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川南護国神社空挺部隊慰霊祭

Category : 空挺慰霊祭 |

1943(昭和18)年に高鍋町・小丸川で敢行された渡河訓練で亡くなった兵士8人を供養する慰霊祭は16日、水神碑が立つ同町北高鍋の稲荷神社境内であった。地元の御屋敷、萩原地区の住民が毎年欠かすことなく70年以上続けているもので、雨が降りしきる中、約30人が参加。住民たちは「高鍋で起きた悲劇を忘れることなく、後世に語り継いでいかねばならない」と誓いを新たにしていた。
宮崎日日新聞「小丸川の悲劇後世へ 住民ら、70年超慰霊続ける」より 2016年6月16日

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宮崎県児湯郡川南町トロントロンにある、川南護国神社の空挺落下傘部隊発祥之地碑。厳密な意味での「発祥」は浜松陸軍飛行学校であり、川南は陸軍空挺部隊が4個連隊へ規模を拡大した地です。

和歌山県の霊場・高野山。まだ観光客が少ない早朝に散策すると、この地に記された長い歴史を実感できます。陸軍空挺部隊の慰霊碑「空挺落下傘部隊将兵之墓」が安置されているのも高野山ですね。
ただし、和歌山県に陸軍空挺部隊が駐屯した史実など一切ありません。

千葉県の陸上自衛隊習志野駐屯地では、空挺館で旧軍落下傘部隊の資料が展示されています。自衛隊と日本軍の区別もつかないのか、ここが旧軍落下傘部隊の拠点であったかのように勘違いしている人もいます。
しかし、習志野で陸軍空挺部隊が演習を行ったのは1回程度。ほぼ無関係です。

熊本県の陸上自衛隊健軍駐屯地と沖縄県の摩文仁には、義烈空挺隊(第1挺進団挺進第1連隊第4中隊および第3独立飛行隊)の慰霊碑が設置されています。
健軍飛行場が義烈空挺隊の出撃地であり、沖縄が散華した場所だったからです。ただし、義号部隊が健軍に駐留していたのは僅か2週間程度。部隊結成からの大部分の期間は豊岡、浜松、唐瀬原、西筑波の各飛行場を転々としていました。

鹿児島県の知覧特攻平和館でも、高千穂空挺隊(第2挺進団)や義烈空挺隊の展示があります。
「知覧に落下傘部隊がいたのか!」と早合点する観覧者もいるようですが、陸軍特攻作戦の記録として館内に展示してあるだけで、鹿児島県と陸軍空挺部隊は全くの無関係です。
知覧では、ごく最近まで唐瀬原飛行場の説明展示が欠落していたのも(欠落の理由は不明。先年、昭和史談会さまの監修でようやく掲示されました)誤解の原因でしょう。これは知覧側の責任ではなく、特攻の記憶から目を逸らせ続けてきた「観光宮崎」の罪です。鹿児島に次いで多くの特攻隊員が出撃した宮崎は、なるべくして「忘れられた特攻の地」と化しました。

その宮崎県の高鍋町にも、陸軍落下傘部隊挺進第4連隊員の慰霊碑が人知れず設置されています。
冒頭のとおり、小丸川渡河演習で溺死した空挺隊員8名と、レイテ降下作戦で散った同僚たちの冥福を祈るためのものです。

高鍋町の南側にある新富町の航空自衛隊新田原基地には、「空挺歌碑」が設置されています。
陸軍新田原飛行場が、満州から移転した第1挺進団や挺進飛行隊の基地だったからです。

高鍋町の北側にある川南町にも、「空挺落下傘部隊発祥之碑」が設置されています。
この地が陸軍落下傘部隊の本拠地「唐瀬原飛行場」であり、かつ空挺隊員の慰霊施設「挺進神社」の在った場所だからです。

空挺歌碑
航空自衛隊新田原基地に設置されている空挺歌碑。中村第一挺進団長による陸軍空挺隊史のほか、高千穂空挺隊員や義烈空挺隊員が出撃前に詠んだ歌が刻まれています。
宮崎県新富町にて

水難事故
宮崎県高鍋町にある、挺進第4連隊小丸川水難事故の慰霊碑「八勇士殉職碑」拓本。唐瀬原飛行場から新田原飛行場への演習行軍中に起きた悲劇でした。
演習担当者の榊原中尉は責任を取って自決を図りますが、毒薬を求めて訪れた延岡市で医師が思いとどまるよう説得。しかし後のレイテ降下作戦で、彼の部隊は片道特攻に等しいタクロバン飛行場攻撃を志願します(地上部隊との連携作戦が前提だったのはブラウエン飛行場攻撃隊のみ)。溺死した部下たちの位牌を抱いて出撃した榊原中尉ですが、タクロバンおよびドラグ降下部隊はレイテ湾上空で全機撃墜されました。
冒頭に掲げたとおり、戦時中の水難事故については現在でも高鍋の人々による慰霊が続けられています。

