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軍馬の桜・軍馬補充部高鍋支部小林派出部(宮崎県小林市)

Category : 西諸県地区の戦跡 |

沿革
この牧場の桜は明治四十二年
当時の軍馬補充部陸軍騎兵隊二宮信大尉が圃場沿道に延々二粁に亘り染井吉野桜を植えたのが発祥であり
自来補植を重ね現在の三〇〇〇本の桜並木がある
この桜をたずねる観光客はあとを絶たず
この桜を称えた文人墨客の詩歌文章は数多い
昭和五十七年二月

まきばの桜碑文より

今回ご紹介するのは、その由来が「陸軍軍馬補充部高鍋支部小林派出部(現在の小林市に設置)」だったり、「陸軍軍馬補充部高原派出部(高原町に設置)」だったり、「農商務省国立種馬所軍馬補充部小林分厩所(農商務省にそんな組織は存在しません)」だったりと、説明内容が混乱しまくっている「まきばの桜」の歴史です。


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小林市細野にある桜並木。
一般には「まきばの桜」と呼ばれ、春にはお花見スポットとして賑わいます。この桜並木、元々は日本陸軍が植えたものを戦後に植栽し直したもの。
戦前・戦中の名称は「軍馬の桜」でした。
小林市が小林町と呼ばれていた頃、陸軍が民間から買い集めた若馬を育成する(調教や訓練はしません)「軍馬補充部小林派出部」が設置されていたのです。

地元自治体や小林観光協会による解説は下記の通り。
「農商務省の施設である」とする解説と「陸軍省の施設である」という解説、更には小林派出部と高原派出部を混同しているケースなど、内容が全部違っていますね。
つまり不正確なので、皆さんはこれら間違い解説を鵜呑みにしないようご注意ください。

間違い事例その1.高原町と小林町の軍事施設を混同しているケース

「小林市役所から県道104号線をコスモス牧場に向かって南下し、細野中学校手前信号を右折したところに小林市の桜の名所「牧場の桜」があります。
牧場の桜は明治42年、当時陸軍の軍馬を育てていた軍馬補充部高原派出部の部長、二宮信騎兵大尉が、防風林としてソメイヨシノを千本植樹し、戦前は「軍馬の桜」として親しまれ、九州でも珍しい空を覆い尽くす程の桜並木に、北九州か花見列車が運行し、盛大な桜をひと目見ようと身動きできない程の観光客で賑わいました。
時がたち、木は老木となり、土壌の悪化、病気に見舞われ、レジャーも多様化する中で桜も影をひそめるようになったものの、小林青年会議所の呼びかけで、ボランティア団体「小林さくらの会」が発足し、軍馬の桜は「牧場のさくら」として復興を果たしました」
http://www.kankou-kobayashi.jp/publics/index/42/

上記は、隣接する二つの軍馬補充部を混同しているミス。
「軍馬補充部高原派出部」が在ったのは隣の高原町。小林町の「軍馬補充部小林分厩」とは別の施設です。
宮崎県の軍馬補充部は、高鍋町、高原町、小林町の三ヵ所に設置されていました。

間違い事例その2.農商務省の施設と混同しているケース

「明治四一年(一九〇八)、小林市細野畜に国立種馬所の軍馬補充部小林分厩所が開設された。
当時の分厩所長であった二宮信中尉は日本のシンボル「桜」を牧場の沿道に植えた。
当時一〇〇〇本、後に三〇〇〇本に増やされ軍馬の桜は年々成長していった。
昭和のはじめになって一般に開放されると二㌔に及ぶ沿道の桜並木は、桜のトンネル「軍馬の桜」として広く九州一円に知られるようになっていった」
小林市史より

何をどう間違えればこういう解説になるのか、「国立種馬所の軍馬補充部小林分厩所」って何ですか?
国立種馬所は農商務省の組織で、軍馬補充部は陸軍省の組織。所属する官庁が全く違います。
軍馬補充部を国立種馬所に合併したのは明治41年ではなく、敗戦により陸軍が解体された昭和21年のことでした。

……などと、一連の観光案内には幾つもの誤りがあります。
元々の解説が混乱しているので、読む方は更に混乱してしまいますよね。

まきばの桜を解説したサイトでよく見られるのが
陸軍省の「軍馬補充部福元支部・高原派出部
陸軍省の「軍馬補充部高鍋支部・小林派出部(もと小林分厩)
農商務省の「宮崎種馬所
の三つを混同するという勘違い。

