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空挺給水塔 其の3 パレンバン降下作戦

Category : 第三部・パレンバン奇襲 |

道具小路でも、その他いっぱい若い将校さん方が家を借ておられ、町には偕交社も出来てそんな方々が出入りし、町中兵隊さんの帯剣の音が聞こえて来るような時代でした。

最後に私のうちで下宿したのは武田少佐殿でした。
落下傘部隊の隊長さんです。
口髭をはやして、小兵乍ら非常に磊落で豪胆細心といった武人の典型の様な方でした。うちの家族ともよく馴染まれ、殊に父と話が合いました。父も日露参戦の勇士でしたので通じ合うものが有ったかと思います。
余り長い間お世話しなかったように思いますけど、どれ位おられたのかやがて戦地の方に行かねばならぬ事になりました。奥様も名古屋からまだ乳離れしない小さい嬢ちゃんを一人連れて急いででてこられました。
ささやかな出立の宴をはって皆で賑やかくお送りしました。
どこかへ落下傘部隊として作戦に参加されるということでした。
ずっと後で分かったのですが、有名なパレンバンの落下傘部隊が武田さんの率いる部隊だったのだそうです。
もう戦況もだんだん落ち目になって居た頃のように思います。奥様は大柄でゆったりした方でしたが、慌てず騒がずに御主人を送り出されたあと、片付けが済むと静かに帰って行かれました。
新田原から川南の各地に訓練中の落下傘がパッパッと次々に開き、キラキラと輝いて降下して行ったあの光景が今も夢の様に思い出されます。
武田少佐が征かれたのが何時だったかははっきりしないのですけど、そのあと頃からだんだんと戦局も厳しくなり、防空頭巾を作ったり、防空壕を掘って貰ったり、そしてそれに入ったり出たりし乍ら終戦に向かって不安な日々を送って行ったように思います。

「たかなべ追憶」より 宮崎県児湯郡高鍋町 原郁さんの証言

宮崎県へ移転した陸軍落下傘部隊ですが、新田原飛行場の兵舎では足りず、一部の空挺隊員らは高鍋から都農にかけての地元住民宅に下宿しています。
この武田丈夫少佐もその一人でした。
武田少佐率いる挺進第1連隊は、太平洋戦争が始まると南方へ出動します。
しかし、陸軍初となる空挺作戦はトラブルの連続に見舞われるのでした。

空の神兵
パレンバンに降下する陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊

(第二部からの続き)

昭和16年9月13日。
こうして寒風が吹き始めた満州国から南国の宮崎県新田原飛行場へ移動し、陸軍空挺部隊は猛訓練を再開します。
9月1日に川南村の財津吉男村長へ通告された塩付パラシュート降下場の建設も、作業への住民動員や周辺農家の立ち退き、果ては宮崎県の動脈たる国道3号線(現10号線)の封鎖といった負担を地域へ押し付けながら急ピッチで進められました。
11月5日には教導挺進第1聯隊(後の第1挺進連隊)と教導挺進飛行隊(後の挺進飛行隊)の編成が完結。
「実戦部隊」の形はようやく整います。
そして12月8日、太平洋戦争が始まりました。

緒戦で華々しいデビューを飾った空挺部隊は、やがて劣勢を挽回するための切り札となり、戦争末期には悲惨な特攻作戦に投入されていきます。

今回取り上げるのはパレンバン降下作戦。
まるで楽勝だったかの様に語られるパレンバン作戦ですが、空挺部隊にとっては苦難の初陣となりました。

DSC09266_R.jpg
新田原エアフェスタにて、航空自衛隊飛行教導群のF-15戦闘機
当初は新田原飛行場(現・児湯郡新富町)を拠点としていた陸軍落下傘部隊ですが、規模拡大に伴ってパラシュート降下場がある北側の唐瀬原飛行場(現・児湯郡川南町)へ移転しました。
陸軍新田原飛行場と唐瀬原飛行場は戦後に農地開放されて消滅。新富町に航空自衛隊新田原基地が設置されたのは、昭和30年代からです。

【第1連隊行動不能】

戦線の拡大により、泥沼の長期戦となった日中戦争。
もはや戦争の目的すら明確ではなくなり、和平交渉も失敗。両国は互いをノックアウトできないまま戦いを続けます。
蒋介石政府への支援を続ける米英に対し、物資輸送(援蒋ルート)を遮断したい日本軍はフランス領インドシナへ進駐しました。
更に南部仏印へと進駐が拡大された昭和16年8月、警戒感を募らせたアメリカは日本への経済制裁へ踏み切ります。周辺に植民地を持つイギリスとオランダもこれに追随しました。
アメリカの石油に頼って戦争をしていた日本は、その石油を断たれるという深刻な状況に陥ります。
そして計画されたのが、アメリカの干渉を退けるための対米戦と南方資源の奪取でした。強大な連合国に刃向かう無謀な行為ですが、中国からの撤退を呑めない日本は新たな戦争を選択したのです。
その戦争に、陸軍落下傘部隊も「切り札」として組込まれます。

日米開戦直前の昭和16年12月1日、陸軍空挺部隊は出撃態勢を整えました。
軍令陸甲第93號により、武田丈夫少佐指揮の挺進第1聯隊、および新原少佐指揮の挺進飛行戦隊に出撃命令が下されたのです。

攻撃目標は蘭印(オランダ領東インド)のスマトラ島パレンバン。
パレンバンにはオランダとアメリカの資本で作られた油田と精油所があり、スマトラ島における産油量の60%を占めていました。
蘭印作戦で南方資源の獲得を目指す日本軍にとっては、最優先で奪取すべき目標です。

対象となる施設は、BPM(バタフセ石油会社)およびNKPM(コロニアル石油会社)の2大精油所、そして12㎞離れたパレンバン飛行場でした。
しかし、地上部隊がパレンバンへ辿りつくには、時間をかけてムシ河を溯上しなければなりません。
その間に油田が破壊されれば全ては無駄に終わってしまいます。ボルネオ島のミリ油田が占拠前に爆破された様に、油田の奪取は侵攻スピードにかかっていました。

そこで発案されたのが、連合軍が破壊するより早く空挺部隊によって精油所を占拠し、後から侵攻した地上部隊が確保するという急襲作戦です。
案の定というか、ムシ河を遡上してパレンバンへ向かった日本軍の船団は、度重なる連合軍機の空襲や河底に仕掛けられた機雷の除去、更にはバンカ島燈台を見誤って反対方向へ針路を間違えたり、水上生活者のフローティング・ハウスに衝突するなど、様々なトラブルによって航行に大きな遅延が生じました。

第一部で田中賢一氏の証言にあった通り、南方油田の奪取に空挺部隊を投入する作戦は早くから計画されていました。
それ故、部隊の練成と増強を急ぐ必要があったのです。あのまま雪に閉ざされた満洲に残っていれば、パレンバンの空挺作戦は幻に終わったことでしょう。
内地への移転は、陸軍空挺部隊にとってまさにギリギリの決断でした。

パレンバン降下作戦2

作戦準備のため、挺進團の木下中佐と弘中大尉はサイゴンへ先発します。
12月9日に宮崎神宮で必勝祈願した挺進第1聯隊も列車で宮崎県を発ち、13日に明光丸へ乗船して門司を出港。挺進第1聯隊は秘匿のため「風九三一七部隊」を名乗り、海路プノンペンを目指しました。

翌年1月3日14時半、海南島沖を航行中の明光丸で火災が発生。
途中、大連で積み込んだ焼夷弾が発火したのでした。消火に失敗した明光丸は炎上沈没します。

「乗船して何回か非常呼集で避難訓練が実施されていた。
そして明けて一月三日の十四時頃、非常呼集のラッパが鳴る。また訓練かと皆は思っていた。
装具を身につけ甲板上に集合していると命令受領が帰って来て、弾薬庫に火災が発生したので各中隊から消火班を編成して本部に出せと言う。
しかしその消火班も間もなく帰って来た。
最早消火不能になったので各中隊は海に跳び込む準備をせよと言う。
火薬に火がつけば大爆発となるので、一刻の猶予も許されない。身につけた装具類は全部はずして軍靴も脱ぐ。
小銃等の兵器類も甲板上の一カ所に集められた」
斉藤正之氏の証言より

救命胴衣を身に着けた空挺隊員達は、突撃ラッパと共に落下傘降下よろしく荒れる海へと飛び降りていきました。
海上を数時間漂っていた挺進第1聯隊員は、幸いにも駆けつけた「香椎」「吹雪」「占守」「辰宮丸」に全員救助されます。
このとき遭難救助された第1聯隊員の中には、後に第2剣作戦部隊指揮官となる園田直中尉や義烈空挺隊指揮官となる奥山道郎中尉がいました。

