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空挺部隊年表

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明治13年(1880年)
米軍のトーマス・ボールドウィン大尉が気球から落下傘降下。

明治22年(1889年)
米国のレリュークスが1500m上空の気球から落下傘降下。
2カ月後、漂流気球の受領にドイツへ赴き、ドイツ軍シューネベルグ飛行場で降下実演を披露。

明治23年(1890年)
明治天皇の前で、英国人スペンサーが日本初のパラシュート降下を披露
米国人ボールドウィンが上野博物館前広場にて気球からパラシュート降下実演。


明治41年(1908年)
宮崎県児湯郡上江村に軍馬補充部高原支部設置。
8月21日、高原支部川南派出部着工。

明治42年(1909年)
4月18日、高原支部川南派出部落成式。

明治43年(1910年)
軍馬補充部高原支部を高鍋支部へ改称。

大正元年(1912年)
米国のアーヴィングが飛行機から落下傘降下。

大正7年(1918年)
10月20日、フランス軍のエブラール少佐他1名がアルデンヌに落下傘降下、後方攪乱作戦を実施。

大正8年(1919年)
米軍のウィリアム・ミッチェル大佐が大規模空挺作戦を立案(前年末に終戦となった為に中止)

大正10年(1921年)
米国バースバーサーカス団が東京洲崎埋立地上空で飛行機からパラシュート降下を披露

大正11年(1922年)
イギリス海軍よりオードリース少佐を招聘し、日本人初のパラシュート降下を實施
陸軍1名、海軍4名、民間人1名が気球より落下傘降下。
玉川第二遊園地開園。

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昭和2年(1927年)
立川飛行場上空で航空機分解事故が発生した際、パイロットの中尾純利氏がパラシュートでの脱出に初成功。
ソ連軍が冬季演習にて空挺降下を実施、8名の空中歩兵が降下。民族紛争鎮圧のため、ソ連軍が後方攪乱部隊をパラシュートで投入。
ウィリアム・ミッチェルが第1次大戦時の空挺作戦計画を公表。

昭和4年(1929年)
アメリカで降下法を学んだ留学生の帰国を機に、ソ連が落下傘手の大量養成に着手。

昭和6年(1931年)
ソ連軍が空挺部隊を設置。

昭和8年(1933年)
フランス軍が落下傘学校を設立。
ソ連共産青年同盟中央委員会がパラシュート降下を党員の軍事技術教育課目に採用。
ソ連の落下傘部隊・同好会数26、練習場数3ヶ所、落下傘学校数1校。

昭和9年(1934年)
ソ連の落下傘部隊・同好会数218、練習場数12ヶ所、落下傘学校数2校、落下傘練習塔数120基。

昭和10年(1935年)
キエフ大演習にて600名の赤軍兵がパラシュート降下。装甲車、軽戦車、トラックの空輸にも成功。
ソ連の落下傘部隊・同好会数1300、練習場数115ヶ所、落下傘練習塔数370基。

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戦時ドイツの一コマ漫画より

昭和11年(1936年)
ドイツ軍が空挺部隊の研究に着手。
ソ連国内の過去10年間落下傘降下経験者数が延べ140万6千人に達したと発表。空挺部隊兵力は6万人。

昭和12年(1937年)
ミンスクでの演習にてソ連空中歩兵1200名が降下。
モスクワでの演習にてソ連空中歩兵1個大隊2200名が降下。
フランス軍の演習にて、落下傘部隊70名が降下。

昭和13年(1938年)
宮崎県新田村、富田村(現・新富町)に陸軍飛行場建設を決定。
イギリス軍が落下傘部隊の研究を開始。

昭和14年(1939年)
2月1日、新田原飛行場建設着工。
3月、宮崎市赤江町に傷痍軍人寮宮崎療養所開設。

昭和15年(1940年)
4月9日、ドイツ降下猟兵がデンマークのオールボー空港を占拠。
5月10日、ドイツ軍空挺隊員がグライダーでベルギーのエバン・エマール要塞を奇襲、占拠。
7月15日、熊谷陸軍飛行学校新田原分教場設置。
8月15日、地元住民へ新田原飛行場への立ち入り禁止の通告。
11月、日本海軍が空挺部隊の研究「第1001実験」に着手。
11月7日、二子玉川の読売遊園に落下傘塔開設。
11月17日、大刀洗陸軍飛行学校新田原分教所開所式。
12月、日本陸軍が浜松陸軍飛行学校に落下傘の練習部を創設。落下傘部隊の要員養成と研究を開始。
米軍が第501空挺部隊をフォート・ベニングにて編成。