特に、宮崎県の軍馬補充部は移動・再編を繰り返していたので全体像を掴みにくいのが一因でしょう。
今回の記事では、結構アヤフヤな部分が多い「軍馬の櫻」の歴史を整理してみます。

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チラホラと咲き始めたまきばの桜


時系列で整理しますと
明治31年、陸軍省が「軍馬補充部福元支部高原派出部」を西諸県郡高原に設置。
明治32年、農商務省が「宮崎種馬所」を西諸県郡小林村細野(現在の小林市)に設置。
明治35年、高原派出部を「軍馬補充部高原支部」へ改組。
明治41年、「軍馬補充部高原支部川南派出部」を児湯郡高鍋に設置。小林に小林分厩を設置。
明治43年、軍馬補充部川南派出部を「軍馬補充部高鍋支部」へ改組。
大正2年、軍馬補充部高原支部廃止、小林分厩を「軍馬補充部高鍋支部小林派出部」に改組。
昭和20年、敗戦により日本陸軍解体。軍馬は地元住民へ譲渡。
昭和21年、宮崎種馬所と小林派出部を合併して「宮崎種畜牧場」へ改組。
平成2年、宮崎種畜牧場を「家畜改良センター宮崎牧場」へ改組。
平成13年、独立行政法人へ改組。


軍馬補充部高鍋支部の記事で解説した通り、陸軍が軍馬補充部福元支部高原派出部を宮崎県高原町に設置したのは明治31年のこと。
翌年には農商務省も宮崎種馬所を小林村細野(現在の小林市)に開設。
自動車が普及していない明治時代、馬匹の品種改良と蕃殖普及は国力に直結しました。
農耕、物流、交通、軍事といった分野で、馬は重要な役割を担っていたのです。
現代で例えると、国家の総力を挙げて自動車会社を運営していたような感じでしょうか。

このまま小林と高原は馬匹育成の拠点となる筈でした。
しかし、火山帯である霧島山麓にある牧場は、噴火による降灰被害を受けてしまいます。軍馬の食糧である牧草が、火山灰に埋もれてしまったのです。
軍事上における霧島の降灰被害は現在も同じで、2011年に新燃岳が噴火した時は航空自衛隊新田原基地の訓練が県外へ移されました。

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霧島連山はその後何度も噴火しています。最近では2011年1月に新燃岳が噴火。県内の広範囲に亘って大量の火山灰が降り注ぎ、前年の口蹄疫とのダブルパンチで地元経済と県民生活に大打撃を与えました。
画像は噴煙を上げる新燃岳。

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当時の様子。ドンという空震と共に巨大な噴煙が立ち昇り、火山灰を降らせながら宮崎沿岸部まで流れていきます。

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火山灰に煙る町並み。農作物や交通だけではなく、洗濯物や屋根・雨樋・太陽光パネル等への降灰で市民生活にも影響が出ています。灰を吸い込まないよう、愛犬に手製の防塵マスクをつけて散歩させている人も見かけました。

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火山灰に覆われた橋や道路。軍馬補充部も、このような降灰被害を受けた訳です。

降灰被害を受けた後の明治41年、沿岸部の児湯郡に軍馬補充部高原支部川南派出部が設置され、43年に軍馬補充部高鍋支部として本格稼働を開始。
名前がややこしいのですが、「高原」は霧島山麓の西諸県郡、「高鍋」は日向灘沿岸部の児湯郡に属する地域です。
高原派出部は大正2年に廃止され、農商務省宮崎種馬所の隣に軍馬補充部高鍋支部小林派出部が新設されました。
地形のおかげで降灰被害が少なかった小林は、依然として馬匹育成の好適地だったのです。

そして、小林派出部に植えられたソメイヨシノは「軍馬の桜」と呼ばれるようになります。
当時の姿は下の画像のようなもの。左右を繋ぎ合わせて一枚の絵となります。

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「軍馬の櫻」左図

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「軍馬の櫻」右図

「軍馬の櫻は明治四十二年時の軍馬補充部高鍋派出部小林分厩(現今は軍馬補充部高鍋支部小林派出部)の主任騎兵大尉二宮信氏が防風の目的で第六師團経理部の許可を得て植付けたもので、植付の任には技手窪田峯男氏が之に當つた」
「西諸県郡誌」より

