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B29及び日本陸軍一式戦闘機墜落事故慰霊碑(宮崎県西臼杵郡高千穂町)

Category : 西臼杵郡の戦跡 |

村にも、いよいよ米軍が来て、男はみんな去勢され女はみんな強姦され、逃げる者は、アメリカのとてつもない大きな犬が咬み殺すげなとの噂が流れ始めたのもその頃であった。
とにかく、戦争は終わった。
村には一時期の平和が甦えったかのような静かなムードが漂った。
秀国は、また、今までのように畑に鍬をふるう毎日であった。あの不気味な「B-二九」の爆音も聞かなくなって久しくなり、なつかしい気さえ起こることもあった。
日本が敗けてからというものは、雨の日が多かった。ほとんど降ったり止んだりの日が続いていた。
秀国は、その時、近くの原野でいつものように牛の草を刈っていた。
巽は、農作業に使った牛の足を近くの小川できれいに洗っていた。

霧の深い雨模様の日の八時過ぎだった。
突然、祖母山の方向から、物凄い音が聞こえた。
巨大な細長い火の玉が、雨模様の濃い霧の中で黒岳(一五七八メートル)の方向に飛んだような気がした。
何が起こったか想像することは出来なかったが、何かが、それも巨大な何かが山にぶつかったことだけは想像できた。
その音は秀国も畑で聞いた。やはり同じように思っていた。
深い霧でどの方向かを確認することは出来なかったが、確かに祖母山の方向からであった。
それは、今までに聞いたこともないような山鳴りであった。

平和祈念碑建設実行委員会「平和の鐘」より

祈念碑
高千穂に墜落、殉職した日米両軍パイロットの慰霊碑。高千穂町三秀台にて

神話の里として知られる宮崎県西臼杵郡高千穂町。
古い伝承が多々残されている山深い地域でありながら観光施設や道路は整備されているので(台風災害で高千穂鉄道は廃線となりましたが)、宮崎・熊本両県から多数の観光客が訪れる町でもあります。

平和に見えるこの高千穂も、戦時中は米軍の九州上陸作戦とは無縁ではありませんでした。
宮崎に上陸した米軍が延岡から熊本県へ突破する場合、高千穂を通過する可能性もあると考えられていたからです。
※米軍のオリンピック作戦計画では、宮崎・鹿児島両県の占領のみとなっています。高千穂どころか日向市の手前で侵攻を停止する豫定でした。

祖母山系
夜明けの高千穂町

昭和20年になると、高千穂上空を九州北部へ向けて通過していくB29爆撃機と護衛戦闘機群が頻繁に目撃されるようになりました。
本土決戦に備えて郷土防衛の民間義勇部隊も組織されますが、それ以外は空襲を受ける訳でもなく、戦時下の高千穂では物資不足に喘ぎつつも平穏な日々が続きます。

【昭和20年8月7日】

戦争末期の昭和20年8月7日、17時半。
佐賀県にある陸軍目達原飛行場から一式戦闘機(通称“隼”)が次々と離陸して行きました。
これらの隼は、第6航空軍の飛行第65戦隊に所属する機体。第65戦隊は天號作戦で米軍との死闘を演じた後、知覧から目達原へと移動して来たばかりでした。
この夜、同戦隊は目達原から壱岐までの洋上往復航法訓練を実施します。しかし、最初に離陸した徳義仁軍曹搭乗機はいつまで経っても目達原飛行場へ戻ってきません。
1週間後の8月15日に敗戦を迎えた為、満足に捜索活動もできないまま戦隊は解散します。
「飛行第六十五戦隊所属の徳軍曹は、朝鮮海峡に墜落して殉職」との判断が下され、遺族にもそのように伝えられました。