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二子玉川の讀賣落下傘塔

昭和16年(1941年)
1月、陸軍落下傘基幹要員整備。
2月20日、第一回目の降下訓練に成功。
5月、東條大臣の勧めにより挺進練習部を満州国の白城子陸軍飛行学校へ移転。
5月20日、ドイツ軍、クレタ島降下作戦に降下猟兵を大規模投入。連合軍の反撃で大損害を蒙った為、以後の空挺作戦は縮小へ。
イタリア海軍が空挺部隊を編成。
8月、白城子は地理・気候的条件が悪い為、宮崎県の陸軍新田原飛行場へ移転開始。教導挺進第一聯隊(4個中隊)及び挺進飛行隊、材料廠を編成。
9月、日本海軍が初の空挺部隊である横須賀第1特別陸戦隊を編成。
9月4日、落下傘降下場(唐瀬原)設置のため兵300、都農駅到着(黒木浩町長日記より)
9月8日、落下傘降下場建設始まる。都農より奉仕作業に100名(永友百二日記より)
10月、川南の高鍋軍馬補充部塩付分厩を落下傘降下場に転用完了。
10月12日、新田原および唐瀬原を使用しての〇〇(落下傘部隊の秘匿名)降下演習挙行。
11月、英陸軍将校スターリングがSASを創設。
11月2日、日本海軍横須賀第三特別陸戦隊を編成。
12月1日、教導挺進第1聯隊は挺進第1聯隊として動員下令。パレンバンへ出撃。それに伴い、挺進飛行隊を挺進飛行戦隊(4個飛行中隊及び1個飛行場中隊)へ改編。
12月10日~12日、落下傘降下場整備に都農より1200名動員(黒木浩町長日記より)
12月30日、落下傘部隊長久米大佐、地元町長に出征の挨拶(黒木浩町長日記より)

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宮崎県で上映された映画「空の神兵」

昭和17年(1942年)
1月3日、挺進第1聯隊を載せた明光丸が火災で沈没、全員救助。
1月9日、陸軍中野学校出身者が新田原で空挺部隊に合流。川南と都農が要塞地と同等の扱いに。
1月11日、海軍横須賀第1特別陸戦隊がメナドで降下作戦を決行。
1月15日、行動不能に陥った挺進第1聯隊の増援として、挺進第2聯隊が門司を出港
1月30日、挺進第2聯隊がカムラン湾へ到着
2月、ソ連軍空挺部隊が積雪地帯へパラシュートなしで降下。
2月9日、国道3号線を軍機密保持のため新町~都農駅~福原尾~新田~分子村~垂門(川南)に変更決定。
2月14日、日本陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊がパレンバンへ降下。
2月20日及び21日、日本海軍横須賀第3特別陸戦隊がクーパンに降下。
4月29日、挺進第1聯隊がラシオ空挺作戦に出撃するも悪天候により中止。1機が失速事故で墜落、1機が行方不明となり隊員20数名が殉職。
6月、第1挺進團が帰国。混雑のため挺進第2聯隊だけは熊本の菊池飛行場で一時待機。
同月、新編成した教導挺進第1及び第2聯隊を挺進第3聯隊および第4聯隊へ改称。
挺進練習部内にグライダー操縦を研究する「滑空班」を設立。
イタリア陸軍のネンボ空挺連隊などを第185フォルゴーレ空挺師団へ再編成。
7月22日、挺進第1聯隊が宇都宮の天覧演習に参加。
映画「空の神兵」公開。
8月、米陸軍の第82および第101空挺師団を再編成。
8月7日、都農にて、118部隊(挺進第3聯隊)50名の民宿割当を決める(黒木浩町長日記より)
9月、滑空班を新田原基地から所沢へ移動。
12月23日、西部116部隊、菓子工場を都農の中町文明堂に委託。

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日本軍空挺部隊の精強さを養蚕に結び付けたイラスト。昭和17年

