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崎田海軍航空基地(宮崎県串間市崎田)

Category : 串間市の戦跡 |

志布志湾に面する同市・崎田浜にはかつて、海軍の水上基地があった。
「当時は海軍の人たちと遊ぶのが日課だった」と話すのは、近くに住む山崎辰生さん(86)。中学生だった山崎さんは学校が終ると毎日、友人とともに海軍が訓練していた崎田漁港に向かっていた。
山崎さん宅には20人ほどの海軍兵が寝泊まりしており「いつも海軍のことを教えてくれた。おなかがすいたと言うと乾パンをくれた」。
彼らに憧れ、自身も43(同18年)に海軍入り。終戦まで海軍機の整備士として活躍した。
ツアー客が来たときなどは海軍基地跡を前に、当時の記憶を交えながら戦争について解説する山崎さん。「体が動く限り伝えていきたい。それがあの時、国のために散っていった海軍兵たちへの恩返しになれば」と力強く語った。


宮崎日日新聞「忘れない・戦後70年へ 戦争遺産」より 2014年

給水塔


米軍上陸作戦の目標であった志布志湾は、宮崎県側の突端である都井岬特設監視所と鹿児島県側の突端である内之浦砲台によって防御されていました。
この2つは有名なのですが、戦時中の志布志湾に海軍の航空隊が展開していた事は余り知られていません(私も知りませんでした)。

2010年、福田鉄文著「宮崎の戦争遺跡」によってその詳細が初めて紹介されました。
崎田基地を取り上げているサイトは幾つかありますが、当ブログを含めて全てが福田氏の後追いです。
あの本以上の内容を発掘できたものが皆無で、どれもコレも似たり寄ったりになっているのはそれが原因。
このことは、きちんと明記しておいた方がよいでしょう。

DSC09670_R.jpg
よく晴れた日の本城川河口では、息をのむほど美しい夕陽を見ることができます。


志布志湾の宮崎県側、串間市の本城川河口に崎田という漁港があります。
この静かな港に、海軍の航空隊が展開したのは昭和8年前後のこと。
「航空隊」といっても滑走路が建設された訳ではなく、水上機の基地でした。飛行場と云うより軍港みたいなイメージでしょうか。

水上機とはフロートで船のように浮き、そのまま海面を滑走して飛び立つ下駄履きの航空機。
宮崎市民なら見慣れていると思いますが、宮崎空港の近所に妙な形のセスナ機が展示してありますよね。アレの軍事版だと思ってください。

IMG_0e005_R.jpg
これが水上機。第2次上海事変にて、昭和12年

崎田地区には海軍兵舎とそれに伴う諸施設が設置されました。
滑走路が無かったため飛行場にしては小規模で、現在では宿舎で使われていた給水塔や弾薬庫などが残されているだけです。

崎田

崎田
現在の崎田漁港
此の先の海辺に水上機が係留されていました。

崎田
崎田地区の集会所。元々は海軍の烹炊所があった場所です。

崎田

戦前から、志布志湾では日本海軍の軍艦や伊号潜水艦が頻繁に演習をおこなっており
それらに搭載される水上機も崎田からダグリ岬あたりの水域で射撃標的の曳航などに参加していたそうです。
こうして、崎田の海軍基地は訓練施設としてスタートしました。
本格的な訓練開始は昭和12年頃から。それから昭和16年まで海軍部隊が駐屯していました。

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当時の日本海軍が配備していた95式水上偵察機

昭和16年、太平洋戦争が始まってからの崎田基地については詳細が不明です。
17年には教育部隊が崎田基地へ転入し、終戦直前には人間魚雷部隊が駐屯していたという記録くらいしか残っていません。
昭和19年9月、南九州防衛のため志布志湾一帯に陸軍第86師団が展開。串間市には同師団の歩兵第189連隊が配置されます。
翌年5月に第86師団は「大隅集団」に再編。189連隊も砲兵隊などと統合された「福島地区隊」となりました。

