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陸軍新田原飛行場(宮崎県児湯郡新富町)

Category : 児湯郡の戦跡 |

看護の先生方と救急用品、水、食糧と揃えているとまた空襲。
解除になると炊飯、また敵機。
この日は延千四百機ぐらいだったそうです。
午前六時から夕方まで続いたので、一日がとても長いと感じました。くたくたに疲れた体と精神をどうしようもありません。神経戦とはまさにこのことです。改めて空襲の恐ろしさと、敵機に対する考えの甘さが、腹立たしい程にわかりました。

新田原飛行場の空中戦も高鍋からよく見えました。
火だるまになった飛行機が地上に突っ込み、機銃が火をふくと、黒煙に包まれて空中分解します。
敵か、味方か、見当もつかないのですが、落ちていくのはアメリカのだろうと思い込んでいました。
山には高射砲陣地があるから敵機を迎え撃つとのことでしたが、大砲の音は全然しなくて、なんとも頼りないことでした。次の日も一日空襲。壕の入口からのぞいて見ると、操縦士の帽子が不気味に光って、目の中にとび込んできました。
日本軍による抵抗が無いので敵機は低空を悠々と飛んでいました。
金属的な急降下音は身ぶるいする程嫌でした。次から次に飛んで来るので炊事も出来ません。七輪を木の下に置いて炊飯です。
戦争はもう南方洋上ではないのです。
我々の庭先に来てしまいました。

「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教師 杉田樹子氏の証言

DSC08406_R.jpg
明け方の航空自衛隊新田原基地。

今回は新田原飛行場を取り上げます。
ハナシの前提として、「陸軍新田原飛行場」と「航空自衛隊新田原基地」を区別しましょう。

昭和15年~20年 日本陸軍新田原飛行場時代
昭和20年~31年 敗戦による新田原飛行場解体と農地開放
昭和32年~現在 航空自衛隊新田原基地の新設
この流れを混同しているケースを見かけるので、念の為。

「ニュータバルは英語が語源」とか「新田原基地には旧軍の遺物が秘匿されている!」とかいうウソ八百を喚くヒマがあるなら、せめて新富町史にでも目を通してください。
それでは、新田原飛行場の歴史について解説します。

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原

新田原
新田原基地への着陸態勢に入ったF-4ファントム

【ニュウタバルの地名について】

陸の孤島宮崎。
悲しいかな、この地に県外から観光客が押し寄せる機会というのは数える程しかありません。
数少ないそのひとつが、航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の航空ショー。国防や騒音公害という論点は置いといて、現実として新田原基地は貴重な観光資源となっています。
県や市町村や地元企業がどんなに努力しても、プロ野球キャンプやゴルフトーナメントや新田原航空ショーに匹敵する規模のイベントを増やすのは難しいでしょう。

「ニュータバル」という珍妙な名が付けられた理由は、この基地が新田村(にゅうたそん・現在の児湯郡新富町)にある新田原(にゅうたばる)という台地上に設置されたからです。
何でシンデンやニッタではなくニュウタなのか?という語源についてですが、命名されたのは800年も前なので経緯が一切不明。「ニッタが訛ってニュウタになった」「新=丹生(にふ。朱沙の産地の意味)の当て字ではないか」という根拠に乏しい説がある位です。
それに原(バル・台地のこと)がくっついてニュータバル。ニュータバルの周辺にはサイトバル古墳群やチャウスバル台地やコッコウバル台地やトウトバル台地やカラセバル台地などが広がっていまして、九州では特に珍しい呼称ではありません。
こういう読み方がある事にはヒガシコクバル元県知事も貢献されたと思われます。
ちなみに、一ツ瀬川を挟んで隣接する佐土原町(さどわらちょう)は「バル」ではなく「ハラ」読み。妖怪首おいてけ島津豊久が城主をつとめた日向佐土原城のあった場所で、「佐土草(イタドリ)がたくさん生えていた原っぱ」という意味の地名です。マイカー時代が訪れる前、航空自衛隊員は佐土原から新田原基地まで徒歩通勤していたとか。

何にせよ、新田原基地のサイトあたりで命名の経緯でも載せれば誤解も減ると思うのですが。

地名どころか地理的部分も曲解されていまして、酷いのになると「高鍋の新田原飛行場」などと解説する軍事書籍もあります。
地図を見ればわかる事ですが、同じ児湯郡でも「高鍋町」と「新富町(旧新田村・富田村)」は別の自治体。新田原飛行場が存在するのは新富町です。
昭和や平成の話を、旧高鍋藩のエリアで語られても困るんですよね。
「田舎の地理なんかどうでもいいじゃねえか」と思われるかもしれませんが、新田原飛行場の歴史を語る以上は高鍋と新富の区別位つけてください。私がネチネチ突っ込みを入れるのには、ちゃんと理由があります。

地元に対する無神経な態度は日本陸軍も同じでした。
新田原に軍用飛行場が建設される際には「高鍋陸軍飛行場」の名称案が出されたのです。

新田原飛行場建設には、周辺農家の大量立ち退き、建設作業への勤労奉仕、貴重な古墳の撤去といった負担が地域に押し付けられました。新田村と富田村は、「御国の為だから」と我慢してそれを受け入れました。
そうやってワガママ勝手を通した挙句、隣町である「高鍋」の名を付けようとする陸軍の提案に地域住民は反発。
「高鍋は隣町。ここは新田村だ」という抗議の声が高まり、遂に新田村会が動きます。
昭和14年11月24日、土屋重雄新田村長は陸軍航空本部長宛への抗議書を提出。しかし翌年1月22日に届いた陸軍航空本部からの回答は、「新田原陸軍飛行場と高鍋分教場に命名予定」という折衷案でした。
地元をナメ切った態度に新田村会は激昂し、26日には「村会の結果、高鍋分教場の名称大反対あり。考慮請う」の電報を陸軍航空本部へ送りつけます。
28日、見かねた長谷川宮崎県知事も「地元村長の申出に依れば、之に付設せらるる飛行学校分教場の名称は之と趣を異にし、他町村名たる「高鍋」の名を冠せらるる御予定なるやにて、同村民の驚きは一方ならざるもの有之候」との請願書を軍部へ発送。
それでも埒が明かなかったのか、土屋村長は上京して軍部に直接訴え出ています。