さて、この桜を植えた人物は、初代小林分厩所長「二宮信騎兵大尉」というのが現在の通説。
計画を立てたのは二宮大尉だったのか。赴任当初の二宮大尉には上官が居た為、その人物が本当の立案者だったのではないか。
小林市役所総務課の深見順一氏は、この点に関して興味深い説を唱えています。

「今年は二〇〇八年。明治四一年(一九〇八)から数えて一〇〇年を迎える。この記念すべき年を目前に、新たな史実証言がでてきた。
それが二〇〇七年九月六日付の宮崎日日新聞社に掲載された記事である。
それは、同紙「応接室」と呼ばれるコーナーで、ナガセケンコー社長の長瀬二郎氏をインタビューした記事。
軍馬育成のため実の祖父がかつて責任将校として同市(小林市)に着任、後で「軍隊の金で周囲に桜を植えて、おしかりを受けた」と語っていたのを懐かしむ。桜の保存運動などがあれば「かかわりたい」。そんな思いでいる」
と掲載されている。
長瀬二郎氏は、ナガセケンコー株式会社の代表取締役を務める人物。ナガセケンコーは、一九三四年、東京都に設立された長瀬ゴム製作所を前身とする企業で、軟式テニスボールはほぼ一〇〇%、軟式野球ボールは約七割を占めるという大企業である。実際にお話をうかがったところ、独自に裏付け調査も行っていただいた。
調査にあたった井門満明氏によると、『明治四二年当時、軍馬補充部高原支部は支部長、陸軍騎兵中佐・西端学(長瀬氏の祖父)、部員・陸軍騎兵大尉二宮信、同部員・陸軍騎兵大尉・伊澤信一という構成であった。よって桜並木植樹を行ったのは西端学中佐でなければならない。
ただし、二宮信大尉が西端支部長の命を受けて現場の責任者として事に当った可能性は考えられる』とのこと。
根拠資料として、防衛庁・防衛研修所戦史室蔵の「現役将校同相当官實役定年名簿(明治四一年・七・一、明治四五年・七・一)」、日本馬政史、陸軍省沿革史などがあげられ、組織として西端学氏が二宮信氏の上官であったことは間違いがないことが証明されている。
では、なぜ史実に西端学氏の名前が残っていないのか、調査を開始した」
小林市役所総務課文書広報係 深見順一氏「牧場の桜一〇〇年のはじまり」より 2008年

深見氏が史実と推測を交えた「軍馬の櫻」植栽の経緯は下記のようなもの。

明治40年、西端学中佐が軍馬補充部高原支部長として着任。
明治41年、西端支部長が高原支部(もしくは造成中の小林分厩)に桜200本を植えた結果、「軍からおしかりを受け」て私費にて弁済。同年、二宮信支部員が小林分厩長に就任。
明治42年、西端支部長の計画を継いだ二宮分厩長が、第6師団の許可を得て小林分厩にソメイヨシノ800本を追加植栽。
明治43年、西端中佐が退官、予備役へ編入。高原支部長(高鍋支部高原派出部へ改組)の後任者は二宮大尉。
植樹計画者の西端中佐が軍から叱責された為、正式な手続きを踏んだ二宮大尉の名だけが記録されたのではないか?


西端中佐なのか二宮大尉なのかはともかく、軍馬の櫻は人々の眼を楽しませました。
しかし、ソメイヨシノには寿命があります。名所として賑わいを見せた「軍馬の桜」も、樹々が数十年の寿命を終えると共に廃れてしまいました。
そんな中で忘れ去られてしまった桜並木発祥の経緯。
もしかすると、深見氏の調査により「軍馬の櫻」の歴史が解明されるかもしれません。

【小林のパラシュート降下大演習】


戦時中の軍馬補充部小林派出部では、比較的平穏な日々が続きました。
ハデな行事といえば、陸軍落下傘部隊の大規模演習が行われたという記録があります。
これは、落下傘部隊の総兵力である挺進第1連隊から第4連隊までが参加したという、日本最大のパラシュート降下演習でした。しかし、同時期に栃木県宇都宮で行われた挺進第1連隊の天覧降下演習に隠れ、ほとんど知られていません。
小林市側が「まきばの歴史」のエピソードとしてアピールした形跡もなく、日本空挺史の解説でも「霧島あたりでも演習した」の一行のみ。
陸の孤島宮崎は、情報発信においても閉鎖状態にあるのでしょう。