昭和18年(1943年)
グライダー操縦者を養成する滑空班を所沢から西筑波へ移動。
2月14日、英軍ウィンゲート空挺旅団がビルマ方面に侵入、日本軍への後方攪乱を開始。
3月、横須賀第3特別陸戦隊、横一特に合併され消滅。
5月、海軍空挺部隊がアッツ島救援計画を立案。
5月29日、アッツ島守備隊玉砕にて作戦中止。
6月1日、陸軍の射的場を都農の朝草に設置。
6月18日、小丸川を渡河訓練中の挺進第4聯隊新任将校が増水で流され、教官1名を含む8名が殉職。
訓練責任者の榊原大尉が自殺未遂。「忠烈八勇士殉職之碑」を小丸川岸に設置。
同月、第一挺進團に動員命令、ペリリュー及びスマトラへ待機するも出撃の機会はなし。
7月5日、西部119部隊(挺進第4聯隊)60余名、都農で田植奉仕活動(黒木浩町長日記より)
7月10日、連合軍空挺部隊がシチリアで降下作戦。
8月、挺進第5聯隊、挺進飛行第2戦隊、挺進工兵隊、挺進通信隊を編成。グライダーによる滑空強襲部隊として西筑波へ移動。
同月、唐瀬原にて挺進戦車隊(戦車中隊、自動車中隊、材料廠)を編成。
9月、挺進第1聯隊がベナベナ、ハーゲンへの降下作戦中止を決断。
9月13日、グラン・サッソをスコルツェニー少佐率いるSS特殊部隊がグライダーで急襲、幽閉中のムッソリーニを奪還。
9月18日、暴風雨被害甚大、都農の軍射的場水害の原因となる(黒木浩町長日記より)。
11月、挺進通信隊を第一挺進通信隊へ改称。

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昭和18年発行の本に載ってたんですが、何ぞコレ?

