金属アレルギー 敏感肌 化粧品

スポンサーサイト

Category : スポンサー広告 |

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第57軍第7野戦輸送司令部と母智丘トーチカ(都城市)

Category : 都城市の戦跡 |


当時、庄内には、城山・湯谷と横穴の洞窟を掘って、軍の資材・食糧などを、相当量保管していました。
私達も軍の要請により、谷頭の駅から荷馬車で大分運んだものです。その関係もあってか、庄内小学校には兵隊が入っていました。願心寺には幾分、年とった防衛隊が入っていました。
その頃、毎日のようにB29の襲来があり、上空を通過していました。
そのうち双胴体の今まで見たこともない、珍しい飛行機(※P-38ライトニング)が上空を何回か飛んで行きました。
考えてみますと、これが上空からの偵察だった様です。
八月六日は、たまたま我が家にいたのですが、たしか都城の空襲の日と同じだったとも思います。二機のグラマン戦闘機が谷頭の上空から半田の方向に低空で飛んで行きました。
グラマンが自分の上空まで来る時は、堀の中に身をひそめていましたが、自分の上を通り過ぎると、もう安全ですから堀から身をのり出して見ていました。
二機のグラマンは平田上空で急に旋回して、庄内の町の方向に飛んで行き、そのあと、まもなく火の手があがりました。小学校の講堂のは、焼夷弾によるものと思います。北東風にあおられて南西の方向に町中焼けた訳ですね。
上空からの偵察機は、ほんとうによく見ているんだなあと思いました。

宮島緑さんの証言より

トーチカ
母智丘の対空トーチカ

【第57軍野戦輸送司令部】

ほぼ消滅してしまった都城の戦跡ですが、数少ない遺構として母智丘(もちお)に対空トーチカが残されています。
大隅方面の要衝であった戦時中の都城には、本土決戦に備えて第57軍の大部隊が集結していました。
第57軍司令部は鹿児島県財部(たからべ)に置かれ、宮崎県沿岸部の防衛部隊としては第212師団(都農町)、第154師団(西都市)、第156師団(国富町)、串間から志布志にかけては第86師団を展開。
それら沿岸防衛部隊の後方支援を担うのが、内陸部に展開していた部隊です。小林の第25師団を中心に、都城西、都城東、都城北、小林、苧畑といった陸海軍の飛行場も続々と建設され、都城と小林には大量の軍需物資が集積されつつありました。

DSC07706_R.jpg
正面が第57軍の糧秣倉庫となっていた庄内小学校、向かって右の建物の場所に野戦輸送司令部が置かれていました。

これら第57軍の軍需物資を管理するのが、椎橋侃二少将率いる第7野戦輸送司令部。
司令部は庄内町役場に置かれ、隣接の庄内小学校は物資集積所に改変されます。すべては軍事優先の時代、小学生たちは青空教室での授業となりました。

昭和二十年十月に米軍が志布志湾に侵攻すると予測した軍部は、当地区に五ヶ師団を配置することになり、これに対応するために、陸軍糧秣廠を庄内青年学校(現庄内中)に設置することになったということです。
昭和十九年春頃、藤實恵夫大尉が先遣隊長として赴任し、昭和十九年六月頃、鋒・奈良部隊の隊長、奈良愛英中佐の率いる本隊が到着。
物資の搬入は十九年の末頃から行われ、庄内を中心に、財部や山田など北諸県郡内の町村の洞窟や野積みなど約七〇〇ヶ所に十万人が六ヶ月間、生活できるだけの食糧・被服・医薬品などの物資が集積されていて、九州では最大規模のものだったそうです。
後に小林地区に設置されていた被服廠や需品廠も合併されて、第57軍野戦貨物廠と改称されたのが丁度終戦の日の八月十五日でした。私は昭和十九年七月、十八歳のとき、川崎航空都城工場より糧秣廠に転属になり、筆生(事務官の呼称)として勤務していました。

