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都井岬海軍レーダー基地(宮崎県串間市都井)

Category : 串間市の戦跡 |

海軍は都井岬に最新鋭の電波探知機(レーダー)の基地と、電波塔7基を設置。
探知した情報はすぐさま同県鹿屋市の航空基地に伝えられるなど、厳戒態勢が敷かれていた。
福島地区隊は米軍機の来襲に備え、串間市の都井岬や大束、市木など数カ所に監視哨を設置。当時、監視員は住民も含めた当番制だったといい、農業をしていた山口さんも何度か都井岬の監視哨に上り、双眼鏡を手に一昼夜海を見張り続けた。
「後にも先にもあれほどの緊張、不安を感じたことはない。毎日をここで過ごしている兵隊たちを心から尊敬した」
B29爆撃機、グラマン機……。終戦直前、毎日約300機が岬に飛んできた。米国の計画では、志布志湾を含む南九州への上陸作戦は11月1日と予定されていた。
山口さんは「終戦が遅れていれば、この岬がなければ、串間はどうなっていたのか。積部隊に本当に感謝している」と話す。

宮崎日日新聞特集「忘れない・戦後70年へ 戦争遺産」より 2014年

宮崎県串間市の都井岬。日本在来馬の繁殖地として有名な場所です。
太平洋に突き出た都井岬には江戸時代から海上見張所が置かれており、戦時中にはレーダー基地が設置されました。
戦後の昭和28年にも在日米軍がレーダー基地建設を計画しましたが、激しい反対運動によって頓挫。結局、基地は高畑山に設置され、現在は航空自衛隊高畑山分屯地となっています。

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都井岬に残る地下電探室跡

20世紀は航空機の技術が飛躍的に発達しました。対する防空側の索敵能力もそれに併せて向上します。
初期の索敵手段は目視や双眼鏡、聴音器やサーチライトといったものでしたが、無線や電波探知機(レーダー)の発達によってその範囲は大幅に拡大。
電波妨害やデコイによるレーダーへの対抗手段(ECM)が登場すると、今度はECMに対抗する為の対電子対抗手段(ECCM)が編み出され、更にはレーダー網を突破するためのステルス戦闘機までが登場します。

レーダー技術を軽視し後れを取った日本軍ですが、戦争後期には電波探知機の配備が進みました。
昭和16年12月より、都井岬に海軍の電探(レーダー)および通信所の建設が着工。レーダー設備は年々拡充され、本土空襲が激化すると共に、見張所を守るための対空部隊(25ミリおよび13ミリの対空機銃5基を装備)も展開しました。
ただし、それらの警戒情報が十分に活用されたかどうかは話が別。
当然ながら米軍側も対策をとっており、日本上空へ侵入する米軍機がレーダー攪乱用のチャフ(電波攪乱材)を散布していたことが当時の報道でもわかります。
こうした妨害手段に加えて、日本軍のレーダーは精度の低さや探知範囲の狭さ、更には陸軍と海軍で情報が共有できないという致命的な欠点があった為、その能力を十分に発揮できませんでした。

「異変はまず作戦室壕の隣りの、地下通信所の中で起こった。
この異変の第一線をキャッチした私の同期の奥村君(堺市在住)の話を総合すると次のようであったらしい。
彼は新田原との通信を担当していた通信手で、昨夜より徹夜の勤務が終ろうとしたこの日の早朝(多分六時から七時頃)、突然新田原より都城の呼出しが行われ、6という緊急略号信の連送が行われ始めた。
が彼にはこの6という略号の意味が解せなかったという。
しかし狂ったように連送してくる新田原の666に、何かただならぬものを感じた彼は当直の将校に連絡した所、この将校にも即座に6の意味がわかならかった。
やむを得ず新田原に6ウホ(6とは何のことか)の問合せを行った所、何と新田原より当時厳重に禁じられていた生文で「グラマンF6F」の事であり、従ってこの略号の意味する所は「都城に告ぐ、現在新田原飛行場は敵艦載機グラマンの攻撃を受けつつあり」という事であり、「直ちに全飛行場を呼出せ」という将校の命令も時既に遅く、南九州の各飛行場からは、危急を告げる緊急呼出しが一斉に始まったという。
おそらく前後の事情からして、この事件の直後であったと思うが、一人の将校が血相変えて私の居た地下壕へ入ってきて「艦載機の来襲だ。直ちに戦隊に通報しろ」と怒鳴りつけるように指示して又飛び出して行った。
私は突然の事に情況の判断が出来ず、仮定の訓練だか本物だかよくわからなかった。
それというのも都城へ展開以来、空襲警報は度々発せられたが、いつもきまって北九州へのB29の来襲で、空襲といえば北九州という先入観があったからである。
それでも一応命ぜられたように、戦隊に通報しようと壕を飛び出したが、ものの十米も走らぬ内に、突然連続した大爆発音が起り、はっとして立止ると、何と目の前の明野隊の格納庫付近が次々と爆発して、火柱と黒煙を噴き上げていた」
「埋れた青春」より 

