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海軍赤江飛行場掩体壕群(宮崎県宮崎市大字赤江)

Category : 宮崎市の戦跡 |

そこには、竹垣の中に、まだ木の香も匂ふやうな新しい墓標が立つてゐた。
海軍少尉以下十二名と墨書で書いてある。
何處の方なのか、などといろんなことを思ひながら、しつかりと手をあはせて御冥福を祈る。
此処も、かつては海軍特攻隊の基地であつたのだといふ。
この付近の部落のひとびとはもちろん、此處に訪れた占領軍の将校や、飛行機で着陸した兵隊達も必ずお詣り草花を忘れないのだといふ美談をきき、私はおもはず瞼が熱くなる。
その日も両端においてある二本のビールびんには、しきみがさゝれて、風にさらさらとかすかに葉がすれあつてゐるのであつた。


清水ゆき「新しき村を見る・赤江飛行場跡の巻」より 昭和20年

戦争遺跡
宮崎特攻基地慰霊碑
宮崎基地より出撃した銀河特攻機47機、搭乗員140名並びに陸海攻撃、雷撃作戦に出撃した605名が散華しました。
このゆかりの地に鎮魂の碑、墓銘碑を建立しております。
平成11年3月
宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会


九州では、福岡空港とならんでアクセスが良い宮崎空港。
利用された人は御存知かと思いますが、この空港の滑走路脇には奇妙な物体が並んでいます。
あれは、日本海軍が軍用機を守るために建設した「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる格納シェルター。陸軍の飛龍や海軍の銀河といった爆撃機を収容する大型のものと、零戦など戦闘機を収容する小型のものが確認できます。

宮崎空港の前身は、戦時中に建設された「海軍赤江飛行場」です。
現在のノンビリとした光景からは想像もできませんが、かつてはこの飛行場から数多くの陸海軍パイロットが沖縄海域の米艦隊へ向けて飛び立っていきました。

鹿児島県の知覧にある特攻平和会館は、「陸軍の特攻作戦」を展示対象とした施設。だから、宮崎県から出撃した都城東陸軍飛行場、都城西陸軍飛行場、陸軍落下傘部隊の特攻記録は展示してあっても、「海軍の特攻作戦」の拠点であった赤江飛行場や富高飛行場は取り上げられていません。
知覧を訪れる人も、宮崎空港の特攻史について知る事は出来ません。
それらの記録作業すら他県に丸投げしてきた結果、宮崎県は「忘れられた特攻の地」と化しました。
宮崎に関わる多数の犠牲者たちのことを、県外者どころか県民も忘れてしまったのです。

赤江飛行場の掩体壕は、有蓋(コンクリート製シェルター付)中型が7基、有蓋小型が7基、無蓋中型が37基建設されました。
その殆んどは戦後の開発で撤去されましたが、現在でも有蓋中型4基と有蓋小型3基が残っています。
コレだけ纏まった遺構が保存されているのは全国でも貴重なケースでしょう。しかし、宮崎県は長らくその歴史的価値を認めようとしませんでした。
県民がコレだから県外の人は尚更です。「日本の戦争遺跡」的な書籍は多々ありますが、宮崎方面は完全に無視されております。
対する宮崎県側からの情報発信も微々たるモノ。他県で見られるような「もしかしたら観光資源として活用できるかも」という貪欲さすら皆無です。

陸の孤島とは哀しいものですねえ。

「戦争の悲惨さを忘れないようにしましょう」という言葉が、ここ宮崎では空しく聞こえます。
戦争が終わって半世紀以上たちますが、特攻と正面から向き合ってきた知覧と違い、「観光宮崎」は忌わしい特攻の記憶から目を逸らせてきたのでしょう。
開発を免れた赤江、南郷、細島、木脇、崎田、新田原、唐瀬原の戦争遺構は地域に埋没し、都城の特攻基地3か所は完全に消滅。日向に残っていた最後の掩体壕も道路工事により破壊されました。
地域の歴史を伝えるべき県立博物館ですら、その辺に触れた展示は見事に皆無。終戦記念日に図書館の片隅で戦時史コーナーが開催される程度でしょうか。それら貴重な戦時史料も、住宅地にある小さな戦争記録継承館に「隔離」されたままです。
それ以外で宮崎県と特攻の関係についてキチンと取り上げた公的施設は、都城市立歴史資料館および陸上自衛隊都城駐屯地と航空自衛隊新田原基地にある資料館だけ。
地元メディアや地域の人々による、史跡保存への取り組みだけが救いです。

そうやって地域の歴史を粗末に扱いながら、天孫降臨がどうたらとかいうアピールだけは熱心なんですよね。
これ以上は愚痴になるのでハナシを赤江飛行場史に戻します。

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最近では、掩体壕を活用しようという動きも始まりました。赤江の2号掩体壕前広場で開催された地域イベントの様子。2016年撮影

宮崎県赤江町(人口14067名)の空に日本軍の飛行機が現れるようになったのは、昭和15年春頃のこと。
そして、昭和16年3月15日には海軍から飛行場建設計画が打診されます。真偽は不明ですが「かつて赤江沖に不時着した飛行機を、地元住民が救助してくれたことが選定理由」という説も。
説明会場に集合した町民150名は突然の話に騒然となります。しかし、用地買収の説明をおこなった海軍士官は「天皇陛下万歳」の斉唱を全員に強要。ウヤムヤのうちに「御国のため協力しろ」という空気が出来上がってしまいました。

立ち退きの期限は1年後という約束でしたが、工事は翌月10日から着工。土砂を運び込む軽便鉄道建設や河川の迂回改修がどんどん進捗して行きます。追い立てられるかのように、同年末までに全住民が退去させられました。
住民立ち退きと用地買収後、海軍および逓信省大淀川改修事務所の主導によって工事は本格化。
工事中も、赤江町に対する圧力は強まる一方でした。
昭和17年12月24日、こんどは長船克己宮崎県知事が杉田福一赤江町長らに対して宮崎市への合併を要請。
続いて26日、海軍呉鎮守府参謀長より重ねての合併要請が届きます。

