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陸軍都城西飛行場と歩兵第23聯隊駐屯地(宮崎県都城市都原)

Category : 都城市の戦跡 |

この頃、都城上空を飛行中のB29の編隊にただ一機の零戦が突入し、猛烈なタ弾(※空対空クラスター爆弾)攻撃を行いましたが、巨象に立向う蟻のような零戦の姿と、幾重にも四方に飛び散ったタ弾の美しい煙が印象的でした。
しかしこれで都城西飛行場に対するB29の爆撃は終わったのではなく、遂にあの都城西飛行場の最悪の日、忘れもせぬ四月二十九日の日を迎えたのでした。

「埋れた青春」より

都城西6

【歩兵第23聯隊と64聯隊】
現在の陸上自衛隊第43普通科連隊都城駐屯地には、かつて2つの陸軍歩兵連隊が配置されていました。
そのひとつ、明治17年に熊本で創設された部隊を源流とする歩兵第23聯隊は、第6師団の傘下にありました。有名な人といえば、後の総理大臣となる村山富市さんもこの部隊の所属です。
明治時代は日清・日露戦争に投入された後、大正14年に都城駐屯地を拠点とするようになります。その後も済南事件や満州事変などで、たびたび大陸へ出動しています。
日中戦争が始まった昭和12年には杭洲湾上陸作戦から南京攻略戦へ参加し、武漢作戦などで中国各地を転戦。昭和17年には第6師団傘下部隊として南太平洋の戦線へ投入され、ブーゲンビル島の防衛任務につきました。
翌年10月、アメリカ海兵隊がブーゲンビル島へ上陸を開始。上陸地点のタロキナにいた23聯隊第2中隊は壊滅的な打撃を受けます。
輸送が断たれ、「備蓄物資が尽きる前に」とアメリカ軍への反撃を試みた第6師団ですが、ジャングルの密林と米軍機の空襲に阻まれて悉く失敗。第23聯隊も、この攻勢で1000人以上の死傷者を出してしまいました。
飢餓に苦しむ日本軍に対し、アメリカ軍も険しい地形を突破してまで進攻しようとはしません。
やがてアメリカ軍はブーゲンビル攻略をオーストラリア軍へバトンタッチしますが、日豪両軍とも小競り合いを続けたまま終戦を迎えました。
23聯隊の帰還将兵が当時の回顧録を残されていますが、日本軍の斬り込み攻撃に悩まされていたオーストラリア兵は、収容所の日本軍捕虜へ激しい報復や暴行を加えたとあります。連合軍側におもねって部下への虐待に加担した某日本軍将校は、「恨みを買って復員船上から海へ投げ落とされた」とか何とか。

もうひとつの駐屯部隊である歩兵第64聯隊(明治38年編成)は、明治42年に都城へ移駐。大正14年に一旦解隊されますが、日中戦争が始まった昭和13年に再編成となり、満ソ国境へ展開しました。
昭和14年に関東軍とソ連軍が激突したノモンハン事件では連隊長が自決するほどの猛攻撃を受け、大損害を蒙ります。
昭和19年にはフィリピンのルソン島へ移動。同じく宮崎県児湯郡を拠点とする陸軍落下傘部隊第1挺進工兵隊と共に、バレテ攻防戦に投入されました。

IMG_00er0ee1_R.jpg
当時の歩兵23聯隊前の並木道。現在は風景も一変しています。

郷土館
陸上自衛隊都城駐屯地にある「郷土館」
明治43年の歩兵64聯隊、続く歩兵23聯隊時代を通して使われている建築物で、都城西飛行場の詳細な記録も展示してあります。
戦前の痕跡も多々残されており、ここの廊下で「満期二日ナリ 蚊ニ喰ワレツツ軍旗ヲ守ル」という昭和12年7月7日のラクガキが發見されて話題となりました。
館内で確認してきましたが、このラクガキは現在でも読めます。

【都城西飛行場】

第23聯隊駐屯地から谷を挟んだ反対側には、都城西飛行場が建設されています。
宮崎県都城市の都原台地(現在の陸上自衛隊都城駐屯地附近)で都城西飛行場の建設が始まったのは、昭和9年のことです。
元々は昭和7年に歩兵第23聯隊の満州出動記念として造成された和田原の軍用地であり、昭和15年には逓信省からの委託も受けた拡張工事に着手。
昭和17年には、逓信省管轄の航空機乗員及び整備員養成所としての機能を追加した飛行場が完成します。
115万5000㎡の都城西飛行場は、東南より母智丘方面へ向けて1200m級の滑走路を備えた大型飛行場となりました。