2月8日、第6師団より「分教場も「新田原分教場」と命名する」との回答が届き、名称騒動はおさまりました。
ただし、駐屯していた兵士達はニュウタバルを誤読して「ニッタバラ飛行場」と呼んでいたそうです。

このブログでは、しつこい位に「新田原飛行場は高鍋ではなく新富にある」と繰り返しております。
アレはですね、過去にこのような経緯があったからなのです。
陸軍新田原飛行場や航空自衛隊新田原基地について語る以上、「高鍋の新田原」などという物言いは絶対に避けねばなりません。
それは、戦闘機のスペックや部隊編成を語る以前の問題です。

このように基地の歴史を粗末に扱ってきた結果、ニュウタバルという珍妙な名称に関しては情報の混乱も見られます。
「地名なんてテキトーでいいや」などと放置していると、大手マスコミまでがテキトーな飛ばし記事を書き始めるのが面白いですね。

例えば2014年、「ニュータバルの語源は英語のNEW田原かも」などというトンチキな記事を載せた全国紙もありました。
すげえなあ、某A紙の記者さんは郷土史も調べずに郷土史の記事を書くのかと驚いたものです。

それでは新富町が編纂した「新富町史」を繙いてみましょう。
新田原古墳群で分かるとおり、新田原には古代から多くの人々が定住していた様です。
日向に「新田」という地名が現れたのは平安~鎌倉時代のこと。暲子内親王(あきこないしんのう・1137年~1211年)の御領となった日向の荘園に「新田」と記されているとあります。800年以上も続く地名なんですね。
もちろん、当時の日本人は英語など知らないと思います。

それから月日が流れて寛永4年(1627年)、佐土原藩主の島津忠興が新田原に軍馬放牧場「新田牧」を設置。既に放牧していた5頭に加え、都於郡(現在の西都市)の「長薗牧」から81頭の母馬を連れてきて繁殖を開始しました。
軍馬不足に悩んでいた忠興は、禄高百石以上の者に乗馬の飼育を義務付けます。重要な軍馬繁殖地となった新田牧は、小川覚右衛門(代々継承)を牧司として200年に亘って存続しました。
しかし、1827年には島津忠寛の藩政改革で農地転換され、新田牧と長薗牧は相次いで閉鎖。以降の新田原は耕作地として開墾されることとなります。
コレが新田原の近世史。

続いては新田原の近代史、飛行場設置の経緯をどうぞ。

DSC05695_R.jpg


【新田原陸軍飛行場の設置】


宮崎県児湯郡新富町。
昭和34年に一ツ瀬川河口左岸にあった新田村と富田村が合併して出来た、農業と畜産の町です。
町の中心部は海岸沿いの平野で、ここを貫通する国道10号線や日豊線に沿って住宅地が広がっています。
町の北西部に迫る洪積台地は「東都原(とうとばる)」。
高台で水源に乏しいため稲作には向かず、耕作地や畜産場として活用されています。

この台地に設置されているのが、航空自衛隊の新田原(にゅうたばる)基地。
長年の間、「日本版トップガン」と呼ばれる飛行教導隊のベースとして機能してきました。台地の上から離発着する自衛隊機を横から眺めると、まるで宮崎平野に浮ぶ空母のようにも見えます。

航空自衛隊新田原基地の前身となったのは、日本陸軍の新田原飛行場です。
この飛行場は熊谷陸軍飛行学校分教場として昭和15年に建設されました。元々は鐘紡系列の昭和産業が養蚕用桑畑を持っていた場所です。
飛行場建設計画が明らかになったのは昭和12年頃で、翌年4月22日には宮崎県から新田村・富田村の双方に軍用地買収が通達されました。
突然の命令に、両村関係者は騒然となります。

用地買収にあたっては軍から宮崎県側へ委託されました。
立ち退きを迫られる村民は329名。中でも、補償金すら払われない小作人の救済は村関係者にとって大問題でした。村長は立ち退く地主に交渉し、職を失う小作人には20円の離反料を支払うように依頼。
建設工事に着工したのは、買収が完了した昭和14年2月1日のことでした。

東都原台地には西都原古墳群に次ぐ規模の東都原古墳群(新田原古墳群)207基が散在しているため、着工前から遺跡保存の措置がとられます。
この遺跡対策も、軍部ではなく宮崎県学務課が奔走する事となりました。
問題となる遺跡は、飛行場滑走路西側予定地にある4基の古墳。
学務課が頼った人物は、かつて西都原古墳群の発掘調査(あの古田武彦氏が論じている、「日向は天孫降臨の地か否か」の確認作業)に従事した京大の梅原末治助教授。
昭和14年3月に梅原先生を招き、僅か三日間の日程で牧神の前方後円墳3基(第42および45號墳その他)、方形墳1基(第44號墳)の緊急発掘調査が実施されます。
撤去された4古墳は縮小モデルを移転再建のうえ出土品を改葬。突貫作業での移転となりました。

これら諸問題を地元に押し付けた上で、翌年には250万㎡の飛行場が完成しています。
軍部の都合を優先した大工事でしたが、失った古墳は4つのみ。隣りの六野原飛行場建設で30数基の古墳が撤去されたことに比べると、懸念された遺跡への被害は何とか最小限で済みました。

両村民が古墳保護を願い出た理由。
それは、これ以上遺跡を破壊してほしくないという思いでした。東都原古墳群は、長年に亘って破壊行為に晒され続けてきたのです。

西都市周辺の古墳群は、5~6世紀あたりから西都原古墳群の墓域が周辺地域へ拡大したものと考えられています。
大正元年から学術調査と出土品保存が行われてきた西都原古墳群と違い、周囲の古墳群は盗掘者に狙われました。

昭和4年には、隣接する持田古墳群で大規模盗掘が発生。
それを聞き付けた関西方面の古物商が押しかけて盗掘品を買い漁り、貴重な埋葬物が破壊され尽したという苦い過去もあったのです。
昭和3年、偶然にも古墳の埋葬品が掘り出されたことが発端でした。
それを高値で売った者が検挙されたものの、課された罰金はわずかなモノ。
「塚を掘っても罪は軽い」「少々の罰金なら、古墳を一晩掘って100円稼いだほうがマシ」とばかりに人々は古墳に群がります。
翌年、「高鍋や木城の宿に県外者が集まり、深夜に何かやっている」との噂が広まりました。
不審に思った宮崎県警高鍋署では橋口司法主任をリーダーとする警官隊を編成し、「赤かね御殿」と呼ばれる地元盗掘者宅を急襲。住民多数を含めた関係者113名が芋づる式に逮捕となりましたが、多くの盗掘品は市場や大陸方面へ流出した後でした。
乱掘の結果、考古学的に貴重なカブト、タテ、馬具類の中には、うちこわされたり、捨てられたものがあり、郷土史家や古墳研究家は、地だんだふんでくやしがった(「宮崎縣政史」より)」

