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海軍富高飛行場(宮崎県日向市財光寺)

Category : 日向市の戦跡 |

突如としてグワラグワラガラガラッと凄い低空らしい爆音に異常なものを感じ、壕から怖々と顔を出して見ると今屋根から屋根の上空100メートル位を黒煙を噴きながら一機の双発機が南東へ去っていく。
思わず「やられている!」「友軍機だ!!」と叫ぶ。
機体の日の丸が目に焼きつき、午後の太陽が尾を引く一筋の太い煙を焦げ茶に染めて、愛宕山上方をすれすれによぎって消えた。
やがて10分も飛行すれば富高の海軍航空隊の基地がある。
「落ちるなよ。もうすぐだ。ガンバレ!」と心で祈るのだった。


渡木真之著「我が故郷に戦火燃ゆ」より 昭和20年3月18日、延岡市上空での空中戦目撃談

富高
富高飛行場司令部の門柱跡。

富高

富高
この門柱は、現在も富島中学校の校門として保存されています

現在の街並みからは想像も出来ませんが、戦時中の日向市には海軍の飛行場がありました。

海軍呉鎮守府による富高海軍飛行場の建設が始まったのは、昭和4年4月のこと。
用地買収は宮崎県への委託でおこなわれ、まず24万㎡、2回目に約53万㎡、3回目の買収により132万㎡まで用地を拡大。
拡張工事は昭和10年まで続きます。
当初は常駐の飛行隊など無く、管理人が置かれた程度でした。近くで艦載機の演習や訓練がある時だけ飛行隊が間借りする形をとっていたそうです。

昭和16年10月、富高飛行場に連合艦隊空母「赤城」「加賀」艦載の99式艦上爆撃機が集結。沖合にある岩礁「トドロバエ」などを標的とした急降下爆撃訓練を開始しました。
その訓練の意味はやがて判明します。彼等は、真珠湾攻撃を想定した訓練をおこなっていたのでした。

昭和18年から飛行場の規模は更に拡大され、昭和19年4月には築城航空隊富高分遣隊として赤トンボが飛び立つ訓練部隊へ改編。予科練の少年航空兵300名が配置されました。
7月からは勤労学生を動員して掩体壕の建設がスタートし、11月には岡村徳長中佐を長とする富髙航空隊が発足しました。
戦争末期の昭和20年になると零戦隊が集結、富高飛行場は特攻作戦の中継拠点へと変貌します。

昭和二十年三月、当時の県立富高農学校の入学試験の日でありました。
学校の上空をバリバリと轟音を響かせて零戦が編隊で飛行していました。財光寺からお倉ケ浜にかけて海軍の飛行場が在ったのです。
低空飛行の零戦の勇姿は頼もしく見えてなりませんでした。
四月六日が入学式で、翌七日に父は召集で都城連隊に入営しました。この日農学校の運動場から見えた父の乗っている下列車の汽笛と黒い煙を今でも覚えています。

盛武義美氏「戦後五十年に思う」より

神風

神風2

神風3

神風4
向洋会協和病院敷地内に建立された特攻隊慰霊碑。

爆撃

爆撃2
富高飛行場が爆撃された際、地面に残された爆発孔。

昭和20年3月18日早朝、南九州各地に突如として米軍艦載機の大編隊が襲来します。
襲撃を受けた新田原飛行場が県内の飛行場へ警報を発した時は既に遅く、赤江、都城西、富高飛行場にも敵機が殺到していました。
「本土決戦に備えて戦力温存」の命令によって県内各飛行場が戦闘機を隠す中、富高飛行場からは第721航空隊戦闘307飛行隊の64機が迎撃に飛び立ちました。
307飛行隊は、高鍋から延岡にかけた空域で米軍機と激しい空中戦を展開します。
この日、米軍が4機、冨髙航空隊も多数を喪失。
翌日にも百機近い米軍機が襲来、富高の飛行隊は再び迎撃し、双方あわせて20機以上の損害を出しました。

沖縄侵攻への露払いとして始まった九州沖航空戦により、宮崎県内の航空隊は(草原と見間違えられた)都城東および北飛行場を除いて大打撃を受けます。
沖縄戦の勝敗が決する頃から米軍はB29戦略爆撃機を投入、宮崎県の各飛行場へ凄まじい爆撃を加えました。
袋叩きに遭った赤江、新田原、唐瀬原、富高、都城西の各飛行場は、迎撃機の温存どころか機能停止に追い込まれます。

