Category : 第五部・義号作戦 | Posted on 2010-12-02
五月の末だったか、義烈空挺隊の沖縄北中飛行場強行着陸の報は、一時的に私達の士気を高めたが、間もなくまた重苦しい気持ちになってしまいました。
もうこの頃は日本が降伏するとは思わなかったが、戦の前途に勝利の希望は持てず、いずれこの南九州も戦場になるだろうと思っておりました。
なお空挺隊といえば新田原にいた時、唐瀬原の空挺隊の降下訓練をよく見ており、また外出先の高鍋や妻(※現在の西都市)でよく彼等に逢って訓練の苦しさをグチられた事を思い出します。
「埋もれた青春」より 陸軍少年飛行通信隊 中島昭次氏の証言

●読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊突入機(この機体は予備機でした)。
(第四部からの続き)
12月6日からおこなわれた高千穂空挺隊レイテ島降下作戦は、このようにして無残な結果に終わりました。
高千穂隊に続いて、12月24日には別の部隊が空挺作戦を計画しています。
その名は「義烈空挺隊」。
米軍制圧下のサイパンへ強行突入する為に編成された、事実上の特攻部隊です。
パレンバンの栄光は輸送船沈没事故の為に挺進第2聯隊へ譲り、挺進第3、第4聯隊はレイテ降下作戦へと赴く中、ラシオ、ベナベナ・ハーゲンと戦機を逸し続けた挺進第1聯隊。
義烈空挺隊は、その第1聯隊から抽出されたコマンド部隊だったのです。
昭和19年6月15日、サイパン島に米海兵隊が上陸を開始。
その夜、島内に駐屯していた海軍空挺部隊の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊は反撃を試みました。
しかし、砲爆撃で掘り返された地形を突破するのに手間取った挙句、米軍の阻止線に引っ掛かって一夜で壊滅。
サイパン島守備隊も、昭和19年7月7日の総攻撃を最後に全滅しています。
日本軍守備隊玉砕後、サイパン島アスリート飛行場にはB29が配備され、本土爆撃の前進基地となりつつありました。
陸海軍はサイパンへの長距離爆撃を繰り返したものの、満足な戦果を上げることができなかった為に空挺部隊による敵飛行場への突入案が検討されます。
立案されたのは、夜間に輸送機ごとアスリート飛行場へ強行着陸し、駐機中のB29を爆砕しようという作戦でした。
クリスマスを選んだのは米軍が油断していると思われた為。
落下傘降下させてから引き返すと帰りの燃料搭載分空輸できる兵員が減るので、飛行機もろとも着陸したほうが良いという考えだった様です。
調達可能な輸送機の数から、部隊規模は150名前後が適当と判断されました。
「特攻」といえば神風や回天のような自爆攻撃のイメージがありますけれど、生還を期待しないという意味ではサイパンへの空挺作戦も特攻と同じ。
地上部隊との連携が前提だった高千穂空挺隊とは違い、敵の制圧下にある島へ空挺部隊単独で突入するのです。
余りにも無謀な作戦でした。
レイテとルソンの戦いに赴いた挺進第3、第4聯隊および滑空歩兵第1、第2連隊とは別に、無傷で川南に温存されていた挺進第1および第2連隊を中心とする空挺部隊群。
しかし、その2コ空挺連隊を活用する術など守勢に転じた軍部にはありませんでした。
せっかく育て上げた精鋭部隊はコマ切れにされ、悲惨な特攻作戦に使われ始めたのです。
サイパン特攻部隊は、その先駆けとなる筈でした。

●宮崎県川南町唐瀬原に残る挺進第3連隊兵舎給水塔。
義烈空挺隊は、レイテ出撃中の第3連隊空兵舎を拠点としていました。
薫空挺隊のブラウエン突入が失敗に終わった翌日、昭和19年11月27日。
教導航空司令官から宮崎県川南の挺進練習部に対し「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されました。
この攻撃隊の指揮官には、挺進第1聯隊第4中隊長の奥山道郎(みちお)大尉が指名されます。
各挺進連隊の第4中隊は、破壊工作を目的に工兵出身者を集めていました。
B29を爆破する為、サイパン特攻部隊として爆薬の扱いに長けた第4中隊が選ばれたのです。
奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
人員を補充再編した第4中隊残留組の指揮は浪花実大尉に引継ぎます。
「特攻隊員は全員志願のうえで出撃して行った」
などという“美談”は、義烈空挺隊のケースでは通用しません。
この「特攻隊」は、神風隊員のような志願制の体裁すらとっていなかったのです。
編成時に第4中隊で真相を知っていたのは、奥山中隊長、浪花大尉(後任中隊長)、宇津木、菅田、渡部、村上、山田の各小隊長のみ。
情報を秘匿するため、隊員らは自分たちが何処へ出撃するかを教えられませんでした。
「部隊の強味は選抜して編成したのではなく、私の部隊そのまゝが挺進部隊として成長したことである。
隊員はすべて十分に訓練を積んだ若武者ばかりですが、各隊長をはじめ隊員同志は直に家族のやうな愛情と團結のうちに苦労してゐたのが何と言つても心強いです」
日向日々新聞より奥山隊長の談話 昭和20年
「要するにまあ、何かやらにゃあいかん、という考えでしょうね。
あそこ(サイパン)へ行ってね、
誰が考えても、百名足らず飛行場に降ろしてパンパンやったってね、
一週間経ちゃあまた元に戻るんですから。
後続部隊も行かんですしね」
MRT宮崎放送「塔は黙して語らず」より、挺進第1連隊第4中隊長(後任) 浪花実氏の証言

第4中隊の指揮を浪花大尉に引き継ぎ、「特別演習参加」名目で奥山隊が宮崎県から埼玉県豊岡へ移動したのは12月5日の事でした。
移動前には衛生隊員が全員から注射器で抜いた血で「血判状」を取った為、隊員達も只の演習ではない事に気付いていたそうです。
しかし、豊岡の航空士官学校で作戦内容を知らされるまでは、まさか特攻隊に選ばれたとは思いもよらなかったのでしょう。
空挺部隊は危険を承知の上で任務に就きますが、死を目的に訓練してきたのではありません。
死ぬことを命じられた隊員の間には動揺が広がりました。
その直後、11月に結婚したばかりの曹長が、思い悩んだ末に自分の右足を銃で撃ち抜くという事件を起こします。
部下を指揮すべき分隊長の自傷行為に、同僚の曹長達は激怒しました。
「私ら同年兵ですからね。
ほんで、私ら怒ったんですよ。
我々より下の13年、14年、15年兵が居るやないかと。
それに貴様がね、そんな事をするんだったらね、
俺達はね、言いたくないんやけど貴様を飛行場で殺す、と。
死体を飛行機積んで向う(サイパン)行くっちゅうたんですよ」
「塔は黙して語らず」より、和田伍朗曹長の証言
和田曹長らは彼の行為を諫める一方で、10名程いた妻帯者を隊から外すよう意見具申しました。
「“奥山隊長、少数精鋭でいきましょう”と。
そうせんとやね、奥さんや子供のある人はね、可哀想だと。
だから、もう(妻帯者は)外せと言うたんですけどね。
“でもなあ和田、お前はそう言うけどね、そう言う訳にはいかんぞ”と(〃)」
この件については奥山隊長も最後まで悩んでいたそうですが、却下せざるを得ませんでした。
小隊長・分隊長クラスに既婚者が多かった為、指揮系統を保持できなくなる恐れがあったのです。
結果として、奥山隊からは1人の隊員も脱落していません。
しかし、奥山隊全員が平然と特攻を受け入れた訳ではないのです。
鍛え抜かれた精鋭であっても、彼等は感情を持つ人間なのですから。
埼玉県では、サイパン出撃に向けてB29の実物大模型を使った爆破訓練が開始されました。
この特攻部隊は1個指揮班及び5個小隊で編成され、各小隊は2個分隊(各4個班)構成となっています。
胴体着陸した飛行機から飛び出すと、爆破担当1名、援護2名で構成される各組は敵に構わず滑走路を疾走し、B29に帯状爆薬や吸着爆雷を取り付けて点火。
点火を確認したら30m程後退して伏せ、爆破に備えるという訓練をひたすら繰り返しました。
「『爆破するとなると、爆薬を持っていくわけですね』
『吸着爆雷っていいまして、機体に吸いつくようになっているわけです』
『何か磁気で』
『いや、磁気ではなく、今、自動車なんかによくピシャッとこう、ひっつけるゴム(吸盤)で
それが二つ付いているわけです。
そうしてですね、これに1㌔の爆薬を仕込んどるわけで、それに柄がございまして、それが導火線なんです。
ずっと下の方に口火があるわけです。
で、引っ張ると20秒の間燃えまして、これをB29の翼の下にパチッとひっつけるわけです。
そしてB29を爆破すると……。
このほかに帯状爆薬といいまして、それをB29の胴体に巻きつけると。
その訓練を毎日やったんです。一か月間ですね』
「証言・私の昭和史」より、和田曹長の証言
爆破に確実を期す為、B29諸共自爆するという案も第1小隊長の宇津木伍郎中尉から出されたそうですが、渡部大尉から「一人で3機はやらにゃあ、日本男子があんなもの1機と心中しちゃあ、つまらん(「帰らぬ空挺部隊」より)」と却下されたとか。
自爆案は却下されましたが、全員の意思を統一する必要がありました。
奥山隊長は作戦遂行上の心構えとして、十箇条の攻撃訓を作成しています。
「一つ、一斉溌剌と
二つ、任務絶対俺がやる
三つ、三人三世ぞ戦友ぞ
四つ、よくみよ敵を準備を早く
五つ、剛胆沈着腹を据え
六つ、無駄弾撃つな大事な弾ぞ
七つ、七生報国早まるな
八つ、早くしっかり装着点火
九つ、ここが墓場ぞ潮時ぞ
十で尊き任務ぞあくまで頑張れ」
この頃、奥山隊は「神兵皇隊(しんぺいすめらたい)」と呼ばれていました。
豊岡では、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流します。
総勢168名となった部隊は、12月17日「義烈空挺隊」と命名されました。
第3独立飛行隊は猛訓練に励んでいたものの、海軍航空隊と違って夜間の長距離洋上飛行には不慣れでした。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。
「今頃の若い人にあんな飛行機に乗れ言うたら怒りまっせ。怖い言うて」と和田曹長が述懐していますが、割れた風防や脱落したドアを、ベニヤ板やブリキで塞いで応急修理していた機体もあったそうです。
諏訪部隊はサイパン着陸後、奥山隊と行動を共にする計画となっています。
しかし、地上で戦う事に対し、パイロット達の心境は複雑でした。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で、B29を奪って帰還するという案も出されたそうです。
「最初はですね、サイパンのB29を焼くと。
そしてわれわれが戦闘しとる間にですね、飛行士が奪って帰るというような計画をしたんでございます(「証言・私の昭和史」より)」
荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。
玉砕覚悟の空挺隊や飛行隊と違い、中野学校の10名は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏、残置諜者として遊撃戦を展開する任務を帯びていました。
「生き残る事」が目的の彼等は、空挺隊員にそれを悟られぬ様、苦労して作戦計画を立てていたそうです。
部隊結成から作戦予定日までの時間は、あまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。
結局、途中給油地の硫黄島への空襲が激化した為にクリスマスの出撃は延期となりました。
豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。
「昭和二十年一月一日
今年の新年は靖国神社の樹の下と覚悟致していたのに
また馬齢を加えた訳です。
今度行くからには決して生きては帰れません。
また、遺骨も帰らない事を覚悟していて下さい。
それ程に、我々の責務は重大なんです」
義烈空挺隊 S曹長
“特攻せよ”と死ぬ事を命令しておきながら、出撃は何度も延期されました。
大本営側には、一度に168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇いがあったとされています。
しかし。
死を覚悟した隊員達にとって、それは残酷な仕打ちでした。
「“まだ死なせんとか”って言いよった位ですけん。
“まーだ死なせんか、もう死なせてくれ”って言いよったですね」
「塔は黙して語らず」より 元義烈空挺隊員酒井一義氏の証言

1月13日、奥山隊は出撃基地である浜松へ移動。諏訪部隊と合流しますが、出撃命令は一向に下されませんでした。
「ある寒い日、某下士官が所要あって隊長室に入った。その頃は薪炭の使用が極度に制限され、ストーブも短時間しか焚けない。
奥山は底冷えのする室内で、窓際に置いてある金魚鉢を、ジーッと見つめていた。
「オイ、当番室に湯が沸いていたら持って来てくれ」
「お茶ですか」
「いや、湯だ。この金魚も寒かろう」
金魚鉢に湯を入れてやろうというのだった。
奥山の顔には、いつもの明朗さはなく、深い悩が読みとれた(「帰らぬ空挺部隊」より)」
サイパン突入中止が決定された昭和20年1月27日。
死を覚悟していた隊員達は、空しく宮崎へと戻りました。
因みに、川南への帰還が「里帰り」となる宮崎県出身の隊員に、阿部忠秋少尉(中野学校)、蟹田茂曹長、新藤勝曹長、谷川鉄男曹長、森井徳満曹長、津隈庄蔵伍長、堀添綴伍長らがいました。
彼らの一人は、家族に対してこのような手紙を書き送っています。
「昭和二十年一月二十四日
前略
何たる神様のお引き合わせか。
再び生きて踏まずと覚悟した故郷に。
ただ、天にも昇る心地。
状況の急変により一応川南に引き上げ、川南にて訓練する事になりました。
三度目の正直で、また生きて帰るなんて」
川南に戻った義烈空挺隊は、レイテへ赴いた挺進第3連隊の空き兵舎に入って訓練を続けます。
挺進第3連隊の兵舎。そう、あの空挺給水塔が残されている場所ですね。
第4中隊の指揮は浪花大尉に移っていた為、挺進第1連隊に奥山隊の戻る場所は無くなっていたのです。
九州の片隅で宙ぶらりん状態となったまま、奥山隊長は部隊の士気を下げないよう苦慮していました。
しかし、次の攻撃目標はなかなか決まらないまま、時間ばかりが過ぎていきます。
この頃、副隊長格の渡部大尉ら5名を第六航空司令部に派遣したのも、部隊の存在をアピールする為だったのでしょう。
「昭和二十年二月七日
目と鼻の所に居りながら、毎日家に帰れないなんて本当に残念ですが、全てお国の為と諦めねばなりません。
楽しかりしあの日々。
幸せに浸りしあの頃。
しかし、余りにも短い幸せだった。
再びあの日が来るかしら。
それは神ならぬ身の知る由も無く、毎日君の写真を抱き
楽しかりしあの頃を思い浮かべて居ります。
ではまたお便り致します。
愛しき妻へ」
前出のS曹長
やがて渡部大尉らに伝えられたのは、3月19、20日を希望日とした硫黄島千鳥飛行場への突入命令でした。
偵察情報によると、そのころ硫黄島に不時着しているB29は第一飛行場に4機、第二飛行場に3機のみ。B24及びB25爆撃機11機以外の58機は全て戦闘機でした。
この為め、空挺隊の訓練内容は小型機の破壊に切り替えられます。
しかし、遊撃戦不可能な小島への突入命令に中野学校組は困惑。
諏訪部飛行隊長も、“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていたそうです。
硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。
3月12日23時28分、奥山隊は土浦に到着。
11日には諏訪部隊も西筑波飛行場に集結し、1週間の準備期間と3日間の連合訓練を経て出撃に備えました。
しかし、まるで思い付きのように発案されたこの硫黄島突入作戦も、日本軍守備隊玉砕により中止となります。
渡部大尉は「1個中隊だと思って軽々しく取扱うな!(「帰らぬ空挺部隊」より)」と激怒したそうですが、失意のうちに奥山隊は再び川南へと戻りました。
隊員たちが、ギレツクウテイタイをもじって「愚劣喰ウ放題」という自虐的なニックネームを付けたのもこの頃の話。
「硫黄島の作戦が又も中止された。いよいよもって生恥ばかりかくことになった。
兵隊の中にはこの様を自嘲してか、「グレツ喰イホウダイ」というニックネームまで飛び出し、吾々の憐れさを自ら嘆いていた。
あまりに長年月に亘り道草ばかり食っている特攻隊である。
ホームシックにかゝるものも若干出てきたのも仕方のないことであった。
「こんどこそどうしたらいいのか」
流石の奥山隊長も少しやせたようだ。吾々百数十名は隊長のいうまゝであったが、これからどうなることかと心配になる。
皇軍の精鋭を誇ったものの、あわれさは益々つのるばかりである。
副隊長の渡部大尉は専ら航空総軍との連絡に当っていたが、中止ときまってがっかりしていられるようだ。
恥をしのんで帰るのはいやであった……。
3月末再び川南に帰還した。
ここでは無茶苦茶に訓練で気をまぎらしているだけである。
日曜は他隊と出遭うのが厭だったので、月曜日を休日にしてもらって……
奥山隊長の苦しみも、この頃では顔に現れて来ていた」
空挺戦友会誌より、和田曹長の証言
唐瀬原で待機を続ける義烈空挺隊員は、夕方に起床し、暗闇の中で夜間戦闘訓練や爆破訓練を繰り返しました。
中には、他部隊の兵舎へ忍び込んでイタズラを仕掛ける隊員もいたのだとか。
深夜の川南一帯に出没する義烈空挺隊を気味悪がって、空挺部隊の歩哨は彼等の動向に神経を尖らせていたそうです。
春を迎えた頃、戦況は絶望的となっていました。
4月になると、軍部は本土決戦を見据えた「決號作戦」の準備に着手。
陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われるようになりました。
沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
そのため、軍部は第154、156、212の各師団を宮崎各地に展開。
5月になると、米艦隊接近に備えて日向の細島、延岡の赤水、日南の油津などで第33及び第35突撃隊による震洋特攻艇や人間魚雷回天の夜間突入訓練も開始されます。
宮崎県内にある海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東及び西飛行場からも多数の特攻機が飛び立っていきました。
九州南部は、特攻と本土決戦の最前線となっていたのです。
その中に、川南の空挺部隊も組み込まれていました。
空挺作戦をしようにも輸送機は足りず、地上部隊として戦う外なかったのです。
川南の空に舞っていたパラシュートは、既に姿を消していました。
児湯郡都農には第212師団(通称菊池兵団)が配置され、隣接する川南の防衛も同兵団の担当となります。
「第212師団作戦計画
第1 方針
1 師団は第154師団(護路)と密に連絡し、都農北方畜台端を前縁として主抵抗陣地を占領し、敵上陸部隊を前方水際地帯に撃滅する。
唐瀬原地区に予期する敵空挺攻撃に対しては、所在航空部隊を併せ区処しこれを撃滅する。
富高、延岡方面には一部の兵力を配置し、海軍陸戦部隊を統合し細島水上(中)特攻基地及び富高航空基地の確保を重点として同要域を堅固に占領するとともに、所在特設警備部隊を併用し、敵の空海基地設定ならびに熊本平地に向う突進を阻止する。
2 状況によりその主力または一部をもって志布志方面、薩摩半島方面もしくは宮崎平地小丸川以南南地区に機動し、軍の決戦に参与しうるよう準備する」
藤野憲三「激動期の日本・川南開拓地に生きて」より
日本陸軍空挺部隊の本拠地である川南に対し、米軍側も空挺部隊で攻略してくると思われていたのですね。
しかし、「米軍上陸を迎え撃つ精鋭部隊」と称された菊池兵団の実状は酷いものでした。
物資・人材の不足により迎撃用陣地の構築は全く進捗せず、食糧や弾薬をチェックしたら1人当たり雀の涙ほどの備蓄しかない事が判明。
つまり、敵に第一撃を加えた後は撃つ砲弾が無くなるのです。
このような状態で菊池兵団がどうやって戦うつもりだったのか。
桜井徳太郎師団長は延岡から志布志をカバーする機動戦を考えていた様ですが、現地を見てそれが不可能だと知ったのでしょう。
下記のような証言が残されています。
「我々が現地着任早々に、第7部隊の結団式が商店街の竹乃屋で取り行はれ、永田聯隊長・中村平八郎大隊長・室積大隊長以下、将校以上全員の会合が開かれた。
当日の桜井師団長の作戦会議では下記内容の軍議で
方針
1 本土決戦に備え、持久作戦の準備として物心両面の充足を図らねば成らぬ。又敵の上陸作戦地は日向灘と予想される。
2 決戦兵団としての任務は、予想される敵上陸作戦に備えての陣地構築、迎撃準備は勿論長期交戦に備え、農家の援農は勿論、軍と言えども食糧増産、自給自足態勢の確立とともに、優秀種族保持の為、未婚兵員は結婚、人的資源の維持、増進も図らねば成らぬ。殊に独身将校は早期に伴侶を求めよ。
3 戦闘準備の為に目立つ物・光る物・音の出る物の調達の為の配慮をし、都農轟のトロ線を利用し、昼間は目立つ物、音の出る物、夜間は光る物、音の出る物を併用し、あだかも軍の大移動との欺瞞作戦を取り、敵の砲爆撃を促し、弾薬消耗作戦の準備に配慮すべし。
4 若し、敵が予想の如く日向灘都農に上陸作戦を開始し、橋頭堡を築かんとして上陸せし場合には、歩兵部隊をして名貫川を下向して、敵上陸部隊の後方より友軍の斬り込み再上陸をなさしむるが、迎撃作戦が失敗に終つても、第二次攻撃の弾薬の補給困難と思考されるので、歩兵部隊には言えぬが、其の折りには、迫撃部隊は彼我諸共に砲撃すべし。
であった」
「川南開拓の記録」より 元菊池兵団藤野憲三氏の証言
現在でも「陸の孤島」と揶揄される宮崎県平野部は、海岸線を制圧されただけで動脈たる国道10号線、日豊本線、港湾施設が機能しなくなります。海岸近くにある赤江や富高の飛行場も簡単に奪取された事でしょう。
オリンピック作戦が実行された場合、当初計画された水際撃滅や護路兵団との連携、ましてや機動戦など到底不可能。
兵站を絶たれ、制空権を奪われては、背後の山間部へ逃げ込んでのゲリラ戦しか抵抗の術はありません。
長期の抵抗は不可能と悟った菊池兵団では、米軍上陸部隊へ玉砕覚悟の側面迂回攻撃を仕掛ける積りでした。
宮崎県知事は米軍上陸作戦に県民が巻き込まれることを危惧しており
宮崎県警察本部の白川武夫警部を中心とした県民の大規模避難計画立案に取り掛かります。
「昭和二十年、終戦間際のこと。
私は県警察本部警防課勤務を命じられ、分室にスタッフ五名と共に通称「作戦室」を構成していた。
戦況が敗色濃くなった六月初旬には宮崎海岸に敵が上陸する公算大ということから、県民をいかに無事避難させるかが緊急課題となり、連日その計画案に頭を悩ませていた。
その腹案は、県内を交戦地区(米軍の艦砲射程圏)、臨戦地区(交戦地区の周辺)、避難地区(山間部)の三つに分け、交戦地区住民の住所氏名年齢を調査しておくこと。
また、避難地区については、畳の枚数、収容能力、輸送方法および順路などの青写真をつくっておかねばならない。
当時は自動車が軍に徴発されているため、荷馬車を使わねばならず、持ち出す荷物も一戸三十キロと制限する計画だった」
「平和の鐘」より 元宮崎警察署長白川武夫氏の証言
県庁地下室で練り上げられたこの計画も、軍部の二転三転する防衛方針に振り回されます。
漸く完成した避難計画が県内各市町村長へ公表されたのは、昭和20年7月30日のことでした。
住民避難計画のいっぽうで、地域住民で構成された郷土防衛民兵組織「国民義勇戦闘隊(20年6月制定)」の編成も着々と進められます。
ただし、民間人義勇部隊への武器弾薬の支給はナシ。
猟銃を所持していた人はマシな方で、手許にある農具や工具、果ては台所の包丁で戦えという無惨なものでした。
米軍が県北から熊本方面へ突破を試みた場合、西臼杵郡の住民が猟銃・竹槍やブービートラップで山岳ゲリラ戦を展開するという計画も本気で立案されています。
実際のオリンピック作戦計画だと、宮崎に上陸した米軍は延岡の手前で侵攻をストップ。鹿児島・宮崎を占領するだけで、九州北部への地上部隊進撃は行われない予定でしたけれど。
「本土決戦が行われたら米軍に多くの出血を強いた筈」という大層勇ましい論調もありますが、それでは日本側の「出血」はどうなるのでしょうか。
資源も枯渇し、制空権や制海権も奪われ、挙句は本土決戦の最前線ですらこのような有様だったというのに。
◆
「三月十八日、私はいつものように、モンペを着て防空頭巾と救急袋を肩から下げ、鞄を持って七時過に家を出ました。
玄関から五十メートルも歩いたでしょうか。ふと見上げると、海の方から鳥の集団のように飛行機がこちらに向けて来ます。
その時、山の方(※新田原飛行場)からも戦闘機がワァーッとたくさん飛んで来て、私の頭上のすぐ近くで空中戦が始まりました。
初めて近くで見る米軍の飛行機です。
急なことで空襲警報も出ていません。恐ろしいとか、危険だ、とかそんなものではありません。家に向って飛ぶようにして走るつもりですが、足はもつれて、なかなか動きません。帰りついた時には、何がどうなっているのか、何が始まったのか分らないのです。近所の人も、あわててウロウロしていました。
私の父は鉄道職員で駅に勤務でした。家には出産で里帰りしている姉と新生児が寝ていて、母は思案にくれていました。姉は起きることも防空壕に入ることも出来ません。母は姉の傍らにいるので私も部屋にいました。
その時、敵機の一編隊が町を攻撃し始めました。家屋に向けての機銃の乱射です。もうこうなったら敵機は飛行場も軍隊も民家も何の見さかいもありません。
ひどい機銃の音がしたので、母は大きなふとんをかぶって姉の上に覆いかぶさりました。私も同じようにふとんをあぶって、赤ちゃんの上にかぶさりました。
その時、パンパンと二発の音がして、私の家に当り、その一発が居間の鴨居をつき通し、かぶっている蒲団の周りをシューッと通って僅かにはみ出している私の足を貫通したのです。
まるで大きな鉄の棒で殴ぐられたようなショックで、足がちょっとピクッと縮まったみたいで、何とも変で妙な気持でした。
「アッ」と思って足もとを見ると、白っぽい、やわらかそうな、固いような妙なものが足の側に飛び散っていました。
その瞬間よく分らなかったのですが、私の足の肉片だったのです。血はそんなに流れていません」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校生 亀井麻子氏の証言
昭和20年3月18日早朝、九州南部に突如として米軍機1400機が襲来します。
都井岬や日向に設置されていた電波探知機は役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到していました。
沖縄侵攻への露払いとしておこなわれたこの奇襲攻撃を皮切りに、赤江、新田原、富高、都城西の宮崎県内各飛行場は凄まじい空襲に晒され続けます。無傷だったのは、草原と見間違えられて爆撃を受けなかった都城東飛行場のみ。
輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、遂に米軍機の標的となりました。
唐瀬原の給水塔にも、米軍機の機銃掃射による弾痕が刻まれています。