昭和20年3月18日、米軍は沖縄侵攻への露払いとして西日本一帯を大規模空襲。
これに伴って九州沖航空戦がはじまります。
宮崎県沿岸部のレーダーは敵機動部隊の接近を察知できず、情報も県内各飛行場へ一切伝わっていませんでした。
3月18日朝、陸軍都城西飛行場が奇襲の第一撃を受けた際の貴重な証言が残されています。

「数日後の都城の地方新聞の一隅に
「十八日敵艦載機は、都城にも来襲、軍事施設を攻撃するも、所在の部隊は応戦、敵機?機を撃墜した。我が方の損害なし」
という記事があったが、これを読んだ都城市民の人達は、あの連続した大爆発音と、終日燃え続けた格納庫の黒煙をどう考えたであろうか。
おそらく実状は勤務していた雇員の口から洩れていたと思う。

尚通信関係者のみの疑問であるが、この日都城の私達の通信では、佐多岬、都井岬(海軍)、細島等の各陸海軍の電波警戒機情報を傍受していた事である。
詳しい事は忘れたが、当時のレーダー情報は確か、哨所番号、方位、距離、単機又は編隊、敵又は味方等々といった内容を、000、111、222といった三語組織の電文で後方に伝えられていた。
従って本来からいえば、来襲する敵機は南九州沿岸より、はるか遠くの洋上で捕捉出来たわけであり、都城でも何十分か前に敵機の来襲を予知出来たわけである。
しかし基地の中枢にいた私ですら、敵機来襲を知ったのは、ロケット弾が炸裂する僅か二分前の事であり、殆んどの基地の兵は、このロケット弾の爆発音で空襲を知ったというのが本当の所である。
果してこの日電探は何キロの洋上で敵機をキャッチしたのか、又都城ではこの電探情報を傍受したのかどうか、同じ通信とはいえ任務違いで私にもわからないが、今となってはその真相は知る由もない。
戦中は勿論戦後も、電波兵器の立遅れや、来襲敵機を後方へ通報するいわゆる航空情報の不備が、味方の損害を大きくし、敗因の一つとされているが全くその通りである」
「埋れた青春」より

細島や都井岬のレーダーが探知した情報はどのように活用されていたのか。
米軍側がそれを凌駕する電波妨害を仕掛けていたのか。
その辺の事情は全く分かりません。3月18日の朝に県内の飛行場群がレーダーの恩恵を受けられず、敵の奇襲攻撃を許したことだけは事実です。

これら日本軍のレーダー基地や通信所は終戦によって撤去されました。細島や平岩の監視所跡へ行ってみたのですが、既に痕跡すら見つかりません。
唯一、遺構が保存されているのが串間市都井岬の電探基地。
先日、お馬さんと遊ぶため歴史調査の目的で都井岬へ行ってきました。

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当時の都井岬灯台

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現在の都井岬灯台

半野生馬が棲息することで有名な串間市の都井岬。
もとは元禄10年(1697年)に設置された高鍋藩の放牧地「御崎牧」であり、岬全体が柵で遮断され、軍馬が放牧されてきました。
明治の廃藩置県後に御崎牧の馬達は地元へ払い下げられ、現在も日本在来馬の血を引く「御崎馬」たちが岬全体を自由に闊歩しています。

太平洋へ突き出た都井岬は見晴らしが良く、江戸時代から海上見張所が置かれていました。近代に入ると、船の航行を導くための灯台が建設されています。
また、同じ理由で「敵」の接近を監視するにも都合のよい場所でした。
そして太平洋戦争中、都井岬には日本軍のレーダー基地が設置されます。

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有料ですが、灯台内部も見学できます

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岬の突端から太平洋を一望。海から凄い突風が吹きあがってきます。

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都井岬の見張所についてですが、元々は簡素な監視施設として設置された様です。
戦争が激化すると共に監視システムは質・量ともに増強、レーダーや対空機関砲を備えた基地へと拡大していきました。
ただ、この基地の規模や実際の能力、成果についてはよく分りません。
戦争末期には米軍の空襲も受けていますが、その目標が灯台だったのかレーダーだったのかも不明。
宮崎・日南方面の空襲を終えた米軍機が、帰還途中に岬を襲撃していく事が多かったそうです。