国立病院1
川南町にある、陸軍落下傘部隊・挺進第3連隊兵舎の給水塔。挺進第1~第4連隊は、唐瀬原飛行場や塩付パラシュート降下場周辺に駐屯していました。国内に残る、唯一にして最大の陸軍空挺部隊の遺構です。
川南空挺基地は戦後の農地開拓で消滅しましたが、この給水塔だけは町のシンボルとして保存の努力が続けられてきました。観光パンフの表紙を飾ったりしてもいるのですが、宮崎県民以外には知られていません。
川南町唐瀬原にて、2004年撮影

高千穂空挺隊
高千穂空挺隊(第2挺進団・挺進第3連隊および第4連隊)が、出撃前に遺した「花負いて 空射ち征かん雲染めん 屍悔なく吾等散るなり」の碑文。レイテに降下した高千穂空挺隊ですが、悪天候により後続部隊の投入に失敗。米軍の反撃と飢餓地獄の逃避行により、白井挺進第3連隊長以下、第一波降下部隊は文字通り全滅します。生存者は、搭乗機が撃墜されて海上漂流中に捕虜となった4名のみでした。
残る高千穂空挺隊の予備兵力は、徳永第2挺進団長と斉田挺進第4連隊長の指揮下に分散し、フィリピン各地での死闘を展開します。
川南護国神社にて

こうして各地で慰霊が続けられる中、高野山が空挺部隊の慰霊を受け入れたのは、敗戦から11年後のこと。
陸軍空挺部隊とは縁もゆかりもない和歌山県に、なぜ慰霊碑が存在するのでしょうか?

因みに、陸軍空挺部隊の国内拠点は以下の三箇所でした。
・第1挺進集団司令部があった唐瀬原飛行場(宮崎県児湯郡川南町)
・第1挺進飛行団司令部があった新田原飛行場(宮崎県児湯郡新富町)
・滑空歩兵連隊と滑空飛行戦隊の訓練地であった西筑波飛行場(茨城県つくば市)

日本陸軍空挺史を知りたければ、先ずこの3飛行場について調べましょう。

「陸軍落下傘部隊の慰霊施設は高野山のみ」という短絡思考は、こと「空の神兵」を美化・賞賛する人々に目立ちます。
通常、何かの碑に対しては対象の成り立ちやエピソード、建立に至る経緯などが掘り下げられるのですが、陸軍落下傘部隊の慰霊を語る者が口にするのはパレンバンやレイテの戦闘場面ばかり。対象の部隊がどうやって誕生し、どこで成長し、個々の隊員がどのような日常をおくり、なぜ高野山へ建てられたかの経緯は完全無視です。
彼らが落下傘部隊史のバックグラウンドに目を向けず、せいぜいお手軽ネット検索で調べた気になった結果、戦場の武勇伝ばかりに偏向している証でもあるのでしょう。

その手の人々による「口先だけの慰霊」を見せつけられては、「英霊を讃えよ」という言葉が空しく聞こえます。

「空の神兵」を真に讃えてきたのは、ネット上で聞きかじりの武勇伝を喧伝する軍事オタクではありません。それぞれの地域で、半世紀以上も慰霊碑に手を合わせ、花を手向け続けてくれた人々なのです。
そういった人々にもきちんと目を向け、取材し、記録してきたのは、もちろんミリタリー雑誌などではありません。地道な取材活動による貴重な記録を残してくれたのは、軍事オタクが「マスゴミ」などとあざける地元紙の記者。そして丹念に歴史を掘り起こしてきた郷土史家でした。

その体たらくを見ていれば、「口先だけの慰霊」などと揶揄したくもなるのです。

前提条件として、陸軍空挺部隊の慰霊を語る者は、挺進神社の存在とその焼失から説明してください。聞かされる方は高野山慰霊碑建立の経緯なんか知らないのですから、慰霊史を調べて説明するのは解説者としての義務でしょう。
誰も彼も、なぜそこを省略するのですか?まさか、解説する側のくせに陸軍落下傘部隊の歴史すら調べていないの?

