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八紘之基柱・平和の塔(宮崎県宮崎市)

Category : 宮崎市の戦跡 |

紀元二千六百年の行事として、宮崎県では「八紘一宇」の塔を建てることとなり、男女学生は毎日のように下北の現場でモッコの土運びに励みました。
現在の平和の塔です。
東京では有名な写真家だという人が来ました。後日、その写真家が土門拳氏であったことがわかりました。
さっそく写真を撮ることになりました。
各学校入り乱れての作業でしたので、すぐ近くにいた者が、土手の上から下へと並びました。私は上の方です。
立っていると、土の中に足がうまるので、日向乙女の心意気を見せようと、手前にスコップを突っ立てて撮ってもらいました。


安田郁子著「モスグリーンの青春」より

八紘一宇

【紀元2600年奉祝事業】

宮崎市にある広大な平和台公園。その一角には、御幣を象った巨大な石塔が聳え立っています。
現在は「平和の塔」と呼ばれていますが、正式名称は八紘之基柱(あめつちのもとはしら)。完成したのは、神武天皇即位紀元2600年を迎えた昭和15年のことです。



なんでこんな田舎に立派な塔を建てる必要があったのでしょうか?
それは、宮崎県に天孫降臨の地(かもしれない)というプライドがあったからに他なりません。
他に自慢できるものがないと、極端な自虐か背伸びへ走ってしまいがちですからね。

先日のこと。軍馬補充部の史料を調べていたら「日向八郡人口僅か十四萬餘、九州の北海道といふ異名ある此國に於て(宮崎縣獣医會 「宮崎通信」 明治27年)」などと書いてあるのを見つけてホゲーとなりました。
「猿と人とが半々に住んでいるような気がする山の中(延岡は海辺の街ですけどね)」などと某文豪に揶揄されるまでもなく、自虐をかまし続けて120余年。そんなに卑屈にならんでもいいと思うのですが。

深い山地に囲まれて大きな港湾も無い宮崎は、昔から発展が遅れていました。それを象徴するのが西南戦争で、薩摩軍の退却戦に巻き込まれて戦場と化した挙句、戦後復興は鹿児島優先。ばら撒かれた西郷札も紙切れ同然という踏んだり蹴ったりの扱いに。
旧島津領だった都城・西諸県・佐土原地域を除く日向人は鹿児島偏重の行政へ反感を募らせ、後の宮崎県独立運動に繋がってゆくのです。まあ、鹿児島から独立したところで陸の孤島状態は変わらなかった訳ですが。

戦前の大きな転換点となったのが、岩切章太郎による宮崎の観光開発です。
しかし、観光宮崎の知名度といえば九州地域が精一杯。全国へアピールするには今ひとつでした。
更に、日本の観光業界は戦争によって大打撃を受けます。
昭和12年から近衛内閣が推進した国民精神総動員運動により、観光旅行が自粛されるようになったのです。反面、国家の成り立ちを訪ねる史跡巡りなどは盛んになりました。
これを機に、鹿児島県と宮崎県の間で争いが勃発します。
その主たる原因は観光客誘致。両県は、「天孫降臨の地」の称号を巡って(考古学的考証そっちのけで)熾烈な競争を続けてきました。それが戦時下に再燃したのです。
自粛ムードの中でも「皇祖ゆかりの地を訪問する」という大義名分があれば、堂々と観光客を呼び込めるとあって両県は必死。
昭和13年、鹿児島は与謝野晶子や斉藤茂吉、宮崎は井伏鱒二や地元出身の中村地平ら有名作家を招待し、彼等のお墨付きを得ようと懸命のPR活動を開始します。作家らが両県の意図を知ったのは来訪後のことだった様ですが、発表された旅行記では敢えてその部分には触れていません。
日向路の旅情を筆で広めたのが、先程の中村地平だったとのこと(渡辺一弘氏「中村地平の日向への旅と国策旅行ブーム」の受け売りですけど)
競争の結果、両県を訪れる観光客……じゃなかった参拝客も増加。直後の紀元2600年記念行事が拍車をかけ、「観光宮崎」の知名度は全国へ広がります。
宮崎が鹿児島よりも有利だったのは、西都原古墳群に陵墓参考地(埋葬者は特定できないものの、宮内庁が皇族の墳墓としているもの)である男狭穂塚と女狭穂塚があったことです。
「陵墓参考地の発掘は無理でも、周囲の古墳ならば……」と、有川忠一知事が大正時代におこなった西都原古墳群の発掘調査も決定打に欠け、「天孫降臨の地」の根拠はウヤムヤに。
他にソレっぽいモノといえば、坂本龍馬が引っこ抜いた天逆鉾くらいですか。両県ともその程度の根拠しか示せないので、イメージ戦略に打って出るしかありませんでした。