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灯台における戦時中の解説はこの程度。

監視所跡地は岬突端の灯台へ向かう途中から脇道へ入り、細い道を登っていった扇山の頂にあります。
ネット上の地図には載っていない場合もあるので、入口をみつけるのは困難かもしれません。

現場近くまでは細い車道も通っているのですが、それと並行して扇山遊歩道も設置されています。

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遊歩道の看板を見て「景色を眺めながら歩いて登ろうかな」と思ったのが間違いの元。最初はなだらかだった道は、登るにつれてかなりの急勾配となっていきました。
既に遊歩道ではなく登山道と化しています。というか、道らしき道がありません。
馬に食い尽くされたか、扇山は樹木が殆んどない丸坊主状態。木陰が無いので暑い暑い。

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ぜえぜえ言いながら尾根を登り切ると、目の前に次の峰が姿を現しました。ああああああああ車で登ればよかった!
ここで一旦休憩しましょう。

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何故か、頭部だけの御地蔵さまが。

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今迄登って来た斜面を振り返ると、背後には真っ青な空と太平洋がパノラマのように広がっています。
あまりの絶景に暫くのあいだ見とれてしまいました。

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ふと足元に目をやると、夥しい量の馬糞が転がっています。こんな場所に馬がいるのかな?
山の中腹を覗いて見たら、斜面にへばりつくようにして何頭かの馬が草を食んでいました。……流石は野生馬。

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レーダー基地跡の斜面で草を食む御崎馬たち。米軍機は、この上を飛び越えて宮崎市や延岡市を目指しました。

しかしまあ、よくこんな急傾斜地を平気で歩き回れるもんですね。巨体のサラブレッドでは滑落してしまうような場所でも、小柄な御崎馬にとっては全く問題がない様です。
「鵯越の逆落し」の逸話も、日本在来馬だからこそ可能だったのかも。
あと、野生馬の排泄行為を観察していて気付いたのですが、複数の馬が同じ場所に糞をするんですね。トイレが決まっているなんてタヌキの溜糞みたい。

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眼下を飛ぶトンビ

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イヤ、馬糞を見に来たのではありません。私の目的は旧軍の遺構調査です。
ここで引き返すのも癪なので、呼吸を整えて再び登攀を開始。先程と同じくらいの斜面をひーひー言いながら攀じ登っていくと、いきなり平坦な尾根へ出ました。
ここから先、山頂部まではなだらかな地形が続いています。その向うに見えるのは通信所のアンテナ群。下をb歩いていくと、コンクリート製の基礎を發見しました。これが都井岬の特設監視所跡なのでしょう。
基地建設時には、勤労動員された女学生たちがカバンなどに砂を詰めて此処まで運び上げたそうです。
「レーダー以外に大砲も据えられた」という証言もありますが、これは大砲ではなく機関砲だったとのこと。記録によると、丘陵全体に5基の対空銃座が据え付けられていたそうです。

地下電波探知室

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電波塔の基礎部分

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その先には地下壕の跡が残っていました。これは地下電波探知室だったとの事。
かつては入口も地表に露出していましたが、風雨のせいで土砂に埋もれつつあります。

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地表に露出している地下壕の天井部分。
通気か配線か、地下壕と通じる幾つかの孔が配置されています。
電探基地の周囲は馬糞だらけでしたが、当時の日本兵たちも馬に囲まれながら太平洋を監視していたのでしょうか。
尾根の周囲には、他にも何かを撤去した掘削跡などが散在しているのですが、これらが電探基地関連のものなのかどうかは不明。都井岬の歴史に関しては、馬と灯台以外にも調べることが沢山ありそうですね。
レーダー基地に関して、パンフレットや資料館に解説は一切ありません。
ここに登って来た殆んどの観光客は気付かないまま素通りしてしまう筈。勿体無い話ですねえ。

……とか思っていたら、しっかり掲示板があるじゃないですか。ちゃんと調べろよ俺。

兵舎跡

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兵舎は司令壕と電波探知室の谷間にあり、隊員が寝起きしていました。

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兵舎跡に建てられた白蛇神社。現在は閉鎖されています。

地下発電室

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発電室入口。上に突き出ているのは通気孔か電源ケーブルの引き出し口でしょうか。

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いきなり発電壕の撮影に加わる御崎馬。このあと急カーブを颯爽と駆け抜け……ようとして、足を滑らせ転倒しておりました。

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発電機室の内部。1室のみで、天井には通気孔、床には発電機の基礎が三つ残されています。

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天井の通気孔。突然の闖入者に驚き、ぶら下がっていた数匹のコウモリがパニック状態に。

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濾過槽および貯水槽

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近くの沢からポンプアップした水を濾過・貯水していた2つの水槽。
この丘には幾つもの湧水があります。