空挺給水塔に刻まれた機銃掃射の跡
空襲の激化と共に米軍の上陸作戦への備えが叫ばれ始め、陸軍省教育総監部ではアメリカ空挺部隊対処マニュアルも公布しています。
一、敵の空挺隊に對しては、全員一致して迅速に撃滅せよ。
一、監視は敵の爆撃を恐れぬこと、敵の降下を観たら人をやつて確めること(夜は人形でだます場合がある)。
一、連絡はお互に任務を定めて漏れのないやう、知らぬふりをせぬこと、騒ぎ立てぬこと。
一、報告は迅速なること、ありのまゝに地點と数を報告すること、豫行訓練を行ふこと。居合すものは直ちに猛烈に攻撃せよ。敵は着地前が最も弱點なり。果敢拙速なれ。
一、障碍は敵の降りさうなところに何でも利用して手軽に造れ。軍の工事に全員協力せよ。
一、要點=橋、倉庫、工場、駅などを護れ。郷土を護れ、これが國を救ふ途なり。

アメリカ空挺部隊本土侵攻への恐怖を記した証言が残されています。
「緊張した中、二〇年の四月の終り頃だったと思う。
可愛岳の上空の方から落下傘でアメリカ兵が降りてきた。
体調をくずして、午前中学校を休んでいたが、午後は行かねばと用意している時、空襲警報。
急いで近くの壕に飛びこむと「落下傘だ、落下傘だ」と、みんなが騒ぎ出した。「出るな出るな」と男の人達が叫び出した。
てっきり落下傘部隊が降りてきたものと思い「ああ、これまでか」と、悲壮な覚悟をした。
アメリカ機が空中戦でやられたのか煙をはいて海の方にむかっていく時、落下傘でおりてきたらしかった。
川坂の岩戸の田んぼの中に一人降り、村人につかまった。
仁瀬の消防倉庫の前に連れてきていた。
その時、はじめてナイロンという布地を見た(落下傘がナイロン製)。
ポケットに櫛や鏡、写真等入れていた。村の男の人達は伐採鎌やフォーク(農業用)、日本刀、とび口に鎌等持ってかけつけた。
「わんどん(お前達)が家の息子を殺したのだ」と、口々に肉親が戦死した悲しみを叩きつけていたが、傷つける人は一人もいなかった」
宮崎県北川町編「あの日あの時」より 矢野ウメノさんの証言
※この北九州爆撃途中に捕虜となったB29搭乗員達の通訳は、日系二世だった安賀多国民学校教師の栗田彰子氏が担当しています。
結局、彼女が切望していたカナダへの帰国は叶いませんでした。
延岡市が空襲に晒された6月29日。
校舎の消火活動にあたっていた栗田先生は、米軍の投下した焼夷弾の直撃を受けて亡くなられます。

日向市細島港に残る、第121震洋隊の特攻ボート格納庫跡。岩盤が硬すぎて掘削に失敗したため対岸の回天基地へ移動後、出撃前に終戦を迎えました。

宮崎空港周辺に7基残されている海軍赤江飛行場の掩体壕群(写真のものは、宮崎市の資料で「六号掩体壕」と呼ばれています)。
宮崎県沿岸部に対する米軍の攻撃は、空挺部隊にとっても深刻な影響を与えていました。
挺進司令部では、物資を川南や高鍋一帯の施設や防空壕へ分散秘匿。
更に分厚い鉄板を蓋にした地下壕を司令部の真下に掘って米軍の空襲に備えます。
装甲部隊の挺進戦車隊は都城市防衛のため三股町へ移動、各支援部隊も比島作戦へ出払っており、川南の空挺戦力は貧弱なものとなっていました。
空襲警報が発令される度、女性事務員や出入り業者と共に防空壕に逃げ込む日々。
いかに精鋭の空挺部隊であろうと、空を飛べなければ小規模の軽歩兵部隊に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行隊のうち、日本に戻ってきたのは僅か3機の輸送機だけだったのです。
「矢継早に言われる看護の先生に、わたしはウロウロするばかりでした。
「体育館がもえる。すぐ行って。早く早く」と大きな声。
「此所はいいから、行って」と看護の先生の声で我に返って、用水桶の水を汲んで走りました。
体育館の中には落下傘が山と積まれていて、その中がくすぶっています。水をかけたり、外に運んでいたら兵隊が来て「大切な品を水でぬらした」と怒るので、「自分達で管理して下さい。学校が火事になる所でした」と言い返しました。
この時は先生方もひどく殺気だった雰囲気でした。
相変らず、雲の中から敵機のにぶい音が不気味に聞え、生きた気持ちもありませんでした。
その夜は亡くなった生徒のお通夜に行きましたが、とても悲しく、淋しく、わけのわからない腹立ちさでした。
朝からグラマンがうるさい日でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言
決號作戦(本土決戦)に備え、川南の第一挺進團も本土防衛の必要に迫られます。
本土侵攻に先立ち、米軍は本州の九十九里浜と九州の志布志湾に空挺攻撃をかけると予測されていました。
それに対処するため、挺進團は挺進第一聯隊を千葉県の横芝へ派遣、挺進戦車隊を要衝の都城盆地へ差し向けます。
4個空挺聯隊のうち、川南に残されたのは挺進第二聯隊、そして出撃待機中の義烈空挺隊のみとなりました。
空挺部隊による唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。
一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。
その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す。
三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、對空部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊
四、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。
挺進團の指揮を離れ、第六航空軍の隷下となっていた義烈空挺隊は、米軍上陸に備える川南でも浮いた存在となっていました。
米軍の九州侵攻が現実味を帯びてきたこの頃、中野学校関係者が義烈空挺隊兵舎を秘かに訪問し、同期の辻岡少尉に、本土決戦に備えた地区特設警備隊の編成計画を伝えたと「帰らぬ空挺部隊」にあります。
この本土防衛計画へ組み込まれる前に、激化する沖縄戦への義烈空挺隊投入が検討され始めました。
4月1日から沖縄に上陸した米軍によって早々に制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、米軍迎撃機の発進拠点となり、多数の神風特攻機が撃墜されていきました。
両飛行場を破壊制圧すれば、特攻機が途中撃墜される危険もそれだけ少なくなります。
そこで、義烈空挺隊が北・中飛行場を制圧している間に、陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立てられました。
あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。
「お手のものの出動準備はまたたくまに終った。
川南駅から水前寺駅を経て熊本健軍飛行場へ向かった。ここで第一挺進団の隷下を脱し、菅原第六航空司令官の直轄となった。
攻撃目標は北及び中飛行場とのことだ。こんどこそ決行間違いない。毎日毎日飛行場攻撃の訓練が、真っ黒になって繰り返えされた。
突撃!突撃!
走れるだけ走って1機でも多く焼いてやるんだ。
此頃では熊本も毎日グラマンの銃撃を受けていた。吾々営外者は旅館の1室を借りて毎日部隊に通った。館主は吾々を見ると「兵隊さん、日本に飛行機があるんですか」「この戦争は一体どうなるんですか」との質問攻めである。
まさか「この飛行機をやっつけに征くのだ」とも云えず閉口した。
毎日新しい空中写真での研究である。
沖縄の地形は日を追って変ってゆく。
米軍の物量のほどを物語っている。
海上は沖の方が軍艦、その手前が輸送船、その又手前に海上トラック、上陸用舟艇と、海面余す処なく、沖縄は全く米軍の真中にある。夏の虫といった方が当っているかも知れぬ!
しかし一寸の虫には五分の魂があるという。
何が何でも今度こそは決行だ(義烈空挺隊第3小隊第2分隊長 和田曹長の証言より)」
「昭和二十年四月十日
愈々お別れの日が参りました。
何もかも、あの時のあの固い覚悟で……。
すべては神様のみ御存じの明日の運命。
人間、欲には限りありません。
上を見れば上には限りなく、また、下を見れば下にも限りありません。
僕達としては、今日迄生活できた事を感謝せねばなりません。
今こそ国家危急存亡の時。
わたくし事にばかり走っては居られません。
錦旗の元に馳せ参ずるは今です。
無理な事を申す様ですが、小生の心中もお察し下さい(義烈空挺隊第4小隊 S曹長)」
5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入ります。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着。
この頃になると、猛訓練の成果によって飛行隊の技量も大幅に向上していました。
「私は毎日、隊長の操縦する九七重に同乗した。
海上五メートルという超低空で訓練するので、波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸したとき鴎の死骸が入っていることも度々だった。
(別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦後史別巻4より、日本映画社藤波カメラマンの証言)」
「昼は暗幕の室に寝、夜になると飛び起きて飛行場に走つた。
飛行機や戦車、物資集積所の模型に對し暗がりの中で夜の明けるまで猛訓練を続けた。
後にはわが偵察機の航空写真により敵航空基地そつくりのものが作られ、従つて一つの目標に對する訓練の程度は白昼行動するに等しいほどの正確さをもつてなされた。
また飛行機のどこを爆破すれば一番効果があるか、戦車のどの辺に爆薬を噛ませればよいか、周到綿密な訓練が何百編何千編となく行はれた。
暗闇の中で隊員同士がお互ひの気配を分別するはおろか、一人々々の気配まで区別して闇の向うから歩いて来るのに「おい○○」と呼び掛ける。
敵の真只中に強行着陸し、味方討ちせぬためにはこれまで徹底した魂の交流が必要であつた。
空挺部隊の特色は敵の腹中に飛び込んで、心臓を掻き回す戦術を続けねばならない。
このためには敵の砲の操作までも覚え込むといふ廣範囲の訓練が別途になされた。
空挺部隊を讃へる「空の神兵」といふ言葉があるが、隊員は之をにやけた言葉だといつて嫌つた。
「空の神兵等をこがましい。おれたちは當り前のことをやつて當り前の人間らしく死ぬのだ」といつてゐた隊長奥山大尉は豪放磊落な強者、典型的な空挺隊員で、日頃から生死を超越した明朗さだつた。
「俺達は永生きせねばならぬ。
みんな身體だけは大事にせよ。敵中においても出来るだけ頑張つて一人でも多く一機でも多くやつゝける」
何時も隊員にかう訓示した」
「義烈隊勇士の神技」より 昭和20年
5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。
同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。
20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。
1.義号部隊を以て沖縄(北)(中)両飛行場に挺進し 敵航空基地を制圧し、其の機に乗じ陸海航空兵力を以て沖縄附近敵艦船に対し総攻撃を実施す。
2.北飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及同地周辺地区の軍需品集積所を攻撃す。
3.着陸後有力なる一部を以って敵司令部及通信所を急襲し、高級将校指揮中枢を崩壊せしむ。
4.爾後海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点附近の物資集積所を攻撃す。
5.中飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて同地周辺地区・物資集積所を攻撃し、爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
6.予定滑走路以外に着陸せる場合に於いても、速に担任地域に至り任務完遂に努むべし。
7.目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期はX日Y時と予定し青吊星を併用す。
8.3Fsは搭乗機毎に一組となり、各部隊と共に戦闘せしむ。
部隊は離脱潜伏後、力の続く限り北飛行場への斬り込みを繰り返す計画となっていました。
つまり、沖縄にいる第32軍との連携や合流は一切考慮されていません。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部飛行隊長はそれを断ったと伝えられているそうです。
沖縄出撃予定日の昭和20年5月23日、兵舎廊下の黒板には画像のように書いてあったそうです。