アレやコレやの取組みによって、神話を掲げた宮崎県の観光誘致は大成功。戦後には島津貴子夫妻や皇太子夫妻の新婚旅行、川端康成原作のドラマ「たまゆら」などの影響も加わって、「宮崎への新婚旅行ブーム」として結実しました。
観光客が沖縄やハワイへ流れると共に、それも廃れちゃったんですけどね。マジで「どげんかせんといかん」のですが、歴史ある街並みも空襲と開発で消えてしまったし(美々津、高鍋、飫肥あたりを除いて)、温泉も霧島附近でしか出ないし、オーシャンドームは廃墟と化しているし。

「天孫降臨の地」の濫用は困った状況も生み出しまして、観光面での宮崎県史が神話からスタートするというムーな展開も見受けられます。旧石器人や縄文人涙目。
それもこれも、宮崎を焼き尽くした姶良カルデラと鬼界カルデラが悪いのです。

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完成当時の八紘之基柱

以上が当時の時代背景。
追いすがる鹿児島にトドメを刺す意味……ではなかろうと思いますが、相川宮崎県知事を会長とする宮崎県奉公会は「紀元2600年奉祝事業」として宮崎県民あげての記念施設建設を発案しました。
昭和14年に36万円の国家予算がつけられたことで、「世界中から石を集めて、八紘一宇(はっこういちう)の精神を表現した日本一高い塔を建てる」ことが決定します。
ナゼに宮崎神宮の整備から塔の建設となったのかよく分かりません。大阪万博における太陽の塔みたいなノリだったのでしょうか?
建設地は皇宮屋(神武天皇が東遷前に居住していたとされる場所。現在の平和台病院裏手)附近を予定していましたが、そこからちょっと登った丘の上に変更。建設の宣伝には東京日日新聞と大阪日日新聞が協力してくれました。
高さ37メートルは当時の建造物としては日本一で、これは当時日本一高かった丸ビルより数メートル高くしようとした結果なのだとか。

塔のデザインは御幣を象ったものとなりました。
発案者の相川知事によると、「基柱は罪穢を祓ふ御幣なのです。この国民の総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ、世界の罪穢を祓ひ、真に八紘一宇の正しき平和を確立する。之れ即ち建国の大理想実現のため御幣のかたちを採つた所以であります(黒岩明彦「北原白秋と八紘之基柱」より)」という考えからこのデザインにしたのだとか。

塔の設計について自ら名乗り出たのは、彫刻家の日名子實三でした。世間一般では、日本サッカー協会の八咫烏をデザインしたことで有名な人です。
なお、鹿児島県も皇紀2600年記念事業として、霧島神宮の「宮址の顕彰竝びに参道の改修」をおこなっております。

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塔の建設にあたり、縦45センチ、横60センチ、幅15センチの石材1789個が東洋、欧州、南米各地の日本人会から「寄贈」されます。県内産の石材を使えばのちのち問題なかったのにね。
地元住民や学生ら「祖国振興隊」による勤労奉仕もあり、塔の建設は順調に進みました。写真家の土門拳も現場を訪れ、建設の様子を撮影しています。
しかし、工事に動員された学生にとって、この建設作業は大変な重荷となっていました。
学業に専念させるべき学生(女生徒も含みます)を、こんな記念碑の建設なんかに従事させる必要があったのでしょうか。
勤労奉仕なので重労働の割にバイト代も出ず、モノがモノだけに文句を言える雰囲気でもありませんし。