この惨禍を悲しんだ岩橋保吉氏により、古代の人々への贖罪として建設されたのが、水難殉職空挺隊員の慰霊碑がある高鍋大師です。

新田原古墳群が国の史跡に認定されたのは、昭和19年のことでした。

新田原基地

完成した新田原飛行場では、部隊配備が始まります。
昭和16年2月6日、まず西部101部隊(第九航空教育隊)が黒竜江省チチハルから転入。

同年秋には満洲国白城子飛行学校から陸軍落下傘部隊と挺進飛行隊(降下兵の空輸部隊)も移動してきます。
半年間も雪に閉ざされる白城子では訓練もままならず、冬でも気候温暖でパラシュート降下場を確保できる新田原飛行場が新たな訓練地として選ばれたのです。
間近に迫る南方作戦の切り札として、空挺部隊の練成は一刻を争いました。
挺進練習部(空挺部隊の司令部)は北側の川南村にある軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。
新田原を離陸した挺進飛行隊は川南上空で落下傘兵を降下させ、それを何度も繰り返す猛訓練が始まりました。
昭和16年末から年明けにかけて、挺進練習部では2個空挺連隊の編成を完結。
これらの聯隊は、後の第1挺進團(挺進第1聯隊および第2聯隊)となります。

なお、新田原基地のサイトでは「挺身練習部」と表記しておりますが、正しくは「挺進練習部」。日本空挺史でよくある間違い事例です。

昭和17年のパレンバン降下作戦でデビューした後も、空挺部隊は規模の拡充を続けます。
第1挺進團に加えて第2挺進團(挺進第3聯隊と第4聯隊)が新設されたことで、新田原飛行場は収容能力の限界を迎えました。
空挺部隊の移転先として、塩付パラシュート降下場の周囲には唐瀬原(からせばる)飛行場と訓練施設群が続々と建設されます。
川南村に唐瀬原飛行場が完成したことで、空挺部隊は新田原飛行場から転出。
以降、この川南空挺基地が「空の神兵」の拠点となりました。

更に、5番目の空挺聯隊は茨城県の西筑波飛行場へ移転し、グライダー部隊の滑空歩兵2コ聯隊へと再編されます。
同時に挺進工兵隊、挺進戦車隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊といった空挺部隊群も新設され、陸軍落下傘部隊は準師団規模の「第一挺進集団」へと成長しました。

18年に空挺部隊が唐瀬原へ移った後も、新田原は挺進飛行隊の基地として機能し続けます。
唐瀬原の空挺隊員は日豊線の列車とトラックを乗り継いで新田原飛行場まで移動し、そこから挺進飛行隊の輸送機で離陸。塩付降下場へパラシュート降下で帰還するという訓練を繰返していました。

昭和19年、米軍がレイテ島への上陸を開始します。
11月5日、新田原飛行場を飛び立った挺進飛行隊は第二挺進団「高千穂空挺隊」と共にフィリピンへ展開。そして、レイテやルソンにおける一連の空挺作戦で壊滅的な損害を蒙りました。
フィリピンで戦う第一挺進集團に続き、内地に残留した第一挺進團も本土決戦への準備に取り掛かります。

翌年春、挺進第一聯隊は九十九里浜防衛のため横芝へ展開。5月8日には挺進第一聯隊から抽出された「義烈空挺隊」も熊本の健軍飛行場へ移動します。
義烈空挺隊は2週間後の24日に沖縄へ特攻、途中帰還した4機を除く8機112名全員が戦死しました。
宮崎に残ったのは挺進第二聯隊、挺進戦車隊、挺進整備隊のみ。彼等は宮崎沿岸を防衛する154師団、156師団、214師団とともに、米軍の九州上陸に備えて待機を続けました。



昭和19年、第9航空教育隊が島根県へ転出。入れ替わるように、陸軍航空通信学校新田原教育隊の700名が転入して来ます。
通信学校は新田原飛行場の北側(新田原基地から県道44号を北上した高台)に駐屯。卒業生は各戦線へ配属され、その多くが戦死しました。

新田原も、戦争末期には特攻隊の基地となっていきます。

新田原

当時の児湯郡新田村および富田村(現・児湯郡新富町)の地図より
これは空挺隊員が使用していた演習図ですが、軍事施設は一切記載されていません。左上の赤線は塩付パラシュート降下場~宮崎市間の行軍ルート(復路は汽車です)。

