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陸軍都城東飛行場(都城市及び北諸県郡三股町)

Category : 都城市の戦跡 |

昭和十七年のある日、航空本部長から川崎航空機工業の社長に呼出しがかかった。何事かと思いおそるおそる行ってみると、数千キロを往復できる4発の超大型の長距離爆撃機を急いでつくってくれ、という指示である。

(中略)
しかし、川崎航空機の技術がいくら優秀でも、本土から数千キロを一気に往復する飛行機は当時としては容易につくれるものではない。かりにそんな飛行機ができたとしても、2~3キロの長さの滑走路を持つ飛行場が必要になってくる。
いろいろ検討してみたが、日本にそんな場所は見当たらない。
しばらく返事を保留していると、また軍から督促がきた。もうできるかできないかといった打診程度のものではなく、命令である。
主として南方へ向かって飛ぶのだから、5キロでも10キロでも南に近いほうがよい。
会社の幹部はこう考えて、九州を候補地にあて、宮崎県都城の土地を選んだ。

仙波正「川崎重工岐阜工場の想い出」より 都城市史掲載

碑文
●都城市前目公園にある東飛行場の歴史を刻んだ石碑

都城東飛行場は、国道10号線と沖水川の交わる一帯に設置されていた軍事施設です。
古来、軍事的な要衝であった都城盆地は航空基地としても適していたのか、都城東飛行場、西飛行場、北飛行場と3つの航空基地が集中。
東飛行場は、都城衛戌病院(現在の国立都城病院)の隣りに川崎航空の飛行機工場が新設されたことに伴い、その大型機用試験飛行場として建設されました。
工場から沖水川を挟んだ対岸一帯に、整地工事を経て滑走路が建設されます。

軍の委託を受けて宮崎県が用地買収に取り掛かったのが昭和15年5月のこと。
用地買収は2年後に完了。並行して埋め立て工事などが進められますが、本格的な整地ができたのは一部のみ。
広大な原野に飛行場施設や宿舎が散在する「草飛行場」のままでした。

東飛行場の滑走路が設置されていたのは現在の都城市都北町、兵舎や掩体壕は北諸県郡三股町蓼池あたり。
昭和19年頃から第六航空軍所属の特攻隊「振武隊」の出撃拠点となります。
猛烈な空襲で都城西飛行場が機能停止したことにより、残る東飛行場からは特攻機が次々に飛び立ちました。
東飛行場から出撃した特攻隊員は53名。彼らは沖縄の空で散華しました。

「昭和二十年四月、高等科二年になると、川崎航空への動員となった。
同時に東飛行場からの特攻機の出撃が開始された。朝早く特攻隊員を乗せた軍用トラックが竹林の前を通って来ると、道路沿いの人々は、自宅の前に出て、手や日の丸を振って見送ったのである。
まるで昨日、今日のように思い出される出来事であった。今、当時の悪童たちもバラバラになり、音信もない」
「八月のエスカルゴ」より 神崎義照氏の証言

戦後に滑走路や掩体壕を含む施設は撤去されてしまい、多数の特攻機が出撃した当時の面影はありません。
現在は、都城ICから少し離れた都北工業団地内の公園2箇所に記念碑だけが残されています。
※激しい爆撃に晒された都城西飛行場とは違い、草原と見間違えられた東飛行場は空襲を受けなかったそうです。

掩体壕

戦争遺跡
都北町旭公民館横の公園に設置されている特攻慰霊碑。

鎮魂(都城東飛行場)

