命であったかもしれないが、我々に一言の断りもなくとは、無念の涙は止めどなく流れた。
知らされておれば、英霊をどこかに遷座することもできたのに。
白衣の亡霊とは、かつて体操衣袴を着て営庭を走り廻った亡き将兵の姿であろう。
軍歌の響とは魂の宿る処を失った慟哭であろう。
私はいても立ってもおれない気持に襲われた
(中村勇氏)

焼跡から拾い集めた釘を、中村団長は御神体として神棚に祀ります。

その頃、唐瀬原在住の石川富之助さんはトロントロン(実在の地名です)にある招魂堂の再興を考えていました。この慰霊堂は地元から出征した戦死者474柱を祀るものでしたが、終戦直後の枕崎台風で損壊していたのです。
落下傘部隊や212師団(菊池兵団)の元隊員が多数入植する川南には進駐軍も監視の目を光らせており、元軍人の行動には徹底的な妨害工作を展開。地元の人々もそれを恐れて再建の動きはみられませんでした。

【川南護国神社の建設運動】

いつまでも石川氏の厚意に頼る訳にはいきません。
川南へ帰農した空挺隊員たちの間では「挺進神社を再建したい」と言う声が高まりました。
一部の空挺隊員は貸与された開墾用地を神社敷地に転用しようと計画しますが、進駐軍が空挺部隊の動向に目を光らせていた時代です。結局は農業以外への使用を咎められ、神社再建計画は頓挫しました。

いっぽうの中村団長は「挺進神社の再建は困難」と判断、川南全体の戦没者慰霊を目的とした神社建設運動を始めました。
新たな慰霊施設は、挺進神社から南方へ3kmほど離れたトロントロン(実在する地名です)の戦没者慰霊堂跡地を再建する形に決定します。
中村団長らは焼失した戦没空挺隊員の名簿を復員局で書き写し、川南の人々も進駐軍に怯えながらも神社の建設に着手。こうして、昭和24年に川南護国神社が完成します。
幸いにも進駐軍の妨害はなく、第一回慰霊祭にはたくさんの人が参列しました。
以降、陸軍空挺部隊と川南出身戦没者の合同慰霊祭はこの神社で開催されています。

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11月23日、トロントロンのお祭りの日。近年は資金難により、軽トラ市に変更されています。

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護国神社への入口

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賑やかな歩行者天国から脇に入ると、護国神社で慰霊祭が執り行われていました。

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戦争遺跡
開催合図の花火以外は派手な催しなどなく、慰霊祭は終始淡々と進行します。

義烈空挺隊
2009年の川南戦没者慰霊祭風景。途中、地元中学校の生徒さんが奉納の舞を踊ります(年によって舞が無かったり、4~2名に増減したりします)。空挺部隊の著作で知られる田中賢一氏も、この頃までは式典に参列されていました。私が川南史を調べ始めた1998年当時に比べても、参列者数や式典内容は年々縮小の傾向にあります。

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カーキ色の物体は旧軍の落下傘。

【川南から高野山へ】


川南護国神社が完成してから6年後、和歌山県の高野山にて「陸軍空挺落下傘部隊英霊碑」の建立計画が持ち上がりました。
戦没空挺隊員の慰霊に奔走する中村勇団長と元挺進第3聯隊付軍医の中村秀雄氏により、「聖地である高野山に建墓しよう」という事で意見が纏まったのです。

高野山でなくてもとの意見は、当然あると存じます。
日向の地を離れることについては釈然としない方もあるようで、他の地につていも色々と考えましたが、東京駅頭も、銀座の真中も人目にはつくでしょうが、やはり霊は霊地にあるべきで、日本全国から霊が集っていて、全国の人の参拝の絶間ない処で、最も幽玄な地と思って高野山を選びました。

中村秀雄氏の証言より 昭和31年

高野山本山の近藤本玄大僧正もこの申出に賛同、墓域の付与を許可します。
こうして、高野山には戦没空挺隊員の名簿が収められました。

昭和31年9月21日、川南護国神社から高野山への英霊奉遷式典がおこなわれます。戦没空挺隊員の名簿作成に協力した防衛庁は、赤江飛行場(宮崎空港)に航空自衛隊のC46輸送機を派遣。
川南町から宮崎市までの位牌1万2千柱の輸送は、陸上自衛隊都城駐屯地の第43普通科連隊が担当しました。

美しい川南を英霊を先頭にして、日の丸の小旗を振って送ってくれる町の人達と別れ、つわもの共の夢の跡を辿りながら、十三里の日向路を赤江飛行場に向う。
昭和十八年の渡河演習で、一瞬にして八名を呑んだ恨みの思出を持つ小丸川。それを渡れば高鍋である。
英霊にも懐しい町並を抜け、更に南下して、最近竣工した一ツ瀬川橋梁を渡る。
右後方に紫色に霞むのが新田原の台である。
こゝで降下訓練を行うとき、日向灘から進入すればこの国道の上では既に扉を開いて降下姿勢をとっている。
“まなじり高きつわものの、いづくか見ゆる幼な顔”。決死の訓練が反復されたのである。
川は昔のまゝに流れ、台上は変ることなく紫色につゝまれているが、紅顔の若人達は今何処。
万感交々迫り来る。
一時四十分赤江飛行場を離陸、思出の日向の山野にもう一度別れを惜しみ、C-46輸送機は伊丹に向う。

全日本空挺同志会「高野山建墓の由来 英霊ここに眠る」より

関西へ到着した位牌は、翌日に陸上自衛隊太山演習場へ移動。ここで、習志野から派遣された陸自空挺教育隊40名および海上自衛隊員若干名による記念降下が披露されています(悪天候により半数のみ降下)。
演習終了後、位牌は高野山へ運ばれました。
9月23日午前10時、高野山に建墓された「空挺落下傘部隊将兵之墓」の納霊・除幕式典が開催されます。

この年以降、陸軍空挺部隊の総合慰霊は、川南護国神社と高野山の二箇所へ分れました。高野山は9月、川南は11月と、高野山へ遷座してからも、川南での空挺慰霊祭は続けられています。
陸軍空挺部隊が訓練に励み、戦地へ向かったのはこの町なのですから。

昭和三十一年九月二十三日、夜来の高野時雨に浄められた霊山には秋波の陽光が輝いていた。
晴れ上つた高空に老杉は筆管の直なる如く森々と伸びて百尺余、古苔に寂びる墓石は幾多古人名将知士の物語を秘めて、万山万径を埋めつくし
老杉、古石、法灯連綿として、大聖、弘法大師山を開かれて一千数百年、高野山は正に天下の霊場である。
終戦後旬年、生還した落下傘部隊ゆかりの者が相集い発起、空挺関係全戦死者をこの高野山上に祀ることになり、九月二十一日、川南慰霊塔から遷座、赤江空港(※現在の宮崎空港)より自衛隊機で一万二千有余の霊こもる御位牌を大阪伊丹空港に空輸。
二十二日信太山に於て、習志野空挺隊の慰霊の降下演習を実施され、翌二十三日、戦友遺族、自衛隊挺進部隊関係者、大阪、和歌山県知事、その他来賓多数参席の上、納霊除幕式が行われた。
高野山真言宗管長、総本山金剛峯寺座主、近藤本玄大僧正、全山の浄侶を従へ着座。十時、国歌斉唱、読経、開眼顕彰の祭典が挙行された。
宮内庁御下賜供花、一対の麗花白砂に映えて燦と輝く。
祖国日本の弥栄を願い後に続く者を信じ空挺落下傘部隊将兵の霊は此処に静かに眠る。
の碑文と正面に京都鞍馬の清流の底から見つけて来たという自然石に弘法大師の真筆と認められる歓頂記の中の“空”の文字一字は空挺落下傘部隊の最初の文字であり、
一切空の亡き友の心に通ぜよとの心ぐみを含めて刻まれたとの事でした。
白砂は京都白川のそれとのことでした。
挺三部隊員、僅かの生存者として、宮崎住の野口、都城自衛隊の高橋両君と倶に、川南の忠霊塔前から高野山頂迄、英霊と詣に供し生還した者の責務のいくらかを果し得た様な気持ちでした。
高野山不動院の一室で成瀬君の御両親と出会い、全く言葉もなく、あの日私のとった措置はよかったんかなーと再考致したわけでした。
しかし当時、兵員の体力は極度に衰弱して居り、たゝ気力、精神力のみの行軍で、山をこえ、谷を渡り、かすかなうさぎ道を辿る路傍には友軍のかばねが、既に骨になり、又腐臭を放ち、今息絶えた惨姿が累々として続く、換言すれば三途の川、死生の山路もかくやと思へる苦難行のきわとて全く致し方なかつたのであつた。
ちなみに成瀬君の父君は東京都大島之元町の町会議長さんで旧年、鹿児島市にて開催の離島対策協議会の砌り、小林に立寄られ、一緒にえびの高原等案内致し、次で故田鶴雄君訓練の地、川南部隊、唐瀬原降下場附近を回遊され、感慨無量の面もちであられました。

挺進第3連隊 中園健一「落下傘部隊の思い出」より

空挺慰霊祭
陸上自衛隊の第一空挺団長は毎年参列していますが、2011年の慰霊祭では多数の空挺団員も参列しました。

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慰霊祭当日、川南町役場に並んでいた第一空挺団の車両群。わざわざ千葉県から九州までやってきたんですね(月末の新田原基地航空祭にも出演しています)。
2010年の口蹄疫騒動のときも、陸自の防疫部隊がここに集結していました。そちらはあまり思い出したくない光景ですが。

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この年の慰霊祭は生憎の雨でした。全員が静かに参列し、静かに解散します。

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式典終了後、空挺落下傘部隊発祥之碑を見学する陸自隊員たち。

川南護国神社慰霊祭が開催されるのは毎年11月23日。この半世紀、川南町の人々によって継続されてきました。参列者は元空挺隊員や地元の遺族会、宮崎県や川南町といった自治体や陸自・空自・空挺団関係者など。
たまに地元テレビ局や自衛隊の広報関係者が取材に訪れており、何年か前までは唐瀬原中学校の生徒さんたちが熱心に記録撮影を続けていました。郷土のアーカイブとして、是非とも保存していただきたいものです。
参列する空挺隊員やご遺族が年々減少する中、慰霊祭が「世代交代」によって変質する可能性はないのか。本来の姿を伝え続けるためにも、慰霊祭の記録はとても重要なのです。

【式典風景】

慰霊祭の開催時間中、会場には空挺隊の歴史を描いた絵画17点が飾られます。
この絵画は2セット制作され、1セットは陸上自衛隊、もう1セットは川南町が保管しています。

戦争遺跡
挺進第3聯隊のレイテ降下作戦と挺進第4聯隊のバレテ峠攻防戦

戦争遺跡
挺進第1聯隊の天覧演習と挺進第2聯隊のパレンバン降下作戦

戦争遺跡
滑空部隊の第1挺進戦車隊と第1挺進機関砲隊の演習、第1挺進工兵隊のバギオ攻防戦

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慰霊祭終了後。
設営から後片付けまで、慰霊祭は川南町の人々によって支えられています。

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慰霊祭のあと、川南護国神社で見かけた仔猫

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食べ物の匂いに釣られたのか、屋台の方へ行ってしまいました。



川南の幽霊騒動は、護国神社の完成と共に忘れ去られました。
しかし、冒頭に取り上げた挺進第4連隊員の小丸川水難事故関係でもこんな話が残されています。

小丸川渡河訓練での殉職者を祭った記念碑を毎月お参りする高鍋町持田、農業黒木三夫さん(七一)」は十年ほど前にこんな体験をした。
事故があった前日に当たる六月十七日に供養をして煮しめ、魚、酒などのごちそうを慰霊碑にささげた。
その時、どこからともなく「ありがとうございます」と兵隊調の澄んだ声が響いたという。
黒木さんだけではなく、そこにいた複数の人がその声を耳にした。
若々しい空の神兵たちが、天から私たちを見詰めているのだろうか。

宮崎日日新聞特集「空の神兵の悲話」第4回より 

オカルトや宗教を全く信じない私は、幽霊騒動の真相が何だったかなど知る気もありません。
くだらないと嘲笑う気も、興味本位の怪談として取り上げるつもりもありません。

幽霊騒動を、挺進神社喪失に因るものと真摯に受け止めた人々がいたこと。
多くの戦没者を悼むため、現在も慰霊行事が続けられていること。
その発端でもある幽霊騒動は、川南慰霊施設再建への努力や八勇士の碑保存にまつわる地元の人々の厚意を語る上で忘れてはならない出来事です。
川南町の戦後史や陸軍空挺部隊史に記されるべきエピソードであり、怪談扱いは避けるべきでしょう。

ただ、世の中にはオカルトに興味本位で飛びついたり、空挺給水塔のような戦跡をわざわざ心霊スポットに仕立てたがる人がいるのは仕方ないのでしょう。
しかし、もしユーレイがいたとしても、空挺給水塔のある唐瀬原地区に出てくる筈がありません。唐瀬原に居た挺進第3連隊が壊滅的な損害を受けたのは、フィリピンのレイテ島なのですから。

幽霊騒動が起きたのも現在の県立畜産試験場付近であり、空挺給水塔の場所とは随分と離れていますよね。
期待している人には申し訳ないのですが、給水塔や畜産試験場は心霊スポットにはなり得ません。試験場あたりで夜中に幽霊が出たとしても、それに気付くのは畜舎の牛さんくらいでしょう。

ただ、空挺給水塔の周囲には本当に「出る」ので気を付けてくださいね。特に夏場から秋が危ないそうです。
噛まれると大変ですよ。
毒蛇ですから。

まむし
挺進第3連隊跡地にて

空挺落下傘部隊発祥之地

Category : 空挺落下傘部隊の碑 |

川南護国神社の裏にある広場には、「空挺落下傘部隊発祥之地」と刻まれた石碑が立っています。
この碑は川南を本拠地としていた陸軍落下傘部隊を記念するもので、基礎部分にはレイテに降下した高千穂空挺隊員の詠んだ歌が刻まれています。

「発祥の地」とありますが、実際に陸軍落下傘部隊が創設された場所は静岡県浜松の陸軍飛行学校。
川南は、研究段階にあった空挺部隊が実戦レベルへと移行し、4個連隊規模へと成長した場所です。


空挺慰霊碑
空挺慰霊碑
空挺慰霊碑

川南護国神社の空挺碑文より
「川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来
昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった 
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である

平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同」

海軍赤江飛行場掩体壕群(宮崎県宮崎市大字赤江)

Category : 宮崎市の戦跡 |

そこには、竹垣の中に、まだ木の香も匂ふやうな新しい墓標が立つてゐた。
海軍少尉以下十二名と墨書で書いてある。
何處の方なのか、などといろんなことを思ひながら、しつかりと手をあはせて御冥福を祈る。
此処も、かつては海軍特攻隊の基地であつたのだといふ。
この付近の部落のひとびとはもちろん、此處に訪れた占領軍の将校や、飛行機で着陸した兵隊達も必ずお詣り草花を忘れないのだといふ美談をきき、私はおもはず瞼が熱くなる。
その日も両端においてある二本のビールびんには、しきみがさゝれて、風にさらさらとかすかに葉がすれあつてゐるのであつた。


清水ゆき「新しき村を見る・赤江飛行場跡の巻」より 昭和20年

戦争遺跡
宮崎特攻基地慰霊碑
宮崎基地より出撃した銀河特攻機47機、搭乗員140名並びに陸海攻撃、雷撃作戦に出撃した605名が散華しました。
このゆかりの地に鎮魂の碑、墓銘碑を建立しております。
平成11年3月
宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会


九州では、福岡空港とならんでアクセスが良い宮崎空港。
利用された人は御存知かと思いますが、この空港の滑走路脇には奇妙な物体が並んでいます。
あれは、日本海軍が軍用機を守るために建設した「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる格納シェルター。陸軍の飛龍や海軍の銀河といった爆撃機を収容する大型のものと、零戦など戦闘機を収容する小型のものが確認できます。

宮崎空港の前身は、戦時中に建設された「海軍赤江飛行場」です。
現在のノンビリとした光景からは想像もできませんが、かつてはこの飛行場から数多くの陸海軍パイロットが沖縄海域の米艦隊へ向けて飛び立っていきました。

鹿児島県の知覧にある特攻平和会館は、「陸軍の特攻作戦」を展示対象とした施設。だから、宮崎県から出撃した都城東陸軍飛行場、都城西陸軍飛行場、陸軍落下傘部隊の特攻記録は展示してあっても、「海軍の特攻作戦」の拠点であった赤江飛行場や富高飛行場は取り上げられていません。
知覧を訪れる人も、宮崎空港の特攻史について知る事は出来ません。
それらの記録作業すら他県に丸投げしてきた結果、宮崎県は「忘れられた特攻の地」と化しました。
宮崎に関わる多数の犠牲者たちのことを、県外者どころか県民も忘れてしまったのです。

赤江飛行場の掩体壕は、有蓋(コンクリート製シェルター付)中型が7基、有蓋小型が7基、無蓋中型が37基建設されました。
その殆んどは戦後の開発で撤去されましたが、現在でも有蓋中型4基と有蓋小型3基が残っています。
コレだけ纏まった遺構が保存されているのは全国でも貴重なケースでしょう。しかし、宮崎県は長らくその歴史的価値を認めようとしませんでした。
県民がコレだから県外の人は尚更です。「日本の戦争遺跡」的な書籍は多々ありますが、宮崎方面は完全に無視されております。
対する宮崎県側からの情報発信も微々たるモノ。他県で見られるような「もしかしたら観光資源として活用できるかも」という貪欲さすら皆無です。

陸の孤島とは哀しいものですねえ。

「戦争の悲惨さを忘れないようにしましょう」という言葉が、ここ宮崎では空しく聞こえます。
戦争が終わって半世紀以上たちますが、特攻と正面から向き合ってきた知覧と違い、「観光宮崎」は忌わしい特攻の記憶から目を逸らせてきたのでしょう。
開発を免れた赤江、南郷、細島、木脇、崎田、新田原、唐瀬原の戦争遺構は地域に埋没し、都城の特攻基地3か所は完全に消滅。日向に残っていた最後の掩体壕も道路工事により破壊されました。
地域の歴史を伝えるべき県立博物館ですら、その辺に触れた展示は見事に皆無。終戦記念日に図書館の片隅で戦時史コーナーが開催される程度でしょうか。それら貴重な戦時史料も、住宅地にある小さな戦争記録継承館に「隔離」されたままです。
それ以外で宮崎県と特攻の関係についてキチンと取り上げた公的施設は、都城市立歴史資料館および陸上自衛隊都城駐屯地と航空自衛隊新田原基地にある資料館だけ。
地元メディアや地域の人々による、史跡保存への取り組みだけが救いです。

そうやって地域の歴史を粗末に扱いながら、天孫降臨がどうたらとかいうアピールだけは熱心なんですよね。
これ以上は愚痴になるのでハナシを赤江飛行場史に戻します。

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最近では、掩体壕を活用しようという動きも始まりました。赤江の2号掩体壕前広場で開催された地域イベントの様子。2016年撮影

宮崎県赤江町(人口14067名)の空に日本軍の飛行機が現れるようになったのは、昭和15年春頃のこと。
そして、昭和16年3月15日には海軍から飛行場建設計画が打診されます。真偽は不明ですが「かつて赤江沖に不時着した飛行機を、地元住民が救助してくれたことが選定理由」という説も。
説明会場に集合した町民150名は突然の話に騒然となります。しかし、用地買収の説明をおこなった海軍士官は「天皇陛下万歳」の斉唱を全員に強要。ウヤムヤのうちに「御国のため協力しろ」という空気が出来上がってしまいました。

立ち退きの期限は1年後という約束でしたが、工事は翌月10日から着工。土砂を運び込む軽便鉄道建設や河川の迂回改修がどんどん進捗して行きます。追い立てられるかのように、同年末までに全住民が退去させられました。
住民立ち退きと用地買収後、海軍および逓信省大淀川改修事務所の主導によって工事は本格化。
工事中も、赤江町に対する圧力は強まる一方でした。
昭和17年12月24日、こんどは長船克己宮崎県知事が杉田福一赤江町長らに対して宮崎市への合併を要請。
続いて26日、海軍呉鎮守府参謀長より重ねての合併要請が届きます。

呉鎮機密第五七八號
昭和十七年十二月二十六日 呉鎮守府参謀長
長船宮崎縣知事殿

宮崎縣赤江町ヲ宮崎市ニ合併希望ノ件照会
貴縣赤江町所在海軍施設近ク完成ノ運ビニ相可成候處、本施設開始後ハ勤務員ノ生活必需品配給、居住竝ニ慰安施設ノ實施其ノ他相當重要ナル問題有之到底赤江町ノミノ能力ニテハ萬全ヲ期待シ難ク就者曩ニ大分航空隊所在東大分村ガ大分市ニ合併シ、鹿屋航空隊所在鹿屋町ガ附近町村ヲ合併シテ鹿屋市トナリタル前例モ有之先般來赤江町ヲ宮崎市ヘ合併ノ内儀アルヤニ仄聞致居候間此際可成速ニ右實現方御取計相成様切望スル次第ニ候


飛行場建設によって耕作地300町歩とその分の税収を失った上、宮崎市への合併を強要された赤江町は当然ながら猛反発。
しかし軍の要請とあっては仕方ありません。
翌年2月12日の赤江町会にて「この秋に当たり、宮崎県知事長船克己閣下突如わが町に大宮崎建設の雄図を披瀝せられわが町の来たり投ずるの有利なるを具に懇説し、聖恩の萬分の一に答え奉り一は子孫永らく幸慶をともにせんことを」との意見書が出されました。
昭和18年4月1日、赤江町政は青木善祐宮崎市長へ引き継がれます。

同時期、大淀川右岸の津屋原一帯が飛行場建設の土砂採取場となり、ここでも住民の集団移転がおこなわれます。
建設会社、付近住民、朝鮮人労働者、少年祖国振興隊、勤労報国隊、婦人挺身隊などの人海戦術で飛行場の建設は進められました。
土砂に埋まっていく自分の田畑を見て、作業に参加する付近住民の気持ちは複雑だったとか。
そして昭和18年12月、宮崎市の赤江地区に総面積371万4800㎡もの海軍赤江飛行場が完成しました。
飛行士の兵舎は現在の月見が丘に、対空機関銃陣地は滑走路を取り囲むようにして、高射砲陣地は現在の稲荷山・赤江中学校付近・希望ヶ丘団地付近にそれぞれ設置されました。

昭和18年12月から海軍パイロットの訓練施設としてスタートした赤江飛行場ですが、戦況が激化した19年7月20日には実戦部隊の基地へ転換。海軍721航空隊および陸軍飛行第7戦隊の展開に続き、台湾方面に備えて第762航空隊の拠点となりました。
10月から始まった台湾沖航空戦では、赤江飛行場に集結した攻撃部隊148機が出撃。
そして昭和20年2月15日以降、赤江飛行場は陸海軍共用の特攻機出撃拠点と化しました。
3月11日、梓特別攻撃隊の特攻機が赤江飛行場から初出撃。それから3月27日までに、第1~第10銀河特別攻撃隊が続々と特攻へ飛び立ちます。
台湾沖航空戦から沖縄戦にかけて、赤江飛行場の特攻隊員140名および雷撃機(※敵艦を魚雷で攻撃する飛行機のこと)の隊員605名が沖縄の空で戦死します。飛行場への空襲などで、この地で犠牲となった人々も少なくありません。

時々、宮崎空港で戦時中の不発弾が発見されて騒ぎになりますよね。
こんな地方都市が猛烈な爆撃を受けた理由は、九州南部の飛行場群が沖縄へ侵攻する米軍にとって脅威だったからです。
赤江飛行場が最初の攻撃を受けたのは昭和20年3月18日。それ以降、赤江一帯は激しい空襲に晒され続けました。

入口

昭和20年3月18日、都井岬沖の空母を飛び立ったアメリカ軍艦載機が九州南部を奇襲攻撃。いわゆる九州沖航空戦が始まります。都井岬や細島のレーダー基地は敵機来襲を察知していたものの、赤江・新田原・都城の戦闘機が応戦した記録はありません。情報共有に欠けていた県内の各飛行場は為す術も無く破壊されました。
九州沖航空戦で宮崎を襲撃した米軍機は延740機。2日間の攻撃で宮崎県では123名が犠牲となりました。
初空襲の状況については、幾つもの証言が残されています。