戦後70年間、「空の神兵」を蔑ろにしてきたのは一体誰なんですかね。

戦争遺跡
川南護国神社(宮崎県児湯郡川南町)

【空挺兵舎の幽霊事件】

その勇ましさばかりが喧伝される陸軍落下傘部隊。
書籍やネットで取り上げられるのはパレンバン降下作戦をはじめとする派手な活躍ばかりです。
だから、敗戦によって宮崎県の空挺部隊がどのような運命を辿ったのかを知る人は少ない筈。川南から殆んどの空挺部隊施設が消滅してしまった現在、かつて「軍都」と呼ばれた時代の記憶は薄れてきています。

さて。
嘘かマコトか、敗戦直後の宮崎県児湯郡川南で「空挺隊員の幽霊が出た」という騒動の記録があります。
バカバカしいと思われるかもしれませんが、この事件は川南護国神社の碑文や地元新聞でも取り上げられているんですよね。

まずは、川南護国神社建設の切っ掛けとなったこの事件について記します。

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「川南護国神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」より、護国神社建設の経緯が記してあります。

川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来
昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった 
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である

平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同

川南護国神社の碑文より

空挺部隊の基地であった面影を唐瀬原に残すのは、一基だけの給水塔だけだろうか。
かつては九つあったという。
戦友、遺族が川南町護国神社に「空挺部隊発祥之地」の慰霊碑を建てたのは六三(同三八)年。日本の神兵桜に守られて立つ。
戦後すぐにこんなうわさが立った。
空挺部隊の旧兵舎を校舎にしていた宮崎師範学校で、「夜になると白い体操服姿の青年たちが走り回る」と。
この年、落下傘部隊戦死者の霊が慰められた

宮崎日日新聞特集記事「空の神兵の悲話」より

その後、誰れ言うとなく、この神社の森の中で夕方になると、大勢の兵士達がザク〃〃と軍靴の音をたてゝ行進し、森の奥に入ったかと思うと、しばらくして軍歌が聞こえてくる。
遠くなり近くなり、さもこの地で、あたかも兵士達が教育を受けていたかの如く、当時そのまゝである。
当時の新聞まで載り騒がれたというが、誰れいうとなく、これはまさしく一萬の英霊が社を焼かれ、その果てにこの森にさまよっているのだ

「川南開拓史」より

戦後の川南で起きた幽霊騒ぎ。
碑文にある通り、これはある出来事に端を発していました。

【空挺部隊と挺進神社】

昭和19年、睦地区にあった陸軍挺進練習部(落下傘部隊の訓練司令部)本部庁舎右手に挺進神社が建立されます。
これは、コンクリートで固めた高さ1メートルの台にたつ小さな社で、戦死および殉職した空挺隊員を祀るものでした。
同年秋、挺進練習部は「第一挺進集団」に改編されてフィリピンへ出撃。第二挺進団「高千穂空挺隊」のレイテ降下作戦や滑空歩兵連隊によるルソン防衛戦で、米軍との死闘を演じることとなります。降下作戦を支援する挺進飛行隊や滑空飛行戦隊も、少なからぬ損害を被りました。
第一挺進集団のうち、国内には第一挺進団の2個空挺連隊、挺進整備隊、挺進戦車隊のみが温存されました。留守を預かる第一挺進団司令部は、神社の管理も担当しています。
戦時中、数多くの空挺隊員が南方で、沖縄で、訓練基地のある宮崎や茨城で命を落としました。
挺進神社は、彼等を末永く弔うためのシンボルだったのです。

昭和16年、浜松飛行学校から満州国白城子飛行学校へ移転した陸軍落下傘部隊は、実戦化へ向けた研究と訓練を開始しました。
しかし、白城子は年の半分が雪に閉ざされ、訓練不可能と判明。迫る日米開戦へ向け、わずか3か月ほどで内地への帰還が決定されます。
選ばれたのは、冬でも温暖で軍用飛行場とパラシュート降下場を確保できる宮崎県でした。
昭和16年、満洲から宮崎県新田原飛行場へ移転した陸軍落下傘部隊は、猛訓練を開始します。危険の多い部隊ですから、当時の挺進連隊は兵舎近くの宮崎神宮や日向住吉神社に安全祈願を依頼していました。
日米開戦後、戦地へ投入された空挺部隊では、多数の隊員が命を落とします。戦況の激化により、更なる犠牲も予想されました。
そこで、川南の挺進司令部では独自の戦没者慰霊施設設置を計画しました。
挺進練習部本部庁舎右手に「挺進神社」が建立されたのは、昭和19年のこと。これは、コンクリートで固めた高さ1メートルの台に立つ小さな社で、戦死および殉職した空挺隊員を祀るものでした。
同年秋、挺進練習部は第1挺進集団へ再編。
塚田集団長率いる第1挺進集団(挺進集団司令部、第2挺進団、挺進飛行戦隊、滑空飛行戦隊、滑空歩兵第1連隊、滑空歩兵第2連隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊)はフィリピンへ出撃。
川南には、本土防衛に備えて第1挺進団(挺進第1連隊、挺進第2連隊)、挺進戦車隊、挺進整備隊のみが残されました。
神社の管理も、留守を預かる第1挺進団司令部が担当しています