その後、坂を転げ落ちるように戦況は悪化。
昭和20年4月に沖縄戦が始まると、軍部は本土決戦への備えを固めます。
日本軍側は米軍の九州上陸地点を正確に予測しており、宮崎県沿岸・志布志湾・吹上浜に防衛部隊を展開していました。
尤もその防御は堅固とはいえず、比較的マシだったのは志布志湾のみ。
その志布志湾も、艦砲射撃と航空攻撃の支援を受けて殺到するであろう米軍上陸部隊に対して、内之浦砲台が与え得る打撃はそれ程大きくなかったでしょう。
後方支援を頼もうにも、内陸部の鹿屋や都城の飛行場群は米軍機の猛襲でズタズタにされていましたし。
都井岬のレーダーも、昭和20年3月18日の米軍機奇襲を察知できなかった事は都城西飛行場の記事で書いたとおり。

DSC09643_R.jpg


串間市山中には二重三重の防衛ラインが構築されたものの、配置図を見ると小規模な陣地が散在していたという方が正確です。
米軍の内陸侵攻を防ぐには、余りにも貧弱でした。
もっとも、米軍のオリンピック作戦では串間市方面を無視して鹿屋市と宮崎市の二方向から進撃。
都城市で合流して大隅半島を包囲する計画だった様です。袋の鼠状態と化した串間・日南方面の部隊に持久戦の術は無かったことでしょう。


終戦間際の防衛体制については、串間市史に詳しく記されています。

福島地区隊の作戦準備(積四部隊)
元歩兵第一八九連隊副官石橋喜作ほか地区住民からの聞き込み等

1.連合軍の上陸地点が油津方面にも一部指向されるという情況判断に立ち、油津方面の海上監視のため、大束の中原北東の山に立木を生かして半永久的な監視塔をつくり、監視兵一小隊を常駐させた。
本部との連絡は有線電話で行った。
2.連隊本部を福島小学校から大束小学校に移転した後、椿山(大束、平原)に三角兵舎を建てたほか、揚原への道路沿いに洞窟を掘り、兵員の棲息、兵器、弾薬の格納にあてた。
3.都城方面へ部隊転用のあることを予想して、大束から志布志四浦へ至る道路設置、架橋工事を行ったが、橋はできたが道路は未完成だった。
4.敵の内陸侵攻にこの道路が逆用されるおそれもあるため、真萱にあった患者の一時収容所を北方小学校に移し、大重野、真萱に止阻陣地が構築され、火砲などを隠したりタコツボも用意された。
陣地はすべて坑道式である。
5.止阻陣地は奈留、仲別府地域、鹿谷付近にも準備された。
6.万一、敵が上陸した場合に備え、今町橋爆破、みかん山の野砲、北方地区山上の機関銃座が準備された。
7.海岸地帯には偽陣地が用意されたほか、一里崎に砲兵陣地を構築中であったが、完成を見ていない。
8.油津に海軍特攻基地司令部があり、特攻基地が油津、大堂津、外の浦に置かれ、第五特攻戦隊(嵐部隊)突撃隊基地が崎田に設けられた。
9.日南の隈谷トンネルは、燃料、弾薬の貯蔵庫として使われた。
10.現地自活用兵器として刺突爆雷(三キログラム及び五キログラム)を製作した。
11.防衛庁「本土決戦準備(2)」によると、終戦時ごろの作戦準備の進捗状況は福島地区隊では、僅か一〇~三〇パーセント程度であったという(志布志地区八〇~九〇パーセント、鹿屋地区三〇~五〇パーセント)。
12.その他地域住民の協力
陣地、掩砲(銃)壕の構築に婦人会、高等女学校生徒が真萱方面に出動している。芳中第八六師団長は住民の協力が大きかったと後で述懐している。
学校はほとんどが、各隊の本部、宿舎となり、運動場は厩舎になったりしたため、授業は公民館や神社、寺院などに分散して行われた。
小学校でも高学年の児童は、兵隊とともに壕掘りに協力、かばんに石や土を入れて運び出した。
婦女子に対する竹槍訓練も行われ、査問官による指導もあった。
「串間市史」より

崎田水上飛行基地は海軍第5特攻戦隊の拠点となりました。
上記の「本土決戦準備」には、崎田付近に回天と特四襲撃隊のマークが記してあります。
「特四襲撃隊」が特四式内火艇(水陸両用車両)のことだとしたら、竜巻作戦以外でも使用する予定だったのでしょうか?