昭和20年3月18日、私は弟を連れて本家の庭で遊んでいました。すると突然警戒警報のサイレンが鳴りはじめ爆音が近づいてきました。
たちまち空襲警報のサイレンに変わり、すぐ前の山から飛行機が飛んできました。私は漠然と目前に飛んでくる飛行機の数を数えはじめて、25~6機数えた時、星☆をまる〇で囲んだ印に気付きました。
その時初めてこれは敵機だと言うことがわかったのです。
日本の飛行機は3機ずつ並んでいたのに、これは4機ずつ編隊を組んでいました。
これはたいへんだと思って弟を背負って蜜柑山の防空壕まで走りました。防空壕から飛行機の様子を見ていたら、横に広がりはじめ、東の方向に向かって飛んで行きました。近くの田圃にいた人たちや、道路を歩いていた人たちがつぎつぎに私の家の蜜柑山の防空壕に登ってきました。
私は恐かったけどみかんの木が大きかったので枝を掻き分けて見ていました。
上空で飛行機は回りはじめました。「あれは赤江飛行場に行くわ」と口々にいいながら見ていたら、我が軍が高射砲を射ちはじめました。だけど敵の飛行機にはなかなか当たらず、敵機の後の方で破裂するので、みんなが「まこち辛気なねー(訳:本当に歯痒いね)」と口々に悔しがっていました。
するとその時、我が軍の飛行機が一機、敵機のなかに突っ込んでいったのです。
みんなは思わず「行け、行け」といって声援を送りました。何十機といる敵機の中に向かっていったのを見てみんな喜びました。
敵の飛行機は見る見るうちに赤江飛行場めがけて爆撃をはじめました。
上空では敵の飛行機と上になり、下になりして戦闘が続けられ、何回か回っている時、その中の1機が黒いけむりを吐いてくるくると回りながら落ちていきました。
すると「今のはどっちの飛行機がやられたっか?」と口々にいいだしました。
岩見田方向の山の上には真っ黒な煙が空高くあがっていました。
回りは爆弾の破裂する音、爆撃のため急降下する飛行機の音等がしばらく続きました。
父達はこれじゃ赤江飛行場はだいぶやられたわといっていました。
次の日に大きな損害が出たこともわかりました。
そして落ちっていった飛行機も我が軍の戦闘機だったことも判明しました。
あのたくさんの敵機の中に一人で立ち向かって行かれた人の気持ちは死を覚悟の戦闘だったと思いました

「赤江飛行場の爆撃」より、串間イソヨさんの証言

やっと夜が明けたという時刻だった。私たちは早速家の東側の小さな日だまりになるであろうところに木の椅子を準備し、散髪を始めた。
「どら、先、おまえんとつんでやっが(先にあなたの髪を刈ってあげましょう)」
小学(国民学校)五年生であった私を、高等科二年生であった義ちゃんが先に散髪してくれると言った。
義ちゃんは私の頭にバリカンを入れる時は、いつも額の上の真ん中からだった。
そこに私はじゅじゅまき(頭髪の渦)があって、義ちゃんは
「こんげな人はめったにおらんとやっど。大将かなんかえれえ人になっとじゃが(大将かなにか偉い人になるのでしょう)」
と散髪の度に言っていた。
そのじゅじゅまきに二度か三度バリカンを入れた時だった。さっきからウン、ウン、ウンと唸っていた音がはっきり聞こえてきたのである。
義ちゃんがバリカンを頭のうえに載せたまま、「おい、飛行機じゃっど」と言った。
私は上目使いにに東の空を見上げた。
日向灘上空に影絵のように黒い物体が一塊になってまっすぐに突き進んで来る。
「へえ!まだあんご飛行機が日本にゃあっとじゃろかい(まだあれだけの飛行機が日本に在るのでしょうか)」と義ちゃんは言った。
私は状況を掴みかねて、ただ呆然と見つめていた。
やがて、その黒い編隊の周りをとんぼ程に見える飛行機が纏わり付くように飛んでいるのが見えた。
地上には届いていない太陽の光りにキラッキラッと光っていた。
「こめえ飛行機が飛んじょっど。あら、日本の飛行機じゃねっちゃろかい。あんおっけね飛行機は敵機かんしれんど(ちいさな飛行機が飛んでいますよ。あれは日本の飛行機ではないのでしょうか。あのおおきな飛行機は敵機かもしれませんよ)」と私は言った。
今までに見たことのない大きな飛行機編隊だったからである。
小さな飛行機が大編隊を攻撃していると私は思った。
義ちゃんは「うーん、じゃろかいね(うーん、そうでしょうか)」とだけ言った。
だけど状況を知る電撃的なことが起こった。
黒い編隊の周りで爆煙が次々と散り始めたからである。やがて耳をつんざくような破裂音も届き始めた。
赤江飛行場の日本軍が撃ち始めた高射砲だった。
「敵機じゃど。空襲じゃど」
二人は同時に家の中に向かって叫んだ。
義ちゃんはバリカンを持ったまま我が家に向かった。私は更に「空襲じゃど」を繰り返しながら家を南周りにして敵機の姿を追い続けた。
高射砲の弾は編隊の周りで空しく破裂するだけで、敵機は全く煙を吐く様子もない
(中略)
祖父が防空壕にまだ達しないうちだった。キューン、キューンというはらわたを抉るような爆音とともに爆撃機は旋回しながら急降下してきた。わたしの家を中心に旋回して日向灘に向かって出て行く感じだった。
実際は赤江飛行場を攻撃しているのだった。
爆撃音と地上からの機関砲の銃声で地上が埋まっていた。
防空壕から「なにしちょっとか、こら、はよ入らんか、こら」と父の声がした。わたしは映画や漫画でしか見たことのない状況が現実にあることの興奮で、死ぬときは死んでもいい、そんな気持ちだった。
とにかく見たかった。
爆撃機が何機だったのか覚えていない。
その時も何機だったか数えた記憶もない。
その爆撃機がすべて日向灘に去ってしまうと、わたしは赤江飛行場のよく見える青年学校の運動場の見晴らし台に走った。大人が五、六人も立つと一杯になる程の広さに、一米近く土を盛りあげた簡単なもので、家から二百米のところにあった。
走っている間にも赤江飛行場から幾条もの黒煙が上がるのが見えた。
見晴らし台に上がって飛行場を見た瞬間、なぜか初めて恐怖感に襲われた。もう見るも無残な姿をだった。格納庫やそれを取り巻くほとんどの施設から激しい火炎が上り、その上のは黒煙になっていた。
後で知ったことであるが、その爆発は時限爆弾によるものであった。恐怖感が一層つのった。
私はまた走って帰って防空壕に駆け込んだ

佐藤聿夫氏「敗戦前後」より

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宮崎海軍航空隊慰霊碑の全景

3月18日に宮崎へ飛来した米軍機に対し、空戦を挑んだのは日向の冨髙海軍飛行場307飛行隊(計64機)のみ。
空襲の間「本土決戦に備えて戦力温存」という命令で、赤江や都城西の戦闘機は掩体壕の奥へ隠されていたのです。
赤江飛行場周辺の対空砲陣地だけが激しく応戦したものの、撃墜できた敵機は僅か1機。都城、新田原、富高の対空砲もそれぞれ敵機を撃墜していますが、被害の方が甚大でした。
宮崎上空で孤軍奮闘する307飛行隊も2日間の防空戦で十数機を失い、鹿児島へと去っていきました。
赤江飛行場の地上施設も壊滅し、指揮所や魚雷格納庫は本郷、殿山、源藤の地下陣地に移されます。

3月18日の初空襲ですが、軍部が情報封鎖していたと思われる奇妙な証言が残されています。

三笠宮殿下が、紫明館においでになったのが十七日、その夜は宿泊されることになってたんだ。
ところがお付きの副官が「明日は赤江の基地が攻撃される」って云うんだね。それで家では防空壕を掘って、それも特別頑丈なのをね。ところが夜になって、ここでは危険だからと当時平和台の裏に久留米の第十二師団司令部があったんだが、そこの壕に移られた。
それからが大変でね、アメリカの機動部隊が去るまで、毎日毎日弁当づくりですわ。
作った弁当は運転手が車で運んだが……。三日ぐらい運んだと思うがね。
そういうことじゃから、十七日の夜は眠れんとよ。それで大淀川を眺めちょったら、明け方、照明弾が二発、赤江の上空に……。
南の空がパアッと明るくなってねえ。
米軍機は山の方から襲いかかって海に逃げるのよ。日本軍の高射砲を避けるためにね。
高射砲陣地は稲荷山にあってね。盛んに撃つんじゃけど当たろうか。
でもね、一機墜ちて。飛行士は死んじょったけど、靴とか遺留品があってね。後で山形屋に展示したりした。
戦後、米軍が進駐して来たでしょう。この時一騒動あったつよ。
米軍の将校が警察署長に拳銃突きつけて、死体は何処に葬ったかって。赤江の警防団が丁重に葬っていたため問題にならず、むしろ感謝されたという話じゃった。米軍はどこで飛行機が落ちたかぐらい分てるわけね。
粗末に扱ってたら誰かが戦犯に問われたね

三上謙一郎著「記録・宮崎の空襲」より 旅館「紫明館」川野満雄氏の証言

敵機動艦隊の接近を行政や住民に知らせ、警戒態勢をとらせるのが軍の役目の筈。しかし軍部はそれを隠し、第一撃を受けるまで無防備状態に置いていたのです。
陸軍と海軍の間でもレーダー情報が共有されていなかったらしく、沿岸部の海軍飛行場は18日早朝から警戒態勢に入っていたものの、都城の陸軍飛行場には敵機接近の情報すら伝達されていませんでした。
本土決戦の最前線となる宮崎の、これが防衛の実態でした。
前哨戦の段階でコレですから、もしも本土決戦になれば、さらに悲惨な状況になったことでしょう。

米軍の宮崎上陸を牽制する沿岸張り付けの陸軍154師団(西都)、156師団(宮崎市)等と、その背後から反撃を加える機動打撃部隊の212師団(都農)が展開していたものの、212師団の桜井師団長は「地形上、宮崎県での機動戦は不可能」と判断。各地に踏みとどまっての玉砕を覚悟していました。
本格的な上陸作戦が始まれば、宮崎県沿岸部は猛烈な艦砲射撃と空襲で壊滅し、大量の避難民を抱えた悲惨な撤退戦が演じられた筈。その住民避難計画も宮崎県警本部に丸投げされており、県内各自治体の首長へ通達されたのは昭和20年夏になってからでした。
住民を巻き込んだ沖縄戦の惨劇が、宮崎でも再現されようとしていたのです。

3月以降、パッタリと空襲は途絶えますが、米軍機は沖縄戦の航空支援に廻っていただけ。
沖縄の敗色が濃厚となった4月下旬に宮崎空襲は再開されました。他県から飛来する戦闘機がB29を迎え撃ちますが、宮崎県内の防空戦闘機は掩体壕の奥で沈黙し続けます。
執拗な空襲を受けた赤江・都城西・新田原の各飛行場は機能を失いつつあり、富高飛行場は特攻機の中継地と化し、唐瀬原飛行場の挺進飛行隊はフィリピンの降下作戦で消耗、都城北飛行場の特攻機は出撃に備えて秘匿され、新たに小林とえびのにも特攻基地が建設される中、都城東飛行場だけが細々と特攻機を送り出していました。

「我が軍の戦闘機はどこにいるんだ?」と歯ぎしりする宮崎市民を嘲笑うかの如く、米軍機は波状攻撃を繰返します。
宮崎県の軍用飛行場群は、台湾や沖縄を守るための後方拠点に過ぎません。戦略的にはそうだったのですが、土地や財産を提供し、飛行場の建設奉仕作業に協力した宮崎県民にとって、郷土の空を守ろうとしない軍の方針は理解しがたいものがありました。
いっぽう、沖縄の攻防戦には持てる特攻戦力が注ぎ込まれます。


昭和十九年から二十年にかけて、第一宮崎国民学校の六年生だった。
勤労奉仕なるもので、赤江飛行場に駆りたてられたのは、軍用飛行場の増設、延長の工事であったのだろうか。
我々には、そんなことは分からないが、とにかく軍用トラックに積み込まれた六年生、約百八十名が赤江の飛行場へ向かう。
飛行場では作業の責任者の説明を受けて作業にかかる。赤子の頭ほどの石を埋め込む。その道具は直径一メートル位の、コンクリート円筒形のローラーである。真ん中に穴があり、それに鉄棒が通してあって、その両端に長い綱がかけてあり、これを両方に分かれて引っ張るのである。
ローラーは静かに回り始め、並べられた石は次々に地下に埋まっていく。この石が、どのような効果があるかわかるはずはない。
炎天下、汗にまみれて、ただ黙々と綱を引っ張るだけである。やがて石が埋められたあとは、作業員たちがコンクリートを流し込んで平らに、ならしていく。
この過程からわれわれは、飛行機のえんたい壕堀りの場所に移動する。
滑走路には、呑龍、銀河、靖国という爆撃機や何機かの戦闘機を見た。今おもえば、これらの飛行機は、鹿児島の知覧や沖縄方面に飛んだのだろうと思う。
移動する際に何人かの飛行兵に会った。若くりりしい、あこがれの飛行機乗りの兵隊さん、羨望の目で見たものだった。
その時の年令推定が十七、八才だろうか。
「今からどこへ行くと?」と問うても黙として語らず、静かに笑みを浮かべながら、ポケットから携帯口糧の乾パンを出してくれた。一口大の固いものだったが、当時は食糧も逼迫しており、珍しくありがたく、とてもうまかった。
飛行帽の下に日の丸の鉢巻が見えた。特攻隊員であったろう、そう思った。
彼も戦闘機もろとも、若い生命をささげた一人であったかもしれない。「コノシロ」少尉といった。その姓は忘れない。
乾パンの味と、童顔だった隊員のことを思うと、あれからどうなったのか、胸が痛む。
やがて戦局もきびしくなり、B29や艦載機のグラマン、カーチスなどの爆撃を受けるようになる。
特に赤江の飛行場は、艦載機の波状攻撃が連日であった。赤江の飛行場には、二度と行くことはなかった。その後、どうなったのだろうと気にする前に、我々の身辺にも危険が迫ってきた。
住んでいた瀬頭町は、赤江の対岸でもある。戦闘機、グラマン、カーチスは頭上すれすれに宮崎駅方面に舞い上がり、旋回しては一ツ葉方面に出て、ふたたび赤江に爆弾投下。そして機銃掃射を繰り返す。
日本の飛行機は何をしているんだと、歯をかんだ。
六年生の卒業式も、どうであったかよく覚えていない。

平川亘氏「戦後五十年」より

台湾と沖縄へ迫る米軍に対し、日本の陸海軍は特攻作戦と通常攻撃を織り交ぜて対抗。赤江飛行場からも、特攻隊と雷撃隊が続々と出撃しました。
しかし、米艦隊はレーダーと迎撃機を組み合わせた堅固な防空システムを構築しており、それを突破するのは容易ではありません。迎撃をかいくぐって肉迫する特攻機には、熾烈な対空砲火網が待ち構えていました。
こうして、宮崎を飛び立った多数のパイロットが沖縄近海に散ります。
特攻隊と同じく、雷撃部隊も大きな損害を被りました。
5月7日には被弾した雷撃機が赤江への帰還中に炎上、日豊線青井岳駅附近の天神山に墜落します。都城市近郊へ墜ちたというのに、彼らの遺骨が故郷へ戻ったのは戦後20年も経ってからのことでした。
軍による箝口令と戦争末期の混乱で、事故のことが忘れ去られてしまったのです。日向や日南の海上で撃墜され、今なお遺骨が回収されていないパイロットも少なくないのでしょう。

必死の特攻作戦もむなしく、米軍の宮崎空襲は激しさを増します。
当初は赤江飛行場に集中していた米軍艦載機の空襲も、B29戦略爆撃機による住宅地や農村への無差別爆撃へと移行。市民は次々と疎開し、宮崎市街はゴーストタウンの如き様相を呈し始めます。
梅雨が訪れても、B29は雨雲の上から爆弾を投下しました。やがて、袋叩きに遭った赤江飛行場は機能を停止。宮崎市街も灰燼と化します。

戦争末期まで激しい空襲が続きますが、幸いにも宮崎の海岸に米軍が上陸する事はありませんでした。
昭和20年10月、進駐軍のマスマン少佐一行は日豊線に乗って宮崎駅へと降り立ったのです。

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機影
旅客機の合間を縫って、宮崎航空大学の練習機が飛行訓練をおこなっています。

昭和20年の敗戦によって、赤江飛行場は進駐軍に接収されます。周辺地域の多くは民有地として開放されました。
飛行場として再建されるきっかけは、昭和25年の空港誘致運動から。
昭和29年11月、赤江飛行場は航空大学校の訓練場「宮崎飛行場」として復活します。年末には旅客機の発着も始まりました。
軍用飛行場時代に比べて敷地面積は半分となりましたが、中心市街地に近いという利便性から宮崎飛行場はその機能を拡充。第二種空港に指定されたのは昭和36年で、以降は「宮崎空港」として空の玄関口となりました。
周囲に残された掩体壕だけが、民間空港となった現在も戦時の記憶を伝え続けているのです。

赤江

 海軍赤江飛行場、傷痍軍人療養所、対空陣地7群(20ミリ機関砲×11他)
 赤江飛行場建設土砂採取場および哨戒機滑走路
 第5~7号戦闘機用掩体壕および第8・9号弾薬庫、および名無しの弾薬庫
 第1~4号爆撃機用掩体壕および誘導路
 本郷地区地下指揮所および魚雷調整所、霧島高射砲陣地および探照灯
 殿山地下司令部および海軍呉施設部事務所・戦闘指揮所、高射砲陣地
 稲荷山および峰(赤江中学校附近)の高射砲陣地
 飛行場要員兵舎(現在の月見が丘~柳籠)、パイロット用宿舎は本郷に設置。
※青線は陸軍落下傘部隊の宮崎市行軍演習ルート。
画像は川南の落下傘部隊が使っていた演習用地図です。戦時中の地図では、軍事施設が意図的に削除されていました。

それでは宮崎空港周辺の軍事遺構について解説します。

【滑走路および誘導路】

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海軍赤江飛行場の滑走路は、現在の宮崎空港滑走路となっています。

河川緑地
山内川河川緑地。向かいに見える一ッ葉有料道路の反対側が宮崎空港。
旧軍の赤江飛行場には、現在の宮崎空港と同じ海岸と直角の滑走路1本に加え、もう1本の滑走路がX状に交差、他に1本の短距離滑走路も設置されていました。
山内川緑地は、戦後に放置されていた廃滑走路の端の部分を掘り下げ、山内川の増水・氾濫対策用の調整池としたもの。
普段は水が無いので運動場として使われていますが、豪雨の際は手前のコンクリート構造部から氾濫した川の水が流れ込む仕組みです。

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空港敷地内に残る、現滑走路と交差する旧滑走路の一部。現在は掘り下げられ、調整池となっています。
ここから手前側に延びる部分が山内川河川緑地として開発されました。

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滑走路から延びる誘導路跡。

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誘導路跡を横切るJR宮崎空港線と日南線。地方の小さな空港ですが、直通線路があるなどアクセスだけはやたらと便利です。

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本郷団地方面へ続く狭い道。かつての爆撃機用誘導路を流用したもので、戦後に宅地化される前は道幅もはるかに広かったとか。

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誘導路から殿山地下陣地(奥に見える林)への分岐路

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本郷団地へ続く誘導路跡。宅地開発前は、この附近にも多数の掩体壕が存在しました。バイパスの陸橋を潜ると掩体壕群があります。

【1~4号爆撃機用掩体壕群】

掩体壕
バイパス脇に残る1号掩体壕

宮崎空港周辺に散在している掩体壕群は、昭和19年に建設されたもの。有蓋無蓋併せて多数の掩体壕が建設されました。
戦後の宅地開発で大部分が消滅し、残存しているのは7基のみ。
いや「7基も残っている」と表現した方がよいでしょうか。それだけ貴重な遺構なのです。

空港からバイパスを挟んだ住宅地内に4基の中型機用有蓋掩体壕(通称1~4号掩体壕)、空港滑走路脇に3基の戦闘機用有蓋掩体壕(通称5~7号掩体壕)、空港から一ツ葉有料道路を挟んで4基の弾薬庫(通称8号及び9号、2基は番号なし)が確認できます。
いずれも国土交通省、個人、企業の所有物であり、敷地内への立ち入りは出来ません。

近年は経年劣化による崩壊が目立って心配していましたが、ようやく保存活動が開始されるとのこと。
宮崎の歴史資産として、末永く残して貰いたいものです。日向や都城の掩体壕はアッサリと壊されてしまいましたし。

まずは「銀河」や「飛龍」といった中型爆撃機を格納していた掩体壕について。
敵機から秘匿する為、これら爆撃機用掩体壕は滑走路からかなり離れた丘陵地帯に設置されています。
爆撃機用の有蓋掩体壕は9基が残存していましたが、その後の宅地開発によって5基が撤去。
現在保存されているのは4基だけです(完全なものが3基、1基は半改築状態)。
宮崎市の資料では一号~四号と番号が振られており、すべて民間及び企業の所有物。これらは爆撃機用のシェルターだけあって、幅・奥行・高さとも大型ダンプが2、3台並んで入れる程の大きさです。
掩体壕の建設中に崩壊事故があり、赤江飛行場に勤務していた安田郁子氏の証言では犠牲者も出たとのこと。

【一号掩体壕】(企業所有)

掩体壕

掩体壕
バイパス寄りにあるのが「一号掩体壕」。現在は民間企業の車庫として利用されています。

道路
空港から随分と離れたこの道路沿いに、爆撃機用の有蓋掩体壕が並んでいます。この道路はかつて、赤江飛行場滑走路へ爆撃機を移動させる誘導路でした。車ではなく飛行機が走っていたんですね。

【二号掩体壕】(民間所有)

2号
一号から坂を下ったところにある「二号掩体壕」。民家の車庫として利用されており、車と比較するとその大きさが分ります。

最近では「宮崎空港の戦時遺構を活用しよう」という動きもありまして、イベントなども開催されるようになりました。
鎮魂や反戦平和という枠を取り払い、地域の歴史的モニュメントとしてPRするのも喜ばしいことです。人知れず消滅していくより、保存運動につながるかもしれませんし。国有地(防衛省)にある新田原掩体壕と違い、赤江掩体壕7基のうち国有地は2基のみ。残る5基は私有地にあるので、保存の取り組みは大変重要なのです。

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イベントでライトアップされた二号掩体壕。

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地域の行事などと統合すれば、掩体壕でのイベントは継続化できるかもしれませんね。ただ、ここは静かな住宅街の私有地です。周辺への配慮など、クリアすべき問題はたくさんあります。

【三号掩体壕】(企業所有)

3号

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二号に隣接しており、資材置き場として利用されていました。最近になって企業の看板が外されてしまい、今後が気になるところです(2016年撮影)

【四号掩体壕(民間所有)】

4号
戦後、資材置き場として利用されています。
入り口部分が削り取られているのは、敗戦直後に内部の鉄筋を盗まれた跡だとか。

道路の反対側にあった有蓋・無蓋の掩体壕は、全て撤去されました。


【本郷地区地下陣地】


トンネル1

隘道

トンネル4

地下壕2

「四号掩体壕」の先、現在の希望が丘団地付近には海軍の司令壕とされる地下トンネルが3本ほど設置されていました。戦後は「コウモリ道路」と呼ばれていたとか。
昭和20年3月18日の空襲によって赤江飛行場の地上施設は壊滅。司令部や魚雷格納庫などは希望ヶ丘や源藤地区の地下トンネル内に移設されました。
「空襲で怪我をした兵士をここで治療していた」という証言もあり、詳しい用途はわかりません。

現在、希望ヶ丘には丘陵地を通り抜ける隧道として数十メートルの海軍トンネル1本だけが残されています。
先年、隠されていた枝道が陥没事故によって現れたことで、全長200メートル以上に及ぶ地下陣地の存在が判明しました。※そちらは危険防止の為に埋設処分されています。

地下壕3

地下壕4

地下壕5

地下壕6

トンネル3

出口

【殿山地下壕】

もうこの頃の爆撃や機銃攻撃はまったく無差別と言ってよかった。村の小さな川に架かる橋も攻撃された。市街地や集落だけでなく、農村に点在する住家も納屋も焼夷弾や機銃攻撃を受けた。
既に機能しなくなっていると思っていた赤江飛行場も執拗に攻撃を受けていた。
やはり、この前後であったと思う。いつもとは違う激しい攻撃が赤江飛行場に加えらえて、私は最初の空襲の時に見に行った青年学校の見晴らし台に、この時は数人の大人たちと一緒に行った。
滑走路付近から煙は見えなかったが、今は住宅地となっている山手の方から数条の煙が上がっていた。
「なんで、あんげぎょっさん飛行機が来たっちゃろかいね(なんで、あんなにたくさんの飛行機がきたのでしょうかね)」
と一人が言った。
さっきから繰り返されている疑問であったが、他の人達も、わからんねえ、という顔でなおも立ち上る黒煙を見つめていた。
その時「ア、ア、アッ」と、みんな一斉に声を上げた。
数十米あろうかと思われる火柱が、そして黒煙が噴き上がったのである。ドーンというまさに天地を揺るがすような爆発音、続いて爆風が丘の斜面の木々をざわざわと揺すって押し寄せて来た。
狭い見晴らし台に立っていた私たちはなぎ倒されるように平地に飛び降りた。
私はとっさに、訓練で受けた両手で目と耳を覆う行動をとった。訓練では何回もやっていたが、実際に本気でやったのは初めてだった。
しばらくすると周囲でゲラゲラ笑う声が聞こえた。
「今かいしてん、間に合わんわよ」と誰かが言った。私の真剣なしぐさが一層おかしさをつのらせたのであろう。
後で、この時の大爆発は人間魚雷によるものであることを知った

佐藤聿夫「敗戦前後」より

人間魚雷「回天」部隊である海軍第5特攻戦隊は、延岡から日南までの宮崎県沿岸部に潜んでいました。しかし大淀川からの土砂堆積で水深が浅い宮崎市の海岸に潜水艇を収容できる場所はなく、一番近い回天基地も内海港に建設されています。
要するに赤江飛行場と回天は無関係なので、佐藤氏が目撃したのは通常魚雷地下格納施設の誘爆だったのでしょう。

殿山1

希望ヶ丘地下トンネルからバイパスを挟んだ反対側、津和田地区に殿山と呼ばれる森があります。
この殿山も丘全体が地下要塞化されていました。現在は4つのトンネルだけが森の中に残っています。

殿山2

殿山のトンネルも、空襲を避けて設置された赤江飛行場地下施設のひとつでした。
ここには、雷撃機搭載用の魚雷が格納されていたとの事です。

殿山7

殿山トンネル1

殿山3

殿山トンネル2

殿山トンネル3

殿山トンネル4

殿山トンネル5

危険防止の為、各壕は奥行数メートルで埋設処理されています。

殿山4

殿山トンネル6

上の壕から分岐する道を辿ると、もうひとつの壕があります。こちらは掘りかけで放置されています。

陥没1

陥没2

陥没3

陥没4
壕の周辺には、人間がすっぽり入るような陥没跡が幾つもあります。
この丘が開発されないのは、地下トンネルによる崩落の危険があるからでしょうか?