DSC04264_R.jpg
園田隊が日頃参拝し、隊旗を授かった住吉神社。フェニックス自然動物園の隣にあります。

蘭印作戦が開始された1月11日、巡洋艦香椎はタイに到着。
盤谷(バンコク)へ上陸した第1聯隊ですが、装備や降下機材一式が海没してしまった以上どうすることもできません。
何とか金辺(プノンペン)に辿り着いたものの、日用品にすら事欠く状況でした。
更には、船旅の途中でパラチフスに集団感染していた事が発覚。
プノンペンでは、延500名が入院するという惨憺たる有様となってしまいます。

パラチフスの被害は深刻で、挺進第1連隊は行動不能へ陥ります。
感染者には消毒剤が投与されたものの、1月12日には第2中隊の木下軍曹(25)が腹膜炎で亡くなり、続いて19日には第3中隊の伊藤伍長(24)も命を落としました。

7日に新田原飛行場を飛びたった挺進飛行隊は、各地を経由しつつ19日にプノンペンへ到着。
しかし、降下兵が動けない以上作戦実行は不可能でした。

訓練

「挺進第1聯隊行動不能」の電報に、宮崎の挺進練習部は大騒ぎとなりました。追加の降下器材を第1聯隊へ届けると共に、増援部隊の派遣が決定されます。
そこで急遽指名されたのが、1月1日に編成を完結した挺進第2聯隊でした。

【挺進第2連隊出動】

新たな連隊を作るため「機動部隊要員」の追加募集が始まったのは前年秋のことです。
陸軍の所沢整備学校で選抜・体力訓練を終えた新入隊員は12月8日に所沢から新田原へ移動。
こうして編成された挺進第2聯隊は、ようやく2週間のパラシュート降下訓練を完了したばかりでした。
そんな新米部隊へ出撃命令が下されたのです。

同期生の将校と映画を見に行つて、下宿に帰ると、おばさんが心配そうな顔をして待つていた。
「あなた方は、明日、はじめて降下されるのでしよう。どうか、これを体につけて行つてください」
差し出されたものを見ると、成田不動のお守りだつた。
「そうだ、明日は飛びおりるんだつたな」
私たちは、忘れていたのを思い出したように笑つたが、おばさんの温い心づくしは涙が出るほと嬉しかつた。
このおばさんは、ほんとうに心の優しい人だつた。これは、その後のことだが、猛訓練に疲れ帰ると「さあ、お風呂がわいていますよ。早くお入りなさい」そう言われて、風呂場へ行くとお湯には誰もまだ入らぬのか、あか一つ浮いていない。
「みなさんは、おすみになつたのですか」と聞くと
「いいえ、私たちが先に入つては勿体ないではありませんか。みなさんが、国家のためとはいえ、あんな危い訓練をうけておられますのに、何もしない家の者が先に入つては罰があたります」そういう返事だつた。
また、ある日は「今日も、お降りになりましたね。おかげでお部屋のお掃除に、朝から昼までかかりましたよ」
おばさんは笑いながら言つた。よく聞くと、座敷を掃いている時、家の上を九機編隊の飛行機が飛んできた。見ていると、たちまち空に白い花のように落下傘が散つた。
おばさんは、私たちの無事を祈りながら、箒を持つたまま、何時間も、その日の訓練を見ていたのである。
さて、そのようにして、最初の降下訓練を終えた私は、おばさんから頂いたお守りを身につけて、家を出たのであつた。

唐瀬原への初降下訓練にて、挺進第2聯隊小隊長 大島隆少尉「パレンバン大降下作戦」より

第2聯隊所属の各個人は軍隊経験があるとはいえ、所詮は他部隊からの寄せ集めに過ぎません。
まだ組織も固まっておらず、戦闘能力については未知数です。

幸いにも、前年末から徳永悦太郎中尉以下数十名の空挺隊員が保土ヶ谷精油所へ教育派遣されており、第2聯隊もパレンバン精油所確保に関する技術を得ていました。

この保土ヶ谷精油所での研修には、民間人の格好をした将校数名も参加しています。
彼等が何者なのか、誰一人として知る者はいませんでした。

「私たちは、まず内地の石油工場を見学して、どんな機械があるか、それが壊された時、どうしたら早く修繕できるかということなどを、詳しく勉強した。それから、蘭印から帰つて来た人について、向うの風俗や習慣や気候のことを聞いたり、また地理を調べたり、マレー語を学んだりして作戦の準備を進めたのである。なにしろ少い時間でそういうことを全部やらねばならなかつたので、体がいくつあつても足りない忙しさであつた(同上)」

降下兵1
攻撃訓練中の日本陸軍空挺部隊。手前の隊員は火炎放射器を携行しています。

1月9日、挺進第2聯隊が慌しく出撃準備中の新田原飛行場に、保土ヶ谷の研修に参加していた将校達が現れます。
彼等の正体は、スパイ養成機関である陸軍中野学校の出身者。
パレンバン精油所の安全確保や現地住民の宣撫工作の為、空挺部隊へ派遣された特務隊員だったのです。
軍人らしからぬ長髪の中野出身者は、空挺隊員から「あれで戦争ができるのか?」と不審がられたのだとか。

中野組は全員が落下傘降下を志願しましたが、未経験者ばかりという事で空挺部隊側は降下させないと決定。
予想外の展開に、中野学校の星野鉄一少尉は独断で行動に出ます。
保土谷精油所での演習で顔見知りだったBPM精油所占拠部隊班長の徳永悦太郎中尉に仲介を頼み、甲村連隊長に落下傘での降下を直訴したのでした。
その熱意に負けたのか、甲村少佐は星野少尉のみに降下を認めます。
残る米村中尉らは、後続着陸機に搭乗となりました。

昭和17年1月12日、挺進第2聯隊は宮崎を出發。
福岡の門司で機材の積込をおこない、15日には高岡丸とハーブル丸に乗って出港しました。
編成が完結してから僅か2週間での出動ですから、隊員がお互いの顔と名前を覚えたのも出港後のこと。
「新米部隊」は、こうして船旅の中で団結力を高めていきます。

ドラがなつた。
いよいよ出航である。輸送船ハーブル丸は、静かに動き始めた。
甲板の上では、兵隊たちが、ずらりと並んで、もうこれが国の見おさめになるかもしれないと、移り動く関門港やその背後の山々をむさぼり眺めている。
横浜や神戸のはなやかな出航とはちがつて、さびしいといえばいえたが、兵隊たちは元気一杯である。
戦場へ、戦場へと、心は飛んでいるが、しばし故国と別れるのだと思うと、目の前にあらわれる小さな漁船ひとつさえが、親しい人のように、別れが惜しまれるのである。玄界灘の潮風は、頬をそぐように冷たかつた。岬の燈台も白々として、一層冷たい感じで、近くには、海鳥一羽舞つていなかつた。
沖へ出るにしたがつて冬の海は荒れ、たくさんの白い羊がむれているように、白波がかけまわつていた。
征くは南―。船首はぐつと南を指している。
兵隊たちは甲板からだんだん姿を消し、それぞれ自分の船室へ入つた。船室といつても兵隊と兵器を積んだ船である、かいこ棚のようにしきつた狭い場所に、ゴザが敷いてあるだけだつた。
むつとした油臭い熱気が、機関室の中から流れてくる。しかし、兵隊たちは平気だつた。
「今度は支那さんと違つて、相手は手ごわい米英だ。思い切りのめしてやらなきや」
私は小隊長であつた。
船で初めて部下と対面した。
おかしなようだが、それまで、部下と逢う機会がなかつたのである。十二月八日、大東亜戦争が始まるとすぐ、私は動員され、部隊を編成したり、兵器を整えたりする仕事に当つた。そうして東京へ出張するように命じられたのである。
その留守中に、私の隊は編成され、帰つて来てから、それを引きついだので、船に乗るまで部下の顔も知らなかつたのである。
挺進第二連隊第四中隊の第一小隊、それが私の指揮することになつていた。だから、私は船が沖へ出て少し落ちつくと、部下とあつて身上調査を始めた。
まず、名前顔を見くらべて、よく覚える。それからそれぞれの特技を知るといつたように……。

大村隆少尉


臺湾を経由し、両船は1月28日にカムラン湾へ入港しました。
物資を揚陸した第2聯隊は2月2日にプノンペンヘ到着。現地の第1挺進團主力と合流し、パレンバンへの出撃準備に入ります。

こうして追加装備を受け取ったものの、挺進第1聯隊は依然として行動不能。
初陣へと向かう第2聯隊を、第1聯隊員は無念の思いで見送りました。

2月11日、マレーのスンゲイパタニ飛行場へ移動した第2聯隊は、最終の機材整備、偵察写真を元にした降下計画の立案、そして戦闘訓練を重ねます。
中野学校の星野少尉も、地上でパラシュート降下の基礎を叩き込まれました。

