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海軍第5特攻戦隊第35突撃隊第121震洋隊および第8回天隊特攻基地(宮崎県日向市細島)

Category : 日向市の戦跡 |

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第二次大戦中、日本の陸海軍は数々の特攻兵器を開発しました。
空の特攻兵器としては「桜花」や「剣」。
海の特攻兵器としては人間魚雷「回天」や「海龍」、爆雷を持った潜水士が海中で敵船を待ち受ける「伏龍」。
特攻モーターボートである、陸軍の「四式肉薄攻撃艇(マルレ)」と海軍の「震洋」も知られています。

昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に「回天」や「震洋」が配備されました。

県北部に展開したのは、佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)。
北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻でした。

県南部に展開したのは、特攻第5戦隊第33突撃隊(日南市油津の第03回天隊及び126震洋隊、南郷の第05回天隊及び第56・第117震洋隊、内海の第9回天隊。合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻)。

今回は、日向市に駐屯……というより市内各地を転々としていた第121震洋隊の遺構について取り上げます。


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夕刻の御鉾ケ浦

【佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第121震洋隊基地】


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満潮時の121震洋隊御鉾ケ浦基地。目の前に浮ぶのは「古島」です。

昭和20年春から沖縄戦が始まり、米軍の九州上陸は目前に迫ります。
米艦隊の接近に備え、5月から特攻艇が本土に展開。
福岡・大分を除く九州各県沿岸でも、複数の特攻艇部隊が待機を続けていました。
その中のひとつ、日向市に配備されたのが第121震洋部隊です。

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戦前の細島港

この部隊は藤岡宏太隊長以下将校7名、特攻隊員50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名、総員188名。
震洋26隻、3個艇隊および1個補充隊で編成され、各艇隊の内訳は3個小隊および1個遊撃隊でした。

121震洋隊は、昭和20年1月27日に長崎県の川棚で編成されます。
第一艇隊長は藤岡宏太、第二艇隊長は鈴木栄一、第三艇隊長は恩田一、補充艇隊長は金井利雄。
4月1日より第33突撃隊から第35突撃隊へ変更され、第48、54、122、126部隊と共に宮崎への配置が決まりました。先発隊の鈴木第2艇隊長と佐熊基地隊長は4月27日から宮崎県へ移動。続いて佐世保から特攻ボートの陸路搬入が始まります。
本隊が到着したのは5月で、部隊の司令部は日向市細島漁協2階に設置。特攻隊員の宿舎は、御鉾ケ浦の伊藤氏宅周辺に設営されました。

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現在の細島漁協

御鉾ケ浦では特攻ボートの格納トンネル建設も開始。
しかし、岩盤の固さに工事は難航し、遅々として進みませんでした。

悪いことに、三菱石油や九州造船の軍需工場が集まっていた細島港は米軍の集中攻撃を受けます。121部隊も、漁船に紛れて係留していた震洋艇1隻を空襲で撃沈されてしまうなど、訓練前から被害が出ていました。
このようなことから、特攻ボートは対岸にある第8回天隊基地へ一時避難しています。

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馬ケ背より眺めた御鉾ケ浦。夕刻、奥にある商用港から次々と漁船が出漁していきます。
細島港は商用港(漁港)と工業港(貨物港)、そして白浜港(国際港)の三つで構成されています。


【佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第8回天隊基地】

第121震洋隊が一時期間借りしていたのが第8回天隊の細島基地。水上特攻の震洋とは違い、海中から敵艦目がけて突入する人間魚雷の部隊でした。
山口県で編成された08回天隊は、昭和20年に宮崎へ配備となります。
08回天隊の基地が設置されたのは細島漁港の北側。牧島山麓の海岸には全長30メートルほどの格納トンネルが6箇所掘られ、それぞれのトンネルに2隻、計12隻の回天が収容されていました。
12隻の人間魚雷に乗込む特攻隊員も12名。
その他、整備など支援要員を含めて数十名が駐屯していた様です。

第8回天隊員到着日
7月8日 井上、山崎、青柳、岩部、唐木田、真壁隊員
7月14日 赤松、浅井、落合、加藤、中島、野寄隊員

08回天

細島

細島2
牧島山麓から見下ろした細島漁港。

細島4
向う岸が第121震洋部隊の御鉾ケ浦基地です。

08回天2
「細島沿岸には今でも回天が埋まっている」との噂もありますね。

花
牧島山側は御鉾ケ浦と違って道が狭い上に地形が険しく、立ち入り禁止の私有地も散在しています。
海岸を辿って回天基地の痕跡を探すのはほぼ不可能。
「弾頭を除去しないまま回天を埋めた」という話もあり、危険防止のため行政も発掘作業を許可していません。