森の中にある殿山地下壕は、生い茂った藪と急斜面に囲まれています。訪れる際は転落や怪我に十分注意してください。
宮崎空港周辺に散在する丘陵地には、今なお未知の地下施設が眠っているのかもしれませんね。

地下壕1


【5~7号戦闘機用掩体壕】


着陸

宮崎空港の近くには掩体壕3基が残されています。滑走路の脇にあるため、旅客機の窓からも見ることが可能。
これらは戦闘機用で、爆撃機用と較べてサイズも小さ目です。

赤江
5号および6号掩体壕。

「五号掩体壕」(国土交通省所有)

戦争遺跡

5N

5号内部1

5号内部2
5号掩体壕内部

「六号掩体壕」(民間所有)

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4号1

新燃岳
六号掩体壕の上空にある「雲」は、遠く新燃岳から流れてきた噴煙。
噴火中、宮崎空港の離発着は中断されます。

6n

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ヒビ
6号も経年劣化が進んでおり、ヒビや剥落部分が目立ちますね。

山内川
宮崎空港の脇を流れる山内川。戦闘機用掩体壕があるのはこの川の両岸。

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takeoff6六号掩体壕の横を離陸していくスカイネットアジア機。

「七号掩体壕」(国土交通省所有)

国交省

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7号C
こちらも風化が酷く、コンクリートの剥落で鉄筋が露出しています。

日航
七号掩体壕と離陸態勢に入った日航機。

着陸1

着陸2

着陸3

着陸4

着陸5

着陸6

着陸7

着陸8

【8・9号弾薬庫】

89号c

一ツ葉有料道路の両側に4基残る弾薬庫(民間所有)。通称「八号」及び「九号」で、残る二つは名称無し。
戦時中には飛行場を護る対空機銃陣地が付近に設置されおり、その弾薬庫だったとのことです。

近寄ろうとして畑を踏み荒らす人もいる様ですが、ここは農作物を作っている私有地なので沿道からの観察のみにしましょう。

89号a

89号b

89号d

掩体壕

掩体壕

8号9号
8号と9号弾薬庫。

弾薬庫は計4基あるものの、8号と9号以外は宮崎市の資料にすら記載されていません。
残るひとつは一ッ葉有料道路を挟んだ反対側、もうひとつは海岸北側にあります。

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8,9号とバイパスを挟んで残存する名無しの弾薬庫。

10号2
他の2基よりひと回り小さく、銃眼らしきものはありません。

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宮崎空港滑走路北側にも弾薬庫が残されています。

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大淀下水処理場方面から広い砂浜をテクテク歩いていくと、滑走路にぶつかります

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海岸から防風林の遊歩道へ

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段々と茂みが深くなっていきます

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こちらが滑走路北側に残る弾薬庫。海岸付近には対空機銃陣地とデコイ(囮の偽飛行機)が設置されていました。
敵機からの攻撃を逸らすためのデコイでしたが、米軍側は偵察写真の分析で見破っていたとのこと。

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この弾薬庫は天井部分が崩落しており、現在は伐採木の廃棄場所になっています。

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崩落により露出した断面。掩体部分のコンクリートの分厚さがわかりますね。
内部は人の背丈ほどに掘り下げられ、半地下式の壕となっています。

【稲荷山対空陣地】

宮崎空港近くの宮崎県警南警察署の裏には、稲荷山公園という小高い丘があります。
稲荷山と赤江中学校付近には高射砲が設置され、赤江飛行場を護っていました。

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稲荷山の頂上より眺める宮崎空港と、着陸態勢にはいったANAの旅客機。
戦時中には、ここから赤江飛行場へ飛来する米軍機に激しい対空砲火を浴びせていました。

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稲荷山山頂にある忠魂碑。明治以降に出征・戦死した地元出身の軍人を祀ってあります。
また、稲荷山公園一帯に広がる月見ケ丘住宅地は、かつて赤江飛行場勤務者の宿舎となっていました(パイロットの宿舎は本郷北方附近)。
隣接する宮崎農業高校グラウンドには、敗戦後に武器弾薬類が集積・破棄されています。

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稲荷山公園へ続く道

【飛行場用土砂採掘跡】

タンポリ

八重川河口付近にある単堀(タンポリ。水溜りの意味)。正式名称は津屋原沼。
現在はレジャーボートの係留池ですが、元は海軍赤江飛行場建設時に土砂を採掘した場所です。飛行場建設後に採掘跡が八重川と繋がり、津屋田沼となりました。
タンポリとは津屋田沼の固有名ではありません。
激しい爆撃を受けた赤江飛行場周辺には大型爆弾の爆発孔が幾つもあり、それに雨水や地下水が溜るとタンポリと化しました。
戦時下の子供達にとって、タンポリは格好の遊び場だったとか。

「日豊線には直撃弾が当たり、鉄道は切断され、布設してあったレールは飴のようにまがったり1メートルぐらいに寸断されて5メートルも10メートルも高く遠く飛ばされ、農家の田畑や山の中等に落ちていた。
線路の脇の田圃に出来た単堀は、直径は一回り小さかったが、たいへん深い掘が出来ていた。確か故・石山清さんの田圃だったと思うが、そこの単堀はかなり深かったので、水は青く澄み底の魚まで見えていた。
その単堀の周辺には土はなく、殆ど田圃と同じ高さになっており、溝や八重川からあがってきた魚は単堀の深みを住み場所にしていた。鮒や鯰、時には鰻や鯉等も泳いでいるのがはっきり見えていた。
当時単堀では魚を釣るといったことはあまりしなかった。釣るよりも単堀や堤にダイナマイトをしかけて水中で破裂させショック死させて掬い取るという漁法があった。
ダイナマイトや導火線は中野の兵舎跡にいくらでもあったので、それを堂々と拾って来て使っていた」
「単堀の思い出」より 石川秀雅氏の証言

水路
チョッパー
大淀川河口からタンポリへ繋がる水路と、その脇にあったトニートニー・チョッパー。

津屋田沼の脇にも軍用滑走路が建設されました。哨戒機用に予定していたのだとか。
敗戦後、津屋田沼は不要兵器の投棄場所と化しています。

【傷痍軍人宮崎療養所】

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現在の国立宮崎東病院

宮崎空港の近所に宮崎カントリークラブというゴルフ場があります。
ゴルフと言えば早起きして車を何時間も運転して辿り着くイメージもありますが、ここは宮崎空港・高速道路の宮崎IC・宮崎空港駅から車で5分程度の距離。やたらと交通の便が良いので、県外からプレーに来る人も少なくありません。
で、このゴルフ場の近所にあるのが国立宮崎東病院。
此処はかつて、傷痍軍人宮崎療養所でした。

赤江飛行場の南側にある宮崎療養所では、傷痍軍人の治療をおこなっていました。
しかし此処も空襲に巻き込まれたため、入院していた傷痍軍人の転院・退院措置がとられます。
昭和20年4月28日の赤江空襲で、療養所も遂に炎上。事前の避難にもかかわらず、残っていた職員1名、入院中の海軍軍人1名が爆死しました。この日をもって療養所は閉鎖されます。

【武器集積所】
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稲荷山対空陣地裏にあった農業高校グラウンド。

戦後、赤江飛行場一帯の武器弾薬類は宮崎農業高校のグラウンドへ集められ、解体・破壊処理されました。
一部の弾薬などはタンポリなどへ投棄されたと伝えられています。
進駐軍は徹底的に日本軍の兵器類を探し出し、無力化へ努めました。


【戦没者慰霊施設】

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忠魂碑C

忠魂

興味本位で史跡を見て廻るのも良いのですが、赤江飛行場から飛び立って行った特攻隊員を悼む気持ちがあるならば、この場所にも立ち寄ってみては如何でしょうか。

空港正面

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戦争遺跡

戦争遺跡
特攻花と称されるオオキンケイギクですが、実際の特攻とは関係ありません。後世に語り継がれる中で、なぜかこの花が特攻花として誤解されてしまったのです。
赤江飛行場に勤務していた安田郁子氏が述懐しているように、特攻隊員を見送る女学生が手折ったのは桜の花でした。

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この地から出撃した陸海軍パイロット達の名が刻まれています。

特攻花


赤江門3

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赤江門1

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慰霊碑から用水路を挟んだ滑走路側に残されている赤江飛行場の門柱。

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宮崎空港

宮崎空港

宮崎空港

宮崎空港

B29及び日本陸軍一式戦闘機墜落事故慰霊碑(宮崎県西臼杵郡高千穂町)

Category : 西臼杵郡の戦跡 |

村にも、いよいよ米軍が来て、男はみんな去勢され女はみんな強姦され、逃げる者は、アメリカのとてつもない大きな犬が咬み殺すげなとの噂が流れ始めたのもその頃であった。
とにかく、戦争は終わった。
村には一時期の平和が甦えったかのような静かなムードが漂った。
秀国は、また、今までのように畑に鍬をふるう毎日であった。あの不気味な「B-二九」の爆音も聞かなくなって久しくなり、なつかしい気さえ起こることもあった。
日本が敗けてからというものは、雨の日が多かった。ほとんど降ったり止んだりの日が続いていた。
秀国は、その時、近くの原野でいつものように牛の草を刈っていた。
巽は、農作業に使った牛の足を近くの小川できれいに洗っていた。

霧の深い雨模様の日の八時過ぎだった。
突然、祖母山の方向から、物凄い音が聞こえた。
巨大な細長い火の玉が、雨模様の濃い霧の中で黒岳(一五七八メートル)の方向に飛んだような気がした。
何が起こったか想像することは出来なかったが、何かが、それも巨大な何かが山にぶつかったことだけは想像できた。
その音は秀国も畑で聞いた。やはり同じように思っていた。
深い霧でどの方向かを確認することは出来なかったが、確かに祖母山の方向からであった。
それは、今までに聞いたこともないような山鳴りであった。

平和祈念碑建設実行委員会「平和の鐘」より

祈念碑
高千穂に墜落、殉職した日米両軍パイロットの慰霊碑。高千穂町三秀台にて

神話の里として知られる宮崎県西臼杵郡高千穂町。
古い伝承が多々残されている山深い地域でありながら観光施設や道路は整備されているので(台風災害で高千穂鉄道は廃線となりましたが)、宮崎・熊本両県から多数の観光客が訪れる町でもあります。

平和に見えるこの高千穂も、戦時中は米軍の九州上陸作戦とは無縁ではありませんでした。
宮崎に上陸した米軍が延岡から熊本県へ突破する場合、高千穂を通過する可能性もあると考えられていたからです。
※米軍のオリンピック作戦計画では、宮崎・鹿児島両県の占領のみとなっています。高千穂どころか日向市の手前で侵攻を停止する豫定でした。

祖母山系
夜明けの高千穂町

昭和20年になると、高千穂上空を九州北部へ向けて通過していくB29爆撃機と護衛戦闘機群が頻繁に目撃されるようになりました。
本土決戦に備えて郷土防衛の民間義勇部隊も組織されますが、それ以外は空襲を受ける訳でもなく、戦時下の高千穂では物資不足に喘ぎつつも平穏な日々が続きます。

【昭和20年8月7日】

戦争末期の昭和20年8月7日、17時半。
佐賀県にある陸軍目達原飛行場から一式戦闘機(通称“隼”)が次々と離陸して行きました。
これらの隼は、第6航空軍の飛行第65戦隊に所属する機体。第65戦隊は天號作戦で米軍との死闘を演じた後、知覧から目達原へと移動して来たばかりでした。
この夜、同戦隊は目達原から壱岐までの洋上往復航法訓練を実施します。しかし、最初に離陸した徳義仁軍曹搭乗機はいつまで経っても目達原飛行場へ戻ってきません。
1週間後の8月15日に敗戦を迎えた為、満足に捜索活動もできないまま戦隊は解散します。
「飛行第六十五戦隊所属の徳軍曹は、朝鮮海峡に墜落して殉職」との判断が下され、遺族にもそのように伝えられました。

祖母山
三秀台から望む祖母山

祖母山2

【昭和20年8月30日】

佐賀県の陸軍目達原飛行場から遙か南にある宮崎県の高千穂町。
終戦から2週間後の8月30日朝、霧の立ち込める祖母山に爆発音が轟きました。
墜落現場まで登った地元住民は、爆発四散したアメリカの飛行機と10名程の遺体を目撃。「米軍機が墜ちた」と役場へ届け出たことで、山奥の村は大騒ぎとなります。
戦争は終ったというのに、何故アメリカの飛行機がこんな場所に墜ちたのか?
折しも赤痢の発生と敗戦のショックで混乱していた処への墜落事故でしたから、役場の対処能力を超えた事態でした。
訳もわからないまま、高千穂警察署、田村警防団、林業作業員で構成された捜索隊が現場へ急行します。
墜ちたのは、つい先日まで「鬼畜米英」と憎んでいた敵軍の飛行機。捜索隊員の中には、刃物で武装している人もいたそうです。
険しい山道を踏破し、ようやく辿り着いた現場にはB29爆撃機が無残な姿を晒していました。
パラシュートを装着した遺体もありましたが、脱出する暇もなく高速で山へ激突した為に全員が即死状態。遺体の損傷具合が、衝撃の凄まじさを物語っていました。
敗戦国となった日本がアメリカ軍の機体やその乗員の遺体を勝手に処理する訳にもいかず、また搬出作業もきわめて困難な山奥だった為、米兵の遺体は現場に残されます。

B29墜落
墜落事故で殉職したB29のクルー達。

その頃、米軍側もテニアンから福岡県の捕虜収容所第二十分所(戦時中は連合軍捕虜792名を収容し、貝塚大之浦炭鉱で強制労働させていました)へ救援物資投下任務に向かっていた輸送機が、消息を絶ったことに気付きます。
行方不明機は陸軍第20航空軍第40爆撃航空群第45爆撃飛行隊所属のB-29爆撃機(機体番号44-61554)で、ヘンリー・ベイカー機長以下全12名が搭乗していました。
直ちに捜索機が日本へ飛び、墜落現場を確認します。
44-61554号機は視界不良のため祖母山に接触、操縦不能に陥ったまま親父山へ激突したのでした。
しかし、上空からは搭乗員の生死を確認できません。
捜索機は、生存者のために救援物資をパラシュート投下して引き返します。

三秀台

三秀台

【昭和20年9月3日】

戦争末期、白川警部をリーダーとする宮崎県警本部の特命チームは、米軍宮崎上陸を想定して沿岸部住民の山間部避難計画を作成していました。
二転三転する軍部の防衛計画に翻弄されつつ、県内各自治体へ避難計画を通達できたのは夏を迎えた頃のこと。
その直後に敗戦を迎え、九州南部を戦場とする本土地上戦は回避されました。県庁地下室で避難計画を練っていた白河警部らは、そのまま敗戦処理業務へ移行します。

白川警部へ、高千穂へ墜ちたB29搭乗員の検死命令が下されたのは9月3日のこと。
空襲で日豊線や橋が破壊された状況下、苦労しながら県北部へ向かった警部らは、9月5日に高千穂へ到着。そこから更に墜落現場までの長い山道を登り、白川警部たちは現場に残された遺体の検視を始めました。
バラバラに四散した遺体を集めると、犠牲者の数は12名であると判明。
遺体の状況や所持品のリストは作成できたものの、今回も搬出は困難であり、遺体は2人分づつ6か所に埋葬されます。
彼等の墓標として、現場の樹で作った十字架が立てられました。

墜落したB-29の積んでいた荷と米軍の捜索機が投下した救援物資は、戦後の物資不足に喘ぐ地元住民にとって文字通りの「天からの贈り物」となります。
警察による現場立入り禁止通告など誰も守らず、険しい山道を踏み越えて人々は墜落現場へ押し寄せました。
墜落現場に散乱するのは初めて見るような品々。しかも英語表記なので、正体不明のモノばかりでした。
ようやく英語を知っている人が到着するまで、石鹸をチーズやカレー粉と間違えたり、ポマードや練り歯磨を食べたり、ガムを飲みこんだりといった珍事がそこかしこで展開されます。
食料が尽きると、こんどは機体の部品が搬出されました。タイヤはゴム草履に、パラシュートのナイロン布地はカーテンに、パラシュートコードや電線はリュックや農具の帯に、風防の有機ガラスは蝋燭に、ジュラルミンの外板は叩いて曲げて洗面器にとリサイクルされていきます。
中には、機銃弾から取り出した火薬を暴発させた人までいたのだとか。
機体の大部分は山中から搬出されましたが、爆発で飛び散った細かな破片は21世紀の現在も祖母山中に残されています。

B29
高千穂町が保存しているB29の残骸。町による解説では「ターボチャージャー・プロペラシャフト・機関砲・タイヤ・ガラス・無線機のパネルなど」とあります

【昭和20年秋】

B29が墜落した年の秋。
高千穂で炭焼きをしていた森源一氏は、小河内谷の森で不思議な物体を目撃します。
それは、翼に赤い日の丸が描かれた日本軍の戦闘機。
木々がクッションとなって機体の損傷は少なかったものの、操縦席に座るパイロットは息絶えていました。

森老人は小河内谷の戦闘機について暫く黙っていましたが、耐えられなくなって知人に打ち明けます。
B-29の墜落事件直後の日本軍機発見だった為、再び高千穂は大騒ぎとなりました。
白骨化していたパイロットの遺体を回収し、遺品から身元の調査が開始されます。
遺品にあった手紙から判読できた「徳義忠」の名前を辿り、このパイロットは東京都在住徳義忠氏の長男、徳義仁軍曹であると判明しました。
しかし、佐賀県沖の海に墜落したと伝えられていた徳軍曹の遺族は、全く逆方向の宮崎県高千穂山中で発見された隼が徳軍曹の機体だと知らされても信じることは出来なかったのです。
徳軍曹の遺骨は、家族の迎えを待ちながら戦後の高千穂で眠り続ける事となりました。

高千穂の軍人墓地に建てられたその墓碑には
「昭和二十年七月二十七日(※7月27日に高千穂上空を通過した飛行機を事故機と誤認)小河内山中ニテ航空事故ニヨリ殉職 陸軍軍曹 徳義仁墓」
と記されます。

三股町の椎八重および天神山に墜落した二機の爆撃機と同じく、高千穂町でも無関係の二機が近接して墜落したのです。
宮崎県内で発生した四件の墜落事故は単なる偶然の重なりですが、三股町と高千穂町の殉職者はどちらのケースでも不幸な経緯を辿ることとなりました。

高千穂町に続いて、昭和28年10月6日には都農町尾鈴山地に登った高校生が陸軍二式高等練習機の残骸を発見。昭和19年に行方不明となっていたパイロット2名の遺骨が回収されています。
異国の地で果てた米軍飛行士たちはすぐ故国へ帰されたものの、内地で殉職した都農町の2名は戦後8年間、三股町の10名は24年間、高千穂町の徳軍曹は47年間も帰宅を果せなかったのです。
日向や日南沖で撃墜された機体では、遺体が回収できなかったケースも少なくありません。

戦後の混乱で戦死したパイロット達を忘れてしまった日本側と違い、アメリカ軍は自国の犠牲者を徹底的に捜索します。

10月末から宮崎に展開し始めたアメリカ軍は、翌21年3月22日になって高千穂へ第24連隊終戦処理班を派遣。
8月27日には第108墓石登録局・D分遣隊第3チームが遺体回収の為に高千穂を訪れました。
彼等を墜落現場へ案内した地元の人々は、アメリカ兵たちが遺体を掘り起し、故国へ連れ帰ろうとする姿に心を打たれたといいます。

アメリカ兵の死体は墜落の二、三日後に、当時、警察の管轄下にあった警防団の手で葬られた。
団員だった私も埋める作業をしたが、中には足がからだから離れているものや、腹部が中断していて内臓に蛆のわいている死体もあった。
数ヶ月後、アメリカ陸軍のジープが遺体収容にやってきた。戦時中は「鬼畜米英!」と教え込まれ、自分もそう信じ込んでいた。
しかし、米兵が墜落現場の土をふるって、亡くなった兵士の髪の毛一本をさえ、異国の地に残すまいとする姿に触れて、当時十六歳だった私はそれまで抱いていたアメリカ人に対する考えを一編に打ちこわされてしまう思いがした。
恥ずかしい話であるが、缶詰捜しにきて、ブルーの瞳で金髪の米兵の死体を見つけては「こりゃ男じゃろかい、女じゃろかい」とズボンをはぎ取って見る者もいたのである。
本来なら、同じ人間として丁重に葬ってやるべきだったのであろうに、戦争は、そんな人間らしさも私たちから奪いとってしまったのである。

「平和の鐘」より 甲斐秀国氏の証言

一式戦

B29墜落2

【平成元年】

それから歳月が流れ、高千穂に墜ちたB29と隼のことは遠い昔話として忘れられていきました。
昭和44年に宮崎県三股町で日本陸海軍飛行士10名の遺骨が発見された時も、高千穂町の徳軍曹に目を向ける人はいませんでした。

三股町椎八重公園に墜落事故慰霊碑が建立されてから、更に20年が経過した平成元年のある日。
祖母山系の親父山を登山中の友金厚氏は、見慣れぬ金属片を発見します。
父親から尾平峠に墜ちた米軍機(昭和27年、4名が死亡したC46輸送機墜落事故)の目撃談を聞かされていた友金氏は、これがその事故機の破片かと考えました。
しかし、親父山と尾平峠は随分と離れた場所にあります。不思議に思った友金氏は、地元の人から終戦直後に高千穂の親父山付近へ墜ちた米軍機の話を訊き出しました。
驚くことに、B29墜落事故があった年には小河内谷に墜落している日本軍機も発見されたとのこと。
この日本軍機も、公式記録では「朝鮮海峡に墜落した」とあるだけで、高千穂に墜ちていた理由がさっぱり分かりません。
友金氏は、忘れられた墜落事故の実態を調べようと日米の間を奔走し始めます。

