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陸軍木脇教育隊・六野原飛行場(宮崎県東諸県郡国富町木脇)

Category : 東諸県郡の戦跡 |

何がきっかけであったものか、或る日父が三人の若い少尉殿を連れてきた。いずれも二十歳そこそこの若い兵隊さんで、少年の私には襟章にみる三本の金筋がまぶしかった。
木俣少尉。落ち付いた物腰で学者肌の人柄であった。父は歳に似合わぬ座りのよい字を書く人と評していたのを思い出す。
鎌田少尉。音楽学校出身の根っからの明るい人で、声楽で練えた声は大きく独特の響きをもっていた。
神崎少尉。新潟県の人だったと記憶する。精悍な顔立ちで、謹厳な雰囲気を感じさせる人であった。
三人は休みの日曜日には時々立ち寄り、喰ったり喋ったりで時を過ごした。少年の私とは年齢差もあることから直接の交流はなかったが、我が家に兵隊さんが立ち寄ることが誇りに思えたものであった。
最初の日、母の心尽くしの食事を前に鎌田少尉が「オーイ、すごい!!銀めしだぞ!」と吠えるような声で喜んだのが印象に残っている。
ある時小学校の講堂から男の歌声が聞こえた。近づいてみると三、四人の兵隊さんがピアノを囲んで歌っている。その中に鎌田少尉がいた。
少尉は歌っては楽譜のような紙片にチェックしていた。後で判ったことだが、それは木脇教育隊歌を作曲していたのであった。
“阿波岐が原や高千穂の……”やがて私達も口ずさむようになるその歌は、この時誕生したものと思う。

「国富町郷土史」より、六野原飛行場の証言

宮崎市へ流れる大淀川の支流、本庄川沿いに国富という町があります。
宮崎市・西都市・綾町への中継地点という以外に、何の変哲もない片田舎。しかし戦争末期、この町は宮崎市防衛の本拠地だったのです。
米軍が宮崎市へ上陸した場合、国富町(当時は本庄)に司令部をおく陸軍第156師団は全力を挙げて迎え撃つ計画でした。

156師団の本土防衛作戦とは関係なく、国富町にはもう一つの軍事拠点が設置されていました。
それが、今回ご紹介する六野原飛行場です。

トーチカA1

東諸県郡木脇村(現在の国富町木脇)の六野原台地に飛行場が設置されたのは、大正15年1月のこと。
150人の在郷軍人會員が、補助着陸場の建設にあたりました。

飛行第四連隊野外飛行場演習中、宮崎県東諸県郡木脇村に補助着陸場を設定するに当り会員約百五十名は寒風を冒し前後五日間に亘り能く規律を守り困苦欠乏に堪え終始一貫協力、会の美風を発揮して熱心作業に従事し、予定の日時に着陸場の設備を完成したるのみならず、飛行機着陸に際しては万余の観衆に対し率先警戒に任じ、飛行隊の演習をして遺漏なからしめたるは、真に犠牲的軍人精神の発露にして本会の目的を遂行したるものと認む。
依て茲に之を表彰す。
大正十五年二月十七日
帝国在郷軍人会第六師団管連合支部長 陸軍少将 藤田次助


この補助着陸場が使用されたのは、上記の表彰のとおり大正15年1月頃のこと。
その他の記録として、「同年12月24日、完成した700メートルの滑走路に三機の陸軍複葉機が飛来して、管中尉による飛行演習が披露された」との証言もあります。二日間の筈だった飛行演習も、翌日の大正天皇崩御によって終了。せっかく作った仮設飛行場も、その後は使われる事もなく放置されていたそうです。
大正期の演習が1回だったのか2回だったのか、詳細は不明。

