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空挺給水塔 其の6 高千穂空挺隊

Category : 第六部・レイテ降下作戦 |

軍服姿ではあったが、その日の榊原中尉(※落下傘部隊挺進第4聯隊所属)は珍しく大きなふろしき包みを手に提げて、威勢よく院長宅へ顔を出した。
「あら、いらっしゃい。今日は大きな荷物を持って、何かご用でも?」と明るく迎える母の声。
「こんにちは。今日は高鍋の叔母からことずかって、鍋女挺身隊(※宮崎県立高鍋高等女学校の勤労奉仕団体)でレーヨン工場(※日窒化学工業株式会社の延岡人絹工場・現在の旭化成)に来て居る従妹に是を届けるんですよ」
「榊原さん、レーヨンの場所ご存じ?」
「いや、初めてだけど大きな煙突のある工場だからすぐ分かりますよ」
「それじゃ、お昼休みに合わせて会いにいらしたらどう……。公子、ご案内して上げたらいいわ」
気軽く言い残して、母は台所へ入って行った。
かぼちゃ、あんのお菓子パン、大豆と野菜のご汁、たくあん大根葉の漬物と、戦時食としてはボリュームの有る昼食を済ますと、延女(※宮崎県立延岡高等女学校)の制服に着替え、私は家から400メートル先のレーヨン工場へ彼を案内した。
兄弟といえども、男女一緒に行動する事のはばかられた戦争中に、若い将校と肩を並べて歩いた気恥ずかしさと、近所や道歩く人の視線がすごく気になった少女時代のほのかな感傷が思い出される。
正門を入ると、ツーンと鼻をつく酸性の臭いが立ち込め、胸がムカムカして来たが、内で働く人達は空気の悪さに慣れて居るのか、平気な顔をして昼休みをくつろいて居た。
事務所で面会の手続きをしてから程なく、三つ編みに白鉢巻のほっそりした女学生が小走りに私達の前に立った。
白いへちま襟の上衣と縦縞のモンペ、黒いズックに高鍋高女の名札をつけた少女は、二人の突然の訪問に面喰らい、戸惑って居る様に見えた。
「やあ、幸子暫くだったね。元気に頑張って居ますか」と声を掛けてから
「こちらの女学生は駅前の林病院のお嬢さんで、延岡高女一年生の林公子さん。部下と一緒に時々伺って、大変お世話に成って居るんだよ。
さあ二人とも向かい合って挨拶しなさい」
紹介に続いての号令に、二人の女学生は弾かれた様に最敬礼。
彼女のお母様が娘の無事を祈り、愛情を込めて一つ一つ詰めた衣類や食料品の慰問品で有ったと思うが……。
包みを手渡された時の彼女のうるんだ目、「有難う御座います」がやっとの小さな声を忘れる事が出来ない。
同時に“幸子さんは榊原中尉のお嫁さんになる人かも知れない”とふっと思ったりした。

北国公子(旧姓林)氏 「高千穂降下部隊と延岡高女」より

陸軍落下傘部隊はずっと戦地にいた訳ではありません。
地域社会と共存しながら、4個連隊にまで規模を拡大したのです。その過程で、地元には幾つもの記録や証言が残されました。
戦史上は地味な扱いの挺進第4聯隊ですが、宮崎県の郷土史において最も多くのエピソードで知られる部隊。
今回はそれらを絡めながら、高千穂空挺隊について取り上げましょう。

DSC00605_R.jpg
「空挺落下傘部隊発祥之碑」の基礎部分にある高千穂空挺部隊の碑文。
レイテ出撃前に隊員が書き遺した「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」が刻まれています。
宮崎県川南町護国神社にて。

(第5部からの続き)

こうして華々しいデビューを飾った陸軍空挺部隊。
しかし、挺進第2連隊によるパレンバン降下作戦の後は待機を続ける日々が続きました。計画されていたラシオやベナベナ・ハーゲンへの降下作戦は天候悪化や戦況の変化により中止。
漸く巡ってきた陸軍空挺部隊の次なる戦場は、フィリピンのレイテ島となります。この作戦へ投入されたのは、挺進第3連隊と挺進第4連隊及び挺進飛行隊で編成された第2挺進團。
通称「高千穂空挺隊」でした。

この高千穂空挺隊に関して、地元宮崎ではひとつの悲話が残されています。

DSC07302_R.jpg
現在の国立病院機構宮崎病院。戦時中は挺進第3聯隊の兵舎が並んでいた場所です。

【小丸川水難事故】

川南から戦場へと向い、帰還することの無かった空挺隊員は大勢います。
いっぽう、この地で命を落とした者もいました。

昭和18年6月18日、隣の高鍋町で渡河訓練中、挺進第4聯隊の伊藤中尉以下8名が溺死する水難事故が発生。
陸軍落下傘部隊の演習において、最悪の殉職事故となってしまいました。

雨上がりの18日、川南から高鍋へ南下した第4聯隊員200名は小丸川の北岸へ到着。
「敵が小丸橋を占拠している為、渡河して対岸へ上陸」との想定で、川を渡り始めます。
演習責任者の榊原達哉中尉は事前調査で安全だと判断していましたが、上流域の尾鈴山地で大雨が降っていた事には気付きませんでした。
渡河の最中、小丸川の水位は見る間に上昇。
増水の勢いでロープが切れ、将兵は重い装備を身につけたまま濁流に投げ出されました。
当時事故を目撃した人は「岸から見ていたら、中央付近で黄色い流れに吸い込まれるように川の中へ消えていった(宮崎日日新聞「空の神兵の悲話」より)」と証言しています。
何とか岸に這い上がった教育隊ですが、そこに補助教官の鈴木少尉や演習小隊長の伊藤中尉ら8名の姿はありませんでした。

「兵隊さんが溺れちょる」と叫ぶ声が聞こえました。川のあちこちに死体が流れ着いて町じゅうが大騒ぎでした
事故発生時現場付近にいた、陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊 川原正雄曹長の証言より

付近住民や高鍋中学の生徒も駆けつけ、小丸川の河口まで含めた捜索が開始されます。
その中には、高鍋中学に通っていた榊原中尉の実弟もいました。

「周囲はやがて暮れなずみ、岸辺ではたき火がたかれた。水死状態の兵士を裸にして体を温めた。人工呼吸をしながら横たわる兵士の名を大きな声で呼ぶ声が聞こえた。担架に乗せられ、毛布をかぶせられた死者の足が、たき火の明かりに異様に白く見えた。その印象は鮮やかに残っている」
元旧制高鍋中学 押川国秋氏の証言より

3日間の捜索によって、8名の遺体が川の中から引き揚げられました。ある遺体は、しっかりと小銃を握り締めていたそうです。
箝口令でも布かれたのか、この大事故は一切報道されていません。
事故後、殉職者の慰霊碑が小丸川の岸辺に建てられました。

DSC08786_R.jpg
宮崎県高鍋町にある、小丸川で殉職した空挺隊員たちの慰霊碑。碑が向けられているのは事故現場の方向でしょう。
風化が激しかったため、戦後に碑文を記し直した銅板が取り付けられています。

「忠烈 八勇士殉職之地」の碑文より

陸軍大尉 伊藤成一
陸軍中尉 鈴木寛
陸軍准尉 河原田津留吉
陸軍曹長 平方國三郎
陸軍兵長 池本治登
陸軍上等兵 杉村博
陸軍上等兵 山崎茂男
陸軍上等兵 大森良市


昭和十八年六月十八日挺進第四聯隊では新に所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。
前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押流されて八名が殉職した。
この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思い止まった。
翌十九年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と連携できる見込みの全く無いタクロバン降下部隊指揮官を志願し、八名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。
殉職八柱の魂魄もレイテ作戦に参加したのである。
碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか
何日散るかは知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事の為昭和四十年に現在地に移された


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殉職空挺隊員の慰霊碑が設置された高鍋大師

DSC08794_R.jpg
高台から小丸川を見下ろす異形の巨大石像群。

戦後の護岸工事により、行き場を失った碑は高鍋大師へ移設されます。
異色の宗教施設として有名な「お大師様」ですが、その厚意によって慰霊碑は失われずに済みました。

碑文にあるとおり、この挺進第4聯隊は事故の翌年に出撃。
フィリピンを巡る攻防に、陸軍落下傘部隊が大規模投入されたのです。

【テ號作戦のはじまり】

給水塔
●夜明け前の挺進第3聯隊兵舎給水塔。宮崎県川南町唐瀬原にて

昭和19年10月20日、ダグラス・マッカーサー率いる米軍の大部隊がレイテ島に上陸。
既に制空権を失っていた日本軍は奥地へと撤退しつつ、米軍との戦闘を開始しました。しかし、増援に向かう輸送船は米軍機の攻撃によって次々と撃沈され、フィリピンの日本軍は深刻な事態に陥ります。
海上補給を回復するには、米軍に占拠されたレイテの飛行場群を1日でも早く破壊しなければなりませんでした。

10月24日、宮崎県川南で訓練中の挺進第3連隊にフィリピンへの出撃命令が下されます。
これが、第2挺進団(秘匿名「高千穂」)による、レイテ島の米軍飛行場群を制圧する「テ号」作戦の始まりでした。