 陸軍新田原飛行場滑走路・掩体壕群
 新田原飛行場揚水場ポンプ跡
 陸軍航空通信学校新田原教育隊兵舎および西部一〇一部隊記念碑

陸軍落下傘部隊の話ばかり取り上げてきましたが、新田原飛行場では空挺部隊以外にも多くの犠牲者を出しています。

昭和20年3月18日早朝、九州南部の各飛行場を米軍機の大編隊が奇襲。
沖縄侵攻への露払い、いわゆる九州沖航空戦の始まりでした。

昭和20年3月、いつものように、S少年は、朝6時頃牛や馬の飼料を運びに畑にいました。
今朝は少し早いなーと思いながら、いつものように新田原飛行場の日本陸軍が誇る「はやぶさ」戦闘機のエンジンを吹かす音を聞きながら、仕事をしていました。
すると間もなく、1機の「はやぶさ」戦闘機が那珂上空に飛んで来て急旋回を繰り返し始めたのです。
その瞬間に太平洋に向け、パン、パンと機関砲をはっしゃするではありませんか。
S少年は怖くなり、急ぎ足で家に帰りその様子を見ることにしました。
朝ご飯を食べ一時すると、なんと太平洋方面から戦闘機の大編隊が来るのです。第1編隊、第2編隊と、どんどんやって来ます(1編隊20機ぐらい)。その時、警戒警報は出ていましたが、空襲警報は出ていなかったと思います。
あの大編隊の飛行機を真上に眺めて、S少年は思い大人たちも口々に言った。
「これだけの飛行機があれば、日本は絶対に負けやせん」と…。
編隊は、那珂上空を通り過ぎ西へ西へと飛んで行きました。間もなく見えなくなる頃、急に、方向を変え新田原飛行場に向かって1機1機づつ急降下を始め、すごいスピードで飛行場すれすれの低空を飛び、爆弾を投下するのです。
爆発と同時に地響きが起こり、黒煙が上がり後続の飛行機もその黒煙を縫うように、爆弾投下と同時に、低空で太平洋方面に飛んで行くのです。新田原飛行場は、滑走路や燃料タンクなどが爆撃されたらしく、真黒い炎が上空を覆い、翌日も誘爆を起して炎上していました。
その時、S少年は日本の飛行機とばかり思っていたこの大編隊が、実はアメリカ軍のグラマン機だという事に気づいたのです。
新田原飛行機にいたはずの日本の飛行機が1機も飛び立つことが出来ずに、ただ、一瞬の出来事にS少年達は、防空壕に避難するのも忘れ、ただ、ガクガク震える足を押さえながあr、ぼうぜんとそれを眺めていました。
それから、毎日、艦載機による空襲が、赤江飛行場や六ツ野原陸軍飛行場や、鉄道、工場、鉄橋などに爆撃するようになったのです。

三島俊雄氏「13歳の戦争体験」より


三月十八日、私はいつものように、モンペを着て防空頭巾と救急袋を肩から下げ、鞄を持って七時過に家を出ました。
玄関から五十メートルも歩いたでしょうか。ふと見上げると、海の方から鳥の集団のように飛行機がこちらに向けて来ます。
その時、山の方からも戦闘機がワァーッとたくさん飛んで来て、私の頭上のすぐ近くで空中戦が始まりました。
初めて近くで見る米軍の飛行機です。
急なことで空襲警報も出ていません。恐ろしいとか、危険だ、とかそんなものではありません。家に向って飛ぶようにして走るつもりですが、足はもつれて、なかなか動きません。帰りついた時には、何がどうなっているのか、何が始まったのか分らないのです。近所の人も、あわててウロウロしていました。
私の父は鉄道職員で駅に勤務でした。家には出産で里帰りしている姉と新生児が寝ていて、母は思案にくれていました。姉は起きることも防空壕に入ることも出来ません。母は姉の傍らにいるので私も部屋にいました。
その時、敵機の一編隊が町を攻撃し始めました。家屋に向けての機銃の乱射です。もうこうなったら敵機は飛行場も軍隊も民家も何の見さかいもありません。
ひどい機銃の音がしたので、母は大きなふとんをかぶって姉の上に覆いかぶさりました。私も同じようにふとんをあぶって、赤ちゃんの上にかぶさりました。
その時、パンパンと二発の音がして、私の家に当り、その一発が居間の鴨居をつき通し、かぶっている蒲団の周りをシューッと通って僅かにはみ出している私の足を貫通したのです。
まるで大きな鉄の棒で殴ぐられたようなショックで、足がちょっとピクッと縮まったみたいで、何とも変で妙な気持でした。
「アッ」と思って足もとを見ると、白っぽい、やわらかそうな、固いような妙なものが足の側に飛び散っていました。
その瞬間よく分らなかったのですが、私の足の肉片だったのです。血はそんなに流れていません。

「いのち輝く」より 高鍋高等女学校生 亀井麻子氏の証言

宮崎上空では、富高飛行場から駆け付けた迎撃機と米軍機の空中戦が展開されました。県内各飛行場へ警報が発せられるも、暗号解読にモタついている間に内陸部の都城西飛行場へ米軍機が殺到。
この奇襲以降、赤江、新田原、富高、唐瀬原、都城西の各飛行場は米軍の猛攻撃に晒されます。
マトモな防空戦は3月で力尽き、航空兵力の中心は九州北部へ撤退。
沖縄戦の勝敗が決すると、米軍機は再び九州へ襲いかかります。やがて、宮崎の空は米軍機が支配するようになりました。
県内で無傷だったのは、草原と見間違えられた都城東飛行場と都城北飛行場のみ。
これが、沖縄に続いて本土決戦の最前線となる筈だった宮崎の実情でした。

前年秋に挺進飛行隊が去った新田原飛行場は、赤江飛行場や都城東飛行場と同じく特攻基地と化します。

十九年秋のある日。“新田原から特攻機がでているらしい。すぐ現地の模様をおくれ”と本社手配がとびこんだ。すぐ支局長、杉本、戸田義丸の三人で暗号をつくった。
電報符号をとり入れたチャチな暗号。
たとえば飛行機はヒ、キ、爆弾投下はバ、ク、ト。
戸田は飛行場へ飛んだ。飛行場長、鈴木少佐に会った。
満洲からきた玄武隊、護国隊などの特攻機がつぎつぎとやってきている。いやもう進発した隊もあった。
十日ばかり泊まり込みで、ヒ、キ、バ、ク、トと暗号記事を送りつづけた。
安藤栄中佐を隊長とする護国隊の十一人とは出発前夜、飛行場兵たん部で夕食をともにし、寄せ書きをしてもらって、記事とともに送稿した。
隊長は二十七才。隊員の最年少は十八才。
寄せ書きする一人々々の顔をみつめ“この若者たちも南方に散るのか”と戸田の胸は痛んだ。
この隊は南方海上で敵の船団に体当たりし、安藤隊長は三万トンの輸送船に突っ込み戦死した。

毎日新聞社「激動三十年」より

同年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行隊の10名、誠第7飛行隊の9名、誠第8飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの特攻隊員71名全員が戦死しています。