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【八紘一宇と日本】

塔に刻む八紘一宇の文字ですが、「天皇陛下では畏れ多い」との理由から、相川宮崎県知事が欧州留学中に知り合った秩父宮に御真筆を仰ぐこととなります。

「当時非常にお元気で、英気さっそうとしたご様子の殿下はだまってお聞きの後、開口一番「もっと大きくならないか」と言われた。私は「日本一の高さでございます」と申し上げると殿下は「なるだけ大きくしよう」と仰言った。
そして「いつまでに書いたらよいか」と聞かれたので、私はたしか秋ごろまでにとお答えしたように覚えている。
殿下は「ゆっくりしてほしい。私は手習いせねばならぬから」と仰言られた。殿下は聞き届けてくださるご意思であることがわかり、私は感激しつつ宮邸をさがった」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

建設に奔走した相川知事は完成前に広島へ赴任した為、長谷川知事が御真筆を宮邸で賜っています。宮崎への帰路、長谷川知事は廣島に立ち寄って相川知事に面会したのだとか。
八紘之基柱が完成したのは昭和15年11月25日。前夜には500名が参列して、秩父宮御染筆を塔内の祭壇に納める「奉安式」が執り行われます。
このときより、塔に刻まれた「八紘一宇」の文字が人々の目に触れることとなりました。

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八紘之基柱の歴史を辿る時、その名称に関わる「八紘一宇」の問題を避けて通ることはできません。

八紘一宇とは、日本書紀を元に作られた大正時代の造語。
「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、もともとは「人類みな兄弟」とか「世界村」などと似たような言葉です。
中国大陸へ渡った日本人が「八紘一宇」を口にするようになったのは、満洲事変あたりから。内地では数年遅れて昭和12年前後です。
伝統ある言葉と思いきや、意外と歴史は浅いんですね。
で、勢力拡大を目論んだ当時の日本が「大東亜共栄圏」とセットで使用しまくった結果、八紘一宇は戦後になって叩かれている訳です。
経緯が経緯だけに仕方ないのでしょう。

八紘一宇とか大東亜共栄圏といったスローガンは、海外へ活路を見出そうとする近代日本の大義名分となりました。
ただし結果からいうと、「理想と現実が乖離していた」と言わざるを得ません。
理想の実現に取り組んだ個人や組織は確かに存在しました。
しかし、いくら現地住民の宣撫工作に努めたところで、後からやって来た兵士や入植者の横暴極まる行動が反感を買いまくるという悪循環の繰り返し。東亜の大黒柱どころかDV親父状態だった訳です。
勘違いされやすいのですが、これは戦後の反省に立っての話ではなく、戦前から問題化していたコト。
五族協和を掲げる満洲國ですら、当時から民族差別が問題視されていました。内地では余り目立たなかった日本人の差別意識が、多民族国家満洲で露呈したのです。
満洲事変直後の証言を例に挙げましょう。