「欧州戦線の独伊の敗退に伴い、極東の戦局もいよ〃膠着状態に入り、米英の反撃は物量に物を言わせ、日に日に激化を極め、愈々大詰め、比島の攻防戦が展開された。
“敵軍が腹中に入る”勇将山下奉文司令官の豪語は隷下部隊員に大きな心強さを覚えさしたが、戦局の見透しは必ずしも楽観を許さず、嘗て航士校在学中、戦術講義の際、教官から「この戦いはよくいって長期百年戦争になる」という、当時としては思いきった言葉がしきりと思い出された。
レイテの攻防が天王山と目された昭和十九年十月、尾鈴山に秋のかすみが流れ、すゝき穂ゆする風が、ようやく冷涼を覚える日、突如嚠喨と鳴り響くラッパは緊急動員下令の報せであった。
挺進集団の全力をあげて比島進攻の大命は降った。下令の翌日、挺三、挺四の主力は川南の駅から、一死君国に報ぜんの決意も固く、従容として征途についた。壮士往きて再び還らず、真実峻厳な慌しい訣別の一幕であった。
当時私は水戸航空通信学校の教育(※後方攪乱要員としての無線・英語教育)を終へて帰隊、宿所のないまゝ家族は小林に居住させ、高鍋の町にひとり下宿住いをしていた。動員下令は丁度夕食前であった。
食事には少し早いなーと、ラッパが鳴ったときフッと思ったからである。
聯隊本部に将校全員を集合、白井聯隊長は緊急動員下令明正午出立の旨を下達された。諸般の指示を終へたのち当夜確か二十二時迄、外泊者は家事整理の為、帰宿が許された。私は残務整理後、部隊主力に追及する様指令を受けて居たので、出立日迄に両三日の余裕があり、小林の方へ電話連絡、宿の荷物整理も簡単で、同宿のO大尉の支度などを手伝い、集合点の十字路に出向いた。
空挺隊は隊務の関係から若い将校が多く、従って新婚の家庭が多かった。
それ故にか別離が切実で、真剣な訣別の情景が秋冷の闇の中に展開され居た。
征く者一万有余人、生還せる者僅かに数百人。特に川南部隊の挺三、挺四聯隊は主力は殆んど全滅、私の属した挺三部隊の生存者はたった数十人足らずで、誠に惨、惨の極であった。当夜高鍋の四ツ角で愛別の紅涙にむせんだ若妻達の夫君は殆んど、比島戦線に散華し遺品だに還って来なかったのである」
挺進第3聯隊 中園健一氏「落下傘部隊の思い出」より 

このとき動員された第2挺進團の編成は下記の通り。
第2挺進團(高千穂) 団長 徳永賢治大佐
挺進第3連隊(香取) 連隊長 白井恒春少佐
挺進第4連隊(鹿島) 連隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島) 戦隊長 新原季人中佐
挺進飛行第2戦隊第1中隊(阿蘇) 中隊長 三浦浩大尉


1.高千穂は意図を秘匿しつつX-1日夕までに「アンヘレス」地区及び「リパ」地区に集中し、X日薄暮、戦爆主力の掩護の下レイテ島に進航、跳下(落下傘降下の事)す。
2.跳下部隊は主力を以て「ブラウエン」北、各一部を以て「ブラウエン」南及「サンパブロ」飛行場に跳下し まず敵飛行機、飛行場施設及資材を破壊焼却したる後「ブラウエン」北飛行場に集結し、尚武の斬込部隊と提携して為し得る限り同飛行場を確保す
3.着陸部隊はタクロバン及ドラッグ飛行場に強行着陸し 敵飛行機、飛行場施設、特に滑走路を破壊し、あるいは障碍を設け、まず夜間戦闘機の活動を封殺したる後、所在航空資材の覆滅に勉む

10月24日、第3連隊は唐瀬原を出発。
佐世保からルソンへ向け空母隼鷹に乗込みます。
続いて25日には第4聯隊も動員発令を受け、赤城山丸にて出発。
新田原の挺進団司令部と挺進飛行第1戦隊は11月6日に後を追いました。

高千穂空挺隊は、ブラウエン北(ブリ)、ブラウエン南(バユグ)、ブラウエン中(サンパブロ)、ドラグ、タクロバン各飛行場群への落下傘降下及び輸送機ごとの着陸強襲を行い、現地第16及び第26師団の斬り込み部隊と連携して飛行場を制圧する計画でした。

第1波レイテ降下部隊

ブラウエン北飛行場攻撃隊 
挺進第3連隊 連隊長白井恒春少佐 挺進飛行隊17機 パラシュート降下 
ブラウエン南飛行場攻撃隊 
挺進第3連隊 桂善彦大尉 挺進飛行隊6機 パラシュート降下 南・北合計330名
サンパプロ飛行場攻撃隊  
挺進第4連隊 龝田大尉 挺進飛行隊3機 パラシュート降下 24名
この3飛行場には、予備部隊を反復降下の予定

ドラッグ飛行場攻撃隊  
挺進第3連隊 竹本中尉 第95戦隊重爆2機 26名
挺進第4連隊 宮田嘉孝中尉 挺進飛行隊第2戦隊7機 パラシュート降下 1個中隊(50名?)
タクロバン飛行場攻撃隊 
第2挺進団司令部 佐藤中尉 第74戦隊重爆2機 強行着陸 13名
挺進第4連隊 榊原大尉 挺進飛行隊第2戦隊2機 パラシュート降下 13名
第5飛行團 13機が煙幕構成、4機がタクロバンとドラグへの強行着陸に協力。

第2派レイテ降下部隊(予備部隊)
挺進第3連隊残余 輸送機の航続距離を考え、リパ飛行場にて待機
挺進第4連隊残余 アンフェレス飛行場にて待機


11月14日、挺進團司令部と第3連隊が南サンフェルナンドの製糖工場倉庫(宿舎)に到着。
12月3日には第4連隊も合流しました。

高千穂隊がブラウエン降下作戦を準備する中、別の部隊がブラウエンに空挺攻撃をかけたというニュースが伝えられます。

給水塔

高千穂隊に先んじてブラウエンへの空挺強襲を図ったのは、中野学校出身の中重男中尉以下、台湾高砂族義勇兵ら48名の遊撃兵で編成された「薫空挺隊」でした。

【薫空挺隊と高千穂空挺隊】

台湾軍に遊撃第1および第2中隊(各192名)が編成されたのは昭和18年12月24日のこと。
両中隊とも、指揮官・通信・衛生担当者は中野学校出身者。他の140名ほどが台湾山岳民族で占められた、ジャングルでのゲリラ戦専門部隊でした。山岳地帯に適応した彼等は、かつてゲリラ戦をもって台湾総督府の統治に激しく抵抗したことで知られています。その特性を活用したのが台湾軍の遊撃中隊でした。
湖口で半年間の訓練を受けた2個中隊は、19年5月28日にニューギニアへ向け出撃。しかし途中で目的地が変更となってマニラへ上陸しました。
第2中隊はモロタイ島へ移動し、米軍相手のゲリラ戦を展開します。ルソンに残留した第1中隊へ、第4航空軍からブラウエン特攻部隊を差出すよう命令が下ったのは11月22日のこと。
第1中隊から選抜されたのは、中重夫中尉率いる40名の遊撃隊員でした。
彼等は「薫空挺隊」と命名され、ブラウエン特攻「義号作戦」はスタートします。

11月26日夕刻、薫空挺隊員を乗せた飛行第208戦隊のダグラス輸送機4機はリパ飛行場から出撃。
結果は、ブリ飛行場に突入した1機が着陸直前に対空砲火で撃墜され、他の3機がドラグやバレンシアの海岸に不時着というものでした。
ドラグのリーサル附近海上に不時着した機では、味方と間違えて救助に来た米兵と交戦して2名が戦死、その他十数名は海岸の沼地に撤退。
アブヨグのバト河口に不時着した機でも1名が戦死、他の乗員は密林に姿を消しました。
バレンシアに不時着した機の隊員は、第26師団と一緒に行動しているところを目撃されています。
しかし、彼等がその後どのような最期を遂げたのか、誰一人として生還した者がいない為何もわかりません。

同じ目標に対し、それぞれ所属の違う部隊が互いの存在を知らないまま空挺攻撃をかける。
そこには情報共有や連携の意思も見られません。このようにチグハグな作戦計画で、軍上層部が何の戦果を期待したのかは不明です。
薫空挺隊の犠牲にも拘らず米軍側の被害は皆無であり、日本軍の空挺攻撃へ警戒を高めるだけの結果に終わりました。

遊撃第1中隊主力も海路でレイテへ向かう途中で撃沈され、尾山中隊長以下100名が戦死。レイテへ辿り着いた50名も大部分が戦死を遂げました。

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ブラウエンへ出撃する薫空挺隊。高千穂空挺隊とは違い、台湾義勇兵を中心とする特攻隊でした。

この事が高千穂空挺隊に伝わるや、隊内で激論が交わされました。
薫空挺隊への称賛と「落下傘兵以外の者にブラウエン攻撃の先を越された」という反感がない交ぜだったようですが、生還の見込み薄いタクロバン飛行場への突入が追加されたのは、薫空挺隊への対抗心が一因ともされています。

空挺部隊が露払いをしてから主力部隊が侵攻するという、一応は空挺作戦のセオリーに則ったブラウエン攻撃作戦の中で、タクロバン飛行場攻撃は無謀としか表現できない計画でした。
ブラウエンから離れた地点にあるタクロバン飛行場は、例え空挺部隊が制圧に成功したとしても、友軍がそこ迄進出する予定は無かったのです。
同行するドラッグ攻撃隊は突入後にサンパブロ攻撃隊と合流することになっていました。しかし、タクロバン攻撃隊については脱出ルートすら無く、降下しても米軍に包囲されるだけです。

上層部は何を考えていたのか、この片道作戦を認可してしまいました。
遂に、精鋭の空挺部隊までもが特攻に使われ始めたのです。

急遽追加された「玉砕攻撃」は、空挺部隊とは無関係のパイロットたちまで巻き込む結果となりました。
タクロバンおよびドラグ攻撃隊の空輸には、挺進飛行隊に加えて第5飛行団の第74戦隊(海藤稔軍曹以下5名)及び第95戦隊(佐藤嘉男曹長以下5名)から計4機の重爆が参加しています。
第5飛行団は両飛行場への攻撃ルートを熟知していた為、わざわざ選ばれたのかもしれません。

両飛行場攻撃部隊とも玉砕は覚悟の上。
タクロバン攻撃隊指揮官に志願した挺進第4聯隊の榊原達哉大尉は、第1部で取り上げた小丸川水難事故で殉職した8名の位牌を持って出撃したとあります。
水難事故への償いに苦しみ続けた彼にとって、漸く見つけた死地がタクロバンだったのでしょう。

