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第1挺進集団第2挺進団 挺進第3連隊 (宮崎県児湯郡川南町)

Category : 陸軍空挺部隊一覧 |

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機窓はるか霧島裾野ひろがりぬ
いざ心して天ゆ降らむ

挺進第3連隊 中園健一氏

第1挺進集団の挺進第3聯隊と挺進第4聯隊は、「第2挺進団」所属のパラシュート部隊です。
映画「加藤隼戦闘隊」のパレンバン作戦シーンでエキストラ出演したのも第2挺進団。
レイテ降下作戦に投入された事でも知られていますね。



川南町の国立病院機構宮崎病院には巨大な給水塔が保存されています。
これは、当地に駐屯していた陸軍落下傘部隊挺進第3聯隊兵舎の給水施設であり、唯一残された陸軍空挺部隊の遺構でもあります。
しかし、陸軍落下傘部隊を「空の神兵」と讃える人々が、その遺構に目を向けたことはありません。
空挺部隊や戦跡関係の書籍やサイトには随分と目を通しましたが、何十年も前から給水塔を調査していたのは地元の郷土史研究家や新聞社の資料だけです。あとのミリタリー書籍は完全無視。
悲しいかな、軍事オタクが求めるのは空挺部隊の武勇伝ばかりという訳ですね。給水塔は、戦後70年に亘って地域の努力により守られてきたのです。

戦争遺跡

現在の唐瀬原中学校付近には陸軍空挺部隊の挺進第4聯隊が、そこから川南湿原を挟んだ国立病院機構宮崎病院に挺進第3聯隊が駐屯していました。
この2個連隊は、空挺部隊の増強に伴って挺進第1聯隊と第2聯隊が南方へ出撃中に川南で編成されています。
以降、第1聯隊と第2聯隊は「第1挺進團」、第3聯隊と第4聯隊は「第2挺進團」として運用されるようになりました。

昭和19年、第2挺進団は「高千穂空挺隊」としてフィリピンの戦場へ赴きます。
レイテ島へ上陸した米軍は、ブラウエン一帯の飛行場群から迎撃機を出撃させ、日本軍の輸送船団を徹底攻撃。
武器と食糧の補給を絶たれた日本軍レイテ守備隊は、空挺作戦と連携した米軍飛行場の破壊を計画したのです。

高千穂空挺隊が作戦準備中、台湾義勇兵で構成される「薫空挺隊」がブラウエンへ空挺攻撃をかけました。
無関係の部隊に抜け駆けされた事を知り、空挺部隊側の動揺は大きかったといいます。

高千穂空挺隊
昭和19年12月6日夕刻、レイテ島の米軍ブラウエン飛行場へ降下する挺進第3聯隊。川南空挺慰霊祭にて

12月6日、高千穂空挺隊第一波降下部隊はブラウエンへ向け出撃。
目標上空へ到達した高千穂空挺隊ですが、待ち構えていた米軍は凄まじい対空砲火で迎撃します。輸送機が次々と撃墜される中、空挺隊員らは夕闇迫るブラウエンへ降下していきました。
飛行場の占拠と米軍機の破壊には成功したものの、連携して突入する予定だった地上部隊は姿を見せません。実は、地上部隊の主力は飢餓によって行動不能となり、ブラウエンまで辿り着けたのは一部の大隊だけだったのです。

ブラウエンを占拠した空挺部隊は、夜通しかがり火を焚いて第二派の降下を待ちました。
しかし、ブラウエンから帰還した輸送機は被弾損傷多数で飛行不能。応急修理で飛び立った僅かな輸送機も悪天候に阻まれ、後続部隊の降下に失敗します。
翌朝になって米軍は反撃を開始。増援を得られないまま、高千穂空挺隊は袋の鼠となって各個撃破されました。何とかカンギポットまで撤退した第3聯隊の白井聯隊長以下十数名も、飢餓と病によって陣没。第一波降下部隊は文字通り全滅します。
ブラウエン攻撃の生存者は、撃墜されてレイテ湾を漂流中に捕虜となったパイロット1名、空挺隊員3名のみでした。