13日、準備を終えた空挺部隊は出撃基地であるカハン飛行場へ移動。
すべての装備を整えて出撃の時間を待ちました。

パレンバン降下作戦6
出撃前、2月11日の午後に開催された「開傘祭」。
パラシュートを積んだ祭壇を前に無事開傘を祈願する挺進第2連隊員。

大空に夢を託した川原正雄軍曹(児湯郡高鍋町 奈良県出身)はパレンバン攻撃に参加した生き残りの一人。
十七年一月三日、出撃命令が下った。
隊長は甲村武雄少佐。十二日高鍋駅を出発。門司港、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て二月十三日、前進基地のマレー半島ペナンへ。
隊員六百人のうち二百十人があす出撃と決まった。
その夜バラックの兵舎で神酒を飲み、食べられるだけ食べた。
のどがカラカラに乾き、胸がつまる。
翌十四日早朝、残留部隊の一人々々と握手、“遺品”を預けた。

毎日新聞「激動四十年」より

宿舎はそのゴム林の真中に建てられてあつたが、戦前はゴム園の苦力監督だの、支配人だの、おもだつた者が住んでいたのであろう。しやれた西洋建築の平家だつた。
「今夜は最後の酒宴だ。みんな飲んで大いに祝つてくれ」と私が言うと
もう部下たちは「はい、小隊長がそう言われるだろうと思つて、もうちやんと準備しておるんであります」
パイナツプルの罐詰だの、ミルク、コーヒー、マンゴー、パパイヤ、ウイスキーと、いろんなものが忽ち山と積まれ、それを取り囲んで祝宴が始まつた。部下たちはにぎやかに歌い、元気に語つた。
だれも、今日を限りの命であるかもしれない。武運がなければ、私だつて戦死するであろう。もとより、みんなはこの落下傘部隊に入つた時から一命を捧げている。今さら覚悟をきめる必要はない。
だが、いよいよ戦友と別れる日が来たかと思うと、何とも言えない気持ちが湧いてくるのである。
私は宴がすむと部下を一人一人自分の部屋に呼んだ。遺書を書かせるためである。
「自分は兵隊になつた時に、父母とも最後の別れをして来ましたから今さら遺書など必要ありません」
そんなに言う兵隊もあつたが、ともかく隊員全部の遺書を、自分の大学ノートに書かせた。それが終つたのはもう夜の十一時すぎであつた。
それから自分一人になり、所持品をきちんと始末して、蚊帳の中にもぐりこんで眠りについた。
四時起床。
まだ真暗である。マレー時間では、夜なかの二時なのだ。
ローソクの灯を外に洩れないようにして、私は拳銃に弾をこめた。安全装置をとればいつでも射てる。手榴弾も安全栓を取れるようにした。準備はできた。
部隊は飛行場へ出発した。そこは闇の中で、ごうごうとプロペラが唸つている。
整備兵は今日の歴史的出発に、一機でも故障があつてはならないと、夜の目も寝ずに手入をしてくれたのだ。
タタタタ!
飛行機の機関銃が火を吹いている。これも大事の場合に備えて試射をしているのである。
日中は焼けつくような暑さなのに、夜明け前の風は身に沁みるほど冷たい。南十字星は椰子の梢にかかり、懐かしい北斗七星も低くゴム林の上にある。宝石をちりばめたような美しい星空であつた。
部隊は集合を終つた。
全員宮城に向つて遥拝する
(大城隆少尉)

【パレンバンへ】

昭和17年2月14日午前7時。
カハン飛行場に終結した挺進第2聯隊員に対し、第1挺進團長の久米精一大佐から
「今や汝等は神兵である。
本作戦は南方蘭印作戦の天王山であると共に
この天王山なる作戦、日本最初の作戦に参加する最も光栄ある部隊である。
必ず目的を完遂しなければならぬ」
との訓示がありました。

日本陸軍初となる空挺作戦は、こうして始まったのです。

パレンバン2

パレンバン3

搭乗
挺進飛行戦隊の一〇〇式輸送機に乗り込む空挺隊員。尾翼には落下傘部隊のマークが描かれています。

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挺進飛行戦隊の1式貨物輸送機(ロ式)に乗り込む空挺隊員。ロ式はトラブルが多発していた為、陸軍空挺部隊では南方作戦中に使用を止めました。
しかし、ロ式を返納する最終フライトでも墜落事故が発生。挺進飛行戦隊のパイロット2名が殉職します。

落下傘を背負った空挺隊員らは次々と輸送機のタラップを上り、午前9時にはカハンを離陸します。
飛行第64戦隊の護衛の下、挺進飛行戦隊3個中隊及び第12獨立輸送中隊の空挺隊輸送機計36機、物資投下の重爆一個戦隊、援護の戦闘機2個戦隊27機の編隊はマラッカ海を越えてスマトラ島の海岸線沿いに南下。
陥落寸前のシンガポールからの黒煙立ち込めるバンカ島ムントク上空で11時前に変針します。

蘭印軍側も日本軍の動きを察知し、ムントクの無電塔からは「日本軍の大編隊来襲す」の放送がスマトラ全土に発されました。

パレンバンに駐屯する連合軍は、蘭印軍(オランダ兵および親オランダ派の現地兵)と英軍を合せた陸水空計約2000名。
飛行場には戦闘機や爆撃機も配備されていました。
空の上で迎撃を受けていれば、護衛があるとはいえ空挺部隊も大損害を蒙っていたことでしょう。
しかし、これらパレンバンの連合軍機は海路接近しつつある日本陸軍第38師団の迎撃に忙殺されていました。
14日も朝から爆撃任務のため出払っており、日本軍空挺部隊の接近時刻には攻撃を終えてパレンバン飛行場へ帰投中。
空挺部隊も眼下を飛ぶホーカー・ハリケーン戦闘機を目撃していますが、相手は敵に気付かないまま雲の中へ姿を消します。

パレンバンの連合軍が対空戦闘配置についた時、洋上爆撃を終えた味方戦闘機が次々と帰還。
そこへ、ほぼ同時に日本軍の編隊が現れます。
連合軍側にとっては余りにもタイミングが悪過ぎました。
敵味方の飛行機が一度に飛来した為、パレンバン飛行場は大混乱に陥ります。

日本軍の戦術を見誤り、航空機での迎撃にも失敗した事は連合軍にとって致命的でした。

パレンバン精油所
上空から見たパレンバン精油所の全景。手前から社宅街、BPM、NKPMの各施設となっています。
中尾中隊の各攻撃隊は、画面右手の湿地帯に降下。
精油所外周に配置されたオランダ軍と激しく交戦しました。
御覧の通り飛行場と精油所はムシ河の両岸に分かれている上、BPMとNKPMの両精油所もムシ河の支流で分断されています。
パレンバンへの攻撃は、複数目標に対する同時降下という困難な作戦。
降下地点は平坦な地形なのですが、部隊間の連携が阻害されることも予想されていました。

かういふ状態では各隊の統一ある戦闘が出来ない。
部隊長殿はこれを顧慮して三人組の戦闘を強調された。
どんな事があつても兎に角三人集まるまでは戦闘をするな。四十七士の三人組の制度で訓練をした。
これが半面において、敵に我が兵の企画行動を全く察知せしめなかつた。
少数の人員によつて五、六十名から二百名の敵に對して戦闘してゐる。
精油所付近の地形は路はアスフアルトだが、それ以外は膝まで没する湿地である。

讀賣新聞掲載「パレンバン攻略落下傘部隊 徳永部隊長談」より 

各目標に対しての降下編成は下記のとおりでした。

目標 パレンバン飛行場およびパレンバン精油所
【挺進飛行隊(降下部隊輸送)】
ロ式輸送機、百式輸送機 各18機

【重爆戦隊(物料投下)】
97式重爆 27機

【青木飛行團隷下(直掩)】
加藤・中尾戦闘機隊 2個戦隊
瀬戸軽爆戦隊 1個戦隊
中浜偵察隊 1個戦隊

【聯隊本部団長機(強行着陸)】
久米挺進団長 稲垣副官 斉藤通訳 通信係上田大尉 荒木カメラマン 第十六軍参謀井戸田中佐

【パレンバン飛行場攻撃隊(落下傘降下)】
飛行場南 聯隊本部 挺進第2聯隊長甲村少佐以下17名
       通信班 小牧中尉以下30名
       第4中隊 中隊長三谷中尉以下97名
       第2中隊第3小隊 水野中尉以下37名 
飛行場西 第2中隊 中隊長広瀬中尉以下60名

