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海軍第5特攻戦隊第35突撃隊・第48及び第116震洋特攻艇基地(宮崎県延岡市土々呂)

Category : 延岡市の戦跡 |

佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第48及び第116震洋部隊
48震洋5

48震洋


昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に特攻艇の部隊が配備されます。
県北部には佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)が、県南部には同じく特攻第5戦隊第33突撃隊が展開しました。
35突の所属は、北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻。
33突の所属は日南市油津の第03回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第05回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、土々呂の赤水地区に展開していた震洋部隊の遺構について取り上げます。
延岡空襲については別記事にて。

赤水6

赤水7

赤水8

赤水9
赤水地区の湾内風景。とても静かな漁港で、戦時中に自爆ボート部隊が展開していたなど想像もできません。

戦争末期の土々呂には、2つの特攻艇部隊が展開していました。
5月5日に到着したのが第48「藤島」部隊。震洋48隻、将校8名、特攻隊員53名、整備員38名、基地隊73名、本部付21名の総員193名で構成されていました。
最初は33突、続いて35突の所属となります。

続いて到着したのが、沖縄に展開する筈だった第116「磯野」部隊。
震洋26隻、将校7名、特攻隊員50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名の総員188名で構成されていました。
4月1日に33突へ配備され、5月16日には美々津へ到着。しばらくは美々津海岸の松林に特攻艇を秘匿していました。
6月10日には35突へ所属が変更され、土々呂へと移動します。

48震洋1

48震洋2

48震洋3

48震洋4

48震洋6

48震洋7

48震洋8

1つ目の特攻ボート格納トンネル。復元された震洋の実物大模型が展示してあります。
震洋はベニヤ板製のモーターボートであり、250㎏の爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻兵器でした。
昭和19年から研究に着手、1人乗りの一型と噴進砲(ロケット砲)と機銃を搭載した2人乗りの五型が終戦までに6197隻生産されました。

48震洋13

48震洋9
2つ目の特攻ボート格納トンネル。

48震洋10

48震洋12
3つ目の特攻ボート格納トンネル。

赤水4

赤水5

赤水

延岡沖に米艦隊が接近すれば、この入江から出撃した震洋艇の群れが襲い掛かる計画となっていました。しかし、実際に出撃したとしても戦果を挙げられたかどうかは疑問です。
戦地に展開していた震洋の記録では、敵艦隊に発見されて壊滅したケースもありました。

8月には第2艇隊の震洋が整備中に爆発事故を起します。特攻隊員1名が火傷を負いますが、何とか誘爆の大惨事は免れました。


DSC01943_R.jpg
赤水の復元震洋ですが、最近は水色から濃緑色へ塗り直されています。

8月15日、突撃隊本部に呼び出された藤島隊長および磯野隊長には敗戦と部隊解散が通告されました。
爆発事故で重傷者は出たものの、延岡の特攻隊は戦死者ゼロのまま終戦を迎えることができました
爆薬を抜かれた震洋は海岸に放棄されましたが、やがて暴風雨や枕崎台風によって海に沈んだとのことです。


赤水2

赤水3
入江の奥から見た震洋格納庫の様子。


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