呉鎮機密第五七八號
昭和十七年十二月二十六日 呉鎮守府参謀長
長船宮崎縣知事殿

宮崎縣赤江町ヲ宮崎市ニ合併希望ノ件照会
貴縣赤江町所在海軍施設近ク完成ノ運ビニ相可成候處、本施設開始後ハ勤務員ノ生活必需品配給、居住竝ニ慰安施設ノ實施其ノ他相當重要ナル問題有之到底赤江町ノミノ能力ニテハ萬全ヲ期待シ難ク就者曩ニ大分航空隊所在東大分村ガ大分市ニ合併シ、鹿屋航空隊所在鹿屋町ガ附近町村ヲ合併シテ鹿屋市トナリタル前例モ有之先般來赤江町ヲ宮崎市ヘ合併ノ内儀アルヤニ仄聞致居候間此際可成速ニ右實現方御取計相成様切望スル次第ニ候


飛行場建設によって耕作地300町歩とその分の税収を失った上、宮崎市への合併を強要された赤江町は当然ながら猛反発。
しかし軍の要請とあっては仕方ありません。
翌年2月12日の赤江町会にて「この秋に当たり、宮崎県知事長船克己閣下突如わが町に大宮崎建設の雄図を披瀝せられわが町の来たり投ずるの有利なるを具に懇説し、聖恩の萬分の一に答え奉り一は子孫永らく幸慶をともにせんことを」との意見書が出されました。
昭和18年4月1日、赤江町政は青木善祐宮崎市長へ引き継がれます。

同時期、大淀川右岸の津屋原一帯が飛行場建設の土砂採取場となり、ここでも住民の集団移転がおこなわれます。
建設会社、付近住民、朝鮮人労働者、少年祖国振興隊、勤労報国隊、婦人挺身隊などの人海戦術で飛行場の建設は進められました。
土砂に埋まっていく自分の田畑を見て、作業に参加する付近住民の気持ちは複雑だったとか。
そして昭和18年12月、宮崎市の赤江地区に総面積371万4800㎡もの海軍赤江飛行場が完成しました。
飛行士の兵舎は現在の月見が丘に、対空機関銃陣地は滑走路を取り囲むようにして、高射砲陣地は現在の稲荷山・赤江中学校付近・希望ヶ丘団地付近にそれぞれ設置されました。

昭和18年12月から海軍パイロットの訓練施設としてスタートした赤江飛行場ですが、戦況が激化した19年7月20日には実戦部隊の基地へ転換。海軍721航空隊および陸軍飛行第7戦隊の展開に続き、台湾方面に備えて第762航空隊の拠点となりました。
10月から始まった台湾沖航空戦では、赤江飛行場に集結した攻撃部隊148機が出撃。
そして昭和20年2月15日以降、赤江飛行場は陸海軍共用の特攻機出撃拠点と化しました。
3月11日、梓特別攻撃隊の特攻機が赤江飛行場から初出撃。それから3月27日までに、第1~第10銀河特別攻撃隊が続々と特攻へ飛び立ちます。
台湾沖航空戦から沖縄戦にかけて、赤江飛行場の特攻隊員140名および雷撃機(※敵艦を魚雷で攻撃する飛行機のこと)の隊員605名が沖縄の空で戦死します。飛行場への空襲などで、この地で犠牲となった人々も少なくありません。

時々、宮崎空港で戦時中の不発弾が発見されて騒ぎになりますよね。
こんな地方都市が猛烈な爆撃を受けた理由は、九州南部の飛行場群が沖縄へ侵攻する米軍にとって脅威だったからです。
赤江飛行場が最初の攻撃を受けたのは昭和20年3月18日。それ以降、赤江一帯は激しい空襲に晒され続けました。

入口

昭和20年3月18日、都井岬沖の空母を飛び立ったアメリカ軍艦載機が九州南部を奇襲攻撃。いわゆる九州沖航空戦が始まります。都井岬や細島のレーダー基地は敵機来襲を察知していたものの、赤江・新田原・都城の戦闘機が応戦した記録はありません。情報共有に欠けていた県内の各飛行場は為す術も無く破壊されました。
九州沖航空戦で宮崎を襲撃した米軍機は延740機。2日間の攻撃で宮崎県では123名が犠牲となりました。
初空襲の状況については、幾つもの証言が残されています。

昭和20年3月18日、私は弟を連れて本家の庭で遊んでいました。すると突然警戒警報のサイレンが鳴りはじめ爆音が近づいてきました。
たちまち空襲警報のサイレンに変わり、すぐ前の山から飛行機が飛んできました。私は漠然と目前に飛んでくる飛行機の数を数えはじめて、25~6機数えた時、星☆をまる〇で囲んだ印に気付きました。
その時初めてこれは敵機だと言うことがわかったのです。
日本の飛行機は3機ずつ並んでいたのに、これは4機ずつ編隊を組んでいました。
これはたいへんだと思って弟を背負って蜜柑山の防空壕まで走りました。防空壕から飛行機の様子を見ていたら、横に広がりはじめ、東の方向に向かって飛んで行きました。近くの田圃にいた人たちや、道路を歩いていた人たちがつぎつぎに私の家の蜜柑山の防空壕に登ってきました。
私は恐かったけどみかんの木が大きかったので枝を掻き分けて見ていました。
上空で飛行機は回りはじめました。「あれは赤江飛行場に行くわ」と口々にいいながら見ていたら、我が軍が高射砲を射ちはじめました。だけど敵の飛行機にはなかなか当たらず、敵機の後の方で破裂するので、みんなが「まこち辛気なねー(訳:本当に歯痒いね)」と口々に悔しがっていました。
するとその時、我が軍の飛行機が一機、敵機のなかに突っ込んでいったのです。
みんなは思わず「行け、行け」といって声援を送りました。何十機といる敵機の中に向かっていったのを見てみんな喜びました。
敵の飛行機は見る見るうちに赤江飛行場めがけて爆撃をはじめました。
上空では敵の飛行機と上になり、下になりして戦闘が続けられ、何回か回っている時、その中の1機が黒いけむりを吐いてくるくると回りながら落ちていきました。
すると「今のはどっちの飛行機がやられたっか?」と口々にいいだしました。
岩見田方向の山の上には真っ黒な煙が空高くあがっていました。
回りは爆弾の破裂する音、爆撃のため急降下する飛行機の音等がしばらく続きました。
父達はこれじゃ赤江飛行場はだいぶやられたわといっていました。
次の日に大きな損害が出たこともわかりました。
そして落ちっていった飛行機も我が軍の戦闘機だったことも判明しました。
あのたくさんの敵機の中に一人で立ち向かって行かれた人の気持ちは死を覚悟の戦闘だったと思いました