午睡のあとは報道取材があり、隊員達は記者に対して思い思いの言葉を残しました。
彼等の様子について、当時の新聞記事より。
「私達は兵舎の一隅で最後の撮影プランに入る。
午睡の時間か、静かなひととき。
チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。
奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がピシッ、ピシッと響いてくる。
木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。
あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった」
日本映画社演出担当 大峯淑生氏
「私は任官後内地の勤務ばかりで弾丸の下を一回も潜つたことがない。
今度が初陣、任務が任務ですから日本男子としての光栄これに過ぐるものはありません」
中飛行場攻撃部隊指揮官 渡部利夫大尉(秋田県)
「やりますよ、きつとやりますよ。沖縄は自分の郷里ですから何とかして敵を斬り倒して敵を殲滅して県民を安心させたいと思ひます。
(中略)
徴兵検査の時までこの土地で成長した。妻にも軍刀を一口呉れました。敵が来たらやるんだと。妻も元気で頑張つてくれてゐます。
これほど武運に恵まれた喜びはありません。私は立派に死ぬことが出来ます。
まあ沖縄に行つたら私が道案内といふ所ですね」
山城金栄准尉(沖縄県国頭郡。沖縄出身の義烈空挺隊員は、他に比嘉春弘伍長がいました)
「医学を勉強した私が何故軍人になつたかとよく聞かれますが、私は唯御国のために御役に立ちたいと思つてゐます。
恩師岡山勝博士は長岡の山本五十六閣下の隣の家で育つたさうです。この恩師は教育も医学も御国のために役立たせねば意味がないといつてゐる。
私はこの薫陶の御蔭だと思つて何時も感謝してゐる」
北飛行場敵司令部攻撃隊指揮 中野学校原田宣章少尉(満州國ハルピン市)
第○部隊
分隊長三浦歳一郎曹長(宇和島市)が地図を展げて部下に注意を与へてゐる。
「みなはぐれるな。着陸場所はこゝだ、分かつとるなあ。
着陸したら天蓋をはづしてすぐ外に飛び出る。飛び出たらペラ(※機体のプロペラ)に注意しろ。いゝか、疎開することを決して忘れてはいかんぞ。
この辺まで進んで手榴弾戦をやる。いゝな、もういはんでも皆分かつとるな。
ようし最後まで頑張るぞ」
奥山隊長室
幼年学校時代からの親友だといふ武井盆夫大尉(群馬県)が坐りこんでゐた。
武井大尉は爆撃隊としてこの日沖縄へ進攻したのである。
奥山大尉「きさまとは長い間の交際だな」
武井大尉「これが腐れ縁といふやつか。幼年学校の時からずつと同じ釜の飯を食つて来たのだから」
奥山大尉「同期生にもよろしくいつてくれ、元気で突込んだとな」
武井大尉「うん!」
奥山大尉「どころできさま、おれたちが突込むところをよく見て帰れよ、頼むぞ」
武井大尉「そいつだけは引受けた。おれに任せておけ。この次はきさまの骨を拾つて来てやるよ(爆笑)」
隊長はむしや〃するめを齧つてゐる。
武井大尉「きさまがさうしてするめを齧つてゐる図はどう見ても〃ヨイコ〃としか思へんわい、あはゝゝ…」
奥山大尉「こいつつまらぬことをいふな……」
武井大尉「きさま少し痩せたな」
奥山大尉「昔は二十二貫を軽く突破してゐたがなあ、だがこいつだけは確かだ」腕を撫して昂然!
編隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)は手紙を読んでゐる。
宇津木中尉「誰から来た手紙ですか」
諏訪部大尉「見たこともない御嬢さんだが、女子挺身隊の女学生らしいなあ。東京都多摩郡吉野村四八八、久保富子さんだ」
宇津木中尉「綺麗な字ですなあ」
諏訪部大尉「うん」(読む)
航空隊の勇士様達に負けないやうに生産に頑張ります。御安心下さい。
私達は勇士様達の飛行機を一生懸命に造ります。どうか私達の造つた飛行機で仇敵を撃砕して下さい。
そしてこの美しい皇土を護り抜きませう。
勇士様の武運長久を祈ります。
日向日日新聞「悠々たりし義烈隊勇士」より 昭和20年

出撃前夜、突入作戦の打ち合わせをする奥山隊長と義烈空挺隊幹部。
空挺戦友会の資料や残された編隊図等を見ると、義烈空挺隊は下記のような編成になっていました。
沖縄出撃の際は一部が変更されていたそうです。
北飛行場攻撃部隊(奥山道郎大尉指揮)
編成:指揮班、第1、第2及び第5小隊
全12機中の8機で突入予定
隊長機:奥山隊長以下指揮班搭乗
操縦担当:諏訪部忠一飛行隊長、川守田少尉
航法及び通信担当:小林少尉、長瀬軍曹
無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹
空挺隊員:尾身曹長、北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長
2番機:宇津木五郎中尉指揮(第1小隊長)
操縦担当:酒井少尉、長谷川曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:宮越准尉、谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長、
3番機:石山俊雄少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:新妻少尉、藤田曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:蟹田曹長、三浦曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長
4番機:原田宣章少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:町田中尉、岡本曹長
航法及び通信担当:瀬立少尉、石川伍長
空挺隊員:石丸曹長、松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長
5番機:菅田寿美中尉指揮 (第2小隊長)
操縦担当:菊谷軍曹、茂木軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:大浦曹長、佐藤曹長、藤村曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長
6番機:梶原哲巳少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:松尾曹長、岡本軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:今村曹長、大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長
7番機:棟方哲三少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:中原准尉、宮岡曹長
航法及び通信担当:青井少尉、今田兵長
空挺隊員:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長
8番機:山田満寿雄中尉指揮 (第5小隊長)
操縦担当:山本曹長、小川軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:伊藤准尉、高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長
中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮)
編成:第3及び第4小隊
全12機中の4機で突入予定
9番機:渡部大尉指揮 (第3小隊長)
操縦担当:久野中尉、荒谷少尉
航法及び通信担当:酒井少尉、簑島曹長
空挺隊員:山城准尉、池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長
10番機:熊倉順策少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:高橋少尉、小野曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:南曹長、森山曹長、和田曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長
11番機:村上信行中尉指揮 (第4小隊長)
操縦担当:吉沢曹長、水上曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、道上曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長
12番機:渡辺祐輔少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:木村曹長、小林軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:稲津曹長、新藤曹長(旧姓東郷)、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長
※11番機が渡辺少尉指揮、12番機が村上中尉指揮と記載されている資料もあります
中隊は五個小隊、小隊は二個分隊、分隊は三個班、班は三名編成。
飛行機1機につき正副パイロット各1名。
各小隊に特別任務将校各1名配属。
爆薬・帯状爆薬各班2名、其の他手榴弾、破甲爆雷。
各分隊に軽機関銃1、小銃5、擲弾筒1。沖縄にはハブがいる為、毒蛇の血清も携行しています。

出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原中将。
夕刻、出陣式を終えた部隊が飛行機に搭乗しようとしたとき、思わぬ事態が起きました。
予報によると23日は沖縄方面の天候回復とされていたのですが、先行する爆撃隊からは現地天候不良の報告が入り、続いて海軍の杉浦参謀からは「現地悪天候により総攻撃を一日繰り延べにする」との連絡があったのです。
第六航空軍は海軍から突然入った作戦延期の報に慌てます。
菅原軍司令官は急遽爆撃隊へ反転命令を打電し、出撃寸前だった義烈空挺隊は兵舎へと引き上げました。
翌5月24日。
先行の爆撃隊より現地天候良好の報告が入り、出撃は決定されました。
墨で迷彩を施した降下服をまとい、体中に弾帯や爆薬を装着した168名は再び健軍飛行場に集結します。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分から菊水第7号作戦を発動、特攻機は次々と飛び立って行きました。
奥山隊の犠牲は、本命の航空攻撃を成功させる為のものだった筈です。
しかし、結局陸軍と海軍の歯車は噛みあわないままでした。

●出撃前、それぞれ自分の故郷の方向に頭を下げる義烈隊員たち。川南空挺慰霊祭にて。
隊員達は出撃前、家族や世話になった人々に宛てて遺書を残しています。
奥山隊長の手紙は、母に別れを告げるものでした。
「昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様」
諏訪部飛行隊長は兄宛の手紙に「部下多数あり 宜敷く御願い致します」と飛行士32名の名簿を添えて送りました。
宮崎出身の隊員達が遺した手紙も記載しておきます。
「拝啓 御両親様
忠秋ハ本日敵飛行場ニ斬込ミマス
生前何一ツモ出来ズ申訳アリマセン
リツ、高坊ニハ呉々モ宜シク御伝ヘ下サイ
祖父母様ニモ宜シク御伝ヘ下サイ
其レカラ私物梱包一個軍刀一個送リマス
承知下サイ
二十四歳デ玉砕シマス
任官以来御世話ニナッタ方モ沢山アリマスガ略シマス
面白イ話モ沢山アリマスガ略シマス
附記
死後ノ処置ニツイテ
イ 金銭ノ貸借ナシ
ロ 婦人関係ナシ」
阿部忠秋少尉(宮崎県高岡町出身)
「おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。
私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。
私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。
どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。
最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。
愛機南へ飛ぶ。
乱筆にてさようなら(熊本で世話になった銭湯「極楽湯」の堤ハツさんに宛てて)」
谷川鉄男曹長(宮崎県日之影町出身)
「(妻の)写真と共に敵地にと思い居りましたが、
余りにも可哀想だから送りますれば、決して変に取らない様。
では、いつまでも元気でね。
僕も元気で行きます。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
五月二十一日夜」
新藤勝曹長(宮崎県川南町出身)
「作戦計画が決まり、奥山隊は最後の仕上げの猛訓練を続ける。
暗夜の誘導路を息の続くかぎり走る。
一人が敵機に爆薬を装着する。
妨害する敵を二人が攻撃する。
爆破手が倒れれば次の者がかわる。
合図は呼子で自由自在に進退する。
数名が一団となり他の部隊の兵舎に忍び込んだり、急に出現したり忍者そのもので気味が悪い。
私は陸海軍の訓練や演習をいく度となく取材してきたが、
こんな荒っぽい、しかも厳しい部隊は初めてだった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」より、日本映画社 大峯淑生氏
出撃に至る3日間、報道関係者は義烈空挺隊と寝食を共にして密着取材を行いました。
日本映画社時事製作局からは、7名の撮影スタッフが健軍に派遣されています。
「隊員達と起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。
窪塚カメラマンは“ひげのおっちゃん”と、親父くらいの年齢なので親しまれていた。
一番身体の小さい村瀬伍長は『韋駄天村瀬』の異名をとる二十歳の青年で、サントリーの12年ものを我々にすすめてくれたりした。
村上中尉は将棋盤を持って『一番願います』と私の好敵手だった。
飛行隊の長谷川曹長は、ひとなつっこい写真好きな青年で、撮影機を覗いて『見える見える、撮りますよ』と無邪気だった」
この長谷川道明曹長は民間パイロット出身で、出撃前に第3独立飛行隊の2番機機長に指名された人でした。
「妻子にも親にも秘密でしたからね。
『どちらへ行った?』『某飛行場、まあ九州方面』って言うだけでね。
何処へ行ったか判んなかったんですよ」
「塔は黙して語らず」より、長谷川曹長の遺族の証言
日本映画社の取材陣とは別に、健軍には従軍カメラマンの小柳次一氏も滞在していました。
数々の最前線で写真を撮り続けてきた小柳氏も、特攻隊の取材は辛かったと述懐しています。
出撃前夜、奥山隊長は“挺進殉国”と書いた色紙を「自分の心境です」と小柳氏に渡しました。
彼が撮影した写真には、笑顔で乾杯する宮越准尉や部隊最年長で沖縄出身の山城准尉、機内に乗込んだ新藤分隊長、小寺軍曹、宍戸伍長ら東郷分隊の面々、煙草を喫う熊倉少尉や和田曹長、お互いの階級章を外したり、整備兵に携行食料を分ける隊員達の姿が写っています。
中でも有名なのが、渡辺、町田、小林、新島、荒谷、川守田、酒井隊員らに囲まれ、隊長機前で奥山隊長と諏訪部飛行隊長が握手を交わしている写真ですが
「私は取材のとき、ノン・フィクションを建前にしていたが、奥山隊長の出撃機搭乗直前、諏訪部飛行隊長との握手を頼んだ(「別冊1億人の昭和史」より)」
と小柳氏が書いているように、これは最初撮り逃してしまったので再度ポーズを頼んだものだそうです。