西飛行場には逓信省航空乗員養成所が設置され、昭和十九年から明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が展開して、一区隊が陸士五七期と甲種幹部候補生の転科少尉と特操一期生の少尉、そして二区少年飛行兵出身の下士官の二隊がおり、一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施、飛行場はほぼ正方形で対角線上に舗装した滑走路が作られていた。
秋頃は突貫工事で日曜返上の「月月火水木金金」で、僕たち少年も毎日休み無しの奉仕作業に明け暮れた

曽原義正氏「戦火の渦中」より

ちなみに、「月月火水木金金」を言い出したのは宮崎県出身の津留雄三海軍大尉。
明治末期の日本海軍は、日露戦争の勝利で猛訓練に励んでいました。それを見た津留さんは「休日返上での訓練はやり過ぎだろう」という意味でコレを言ったのですが、なぜか「休日返上で訓練に励め」に曲解されて広まり、やがて軍歌にまでなってしまいました。

当時の西飛行場には複数の部隊が混在していた為、飛行場の勤務者でもすべてを把握できなかった様です。
夜中に飛行場の中で迷子となり、翌朝になって漸く兵舎に帰り着いた兵士もいました。飛行場の周囲には狐が棲息していたので「キツネに化かされたんだろう」などと笑い話になったとか。

現在は住宅地や学校となっていますが、当時の西飛行場の敷地は都原町一帯を含む広大なものでした。飛行場は軍隊以外も利用しており、県立西高校付近には逓信省パイロット養成所の校舎や格納庫が設置されています。
これらの飛行場施設群は、昭和20年3月18日の空襲で壊滅。B29爆撃機の集中攻撃によって航空基地としての機能も失い、地下壕などに籠っての任務が続けられました。

都原
道路左手が陸上自衛隊都城訓練場。右手奥が都原団地。

都城駐屯地
この訓練場を含む広大な範囲が、西飛行場の敷地となっていました。

都城西飛行場

都城西飛行場
都城駐屯地訓練場内部の様子。主滑走路は訓練場を横切るように設置されていました。
部外者は駐屯地祭の時だけ入場できます。

3月18日、沖縄進攻への露払いとして、米機動艦隊は九州南部の軍用飛行場を空襲。いわゆる九州沖航空戦の始まりでした。
その日の早朝から、新田原、赤江、都城西、富高の陸海軍飛行場は米軍艦載機による激しい攻撃を受けます。
沖縄戦が終ると共に米軍機は再び宮崎へ襲来し、西飛行場では計55名が戦死しました。爆発の衝撃で地下壕が崩落し、生き埋めになった兵士もいたとのことです。

自宅前四百米位の所に陸軍歩兵二十三連隊があり、裏の畑を過ぎ谷を越えた所に西飛行場がある。
初めての空襲である。そのあと毎日警戒警報と空襲警報で機銃掃射と爆撃の連続である。壕に逃げ込んだが爆発音と地響きで土がばらばらと落ちてくる。天井は竹で縦横に桟をはり菰を被せ、土と芝を上に張った急拵えの防空壕で、中にいても生きている気持ちはしない。
空襲警報も解除になり、近くに敵グラマンが落ちたという。家裏近くである。僕たちもついて行くと上村方面で煙があがっている。飛行機のそばにつくと異様な匂いがする。機銃の弾は左右の翼下に未発で飛び出している。
その時誰かが「敵機来襲」と叫ぶ。
市街地の方から機銃掃射しながらグラマン二機が我々を目がけて飛んでくる。
「こりゃ危ない」と、皆蜘蛛の仔を散らしたように山蔭へ逃げた。
いつの間にか自宅裏の畑に三百、四百米置きに機関砲の陣地が据わっていた。その一陣地から撃った弾が当たったらしく、その兵隊は二階級特進だったという。
連隊以外の兵が続々と大阪や各方面から都城周辺に駐屯し、宿泊も民家に泊まり、いよいよ本土決戦に備えての集結であるという。今日も警報で自宅の防空壕に飛びこむ。壕は前後に三か所も掘ってある

曽原義正氏「戦火の渦中」より

また桜島の噴火かと、思いながら布団の中で耳をすましていると、何か知らん、微かに遠くで飛行機の爆音が聞こえる。
はて、おかしいなあと頭を布団から出した瞬間また、先刻のようにドシン、ドシンと地響きとダッダ、ダッダダッダと云う音に、咄嗟に、これは敵機の空襲、機銃掃射だと直感、床より跳ね起き外へ飛び出して見ると、雲一つない晴天。
南の空に黒褐色の煙が東の方へと煙が東の方へと、もくもくと、たな引いている。
どこからともなく聞えて来る空襲警報、退避しろ退避しろと叫び、今頃になってさけんでも遅いわと私は一人言を、言いながら素早く身仕度して、すぐさま近くの城山(安永城跡)に駆け上った。
既に庄内小学校に駐屯している兵隊達が退避していた。私も木陰に身を潜めながら都城市街の方を見渡すと、まさしく都城西飛行場(現在の都原町一帯)付近から黒煙と火焔がめらめらと上がっている。
その上空から紺色に輝いた戦闘機が、次ぎから次ぎへと反転急降下して行くではないか。
飛行場周辺から、撃上る機関砲と敵機の機銃掃射と撃ちあい、まるで仕掛花火でも炸裂しているような音が聞こえて来る。


