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延岡空襲殉難碑(宮崎県延岡市)

Category : 延岡市の戦跡 |

迎撃の友軍機は来ない
頭上にはB29の編隊が通過中なり
たまりかねたように
地上より高射砲がダダン、ダーンと
狙い撃ちを始めた
編隊のど真ん中にさく裂する白い弾幕
命中 あにはからんや弾着不足無念なり

今日も密雲上に爆音
低く垂れ込めた灰色の中
低空の編隊に推測の狙い
しきりと高射砲は吠え続ける
とたんに いぶかしげな爆音の一機あり
エンジンの不調歯車のきしむ様
金属の擦り減る歯の根が浮く
キユウーンンギューンンと
とぎれとぎれに伝わってくるのだ
命中だ 梅雨空に低空が仇なした
不運のB29 然し……
他の編隊機にまもられ
洋上遙かに退去せり


渡木真之「我が故郷に戦火燃ゆ 延岡大空襲の記録」より

宮崎県北部に位置する延岡市。
旭化成の工場が立ち並ぶ工業都市です。戦時中は軍需工場と化した工場群は、当然ながら米軍の爆撃目標となりました。
昭和20年、延岡の街は激しい空襲に晒され続けます。

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さて、この延岡市役所の隣には「城山公園」という小高い丘があります。
この場所は、かつて縣城(あがたじょう)というお城でした。
延岡市の解説によると「慶長8年(1603年)に高橋元種が築いた延岡城の城跡で、本丸、二の丸、三の丸からなる宮崎県を代表する近世城郭です。頂上の天守台跡地には鐘つき堂があり、今もなお鐘守の手によって時が告げられています」とあります。

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正面ではなく、復元された裏側の北大手門から登ってみました。

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行く手に立ちはだかる千人殺しの石垣。

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千人殺しとは「石垣から幾つかの石を抜けば、崩落して寄せ手を倒す」という言い伝えが名前の由来だそうです。

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千人殺しの脇をのぼる階段

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虎口へ続く道

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最後の延岡藩主である内藤政挙公の像。鉱山や電源の開発で近代延岡の発展に貢献した人物でもあります。

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延岡から出征した戦没者の慰霊碑

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お城巡りをする時、寄せ手になった自分を想像するのはとても楽しいものです。
大抵は城門をくぐるまでに三回くらい討ち死にし、城内突入後は自分が何回甦ろうと足りない位の猛攻撃を受ける訳ですね(脳内で)。
お城というのはよくできた防衛システムだなと、いつも感心しております。

延岡城の場合、門の先には「千人殺し」という物騒な名の石垣が立ちはだかり、右へ行っても左へ行っても防塁が現れ、攻撃から逃れられません。
「うおお、またやられた」などと妄想しつつ登っていった先が、山頂の天守跡。

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市民に時刻を報せる鐘なので、勝手に撞いてはいけません

ここには明治11年から鐘撞堂が設置されており、毎日6、8、10、12、13、17時に時を告げているとの事。
天守跡は展望台を兼ねており、延岡市南部が一望できます。大瀬川と五ヶ瀬川に切り分けられた延岡市街の中で、特に旭化成の赤白煙突が印象的ですね。
延岡城の城下町として発展した延岡市ですが、明治時代にうらなり先生が赴任する際は「延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ」「名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする」などと心配される程の場所でした。
某文豪にdisられてから20年ちょっとで日本窒素肥料が進出し、ベンベルグ工場(後の旭化成)の建設等によって工業都市となった延岡。

戦争末期の延岡は軍需工場が立ち並び、県内各地の学校から勤労学生が動員されていました。
学業に専念させるべき学生たちを兵器の製造作業に就かせていたのです。既に、「将来を担う若者を育てよう」などという余裕は無くなっていました。

「一月の半ば、いよいよ延岡へ行く。寮はレーヨン工場の男子寮で、勤務は東海のダイナマイト工場で、身体の健康なものは三交替制のロケット弾製造(B29爆撃機を迎撃する際に噴射して速力を早める)作業に従事した。
楽しいのは土曜日の後夜勤が休みで日曜日と二日間休日が取れることや、映画を見に行って帰りに散髪屋によってお袋からの小包みを受け取って、部屋で輸送船が着いたと豆類はばらまいて食べ、後日畳の隙間に入り込んだのを上げて食べたりしたことが思い出される。
また夜勤の際には、爆薬に使用していたさつまいもの干した粉末を盗んで、蒸気で蒸してカンコロダンゴを作って食べ、腹を満たしていたことが思い出される。
三月になると、宮崎市が十八日に初めて艦載機が来襲して被害を受けた、と報じられてホームシックになり、帰りたい気持ちが一杯であった」
「終戦の年の思い出」より 徳地俊春氏の証言

