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第1挺進集団第1挺進団 挺進第1連隊(宮崎市住吉および児湯郡川南町)

Category : 陸軍空挺部隊一覧 |

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挺進第一聯隊隊歌

雲に聳ゆる高千穂の
峯を仰ぎて生い立ちし
我が丈夫(ますらお)の雄心は
八紘一宇の神意もて
天孫降臨たる其の太古の
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

二千六百一年の
師走の八月朝ぼらけ
新田が原の碧空に
米英撃ての詔賜い
誠をただに誓ふとき
我出陣の式を挙ぐ
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

唐瀬の原に技を練り
鍛え磨きしつはものが
腕を撫しつつ征くところ
佛印馬來将緬甸
我が征くところ敵はなく
御稜威は燦と輝けり
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

想は遙か緬甸路の
ラシオの空の血しぶきは
我が兄弟の咲く姿
いざ出撃に空征かば
雲染む屍山征かば
草むす屍悔はなし
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

來らば來れ国の仇
精鋭部隊はここにあり
我等舞い下り撃ち討ちて
大義に生きるつはものの
不滅の凱歌永久に
皇御国を護りなん
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊


作詞 陸軍曹長 相澤久義
作曲 陸軍戸山学校軍楽隊

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昭和20年5月24日、熊本県の健軍飛行場から出撃する奥山隊長と義烈空挺隊員。
この部隊は爆薬の扱いに長けた工兵出身者で構成される第1挺進連隊第4中隊から選出され、第3獨立飛行隊と合流したコマンド部隊。
当初の目標であったサイパン突入作戦、続く硫黄島突入作戦が中止となったあと、沖縄の米軍飛行場へ特攻します。
なお、第4中隊自体は作業中隊として第1聯隊に残され、指揮は奥山大尉から浪花大尉へ引き継がれました。

義烈空挺隊の拠点が健軍であったかのように誤解される事もありますが、熊本県に居たのは2週間だけでした。
この部隊について取り上げる人は多いのですが、彼等の原隊である挺進第1連隊の拠点がどこにあったかは誰も書いていません。不思議ですねえ。



宮崎県の新田原飛行場で「教導挺進第1聯隊」が編成を完結したのは昭和16年11月のこと。
陸軍で最も早く戦力化されたパラシュート連隊でした。
しかし、パレンバン降下作戦に投入された挺進第2連隊、レイテ降下作戦に赴いた挺進第3及び第4連隊と比べ、挺進第1連隊は影が薄い存在となっています。
パレンバン降下作戦は輸送船沈没事故とパラチフスの集団感染で参加出来ず、ラシオ降下作戦は悪天候で中止。
空しく帰国した第1聯隊は、日向住吉の海岸にある兵舎で悶悶とした日々を送ります。

IMG_000eree2_R.jpg
当時の日向住吉。中央が高等農林学校、画像向かって左手に行くと国道10号線と日向住吉駅、右手に行くと塩路住吉神社と住吉海岸です。阿波岐原と宮崎市街は手前方向、新田原飛行場と唐瀬原飛行場は画面上方の遙か彼方に位置していました。一ツ葉有料道路や佐土原バイパスが無い当時は、住吉~新田原間の往復も不便だった事でしょう。

続いて計画されたのがベナベナとハーゲンへの降下作戦でした。
しかし、この作戦も戦況悪化で中止。再び帰国した第1聯隊は、本土決戦の予備戦力として扱われます。

戦機を逸し続けた挺進第1連隊で実戦に参加したのは、第4中隊から抽出されて沖縄へ突入した義烈空挺隊のみ。
この部隊は昭和19年にサイパン特攻を命じられ、川南から豊岡へ移動しました。出撃地の浜松で待機を続けるも、戦況悪化により作戦は中止。
翌年に川南へ帰還した奥山隊は、硫黄島突入命令を受けて西筑波へ移動します。しかし硫黄島玉砕によって作戦中止が決定され、再び川南へ帰還。
昭和20年5月には沖縄への突入を命じられ、健軍へ移動してから2週間後に出撃しました。
目まぐるしく変遷する計画に翻弄された、悲劇の特攻隊だったのです。