【精油所攻撃隊(落下傘降下)】
保土ヶ谷精油所で特殊訓練を積んだ第1中隊が担当。
NKPM精油所 第1中隊第3小隊長谷部少尉以下39名
BPM精油所 第1中隊 中隊長中尾中尉以下60名

【予備戦力】
第2次飛行場降下部隊 第3中隊 中隊長森沢中尉以下96名(第一派には参加せず)


日本軍の編隊は低く垂れ込める雲を潜るようにしてパレンバンへ侵入。
そして11時26分、空挺隊員は一斉に降下を開始します。
高度は通常の半分以下、僅か200mの低空でした。

最初の降下が実戦でのぶっつけ本番となる中野学校の星野少尉も、徳永中尉、中尾中隊長に続いて機体から飛び出しました。

徳永悦太郎中尉
「いざ降下する事になったが、これがなか〃むづかしい。
飛行機は、〇〇キロの速度で飛んでゐるのだから、少し早くてもおそくても、目的地點に降下出来ない。
それに、なるべく團つて降下しなければいけないですからね。
そこで私は、じーつと地上を睨んでゐたが、精油所の煙突の煙で風速を考へ、飛行機の速力と考へ合はせた上、日頃練習の勘で、よしツと思つた瞬間、扉を開けてビユーツとひどい風鳴りがする中を「俺に続け!」とばかり、真ツ先に降下した。第二番目は、全然未経験の工作班員(※星野少尉のこと)であつたが、なか〃剛胆の人で、少しの躊躇もなく降下しましたよ
秦みさを
「どれ位の高さからでございますか?」
徳永中尉
「はつきり云へないが、かなり低い所からですね」
小河原みゑ
「あの、私達が造つた落下傘が、一つでも開かなかつたり、破れたりしやしないかと、私達はとても気がかりでなりませんでしたが」
徳永中尉
「みんな完全に開きました。破けたのも一つもありません。いはゞ大成功したのも、一つは皆さんのお蔭です。みんなが感謝してをりますよ」

「まあ、うれしい」
山田キヨノ
「あの、降下された場所は、どんな所でございましたか」
徳永中尉
「ひどく草深い湿地で、私は土着民の家と家との間に降りて、胸ほども水に浸りましたが、泳ぐやうにして上り、ひどい所は船で助けに行つて、急速に一ケ所に集結しました。敵は、初めは爆撃だと思つて防空壕の中に入つたらしい。それが人間の爆弾だつたものですから、非常に慌てたのですな(笑声)。
向ふには四百人位の兵が居つたらしいが、高射砲でバンバン射ちまくつて来た。その中を我々は、悠々ふはり〃と降下したです」
「パレンバン落下傘部隊の奮戦談を聴く」より、挺進第二聯隊徳永中尉と藤倉航空工業女子工務員との座談会

連合軍兵士は、爆弾ではなく日本兵が降りて来るのを見て驚愕します。
慌てて降下兵を狙い撃ちますが、銃弾はパラシュートに風穴を開けただけでした。空挺隊員は大した損害も受けずに地上へ降り立ちます(降下中にハーネスの脱落で1名戦死)。

日本側にとって誤算だったのは、偵察写真で草原だと思っていた降下地点が深い湿原だったこと。
この湿地帯が最後まで空挺隊員の行く手を阻む事となります。

パラ

パレンバン

パレンバン降下作戦
パレンバンに降下する空挺部隊(陸軍航空本部)

パレンバンの上空は、空挺隊員を降下させる日本軍機、必死に退避を図る連合軍機、何も知らずにパレンバンへやってきたイギリス軍機で混乱の極にありました。
そこへ日本軍の戦闘機が襲いかかり、英軍はハリケーン2機を撃墜されます。組織だった反撃も出来ないまま、連合軍戦闘機はゲルンパン飛行場へ離脱していきました。

いっぽうの日本軍も無傷ではありませんでした。
パレンバン飛行場上空では、物資投下任務にあたっていた飛行第九十八戦隊の輸送機が対空砲に被弾。
エンジンから出火しながらも物資投下を終えた直後、失速して飛行場脇の墓地へと墜落しました。
その際、須藤直彦中尉以下搭乗員7名が戦死しています。

挺進飛行隊でも、空挺隊員を降下させた輸送機1機が被弾します。
この機体はなんとかカハン飛行場まで帰還しようとしました。しかしマラッカ海峡を越えたところで力尽き、センガラン付近のジャングルへ墜落。
操縦していた相澤准尉と安田伍長が戦死します。

降下兵
パラシュート投下されたコンテナから武器を取り出す空挺隊員。
降下時に所持できるのは拳銃と手榴弾くらいでしたから、大型の銃器は別に降ろす必要がありました。

戦闘の経緯については昭和17年2月の讀賣新聞掲載「パレンバン攻略落下傘部隊 徳永部隊長談」で詳細に述べられています。

軍の命令によると、なし得れば石油会社を取れといふ事になつてゐる。
吾々としては、特に若い者としては、なし得られぬ事はない、何とかしてやるといふ事で石油会社の攻撃に立つた譯だ。
この付近一面はジヤングルだ。
パレンバンの石油タンクが見えるこの付近に入つた。すると高射砲が十門近くあったが、胴體にカンカンと音がする。
曳光弾であるから光が見えて綺麗だ。下を見ると、猛烈な湿地で湖のやうに見える。
それを注意しつゝ飛行機が入つてゆく。降下をするのを見る暇もない。
三叉路があつた。これを見た瞬間に私は飛び降りた。
私は傘を開いた瞬間に、須藤中尉機が火を発して落ちるのを見た。あの操縦で見ると、先づ最後まで生きてゐたのでないかと思う。
家と家が非常に密集してをるので、下を見たり残りの者を見てゐる中にもう五メートル位になつた。
家を除ける暇も無く家の上に降りた。道路上に集結せよというので直ぐ集まつた。敵の直ぐ付近だから兵器を取りに行かうとした所が、眼の前に落ちてゐたから兵器(を)全部持つて来た。
十一時四十分、後の方に私の小隊が降りてゐる。
その時は人員の計算をする暇もなく、十一時四十五分直ちに走り道路上に行つた。


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パレンバン上空にて降下中の空挺部隊

広い湿地帯へ分散して降下した空挺隊員たちは、個人で、または少人数のグループに分かれて戦闘を開始します。
投下された武器のコンテナを見付けられず、拳銃と手榴弾だけで戦った兵士も少なくありませんでした。
途中で味方と合流しつつ、湿地帯を抜け出した隊員は目的地を目指します。

輸送機は脚を出し、速力を落としていた。時速二二〇~二五〇粁だ。
ビイ、ビイ、ビイー。ベルが鳴つた。
降下準備だ。いよいよ来たぞ。さつと殺気がみなの顔に走つた。
私は高さをはかつた。高度二五〇米、風の向きと早さを調べた。降下する場所に、焼けつくように目を向けた。
ゴム林の中に風呂敷を広げたような赤土が見える。
「(パレンバン)飛行場はあそこだ。みんないいか」大声で叫ぶと「ハイ、大丈夫です」みんなニツコリ笑つて答えた。
気強い。先を行く部隊長機と中隊長機は、密雲の中から出たかと思うとどんどん下つて行つた。
ビイ、ビイ(降下用意)
ビイ(降下)
目の前をパツト白いものが流れた。降下したのだ。私も戦頭に立つて降下口へ出た。
敵の高射砲と機関銃は物すごく射つてくる。彼方では味方の爆撃機がさかんに爆撃しているのであろう。黒煙がもうもうとあがつていた。
私は真先に飛びおりた。パツと傘はうまく開いて、ポカリと風をはらんだ。飛行機の爆音に慣れていた耳に、今まで聞えなかつた弾丸の炸裂する音が聞えてきた。
シユルシユルと、耳をかすめてゆく機関銃弾もある。
私が降下しているところは、密林の側の沼地であつた。密林の木々の枝にガサガサと傘がひつかかり、降りたと思うと、胸のへんまで水に浸かつてしまつた。
部下たちの目印のために色眼鏡をかけ、口に扇子を咥えて降りたが、それは捨てた。
水から上つて付近を見わたすが、部下は一人もいない。まず敵情を探らねばと思い、双眼鏡で偵察しているうちに、二人、三人と部下が集つてきた。
だれも物料投下機からおろした兵器を持つていない。探したが見つからなかつたのである。
「物料がなくては苦戦する。もう一度探してこい」
すでに友軍は戦闘を開始しているのであろう、銃声が盛んに聞こえてくる。私は、一刻も早く前進したいと思いながらも、兵器がなくては苦戦をするので、気を落ちつけるために、どつかり坐つて煙草をふかした。
しばらくすると部下が帰つてきた。ありがたいことに、兵器は機関銃をはじめ全部そろつていた。ただ私の軍刀は、むりをして箱につめていたので、先が少し曲がつている。
それを抜きはなつてサヤを捨て、先頭に立つた。
軍刀で密林を切りひらきながら進むと、敵の高射砲陣地があつて、いきなりダーン、ダーンと水兵射撃を浴びせてきた。
敵の姿はよくわからないが、高射砲だから横の方から攻撃しようと、密林を縫うようにして行くと、そこには本隊の奥村中尉が部下を指揮していた
(大城隆少尉)