「赤江飛行場の爆撃」より、串間イソヨさんの証言

やっと夜が明けたという時刻だった。私たちは早速家の東側の小さな日だまりになるであろうところに木の椅子を準備し、散髪を始めた。
「どら、先、おまえんとつんでやっが(先にあなたの髪を刈ってあげましょう)」
小学(国民学校)五年生であった私を、高等科二年生であった義ちゃんが先に散髪してくれると言った。
義ちゃんは私の頭にバリカンを入れる時は、いつも額の上の真ん中からだった。
そこに私はじゅじゅまき(頭髪の渦)があって、義ちゃんは
「こんげな人はめったにおらんとやっど。大将かなんかえれえ人になっとじゃが(大将かなにか偉い人になるのでしょう)」
と散髪の度に言っていた。
そのじゅじゅまきに二度か三度バリカンを入れた時だった。さっきからウン、ウン、ウンと唸っていた音がはっきり聞こえてきたのである。
義ちゃんがバリカンを頭のうえに載せたまま、「おい、飛行機じゃっど」と言った。
私は上目使いにに東の空を見上げた。
日向灘上空に影絵のように黒い物体が一塊になってまっすぐに突き進んで来る。
「へえ!まだあんご飛行機が日本にゃあっとじゃろかい(まだあれだけの飛行機が日本に在るのでしょうか)」と義ちゃんは言った。
私は状況を掴みかねて、ただ呆然と見つめていた。
やがて、その黒い編隊の周りをとんぼ程に見える飛行機が纏わり付くように飛んでいるのが見えた。
地上には届いていない太陽の光りにキラッキラッと光っていた。
「こめえ飛行機が飛んじょっど。あら、日本の飛行機じゃねっちゃろかい。あんおっけね飛行機は敵機かんしれんど(ちいさな飛行機が飛んでいますよ。あれは日本の飛行機ではないのでしょうか。あのおおきな飛行機は敵機かもしれませんよ)」と私は言った。
今までに見たことのない大きな飛行機編隊だったからである。
小さな飛行機が大編隊を攻撃していると私は思った。
義ちゃんは「うーん、じゃろかいね(うーん、そうでしょうか)」とだけ言った。
だけど状況を知る電撃的なことが起こった。
黒い編隊の周りで爆煙が次々と散り始めたからである。やがて耳をつんざくような破裂音も届き始めた。
赤江飛行場の日本軍が撃ち始めた高射砲だった。
「敵機じゃど。空襲じゃど」
二人は同時に家の中に向かって叫んだ。
義ちゃんはバリカンを持ったまま我が家に向かった。私は更に「空襲じゃど」を繰り返しながら家を南周りにして敵機の姿を追い続けた。
高射砲の弾は編隊の周りで空しく破裂するだけで、敵機は全く煙を吐く様子もない
(中略)
祖父が防空壕にまだ達しないうちだった。キューン、キューンというはらわたを抉るような爆音とともに爆撃機は旋回しながら急降下してきた。わたしの家を中心に旋回して日向灘に向かって出て行く感じだった。
実際は赤江飛行場を攻撃しているのだった。
爆撃音と地上からの機関砲の銃声で地上が埋まっていた。
防空壕から「なにしちょっとか、こら、はよ入らんか、こら」と父の声がした。わたしは映画や漫画でしか見たことのない状況が現実にあることの興奮で、死ぬときは死んでもいい、そんな気持ちだった。
とにかく見たかった。
爆撃機が何機だったのか覚えていない。
その時も何機だったか数えた記憶もない。
その爆撃機がすべて日向灘に去ってしまうと、わたしは赤江飛行場のよく見える青年学校の運動場の見晴らし台に走った。大人が五、六人も立つと一杯になる程の広さに、一米近く土を盛りあげた簡単なもので、家から二百米のところにあった。
走っている間にも赤江飛行場から幾条もの黒煙が上がるのが見えた。
見晴らし台に上がって飛行場を見た瞬間、なぜか初めて恐怖感に襲われた。もう見るも無残な姿をだった。格納庫やそれを取り巻くほとんどの施設から激しい火炎が上り、その上のは黒煙になっていた。
後で知ったことであるが、その爆発は時限爆弾によるものであった。恐怖感が一層つのった。
私はまた走って帰って防空壕に駆け込んだ

佐藤聿夫氏「敗戦前後」より

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宮崎海軍航空隊慰霊碑の全景

3月18日に宮崎へ飛来した米軍機に対し、空戦を挑んだのは日向の冨髙海軍飛行場307飛行隊(計64機)のみ。
空襲の間「本土決戦に備えて戦力温存」という命令で、赤江や都城西の戦闘機は掩体壕の奥へ隠されていたのです。
赤江飛行場周辺の対空砲陣地だけが激しく応戦したものの、撃墜できた敵機は僅か1機。都城、新田原、富高の対空砲もそれぞれ敵機を撃墜していますが、被害の方が甚大でした。
宮崎上空で孤軍奮闘する307飛行隊も2日間の防空戦で十数機を失い、鹿児島へと去っていきました。
赤江飛行場の地上施設も壊滅し、指揮所や魚雷格納庫は本郷、殿山、源藤の地下陣地に移されます。