そして昭和20年夏、日本は敗北。同時に、川南の第1挺進団には塚田集団長不在のまま戦後処理が命じられます。
東京へ呼び出された第1挺進団長には「唐瀬原飛行場と塩付パラシュート降下場の農地開放」が指示され、千歳や福生で出撃準備中だった特攻部隊もそのまま解散。
米軍九州上陸に備えて川南一帯に備蓄していた軍需物資も、宮崎県側に移譲されました。
10月になって宮崎県へ展開し始めた進駐軍は、復員業務の促進、武器装備の捜索、地元に帰農した挺進団幹部や元空挺隊員の動向監視など、川南の空挺部隊を徹底的に解体します。
戦地から復員してくる空挺隊員の療養・就職先として、元隊員らによる霧島温泉地での運送会社設立も検討されました。しかし、進駐軍は空挺隊員の再集結を阻止。
昭和20年11月30日に残務処理班も解散となりますが、メンバーは国立宮崎療養所(旧唐瀬原陸軍病院)に職員として潜入します。これは、やがてフィリピンから帰国してくるであろう空挺傷病兵たちを受け入れるためでした。

【挺進神社焼失】

戦後の川南では大規模な農地開拓がスタート。同地の空挺兵舎群には入植開拓者や空襲で焼け出された宮崎師範学校が間借りする事となりました。
戦後処理にあたる第1挺進団長の中村勇大佐(当時、塚田挺進第1集団長や徳永第2挺進団長はフィリピンに展開中)は、その後も川南に留まります。
戦後、借家を引き払った後はあばら屋に住み(この家は、団長の困窮生活を見かねて挺進司令部の木下大尉が高鍋町役場から貰ってきた廃材で作ったものでした)、農作業の傍らパラシュート降下場跡へ入植する元空挺隊員の帰農支援や挺進神社の世話を続けていました。
しかし、とても挺進神社の管理までは手が回りません。神社の管理は、空挺兵舎に寄宿する宮崎師範学校へ委託されました。

川南村に進駐軍が姿を現したのは、翌年初夏のことです。

竹山の藷畑も順調に伸びた頃である。
部落の人が日向日々新聞に「白衣の軍歌と駈歩に悩まされている師範学校生徒」という見出しで、落下傘部隊跡に移住した師範学校寄宿舎の生徒が、白衣の亡霊の軍歌や駈歩に悩まされて眠れぬ云々、という記事が出ていると告げてくれた。
それと前後して、挺進神社が進駐軍に焼払われたという噂も耳にしたので、取るもの取り敢えず一里の道を駆けつけてみると、豊原の森と調和のとれたあの美しい社が、跡形もなく消え失せているではないか。
茫然自失、夢ではないかと疑いながらよく見れば、コンクリートの台上には、冷たい焼釘が散乱して哀れをとどめている。
庶務の先生が言うのには、数日前にアメリカの兵隊が役場の吏員を伴って現れ「学校の庭に神社があるのは怪しからん。直に焼払え、中村大佐にも申渡してある」と言うので、命ぜられる通り焼払ったのだとのことである。
祭政一致を目の仇にしている占領政策、しかも散々米軍を悩ました精鋭部隊の戦死者を祭る神社ともなれば、早晩辿るべき運命であったかもしれないが、我々に一言の断りもなくとは、無念の涙は止めどなく流れた。
知らされておれば、英霊をどこかに遷座することもできたのに。
白衣の亡霊とは、かつて体操衣袴を着て営庭を走り廻った亡き将兵の姿であろう。
軍歌の響とは魂の宿る処を失った慟哭であろう。
私はいても立ってもおれない気持に襲われた
(中村勇氏)

焼跡から拾い集めた釘を、中村団長は御神体として神棚に祀ります。

その頃、唐瀬原在住の石川富之助さんはトロントロン(実在の地名です)にある招魂堂の再興を考えていました。この慰霊堂は地元から出征した戦死者474柱を祀るものでしたが、終戦直後の枕崎台風で損壊していたのです。
落下傘部隊や212師団(菊池兵団)の元隊員が多数入植する川南には進駐軍も監視の目を光らせており、元軍人の行動には徹底的な妨害工作を展開。地元の人々もそれを恐れて再建の動きはみられませんでした。