給水塔

【延岡高女と空挺隊員】

ここで、話を同年4月に戻します。

ある日の昼下がり、宮崎県延岡市にある林病院へ一人の男性が訪ねてきました。
酒に酔った男は、長女の林公子さんが見守るなか「初めてお目に掛かります。自殺の方法を教えて頂き度く伺いました」と林牧太郎院長へ自殺用の薬剤を処方するよう強要します。
水難事故で部下を死なせてしまった自分は死んで償うしかないのだ、と語る彼を林院長は諭し、自殺を思い止まらせました。
やがて落ち着きを取戻したその軍人は、「生きて部下の分まで国の為に尽しなさい」という院長の言葉に頷きます。
これが、榊原中尉と北国公子(旧姓林)さんの出会いでした。

「荻町から三軒屋に続く七間道路では、荷物を積んだ馬車や大八車が、時折カラカラ音を立てながら通って行く。
其の中を、午前十時過ぎの上り列車で延岡駅に下りた一団の兵士が上官に連れられ林医院の方へ歩いて行くのを、近所の人は興味深げに眺めていた。
「御免ん下さい」
前庭から垣根越しに男性の声。
日頃客の多い院長宅では、人数の多さは余り気にしない方なのだが、いきなり、くぐり戸から中庭に入って来た10人近くの兵隊さんに、又しても驚かされた。
一体何事かと、勉強部屋に居た兄が真っ先に飛び出して来た。
「お早う御座います。榊原です。
今日は落下傘部隊の部下を連れて遊びに来ました。
おい、皆様へご挨拶申し上げろ」
中尉の号令で直立不動の姿勢を取った彼らは、院長家族に対して挙手の礼。
「良くいらっしゃいました。さあさあ、お上がりなさい」
院長一家も心和んで彼らを温かく座敷へ招いた。
海兵志願だった兄は、18才くらいの若者と気が合ったのか、時々大声で笑ったり、肩を叩き合って話が弾んで居た。
榊原中尉は酒が好物と見えて、たくあんとおろしなますを摘まみに、部下たちと気炎を上げて居た。
「公子さん、女学校一年生でしたね。此のピアノで歌を聞かせてほしいな!」
突然彼は座敷に置いて有ったピアノを指差し、何か歌って!と私に所望した。
まだ場慣れしない私は、恥ずかしさ一杯で隣の部屋へ逃げ込み、今の話を早口で告げた。
座敷へ行った父と榊原中尉の間で何の話が有ったのか、暫くして父が「延女の綾校長にお願いして、兵隊さん達に女子学生の清らかな歌声を聞かせて挙げたいものだ」と、誰に言うとは無しにつぶやいて居たのを思い出す。
午後二時頃、母の心尽くしのおにぎりやふかし芋で、お腹が一杯に成った兵士達は、満足した顔で高鍋へ帰って行った」
藤野憲三編「川南町開拓地に生きて」より 北国公子氏の証言

大尉は、それからも林医院をたびたび訪れます。
一度などは、榊原中尉の母が息子の非礼を詫びる為に同行してきたこともあったのだとか。

給水塔

翌月初旬。
部下を連れた榊原大尉は、放課後の宮崎県延岡高等女学校にトラックで乗り付けます。
男子禁制の女学校でしたが、綾哲一校長は彼らを快く迎え入れました。
「校内にいる生徒はすぐ講堂に集まってください」との放送で、まだ学校に残っていた藤原美々子さんら女生徒10名ほどが講堂へ向かうと、そこには空挺隊員たちが待っていました。
「戦地へ赴く部下の為、思い出を作ってやりたい」という榊原大尉の希望を叶える為、林院長が知人の綾校長に女生徒との交流を依頼しておいたのです。
「きみ、何年生?」「はい、四年生です」
藤原さんと短い会話を交わしたあと、「勇ましい歌がいいですか?」と尋ねる同校の池田先生に、大尉は女学生たちの好きな歌を聴きたいと希望します。
先生は、彼等の心に残る歌を選びました。
♪眠れ 眠れ 母の胸に…
空挺隊員達は静かに目を閉じ、女生徒の合唱するシューベルトの子守歌に耳を傾けました。

一週間後、大尉はメンバーを入れ替えて再び来校します。
前回同様、ひととおり合唱が終った時のこと。
「大変陽気で、茶目っ気の多い此の都会的な青年将校は、悪戯っぽい目でにこにこしながら、今度はバスケットの交歓試合を申し出られた。
「ええっー、私たちとバスケット?」
榊原中尉の此の突然な申し出に私たちは驚いた。
然し、そこは「うん、やろう」と言う事に成って、即席チームが出来上がり、雨天体操場のゆか板をきしませながら、早速バスケットが始まった。
「こっちへ投げて」「ハイ、回して、回して」
互いに大きな声を掛け合って生徒達は走り回ったが、中々ボールが入らない。
然し背の高い彼らは、ちょっとジャンプしては簡単にシュートを決め、その度に、生徒たちはキャアキャア言って口惜しがった。
若くたくましい彼らは、巧みなパスでボールを回し、防御しようと必死で腕を広げる生徒と派手にぶつかっては、あちこちで笑い声が絶えなかった。
もう、皆汗びっしょり……。裏の堤防を越えて吹き込む五ヶ瀬の川風が、ぬれた肌に何とも心地良かった。
別室で、素早く軍服に着替えた彼達が、私たちの前に直立不動で並んだが、微動だにせず、正面を見据えた顔のなんとさわやかで頼もしかった事か……。
「皆様にお礼を申し上げろ」
榊原中尉の張りの有る声が響いた。
「有難う御座いました」
彼等は一斉に挙手でお礼を言い、私達もはにかみながら是に答えた。
此の時、彼らが半年後には「大東亜戦争」の天王山となるフイリッピン・レイテ島に特効隊として出撃、帰らぬ人に成られるとは、私達には知る由も無かった。
出撃を前に、死を覚悟した榊原中尉が、自分自身に青春の証を刻みつけ、死地に赴く部下たちにも女学生との淡い思い出を作って上げようと、あえて禁男の女学校に、部下のメンバーを替えて、二度来られたのだろう」
藤野憲三編「川南町開拓地に生きて」より 藤原美々子氏の証言

後年、宮崎日日新聞の取材に対し「彼らはとても明るく、死が間近に迫っているようには見えなかった」と藤原さんは語っています。

その帰りに林医院へ立ち寄った榊原中尉達は、林公子さんに女生徒とのひと時を嬉しそうに報告していったそうです。
満足したように川南へ帰っていった空挺隊員は、二度と延岡高女を訪れることはありませんでした。
訪れたとしても同じことだったでしょう。
延岡高女の生徒たちも、翌月から軍需工場への学徒動員により次々と学び舎を去っていったのです。

高千穂空挺隊がレイテへ出撃する、半年前の出来事でした。

水難事故
「何日征くか 何日散るかは知らねども 今日のつとめに 吾ははげまん」
小丸川水難事故慰霊碑の拓本。詠んだのが小丸川で殉職した伊藤大尉なのか、それともレイテへ赴いた榊原大尉なのかは不明。
宮崎県児湯郡高鍋町にて。

【ブラウエンの攻防】

12月1日にはフィリピンヘ到着していた挺進飛行隊ですが、爆薬や飛行士の空輸を命じられて降下部隊との合流を果せませんでした。
5日には搭乗予定者が丸一日遅刻したりで、更に時間を浪費してしまいます。
ようやく挺進飛行隊が勢揃いしたのは作戦当日のことでした。

なかなか到着しない挺進飛行隊を待ちながら、高千穂空挺隊はレイテ出撃準備を整えます。
しかし、空挺作戦と連携して地上侵攻する筈の現地軍は、武器はおろか食糧すら欠乏している状態でした。作戦前に現地を視察した第14軍の田中参謀は、痩せ衰えた将兵達の姿にショックを受けたといいます。
山地に立て篭もる第16師団は、4個大隊程度にまで戦力が減っていました。
陽陸前の武器・食糧を空襲で失った第26師団も、補給を期待出来ないまま険しい脊梁山脈を越えてブラウエンに辿り着かなければなりません。

第16師団からは2千名が出撃したものの、当然ながら途中で食糧が尽きて行動不能に陥りました。
飢餓に苦しみつつジャングルを切り開き、神谷大佐の第9連隊400名のみが何とかブラウエンに到達。附近に潜んで空挺部隊の降下を待ちます。
第26師団も同じく飢餓に苦しみ、ブラウエンに辿り着けたのは重松大隊だけでした。
敵の飛行場群を攻撃するには余りにも少ない戦力ですが、第4航空軍では「両師団が合流した」と判断。高千穂空挺隊へ出撃命令を下します。

12月5日の出撃予定は挺進飛行隊の到着遅延で6日に延期。
しかし、ブラウエン付近に潜む地上部隊へそれを伝える術はありませんでした。
「連日の爆撃で目標周辺の対空砲は損害を受けている」という報告も、全て希望的観測。米軍の強力な防空網は健在でした。

机上の計画と、戦地の現実は悲惨な程に乖離していたのです。

台湾で再編成を終えた挺進飛行戦隊本隊はアンフェレスに到着、5日になって漸く降下部隊と合流しました。
残る機も翌日に到着し、1日遅れでテ號作戦は開始されます。

「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」
南サンフェルナンド倉庫の壁にこう書き残し、昭和19年12月6日16時40分、高千穂空挺隊第一波降下部隊470名は挺進飛行隊36機に分乗してルソン島クラーク飛行場を飛び立ちました。
続いて煙幕構成任務の第5飛行團重爆13機とタクロバン・ドラグ攻撃機4機が離陸。
編隊はバゴロド上空で護衛戦闘機30機と合流し、一路レイテ島を目指します。

ブラウエン攻撃隊の先頭を行くのは煙幕を展開する第5飛行団第95戦隊の重爆7機、その後を同74戦隊の6機が進み、3分航程遅れて空挺隊員を乗せた霧島隊(挺進飛行隊)が続きました。