細島3

細島5
車道の行き止まりから森を抜け、海岸へ降りてもそこは岩礁と丸石だらけ。波が打ち寄せるたびにガラゴロと音を立てて石が海中を転げ廻っています。
浮石が堆積している状態なのでバランスをとりにくく、浜を歩くのも大変でした。

細島6

細島周辺はリアス式海岸となっています。
潜航艇を隠すに適した岩礁地帯も多いのですが、こんなに足場が悪くてはマトモな運用など不可能でしょう。
回天隊はもっと湾の奥、造船所付近に展開していたのだと思われます。

08回天3

猪垣でしょうか、細島沿岸の森を歩いていると幾つもの石垣に出会いました。昔から港として栄えた細島には、色々な時代の史跡が残っています。

常石
常石2



第8回天隊に間借りするも、固い岩盤に阻まれて御鉾ケ浦基地の建設は進捗しませんでした。
御鉾ケ浦海岸に幾つかの格納トンネルが掘られたものの、6月中旬に完工は頓挫。121震洋隊は御鉾ケ浦からの移転を余儀なくされます。

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当時の御鉾ケ浦海水浴場。砂浜が縮小した位で、風景は現在と変わりませんね。

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御鉾ケ浦に残る特攻ボートの格納トンネル

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戦時中、この静かな入江が特攻隊の拠点となっていました。
画像の古島には干潮時に砂洲が現れ、歩いて渡ることができます。

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この古島には三名の攘夷志士が眠っています。
文久2年の寺田屋事件では、同じ薩摩藩士が攘夷派と鎮圧側に分れて斬り合う惨事となりました。その際、寺田屋の二階にいた浪士たちは薩摩藩士の説得に応じて投降します。しかし、脱藩者の田中河内介・磋磨介親子、海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎だけはどこの藩も引き取りを拒否。
薩摩行きを希望した五名ですが、攘夷派の扱いに困った薩摩藩では彼等の抹殺を図ります。

まず、瀬戸内海を航行中の船内で田中父子が殺害されました。
続いて細島へ到着した三名も、古島で斬殺されます。

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三名の遺体を発見したのが細島在住の黒木庄八。彼は処刑された志士たちの墓を古島に建立し、現在に至るまで黒木家の方々がその世話を続けています。

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寺田屋の惨劇から80余年。
121震洋隊は、三名が眠る古島の対岸で自爆訓練に備えていました。

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特攻第百二十一震洋隊細島基地跡

ここ、細島御鉾ヶ浦の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年五月、一死をもて祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、基地を設営し艇格納壕を掘削し、日夜訓練に精進し出撃待機をした第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。
震洋5型艇とは、長さ六・五メートルのベニア作りのモーターボートの頭部に二百五十瓩の炸薬を搭載、敵艦船に自ら高速で体当たり肉弾攻撃を敢行するものであった。
搭乗員は、部隊長・艇隊長ならびに年歯僅か十五~十八歳の三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身、計五十四名が配された。
ほかに基地隊、整備隊、本部付の各隊員がよくこれを支援した。
のち梶木基地に転進、時利あらずして悲願空しく、終戦を迎えた。
爾来半世紀に近い星霜を経た今、地元の方々の深甚なるご協力を得て、ここ平床鼻の往時の艇格納壕上の地に、戦跡を記念する標柱を建立して、悠久の平和を心から祈念するものである。
平成五年十一月吉日
元・部隊員有志


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121震洋隊細島基地の案内板

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この岩場に震洋の格納トンネルが掘られました

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細島の震洋格納壕

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格納トンネルの中から見た御鉾ケ浦

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斜面崩落により完全に埋没した格納庫

中には「御鉾ケ浦へ行ったけど震洋の格納庫なんか無かったぞ」という人もいる筈。
見付けられないのは、おそらく満潮時だったからでしょう。
潮が満ちている間、トンネルは水没していますよ。

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古島から見た細島港側
細島基地の対岸には人間魚雷の第8回天隊が設営していました。

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同じく古島から見た馬ケ背方面

馬ケ背というのはですね、簡単に説明すると巨大化した東尋坊です。断崖周辺に設けられているザイルの確保点も、事故に対処するためのものでしょう。
芥屋の大戸ほど見事ではありませんが、柱状節理が観察できます。
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馬の背というよりクジラかクラーケンみたいですねえ。

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馬ケ背の突端から眺めた日向灘。
ここに敵艦隊が出現したら、第121震洋隊と第8回天隊が迎撃する計画でした。