「鋒・奈良部隊のこと」より 堂園幸子さんの証言

DSC07665_R_201601062247119ca.jpg

DSC07621_R.jpg

DSC07626_R.jpg
糧秣用の地下壕が掘られていた安永城跡


城山のシラスを刳り貫いた倉庫は、糧秣倉庫となっており、城山の西側には通称「川崎航空」の模擬飛行機を作るところがあって、私の姉ミエはここで働いていましたが、仕事の内容のことについては何も話してくれませんでした。
きっと機密を守るように言われていたのだろうと思います。終戦になると兵隊はすぐ引き揚げましたので、糧秣倉庫の在庫品の管理は大変だったようです。
食べ物が不足していたので醜いできごとや噂が広がっていました。軍馬の拂い下げもありましたが、軍馬にはお尻のところに「エ」の焼印が押してあったので、アメリカ兵にみつかると大変なことになるということで、貰い手がなかなか無かったようです。

「私が十八才の時」より長瀬ツムさんの証言

【母智丘の対空トーチカ】

昭和20年3月18日、都井岬沖に現れた米海軍機動艦隊から多数の艦載機が出撃。九州南部の軍用飛行場を奇襲攻撃しました。
この沖縄進攻の露払いとして始まった九州沖航空戦では、都城西飛行場も標的となります。
攻撃を受けた新田原飛行場から警報が届いた時、既に都城上空にもグラマンが殺到していました。

この日より、都城西飛行場への空襲が始まりました。
沖縄戦と同時に一時中断された空襲も、勝敗が見える頃になると再開されます。艦載機に続いてB29爆撃機が飛来し、都城市を徹底的に爆撃していきました。
圧倒的な米軍航空戦力の前に、日本側は防戦一方となります。
都城西飛行場は迎撃機を上げる前に集中爆撃で機能を停止。都城東飛行場からは沖縄へ向けて特攻機が続々と飛び立ち、都城北飛行場の特攻隊は本土決戦に備えて待機を続けます。
第57軍も、来るべき米軍上陸に備えて大量の物資を都城~霧島山麓へ集積していました。

掩体壕

私のすぐそばに居た下士官(軍曹)に空襲の最初の時刻を尋ねてみたら、丁度午前六時三十分過ぎた頃、都城市の東、山之口町の東岳上空すれすれの方角から大きな爆音がして来たかと思ったら、とたんに都城市街上空で爆音がはたと、とまり五機編隊の紺色に輝いた飛行機が猛スピードで市街上空を西の方向へ通り抜け、財部町(たからべちょう)上空で南廻りに反転したかと思ったら、西飛行場付近から、物すごい爆発音と同時に大火柱が三つ立ち上がった瞬間、真黒い煙と火焔がめら〃とあがったがと思ったら、すぐに次の第二波の五機編隊が猛スピードで低空機銃掃射をしてきたそうです。
先刻より飛行場の方は格納庫や各施設が爆撃により大火災を発生しているのであろう、黒い煙とガソリンの燃える独特のオレンジ色の舌焔が上に蛇行しながら日本晴れの青い空に吸い込まれていっているのが印象的でした。
そのうち数機の日本の戦闘機が何処からか舞い上がって来たのか、母智丘、現在の丸山ゴルフ場の上空スレ〃に関之尾方面へ急カーブしながら猛スピードで庄内町上空を東に向け二機の戦闘機が通過して行き、その後方から追従しているのが胴体に真紅の日の丸印が見えたので日本機が敵機を蹴散らしに、おそらく都城東飛行場より上って来たのだろうと退避中の兵隊達はいっていた。
南にあたる梅北上空でも空中戦でも始まったのか飛行機の爆音のウナリが聞こえて来る。
もはや都城地方も戦場と化して行くのが明らかになったようである。
そのうち爆音や機銃音もとぎれ、とぎれになり、西飛行場方面を眺めると黒煙も薄くなり敵機も退散したらしく、やがて静けさも取り戻し、小鳥のサエヅリも耳に入るようになり、腕時計を見ると午前七時二十分を僅に過ぎていた。