日没が迫り、護衛戦闘機は基地へ帰還。中古機を寄せ集めた編隊は、一路レイテ島を目指します。
18時過ぎにいったんレイテ島沿岸を通過した編隊は、スリガオ海峡上空でレイテへ向け反転。
二手に分かれてブラウエンへの突入を開始しました。

この時、日本機大編隊襲来の報により、米軍は迎撃態勢を整えつつあったのです。

空挺


自軍の損害を含めて詳しく報道されたパレンバンの時とは違い、高千穂空挺隊の作戦は国民に対して表面的な内容しか発表されていません。

昭和19年12月、読売新聞掲載の「紅蓮の敵基地へ 天降る純白の華」には、挺進飛行隊空輸隊長新原季人中佐の談話として次の様な話が載っています。
「六日の午後、基地を進発したわが輸送機隊は、直掩戦闘機の護衛のもと大編隊を組んで一路ブラウエン飛行場へ向かつた。
前方に生じた悪気流と東北風の風雨に悩まされつゝも一路敵飛行場へと速度を早めた。
天佑か、敵戦闘機の邀撃もなく悠々敵地上空を進むわが編隊の高度は、左方の雲間から見え隠れするレイテ脊梁山脈と正に同じ位だつた。
瞬間、左方の山稜から敵機関砲の物凄い砲火が真横から水平に注がれて来た。
ブラウエン飛行場の二本の滑走路が眼下に見えた。
そのとき周邊の地上砲火の火網が火のスコールとなつて機の周囲に炸裂して来た。
敵飛行場ははや真下だ。
この周邊には友軍機の先制猛爆撃による敵燃料集積所の火焔と思はれる火柱が数本、四邊一帯は火の海だ。
敵は周章狼狽、高角砲、高射機関砲を総動員する火網陣に加ふるに、レイテ湾内に碇泊する数十隻の敵艦艇よりもわが編隊めがけて一斉に降り注ぐ弾雨は、さすがに物量を誇る敵だけに、自分も今まであれほどの火網に包まれた(こ)とは生まれてはじめてであつた。
わが神兵達は悠々自若機内で携行の夜食のあと、必勝の信念を眉宇に敵飛行場の真只中に一兵また一兵、美しい花と開いて降下して行つた。
時正に○時○○分(検閲による伏字)、薄暮迫るブラウエン飛行場上空で自分は神兵達の健闘を祈念しつゝ、次の任務のために高度をぐつと上げて基地へと向かつたのである」

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ブラウエンに降下する高千穂空挺隊員。
陸軍航空隊本部陸軍中尉 原文哉「ビイ二十九をおとすには」より 昭和20年

作戦の結果については、下記のように発表されました。
「白い傘が一列にパツと咲き、一瞬敵基地上空は白蓮が満開する。
低空降下のため敵は応射する遑もなく瞬時にして地上に落下だ。
地に下った空の神兵達はかねてよりの猛訓練により直ちに行動、忽ち組立を終つた○砲(検閲による伏字)まで交へて猛射開始、敵地上施設、飛行場の爆破に向かふ。
一時は飛行場の草原を疾風のやうに突進する。
忽ち敵の基地群は爆音に包まれ朦々たる黒煙があがつた。
わが奇襲は大成功を収めたのだ。
時に○時○分(検閲による伏字)報告第一報が降下地上部隊より基地に打電された。
『われ攻撃に成功せり』(〃)」

新聞記者が一緒に降下した訳ではないので、戦闘の描写は想像で描かれたもの。
この勇ましい発表と違い、実際の高千穂空挺隊は悲惨な末路を辿っています。

レイテ降下作戦
●煙幕立込めるブラウエンへ降下する高千穂空挺隊と炎上しながら突入するタクロバン・ドラグ攻撃隊。
川南護国神社の空挺慰霊祭にて。

18時30分、ブラウエン上空に日本軍の大編隊が現れます。
先行の第5飛行団13機は攻撃高度3000m、速度270㎞/hで目標上空へ侵入。この煙幕展開部隊は大した抵抗も受けず、飛行場風上地点への煙幕弾投下に成功しました。
続いて300mまで高度を下げた挺進飛行隊が目標上空へ到達。
しかし、待ち構えていた米軍は地上及び艦艇群からの猛烈な対空砲火で迎え撃ちました。せっかくの煙幕も役には立たず、集中射撃を浴びた挺進飛行隊は次々と撃墜されていきます。

ブラウエンへ向かう編隊からスリガオ海峡上空で別れ、レイテ湾を目指す輸送機の一群がありました。
タクロバン飛行場へ向かう第95戦隊2機とドラグ飛行場へ向かう第74戦隊2機、挺進飛行隊9機の計13機です。ブラウエン攻撃隊パイロットが最後に見たのは、米艦隊からの猛射に晒されながら飛んでゆく13機の姿。
彼等は1機も戻ってきませんでした。
タクロバン攻撃隊の大部分は突入前にレイテ湾上空で撃墜されます。1機のみが目標に到達し、駐機中の米軍機5機を巻き込んで墜落炎上。ドラグ攻撃隊も、目標到達前に全機撃墜されたと推定されています。
米軍の通信を傍受していた日本側も、「敵に多少の動揺があったらしい」ことしか聴き取れませんでした。

8名の位牌を入れた図嚢を抱いてタクロバンへ向かったあの榊原大尉は、どのような最期を遂げたのでしょう。
それを知る人はいません。

高千穂空挺隊
夕暮れのブラウエン飛行場へ降下する高千穂空挺隊。 川南空挺慰霊祭にて

挺進第3連隊を中心とするブラウエン北・南及びサンパブロ攻撃隊は、18時50分に高度300mから一斉に降下を開始しました。

「大きな機体を数百米まで高度を下げ、速度200粁迄落した編隊は、地上砲火には全く好餌食である。立ち所に、次々に被弾したが、その時は既に目的地上空にあった。
「皆、現でやって呉れよ」
「お世話になりました。必ずやります」
生別死別の間、操縦者達とかく応答を交した。降下将兵はやがて敵頭上を目指して勇躍跳び降りて行った。
兵員を降した飛行機は、それこそ地獄の中を通り抜ける様なものであった。その間の被弾状況を「丁度、連続バケツを叩いている様であった」と搭乗員は報告している。
跳下の前には、各自は輸送機の天井にとりつけてある、一本の鋼索に、落下傘を袋から引き出す役目をする紐(※スタティックラインのこと)をとり付ける。落下傘兵が機外へ飛びだせば、その紐が傘を開き、落下傘の頂点の所でその紐が身体の重みで切れて、紐は機内に残り、人は開いた傘を背負って降下するのである。
若しこの鋼索が切れれば、飛行機の支点が無いから、紐が落下傘を引き出さなくなる。
この鋼索が、時折落下傘兵の降下の衝撃で切れたり、鋼索を天井に取付けた金具がはずれたりする。
平常はそんな場合は飛び降りた落下傘兵は予備傘を開いて降下し、次の者は降下中止をするのである。
戦場の真只中で、弾薬を多量に持つ時、予備傘を持っていない時、この故障が起きた時は、兵員は如何に処置すべきだろうか。
梨つぶての様になって、地上へ叩きつけられるべき運命の兵の後を追って、もはや取りつける鋼索もないまゝ、落下傘の開かない事を充分承知の上で、敵を目指して一途に、次々と飛び降りて行った一機の十数名の挺進兵の姿を、その機の操縦者達は皮膚に粟を生じながら、基地で報告を行っていた」
空挺同志会資料より

地上に降り立った各攻撃隊は、混乱状態のまま戦闘へ突入しました。
ブラウエン南に降下した筈の第2中隊からは連絡が途絶え、そのまま桂中尉以下全隊員が行方不明となります。
目標のバユグ飛行場が攻撃を受けたという米軍の記録はありませんので、第2中隊は目標を誤り、サンパブロに降りてしまったのかもしれません。
一方、300名(実際は124名)もの日本兵が降下したと記録されているサンパブロ飛行場では、激しい攻防戦が展開されました。
穐田中隊はサンパブロ飛行場施設の破壊に成功した後、ブリ飛行場方面に移動して戦闘を続けた模様です。

高千穂空挺隊の奇襲攻撃によって、ブラウエン飛行場群は混乱の極にありました。
飛行場の周囲にいた米軍の整備兵らは、何が起きたかも分からぬうちに日本軍降下兵の銃弾を浴びます。
ブラウエンには米軍の第11空挺師団も駐屯していたのですが、大部分は司令部要員だったので戦闘には寄与しませんでした。
これを「日米空挺部隊同士の激戦!」などと大袈裟に語る向きもありますが、実際は現地部隊の一部に空挺隊員が含まれて居た程度だった様です。
米軍側が態勢を整える前に夜となり、戦況は膠着状態に。
飛行場周辺に潜む高千穂空挺隊との睨み合いは、翌朝まで続きました。

サンパブロ飛行場の戦いについては、米軍側の証言が残されています。

「少佐ジヨージ・マーフイの談
日本軍落下傘部隊がサンパブロ基地に降下した當時、この基地には比島人を除き、三四名の米國兵が居たが、脱出の出来たのは僅か十二名で飛行士四名、通信将校一名、兵十七名は行方不明である。
余の数へたところによると、飛来した日本軍の輸送機は〇〇台だつたが、六日夜にまだ夕の残光を残してゐる頃、突然これらの輸送機が極めて低空で飛来した。
忽ち米軍の高射砲が咆えはじめたが、落下傘降下の状況は暗らすぎて見る事が出来なかつた。
更に生存者の一名、伍長トーマス・バーゼデツトも次の通り報じ、當時の戦慄を語つてゐる。
日本軍は森林地帯に降下した。
われわれは手許に小火器しかなかつたが、落下傘部隊を目がけて力の限り射ちまくつた。
日本軍の降下作戦は極めて巧妙だつた。飛行場をたゞちに襲撃する代りにその周辺の森林地帯に音も無くかくれて仕舞つた。
七日の午前二時頃だつたと思ふが、同僚の一衛生兵が遠くで射撃の音を聞いたやうだと云つた。
彼等はその事を直ちに上官の中尉に報告したが、中尉は日本兵が来たら目に物見せてやると景気のよいことをいつてゐた。
日本兵の攻撃のはじまつたのは六時卅分頃で、そのころわれわれは食堂に集まつて食事中であつたが、すぐ傍らの稲田を横切つて突進して来る日本兵の部隊が認められた。
我々は自動小銃で応戦しつつ穴の中に逃げ込んだ。すると〇〇名ばかりの日本兵が突込んで来て、忽ちこの食堂を占領した。
それから全くの混戦状態となり、敵味方一つの狐穴(フォックスフォール:散兵壕の英名)で死闘を演ずるといふやうな激烈な場面も随所で展開された」
AP通信より リスボン十一日同盟 昭和19年12月13日