「満洲國といふ民族協和の自意識の強いところでさへ、日本人かくの如しとすれば、支那だの南洋だのでは思ひやられるのではなからうか。
私は支那事変の始る一年半ほど前に北支に遊びに行つた時、天津の南開大学校長 張伯岑にあつたことがある。この人は「日支親善といふことはよくわかるけれど、日本人の不愉快な事件を毎日ニ三度見てゐると、そんなことはどうにも考へられないくなる」といつてゐた。張伯岑は支那教育界の大元老で、今は重慶に居る。
その時にはわたしも目にあまる日本人を数多く見た。
無賃乗車をとがめられて車掌をなぐる日本人。三等切符で二等に乗りこみ梃子でも動かぬ日本人。人絹や銀の密輸を手傳ふ日本人の女。どてらを着て北京や天津の驛ホームをのしあるく日本人。阿h密賣をやつてゐる半島人、等々である。
奉天に帰つて當時の特務機関長D将軍に「あなたがたがいくら理想を描いて居られても、あれではすべてぶちこはしではありませんか」と話したら「いや、あまり多いので閉口して居るのです」とこぼして居られた。
わたしはそれ以後の北支を知らない。中支・南支も知らぬ。たゞ現在では、いかがはしい日本人にビシ〃退去命令をくはせて居ることも承知してゐる。だから、時代の進歩をもあはせ考へて、その當時よりははるかに日本人本來の姿にかへつてゐるだろうことを確信する。それとともに在満日本人がこの際、弊風打破に一奮發することを要請したいのである」
満洲國民政部簡任編審官 寺田喜治郎「日本人心得帳」より 昭和8年

熱心な教育者であっただけに、寺田先生は相当の危機感を抱いていた様です。
現地他民族に對して多少の蔑視観をもつてゐることは、文化度の差異から生じやすい弱點ではあるが、“八紘一宇”の手前もある。気をつけなければならない(同上)」という彼の警告は、しかしどこまで通じたのでしょうか。
後年には今田荘一大佐などの軍人も満洲の状況を憂う始末でしたから、改善は困難だった筈。
「八紘一宇」を巡る議論が噛み合わないのは、対立する双方の主張が当時の理想と現実を論拠にしているからです。

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八紘之基柱の四隅には「大篝火台」が設置されています。これは戦時中、塔建設記念日「八紘祭」の夜に篝火を焚いていた名残り。闇のなか炎に浮かび上がる塔の姿は、神秘性を増すのにも効果があったことでしょう。

話を宮崎県に戻します。
完成した八紘之基柱は、大東亜共栄圏のシンボルとしてPRされました。
宗教施設ではなくでっかい記念碑に過ぎないのですが、ここを“参拝”する人々も増えて新たな観光スポットと化します。誘致作戦大成功。
正式名称の「あめつちのもとはしら」では面倒だったのか、いつしかこの場所は「八紘台」と呼ばれるようになりました。

平和台公園

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塔の右側面

基柱の設計構造は一切純日本式とし、斯界の泰斗日名子実三が精魂を傾け、全知全能を打込み、畢生の心血を注いで造られたもので、わが国近代芸術作品の最高峰をなすものである。

苑地
総設計 林学博士 田村剛
総面積 実測一二,〇五四坪
塔を含む広場面積 二,六〇〇坪

基柱
設計 彫刻界の泰斗日名子実三、昭和十四年三月二十三日模型完成。
この模型により建築界の権威日本大学講師南省吾仕様設計書作製。
施行 株式会社大林組
着工 昭和十四年五月二十日
定礎 昭和十五年四月三日
竣功 昭和十五年十一月十五日

三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

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塔前面のテラス部分。現在とは景色も違いますね。

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八紘一宇の名のもとにアジアでの勢力拡大をはかった日本。
戦争の時代、八紘之基柱が軍国主義に利用されたのも当然の流れでしょう。
面白いのは、八紘台が陸軍の行軍演習コースにも組み入れられていたこと。ここは川南空挺史のブログなので、私の手許にある落下傘部隊の演習地図を例に挙げましょう。
新富町の新田原飛行場を飛び立って川南町の塩付降下場へパラシュート降下した空挺隊員は、そのまま新田原飛行場方面へUターンを開始。飛行場手前で西都市へ進路変更し、国富町方面へ山中を行軍突破。そこで一泊の後、大淀川沿いにゴールの宮崎駅を目指す……途中でわざわざ八紘台へ立ち寄るルートが記入されております(地名は現在のもの)。
八紘一宇の精神訓示だったのか、単なる観光だったのか、目的は不明。まあ、地元の部隊はそれなりに塔を有効利用していたのでしょう。