 太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。
 都城東飛行場は、昭和十九年前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急造したもので、表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約一五○○メートル、東西に五○○メートルの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。
 当初は海軍が零式戦闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。
 同年三月十八日には西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場の特攻機は、たこの足のような誘導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。
 また、部隊の宿舎も東南側の五○メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。
 同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立った。
 同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
 また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
以後(昭和二十年)
五月  四日 第六次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(六名)
五月 十一日 第七次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(三名)
五月二十五日 第八次総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)
                   第五十八振武隊(十名)
                   第六十振武隊(一名)
五月二十八日 第九次総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)
                   第五十九振武隊(三名)
六月  八日 第十次総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)
六月二十一日   航空攻撃にあわせて、第二十六振武隊(四名)
六月二十二日日            第百七十九振武隊(五名)
七月一日 第百八十振武隊(二名)
次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。
同年八月十五日、終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝える事、恒久的平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日
  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会
  会長 岩橋辰也


たった独りで飛び立っていった特攻隊員もいたのですね……。

掩体壕

東滑走路3


東滑走路4
東飛行場の滑走路は、現在の都城家畜市場を南北に横切るかたちで設置されていました。

蓼池4

都城市とは別に、三股町の蓼池にも特攻隊の記念碑があります。
滑走路から誘導路で繋がっていた蓼池(現在の旭ヶ丘運動公園周辺)には、掩体壕の他に飛行場指揮所や多数の三角兵舎が設置されていました。
当時の誘導路は、三原交差点から蓼池郵便局へ抜ける車道として現在も利用されています。

蓼池
記念碑が設置されている三原地区コミュニティセンター。飛行場勤務者の兵舎はこの近辺に集中していたそうです。

蓼池5

「特別攻撃隊基地は都城東飛行場の名で昭和十九年に建設された。
沖縄特攻の出撃基地として六十九名の若者が出撃して行った。」
三股町教育委員会

現在、振武隊員の慰霊碑は都城陸軍墓地に設置されています。

敵機は明野隊の格納庫と兵舎に、反復してロケット弾と機銃掃射を集中していた。格納庫は第一撃でガソリンに引火し炎上した。
敵機は夢中で正確につかめなかったが、多分十数機であったと思う。
この日時間をおいて第二波が来襲し、又もや明野隊の施設に、ロケット弾と機銃掃射を集中、機数も第一波と同じ位であったと思うが、翼の不気味に曲がったコルセヤF4Uが混じっていたようであった。同期の話によると、機体にワニザメが書かれていたという。
ただ第一波と違って、第二波は来襲を予想しており、通信も小銃の対空射撃隊を編成し待機していたが、いざ本番になったら「撃つと煙が出て狙われるから撃つな」という、おかしな命令が出て射撃はしなかった。

「埋れた青春」より 都城西飛行場空襲の記録

神柱

魚雷

昭和20年3月18日。沖縄上陸へ向けた露払いとして、米機動部隊艦載機群は九州南部を奇襲攻撃します。
攻撃目標のひとつとなったのが宮崎県都城市。
この盆地は3つの陸軍飛行場と川崎飛行機の工場、鉄道が集中する大隅方面の要衝であり、米軍の攻撃リストにも詳細なデータが記載されていました。
以降、都城市は執拗な空襲に晒されます。
米軍の最優先目標だったのが都原町にあった都城西飛行場でした。
B29から徹底的な爆撃を受けた西飛行場は、5月になると機能を停止します。

「思えば今も忘れ難い三月十八日早朝のことでした。
春の彼岸前は、まだ都城地方の朝は、霜の強い日が続くころで目は覚めていたが寒いので布団の中で、まだ夢うつろの状態でいる時、突然しずかな朝の大気を突き裂くが如き振動とドシン、ドシンと大音響。
また桜島の噴火かと、思いながら布団の中で耳をすましていると、なにか知らん、微かに遠くで飛行機の爆音が聞える。はて、おかしいなあと頭を布団から出した瞬間また、先刻のようにドシン、ドシンと地響きとダッダ、ダッダと云う音に、咄嗟に、これは敵機の空襲、機銃掃射だと直感、床より跳ね起き外へ飛び出して見ると雲一つとない晴天。
南の空に黒褐色の煙が東の方へと、もくもくと、たな引いている。
どこからともなく聞えて来る空襲警報。退避しろ退避と叫び、今頃になってさけんでも遅いわと、私は一人言を、言いながら素早く身仕度して、すぐさま近くの城山(安永城跡)に駆け上がった。
既に庄内小学校に駐屯している兵隊達が退避していた。私も木蔭に身を潜めながら都城市街の方を見渡すと、まさしく都城西飛行場(現在の都原町一帯)付近から黒煙と火焔がめらめらと上がっている。
その上空から紺色に輝いた戦闘機が、次ぎから次ぎへと反転急降下して行くではないか。飛行場周辺から、撃上る機関砲と敵機の機銃掃射と撃ちあい、まるで仕掛花火でも炸裂しているような音が聞こえて来る」
「埋もれた青春」より