祖母山
三秀台から望む祖母山

祖母山2

【昭和20年8月30日】

佐賀県の陸軍目達原飛行場から遙か南にある宮崎県の高千穂町。
終戦から2週間後の8月30日朝、霧の立ち込める祖母山に爆発音が轟きました。
墜落現場まで登った地元住民は、爆発四散したアメリカの飛行機と10名程の遺体を目撃。「米軍機が墜ちた」と役場へ届け出たことで、山奥の村は大騒ぎとなります。
戦争は終ったというのに、何故アメリカの飛行機がこんな場所に墜ちたのか?
折しも赤痢の発生と敗戦のショックで混乱していた処への墜落事故でしたから、役場の対処能力を超えた事態でした。
訳もわからないまま、高千穂警察署、田村警防団、林業作業員で構成された捜索隊が現場へ急行します。
墜ちたのは、つい先日まで「鬼畜米英」と憎んでいた敵軍の飛行機。捜索隊員の中には、刃物で武装している人もいたそうです。
険しい山道を踏破し、ようやく辿り着いた現場にはB29爆撃機が無残な姿を晒していました。
パラシュートを装着した遺体もありましたが、脱出する暇もなく高速で山へ激突した為に全員が即死状態。遺体の損傷具合が、衝撃の凄まじさを物語っていました。
敗戦国となった日本がアメリカ軍の機体やその乗員の遺体を勝手に処理する訳にもいかず、また搬出作業もきわめて困難な山奥だった為、米兵の遺体は現場に残されます。

B29墜落
墜落事故で殉職したB29のクルー達。

その頃、米軍側もテニアンから福岡県の捕虜収容所第二十分所(戦時中は連合軍捕虜792名を収容し、貝塚大之浦炭鉱で強制労働させていました)へ救援物資投下任務に向かっていた輸送機が、消息を絶ったことに気付きます。
行方不明機は陸軍第20航空軍第40爆撃航空群第45爆撃飛行隊所属のB-29爆撃機(機体番号44-61554)で、ヘンリー・ベイカー機長以下全12名が搭乗していました。
直ちに捜索機が日本へ飛び、墜落現場を確認します。
44-61554号機は視界不良のため祖母山に接触、操縦不能に陥ったまま親父山へ激突したのでした。
しかし、上空からは搭乗員の生死を確認できません。
捜索機は、生存者のために救援物資をパラシュート投下して引き返します。

三秀台

三秀台

【昭和20年9月3日】

戦争末期、白川警部をリーダーとする宮崎県警本部の特命チームは、米軍宮崎上陸を想定して沿岸部住民の山間部避難計画を作成していました。
二転三転する軍部の防衛計画に翻弄されつつ、県内各自治体へ避難計画を通達できたのは夏を迎えた頃のこと。
その直後に敗戦を迎え、九州南部を戦場とする本土地上戦は回避されました。県庁地下室で避難計画を練っていた白河警部らは、そのまま敗戦処理業務へ移行します。

白川警部へ、高千穂へ墜ちたB29搭乗員の検死命令が下されたのは9月3日のこと。
空襲で日豊線や橋が破壊された状況下、苦労しながら県北部へ向かった警部らは、9月5日に高千穂へ到着。そこから更に墜落現場までの長い山道を登り、白川警部たちは現場に残された遺体の検視を始めました。
バラバラに四散した遺体を集めると、犠牲者の数は12名であると判明。
遺体の状況や所持品のリストは作成できたものの、今回も搬出は困難であり、遺体は2人分づつ6か所に埋葬されます。
彼等の墓標として、現場の樹で作った十字架が立てられました。

墜落したB-29の積んでいた荷と米軍の捜索機が投下した救援物資は、戦後の物資不足に喘ぐ地元住民にとって文字通りの「天からの贈り物」となります。
警察による現場立入り禁止通告など誰も守らず、険しい山道を踏み越えて人々は墜落現場へ押し寄せました。
墜落現場に散乱するのは初めて見るような品々。しかも英語表記なので、正体不明のモノばかりでした。
ようやく英語を知っている人が到着するまで、石鹸をチーズやカレー粉と間違えたり、ポマードや練り歯磨を食べたり、ガムを飲みこんだりといった珍事がそこかしこで展開されます。
食料が尽きると、こんどは機体の部品が搬出されました。タイヤはゴム草履に、パラシュートのナイロン布地はカーテンに、パラシュートコードや電線はリュックや農具の帯に、風防の有機ガラスは蝋燭に、ジュラルミンの外板は叩いて曲げて洗面器にとリサイクルされていきます。
中には、機銃弾から取り出した火薬を暴発させた人までいたのだとか。
機体の大部分は山中から搬出されましたが、爆発で飛び散った細かな破片は21世紀の現在も祖母山中に残されています。