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駐車場にいたネコ。細島港一帯はネコだらけです。
あと、周囲の林の中には物凄い数のアカテガニが……。

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御鉾ケ浦基地を放棄した震洋部隊は、日向・門川の境にある梶木町へと再移転します。
新たな拠点は倉戸ケ鼻から向ケ浜にかけての一帯。梶木町には部隊本部、宿舎、弾薬庫、通信所などが設けられ、倉戸ケ鼻沿岸部には震洋格納トンネルが掘られました。
特攻ボートは御鉾ケ浦から岬伝いに回航し、梶木沿岸に揚陸秘匿されます。
特攻隊員は周辺の民家に宿泊し、待機の日々を送りました。

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特攻第百二十一震洋隊梶木基地跡

ここ、梶木の向ケ浜の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年六月、一死もって祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、細島基地から転進、地元の熱誠あふれる協力と理解のもとに新たに基地を設営し、神社境内周辺に艇を秘匿し、日夜訓練に精進し出撃待機をした、第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。
震洋5型艇とは、長さ六・五メートルのベニア作りのモーターボートの頭部に二百五十瓩の炸薬を搭載、敵艦船に自ら高速で体当たり肉弾攻撃を敢行するものであった。
搭乗員は、部隊長・艇隊長ならびに年歯僅か十五~十八歳の三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身、計五十四名が配された。
ほかに基地隊、整備隊、本部付の各隊員がよくこれを支援した。
この地に転進すること二ヶ月有余、時利あらずして悲願空しく、終戦を迎えた。
爾来半世紀に近い星霜を経た今、地元の方々の深甚なるご協力を得て、ここ霧島神社境内の往時の艇格納壕上の跡地に、戦跡を記念する標柱を建立して、悠久の平和を心から祈念するものである。
平成五年十一月吉日
元・部隊員有志


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震洋格納庫があった地域
これら内陸部のほか、海岸付近にもトンネルが掘られました。

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梶木基地の記念碑

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記念碑の先へ進むと、「金毘羅神社」の看板が立っています。右手は私道。

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海岸にある金毘羅神社。ここから向ケ浜を一望できます。

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御鉾ケ浦はアカテガニの楽園でしたが、向ケ浜の磯はフナムシ天国。
その数たるや、コレ系の生物に耐性がある私ですらゲンナリするほどです。海岸の景色はとても美しいのですが、足元に目をやるとフナムシの大群。
そしてタイドプールの中では、たくさんのアメフラシが巨大ナメクジの如く這い回っておりました。
産卵シーズンらしく、オレンジ色の海素麺が至るところに産み付けられています。

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大群だとキモチ悪いので単体のみ掲載。ゴキブリみたいに飛ばないだけマシですけど。

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アオサをモシャモシャたべているアメフラシ

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さて、気を取り直して震洋格納庫の探索に取り掛かりましょう。
御鉾ケ浦では海岸の地形を利用して格納トンネルを掘っていました。向ケ浜でも、敵機からのカモフラージュを兼ねて海岸の整地作業は最低限に留めていた筈。
おそらく、満ち潮を利用して震洋を海へと曳き出していたのでは?

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先へ進むと切り立った岩盤に阻まれます。震洋隊が展開していたのは手前の浜みたいですね。

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神社周辺のトンネルへ格納していた特攻ボートは此処から海へと曳き出されていました。
向ケ浜の磯にはこのような「道」が幾つか残っています。

細島同様、海岸付近にも格納トンネルはあった筈。
その辺を頭に入れて海岸線を眺めると、岩礁の間にボートが通れるくらいのルートが幾つか見えてきました。
「道」の先は海岸の奥にある茂みへと続いています。

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岩場を削ったような跡。因みに干潮時です。

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掘削跡から浜の奥を眺めたところ。

ここを辿って行った先、あの林の奥が怪しい。
そう思って茂みに分け入った途端、自分の準備不足を後悔しました。
行く手を遮るのは密生した雑草と灌木と蔦。まさか、海岸の調査で藪漕ぎをする派目になるとは思いませんでした。折り畳みノコと皮手袋を持って来ればよかった……。
厚く堆積した流木や漂着ゴミで足元も非常に不安定です。これでサンダル履きだったらアウトでした。

灌木の僅かな隙間を探し、意を決して茂みへと突入。
藪漕ぎというより、植物の壁に体当たりしてムリヤリ突破する感じです。トゲのあるイバラなんかがワサワサ生えていて、引っかき傷だらけになりました。

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密生した藪で視界ゼロ

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藪の奥はこんな感じなので、安易に踏み込むのはオススメしません。