都城空襲

都城空襲

都城空襲

都城空襲犠牲者追悼碑 碑文

第二次大戦の末期、米軍は、沖縄本島への上陸に先立ち、南九州全域の軍事施設を攻撃した。
都城は、昭和二十年三月十八日早朝、初めて空襲され、以降終戦まで二十回余の無差別爆撃によって、街は廃墟と化し多くの人命が奪われた。
街は戦後いち早く復興したが、空襲犠牲者については半世紀も放置されてきた。
戦後五十年の行事を通し「空襲犠牲者の掌握なしに、都城の戦後は終わらない」と、調査が始まった。
治安維持法犠牲者国家賠償同盟県南支部と都城市の積極的なとりくみによって、四十四名の子供を含む八十八名の犠牲者が判明した。
ここに、心から犠牲者を悼むとともに、恒久平和を誓い、追悼碑を建立する。

平成十一年八月五日
都城空襲犠牲者遺族会


草原と見間違えられた都城東飛行場と都城北飛行場は無傷だったものの、東飛行場からは特攻機が続々と出撃。多数のパイロットが散っていきました。
北飛行場も特攻基地でしたが、こちらに配備されていたのは「赤トンボ」と呼ばれた旧式の複葉練習機。
これではさすがに出撃の機会もなく、北飛行場の特攻隊は待機のまま終戦を迎えます。

「その後二三日してから前述の空襲で敵グラマン機二機が撃墜され、その残骸が都城神柱神社の境内に晒してあるという情報が伝わって来たので翌日、自転車で、わざ〃都城神柱神社まで見に行ったことを今も思い出します。
境内に着いて見ると大勢の人だかりで、順番を待って前に出て墜落機を見ました。
胴体の紺色に白色の星のマークは鮮明に残っており、エンジン部分と両翼はメチャメチャに壊れており、パイロットが持っていた携帯無線のアンテナ(黒色の長さニmぐらい)が胴体部分に立て掛けてありました。
このアンテナを見物人のほとんどの人が、釣竿だと言っていたのを、私は今も思い出し苦笑します。
当時の都城市民は、まだ科学的な知識は低かったようです。
私も、この時初めてアメリカ軍のグラマンF6の空襲を体験して、はたして日本は、これでも勝てるのかと当時疑問が生じ出していました(〃)」