日本兵が散り散りに降りてしまった為、オランダ軍側も敵の位置を把握できなくなっていました。
思わぬ場所から姿を現す日本兵に対し、効果的な反撃などもはや不可能。こうして、パレンバンの各所で激しい遭遇戦が展開されます。

強力な火器と兵力を備えた蘭印軍でしたが、奇襲を駆使する日本軍空挺隊員に苦戦を強いられました。
たった3名で襲撃してきた日本兵を大部隊と勘違いし、戦わずに退却した連合軍部隊まであったそうです。

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パレンバン飛行場での攻防。川南空挺慰霊祭にて

パラシュート降下に続いて久米挺進団長機も強行着陸を図りますが、上空を旋回するうち目標を外れていきます。何とか着陸できたのは、パレンバン飛行場から10km以上離れた湿地帯でした。
団長機の様子については、同乗していた荒木カメラマンの証言が残されています。

いよいよ目的地の上空に來た。
雲を割つて低空姿勢に移つた。忽然と姿を現はした奇襲。機はいよいよ高度を下げる。
こゝで編隊は分進をはじめた。一はパレンバン精油所へ。一はパレンバン飛行場へ。又一は……、それぞれの任務に向つて突き進んでゆく。
地上の地物一つ一つが手にとる様だ。
左前方に飛行場が見え出した。私は咄嗟にカメラを向ける。フアインダーを通して高射砲、高射機関砲の閃光がパツパツと鮮明に見える。何の恐怖も無い。
夢中でこの一瞬の記録を残さんことばかり。
あゝせめて二百呎アイモが欲しい。いまの百呎を一分間で撮影修了すれば萬事休すである。次のフイルムを入れかへてゐる間に戦闘が終つてしまふ。
はるか彼方に、一團の主力が、海月の様に降下してゐるではないか。
ぐつと機體が降下姿勢をとつた。力一杯縛帯にしがみついてゐる。グワツと緑の平坦地らしいものが迫つて來た。
降下ツ!
とたんに、ガーンと大きな衝撃が來て頭から冷たいものをかぶつた様に感じた。
「皆無事か」
「全員、異状は無いか」
部隊長が声をからす。全員無事だ。一人として微傷だも負ふてない。
「野崎、御苦労だつた」
太い力強い声と共に、軍刀をしつかと握つた部隊長の姿は機外に消えた。私も續いて飛び出した。
着陸した場所は?
一面の湿地帯である。丈なす萓が密生して先に降りた部隊長以下の姿もかくれてしまふ許り。ゆうに一丈以上もある。

陸軍報道班員映画班 荒木秀三郎「落下傘部隊急襲記」より

水没した機体から脱出した久米団長、井戸田参謀、荒木カメラマン、中野学校要員、野崎飛行士らは、敵と交戦しつつ甲村連隊長との合流地点であるパレンバン飛行場を目指しました。

この湿地帯を脱出する間に、アイモとフイルムを不覚にも水にぬらし、爾後の撮影不可能となつたことは遺憾の極みです。
これも天なり命なりと諦めてゐる次第です。カメラマンがキヤメラを取られては、武器の無い兵隊です。
然し、私はすぐに、この戦闘に参加出来た只一人の報道部員といふことを思ひ出しました。
文は拙くとも、字は下手であつても、この目で、この耳で、直接に見聞きしたことを、お送りするのが私の義務だと考へました。発表の折は加筆削除のお手数を御願ひします。

荒木報道班員から陸軍航空本部西原少佐にあてた手紙より

胸までつかる湿地帯、しかも密生した藪の中を掻き分けながら、久米団長らは味方をさがして進みました。
余りに深い藪のため、井戸田参謀が途中ではぐれてしまいます。完全に道を見失った彼は、丸一昼夜ジャングルを彷徨する派目になりました。

われわれの強行着陸した場所は、一面の湿地帯で、水深は一米二三十はあつただらう。
濁つた水は胸の上まっで來るし、水底は泥沼の様に靴が、ぐすつぐすつとめり込んでゆく。一歩一歩、足元に注意しながら、お互ひに連絡をとつて進まうとするが、行動は著しく制限をうける。
一丈以上もある萓が針の様に密生して、ともすると前の人を見失ひさうになる。こゝで一行とはぐれては、敵地の真只中だから、どうなるか位は判りきつてゐる。
前方のみに気をつけてゐると、いつの間にか、足の方が留守になつてのめらうとする。足元に氣を取られてゐる中に前の人はもう大分進んで、僅かにガサ、ガサツと萓を分ける音だけが残つてゐる。
「荒木、大丈夫か」
先頭を行く部隊長が、大きな声で叫んで下さつた。
「大丈夫です」
私も同じやうに大声で怒鳴り返した。
「荒木、キヤメラを水につけたら駄目だぞツ」
また違ふ声が聞えた。
「ハイツ」
幸ひにも水はだんだんと浅くなつて腰のあたりまでになつた。しかし、水底の泥は却つて深まつて來た。
その上に萓の根が足にからみついて一層歩き難い。
バサツ!
今、部隊長が注意して下さつた許りぢやないか。私は泥に足をとられて、不覚にもつんのめつてしまつた。
命よりも大切な筈のキヤメラもフイルムも完全に水浸しだ。素早く起きたつもりが、萬事休す。
私は實際大声をあげて泣きたかつた。
「馬鹿野郎!お前は何のためにこゝまで來たのだ。不注意なばつかりに最後のドタン場で……」
私は、私自身を叱りつけて見たが、そんな事でどうにもならない。水にぬれたアイモをぢいつと凝視めるより外に仕方がなかつた。
「どうした荒木、躓いたのか」
すぐ前の上田大尉が立ち上つてこちらを見てゐる。
「済みません。ぬらしちやいました」
と私はアイモを前につき出した。
「怪我はなかつたか。怪我さへなければそれで良い。心配するな、ほんとに怪我をしなかつたか」
部隊長がわざ〃立止つて親切にも声をかけて下さつた。
「済まない、済まない、みんなに済まない。銃後の人にも済まない」
一時は途方にくれたが、諦めるより外はなかつた。そして又一行の後に續いたのであつた。
われわれ部隊本部の一行は、パレンバン飛行場に向つて進んでゐる。
小銃の音、機関銃の音、それにまじつて大砲の音さへ聞えて來るが、われわれはまだ部隊の主力と連絡がとれない。丈なす萓に妨げられて右も左も皆目見えないのである。
「盛んにやつとるのう」
たゞ一言、部隊長の口から洩れた。しかしいまだに部隊の主力と連絡のとれてゐないその胸中はどうだらう。私にはそれがはつきりと判る気がする。

荒木報道班員


【パレンバン飛行場の戦い】

パレンバン飛行場攻撃部隊は、飛行場の周辺地域に降下しました。
「攻撃部隊はパレンバン飛行場に直接降下・占拠した」などという戦記物も見かけますが、飛行場へ増援部隊が降下したのは戦闘終了の翌日です。おそらくメナド降下作戦と混同したのでしょう。

甲村連隊長率いるパレンバン飛行場南側攻撃隊は、18機に分乗した180名。続いて、物資投下の第98戦隊の重爆15機が続きます。
飛行場西側に降下したのは、広瀬中尉率いる6機に分乗した60名。続いて重爆3機が物資を投下しました。
パレンバン飛行場の高射砲陣地は、日本軍機に対して激しく応戦します。

飛行場攻撃隊主力は森の中へ降下してしまい、お互いの連携がとれなくなりました。
甲村連隊長が掌握できたのは第4中隊のみ。既に地上での戦闘は始まっていました。最初に交戦したのは、機体ドア故障で降下が遅れた第4中隊の奥本小隊。パレンバン市郊外の街道に降下した彼等は、通りかかった敵装甲車部隊と遭遇したのです。
奥本小隊から敵が接近中と知らされた甲村連隊長ですが、何時間経っても通信班と水野小隊の67名は姿を現しません。
甲村連隊長は部隊集結を諦め、第4中隊長の三谷中尉に飛行場へ向かうよう命じます。
ジャングルを抜け出した第4中隊は敵の大部隊と遭遇し、激しく交戦。十数名の死傷者を出しながら第2中隊との合流をはかります。