3月18日の初空襲ですが、軍部が情報封鎖していたと思われる奇妙な証言が残されています。

三笠宮殿下が、紫明館においでになったのが十七日、その夜は宿泊されることになってたんだ。
ところがお付きの副官が「明日は赤江の基地が攻撃される」って云うんだね。それで家では防空壕を掘って、それも特別頑丈なのをね。ところが夜になって、ここでは危険だからと当時平和台の裏に久留米の第十二師団司令部があったんだが、そこの壕に移られた。
それからが大変でね、アメリカの機動部隊が去るまで、毎日毎日弁当づくりですわ。
作った弁当は運転手が車で運んだが……。三日ぐらい運んだと思うがね。
そういうことじゃから、十七日の夜は眠れんとよ。それで大淀川を眺めちょったら、明け方、照明弾が二発、赤江の上空に……。
南の空がパアッと明るくなってねえ。
米軍機は山の方から襲いかかって海に逃げるのよ。日本軍の高射砲を避けるためにね。
高射砲陣地は稲荷山にあってね。盛んに撃つんじゃけど当たろうか。
でもね、一機墜ちて。飛行士は死んじょったけど、靴とか遺留品があってね。後で山形屋に展示したりした。
戦後、米軍が進駐して来たでしょう。この時一騒動あったつよ。
米軍の将校が警察署長に拳銃突きつけて、死体は何処に葬ったかって。赤江の警防団が丁重に葬っていたため問題にならず、むしろ感謝されたという話じゃった。米軍はどこで飛行機が落ちたかぐらい分てるわけね。
粗末に扱ってたら誰かが戦犯に問われたね

三上謙一郎著「記録・宮崎の空襲」より 旅館「紫明館」川野満雄氏の証言

敵機動艦隊の接近を行政や住民に知らせ、警戒態勢をとらせるのが軍の役目の筈。しかし軍部はそれを隠し、第一撃を受けるまで無防備状態に置いていたのです。
陸軍と海軍の間でもレーダー情報が共有されていなかったらしく、沿岸部の海軍飛行場は18日早朝から警戒態勢に入っていたものの、都城の陸軍飛行場には敵機接近の情報すら伝達されていませんでした。
本土決戦の最前線となる宮崎の、これが防衛の実態でした。
前哨戦の段階でコレですから、もしも本土決戦になれば、さらに悲惨な状況になったことでしょう。

米軍の宮崎上陸を牽制する沿岸張り付けの陸軍154師団(西都)、156師団(宮崎市)等と、その背後から反撃を加える機動打撃部隊の212師団(都農)が展開していたものの、212師団の桜井師団長は「地形上、宮崎県での機動戦は不可能」と判断。各地に踏みとどまっての玉砕を覚悟していました。
本格的な上陸作戦が始まれば、宮崎県沿岸部は猛烈な艦砲射撃と空襲で壊滅し、大量の避難民を抱えた悲惨な撤退戦が演じられた筈。その住民避難計画も宮崎県警本部に丸投げされており、県内各自治体の首長へ通達されたのは昭和20年夏になってからでした。
住民を巻き込んだ沖縄戦の惨劇が、宮崎でも再現されようとしていたのです。

3月以降、パッタリと空襲は途絶えますが、米軍機は沖縄戦の航空支援に廻っていただけ。
沖縄の敗色が濃厚となった4月下旬に宮崎空襲は再開されました。他県から飛来する戦闘機がB29を迎え撃ちますが、宮崎県内の防空戦闘機は掩体壕の奥で沈黙し続けます。
執拗な空襲を受けた赤江・都城西・新田原の各飛行場は機能を失いつつあり、富高飛行場は特攻機の中継地と化し、唐瀬原飛行場の挺進飛行隊はフィリピンの降下作戦で消耗、都城北飛行場の特攻機は出撃に備えて秘匿され、新たに小林とえびのにも特攻基地が建設される中、都城東飛行場だけが細々と特攻機を送り出していました。

「我が軍の戦闘機はどこにいるんだ?」と歯ぎしりする宮崎市民を嘲笑うかの如く、米軍機は波状攻撃を繰返します。
宮崎県の軍用飛行場群は、台湾や沖縄を守るための後方拠点に過ぎません。戦略的にはそうだったのですが、土地や財産を提供し、飛行場の建設奉仕作業に協力した宮崎県民にとって、郷土の空を守ろうとしない軍の方針は理解しがたいものがありました。
いっぽう、沖縄の攻防戦には持てる特攻戦力が注ぎ込まれます。