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【宮崎空襲と八紘台】


沖縄に米軍が迫りつつあった昭和20年。
米軍上陸が予想された宮崎県沿岸部には、上陸牽制部隊の第154師団(西都市)と156師団(国富町)、それを側面支援する第212師団(都農町)、霧島山麓には後衛の第25師団(小林市)が展開。八紘台にも地下陣地が構築されました。
昭和20年3月には陸軍落下傘部隊の第1挺進戦車隊が川南空挺基地から宮崎市へ南下します。これは、宮崎を訪問中の三笠宮へ演習を披露するのが目的でした。
偶然にも、演習予定日の18日は米軍機の宮崎初空襲と重なってしまいます。
同じ日、米機動艦隊が都井岬沖へ出現。空母から飛び立った艦載機群は、夜明けと共に九州南部へ奇襲攻撃を仕掛けました。
沖縄進攻作戦の前に、特攻隊の出撃拠点であるこのエリアを「露払い」しておく必要があったのです。

空襲を受けた宮崎県内の赤江、新田原、富高、都城西の各飛行場は多大な損害を蒙り、当然ながら空挺部隊の演習も延期されました。
三笠宮は八紘台の地下壕へ避難しており、空襲の被害を免れます。日本側も、アメリカ機動部隊の接近を察知していたのでしょう。三笠宮が宿泊する筈だった旅館の御主人は、「前夜のうちに宮崎が攻撃される可能性ありと極秘の警報が届き、宿泊先を八紘台へ変更された」と証言しています。
18日3時20分には警戒警報が発令されたものの、内陸部の都城西飛行場は米軍の第一撃を受けるまで完全に油断していました。事前に迎撃機を上げていたのは富高飛行場のみで、他は一方的に爆撃を受けています。

その後も激しい空襲に晒された宮崎県ですが、ぺったんこな宮崎平野で目立ちまくっていた八紘之基柱自体は爆撃を受けることもなく、不思議と破壊を免れました。
宮崎を空襲する米軍機にとっては、便利なランドマークだったのかもしれません。

しばし止んでいた宮崎空襲も、沖縄戦の終結と共に再開されました。更に、艦載機による軍事目標限定の空襲から、B29爆撃機による無差別爆撃へと激化していきます。
沖縄の次は、九州南部が戦場になると予想されていました。宮崎県警本部は沿岸部住民の山間部疎開計画(艦砲射撃の射程圏外)を練っていましたが、米軍上陸が決行されたならば、沖縄と同じ凄惨な地上戦が再現されたことでしょう。
米軍が大淀川沿いに侵攻した場合、八紘台を間に挟んで国富町の陸軍第156師団と激突する構図になります。そうなれば、塔も破壊を免れなかった筈。

幸いにも、8月15日の敗戦によって本土決戦は回避されます。
B29の空襲で叩きのめされた宮崎平野には、八紘之基柱が空しく聳え立っていました。
「基柱は罪穢を祓ふ御幣なのです。この国民の総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ……」という相川知事の言葉が、皮肉にもこのような形で帰結してしまったのです。

平和台公園

【戦後の八紘台】

戦後、八紘台を撤去しようとする動きがありました。
昭和20年10月から宮崎に進駐したアメリカ軍は、マスマン少佐の指揮下で民政化に着手。残存兵器の破壊や教育改革など、軍事色の排除に動きました。
当然ながら八紘之基柱も問題視され、宮崎市民に塔撤去の是非を問います。しかし、周囲の目を怖れて誰も関わろうとしませんでした。
困り果てた進駐軍が西村楽器店の池田鋼士郎社長に相談したところ、「建設の経緯から考え、安易にミリタリズムと直結すべきではない」との答えを得て保存が決定。
昭和21年8月、「塔に軍国主義の色を留める「八紘一宇」の文字が刻まれ、また背面には穏当ならざる碑文がある」との理由で八紘一宇の文字と武人像は削り取られ、塔は進駐軍の監視下に置かれました。
また、塔内に収められていた秩父宮の御真筆にも進駐軍から焼却命令が出されます。
これだけは何としても回避したい宮崎県知事と宮崎神宮は極秘会談を重ねました。その結果、遂に御真筆奪回作戦が決定されます。