鎌田政孝編「埋れた青春」より

この第57軍の数少ない遺構として、「対空トーチカ」が母智丘の入口に保存されています。
現在の陸軍墓地付近から移転してきた都城通信司令部では「ここに対空機関砲を据えていた」とありますが、内部は大人2名ほどしか入れないので、単なる防空監視要員の待避用シェルターかもしれません。
春は花見客で賑わう櫻並木の脇にポツリと建っており、何故か田の神様(たのかんさあ)の像がてっぺんに鎮座しています。

掩体壕


トーチカと田の神
トーチカとは、コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地のことで、ほとんど半地下式になっている。
このトーチカもその様式にならっており、太平洋戦争が激しくなってきた昭和十八年(一九四三)、本土防衛のために建設された。
昭和十九年(一九四四)八月以降、陸軍航空隊が都城西飛行場を全面使用することになり、さらに同二十年(一九四五)四月からは特攻基地となったため、米軍機の空襲が激しくなったので、このトーチカからも機関砲で応戦していた。
しかし、同二十年八月十五日終戦を迎えたため、防御施設としての役目を終えた。
当時は、この他にも数箇所にわたり設置されていたが、五十有余年の歳月とともに徐々に取り壊され、このトーチカが風雨に耐えて残った。
終戦直後、誰かがこのトーチカの上に田の神を据えた。以来、今日に至るまで豊作祈念の神として鎮座し、眼下に広がる水田を見守ってきた。
田の神は、旧薩摩藩領内に多くみられ、稲穂の成長を願って作られ、田の神信仰として藩独特の文化を形成した。
今後、このトーチカが戦争を語り継ぐ史跡として保存され、永遠の平和への願いを新たにする資となることを祈念して説明板を設置する。
平成十年三月


トーチカ

トーチカ

トーチカ

トーチカ
普段は近隣のかたが清掃や草刈りなど手入れをされているのですが、この日は新燃岳の噴火で火山灰まみれでした。

掩体壕

トーチカ
トーチカの屋根に鎮座する田の神様。

トーチカ

掩体壕

トーチカ
トーチカの銃眼

さて、戦時中にこのトーチカがどのように活用されたのか。
その辺の記録は残っていません。

【8月6日・庄内空襲】

DSC07535 - コピー_R
庄内小学校横に建てられた「庄内空襲之碑」

激しい空襲に晒された都城市ですが、郊外にある第57軍の糧秣廠は攻撃を免れていました。
しかし8月6日、都城に飛来した米軍機の一部が庄内を奇襲攻撃します。物資集積所の存在は、空中偵察でバレていたのでした。

糧秣廠の物資を入れる地下壕を掘るための兵隊さんが、あちこちの家に分宿していて、私内の前の道路(県道霧島線)で、毎朝点呼が行われていました。
私内に居た軍属さんは炊事係をされていたようです。大きな釜鍋を据えつけて、大きな豚肉の固まりを持ってきて煮たりしておられました。
その日、私は丁度、後の永山さんとこの法事の手伝いに行っていました。昼食後に都城が空襲を受けているとの事で、後の高土手の上から見ていましたが、もしかしたらこちらにもくるかも知れないと思い私内に帰りました。
軍属さんの赤ちゃんのオムツが干してあったので、すぐ小屋に取り込み土間でモンペを着ていましたところ、敵機が五・六機、物凄い音で頭の上を通りこし、西の方へ廻りましたので「これは大変」と、すぐ庭の壕の中に一人でいるのが怖くなって外へ出ました。
丁度その時、西隣りの小山田しづさんが、異様な声を出して逃げてこられました。
後で判ったのですが、焼夷弾が私内の横の通り道に落ちたからでした。その時は、私の家にはまだ火はついていませんでした。
でも一瞬の後に、しづさん処から煙が立ち上がりました。そして、私内の店のカンナ屑が燃えていました。
私は早速家の中の荷物を運びにかかりました。その頃、雨上がりで防空壕の中に水が出ていて、壕に入れていた荷物を外に出し乾かして家の中に運び込んでありました。