昭和19年(1944年)
1月、海軍のコマンド部隊である佐世保101特別陸戦隊(S特部隊)編成。
3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」にてパレンバン降下作戦を再現。
5月、挺進第4聯隊の榊原大尉ら一行が延岡高女を訪問。同校の女生徒と交流。
5月25日、第500SS空挺大隊がチトーの拠点を襲撃するも失敗。
6月、滑空部隊がグライダーを曳航する第14、第15輸送飛行中隊を編成。
6月3~6日、挺進第4聯隊の将兵650名、都農にて麦刈作業奉仕。
6月6日、連合軍空挺部隊がノルマンディー降下作戦を開始。
6月15日、サイパンに米軍が上陸開始、現地の海軍横須賀第1特別陸戦隊は1名を残し壊滅。
7月、サイパン守備隊玉砕により、日本本土がB-29の爆撃圏内へ。
7月16日、唐瀬原に滑走路建設開始、延岡商業、高鍋中学、飫肥中学の生徒を学徒動員。
8月、第一挺進集団、宮崎県へ帰還。
9月、挺進練習部長が久米少将から塚田少将へ。
9月17日、マーケット・ガーデン作戦で連合軍空挺部隊が降下。
10月20日、第二挺進團(団長徳永大佐)に動員下令。東京朝日新聞が陸軍落下傘部隊特集を連載。
10月20日、米軍がレイテに上陸。
10月24日、挺進第三聯隊にフィリピンへの出撃を下令。動員完結。
10月25日、挺進第三聯隊が唐瀬原を出発。挺進第四聯隊にフィリピンへの出撃を下令。
10月30日、挺進第三聯隊が空母隼鷹で佐世保出港。
11月、挺進第五聯隊を滑空歩兵第一聯隊、第二聯隊、及び第一機関砲隊へ再編成。挺進飛行團(3個飛行戦隊、通信隊)を編成。
11月3日、挺進第四聯隊が門司港を出発。
11月4日、新田原飛行場にて挺進飛行第一戦隊の編成完結。
11月5日、挺進司令部と挺進飛行第一戦隊にフィリピンへの動員下令、飛行戦隊は台湾へ移動。第二飛行戦隊からも三浦中隊が参加。
これにより第二挺進團、通称「高千穂空挺隊」を編成。
11月8日、第二挺進団長及び指揮部隊がマニラへ前進。
11月10日、挺進飛行第一戦隊が新田原を出発。
11月11日、第二挺進団長がマニラ着。第四航空團司令官の指揮下へ。挺進第三聯隊がマニラへ上陸。
11月12日、第二挺進團司令部が挺進第三聯隊を掌握。第四航空軍の指揮下へ。
11月14日、挺進司令部と挺進第三聯隊がクラーク基地に到着。挺進飛行第一戦隊が台湾にて作業準備。
11月15日、挺進第三聯隊が南サンフェルナンドへ転進。
11月25日、挺進練習部を第一挺進集団へ改編。それに伴い、材料廠を挺進整備中隊(地上担当中隊及び航空担当中隊)へ改編。
11月26日、中野学校出身者と高砂族で編成された台湾軍遊撃隊「薫空挺隊」4機がブラウエン飛行場を空挺強襲するも失敗。
11月27日、教導航空司令官から挺進練習部に対しサイパン攻撃部隊の編成命令。挺進第一聯隊第四中隊選抜隊員126名により神兵皇隊(後の義烈空挺隊)を編成。隊長は奥山道郎大尉。
挺進飛行第二戦隊の編成完結。唐瀬原にて第一挺進機関砲隊の編成着手。
11月30日、挺進第四聯隊がサンフェルナンドに到着。第一飛行團通信隊を新田原で、滑空歩兵第一聯隊を筑波にて編成完結。
12月1日、挺進飛行第一戦隊がアンフェレス到着。滑空歩兵第二聯隊が筑波にて編成完結。
12月2日、挺進飛行第二戦隊が新田原を出発。
12月3日、挺進第四聯隊がクラーク基地に到着。
12月4日、滑空歩兵第二聯隊に動員下令。
12月5日、高千穂空挺部隊の出撃は1日延期。奥山隊が川南から埼玉県豊岡へ移動。
挺進飛行第二戦隊がアンフェレスへ到着。川南にて第一挺進工兵隊と第一挺進機関砲隊の編成完結。
12月6日、高千穂空挺隊がブラウエン北、南、サンパブロ、ドラッグ、タクロバンの米軍飛行場に降下。輸送機の被害多数により後続部隊の降下に失敗。
タクロバン、ドラグへ向かった第四挺進連隊員と三浦飛行中隊は全滅、生存者は捕虜4名のみ。
12月7日、オルモックに米軍上陸。
鈴木大尉以下40名の高千穂空挺隊第二波降下隊がブラウエンへ向うも、4機中2機不時着、2機行方不明により増援中止。この際30名が戦死傷。
12月8日、オルモック支援のため高千穂空挺隊444名がバレンシアへ降下開始。牟田中尉指揮の挺進第四連隊残余は南サンフェルナンドへ待機。
12月9日、悪天候の為バレンシア降下中断。
12月10日、斉田第4連隊長以下84名がバレンシアへ降下、第35軍司令官の指揮下へ。
白井第3連隊長一行がブラウエン飛行場から撤退、重松大隊と合流。
12月11~13日、高千穂空挺隊後続部隊がバレンシアへ降下。
12月13日、米艦隊出現の報により高千穂空挺隊残存部隊500名をバドロゴへ空輸。60名を空輸した時点で輸送機2機を撃墜され中断。
12月14日、重火器中隊32名がバレンシアへ降下。第1師団と合流。
12月16日、米軍が日本軍陣地を突破、斉田聯隊は撤退。
12月17日、奥山隊126名に第三獨立飛行隊32名と陸軍中野学校出身者10名が合流、総勢168名に。
同部隊名を「義烈空挺隊」と命名。
フィリピンへ出撃する滑空歩兵第一聯隊主力と村川中尉指揮の第一挺進通信隊135名が空母雲竜に乗艦して宇品を出港。
12月19日、台湾西方海上にて魚雷攻撃を受けた雲竜が沈没。
挺進集団司令部の一部、滑空歩兵第一聯隊主力、滑空飛行戦隊第一次輸送先発隊、挺進工兵隊第一中隊、挺進機関砲隊の一部、挺進通信隊有線中隊が海没。生存者3名のみ。
滑空歩兵第二聯隊と挺進工兵隊及び挺進通信隊主力が門司を出港。
唐瀬原に残留する挺進戦車隊に歩兵1個中隊を追加。
義烈空挺隊、サイパン突入のため茨城県西筑波へ移動。
12月21日、第一師団と高千穂空挺隊がリモン峠を撤退。
12月22日、義烈空挺隊が出撃前の夜間演習。飛行隊の技量不足が露呈。
12月24日、義烈空挺隊のサイパン出撃延期。
12月25日、サンパブロから撤退中の白井連第3隊長が第16師団同行の土屋少佐と連絡をとろうとするも失敗。挺進司令部及び高千穂空挺隊予備戦力がマニラに集結。第一挺進飛行團通信隊が台湾へ。
12月29日、第一挺進集団の残存兵力が北サンフェルナンドへ上陸。滑空歩兵第一聯隊は生き残った舘大尉の中隊と作業中隊だけが到着。挺進工兵隊主力は分断され、滑空歩兵第一聯隊戸田中隊と共にバギオで道路構築作業へ。
12月30日、挺進機関砲隊と挺進通信隊の残存兵力がサンフェルナンドへ上陸。
12月31日、第一師団がカンキポットへ到着。