DSC07662_R.jpg
都城西飛行場への空襲を庄内の人々が眺めていた安永城跡(南洲神社)。
第57軍野戦輸送司令部が置かれていた庄内も、8月6日に米軍機の焼夷弾攻撃に晒されました。

DSC07656_R.jpg
安永城跡から眺める都城西飛行場方面。母智丘トーチカは、画像の道路で高台を越えた所にあります。

自宅から南西百米のところに高射砲陣地が十門座わるという。弾の飛ぶ距離は九千九百米で、これでB29も撃ち落としてくれると上官が言う。
でも空襲が激しくなり、日毎にB29の来襲であるが弾は当りもしない。兵隊に聞けばB29の高度は一万米以上の高さで飛んで来るから当らないという。
どうしようもない。
毎日激しくなるばかりでB29・グラマンも日夜の空襲である。
三か月位経って、父が慌てて帰ってきた。いよいよ疎開命令が出たぞと言う。荷物を必要なものだけ準備して荷車に積み込む。
夕方になって父が座敷に来いという。兄と僕が上がって見ると、母も座り何か話している。
床の前には高お膳が置いてあって、父の話をよく聞けと言う。
隣の畑十五米のところに電波探知機が据わるからどうしても疎開せよとのことで、田舎の母さんの実家のじいちゃんにも相談したので疎開することに決めた。お前たちとも最後の別れになるかも知れないので一応水盃を交しておこうと話し、戦況も悪化し軍にしてみれば家の周囲は防風林で陰になり探知機の設置にはもってこいである。
こっちは迷惑であるが戦争に勝つまでは仕方がない。夜遅く親戚に着くとじいちゃんや叔父たちが提灯を下げて待っていてくれた。
荷物を降ろしながらここも「大丈夫」とはいえないが心配だねといいながら、じいちゃんの家に落ち着くことになった。
それから一週間も経った頃父が尋ねて来て、母に家に帰るという。じいちゃんや叔父たちにも相談して来たと言い「死ぬときは家族一緒だ」と言って自宅に帰ることになったが、祖父たちは心配顔で危ない時は子供だけでも疎開させよと言ったが、僕たちも父母とは離れたくはなかった。
夕方遅くに自宅に着いた。
翌朝隣の畑を見ると、大きな穴を掘って土台はコンクリート工事がしてあって、まだ未完成である

曽原義正氏「戦火の渦中」より

都城西2

都城西3
旧都城西飛行場の存在を伝える碑は、都原団地の一角に設置されています。

都城西4

其の後も、西飛行場は激しい空襲に晒され続けました。

爆弾回数が多くその範囲も広く、またその頃飛行場には飛行団、戦隊、通信、整備、飛大、高射砲、防衛隊等々指揮系統の異なる各種の部隊が各所に分散駐在していたため、その正確な数は定かではありません。
戦後伝え聞いた話では、作戦室の壕内より救出されたあの若い生き埋めの兵は、復員後も精神異常は回復せず、不幸な一生を送ったようです

鎌田政孝編「埋れた青春」より

都城西7

鎮魂(都城西飛行場)

 太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立って行った。
 都城西飛行場は、昭和八年都城歩兵二十三連隊が満州事変から鎧旋したのを記念して、昭和九年末に一般市民及び諸団体の勤労奉仕等により建設されたもので、ほぼ正方形をしており対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。
 昭和一七年四月には、民間航空機要員の養成を目的とした逓信省航空乗員養成所が設置され、九五式一型乙中間練習機(赤とんぼ)による訓練が行われていた。
 太平洋戦争が始まり、昭和十九年には明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が西飛行場に展開していて、一区隊(陸士五十七期と甲種幹部候補生転科の小尉)、二区隊(少年飛行兵)の二隊が一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施していた。
 翌年の昭和二十年三月には、南九州の各基地に来る沖縄戦に備えて飛行部隊が集結しており、都城東・西飛行場には第百飛行団、四式戦(疾風はやて)装備の飛行第百一・百二戦隊及び特攻二隊が展開してきた。
 同年三月十八日に午前七時頃初めての空襲を受けたが、地上勤務員によりほぼ復旧している。
 同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立ち若い命を散らしている。
 同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
 以後、出撃は都城東飛行場からとなり同年八月十五日終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日 
  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会 
  会長 岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に有ります。