まとめていた荷物を四・五回持ち出しましたが、ひどく咽喉が渇き、胸が苦しくなりました。
お父さんは、私が帰ったとき土間ですれちがいましたが、そのまま奥の方の居住用の防空壕に避難されました。
一人であちこちしているうちに、とうとう納戸が燃え上がりました。怖くなって、東隣の花吉さんの間を通り、現在の東常次さん宅(当時は、沖縄から疎開してきた人達が多勢住んでおられました)の方へ逃げました。
その時、一人の兵隊さんが「ここは誰もいないのか」と言われました。
「多分、外の防空壕でしょう」と言って、前の通りに出て、後を振り返って見た時、堂園さんの家の前の部分が燃え上がっていました。立派な大きな家で、「勿体ない」と思いましたが、誰一人として消火する人もなく、燃えるにまかせるほかない有様でした。後の話ですが、花吉さんの裏の畑の茶の木の下に、荷物が二個持ち出されてあったとのことです。
多分、あの声をかけた兵隊さんが持ち出して下さったものと思います。花吉さんも「お蔭で助かった」と大変喜んでおられました。
私内の家が大きかったので、花吉さんの家は類焼したのでしょう。
しばらくして帰ってみたら、すっかり丸焼けでしたが、家族はみんな無事でした。
一年生の子供が、焼け跡を見て、「ランドセルがなくなった」と泣き出しました。
今でも当時のことを思い出すと、くやしくてなりません。いずれは、何処も焼けると思っていましたのに…。焼け出された者がみじめでした。


DSC07644_R.jpg
安永城跡から見下ろす庄内の町

DSC07686_R.jpg
向って左手が焼夷弾攻撃を受けた庄内小学校、正面が野戦輸送司令部、右手が機銃掃射を受けた住宅地

DSC07716_R.jpg
野戦輸送司令部と庄内の町。この道をまっすぐ行くと、都城西飛行場があります。


その後は苦労の連続でした。
私の家は、裏通りに沿った小屋が残っていましたので、そこで雨露をしのぎました。住居のなくなった人達には、班の方々が、ワラブキの片屋根の家を作って下さいましたが、後の方が、地べたにくっついた小屋でした。
哀れな家で、今でも目に浮かんできます。
私内に間借りしていた軍属さんは、荷物も沢山持ってきておられましたが、荷物もそのまんま焼け出され、赤ちゃん一人を抱いて逃げられたのでしょう。
その後平田区辺りに居られる噂を聞きましたが、一回も逢う機会もありませんでした。私より、ひとめぐりぐらい若かったでしょうから、何処かで元気に生きておられるだろうと時折思い出したりします。
町役場は、西区の方の防空壕に疎開していました。そこに、一回だけ、被災者一同が集められて、説明会がありました。
今は、その内容もはっきり覚えていませんし、地下壕の役場のあった場所も、はっきりは覚えていません。
町民税が一回だけ免除になり、持家に一千円、家財道具に五百円、軍用毛布二枚が支給されました(貸家については支給されませんでした)。

庄内空襲の日より 今城フヂエさんの証言

DSC07674_R.jpg



八月六日午前十一時五十分前後の事と思われる(正午過ぎでないと確信している)。
当時十五才、旧制中学四年の私は、腎臓疾患のため都城市にある川崎航空機工場の学徒動員を休んで、自宅で母といつもより早い昼食を取っていた。
空襲警報が発令されたかどうか記憶にないが、異様な物音(グラマンの爆音と後で判明)に二十メートル先の防空壕にかけこんだ記憶がある。
壕のなかで母が居るのを確認できる程の慌てようである。
庄内に駐屯していた関部隊の多くの兵士の姿がたとえ上空から観察されていたとしても、よもやこの庄内という山間の辺地が焼夷弾の被害を受けるとは、だれも予想していなかったと思う。
約十分か十五分(全く時間の長短は分からないが、短い記憶がある)の防空壕の後、もう敵機は去った様子に外に出たところ、壕と家との間にある高さ約五メートルぐらいの柿の木の頂上付近の、直径約七センチほどの枝が飛行機の主翼か何かで折られたと思われる無残な姿が目についた。低空を飛んだという実感と同時に、藁葺きの校長公舎の屋根の数ヶ所より白煙および火炎が上がっているのに気づいた。