昭和十九年から二十年にかけて、第一宮崎国民学校の六年生だった。
勤労奉仕なるもので、赤江飛行場に駆りたてられたのは、軍用飛行場の増設、延長の工事であったのだろうか。
我々には、そんなことは分からないが、とにかく軍用トラックに積み込まれた六年生、約百八十名が赤江の飛行場へ向かう。
飛行場では作業の責任者の説明を受けて作業にかかる。赤子の頭ほどの石を埋め込む。その道具は直径一メートル位の、コンクリート円筒形のローラーである。真ん中に穴があり、それに鉄棒が通してあって、その両端に長い綱がかけてあり、これを両方に分かれて引っ張るのである。
ローラーは静かに回り始め、並べられた石は次々に地下に埋まっていく。この石が、どのような効果があるかわかるはずはない。
炎天下、汗にまみれて、ただ黙々と綱を引っ張るだけである。やがて石が埋められたあとは、作業員たちがコンクリートを流し込んで平らに、ならしていく。
この過程からわれわれは、飛行機のえんたい壕堀りの場所に移動する。
滑走路には、呑龍、銀河、靖国という爆撃機や何機かの戦闘機を見た。今おもえば、これらの飛行機は、鹿児島の知覧や沖縄方面に飛んだのだろうと思う。
移動する際に何人かの飛行兵に会った。若くりりしい、あこがれの飛行機乗りの兵隊さん、羨望の目で見たものだった。
その時の年令推定が十七、八才だろうか。
「今からどこへ行くと?」と問うても黙として語らず、静かに笑みを浮かべながら、ポケットから携帯口糧の乾パンを出してくれた。一口大の固いものだったが、当時は食糧も逼迫しており、珍しくありがたく、とてもうまかった。
飛行帽の下に日の丸の鉢巻が見えた。特攻隊員であったろう、そう思った。
彼も戦闘機もろとも、若い生命をささげた一人であったかもしれない。「コノシロ」少尉といった。その姓は忘れない。
乾パンの味と、童顔だった隊員のことを思うと、あれからどうなったのか、胸が痛む。
やがて戦局もきびしくなり、B29や艦載機のグラマン、カーチスなどの爆撃を受けるようになる。
特に赤江の飛行場は、艦載機の波状攻撃が連日であった。赤江の飛行場には、二度と行くことはなかった。その後、どうなったのだろうと気にする前に、我々の身辺にも危険が迫ってきた。
住んでいた瀬頭町は、赤江の対岸でもある。戦闘機、グラマン、カーチスは頭上すれすれに宮崎駅方面に舞い上がり、旋回しては一ツ葉方面に出て、ふたたび赤江に爆弾投下。そして機銃掃射を繰り返す。
日本の飛行機は何をしているんだと、歯をかんだ。
六年生の卒業式も、どうであったかよく覚えていない。

平川亘氏「戦後五十年」より

台湾と沖縄へ迫る米軍に対し、日本の陸海軍は特攻作戦と通常攻撃を織り交ぜて対抗。赤江飛行場からも、特攻隊と雷撃隊が続々と出撃しました。
しかし、米艦隊はレーダーと迎撃機を組み合わせた堅固な防空システムを構築しており、それを突破するのは容易ではありません。迎撃をかいくぐって肉迫する特攻機には、熾烈な対空砲火網が待ち構えていました。
こうして、宮崎を飛び立った多数のパイロットが沖縄近海に散ります。
特攻隊と同じく、雷撃部隊も大きな損害を被りました。
5月7日には被弾した雷撃機が赤江への帰還中に炎上、日豊線青井岳駅附近の天神山に墜落します。都城市近郊へ墜ちたというのに、彼らの遺骨が故郷へ戻ったのは戦後20年も経ってからのことでした。
軍による箝口令と戦争末期の混乱で、事故のことが忘れ去られてしまったのです。日向や日南の海上で撃墜され、今なお遺骨が回収されていないパイロットも少なくないのでしょう。

必死の特攻作戦もむなしく、米軍の宮崎空襲は激しさを増します。
当初は赤江飛行場に集中していた米軍艦載機の空襲も、B29戦略爆撃機による住宅地や農村への無差別爆撃へと移行。市民は次々と疎開し、宮崎市街はゴーストタウンの如き様相を呈し始めます。
梅雨が訪れても、B29は雨雲の上から爆弾を投下しました。やがて、袋叩きに遭った赤江飛行場は機能を停止。宮崎市街も灰燼と化します。

戦争末期まで激しい空襲が続きますが、幸いにも宮崎の海岸に米軍が上陸する事はありませんでした。
昭和20年10月、進駐軍のマスマン少佐一行は日豊線に乗って宮崎駅へと降り立ったのです。

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機影
旅客機の合間を縫って、宮崎航空大学の練習機が飛行訓練をおこなっています。

昭和20年の敗戦によって、赤江飛行場は進駐軍に接収されます。周辺地域の多くは民有地として開放されました。
飛行場として再建されるきっかけは、昭和25年の空港誘致運動から。
昭和29年11月、赤江飛行場は航空大学校の訓練場「宮崎飛行場」として復活します。年末には旅客機の発着も始まりました。
軍用飛行場時代に比べて敷地面積は半分となりましたが、中心市街地に近いという利便性から宮崎飛行場はその機能を拡充。第二種空港に指定されたのは昭和36年で、以降は「宮崎空港」として空の玄関口となりました。
周囲に残された掩体壕だけが、民間空港となった現在も戦時の記憶を伝え続けているのです。

赤江

 海軍赤江飛行場、傷痍軍人療養所、対空陣地7群(20ミリ機関砲×11他)
 赤江飛行場建設土砂採取場および哨戒機滑走路
 第5~7号戦闘機用掩体壕および第8・9号弾薬庫、および名無しの弾薬庫
 第1~4号爆撃機用掩体壕および誘導路
 本郷地区地下指揮所および魚雷調整所、霧島高射砲陣地および探照灯
 殿山地下司令部および海軍呉施設部事務所・戦闘指揮所、高射砲陣地
 稲荷山および峰(赤江中学校附近)の高射砲陣地
 飛行場要員兵舎(現在の月見が丘~柳籠)、パイロット用宿舎は本郷に設置。
※青線は陸軍落下傘部隊の宮崎市行軍演習ルート。
画像は川南の落下傘部隊が使っていた演習用地図です。戦時中の地図では、軍事施設が意図的に削除されていました。

それでは宮崎空港周辺の軍事遺構について解説します。

【滑走路および誘導路】

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海軍赤江飛行場の滑走路は、現在の宮崎空港滑走路となっています。

河川緑地
山内川河川緑地。向かいに見える一ッ葉有料道路の反対側が宮崎空港。
旧軍の赤江飛行場には、現在の宮崎空港と同じ海岸と直角の滑走路1本に加え、もう1本の滑走路がX状に交差、他に1本の短距離滑走路も設置されていました。
山内川緑地は、戦後に放置されていた廃滑走路の端の部分を掘り下げ、山内川の増水・氾濫対策用の調整池としたもの。
普段は水が無いので運動場として使われていますが、豪雨の際は手前のコンクリート構造部から氾濫した川の水が流れ込む仕組みです。