昭和20年(1945年)
1月1日、挺進第四聯隊の一部を軍司令部直轄に。聯隊主力はオルモック北側に展開して50回に亘る斬り込み作戦を開始。今堀支隊の軍旗救出に協力。
1月5日、第二挺進團にマニラ死守命令、高千穂空挺隊はマニラ中地区隊へ。
1月6日、滑空歩兵第二聯隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊がクラークへ到着、現地の建武集団と共に行動。
1月7日、挺進機関砲隊の主力をアンヘルス、一部をストンチェンバーグへ展開。
1月9日、第二挺進司令部がルソン、エチアゲへ転進。
1月11日、挺進司令部主力がエチアゲ到着。
1月12日、挺進飛行第一戦隊主力が台湾へ撤退、取り残された岡島大尉以下312名が「挺進飛行第一戦隊比島派遣隊」として第二挺進團直轄部隊へ。挺進通信隊がクラークに展開。
1月16日、マニラの第四航空軍富永司令以下が台湾へ逃亡。司令部の護衛にあたっていた第二挺進團徳永団長以下400名の高千穂空挺隊員は山下軍司令官の予備隊に移動。
1月21日、第一挺進集団の各部隊がクラーク防衛戦開始。
1月25日、滑空歩兵第二聯隊と米軍が交戦状態に突入。
1月26日、白井第3聯隊長がカンキポットへ到着。
1月27日、義烈空挺隊、サイパン突入計画を中止。宮崎県へ帰還。
2月1日、挺進飛行第一戦隊比島派遣隊がコルドンにて戦闘開始。
2月4日、白井第3連隊長陣没により、高千穂隊第一波降下部隊全滅。
2月5日、斉田第4連隊長がカンキポットへ到着。高千穂空挺隊の残存は第3連隊十数名、第四聯隊が百数十名。司令部直轄だった大村大尉の部隊が再合流。
2月6日、第二團挺進司令部に遊撃戦命令。久富少佐以下高千穂空挺隊300名はコルドンにて遊撃隊へ再編、大城大尉以下挺進第3連隊残余100名はエチアゲにて別途警備行動。
3月5日、レイテに出撃していた第一挺進飛行團司令部が新田原飛行場へ帰還。
3月10日、第35軍司令部がセブ島へ転進。高千穂空挺隊も同行。第3連隊久富部隊がトバツスクへ転進。
クラークの挺進機関砲隊が本丸陣地守備隊帳柴田少佐の指揮下へ。
3月11日、本丸陣地守備にあたる挺進機関砲隊が戦闘で3分の1を失い、陣地から撤退。
3月12日、徳永団長が高千穂空挺隊を8個遊撃隊に再編成。義烈空挺隊が硫黄島突入作戦の為に土浦へ移動。
3月13日、徳永遊撃隊がバレテ峠付近に展開、米軍へのゲリラ攻撃を開始。義烈空挺隊が西筑波で飛行隊と合流、硫黄島突入訓練を開始。
挺進機関砲隊は柴田少佐の指揮から離れ、奥山陣地の守備に配置。
3月14日、第2挺進團は第10師団長指揮下に入り、独立歩兵11聯隊を指揮。
3月15日、台湾の第1挺進飛行團通信隊が唐瀬原に帰還。
3月16日、鈴鹿峠に独立歩兵本部と大城警備隊が到着。
3月17日、徳永遊撃隊、鈴鹿峠に布陣。
3月18日、九州沖航空戦開始、午前3時、6時に警戒警報発令、唐瀬原飛行場を米軍機が機銃掃射。
第35軍が地號作戦開始、挺進第4聯隊第1梯団は司令部直衛隊に。木下大尉指揮の第2梯団はデヨット海岸に待機。挺進飛行第1戦隊員が臨時遊撃第7中隊としてバレテ防衛に参加。
3月19日、第1梯団がセブ島に上陸、玉兵団と連携へ。奥山陣地の挺進機関砲隊が5分の1の戦力を失い、第1深山陣地守備に転進。
3月20日、徳永遊撃隊、臨時歩兵松野大隊指揮下へ。
3月27日、日向市冨髙に撃墜されたB29搭乗員7名がパラシュート降下。
3月28日、挺進機関砲隊が第1深山陣地から第2深山陣地へ転進。斬り込み戦闘に参加。
3月29日、徳永遊撃隊、牛山米軍前進陣地を襲撃。
3月末、義烈空挺隊硫黄島突入作戦中止。奥山隊は宮崎へ帰還。
4月、挺進第1聯隊主力が宮崎から千葉の横芝へ移動。
4月1日、米軍が沖縄へ上陸。
4月2日、バギオ北方1052高地の戦闘で滑空歩兵第1連隊第1中隊竹内浩三兵長が戦死。
4月5日、挺進飛行第一戦隊主力が新田原へ帰還。
4月6日、徳永遊撃隊、秀山敵陣地を襲撃。
4月10日、第35軍司令部がミンダナオ島へ海路転進、高千穂空挺隊22名が警護チームとして同行。