孤軍奮闘するも、緒戦で力尽きた富高の307飛行隊は特攻隊護衛任務のため鹿児島へと去っていきます。
防空戦力を失った冨髙飛行場は、鹿屋基地への移動を待つ特攻隊の中継地点と化しました。
※誤解されやすいのですが、富高から特攻機が直接出撃した訳ではありません。

宮崎の空は米軍が支配するようになり、市街地は為す術もなく焼失していきました。
米軍上陸に備え、県内には陸軍3個師団が送り込まれたものの、梅雨時の悪天候と資材不足で陣地構築は停滞。延岡~串間までの沿岸に展開する特攻艇や人間魚雷部隊も、空襲を避けてトンネルに潜むしかありません。
大本営の本土決戦計画など机上の空論。二転三転する防衛計画のためベトンで固めた砲兵陣地も完成が遅れ、立てこもる地下壕掘りに兵力が注ぎ込まれます。宮崎県警本部に丸投げされた住民避難計画も、敗戦1ヵ月前に県内各自治体へ通達される有様でした。
これが「本土決戦の最前線」である宮崎の現実だったのです。

雨の朝でも空襲はありました。
学校と飛行場は塩見川を挟んで二kmぐらいしか離れていないのに、良くも正確に投下できるものだと変に感心もしていました。
雨曇りの上空を旋回するB29の独特のエンジン音がうなる様に聞こえる間に、ザーザーと大雨の様な音がしたかと思っていると
ズドドドン、バババンと強烈な爆弾が炸裂し、ユサッと地揺れがあり、砂がパラパラと落ちる。
やはり爆撃は恐ろしいものでありました。
ようやく学校に慣れてきた五月頃の晴れた日でした。
西畑の農場に実習に出ていると、細島の上空を低い機影が数機、キラキラと門川の方に飛んで行った様に思っていました。
味方機かとも思えたのでした。
ところが突如北の方からグラマンが襲いかかってきたのです。
バリバリ、ダダダダと機銃掃射を浴びせてきました。誰かの指図で杉と孟宗竹の山中に逃げ込んで、杉の木を盾にかくれていると又やってくる。杉の枝がボキッと折れ、竹にカチッカチッと弾が当たりました。
両主翼の先が角ばっているグラマン機と、搭乗兵の姿を横に見たのでありました。
近くに海軍の兵たん壕があったので、おそらく私達は海軍兵と間違われたのであります。だが学校もやられ、機銃弾がたくさん落ちていました。
また青空にくっきりとB29の編隊が西の方向に横切って行く下を、ミカン山の裏に全生徒が避難したことがありました。
空襲警報解除のあと山を降りる頃、飛行場の周辺からボンと音がしては黒煙が上っていました。
時限爆弾が破裂していたのです。
富高の海軍航空隊は特攻基地になっているとの噂でありました。同期の桜の軍歌の一節に、同じ神雷の庭に咲くと云う風に私達も歌っていた記憶があります。
上り汽車の帰り時刻は午後五時四十分でした。
ホームに男子生徒だけ並ばされ、先輩の説教を毎日の様に聞かされていました。
そんな折に、上空を赤トンボ(※練習機)に乗った特攻兵が白いマフラーをなびかせて旋回し、飛び立って行く光景が幾度かありました。
鹿屋の基地を経て、南海に還らぬ出陣をされたのに相違ありません。

盛武義美氏「戦後五十年に思う」より

やがて8月15日を迎え、日本は降伏。幸いにも九州の地上戦は回避されました。
もしも本土決戦がおこなわれたら、沖縄戦の惨状がこの地でも展開された筈です。
沿岸部の陸軍師団は空襲と艦砲射撃で壊滅、大量の避難民を巻き込んだ山間部への撤退戦が演じられたことでしょう。