B29
高千穂町が保存しているB29の残骸。町による解説では「ターボチャージャー・プロペラシャフト・機関砲・タイヤ・ガラス・無線機のパネルなど」とあります

【昭和20年秋】

B29が墜落した年の秋。
高千穂で炭焼きをしていた森源一氏は、小河内谷の森で不思議な物体を目撃します。
それは、翼に赤い日の丸が描かれた日本軍の戦闘機。
木々がクッションとなって機体の損傷は少なかったものの、操縦席に座るパイロットは息絶えていました。

森老人は小河内谷の戦闘機について暫く黙っていましたが、耐えられなくなって知人に打ち明けます。
B-29の墜落事件直後の日本軍機発見だった為、再び高千穂は大騒ぎとなりました。
白骨化していたパイロットの遺体を回収し、遺品から身元の調査が開始されます。
遺品にあった手紙から判読できた「徳義忠」の名前を辿り、このパイロットは東京都在住徳義忠氏の長男、徳義仁軍曹であると判明しました。
しかし、佐賀県沖の海に墜落したと伝えられていた徳軍曹の遺族は、全く逆方向の宮崎県高千穂山中で発見された隼が徳軍曹の機体だと知らされても信じることは出来なかったのです。
徳軍曹の遺骨は、家族の迎えを待ちながら戦後の高千穂で眠り続ける事となりました。

高千穂の軍人墓地に建てられたその墓碑には
「昭和二十年七月二十七日(※7月27日に高千穂上空を通過した飛行機を事故機と誤認)小河内山中ニテ航空事故ニヨリ殉職 陸軍軍曹 徳義仁墓」
と記されます。

三股町の椎八重および天神山に墜落した二機の爆撃機と同じく、高千穂町でも無関係の二機が近接して墜落したのです。
宮崎県内で発生した四件の墜落事故は単なる偶然の重なりですが、三股町と高千穂町の殉職者はどちらのケースでも不幸な経緯を辿ることとなりました。

高千穂町に続いて、昭和28年10月6日には都農町尾鈴山地に登った高校生が陸軍二式高等練習機の残骸を発見。昭和19年に行方不明となっていたパイロット2名の遺骨が回収されています。
異国の地で果てた米軍飛行士たちはすぐ故国へ帰されたものの、内地で殉職した都農町の2名は戦後8年間、三股町の10名は24年間、高千穂町の徳軍曹は47年間も帰宅を果せなかったのです。
日向や日南沖で撃墜された機体では、遺体が回収できなかったケースも少なくありません。

戦後の混乱で戦死したパイロット達を忘れてしまった日本側と違い、アメリカ軍は自国の犠牲者を徹底的に捜索します。

10月末から宮崎に展開し始めたアメリカ軍は、翌21年3月22日になって高千穂へ第24連隊終戦処理班を派遣。
8月27日には第108墓石登録局・D分遣隊第3チームが遺体回収の為に高千穂を訪れました。
彼等を墜落現場へ案内した地元の人々は、アメリカ兵たちが遺体を掘り起し、故国へ連れ帰ろうとする姿に心を打たれたといいます。