●当時の写真より、出撃直前に握手を交わす奥山隊長と諏訪部飛行隊長。
「隊長同士……、
奥山さんが乗る寸前にですね、“すいません、そこで握手して下さい”って言ったら
奥山さんが“千両役者ですねえ”って言って握手してくれたもんだから
周りの兵隊さん、笑ってる訳です」
MRT宮崎放送「塔は黙して語らず」より 小柳次一氏晩年の証言
義烈空挺隊員たちは、出撃前の短い待機時間を思い思いに過ごします。
陸軍予科士官学校教官だった中村勇挺進団長の周りには同校出身の隊員が集まり、母校の校歌を合唱。
他の小隊でも、負けじと義烈空挺隊の隊歌「君は御空の特攻隊」を唄いました。
これは軍歌「さくら進軍」の歌詞を空挺隊向けにした替え歌で、隊員達によって愛唱されていたそうです。
1番(「さくら進軍」では5番)
咲いた桜が男なら
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け 桜花
八紘一宇の八重一重
2番(同3番)
明日は初陣軍刀を
月にかざせば散る桜
意気で咲け 桜花
俺も散ろうぜ花やかに
3番(同1番)
日本ざくらの枝伸びて
花は亜細亜に乱れ咲く
意気で咲け 桜花
揚る凱歌の朝ぼらけ
4番(同2番)
天下無敵の神兵の
姿頼もし花の空
意気で咲け 桜花
君は御空の特攻隊
君は御空の特攻隊
「我々一同、最後の一兵となるも任務に向かって邁進、もって重大責務を果たす覚悟であります。全員喜び勇んでいきます」
奥山隊長の号令の下、18時50分、12機の97式重爆に分乗した部隊は次々と健軍飛行場を離陸していきました。
しかし、9番機はエンジンが不調。急遽、渡部大尉らは予備機に乗り換えて出撃します。
10番機もエンジンが動かず、熊倉隊は渡部隊が乗り捨てていったエンジン不調機で1時間遅れて出撃しました。
出撃の様子については、当時の新聞でこのように書かれています。
「義烈空挺隊出撃の日は快晴であつた。
柔かい風がピスト前の吹流しを弄んでゐた。
いま勇士達にとつて、一番心配なことは沖縄上空の天気であつた。
だが、沖縄上空快晴に向かひつつあり、の嬉しい情報がピストに飛び込んだ時、基地はさつと殺気を孕んだのである。
今次作戦に際し奏上の際、陛下には畏くも本作戦に特に御嘉尚の御言葉があつた、との参謀総長から部隊長への傳達を部隊長から各部隊へ傳達され、勇士達の感激は極度に達した。皇軍はもう戦はずして敵を呑んだ。
『義烈空挺隊を中核とする航空総攻撃の壮挙にあたり、切にその成功を祈る』
部隊長の訓示は、後に続く義烈空挺隊を主力とする海空陸が一丸、一挙に沖縄の敵戦力を殲滅しようとする豪快放胆な総攻撃をいま決行しようといふのだ。
空挺隊の誘導隊として同基地を発進する爆撃隊の轟音が地を揺すぶつた。
空輸機の整備が完了した。
空挺隊の乗組みを待つばかりだ。
軍衣に淡緑色の迷彩を施し、重い装具をつけた空挺隊勇士は、静かに壮行の式場に車から降り立つた。
現地航空部隊長が勇士たちの前に立つた。
荘重な声で
『今はもう何もいふ事はない。
諸子の気持ちを察し、皇国の彌栄を讃へんが為に乾杯をする。
東方を向いて、大元帥閣下の万歳を奉唱する。唱和して貰ひたい』
杯を上げて万歳を奉唱する声の集団は、既に敵中に踊り込んでゐた。
隊長奥山大尉の杯になみなみと注ぐ、部隊長の笑顔は勇士達の『父親』の表情であつた。
『自分は余りいけないのですが』はにかむ奥山隊長は堂々たる体躯の隊長であつた。
『しつかり頼むぞ』『必ずやります』じつと見つめる部隊長と隊長。
空輸機の発動機も快調の轟音を響かし、砂塵は基地を吹き捲くつた。
出撃は迫つた。
『いいか俺について来い、最後の一兵まで任務に邁進せよ』
奥山隊長の凛烈の声が軍刀にきらりと光つた。
いよいよ出発だ。
『各分隊ごとに搭乗』
隊長奥山大尉の凛烈、火を吐く号令が轟々たる空気をかき消すやうに響き渡つた。
一機、二機、三機、爆撃隊が進発して行く。
続いて空挺隊を乗せた空輸機が―敵中に強行着陸、敵陣に斬込み、敵陣を引掻き回さうといふ空挺隊。壮烈鬼人も泣く―
言葉の彼方にある世界を何と表現し得られよう。
空輸機の機影も夜空に見えなくなつた。
飛行場にいつまでも機影を求めて空を仰ぐ部隊長、参謀長、隊長らの後姿……」
讀賣新聞「火を吐く号令 今ぞ義烈空挺隊は征く」より 昭和20年5月
「折からの夕日は翼を染めて一機また一機と飛び立つて行つた後、部隊長は奥山道郎大尉から手渡された小さな紙包を抱き抱へる様にしてピストへ帰つて来ると机の上にそれを置いて言葉もなくじつと見詰めた。
人々は隊長に倣ひほの暗い燈の下で同じ様にそれを見守り続けてゐた。
やがて沖縄本島の北、中飛行場に對する奇襲決行着陸に成功したとの報告が入り、更に北飛行場で敵の基地空軍力を根こそぎゆすり上げ、また中飛行場に對してもその特別攻撃が着々功を収めつつあるとの報告が矢継ぎ早に齎されるに至つて、紙の白さは見詰めるものの瞳に愈よまぶしく拡つて行つた。
部隊長が衝動的に立ち上つてそれを額に押しあてた。
中身はお金である。
義烈空挺隊の奥山隊長以下全員が、淡々たる別れの中に銃後に残して行つたのだ。
それは百円札からばら銭までがごつたに混つてゐた。
義烈空挺部隊は元々落下傘部隊としての降下訓練を永年受けて来た精兵中の精兵である。
沖縄決戦場にその機を迎へ、この基地に推進して来た。
しかし落下傘による降下でなくて空挺部隊として出撃するときまつた。
勿論それに何不足はないのであるが、敵飛行場に飛行機ごと殴り込むこの作戦には當然大切な輸送機を台なしにしなければならない、非常な残念さがあつた。
そこで一人重爆一機以上と突入訓練が開始された。一人一人が重爆一機の攻撃力以上の戦果をあげることによつてこの輸送機を失ふ痛手をとりかへさうと言ふのである。
十何種類の兵器を身につけて隊員達は基地を疾風の様に駆けめぐる訓練が熾烈を極めた。
最もめぐまれた条件の下に五月二十四日の夜を迎へた。
この日の朝、思ひがけなく義烈空挺部隊の原隊である落下傘部隊から部隊長がこの基地に訪れて来た。
そして出撃の直前まで行はれた部下達の烈しい訓練を観察してその成功を嬉しく信じたのであつた。
ずらりと居並んだ輸送機の傍まで来るとその翼をなでさする様にして「これを失ふのはたまらんなあ」と奥山部隊長を振りかへつた。
パレンバン、レイテ、そして今度の義烈空挺部隊と難局にその都度大きな石を投じて来た陸軍落下傘部隊には今や陸続として後輩が続き、来るべき日に備へてゐるのではあるが、ともすれば輸送機が不足し勝ちで訓練が十分に進まないのだ、輸送機が欲しいと部隊長の話を聞いて奥山隊長は唇をかんだ。
「さうだ自分が今度の作戦で敵は勿論味方まで圧倒させるほどの奮闘をするので、それが後輩たちの道を開いてやることになる」
と居合せた航空本部の某将校に語つたと言ふが、それでもなほ奥山隊長の気持はすまされなかつたのであらう」
日向日日新聞「空挺隊の尊いお金」より 昭和20年
中村挺進団長は、機体に乗込む奥山隊長を呼び止めました。
大尉の階級章はもう不要だろうから残していくように、と。
「そうですな!沖縄に行けば一躍軍司令官ですから」
階級章を外しにかかる奥山隊長に、団長は「何かお母さんに」と更に引き止めます。
奥山隊長はズボンのポケットを探り、取り出した印鑑と襟から外した階級章を中村団長へ手渡しました。
これが、奥山隊長の形見となったのです。
12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に5、8、10、11番機がエンジン不調や航法ミスにより脱落、これら4機は九州へ反転しました。
渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。
この10番機は何とか隅の庄飛行場に滑り込みましたが、その他の反転した機体は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着しました。
八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、水面で減速できないまま橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職します。
◆
沖縄へ向かった残る8機からも、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線連絡はありません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今突入」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。
同時刻、沖縄上空では飛行第60戦隊の杉森大尉機(乗員7名)が残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。
待ちに待った知らせに健軍基地は沸き返りますが、この入電を最後に義烈空挺隊からの連絡は途絶えました。
ただ、着陸体勢に入った6機の赤信号は戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が22時25分に視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、パニック状態で緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。
「沖縄の戦況情報が流れる。米二世を交えた特情傍受班が敵方の無線電話を邦訳して放送しているとの事であった。
「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」
次々と敵飛行場の混乱が報ぜられた。
その時「大牟田近郊に不時着せる特攻機1炎上中」「隈府に特攻機1大破」「三角附近不時着1機あり」と矢継ぎ早の連絡だ。
流石の菅原将軍も一寸当惑された様であった。
「引返機の処理は私の方でやります」との中村大佐の申し出に「よろしく頼む」との返事。
木下大尉の東奔西走で手際よく処理が進められた。事故機は後で判明したのであるが
1859(熊倉少尉高橋少尉機)1922(山田中尉機)1840(村上中尉機)後で更に1機が追加せられた。
引返機の原因は二機器材、二機航法と航空軍は調査報告している」
空挺戦友会資料より
この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。
着陸後の通信を担当する筈だった一番機搭乗の辻岡少尉ら無線班が全滅したことで連絡は途絶。
以降、義烈空挺隊の戦果については航空偵察と海外報道から得た情報から推測するしかありませんでした。
一、空挺部隊は進航途上における哨戒、目標周辺における敵夜間戦闘機の邀撃ならびに飛行場付近における熾烈な對空砲火を突破して北、中飛行場に敢然着陸成功したのは午後十時半であつた。
二、着陸と同時に全員勇躍まづ在地敵機を焼却破壊、同行爆撃機は空挺部隊の着陸ならびについで続々敵機の炎上する光景を確認して帰還した。
三、敵は大混乱に陥りその在空戦闘機は飛行場着陸不能なため或は母艦に着陸を企て海中に墜落し、或は不時着するなど自滅したもののやうである。
四、在地敵機を焼却した挺進部隊はついで所在の司令部、集積所に突入しこれが尽滅を期し敢闘中である。
五、空挺部隊並に爆撃機により沖縄基地航空力を撃破制圧せる機会に乗じわが特攻隊はどし〃沖縄周辺の敵艦隊に突入中であり、すでに二十五日午前中に體當りを報告した特攻機は次の四十機に達してゐるが、無電装置のない特攻機の體當りは報告に含まれてゐないので敵に与へた損害は甚大なものがあると思はれる。
「空挺部隊 敵司令部へ突入」より 昭和20年5月
廿四、五日の特別総攻撃が最高潮に達するころ、沖縄付近の天候はふたゝび急変した。二十五日朝の沖縄は雲高五百、視程十キロで、徳之島以南は小雨が降つてゐた。さうしてところによつては雨雲が海面すれ〃にまで垂れ下り、雲状況は八千四五百に達する厚い密集の壁を作つてゐた。
義烈空挺隊と特別攻撃隊を主軸とするわが航空部隊の主作戦がこの悪天候を冒して強烈につゞけられた。
雲の壁に阻まれて戦果の確認は困難を極めてゐるが、同日夕地上友軍部隊から入つた情報によると、二十五日は本島上空には終日敵機影を認めず、強行着陸を敢行した義烈空挺部隊の肉弾攻撃が熾烈拘束の目的を完全に達成したことを物語つてゐる。
現在なほ義烈空挺部隊と敵軍との間に砲戦が交へられてゐる模様である。
わが空挺強襲の際、本島北飛行場八箇所に大爆発を起して使用不能に陥つてゐた。
當時この飛行場にはP51、P47を主力にグラマンと少数の大型機を含む約三百機の敵機があり、義烈部隊の着陸當時、そのうち相當数が旋回に上つてゐたとしても地上において爆砕されたものが多数に達したものと判断される。
また中飛行場はその後なほ暫らく活動してゐたが、やがて滑走路に大爆発が起り、北飛行場よりやゝ遅れて機能を停止した。
陸海軍爆撃隊によつて行はれた伊江島に對する夜間爆撃も同飛行場の八箇所を炎上させ、若干の誘発を起したことも認められた。
一方振武神風特攻隊の大挙出撃は、前記の作戦より数時間をずらして實施された。徳之島以南の天候急変にぶつかり、一部攻撃を阻害されたものもあるやうだが、大部分は密雲を突切り雨の中を匐つて海面すれ〃に目標上空に到達、同日午前中に判明したものだけでも空母一、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、輸送船一、艦種不詳四に體當りを敢行してゐる。
悪天候に海上捜索が困難なために戦果はなほ確認されてないものが多いが、最終的にはなほ正確な偵察の結果を待たねばならぬ。
朝日新聞「義烈空挺隊、敵と砲戦」より 5月29日
このように義号作戦については各方面で発表されましたが、そのうちのひとつ、讀賣新聞掲載の「月光下、天降る神兵」では下記のような内容になっています。
勿論、記者が沖縄特攻に同行取材した訳ではありませんので、突入後の描写は大本営発表等を元にした創作です。
「すなはち悪天候の間、満を持して待機してゐた各飛行部隊は晴天の訪れと共に一斉に襲撃を開始、沖縄戦場に猛然と殺到して行つた。
二十四日前夜半戦闘隊の掩護の下に、まず飛龍爆撃隊が出撃、伊江島基地を主目標として北、中飛行場の三飛行場を急襲。
同夜は一晩中少数機による波状攻撃を繰行し、敵三基地を拘束した。
敵基地空軍の制圧成るとみるや、突如奥山隊長の指揮する義烈空挺隊が行動を起し、北、中両飛行場に強行着陸を敢行した。
輸送機から踊り出した義烈隊員は直ちに在地敵機を求めて散開した。
偽装も遮蔽も無い敵機の位置はすぐにわかつた。
義烈隊員は脱兎のごとく身軽に敵機にかけつけるや、携行の新兵器を素早く駆使して敵機をもたゝく間(原文ママ)に破壊または炎上させてしまつた。
阿修羅の如く縦横無尽に暴れ回る義烈隊員の姿は、折柄十三夜の皎々たる月光に照し出されて凄愴を極めた。
忽然と出現した義烈隊員の奮闘ぶりに敵は茫然自失、一時は射撃も忘れてしまつたほどで、義烈空挺隊および飛龍爆撃隊は月光下に思ふ存分敵基地を蹂躙し、その機能を死滅させ、北、中飛行場はつひに使用不可能となつた。
この敵基地航空殲滅作戦に引続き、二十五日黎明には飛龍特攻隊が勇躍進発した。
飛龍特攻隊は昇る朝日にその両翼を輝かせて嘉手納沖に進撃、我が地上軍に砲撃を加へてゐる敵戦艦に対し猛烈な体當り攻撃を敢行した。
如何に戦艦といへども飛龍の抱く大型爆弾の必中を食つてはひとたまりもなかつた。
戦艦護衛の駆逐艦は慌てゝ逃げ惑ひ、右往左往する輸送船と衝突するものさへあつた。
飛龍特攻隊の進入とほゞ時を同じくして各その基地からは飛燕、破邪、山吹、九段、葉隠、悠久、降魔、天誅、櫻花など、振武特攻隊の各隊は一斉に発進した。
前線基地に待機中の振武隊はこの好機を掴んで全機敵艦船目がけて突入した。
○○梯団(検閲による伏字)に分れた振武特攻隊は各梯団、各距離、間隔、高度差を効果的に保持しながら
厖大な幅と厚みと深さとを持つ立体的構成をもつて肉薄した。
未だかつてみない多数機の堂々たる立体翼陣の波状進撃である。
邀撃に舞ひ上つたわづかの敵戦闘機群はその威容に圧倒され施す術もなかつた。
振武隊は敵戦闘機の抵抗を受けなかつた。また敵艦からの対空射撃もなかつた。
このやうに振武隊が敵の妨害なしに目標上空まで進入することが出来たのは初めてのことであつた。
飛龍爆撃隊ならび飛龍特攻隊さらに義烈空挺隊の事前空襲の効果は十分であつた。
たゞ海面だけがぎらぎらまぶしく光つてゐた。
そして嘉手納沖から糸満、湊川にかけておびたゞしい敵輸送船が死んだやうに横たはつてゐた。
二、三日前に到着した敵船は軍需品を満載してゐた。
振武隊にとつて絶好の目標である。
絶好の機会であつた。
振武隊から発進する突入信号は、雀躍りするやうにこの基地の無電室にはづんで来た。
(中略)
この特別総攻撃の結果、物量依存の敵が絶対不可欠とする海と物の必需限度以上を瞬時に失つたに相違ない。
混乱と狼狽の壁にぶちつけられた敵陣営の悲嘆こそいかばかりであらう」
これが発表されたのは昭和20年5月27日。
同じ日の14時10分、米軍の放送は下記のように伝えています。
「強行着陸した日本軍全滅。本日10時以降北飛行場の使用支障なし」
◆
奥山隊がどのような最期を遂げたのか。
翻訳した外国の報道によって、日本側も大まかな状況を把握していました。
リスボン二十六日発同盟
グアム島からのエーピー電は二十六日に至り右事實を初めて確認すると共に攻撃の模様を次の通り傳へてゐる。
「日本航空部隊が超低空から機銃掃射を加へる間に、日本軍の双発機は飛行場に強行着陸した。
飛行機の中からは日本兵が月光を浴び、相次いで飛出し爆筒と手榴弾をひつさげて飛行場に並んだ米軍飛行機を次々に攻撃して火を放つた」
一方ニミツツ司令部は二十七日公報で
「日本軍は空陸呼応して過去数週間中最も熾烈な攻撃を沖縄本島の米軍に加へて来た。
日本特攻隊の攻撃は今次戦争開始以来最も強烈なものであつた」と述べ、日本特攻隊並に航空部隊の奮闘を裏書してゐる。
昭和20年5月29日
チユーリツヒ三十一日発同盟
沖縄本島の北、中飛行場に挺進強行着陸したわが義烈空挺隊は米軍の空軍基地を大混乱に陥れ、多大の戦果をあげたが、パリ来電によれば、ヘラルド・トリビユーン紙パリ版は五月二十六日沖縄発同紙特電としてわが空挺部隊の敵飛行場着陸刹那の凄肝な情景を次の通り打電してゐる。
二十五日夜日本軍の空挺部隊は突如として沖縄の米軍飛行場に強引に着陸を強行した。
折柄飛行場の滑走路には数百機の飛行機がおかれてゐた。この群る飛行機の真只中に双発の爆撃機に分乗した日本軍空挺部隊が着陸したのだ。
基地司令官の一人スミム中佐の推定によると、日本兵は飛行機一台に十二名乃至十五づつ分乗、この飛行場に着陸した彼らは何れも手榴弾、爆弾その他放火兵器を所持し、更に数日分の食糧を携へて来たらしい。
一台の日本軍爆撃機は米軍の輸送機と戦闘機が群り集まつてゐる真只中に見事着陸、間髪をいれずその中から十五名の日本兵が躍り出した。
着陸地から百ヤードと離れてゐない司令塔にあつた當直の一将校は直ちに日本兵に對して急射撃を加へ、塔の下まで迫つた日本兵を打ち殺したが、彼自身も胸に貫通銃創を受けて逃げた。
日本軍航空部隊はこの空挺部隊の攻撃と相呼応して同夜米軍飛行場を猛烈に爆撃したが、その爆撃は沖縄作戦開始以来最も長時間に亘り実に八時間続行された。
昭和20年6月2日

米軍撮影の写真(焼き増し)より、読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
その詳細は長い間不明だったそうですが、戦後発表された米軍の記録によってようやく明らかとなりました。
「日米最後の戦闘」等には、概略下記のように述べられています。
「5月24日は海岸及び沖合いの艦船に対する日本軍の来襲は頻繁となった。
24日の晩、天空は澄み渡り、満月で爆撃には最適であった。
20時に発令された空襲警報が解除になった24時迄の間、日本軍の来襲を重ねること7回に及んだ。
第1回目に来襲した数機は読谷・嘉手納の両飛行場を爆撃し、第3、4及び6回目の来襲群も飛行場に対する投弾に成功した。
第7回目の来襲群は双発爆撃機5機から成り、22時30分頃伊江島方向から読谷飛行場に低空で侵入してきた。
対空中隊は直ちにこれを邀撃し、うち4機は炎上しながら読谷飛行場付近に墜落した。
しかし、5番目の飛行機は指揮塔から約250フィート東北から西南に伸びた滑走路に胴体着陸した。
滑走を終えないうちに約10名の完全武装兵がこの機から躍り出て、滑走路に沿って配置してある飛行機に向かって手榴弾及び焼夷弾を投げ、更にその一帯を小火器で掃射し始めた。
この為、コルセア2機、C-54輸送機4機、プライバティア1機が破壊され、その他26機が損傷を被った。
日本軍の挺進攻撃によって想像を絶するような混乱が基地内に惹き起こされ、小銃機関銃火が乱れ飛び、米軍に多数の死傷者を出した。
日本兵は損傷した輸送機に隠れて手榴弾を投げ、これにより足を吹き飛ばされた海兵隊員を含め18名が負傷し、管制塔勤務のケーレー中尉は負傷後死亡した。
この攻撃により、総計33機の破壊損傷機を出した他、7万ガロンのガソリンが炎上した。
23時38分には増援部隊が読谷飛行場に到着、飛行場勤務部隊を支援し、更に来襲を予想される日本軍空挺部隊に対する配置についた。
調査の結果によれば、胴体着陸機の日本兵10名が読谷飛行場で戦死し、他の3名は飛行機内に於いて対空砲火の為戦死を遂げていた。
撃墜された4機には各々14名の兵士が搭乗していたが、遺体は何れも墜落炎上した飛行機内に散乱して発見された。
海軍設営隊によって埋葬されたこれらの日本軍戦死者は69名を数えたが、捕虜になったものは1名もなく、ある者は自決した。
25日0時55分、残波岬で1名の日本兵が道路から藪に這い込もうとしたところを射殺されたが、おそらく空挺部隊最後の1兵士であったのだろう。
読谷飛行場は、滑走路上に散乱した破壊物の破片の為、25日8時まで使用できない状態であった。
空挺部隊の攻撃と同時に日本軍機が伊江島飛行場に来襲した。
この爆撃は飛行場に対し直接大損害を与えなかったが、米軍は60名の死傷者を出した。
この夜、空中攻撃によって日本軍機11機を沖縄で、16機を伊江島上空で撃墜した」
北飛行場へ向かった8機中、1機が着陸に成功、被撃墜4機、不明1機、途中帰還2機。
中飛行場に向かった4機中、途中帰還2機、残る2機は不明。
12機中僅か1機しか着陸できなかったにせよ、その1機の為に北飛行場は大混乱に陥りました。
それだけ見れば、ある程度の戦果はあったと言えるのかもしれません。
しかし、奥山隊の死闘空しく、主目的の航空攻撃は梅雨時の悪天候により失敗します。
こうして義号作戦は終了。
1名の飛行士が敵中を突破、6月12日頃に第32軍と合流したとも伝えられていますが、真偽の程は不明です。
いずれにせよ、沖縄へ突入した8機112名の中に生還者はいません。

同じくアメリカの絵葉書より、上と同じ義烈空挺隊機の写真(別角度より撮影)。胴体側面に空いた搭乗口から、空挺隊員たちが飛び出していったのでしょう。
現地第32軍の八原博通作戦参謀は、義号作戦について戦後このような感想を述べています。
「五月二十四日夜の義烈空挺隊の北・中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防衛戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。
むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北・中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遥か北、中飛行場の方向にあたって、火の手が揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して、感動を久しくした」
……。
突入後、米軍が撮影した映像や写真には、着陸・撃墜された97式重爆と破壊された米軍機の残骸、そして死闘の末に斃れた義烈隊員達が写っています。
出撃直前に撮影された、妙に和やかな雰囲気の隊員達と
それから数時間後の無残な結末の映像は
ひと繋がりの出来事だと理解はしていても、見比べて言葉を失います。
◆
突入した8機の隊員は全滅しましたが、途中帰還した残る4機の隊員の中にも、再度の出撃を命じられた者達がいました。
まず、山本金保曹長ら不時着機のパイロット全7名が物資輸送任務に指名されます。
彼等は5月28日と6月3日、再び沖縄へ飛び立ち、全員が戦死していきました。
一方、奥山隊の不時着組48名は第1挺進團の各隊に復帰しますが、そのうち熊倉順策少尉(隅之庄不時着)や、酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは再度サイパン特攻作戦に関わることとなります。
これは海軍特別陸戦隊(S特部隊)と協同で行う「剣号作戦」と呼ばれるものでした。
義烈空挺隊の母体である挺進第1聯隊は、米軍の九十九里浜上陸に備えて4月に千葉の横芝へ移動。
その挺進第1聯隊に、二度目の特攻作戦が命じられたのでした。
山田挺進第一連隊長により、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」が編成されます。
園田隊として、挺進第1連隊第1中隊(山本章太郎大尉指揮)及び第2中隊(大屋稔大尉指揮)の305名が海軍総隊司令長官の指揮下に入りました。
サイパン特攻部隊は、空襲を避けるため千歳に移動して訓練を開始。
これらの陸海軍混成特攻部隊は「天雷特別攻撃隊」と命名されます。
天雷特攻隊は、義烈空挺隊同様に敵飛行場への着陸強襲部隊として編成されていました。
「剣号作戦に参加した義烈空挺隊出身者は、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった」とも言われていますが、詳細は不明です。
剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。
「海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり
「烈作戦」
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり(「特攻」より)」
海軍グァム島攻撃隊
指揮官 平田海軍少佐
攻撃隊員 300名
陸軍攻撃隊
指揮官 園田直陸軍大尉
サイパン攻撃隊 大屋稔大尉以下第2中隊136名
テニアン攻撃隊 山本章大尉以下第1中隊150名
陸軍園田隊が参加後には、下記のような作戦内容に変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。
情報収集の為、敵飛行場への偵察飛行が繰り返され、撃墜された米軍飛行士を千歳に移送して、各飛行場の詳細な状況の訊問も行われました。
広大な飛行場に素早く展開する為、オートバイ数台と自転車が掻き集められ(オートバイは重過ぎて使用中止)、入手した米軍パイロットのサバイバルベストを参考に、爆薬携行用のチョッキも作製されたとか。
其の頃、義烈空挺隊の出撃を撮影した小柳次一氏も、軍報道部から作戦への同行取材を強要されてこれを拒否。怒鳴り合いの喧嘩になっています。
民間人カメラマンを特攻に出そうとする方がどうかと思うのですが、しかし、追い詰められていた軍部ではそんな事に構っていられなかったのでしょう。
徴兵してやるぞと息巻く相手を知り合いの軍人がなだめ、小柳氏には大陸へ身を隠すよう進言してくれたそうです。
この頃、天雷特攻隊とは別に、挺進第2連隊と挺進戦車隊から選抜された滑空飛行戦隊48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」も計画されていました。
挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
川南で待機を続ける挺進戦車隊は、3月18日に宮崎を訪れた三笠宮殿下の巡察を受ける予定でした。
しかし、当日朝から始まった米軍機の奇襲攻撃によって三笠宮一行は紫明館から八紘台(現・平和台公園)の重砲兵隊地下陣地へ避難。
ようやく空襲が終った20日夜に挺進戦車隊と空挺隊員は宮崎神宮へ移動、三日間地下に籠っていた三笠宮の前で、遭遇戦における協同演習を披露しました。
この頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。
義烈空挺隊に続く沖縄襲撃作戦の指揮官は田中賢一少佐。
まずは広田敏夫大尉以下20名が選抜され、曳航機20機とクー8滑空機20機編隊で敵飛行場に夜間着陸後、37粍機関砲と12糎迫撃砲を搭載した軽装甲車で米軍機を破壊して回る訓練が行われています。
烈號部隊の空輸チームは北朝鮮の宣徳で訓練を行い、出撃に備えて福生へ移動。
グライダーの配備が遅れたため、作戦決行は8月20日頃の計画でした。

訓練中の挺進戦車隊。川南空挺慰霊祭にて。
高千穂空挺隊や義烈空挺隊の悲惨な前例を見るまでも無く、天雷特攻隊や滑空飛行戦隊の強襲作戦も、余りに無謀なものでした。
7月14日に予定されていた剣号作戦は、輸送機を空襲で失って延期となります。
「かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である」
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より
しかし、剣號部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

陸軍空挺部隊の終焉。
それは、軍都川南が開拓地へ再生するための第一歩でもありました。
(第六部へ続く)
もうこの頃は日本が降伏するとは思わなかったが、戦の前途に勝利の希望は持てず、いずれこの南九州も戦場になるだろうと思っておりました。
なお空挺隊といえば新田原にいた時、唐瀬原の空挺隊の降下訓練をよく見ており、また外出先の高鍋や妻(※現在の西都市)でよく彼等に逢って訓練の苦しさをグチられた事を思い出します。
「埋もれた青春」より 陸軍少年飛行通信隊 中島昭次氏の証言