現在の延岡市街を眺めていると、この風景が一度は焼け野原になったことなど想像もできません。

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城山の反対側、愛宕山から眺めた延岡市街。当時から煙突は街のシンボルでした。

昭和20年6月28日23時、ここ城山の山頂から10秒間隔でサイレンが鳴り響きました。その空襲警報から2時間後の1時15分、遂にB29の編隊が姿を現します。
延岡空襲のはじまりでした。

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城山公園の天守跡より眺める延岡市街。煙突は旭化成のもの。

以前、延岡市の土々呂に展開していた第48および116震洋隊を紹介しました。
延岡震洋隊基地から先の224号線は、車一台がやっと通れるほどの狭い山道。「対向車が来ませんように」と必死で祈りつつくねくね走っていくと、やがて峠の交差点に辿り着きます。
その横にそびえるのが遠見山。
文字通り、延岡と門川を一望できる山です。
頂上付近に十分な広さの駐車場がありますので、無理せず舗装路を車で登りましょう。
「ちょっと運動してみるか」などと脇の林道を登ると後悔しますよ。

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歩いて登ろうとすると、こんな坂道が延々と。

遠見山山頂には展望台があって、晴れた日には太平洋を一望どころか360度の一大パノラマを楽しむことができます。

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東の日向灘方面。沖に浮ぶのは枇榔島

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南に見えるのは門川町。その向うが日向市。

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北側に見えるのは延岡市街

で、この遠見山には日向灘の空中戦で犠牲となったパイロットの慰霊碑があります。

慰霊碑の名は「太平洋戦争日向灘空域戦没者鎮魂碑」
頂上展望台の下に、ひっそりと隠れるように建てられていました。
宮崎県の解説によると「昭和52年秋、門川町沖合から飛行機のエンジン1基が引き揚げられたことを機に、この空域での戦没者の供養を行い、彼らの霊を慰めるため、門川町の有志と多くの協力者によって、昭和53年12月に鎮魂碑が建立された」とあります。
このエンジンは紫電改のもので、パイロットの安否は不明。

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裏の碑文には、こう刻まれています。

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太平洋戦争末期 昭和二十年はじめから終戦の日まで ここ日向灘から豊後水道に至る海域は激戦場となり
敵味方多くの飛行機が墜ち 搭乗者たちがかれらの祖国に殉じた戦後三十二年目の秋 
門川町沖合いの海底から引き揚げられた一個のエンジンは 
未だその海底のそちこちに眠り続ける戦死者達の無言の呼びかけであっただろうか
これを機に三十三回忌の供養を行ない若くして逝ったかれらの霊を慰めるべく
門川町の有志と多くの協力者によってこの碑が建てられた
碑銘はこの空域で戦死した一人 鴛渕孝海軍少佐の旧部下であり義弟でもある
航空自衛隊航空総隊司令官山田良市空将の筆によるものである

昭和五十三年十二月十四日  碇義朗

延岡に米軍偵察機が姿を現したのは昭和19年末のこと。20年3月4日には最初の爆弾が投下されています。
米軍の本格的な空襲が始まったのは3月18日でした。
沖縄侵攻への露払いとしておこなわれた九州南部への空襲に対し、海軍赤江飛行場と陸軍都城西飛行場は「戦力温存」の命令によって戦闘機をシェルターの奥に隠します。
いっぽう、日向市の冨髙飛行場からは第721海軍航空隊戦闘第307飛行隊が迎撃に飛び立ち、延岡から高鍋にかけての空域で激しい戦闘を展開しました。

三月十八日午後、晴天で流雲ある日でした。
突然敵機来襲の空襲警報の発令あり運転停止を命令し全員退避、一旦防空壕に入りましたが、飛行機の爆音が異なるので外に出て見ますと、何と数十機の戦闘機の空中戦が展開されていました。
工場の上空も、愛宕山上空も、土々呂方面まで、両軍とも五機、七機からの編隊で扇型となり横転逆転してお互いの敵機を撃墜するもので、急降下逆転して敵の後方より射撃するのが最上の勝ち目と言うことで、その爆音はエンジンも焼けよと全速回天のため蜂の巣をつついたようで、上昇する時はものすごいものでした。
こんな空中戦は初めて見るものばかりで、皆こわいもの見たさで防空壕から出て見物し、一人は硫安工場の屋根に登った勇敢か馬鹿かわからぬ者もありました。
見上げる目に何機も白煙を吹き、長浜沖の海中にその姿を消していくのが映りました。
約十五分位の大戦闘ではなかったかと思いますが、どちらが敵のグラマン機で、どちらが日本機かわからず、緊急情報で「敵十数機げきついせり」と拡声機で流れた時は、日本軍が勝ったと喜んだものですが、あとで土々呂海軍の掃海艇で救助にいったら、日の丸の飛行機も多かったと聞かされ残念でした