六野原飛行場の軍事利用が再検討され始めたのは、日中戦争の頃でした。

そこは宮崎の新田原基地に程近い陸軍の練習飛行場であった。
支那事変(日中戦争)の拡大に伴い、急遽開拓の一僻村が軍用地と化したものである。微かな記憶だが、飛行場のオープニングセレモニーには、わたし達小学生も引率され参加した。
次々に繰り広げられる華やかな空中の妙技はすっかり観客を魅了、以後六野原は軍国少年達にとって憧れの聖地ともなっていった。

岩切哲郎氏「六野原飛行場建設作業に従事して」より

太平洋戦争に突入すると、六野原飛行場の再利用計画は本格化。滑走路拡張に伴う土地買収も始まります。

次々と戦域が広がり激戦が続くうち、昭和十七年三月末、陸軍航空本部の松沢少佐がみえ、八代村長に対し、六野原に飛行場の計画があるので協力して貰いたいとの事で、六野原の十三字図、及び土地台帳、並びに名寄帳を作成し、同年四月航空本部に送付した。
航空本部より、予定地内土地所有者二百九十五名に対し、飛行練習場としての係官の詳しい説明があり、全員に土地の提供と共に全面的な協力の依頼があった。
係官より「何か質問異議等ありませんか」に対し「軍が使用しなくなった時は、元の所有者に返して貰いたい」との申し出があったが、係官は今のところ状況が判らないとの事であった。
軍用地價格決定及び地上物件の補償等の件で、五月二十六日木脇国民学校に買収委員会が開かれ、筆毎の地価により反当宅地三百円、田は五百五十円、畑上三百二十円、同中二百八十円、同下二百三十円、山林原野百五十円と決定した。
地上物件、桑、茶、甘藷、たばこ、その他立木等、補償価格が決定した。
同年十一月十五日、現地で起工式に村長以下三十三名が列席した。労力奉仕隊は、最終までに三万人余となり、県道工事動員四百十二名となった。同十九年五月、地代金及び補償料等、支払い終る。又取付県道工事奉仕謝礼金支払い、その他事務等同二十年九月五日終る。

「戦世を生きて」より、日高重義氏の証言

昭和十七年四月十二日、用地買収決定通知を木脇村役場会議室に於いて受けた。

木脇補助着陸場の再利用工事が始まったのは戦争末期、昭和17年のこと。地権者との買収協定を終えてから測量に着手、11月には着工しています。
しかし、戦争後期とあって作業員の不足は深刻化していました。遠くは小林・野尻方面からも勤労奉仕の学生が動員され、更には朝鮮人労働者も投入して、トロッコやモッコを用いた人海戦術で建設が進められます。

昭和十七年四月十二日、用地買収決定通知を木脇村役場会議室に於て受けた。
軍関係者四十二戸、県道取替関係者二戸、計四十五戸に強制立退命令とも受取れるものであった。拙宅の場合は、昭和十七年七月八日、家屋移転費決定が通告され、その内容は次の如しであった。
一、木造瓦葺平屋建 一棟(但し中古住宅) 三十一・五坪
一、厩舎 一棟(但し中古) 十坪
一、厠 一棟 一坪
右移転費総額三千七百五十二円と決定。尚、移転費を支払いされた月日は左の如し。
第一回 九月二十六日 内渡金一千円
第二回 十月二十六日 同一千四百五十円
第三回 十二月二十六日 残額受領する
尚、家の移転に伴う地均しを九月二十三日に始めている。住み馴れし土地は飛行場へ変わるのか。政府のなすがまま。
されど国策の一助なのか。矢張り挙国一致で進む可きであろう。
昭和十八年一月六日、飛行場への土地買上げによる農地代金の支払いを受けたのはほんの雀の涙程の面積であった。いわゆる他の場外地にある程度所有していたので、小生として可笑しくいえば「天佑神助」だったのかも知れないのだ。