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空港敷地内に残る、現滑走路と交差する旧滑走路の一部。現在は掘り下げられ、調整池となっています。
ここから手前側に延びる部分が山内川河川緑地として開発されました。

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滑走路から延びる誘導路跡。

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誘導路跡を横切るJR宮崎空港線と日南線。地方の小さな空港ですが、直通線路があるなどアクセスだけはやたらと便利です。

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本郷団地方面へ続く狭い道。かつての爆撃機用誘導路を流用したもので、戦後に宅地化される前は道幅もはるかに広かったとか。

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誘導路から殿山地下陣地(奥に見える林)への分岐路

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本郷団地へ続く誘導路跡。宅地開発前は、この附近にも多数の掩体壕が存在しました。バイパスの陸橋を潜ると掩体壕群があります。

【1~4号爆撃機用掩体壕群】

掩体壕
バイパス脇に残る1号掩体壕

宮崎空港周辺に散在している掩体壕群は、昭和19年に建設されたもの。有蓋無蓋併せて多数の掩体壕が建設されました。
戦後の宅地開発で大部分が消滅し、残存しているのは7基のみ。
いや「7基も残っている」と表現した方がよいでしょうか。それだけ貴重な遺構なのです。

空港からバイパスを挟んだ住宅地内に4基の中型機用有蓋掩体壕(通称1~4号掩体壕)、空港滑走路脇に3基の戦闘機用有蓋掩体壕(通称5~7号掩体壕)、空港から一ツ葉有料道路を挟んで4基の弾薬庫(通称8号及び9号、2基は番号なし)が確認できます。
いずれも国土交通省、個人、企業の所有物であり、敷地内への立ち入りは出来ません。

近年は経年劣化による崩壊が目立って心配していましたが、ようやく保存活動が開始されるとのこと。
宮崎の歴史資産として、末永く残して貰いたいものです。日向や都城の掩体壕はアッサリと壊されてしまいましたし。

まずは「銀河」や「飛龍」といった中型爆撃機を格納していた掩体壕について。
敵機から秘匿する為、これら爆撃機用掩体壕は滑走路からかなり離れた丘陵地帯に設置されています。
爆撃機用の有蓋掩体壕は9基が残存していましたが、その後の宅地開発によって5基が撤去。
現在保存されているのは4基だけです(完全なものが3基、1基は半改築状態)。
宮崎市の資料では一号~四号と番号が振られており、すべて民間及び企業の所有物。これらは爆撃機用のシェルターだけあって、幅・奥行・高さとも大型ダンプが2、3台並んで入れる程の大きさです。
掩体壕の建設中に崩壊事故があり、赤江飛行場に勤務していた安田郁子氏の証言では犠牲者も出たとのこと。

【一号掩体壕】(企業所有)

掩体壕

掩体壕
バイパス寄りにあるのが「一号掩体壕」。現在は民間企業の車庫として利用されています。

道路
空港から随分と離れたこの道路沿いに、爆撃機用の有蓋掩体壕が並んでいます。この道路はかつて、赤江飛行場滑走路へ爆撃機を移動させる誘導路でした。車ではなく飛行機が走っていたんですね。

【二号掩体壕】(民間所有)

2号
一号から坂を下ったところにある「二号掩体壕」。民家の車庫として利用されており、車と比較するとその大きさが分ります。

最近では「宮崎空港の戦時遺構を活用しよう」という動きもありまして、イベントなども開催されるようになりました。
鎮魂や反戦平和という枠を取り払い、地域の歴史的モニュメントとしてPRするのも喜ばしいことです。人知れず消滅していくより、保存運動につながるかもしれませんし。国有地(防衛省)にある新田原掩体壕と違い、赤江掩体壕7基のうち国有地は2基のみ。残る5基は私有地にあるので、保存の取り組みは大変重要なのです。

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イベントでライトアップされた二号掩体壕。

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地域の行事などと統合すれば、掩体壕でのイベントは継続化できるかもしれませんね。ただ、ここは静かな住宅街の私有地です。周辺への配慮など、クリアすべき問題はたくさんあります。

【三号掩体壕】(企業所有)

3号

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二号に隣接しており、資材置き場として利用されていました。最近になって企業の看板が外されてしまい、今後が気になるところです(2016年撮影)

【四号掩体壕(民間所有)】

4号
戦後、資材置き場として利用されています。
入り口部分が削り取られているのは、敗戦直後に内部の鉄筋を盗まれた跡だとか。

道路の反対側にあった有蓋・無蓋の掩体壕は、全て撤去されました。


【本郷地区地下陣地】


トンネル1

隘道

トンネル4

地下壕2

「四号掩体壕」の先、現在の希望が丘団地付近には海軍の司令壕とされる地下トンネルが3本ほど設置されていました。戦後は「コウモリ道路」と呼ばれていたとか。
昭和20年3月18日の空襲によって赤江飛行場の地上施設は壊滅。司令部や魚雷格納庫などは希望ヶ丘や源藤地区の地下トンネル内に移設されました。
「空襲で怪我をした兵士をここで治療していた」という証言もあり、詳しい用途はわかりません。

現在、希望ヶ丘には丘陵地を通り抜ける隧道として数十メートルの海軍トンネル1本だけが残されています。
先年、隠されていた枝道が陥没事故によって現れたことで、全長200メートル以上に及ぶ地下陣地の存在が判明しました。※そちらは危険防止の為に埋設処分されています。