殉職飛行士名
慰霊碑に刻まれた、祖母山へ墜ちたB29クルー12名、及び小河内へ墜ちた一式戦パイロットの氏名。
なお、碑文に「米空軍」とあるのは「米陸軍航空軍」の誤りです。事故当時のアメリカ軍航空隊は陸軍や海軍の組織であり、「アメリカ空軍」として独立するのは1947年(昭和22年)以降のこと。

慰霊碑

三秀台4

B29慰霊碑

慰霊碑3

【平成6年】

友金氏による調査の過程で、飛行士たちの遺族や墜落事故を知る人々が次々と見つかります。
徳軍曹の遺骨も、47年を経てようやく家族の元へ帰ることが出来ました。
故郷高千穂の地で亡くなった13名の飛行士たちを弔う為、友金氏は三秀台に慰霊碑を建立しようと思い立ちます。
平成6年、高千穂町に甲斐秀国氏を代表とする慰霊碑建立委員会が発足。募金活動や町の補助金により、祖母山や阿蘇山を望む三秀台に慰霊碑の建設が始まりました。
日米双方の遺族や関係者を招き、慰霊碑の除幕式がおこなわれたのは平成7年8月26日のことです。

三秀台2

戦時中、宮崎上空の空中戦や対空砲火により、日米両軍のパイロット多数が犠牲となりました。
海上や山奥に墜落した機体では、遺体の回収すらされない場合もありました。
現地に埋葬されたまま何十年間も存在を忘れ去られた、11名の飛行士たちもいました。
宮崎県史において、そのような事実があったことも知っておきましょう。

もしも高千穂を訪れる機会があったら、祖母山方面へ足を伸ばしてみてください。
崩野峠のトンネルを抜けた先、細い坂道を登った丘の上に13名の飛行士を弔う慰霊碑は建っています。

三秀台



陸軍新田原飛行場(宮崎県児湯郡新富町)

Category : 児湯郡の戦跡 |

看護の先生方と救急用品、水、食糧と揃えているとまた空襲。
解除になると炊飯、また敵機。
この日は延千四百機ぐらいだったそうです。
午前六時から夕方まで続いたので、一日がとても長いと感じました。くたくたに疲れた体と精神をどうしようもありません。神経戦とはまさにこのことです。改めて空襲の恐ろしさと、敵機に対する考えの甘さが、腹立たしい程にわかりました。

新田原飛行場の空中戦も高鍋からよく見えました。
火だるまになった飛行機が地上に突っ込み、機銃が火をふくと、黒煙に包まれて空中分解します。
敵か、味方か、見当もつかないのですが、落ちていくのはアメリカのだろうと思い込んでいました。
山には高射砲陣地があるから敵機を迎え撃つとのことでしたが、大砲の音は全然しなくて、なんとも頼りないことでした。次の日も一日空襲。壕の入口からのぞいて見ると、操縦士の帽子が不気味に光って、目の中にとび込んできました。
日本軍による抵抗が無いので敵機は低空を悠々と飛んでいました。
金属的な急降下音は身ぶるいする程嫌でした。次から次に飛んで来るので炊事も出来ません。七輪を木の下に置いて炊飯です。
戦争はもう南方洋上ではないのです。
我々の庭先に来てしまいました。

「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教師 杉田樹子氏の証言

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明け方の航空自衛隊新田原基地。

今回は新田原飛行場を取り上げます。
ハナシの前提として、「陸軍新田原飛行場」と「航空自衛隊新田原基地」を区別しましょう。

昭和15年~20年 日本陸軍新田原飛行場時代
昭和20年~31年 敗戦による新田原飛行場解体と農地開放
昭和32年~現在 航空自衛隊新田原基地の新設
この流れを混同しているケースを見かけるので、念の為。

「ニュータバルは英語が語源」とか「新田原基地には旧軍の遺物が秘匿されている!」とかいうウソ八百を喚くヒマがあるなら、せめて新富町史にでも目を通してください。
それでは、新田原飛行場の歴史について解説します。

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原
新田原基地への着陸態勢に入ったF-4ファントム

【ニュウタバルの地名について】

陸の孤島宮崎。
悲しいかな、この地に県外から観光客が押し寄せる機会というのは数える程しかありません。
数少ないそのひとつが、航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の航空ショー。国防や騒音公害という論点は置いといて、現実として新田原基地は貴重な観光資源となっています。
県や市町村や地元企業がどんなに努力しても、プロ野球キャンプやゴルフトーナメントや新田原航空ショーに匹敵する規模のイベントを増やすのは難しいでしょう。

「ニュータバル」という珍妙な名が付けられた理由は、この基地が新田村(にゅうたそん・現在の児湯郡新富町)にある新田原(にゅうたばる)という台地上に設置されたからです。
何でシンデンやニッタではなくニュウタなのか?という語源についてですが、命名されたのは800年も前なので経緯が一切不明。「ニッタが訛ってニュウタになった」「新=丹生(にふ。朱沙の産地の意味)の当て字ではないか」という根拠に乏しい説がある位です。
それに原(バル・台地のこと)がくっついてニュータバル。ニュータバルの周辺にはサイトバル古墳群やチャウスバル台地やコッコウバル台地やトウトバル台地やカラセバル台地などが広がっていまして、九州では特に珍しい呼称ではありません。
こういう読み方がある事にはヒガシコクバル元県知事も貢献されたと思われます。
ちなみに、一ツ瀬川を挟んで隣接する佐土原町(さどわらちょう)は「バル」ではなく「ハラ」読み。妖怪首おいてけ島津豊久が城主をつとめた日向佐土原城のあった場所で、「佐土草(イタドリ)がたくさん生えていた原っぱ」という意味の地名です。マイカー時代が訪れる前、航空自衛隊員は佐土原から新田原基地まで徒歩通勤していたとか。

何にせよ、新田原基地のサイトあたりで命名の経緯でも載せれば誤解も減ると思うのですが。

地名どころか地理的部分も曲解されていまして、酷いのになると「高鍋の新田原飛行場」などと解説する軍事書籍もあります。
地図を見ればわかる事ですが、同じ児湯郡でも「高鍋町」と「新富町(旧新田村・富田村)」は別の自治体。新田原飛行場が存在するのは新富町です。
昭和や平成の話を、旧高鍋藩のエリアで語られても困るんですよね。
「田舎の地理なんかどうでもいいじゃねえか」と思われるかもしれませんが、新田原飛行場の歴史を語る以上は高鍋と新富の区別位つけてください。私がネチネチ突っ込みを入れるのには、ちゃんと理由があります。

地元に対する無神経な態度は日本陸軍も同じでした。
新田原に軍用飛行場が建設される際には「高鍋陸軍飛行場」の名称案が出されたのです。

新田原飛行場建設には、周辺農家の大量立ち退き、建設作業への勤労奉仕、貴重な古墳の撤去といった負担が地域に押し付けられました。新田村と富田村は、「御国の為だから」と我慢してそれを受け入れました。
そうやってワガママ勝手を通した挙句、隣町である「高鍋」の名を付けようとする陸軍の提案に地域住民は反発。
「高鍋は隣町。ここは新田村だ」という抗議の声が高まり、遂に新田村会が動きます。
昭和14年11月24日、土屋重雄新田村長は陸軍航空本部長宛への抗議書を提出。しかし翌年1月22日に届いた陸軍航空本部からの回答は、「新田原陸軍飛行場と高鍋分教場に命名予定」という折衷案でした。
地元をナメ切った態度に新田村会は激昂し、26日には「村会の結果、高鍋分教場の名称大反対あり。考慮請う」の電報を陸軍航空本部へ送りつけます。
28日、見かねた長谷川宮崎県知事も「地元村長の申出に依れば、之に付設せらるる飛行学校分教場の名称は之と趣を異にし、他町村名たる「高鍋」の名を冠せらるる御予定なるやにて、同村民の驚きは一方ならざるもの有之候」との請願書を軍部へ発送。
それでも埒が明かなかったのか、土屋村長は上京して軍部に直接訴え出ています。

2月8日、第6師団より「分教場も「新田原分教場」と命名する」との回答が届き、名称騒動はおさまりました。
ただし、駐屯していた兵士達はニュウタバルを誤読して「ニッタバラ飛行場」と呼んでいたそうです。

このブログでは、しつこい位に「新田原飛行場は高鍋ではなく新富にある」と繰り返しております。
アレはですね、過去にこのような経緯があったからなのです。
陸軍新田原飛行場や航空自衛隊新田原基地について語る以上、「高鍋の新田原」などという物言いは絶対に避けねばなりません。
それは、戦闘機のスペックや部隊編成を語る以前の問題です。

このように基地の歴史を粗末に扱ってきた結果、ニュウタバルという珍妙な名称に関しては情報の混乱も見られます。
「地名なんてテキトーでいいや」などと放置していると、大手マスコミまでがテキトーな飛ばし記事を書き始めるのが面白いですね。

例えば2014年、「ニュータバルの語源は英語のNEW田原かも」などというトンチキな記事を載せた全国紙もありました。
すげえなあ、某A紙の記者さんは郷土史も調べずに郷土史の記事を書くのかと驚いたものです。

それでは新富町が編纂した「新富町史」を繙いてみましょう。
新田原古墳群で分かるとおり、新田原には古代から多くの人々が定住していた様です。
日向に「新田」という地名が現れたのは平安~鎌倉時代のこと。暲子内親王(あきこないしんのう・1137年~1211年)の御領となった日向の荘園に「新田」と記されているとあります。800年以上も続く地名なんですね。
もちろん、当時の日本人は英語など知らないと思います。

それから月日が流れて寛永4年(1627年)、佐土原藩主の島津忠興が新田原に軍馬放牧場「新田牧」を設置。既に放牧していた5頭に加え、都於郡(現在の西都市)の「長薗牧」から81頭の母馬を連れてきて繁殖を開始しました。
軍馬不足に悩んでいた忠興は、禄高百石以上の者に乗馬の飼育を義務付けます。重要な軍馬繁殖地となった新田牧は、小川覚右衛門(代々継承)を牧司として200年に亘って存続しました。
しかし、1827年には島津忠寛の藩政改革で農地転換され、新田牧と長薗牧は相次いで閉鎖。以降の新田原は耕作地として開墾されることとなります。
コレが新田原の近世史。

続いては新田原の近代史、飛行場設置の経緯をどうぞ。

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【新田原陸軍飛行場の設置】


宮崎県児湯郡新富町。
昭和34年に一ツ瀬川河口左岸にあった新田村と富田村が合併して出来た、農業と畜産の町です。
町の中心部は海岸沿いの平野で、ここを貫通する国道10号線や日豊線に沿って住宅地が広がっています。
町の北西部に迫る洪積台地は「東都原(とうとばる)」。
高台で水源に乏しいため稲作には向かず、耕作地や畜産場として活用されています。

この台地に設置されているのが、航空自衛隊の新田原(にゅうたばる)基地。
長年の間、「日本版トップガン」と呼ばれる飛行教導隊のベースとして機能してきました。台地の上から離発着する自衛隊機を横から眺めると、まるで宮崎平野に浮ぶ空母のようにも見えます。

航空自衛隊新田原基地の前身となったのは、日本陸軍の新田原飛行場です。
この飛行場は熊谷陸軍飛行学校分教場として昭和15年に建設されました。元々は鐘紡系列の昭和産業が養蚕用桑畑を持っていた場所です。
飛行場建設計画が明らかになったのは昭和12年頃で、翌年4月22日には宮崎県から新田村・富田村の双方に軍用地買収が通達されました。
突然の命令に、両村関係者は騒然となります。

用地買収にあたっては軍から宮崎県側へ委託されました。
立ち退きを迫られる村民は329名。中でも、補償金すら払われない小作人の救済は村関係者にとって大問題でした。村長は立ち退く地主に交渉し、職を失う小作人には20円の離反料を支払うように依頼。
建設工事に着工したのは、買収が完了した昭和14年2月1日のことでした。

東都原台地には西都原古墳群に次ぐ規模の東都原古墳群(新田原古墳群)207基が散在しているため、着工前から遺跡保存の措置がとられます。
この遺跡対策も、軍部ではなく宮崎県学務課が奔走する事となりました。
問題となる遺跡は、飛行場滑走路西側予定地にある4基の古墳。
学務課が頼った人物は、かつて西都原古墳群の発掘調査(あの古田武彦氏が論じている、「日向は天孫降臨の地か否か」の確認作業)に従事した京大の梅原末治助教授。
昭和14年3月に梅原先生を招き、僅か三日間の日程で牧神の前方後円墳3基(第42および45號墳その他)、方形墳1基(第44號墳)の緊急発掘調査が実施されます。
撤去された4古墳は縮小モデルを移転再建のうえ出土品を改葬。突貫作業での移転となりました。

これら諸問題を地元に押し付けた上で、翌年には250万㎡の飛行場が完成しています。
軍部の都合を優先した大工事でしたが、失った古墳は4つのみ。隣りの六野原飛行場建設で30数基の古墳が撤去されたことに比べると、懸念された遺跡への被害は何とか最小限で済みました。

両村民が古墳保護を願い出た理由。
それは、これ以上遺跡を破壊してほしくないという思いでした。東都原古墳群は、長年に亘って破壊行為に晒され続けてきたのです。

西都市周辺の古墳群は、5~6世紀あたりから西都原古墳群の墓域が周辺地域へ拡大したものと考えられています。
大正元年から学術調査と出土品保存が行われてきた西都原古墳群と違い、周囲の古墳群は盗掘者に狙われました。

昭和4年には、隣接する持田古墳群で大規模盗掘が発生。
それを聞き付けた関西方面の古物商が押しかけて盗掘品を買い漁り、貴重な埋葬物が破壊され尽したという苦い過去もあったのです。
昭和3年、偶然にも古墳の埋葬品が掘り出されたことが発端でした。
それを高値で売った者が検挙されたものの、課された罰金はわずかなモノ。
「塚を掘っても罪は軽い」「少々の罰金なら、古墳を一晩掘って100円稼いだほうがマシ」とばかりに人々は古墳に群がります。
翌年、「高鍋や木城の宿に県外者が集まり、深夜に何かやっている」との噂が広まりました。
不審に思った宮崎県警高鍋署では橋口司法主任をリーダーとする警官隊を編成し、「赤かね御殿」と呼ばれる地元盗掘者宅を急襲。住民多数を含めた関係者113名が芋づる式に逮捕となりましたが、多くの盗掘品は市場や大陸方面へ流出した後でした。
乱掘の結果、考古学的に貴重なカブト、タテ、馬具類の中には、うちこわされたり、捨てられたものがあり、郷土史家や古墳研究家は、地だんだふんでくやしがった(「宮崎縣政史」より)」

この惨禍を悲しんだ岩橋保吉氏により、古代の人々への贖罪として建設されたのが、水難殉職空挺隊員の慰霊碑がある高鍋大師です。

新田原古墳群が国の史跡に認定されたのは、昭和19年のことでした。

新田原基地

完成した新田原飛行場では、部隊配備が始まります。
昭和16年2月6日、まず西部101部隊(第九航空教育隊)が黒竜江省チチハルから転入。

同年秋には満洲国白城子飛行学校から陸軍落下傘部隊と挺進飛行隊(降下兵の空輸部隊)も移動してきます。
半年間も雪に閉ざされる白城子では訓練もままならず、冬でも気候温暖でパラシュート降下場を確保できる新田原飛行場が新たな訓練地として選ばれたのです。
間近に迫る南方作戦の切り札として、空挺部隊の練成は一刻を争いました。
挺進練習部(空挺部隊の司令部)は北側の川南村にある軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。
新田原を離陸した挺進飛行隊は川南上空で落下傘兵を降下させ、それを何度も繰り返す猛訓練が始まりました。
昭和16年末から年明けにかけて、挺進練習部では2個空挺連隊の編成を完結。
これらの聯隊は、後の第1挺進團(挺進第1聯隊および第2聯隊)となります。

なお、新田原基地のサイトでは「挺身練習部」と表記しておりますが、正しくは「挺進練習部」。日本空挺史でよくある間違い事例です。

昭和17年のパレンバン降下作戦でデビューした後も、空挺部隊は規模の拡充を続けます。
第1挺進團に加えて第2挺進團(挺進第3聯隊と第4聯隊)が新設されたことで、新田原飛行場は収容能力の限界を迎えました。
空挺部隊の移転先として、塩付パラシュート降下場の周囲には唐瀬原(からせばる)飛行場と訓練施設群が続々と建設されます。
川南村に唐瀬原飛行場が完成したことで、空挺部隊は新田原飛行場から転出。
以降、この川南空挺基地が「空の神兵」の拠点となりました。

更に、5番目の空挺聯隊は茨城県の西筑波飛行場へ移転し、グライダー部隊の滑空歩兵2コ聯隊へと再編されます。
同時に挺進工兵隊、挺進戦車隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊といった空挺部隊群も新設され、陸軍落下傘部隊は準師団規模の「第一挺進集団」へと成長しました。

18年に空挺部隊が唐瀬原へ移った後も、新田原は挺進飛行隊の基地として機能し続けます。
唐瀬原の空挺隊員は日豊線の列車とトラックを乗り継いで新田原飛行場まで移動し、そこから挺進飛行隊の輸送機で離陸。塩付降下場へパラシュート降下で帰還するという訓練を繰返していました。

昭和19年、米軍がレイテ島への上陸を開始します。
11月5日、新田原飛行場を飛び立った挺進飛行隊は第二挺進団「高千穂空挺隊」と共にフィリピンへ展開。そして、レイテやルソンにおける一連の空挺作戦で壊滅的な損害を蒙りました。
フィリピンで戦う第一挺進集團に続き、内地に残留した第一挺進團も本土決戦への準備に取り掛かります。

翌年春、挺進第一聯隊は九十九里浜防衛のため横芝へ展開。5月8日には挺進第一聯隊から抽出された「義烈空挺隊」も熊本の健軍飛行場へ移動します。
義烈空挺隊は2週間後の24日に沖縄へ特攻、途中帰還した4機を除く8機112名全員が戦死しました。
宮崎に残ったのは挺進第二聯隊、挺進戦車隊、挺進整備隊のみ。彼等は宮崎沿岸を防衛する154師団、156師団、214師団とともに、米軍の九州上陸に備えて待機を続けました。



昭和19年、第9航空教育隊が島根県へ転出。入れ替わるように、陸軍航空通信学校新田原教育隊の700名が転入して来ます。
通信学校は新田原飛行場の北側(新田原基地から県道44号を北上した高台)に駐屯。卒業生は各戦線へ配属され、その多くが戦死しました。

新田原も、戦争末期には特攻隊の基地となっていきます。

新田原

当時の児湯郡新田村および富田村(現・児湯郡新富町)の地図より
これは空挺隊員が使用していた演習図ですが、軍事施設は一切記載されていません。左上の赤線は塩付パラシュート降下場~宮崎市間の行軍ルート(復路は汽車です)。

 陸軍新田原飛行場滑走路・掩体壕群
 新田原飛行場揚水場ポンプ跡
 陸軍航空通信学校新田原教育隊兵舎および西部一〇一部隊記念碑

陸軍落下傘部隊の話ばかり取り上げてきましたが、新田原飛行場では空挺部隊以外にも多くの犠牲者を出しています。

昭和20年3月18日早朝、九州南部の各飛行場を米軍機の大編隊が奇襲。
沖縄侵攻への露払い、いわゆる九州沖航空戦の始まりでした。

昭和20年3月、いつものように、S少年は、朝6時頃牛や馬の飼料を運びに畑にいました。
今朝は少し早いなーと思いながら、いつものように新田原飛行場の日本陸軍が誇る「はやぶさ」戦闘機のエンジンを吹かす音を聞きながら、仕事をしていました。
すると間もなく、1機の「はやぶさ」戦闘機が那珂上空に飛んで来て急旋回を繰り返し始めたのです。
その瞬間に太平洋に向け、パン、パンと機関砲をはっしゃするではありませんか。
S少年は怖くなり、急ぎ足で家に帰りその様子を見ることにしました。
朝ご飯を食べ一時すると、なんと太平洋方面から戦闘機の大編隊が来るのです。第1編隊、第2編隊と、どんどんやって来ます(1編隊20機ぐらい)。その時、警戒警報は出ていましたが、空襲警報は出ていなかったと思います。
あの大編隊の飛行機を真上に眺めて、S少年は思い大人たちも口々に言った。
「これだけの飛行機があれば、日本は絶対に負けやせん」と…。
編隊は、那珂上空を通り過ぎ西へ西へと飛んで行きました。間もなく見えなくなる頃、急に、方向を変え新田原飛行場に向かって1機1機づつ急降下を始め、すごいスピードで飛行場すれすれの低空を飛び、爆弾を投下するのです。
爆発と同時に地響きが起こり、黒煙が上がり後続の飛行機もその黒煙を縫うように、爆弾投下と同時に、低空で太平洋方面に飛んで行くのです。新田原飛行場は、滑走路や燃料タンクなどが爆撃されたらしく、真黒い炎が上空を覆い、翌日も誘爆を起して炎上していました。
その時、S少年は日本の飛行機とばかり思っていたこの大編隊が、実はアメリカ軍のグラマン機だという事に気づいたのです。
新田原飛行機にいたはずの日本の飛行機が1機も飛び立つことが出来ずに、ただ、一瞬の出来事にS少年達は、防空壕に避難するのも忘れ、ただ、ガクガク震える足を押さえながあr、ぼうぜんとそれを眺めていました。
それから、毎日、艦載機による空襲が、赤江飛行場や六ツ野原陸軍飛行場や、鉄道、工場、鉄橋などに爆撃するようになったのです。

三島俊雄氏「13歳の戦争体験」より


三月十八日、私はいつものように、モンペを着て防空頭巾と救急袋を肩から下げ、鞄を持って七時過に家を出ました。
玄関から五十メートルも歩いたでしょうか。ふと見上げると、海の方から鳥の集団のように飛行機がこちらに向けて来ます。
その時、山の方からも戦闘機がワァーッとたくさん飛んで来て、私の頭上のすぐ近くで空中戦が始まりました。
初めて近くで見る米軍の飛行機です。
急なことで空襲警報も出ていません。恐ろしいとか、危険だ、とかそんなものではありません。家に向って飛ぶようにして走るつもりですが、足はもつれて、なかなか動きません。帰りついた時には、何がどうなっているのか、何が始まったのか分らないのです。近所の人も、あわててウロウロしていました。
私の父は鉄道職員で駅に勤務でした。家には出産で里帰りしている姉と新生児が寝ていて、母は思案にくれていました。姉は起きることも防空壕に入ることも出来ません。母は姉の傍らにいるので私も部屋にいました。
その時、敵機の一編隊が町を攻撃し始めました。家屋に向けての機銃の乱射です。もうこうなったら敵機は飛行場も軍隊も民家も何の見さかいもありません。
ひどい機銃の音がしたので、母は大きなふとんをかぶって姉の上に覆いかぶさりました。私も同じようにふとんをあぶって、赤ちゃんの上にかぶさりました。
その時、パンパンと二発の音がして、私の家に当り、その一発が居間の鴨居をつき通し、かぶっている蒲団の周りをシューッと通って僅かにはみ出している私の足を貫通したのです。
まるで大きな鉄の棒で殴ぐられたようなショックで、足がちょっとピクッと縮まったみたいで、何とも変で妙な気持でした。
「アッ」と思って足もとを見ると、白っぽい、やわらかそうな、固いような妙なものが足の側に飛び散っていました。
その瞬間よく分らなかったのですが、私の足の肉片だったのです。血はそんなに流れていません。

「いのち輝く」より 高鍋高等女学校生 亀井麻子氏の証言

宮崎上空では、富高飛行場から駆け付けた迎撃機と米軍機の空中戦が展開されました。県内各飛行場へ警報が発せられるも、暗号解読にモタついている間に内陸部の都城西飛行場へ米軍機が殺到。
この奇襲以降、赤江、新田原、富高、唐瀬原、都城西の各飛行場は米軍の猛攻撃に晒されます。
マトモな防空戦は3月で力尽き、航空兵力の中心は九州北部へ撤退。
沖縄戦の勝敗が決すると、米軍機は再び九州へ襲いかかります。やがて、宮崎の空は米軍機が支配するようになりました。
県内で無傷だったのは、草原と見間違えられた都城東飛行場と都城北飛行場のみ。
これが、沖縄に続いて本土決戦の最前線となる筈だった宮崎の実情でした。