「戦世に生きて」より、本田秀麿呂氏の証言

六野原には三十数基の古墳が散在しており、新田原飛行場建設時と同じく総て移設・改葬が決定。発掘作業では遺骨をはじめ貴重な遺物や武具が多数出土したものの、作業を急ぐ余り調査は不十分なまま完了となります。
中には碌な調査も行わないで埋め立ててしまったケースもあったとか。戦争のため、貴重な遺跡群は消滅してしまいました。

昭和十七年、陸軍飛行場を設けるに当たり宮内省の承認を得、場内封土墳十基、地下式古墳二十数基を此処に移転し、其の祭を行う。
昭和十八年十月
宮崎県知事 西廣忠雄


こうして、昭和18年10月に陸軍六野原飛行場が完成。とはいえ、作られたのは800メートルの滑走路と誘導路だけで、兵舎も何もありません。まず訓練が優先され、諸施設は後から建設されていきました。
飛行場には太刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊が展開、飛行士の訓練にあたっています。

太刀洗5

国富

ここで養成されたパイロットは各地の飛行隊へ配属され、その中には特攻へ飛び立って行った人もいました。

木脇教育隊記念碑

太刀洗3
六野農村公園に建立された大刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊記念碑

昭和十九年四月頃から役場の依頼によって、六野に在った少年飛行隊の日曜下宿を我が家が担当する事になった。他に福沢、井上、菊池、酒井さん等が加わっていた様である。
お客さんは十六歳前後の少年特攻飛行兵であった。一組七人であった。
日曜になると早々と八時には来訪、午後三時には帰隊。その間民間人の家庭生活を堪能して、手足を伸ばして寝ころんだり、唄を歌ったりしたのであった。
うちの婆ちゃんの気の入れようは異常な程であった。
我が家の配給は勿論、やみの砂糖まで集めてきて、大きなボタ餅を作って兵隊さんに食べさせ、大きな巻きずしを作っては食べさせ、孫たちにはひときれも渡らなかった。
兵隊たちは婆ちゃんを「お母さん」とよび、大変になついていた。
終戦になって散り散りになった。戦後になって我が家を訪問したのは僅か三名であって、他の者は戦後の人生が決して平坦ではなかったらしい。

「戦世を生きて」より、海老原スミさんの証言

太刀洗2

太刀洗1

太刀洗4

木脇教育隊には、昭和18年11月20日に第1期生の特別甲種幹部候補生149名が配属されたのに続き、翌年三月二十五日には少年飛行兵198名、8月2日には特別幹部候補生150名が送り込まれました。

弾薬庫

木脇1
記念碑近くの耕作地にある旧軍弾薬庫

六時過ぎに家を出て夜の八時過ぎに帰宅すのだが、家族全員それぞれに忙しい農家の生活とあれば、会話を交わす暇もなくただ寝るだけ。
朝が来れば、破れた地下足袋にゲートル、飯盒に飯を詰め、シャベルを担いで六野原へ。そんな調子の生活だったように記憶している。
八時、整列点呼のあとは現地部隊の作業班に分散し一日が始まる。作業中も私の不安は続く。
「こんなこと続けていいんだろうか。もしかしたら死んでしまうのかも?」
でも誰にも言えなかった。「お前おかしんじゃないのか?」と、「誰か声をかけて呉れないかなあ……」。そんなことを考えていた時だった。
「隣の学生達はよう動くよ」
突然、○○兵長の声が飛んだ。動きの鈍いわたしへの露骨な当てつけだった。
あの時の口惜しさ、情無さ、今も生々しく刻みついている。
「元気でさえあれば、誰が兵隊なんかに負けるもんか」
それから数日後のある朝、血の小便をした。愕然として母に告げると、さすがに母も驚いたようだった。
顔が黄色いという。医者の診断では「黄疸」とのこと。眼も舌も足も、全身まっ黄色。遂に動員を休んだ。地下足袋の修理も。
翌朝、早速軍事教官○○少尉の訪問を受ける。「黄疸にやられました。申し訳ありません」との報告に「非常時の折柄、一日も早く……」と靴音高く帰っていった。
その日、六野原の作業現場が猛烈な爆撃を受けたのだそうだ。友人の話によると、「退避」との号令がかかった時、グラマンの機体が覆い被さるように迫って、夢中で土手にしがみついたとのこと。拾いあげた薬莢の大きさに、改めて恐怖心がこみ上げてきたのだそうだ。兵舎の将校が直撃弾で戦死した以外、学生全員無事だったらしい。