畠中通夫氏の証言より

DSC07599_R.jpg

DSC07601_R_20160106224335b5a.jpg

昭和二十年八月六日、私は何かの用事で偶然にも庄内に帰っていました。
丁度昼ごろだったと思います。空襲のサイレンが鳴り響きました。私は何回も敵と銃火を交える修羅場を経験していましたので別に気にもしませんでしたが、
どうも様子がただ事でないので外に出てみますと都城が盛んに空襲を受けていました。
私の家は宮原の高いところにありましたので都城方面がよく見えました。もくもくと立ちのぼる煙の量からして相当の被害と察知されました。
そのうち横市方面より真っすぐこちらに突っ込んで来る飛行機がありました。
庄内上空で何かばらまいたようでした。それは液体のようにも感じられました。
ほんの一瞬の出来事でした。やがて静かになりましたが、まず黒煙を噴き上げたのは小学校の講堂の様でした。
その頃、庄内は本土決戦に備えた陸軍の糧秣基地になっていました。小学校の講堂にはギッシリ物資が詰まっており、運動場にも色々なものがうずたかく積まれていました。
また城山付近には横穴があちこち掘られ、兵隊もたくさんおりましたのでキット重要な物資が貯蔵されていたのでしょう。
敵はこれを狙って来たものと思います。火の手は行動から西区方面にかけて広がっていきました。


私の家内の家は学校下の掘どんの下の西俣です。
西俣家には二十才になる家内の妹と家内の弟の子である三才になる女の子がいるはずです。私は夢中で走りました。カタン馬場を一気に駆け抜け一歩園の所まで来ますと、燃え盛る講堂の火煙が道をふさぎ前に進めません。止む無く講堂を東に大回りして学校下に出て小林どんの庭を踏み切って西俣家にたどり着きました。
家の屋根はもう燃え上がっており妹たちも退避したかのようでした。一安心の私は火の中に飛び込みまず米びつを探しましたが見当たりませんでした。
今思うと恥ずかしいようですが当時は食うものがなく一粒の米が何より貴重品だったのです。屋根は藁葺きでしたので火の回りが早く、床には火の塊がボタボタ落ちてきますので無我夢中でタンスの引き出しを外に放り出しました。
最後に持ち出したものがモロブタでした。このモロブタは記念として今でも私が保存しています。
危険が迫りましたので持ち出しを諦めて外に出たとき兵隊さんが一人やってきました。兵隊さんは自分たちの食料としてここで四、五頭の豚を飼育していましたが、それを見に来たのでした。
この兵隊さんの話で庭の隅の防空壕に義妹たちが居ることが分かり、慌てて中を覗いて見ました所、中には義妹と三才になる初子と隣の三才の子供の三人が折り重なって倒れて居るではありませんか。
子供二人は無事で大丈夫でしたが、義妹はうつ伏せになったまま動きません。びっくりして抱き起しますと胸の辺りからドッと血が噴き出しました。
胸に大きな怪我をしているようです。まだ死んではいませんでした。
兵隊さんに加勢をもらって義妹を背中に縛り付け、子供を胸に抱いて塚野民衛さん方の庭を突っ切って田中医者どんを目指して走りました。大浦商店の所で私も力尽きて座り込んでいたことろ、通りかかった四人の兵隊さんが加勢をしてくれました。
丁度その頃は講堂や人家の燃え盛る炎や黒煙が周囲に渦巻き、熱風が台風の様でした。



DSC07609_R.jpg

DSC07614_R_20160106224340dc7.jpg
安永城の山腹には、西南戦争から50年目を記念して昭和4年に建立された「南洲神社」があります。ここは、兵士や住民の避難所にもなっていたそうです。

しばらくして空襲で焼けた家の仮小屋の建設が始まりました。それは役場から割り当てがあって各隣保班で一軒を受けもつ事になりました。
私たちの安永隣保班は久保三太さんの家を造りました。各戸から藁や木材を持ち寄って大体二日位で造り上げたと思います。