「昭和二十年三月桜の花の咲くころのこと。実弟の軍隊入隊の門出に親子四人で行き、その帰りのことです。
杉安をあとにして山角橋を渡り、茶臼原を通り、牛牧の集会場らしき建物の前までたどりつきました。
そこには、うすピンク色の桜の花が満開で、まぶしいほどでした。
桜の木の下には、トラックに乗った兵隊さんが、桜の枝を折っていました。私は、あまりにもきれいな枝だったので「その枝を一枝下さい」と申しますと、兵隊さんは快く一枝下さいました。
彼は「この花が散る時は、僕もいっしょに散るのです」と言われ、そのことばがに心が痛みました。
一枝を手に黒谷阪にさしかかった頃空襲に逢いました。私たちは、山の中に身をかくしばまらくして解除になり、山より出てみると私の手には、一枝のサカキを握っているではありませんか。
何とも言えぬ気持ちで子供達を自転車に乗せとぼとぼ足を運んでいるうちに、高鍋の町が眼下にあらわれ、蚊口の方向が爆撃の為にこげていました」
「過ぎ去りし日の思い出」より 高鍋町 友草スミ子氏の証言

「三納代駅(現在の新富駅)に隣接して私の家はありました。家が大きく、庭も相当に広く、駅にも近いので半強制的に、家の二階は将校の家族の住まい、離れは軍人の宿泊所になりました。
富田に続く台地に新田原航空隊があり、それに付随して多くの部隊や施設ができて、町は兵隊でいっぱいでした。
特に駅には部隊への補給品などが着くので汽車は全部停車し、他にも軍用列車は毎日のように出入りして、一日中兵隊が忙しく働いていました。
それで航空隊と共に駅は重要な場所になり、敵機の攻撃にさらされる場所でした。
いつの間にか新田原は特攻基地になりました。
特攻隊員は敵の航空母艦、戦艦、石油基地、飛行場などに機体ごと体当りして損害を与える為に自爆するのです。
そのため飛行機に積み込む燃料は往きだけ、帰りは無いのです。
自分から「死に」に行くのです。
出動する将校は、宮崎市で一番高級な料亭「紫明館」で”お別れの宴”があり、そこでお互い“水杯”をして部隊の訣別だったそうです。
どんな話があり、どんな宴だったかは誰も話してくれないのでわかりませんでした。
私達は「誰誰さんは紫明館行だそうよ(今度の特攻機乗りの意味)」と話すだけでした。
宴が終って宮崎から帰り、私の家の離れに下宿している将校さん方は家族の方々とお別れの面会をしておられました。
皆静かに話をして……何が話題だったのでしょう?
酔っぱらったり、歌ったりは全くありません。
将校でない方々は兵舎でお別れの面会があったのでしょう。
いつもと少しも変わらない服装と態度で出動し、やがて特攻機で出て行くのです。富田の上空で翼をふり、旋回して見えなくなるのをいつまでも見送って、「誰々さんではないかしら」と知っている限りの人を思い浮かべながら見送ったものでした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校 押川慶子氏の証言

戦争末期、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能を停止します。
新田原から北朝鮮へ移動し、戦力回復をはかっていた挺進飛行隊はソ連軍の進攻に遭遇。多数の隊員がシベリアに抑留されました。

新田原・唐瀬原・西筑波の三飛行場から出撃した空挺隊員の多くが、激戦と飢餓によって命を落とします。
陸上自衛隊ではなく、航空自衛隊の新田原基地に「空挺歌碑」が設置されているのは、そういう歴史があったからです。

さて、新田原空挺歌碑の知名度はどうなんでしょうか?
何年か前の航空祭では30分ほど歌碑の傍にいましたが、そのあいだ訪れる人はいませんでした。

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新田原基地の空挺歌碑

8月15日の敗戦後、兵士達はそれぞれの故郷へ復員していきました。
昭和20年末に宮崎へ展開した進駐軍は、新田原飛行場も徹底的に破壊します。再利用ができないよう滑走路は爆破し、周辺は農地として開放されました。
陸軍が去った新田原は、静かな農村へ戻る筈だったのです。

【新田原アヘン事件】

昭和20年の敗戦によって新田原飛行場は解体され、翌年から農林省管轄地となりました。
此の際、農地開墾中の飛行場跡でとんでもない騒ぎが起きます。

終戦間もない陸軍基地新田原飛行場。ある日、住民の一人が滑走路のはしの格納庫の片すみにころがる黄色い布包みをみつけた。
開けてみるとなかは長さ三十センチぐらいの金属パイプ、かん詰のようなものがいっぱい。
軽い。カンやパイプのレッテルに“熱河省産”とある。こじあけるとなかはドロドロした黒いかたまり―、地区住民たちには“それ”が何だかわからなかった。
好奇心から拾って帰った人もあったが、使いみちがない。
庭先に放りだした。
ゴミ焼き場へ捨てたものもあった。冬の朝だった。道ばたでたき火をしていた地区民が急に眠りだした。
燃えさかる火炎から流れる“異様な臭気”をかいでからだ。
骨のふしぶしが抜けていくようなけん怠感、吐き気、そのあとに泥のような眠りがあった。

毎日新聞社「激動三十年」より

それは、日本軍が大陸での宣撫工作や軍票回収用に備蓄していたアヘンでした。児湯郡に展開していた護路兵団の復員兵たちは新田原から物資を持ち去っていましたが、秘匿されていたアヘンは見逃されていたのでしょう。
想定外の置土産は、敗戦直後の宮崎に新たな混乱を生みだしていきます。

「地元出身の兵隊達は幸か不幸か麻薬の実態と問題を知らぬまゝに邪魔物扱にして表に放り出し包装が破れて中身が露出していても通りすがりの農夫達は得体の知れない物と見向きもしなかつたという。
たまたま通りかゝつた新田村〇〇長友さんは、車の油にでもと馬車に積んで帰つた四十一貫目のシロ物が四千万、時価で驚くなかれ六億円もする麻薬であつた」
日向日日新聞「謎の麻薬基地新田原」より 昭和26年

10月に宮崎へ進駐したアメリカ軍はアヘン回収に動いたものの、大部分は住民に持ち去られた後でした。
昭和21年、旧軍関係者などからアヘンの噂が県外へと広まります。
進駐軍の目を逃れた「新田原のアヘン」を目当てに、麻薬ブローカーが宮崎に殺到しました。
妙な動きに気付いた宮崎県警と厚生省も内偵を始め、それを知った住民は慌ててアヘンを廃棄。
宝の山が雲散霧消したと知って、今度はブローカーが慌てます。
「何とか残っている分を売ってくれ」と戸別訪問が始まり、それを阻止するため県警と宮崎県衛生部薬務課はオトリ捜査へ乗り出しました。
目的は麻薬密売組織の検挙ではなく、騒動の原因であるアヘンの回収。
オトリ役のブローカーに「見せ金」を渡し、アヘン隠匿者が喰い付いて来たところを一網打尽にする作戦です。