IMG_00r01_R.jpg
当時の神柱神社。あの辺の風景も随分と変化したんですね。

「四月十九日出發。現・都城農業高校の裏手にあった会社の寮「高千穂寮」に入寮しました。
食堂、風呂場は建設中で、今の国立病院辺りにあった工場の食堂まで食事に出かけました。
私達三年A組は軍隊式に四つの内務班に分けられ、私は第四内務班でした。一室十二名、左右に六人づつ、私は上段ベッドでした。畳一枚だったと思います。
工場生活が始まりました。
現場配属までは錬成という訓練です。警報が出ると休みになり、空襲警報では寮に帰り、解除になるとまた寮に戻る。
その繰返しの合間に私達は防空壕も掘りました。
寮の前を流れる高木用水路を渡った田圃に、各内務班毎に造りました。
都城に来て一番こたえたのは空腹でした。故郷から食糧が送って来たり、面会に来た人が持って来たりするのを輸送船と呼びました。それがとても嬉しくて、同室の人達と分けて食べました。
西小林の山下四郎君は「謹啓、今日は天長節に御座候……」で始まる両親への手紙に「握り飯を十五個位、友第に上げるから竹の皮に包んで、四人分別々にして送ってくださいませ」と書いています。
天長節は天皇誕生日で四月二十九日でした。
その頃は毎日B29爆撃機が銀色の機体をキラキラさせながら西飛行場を爆撃していました。
私達は壕の所から西飛行場に上がる土煙を眺めていました。
高射砲弾も当たらず、稀に迎撃戦闘機が落す空中爆雷もなかなか当たらず、空しく花火を咲かすだけで、とても残念でした。
そんな中、一日休みがありました。洗濯などを済ませてから、確か同室の前田薫君だったと思いますが、二人で街に出かけました。私は筍の味噌汁が無性に食べたくて、西駅前の千日通り、神都館の辺りを歩きましたが、戦時中の事とて食堂もなく、前田町辺りで漸く食堂を見つけました。Aランチ、Bランチなるメニューがあったのを覚えていますが、それが何だったのか、そこで何を食べたのか思い出せません」
渡辺正治氏「旧制小林中学三年生工場動員の記録」より

IMG_00ee03_R.jpg
当時の神柱神社

都城には川崎航空機製作所の軍需工場も設置されていました。
空襲激化によって熊本の阿蘇へ工場疎開が決まりますが、度重なる米軍機の襲撃を受けて犠牲者が続出しています。

「五月に入り、我々三年生も現場配属になりました。飛行機の翼を作るのを翼結構、胴体を作るのを胴体結構と称してそれぞれの部署につきました。
そして昭和二十年五月八日、学徒隊は朝隊列を組んで工場内の食堂に行きました。
かねては警戒警報の後に空襲警報が鳴るのに、その時はいきなり空襲警報が鳴りました。
敵機が近いということで急遽退避命令が出ました。
急いで防空壕のある寮のほうに引き返しました。
その日は曇り日和で機影は見えず、爆音だけが頭上に聞えましたが、襲撃は我々のいるところではなく工場の方だろうと安易に考えていました。そこに“ザァー”という音がして空を見上げると、カラスがニ、三羽飛んで来るような爆弾が見えました。
咄嗟にその場に伏せ、同時にドカン、ドカンという凄まじい爆発音がして、背中に土砂が降ってきました。私の前を三々五々歩いていた学徒の中に落下したのです。
土石を払い無我夢中で壕の方に走りました。後ろの方で誰かが「川野君、やられた」と言いました。
振り返ると同じ学校区の後藤君が左腕を抱えていて、上腕部の肉が飛び出しています。そのまま壕まで附いてくるだろうと走りながら再び振り向くと、彼はレンゲ田の中に倒れ、足を宙に浮かせて痙攣しています。
その時私は引き返して彼を助けることが出来ませんでした。その後悔の念がトラウマとなって、今も心の傷が癒えません。
壕の中ではみんな震え、先生も震えていました。そのうち集合がかかり点呼が始まりました。誰と誰がいないと分かり、惨状が明らかになりました」
川野八郎氏「不戦の誓い新たに」より