「当時の谷口明三知事は心配してどうするか、ということで関係者は毎日のように県庁に集まって協議しました。
ある日、宮崎神宮から片岡常男宮司、吉野房見官房主事、赤星寛秘書課長らを交えて協議した結果、吉野主事の「御真筆」を焼くわけにはいかない、隠そう」という提案に皆が賛同しました」

「メンバーの中にいた宮崎神宮の菅原喜一禰宜が「それでは私が命をかけてやってみましょう」ということになりましたが、菅原禰宜には二人の子供がいました。
万一の場合、切腹する覚悟であった菅原禰宜の胸中を察してか、吉野官房主事が「後の面倒は自分が見る」との最終協議でことが運ばれました」

「ナッパ服を着て浮浪者を装った菅原禰宜は、占領軍がテントを張って見張っている塔の周辺を、スキあらば塔の中に入ろうと、毎日出掛けていたという。そして遂にそのチャンスがやってきた」

三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

ある日、八紘台の警備兵たちが青島キャンプへ出かけることになりました。
菅原氏から「アメリカ兵不在」との通報を受けた県職員たちは塔へ急行、御真筆を運びだして地中に隠します。戻ってきたアメリカ兵には別に燃やした紙を示し「さっき焼却処分したところだ」と騙しました。
アメリカ側も特に追及せず、奪回された御真筆は6年半に亘って秘匿され続けます。

この御真筆ですが、秩父宮が亡くなった昭和28年1月4日に存在が公表されました。

八紘一宇

戦後はロッククライミングの練習台と化し、荒れ果てていた八紘台。しばらく後になってから歴史的価値を再評価され、公園としての整備が進みました。
現在は「県立平和台公園」と名を変えて、森林散策コースを備えた宮崎市民憩いの場となっています。

その過程で、武人像と八紘一宇の文字も昭和37年と40年にそれぞれ復旧が決定。ただし、前述の「穏当ならざる碑文」は削られたままとなりました。
八紘一宇の文字復旧には反対意見も強く、シンポジウムなどで激しい議論が重ねられたものの「いまさら軍国主義もないだろう」との結論により再建へと至りました。
「八紘一宇復活」を巡る当時の記録もたくさん残っていますから、興味がある人は調べてみましょう。
で、「八紘一宇の文字を復元すべき」「復活反対!戦争への反省がないのか!」「文字を復元しないのは侵略戦争の隠蔽だ」などと、削ったまま案も復元案も両派からの非難ゴーゴー。
そのような意見の対立を経て、現在の歪な平和台がある訳です。

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塔の裏側

このブログでご紹介した宮崎県内の戦時遺構は、大部分が「貴重な歴史的資産」という捉え方をされていますが、平和の塔だけは違います。
「八紘一宇」への賛美や反発からか、個人レベルでの主義・思想を振りかざす人ばっかり。派手なアジテーションばかり目立って、地道に塔の歴史を掘り下げた資料を探すのは難しいですね。
論点が塔限定ならまだしも、興奮のあまりアサッテの方向へ暴走している主張もすくなくありません。
塔の話をしていた筈が、いきなり現代アメリカの政策を罵り始めたり、軍事慰霊碑か何かと勘違いしたのか矢鱈と美化してみたりね。
そうやって選挙カーみたいに自説をがなり立てられると、読んでいるこちらは鼻白むだけです。
単純に地域の歴史を調べたい人にとっては、誠に困った状況ですねえ。