「さて車に塗つて見たがさつぱり滑らず、さりとてベルトのワツクスにも使えず、まゝよと玄関脇に放置していた所、昨年(昭和25年)三月四日麻薬買いに来た〇〇〇が買入れの約束をした。途端に同月八日神戸CID(アメリカ陸軍犯罪調査部)隊員が妻地区署員と共に同家を急襲、全部没収してしまつた。その際「お前はこんな物を持つて田舎にいたので命拾いした。都会にいたら悪徳ブローカーに誘い出されてとつくの昔に命はなかつた」と同隊員がもらしているが、麻薬の取引には切つた殺されたはつき物だけにヤミからヤミへに葬られているといわれている。
野良仕事に出た農夫が何気なく持つて帰り、床下などに放りこんでいるのがまだあるだろう。
麻薬は所せん麻薬的な魅力を持つてブローカー共をひきつけて犯罪は繰りかえされている。
えんえん東西二キロに及ぶコンクリートの大滑走路は不気味な沈黙をつゞけて冬の陽射しを照り返しているが、無数にあけられた爆弾の跡には麻薬原料のケシならぬハゼの木が村当局により植樹されているのも皮肉である。
かつて弾薬と共に麻薬が集積されていた弾薬倉庫は開拓者の住居に改造され、平和な開拓者達は麻薬景気をよそに黙々として大地にクワを打ち込んでいる。
経費がつぐわないので永い間そのままさらされていた格納庫跡の鉄骨も最近の金ヘンブームの波に乗つて掘り返され、今や新田原飛行場は三転し金属ブローカー共のねらいの場所として注目を浴びつつある(日向日日新聞より)」

オトリ捜査が功を奏し、次々とアヘンは回収されていきました。
しかし、この手法は捜査側の腐敗も生み出します。
逮捕者の続出により、阿片を隠し持つ者も警戒し始めました。売人がやってきても容易に信用せず、アヘンをなかなか差し出そうとしません。
そこで、ある捜査員が考え付いたのが「見せ金作戦」。
麻薬ブローカーを装った捜査員は、仕事の資金繰りに困っていた男に阿片購入を持ち掛け、見せ金を渡します。そうとは知らずにオトリ役となった彼が知り合いの阿片隠匿者に声を掛け、取引に集まったところを一網打尽にする計画でした。
昭和25年10月、新田村での阿片情報を得た厚生省と県警捜査員は、警察後援会員から50万円の「見せ金」を借用。その全額をオトリ役に渡しました。
しかし、オトリ役は「見せ金」から38万円を横領してしまいます。
焦った刑事たちは、オトリ役に自分達の正体を明かし、カネの返済を迫りました。警察に騙されたと気付いた男は、「もう逃げられない」と観念して刑事の目の前で割腹自殺を遂げます。
これをきっかけに県議会と宮崎地検の追及が始まり、取締側の不審な行為が露呈しました。
結果、昭和26年にはオトリ捜査担当の警察官・麻薬捜査官・医師・ブローカーが逮捕されるという異常事態に発展。
50万円の返済に窮した彼等は、押収したアヘンを医師宅で調合のうえ密売。それだけでなく、火薬取締官の書類を偽造して「日向市細島港に投棄された火薬類を横流しする」といって火薬密売もブローカーへ持ちかけていたのです。

アヘンが回収されると騒動も下火となり、新田原飛行場跡の農地開拓も進められました。

新田原のアヘンについては、内田康夫の推理小説「高千穂伝説殺人事件」のネタにもなっております。
アレを読んで、「航空自衛隊新田原基地に何億円分ものアヘンが秘匿されていたのか!?」などと早合点する人もいるでしょう。
陸軍新田原飛行場跡地に航空自衛隊新田原基地が建設されたのは、アヘン騒動から6年後のこと。
「日本陸軍の新田原飛行場」と「航空自衛隊の新田原基地」は別物なんですよ。

そう。
戦後の新田原に、再び軍用機がやって来たのです。

防衛庁

【航空自衛隊新田原基地】

アヘン騒動もおさまった昭和30年、前年に発足した航空自衛隊は九州南部に基地を増設する計画を立てていました。
建設計画時の証言が幾つか残されています。

「昭和30年12月初旬のことであったと思う。T-33Aの前席操縦の講習が終了して、米国でのT-33A教官課程への入校待ちをしている時であった。
当時、空幕では飛行場設定についていろいろと検討中であって、九州の中南部に飛行場を一カ所設定したいと計画、候補地としては人吉・国分・鹿屋・新田原・出水等があるので現地調査したい。ついては築城からパイロット2名をこの調査に参加させられたい旨の通知があり、私と山崎琢磨さん(当時3佐、臨時築城派遣隊パイロット)が参加することになった。
朝未だ薄暗く寒さが肌をさすなかを、山崎さんと2人で椎田駅から宮崎行きの列車に乗ったことを憶えている。宮崎で空幕から来た調査団一行と合流して車で新田原の旧陸軍飛行場跡に向かった。現地に到着してみると、そこには戦時中に作られた滑走路が、そのまゝ残されており、その上には真白い薩摩芋の切り輪が所狭しと干されていた。多分澱粉の材料にするためのものであろうと思いながら、それを踏みつけないように注意しながら飛行場の規模、滑走路の長さや巾を調べて廻った。
飛行場周辺の状況も調査して、将来拡張することも不可能ではないということを確認して、次の調査予定地である国分飛行場に移動していった」
航空幕僚監部防衛部付 元第五航空団 樋口則夫空将「新田原基地設置のための調査に立ち会って」より 昭和53年 