市山幸作「太平洋戦争延岡空襲戦災記」より

3月18日から宮崎各地を襲撃した米軍機は、対空砲火や空中戦で6機を撃墜されました。いっぽう富高の306および307飛行隊も、2日間の防空戦で十数機を失っています。
孤軍奮闘する307飛行隊も遂に力尽き、特攻作戦支援のため鹿児島へ移動。迎撃能力を失った冨髙飛行場は、やがて特攻機の中継地点と化します。
米軍機は宮崎の空を悠々と飛び回るようになりました。
5月2日には延岡の沖合に浮かぶ島之浦が機銃掃射を受け、住民と児童が射殺されています。

門川沖で発見された紫電改が墜落した日時は不明ですが、いずれかの空襲警報を受けて宮崎へ駆け付けた迎撃機だったのでしょう。

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延岡のベンベルグ工場

小型艦載機に続いてB29戦略爆撃機が投入され、軍事目標攻撃から無差別爆撃へと米軍の方針が転換されると、延岡市は激しい空襲にさらされました。
旭化成の建物にも迷彩が施され、対空部隊も展開。街自体が防空体制下におかれます。

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戦争末期の延岡では、防空塗装を専門とする会社も設立されました(現在も塗装業を存続されています)。
これは何も延岡に限った話ではありません。画像のとおり、全国各地で屋根の迷彩塗装請負の広告が散見されます。

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画像の防空塗料は昭和16年夏、太平洋戦争前の広告。想定していた空襲は米軍ではなく、中国軍やソ連軍でしょうか?御利益がありそうな、縁起でもなさそうな商品名ですね。

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隠れるだけではなく、灯火管制下の暗闇で目立つための防空素材もありました。


そして6月29日の深夜1時。
都井岬方面から飛来したB29の編隊は、延岡市街へ焼夷弾を投下します。

延岡大空襲の夜、空襲警報!敵機来襲!
防空頭巾をかぶって、すぐ裏山の防空壕に避難した。近所の人達も皆来た。
「あ!延岡方面の空が真っ赤になったぞ!」
「延岡がやられたもんね」
「工場があるからじゃろ」
「出るな。出るな。あぶねえぞ」
などと口々に叫んでいる。あぶないと思ったが、ちょっとだけ出て見た。夕焼けのように赤かった。
後日、汽車も不通になったけれど、母の里のことが心配になって、延岡まで線路づたいに歩いて行った。
町に入ると、家は全部焼けただれていて、あちこちから、プスプスと煙が立ちのぼっていた。
その間の通りを顔を真っ白に塗った人や、手足に白いものを塗った人、包帯をした人、杖にすがって歩く人、他人に支えられて歩く人と様々な人の姿を見て、戦争のあわれを感じた。きっとやけどをした人達だったのであろう。
中町の叔父の家も焼けこげていて、人間はどうなっているのか分からなかった。
尋ねようもなく、調べようもなく、こわくなってそのまま又、歩いて帰った。
ずっと後で聞いたところによると、伯母と長女と二女と三男と四男は防空壕の中に閉じこめられて死亡したと。
伯父と長男と次男は、すぐ城山に逃げて助かったということである。
これが私の従姉妹だと思うと悲しい。

井本潤子「戦中・戦後の生活体験」

B29爆撃機は、それまで飛来していた艦載機とはケタ違いの破壊力を有していました。
日本軍は、延岡の周辺空域でも必死の防空戦を展開。対空砲火と空中戦によって、日南市、宮崎市、日向市では、それぞれ1機のB29爆撃機が撃墜されました。
北九州爆撃途上のB29が、長崎から駆け付けた紫電改と交戦。延岡沖へ墜落したこともあります。
このときB29に搭乗していた11名中、6名は機体もろとも墜落死。北川町山中へパラシュート脱出した5名のアメリカ兵のうち、重傷を負っていた1名は手当の甲斐なく死亡します。
捕虜となった4名は、福岡県の西部軍司令部へ送られたのち全員が処刑されました。