前年秋に挺進飛行隊が去った新田原飛行場は、赤江飛行場や都城東飛行場と同じく特攻基地と化します。

十九年秋のある日。“新田原から特攻機がでているらしい。すぐ現地の模様をおくれ”と本社手配がとびこんだ。すぐ支局長、杉本、戸田義丸の三人で暗号をつくった。
電報符号をとり入れたチャチな暗号。
たとえば飛行機はヒ、キ、爆弾投下はバ、ク、ト。
戸田は飛行場へ飛んだ。飛行場長、鈴木少佐に会った。
満洲からきた玄武隊、護国隊などの特攻機がつぎつぎとやってきている。いやもう進発した隊もあった。
十日ばかり泊まり込みで、ヒ、キ、バ、ク、トと暗号記事を送りつづけた。
安藤栄中佐を隊長とする護国隊の十一人とは出発前夜、飛行場兵たん部で夕食をともにし、寄せ書きをしてもらって、記事とともに送稿した。
隊長は二十七才。隊員の最年少は十八才。
寄せ書きする一人々々の顔をみつめ“この若者たちも南方に散るのか”と戸田の胸は痛んだ。
この隊は南方海上で敵の船団に体当たりし、安藤隊長は三万トンの輸送船に突っ込み戦死した。

毎日新聞社「激動三十年」より

同年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行隊の10名、誠第7飛行隊の9名、誠第8飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの特攻隊員71名全員が戦死しています。

「昭和二十年三月桜の花の咲くころのこと。実弟の軍隊入隊の門出に親子四人で行き、その帰りのことです。
杉安をあとにして山角橋を渡り、茶臼原を通り、牛牧の集会場らしき建物の前までたどりつきました。
そこには、うすピンク色の桜の花が満開で、まぶしいほどでした。
桜の木の下には、トラックに乗った兵隊さんが、桜の枝を折っていました。私は、あまりにもきれいな枝だったので「その枝を一枝下さい」と申しますと、兵隊さんは快く一枝下さいました。
彼は「この花が散る時は、僕もいっしょに散るのです」と言われ、そのことばがに心が痛みました。
一枝を手に黒谷阪にさしかかった頃空襲に逢いました。私たちは、山の中に身をかくしばまらくして解除になり、山より出てみると私の手には、一枝のサカキを握っているではありませんか。
何とも言えぬ気持ちで子供達を自転車に乗せとぼとぼ足を運んでいるうちに、高鍋の町が眼下にあらわれ、蚊口の方向が爆撃の為にこげていました」
「過ぎ去りし日の思い出」より 高鍋町 友草スミ子氏の証言

「三納代駅(現在の新富駅)に隣接して私の家はありました。家が大きく、庭も相当に広く、駅にも近いので半強制的に、家の二階は将校の家族の住まい、離れは軍人の宿泊所になりました。
富田に続く台地に新田原航空隊があり、それに付随して多くの部隊や施設ができて、町は兵隊でいっぱいでした。
特に駅には部隊への補給品などが着くので汽車は全部停車し、他にも軍用列車は毎日のように出入りして、一日中兵隊が忙しく働いていました。
それで航空隊と共に駅は重要な場所になり、敵機の攻撃にさらされる場所でした。
いつの間にか新田原は特攻基地になりました。
特攻隊員は敵の航空母艦、戦艦、石油基地、飛行場などに機体ごと体当りして損害を与える為に自爆するのです。
そのため飛行機に積み込む燃料は往きだけ、帰りは無いのです。
自分から「死に」に行くのです。
出動する将校は、宮崎市で一番高級な料亭「紫明館」で”お別れの宴”があり、そこでお互い“水杯”をして部隊の訣別だったそうです。
どんな話があり、どんな宴だったかは誰も話してくれないのでわかりませんでした。
私達は「誰誰さんは紫明館行だそうよ(今度の特攻機乗りの意味)」と話すだけでした。
宴が終って宮崎から帰り、私の家の離れに下宿している将校さん方は家族の方々とお別れの面会をしておられました。
皆静かに話をして……何が話題だったのでしょう?
酔っぱらったり、歌ったりは全くありません。
将校でない方々は兵舎でお別れの面会があったのでしょう。
いつもと少しも変わらない服装と態度で出動し、やがて特攻機で出て行くのです。富田の上空で翼をふり、旋回して見えなくなるのをいつまでも見送って、「誰々さんではないかしら」と知っている限りの人を思い浮かべながら見送ったものでした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校 押川慶子氏の証言

戦争末期、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能を停止します。
新田原から北朝鮮へ移動し、戦力回復をはかっていた挺進飛行隊はソ連軍の進攻に遭遇。多数の隊員がシベリアに抑留されました。

新田原・唐瀬原・西筑波の三飛行場から出撃した空挺隊員の多くが、激戦と飢餓によって命を落とします。
陸上自衛隊ではなく、航空自衛隊の新田原基地に「空挺歌碑」が設置されているのは、そういう歴史があったからです。

さて、新田原空挺歌碑の知名度はどうなんでしょうか?
何年か前の航空祭では30分ほど歌碑の傍にいましたが、そのあいだ訪れる人はいませんでした。

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新田原基地の空挺歌碑

8月15日の敗戦後、兵士達はそれぞれの故郷へ復員していきました。
昭和20年末に宮崎へ展開した進駐軍は、新田原飛行場も徹底的に破壊します。再利用ができないよう滑走路は爆破し、周辺は農地として開放されました。
陸軍が去った新田原は、静かな農村へ戻る筈だったのです。

【新田原アヘン事件】

昭和20年の敗戦によって新田原飛行場は解体され、翌年から農林省管轄地となりました。
此の際、農地開墾中の飛行場跡でとんでもない騒ぎが起きます。

終戦間もない陸軍基地新田原飛行場。ある日、住民の一人が滑走路のはしの格納庫の片すみにころがる黄色い布包みをみつけた。
開けてみるとなかは長さ三十センチぐらいの金属パイプ、かん詰のようなものがいっぱい。
軽い。カンやパイプのレッテルに“熱河省産”とある。こじあけるとなかはドロドロした黒いかたまり―、地区住民たちには“それ”が何だかわからなかった。
好奇心から拾って帰った人もあったが、使いみちがない。
庭先に放りだした。
ゴミ焼き場へ捨てたものもあった。冬の朝だった。道ばたでたき火をしていた地区民が急に眠りだした。
燃えさかる火炎から流れる“異様な臭気”をかいでからだ。
骨のふしぶしが抜けていくようなけん怠感、吐き気、そのあとに泥のような眠りがあった。

毎日新聞社「激動三十年」より

それは、日本軍が大陸での宣撫工作や軍票回収用に備蓄していたアヘンでした。児湯郡に展開していた護路兵団の復員兵たちは新田原から物資を持ち去っていましたが、秘匿されていたアヘンは見逃されていたのでしょう。
想定外の置土産は、敗戦直後の宮崎に新たな混乱を生みだしていきます。

「地元出身の兵隊達は幸か不幸か麻薬の実態と問題を知らぬまゝに邪魔物扱にして表に放り出し包装が破れて中身が露出していても通りすがりの農夫達は得体の知れない物と見向きもしなかつたという。
たまたま通りかゝつた新田村〇〇長友さんは、車の油にでもと馬車に積んで帰つた四十一貫目のシロ物が四千万、時価で驚くなかれ六億円もする麻薬であつた」
日向日日新聞「謎の麻薬基地新田原」より 昭和26年

10月に宮崎へ進駐したアメリカ軍はアヘン回収に動いたものの、大部分は住民に持ち去られた後でした。
昭和21年、旧軍関係者などからアヘンの噂が県外へと広まります。
進駐軍の目を逃れた「新田原のアヘン」を目当てに、麻薬ブローカーが宮崎に殺到しました。
妙な動きに気付いた宮崎県警と厚生省も内偵を始め、それを知った住民は慌ててアヘンを廃棄。
宝の山が雲散霧消したと知って、今度はブローカーが慌てます。
「何とか残っている分を売ってくれ」と戸別訪問が始まり、それを阻止するため県警と宮崎県衛生部薬務課はオトリ捜査へ乗り出しました。
目的は麻薬密売組織の検挙ではなく、騒動の原因であるアヘンの回収。
オトリ役のブローカーに「見せ金」を渡し、アヘン隠匿者が喰い付いて来たところを一網打尽にする作戦です。

「さて車に塗つて見たがさつぱり滑らず、さりとてベルトのワツクスにも使えず、まゝよと玄関脇に放置していた所、昨年(昭和25年)三月四日麻薬買いに来た〇〇〇が買入れの約束をした。途端に同月八日神戸CID(アメリカ陸軍犯罪調査部)隊員が妻地区署員と共に同家を急襲、全部没収してしまつた。その際「お前はこんな物を持つて田舎にいたので命拾いした。都会にいたら悪徳ブローカーに誘い出されてとつくの昔に命はなかつた」と同隊員がもらしているが、麻薬の取引には切つた殺されたはつき物だけにヤミからヤミへに葬られているといわれている。
野良仕事に出た農夫が何気なく持つて帰り、床下などに放りこんでいるのがまだあるだろう。
麻薬は所せん麻薬的な魅力を持つてブローカー共をひきつけて犯罪は繰りかえされている。
えんえん東西二キロに及ぶコンクリートの大滑走路は不気味な沈黙をつゞけて冬の陽射しを照り返しているが、無数にあけられた爆弾の跡には麻薬原料のケシならぬハゼの木が村当局により植樹されているのも皮肉である。
かつて弾薬と共に麻薬が集積されていた弾薬倉庫は開拓者の住居に改造され、平和な開拓者達は麻薬景気をよそに黙々として大地にクワを打ち込んでいる。
経費がつぐわないので永い間そのままさらされていた格納庫跡の鉄骨も最近の金ヘンブームの波に乗つて掘り返され、今や新田原飛行場は三転し金属ブローカー共のねらいの場所として注目を浴びつつある(日向日日新聞より)」

オトリ捜査が功を奏し、次々とアヘンは回収されていきました。
しかし、この手法は捜査側の腐敗も生み出します。
逮捕者の続出により、阿片を隠し持つ者も警戒し始めました。売人がやってきても容易に信用せず、アヘンをなかなか差し出そうとしません。
そこで、ある捜査員が考え付いたのが「見せ金作戦」。
麻薬ブローカーを装った捜査員は、仕事の資金繰りに困っていた男に阿片購入を持ち掛け、見せ金を渡します。そうとは知らずにオトリ役となった彼が知り合いの阿片隠匿者に声を掛け、取引に集まったところを一網打尽にする計画でした。
昭和25年10月、新田村での阿片情報を得た厚生省と県警捜査員は、警察後援会員から50万円の「見せ金」を借用。その全額をオトリ役に渡しました。
しかし、オトリ役は「見せ金」から38万円を横領してしまいます。
焦った刑事たちは、オトリ役に自分達の正体を明かし、カネの返済を迫りました。警察に騙されたと気付いた男は、「もう逃げられない」と観念して刑事の目の前で割腹自殺を遂げます。
これをきっかけに県議会と宮崎地検の追及が始まり、取締側の不審な行為が露呈しました。
結果、昭和26年にはオトリ捜査担当の警察官・麻薬捜査官・医師・ブローカーが逮捕されるという異常事態に発展。
50万円の返済に窮した彼等は、押収したアヘンを医師宅で調合のうえ密売。それだけでなく、火薬取締官の書類を偽造して「日向市細島港に投棄された火薬類を横流しする」といって火薬密売もブローカーへ持ちかけていたのです。

アヘンが回収されると騒動も下火となり、新田原飛行場跡の農地開拓も進められました。

新田原のアヘンについては、内田康夫の推理小説「高千穂伝説殺人事件」のネタにもなっております。
アレを読んで、「航空自衛隊新田原基地に何億円分ものアヘンが秘匿されていたのか!?」などと早合点する人もいるでしょう。
陸軍新田原飛行場跡地に航空自衛隊新田原基地が建設されたのは、アヘン騒動から6年後のこと。
「日本陸軍の新田原飛行場」と「航空自衛隊の新田原基地」は別物なんですよ。

そう。
戦後の新田原に、再び軍用機がやって来たのです。

防衛庁

【航空自衛隊新田原基地】

アヘン騒動もおさまった昭和30年、前年に発足した航空自衛隊は九州南部に基地を増設する計画を立てていました。
建設計画時の証言が幾つか残されています。

「昭和30年12月初旬のことであったと思う。T-33Aの前席操縦の講習が終了して、米国でのT-33A教官課程への入校待ちをしている時であった。
当時、空幕では飛行場設定についていろいろと検討中であって、九州の中南部に飛行場を一カ所設定したいと計画、候補地としては人吉・国分・鹿屋・新田原・出水等があるので現地調査したい。ついては築城からパイロット2名をこの調査に参加させられたい旨の通知があり、私と山崎琢磨さん(当時3佐、臨時築城派遣隊パイロット)が参加することになった。
朝未だ薄暗く寒さが肌をさすなかを、山崎さんと2人で椎田駅から宮崎行きの列車に乗ったことを憶えている。宮崎で空幕から来た調査団一行と合流して車で新田原の旧陸軍飛行場跡に向かった。現地に到着してみると、そこには戦時中に作られた滑走路が、そのまゝ残されており、その上には真白い薩摩芋の切り輪が所狭しと干されていた。多分澱粉の材料にするためのものであろうと思いながら、それを踏みつけないように注意しながら飛行場の規模、滑走路の長さや巾を調べて廻った。
飛行場周辺の状況も調査して、将来拡張することも不可能ではないということを確認して、次の調査予定地である国分飛行場に移動していった」
航空幕僚監部防衛部付 元第五航空団 樋口則夫空将「新田原基地設置のための調査に立ち会って」より 昭和53年 

「波風一つ立たぬ新田村に、昭和30年12月20日航空幕僚監部警備第4課長宮沢正雄さんが部下一人同伴でひょっこり訪れ、飛行場の話など何一つするではなく、世間話ののち「それではまた」といった具合いで帰って行かれました。
あけて31年1月22日の日向日日新聞に、新田原に築城の第3操縦学校の分校が設立されるらしいという記事が目についたのであります。
新聞は皆よく見ます。特別記事が出れば各人が放送局になりますから、その日のうちに一般に知れ渡りました。
静かな田舎の村は、青天のへきれきで村中かき回すような騒動になりました。
その翌日から村長室は人の山となり喧々囂々の有様、それもその筈です。長い戦争に疲れ果てて餓死せんばかりの生活から漸く這い上がり、やっと血と汗で開墾した畑地から陸稲甘藷等少しづつ取れ出した畑を、また取り上げるというのですから執着は皆同じだと思います。
1月30日には上京中の県議黒木重雄さんから、新田原に基地を設定する事が決まったと電報を受け取り、いよいよだと思いました。
1月、2月、3月と村民大会、青年団の会、学校の先生の会、婦人会、村議会と開催され、目が回るように忙しくなって来ました。どの会でも反対が80%、賛成は20%位に見えました。各種団体はそれぞれ築城基地、高畑山分屯基地を視察研究しました。
村会等では56人単位で防衛庁を訪れ、また防衛庁からも施設庁の福岡または熊本等から何回となく來村交渉がありました。そうするうちに、さしもの反対者も飛行場で遮断された道路の整備、上新田中学校の建設、橋りょうの改修が出来るならば条件付反対というように、段々と反対が軟弱になってきました。
それでもあくまで反対という最頑固なのが頭に残っております。
この人は最初から大反対であり、土地もあまり持っていなかったと思います。四国の高松出身で元気者であり、変り者でした。
31年8月頃で設置問題もほぼ決着をみる前でしたが、何を思ったのか基地正面警衛所のすぐ前に、便所をわざわざ建てていやがらせをやったのには閉口しました。
裁判所に訴えるという意見や、法務局に願い出て命令を出して貰えという意見等がありましたが、結局黒木重雄さんがいろいろ奔走折衝の結果遂に解決。全く黒木さんの力だと今でも思います」
新田村長 大木年見氏 「新田村における基地開設当時の想い出」より 昭和53年

「新田原はもともと陸軍の飛行場であったが、終戦後米軍が来て滑走路は5m間隔にダイナマイトで壊され開拓民が入っていた。
開拓者は周辺の掩体壕の中に家をつくり、それこそ爆撃を受けても良いような住宅であったが、その反面湿気が多く、蚤の繁殖もまた相当なもので、主要作物はそば、甘藷、茶等であった。
当時の買収価格は反当たり13万円で茶畑のみは30万円であったと思うが、今思うとよくもこんな価格で買収できたものである。
旧滑走路は澱粉かすの乾燥場になっていたので、時期になると臭気ぷんぷんたるものがあった。
基地と名がつくとどこの基地でも一応反対運動が盛り上がるが、新田原基地と雖も昭和30年基地建設の噂が広まった頃は相当の抵抗が有ったのである。役場も農協も大体において反対で、社会党はむしろ旗を立てて反対デモをやったものである。
(中略)
この頃監督官と話し合ったことは、先づ「新田原」の呼称である。
旧軍時代には「ニッタバラ」と呼んでいたが、これは軍特有の呼び方で固有の呼び方ではない。地元の呼び方と自衛隊の呼び方が違うのは万事都合が悪いので「ニュウタバル」と呼ぶことに開設当初から注意しなくてはいけないと申し合わせ、一切の文書も統一した。
第2番目に、この基地はバタ臭くない(※米軍が使用していないという意味)唯一の基地だから、純粋さを保持して「名実日本一の基地を作ろうじゃないか」ということを合言葉にしていたものである」
防衛庁事務官 高橋猛氏「基地周辺対策の逸話」より 昭和53年

農地として開墾された新田原一帯は国有化され、航空自衛隊の第3航空操縦学校新田原分校となります。
昭和32年12月までに2700m級滑走路を再建し、航空自衛隊新田原基地が完成しました。
昭和34年以降は操縦学校を第17教育飛行団に改編し、千歳から第6飛行隊が転入。36年には第5航空団も加わり、用地の買上げと基地の拡大は更に進められます。

日本軍が去った新田村はかつての賑わいも消えており、新田原へ着任した自衛隊員は「まるで山奥へ赴任したかのような不安に駆られた」といいます。
当時はマイカー通勤の時代ではなく、高鍋在住の隊員らは基地まで徒歩か自転車で通勤していました。

「昭和33年1月16日、今では懐かしいSLのD-51の力強い鈍行列車に乗せられて、夕闇迫る三納代駅(現在の日向新富駅)に着いた。
駅には迎えのGMC(トラック)が一台待っていた。運転手のT士長が日向弁丸出しで「基地までは2本の違った道があり、近い方は昨夜の雨でドロンコ道となり通行不能。遠廻りして芝原経由で帰隊します。所要時間約30分」と説明。トラックは一路基地へ向かった。
ひどい砂利道を過ぎて右に曲がりくねった山路を登りはじめた時、これはえらい所に連れてこられたものだと思った。
暗闇の中に鉄条網を認めた時、同僚が「刑務所行きの護送車みたいだね」とささやいたが、私も同感であった」
元第5航空団 池田政雄氏「あれから20年……創設期を想う」より 昭和53年

激しい反対運動が続いた他の航空自衛隊基地と違い、新田原基地の反対運動は短期間で終息。
早期に問題が決着した珍しいケースとなりました。
旧軍の飛行機を見慣れた住民にとってもジェット機は珍しく、最初の飛行機が着陸した際は黒山の人だかりができたとか。中には「プロペラが無いのにどうやって飛ぶんだ?」と不思議がる人もいたそうです。

自衛隊への理解もあって、新田原基地は地域と共存の道を歩み始めました。飛行隊の後援会も設立され、自衛隊員と地元住民との交流も活発化します。
ただし米軍はハナシが別で、在日米軍の機能移転計画が持ち上がった時は、新田原基地前で激しい抗議活動が再燃。押し寄せる反対派に自衛隊が放水で対抗する事態となっています。
土地買収は解決しても、ジェット機による騒音公害や立て続けの墜落事故で新たな確執も生れました。

昭和36年、転入したばかりの第10飛行隊で空中衝突事故が発生。日南市の油津沖に墜落し、2名が死亡します。
昭和38年にもF86戦闘機が宮崎市に墜落。48年にはMU2救難捜索機が尾鈴山中へ墜落して4名死亡。
最新鋭のF104戦闘機を装備した202飛行隊、204飛行隊が新設された後も事故は続きます。
昭和41年、邀撃訓練中のF104が離陸直後にフレームアウト。エンジン再起動を試みるも日向灘へ墜落し、1名が死亡。
43年、悪天候で着陸に失敗したF104が燃料切れとなり、新田原への再アプローチ中に日向灘へ墜落。1名が死亡。
46年、熊本上空で機体トラブルを起したF104が新田原へ帰投するも、遂にエンジン停止。パイロットは一ツ瀬川へ機首を向け、墜落寸前に西都市上空でベイルアウトしました。
対馬海峡をソ連軍機が往復飛行するようになると、新田原基地のアラート任務も24時間体制へ。空中戦の訓練も激しさを増します。
昭和52年、夜間高高度邀撃訓練中だったF104が突如レーダーから機影を消し、海上へ墜落。1名が行方不明となります。

昭和58年、築城基地の飛行教導隊(現在の飛行教導群)が新田原へ転入。
そして、最悪の事態がやってきました。

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新田原基地に掲げられた飛行教導隊のシンボルマーク

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飛行教導隊のF-15には特別な塗装が施されています

昭和61年9月2日、飛行教導隊のT-2練習機が西都市上空で機体トラブルを起します。
後部座席の1名がベイルアウトした直後、パイロットもろとも製材所へ突っ込んで爆発炎上。附近にいた女性とFMラジオ局員がこれに巻き込まれ、重度の火傷を負うという最悪の結果となりました。
この時でさえ「国防のためだから仕方ない」という言葉が住民側から出る程、新田原基地と地域の繋がりは強かったのです。
しかし、この信頼は裏切られました。

被害者女性の親戚は隣接する佐土原町の助役で、その長男は偶然にも飛行教導隊のパイロットでした。
父親にT-2の性能について不安を洩らしていた彼も、8ヶ月後の62年5月に日向灘へ墜落して殉職します。
再発防止を誓った直後の墜落事故、しかも原因不明という調査結果に我慢を重ねていた県民の怒りが爆発。議会、マスコミ、住民から猛抗議を受けた新田原基地側は、「飛行時にトラブルが起きた際は機体を海に墜とす」と約束するまでに追い込まれました。
それまで不文律とされていた方針が明文化されたのです。

しかし、新田原のT-2墜落事故は続きました。
平成元年にも教導隊のT-2が墜落したことで、アグレッサ―用の機種はF-15に変更。
そして現在に至っています。

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のほほんとした県民性か、親戚知人に誰かしら自衛隊関係者がいる土地柄か、今では新田原基地への激しい反対運動などは見られません。
リベラル派の地元メディアですら、自衛隊の評価に関しては公正な立場に徹しています。
しかし、半世紀に亘る県政・町政の新田原基地関係資料や地元新聞の報道ファイルを読む限りでは、ナカナカ根深い問題が蓄積されているのでしょう。
新田原周辺にある記念碑を調べていると、開墾した土地を奪われたことへの憤りが碑文に刻まれていたりしますから。
それらに折り合いを付けながら、新田原基地は存在しているのです。

脇見
新田原基地の真横をとおる、東九州自動車道の標識。高速道路の真上を戦闘機が横切るので計4か所に設置されています。

残された旧軍の遺構群

では、新田原にある旧軍の遺構について。
現在、新田原基地滑走路脇には新田原飛行場の掩体壕4基が残されています。
この周辺の土地は防衛庁(現防衛省)が所有。掩体壕は付近の農家のかたが農具や干草の倉庫として借り受けています。
保存状態は赤江飛行場と違って4つとも良好で、ひび割れに対する補修も施してありました。

掩体壕A
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕
掩体壕越しに眺める新田原基地。

掩体壕B
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕C
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕D
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕


防衛庁
無数に打ち込まれた防衛庁の境界杭


新田原飛行場水源ポンプ場
ポンプ
ポンプ場
台地の上にある新田原には水源が少なく、麓からポンプアップしていました。
新田原基地正門から高鍋方面へ下っていったところの国有地に、旧軍が使用して居た新田原飛行場の水源ポンプ場跡が複数残っています。
現在、このポンプ場跡地には売地の看板が立っており、基礎部分だけが空地の片隅に残されていました。
更に、ここの下流にも旧軍の取水堰跡があります。

西部101部隊及び陸軍航空通信学校新田原教育隊記念碑
追分

標識

西部101部隊(第9教育航空隊)と航空通信学校新田原教育隊の記念碑。
ポンプ場から更に高鍋方面へと走ったところにあります。
教育隊記念碑は、残された隊舎の門柱に記念プレートを嵌め込んだもの。近くの農地に残っていた隊舎の基礎部分も先年撤去されてしまい、当時の様子を窺い知る事は出来ません。