地下壕3

地下壕4

地下壕5

地下壕6

トンネル3

出口

【殿山地下壕】

もうこの頃の爆撃や機銃攻撃はまったく無差別と言ってよかった。村の小さな川に架かる橋も攻撃された。市街地や集落だけでなく、農村に点在する住家も納屋も焼夷弾や機銃攻撃を受けた。
既に機能しなくなっていると思っていた赤江飛行場も執拗に攻撃を受けていた。
やはり、この前後であったと思う。いつもとは違う激しい攻撃が赤江飛行場に加えらえて、私は最初の空襲の時に見に行った青年学校の見晴らし台に、この時は数人の大人たちと一緒に行った。
滑走路付近から煙は見えなかったが、今は住宅地となっている山手の方から数条の煙が上がっていた。
「なんで、あんげぎょっさん飛行機が来たっちゃろかいね(なんで、あんなにたくさんの飛行機がきたのでしょうかね)」
と一人が言った。
さっきから繰り返されている疑問であったが、他の人達も、わからんねえ、という顔でなおも立ち上る黒煙を見つめていた。
その時「ア、ア、アッ」と、みんな一斉に声を上げた。
数十米あろうかと思われる火柱が、そして黒煙が噴き上がったのである。ドーンというまさに天地を揺るがすような爆発音、続いて爆風が丘の斜面の木々をざわざわと揺すって押し寄せて来た。
狭い見晴らし台に立っていた私たちはなぎ倒されるように平地に飛び降りた。
私はとっさに、訓練で受けた両手で目と耳を覆う行動をとった。訓練では何回もやっていたが、実際に本気でやったのは初めてだった。
しばらくすると周囲でゲラゲラ笑う声が聞こえた。
「今かいしてん、間に合わんわよ」と誰かが言った。私の真剣なしぐさが一層おかしさをつのらせたのであろう。
後で、この時の大爆発は人間魚雷によるものであることを知った

佐藤聿夫「敗戦前後」より

人間魚雷「回天」部隊である海軍第5特攻戦隊は、延岡から日南までの宮崎県沿岸部に潜んでいました。しかし大淀川からの土砂堆積で水深が浅い宮崎市の海岸に潜水艇を収容できる場所はなく、一番近い回天基地も内海港に建設されています。
要するに赤江飛行場と回天は無関係なので、佐藤氏が目撃したのは通常魚雷地下格納施設の誘爆だったのでしょう。

殿山1

希望ヶ丘地下トンネルからバイパスを挟んだ反対側、津和田地区に殿山と呼ばれる森があります。
この殿山も丘全体が地下要塞化されていました。現在は4つのトンネルだけが森の中に残っています。

殿山2

殿山のトンネルも、空襲を避けて設置された赤江飛行場地下施設のひとつでした。
ここには、雷撃機搭載用の魚雷が格納されていたとの事です。

殿山7

殿山トンネル1

殿山3

殿山トンネル2

殿山トンネル3

殿山トンネル4

殿山トンネル5

危険防止の為、各壕は奥行数メートルで埋設処理されています。

殿山4

殿山トンネル6

上の壕から分岐する道を辿ると、もうひとつの壕があります。こちらは掘りかけで放置されています。

陥没1

陥没2

陥没3

陥没4
壕の周辺には、人間がすっぽり入るような陥没跡が幾つもあります。
この丘が開発されないのは、地下トンネルによる崩落の危険があるからでしょうか?

森の中にある殿山地下壕は、生い茂った藪と急斜面に囲まれています。訪れる際は転落や怪我に十分注意してください。
宮崎空港周辺に散在する丘陵地には、今なお未知の地下施設が眠っているのかもしれませんね。

地下壕1


【5~7号戦闘機用掩体壕】


着陸

宮崎空港の近くには掩体壕3基が残されています。滑走路の脇にあるため、旅客機の窓からも見ることが可能。
これらは戦闘機用で、爆撃機用と較べてサイズも小さ目です。

赤江
5号および6号掩体壕。

「五号掩体壕」(国土交通省所有)

戦争遺跡

5N

5号内部1

5号内部2
5号掩体壕内部

「六号掩体壕」(民間所有)

6号5

4号1

新燃岳
六号掩体壕の上空にある「雲」は、遠く新燃岳から流れてきた噴煙。
噴火中、宮崎空港の離発着は中断されます。

6n

D6

a6

b6

c6

ヒビ
6号も経年劣化が進んでおり、ヒビや剥落部分が目立ちますね。

山内川
宮崎空港の脇を流れる山内川。戦闘機用掩体壕があるのはこの川の両岸。

takeoff1

takeoff2

takeoff3

takeoff4

takeoff5

takeoff6六号掩体壕の横を離陸していくスカイネットアジア機。

「七号掩体壕」(国土交通省所有)

国交省

7d

7a

7b

7e

7号C
こちらも風化が酷く、コンクリートの剥落で鉄筋が露出しています。

日航
七号掩体壕と離陸態勢に入った日航機。

着陸1

着陸2

着陸3

着陸4

着陸5

着陸6

着陸7

着陸8

【8・9号弾薬庫】

89号c

一ツ葉有料道路の両側に4基残る弾薬庫(民間所有)。通称「八号」及び「九号」で、残る二つは名称無し。
戦時中には飛行場を護る対空機銃陣地が付近に設置されおり、その弾薬庫だったとのことです。

近寄ろうとして畑を踏み荒らす人もいる様ですが、ここは農作物を作っている私有地なので沿道からの観察のみにしましょう。

89号a

89号b

89号d

掩体壕

掩体壕

8号9号
8号と9号弾薬庫。

弾薬庫は計4基あるものの、8号と9号以外は宮崎市の資料にすら記載されていません。
残るひとつは一ッ葉有料道路を挟んだ反対側、もうひとつは海岸北側にあります。

10号1
8,9号とバイパスを挟んで残存する名無しの弾薬庫。

10号2
他の2基よりひと回り小さく、銃眼らしきものはありません。

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宮崎空港滑走路北側にも弾薬庫が残されています。

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大淀下水処理場方面から広い砂浜をテクテク歩いていくと、滑走路にぶつかります