給水塔

残るブラウエン北に降下した第4中隊は、白井恒春挺進第3連隊長の掌握した60名と土屋少佐の70名に分断されながらブリ飛行場の占拠に成功しました。

「23:00 本部の一部集結す。
此の間、一部兵力を以て滑走路上観測機約十機を発見、爆砕焼却し全機を破壊すると共に幕舎、弾薬集積所位置等を焼却し、第2次挺進隊に飛行場標示のため、所在ガソリン缶を天明まで引続き焼却す。
約60名集結するや滑走路北側、森林内の飛行機格納掩体等を利用し、陣地を占拠し黎明迄に工事を命ずると共に目標となるべき樹木に国旗を掲揚し、占領確保を明示せり。
此の間垣兵団の斬込隊も、重松大隊の斬込隊と共に不明なり。天明と共に南方並に西方に銃声しきりなり」
昭和19年12月6日の白井連隊長の手記より

白井隊は、夜通しかがり火を焚いて第16師団の突入と後続部隊の到着を待ちました。
しかし、第一波降下隊の空輸機39機のうち、帰還できたのは僅か17機。
挺進飛行隊はルソン島のクラーク飛行場、第5飛行団の第74戦隊は同じくデルカルメン飛行場へ、第95戦隊はレイテ島上空を旋回してミンダナオ島のカガヤンへ着陸します。

辛うじて帰還した機はいずれも被弾損傷が酷く、後続降下部隊の出撃は不可能でした。

同日23時、鈴木大尉以下40名の降下兵を乗せ、応急修理を終えた挺進飛行隊の4機と支援の重爆2機がリパを飛び立ちます。
しかし、村川機が離陸直後失速して墜落。他機も雨雲に阻まれて次々と消息を絶ち、帰還したのは3機のみでした。
レイテ上空に達した1機からは空挺隊員が制止を振り切って降下、そのまま全員が行方不明になったという話も伝えられています。
遂に、第2波の降下は中止となりました。

高千穂空挺隊の支援にあたった第5飛行團の13機も大きな損害を蒙ります。
74戦隊の中田編隊3機は帰還途中に悪天候でマニラ湾へ不時着、生存者は井森・須藤軍曹の2名のみ。
内田編隊の3機は翌7日深夜に空挺部隊の支援爆撃へ再出撃するも、悪天候で不時着。
ビラリン島へ降りた機体はすぐ救出され、ミンドロ島へ不時着した7名中4名も年末に自力生還を果たします。ただ、ゲリラとの交戦で2名が戦死、負傷によりボートで脱出した1名が行方不明となりました。
95戦隊もデルモンテから空挺部隊の支援爆撃へ再出撃。4機がタクロバン飛行場を爆撃して帰還します。
マバラカットから再出撃した3機中1機は離陸直後に墜落して搭載爆弾が誘爆。脱出できなかった1名が死亡しました。
第5飛行團は強行着陸機4機と支援の重爆6機を失い、25名の飛行士が戦死または行方不明となっています。

続くはずだった第二次降下部隊は、焦りを募らせながらブラウエンの方向を眺めていました。

「六日の第一次攻撃は一応は成功したが、敵地上火器が激烈で、輸送機の大半が損傷をうけたらしく、該輸送機により反復出撃を用意し待機したリパ飛行場に帰着した機数は僅かで、その機も弾痕だらけで到底再撃の用に立つべくもなく、事実上第二次進攻は一頓挫した。帰還せぬ機を待ちつゝ、七日朝をまんじりともせず迎え、張りきった弦が切断された様に、何打か一度に疲れが出て来た。
私達は十二月八日を待った。あらゆる苦しさを一挙に解決してくれる日を待った。十二月七日夕刻、陽が沈んで間もなく脊梁山脈の向こう側、米軍陣地のある方向に爆音がかすかにうなっているのが聞えた。夜間飛んでいるのは日本機に違いない。
忽ちブラウエン飛行場のあたりに線香花火のような火箭があがった。赤黄い曳光弾はまるでふき上るスコールだ。
米軍の高角砲、高射砲がこゝをせんどと打ちまくっているのだ。
しかし、三十分も経つとまた静かな暗闇に返って爆音はひとつもしなくなった。夜中の十一時頃、また弱弱しい爆音が聞こえた。黄色い曳光弾が前よりも激しくあがった。そのあたりだけは脊梁山脈の稜線がほんのりと夜空に浮いて見えた。
こんどは探照灯も三、四條ほど暗い空を探しまわり、必死になって日本機をつかまえ様とした。約一時間たつとまた漆黒の深夜に返った……。
“ブラウエン作戦は思わしくないな”と、僕達は語り合った。
ブラウエン作戦を日本軍の地上陣地に従軍して居た毎日の記者はこの様に記している。
“台湾高砂族の特性を生かし、飛行機の胴体着陸による敵陣攻撃は薫空挺隊でレイテ緒戦に米軍の心胆を寒からしめたが、それ故に、高千穂降下部隊の落下傘攻撃には米軍側も充分邀撃態勢が準備されて居たらしい……。米軍電報によると、ブラウエン附近の一飛行場は一時日本軍に占領せられたと報じていたが、レイテ飛行場群の奪回はならず、敵中降下獅子奮迅の激闘も大勢を挽回すること能わず、戦斗はレイテよりルソン島へ移ることとなった(挺進第3聯隊 中園健一氏)」

【生存者たちの運命】

そのような状況とは知らないまま、ブラウエンを占拠した白井連隊長は空と地上からの援軍を待ち続けます。
しかし、第二派の降下はおろか付近に潜んでいる筈の地上部隊も姿を見せません。実は、予定日になっても一向に始まらない空挺作戦にしびれを切らした地上部隊は、一旦ブラウエンから撤退しつつありました。
その途中にいきなり高千穂空挺隊の降下が始まったので慌てて反転、第16師団と第26師団の斬込隊はブラウエンへ突入します。

その頃、土屋隊は白井隊の反対側に陣取って戦い続けていました。
「土屋少佐の指揮する兵力16名の行動。
跳下と共に敵飛行場内飛行機、幕舎、ドラム缶、弾薬置場を焼却し、破壊を続行し、7日、天明後、北飛行場北方地区に位置しありしが、160歩兵第20連隊斬込隊約200名と連絡なり。爾後、其の指揮下に入り、挺進部隊は主として飛行機、ドラム缶に目標を指向し、7日夜、8日夜、9日夜と斬込みを継続し、敵飛行機諸資材施設を破壊焼却し続けたる後、10日垣兵団命令により西方高地方向に転進す。爾後跳下者逐次垣兵団に集結し、士気旺盛1月2日73名の兵力に達す」
と白井連隊長が書いているとおりに、第16師団斬り込み隊との合流にも成功します。

翌日、体勢を立て直した米軍側は反撃を開始。
白井連隊長率いる部隊は翌朝8時半から始まった米軍戦車2両との交戦で、半数の隊員を失いました。

「08:30頃、戦車(MG)2、MG5を有する敵約350名迫撃砲支援の下、南方及東方より逐次包囲態勢をとりつゝ攻撃し来り。東方より集結兵力を以て反撃するも、銃砲火の集中により遂に北方約1000米密林内に遮蔽す」

18時頃、白井隊の生存者約30名はブリ飛行場から撤退し、ブラウエン南攻撃隊と合流しようとしますが、バユグ飛行場に降下した筈の桂中隊は影も形もありませんでした。

「18:00 飛行場夜襲により奪還を企画し南進せるも、飛行場北側と判断せられる方向より射撃を受けしを以て西方より迂回せんとせしに、深さ腰を没する湿地帯に陥り、行動不能なり。
進路南方により前進中。
8日05:30 南飛行場滑走路西端に達す。天明の近迫と現在位置との関係に鑑み、天明迄にダコタン河南側に潜入し、垣・泉両兵団の攻撃進捗を待つべく決意し南進中。
ブラウエン―ドラッグ道上に約20輛の自動貨車並に一部敵陣地等を発見、之を全車破壊撃滅し、道路上南下せしが敵幕舎左右に林立し、黎明となり、敵兵2、3名幕舎前に我等を見るも傍観せるを以て、前進を開始し河岸に至るに、敵監視兵2名の誰何を受くるに会い、之等を刺殺すると共に天明の初期ダコタン河を渡河し、潜伏前進し敵作戦道路(自動車)側方約50米、敵砲兵陣地1、迫撃砲地2の後方に潜伏し、飛行場方向の戦況の進展を待機観察するに決す」

白井隊は米軍と交戦しつつ、18日に第26師団の重松大隊と合流。頼みの地上部隊が師団どころか大隊規模で、しかも後続部隊が降下しない事を知らされます。
第16師団、第26師団にも転戦命令が出ており、ブラウエンへの追加兵力投入は絶望となっていました。