「波風一つ立たぬ新田村に、昭和30年12月20日航空幕僚監部警備第4課長宮沢正雄さんが部下一人同伴でひょっこり訪れ、飛行場の話など何一つするではなく、世間話ののち「それではまた」といった具合いで帰って行かれました。
あけて31年1月22日の日向日日新聞に、新田原に築城の第3操縦学校の分校が設立されるらしいという記事が目についたのであります。
新聞は皆よく見ます。特別記事が出れば各人が放送局になりますから、その日のうちに一般に知れ渡りました。
静かな田舎の村は、青天のへきれきで村中かき回すような騒動になりました。
その翌日から村長室は人の山となり喧々囂々の有様、それもその筈です。長い戦争に疲れ果てて餓死せんばかりの生活から漸く這い上がり、やっと血と汗で開墾した畑地から陸稲甘藷等少しづつ取れ出した畑を、また取り上げるというのですから執着は皆同じだと思います。
1月30日には上京中の県議黒木重雄さんから、新田原に基地を設定する事が決まったと電報を受け取り、いよいよだと思いました。
1月、2月、3月と村民大会、青年団の会、学校の先生の会、婦人会、村議会と開催され、目が回るように忙しくなって来ました。どの会でも反対が80%、賛成は20%位に見えました。各種団体はそれぞれ築城基地、高畑山分屯基地を視察研究しました。
村会等では56人単位で防衛庁を訪れ、また防衛庁からも施設庁の福岡または熊本等から何回となく來村交渉がありました。そうするうちに、さしもの反対者も飛行場で遮断された道路の整備、上新田中学校の建設、橋りょうの改修が出来るならば条件付反対というように、段々と反対が軟弱になってきました。
それでもあくまで反対という最頑固なのが頭に残っております。
この人は最初から大反対であり、土地もあまり持っていなかったと思います。四国の高松出身で元気者であり、変り者でした。
31年8月頃で設置問題もほぼ決着をみる前でしたが、何を思ったのか基地正面警衛所のすぐ前に、便所をわざわざ建てていやがらせをやったのには閉口しました。
裁判所に訴えるという意見や、法務局に願い出て命令を出して貰えという意見等がありましたが、結局黒木重雄さんがいろいろ奔走折衝の結果遂に解決。全く黒木さんの力だと今でも思います」
新田村長 大木年見氏 「新田村における基地開設当時の想い出」より 昭和53年

「新田原はもともと陸軍の飛行場であったが、終戦後米軍が来て滑走路は5m間隔にダイナマイトで壊され開拓民が入っていた。
開拓者は周辺の掩体壕の中に家をつくり、それこそ爆撃を受けても良いような住宅であったが、その反面湿気が多く、蚤の繁殖もまた相当なもので、主要作物はそば、甘藷、茶等であった。
当時の買収価格は反当たり13万円で茶畑のみは30万円であったと思うが、今思うとよくもこんな価格で買収できたものである。
旧滑走路は澱粉かすの乾燥場になっていたので、時期になると臭気ぷんぷんたるものがあった。
基地と名がつくとどこの基地でも一応反対運動が盛り上がるが、新田原基地と雖も昭和30年基地建設の噂が広まった頃は相当の抵抗が有ったのである。役場も農協も大体において反対で、社会党はむしろ旗を立てて反対デモをやったものである。
(中略)
この頃監督官と話し合ったことは、先づ「新田原」の呼称である。
旧軍時代には「ニッタバラ」と呼んでいたが、これは軍特有の呼び方で固有の呼び方ではない。地元の呼び方と自衛隊の呼び方が違うのは万事都合が悪いので「ニュウタバル」と呼ぶことに開設当初から注意しなくてはいけないと申し合わせ、一切の文書も統一した。
第2番目に、この基地はバタ臭くない(※米軍が使用していないという意味)唯一の基地だから、純粋さを保持して「名実日本一の基地を作ろうじゃないか」ということを合言葉にしていたものである」
防衛庁事務官 高橋猛氏「基地周辺対策の逸話」より 昭和53年

農地として開墾された新田原一帯は国有化され、航空自衛隊の第3航空操縦学校新田原分校となります。
昭和32年12月までに2700m級滑走路を再建し、航空自衛隊新田原基地が完成しました。
昭和34年以降は操縦学校を第17教育飛行団に改編し、千歳から第6飛行隊が転入。36年には第5航空団も加わり、用地の買上げと基地の拡大は更に進められます。

日本軍が去った新田村はかつての賑わいも消えており、新田原へ着任した自衛隊員は「まるで山奥へ赴任したかのような不安に駆られた」といいます。
当時はマイカー通勤の時代ではなく、高鍋在住の隊員らは基地まで徒歩か自転車で通勤していました。

「昭和33年1月16日、今では懐かしいSLのD-51の力強い鈍行列車に乗せられて、夕闇迫る三納代駅(現在の日向新富駅)に着いた。
駅には迎えのGMC(トラック)が一台待っていた。運転手のT士長が日向弁丸出しで「基地までは2本の違った道があり、近い方は昨夜の雨でドロンコ道となり通行不能。遠廻りして芝原経由で帰隊します。所要時間約30分」と説明。トラックは一路基地へ向かった。
ひどい砂利道を過ぎて右に曲がりくねった山路を登りはじめた時、これはえらい所に連れてこられたものだと思った。
暗闇の中に鉄条網を認めた時、同僚が「刑務所行きの護送車みたいだね」とささやいたが、私も同感であった」
元第5航空団 池田政雄氏「あれから20年……創設期を想う」より 昭和53年

激しい反対運動が続いた他の航空自衛隊基地と違い、新田原基地の反対運動は短期間で終息。
早期に問題が決着した珍しいケースとなりました。
旧軍の飛行機を見慣れた住民にとってもジェット機は珍しく、最初の飛行機が着陸した際は黒山の人だかりができたとか。中には「プロペラが無いのにどうやって飛ぶんだ?」と不思議がる人もいたそうです。

自衛隊への理解もあって、新田原基地は地域と共存の道を歩み始めました。飛行隊の後援会も設立され、自衛隊員と地元住民との交流も活発化します。
ただし米軍はハナシが別で、在日米軍の機能移転計画が持ち上がった時は、新田原基地前で激しい抗議活動が再燃。押し寄せる反対派に自衛隊が放水で対抗する事態となっています。
土地買収は解決しても、ジェット機による騒音公害や立て続けの墜落事故で新たな確執も生れました。