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地下司令壕

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貯水槽のすぐ上、現在の「八十八ヶ所霊場」には司令部の壕がありました。
レーダー探知された敵機の情報は、24時間4交代制の勤労学生隊により鹿屋飛行場へ電話連絡されていたそうです。

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壕の入り口から先は左側に曲っており、その先に3つの小部屋が設けられています。
それぞれの部屋には通気孔と窓が付いていました。

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入り口から直角に曲げたトンネルは、爆風や機銃掃射よけの構造でしょうか

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この天井に開けられた通気孔の地表部分は、何と……

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こうなっております。

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戦後に通気孔を利用して建てられた祠。昔々、この附近には平家の落人らしき人々が集落をつくり、ひっそりと暮らしていたそうです。

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これも通気孔ですね。

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採光窓の方は生い茂る草に隠れてしまっています。

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ちょっと離れて見ると何が何やら。

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壕の中で地響きがするので「何だろう?」とおもっていたら、馬の群れが頭上を通過していました。

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レーダー基地付近にある三角点の標識。「點」が旧字体なので戦前に設置されたものでしょう。

戦争末期、空襲に晒されながらも都井岬特設監視所は索敵任務を続けました。しかし、3月18日以降も続いた攻撃によって九州南部の陸海軍飛行場は次々と機能を停止。
最後には、迎撃に飛び立つ友軍機すら姿を見せなくなりました。
こうなっては、幾らレーダーを備えていてもどうしようもありません。無差別爆撃が始まるとB29は次々と町を焼き払い、人々は降り注ぐ焼夷弾や機銃掃射を避けて逃げ惑うしかなかったのです。

宮崎・鹿屋方面の空襲を終えた米軍機は、帰りがけに都井岬も襲撃していきました。対空陣地も応戦しますが、敵機を撃墜するには至らなかったようです。
爆発音に驚いた御崎馬が、崖から転落死することもあったとか。

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米軍が本土上陸作戦を決行した場合、志布志湾方面にはこの沖合から侵攻してくる筈でした。
日本軍側も、崎田や内之浦に砲台や特攻隊を配備して待ち受けていました。そうなれば住民を巻き込んだ、沖縄戦の悲劇が再現されたことでしょう。
そのような話が嘘みたいに、美しい海原が広がっています。

南九州の防空戦における目と耳の役割を担った都井岬見張所。その遺構は、このまま埋れていってしまうのでしょうか。
都井岬灯台と同じくらい歴史的價値はあると思うのですが。

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何にせよ、目的は達しました。
これで心置きなく馬と遊べます。
御崎馬は好き勝手に岬の中を移動するので、所在を探すのは非常に困難。岬突端の灯台付近は森に蔽われているので、馬を間近で見るには料金所方面の放牧場へどうぞ。

敗戦の混乱期、御崎馬の数は激減します。
更に観光ブームが到来すると、ゴルフ場開発を目論んだ東京の不動産業者が都井岬の土地買収に暗躍。「馬と一緒にゴルフプレー」を売りにしようとしたのかは不明ですが、コース上に撒き散らされるであろう大量の馬糞をどうする気だったのでしょうか?それより馬に打球が当たったらどうすんだ。
この騒動に無視を決め込む宮崎県側の無策も手伝って、開発か御崎馬保護かで地元が真っ二つに割れる騒ぎに陥りました。
ついでにホテルも次々に建てられ、馬達の生活エリアは破壊されていきます。そこへ18ホールのゴルフ場なんか作ったら、馬の保護活動にとって致命的でした。
札束片手に都井岬を荒し回る不動産業者と、全く頼りにならない行政機関。
これに反発した地域は逆に結束し、国のバックアップもあって野生馬保護運動は強化されました。土地の買収に失敗したゴルフ開発業者も、遂には撤退します。
撤退して正解だったと思いますよ。
観光コースとして串間は遠く、やがて観光客が沖縄やハワイへ流れると共にホテル群の多くは廃業。一歩間違えれば、それらにゴルフ場の残骸が加わっていたかもしれません。

御崎馬にとっては、これで良かったのでしょう。

御崎馬は人間や車に対し無関心な態度を貫いており、近くに寄っても問題はありません。ただ、触ったり背後に立つ無礼なニンゲンに対しては噛み付きやキックをかましたりします。
運転の邪魔だからと馬にクラクションを鳴らす非常識な輩もいるそうで、一体何しに都井岬へ来てるんだか訳がわかりません。
脅したりしなければ、この岬では人と馬の共存が可能なのに。

あとは馬糞を踏まないように注意しましょう。本当に馬糞だらけです。
以上、馬糞のレポートでした。

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戦前の御崎馬

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現在の御崎馬

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馬たちの後方に、先程のぼってきた扇山が見えます。

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