「8日終日ダコタン河を攻撃する。
敵兵力300、迫撃砲4門、射撃猛烈を極む。時に1400(7文字不明)、飛行場に対する我が攻撃の進展せしを観察し、更に状況の進展を待機するに決し、日没と共に位置を移動し、転々10日迄現地付近にありしも、10日夜遂に泉兵団と合致し、後図を策する目的を以て西進を開始す。
途中、敵の攻撃を受け、逐次戦力消耗し、18日重松大隊とマタグワ東方4粁附近ジャングル中に遭遇せし時の兵力聯隊長以下12名となる。
其後重松大隊と共に行動し、22日287高地に於て野中大隊と合致す」

第26師団の集結地である287高地で残存部隊の掌握を図ろうとした白井連隊長は、第16師団と同行している土屋隊と連絡を取るために6名を派遣。しかし、敵の襲撃を受けたのか戻ってきたのは1名だけでした。

「時に先行せる通信下士官外1名と追及者6名増加せるも、副官以下6名25日第16師団との連絡のため派遣せるも、遂に1名脱出帰還せるのみ。
爾後、野中大隊と行動を共にし、28日夜、287高地初、12月31日(文字不明)に進出、1月19日リモン南方地区にて本道突破、1月25日星兵団着、26日尚軍司令部に到着せり」
12月28日より飢餓とマラリアに苦しみながらジャングルを踏破し、翌年1月26日に第35軍のいるカンキポット迄辿り着いた白井連隊長も、2月4日には栄養失調で亡くなりました。
第16師団と一緒に退却中だった土屋隊の消息も途絶え、ブラウエン北攻撃隊も全滅します。
白井・土屋両隊の最後を記した白井連隊長の手記だけが人の手から手へ渡され、カンキポットから日本へと持ち帰られました。

總合戦果(ブラウエン南北飛行場、サンパブロ飛行場)
以上各部隊の残存集結者の戦果を綜合すれば左の如し。
但し本戦果は残存者82名の戦果に過ぎず、爾今の約300名は戦闘行動並に生死不明にして戦果を確認し得ず。

戦果表
1、飛行機 
P38 41機
戦闘機 24機
ダグラス輸送機 6機
観測機 27機

2、戦車
戦車 12両
自動貨車 42両
自動車 5両
兵器弾薬 多数
高射機関銃 3門
〃弾薬 多数
幕舎 55
遺棄死体 100~150
其他航空材料・被服・物件 多数

(以上、白井連隊長の手記より)

白井聯隊長とは別行動をとった空挺隊員は、ブラウエンで4日間に亘って戦い続けます。
飛行場附近の各所へ陣取った空挺部隊に対し、体勢を整えた米軍は3個大隊でこれを包囲。飛行場の奪回作戦を開始しました。高千穂空挺隊と26師団斬込隊は激しく抵抗し、米軍を何度も撃退したものの、12月10日に力尽きます。
同日19時30分、日本軍の残存兵20数名が米軍第5航空司令部に突撃を敢行。
これを最後にブラウエン南・サンパブロでの戦闘は終了します。

こうして、白井連隊長以下ブラウエン第一波降下部隊は文字通り消滅。
生存者は、レイテ湾上で撃墜されて海上漂流中に捕虜となったタクロバン・ドラグ両攻撃隊の飛行士1名、空挺隊員3名だけでした。タクロバンの捕虜収容所へ送られた彼等は、攻撃目標が健在なのを見て作戦失敗を知ります。

「パラオン島北部分進点を通過し、逐次高度を下げ、島の最狭部付近に達した頃、海上と陸上から物凄い対空射撃を受けた。地上にある対空火器は1メートル間隔に配列してあるのかと思うほどの密度だった。海上には無数の艦船が浮んでおり、その船が真赤く見えるほど打ち上げてくる。
夕暮れが迫っていたが飛行機の四周に炸裂する砲弾は、目がくらむほどだった。そのうちに右翼を射ち抜かれて海上に墜落した。輸送機から放り出されて海上を漂っていたが、肩と背中を負傷していたので精神朦朧とし眠ったり醒めたりしていうrうちに、翌日の午後敵の上陸用舟艇に引上げられた。僚機のことは何もわからない(ドラッグ攻撃隊生存者の証言)」

「落下傘は着けずに救命胴衣だけで、全員が拳銃と手榴弾を持って重爆に乗り込んだ。座った場所からは天蓋を通して上空だけしか見えなかったが、目的地近くまで来たかと思う頃、上空を見ると敵の対空砲火の曳光が物凄く、まるで打上げ花火を見るようだった。何発か機体に命中したような感じがし、そのうちに海上に着水した。
操縦者の指示で全員無事脱出し、飛行機は数分後に沈んだ。
あたりは薄暗く、どの方向が陸か判明しなかった。水は温く救命胴衣のおかげで浮いているのは楽だった。よく泳げる者は勝手に泳いで行き、最後は四人になった。闇をすかしてみると、遠くに山があるようにも見え、大きな船のようにも見え、潮で流されていることは判った。
そのうちに夜が明けてみると、四方八方敵の軍艦ばかりで、上陸用舟艇らしいもので走って来て、自動小銃で撃たれ、もはやこれまでと観念していると、鉤で舟の中に引き上げられた。殺せ殺せと叫んだが殺されなかった。
軍艦の船倉に入れられ、その後タクロバンの収容所に入れられた。
通訳にそれとなく尋ねてみると、そのとき会場で捉えられた者は三人で、二人は豪州に送られたということだった。
タクロバンの収容所には高千穂空挺部隊の者は誰もいなかったし、終戦後も入って来なかった(タクロバン攻撃隊生存者の証言)」
特別攻撃隊全史より

高千穂空挺隊の活躍は勇ましく宣伝されたものの、もはやレイテ島の戦況を変えるのは不可能でした。

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アル夕方、日ノマルノ シルシモ アザヤカナ ユソウキノ ヘンタイガ ブラウエンノ テキヒカウヂャウヘ トツゼン ヒクク
マヒサガリマシタ。
「アッ ラッカサンブタイ ダ」
テキガ オドロキアハテテ カウシャハウヲ ウチハジメタ時、ヒカウヂャウノ 空イチメンニ シロイ 花ノヤウナ ラクカサンガ ヒラキマシタ。
イフマデモナク テキ ヒカウヂャウノ センリャウヲ メザス、 ワガ リクグンノ ユウシタチノ勇シイ スガタ デス。
タチマチ ゲキセンハ ハジマリ ヒカウヂャウハ ワガ ユウシタチガ センリャウスル トコロト ナリマシタ。
大杉清「チカラノカギリ」より、ブラウエン飛行場を襲撃する高千穂空挺隊 昭和20年

【オルモック降下作戦】

ブラウエン降下作戦の翌7日、米軍はレイテ島西のオルモック湾から上陸を開始しました。
これによりテ號作戦は中断となり、出撃待機中の高千穂第三次降下部隊はこの防御支援に回されます。
輸送機が足りない為、斉田少佐率いる挺進第4連隊481名は12月8~14日にかけて6回に分かれパレンシアへ降下しました。

オルモックは味方勢力圏への降下だったものの、米軍機との遭遇は避けられませんでした。
12日には降下を終えた輸送機4機が敵機に遭遇、全機撃墜されています。
パラシュート降下した部隊のうち、斉田連隊長の部隊はオルモック防衛に、大村大尉らは第1師団が守るリモン峠へ展開しました。
8日午前7時に降下した第1中隊90名はオルモックへ辿り着いたところで米軍歩兵部隊と遭遇、交戦中に砲撃を受けて半数の隊員を失います。
10日に降下した斉田少佐以下84名は、挺進團司令部から35軍司令部に派遣されていた稲本少佐の伝達によりオルモック東北方面へ展開しました。
以降14日までに降下を終えた斉田部隊は現地の陸軍や海軍陸戦隊と合流し、米軍と激しく交戦。
白昼に強襲をかけたところ大損害を蒙った為、夜襲へと方針を切り替えます。
高千穂空挺隊は数名単位の班に分散し、夜の闇に紛れて敵陣地へ侵入しては破壊工作を繰り返しました。
しかし、彼我の戦力差は圧倒的であり、12月16日には米軍が防衛線を突破。斉田隊は戦力をすり減らしながらカンギポットへ撤退します。
輸送機の不足により、オルモック降下作戦も14日で打ち切られました。

パラシュート

【バゴロド空輸作戦】

レイテの敗北が決定的となった頃、もうひとつの空挺作戦がおこなわれました。
12月13日にネグロス島近海に敵船団が出現したため、第4航空軍は警備の手薄なバゴロド地区へ高千穂隊残余500名の空輸を命じたのです(こちらは降下作戦ではありませんでした)。
挺進飛行隊は残存の機体をフル活用して高千穂空挺隊を空輸しました。
17日に5機、18日に3機で本村大尉率いる挺進第3連隊がネグロス島シライ飛行場へ向かいますが、途中で2機が撃墜された為に僅か2回でバゴロド空輸作戦も中止されます。

この作戦でネグロス島へ空輸できたのは本村大尉以下60名のみ。
後続部隊の投入が中止となり、本村隊は置き去り同然でバゴロド防衛にあたりました。

昭和19年12月18日
MC輸送機5機、97式重爆撃機1機を以て、ルソン島アンヘレス飛行場離陸。18時40分ネグロス島シライ飛行場に着陸。途中、西沢中尉搭乗機2帰、ビサヤン海に不時着した模様なるも詳細不明。
飛行場着陸は本村大尉機及堺中尉機のみ。
12月19日
MC輸送機3機を以て、挺3本部及重火器中隊の一部搭乗、アンヘレス飛行場発進、19時飛行場着陸、即日仝島バゴロード市河野兵団(102旅団)の指揮下に入り、仝隷下部隊山口部隊に配属せられる。
自 昭和19年12月20日
至 昭和19年12月28日
河野兵団隷下部隊将兵に対する対戦車戦斗法の教育を実施す。
自 昭和19年12月29日
至 昭和20年1月1日
バコロド市周辺地区に発動する米比軍遊撃隊を求め、討伐のため出動。
自 昭和20年1月8日
至 昭和20年1月9日
仝島ムルシヤ町南方バコン附近米比軍を求めて討伐を実施す。
昭和20年2月1日(推定)
兵団命令に依り、高千穂部隊本村隊41名、野瀬部隊に転属を命ぜられ、仝部隊主陣地帯に宿舎を移転。専ら仝部隊戦力増強(陣地構築)に努む。
同日部隊命令により、新たに野瀬部隊鉄砲隊編成あり。藤井中尉、高木中尉と交代、仝中隊長拝命。
仝日より中隊陣地の補強に努む。
兵力、藤井中尉以下86名
昭和20年3月28日
夜20時頃、突然敵駆逐艦3、巡洋艦1よりバコロド市周辺飛行場に対し艦砲射撃を受く。直ちに戦斗配備に就くと共に事前の計画により、一部兵力を仝市本部に残置し、主要陣地に就く。
予期した敵の見参なるも、友軍の混乱致し方なし。