給水塔

給水塔

給水塔
縫製工場裏にある戦時中の給水塔。「宮崎の戦争遺跡」には、海軍兵士がこの下でシャワーを浴びていたとの証言が載っています。

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給水塔の基礎部分

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給水塔附近に散在する古い構造物

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手洗い場の跡。旧軍のものかは不明。

DSC09639_R.jpg

米軍が現れないまま訪れた昭和20年8月15日、崎田基地の部隊は解散します。
武器は油津、弾薬は大束競馬場に集められて進駐軍の監視下で海洋投棄処分されました。
軍の衣類や食料は飫肥に集積の上、十一月に宮崎県側へ譲渡を完了。
串間に展開していた軍人の復員は9月23日に始まり、10月には完了したそうです。

残された軍事施設は町が引き継ぐこととなります。
幸いにも僅かな遺構は保存されましたが、、残念ながら案内板などは設置されていません。
現存する崎田海軍航空基地の痕跡は、町の風景に溶け込んでしまっています。

貯水槽

貯水槽
崎田町内に残されている戦時中の貯水槽。崎田海軍基地でも利用していたとか。

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貯水槽
貯水槽はもうひとつあります。

弾薬庫
漁港脇に保存されている崎田基地の弾薬庫。
イタビカズラに蔽われている周囲の壁も当時のもの。

弾薬庫

DSC09590_R.jpg

弾薬庫
戦後は倉庫として使われていた様で、改修工事で鉄骨などが追加されています。
一部は道路開通により撤去されたとの事。

弾薬庫

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#17 Re: No title
> 海軍遺構という看板を見て立ち寄ったのですが何も分からずじまいでこちら解説で謎がとけました。
> この近くに本城村古墳というものがあるですがそれの1号ふん横に土塁のあるバッテン型のコンクリートがありました。対空陣地かなにかでしょうか?

戦時中の串間については記録が少なく、なかなか実態が掴めません。
防衛庁の資料に載っているのも「崎田から永田にかけて陸軍の監視所や機関銃陣地があった」という大雑把な記録だけです。
本庄川河口あたり(島を含みます)にはカノン砲が据え付けられていましたから、高台の古墳にあるコンクリ跡も旧軍の砲座か銃座だと思われます。
鬼ケ城古墳などは私も調べましたが、今後も気長に調査したい場所ですね。
#18 No title
市の文化財関連の方に誘導されて、何とかたどり着けました。
銃座らしきものは、残っている横穴式古墳の西側10~20m付近です。
市の方にも電話で伝えましたのでちゃんと調べてもらえると良いですね。

串間とは関係ないのですが、新田原関連などで少し思い出したことがありましたの付記させていただきます。
祖父から日置川の県道44に交わる前(海側)沢のようになっているところに炊飯所らしきものと鉄兜が落ちているなんていう話を聞いたことがあります。
また、畑(岩脇)からは12.7mm機銃弾?が最近まで出ていました。弾痕と伝わる倉庫の穴もあったりします。
(検索してみたら超馬場へのF6Fの墜落記録があるのですね 駅北東500mだと岩脇ではないのでしょうか)
宮崎空港近くの宮崎東病院とゴルフ場の隣接した付近に、昭和60年ごろまで爆撃痕といわれている穴がありました。

何かのお役に立てば幸いです。
#19 御礼
貴重なお話、誠にありがとうございます。
戦後半世紀以上経って、人知れず消えていった戦跡も多いのでしょうね。せめて、残されたものは大切にしてほしいと思います。
県内の戦跡マップを作成できれば保存活動や観光に活用できると思うのですが、大部隊が展開していただけあって中々難しいようです。
串間方面の戦時遺構については、今後も気長に調べていく予定です。


#21 Re: No title
保坂様

はじめまして。
お問合せの件でございますが、元空挺隊員の方とは川南の慰霊祭でお会いした程度です。残念ながら、御祖父様との面識はございません。
私が川南の空挺給水塔に興味を持ったのは今から10年前、まだ20代の頃です。
それから川南町と空挺部隊の関わりについて調べ始めたのですが、ミリタリー方面では田中賢一氏や空挺同志会の著作しか手に入りませんでした。
続いて郷土史関係の資料をあたったところ、毎日新聞宮崎支局の書籍に「宮崎支局は“空の神兵に感謝の会”を主催、パレンバンの勇士、徳永中尉、古小路少尉らが県下各地を講演してまわった」という一文を見つけました。
その「徳永中尉の談話」が載っている新聞や雑誌を探す過程で、パレンバン作戦について幾許かの実情を知る事が出来た次第です。

当ブログの内容はあくまで「宮崎の地域史」ですから、数ある資料のひとつとして捉えてくだされば幸いでございます。

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