101A
101B
通信1
通信2


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陸軍都城東飛行場(都城市及び北諸県郡三股町)

Category : 都城市の戦跡 |

昭和十七年のある日、航空本部長から川崎航空機工業の社長に呼出しがかかった。何事かと思いおそるおそる行ってみると、数千キロを往復できる4発の超大型の長距離爆撃機を急いでつくってくれ、という指示である。

(中略)
しかし、川崎航空機の技術がいくら優秀でも、本土から数千キロを一気に往復する飛行機は当時としては容易につくれるものではない。かりにそんな飛行機ができたとしても、2~3キロの長さの滑走路を持つ飛行場が必要になってくる。
いろいろ検討してみたが、日本にそんな場所は見当たらない。
しばらく返事を保留していると、また軍から督促がきた。もうできるかできないかといった打診程度のものではなく、命令である。
主として南方へ向かって飛ぶのだから、5キロでも10キロでも南に近いほうがよい。
会社の幹部はこう考えて、九州を候補地にあて、宮崎県都城の土地を選んだ。

仙波正「川崎重工岐阜工場の想い出」より 都城市史掲載

碑文
●都城市前目公園にある東飛行場の歴史を刻んだ石碑

都城東飛行場は、国道10号線と沖水川の交わる一帯に設置されていた軍事施設です。
古来、軍事的な要衝であった都城盆地は航空基地としても適していたのか、都城東飛行場、西飛行場、北飛行場と3つの航空基地が集中。
東飛行場は、都城衛戌病院(現在の国立都城病院)の隣りに川崎航空の飛行機工場が新設されたことに伴い、その大型機用試験飛行場として建設されました。
工場から沖水川を挟んだ対岸一帯に、整地工事を経て滑走路が建設されます。

軍の委託を受けて宮崎県が用地買収に取り掛かったのが昭和15年5月のこと。
用地買収は2年後に完了。並行して埋め立て工事などが進められますが、本格的な整地ができたのは一部のみ。
広大な原野に飛行場施設や宿舎が散在する「草飛行場」のままでした。

東飛行場の滑走路が設置されていたのは現在の都城市都北町、兵舎や掩体壕は北諸県郡三股町蓼池あたり。
昭和19年頃から第六航空軍所属の特攻隊「振武隊」の出撃拠点となります。
猛烈な空襲で都城西飛行場が機能停止したことにより、残る東飛行場からは特攻機が次々に飛び立ちました。
東飛行場から出撃した特攻隊員は53名。彼らは沖縄の空で散華しました。

「昭和二十年四月、高等科二年になると、川崎航空への動員となった。
同時に東飛行場からの特攻機の出撃が開始された。朝早く特攻隊員を乗せた軍用トラックが竹林の前を通って来ると、道路沿いの人々は、自宅の前に出て、手や日の丸を振って見送ったのである。
まるで昨日、今日のように思い出される出来事であった。今、当時の悪童たちもバラバラになり、音信もない」
「八月のエスカルゴ」より 神崎義照氏の証言

戦後に滑走路や掩体壕を含む施設は撤去されてしまい、多数の特攻機が出撃した当時の面影はありません。
現在は、都城ICから少し離れた都北工業団地内の公園2箇所に記念碑だけが残されています。
※激しい爆撃に晒された都城西飛行場とは違い、草原と見間違えられた東飛行場は空襲を受けなかったそうです。

掩体壕

戦争遺跡
都北町旭公民館横の公園に設置されている特攻慰霊碑。

鎮魂(都城東飛行場)

 太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。
 都城東飛行場は、昭和十九年前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急造したもので、表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約一五○○メートル、東西に五○○メートルの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。
 当初は海軍が零式戦闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。
 同年三月十八日には西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場の特攻機は、たこの足のような誘導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。
 また、部隊の宿舎も東南側の五○メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。
 同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立った。
 同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
 また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
以後(昭和二十年)
五月  四日 第六次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(六名)
五月 十一日 第七次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(三名)
五月二十五日 第八次総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)
                   第五十八振武隊(十名)
                   第六十振武隊(一名)
五月二十八日 第九次総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)
                   第五十九振武隊(三名)
六月  八日 第十次総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)
六月二十一日   航空攻撃にあわせて、第二十六振武隊(四名)
六月二十二日日            第百七十九振武隊(五名)
七月一日 第百八十振武隊(二名)
次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。
同年八月十五日、終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝える事、恒久的平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日
  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会
  会長 岩橋辰也


たった独りで飛び立っていった特攻隊員もいたのですね……。

掩体壕

東滑走路3


東滑走路4
東飛行場の滑走路は、現在の都城家畜市場を南北に横切るかたちで設置されていました。

蓼池4

都城市とは別に、三股町の蓼池にも特攻隊の記念碑があります。
滑走路から誘導路で繋がっていた蓼池(現在の旭ヶ丘運動公園周辺)には、掩体壕の他に飛行場指揮所や多数の三角兵舎が設置されていました。
当時の誘導路は、三原交差点から蓼池郵便局へ抜ける車道として現在も利用されています。

蓼池
記念碑が設置されている三原地区コミュニティセンター。飛行場勤務者の兵舎はこの近辺に集中していたそうです。

蓼池5

「特別攻撃隊基地は都城東飛行場の名で昭和十九年に建設された。
沖縄特攻の出撃基地として六十九名の若者が出撃して行った。」
三股町教育委員会

現在、振武隊員の慰霊碑は都城陸軍墓地に設置されています。

敵機は明野隊の格納庫と兵舎に、反復してロケット弾と機銃掃射を集中していた。格納庫は第一撃でガソリンに引火し炎上した。
敵機は夢中で正確につかめなかったが、多分十数機であったと思う。
この日時間をおいて第二波が来襲し、又もや明野隊の施設に、ロケット弾と機銃掃射を集中、機数も第一波と同じ位であったと思うが、翼の不気味に曲がったコルセヤF4Uが混じっていたようであった。同期の話によると、機体にワニザメが書かれていたという。
ただ第一波と違って、第二波は来襲を予想しており、通信も小銃の対空射撃隊を編成し待機していたが、いざ本番になったら「撃つと煙が出て狙われるから撃つな」という、おかしな命令が出て射撃はしなかった。

「埋れた青春」より 都城西飛行場空襲の記録

神柱

魚雷

昭和20年3月18日。沖縄上陸へ向けた露払いとして、米機動部隊艦載機群は九州南部を奇襲攻撃します。
攻撃目標のひとつとなったのが宮崎県都城市。
この盆地は3つの陸軍飛行場と川崎飛行機の工場、鉄道が集中する大隅方面の要衝であり、米軍の攻撃リストにも詳細なデータが記載されていました。
以降、都城市は執拗な空襲に晒されます。
米軍の最優先目標だったのが都原町にあった都城西飛行場でした。
B29から徹底的な爆撃を受けた西飛行場は、5月になると機能を停止します。

「思えば今も忘れ難い三月十八日早朝のことでした。
春の彼岸前は、まだ都城地方の朝は、霜の強い日が続くころで目は覚めていたが寒いので布団の中で、まだ夢うつろの状態でいる時、突然しずかな朝の大気を突き裂くが如き振動とドシン、ドシンと大音響。
また桜島の噴火かと、思いながら布団の中で耳をすましていると、なにか知らん、微かに遠くで飛行機の爆音が聞える。はて、おかしいなあと頭を布団から出した瞬間また、先刻のようにドシン、ドシンと地響きとダッダ、ダッダと云う音に、咄嗟に、これは敵機の空襲、機銃掃射だと直感、床より跳ね起き外へ飛び出して見ると雲一つとない晴天。
南の空に黒褐色の煙が東の方へと、もくもくと、たな引いている。
どこからともなく聞えて来る空襲警報。退避しろ退避と叫び、今頃になってさけんでも遅いわと、私は一人言を、言いながら素早く身仕度して、すぐさま近くの城山(安永城跡)に駆け上がった。
既に庄内小学校に駐屯している兵隊達が退避していた。私も木蔭に身を潜めながら都城市街の方を見渡すと、まさしく都城西飛行場(現在の都原町一帯)付近から黒煙と火焔がめらめらと上がっている。
その上空から紺色に輝いた戦闘機が、次ぎから次ぎへと反転急降下して行くではないか。飛行場周辺から、撃上る機関砲と敵機の機銃掃射と撃ちあい、まるで仕掛花火でも炸裂しているような音が聞こえて来る」
「埋もれた青春」より

都城空襲

都城空襲

都城空襲

都城空襲犠牲者追悼碑 碑文

第二次大戦の末期、米軍は、沖縄本島への上陸に先立ち、南九州全域の軍事施設を攻撃した。
都城は、昭和二十年三月十八日早朝、初めて空襲され、以降終戦まで二十回余の無差別爆撃によって、街は廃墟と化し多くの人命が奪われた。
街は戦後いち早く復興したが、空襲犠牲者については半世紀も放置されてきた。
戦後五十年の行事を通し「空襲犠牲者の掌握なしに、都城の戦後は終わらない」と、調査が始まった。
治安維持法犠牲者国家賠償同盟県南支部と都城市の積極的なとりくみによって、四十四名の子供を含む八十八名の犠牲者が判明した。
ここに、心から犠牲者を悼むとともに、恒久平和を誓い、追悼碑を建立する。

平成十一年八月五日
都城空襲犠牲者遺族会


草原と見間違えられた都城東飛行場と都城北飛行場は無傷だったものの、東飛行場からは特攻機が続々と出撃。多数のパイロットが散っていきました。
北飛行場も特攻基地でしたが、こちらに配備されていたのは「赤トンボ」と呼ばれた旧式の複葉練習機。
これではさすがに出撃の機会もなく、北飛行場の特攻隊は待機のまま終戦を迎えます。

「その後二三日してから前述の空襲で敵グラマン機二機が撃墜され、その残骸が都城神柱神社の境内に晒してあるという情報が伝わって来たので翌日、自転車で、わざ〃都城神柱神社まで見に行ったことを今も思い出します。
境内に着いて見ると大勢の人だかりで、順番を待って前に出て墜落機を見ました。
胴体の紺色に白色の星のマークは鮮明に残っており、エンジン部分と両翼はメチャメチャに壊れており、パイロットが持っていた携帯無線のアンテナ(黒色の長さニmぐらい)が胴体部分に立て掛けてありました。
このアンテナを見物人のほとんどの人が、釣竿だと言っていたのを、私は今も思い出し苦笑します。
当時の都城市民は、まだ科学的な知識は低かったようです。
私も、この時初めてアメリカ軍のグラマンF6の空襲を体験して、はたして日本は、これでも勝てるのかと当時疑問が生じ出していました(〃)」

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当時の神柱神社。あの辺の風景も随分と変化したんですね。

「四月十九日出發。現・都城農業高校の裏手にあった会社の寮「高千穂寮」に入寮しました。
食堂、風呂場は建設中で、今の国立病院辺りにあった工場の食堂まで食事に出かけました。
私達三年A組は軍隊式に四つの内務班に分けられ、私は第四内務班でした。一室十二名、左右に六人づつ、私は上段ベッドでした。畳一枚だったと思います。
工場生活が始まりました。
現場配属までは錬成という訓練です。警報が出ると休みになり、空襲警報では寮に帰り、解除になるとまた寮に戻る。
その繰返しの合間に私達は防空壕も掘りました。
寮の前を流れる高木用水路を渡った田圃に、各内務班毎に造りました。
都城に来て一番こたえたのは空腹でした。故郷から食糧が送って来たり、面会に来た人が持って来たりするのを輸送船と呼びました。それがとても嬉しくて、同室の人達と分けて食べました。
西小林の山下四郎君は「謹啓、今日は天長節に御座候……」で始まる両親への手紙に「握り飯を十五個位、友第に上げるから竹の皮に包んで、四人分別々にして送ってくださいませ」と書いています。
天長節は天皇誕生日で四月二十九日でした。
その頃は毎日B29爆撃機が銀色の機体をキラキラさせながら西飛行場を爆撃していました。
私達は壕の所から西飛行場に上がる土煙を眺めていました。
高射砲弾も当たらず、稀に迎撃戦闘機が落す空中爆雷もなかなか当たらず、空しく花火を咲かすだけで、とても残念でした。
そんな中、一日休みがありました。洗濯などを済ませてから、確か同室の前田薫君だったと思いますが、二人で街に出かけました。私は筍の味噌汁が無性に食べたくて、西駅前の千日通り、神都館の辺りを歩きましたが、戦時中の事とて食堂もなく、前田町辺りで漸く食堂を見つけました。Aランチ、Bランチなるメニューがあったのを覚えていますが、それが何だったのか、そこで何を食べたのか思い出せません」
渡辺正治氏「旧制小林中学三年生工場動員の記録」より

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当時の神柱神社

都城には川崎航空機製作所の軍需工場も設置されていました。
空襲激化によって熊本の阿蘇へ工場疎開が決まりますが、度重なる米軍機の襲撃を受けて犠牲者が続出しています。

「五月に入り、我々三年生も現場配属になりました。飛行機の翼を作るのを翼結構、胴体を作るのを胴体結構と称してそれぞれの部署につきました。
そして昭和二十年五月八日、学徒隊は朝隊列を組んで工場内の食堂に行きました。
かねては警戒警報の後に空襲警報が鳴るのに、その時はいきなり空襲警報が鳴りました。
敵機が近いということで急遽退避命令が出ました。
急いで防空壕のある寮のほうに引き返しました。
その日は曇り日和で機影は見えず、爆音だけが頭上に聞えましたが、襲撃は我々のいるところではなく工場の方だろうと安易に考えていました。そこに“ザァー”という音がして空を見上げると、カラスがニ、三羽飛んで来るような爆弾が見えました。
咄嗟にその場に伏せ、同時にドカン、ドカンという凄まじい爆発音がして、背中に土砂が降ってきました。私の前を三々五々歩いていた学徒の中に落下したのです。
土石を払い無我夢中で壕の方に走りました。後ろの方で誰かが「川野君、やられた」と言いました。
振り返ると同じ学校区の後藤君が左腕を抱えていて、上腕部の肉が飛び出しています。そのまま壕まで附いてくるだろうと走りながら再び振り向くと、彼はレンゲ田の中に倒れ、足を宙に浮かせて痙攣しています。
その時私は引き返して彼を助けることが出来ませんでした。その後悔の念がトラウマとなって、今も心の傷が癒えません。
壕の中ではみんな震え、先生も震えていました。そのうち集合がかかり点呼が始まりました。誰と誰がいないと分かり、惨状が明らかになりました」
川野八郎氏「不戦の誓い新たに」より

「右手の畠の中に誰かが倒れている。近づくと同室の狩集君です。
何処もやられている様子はなく、ゲートルに血がついているだけです。胸を叩いてゆするも反応がない。
眼が白目になっているのでこれは駄目だと立ち上がると、前方七、八メートルの所を大きな男が、酔っぱらいのようにフラフラと歩いています。谷ノ木君だと判った時、彼はバタッと水溜りの上に倒れました。
それを見たまま助けにも行かず、すぐさま壕の中に飛びこみました。壕には級友たちが入っていて、中には何人か爆弾の破片で怪我をしています。
外で「助けてくれ、痛い、痛い」と大声で誰かが絶叫しています。あれは堤の後藤君が腕をやられて叫んでいるのだと誰かが言いました。
暫くして同室の米川衛君が壕に入って来ました。服の背中に一杯血がついてます。
聞けば川野君を背負って来たのだと言います。川野君は通りがかった米川君を呼び止め、落ちていた片足を拾って片足で立ち上がり、米川君の背中におぶさって壕の近くまで来たのでした。私達はじっとして、あまりの恐ろしさに震えていました。
その間壕の外では、会社の人、先生達、上級生による遺体の処理、重傷者の運搬などが行われていました。
祝吉の公会堂の所に集められたようです。
「出てこおーい」という声であちこちの壕から避難者が出て来て凄烈しました。その時寮の所で時限爆弾が爆発して、土煙が真直ぐに立ちのぼりました。私達は寮と反対方向に歩き、とある大きい家の中に入って休みました。重傷の中原君を運んでいた佐伯君、別の場所にいた鵜狩君もここで追いつきました。
私達は郡元町にあった川崎航空の社宅(一戸建て)に内務班毎に移りました。
時限爆弾が何時爆発するかも判らないとびくびくしつつ、前の寮から布団などを運び出しました。
夜食は、級友の悲惨な姿が思い出されて食べられませんでした。
通夜の夜、社宅の前で松本先生の音頭で「海行かば」を歌いました」
渡辺正治氏「旧制小林中学三年生工場動員の記録」より

「真新しい柩が幾つも横に並べられていました。
川野君のお姉さんが「やっと間に合った」と言って走って来られ、最後の別れをされました。
たまたま飛行場に向かう特攻隊員達を載せたトラックが一台通りかかり、隊員はこの異様な火葬場の様子に気づいたのか、車を止めて荷台に立ったまま声を掛け事情を聞いて、全員柩に向って挙手の礼をしました。
「仇はきっと俺達が討ってやるから」
と言って走り去りました。その時の白いマフラーと鉢巻姿がいつまでも忘れられません」
菅通教氏の回想より

神柱神宮周辺には戦争犠牲者の慰霊碑をはじめとする史跡が今も残されています。
下は戦没者の忠魂碑。

都城空襲

忠魂

忠魂

忠魂

小松原

隣の神柱神宮境内には、戦争前に寄贈された魚雷が設置されていました。

魚雷

大正15年、海軍省から下付された四十五糎魚形水雷1基と三十糎砲弾2発。

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
火薬が抜かれた弾頭内部にはコンクリートが充填されています。


軍事施設への爆撃を終えた米軍は、市街地への無差別爆撃を開始します。
度重なる空襲で都城市は焼け野原となり、多数の市民が犠牲となりました。
そして、8月6日の都城空襲へ至ります。

「とりわけ、五十二名の生命を奪った八月六日の大空襲は、午前八時頃に飛来した二機のロッキードの偵察飛行から始まった。
丁度、お昼頃沖縄基地を飛び立った米軍の中型爆撃機八機が、末吉、高之峰方面から超低空で侵入し、機銃掃射を加えながら、市の西部地域に焼夷弾を次々に投下した。
たちまち大火災を引き起こし、猛火は市街地中心へと広がっていった。
第二次攻撃は、約一時間後に中、小型機約三十機が市民の退路を遮断する狙いもあってか、風上の北部に機銃掃射と焼夷弾攻撃を行ってきた。
その後、十分間隔で第三、第四次と来襲し、市近郊の重要施設を攻撃するかたわら、消火活動を妨害するため上空を旋回しながら、機銃掃射を午後四時頃まで繰り返した。
この結果、松元、牟田、宮丸、八幡、姫城、上町、中町、大王、平江、栄町等の市街地と市役所、学校(五)、病院(十一)、工場(八)、寺院(一)も焼失した。
罹災家屋は千八百九十七戸(全戸数の十八%)、罹災人口は一万七千二百八十四人(全人口の二十九%)に達した。
これによって、都城空襲の犠牲者は八十八名となり、この内、半数の四十四人は十六歳以下の子供であった」
もろかた第45号掲載「都城空襲のあらまし」より抜粋

昭和二十年八月六日はお盆前の暑い日で、友人と水浴びに行く約束をし、大淀川上流の平田橋の淵に泳ぎに行った。
午後の日差しの温度もぐんぐん上がっている川には、既に十数名の河童達が水に入っている。
僕たちも急いで泳ぐ準備をしていると、突然けたたましいサイレンが鳴り出し、高射砲の音、爆弾の爆発音、シュルシュルと落ちてくる焼夷弾、数か所からのサイレンのけたたましい音である。
これは大変、近くに壕はない。山裾の下に兵隊の防空壕があるからあそこに逃げようと、田圃には稲穂が出ようとしている畦道をどう走って逃げたか分からない。
近くで空襲を見ていた兵隊が来るなと合図するがそれ所ではない。後ろを見れば街中黒煙と爆弾の破裂の音が凄まじい地獄絵そのものの「市内大空襲」である。
牟田町、西都城駅、八幡町、甲斐元、松元町、上町、中町、平江、栄町、天神、前田、小松原、市役所、裁判所、法務局、郡役所、明道国民学校、東国民学校、攝護寺本堂、都城中学校全焼。
市内全域で全焼(一四二七戸)、罹災面積一、四○○平方キロメートル、罹災人口一万七千二百八十七人である。
敵のグラマンが次々と波状爆撃する。仕方がないから壕に逃げ込もうと行くと、兵隊から平手で二、三発叩かれて来るなと言われた。恐ろしくて仕方がない。
兵隊も恐ろしかったのじゃと話しながら山裾をはって逃げ帰った」
曽原義正氏「戦火の渦中」より

「都城工場は危険が増大した為か、阿蘇の内ノ牧工場への移転が決まり、私は工員の移動の為の梱包材料の発注と送料・旅費の計算等、移転準備の書類を作成する職場に移籍、多忙を極めました。
八月六日も変わらぬ多忙で、遅くなった昼食中、仙波次長の大声で「場外退避!場外退避!」
徒ならぬ空気に弁当もその儘に、近所のいつもお世話になっていた民家の防空壕に危機一髪で退避しました。
暫くは轟音と機銃掃射の音が続いていました。
静かになったので爆撃が終ったのかとホッとした時、入り口からおそるおそる外を見ていた人の「アーッ、工場がない。工場がなくなっている」という驚きの声で急いで外に出ました。
工場はペッチャンコになって炎上中。私の働いていた事務所は辛くも焼けずに残りましたが、工場全体は無惨な裸同然の姿でございました。
アメリカ軍の緻密な軍需工場調査と、B29 の的確な攻撃振りに改めて驚嘆し、アメリカという大国の威光に恐れた一瞬でございました」
花田美代子氏「挺身隊の思い出」より

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
胴体部分。経年劣化による破損がみられます。


魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
スクリュー部


都城西飛行場は「本土決戦に備えて戦力温存」の命令により、都城を護る筈の迎撃機すら上げませんでした。
都城東飛行場は特攻機の出撃拠点となり、多数の若者が沖縄の米艦隊へ向けて飛び立っていきました。
都城北飛行場は、爆弾を積んだ旧式の複葉機だけが特攻命令を待ち続けていました。

3つの軍用飛行場を有しながら、都城は敵機の為すがままに蹂躙されたのです。


ヘリ
オマケで山之口あじさい公園の海自ヘリ。都城東飛行場の掩体壕や防空壕は、遠く離れたこの付近にまで設置されていました。

陸軍都城西飛行場と歩兵第23聯隊駐屯地(宮崎県都城市都原)

Category : 都城市の戦跡 |

この頃、都城上空を飛行中のB29の編隊にただ一機の零戦が突入し、猛烈なタ弾(※空対空クラスター爆弾)攻撃を行いましたが、巨象に立向う蟻のような零戦の姿と、幾重にも四方に飛び散ったタ弾の美しい煙が印象的でした。
しかしこれで都城西飛行場に対するB29の爆撃は終わったのではなく、遂にあの都城西飛行場の最悪の日、忘れもせぬ四月二十九日の日を迎えたのでした。

「埋れた青春」より

都城西6

【歩兵第23聯隊と64聯隊】
現在の陸上自衛隊第43普通科連隊都城駐屯地には、かつて2つの陸軍歩兵連隊が配置されていました。
そのひとつ、明治17年に熊本で創設された部隊を源流とする歩兵第23聯隊は、第6師団の傘下にありました。有名な人といえば、後の総理大臣となる村山富市さんもこの部隊の所属です。
明治時代は日清・日露戦争に投入された後、大正14年に都城駐屯地を拠点とするようになります。その後も済南事件や満州事変などで、たびたび大陸へ出動しています。
日中戦争が始まった昭和12年には杭洲湾上陸作戦から南京攻略戦へ参加し、武漢作戦などで中国各地を転戦。昭和17年には第6師団傘下部隊として南太平洋の戦線へ投入され、ブーゲンビル島の防衛任務につきました。
翌年10月、アメリカ海兵隊がブーゲンビル島へ上陸を開始。上陸地点のタロキナにいた23聯隊第2中隊は壊滅的な打撃を受けます。
輸送が断たれ、「備蓄物資が尽きる前に」とアメリカ軍への反撃を試みた第6師団ですが、ジャングルの密林と米軍機の空襲に阻まれて悉く失敗。第23聯隊も、この攻勢で1000人以上の死傷者を出してしまいました。
飢餓に苦しむ日本軍に対し、アメリカ軍も険しい地形を突破してまで進攻しようとはしません。
やがてアメリカ軍はブーゲンビル攻略をオーストラリア軍へバトンタッチしますが、日豪両軍とも小競り合いを続けたまま終戦を迎えました。
23聯隊の帰還将兵が当時の回顧録を残されていますが、日本軍の斬り込み攻撃に悩まされていたオーストラリア兵は、収容所の日本軍捕虜へ激しい報復や暴行を加えたとあります。連合軍側におもねって部下への虐待に加担した某日本軍将校は、「恨みを買って復員船上から海へ投げ落とされた」とか何とか。