五月初めの或る日、昼食後警戒警報のサイレンに、じっと耳を傾けると北西の方向、ちょうど日之谷の上空に一機、かなりな高度で南東に向かって進行して来ましたが、偵察だから別に心配はいらなという考えで、さほど警戒もしないでいました。
ところが、間もなくドドドドと言うB29からの発射音とバリバリバリと豆を煎るような日本戦斗闘機との空中戦の撃ち合いが始まったので、思わずびっくりしながら土手に身をかくしてじっと見つめていました。
日本機は小さいので最初は見えませんでしたが、何回か撃ち合ううちに段々近くなり、ようく見るとB29の下から或いは上空からトンビにツバメかスズメぐらいの鳥が執拗に食い下がるような感じでした。
その時、B29の期待からパッと煙が吹き出したと思うと、間もなくドーンと言う音と共に、B29は機首を下げるように煙を引きながらだんだん高度が下がって来るようでした。
そのうちに、日本機は可愛岳の方に消えて行きました。
すると間もなく、上空に小さい白い朝顔ぐらいのものが一つ二つ三つ四つと浮かび上がって来ました。
これが初めて見る落下傘というものかと、しばし呆然と皆見上げていました。
ふと我に帰り頭上を通過したB29はと振り返ったその時、すでに機は山かげに見えなくなる寸前で、その時ほんの一瞬でしたが、もう一つ落下傘が落ちて行くのを皆に知らせました。
と同時にB29も落下傘も見えなくなり、又落下傘の方に振り向くと、四つの落下傘は高度が下がるにつれてだんだん遠く離れて来て、一個だけが、家田水流の押伐の少し色付きかけた小麦畑の中に落下したのでした。
私達は家田警防団詰所にて、トビ口やロープ、其の他手に持って、落下地点に駆けつけたものの、其の頃の私達は外人は鬼か悪魔のような非常に凶暴性のある人種だという教育を受けていましたので、近づくのにも不安でしたが、それは嘘だったということをはっきり感じたものでした。
心ない村人達が、全然反抗もしない外人に暴力をふるおうとするのを、本村の蓮台寺の紫雲和尚さんと権藤久治さんが一生懸命かばいながら、飛石の渡舟の方に連れ去りました

黒木重代司氏「私の昭和二十年の記憶」より

このとき捕虜となった米軍兵士の通訳をつとめたのが、延岡に赴任していた日系カナダ人教師の栗田彰子氏。
カナダへの帰国を願っていた栗田先生は、6月29日の延岡空襲で消火活動中に亡くなっています。
犠牲者130名を出したこの空襲を皮切りに、延岡では敗戦までに320名の命と3765戸の家屋が失われています。

壕の中は黙々としていて、誰一人話をしている者もいない。
ひんやりとした水分のある感触が全身を包む。爆音未だ消えずして、侵入機は静かに旋回しているようだ。
壕から体を乗り出して爆音を目で追っていると、闇の空に赤い尾翼灯を点滅させながら一機が旋回中である。
しかし何時もと違っていやに低空である。
ゴーングーングーン……としつこく飛び去らないので、壕から顔を出して空を仰ぐと尾翼に赤い灯を点滅させて、黒くB29がゆっくりと横切っている。直感で何か起こるぞと思った時ザーッと音がした。
すかさずドドーン、スダーダーンと爆発音にあわてて壕内深く身を伏せた。ところが数秒後にボサーッと熱い風が吹き込んできたので、これは近いぞと思った。
外がさわがしくなり人々が「今山さんの近くに爆弾が落ちたぞ!」と叫んでいる。
城山の南側の防空壕に避難していたのに、五ヶ瀬川をへだてた今山神社前の本多旅館に命中した爆弾の爆風が、反対側でしかも遠く離れた壕の中まで来るとは考えてもみなかった

渡木真之「我が故郷に戦火燃ゆ 延岡大空襲の記録」より 

この夜、本多旅館で犠牲となった宿泊客は県外から建設作業に訪れていた軍属18名でした。戦後の追跡調査にも拘らず、今なお彼等の身許は判明していません。

他の大都市が空襲で受けた損害とは比較にもなりませんが、地方の小都市にとっては正に大打撃でした。
もしも九州上陸作戦がおこなわれていたら、この地で更に多くの犠牲者が出たことでしょう。


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昭和53年、延岡空襲による被災者や遺族による働きかけによって、今山大師に「太平洋戦争 延岡空襲殉難碑」が建立されました。

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延岡市内にいると実感し難いのですが、遥か遠見山山頂から眺めると、米軍機の侵入ルートや被災の範囲が容易に想像できます。
遠くに望むあの街に爆弾と焼夷弾が降り注ぎ、焔に包まれていた日があったのですね。

延岡空襲をはじめ、戦時に関する記録は様々なかたちで残されています。
それらを自分なりに確かめていくには、どうすればよいのか。
展望台の上で、しばし考えさせられました。

遠見山からの帰路は、224号線を南の門川町方面へ下りましょう。そちらは道も広いですから。


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