「右手の畠の中に誰かが倒れている。近づくと同室の狩集君です。
何処もやられている様子はなく、ゲートルに血がついているだけです。胸を叩いてゆするも反応がない。
眼が白目になっているのでこれは駄目だと立ち上がると、前方七、八メートルの所を大きな男が、酔っぱらいのようにフラフラと歩いています。谷ノ木君だと判った時、彼はバタッと水溜りの上に倒れました。
それを見たまま助けにも行かず、すぐさま壕の中に飛びこみました。壕には級友たちが入っていて、中には何人か爆弾の破片で怪我をしています。
外で「助けてくれ、痛い、痛い」と大声で誰かが絶叫しています。あれは堤の後藤君が腕をやられて叫んでいるのだと誰かが言いました。
暫くして同室の米川衛君が壕に入って来ました。服の背中に一杯血がついてます。
聞けば川野君を背負って来たのだと言います。川野君は通りがかった米川君を呼び止め、落ちていた片足を拾って片足で立ち上がり、米川君の背中におぶさって壕の近くまで来たのでした。私達はじっとして、あまりの恐ろしさに震えていました。
その間壕の外では、会社の人、先生達、上級生による遺体の処理、重傷者の運搬などが行われていました。
祝吉の公会堂の所に集められたようです。
「出てこおーい」という声であちこちの壕から避難者が出て来て凄烈しました。その時寮の所で時限爆弾が爆発して、土煙が真直ぐに立ちのぼりました。私達は寮と反対方向に歩き、とある大きい家の中に入って休みました。重傷の中原君を運んでいた佐伯君、別の場所にいた鵜狩君もここで追いつきました。
私達は郡元町にあった川崎航空の社宅(一戸建て)に内務班毎に移りました。
時限爆弾が何時爆発するかも判らないとびくびくしつつ、前の寮から布団などを運び出しました。
夜食は、級友の悲惨な姿が思い出されて食べられませんでした。
通夜の夜、社宅の前で松本先生の音頭で「海行かば」を歌いました」
渡辺正治氏「旧制小林中学三年生工場動員の記録」より

「真新しい柩が幾つも横に並べられていました。
川野君のお姉さんが「やっと間に合った」と言って走って来られ、最後の別れをされました。
たまたま飛行場に向かう特攻隊員達を載せたトラックが一台通りかかり、隊員はこの異様な火葬場の様子に気づいたのか、車を止めて荷台に立ったまま声を掛け事情を聞いて、全員柩に向って挙手の礼をしました。
「仇はきっと俺達が討ってやるから」
と言って走り去りました。その時の白いマフラーと鉢巻姿がいつまでも忘れられません」
菅通教氏の回想より

神柱神宮周辺には戦争犠牲者の慰霊碑をはじめとする史跡が今も残されています。
下は戦没者の忠魂碑。

都城空襲

忠魂

忠魂

忠魂

小松原

隣の神柱神宮境内には、戦争前に寄贈された魚雷が設置されていました。

魚雷

大正15年、海軍省から下付された四十五糎魚形水雷1基と三十糎砲弾2発。

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
火薬が抜かれた弾頭内部にはコンクリートが充填されています。


軍事施設への爆撃を終えた米軍は、市街地への無差別爆撃を開始します。
度重なる空襲で都城市は焼け野原となり、多数の市民が犠牲となりました。
そして、8月6日の都城空襲へ至ります。

「とりわけ、五十二名の生命を奪った八月六日の大空襲は、午前八時頃に飛来した二機のロッキードの偵察飛行から始まった。
丁度、お昼頃沖縄基地を飛び立った米軍の中型爆撃機八機が、末吉、高之峰方面から超低空で侵入し、機銃掃射を加えながら、市の西部地域に焼夷弾を次々に投下した。
たちまち大火災を引き起こし、猛火は市街地中心へと広がっていった。
第二次攻撃は、約一時間後に中、小型機約三十機が市民の退路を遮断する狙いもあってか、風上の北部に機銃掃射と焼夷弾攻撃を行ってきた。
その後、十分間隔で第三、第四次と来襲し、市近郊の重要施設を攻撃するかたわら、消火活動を妨害するため上空を旋回しながら、機銃掃射を午後四時頃まで繰り返した。
この結果、松元、牟田、宮丸、八幡、姫城、上町、中町、大王、平江、栄町等の市街地と市役所、学校(五)、病院(十一)、工場(八)、寺院(一)も焼失した。
罹災家屋は千八百九十七戸(全戸数の十八%)、罹災人口は一万七千二百八十四人(全人口の二十九%)に達した。
これによって、都城空襲の犠牲者は八十八名となり、この内、半数の四十四人は十六歳以下の子供であった」
もろかた第45号掲載「都城空襲のあらまし」より抜粋