斉田連隊長の2番艇はミンダナオへ到着。4番艇はネグロス島守備隊に合流。其の他の艇は空襲とゲリラの襲撃にて全滅。
4月11日、徳永遊撃隊17組、正面に展開する米軍砲兵陣地を奇襲。大城警備隊20組、5号道路交差点の敵陣地へ斬り込み。
4月12日、長編アニメ「桃太郎 海の神兵」公開。
4月14日、バギオで挺進工兵隊と米軍が交戦開始。
徳永遊撃隊は増田、牟田、野口、朝川、伊東の5個中隊30組で攻撃準備。
4月26日、第一挺進飛行團司令部と挺進飛行第一戦隊が朝鮮半島の連甫へ移動。
4月30日、徳永遊撃隊が金剛山米軍陣地を襲撃、大城警備隊がほぼ壊滅。
5月1日、クラーク防衛にあたる挺進通信隊が戦闘能力を喪失、残存人員は自活行動へ。生存者は5名のみ。
5月4日、第一挺進飛行團通信隊が朝鮮半島の連甫へ移動。
5月8日、義烈空挺隊が唐瀬原を出発、熊本県健軍飛行場へ移動。
5月9日、第10師団参謀平林少佐指揮の斬込隊20組がバレテの戦闘に参加。
5月10日、久富遊撃隊が高千穂山で米軍に対し防衛戦闘。
5月13日、菊池兵団の先遣隊26名が都農着。
5月17日、読谷・嘉手納飛行場強襲「義号」作戦を正式発令。
5月19日、義烈空挺隊の奥山・諏訪部両隊長と直協飛行部隊長との最終打ち合わせ。
5月22日、第11聯隊が滝山へ転進、徳永遊撃隊が師団長直轄部隊に。滝山にて戦闘地区を左右に分割。
5月23日、義烈空挺隊の沖縄出撃延期。
5月24日、義烈空挺隊12機が沖縄へ出撃するも、機体故障により4機が途中帰還。残る8機中1機が着陸成功、沖縄へ突入した隊員112名は全滅。熊本県八代へ不時着した10番機は橋脚に激突炎上、飛行士の水上曹長が殉職。
5月26日、外国の報道機関が義烈空挺隊攻撃の様子を報道。
5月27日、米軍が義烈空挺隊による飛行場の損害を復旧。
5月28日・6月2日、義烈空挺隊帰還組の中から、獨立飛行隊パイロットに沖縄への物資輸送命令。再度沖縄へ向かった全ての飛行士が戦死。
5月下旬、挺進第一連隊のうち、園田直大尉指揮の中隊は千歳へ移動して海軍空挺部隊と共同のサイパン突入「剣」作戦に参加。海軍空挺部隊側は呉鎮守府第101特別陸戦隊と横須賀第105特別陸戦隊が参加。義烈空挺隊残存隊員も参加。
挺進司令部と挺進第二聯隊は川南にて米軍九州上陸に備えて待機。
6月、挺進戦車隊を第五十七軍へ配属、宮崎県都城市郊外へ展開。
アメリカ軍空挺部隊の本土侵入に備え、民間に空挺部隊対処マニュアルを発表。
6月1日、桜井徳太郎菊池兵団長が都農に着任、司令部は不動滝。
6月5日、徳永遊撃隊の田村隊が宝満山へ転進。松野少佐指揮の遊撃隊を新規編成。
6月10日、田村遊撃隊が帰還。高千穂山防衛中の久富遊撃隊、隊員の半数を喪失。
6月11日、徳永遊撃隊、獨立第11聯隊と合流。田村遊撃隊の佐藤中尉、郷主計中尉指揮の輸送班がビルクーク、カガヤン渓谷へ糧秣輸送に出発。臨時遊撃第7中隊がバレテを撤退、北部ルソンへ移動。
6月12日、敵中を突破した義烈空挺隊員1名が現地32軍と合流したとの報告。
6月13日、第2挺進團司令部が誠心山西側渓谷へ移動。
6月16日、鉄兵団が無断で撤退、徳永遊撃隊が敵中に孤立。右地区隊と久富隊残余を誠心山北側へ配置、津田部隊は鈴鹿峠防衛へ。
6月20日、2番艇にてミンダナオ島に辿り着いた斉田第4連隊長がピナムラ付近での戦闘中行方不明に。
7月4日、第2挺進團司令部がビルクークへ転進。久富・松野遊撃隊がピナパガンへ転進。津田部隊がカロバル山系を占拠。徳永遊撃隊主力はスガクへ集結。
7月5日、米軍上陸に備え、町民の移動と避難について都農町長、桜井兵団長と協議。
7月10日、第2挺進團がトオンに到着。飢餓により兵力4分の1を喪失。
7月24日、三沢飛行場空襲により輸送機喪失、剣部隊のサイパン出撃延期。
8月5日、米軍上陸に備え、菊池兵団管区住民戦闘隊結成式。
8月1日、徳永遊撃隊の久富少佐戦死。鈴木大尉が指揮官に。
8月4日、挺進戦車隊と滑空飛行第一戦隊による沖縄への烈號特攻隊を編成し福生へ移動。