●読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊突入機(この機体は予備機でした)。
(第四部からの続き)
12月6日からおこなわれた高千穂空挺隊レイテ島降下作戦は、このようにして無残な結果に終わりました。
高千穂隊に続いて、12月24日には別の部隊が空挺作戦を計画しています。
その名は「義烈空挺隊」。
米軍制圧下のサイパンへ強行突入する為に編成された、事実上の特攻部隊です。
パレンバンの栄光は輸送船沈没事故の為に挺進第2聯隊へ譲り、挺進第3、第4聯隊はレイテ降下作戦へと赴く中、ラシオ、ベナベナ・ハーゲンと戦機を逸し続けた挺進第1聯隊。
義烈空挺隊は、その第1聯隊から抽出されたコマンド部隊だったのです。
昭和19年6月15日、サイパン島に米海兵隊が上陸を開始。
その夜、島内に駐屯していた海軍空挺部隊の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊は反撃を試みました。
しかし、砲爆撃で掘り返された地形を突破するのに手間取った挙句、米軍の阻止線に引っ掛かって一夜で壊滅。
サイパン島守備隊も、昭和19年7月7日の総攻撃を最後に全滅しています。
日本軍守備隊玉砕後、サイパン島アスリート飛行場にはB29が配備され、本土爆撃の前進基地となりつつありました。
陸海軍はサイパンへの長距離爆撃を繰り返したものの、満足な戦果を上げることができなかった為に空挺部隊による敵飛行場への突入案が検討されます。
立案されたのは、夜間に輸送機ごとアスリート飛行場へ強行着陸し、駐機中のB29を爆砕しようという作戦でした。
クリスマスを選んだのは米軍が油断していると思われた為。
落下傘降下させてから引き返すと帰りの燃料搭載分空輸できる兵員が減るので、飛行機もろとも着陸したほうが良いという考えだった様です。
調達可能な輸送機の数から、部隊規模は150名前後が適当と判断されました。
「特攻」といえば神風や回天のような自爆攻撃のイメージがありますけれど、生還を期待しないという意味ではサイパンへの空挺作戦も特攻と同じ。
地上部隊との連携が前提だった高千穂空挺隊とは違い、敵の制圧下にある島へ空挺部隊単独で突入するのです。
余りにも無謀な作戦でした。
レイテとルソンの戦いに赴いた挺進第3、第4聯隊および滑空歩兵第1、第2連隊とは別に、無傷で川南に温存されていた挺進第1および第2連隊を中心とする空挺部隊群。
しかし、その2コ空挺連隊を活用する術など守勢に転じた軍部にはありませんでした。
せっかく育て上げた精鋭部隊はコマ切れにされ、悲惨な特攻作戦に使われ始めたのです。
サイパン特攻部隊は、その先駆けとなる筈でした。

●宮崎県川南町唐瀬原に残る挺進第3連隊兵舎給水塔。
義烈空挺隊は、レイテ出撃中の第3連隊空兵舎を拠点としていました。
薫空挺隊のブラウエン突入が失敗に終わった翌日、昭和19年11月27日。
教導航空司令官から宮崎県川南の挺進練習部に対し「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されました。
この攻撃隊の指揮官には、挺進第1聯隊第4中隊長の奥山道郎(みちお)大尉が指名されます。
各挺進連隊の第4中隊は、破壊工作を目的に工兵出身者を集めていました。
B29を爆破する為、サイパン特攻部隊として爆薬の扱いに長けた第4中隊が選ばれたのです。
奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
人員を補充再編した第4中隊残留組の指揮は浪花実大尉に引継ぎます。
「特攻隊員は全員志願のうえで出撃して行った」
などという“美談”は、義烈空挺隊のケースでは通用しません。
この「特攻隊」は、神風隊員のような志願制の体裁すらとっていなかったのです。
編成時に第4中隊で真相を知っていたのは、奥山中隊長、浪花大尉(後任中隊長)、宇津木、菅田、渡部、村上、山田の各小隊長のみ。
情報を秘匿するため、隊員らは自分たちが何処へ出撃するかを教えられませんでした。
「部隊の強味は選抜して編成したのではなく、私の部隊そのまゝが挺進部隊として成長したことである。
隊員はすべて十分に訓練を積んだ若武者ばかりですが、各隊長をはじめ隊員同志は直に家族のやうな愛情と團結のうちに苦労してゐたのが何と言つても心強いです」
日向日々新聞より奥山隊長の談話 昭和20年
「要するにまあ、何かやらにゃあいかん、という考えでしょうね。
あそこ(サイパン)へ行ってね、
誰が考えても、百名足らず飛行場に降ろしてパンパンやったってね、
一週間経ちゃあまた元に戻るんですから。
後続部隊も行かんですしね」
MRT宮崎放送「塔は黙して語らず」より、挺進第1連隊第4中隊長(後任) 浪花実氏の証言

第4中隊の指揮を浪花大尉に引き継ぎ、「特別演習参加」名目で奥山隊が宮崎県から埼玉県豊岡へ移動したのは12月5日の事でした。
移動前には衛生隊員が全員から注射器で抜いた血で「血判状」を取った為、隊員達も只の演習ではない事に気付いていたそうです。
しかし、豊岡の航空士官学校で作戦内容を知らされるまでは、まさか特攻隊に選ばれたとは思いもよらなかったのでしょう。
空挺部隊は危険を承知の上で任務に就きますが、死を目的に訓練してきたのではありません。
死ぬことを命じられた隊員の間には動揺が広がりました。
その直後、11月に結婚したばかりの曹長が、思い悩んだ末に自分の右足を銃で撃ち抜くという事件を起こします。
部下を指揮すべき分隊長の自傷行為に、同僚の曹長達は激怒しました。
「私ら同年兵ですからね。
ほんで、私ら怒ったんですよ。
我々より下の13年、14年、15年兵が居るやないかと。
それに貴様がね、そんな事をするんだったらね、
俺達はね、言いたくないんやけど貴様を飛行場で殺す、と。
死体を飛行機積んで向う(サイパン)行くっちゅうたんですよ」
「塔は黙して語らず」より、和田伍朗曹長の証言
和田曹長らは彼の行為を諫める一方で、10名程いた妻帯者を隊から外すよう意見具申しました。
「“奥山隊長、少数精鋭でいきましょう”と。
そうせんとやね、奥さんや子供のある人はね、可哀想だと。
だから、もう(妻帯者は)外せと言うたんですけどね。
“でもなあ和田、お前はそう言うけどね、そう言う訳にはいかんぞ”と(〃)」
この件については奥山隊長も最後まで悩んでいたそうですが、却下せざるを得ませんでした。
小隊長・分隊長クラスに既婚者が多かった為、指揮系統を保持できなくなる恐れがあったのです。
結果として、奥山隊からは1人の隊員も脱落していません。
しかし、奥山隊全員が平然と特攻を受け入れた訳ではないのです。
鍛え抜かれた精鋭であっても、彼等は感情を持つ人間なのですから。
埼玉県では、サイパン出撃に向けてB29の実物大模型を使った爆破訓練が開始されました。
この特攻部隊は1個指揮班及び5個小隊で編成され、各小隊は2個分隊(各4個班)構成となっています。
胴体着陸した飛行機から飛び出すと、爆破担当1名、援護2名で構成される各組は敵に構わず滑走路を疾走し、B29に帯状爆薬や吸着爆雷を取り付けて点火。
点火を確認したら30m程後退して伏せ、爆破に備えるという訓練をひたすら繰り返しました。
「『爆破するとなると、爆薬を持っていくわけですね』
『吸着爆雷っていいまして、機体に吸いつくようになっているわけです』
『何か磁気で』
『いや、磁気ではなく、今、自動車なんかによくピシャッとこう、ひっつけるゴム(吸盤)で
それが二つ付いているわけです。
そうしてですね、これに1㌔の爆薬を仕込んどるわけで、それに柄がございまして、それが導火線なんです。
ずっと下の方に口火があるわけです。
で、引っ張ると20秒の間燃えまして、これをB29の翼の下にパチッとひっつけるわけです。
そしてB29を爆破すると……。
このほかに帯状爆薬といいまして、それをB29の胴体に巻きつけると。
その訓練を毎日やったんです。一か月間ですね』
「証言・私の昭和史」より、和田曹長の証言
爆破に確実を期す為、B29諸共自爆するという案も第1小隊長の宇津木伍郎中尉から出されたそうですが、渡部大尉から「一人で3機はやらにゃあ、日本男子があんなもの1機と心中しちゃあ、つまらん(「帰らぬ空挺部隊」より)」と却下されたとか。
自爆案は却下されましたが、全員の意思を統一する必要がありました。
奥山隊長は作戦遂行上の心構えとして、十箇条の攻撃訓を作成しています。
「一つ、一斉溌剌と
二つ、任務絶対俺がやる
三つ、三人三世ぞ戦友ぞ
四つ、よくみよ敵を準備を早く
五つ、剛胆沈着腹を据え
六つ、無駄弾撃つな大事な弾ぞ
七つ、七生報国早まるな
八つ、早くしっかり装着点火
九つ、ここが墓場ぞ潮時ぞ
十で尊き任務ぞあくまで頑張れ」
この頃、奥山隊は「神兵皇隊(しんぺいすめらたい)」と呼ばれていました。
豊岡では、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流します。
総勢168名となった部隊は、12月17日「義烈空挺隊」と命名されました。
第3独立飛行隊は猛訓練に励んでいたものの、海軍航空隊と違って夜間の長距離洋上飛行には不慣れでした。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。
「今頃の若い人にあんな飛行機に乗れ言うたら怒りまっせ。怖い言うて」と和田曹長が述懐していますが、割れた風防や脱落したドアを、ベニヤ板やブリキで塞いで応急修理していた機体もあったそうです。
諏訪部隊はサイパン着陸後、奥山隊と行動を共にする計画となっています。
しかし、地上で戦う事に対し、パイロット達の心境は複雑でした。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で、B29を奪って帰還するという案も出されたそうです。
「最初はですね、サイパンのB29を焼くと。
そしてわれわれが戦闘しとる間にですね、飛行士が奪って帰るというような計画をしたんでございます(「証言・私の昭和史」より)」
荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。
玉砕覚悟の空挺隊や飛行隊と違い、中野学校の10名は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏、残置諜者として遊撃戦を展開する任務を帯びていました。
「生き残る事」が目的の彼等は、空挺隊員にそれを悟られぬ様、苦労して作戦計画を立てていたそうです。
部隊結成から作戦予定日までの時間は、あまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。
結局、途中給油地の硫黄島への空襲が激化した為にクリスマスの出撃は延期となりました。
豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。
「昭和二十年一月一日
今年の新年は靖国神社の樹の下と覚悟致していたのに
また馬齢を加えた訳です。
今度行くからには決して生きては帰れません。
また、遺骨も帰らない事を覚悟していて下さい。
それ程に、我々の責務は重大なんです」
義烈空挺隊 S曹長
“特攻せよ”と死ぬ事を命令しておきながら、出撃は何度も延期されました。
大本営側には、一度に168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇いがあったとされています。
しかし。
死を覚悟した隊員達にとって、それは残酷な仕打ちでした。
「“まだ死なせんとか”って言いよった位ですけん。
“まーだ死なせんか、もう死なせてくれ”って言いよったですね」
「塔は黙して語らず」より 元義烈空挺隊員酒井一義氏の証言

1月13日、奥山隊は出撃基地である浜松へ移動。諏訪部隊と合流しますが、出撃命令は一向に下されませんでした。
「ある寒い日、某下士官が所要あって隊長室に入った。その頃は薪炭の使用が極度に制限され、ストーブも短時間しか焚けない。
奥山は底冷えのする室内で、窓際に置いてある金魚鉢を、ジーッと見つめていた。
「オイ、当番室に湯が沸いていたら持って来てくれ」
「お茶ですか」
「いや、湯だ。この金魚も寒かろう」
金魚鉢に湯を入れてやろうというのだった。
奥山の顔には、いつもの明朗さはなく、深い悩が読みとれた(「帰らぬ空挺部隊」より)」
サイパン突入中止が決定された昭和20年1月27日。
死を覚悟していた隊員達は、空しく宮崎へと戻りました。
因みに、川南への帰還が「里帰り」となる宮崎県出身の隊員に、阿部忠秋少尉(中野学校)、蟹田茂曹長、新藤勝曹長、谷川鉄男曹長、森井徳満曹長、津隈庄蔵伍長、堀添綴伍長らがいました。
彼らの一人は、家族に対してこのような手紙を書き送っています。
「昭和二十年一月二十四日
前略
何たる神様のお引き合わせか。
再び生きて踏まずと覚悟した故郷に。
ただ、天にも昇る心地。
状況の急変により一応川南に引き上げ、川南にて訓練する事になりました。
三度目の正直で、また生きて帰るなんて」
川南に戻った義烈空挺隊は、レイテへ赴いた挺進第3連隊の空き兵舎に入って訓練を続けます。
挺進第3連隊の兵舎。そう、あの空挺給水塔が残されている場所ですね。
第4中隊の指揮は浪花大尉に移っていた為、挺進第1連隊に奥山隊の戻る場所は無くなっていたのです。
九州の片隅で宙ぶらりん状態となったまま、奥山隊長は部隊の士気を下げないよう苦慮していました。
しかし、次の攻撃目標はなかなか決まらないまま、時間ばかりが過ぎていきます。
この頃、副隊長格の渡部大尉ら5名を第六航空司令部に派遣したのも、部隊の存在をアピールする為だったのでしょう。
「昭和二十年二月七日
目と鼻の所に居りながら、毎日家に帰れないなんて本当に残念ですが、全てお国の為と諦めねばなりません。
楽しかりしあの日々。
幸せに浸りしあの頃。
しかし、余りにも短い幸せだった。
再びあの日が来るかしら。
それは神ならぬ身の知る由も無く、毎日君の写真を抱き
楽しかりしあの頃を思い浮かべて居ります。
ではまたお便り致します。
愛しき妻へ」
前出のS曹長
やがて渡部大尉らに伝えられたのは、3月19、20日を希望日とした硫黄島千鳥飛行場への突入命令でした。
偵察情報によると、そのころ硫黄島に不時着しているB29は第一飛行場に4機、第二飛行場に3機のみ。B24及びB25爆撃機11機以外の58機は全て戦闘機でした。
この為め、空挺隊の訓練内容は小型機の破壊に切り替えられます。
しかし、遊撃戦不可能な小島への突入命令に中野学校組は困惑。
諏訪部飛行隊長も、“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていたそうです。
硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。
3月12日23時28分、奥山隊は土浦に到着。
11日には諏訪部隊も西筑波飛行場に集結し、1週間の準備期間と3日間の連合訓練を経て出撃に備えました。
しかし、まるで思い付きのように発案されたこの硫黄島突入作戦も、日本軍守備隊玉砕により中止となります。
渡部大尉は「1個中隊だと思って軽々しく取扱うな!(「帰らぬ空挺部隊」より)」と激怒したそうですが、失意のうちに奥山隊は再び川南へと戻りました。
隊員たちが、ギレツクウテイタイをもじって「愚劣喰ウ放題」という自虐的なニックネームを付けたのもこの頃の話。
「硫黄島の作戦が又も中止された。いよいよもって生恥ばかりかくことになった。
兵隊の中にはこの様を自嘲してか、「グレツ喰イホウダイ」というニックネームまで飛び出し、吾々の憐れさを自ら嘆いていた。
あまりに長年月に亘り道草ばかり食っている特攻隊である。
ホームシックにかゝるものも若干出てきたのも仕方のないことであった。
「こんどこそどうしたらいいのか」
流石の奥山隊長も少しやせたようだ。吾々百数十名は隊長のいうまゝであったが、これからどうなることかと心配になる。
皇軍の精鋭を誇ったものの、あわれさは益々つのるばかりである。
副隊長の渡部大尉は専ら航空総軍との連絡に当っていたが、中止ときまってがっかりしていられるようだ。
恥をしのんで帰るのはいやであった……。
3月末再び川南に帰還した。
ここでは無茶苦茶に訓練で気をまぎらしているだけである。
日曜は他隊と出遭うのが厭だったので、月曜日を休日にしてもらって……
奥山隊長の苦しみも、この頃では顔に現れて来ていた」
空挺戦友会誌より、和田曹長の証言
唐瀬原で待機を続ける義烈空挺隊員は、夕方に起床し、暗闇の中で夜間戦闘訓練や爆破訓練を繰り返しました。
中には、他部隊の兵舎へ忍び込んでイタズラを仕掛ける隊員もいたのだとか。
深夜の川南一帯に出没する義烈空挺隊を気味悪がって、空挺部隊の歩哨は彼等の動向に神経を尖らせていたそうです。
春を迎えた頃、戦況は絶望的となっていました。
4月になると、軍部は本土決戦を見据えた「決號作戦」の準備に着手。
陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われるようになりました。
沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
そのため、軍部は第154、156、212の各師団を宮崎各地に展開。
5月になると、米艦隊接近に備えて日向の細島、延岡の赤水、日南の油津などで第33及び第35突撃隊による震洋特攻艇や人間魚雷回天の夜間突入訓練も開始されます。
宮崎県内にある海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東及び西飛行場からも多数の特攻機が飛び立っていきました。
九州南部は、特攻と本土決戦の最前線となっていたのです。
その中に、川南の空挺部隊も組み込まれていました。
空挺作戦をしようにも輸送機は足りず、地上部隊として戦う外なかったのです。
川南の空に舞っていたパラシュートは、既に姿を消していました。
児湯郡都農には第212師団(通称菊池兵団)が配置され、隣接する川南の防衛も同兵団の担当となります。
「第212師団作戦計画
第1 方針
1 師団は第154師団(護路)と密に連絡し、都農北方畜台端を前縁として主抵抗陣地を占領し、敵上陸部隊を前方水際地帯に撃滅する。
唐瀬原地区に予期する敵空挺攻撃に対しては、所在航空部隊を併せ区処しこれを撃滅する。
富高、延岡方面には一部の兵力を配置し、海軍陸戦部隊を統合し細島水上(中)特攻基地及び富高航空基地の確保を重点として同要域を堅固に占領するとともに、所在特設警備部隊を併用し、敵の空海基地設定ならびに熊本平地に向う突進を阻止する。
2 状況によりその主力または一部をもって志布志方面、薩摩半島方面もしくは宮崎平地小丸川以南南地区に機動し、軍の決戦に参与しうるよう準備する」
藤野憲三「激動期の日本・川南開拓地に生きて」より
日本陸軍空挺部隊の本拠地である川南に対し、米軍側も空挺部隊で攻略してくると思われていたのですね。
しかし、「米軍上陸を迎え撃つ精鋭部隊」と称された菊池兵団の実状は酷いものでした。
物資・人材の不足により迎撃用陣地の構築は全く進捗せず、食糧や弾薬をチェックしたら1人当たり雀の涙ほどの備蓄しかない事が判明。
つまり、敵に第一撃を加えた後は撃つ砲弾が無くなるのです。
このような状態で菊池兵団がどうやって戦うつもりだったのか。
桜井徳太郎師団長は延岡から志布志をカバーする機動戦を考えていた様ですが、現地を見てそれが不可能だと知ったのでしょう。
下記のような証言が残されています。
「我々が現地着任早々に、第7部隊の結団式が商店街の竹乃屋で取り行はれ、永田聯隊長・中村平八郎大隊長・室積大隊長以下、将校以上全員の会合が開かれた。
当日の桜井師団長の作戦会議では下記内容の軍議で
方針
1 本土決戦に備え、持久作戦の準備として物心両面の充足を図らねば成らぬ。又敵の上陸作戦地は日向灘と予想される。
2 決戦兵団としての任務は、予想される敵上陸作戦に備えての陣地構築、迎撃準備は勿論長期交戦に備え、農家の援農は勿論、軍と言えども食糧増産、自給自足態勢の確立とともに、優秀種族保持の為、未婚兵員は結婚、人的資源の維持、増進も図らねば成らぬ。殊に独身将校は早期に伴侶を求めよ。
3 戦闘準備の為に目立つ物・光る物・音の出る物の調達の為の配慮をし、都農轟のトロ線を利用し、昼間は目立つ物、音の出る物、夜間は光る物、音の出る物を併用し、あだかも軍の大移動との欺瞞作戦を取り、敵の砲爆撃を促し、弾薬消耗作戦の準備に配慮すべし。
4 若し、敵が予想の如く日向灘都農に上陸作戦を開始し、橋頭堡を築かんとして上陸せし場合には、歩兵部隊をして名貫川を下向して、敵上陸部隊の後方より友軍の斬り込み再上陸をなさしむるが、迎撃作戦が失敗に終つても、第二次攻撃の弾薬の補給困難と思考されるので、歩兵部隊には言えぬが、其の折りには、迫撃部隊は彼我諸共に砲撃すべし。
であった」
「川南開拓の記録」より 元菊池兵団藤野憲三氏の証言
現在でも「陸の孤島」と揶揄される宮崎県平野部は、海岸線を制圧されただけで動脈たる国道10号線、日豊本線、港湾施設が機能しなくなります。海岸近くにある赤江や富高の飛行場も簡単に奪取された事でしょう。
オリンピック作戦が実行された場合、当初計画された水際撃滅や護路兵団との連携、ましてや機動戦など到底不可能。
兵站を絶たれ、制空権を奪われては、背後の山間部へ逃げ込んでのゲリラ戦しか抵抗の術はありません。
長期の抵抗は不可能と悟った菊池兵団では、米軍上陸部隊へ玉砕覚悟の側面迂回攻撃を仕掛ける積りでした。
宮崎県知事は米軍上陸作戦に県民が巻き込まれることを危惧しており
宮崎県警察本部の白川武夫警部を中心とした県民の大規模避難計画立案に取り掛かります。
「昭和二十年、終戦間際のこと。
私は県警察本部警防課勤務を命じられ、分室にスタッフ五名と共に通称「作戦室」を構成していた。
戦況が敗色濃くなった六月初旬には宮崎海岸に敵が上陸する公算大ということから、県民をいかに無事避難させるかが緊急課題となり、連日その計画案に頭を悩ませていた。
その腹案は、県内を交戦地区(米軍の艦砲射程圏)、臨戦地区(交戦地区の周辺)、避難地区(山間部)の三つに分け、交戦地区住民の住所氏名年齢を調査しておくこと。
また、避難地区については、畳の枚数、収容能力、輸送方法および順路などの青写真をつくっておかねばならない。
当時は自動車が軍に徴発されているため、荷馬車を使わねばならず、持ち出す荷物も一戸三十キロと制限する計画だった」
「平和の鐘」より 元宮崎警察署長白川武夫氏の証言
県庁地下室で練り上げられたこの計画も、軍部の二転三転する防衛方針に振り回されます。
漸く完成した避難計画が県内各市町村長へ公表されたのは、昭和20年7月30日のことでした。
住民避難計画のいっぽうで、地域住民で構成された郷土防衛民兵組織「国民義勇戦闘隊(20年6月制定)」の編成も着々と進められます。
ただし、民間人義勇部隊への武器弾薬の支給はナシ。
猟銃を所持していた人はマシな方で、手許にある農具や工具、果ては台所の包丁で戦えという無惨なものでした。
米軍が県北から熊本方面へ突破を試みた場合、西臼杵郡の住民が猟銃・竹槍やブービートラップで山岳ゲリラ戦を展開するという計画も本気で立案されています。
実際のオリンピック作戦計画だと、宮崎に上陸した米軍は延岡の手前で侵攻をストップ。鹿児島・宮崎を占領するだけで、九州北部への地上部隊進撃は行われない予定でしたけれど。
「本土決戦が行われたら米軍に多くの出血を強いた筈」という大層勇ましい論調もありますが、それでは日本側の「出血」はどうなるのでしょうか。
資源も枯渇し、制空権や制海権も奪われ、挙句は本土決戦の最前線ですらこのような有様だったというのに。
◆
「三月十八日、私はいつものように、モンペを着て防空頭巾と救急袋を肩から下げ、鞄を持って七時過に家を出ました。
玄関から五十メートルも歩いたでしょうか。ふと見上げると、海の方から鳥の集団のように飛行機がこちらに向けて来ます。
その時、山の方(※新田原飛行場)からも戦闘機がワァーッとたくさん飛んで来て、私の頭上のすぐ近くで空中戦が始まりました。
初めて近くで見る米軍の飛行機です。
急なことで空襲警報も出ていません。恐ろしいとか、危険だ、とかそんなものではありません。家に向って飛ぶようにして走るつもりですが、足はもつれて、なかなか動きません。帰りついた時には、何がどうなっているのか、何が始まったのか分らないのです。近所の人も、あわててウロウロしていました。
私の父は鉄道職員で駅に勤務でした。家には出産で里帰りしている姉と新生児が寝ていて、母は思案にくれていました。姉は起きることも防空壕に入ることも出来ません。母は姉の傍らにいるので私も部屋にいました。
その時、敵機の一編隊が町を攻撃し始めました。家屋に向けての機銃の乱射です。もうこうなったら敵機は飛行場も軍隊も民家も何の見さかいもありません。
ひどい機銃の音がしたので、母は大きなふとんをかぶって姉の上に覆いかぶさりました。私も同じようにふとんをあぶって、赤ちゃんの上にかぶさりました。
その時、パンパンと二発の音がして、私の家に当り、その一発が居間の鴨居をつき通し、かぶっている蒲団の周りをシューッと通って僅かにはみ出している私の足を貫通したのです。
まるで大きな鉄の棒で殴ぐられたようなショックで、足がちょっとピクッと縮まったみたいで、何とも変で妙な気持でした。
「アッ」と思って足もとを見ると、白っぽい、やわらかそうな、固いような妙なものが足の側に飛び散っていました。
その瞬間よく分らなかったのですが、私の足の肉片だったのです。血はそんなに流れていません」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校生 亀井麻子氏の証言
昭和20年3月18日早朝、九州南部に突如として米軍機1400機が襲来します。
都井岬や日向に設置されていた電波探知機は役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到していました。
沖縄侵攻への露払いとしておこなわれたこの奇襲攻撃を皮切りに、赤江、新田原、富高、都城西の宮崎県内各飛行場は凄まじい空襲に晒され続けます。無傷だったのは、草原と見間違えられて爆撃を受けなかった都城東飛行場のみ。
輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、遂に米軍機の標的となりました。
唐瀬原の給水塔にも、米軍機の機銃掃射による弾痕が刻まれています。