現地警備隊の訓練を担当した本村隊ですが、3月29日に上陸を開始した敵と交戦、生存者は30名程でした。

その後、オルモックへ降下した斉田隊は各地で激戦を続けます。
14日に降下した重火器中隊の大村隊は第3中隊と合流、総勢57名がリモン峠へ赴きました。
第1師団に加わった高千穂隊は迫撃砲を用いて米軍と交戦、10名の隊員を失って12月21日に撤退。
第1師団と共にカンキポットへ到着した大村隊は軍司令部直轄部隊に組み込まれました。
斉田挺進第4連隊長も、白井挺進第3連隊長死去の翌日にカンキポットへ到着しています。

カンキポットで斉田少佐が掌握した高千穂空挺隊の残存兵力は、指揮下の第4連隊員百数十名に加えて白井連隊長を失った第3連隊員十数名。
これらの高千穂空挺隊員も戦闘に投入されました。

【海上の戦い】

昭和20年3月10日、挺進第4連隊長斉田少佐以下76名は第35軍司令部直衛のためにセブ島への転進を命じられます。
大発(※陸軍の上陸用舟艇)2隻に分乗してルソン島を離れた斉田少佐一行はセブ島タボゴンヘ上陸。そのまま北方12㎞にある93道標一帯の警備に就きました。
20日、セブ市内へ南下した斉田隊は軍司令部警備に着任し、その傍ら戦力回復と糧秣確保に努めます。
25日には米軍がセブ島へ上陸したため、第35軍司令部はミンダナオ島への海路撤退を決定。
高千穂空挺隊から選抜された22名が、司令部護衛チームとして同行することとなります。残る56名は大村隊としてセブ島に残りました。
転進にあたって軍司令部要員はタボゴンヘ移動。空挺部隊はセブ上陸当夜に展開した93道標付近に陣取り、軍司令部をガードしました。
目指すミンダナオ島のバコロドは米軍との交戦中であり、止む無く目標をネグロス島のカガヤンへ変更します。
4月10日夜、35軍司令部員と空挺隊員は帆船5隻に分乗してメデリンを出港。リパインラン島、マルカポック島とミンダナオ沿岸伝いに南下を始めました。
米軍と抗日ゲリラ側もこれを察知し、追撃に移ります。

高千穂空挺隊海上護衛チーム
1番艇 
玉井豊大尉、伊東邦親少尉、山根乙吉曹長、富田勝軍曹、鳴海静雄軍曹
2番艇 
斉田治作第4連隊長、塩崎正夫大尉、落合茂夫准尉、辻井亘曹長(亘は人偏)、田村貢軍曹
3番艇 
斎藤斉之輔中尉、曾根崇少尉、渡辺文蔵曹長、木下・神野軍曹(両名は第3聯隊員)
4番艇 
香月秀輝大尉、松元政徳中尉、井上房行准尉、溝口大介兵長
5番艇 
向豊少尉以下、全滅のため氏名不詳

4月10日
20時半、5隻でセブ島メデリン発。
4月11日
敵状悪化のため、5番艇は無停泊で航行。
9時、1、2番艇がリパインラン島着。
18時、5番艇がネグロス島に到着。
19時半、5番艇がゲリラの襲撃を受け、軍司令部の藤尾大尉が戦死。
4月12日
5時、1、2番艇がマルカポック島着。
15時、3番艇がレフジオ島着。
16時、炊事中の3番艇がゲリラと交戦。急遽出航。
4月14日
6時頃、1、2番艇がレフジオ島でゲリラと交戦。軍司令部大曽根参謀以下3名が戦死。
15時頃、5番艇はドゥマゲテ付近の無人島へ上陸。船体修理中に敵の攻撃を受けて直ちに出航、ゲリラ側はボートでこれを包囲。高千穂隊は向少尉以下奮戦するも、戦死・負傷者続出の末に弾丸も尽きて海没。
18時、3番艇がノースバイス湾北方の無人島着。
4月16日
13時、3番艇がドゥマゲテ北方の無人島着。
14時、航行準備中の3番艇が敵ゲリラの襲撃を受け交戦。
14時半、1、2番艇はドゥマゲテ北方タモイ岬から迫撃砲攻撃を受けるもこれを撃退。この際に空挺隊の辻井・山根曹長が戦死。
17時、敵と交戦していた3番艇が脱出成功。猪瀬大尉以下3名戦死。
4番艇チームは「これ以上の帆走は不可能」と判断、ドゥマゲテに上陸し現地部隊と合流。
4月17日
17時、ドゥマゲテ南方で敵観測機を交えた襲撃を受け、3番艇チームは船を放棄。
1、2番艇がシキホル島西方通過。
4月19日
12時、1、2番艇がネグロス島タゴロ岬着。ミンダナオ島への海峡突破が不可能と判断した1番艇はネグロス南端への帰還を決定。
15時、米軍哨戒機の攻撃で35軍司令官鈴木宗作中将が戦死。2度目の空襲で高千穂隊の玉井大尉、富田軍曹が戦死。3度目の攻撃で軍司令部龍崎参謀が戦死。犠牲者続出により、1番艇チームの生存者は船を放棄。

結局、35軍司令部の脱出行は司令官を失って失敗。
5隻中、2番艇だけがミンダナオ島へ辿り着きました。しかし、其の後の戦闘で斉田連隊長も行方不明となっています。

セブ島に残された大村隊は、第57連隊と共にイリハンで戦います。生存者は僅か十数名でした。
木下大尉率いるカンギポット残留の空挺隊員達はどうなったのか。生還者がいない為、彼等の最期は誰も知りません。

こうして、挺進第4聯隊も壊滅状態に陥ります。

高千穂空挺隊
バレテ峠における高千穂空挺隊と米軍の攻防戦。 川南空挺慰霊祭より

各地に展開した高千穂空挺隊が損耗していく中、一連の作戦に参加しなかった予備戦力が温存されていました。
その数400名。
徳永第2挺進団長の掌握するこれら高千穂空挺隊員は、南サンフェルナンドで待機を続けていました。

「私はリパ出撃基地に待機一両日、十二月中旬挺三残置部隊と共に本部通信隊を引具、再度南サンフェルナンドの主力出撃基地に引かえした。挺三残存兵力約四〇〇名。久富少佐部隊長職をとり、私は副官職をとることになった。
一日百余機のロッキードとグラマンの大空襲を受けた。当時比島はゲリラが多く、日本軍の行動は秘密無線機により手にとる様に米軍に洩れて居たらしいのである。日本陸軍落下傘部隊の出撃基地の壊滅的粉砕を図ったものらしく、連日波状的な爆撃、銃撃をくりかえし、少なからぬ死傷者が出た。
二十年の新春はマニラ市芙蓉台の外人の別荘地帯で迎えた。
米軍の上陸を邀撃し、海軍部隊と共にマニラ死守を命ぜられたわけで、事実上の玉砕部隊として戦機到来の日を待ちつゝ、必死の前の閑日月を悠々英気を養って居たわけである。も早や何の不安も焦燥もなかった。
十二月六日の出撃を前に、リパ基地に於て、遺髪と爪を遺書に入れ、従軍画家が挺進出撃のたむけと描いてくれた似顔絵を毎日の記者に託してあり、今更思い残す事は無かった(これらの品は東京田園調布の記者の自宅の方から転送されて届いて居た。しかしその親切な記者が果して生還されたか否か。この紙面の上で心から感謝を致したい)。
世界の名勝と聞くマニラ湾上の夕映えも、絶対生還の期せられない竿頭に立った将兵の胸のうち、鑑賞する人や幾人ありや(中園氏)」

【徳永遊撃隊の戦い】

マニラの第4航空軍司令部警備を命じられた徳永団長の部隊は、リンガエンへの米軍上陸によって戦闘態勢に入ります。
第1挺進集團への復帰具申も交通不能の為に断念。
1月16日には第4航空軍司令富永恭次が台湾へ敵前逃亡した為、護衛対象を失った徳永隊は第4飛行師団長の指揮下で戦うこととなりました。

「一月九日作戦変更、マニラは無防備都市を宣言、北部ルソン、エチアゲに転進することになった。第四航空軍の直轄親衛隊として延々一〇〇〇キロの北上が開始された。街道荒しの異名を持つ米機グラマンが完全制空で、日中は暴虐無尽に大空に跳梁し、為に山陰や部落にひそみ、遅々とした夜行軍のくやしさ。日本機がせめて一機でもと切歯扼腕したものだった。
一月末、米軍は愈々リンガ沿岸に上陸して来た。
二月上旬団司令部及挺三挺四部隊集結完了、遊撃八コ中隊を編成。三月第十四軍司令官山下奉文大将の直轄となり、トバックに進出する。
三月中旬鈴鹿峠(ルソン、スエパピスカヤ州五七九高地)附近に陣地を占領した。
軍馬の桜(※中園氏の故郷小林にあった軍馬補充部小林派出所の桜並木のこと。現在の名称は「まきばの桜」)が酣なる頃、俗称牛山米軍基地攻撃中、部隊本部附近に米迫撃砲の集中射をうけた。砂塵朦々たるなか、部隊長は肩部重傷、そして私も破片創に倒れた。
四月十一日、斬込攻撃隊十組が編成され、主として敵砲兵陣地を攻撃した。
一日、航士校以来の親友、坂上中尉が敵陣地斬込隊長として出撃の途次、負傷療養中の私の部屋(洞窟)に一泊した。傷の痛みも忘れ、一夜語り明かした。
とっておきの鰹節を贈り健斗を祈ったが、とう〃還って来なかった(中園氏)」