もうひとつの駐屯部隊である歩兵第64聯隊(明治38年編成)は、明治42年に都城へ移駐。大正14年に一旦解隊されますが、日中戦争が始まった昭和13年に再編成となり、満ソ国境へ展開しました。
昭和14年に関東軍とソ連軍が激突したノモンハン事件では連隊長が自決するほどの猛攻撃を受け、大損害を蒙ります。
昭和19年にはフィリピンのルソン島へ移動。同じく宮崎県児湯郡を拠点とする陸軍落下傘部隊第1挺進工兵隊と共に、バレテ攻防戦に投入されました。

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当時の歩兵23聯隊前の並木道。現在は風景も一変しています。

郷土館
陸上自衛隊都城駐屯地にある「郷土館」
明治43年の歩兵64聯隊、続く歩兵23聯隊時代を通して使われている建築物で、都城西飛行場の詳細な記録も展示してあります。
戦前の痕跡も多々残されており、ここの廊下で「満期二日ナリ 蚊ニ喰ワレツツ軍旗ヲ守ル」という昭和12年7月7日のラクガキが發見されて話題となりました。
館内で確認してきましたが、このラクガキは現在でも読めます。

【都城西飛行場】

第23聯隊駐屯地から谷を挟んだ反対側には、都城西飛行場が建設されています。
宮崎県都城市の都原台地(現在の陸上自衛隊都城駐屯地附近)で都城西飛行場の建設が始まったのは、昭和9年のことです。
元々は昭和7年に歩兵第23聯隊の満州出動記念として造成された和田原の軍用地であり、昭和15年には逓信省からの委託も受けた拡張工事に着手。
昭和17年には、逓信省管轄の航空機乗員及び整備員養成所としての機能を追加した飛行場が完成します。
115万5000㎡の都城西飛行場は、東南より母智丘方面へ向けて1200m級の滑走路を備えた大型飛行場となりました。

西飛行場には逓信省航空乗員養成所が設置され、昭和十九年から明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が展開して、一区隊が陸士五七期と甲種幹部候補生の転科少尉と特操一期生の少尉、そして二区少年飛行兵出身の下士官の二隊がおり、一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施、飛行場はほぼ正方形で対角線上に舗装した滑走路が作られていた。
秋頃は突貫工事で日曜返上の「月月火水木金金」で、僕たち少年も毎日休み無しの奉仕作業に明け暮れた

曽原義正氏「戦火の渦中」より

ちなみに、「月月火水木金金」を言い出したのは宮崎県出身の津留雄三海軍大尉。
明治末期の日本海軍は、日露戦争の勝利で猛訓練に励んでいました。それを見た津留さんは「休日返上での訓練はやり過ぎだろう」という意味でコレを言ったのですが、なぜか「休日返上で訓練に励め」に曲解されて広まり、やがて軍歌にまでなってしまいました。

当時の西飛行場には複数の部隊が混在していた為、飛行場の勤務者でもすべてを把握できなかった様です。
夜中に飛行場の中で迷子となり、翌朝になって漸く兵舎に帰り着いた兵士もいました。飛行場の周囲には狐が棲息していたので「キツネに化かされたんだろう」などと笑い話になったとか。

現在は住宅地や学校となっていますが、当時の西飛行場の敷地は都原町一帯を含む広大なものでした。飛行場は軍隊以外も利用しており、県立西高校付近には逓信省パイロット養成所の校舎や格納庫が設置されています。
これらの飛行場施設群は、昭和20年3月18日の空襲で壊滅。B29爆撃機の集中攻撃によって航空基地としての機能も失い、地下壕などに籠っての任務が続けられました。

都原
道路左手が陸上自衛隊都城訓練場。右手奥が都原団地。

都城駐屯地
この訓練場を含む広大な範囲が、西飛行場の敷地となっていました。

都城西飛行場

都城西飛行場
都城駐屯地訓練場内部の様子。主滑走路は訓練場を横切るように設置されていました。
部外者は駐屯地祭の時だけ入場できます。

3月18日、沖縄進攻への露払いとして、米機動艦隊は九州南部の軍用飛行場を空襲。いわゆる九州沖航空戦の始まりでした。
その日の早朝から、新田原、赤江、都城西、富高の陸海軍飛行場は米軍艦載機による激しい攻撃を受けます。
沖縄戦が終ると共に米軍機は再び宮崎へ襲来し、西飛行場では計55名が戦死しました。爆発の衝撃で地下壕が崩落し、生き埋めになった兵士もいたとのことです。

自宅前四百米位の所に陸軍歩兵二十三連隊があり、裏の畑を過ぎ谷を越えた所に西飛行場がある。
初めての空襲である。そのあと毎日警戒警報と空襲警報で機銃掃射と爆撃の連続である。壕に逃げ込んだが爆発音と地響きで土がばらばらと落ちてくる。天井は竹で縦横に桟をはり菰を被せ、土と芝を上に張った急拵えの防空壕で、中にいても生きている気持ちはしない。
空襲警報も解除になり、近くに敵グラマンが落ちたという。家裏近くである。僕たちもついて行くと上村方面で煙があがっている。飛行機のそばにつくと異様な匂いがする。機銃の弾は左右の翼下に未発で飛び出している。
その時誰かが「敵機来襲」と叫ぶ。
市街地の方から機銃掃射しながらグラマン二機が我々を目がけて飛んでくる。
「こりゃ危ない」と、皆蜘蛛の仔を散らしたように山蔭へ逃げた。
いつの間にか自宅裏の畑に三百、四百米置きに機関砲の陣地が据わっていた。その一陣地から撃った弾が当たったらしく、その兵隊は二階級特進だったという。
連隊以外の兵が続々と大阪や各方面から都城周辺に駐屯し、宿泊も民家に泊まり、いよいよ本土決戦に備えての集結であるという。今日も警報で自宅の防空壕に飛びこむ。壕は前後に三か所も掘ってある

曽原義正氏「戦火の渦中」より

また桜島の噴火かと、思いながら布団の中で耳をすましていると、何か知らん、微かに遠くで飛行機の爆音が聞こえる。
はて、おかしいなあと頭を布団から出した瞬間また、先刻のようにドシン、ドシンと地響きとダッダ、ダッダダッダと云う音に、咄嗟に、これは敵機の空襲、機銃掃射だと直感、床より跳ね起き外へ飛び出して見ると、雲一つない晴天。
南の空に黒褐色の煙が東の方へと煙が東の方へと、もくもくと、たな引いている。
どこからともなく聞えて来る空襲警報、退避しろ退避しろと叫び、今頃になってさけんでも遅いわと私は一人言を、言いながら素早く身仕度して、すぐさま近くの城山(安永城跡)に駆け上った。
既に庄内小学校に駐屯している兵隊達が退避していた。私も木陰に身を潜めながら都城市街の方を見渡すと、まさしく都城西飛行場(現在の都原町一帯)付近から黒煙と火焔がめらめらと上がっている。
その上空から紺色に輝いた戦闘機が、次ぎから次ぎへと反転急降下して行くではないか。
飛行場周辺から、撃上る機関砲と敵機の機銃掃射と撃ちあい、まるで仕掛花火でも炸裂しているような音が聞こえて来る。


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都城西飛行場への空襲を庄内の人々が眺めていた安永城跡(南洲神社)。
第57軍野戦輸送司令部が置かれていた庄内も、8月6日に米軍機の焼夷弾攻撃に晒されました。

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安永城跡から眺める都城西飛行場方面。母智丘トーチカは、画像の道路で高台を越えた所にあります。

自宅から南西百米のところに高射砲陣地が十門座わるという。弾の飛ぶ距離は九千九百米で、これでB29も撃ち落としてくれると上官が言う。
でも空襲が激しくなり、日毎にB29の来襲であるが弾は当りもしない。兵隊に聞けばB29の高度は一万米以上の高さで飛んで来るから当らないという。
どうしようもない。
毎日激しくなるばかりでB29・グラマンも日夜の空襲である。
三か月位経って、父が慌てて帰ってきた。いよいよ疎開命令が出たぞと言う。荷物を必要なものだけ準備して荷車に積み込む。
夕方になって父が座敷に来いという。兄と僕が上がって見ると、母も座り何か話している。
床の前には高お膳が置いてあって、父の話をよく聞けと言う。
隣の畑十五米のところに電波探知機が据わるからどうしても疎開せよとのことで、田舎の母さんの実家のじいちゃんにも相談したので疎開することに決めた。お前たちとも最後の別れになるかも知れないので一応水盃を交しておこうと話し、戦況も悪化し軍にしてみれば家の周囲は防風林で陰になり探知機の設置にはもってこいである。
こっちは迷惑であるが戦争に勝つまでは仕方がない。夜遅く親戚に着くとじいちゃんや叔父たちが提灯を下げて待っていてくれた。
荷物を降ろしながらここも「大丈夫」とはいえないが心配だねといいながら、じいちゃんの家に落ち着くことになった。
それから一週間も経った頃父が尋ねて来て、母に家に帰るという。じいちゃんや叔父たちにも相談して来たと言い「死ぬときは家族一緒だ」と言って自宅に帰ることになったが、祖父たちは心配顔で危ない時は子供だけでも疎開させよと言ったが、僕たちも父母とは離れたくはなかった。
夕方遅くに自宅に着いた。
翌朝隣の畑を見ると、大きな穴を掘って土台はコンクリート工事がしてあって、まだ未完成である

曽原義正氏「戦火の渦中」より

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都城西3
旧都城西飛行場の存在を伝える碑は、都原団地の一角に設置されています。

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其の後も、西飛行場は激しい空襲に晒され続けました。

爆弾回数が多くその範囲も広く、またその頃飛行場には飛行団、戦隊、通信、整備、飛大、高射砲、防衛隊等々指揮系統の異なる各種の部隊が各所に分散駐在していたため、その正確な数は定かではありません。
戦後伝え聞いた話では、作戦室の壕内より救出されたあの若い生き埋めの兵は、復員後も精神異常は回復せず、不幸な一生を送ったようです

鎌田政孝編「埋れた青春」より

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鎮魂(都城西飛行場)

 太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立って行った。
 都城西飛行場は、昭和八年都城歩兵二十三連隊が満州事変から鎧旋したのを記念して、昭和九年末に一般市民及び諸団体の勤労奉仕等により建設されたもので、ほぼ正方形をしており対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。
 昭和一七年四月には、民間航空機要員の養成を目的とした逓信省航空乗員養成所が設置され、九五式一型乙中間練習機(赤とんぼ)による訓練が行われていた。
 太平洋戦争が始まり、昭和十九年には明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が西飛行場に展開していて、一区隊(陸士五十七期と甲種幹部候補生転科の小尉)、二区隊(少年飛行兵)の二隊が一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施していた。
 翌年の昭和二十年三月には、南九州の各基地に来る沖縄戦に備えて飛行部隊が集結しており、都城東・西飛行場には第百飛行団、四式戦(疾風はやて)装備の飛行第百一・百二戦隊及び特攻二隊が展開してきた。
 同年三月十八日に午前七時頃初めての空襲を受けたが、地上勤務員によりほぼ復旧している。
 同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立ち若い命を散らしている。
 同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
 以後、出撃は都城東飛行場からとなり同年八月十五日終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日 
  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会 
  会長 岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に有ります。


都城西

昭和二十年頃より戦争も悪化し、海軍と陸軍とが入り混じって空中戦などの訓練が頻繁に行われていた。最初は、特攻機は祝砲を合図に数機ずつ飛び立っていた。
兄が、丁度休みで飛行場へ遊びに行くというので付いてゆくと、兵舎の向こうを指差し特攻機の出撃だと走り出す。後を付いてゆくと、庭に机を白い布で被い、コップが置かれ、隊員たちは日の丸鉢巻をきりっと締め、首にはまっ白いマフラーを巻き、上官の訓示が終りコップを片手にグイと飲み干し、隊員たちは上官に「行って来ます。後を頼みます」とそれぞれ敬礼し飛び立つのであった。
帽振れの合図と共に特攻機は飛び立ち、上空を旋回して飛び去っていくのである。
残っている兵隊達も涙ながらに南の空へ特攻機の機影が消えるまで帽子を振っていた。僕達もいつの間にか涙を拭いていた。
都城西飛行場、東飛行場からも十六歳から三○歳の若者たち七十九名の尊い命が南の島へ若鷲となって戦死している。
都城都島三八○番地の陸軍墓地に、七十九名の特攻隊員の名を刻んだ碑が建っている

曽原義正氏「戦火の渦中」より

陸軍墓地
陸自都城駐屯地から都城西駅方面へ下る途中に陸軍墓地があります。
この墓地の片隅に、西飛行場と東飛行場から飛び立って行った振武隊の慰霊碑が建立されました。

振武隊慰霊碑

私の家は、当時安永旅館を経営しておりました。
二十四才頃で、庄内には兵隊さんがたくさん駐留しておりましたので、軍人さんへの面会客が多く、毎日忙しい日をすごしていました。また将校さんの宿舎にもなっていました。
その中に特攻隊の整備士の方が泊まっておられました。
少尉さんでした。
その方の言っていられた言葉を思い出します。
「きょうは、風が吹いて出撃できなかったからよかったなあー」とか「きょうもだめだった。風が吹いて出られなかった」とか、複雑な心境を吐き出されていました。朝二時から三時頃朝早く旅館を出ていかれておりましたが、戦友愛といいますか、生を共にした男子同志の友情は、女の私には到底わかるはずもなく、ご武運を祈るだけでした。
この特攻の整備士さんの心が、今になって死んでほしくない気持ちがわかる様な気がいたします。

「阿鼻叫喚」より 中井あさ子さんの証言

振武隊

都城市の特攻隊を調べるならば、都城歴史資料館を訪れるのもよいでしょう。
資料館は都之城の城址に建てられており、旧石器時代から近世にかけての歴史、島津家ゆかりの品々、近代に至る宮崎の出土品や民具、西南戦争の記録が展示されています。
その一角に、戦時中の暮しに関するコーナーがあります。

歴史資料館
都城歴史資料館

郵便局の下の楯さんの二階に特攻隊の人が六・七人住んでいられました。
三、四人の方の名前も知っておりましたが、その方達に「きょうも無事でよかったですね。お帰りなさい」と、声をかけておりました。
二十代の方々で、飛行機の爆音で戦友の出撃を知っておられたようで、胸が熱くなりました。いつ、非常招集があるかわからないので、何時でも飛び立てる様に心の準備をしておかなくてはならないと語っておられましたが、その心境の深刻さは想像を絶するものがありました。

「わが家が焼失した!!」より 岩切サキさんの証言

歴史資料館

館内は写真撮影禁止ですから、文章のみで。
収蔵されている特攻関係資料は、都城東、西、北飛行場の歴史や見取り図、出撃して行った特攻隊員や遺族の手紙、各種の飛行服や装備品。
また、四式戦闘機のプロペラ、タイヤ、防弾板、操縦パネル、操縦桿など、機体の一部も展示してあります。
都城空襲や、戦時下に於ける人々の暮らしについての貴重な史料もあります。

古い農具や石器などが好きな私は、そちらのコーナーも勉強になりました。

都之城
大手門。実際の都之城は簡素な造りだった様です。

3月18日の空襲を皮切りに、都城西飛行場は凄まじい空襲に晒されます。B29の集中爆撃を受けた結果、遂に機能を停止。出撃拠点は東飛行場へ移り、多数の特攻隊員が飛び立っていきました。

私の家の隣の有馬うきさん宅は、機銃掃射の弾こんが今も残されています。隣の私の家は何事もなかったのですが、こうして生きながらえていることが不思議のようです。
楯さんの所には特攻隊の人が宿を借りておられ、往って帰らない飛行機に乗る為に毎日を過ごしておられましたが、出陣せずに終戦になりました。
確実な死を前にして、どんな思いで過ごされたのでしょう。
飛ばなくてよかったと思います。もしも無条件降伏が遅れていたら命を落とされていたことでしょう。
この人達のことを思いますと戦争の悲惨さ、非情さを改めて痛感させられます。

「機銃掃射の弾痕」より 島田屯さんの証言

海軍第5特攻戦隊第35突撃隊第121震洋隊および第8回天隊特攻基地(宮崎県日向市細島)

Category : 日向市の戦跡 |

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第二次大戦中、日本の陸海軍は数々の特攻兵器を開発しました。
空の特攻兵器としては「桜花」や「剣」。
海の特攻兵器としては人間魚雷「回天」や「海龍」、爆雷を持った潜水士が海中で敵船を待ち受ける「伏龍」。
特攻モーターボートである、陸軍の「四式肉薄攻撃艇(マルレ)」と海軍の「震洋」も知られています。

昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に「回天」や「震洋」が配備されました。

県北部に展開したのは、佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)。
北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻でした。

県南部に展開したのは、特攻第5戦隊第33突撃隊(日南市油津の第03回天隊及び126震洋隊、南郷の第05回天隊及び第56・第117震洋隊、内海の第9回天隊。合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻)。

今回は、日向市に駐屯……というより市内各地を転々としていた第121震洋隊の遺構について取り上げます。


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夕刻の御鉾ケ浦

【佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第121震洋隊基地】


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満潮時の121震洋隊御鉾ケ浦基地。目の前に浮ぶのは「古島」です。

昭和20年春から沖縄戦が始まり、米軍の九州上陸は目前に迫ります。
米艦隊の接近に備え、5月から特攻艇が本土に展開。
福岡・大分を除く九州各県沿岸でも、複数の特攻艇部隊が待機を続けていました。
その中のひとつ、日向市に配備されたのが第121震洋部隊です。

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戦前の細島港

この部隊は藤岡宏太隊長以下将校7名、特攻隊員50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名、総員188名。
震洋26隻、3個艇隊および1個補充隊で編成され、各艇隊の内訳は3個小隊および1個遊撃隊でした。

121震洋隊は、昭和20年1月27日に長崎県の川棚で編成されます。
第一艇隊長は藤岡宏太、第二艇隊長は鈴木栄一、第三艇隊長は恩田一、補充艇隊長は金井利雄。
4月1日より第33突撃隊から第35突撃隊へ変更され、第48、54、122、126部隊と共に宮崎への配置が決まりました。先発隊の鈴木第2艇隊長と佐熊基地隊長は4月27日から宮崎県へ移動。続いて佐世保から特攻ボートの陸路搬入が始まります。
本隊が到着したのは5月で、部隊の司令部は日向市細島漁協2階に設置。特攻隊員の宿舎は、御鉾ケ浦の伊藤氏宅周辺に設営されました。

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現在の細島漁協

御鉾ケ浦では特攻ボートの格納トンネル建設も開始。
しかし、岩盤の固さに工事は難航し、遅々として進みませんでした。

悪いことに、三菱石油や九州造船の軍需工場が集まっていた細島港は米軍の集中攻撃を受けます。121部隊も、漁船に紛れて係留していた震洋艇1隻を空襲で撃沈されてしまうなど、訓練前から被害が出ていました。
このようなことから、特攻ボートは対岸にある第8回天隊基地へ一時避難しています。

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馬ケ背より眺めた御鉾ケ浦。夕刻、奥にある商用港から次々と漁船が出漁していきます。
細島港は商用港(漁港)と工業港(貨物港)、そして白浜港(国際港)の三つで構成されています。


【佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第8回天隊基地】

第121震洋隊が一時期間借りしていたのが第8回天隊の細島基地。水上特攻の震洋とは違い、海中から敵艦目がけて突入する人間魚雷の部隊でした。
山口県で編成された08回天隊は、昭和20年に宮崎へ配備となります。
08回天隊の基地が設置されたのは細島漁港の北側。牧島山麓の海岸には全長30メートルほどの格納トンネルが6箇所掘られ、それぞれのトンネルに2隻、計12隻の回天が収容されていました。
12隻の人間魚雷に乗込む特攻隊員も12名。
その他、整備など支援要員を含めて数十名が駐屯していた様です。

第8回天隊員到着日
7月8日 井上、山崎、青柳、岩部、唐木田、真壁隊員
7月14日 赤松、浅井、落合、加藤、中島、野寄隊員

08回天

細島

細島2
牧島山麓から見下ろした細島漁港。

細島4
向う岸が第121震洋部隊の御鉾ケ浦基地です。

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「細島沿岸には今でも回天が埋まっている」との噂もありますね。

花
牧島山側は御鉾ケ浦と違って道が狭い上に地形が険しく、立ち入り禁止の私有地も散在しています。
海岸を辿って回天基地の痕跡を探すのはほぼ不可能。
「弾頭を除去しないまま回天を埋めた」という話もあり、危険防止のため行政も発掘作業を許可していません。

細島3

細島5
車道の行き止まりから森を抜け、海岸へ降りてもそこは岩礁と丸石だらけ。波が打ち寄せるたびにガラゴロと音を立てて石が海中を転げ廻っています。
浮石が堆積している状態なのでバランスをとりにくく、浜を歩くのも大変でした。

細島6

細島周辺はリアス式海岸となっています。
潜航艇を隠すに適した岩礁地帯も多いのですが、こんなに足場が悪くてはマトモな運用など不可能でしょう。
回天隊はもっと湾の奥、造船所付近に展開していたのだと思われます。

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猪垣でしょうか、細島沿岸の森を歩いていると幾つもの石垣に出会いました。昔から港として栄えた細島には、色々な時代の史跡が残っています。

常石
常石2



第8回天隊に間借りするも、固い岩盤に阻まれて御鉾ケ浦基地の建設は進捗しませんでした。
御鉾ケ浦海岸に幾つかの格納トンネルが掘られたものの、6月中旬に完工は頓挫。121震洋隊は御鉾ケ浦からの移転を余儀なくされます。

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当時の御鉾ケ浦海水浴場。砂浜が縮小した位で、風景は現在と変わりませんね。

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御鉾ケ浦に残る特攻ボートの格納トンネル

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戦時中、この静かな入江が特攻隊の拠点となっていました。
画像の古島には干潮時に砂洲が現れ、歩いて渡ることができます。

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この古島には三名の攘夷志士が眠っています。
文久2年の寺田屋事件では、同じ薩摩藩士が攘夷派と鎮圧側に分れて斬り合う惨事となりました。その際、寺田屋の二階にいた浪士たちは薩摩藩士の説得に応じて投降します。しかし、脱藩者の田中河内介・磋磨介親子、海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎だけはどこの藩も引き取りを拒否。
薩摩行きを希望した五名ですが、攘夷派の扱いに困った薩摩藩では彼等の抹殺を図ります。

まず、瀬戸内海を航行中の船内で田中父子が殺害されました。
続いて細島へ到着した三名も、古島で斬殺されます。

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三名の遺体を発見したのが細島在住の黒木庄八。彼は処刑された志士たちの墓を古島に建立し、現在に至るまで黒木家の方々がその世話を続けています。

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寺田屋の惨劇から80余年。
121震洋隊は、三名が眠る古島の対岸で自爆訓練に備えていました。

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特攻第百二十一震洋隊細島基地跡

ここ、細島御鉾ヶ浦の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年五月、一死をもて祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、基地を設営し艇格納壕を掘削し、日夜訓練に精進し出撃待機をした第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。
震洋5型艇とは、長さ六・五メートルのベニア作りのモーターボートの頭部に二百五十瓩の炸薬を搭載、敵艦船に自ら高速で体当たり肉弾攻撃を敢行するものであった。
搭乗員は、部隊長・艇隊長ならびに年歯僅か十五~十八歳の三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身、計五十四名が配された。
ほかに基地隊、整備隊、本部付の各隊員がよくこれを支援した。
のち梶木基地に転進、時利あらずして悲願空しく、終戦を迎えた。
爾来半世紀に近い星霜を経た今、地元の方々の深甚なるご協力を得て、ここ平床鼻の往時の艇格納壕上の地に、戦跡を記念する標柱を建立して、悠久の平和を心から祈念するものである。
平成五年十一月吉日
元・部隊員有志