昭和二十年八月六日はお盆前の暑い日で、友人と水浴びに行く約束をし、大淀川上流の平田橋の淵に泳ぎに行った。
午後の日差しの温度もぐんぐん上がっている川には、既に十数名の河童達が水に入っている。
僕たちも急いで泳ぐ準備をしていると、突然けたたましいサイレンが鳴り出し、高射砲の音、爆弾の爆発音、シュルシュルと落ちてくる焼夷弾、数か所からのサイレンのけたたましい音である。
これは大変、近くに壕はない。山裾の下に兵隊の防空壕があるからあそこに逃げようと、田圃には稲穂が出ようとしている畦道をどう走って逃げたか分からない。
近くで空襲を見ていた兵隊が来るなと合図するがそれ所ではない。後ろを見れば街中黒煙と爆弾の破裂の音が凄まじい地獄絵そのものの「市内大空襲」である。
牟田町、西都城駅、八幡町、甲斐元、松元町、上町、中町、平江、栄町、天神、前田、小松原、市役所、裁判所、法務局、郡役所、明道国民学校、東国民学校、攝護寺本堂、都城中学校全焼。
市内全域で全焼(一四二七戸)、罹災面積一、四○○平方キロメートル、罹災人口一万七千二百八十七人である。
敵のグラマンが次々と波状爆撃する。仕方がないから壕に逃げ込もうと行くと、兵隊から平手で二、三発叩かれて来るなと言われた。恐ろしくて仕方がない。
兵隊も恐ろしかったのじゃと話しながら山裾をはって逃げ帰った」
曽原義正氏「戦火の渦中」より

「都城工場は危険が増大した為か、阿蘇の内ノ牧工場への移転が決まり、私は工員の移動の為の梱包材料の発注と送料・旅費の計算等、移転準備の書類を作成する職場に移籍、多忙を極めました。
八月六日も変わらぬ多忙で、遅くなった昼食中、仙波次長の大声で「場外退避!場外退避!」
徒ならぬ空気に弁当もその儘に、近所のいつもお世話になっていた民家の防空壕に危機一髪で退避しました。
暫くは轟音と機銃掃射の音が続いていました。
静かになったので爆撃が終ったのかとホッとした時、入り口からおそるおそる外を見ていた人の「アーッ、工場がない。工場がなくなっている」という驚きの声で急いで外に出ました。
工場はペッチャンコになって炎上中。私の働いていた事務所は辛くも焼けずに残りましたが、工場全体は無惨な裸同然の姿でございました。
アメリカ軍の緻密な軍需工場調査と、B29 の的確な攻撃振りに改めて驚嘆し、アメリカという大国の威光に恐れた一瞬でございました」
花田美代子氏「挺身隊の思い出」より

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
胴体部分。経年劣化による破損がみられます。


魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
スクリュー部


都城西飛行場は「本土決戦に備えて戦力温存」の命令により、都城を護る筈の迎撃機すら上げませんでした。
都城東飛行場は特攻機の出撃拠点となり、多数の若者が沖縄の米艦隊へ向けて飛び立っていきました。
都城北飛行場は、爆弾を積んだ旧式の複葉機だけが特攻命令を待ち続けていました。

3つの軍用飛行場を有しながら、都城は敵機の為すがままに蹂躙されたのです。


ヘリ
オマケで山之口あじさい公園の海自ヘリ。都城東飛行場の掩体壕や防空壕は、遠く離れたこの付近にまで設置されていました。
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