空挺給水塔に刻まれた機銃掃射の跡
空襲の激化と共に米軍の上陸作戦への備えが叫ばれ始め、陸軍省教育総監部ではアメリカ空挺部隊対処マニュアルも公布しています。
一、敵の空挺隊に對しては、全員一致して迅速に撃滅せよ。
一、監視は敵の爆撃を恐れぬこと、敵の降下を観たら人をやつて確めること(夜は人形でだます場合がある)。
一、連絡はお互に任務を定めて漏れのないやう、知らぬふりをせぬこと、騒ぎ立てぬこと。
一、報告は迅速なること、ありのまゝに地點と数を報告すること、豫行訓練を行ふこと。居合すものは直ちに猛烈に攻撃せよ。敵は着地前が最も弱點なり。果敢拙速なれ。
一、障碍は敵の降りさうなところに何でも利用して手軽に造れ。軍の工事に全員協力せよ。
一、要點=橋、倉庫、工場、駅などを護れ。郷土を護れ、これが國を救ふ途なり。

アメリカ空挺部隊本土侵攻への恐怖を記した証言が残されています。
「緊張した中、二〇年の四月の終り頃だったと思う。
可愛岳の上空の方から落下傘でアメリカ兵が降りてきた。
体調をくずして、午前中学校を休んでいたが、午後は行かねばと用意している時、空襲警報。
急いで近くの壕に飛びこむと「落下傘だ、落下傘だ」と、みんなが騒ぎ出した。「出るな出るな」と男の人達が叫び出した。
てっきり落下傘部隊が降りてきたものと思い「ああ、これまでか」と、悲壮な覚悟をした。
アメリカ機が空中戦でやられたのか煙をはいて海の方にむかっていく時、落下傘でおりてきたらしかった。
川坂の岩戸の田んぼの中に一人降り、村人につかまった。
仁瀬の消防倉庫の前に連れてきていた。
その時、はじめてナイロンという布地を見た(落下傘がナイロン製)。
ポケットに櫛や鏡、写真等入れていた。村の男の人達は伐採鎌やフォーク(農業用)、日本刀、とび口に鎌等持ってかけつけた。
「わんどん(お前達)が家の息子を殺したのだ」と、口々に肉親が戦死した悲しみを叩きつけていたが、傷つける人は一人もいなかった」
宮崎県北川町編「あの日あの時」より 矢野ウメノさんの証言
※この北九州爆撃途中に捕虜となったB29搭乗員達の通訳は、日系二世だった安賀多国民学校教師の栗田彰子氏が担当しています。
結局、彼女が切望していたカナダへの帰国は叶いませんでした。
延岡市が空襲に晒された6月29日。
校舎の消火活動にあたっていた栗田先生は、米軍の投下した焼夷弾の直撃を受けて亡くなられます。

日向市細島港に残る、第121震洋隊の特攻ボート格納庫跡。岩盤が硬すぎて掘削に失敗したため対岸の回天基地へ移動後、出撃前に終戦を迎えました。

宮崎空港周辺に7基残されている海軍赤江飛行場の掩体壕群(写真のものは、宮崎市の資料で「六号掩体壕」と呼ばれています)。
宮崎県沿岸部に対する米軍の攻撃は、空挺部隊にとっても深刻な影響を与えていました。
挺進司令部では、物資を川南や高鍋一帯の施設や防空壕へ分散秘匿。
更に分厚い鉄板を蓋にした地下壕を司令部の真下に掘って米軍の空襲に備えます。
装甲部隊の挺進戦車隊は都城市防衛のため三股町へ移動、各支援部隊も比島作戦へ出払っており、川南の空挺戦力は貧弱なものとなっていました。
空襲警報が発令される度、女性事務員や出入り業者と共に防空壕に逃げ込む日々。
いかに精鋭の空挺部隊であろうと、空を飛べなければ小規模の軽歩兵部隊に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行隊のうち、日本に戻ってきたのは僅か3機の輸送機だけだったのです。
「矢継早に言われる看護の先生に、わたしはウロウロするばかりでした。
「体育館がもえる。すぐ行って。早く早く」と大きな声。
「此所はいいから、行って」と看護の先生の声で我に返って、用水桶の水を汲んで走りました。
体育館の中には落下傘が山と積まれていて、その中がくすぶっています。水をかけたり、外に運んでいたら兵隊が来て「大切な品を水でぬらした」と怒るので、「自分達で管理して下さい。学校が火事になる所でした」と言い返しました。
この時は先生方もひどく殺気だった雰囲気でした。
相変らず、雲の中から敵機のにぶい音が不気味に聞え、生きた気持ちもありませんでした。
その夜は亡くなった生徒のお通夜に行きましたが、とても悲しく、淋しく、わけのわからない腹立ちさでした。
朝からグラマンがうるさい日でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言
決號作戦(本土決戦)に備え、川南の第一挺進團も本土防衛の必要に迫られます。
本土侵攻に先立ち、米軍は本州の九十九里浜と九州の志布志湾に空挺攻撃をかけると予測されていました。
それに対処するため、挺進團は挺進第一聯隊を千葉県の横芝へ派遣、挺進戦車隊を要衝の都城盆地へ差し向けます。
4個空挺聯隊のうち、川南に残されたのは挺進第二聯隊、そして出撃待機中の義烈空挺隊のみとなりました。
空挺部隊による唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。
一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。
その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す。
三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、對空部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊
四、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。
挺進團の指揮を離れ、第六航空軍の隷下となっていた義烈空挺隊は、米軍上陸に備える川南でも浮いた存在となっていました。
米軍の九州侵攻が現実味を帯びてきたこの頃、中野学校関係者が義烈空挺隊兵舎を秘かに訪問し、同期の辻岡少尉に、本土決戦に備えた地区特設警備隊の編成計画を伝えたと「帰らぬ空挺部隊」にあります。
この本土防衛計画へ組み込まれる前に、激化する沖縄戦への義烈空挺隊投入が検討され始めました。
4月1日から沖縄に上陸した米軍によって早々に制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、米軍迎撃機の発進拠点となり、多数の神風特攻機が撃墜されていきました。
両飛行場を破壊制圧すれば、特攻機が途中撃墜される危険もそれだけ少なくなります。
そこで、義烈空挺隊が北・中飛行場を制圧している間に、陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立てられました。
あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。
「お手のものの出動準備はまたたくまに終った。
川南駅から水前寺駅を経て熊本健軍飛行場へ向かった。ここで第一挺進団の隷下を脱し、菅原第六航空司令官の直轄となった。
攻撃目標は北及び中飛行場とのことだ。こんどこそ決行間違いない。毎日毎日飛行場攻撃の訓練が、真っ黒になって繰り返えされた。
突撃!突撃!
走れるだけ走って1機でも多く焼いてやるんだ。
此頃では熊本も毎日グラマンの銃撃を受けていた。吾々営外者は旅館の1室を借りて毎日部隊に通った。館主は吾々を見ると「兵隊さん、日本に飛行機があるんですか」「この戦争は一体どうなるんですか」との質問攻めである。
まさか「この飛行機をやっつけに征くのだ」とも云えず閉口した。
毎日新しい空中写真での研究である。
沖縄の地形は日を追って変ってゆく。
米軍の物量のほどを物語っている。
海上は沖の方が軍艦、その手前が輸送船、その又手前に海上トラック、上陸用舟艇と、海面余す処なく、沖縄は全く米軍の真中にある。夏の虫といった方が当っているかも知れぬ!
しかし一寸の虫には五分の魂があるという。
何が何でも今度こそは決行だ(義烈空挺隊第3小隊第2分隊長 和田曹長の証言より)」
「昭和二十年四月十日
愈々お別れの日が参りました。
何もかも、あの時のあの固い覚悟で……。
すべては神様のみ御存じの明日の運命。
人間、欲には限りありません。
上を見れば上には限りなく、また、下を見れば下にも限りありません。
僕達としては、今日迄生活できた事を感謝せねばなりません。
今こそ国家危急存亡の時。
わたくし事にばかり走っては居られません。
錦旗の元に馳せ参ずるは今です。
無理な事を申す様ですが、小生の心中もお察し下さい(義烈空挺隊第4小隊 S曹長)」
5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入ります。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着。
この頃になると、猛訓練の成果によって飛行隊の技量も大幅に向上していました。
「私は毎日、隊長の操縦する九七重に同乗した。
海上五メートルという超低空で訓練するので、波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸したとき鴎の死骸が入っていることも度々だった。
(別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦後史別巻4より、日本映画社藤波カメラマンの証言)」
「昼は暗幕の室に寝、夜になると飛び起きて飛行場に走つた。
飛行機や戦車、物資集積所の模型に對し暗がりの中で夜の明けるまで猛訓練を続けた。
後にはわが偵察機の航空写真により敵航空基地そつくりのものが作られ、従つて一つの目標に對する訓練の程度は白昼行動するに等しいほどの正確さをもつてなされた。
また飛行機のどこを爆破すれば一番効果があるか、戦車のどの辺に爆薬を噛ませればよいか、周到綿密な訓練が何百編何千編となく行はれた。
暗闇の中で隊員同士がお互ひの気配を分別するはおろか、一人々々の気配まで区別して闇の向うから歩いて来るのに「おい○○」と呼び掛ける。
敵の真只中に強行着陸し、味方討ちせぬためにはこれまで徹底した魂の交流が必要であつた。
空挺部隊の特色は敵の腹中に飛び込んで、心臓を掻き回す戦術を続けねばならない。
このためには敵の砲の操作までも覚え込むといふ廣範囲の訓練が別途になされた。
空挺部隊を讃へる「空の神兵」といふ言葉があるが、隊員は之をにやけた言葉だといつて嫌つた。
「空の神兵等をこがましい。おれたちは當り前のことをやつて當り前の人間らしく死ぬのだ」といつてゐた隊長奥山大尉は豪放磊落な強者、典型的な空挺隊員で、日頃から生死を超越した明朗さだつた。
「俺達は永生きせねばならぬ。
みんな身體だけは大事にせよ。敵中においても出来るだけ頑張つて一人でも多く一機でも多くやつゝける」
何時も隊員にかう訓示した」
「義烈隊勇士の神技」より 昭和20年
5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。
同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。
20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。
1.義号部隊を以て沖縄(北)(中)両飛行場に挺進し 敵航空基地を制圧し、其の機に乗じ陸海航空兵力を以て沖縄附近敵艦船に対し総攻撃を実施す。
2.北飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及同地周辺地区の軍需品集積所を攻撃す。
3.着陸後有力なる一部を以って敵司令部及通信所を急襲し、高級将校指揮中枢を崩壊せしむ。
4.爾後海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点附近の物資集積所を攻撃す。
5.中飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて同地周辺地区・物資集積所を攻撃し、爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
6.予定滑走路以外に着陸せる場合に於いても、速に担任地域に至り任務完遂に努むべし。
7.目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期はX日Y時と予定し青吊星を併用す。
8.3Fsは搭乗機毎に一組となり、各部隊と共に戦闘せしむ。
部隊は離脱潜伏後、力の続く限り北飛行場への斬り込みを繰り返す計画となっていました。
つまり、沖縄にいる第32軍との連携や合流は一切考慮されていません。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部飛行隊長はそれを断ったと伝えられているそうです。
沖縄出撃予定日の昭和20年5月23日、兵舎廊下の黒板には画像のように書いてあったそうです。

午睡のあとは報道取材があり、隊員達は記者に対して思い思いの言葉を残しました。
彼等の様子について、当時の新聞記事より。
「私達は兵舎の一隅で最後の撮影プランに入る。
午睡の時間か、静かなひととき。
チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。
奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がピシッ、ピシッと響いてくる。
木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。
あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった」
日本映画社演出担当 大峯淑生氏
「私は任官後内地の勤務ばかりで弾丸の下を一回も潜つたことがない。
今度が初陣、任務が任務ですから日本男子としての光栄これに過ぐるものはありません」
中飛行場攻撃部隊指揮官 渡部利夫大尉(秋田県)
「やりますよ、きつとやりますよ。沖縄は自分の郷里ですから何とかして敵を斬り倒して敵を殲滅して県民を安心させたいと思ひます。
(中略)
徴兵検査の時までこの土地で成長した。妻にも軍刀を一口呉れました。敵が来たらやるんだと。妻も元気で頑張つてくれてゐます。
これほど武運に恵まれた喜びはありません。私は立派に死ぬことが出来ます。
まあ沖縄に行つたら私が道案内といふ所ですね」
山城金栄准尉(沖縄県国頭郡。沖縄出身の義烈空挺隊員は、他に比嘉春弘伍長がいました)
「医学を勉強した私が何故軍人になつたかとよく聞かれますが、私は唯御国のために御役に立ちたいと思つてゐます。
恩師岡山勝博士は長岡の山本五十六閣下の隣の家で育つたさうです。この恩師は教育も医学も御国のために役立たせねば意味がないといつてゐる。
私はこの薫陶の御蔭だと思つて何時も感謝してゐる」
北飛行場敵司令部攻撃隊指揮 中野学校原田宣章少尉(満州國ハルピン市)
第○部隊
分隊長三浦歳一郎曹長(宇和島市)が地図を展げて部下に注意を与へてゐる。
「みなはぐれるな。着陸場所はこゝだ、分かつとるなあ。
着陸したら天蓋をはづしてすぐ外に飛び出る。飛び出たらペラ(※機体のプロペラ)に注意しろ。いゝか、疎開することを決して忘れてはいかんぞ。
この辺まで進んで手榴弾戦をやる。いゝな、もういはんでも皆分かつとるな。
ようし最後まで頑張るぞ」
奥山隊長室
幼年学校時代からの親友だといふ武井盆夫大尉(群馬県)が坐りこんでゐた。
武井大尉は爆撃隊としてこの日沖縄へ進攻したのである。
奥山大尉「きさまとは長い間の交際だな」
武井大尉「これが腐れ縁といふやつか。幼年学校の時からずつと同じ釜の飯を食つて来たのだから」
奥山大尉「同期生にもよろしくいつてくれ、元気で突込んだとな」
武井大尉「うん!」
奥山大尉「どころできさま、おれたちが突込むところをよく見て帰れよ、頼むぞ」
武井大尉「そいつだけは引受けた。おれに任せておけ。この次はきさまの骨を拾つて来てやるよ(爆笑)」
隊長はむしや〃するめを齧つてゐる。
武井大尉「きさまがさうしてするめを齧つてゐる図はどう見ても〃ヨイコ〃としか思へんわい、あはゝゝ…」
奥山大尉「こいつつまらぬことをいふな……」
武井大尉「きさま少し痩せたな」
奥山大尉「昔は二十二貫を軽く突破してゐたがなあ、だがこいつだけは確かだ」腕を撫して昂然!
編隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)は手紙を読んでゐる。
宇津木中尉「誰から来た手紙ですか」
諏訪部大尉「見たこともない御嬢さんだが、女子挺身隊の女学生らしいなあ。東京都多摩郡吉野村四八八、久保富子さんだ」
宇津木中尉「綺麗な字ですなあ」
諏訪部大尉「うん」(読む)
航空隊の勇士様達に負けないやうに生産に頑張ります。御安心下さい。
私達は勇士様達の飛行機を一生懸命に造ります。どうか私達の造つた飛行機で仇敵を撃砕して下さい。
そしてこの美しい皇土を護り抜きませう。
勇士様の武運長久を祈ります。
日向日日新聞「悠々たりし義烈隊勇士」より 昭和20年