残る第1聯隊の主力は、昭和20年4月に米軍の九州上陸を避けて千葉県横芝へ移動。そこから園田直大尉率いる2個中隊をサイパン特攻部隊として差し出すも、出撃直前に8月15日を迎えます。

第1聯隊の犠牲は義烈空挺隊のほか、ラシオ空挺作戦時の墜落事故で失った30名のみ。
フィリピンで壊滅的な損害を受けた挺進第3聯隊、第4聯隊と違い、国内での待機が多かった挺進第1聯隊と第2聯隊は戦死者も比較的少数です。



今回は、その挺進第1連隊の遺構を調べに行きました。
第1連隊が最初に入っていたのは日向住吉地区の陸軍兵舎。そこから佐土原町を通って新田原飛行場へ通っていた訳です。
この住吉兵舎の場所、最初は日向住吉駅ちかくの宮崎大学農学部住吉フィールドあたりかと思ったのですが、どうも違うようです。戦時中も住吉フィールドは農場のままでしたから。

住吉兵舎の証言は多数残っていますが、調べても金吹山(現在のシーガイア付近)にあったことしか分りません。
第1連隊の兵員や物資の移動には、日向住吉駅ではなく花ヶ島駅(現在の宮崎神宮駅)を利用していました。だから兵舎も塩路ではなく阿波岐原附近にあった訳ですね。因みに、中間地点に蓮ヶ池駅が出来たのは戦後のこと。

終戦、そして再び学校に帰った。ある朝、朝礼台の上から三羽ガラスの栗原先生が「本日より映画見物も自由、男女交際も許可」とのたまわった時には、全校生徒の間に、ざわめきが起こった。
自由を得られたのはよいが、延岡から帰ってみて困った事は、通学の苦労である。
校舎は住吉の兵舎にうつり、家は八代村に疎開していた。朝早く一里に近い砂利道を、弟と二人で歩いて本庄に出る。そこからバスで神宮前へ、そして又歩いて住吉まで行くわけであるから、時々しか学校には到着せず、途中から帰ることも多かった。

「宮中と歌と私」より 川越毅さんの証言

学校のほうは、焼け残っていた寄宿舎を教室にして二部授業が開始され、さらに何日もしないうちに、住吉のはずれの旧兵舎に移った。
ここの印象は人里離れた砂丘の掘っ立て小屋の殺風景さと、登下校がやたらと遠かった記憶しか残っていない。
歩くのはヨダキイ(※宮崎弁で「面倒くさい」「ダルい」の意味)ので、友達と砂ぼこりの達、でこぼこの国道へ出て、おんぼろの木炭トラックにぶらさがったり、よじ登ったりしたこともあった。
うんざりしながら、住吉に通ったのはどのくらいの期間だったろうか。大宮高校百年史の記録では、翌二十一年二月に大淀の宮崎工業高校へ引越したとなっている。

「私の宮中時代」より 本條敦巳さんの証言
その他としては
交通が不便なので、赴任した英語教師が2日で辞表を出した」とか、
交通が不便なので、近くの蓮ヶ池に駅を造ってほしいと訴えたが却下された」とか
交通が不便なので、父兄が進駐軍に訴えて住吉兵舎からの転出を命じて貰った」などと
碌でもない証言ばかり残されています。
空挺部隊の衛生資料でも「あの環境で伝染病が発生しないのは不思議」と書かれる程に酷い兵舎でした。

さて。
住吉兵舎跡を調べるにしても、現在の金吹山はシーガイアとゴルフ場と市民の森公園となっているのでどうにもこうにも。
シーガイアの写真を載せて「ここが第1連隊兵舎跡」と書けば済むのですが、それでは全く面白くありません。イヤ、あの辺の広大な森を散策するのは楽しいんですけど、軍事遺構は綺麗サッパリ無くなっていますからね。
二番目の兵舎である川南の方が確認し易いでしょう。そうしましょう。