「忘れえぬ大惨事」より 久保田武美氏の証言

DSC07527_R.jpg

DSC07568 - コピー_R
庄内空襲之碑と碑文


「戦後発行された某誌によれば、戦時中日本の主要都市が受けた空襲回数の中で、東京は別として都城は鹿屋に次いで全国第二位にランクされており、そのほとんどは西飛行場空襲であるわけで、私にとっては余り有難くない記録順位でした。
B29は三十日も来襲しましたが、一応四月末をもってようやく峠を越し、五月に入るとほとんど来襲しなくなりました。
この頃執拗に来襲するB29に対し、都城の疾風戦闘機隊に邀撃命令が出たそうですが、その詳細は知りません。
多分、「坐して死を待つよりは」の気持ちから出た命令だったのでしょう。
邀撃といえば、当時私は都城市民の方から「飛行場には飛行機が沢山匿されているというのに、なぜあれだけやられても見方の飛行機が飛び立って敵機をやっつけないのだ」となじられるように質問された事がありますが、私は答える立場ではなく返答に困りました。
飛行場の穴は埋め切る事が出来ず、確か南北方向に飛行機が一台やっと離着出来る道路のような線の滑走路を作り、目印に犬小屋の屋根のような三角の標示板がその両側に並べられ、南方第一線基地のようでした。
いずれにしても都城西飛行場は、四月二十九日の空襲をもって、重要施設のほとんどを破壊され、また飛行場内至る所に投下された時限爆弾の為に完全に使用不能となり、特攻隊や制空隊の出動が出来なくなりました(〃)」

八月六日、遂に庄内が空襲を受けました。庄内小学校を中心に、西区、町区はひどい災害を受け、人々はただ茫然として立ちつくすのみでした。
幸い私の家はそのままでしたので、小学校周辺を宿舎としていて焼け出された兵隊さん十八名が、宿舎として住まわれることになりました。
両隣りは上官の宿舎です。
しばらくの間ではありましたが夫は戦地、家族、幼い子を抱えて、今ではよく頑張ったものだと思います。
八月十五日、重大放送があるというのでお盆の日でもあるし、親族や客の人たちとともに聞いた終戦のラジオ放送。
天皇陛下のとぎれとぎれ聞えてくるお言葉に、ただ唖然として言葉もありません。残念な気持ちとホッとした気持ちでした。
放送後しばらくして兵隊さんたちは帰ってこられました。
皆言葉はありません。夕方になって諏訪神社前の道路で、たくさんの将校、兵隊さんが、手帳をはじめ、重要書類みたようなものを、泣きながら焼いている姿が今でも消えません。
夜になると、私の家の兵隊さんたちは酒宴が始まりました。
それも皆が泣きじゃくりながらの宴会。間もなく兵隊の一人が上官に向かって暴言をはく始末。
でも上官は寝入ったふりして何も答えません。しまいにはドタン、バタンと、とっくみあいの大騒ぎ。
その時、私は初めて全身に龍の入墨をしている人を見ました。実に不安でした。
予想もしない終戦という事態になって、皆気持ちの収拾がつかず、やるせない、うっ憤ばらしの挙句の果てとは思うものの、幼児をかかえ、夫の陰膳に無事を祈り、床についてもねむれぬ夜でした。
翌日から翌々日の夕方までには皆さん郷里へと出発されました。

「終戦の日前後」より、黒木ミツさんの証言

もしも米軍の宮崎上陸作戦がおこなわれた場合、都城市では沖縄戦の惨劇が再現されたことでしょう。
庄内空襲から10日後、日本は降伏。敗戦により、第57軍は終戦業務へ移行します。
隷下の第25師団は物資の処分、進駐軍への武器弾薬引渡し、復員業務などに取り掛かりました。
こうして、庄内の戦争は終わったのです。

関連記事
スポンサーサイト

トラックバック

トラックバック一覧

コメント一覧

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。