陸軍のパラシュート演習は、小林の人々にとって一大イベントとなりました。噂に聞く「落下傘」なるモノを見ようと、小林・高原の住民は警察の接近禁止命令も無視して押しかけます。
新田原飛行場から発進した4個空挺連隊(大規模過ぎて、一部は熊本県の飛行場から離陸)は、軍馬補充部上空で次々と降下。小林の空に花開いたパラシュートは、「ひれた、ひれた!(開いた、開いた)」と観衆を沸かせたそうです。
小林出身の空挺隊員は、地元のヒーローとして役場で歓待を受けました。

しかしその後、戦局は悪化。
児湯郡川南の空挺基地から出撃した空挺隊員は、その多くがフィリピンの攻防戦で散りました。
本土決戦に備え、小林には第25師団が展開。宮崎県沿岸部の3個師団、志布志湾方面、吹上浜方面の後方支援基地として、霧島山麓には大量の軍需物資が集積されます。
激しい空襲を受けた都城市と違い、小林の第25師団は沈黙を守り続けます。上空を通過するB29爆撃機に対しても、対空砲火を放つことは禁じられました。後方支援基地の小林が、先に叩かれる訳にはいかなかったのです。

こうして攻撃を免れていた小林でしたが、昭和20年夏に米軍艦載機機の空襲を受けます。都城方面から吉都線沿いに飛来した3機のグラマンは、駅舎と汽車、周囲を通りかかった住民に無差別発砲。
たった1日の空襲でしたが、児童を含む多くの一般住民が死傷する惨事となりました。

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まきばの桜にて

敗戦により、軍馬補充部小林派出部も宮崎種馬所へ吸収されて「宮崎種畜牧場」となります。その際、軍馬補充部の記録も大部分が失われました。
「進駐軍が記録の廃棄を命じた」という説もありますが、実際は敗戦直後のパニックで証拠隠滅が図られたというのが正解。

昭和20年8月15日以降、軍馬補充部では保有馬の民間譲渡や機密書類の廃棄が急ピッチで進められます。同年10月末にマスマン中佐らが宮崎へ着任したとき、軍馬補充部の記録は大部分が灰と化していました。
現在、軍馬補充部高鍋支部跡は農業大学校と国光原中学校、高原派出部は畜産試験場、小林派出部は家畜センター宮崎牧場となっています。



人吉から都城へ向けて宮崎自動車道を走っていると、霧島SAの手前で広大な牧場を通過しますよね。アレが宮崎種馬所と軍馬補充部小林派出部の後を継いだ家畜改良センター宮崎牧場です。
地図で確認すれば分りますが、種畜場は高速道路の脇に広がっているのではなく、高速道路が種畜場のド真ん中を横断しているのです。
相当な広さなんですねえ。

家畜センター敷地の東側は、毎年春になると花見客で賑わいます。
戦後、消えてしまった軍馬の桜を復活させる運動が地元青年会議所を中心に進められ、大量のソメイヨシノが植林されました。既に軍馬補充部は解体された為、戦後の桜並木は「まきばの桜」として再生されます。

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で、まきばの桜祭りが開催されると聞いて小林まで行ってきました。ここ最近サクラの蕾を観察していましたが、暖かい沿岸部ですらチラホラ咲いている程度。
「霧島山麓は開花が遅れているだろうな」と思ったらやっぱりそうでした。残念ながら、満開になるのは来週あたりでしょう。

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満開になったら綺麗だろうなあ

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行く手の左右にも桜並木が伸びています。

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植樹の記念碑が幾つもありますね。

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延々と桜並木を歩いていくと「さくら祭り」の会場へ到着。
桜祭り会場はそれなりに盛り上がっておりまして、屋台やライブが開催されていました。

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ここから先は、更に広大な家畜改良センターの敷地となっています。
入口を示す古そうな門柱がぽつんと建っていますが、軍馬補充部の名残なのかどうかは不明。


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軍馬の櫻に関する碑は上の二つ。
家畜改良センター入口付近に設置されています。

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まきばの桜の向う側は、家畜改良センターの広大な敷地。

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聳え立つ霧島の山々、広々とした大地、チラホラ咲いている桜、晴れ渡った青空。
これでスギ花粉が舞っていなければ最高のシチュエーションですね。

高鍋支部を調べたときは、挺進第1連隊兵舎の件もあってガッカリ感が半端なかったのですが、小林派出部でそういう感傷はありませんでした。
「軍馬の櫻」だろうと「まきばの桜」だろうと、こうして人々の憩いの場として活用されていればソレで良いのでしょう。
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