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121震洋隊細島基地の案内板

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この岩場に震洋の格納トンネルが掘られました

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細島の震洋格納壕

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格納トンネルの中から見た御鉾ケ浦

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斜面崩落により完全に埋没した格納庫

中には「御鉾ケ浦へ行ったけど震洋の格納庫なんか無かったぞ」という人もいる筈。
見付けられないのは、おそらく満潮時だったからでしょう。
潮が満ちている間、トンネルは水没していますよ。

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古島から見た細島港側
細島基地の対岸には人間魚雷の第8回天隊が設営していました。

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同じく古島から見た馬ケ背方面

馬ケ背というのはですね、簡単に説明すると巨大化した東尋坊です。断崖周辺に設けられているザイルの確保点も、事故に対処するためのものでしょう。
芥屋の大戸ほど見事ではありませんが、柱状節理が観察できます。
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馬の背というよりクジラかクラーケンみたいですねえ。

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馬ケ背の突端から眺めた日向灘。
ここに敵艦隊が出現したら、第121震洋隊と第8回天隊が迎撃する計画でした。


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駐車場にいたネコ。細島港一帯はネコだらけです。
あと、周囲の林の中には物凄い数のアカテガニが……。

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御鉾ケ浦基地を放棄した震洋部隊は、日向・門川の境にある梶木町へと再移転します。
新たな拠点は倉戸ケ鼻から向ケ浜にかけての一帯。梶木町には部隊本部、宿舎、弾薬庫、通信所などが設けられ、倉戸ケ鼻沿岸部には震洋格納トンネルが掘られました。
特攻ボートは御鉾ケ浦から岬伝いに回航し、梶木沿岸に揚陸秘匿されます。
特攻隊員は周辺の民家に宿泊し、待機の日々を送りました。

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特攻第百二十一震洋隊梶木基地跡

ここ、梶木の向ケ浜の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年六月、一死もって祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、細島基地から転進、地元の熱誠あふれる協力と理解のもとに新たに基地を設営し、神社境内周辺に艇を秘匿し、日夜訓練に精進し出撃待機をした、第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。
震洋5型艇とは、長さ六・五メートルのベニア作りのモーターボートの頭部に二百五十瓩の炸薬を搭載、敵艦船に自ら高速で体当たり肉弾攻撃を敢行するものであった。
搭乗員は、部隊長・艇隊長ならびに年歯僅か十五~十八歳の三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身、計五十四名が配された。
ほかに基地隊、整備隊、本部付の各隊員がよくこれを支援した。
この地に転進すること二ヶ月有余、時利あらずして悲願空しく、終戦を迎えた。
爾来半世紀に近い星霜を経た今、地元の方々の深甚なるご協力を得て、ここ霧島神社境内の往時の艇格納壕上の跡地に、戦跡を記念する標柱を建立して、悠久の平和を心から祈念するものである。
平成五年十一月吉日
元・部隊員有志


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震洋格納庫があった地域
これら内陸部のほか、海岸付近にもトンネルが掘られました。

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梶木基地の記念碑

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記念碑の先へ進むと、「金毘羅神社」の看板が立っています。右手は私道。

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海岸にある金毘羅神社。ここから向ケ浜を一望できます。

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御鉾ケ浦はアカテガニの楽園でしたが、向ケ浜の磯はフナムシ天国。
その数たるや、コレ系の生物に耐性がある私ですらゲンナリするほどです。海岸の景色はとても美しいのですが、足元に目をやるとフナムシの大群。
そしてタイドプールの中では、たくさんのアメフラシが巨大ナメクジの如く這い回っておりました。
産卵シーズンらしく、オレンジ色の海素麺が至るところに産み付けられています。

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大群だとキモチ悪いので単体のみ掲載。ゴキブリみたいに飛ばないだけマシですけど。

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アオサをモシャモシャたべているアメフラシ

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さて、気を取り直して震洋格納庫の探索に取り掛かりましょう。
御鉾ケ浦では海岸の地形を利用して格納トンネルを掘っていました。向ケ浜でも、敵機からのカモフラージュを兼ねて海岸の整地作業は最低限に留めていた筈。
おそらく、満ち潮を利用して震洋を海へと曳き出していたのでは?

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先へ進むと切り立った岩盤に阻まれます。震洋隊が展開していたのは手前の浜みたいですね。

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神社周辺のトンネルへ格納していた特攻ボートは此処から海へと曳き出されていました。
向ケ浜の磯にはこのような「道」が幾つか残っています。

細島同様、海岸付近にも格納トンネルはあった筈。
その辺を頭に入れて海岸線を眺めると、岩礁の間にボートが通れるくらいのルートが幾つか見えてきました。
「道」の先は海岸の奥にある茂みへと続いています。

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岩場を削ったような跡。因みに干潮時です。

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掘削跡から浜の奥を眺めたところ。

ここを辿って行った先、あの林の奥が怪しい。
そう思って茂みに分け入った途端、自分の準備不足を後悔しました。
行く手を遮るのは密生した雑草と灌木と蔦。まさか、海岸の調査で藪漕ぎをする派目になるとは思いませんでした。折り畳みノコと皮手袋を持って来ればよかった……。
厚く堆積した流木や漂着ゴミで足元も非常に不安定です。これでサンダル履きだったらアウトでした。

灌木の僅かな隙間を探し、意を決して茂みへと突入。
藪漕ぎというより、植物の壁に体当たりしてムリヤリ突破する感じです。トゲのあるイバラなんかがワサワサ生えていて、引っかき傷だらけになりました。

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密生した藪で視界ゼロ

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藪の奥はこんな感じなので、安易に踏み込むのはオススメしません。

藪の奥は……、土砂崩れで行き止まり。全くの徒労です。
しかし、崩落斜面には人為的に掘削したような跡が見られました。細島同様、格納トンネルが潰れた跡かもしれません。
ここで諦めたら終わりです。
めげずに、隣接する似たような藪へ飛び込んでみました。

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カーテンのように生い茂る枝を払いのけ、その先の視界が開けた瞬間。
目の前に、御鉾ケ浦と同じトンネルが現れました。
「あった!」
121震洋隊がこの地に存在した証は、茂みの奥にちゃんと残っていたのです。

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トンネルは奥行3メートル程で埋没しています。
壕の中から海を眺めると、震洋の出撃ルートがハッキリ浮かび上がりました。
海岸の地形を巧みに利用して海まで辿り着くようになっていたんですね。

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最近は空振り続きだった戦跡調査ですが、この発見で全ての苦労が報われました。

御鉾ケ浦と向ケ浜。
静かなこの海辺で、かつて自爆ボートに乗組んでいた特攻隊員たちは何を思っていたのでしょうか。
格納トンネルから日向灘を眺めてみても、私にはその心情を推し量ることはできません。
だって、目の前には余りにも平和でのどかな風景が広がっているのですから。

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ボロボロになって藪から這い出したら、既に時間は正午過ぎ。
太陽に炙られ、生き物で賑わっていたタイドプールは死んだように静まり返っています。
水温の低い午前中は旺盛な食欲を見せいていたアメフラシたちも、強烈な日光を避けて海藻の間に潜りこんでいました。フナムシの数も、心なしか減ったように見えます。
さっき見た震洋のトンネルが白日夢だったような気がして、慌てて撮影したカメラを確認してみました。

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向ケ浜の沖合で、121震洋隊は敵艦への接近・散開・突撃の訓練をおこないます。空襲を避け、35突各隊の合同訓練ができたのは1回だけ。
もしも米艦隊が日向灘へ出現すれば、梶木基地の震洋隊も夜陰に乗じて突入する筈でした。

このように小さな特攻ボートが米艦隊に対抗できたのか。
先例となるのが、沖縄へ展開していた震洋部隊です。
彼等は沖合を遊弋する米艦隊へ突入したものの、高速で航行する敵艦に追いつけなかったり、夜の海で会敵できず引返したり、訓練中に空襲を受けて大損害を蒙ったり、ボートを失って結局は地上部隊として戦ったケースが多く、戦果は敵上陸用舟艇の撃沈など僅かなものでした。
もし本土決戦となった場合もそれが再現されただけです。
初期段階で宮崎沿岸の特攻戦力は失われ、沿岸張り付けの陸軍3個師団も空襲と艦砲射撃で壊滅。
山間部へ向けて、避難民を巻き込んだ悲惨な撤退戦が展開されたことでしょう。

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門川町の五十鈴川河口から見た向ケ浜。倉戸ケ鼻の向うに見えるのが細島港。

しかし、出撃の機会は無いまま昭和20年8月15日を迎えます。
35突撃隊本部に呼び出された各特攻隊の指揮官には、敗戦処理が通告されました(いっぽう、県南部の33突撃隊本部では「攻撃続行」が命令されたとか)。
同日夕刻、121震洋隊の士官は五十鈴川の岸で決別式を開催。隊員も特攻艇の弾頭除去と海洋投棄作業にあたります。部隊の震洋は延岡市土々呂の日高桟橋へ集めらました。

第121部隊188名のうち、幸いにも戦死者は無し。
8月25日、撤去作業を終えた特攻隊員達はそれぞれの故郷へと復員して行きました。
最初に細島へ乗り込んだ鈴木第2艇隊長は、9月6日まで保安要員として残留。最後に宮崎を去った121部隊員となりました。

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五十鈴川河口。

土々呂に繋留されていた特攻ボートですが、直後の暴風雨と枕崎台風の襲来によって流失・座礁。
秋になって進駐軍が宮崎へやって来た時、特攻ボート群は海の藻屑と消えた後でした。

その歴史を伝えるのは、現代の日向市に残された二つの格納トンネルだけなのです。

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ひゅうが
オマケで、日向に寄港した護衛艦ひゅうが。




陸軍木脇教育隊・六野原飛行場(宮崎県東諸県郡国富町木脇)

Category : 東諸県郡の戦跡 |

何がきっかけであったものか、或る日父が三人の若い少尉殿を連れてきた。いずれも二十歳そこそこの若い兵隊さんで、少年の私には襟章にみる三本の金筋がまぶしかった。
木俣少尉。落ち付いた物腰で学者肌の人柄であった。父は歳に似合わぬ座りのよい字を書く人と評していたのを思い出す。
鎌田少尉。音楽学校出身の根っからの明るい人で、声楽で練えた声は大きく独特の響きをもっていた。
神崎少尉。新潟県の人だったと記憶する。精悍な顔立ちで、謹厳な雰囲気を感じさせる人であった。
三人は休みの日曜日には時々立ち寄り、喰ったり喋ったりで時を過ごした。少年の私とは年齢差もあることから直接の交流はなかったが、我が家に兵隊さんが立ち寄ることが誇りに思えたものであった。
最初の日、母の心尽くしの食事を前に鎌田少尉が「オーイ、すごい!!銀めしだぞ!」と吠えるような声で喜んだのが印象に残っている。
ある時小学校の講堂から男の歌声が聞こえた。近づいてみると三、四人の兵隊さんがピアノを囲んで歌っている。その中に鎌田少尉がいた。
少尉は歌っては楽譜のような紙片にチェックしていた。後で判ったことだが、それは木脇教育隊歌を作曲していたのであった。
“阿波岐が原や高千穂の……”やがて私達も口ずさむようになるその歌は、この時誕生したものと思う。

「国富町郷土史」より、六野原飛行場の証言

宮崎市へ流れる大淀川の支流、本庄川沿いに国富という町があります。
宮崎市・西都市・綾町への中継地点という以外に、何の変哲もない片田舎。しかし戦争末期、この町は宮崎市防衛の本拠地だったのです。
米軍が宮崎市へ上陸した場合、国富町(当時は本庄)に司令部をおく陸軍第156師団は全力を挙げて迎え撃つ計画でした。

156師団の本土防衛作戦とは関係なく、国富町にはもう一つの軍事拠点が設置されていました。
それが、今回ご紹介する六野原飛行場です。

トーチカA1

東諸県郡木脇村(現在の国富町木脇)の六野原台地に飛行場が設置されたのは、大正15年1月のこと。
150人の在郷軍人會員が、補助着陸場の建設にあたりました。

飛行第四連隊野外飛行場演習中、宮崎県東諸県郡木脇村に補助着陸場を設定するに当り会員約百五十名は寒風を冒し前後五日間に亘り能く規律を守り困苦欠乏に堪え終始一貫協力、会の美風を発揮して熱心作業に従事し、予定の日時に着陸場の設備を完成したるのみならず、飛行機着陸に際しては万余の観衆に対し率先警戒に任じ、飛行隊の演習をして遺漏なからしめたるは、真に犠牲的軍人精神の発露にして本会の目的を遂行したるものと認む。
依て茲に之を表彰す。
大正十五年二月十七日
帝国在郷軍人会第六師団管連合支部長 陸軍少将 藤田次助


この補助着陸場が使用されたのは、上記の表彰のとおり大正15年1月頃のこと。
その他の記録として、「同年12月24日、完成した700メートルの滑走路に三機の陸軍複葉機が飛来して、管中尉による飛行演習が披露された」との証言もあります。二日間の筈だった飛行演習も、翌日の大正天皇崩御によって終了。せっかく作った仮設飛行場も、その後は使われる事もなく放置されていたそうです。
大正期の演習が1回だったのか2回だったのか、詳細は不明。

六野原飛行場の軍事利用が再検討され始めたのは、日中戦争の頃でした。

そこは宮崎の新田原基地に程近い陸軍の練習飛行場であった。
支那事変(日中戦争)の拡大に伴い、急遽開拓の一僻村が軍用地と化したものである。微かな記憶だが、飛行場のオープニングセレモニーには、わたし達小学生も引率され参加した。
次々に繰り広げられる華やかな空中の妙技はすっかり観客を魅了、以後六野原は軍国少年達にとって憧れの聖地ともなっていった。

岩切哲郎氏「六野原飛行場建設作業に従事して」より

太平洋戦争に突入すると、六野原飛行場の再利用計画は本格化。滑走路拡張に伴う土地買収も始まります。

次々と戦域が広がり激戦が続くうち、昭和十七年三月末、陸軍航空本部の松沢少佐がみえ、八代村長に対し、六野原に飛行場の計画があるので協力して貰いたいとの事で、六野原の十三字図、及び土地台帳、並びに名寄帳を作成し、同年四月航空本部に送付した。
航空本部より、予定地内土地所有者二百九十五名に対し、飛行練習場としての係官の詳しい説明があり、全員に土地の提供と共に全面的な協力の依頼があった。
係官より「何か質問異議等ありませんか」に対し「軍が使用しなくなった時は、元の所有者に返して貰いたい」との申し出があったが、係官は今のところ状況が判らないとの事であった。
軍用地價格決定及び地上物件の補償等の件で、五月二十六日木脇国民学校に買収委員会が開かれ、筆毎の地価により反当宅地三百円、田は五百五十円、畑上三百二十円、同中二百八十円、同下二百三十円、山林原野百五十円と決定した。
地上物件、桑、茶、甘藷、たばこ、その他立木等、補償価格が決定した。
同年十一月十五日、現地で起工式に村長以下三十三名が列席した。労力奉仕隊は、最終までに三万人余となり、県道工事動員四百十二名となった。同十九年五月、地代金及び補償料等、支払い終る。又取付県道工事奉仕謝礼金支払い、その他事務等同二十年九月五日終る。

「戦世を生きて」より、日高重義氏の証言

昭和十七年四月十二日、用地買収決定通知を木脇村役場会議室に於いて受けた。

木脇補助着陸場の再利用工事が始まったのは戦争末期、昭和17年のこと。地権者との買収協定を終えてから測量に着手、11月には着工しています。
しかし、戦争後期とあって作業員の不足は深刻化していました。遠くは小林・野尻方面からも勤労奉仕の学生が動員され、更には朝鮮人労働者も投入して、トロッコやモッコを用いた人海戦術で建設が進められます。

昭和十七年四月十二日、用地買収決定通知を木脇村役場会議室に於て受けた。
軍関係者四十二戸、県道取替関係者二戸、計四十五戸に強制立退命令とも受取れるものであった。拙宅の場合は、昭和十七年七月八日、家屋移転費決定が通告され、その内容は次の如しであった。
一、木造瓦葺平屋建 一棟(但し中古住宅) 三十一・五坪
一、厩舎 一棟(但し中古) 十坪
一、厠 一棟 一坪
右移転費総額三千七百五十二円と決定。尚、移転費を支払いされた月日は左の如し。
第一回 九月二十六日 内渡金一千円
第二回 十月二十六日 同一千四百五十円
第三回 十二月二十六日 残額受領する
尚、家の移転に伴う地均しを九月二十三日に始めている。住み馴れし土地は飛行場へ変わるのか。政府のなすがまま。
されど国策の一助なのか。矢張り挙国一致で進む可きであろう。
昭和十八年一月六日、飛行場への土地買上げによる農地代金の支払いを受けたのはほんの雀の涙程の面積であった。いわゆる他の場外地にある程度所有していたので、小生として可笑しくいえば「天佑神助」だったのかも知れないのだ。

「戦世に生きて」より、本田秀麿呂氏の証言

六野原には三十数基の古墳が散在しており、新田原飛行場建設時と同じく総て移設・改葬が決定。発掘作業では遺骨をはじめ貴重な遺物や武具が多数出土したものの、作業を急ぐ余り調査は不十分なまま完了となります。
中には碌な調査も行わないで埋め立ててしまったケースもあったとか。戦争のため、貴重な遺跡群は消滅してしまいました。

昭和十七年、陸軍飛行場を設けるに当たり宮内省の承認を得、場内封土墳十基、地下式古墳二十数基を此処に移転し、其の祭を行う。
昭和十八年十月
宮崎県知事 西廣忠雄


こうして、昭和18年10月に陸軍六野原飛行場が完成。とはいえ、作られたのは800メートルの滑走路と誘導路だけで、兵舎も何もありません。まず訓練が優先され、諸施設は後から建設されていきました。
飛行場には太刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊が展開、飛行士の訓練にあたっています。

太刀洗5

国富

ここで養成されたパイロットは各地の飛行隊へ配属され、その中には特攻へ飛び立って行った人もいました。

木脇教育隊記念碑

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六野農村公園に建立された大刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊記念碑

昭和十九年四月頃から役場の依頼によって、六野に在った少年飛行隊の日曜下宿を我が家が担当する事になった。他に福沢、井上、菊池、酒井さん等が加わっていた様である。
お客さんは十六歳前後の少年特攻飛行兵であった。一組七人であった。
日曜になると早々と八時には来訪、午後三時には帰隊。その間民間人の家庭生活を堪能して、手足を伸ばして寝ころんだり、唄を歌ったりしたのであった。
うちの婆ちゃんの気の入れようは異常な程であった。
我が家の配給は勿論、やみの砂糖まで集めてきて、大きなボタ餅を作って兵隊さんに食べさせ、大きな巻きずしを作っては食べさせ、孫たちにはひときれも渡らなかった。
兵隊たちは婆ちゃんを「お母さん」とよび、大変になついていた。
終戦になって散り散りになった。戦後になって我が家を訪問したのは僅か三名であって、他の者は戦後の人生が決して平坦ではなかったらしい。

「戦世を生きて」より、海老原スミさんの証言

太刀洗2

太刀洗1

太刀洗4

木脇教育隊には、昭和18年11月20日に第1期生の特別甲種幹部候補生149名が配属されたのに続き、翌年三月二十五日には少年飛行兵198名、8月2日には特別幹部候補生150名が送り込まれました。

弾薬庫

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記念碑近くの耕作地にある旧軍弾薬庫

六時過ぎに家を出て夜の八時過ぎに帰宅すのだが、家族全員それぞれに忙しい農家の生活とあれば、会話を交わす暇もなくただ寝るだけ。
朝が来れば、破れた地下足袋にゲートル、飯盒に飯を詰め、シャベルを担いで六野原へ。そんな調子の生活だったように記憶している。
八時、整列点呼のあとは現地部隊の作業班に分散し一日が始まる。作業中も私の不安は続く。
「こんなこと続けていいんだろうか。もしかしたら死んでしまうのかも?」
でも誰にも言えなかった。「お前おかしんじゃないのか?」と、「誰か声をかけて呉れないかなあ……」。そんなことを考えていた時だった。
「隣の学生達はよう動くよ」
突然、○○兵長の声が飛んだ。動きの鈍いわたしへの露骨な当てつけだった。
あの時の口惜しさ、情無さ、今も生々しく刻みついている。
「元気でさえあれば、誰が兵隊なんかに負けるもんか」
それから数日後のある朝、血の小便をした。愕然として母に告げると、さすがに母も驚いたようだった。
顔が黄色いという。医者の診断では「黄疸」とのこと。眼も舌も足も、全身まっ黄色。遂に動員を休んだ。地下足袋の修理も。
翌朝、早速軍事教官○○少尉の訪問を受ける。「黄疸にやられました。申し訳ありません」との報告に「非常時の折柄、一日も早く……」と靴音高く帰っていった。
その日、六野原の作業現場が猛烈な爆撃を受けたのだそうだ。友人の話によると、「退避」との号令がかかった時、グラマンの機体が覆い被さるように迫って、夢中で土手にしがみついたとのこと。拾いあげた薬莢の大きさに、改めて恐怖心がこみ上げてきたのだそうだ。兵舎の将校が直撃弾で戦死した以外、学生全員無事だったらしい。

岩切哲郎氏「六野原飛行場建設に従事して」より

木脇2

木脇3

木脇4
かつてこの場所に滑走路が設置されていました。

六野原飛行場は訓練基地であり、ここから直接特攻隊が出撃した訳ではありません。
しかし、戦争末期の国富町は宮崎沿岸を防禦する陸軍第156師団の司令部が置かれていました。宮崎市に米軍が上陸すれば、凄まじい地上戦に晒されたことでしょう。
六野原飛行場にもたびたび米軍艦載機が襲来、機銃掃射を加えていました。

終戦の少し前の話であるが、或る朝のこと。
空襲警報が出たので一家は防空壕にひそんでいた。一人家に残っていた婆ちゃんが血相変えて駆け込むなり
「早く壕を出て逃げろ!!唯今犬熊に敵の飛行機が何かを落とした。大変だ、大変だ」
と大声で叫ぶ。
私たちは飛び出してみたが、しばらくは何もない。呆然としていると、犬熊の方から人々がお祭りのみこしをかつぐ恰好で、白色の長い物体を得意然とかつぎながら師団司令部のある小学校へと運んで行った。
あとで聞くと、その物体は飛行機の補助タンクであって危険な物ではなかったそうな。一寸滑稽な一幕であった。
それにしても終戦の次の日、米軍の超低空飛行は頭にきたものだ。

「戦世に生きる」より、海老原スミさんの証言より

トーチカA

飛行場防御用のトーチカ。畑の中にあります。
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トーチカA4

トーチカA3

トーチカA2

トーチカB

用水路脇にあるトーチカ。これだけが国富町教育委員会によって整備されています。
トーチカB3

トーチカB5

トーチカB1

トーチカB2


トーチカC


大根畑の真ん中にあります。
トーチカD1

トーチカD2

トーチカD

農地の片隅に残されています。農作業の障害になりながらも、歴史的遺産として保存されてきました。
トーチカE2

トーチカE3

トーチカE4

トーチカE5

昭和20年3月18日以降、宮崎県各地の軍用飛行場は凄まじい空襲に晒されます。木脇飛行場の近くにある赤江・新田原・唐瀬原の各飛行場も猛爆撃を受けました。米軍機の攻撃は、内陸部の都城西飛行場や県北の富高飛行場にも及んでいます。
都城東飛行場と都城北飛行場、そして六野原飛行場は草原と見間違えられたのか、攻撃を免れました。
しかし、都城東からは特攻機が続々と出撃。都城北でも特攻隊員らが待機を続けていました。六野原飛行場で教育を終えたパイロットも、その多くが特攻隊へ配属されたそうです。



昭和20年秋、進駐軍は国富町一帯に展開していた陸軍第156師団(護西兵団)の戦車や火砲を木脇飛行場へ集め、徹底的に破壊しました。
敗戦処理が終わったあと、木脇飛行場は農地として開放されます。

最も大きな感動を以て思い出すのは富沢中尉(東京都出身・二十三歳)のことで、彼は教官であり我が家の奥座敷に下宿していて、日曜にはレコードを持ちこんで孤独な時を過していた。
ある日特攻出撃の命が降り、彼は我が家で「春の海」のレコードを何度も聞き、そして遺言書を我が家に残して、次の日、単身知覧に飛び立って行った。
その十年後、知覧の特攻隊記念館で彼の勇姿が見付かり、我が家の者全員声を出して泣いた。

「戦世に生きる」より、海老原スミさんの証言より
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