陸軍精鋭部隊の兵舎の位置がよく分らない、というのも間抜けなハナシではあります。
第3聯隊兵舎みたいに給水塔が残っていたり、第4聯隊兵舎のように中学校となっていたら調査もカンタンなのですが。

通山
軍馬補充部高鍋支部跡地。

戦後に再現された地図上では、第1連隊兵舎は川南村通山(とおりやま)地区に記されています。
しかし、第1連隊側の証言では「唐瀬原の挺進司令部近くに移った」となっております。
当時の通山地区にそれらしい大型施設は見当たらないので、睦地区あたりの兵舎を誤記載したのかもしれません。

「第1連隊兵舎は唐瀬原飛行場にありました」では面白くないので、とりあえず通山地区に兵舎があったと仮定しましょう。
戦後、挺進司令部及び挺進第2連隊兵舎は川南町立東小学校、挺進第3連隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第4連隊兵舎は川南町立唐瀬原中学校となりました。

挺進第1連隊兵舎も、何かしらの公共施設として再利用されたのでは?
そう思って目当てを付けたのが、宮崎県立農業大学校。農大の敷地は、戦時中に軍馬補充部高鍋支部が拠点としていた場所です。

農大

ルピナスパーク

軍馬補充部5

農大の敷地には立ち入れないので、隣接するルピナスパークを散策しながら探してみます。
しかし、広々として綺麗な公園ですねー。天気もいいし、寝転がって昼寝でもしたい気分です。
公園内をウロウロした挙句、見つかったのは高鍋軍馬補充部の記念碑のみでした。

農業大学校の周囲で「この辺だろう」と推測される場所を歩いてみたのですが、今では一面の水田になっており当時の面影すらありません。

通山

通山

通山
川南町の資料では、この水田あたりに「住吉第一聯隊」の拠点が書き込まれています。

第1聯隊兵舎の一部が、何かしらの公共施設の資材に流用された可能性はないでしょうか。
農業大学校周囲の公共施設といえば、国光原中学校と通山小学校があります。国光原中は戦時中に騎兵部隊の駐屯地だった場所。空挺部隊とは無関係です。
だとすれば通山小学校はどうでしょうか?

地図
地図の左側が国道10号線、中央の大きな区画が宮崎農業大学校、右側が日向灘です。
第一聯隊があったとされるのは、水色の部分と農業大学の中間付近(紺色の線が大きく膨らんでいる場所)。

通山地区
通山小学校付近の状況

通山

通山地区の地図を眺めてみたのですが、耕作地として細かく区画されたこの地域で旧軍用地らしき場所はありません
通山小学校の周囲もぐるっと一周してみたのですが、のどかな農地が広がっているだけで旧軍の遺構や記念碑らしきものは一切ナシ。

川南は口蹄疫の惨劇からも一歩一歩回復しつつある様ですね。近くの畜舎に牛の姿を見かけてホッとしました。

この場所はハズレかな、と思いつつ小学校正面にまで戻った時。妙なものを発見しました。
古い石柱が2本、学校の入口に立っています。
第1連隊

第1連隊2

第1空挺連隊
片方には、何か書かれたプレートが貼ってありました。

旧校地

「この門柱は 旧校地使用の門柱」

旧校地?何ですかソレ?
「旧校地」が建て替え前の学校施設のことなのか、学校が建つ前にあった別の施設のことなのか、判然としない書き方ですね。もし軍事施設だったとしても、教育上宜しくないからこのような表現にしているのでしょうか。
とりあえず、通山地区で見つけた古い遺構はこの門柱だけでした。

おそらく、戦後に作成された川南基地の地図は間違っているのでしょう。
しかし、挺進司令部と唐瀬原飛行場があった睦地区あたりも耕作地に姿を変えており、畜産試験場と東小学校の区画が当時の痕跡を残すのみです。

陸軍落下傘部隊の最精鋭、挺進第1聯隊の痕跡は川南から消えてしまったのですね。
まあ、空挺兵舎の写真は東小学校のアルバムに幾らでも載っているのですが。

ツツジ
通山小学校の前には、綺麗な花々が咲いていました。






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