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【平和台公園へ】

賛成・反対の両派が真剣な調査と議論を重ね、(渋々ながら)折り合いをつけた姿が現在の平和台公園。
その辺の経緯すら知らず、ネット検索程度で調べた気になった人々が、走り幅跳びの批判や賛美をしてもナニがナニやらですよ。
極めつけは「平和台公園の名前は欺瞞だ!」とか喚く人までいて、だったら八紘台に戻せばいいのかと。戻したら戻したで激怒するんでしょうね、あの手の人は。

「平和の塔」に関する議論のうちで、実物を見た上での主張が幾つあるのか怪しいものです。
見た事がないモノの批評に対しては、得てして個人の妄想や先入観が混じりがちですからねえ。私も気を付けなければ。

まあアレですよ。
まずは宮崎まで来て、己が批評している対象物を実見して、ハニワ園から新池をぐるっと一周しつつ展望台まで足を伸ばし(途中で迷子にならないようにね)、広大な自然の中でアレコレ思索されては如何でしょうか。ネットに閉じこもっているとヒートアップしやすいですからね。

広場のベンチでボーッと眺めていると、駐車場に乗り付けて、10分くらい塔の写真を撮っただけで、そそくさと去って行かれる人もお見受けします。忙しいのは分かりますが、入り口でUターンするとは勿体無い。
そのような方々のため、平和台公園内をご案内しましょう。

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まずは塔の広場からハニワ園へ下ります。

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更に下ると池の畔公園が見えてきます。

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新池沿いに歩くとアスレチック広場が

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新池では水中からにょきにょき樹が生えていますが、水没したのではなくそういう種類です。

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対岸に塔が見えてきました。

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昔はこんな感じ

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一周二キロ位。運動するには丁度良いコースです。

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やっと半分位歩きました。ここにも水中林が。

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紅葉の季節は綺麗なんだろうな

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元の場所へ戻ってきました。

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ここを登ればゴール。といっても、平和台公園を半周しただけですが。

まあ、公園で散策を楽しむ皆さんは「単なる記念碑」みたいな捉え方でいいと思います。
ネットの中とは違い、公園には目を血走らせて70年前のことを罵り合う人もいませんしね。それよりも、平和台公園の美しい自然とハニワちゃんを楽しんだ方が百万倍マシ。
八紘之基柱自体、広大な公園の入り口にあるモニュメントに過ぎませんし。
知るにしても、塔の由来くらいで充分です(あくまで国内向けの見解ですが)。

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そういう訳で、平和台公園の歴史を論じたければ塔をその目で見て、色々な資料を読み比べて、複雑な経緯があることを知りましょう。
くれぐれも、敵味方識別装置全開でハッコーイチウだ何だと議論している人達には近寄らないように。地域の歴史を知りたいワケではなく、手前が主張する歴史観のネタとして八紘台を持ち出す人に対しては尚更です。
迂闊に近寄ると「お前はどっち側だ!」とイキナリ踏み絵を強要されたりしますよ。
怖いですねえ。

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県立平和台公園全体図。因みに、塔があるのは赤丸部分。

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#40 Re: No title
こちらこそご無沙汰しております。
昨年の夏に文書センターが開催していた「戦渦の中の宮崎」展を見て、「これだけ保管されているなら、新たな資料が出てくるかも」と期待していました。八紘台その他に関しても、まだ知られていない史料があるのですね。
郷土紙デジタルアーカイブのおかげで、最近は調べものが随分と楽になりました。反面それに頼ってしまい、お年寄りと会話したり、他の場所を探すのが疎かになっているのかもしれません。反省しております。
今までは国内だけで済んでいた八紘之基柱を巡る議論も、中国からの返還要求がありましたし、海外からの視点を含めて考え直す時期なのでしょう。
その辺も含めて「観光宮崎」に活用する貪欲さがあれば、まだ宮崎にも希望があるのかなとも思います。

余談ですが、yamatosh様のツイートで大分県歴史資料館の犬の歴史展を知る事ができました(twitterをやめて久しいですが、情報収集のため時々拝見しております)。
お蔭さまでギリギリセーフで間に合いました。御礼申し上げます。

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