出撃前夜、突入作戦の打ち合わせをする奥山隊長と義烈空挺隊幹部。
空挺戦友会の資料や残された編隊図等を見ると、義烈空挺隊は下記のような編成になっていました。
沖縄出撃の際は一部が変更されていたそうです。
北飛行場攻撃部隊(奥山道郎大尉指揮)
編成:指揮班、第1、第2及び第5小隊
全12機中の8機で突入予定
隊長機:奥山隊長以下指揮班搭乗
操縦担当:諏訪部忠一飛行隊長、川守田少尉
航法及び通信担当:小林少尉、長瀬軍曹
無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹
空挺隊員:尾身曹長、北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長
2番機:宇津木五郎中尉指揮(第1小隊長)
操縦担当:酒井少尉、長谷川曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:宮越准尉、谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長、
3番機:石山俊雄少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:新妻少尉、藤田曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:蟹田曹長、三浦曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長
4番機:原田宣章少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:町田中尉、岡本曹長
航法及び通信担当:瀬立少尉、石川伍長
空挺隊員:石丸曹長、松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長
5番機:菅田寿美中尉指揮 (第2小隊長)
操縦担当:菊谷軍曹、茂木軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:大浦曹長、佐藤曹長、藤村曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長
6番機:梶原哲巳少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:松尾曹長、岡本軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:今村曹長、大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長
7番機:棟方哲三少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:中原准尉、宮岡曹長
航法及び通信担当:青井少尉、今田兵長
空挺隊員:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長
8番機:山田満寿雄中尉指揮 (第5小隊長)
操縦担当:山本曹長、小川軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:伊藤准尉、高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長
中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮)
編成:第3及び第4小隊
全12機中の4機で突入予定
9番機:渡部大尉指揮 (第3小隊長)
操縦担当:久野中尉、荒谷少尉
航法及び通信担当:酒井少尉、簑島曹長
空挺隊員:山城准尉、池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長
10番機:熊倉順策少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:高橋少尉、小野曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:南曹長、森山曹長、和田曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長
11番機:村上信行中尉指揮 (第4小隊長)
操縦担当:吉沢曹長、水上曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、道上曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長
12番機:渡辺祐輔少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:木村曹長、小林軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:稲津曹長、新藤曹長(旧姓東郷)、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長
※11番機が渡辺少尉指揮、12番機が村上中尉指揮と記載されている資料もあります
中隊は五個小隊、小隊は二個分隊、分隊は三個班、班は三名編成。
飛行機1機につき正副パイロット各1名。
各小隊に特別任務将校各1名配属。
爆薬・帯状爆薬各班2名、其の他手榴弾、破甲爆雷。
各分隊に軽機関銃1、小銃5、擲弾筒1。沖縄にはハブがいる為、毒蛇の血清も携行しています。

出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原中将。
夕刻、出陣式を終えた部隊が飛行機に搭乗しようとしたとき、思わぬ事態が起きました。
予報によると23日は沖縄方面の天候回復とされていたのですが、先行する爆撃隊からは現地天候不良の報告が入り、続いて海軍の杉浦参謀からは「現地悪天候により総攻撃を一日繰り延べにする」との連絡があったのです。
第六航空軍は海軍から突然入った作戦延期の報に慌てます。
菅原軍司令官は急遽爆撃隊へ反転命令を打電し、出撃寸前だった義烈空挺隊は兵舎へと引き上げました。
翌5月24日。
先行の爆撃隊より現地天候良好の報告が入り、出撃は決定されました。
墨で迷彩を施した降下服をまとい、体中に弾帯や爆薬を装着した168名は再び健軍飛行場に集結します。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分から菊水第7号作戦を発動、特攻機は次々と飛び立って行きました。
奥山隊の犠牲は、本命の航空攻撃を成功させる為のものだった筈です。
しかし、結局陸軍と海軍の歯車は噛みあわないままでした。

●出撃前、それぞれ自分の故郷の方向に頭を下げる義烈隊員たち。川南空挺慰霊祭にて。
隊員達は出撃前、家族や世話になった人々に宛てて遺書を残しています。
奥山隊長の手紙は、母に別れを告げるものでした。
「昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様」
諏訪部飛行隊長は兄宛の手紙に「部下多数あり 宜敷く御願い致します」と飛行士32名の名簿を添えて送りました。
宮崎出身の隊員達が遺した手紙も記載しておきます。
「拝啓 御両親様
忠秋ハ本日敵飛行場ニ斬込ミマス
生前何一ツモ出来ズ申訳アリマセン
リツ、高坊ニハ呉々モ宜シク御伝ヘ下サイ
祖父母様ニモ宜シク御伝ヘ下サイ
其レカラ私物梱包一個軍刀一個送リマス
承知下サイ
二十四歳デ玉砕シマス
任官以来御世話ニナッタ方モ沢山アリマスガ略シマス
面白イ話モ沢山アリマスガ略シマス
附記
死後ノ処置ニツイテ
イ 金銭ノ貸借ナシ
ロ 婦人関係ナシ」
阿部忠秋少尉(宮崎県高岡町出身)
「おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。
私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。
私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。
どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。
最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。
愛機南へ飛ぶ。
乱筆にてさようなら(熊本で世話になった銭湯「極楽湯」の堤ハツさんに宛てて)」
谷川鉄男曹長(宮崎県日之影町出身)
「(妻の)写真と共に敵地にと思い居りましたが、
余りにも可哀想だから送りますれば、決して変に取らない様。
では、いつまでも元気でね。
僕も元気で行きます。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
五月二十一日夜」
新藤勝曹長(宮崎県川南町出身)
「作戦計画が決まり、奥山隊は最後の仕上げの猛訓練を続ける。
暗夜の誘導路を息の続くかぎり走る。
一人が敵機に爆薬を装着する。
妨害する敵を二人が攻撃する。
爆破手が倒れれば次の者がかわる。
合図は呼子で自由自在に進退する。
数名が一団となり他の部隊の兵舎に忍び込んだり、急に出現したり忍者そのもので気味が悪い。
私は陸海軍の訓練や演習をいく度となく取材してきたが、
こんな荒っぽい、しかも厳しい部隊は初めてだった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」より、日本映画社 大峯淑生氏
出撃に至る3日間、報道関係者は義烈空挺隊と寝食を共にして密着取材を行いました。
日本映画社時事製作局からは、7名の撮影スタッフが健軍に派遣されています。
「隊員達と起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。
窪塚カメラマンは“ひげのおっちゃん”と、親父くらいの年齢なので親しまれていた。
一番身体の小さい村瀬伍長は『韋駄天村瀬』の異名をとる二十歳の青年で、サントリーの12年ものを我々にすすめてくれたりした。
村上中尉は将棋盤を持って『一番願います』と私の好敵手だった。
飛行隊の長谷川曹長は、ひとなつっこい写真好きな青年で、撮影機を覗いて『見える見える、撮りますよ』と無邪気だった」
この長谷川道明曹長は民間パイロット出身で、出撃前に第3独立飛行隊の2番機機長に指名された人でした。
「妻子にも親にも秘密でしたからね。
『どちらへ行った?』『某飛行場、まあ九州方面』って言うだけでね。
何処へ行ったか判んなかったんですよ」
「塔は黙して語らず」より、長谷川曹長の遺族の証言
日本映画社の取材陣とは別に、健軍には従軍カメラマンの小柳次一氏も滞在していました。
数々の最前線で写真を撮り続けてきた小柳氏も、特攻隊の取材は辛かったと述懐しています。
出撃前夜、奥山隊長は“挺進殉国”と書いた色紙を「自分の心境です」と小柳氏に渡しました。
彼が撮影した写真には、笑顔で乾杯する宮越准尉や部隊最年長で沖縄出身の山城准尉、機内に乗込んだ新藤分隊長、小寺軍曹、宍戸伍長ら東郷分隊の面々、煙草を喫う熊倉少尉や和田曹長、お互いの階級章を外したり、整備兵に携行食料を分ける隊員達の姿が写っています。
中でも有名なのが、渡辺、町田、小林、新島、荒谷、川守田、酒井隊員らに囲まれ、隊長機前で奥山隊長と諏訪部飛行隊長が握手を交わしている写真ですが
「私は取材のとき、ノン・フィクションを建前にしていたが、奥山隊長の出撃機搭乗直前、諏訪部飛行隊長との握手を頼んだ(「別冊1億人の昭和史」より)」
と小柳氏が書いているように、これは最初撮り逃してしまったので再度ポーズを頼んだものだそうです。

●当時の写真より、出撃直前に握手を交わす奥山隊長と諏訪部飛行隊長。
「隊長同士……、
奥山さんが乗る寸前にですね、“すいません、そこで握手して下さい”って言ったら
奥山さんが“千両役者ですねえ”って言って握手してくれたもんだから
周りの兵隊さん、笑ってる訳です」
MRT宮崎放送「塔は黙して語らず」より 小柳次一氏晩年の証言
義烈空挺隊員たちは、出撃前の短い待機時間を思い思いに過ごします。
陸軍予科士官学校教官だった中村勇挺進団長の周りには同校出身の隊員が集まり、母校の校歌を合唱。
他の小隊でも、負けじと義烈空挺隊の隊歌「君は御空の特攻隊」を唄いました。
これは軍歌「さくら進軍」の歌詞を空挺隊向けにした替え歌で、隊員達によって愛唱されていたそうです。
1番(「さくら進軍」では5番)
咲いた桜が男なら
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け 桜花
八紘一宇の八重一重
2番(同3番)
明日は初陣軍刀を
月にかざせば散る桜
意気で咲け 桜花
俺も散ろうぜ花やかに
3番(同1番)
日本ざくらの枝伸びて
花は亜細亜に乱れ咲く
意気で咲け 桜花
揚る凱歌の朝ぼらけ
4番(同2番)
天下無敵の神兵の
姿頼もし花の空
意気で咲け 桜花
君は御空の特攻隊
君は御空の特攻隊
「我々一同、最後の一兵となるも任務に向かって邁進、もって重大責務を果たす覚悟であります。全員喜び勇んでいきます」
奥山隊長の号令の下、18時50分、12機の97式重爆に分乗した部隊は次々と健軍飛行場を離陸していきました。
しかし、9番機はエンジンが不調。急遽、渡部大尉らは予備機に乗り換えて出撃します。
10番機もエンジンが動かず、熊倉隊は渡部隊が乗り捨てていったエンジン不調機で1時間遅れて出撃しました。
出撃の様子については、当時の新聞でこのように書かれています。
「義烈空挺隊出撃の日は快晴であつた。
柔かい風がピスト前の吹流しを弄んでゐた。
いま勇士達にとつて、一番心配なことは沖縄上空の天気であつた。
だが、沖縄上空快晴に向かひつつあり、の嬉しい情報がピストに飛び込んだ時、基地はさつと殺気を孕んだのである。
今次作戦に際し奏上の際、陛下には畏くも本作戦に特に御嘉尚の御言葉があつた、との参謀総長から部隊長への傳達を部隊長から各部隊へ傳達され、勇士達の感激は極度に達した。皇軍はもう戦はずして敵を呑んだ。
『義烈空挺隊を中核とする航空総攻撃の壮挙にあたり、切にその成功を祈る』
部隊長の訓示は、後に続く義烈空挺隊を主力とする海空陸が一丸、一挙に沖縄の敵戦力を殲滅しようとする豪快放胆な総攻撃をいま決行しようといふのだ。
空挺隊の誘導隊として同基地を発進する爆撃隊の轟音が地を揺すぶつた。
空輸機の整備が完了した。
空挺隊の乗組みを待つばかりだ。
軍衣に淡緑色の迷彩を施し、重い装具をつけた空挺隊勇士は、静かに壮行の式場に車から降り立つた。
現地航空部隊長が勇士たちの前に立つた。
荘重な声で
『今はもう何もいふ事はない。
諸子の気持ちを察し、皇国の彌栄を讃へんが為に乾杯をする。
東方を向いて、大元帥閣下の万歳を奉唱する。唱和して貰ひたい』
杯を上げて万歳を奉唱する声の集団は、既に敵中に踊り込んでゐた。
隊長奥山大尉の杯になみなみと注ぐ、部隊長の笑顔は勇士達の『父親』の表情であつた。
『自分は余りいけないのですが』はにかむ奥山隊長は堂々たる体躯の隊長であつた。
『しつかり頼むぞ』『必ずやります』じつと見つめる部隊長と隊長。
空輸機の発動機も快調の轟音を響かし、砂塵は基地を吹き捲くつた。
出撃は迫つた。
『いいか俺について来い、最後の一兵まで任務に邁進せよ』
奥山隊長の凛烈の声が軍刀にきらりと光つた。
いよいよ出発だ。
『各分隊ごとに搭乗』
隊長奥山大尉の凛烈、火を吐く号令が轟々たる空気をかき消すやうに響き渡つた。
一機、二機、三機、爆撃隊が進発して行く。
続いて空挺隊を乗せた空輸機が―敵中に強行着陸、敵陣に斬込み、敵陣を引掻き回さうといふ空挺隊。壮烈鬼人も泣く―
言葉の彼方にある世界を何と表現し得られよう。
空輸機の機影も夜空に見えなくなつた。
飛行場にいつまでも機影を求めて空を仰ぐ部隊長、参謀長、隊長らの後姿……」
讀賣新聞「火を吐く号令 今ぞ義烈空挺隊は征く」より 昭和20年5月
「折からの夕日は翼を染めて一機また一機と飛び立つて行つた後、部隊長は奥山道郎大尉から手渡された小さな紙包を抱き抱へる様にしてピストへ帰つて来ると机の上にそれを置いて言葉もなくじつと見詰めた。
人々は隊長に倣ひほの暗い燈の下で同じ様にそれを見守り続けてゐた。
やがて沖縄本島の北、中飛行場に對する奇襲決行着陸に成功したとの報告が入り、更に北飛行場で敵の基地空軍力を根こそぎゆすり上げ、また中飛行場に對してもその特別攻撃が着々功を収めつつあるとの報告が矢継ぎ早に齎されるに至つて、紙の白さは見詰めるものの瞳に愈よまぶしく拡つて行つた。
部隊長が衝動的に立ち上つてそれを額に押しあてた。
中身はお金である。
義烈空挺隊の奥山隊長以下全員が、淡々たる別れの中に銃後に残して行つたのだ。
それは百円札からばら銭までがごつたに混つてゐた。
義烈空挺部隊は元々落下傘部隊としての降下訓練を永年受けて来た精兵中の精兵である。
沖縄決戦場にその機を迎へ、この基地に推進して来た。
しかし落下傘による降下でなくて空挺部隊として出撃するときまつた。
勿論それに何不足はないのであるが、敵飛行場に飛行機ごと殴り込むこの作戦には當然大切な輸送機を台なしにしなければならない、非常な残念さがあつた。
そこで一人重爆一機以上と突入訓練が開始された。一人一人が重爆一機の攻撃力以上の戦果をあげることによつてこの輸送機を失ふ痛手をとりかへさうと言ふのである。
十何種類の兵器を身につけて隊員達は基地を疾風の様に駆けめぐる訓練が熾烈を極めた。
最もめぐまれた条件の下に五月二十四日の夜を迎へた。
この日の朝、思ひがけなく義烈空挺部隊の原隊である落下傘部隊から部隊長がこの基地に訪れて来た。
そして出撃の直前まで行はれた部下達の烈しい訓練を観察してその成功を嬉しく信じたのであつた。
ずらりと居並んだ輸送機の傍まで来るとその翼をなでさする様にして「これを失ふのはたまらんなあ」と奥山部隊長を振りかへつた。
パレンバン、レイテ、そして今度の義烈空挺部隊と難局にその都度大きな石を投じて来た陸軍落下傘部隊には今や陸続として後輩が続き、来るべき日に備へてゐるのではあるが、ともすれば輸送機が不足し勝ちで訓練が十分に進まないのだ、輸送機が欲しいと部隊長の話を聞いて奥山隊長は唇をかんだ。
「さうだ自分が今度の作戦で敵は勿論味方まで圧倒させるほどの奮闘をするので、それが後輩たちの道を開いてやることになる」
と居合せた航空本部の某将校に語つたと言ふが、それでもなほ奥山隊長の気持はすまされなかつたのであらう」
日向日日新聞「空挺隊の尊いお金」より 昭和20年
中村挺進団長は、機体に乗込む奥山隊長を呼び止めました。
大尉の階級章はもう不要だろうから残していくように、と。
「そうですな!沖縄に行けば一躍軍司令官ですから」
階級章を外しにかかる奥山隊長に、団長は「何かお母さんに」と更に引き止めます。
奥山隊長はズボンのポケットを探り、取り出した印鑑と襟から外した階級章を中村団長へ手渡しました。
これが、奥山隊長の形見となったのです。
12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に5、8、10、11番機がエンジン不調や航法ミスにより脱落、これら4機は九州へ反転しました。
渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。
この10番機は何とか隅の庄飛行場に滑り込みましたが、その他の反転した機体は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着しました。
八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、水面で減速できないまま橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職します。
◆
沖縄へ向かった残る8機からも、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線連絡はありません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今突入」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。
同時刻、沖縄上空では飛行第60戦隊の杉森大尉機(乗員7名)が残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。
待ちに待った知らせに健軍基地は沸き返りますが、この入電を最後に義烈空挺隊からの連絡は途絶えました。
ただ、着陸体勢に入った6機の赤信号は戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が22時25分に視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、パニック状態で緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。
「沖縄の戦況情報が流れる。米二世を交えた特情傍受班が敵方の無線電話を邦訳して放送しているとの事であった。
「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」
次々と敵飛行場の混乱が報ぜられた。
その時「大牟田近郊に不時着せる特攻機1炎上中」「隈府に特攻機1大破」「三角附近不時着1機あり」と矢継ぎ早の連絡だ。
流石の菅原将軍も一寸当惑された様であった。
「引返機の処理は私の方でやります」との中村大佐の申し出に「よろしく頼む」との返事。
木下大尉の東奔西走で手際よく処理が進められた。事故機は後で判明したのであるが
1859(熊倉少尉高橋少尉機)1922(山田中尉機)1840(村上中尉機)後で更に1機が追加せられた。
引返機の原因は二機器材、二機航法と航空軍は調査報告している」
空挺戦友会資料より
この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。
着陸後の通信を担当する筈だった一番機搭乗の辻岡少尉ら無線班が全滅したことで連絡は途絶。
以降、義烈空挺隊の戦果については航空偵察と海外報道から得た情報から推測するしかありませんでした。
一、空挺部隊は進航途上における哨戒、目標周辺における敵夜間戦闘機の邀撃ならびに飛行場付近における熾烈な對空砲火を突破して北、中飛行場に敢然着陸成功したのは午後十時半であつた。
二、着陸と同時に全員勇躍まづ在地敵機を焼却破壊、同行爆撃機は空挺部隊の着陸ならびについで続々敵機の炎上する光景を確認して帰還した。
三、敵は大混乱に陥りその在空戦闘機は飛行場着陸不能なため或は母艦に着陸を企て海中に墜落し、或は不時着するなど自滅したもののやうである。
四、在地敵機を焼却した挺進部隊はついで所在の司令部、集積所に突入しこれが尽滅を期し敢闘中である。
五、空挺部隊並に爆撃機により沖縄基地航空力を撃破制圧せる機会に乗じわが特攻隊はどし〃沖縄周辺の敵艦隊に突入中であり、すでに二十五日午前中に體當りを報告した特攻機は次の四十機に達してゐるが、無電装置のない特攻機の體當りは報告に含まれてゐないので敵に与へた損害は甚大なものがあると思はれる。
「空挺部隊 敵司令部へ突入」より 昭和20年5月
廿四、五日の特別総攻撃が最高潮に達するころ、沖縄付近の天候はふたゝび急変した。二十五日朝の沖縄は雲高五百、視程十キロで、徳之島以南は小雨が降つてゐた。さうしてところによつては雨雲が海面すれ〃にまで垂れ下り、雲状況は八千四五百に達する厚い密集の壁を作つてゐた。
義烈空挺隊と特別攻撃隊を主軸とするわが航空部隊の主作戦がこの悪天候を冒して強烈につゞけられた。
雲の壁に阻まれて戦果の確認は困難を極めてゐるが、同日夕地上友軍部隊から入つた情報によると、二十五日は本島上空には終日敵機影を認めず、強行着陸を敢行した義烈空挺部隊の肉弾攻撃が熾烈拘束の目的を完全に達成したことを物語つてゐる。
現在なほ義烈空挺部隊と敵軍との間に砲戦が交へられてゐる模様である。
わが空挺強襲の際、本島北飛行場八箇所に大爆発を起して使用不能に陥つてゐた。
當時この飛行場にはP51、P47を主力にグラマンと少数の大型機を含む約三百機の敵機があり、義烈部隊の着陸當時、そのうち相當数が旋回に上つてゐたとしても地上において爆砕されたものが多数に達したものと判断される。
また中飛行場はその後なほ暫らく活動してゐたが、やがて滑走路に大爆発が起り、北飛行場よりやゝ遅れて機能を停止した。
陸海軍爆撃隊によつて行はれた伊江島に對する夜間爆撃も同飛行場の八箇所を炎上させ、若干の誘発を起したことも認められた。
一方振武神風特攻隊の大挙出撃は、前記の作戦より数時間をずらして實施された。徳之島以南の天候急変にぶつかり、一部攻撃を阻害されたものもあるやうだが、大部分は密雲を突切り雨の中を匐つて海面すれ〃に目標上空に到達、同日午前中に判明したものだけでも空母一、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、輸送船一、艦種不詳四に體當りを敢行してゐる。
悪天候に海上捜索が困難なために戦果はなほ確認されてないものが多いが、最終的にはなほ正確な偵察の結果を待たねばならぬ。
朝日新聞「義烈空挺隊、敵と砲戦」より 5月29日
このように義号作戦については各方面で発表されましたが、そのうちのひとつ、讀賣新聞掲載の「月光下、天降る神兵」では下記のような内容になっています。
勿論、記者が沖縄特攻に同行取材した訳ではありませんので、突入後の描写は大本営発表等を元にした創作です。
「すなはち悪天候の間、満を持して待機してゐた各飛行部隊は晴天の訪れと共に一斉に襲撃を開始、沖縄戦場に猛然と殺到して行つた。
二十四日前夜半戦闘隊の掩護の下に、まず飛龍爆撃隊が出撃、伊江島基地を主目標として北、中飛行場の三飛行場を急襲。
同夜は一晩中少数機による波状攻撃を繰行し、敵三基地を拘束した。
敵基地空軍の制圧成るとみるや、突如奥山隊長の指揮する義烈空挺隊が行動を起し、北、中両飛行場に強行着陸を敢行した。
輸送機から踊り出した義烈隊員は直ちに在地敵機を求めて散開した。
偽装も遮蔽も無い敵機の位置はすぐにわかつた。
義烈隊員は脱兎のごとく身軽に敵機にかけつけるや、携行の新兵器を素早く駆使して敵機をもたゝく間(原文ママ)に破壊または炎上させてしまつた。
阿修羅の如く縦横無尽に暴れ回る義烈隊員の姿は、折柄十三夜の皎々たる月光に照し出されて凄愴を極めた。
忽然と出現した義烈隊員の奮闘ぶりに敵は茫然自失、一時は射撃も忘れてしまつたほどで、義烈空挺隊および飛龍爆撃隊は月光下に思ふ存分敵基地を蹂躙し、その機能を死滅させ、北、中飛行場はつひに使用不可能となつた。
この敵基地航空殲滅作戦に引続き、二十五日黎明には飛龍特攻隊が勇躍進発した。
飛龍特攻隊は昇る朝日にその両翼を輝かせて嘉手納沖に進撃、我が地上軍に砲撃を加へてゐる敵戦艦に対し猛烈な体當り攻撃を敢行した。
如何に戦艦といへども飛龍の抱く大型爆弾の必中を食つてはひとたまりもなかつた。
戦艦護衛の駆逐艦は慌てゝ逃げ惑ひ、右往左往する輸送船と衝突するものさへあつた。
飛龍特攻隊の進入とほゞ時を同じくして各その基地からは飛燕、破邪、山吹、九段、葉隠、悠久、降魔、天誅、櫻花など、振武特攻隊の各隊は一斉に発進した。
前線基地に待機中の振武隊はこの好機を掴んで全機敵艦船目がけて突入した。
○○梯団(検閲による伏字)に分れた振武特攻隊は各梯団、各距離、間隔、高度差を効果的に保持しながら
厖大な幅と厚みと深さとを持つ立体的構成をもつて肉薄した。
未だかつてみない多数機の堂々たる立体翼陣の波状進撃である。
邀撃に舞ひ上つたわづかの敵戦闘機群はその威容に圧倒され施す術もなかつた。
振武隊は敵戦闘機の抵抗を受けなかつた。また敵艦からの対空射撃もなかつた。
このやうに振武隊が敵の妨害なしに目標上空まで進入することが出来たのは初めてのことであつた。
飛龍爆撃隊ならび飛龍特攻隊さらに義烈空挺隊の事前空襲の効果は十分であつた。
たゞ海面だけがぎらぎらまぶしく光つてゐた。
そして嘉手納沖から糸満、湊川にかけておびたゞしい敵輸送船が死んだやうに横たはつてゐた。
二、三日前に到着した敵船は軍需品を満載してゐた。
振武隊にとつて絶好の目標である。
絶好の機会であつた。
振武隊から発進する突入信号は、雀躍りするやうにこの基地の無電室にはづんで来た。
(中略)
この特別総攻撃の結果、物量依存の敵が絶対不可欠とする海と物の必需限度以上を瞬時に失つたに相違ない。
混乱と狼狽の壁にぶちつけられた敵陣営の悲嘆こそいかばかりであらう」
これが発表されたのは昭和20年5月27日。
同じ日の14時10分、米軍の放送は下記のように伝えています。
「強行着陸した日本軍全滅。本日10時以降北飛行場の使用支障なし」
◆
奥山隊がどのような最期を遂げたのか。
翻訳した外国の報道によって、日本側も大まかな状況を把握していました。
リスボン二十六日発同盟
グアム島からのエーピー電は二十六日に至り右事實を初めて確認すると共に攻撃の模様を次の通り傳へてゐる。
「日本航空部隊が超低空から機銃掃射を加へる間に、日本軍の双発機は飛行場に強行着陸した。
飛行機の中からは日本兵が月光を浴び、相次いで飛出し爆筒と手榴弾をひつさげて飛行場に並んだ米軍飛行機を次々に攻撃して火を放つた」
一方ニミツツ司令部は二十七日公報で
「日本軍は空陸呼応して過去数週間中最も熾烈な攻撃を沖縄本島の米軍に加へて来た。
日本特攻隊の攻撃は今次戦争開始以来最も強烈なものであつた」と述べ、日本特攻隊並に航空部隊の奮闘を裏書してゐる。
昭和20年5月29日
チユーリツヒ三十一日発同盟
沖縄本島の北、中飛行場に挺進強行着陸したわが義烈空挺隊は米軍の空軍基地を大混乱に陥れ、多大の戦果をあげたが、パリ来電によれば、ヘラルド・トリビユーン紙パリ版は五月二十六日沖縄発同紙特電としてわが空挺部隊の敵飛行場着陸刹那の凄肝な情景を次の通り打電してゐる。
二十五日夜日本軍の空挺部隊は突如として沖縄の米軍飛行場に強引に着陸を強行した。
折柄飛行場の滑走路には数百機の飛行機がおかれてゐた。この群る飛行機の真只中に双発の爆撃機に分乗した日本軍空挺部隊が着陸したのだ。
基地司令官の一人スミム中佐の推定によると、日本兵は飛行機一台に十二名乃至十五づつ分乗、この飛行場に着陸した彼らは何れも手榴弾、爆弾その他放火兵器を所持し、更に数日分の食糧を携へて来たらしい。
一台の日本軍爆撃機は米軍の輸送機と戦闘機が群り集まつてゐる真只中に見事着陸、間髪をいれずその中から十五名の日本兵が躍り出した。
着陸地から百ヤードと離れてゐない司令塔にあつた當直の一将校は直ちに日本兵に對して急射撃を加へ、塔の下まで迫つた日本兵を打ち殺したが、彼自身も胸に貫通銃創を受けて逃げた。
日本軍航空部隊はこの空挺部隊の攻撃と相呼応して同夜米軍飛行場を猛烈に爆撃したが、その爆撃は沖縄作戦開始以来最も長時間に亘り実に八時間続行された。
昭和20年6月2日