パレンバン降下作戦3
密生した湿地帯の中を進む空挺隊員。

飛行場西側を攻撃する第2中隊60名が降下した場所は、背丈ほどに生い茂った草原の中でした。
ブッシュを掻き分けながら飛行場へ向かった彼等は、周囲に配置されていた高射砲陣地群と遭遇。戦闘の結果、蒲生中尉以下7名が戦死しました。
広瀬中隊長が集めた第2中隊の10数名は飛行場附近に到着、そこで第4中隊と合流します。

両中隊がパレンバン飛行場へ突入しようとした時、3名の連合軍将校が白いハンカチを振るのが見えました。
空挺部隊側も水野、奥本、和田中尉が進み出て、交渉が開始されます。

そのうちに事務所内から一人の英人将校がひよつこり顔を出して手招きするではないか。
それを認めた奥本隊長は、てつきり降伏の相談だと思つた。不思議に敵から一發も射たない。
「よしツ、俺が行つて來るから、合圖をするまで、射つちやいかんぞ!」
と云ひ置いて、鞘を拂つた日本刀をしつかと右手に握りしめ、悠然と事務所に近づいて行つた。緊張の一瞬である。
「無條件で降伏するのか」
英語は苦手であつた奥本隊長は、事務所まで歩く前にこの言葉を考へ考へ行つたのである。
「お前達こそ降伏したらどうだ。お前達は人数も尠ない。いくら頑張つても所詮は負けるんだ。早く手を挙げて捕虜になつたらどうだ」
と英人将校の答だ。
これを聞いた奥本隊長は
「何を云ふか。お前達こそ降参せい。シンガポールも陥ちてしまつた今、何を云つとるんだ。降参するなら今の中だ」
と捻じ込んだが、埒があかない。
「お前達が降参しろ!」
「いや、お前達こそ降参しろ」
痺を切らした奥本隊長は真赤な顔をして
「よし、それでは又攻撃だ。だが戦争は正々堂々で無ければならぬ。俺は又自分の陣地へ帰るから、この刀をかう云ふに振る。それまでは休戦だぞ。但し、卑怯に射つて來るならそれでもよろしい」
と云ひ切ると同時に、くるりつと背を向けてノツシ、ノツシと帰つて來た。しかもたゞの一回も振返りもせず、味方の陣地へ帰りつくと、大きく刀を頭の上で三四回振り廻した。
同時に、双方から銃撃が起つたのである。


こうして一度目の交渉は決裂します。
二度目の交渉も「戦力の少ない日本が降伏しろ」「援軍の船団がムシ河を溯上中だ。そちらこそ降伏しろ」と平行線を辿り、イギリス軍将校は三度目の打ち合わせのため飛行場へと戻っていきました。
しかし、次の交渉はなかなか始まりません。イギリス軍が戻ってこないのを不審に思った空挺隊員らがよく見ると、飛行場の敵は車列を組んで脱出の真っ最中。
敵は交渉で時間を稼ぎながら、ゲルンパン飛行場への脱出準備を整えていたのです。
日没まで睨み合っていた飛行場守備隊数十名も、空挺部隊が突入する前に撤退していきました。
19時、機関銃の猛射を加えながら空挺部隊は突撃を開始。飛行場の占領に成功しました。

「貴様の語学で、よくそこまで話が出來たのう。下手な英語で、身振り手振りで談判しとつた貴様の様子が目に見えるやうだぞ、アハ……」
部隊長は大きな声で笑つた。
傍で聞いてゐた私も、つい釣り込まれて笑つてしまつた。

荒木報道班員

第4中隊と別れた甲村連隊長らは、分散降下した部下を掌握しつつ飛行場を目指しました。
パレンバン飛行場を占拠した第2・第4中隊と甲村連隊長が合流したのは、21時を過ぎた頃のことです。通信班は投下された無線機を回収したものの、着地の衝撃で全てが故障。翌日10時過ぎに第15獨立飛行隊の偵察機が着陸するまで、後方基地はおろか精油所攻撃隊との通信も杜絶状態となってしまいます。

パレンバン降下作戦
パレンバンのBPM精油所を巡る戦闘。奥に見えるのがNKPM精油所。川南空挺慰霊祭にて

【BPM精油所の戦い】

飛行場攻撃隊が苦戦していた頃、BPM精油所へ降下した60名も激戦を展開していました。
中尾中隊長らは、精油所南側に投下された機関銃を回収。湿地帯を抜けて精油所への接近をはかりますが、精油所の外周に配置された敵トーチカは激しく応戦します。銃撃戦の影響か、貴重な石油タンクまで炎上し始めました。
一進一退の中、古小路小隊の掩護射撃を受けた徳永中尉の第1小隊が前進を開始。
徳永小隊と古小路小隊は、13時に精油所西南側の社宅街へと突入しました。社宅街でも連合軍守備隊が立ちふさがり、戦況は膠着状態に陥ります。
正面からの突入が無理だと判断した徳永中尉は、側面へ迂回して敵のトーチカを掃討していきました。

道路の角々にはトーチカがある。ここに入る時にトーチカから非常に射撃を受けた。
所がオランダ人といふ奴は○○○(自主規制です)、必ずトーチカの正面しか銃座をおいていない。
横からトーチカを手榴弾を発火させて投げて歩いた。撃つた瞬間に中が破裂した。
それから○○名位の人員で社宅に向かつて前進し、先づ事務所を取つた。
それから技師その他重要書類を没収して、中を清掃した。
社宅を前進している中に、大體一個小隊位の敵が逐次やつて来た。そこでこの付近を攻撃しながら前進した。何しろ社宅で敵がよく知つてゐる上に、社宅の家の長さが短いものだから、覗くと眼の前で撃たれて死んだといふのが非常に多い。


パレンバン
BPM精油所に掲げられた日章旗

14時頃に精油所を占拠した徳永中尉は、勝又曹長らに日章旗を掲げるよう命令します。トッピングへ登って行く日本兵を阻止する為、オランダ兵は猛射を加えました。
勝又曹長は脚に重傷を負ったものの、日章旗の掲揚には成功。
これによって日本軍の士気は上がりました。

この徳永中尉と一緒に無事地上に降り立った星野少尉は、マレー語を駆使して自分達が敵ではない事を精油所職員に伝え、日本軍への協力を呼びかけます。
精油所の技術者らは、突然始まった戦闘にパニック状態。しかし施設を急停止する事もできず、銃撃戦の中を右往左往していました。

これはいかぬと戦死者を社宅の中に安置して、負傷者を連れて前進を決心した。
この道路を下りこの附近に(中尾)中隊長と合し、このトツピングの所へ行つた。
所が彼等はここで(※日章旗を掲げた時点で)戦争が済んだものと思ひ、マレー人にコーヒーを貰つたり煙草なんか吸つて遊んでゐる。
それで「俺達は戦争しに来たんだ」、「これから戦争か」、「さうだ」といふ譯である。
中の精油所を見たら非常に完全で「お前達は破壊装置してゐるか」、「してをらん」、「それぢや安心だ」

空挺部隊は19時から突入を開始しますが、蘭印軍側の逆襲で撃退されます。
それから明け方まで、BPM精油所を巡る戦闘は一晩中続きました。

少数と見て逐次敵がやつて来るからそこで攻勢に転じ兵営の線まで敵を攻撃した。
この際戦死者一名を担架を提げながら敵を追払い又防空壕の中に入つたが、夜暗くなるに連れて又やつて来た。
これを攻撃してゐる間に敵は迫撃砲を撃ち出した。
それがこの附近のパイプに當りパイプから油がもつたのが、次の迫撃砲で火を吹き出して猛烈な煙が揚がる。
十八時頃から一寸顔を出して見ると、大體防空壕の周りを二百位の兵が取巻いてゐる。
所が彼等は統一ある戦闘をしてをらない。前の方を撃ってゐる時には後ろは決して撃たない。
安心して顔を出す事が出来る。
然し夜暗くなると同時にどんどん近寄つて来る。大きな聲で盛んに降参しろといつてゐる。
そこでむかつき何だこの野郎といふ譯で、又兵隊を一緒に連れて手榴弾を投げた。向ふも投げる。
大體こちらが二発投げると向ふは十発投げる。
九時頃から夜明の午前の三時頃まで手榴弾戦を繰返した。
所が防空壕に入ってゐたからこの戦闘では死傷者はない。
兵隊は前々日から飯を食つてゐないし水がなくなつた。
重油がこの前に浮んでゐたが、その重油の水を浄水器に入れて飲んだ。