8月15日、日本がポツダム宣言を受諾。

挺進司令部では雑音により玉音放送を受信できず、戦闘態勢継続を訓示。
敗戦の報により第1挺進飛行團司令部と挺進第1飛行戦隊が新義州へ移動。
滑空飛行戦隊が宣徳を出発。
満州へ侵攻したソ連軍が降下作戦を展開。樺太でも空挺作戦。
8月16日、第一挺進飛行團通信隊が新義州へ移動。中村挺進団長が川南から東京の総軍司令部へ出頭、終戦会議開催。
横芝にて団長と挺進第一聯隊将校が終戦処理について打ち合わせ。
8月17日、滑空飛行戦隊が大橋着。中村挺進団長が横芝から福生へ移動、烈號部隊を慰撫。
8月19日、滑空飛行戦隊が平壌着。
8月22日、第2挺進團司令部がピナパガン着。飢餓により3分の1となった久富、田村部隊を掌握。
8月23日、徳永遊撃隊が残存部隊を集めて自活行動開始。
8月24日、第1挺進飛行團の一部が北朝鮮沙星院にてソ連軍と遭遇。
8月26日、川南在営中の空挺隊員半数に故郷への復員を指示。
8月27日、阿久根台風襲来、延岡の沿岸に集積されていた震洋艇が流失。
8月31日、敗走する滑空飛行戦隊が組織崩壊、各人が独力で朝鮮半島を南下。一部は興南捕虜収容所へ。
9月4日、クラーク防衛隊の軍使と米軍が接触。
9月10日、塚田集団長、軍使の報告によって日本の敗戦を確認。滑空歩兵第2聯隊を含む建武集団武装解除。日豊線全線復旧、復員軍人の移送開始。
9月12日、挺進第4聯隊がタモンガン草原にて投降。
9月17日、枕崎台風襲来、川南トロントロン地区の戦没者招魂堂が破損。
9月18日、徳永団長以下高千穂空挺隊残余と陸海軍将兵900名がヨネスにて武装解除。
9月25日、菊池兵団、9月中に司令部を新町憲兵隊跡に移転、兵器庫軍需品倉庫を都農競馬場、都農駅へ設置命令。
10月3日、第1挺進飛行團司令部が博多に復員。
10月5日、進駐軍先遣隊が宮崎県に到着。民政部マスマン少佐の指揮により、川南空挺部隊の組織解体に着手。
11月30日、川南挺進司令部の残務処理が完了、川南の空挺基地は民間に開放。
元空挺隊員や菊池兵団が川南の落下傘降下場跡地へ入植。空挺隊員の帰農者集団は「挺進團」と呼称。
12月、赤江の傷痍軍人寮を厚生省へ移管、国立宮崎療養所へ。
戦地から復員してくる高千穂空挺隊傷病隊員受入れの為、挺進司令部残務処理班メンバーを療養所職員に採用。