アメリカ兵の死体は墜落の二、三日後に、当時、警察の管轄下にあった警防団の手で葬られた。
団員だった私も埋める作業をしたが、中には足がからだから離れているものや、腹部が中断していて内臓に蛆のわいている死体もあった。
数ヶ月後、アメリカ陸軍のジープが遺体収容にやってきた。戦時中は「鬼畜米英!」と教え込まれ、自分もそう信じ込んでいた。
しかし、米兵が墜落現場の土をふるって、亡くなった兵士の髪の毛一本をさえ、異国の地に残すまいとする姿に触れて、当時十六歳だった私はそれまで抱いていたアメリカ人に対する考えを一編に打ちこわされてしまう思いがした。
恥ずかしい話であるが、缶詰捜しにきて、ブルーの瞳で金髪の米兵の死体を見つけては「こりゃ男じゃろかい、女じゃろかい」とズボンをはぎ取って見る者もいたのである。
本来なら、同じ人間として丁重に葬ってやるべきだったのであろうに、戦争は、そんな人間らしさも私たちから奪いとってしまったのである。

「平和の鐘」より 甲斐秀国氏の証言

一式戦

B29墜落2

【平成元年】

それから歳月が流れ、高千穂に墜ちたB29と隼のことは遠い昔話として忘れられていきました。
昭和44年に宮崎県三股町で日本陸海軍飛行士10名の遺骨が発見された時も、高千穂町の徳軍曹に目を向ける人はいませんでした。

三股町椎八重公園に墜落事故慰霊碑が建立されてから、更に20年が経過した平成元年のある日。
祖母山系の親父山を登山中の友金厚氏は、見慣れぬ金属片を発見します。
父親から尾平峠に墜ちた米軍機(昭和27年、4名が死亡したC46輸送機墜落事故)の目撃談を聞かされていた友金氏は、これがその事故機の破片かと考えました。
しかし、親父山と尾平峠は随分と離れた場所にあります。不思議に思った友金氏は、地元の人から終戦直後に高千穂の親父山付近へ墜ちた米軍機の話を訊き出しました。
驚くことに、B29墜落事故があった年には小河内谷に墜落している日本軍機も発見されたとのこと。
この日本軍機も、公式記録では「朝鮮海峡に墜落した」とあるだけで、高千穂に墜ちていた理由がさっぱり分かりません。
友金氏は、忘れられた墜落事故の実態を調べようと日米の間を奔走し始めます。

殉職飛行士名
慰霊碑に刻まれた、祖母山へ墜ちたB29クルー12名、及び小河内へ墜ちた一式戦パイロットの氏名。
なお、碑文に「米空軍」とあるのは「米陸軍航空軍」の誤りです。事故当時のアメリカ軍航空隊は陸軍や海軍の組織であり、「アメリカ空軍」として独立するのは1947年(昭和22年)以降のこと。

慰霊碑

三秀台4

B29慰霊碑

慰霊碑3

【平成6年】

友金氏による調査の過程で、飛行士たちの遺族や墜落事故を知る人々が次々と見つかります。
徳軍曹の遺骨も、47年を経てようやく家族の元へ帰ることが出来ました。
故郷高千穂の地で亡くなった13名の飛行士たちを弔う為、友金氏は三秀台に慰霊碑を建立しようと思い立ちます。
平成6年、高千穂町に甲斐秀国氏を代表とする慰霊碑建立委員会が発足。募金活動や町の補助金により、祖母山や阿蘇山を望む三秀台に慰霊碑の建設が始まりました。
日米双方の遺族や関係者を招き、慰霊碑の除幕式がおこなわれたのは平成7年8月26日のことです。

三秀台2

戦時中、宮崎上空の空中戦や対空砲火により、日米両軍のパイロット多数が犠牲となりました。
海上や山奥に墜落した機体では、遺体の回収すらされない場合もありました。
現地に埋葬されたまま何十年間も存在を忘れ去られた、11名の飛行士たちもいました。
宮崎県史において、そのような事実があったことも知っておきましょう。

もしも高千穂を訪れる機会があったら、祖母山方面へ足を伸ばしてみてください。
崩野峠のトンネルを抜けた先、細い坂道を登った丘の上に13名の飛行士を弔う慰霊碑は建っています。

三秀台



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