米軍撮影の写真(焼き増し)より、読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
その詳細は長い間不明だったそうですが、戦後発表された米軍の記録によってようやく明らかとなりました。
「日米最後の戦闘」等には、概略下記のように述べられています。
「5月24日は海岸及び沖合いの艦船に対する日本軍の来襲は頻繁となった。
24日の晩、天空は澄み渡り、満月で爆撃には最適であった。
20時に発令された空襲警報が解除になった24時迄の間、日本軍の来襲を重ねること7回に及んだ。
第1回目に来襲した数機は読谷・嘉手納の両飛行場を爆撃し、第3、4及び6回目の来襲群も飛行場に対する投弾に成功した。
第7回目の来襲群は双発爆撃機5機から成り、22時30分頃伊江島方向から読谷飛行場に低空で侵入してきた。
対空中隊は直ちにこれを邀撃し、うち4機は炎上しながら読谷飛行場付近に墜落した。
しかし、5番目の飛行機は指揮塔から約250フィート東北から西南に伸びた滑走路に胴体着陸した。
滑走を終えないうちに約10名の完全武装兵がこの機から躍り出て、滑走路に沿って配置してある飛行機に向かって手榴弾及び焼夷弾を投げ、更にその一帯を小火器で掃射し始めた。
この為、コルセア2機、C-54輸送機4機、プライバティア1機が破壊され、その他26機が損傷を被った。
日本軍の挺進攻撃によって想像を絶するような混乱が基地内に惹き起こされ、小銃機関銃火が乱れ飛び、米軍に多数の死傷者を出した。
日本兵は損傷した輸送機に隠れて手榴弾を投げ、これにより足を吹き飛ばされた海兵隊員を含め18名が負傷し、管制塔勤務のケーレー中尉は負傷後死亡した。
この攻撃により、総計33機の破壊損傷機を出した他、7万ガロンのガソリンが炎上した。
23時38分には増援部隊が読谷飛行場に到着、飛行場勤務部隊を支援し、更に来襲を予想される日本軍空挺部隊に対する配置についた。
調査の結果によれば、胴体着陸機の日本兵10名が読谷飛行場で戦死し、他の3名は飛行機内に於いて対空砲火の為戦死を遂げていた。
撃墜された4機には各々14名の兵士が搭乗していたが、遺体は何れも墜落炎上した飛行機内に散乱して発見された。
海軍設営隊によって埋葬されたこれらの日本軍戦死者は69名を数えたが、捕虜になったものは1名もなく、ある者は自決した。
25日0時55分、残波岬で1名の日本兵が道路から藪に這い込もうとしたところを射殺されたが、おそらく空挺部隊最後の1兵士であったのだろう。
読谷飛行場は、滑走路上に散乱した破壊物の破片の為、25日8時まで使用できない状態であった。
空挺部隊の攻撃と同時に日本軍機が伊江島飛行場に来襲した。
この爆撃は飛行場に対し直接大損害を与えなかったが、米軍は60名の死傷者を出した。
この夜、空中攻撃によって日本軍機11機を沖縄で、16機を伊江島上空で撃墜した」
北飛行場へ向かった8機中、1機が着陸に成功、被撃墜4機、不明1機、途中帰還2機。
中飛行場に向かった4機中、途中帰還2機、残る2機は不明。
12機中僅か1機しか着陸できなかったにせよ、その1機の為に北飛行場は大混乱に陥りました。
それだけ見れば、ある程度の戦果はあったと言えるのかもしれません。
しかし、奥山隊の死闘空しく、主目的の航空攻撃は梅雨時の悪天候により失敗します。
こうして義号作戦は終了。
1名の飛行士が敵中を突破、6月12日頃に第32軍と合流したとも伝えられていますが、真偽の程は不明です。
いずれにせよ、沖縄へ突入した8機112名の中に生還者はいません。

同じくアメリカの絵葉書より、上と同じ義烈空挺隊機の写真(別角度より撮影)。胴体側面に空いた搭乗口から、空挺隊員たちが飛び出していったのでしょう。
現地第32軍の八原博通作戦参謀は、義号作戦について戦後このような感想を述べています。
「五月二十四日夜の義烈空挺隊の北・中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防衛戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。
むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北・中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遥か北、中飛行場の方向にあたって、火の手が揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して、感動を久しくした」
……。
突入後、米軍が撮影した映像や写真には、着陸・撃墜された97式重爆と破壊された米軍機の残骸、そして死闘の末に斃れた義烈隊員達が写っています。
出撃直前に撮影された、妙に和やかな雰囲気の隊員達と
それから数時間後の無残な結末の映像は
ひと繋がりの出来事だと理解はしていても、見比べて言葉を失います。
◆
突入した8機の隊員は全滅しましたが、途中帰還した残る4機の隊員の中にも、再度の出撃を命じられた者達がいました。
まず、山本金保曹長ら不時着機のパイロット全7名が物資輸送任務に指名されます。
彼等は5月28日と6月3日、再び沖縄へ飛び立ち、全員が戦死していきました。
一方、奥山隊の不時着組48名は第1挺進團の各隊に復帰しますが、そのうち熊倉順策少尉(隅之庄不時着)や、酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは再度サイパン特攻作戦に関わることとなります。
これは海軍特別陸戦隊(S特部隊)と協同で行う「剣号作戦」と呼ばれるものでした。
義烈空挺隊の母体である挺進第1聯隊は、米軍の九十九里浜上陸に備えて4月に千葉の横芝へ移動。
その挺進第1聯隊に、二度目の特攻作戦が命じられたのでした。
山田挺進第一連隊長により、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」が編成されます。
園田隊として、挺進第1連隊第1中隊(山本章太郎大尉指揮)及び第2中隊(大屋稔大尉指揮)の305名が海軍総隊司令長官の指揮下に入りました。
サイパン特攻部隊は、空襲を避けるため千歳に移動して訓練を開始。
これらの陸海軍混成特攻部隊は「天雷特別攻撃隊」と命名されます。
天雷特攻隊は、義烈空挺隊同様に敵飛行場への着陸強襲部隊として編成されていました。
「剣号作戦に参加した義烈空挺隊出身者は、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった」とも言われていますが、詳細は不明です。
剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。
「海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり
「烈作戦」
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり(「特攻」より)」
海軍グァム島攻撃隊
指揮官 平田海軍少佐
攻撃隊員 300名
陸軍攻撃隊
指揮官 園田直陸軍大尉
サイパン攻撃隊 大屋稔大尉以下第2中隊136名
テニアン攻撃隊 山本章大尉以下第1中隊150名
陸軍園田隊が参加後には、下記のような作戦内容に変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。
情報収集の為、敵飛行場への偵察飛行が繰り返され、撃墜された米軍飛行士を千歳に移送して、各飛行場の詳細な状況の訊問も行われました。
広大な飛行場に素早く展開する為、オートバイ数台と自転車が掻き集められ(オートバイは重過ぎて使用中止)、入手した米軍パイロットのサバイバルベストを参考に、爆薬携行用のチョッキも作製されたとか。
其の頃、義烈空挺隊の出撃を撮影した小柳次一氏も、軍報道部から作戦への同行取材を強要されてこれを拒否。怒鳴り合いの喧嘩になっています。
民間人カメラマンを特攻に出そうとする方がどうかと思うのですが、しかし、追い詰められていた軍部ではそんな事に構っていられなかったのでしょう。
徴兵してやるぞと息巻く相手を知り合いの軍人がなだめ、小柳氏には大陸へ身を隠すよう進言してくれたそうです。
この頃、天雷特攻隊とは別に、挺進第2連隊と挺進戦車隊から選抜された滑空飛行戦隊48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」も計画されていました。
挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
川南で待機を続ける挺進戦車隊は、3月18日に宮崎を訪れた三笠宮殿下の巡察を受ける予定でした。
しかし、当日朝から始まった米軍機の奇襲攻撃によって三笠宮一行は紫明館から八紘台(現・平和台公園)の重砲兵隊地下陣地へ避難。
ようやく空襲が終った20日夜に挺進戦車隊と空挺隊員は宮崎神宮へ移動、三日間地下に籠っていた三笠宮の前で、遭遇戦における協同演習を披露しました。
この頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。
義烈空挺隊に続く沖縄襲撃作戦の指揮官は田中賢一少佐。
まずは広田敏夫大尉以下20名が選抜され、曳航機20機とクー8滑空機20機編隊で敵飛行場に夜間着陸後、37粍機関砲と12糎迫撃砲を搭載した軽装甲車で米軍機を破壊して回る訓練が行われています。
烈號部隊の空輸チームは北朝鮮の宣徳で訓練を行い、出撃に備えて福生へ移動。
グライダーの配備が遅れたため、作戦決行は8月20日頃の計画でした。

訓練中の挺進戦車隊。川南空挺慰霊祭にて。
高千穂空挺隊や義烈空挺隊の悲惨な前例を見るまでも無く、天雷特攻隊や滑空飛行戦隊の強襲作戦も、余りに無謀なものでした。
7月14日に予定されていた剣号作戦は、輸送機を空襲で失って延期となります。
「かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である」
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より
しかし、剣號部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

陸軍空挺部隊の終焉。
それは、軍都川南が開拓地へ再生するための第一歩でもありました。
(第六部へ続く)



義烈空挺隊の事を検索した際にこちらのブログを拝見して以来、事あるごとに何度も記事を読ませていただいております。
私見をはさまず、参考資料を示した分かりやすく正確な記事は素晴らしく、義号部隊関連のHPで最も完成されたものだと感じております。
ところで、ひとつ気になる点があります。
それは、義烈空挺隊が着用していた軍衣はどのような色であったかという点です。
ウェブ上では、通常の軍服に墨で迷彩を施したというものや、濃緑色の南方防暑衣であった、など色々な説が見られます。
紅殻様のブログ記事中では「墨」による迷彩であったと書かれておりますが、同時に読売新聞の記述には「淡緑色の迷彩」とあります。
私自身いつの間にか「墨」によるものと思い込んでおりましたが、手持ちの書物を調べてみましたところ、どれも「迷彩を施した」と書かれているものの、それがどのような染料で施されたものかまでは書かれていないものばかりでした。。
唯一、義烈隊の軍服の色に関して書かれた記述は、日本ニュース関係者による「緑染めの軍服」というものだけであり、これは読売新聞の「淡緑色の迷彩」という記述と一致します。
紅殻様が義号部隊の迷彩は墨であったと書かれた理由、または出典元をお教えいただけないものでしょうか。
お忙しいとは存じますが、宜しくご教示お願い致します