昭和21年(1946年)
進駐軍が川南の挺進神社を焼き討ち。焼跡の釘は地元在住の石川富之助氏が御神体として保管。
空挺兵舎跡にて、宮崎師範学校生が幽霊を目撃との報道。
中村挺進団長が空挺部隊と川南の戦没者を合祀する慰霊施設建設に奔走。
これとは別に挺進團メンバーが挺進神社再建を計画するも、土地を没収されて頓挫。
4月、赤江の国立宮崎療養所を唐瀬原の第3挺進聯隊兵舎に入っていた国立唐瀬原病院と合併。空挺給水塔は病院敷地内に保存。

昭和22年
2月23日、川南、都農、高鍋3000町歩の川南原国営開墾事業起工式。

昭和24年(1949年)
トロントロン地区に川南護国神社の前身となる霊堂完成。戦没空挺隊員1万2千柱を合祀。
3月21日、川南護国神社例祭開始。
5月、川南村長・都農町長と両協議会長連名で、唐瀬原飛行場跡国道10号線復元促進を陳情。

昭和26年(1951年)
二子玉川の読売落下傘塔を江ノ島へ移設。

昭和29年(1955年)
陸上自衛隊に第一空挺団発足。

昭和31年(1956年)
空挺会報発行。
和歌山県高野山に「陸軍空挺落下傘部隊将兵之墓」建立。
9月21日、川南護国神社から高野山へ英霊1万2千柱を遷座。陸上自衛隊が川南護国神社から宮崎市まで、航空自衛隊が赤江飛行場(宮崎空港)と伊丹空港間にC-46輸送機を派遣して位牌の輸送を担当。
宮崎県川南にて英霊遷座式典開催。
9月22日、陸上自衛隊信太演習場にて英霊遷座式典。陸上自衛隊第一空挺団衣笠隊長以下90名が記念降下(悪天候の為降下したのは半数)。
9月23日、高野山奥の院にて除幕・開眼式典を開催。
バギオで戦死した空挺隊員竹内浩三の遺作集発行。

昭和38年(1963年)
川南護国神社に「空挺落下傘部隊発祥之碑」を建立。
映画「パレンバン奇襲作戦」公開。

昭和40年(1965年)
8月、小柳次一写真展「軍靴の響き」開催。忘れられていた義烈空挺隊の存在に再び注目。
小丸川水難事故の殉職空挺隊員慰霊碑、護岸工事に伴って高鍋大師へ移設。

昭和47年(1972年)
ルバング島に潜伏中の小野田寛郎少尉捜索に、義烈空挺隊生き残りの熊倉順策氏(陸軍中野学校の同期)が協力。

昭和51年(1976年)
5月24日、沖縄県糸満市字摩文仁に義烈空挺隊慰霊碑を建立。

平成2年(1990年)
川南の空挺落下傘部隊発祥之碑に碑文を追加建立。

平成5年(1993年)
陸軍挺進部隊の活躍を描いた松本武仁氏の油絵17点2組完成。1組は陸上自衛隊習志野空挺団へ、1組は宮崎県川南町へ寄贈。

平成6年(1994年)
8月、元報道班員小柳次一氏死去。
習志野空挺館保管の義烈空挺隊員日誌を遺族に返還。

平成10年(1998年)
宮崎日日新聞が「空の神兵の悲話」を連載。

平成14年(2002年)
江ノ島の展望台(旧落下傘塔)撤去。

平成20年(2008年)
フロンティア・デーの催しとして、陸上自衛隊空挺隊員3名が64年振りに川南町へパラシュート降下。

平成22年(2010年)
4月、川南町にて家畜伝染病の口蹄疫が大規模発生。初動の遅れにより県内各地へ飛び火。空挺給水塔前の道路も封鎖。
8月27日、口蹄疫終息宣言
11月23日、川南護国神社慰霊祭を例年通り開催。

平成23年(2011年)
国立病院機構宮崎病院が大規模改修工事に着手。
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