死を覚悟していた冨髙の特攻隊員達にも、やがて復員命令が出されました。その心境は複雑だった筈。
終戦時の冨高飛行場の様子が記録されています。

終戦の翌日、旭化成に動員されていた私達は、延岡市から宮崎市まで徒歩で帰校する事となった。国道十号線も未だ砂利道で、真夏の太陽の下、ほこりまみれの行軍で、時間がたつにつれ隊列は乱れ、他校の学徒や、女子挺身隊も加わって、無気力に只歩を運ぶだけと云った状態だった。
ちょうど昼頃に富高(現日向市)に着き、小学校の校庭の木蔭で久し振りの白い握り飯をただき、生き返るおもいがした。こちらにおられた先輩方の御厚意であった様だった。
折しも財光寺にあった海軍飛行場では、敗戦の情報に反抗するかの如く戦闘機が垂直に急降下をくり返していた。耳をつんざく様なその金属音が敗戦のむなしさと悲しみを感じさせたのを記憶している。
ほこりと汗にまみれながら、無言で歩いているうちに、佐土原(?)で夜となった。広いお寺のお堂の中で、全員ゴロ寝をした様な記憶がある。
翌朝、又歩くのかと思っていたら、なつかしい宮交のバスが迎えに来ており、宮崎まで送ってくれるとの事。万歳と云った想いであった。今考えると大先輩の故岩切章太郎氏(※宮崎交通グループ創業者)の御厚意であったと思われる

「八月十五日前後」より 渡辺三郎氏の証言

価値観を180度変えた戦後日本に対し、生き残った特攻隊員の心は荒れました。彼等は「特攻崩れ」と呼ばれるようになります。
宮崎の学校でも、復学した少年特攻兵が授業に乱入。後輩たちへの狼藉行為に及んだという証言が残されています。
かつて彼等に軍国教育を施した教師たちは、黙ってそれに耐えるしかありませんでした。



敗戦により、日向・延岡方面に備蓄されていた砲弾類は細島へと集められ、警察の管理下で沖合へと投棄されます。あまりの多さに、爆破処分する余裕が無かったのでしょう。
細島や梶木に展開していた特攻艇は延岡の海岸に集められ、直後の枕崎台風によって海の藻屑と消えました。

戦後、日向市は復興に向けて動き始めます。富高飛行場も解体され、軍用地も民間へと開放されました。
住宅地となった現在では、ごく僅かな飛行場の痕跡だけが残されています。

滑走路跡

滑走路跡2

協和記念病院の駐車場に残る当時の駐機場滑走路跡。
これら戦時遺構は、昭和32年に同病院が置かれた時から保存措置がとられています。
昭和52年、初代理事長である掘彰夫氏(学徒動員で同飛行場の建設に参加)の厚意によって記念碑などを追加、末永く伝えてゆく事が決定されました。

富高4

富高3

富高2

富高1

塩見川にかかる大瀛橋(たいえいばし)の袂、しらさぎ公園に展示してある軍用機のプロペラ。
日本海軍のものではなく、海上自衛隊が寄贈したKM-2練習機のプロペラです。傾いた写真しか撮れないのか俺は。

富高飛行場の滑走路や格納庫は塩見川の南岸に、兵舎群は北岸に設置されており、海軍将兵は大瀛橋を渡って飛行場へ通っていました。
当時の大瀛橋は木造だったそうです。

富高
現在の大瀛橋

富高
しらさぎ公園の対岸より。煙突のあたりにかけて滑走路がありました

お倉ヶ浜

トドロバエ

お倉が浜(小倉ヶ浜)海水浴場、塩見川河口沖に浮かぶ岩礁「トドロバエ」。
戦時中、富高の飛行隊はこの岩を目標に対艦攻撃訓練をしていたと伝えられています。

富高5

小倉ヶ浜有料道路の料金所脇にも記念碑が建っています。こちらは海側へ離陸する滑走路が設置されていました。
有料道路を進んだ先にある細島港には、戦争末期に回天特殊潜航艇と震洋特攻艇の部隊が展開。
米艦隊の九州接近に備え、夜間突入訓練を繰返していました。

富高6

富高7

富高8

日向市往還地区には掩体壕も残されていたのですが、道路拡張工事で一部(というか破片ですね)を残して撤去されてしまいました。
記念プレート脇にある、コンクリート製の物体が掩体壕のカケラです。

まあ、掩体壕など古くて何の役にも立たない物体に過ぎません。道路建設で生活も便利になりましたし、やむを得ない措置なのでしょう。
日向市の貴重な歴史遺産がひとつ消えただけの話です。二度と取り戻すことはできませんけどね。

我が国は、近代化遺産や戦跡の價値を軽視する向きがあります。保存するお金も足りませんし。
宮崎も歴史を強調した観光PRをしていますが、地域の遺構を破壊しておいて観光資源の確保もヘッタクレもないと思うのですが。

富高飛行場の遺構は破壊されてしまいましたが、せめて、赤江飛行場と新田原飛行場の掩体壕11基は後世に伝えていただきたいです。
それが特攻の地・宮崎としての責任なのですから。


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