翌朝4時頃には敵の銃火が衰え、対岸へと撤退し始めます。
午前8時、中尾中隊主力がBPM精油所へ突入して戦闘は終結しました。

パレンバン降下作戦5
分散降下した隊員らは、地上で次々と集結して行きます。後方は鹵獲したオランダ軍の大砲。

【NKPM精油所の戦い】

ムシ河の支流を挟んだ対岸では、NKPM精油所占拠部隊39名が苦境に陥っていました。

NKPMは湖のような湿地帯に囲まれており、長谷部隊はそこへ降下したのです。
水深は1~3mもあって身動きがとれず、投下された武器も大部分が水没。
しかも向う岸の精油所へ渡る唯一の道路には、連合軍の守備隊が陣取っていました。
何とか道路へ這い上がった長谷部小隊ですが、水上の一本道ゆえ身を隠す場所がありません。じりじりと匍匐前進を試みるも、敵の猛射がそれを阻みます。
更には、敵状を偵察していた長谷部小隊長が被弾戦死。指揮官を失ったことでNKPM攻撃隊の作戦は完全に頓挫しました。
双方が睨み合いを続ける中、明け方になって(「降下当日の夕刻」との説もあり)精油所のタンクが突如として爆発炎上。
対岸へと撤退する連合軍が、日本軍へ渡すまいと爆破したのでした。
これにより石油施設の80%が焼失してしまい、NKPM無傷占拠は失敗に終わります。

現代の日本で喧伝されるのは「パレンバン降下作戦は大成功」「ほぼ無傷で施設を占拠」という内容ばかりで、NKPM攻撃隊の苦戦はあまり知られていません。

火災がおさまった両精油所には、途方に暮れるオランダ人技師だけが残されていました。

【パレンバン制圧】

ひと晩中続いた戦闘の後、連合軍はパレンバンを放棄します。
飛行場を占拠した久米団長らは、連絡杜絶状態となった対岸の精油所占拠部隊を案じていました。パレンバンを目指して航行中の陸軍部隊も、降下した空挺部隊からの連絡が一向に入らない事で不安を募らせます。
飛行場には翌15日正午から友軍機が着陸し始め、偵察機の無線機を利用して後方との通信が回復。また、航空機による負傷者のピストン輸送も開始されました。
精油所上空を飛んできたパイロットの報告により、中尾中隊の戦闘が終結していることも判明しています。

十四日九時、我落下傘部隊がパレンバン飛行場に向つて○○基地を飛び立つた旨の入電があつたが、其の夕方には何か快方が無ければならない筈だが何も無い。
「無事到着」の入電のあつたのは、あの陰鬱なる気分の去つた十五日の二十時頃だつた。
此の通知の飛来するのを一時間千秋の思ひで待つて居たのである。と謂ふのは、若し飛行場が甘くとれなければ、勢ひ我々の上陸も困難が豫想せらるゝからである。
此の通信の遅くなつたのは無理からぬことで、落下傘の飛行場付近に着陸したのは十一時頃であつたが、周邊の〇〇〇〇に〇〇に降下したので、集結の終つたのは夕方であつたと云ふ。
場所は叢林地帯であり、剰へ湿地帯の為飛行服を着て胸迄ぬかるみに這入り込み、隊長は木に引懸る等、又は僚友相互に「オーイ」と呼んで「オーイ」と返事があつても泥田の様な湿地帯のぬかるみで声ばかり聞えても姿は見えぬ。三々五々集結するのにも言語に絶する困難があつたと云ふ。
十五日には先遣隊の一部が○○河々口の〇〇〇島に上陸成功の電報が十六日に到着したので、これでやれ〃一安堵する。
先遣隊の主力亦○○河口より〇〇に移乗し、敵爆撃機の掃射を冒しつゝ河口より〇〇粁のパレンバン河港に上陸成功したのは十六日であつた。其處に至る手前三十粁の要地には守備兵営や砲塁等の設備があつたが、既に我軍の大勢に抗し難く當日したのである。

陸軍獣医中佐 佐藤亮太郎「我が軍馬のスマトラ南進記」より

13時には増援の第3中隊96名が飛行場へ降下し、直ちに足立中尉以下3名の斥候をパレンバン市街地へ派遣。
市内の発電所と給水施設を確保した足立中尉らですが、既に連合軍の姿はありませんでした。残る第3中隊主力が前進を開始すると共に、第2、第4中隊も鹵獲したトラックに分乗して後に続きます。
こうしてパレンバン住民を巻き込む市街戦は回避され、無血占領に成功。18時には第3中隊の古土井少尉らが対岸へと渡り、精油所占拠部隊との連絡も回復しました。
20時過ぎにはムシ河を溯上して来た歩兵第229聯隊がパレンバンへ上陸し、空挺部隊と合流しています。

ムシ河々口から十粁も進行した頃からパレンバン方向には二箇所黒煙濛々として白中の天を焦がして居るのが見られた。
目的とした油が全部やられたかな等と心配し乍ら遡江したのであつたが、十七日の十五時頃世界に名のあるパレンバン製油所の前を通過したのであるが、タンクの諸所からは凄い火焔と共に黒煙を吹き上げて居たのである。
其の後も敵機の襲来により再び燃え上がったが、全く煙の無くなつたのは爪哇(ジャワ)の落ちた三月以降であつた。輸送船内の馬匹が揚陸したのは二月二十一日から二十五日迄の間で、特に遡江間は両岸の叢林の為船内の通風は全く無い。氷も残り尠なくなつて居るので一日も一時間も早く揚陸を渇望して居たのであるが、パレンバン河港には〇―○隻の輸送船が投錨することが出来るのみで、投錨した船の全部を揚陸する迄は次の船は揚陸することが出来無いので、意外の日数を要したのである。

陸軍獣医中佐 佐藤亮太郎「我が軍馬のスマトラ南進記」より

尚、まる一昼夜ジャングルをさ迷っていた井戸田参謀は、15日の昼前に飛行場へ辿り着きました。

パレンバン飛行場
15日、占拠した飛行場へ降下する増援の第3中隊。

中野学校の星野少尉は精油所へ潜入し、爆発物が無いことを確認。続いて後着の同僚たちと合流し、宣撫工作を展開します。
戦闘を恐れてジャングルに逃げ込んでいた地域住民は、連合軍の撤退を知ると同時にオランダ人住宅へ殺到。制止しようとする日本軍を押しのけ、手当たり次第に略奪します。威嚇射撃で追い散らそうとするも、「これまで受けた屈辱の鬱憤晴らしだ!何が悪い!」と抗弁される始末でした。

中野学校の特務隊員らは「協力する者には危害を加えない」「拾った武器は届出るように」と書かれたポスターを貼りまくり、その旨を地域の住民に説いて回りました。
もうひとつ役立ったのが、インドネシア各地に古くからある「白い馬に乗った天使が空から助けに来る」という伝承。
人々は、この予言を日本軍のパラシュート部隊のことだと思い込みました。
これらのお蔭で、突如空から降りて来た外国軍隊に対する住民の態度は友好的なものとなります。宣撫工作に成功したことで、無用な犠牲も出さずに済みました。
僅か数名ながら、中野学校の果たした役割は大きなものがあったのです。

ひととおりの宣撫活動を終えた星野少尉らは、別任務のためにパレンバンを去っていきました。
中野学校と空挺部隊は、これから3年後に再び協同作戦を行う事となります。

パレンバン降下作戦4
占拠した精油所で打ち合わせをする陸軍落下傘部隊員。暑さのためか軽装ですが、降下ヘルメットを被ったままの隊員もいます。

パレンバンを占拠した空挺部隊は、戦死者と行方不明者の捜索を始めました。
戦死者を荼毘に付したあとの20日には、現地で臨時慰霊祭を開催します。残る行方不明者は、輸送機から降下したまま消息を絶った上野軍曹と鴨志田曹長の2名のみ。
長い大陸勤務で中国語が話せる徳永中尉は、現地の華僑に日本兵戦死者のことを訊ねて廻ります。
23日、パレンバン市街で子供達と遊んでいた中尉に、ある中国人少年が「日本兵が墓に埋められているよ」と教えてくれました。
BPM精油所で運転手をしていたその子の親に案内させたところ、墓地に埋られた鴨志田曹長の遺体が見つかります。
鴨志田曹長はひとりで敵と交戦して重傷を負い、捕われる直前に拳銃で自決。
連合軍に遺体の処理を命じられた住民は、曹長を墓地に埋葬していたのでした。

残る行方不明者は上野軍曹ただ一人。
しかし、その後の捜索でも軍曹の發見には至りませんでした。

パレンバン作戦における空挺部隊の戦死者は下記の通り(※死因欄等は省略します)。

挺進飛行隊
・第1中隊
相澤茂男准尉(28)
安田秀司伍長(25)