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海岸から防風林の遊歩道へ

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段々と茂みが深くなっていきます

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こちらが滑走路北側に残る弾薬庫。海岸付近には対空機銃陣地とデコイ(囮の偽飛行機)が設置されていました。
敵機からの攻撃を逸らすためのデコイでしたが、米軍側は偵察写真の分析で見破っていたとのこと。

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この弾薬庫は天井部分が崩落しており、現在は伐採木の廃棄場所になっています。

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崩落により露出した断面。掩体部分のコンクリートの分厚さがわかりますね。
内部は人の背丈ほどに掘り下げられ、半地下式の壕となっています。

【稲荷山対空陣地】

宮崎空港近くの宮崎県警南警察署の裏には、稲荷山公園という小高い丘があります。
稲荷山と赤江中学校付近には高射砲が設置され、赤江飛行場を護っていました。

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稲荷山の頂上より眺める宮崎空港と、着陸態勢にはいったANAの旅客機。
戦時中には、ここから赤江飛行場へ飛来する米軍機に激しい対空砲火を浴びせていました。

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稲荷山山頂にある忠魂碑。明治以降に出征・戦死した地元出身の軍人を祀ってあります。
また、稲荷山公園一帯に広がる月見ケ丘住宅地は、かつて赤江飛行場勤務者の宿舎となっていました(パイロットの宿舎は本郷北方附近)。
隣接する宮崎農業高校グラウンドには、敗戦後に武器弾薬類が集積・破棄されています。

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稲荷山公園へ続く道

【飛行場用土砂採掘跡】

タンポリ

八重川河口付近にある単堀(タンポリ。水溜りの意味)。正式名称は津屋原沼。
現在はレジャーボートの係留池ですが、元は海軍赤江飛行場建設時に土砂を採掘した場所です。飛行場建設後に採掘跡が八重川と繋がり、津屋田沼となりました。
タンポリとは津屋田沼の固有名ではありません。
激しい爆撃を受けた赤江飛行場周辺には大型爆弾の爆発孔が幾つもあり、それに雨水や地下水が溜るとタンポリと化しました。
戦時下の子供達にとって、タンポリは格好の遊び場だったとか。

「日豊線には直撃弾が当たり、鉄道は切断され、布設してあったレールは飴のようにまがったり1メートルぐらいに寸断されて5メートルも10メートルも高く遠く飛ばされ、農家の田畑や山の中等に落ちていた。
線路の脇の田圃に出来た単堀は、直径は一回り小さかったが、たいへん深い掘が出来ていた。確か故・石山清さんの田圃だったと思うが、そこの単堀はかなり深かったので、水は青く澄み底の魚まで見えていた。
その単堀の周辺には土はなく、殆ど田圃と同じ高さになっており、溝や八重川からあがってきた魚は単堀の深みを住み場所にしていた。鮒や鯰、時には鰻や鯉等も泳いでいるのがはっきり見えていた。
当時単堀では魚を釣るといったことはあまりしなかった。釣るよりも単堀や堤にダイナマイトをしかけて水中で破裂させショック死させて掬い取るという漁法があった。
ダイナマイトや導火線は中野の兵舎跡にいくらでもあったので、それを堂々と拾って来て使っていた」
「単堀の思い出」より 石川秀雅氏の証言

水路
チョッパー
大淀川河口からタンポリへ繋がる水路と、その脇にあったトニートニー・チョッパー。

津屋田沼の脇にも軍用滑走路が建設されました。哨戒機用に予定していたのだとか。
敗戦後、津屋田沼は不要兵器の投棄場所と化しています。

【傷痍軍人宮崎療養所】

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現在の国立宮崎東病院

宮崎空港の近所に宮崎カントリークラブというゴルフ場があります。
ゴルフと言えば早起きして車を何時間も運転して辿り着くイメージもありますが、ここは宮崎空港・高速道路の宮崎IC・宮崎空港駅から車で5分程度の距離。やたらと交通の便が良いので、県外からプレーに来る人も少なくありません。
で、このゴルフ場の近所にあるのが国立宮崎東病院。
此処はかつて、傷痍軍人宮崎療養所でした。

赤江飛行場の南側にある宮崎療養所では、傷痍軍人の治療をおこなっていました。
しかし此処も空襲に巻き込まれたため、入院していた傷痍軍人の転院・退院措置がとられます。
昭和20年4月28日の赤江空襲で、療養所も遂に炎上。事前の避難にもかかわらず、残っていた職員1名、入院中の海軍軍人1名が爆死しました。この日をもって療養所は閉鎖されます。

【武器集積所】
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稲荷山対空陣地裏にあった農業高校グラウンド。

戦後、赤江飛行場一帯の武器弾薬類は宮崎農業高校のグラウンドへ集められ、解体・破壊処理されました。
一部の弾薬などはタンポリなどへ投棄されたと伝えられています。
進駐軍は徹底的に日本軍の兵器類を探し出し、無力化へ努めました。


【戦没者慰霊施設】

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忠魂碑C

忠魂

興味本位で史跡を見て廻るのも良いのですが、赤江飛行場から飛び立って行った特攻隊員を悼む気持ちがあるならば、この場所にも立ち寄ってみては如何でしょうか。

空港正面

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戦争遺跡

戦争遺跡
特攻花と称されるオオキンケイギクですが、実際の特攻とは関係ありません。後世に語り継がれる中で、なぜかこの花が特攻花として誤解されてしまったのです。
赤江飛行場に勤務していた安田郁子氏が述懐しているように、特攻隊員を見送る女学生が手折ったのは桜の花でした。

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この地から出撃した陸海軍パイロット達の名が刻まれています。

特攻花


赤江門3

赤江門2

赤江門1

赤江門4
慰霊碑から用水路を挟んだ滑走路側に残されている赤江飛行場の門柱。

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宮崎空港

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