岩切哲郎氏「六野原飛行場建設に従事して」より

木脇2

木脇3

木脇4
かつてこの場所に滑走路が設置されていました。

六野原飛行場は訓練基地であり、ここから直接特攻隊が出撃した訳ではありません。
しかし、戦争末期の国富町は宮崎沿岸を防禦する陸軍第156師団の司令部が置かれていました。宮崎市に米軍が上陸すれば、凄まじい地上戦に晒されたことでしょう。
六野原飛行場にもたびたび米軍艦載機が襲来、機銃掃射を加えていました。

終戦の少し前の話であるが、或る朝のこと。
空襲警報が出たので一家は防空壕にひそんでいた。一人家に残っていた婆ちゃんが血相変えて駆け込むなり
「早く壕を出て逃げろ!!唯今犬熊に敵の飛行機が何かを落とした。大変だ、大変だ」
と大声で叫ぶ。
私たちは飛び出してみたが、しばらくは何もない。呆然としていると、犬熊の方から人々がお祭りのみこしをかつぐ恰好で、白色の長い物体を得意然とかつぎながら師団司令部のある小学校へと運んで行った。
あとで聞くと、その物体は飛行機の補助タンクであって危険な物ではなかったそうな。一寸滑稽な一幕であった。
それにしても終戦の次の日、米軍の超低空飛行は頭にきたものだ。

「戦世に生きる」より、海老原スミさんの証言より

トーチカA

飛行場防御用のトーチカ。畑の中にあります。
トーチカA5

トーチカA4

トーチカA3

トーチカA2

トーチカB

用水路脇にあるトーチカ。これだけが国富町教育委員会によって整備されています。
トーチカB3

トーチカB5

トーチカB1

トーチカB2


トーチカC


大根畑の真ん中にあります。
トーチカD1

トーチカD2

トーチカD

農地の片隅に残されています。農作業の障害になりながらも、歴史的遺産として保存されてきました。
トーチカE2

トーチカE3

トーチカE4

トーチカE5

昭和20年3月18日以降、宮崎県各地の軍用飛行場は凄まじい空襲に晒されます。木脇飛行場の近くにある赤江・新田原・唐瀬原の各飛行場も猛爆撃を受けました。米軍機の攻撃は、内陸部の都城西飛行場や県北の富高飛行場にも及んでいます。
都城東飛行場と都城北飛行場、そして六野原飛行場は草原と見間違えられたのか、攻撃を免れました。
しかし、都城東からは特攻機が続々と出撃。都城北でも特攻隊員らが待機を続けていました。六野原飛行場で教育を終えたパイロットも、その多くが特攻隊へ配属されたそうです。



昭和20年秋、進駐軍は国富町一帯に展開していた陸軍第156師団(護西兵団)の戦車や火砲を木脇飛行場へ集め、徹底的に破壊しました。
敗戦処理が終わったあと、木脇飛行場は農地として開放されます。

最も大きな感動を以て思い出すのは富沢中尉(東京都出身・二十三歳)のことで、彼は教官であり我が家の奥座敷に下宿していて、日曜にはレコードを持ちこんで孤独な時を過していた。
ある日特攻出撃の命が降り、彼は我が家で「春の海」のレコードを何度も聞き、そして遺言書を我が家に残して、次の日、単身知覧に飛び立って行った。
その十年後、知覧の特攻隊記念館で彼の勇姿が見付かり、我が家の者全員声を出して泣いた。

「戦世に生きる」より、海老原スミさんの証言より
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