挺進第2聯隊
・本部
椎屋鉄男准尉(26)
菊地喜代治曹長(27)
權代良二軍曹(25)

・通信隊
長谷川猛曹長(25)
佐藤大八郎軍曹(24)
杉浦榮二兵長(25)
山本繁雄兵長(21)
野村俊雄兵長(23)
岩土武兵長(23) ※名簿上の誤植により「岩上」兵長となっていたのをそのまま転記してしまいました。このたび関係者様のご指摘を受けて、御本名への訂正をしております。

・第1中隊
長谷部正義中尉(26)
曾根誠二曹長(26)
古川繁男軍曹(23)
今野六郎軍曹(24)
堀田義正兵長(23)
戸澤文夫兵長(23)

・第2中隊
蒲生淸治大尉(26)
行田佐久司曹長(27)
水田貞雄曹長(24)
佐々木義貞曹長(25)
日高繁美軍曹(23)
松岸信夫軍曹(23)
増淵輝夫兵長(24)
福澤弓雄兵長(24)
山本唯雄曹長(26)

・第4中隊
谷口直行曹長(25)
蓮佛基邦曹長(24)
淸水宗一曹長(25)
鴨志田耕作曹長(24)
岩満昇三伍長(24)
山田彦太郎伍長(24)
靑木茂伍長(24)
穂登原久登伍長(25)
守田久雄伍長(24)
和田孝吉兵長(23)
對島周介兵長(23)
馬場惟義兵長(25)
山中正明兵長(23)
渡邊淳兵長(23)
第一挺進團司令部「別冊 昭和十七年 自一月 至六月 戦没者名簿(昭和17年8月9日作成)」より抜粋 

占拠後のパレンバンでも、被害が続出しました。まずは蘭印軍兵舎に仕掛けられていたブービートラップで1名が爆死(氏名不詳)。また、不慣れなバイクを運転していた森山軍曹が貨物自動車と衝突、片脚切断の重傷を負って内地送還されています。
敵の営倉からは、準備空爆に参加して撃墜され、蘭印軍の捕虜となっていた日本軍パイロットが救出されました。このパイロットは後に婦女暴行事件を起こして軍法会議にかけられ、営倉へ逆戻りしたそうです。

第2聯隊は進出してきた第38師團へ引き継ぎをおこない、シンガポールを経由してプノンペンへ帰還しました。

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パレンバンに設置された記念碑

「われわれは落下傘部隊をもつてゐた!
米国において考へられ、ソ聯において組織され、ドイツにおいて実戦化されたこの空の突撃兵
最も近代化された落下傘部隊を、われわれは誰も知らぬうちに持つてゐたのだ!
しかも海軍独自の落下傘部隊を持つのは、わが国が初めてでさへある
皇軍が蘭印セレベスのメナドに展開した、わが海軍の特殊空中部隊の活躍
スマトラのパレンバンに輝かしい降下戦術を駆使した、陸軍落下傘部隊の活躍は
米英の予想しなかつた奇襲作戦であつただけに、その狼狽ぶりは想像に余りあるが
われわれは落下傘部隊の武勲を讃へるとともに、陰でにじむ皇軍独特の苦心談を聴かう」
大阪毎日新聞 昭和17年2月16日版より

パレンバン降下作戦の成功は大々的に報道されます。
この時から、日本軍の落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれるようになりました。


国立病院4
唐瀬原に残る第2挺進団挺進第3連隊兵舎の給水塔。第2挺進團が発足したのは、第1挺進團が帰国した昭和17年6月のことです。

【空の神兵】

華々しいデビューを飾った落下傘部隊。
空の神兵を讃えるため、国内でも様々な記念行事が開催されました。
5月8日には読売落下傘塔での各種降下訓練実演、10日には日比谷公会堂での落下傘解説、戦談講話や、演劇「落下傘」、映画「落下傘部隊」の上映や「(陸・海軍)落下傘部隊の歌」の発表が行われ、銀座では17日まで街頭写真展が開催されています。

この頃、落下傘部隊の歌が数多く作られました。

藍より青き 大空に 大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

の歌詞で有名な「空の神兵(梅木三郎作詞 高木東六作曲)」は、現在も歌い継がれていますね。
他には「萬朶の桜散る姿こそ我等が降下の姿なれ」の「陸軍落下傘部隊の歌(山田耕筰作曲)」などが作られました。
この山田耕筰、藤田嗣治、火野葦平、坪田譲治ら一行が、体験入隊のため新田原を訪れたこともあります。

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地元の宮崎で公開された時の広告

6月に帰国した第1挺進団には各方面からの講演依頼が殺到。
「訓練に支障を来す」としてコレを拒んできた久米団長も、あまりの人気ぶりに対応せざるを得なくなります。
「広報担当」として選ばれたのが、奥本中尉と徳永中尉でした。
東京日日新聞(現在の毎日新聞)宮崎支社の仲介により、二人は県内各地で講演会を開催。更には新聞雑誌の取材対応にもあたりました。
上記の毎日新聞記者は「報道機関が戦争に加担してしまった」と回顧録で悔やんでいますが、当時はそういう時代だったので仕方ありません。他の新聞社でも同じことをやっていましたし。

陸軍落下傘部隊徳永悦太郎中尉
「この辺で、あなた方が落下傘を作る苦心を伺ひたいですね」
藤倉航空工業女子工務員小河原みゑ
「私達は一日置き位に、徹夜をいたしました」
若林わか
「何しろ、間に合はないやうなことがあつては申訳ないとお互ひに激ましあつて、作りました」
徳永中尉
「實に御苦労さんですね。どんなところに苦心しますか」
小河原
「やはり、自分達の作つたものが、破けでもしたらどうしよう。ミシンの糸が切れでもしたら兵隊さんに申訳がないといふ心配が、一つ胴の上に、いつも心から離れません。神様や佛様の前に立つときも、先づ第一にそのことを御祈りします」
徳永中尉
「なるほどね。前線にゐる落下傘部隊がきいたら喜ぶな」
諏訪村すぎ
「それから、しつけをする針で、よく指先きを刺して血を出すことがありますが、少しでも布に血の痕がつくと兵隊さんが厭がられると思ひまして、丁寧に斑點を抜くやうにして居ります」
徳永中尉
「そこまで気を使つてくれるのは、有難いですね」
記者
「落下傘部隊が成功したというふニユースを聞いたとき、どういふ氣持ちでした」
小河原
「私は十六日の朝の新聞で見ました。本當に声を立てて萬歳を叫んでしまひました。とても嬉しくて!」
若林
「工場では、作業中でしたが、ニユースをラジオで聞かしてくれました時は、みんな思はず萬歳を叫びました」
秦みさを
「早速全員が集つて萬歳を唱へましたが、所長さんも非常に喜ばれて「君達の努力が、いまこそはつきりとお國の為めに役立つたのだ」と、おほめ下さいましたが、私達もなんとも云へない嬉しさで、みんな涙ぐんで居りました。
なんだか、仕事に一層張り合ひが出まして、とても働くことが楽しみでございます」

「パレンバン落下傘部隊の奮戦談を聴く 落下傘を作る娘さん達が殊勲の徳永中尉を囲んで」より


これだけではなく、「落下傘部隊肚途編・戦闘編」「加藤隼戦闘隊」といった空挺部隊を描いた映画も制作されています。
最も有名なのが「空の神兵」でしょうか。

映画「空の神兵」のロケハンが唐瀬原飛行場でおこなわれたのは昭和17年7月18日のこと。川南町史では「昭和19年」と誤植されていますけど。
あの映画のラスト、機上からの空撮や降下後のシーンに写っているのが唐瀬原の塩付降下場。
短い場面ですが、当時の川南の様子を窺い知ることが出来る貴重な映像です。
機密の問題からか、撮影地が川南であることは一切宣伝されていません。

また「加藤隼戦闘隊」のパレンバン降下シーンも唐瀬原で撮影されました。こちらも撮影地の公表はナシ。
ただ、唐瀬陸軍病院が映画に参加する第2挺進団(挺進第3・第4聯隊)から詳細なアンケートを取っており
撮影に臨む空挺隊員らの心境を知る事ができます。

昭和17年10月には、川南の常盤座でも「空の神兵」が上映されました。
映画が終って常盤座を出ると、目の前で本物の「空の神兵」が空を舞っていた訳です。
なかなかシュールな光景ですね。

目を皿のようにして「空の神兵」の映像を確認したのですが、残念ながら川南給水塔は写っていませんでした。

しかし、陸軍落下傘部隊の勝ち戦はパレンバンが最初で最後となります。
ミッドウェーでの敗北を経て戦局は次第に悪化。「切り札」である空挺部隊の戦機は、なかなか訪れなかったのです。

(第四部へ続く)
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