山下軍司令官の予備隊としてゲリラ戦を命じられた徳永団長は、昭和20年3月12日より空挺隊を遊撃隊本部と8コ遊撃中隊に再編成。13日よりバレテ峠北方7キロにある鈴鹿峠の西方高地(徳永隊は「高千穂山」と呼称)へ布陣します。
州境突破を図る米軍2コ師団に対し、空挺部隊は後方攪乱戦術でこれに抵抗しました。
少人数の斬り込み隊に分散した徳永遊撃隊は米軍の背後に浸透、高千穂山正面に展開する敵砲兵陣地を繰り返し襲撃します。

「北部ルソン深く進攻して来た六月も半ばを過ぎた頃だったろうか、負傷癒えた私も参加、久富部隊、挺三残留組の全力を挙げて、高千穂山正面の米第一線陣地を闇にまぎれて突破、通称一の字森林のジャングル地帯を進み、敵背後より必死の夜襲を敢行した。しかし乍ら数時間の決死の攻撃も成功せず、天明と共に再び森林中に退避するの止むなきに至った。
私は中央正面攻撃の指揮をとったが、全く頭を上げる事の出来ない位の曳光弾の雨飛で、更に鉄条網を隔てての手榴弾の投げ合いは、戦歴数年幾度か戦火の中に斗ったが、とにかく生涯を通じての一番はげしい凄烈な戦斗だった。
右側攻撃の高橋小隊長は今、都城自衛隊本部付幹部として健在だが、左側より攻撃の中原小隊長は遂に集結地点に現れなかった。戦死者二十余名、私もまた胸部その他に破片創をうけたが、幸い総て軽傷だった。前述の大久津軍曹が敵弾に倒れたのもその前後の事だった。結論的にはこの戦斗が高千穂部隊最後の死斗だった様である(挺進第3聯隊 中園健一氏)」

次いで鉄兵団(第10師団)の支援へ差し向けられた森脇、増田、佐々木の各遊撃中隊がバレテ方面の防衛戦に投入されますが、5月27日には米軍の突破を受けて全滅。
6月16日、鉄兵団の撤退によって徳永遊撃隊は敵中に孤立してしまいました。

「支隊は食糧なく、補給線は完全に絶たれ、餓死する者も続出しだした。
敵は既に遠くエチアゲ方面迄進出したらしく、部隊に対する直接の攻撃はなくなった。
六月末、支隊は鈴鹿峠を最右翼とし、高千穂陣地を後退した。既に軍の通信網は切断され、無線機も破損、完全に通信は断絶した。今や鈴鹿峠付近も軍の後退作戦に影響なき状況となり、全く四分五裂、部隊夫々の行動にて転進ではない退却であった。少量の食糧と弾薬を持ち、連日空腹と病魔と斗いながら、山又山、地図と磁石を頼りに東海岸への希望は、殆んど無くなった食塩への限りない絶対的な欲求だった。
カガヤン河谷をピナパガン地区へと、全く目的のない放浪の旅であったが、そんな誌的情感など全然ない苦難の行軍であった。
ただ軍人としての統制と規律は保たれて居た。というより少なく共、兵独自の行動より部隊の行動についてゆかなくては死を意味することが判然として居たからである(挺進第3聯隊 中園健一氏)」

山下軍司令官との連絡も途絶し、生き残った徳永遊撃隊員らは自活行動をとりつつ8月23日にピナパガンへと退却。台湾撤退に失敗してアンフェレエスに残留、フィリピン各地を彷徨していた挺進飛行隊の地上要員120名らも合流しました。
そこで漸く食糧を確保し、飢餓と抗日ゲリラの襲撃に苦しんだ逃避行は終ります。


他部隊の通った跡がある。後続したら食糧は見つけ得べくもない。
元気の比較的よい下士官兵を選抜、河辺の孟宗竹を切つて筏をつくり濁流のカガヤン河を下つたが、それは球磨川下りどころの比ではなく、岩をかむ奔流は矢の如く、それも大淀川を数倍した様な大河。
結局遭難、兵二人と獰猛イグリツト族が出没する対岸にはい上つた。
一夜を空腹の儘明かし、翌朝食糧探しに出掛けた兵が二三発の銃声と共にどつと跳おりて来た。
右腕に矢がさゝつて居る。毒矢と思つたがとつさに引抜き、血をしぼり出したせいか、傷は大したことはなかつた。
しかし勇敢だつた彼はとたんに臆病になり、反対岸への渡河を切望する様になつた。その彼は泳げない金づちという始末、全く笑えぬ悲喜劇であつた。
その日一日河沿いに下流へと辿るうち友軍、さきに支隊命令で食糧確保の為に先行した郷中尉の一行十数名と出逢ひ、行を共にするうち、自隊の兵員が逐次集結河沿ひに行軍する。
勿論、手榴弾による魚族の捕獲、ササガニ、こひな、食べられるものは全部平らげた。とかげの数米に及ぶ大きいのが居たが、之は鶏肉に似て美味であつたが、割合と行動は敏捷でなか〃とらえることは出来なかつた。
ときたま部落の甘藷、野稲がみつかり、ほそ〃東へ東への行軍はつづけられた。
成瀬兵長は紅顔の青年だった。入隊前プロ野球の選手だったとかで、手榴弾の投擲は抜群だった。
八月も中旬を過ぎて居た。後一日の行程で平地ピナパガンにつくというとき、どうしても歩けぬ、追及するということですわりこんで仕舞った。こゝで置いたらおしまいとはっきりわかっていた。怒ったりすかしたりしたが、どうしても立たない。
止むなくなけなしの皆の食糧を集め、残して来たが、永別であった。
その翌日一行はピナパガン平野に出ることが出来た。そこは米こそはなかったが、とうもろこしと野生の水牛が豊富にあった。
しかしこの地迄たどりつけたのは部隊の五分の一。
五分の一は戦死であり、五分の三は病死、餓死だった様である(中園健一氏)」

徳永隊が軍使の報告によって敗戦を知ったのは、9月10日のことでした。
18日、徳永団長は高千穂空挺隊および陸海軍残存兵900を率いて武装解除に応じ、バタンガス収容所へ送られます。
バラバラに散っていた空挺隊員らも、友軍と合流する中で戦争終結を知りました。

「ピナパガン平地に出た日、先着の友軍兵士より終戦の言葉を聞いたのは八月も既に二十日を過ぎて居た。
その夕も月の明るい晩でした。
全く久しぶり玉蜀黍の主食をふんだんに食べ、河原で仮泊した一行はようやく故国生還の希望が湧き出して来たのだろう。“誰か故郷を思わざる”の唄ごえのコーラスが起った。皆の顔に明るさが戻り、矢を右腕に受けたY兵長はいつのまにかどじょうすくいを踊り出していた。
当時の憶い出日記を繰ると、八月二十三日ピナパガンに兵員集結、自活態勢に入る。九月十日、軍使来り終戦を告ぐ。九月十八日マサヤにて対岸の米軍を前に、東方遥拝、万歳三唱の後、武装解除(愛用の歯こぼれしたなみのひらの軍刀も、拳銃、双眼鏡も、自決用の短刀も)。
米ゴムボートにて渡河、米軍に収容。エチアゲより翌十九日バタンガス収容所に送らる。万感胸に迫り涙禁ずる能はず……(中園健一氏)」

挺進第3連隊と第4連隊は白井・斉田の両連隊長まで失い、激戦と飢餓によって多数の将兵が犠牲となりました。
フィリピンへ赴いた高千穂空挺隊員のうち、日本に生還できた人は僅かだったそうです。

「PW。比島戦線で収容された日本軍の、あちらさんの呼び名だったが、日常の生活は割合と自由だった。
但し終戦前後のニュースが風の便りに流れて来た。広島、長崎原爆投下のこと、収容将校は米本土に送られるとか、戦犯容疑者もぽつ〃出だしはじめて居た。
その様な一日、スピーカーから次に呼ぶ者は集合とのこと。吉か凶か。集合してみたら第一復員船乗船要員とか。
比島戦線よりの収容人員十有余万人、そのうちより二〇〇人だけが乗船決定。
各幕舎から二、三名のうち私は入って居た。
仲間よりの依頼、部下たちよりの家郷への伝言を一杯引きうけて、残者羨望裡に出立した。昭和二十年の秋深く(但し内地)、バシーの海は荒天だったが、リバ艇の大ゆれも大して苦にもならなかった。艦上で宮崎県人会を開いたら、船員三名と高原町、遍照寺の湧水住職(旧制小林中学四回卒、柔道マンで戦後青少年柔道の普及に大いに貢献されたが、先年胃を病まれて早逝されたのは心残り)と二人だけだった。
鹿児島県加治木上陸、乗船時貰った海軍作業服に風呂敷の小包さげて、小林駅に降り夕闇のなか高千穂の峯を見たとき、吾しらずジーンと来るものがありました。
何十分かゝりましたろうか、とにかくとぼ〃歩くのが精一杯でした。隣のM家に立寄ったら、丁度親父が出て来てびっくりしました。
小林地区に警備について居た大阪部隊が復員、放出軍需品の競売があり、その後祝の小宴が開かれたところで、実のところ、口にこそ出さぬが、落下傘部隊員で、然かも高千穂特攻隊員として比島進攻の私は当然第一番目の戦死と思っており、それが戦地よりは誰よりも早い一番目の復員故本当に皆大喜びでした(中園健一氏)」

比島作戦で散った陸軍空挺部隊は、高千穂空挺隊だけではありません。
もうひとつの空挺部隊、挺進第1集団の滑空歩兵たちもフィリピンへと向かっていたのです。

(第7部へ続く)

落下傘部隊

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