昭和36年、転入したばかりの第10飛行隊で空中衝突事故が発生。日南市の油津沖に墜落し、2名が死亡します。
昭和38年にもF86戦闘機が宮崎市に墜落。48年にはMU2救難捜索機が尾鈴山中へ墜落して4名死亡。
最新鋭のF104戦闘機を装備した202飛行隊、204飛行隊が新設された後も事故は続きます。
昭和41年、邀撃訓練中のF104が離陸直後にフレームアウト。エンジン再起動を試みるも日向灘へ墜落し、1名が死亡。
43年、悪天候で着陸に失敗したF104が燃料切れとなり、新田原への再アプローチ中に日向灘へ墜落。1名が死亡。
46年、熊本上空で機体トラブルを起したF104が新田原へ帰投するも、遂にエンジン停止。パイロットは一ツ瀬川へ機首を向け、墜落寸前に西都市上空でベイルアウトしました。
対馬海峡をソ連軍機が往復飛行するようになると、新田原基地のアラート任務も24時間体制へ。空中戦の訓練も激しさを増します。
昭和52年、夜間高高度邀撃訓練中だったF104が突如レーダーから機影を消し、海上へ墜落。1名が行方不明となります。

昭和58年、築城基地の飛行教導隊(現在の飛行教導群)が新田原へ転入。
そして、最悪の事態がやってきました。

DSC09735_R.jpg
新田原基地に掲げられた飛行教導隊のシンボルマーク

DSC09060_R.jpg
飛行教導隊のF-15には特別な塗装が施されています

昭和61年9月2日、飛行教導隊のT-2練習機が西都市上空で機体トラブルを起します。
後部座席の1名がベイルアウトした直後、パイロットもろとも製材所へ突っ込んで爆発炎上。附近にいた女性とFMラジオ局員がこれに巻き込まれ、重度の火傷を負うという最悪の結果となりました。
この時でさえ「国防のためだから仕方ない」という言葉が住民側から出る程、新田原基地と地域の繋がりは強かったのです。
しかし、この信頼は裏切られました。

被害者女性の親戚は隣接する佐土原町の助役で、その長男は偶然にも飛行教導隊のパイロットでした。
父親にT-2の性能について不安を洩らしていた彼も、8ヶ月後の62年5月に日向灘へ墜落して殉職します。
再発防止を誓った直後の墜落事故、しかも原因不明という調査結果に我慢を重ねていた県民の怒りが爆発。議会、マスコミ、住民から猛抗議を受けた新田原基地側は、「飛行時にトラブルが起きた際は機体を海に墜とす」と約束するまでに追い込まれました。
それまで不文律とされていた方針が明文化されたのです。

しかし、新田原のT-2墜落事故は続きました。
平成元年にも教導隊のT-2が墜落したことで、アグレッサ―用の機種はF-15に変更。
そして現在に至っています。

DSC09512_R.jpg

のほほんとした県民性か、親戚知人に誰かしら自衛隊関係者がいる土地柄か、今では新田原基地への激しい反対運動などは見られません。
リベラル派の地元メディアですら、自衛隊の評価に関しては公正な立場に徹しています。
しかし、半世紀に亘る県政・町政の新田原基地関係資料や地元新聞の報道ファイルを読む限りでは、ナカナカ根深い問題が蓄積されているのでしょう。
新田原周辺にある記念碑を調べていると、開墾した土地を奪われたことへの憤りが碑文に刻まれていたりしますから。
それらに折り合いを付けながら、新田原基地は存在しているのです。

脇見
新田原基地の真横をとおる、東九州自動車道の標識。高速道路の真上を戦闘機が横切るので計4か所に設置されています。

残された旧軍の遺構群

では、新田原にある旧軍の遺構について。
現在、新田原基地滑走路脇には新田原飛行場の掩体壕4基が残されています。
この周辺の土地は防衛庁(現防衛省)が所有。掩体壕は付近の農家のかたが農具や干草の倉庫として借り受けています。
保存状態は赤江飛行場と違って4つとも良好で、ひび割れに対する補修も施してありました。

掩体壕A
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕
掩体壕越しに眺める新田原基地。

掩体壕B
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕C
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕D
掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕

掩体壕


防衛庁
無数に打ち込まれた防衛庁の境界杭


新田原飛行場水源ポンプ場
ポンプ
ポンプ場
台地の上にある新田原には水源が少なく、麓からポンプアップしていました。
新田原基地正門から高鍋方面へ下っていったところの国有地に、旧軍が使用して居た新田原飛行場の水源ポンプ場跡が複数残っています。
現在、このポンプ場跡地には売地の看板が立っており、基礎部分だけが空地の片隅に残されていました。
更に、ここの下流にも旧軍の取水堰跡があります。

西部101部隊及び陸軍航空通信学校新田原教育隊記念碑
追分

標識

西部101部隊(第9教育航空隊)と航空通信学校新田原教育隊の記念碑。
ポンプ場から更に高鍋方面へと走ったところにあります。
教育隊記念碑は、残された隊舎の門柱に記念プレートを嵌め込んだもの。近くの農地に残っていた隊舎の基礎部分も先年撤去されてしまい、当時の様子を窺い知る事は出来ません。

101A
101B
通信1
通信2


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#6 通信学校の門柱について
現在の門柱の位置 実際会った場所と変わっている
様な気がしてます。
#7 Re: 通信学校の門柱について
> 現在の門柱の位置 実際会った場所と変わっている
> 様な気がしてます。
あの辺一帯を農業用地として整備した際、動かせる遺構を一ヶ所に纏めて保存してくれたのかもしれませんね。
近くにあった兵舎の基礎跡は工事の際に撤去されてしまったそうです。
#12 新田原発特攻
とても丁寧な記述ですね。もしもおわかりでしたらお願いします。新田原発の特攻71名全員戦死とありますが、この名簿は資料で当たれますか。
#13 Re: 新田原発特攻
私の手許にある資料を調べましたが、新田原の特攻隊員名簿は判りませんでした。
飛行隊名と出撃日については当該飛行隊の研究をされているサイトや防衛省史料室、または特攻関係の書籍などで手掛かりを探すしかないと思います。ネットで購入可能な隊員名簿載の書籍としては、押尾一彦著「特別攻撃隊の記録 陸軍編」などがございます。これらを元に出撃日や飛行隊名などと照合すれば、お調べになっている内容の一部が分るかもしれません。
#28 Re: はじめまして。
ご連絡くださいまして有難うございます。拙ブログからの引用の件、どうぞご自由になさってください。
宮崎県の戦跡は、開発に伴って大部分が消滅してしまいました。せめて新田原や唐瀬原や赤江の遺構は末永く残して欲しいですし、その為には様々な情報発信が必要だと思っております。

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