藪の奥は……、土砂崩れで行き止まり。全くの徒労です。
しかし、崩落斜面には人為的に掘削したような跡が見られました。細島同様、格納トンネルが潰れた跡かもしれません。
ここで諦めたら終わりです。
めげずに、隣接する似たような藪へ飛び込んでみました。

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カーテンのように生い茂る枝を払いのけ、その先の視界が開けた瞬間。
目の前に、御鉾ケ浦と同じトンネルが現れました。
「あった!」
121震洋隊がこの地に存在した証は、茂みの奥にちゃんと残っていたのです。

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トンネルは奥行3メートル程で埋没しています。
壕の中から海を眺めると、震洋の出撃ルートがハッキリ浮かび上がりました。
海岸の地形を巧みに利用して海まで辿り着くようになっていたんですね。

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最近は空振り続きだった戦跡調査ですが、この発見で全ての苦労が報われました。

御鉾ケ浦と向ケ浜。
静かなこの海辺で、かつて自爆ボートに乗組んでいた特攻隊員たちは何を思っていたのでしょうか。
格納トンネルから日向灘を眺めてみても、私にはその心情を推し量ることはできません。
だって、目の前には余りにも平和でのどかな風景が広がっているのですから。

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ボロボロになって藪から這い出したら、既に時間は正午過ぎ。
太陽に炙られ、生き物で賑わっていたタイドプールは死んだように静まり返っています。
水温の低い午前中は旺盛な食欲を見せいていたアメフラシたちも、強烈な日光を避けて海藻の間に潜りこんでいました。フナムシの数も、心なしか減ったように見えます。
さっき見た震洋のトンネルが白日夢だったような気がして、慌てて撮影したカメラを確認してみました。

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向ケ浜の沖合で、121震洋隊は敵艦への接近・散開・突撃の訓練をおこないます。空襲を避け、35突各隊の合同訓練ができたのは1回だけ。
もしも米艦隊が日向灘へ出現すれば、梶木基地の震洋隊も夜陰に乗じて突入する筈でした。

このように小さな特攻ボートが米艦隊に対抗できたのか。
先例となるのが、沖縄へ展開していた震洋部隊です。
彼等は沖合を遊弋する米艦隊へ突入したものの、高速で航行する敵艦に追いつけなかったり、夜の海で会敵できず引返したり、訓練中に空襲を受けて大損害を蒙ったり、ボートを失って結局は地上部隊として戦ったケースが多く、戦果は敵上陸用舟艇の撃沈など僅かなものでした。
もし本土決戦となった場合もそれが再現されただけです。
初期段階で宮崎沿岸の特攻戦力は失われ、沿岸張り付けの陸軍3個師団も空襲と艦砲射撃で壊滅。
山間部へ向けて、避難民を巻き込んだ悲惨な撤退戦が展開されたことでしょう。

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門川町の五十鈴川河口から見た向ケ浜。倉戸ケ鼻の向うに見えるのが細島港。

しかし、出撃の機会は無いまま昭和20年8月15日を迎えます。
35突撃隊本部に呼び出された各特攻隊の指揮官には、敗戦処理が通告されました(いっぽう、県南部の33突撃隊本部では「攻撃続行」が命令されたとか)。
同日夕刻、121震洋隊の士官は五十鈴川の岸で決別式を開催。隊員も特攻艇の弾頭除去と海洋投棄作業にあたります。部隊の震洋は延岡市土々呂の日高桟橋へ集めらました。

第121部隊188名のうち、幸いにも戦死者は無し。
8月25日、撤去作業を終えた特攻隊員達はそれぞれの故郷へと復員して行きました。
最初に細島へ乗り込んだ鈴木第2艇隊長は、9月6日まで保安要員として残留。最後に宮崎を去った121部隊員となりました。

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五十鈴川河口。

土々呂に繋留されていた特攻ボートですが、直後の暴風雨と枕崎台風の襲来によって流失・座礁。
秋になって進駐軍が宮崎へやって来た時、特攻ボート群は海の藻屑と消えた後でした。

その歴史を伝えるのは、現代の日向市に残された二つの格納トンネルだけなのです。

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ひゅうが
オマケで、日向に寄港した護衛艦ひゅうが。




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コメント一覧

#23
はじめまして、亀山と申します。

この度祖父の名前で検索をしていてたどり着きました。
記事内にあります第三艇隊長の恩田一少尉は私の祖父にあたります、なので祖父が当時どこで何をしていたのかが知れて非常に嬉かったです。

なので機械があれば是非日向市の跡地を訪れてみたいです。
ありがとうございました。

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