都城西

昭和二十年頃より戦争も悪化し、海軍と陸軍とが入り混じって空中戦などの訓練が頻繁に行われていた。最初は、特攻機は祝砲を合図に数機ずつ飛び立っていた。
兄が、丁度休みで飛行場へ遊びに行くというので付いてゆくと、兵舎の向こうを指差し特攻機の出撃だと走り出す。後を付いてゆくと、庭に机を白い布で被い、コップが置かれ、隊員たちは日の丸鉢巻をきりっと締め、首にはまっ白いマフラーを巻き、上官の訓示が終りコップを片手にグイと飲み干し、隊員たちは上官に「行って来ます。後を頼みます」とそれぞれ敬礼し飛び立つのであった。
帽振れの合図と共に特攻機は飛び立ち、上空を旋回して飛び去っていくのである。
残っている兵隊達も涙ながらに南の空へ特攻機の機影が消えるまで帽子を振っていた。僕達もいつの間にか涙を拭いていた。
都城西飛行場、東飛行場からも十六歳から三○歳の若者たち七十九名の尊い命が南の島へ若鷲となって戦死している。
都城都島三八○番地の陸軍墓地に、七十九名の特攻隊員の名を刻んだ碑が建っている

曽原義正氏「戦火の渦中」より

陸軍墓地
陸自都城駐屯地から都城西駅方面へ下る途中に陸軍墓地があります。
この墓地の片隅に、西飛行場と東飛行場から飛び立って行った振武隊の慰霊碑が建立されました。

振武隊慰霊碑

私の家は、当時安永旅館を経営しておりました。
二十四才頃で、庄内には兵隊さんがたくさん駐留しておりましたので、軍人さんへの面会客が多く、毎日忙しい日をすごしていました。また将校さんの宿舎にもなっていました。
その中に特攻隊の整備士の方が泊まっておられました。
少尉さんでした。
その方の言っていられた言葉を思い出します。
「きょうは、風が吹いて出撃できなかったからよかったなあー」とか「きょうもだめだった。風が吹いて出られなかった」とか、複雑な心境を吐き出されていました。朝二時から三時頃朝早く旅館を出ていかれておりましたが、戦友愛といいますか、生を共にした男子同志の友情は、女の私には到底わかるはずもなく、ご武運を祈るだけでした。
この特攻の整備士さんの心が、今になって死んでほしくない気持ちがわかる様な気がいたします。

「阿鼻叫喚」より 中井あさ子さんの証言

振武隊

都城市の特攻隊を調べるならば、都城歴史資料館を訪れるのもよいでしょう。
資料館は都之城の城址に建てられており、旧石器時代から近世にかけての歴史、島津家ゆかりの品々、近代に至る宮崎の出土品や民具、西南戦争の記録が展示されています。
その一角に、戦時中の暮しに関するコーナーがあります。

歴史資料館
都城歴史資料館

郵便局の下の楯さんの二階に特攻隊の人が六・七人住んでいられました。
三、四人の方の名前も知っておりましたが、その方達に「きょうも無事でよかったですね。お帰りなさい」と、声をかけておりました。
二十代の方々で、飛行機の爆音で戦友の出撃を知っておられたようで、胸が熱くなりました。いつ、非常招集があるかわからないので、何時でも飛び立てる様に心の準備をしておかなくてはならないと語っておられましたが、その心境の深刻さは想像を絶するものがありました。

「わが家が焼失した!!」より 岩切サキさんの証言

歴史資料館

館内は写真撮影禁止ですから、文章のみで。
収蔵されている特攻関係資料は、都城東、西、北飛行場の歴史や見取り図、出撃して行った特攻隊員や遺族の手紙、各種の飛行服や装備品。
また、四式戦闘機のプロペラ、タイヤ、防弾板、操縦パネル、操縦桿など、機体の一部も展示してあります。
都城空襲や、戦時下に於ける人々の暮らしについての貴重な史料もあります。

古い農具や石器などが好きな私は、そちらのコーナーも勉強になりました。

都之城
大手門。実際の都之城は簡素な造りだった様です。

3月18日の空襲を皮切りに、都城西飛行場は凄まじい空襲に晒されます。B29の集中爆撃を受けた結果、遂に機能を停止。出撃拠点は東飛行場へ移り、多数の特攻隊員が飛び立っていきました。

私の家の隣の有馬うきさん宅は、機銃掃射の弾こんが今も残されています。隣の私の家は何事もなかったのですが、こうして生きながらえていることが不思議のようです。
楯さんの所には特攻隊の人が宿を借りておられ、往って帰らない飛行機に乗る為に毎日を過ごしておられましたが、出陣せずに終戦になりました。
確実な死を前にして、どんな思いで過ごされたのでしょう。
飛ばなくてよかったと思います。もしも無条件降伏が遅れていたら命を落とされていたことでしょう。
この人達のことを思いますと戦争の悲惨さ、非情さを改めて痛感させられます。

「機銃掃射の弾痕」より 島田屯さんの証言
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