残る第4聯隊の斉田聯隊長らはオルモックへ上陸した米軍の迎撃へ向かい、斬込み攻撃を続けた後にカンギポットへ撤退。
更にはボートでレイテ島から脱出する第35軍司令部を護衛して、抗日ゲリラと洋上戦を繰り広げます。米軍とゲリラの追撃を受けた4隻は撃沈、または航行不能となり、ミンダナオ島へ辿り着いたのは斉田聯隊長の1隻のみ。
その斉田連隊長も、後の戦闘で行方不明となりました。

これら2個聯隊とは別に、徳永第2挺進團長率いる高千穂空挺隊予備兵力400名は「徳永遊撃隊」としてフィリピン各地に展開。
こちらも米軍との攻防、飢えや病気によって多数の隊員が犠牲となりました。
生残った空挺兵はジャングルに立て籠もったまま終戦を迎えます。



また、レイテ出撃中だった挺進第3連隊の空兵舎には、挺進第1連隊第4中隊から抽出された「義烈空挺隊」が入って特攻作戦の訓練を続けています。
埼玉県へ移動してサイパンへの強行突入に備えていた義烈空挺隊ですが、作戦中止決定により川南へ帰還。
原隊の挺進第1聯隊第4中隊は再編成されていた為、川南に義烈空挺隊の居場所はありませんでした。
仕方なく第3聯隊兵舎に間借りした同部隊は、次の出撃命令が下るまで訓練に明け暮れます。

唐瀬原兵舎の義烈空挺隊に沖縄突入命令が下されたのは昭和20年4月のこと。翌月に熊本県の健軍飛行場へ移動した義烈空挺隊は、2週間後の5月24日に沖縄の北・中飛行場へ突入。米軍側の記録では、1機のみが強行着陸に成功しています。
12機で出撃した義烈空挺隊168名(パイロットおよび中野学校出身者含む)は、エンジン不調で途中帰還した4機の隊員を除く8機112名全員が戦死しました。

宮崎病院

宮崎病院
●国立病院機構宮崎病院。空挺給水塔は病院の裏にあります。

第3連隊の兵舎は、戦後になって国立宮崎療養所へ転用されます。
川南で終戦手続にあたっていた空挺司令部の残務処理班メンバーは、進駐軍の監視下で空挺部隊の解体を進めました。
第3連隊兵舎の国立療養所への転換もそのひとつです。
年末までに軍用地の開放や武器の集積・破壊、車両や備品類の民間放出、隊員の除隊手続などは完了。
残されたのが、やがてフィリピンから復員してくるであろう空挺隊員の受け入れ準備でした。
飢餓と病気と激戦に晒された高千穂空挺隊員や滑空歩兵隊員ら帰国傷病兵の為に、国立療養所での治療体制を準備する必要があったのです。
幸いにも、療養所の所長は川南空挺基地にあった唐瀬原陸軍病院の出身者。
事情を理解していた療養所側によって、空挺残務処理班メンバーは事務員として病院に採用されました。
この復員業務を最後に、「空の神兵」と謳われた精鋭部隊はひっそりと活動を終えたのです。

第3連隊1
高さは28メートル。横にある配電柱と比較すると、その大きさがわかります。
新田原から飛び立って塩付降下場に降下する空挺部隊は、これら唐瀬原の給水塔を目標にしていました。

第3連隊2

療養所として再利用された挺進第3聯隊兵舎も後年の改築で消滅。現在は、兵舎で使われていた給水塔1基のみが残されます。
国立病院機構宮崎病院のサイトによりますと「現在では老朽化も進み宮崎病院では解体予定もありましたが、地域からの存続願いが強かったため現在も使用されて残っています」とのこと。

まるで無関係のように書かれていますが、前述のとおり陸軍空挺部隊は国立宮崎病院の設立に深く関わっているのです。

K3
※煙突みたいに見えますが、煙じゃなくて雲ですよ。

2012年からは宮崎病院の敷地で大規模改修工事が始まりました。隣接する保育所も新築移転しましたし、給水塔の周囲の風景は急速に変化していくのでしょう。

川南町側が地元のシンボルである給水塔を末永く残していきたいと思っていても
これが国立病院機構の所有物である以上、老朽化や保守費用の問題も含めてどうなるかはわかりません。
戦争遺跡を観光資源や歴史資産として有効活用するか、開発の邪魔として破壊するか。
双方に言い分はあるので、なかなか難しい問題ですね。

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