【川南護国神社の建設運動】

いつまでも石川氏の厚意に頼る訳にはいきません。
川南へ帰農した空挺隊員たちの間では「挺進神社を再建したい」と言う声が高まりました。
一部の空挺隊員は貸与された開墾用地を神社敷地に転用しようと計画しますが、進駐軍が空挺部隊の動向に目を光らせていた時代です。結局は農業以外への使用を咎められ、神社再建計画は頓挫しました。

いっぽうの中村団長は「挺進神社の再建は困難」と判断、川南全体の戦没者慰霊を目的とした神社建設運動を始めました。
新たな慰霊施設は、挺進神社から南方へ3kmほど離れたトロントロン(実在する地名です)の戦没者慰霊堂跡地を再建する形に決定します。
中村団長らは焼失した戦没空挺隊員の名簿を復員局で書き写し、川南の人々も進駐軍に怯えながらも神社の建設に着手。こうして、昭和24年に川南護国神社が完成します。
幸いにも進駐軍の妨害はなく、第一回慰霊祭にはたくさんの人が参列しました。
以降、陸軍空挺部隊と川南出身戦没者の合同慰霊祭はこの神社で開催されています。

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11月23日、トロントロンのお祭りの日。近年は資金難により、軽トラ市に変更されています。

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護国神社への入口

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賑やかな歩行者天国から脇に入ると、護国神社で慰霊祭が執り行われていました。

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戦争遺跡
開催合図の花火以外は派手な催しなどなく、慰霊祭は終始淡々と進行します。

義烈空挺隊
2009年の川南戦没者慰霊祭風景。途中、地元中学校の生徒さんが奉納の舞を踊ります(年によって舞が無かったり、4~2名に増減したりします)。空挺部隊の著作で知られる田中賢一氏も、この頃までは式典に参列されていました。私が川南史を調べ始めた1998年当時に比べても、参列者数や式典内容は年々縮小の傾向にあります。

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カーキ色の物体は旧軍の落下傘。

【川南から高野山へ】


川南護国神社が完成してから6年後、和歌山県の高野山にて「陸軍空挺落下傘部隊英霊碑」の建立計画が持ち上がりました。
戦没空挺隊員の慰霊に奔走する中村勇団長と元挺進第3聯隊付軍医の中村秀雄氏により、「聖地である高野山に建墓しよう」という事で意見が纏まったのです。

高野山でなくてもとの意見は、当然あると存じます。
日向の地を離れることについては釈然としない方もあるようで、他の地につていも色々と考えましたが、東京駅頭も、銀座の真中も人目にはつくでしょうが、やはり霊は霊地にあるべきで、日本全国から霊が集っていて、全国の人の参拝の絶間ない処で、最も幽玄な地と思って高野山を選びました。

中村秀雄氏の証言より 昭和31年

高野山本山の近藤本玄大僧正もこの申出に賛同、墓域の付与を許可します。
こうして、高野山には戦没空挺隊員の名簿が収められました。

昭和31年9月21日、川南護国神社から高野山への英霊奉遷式典がおこなわれます。戦没空挺隊員の名簿作成に協力した防衛庁は、赤江飛行場(宮崎空港)に航空自衛隊のC46輸送機を派遣。
川南町から宮崎市までの位牌1万2千柱の輸送は、陸上自衛隊都城駐屯地の第43普通科連隊が担当しました。

美しい川南を英霊を先頭にして、日の丸の小旗を振って送ってくれる町の人達と別れ、つわもの共の夢の跡を辿りながら、十三里の日向路を赤江飛行場に向う。
昭和十八年の渡河演習で、一瞬にして八名を呑んだ恨みの思出を持つ小丸川。それを渡れば高鍋である。
英霊にも懐しい町並を抜け、更に南下して、最近竣工した一ツ瀬川橋梁を渡る。
右後方に紫色に霞むのが新田原の台である。
こゝで降下訓練を行うとき、日向灘から進入すればこの国道の上では既に扉を開いて降下姿勢をとっている。
“まなじり高きつわものの、いづくか見ゆる幼な顔”。決死の訓練が反復されたのである。
川は昔のまゝに流れ、台上は変ることなく紫色につゝまれているが、紅顔の若人達は今何処。
万感交々迫り来る。
一時四十分赤江飛行場を離陸、思出の日向の山野にもう一度別れを惜しみ、C-46輸送機は伊丹に向う。

全日本空挺同志会「高野山建墓の由来 英霊ここに眠る」より

関西へ到着した位牌は、翌日に陸上自衛隊太山演習場へ移動。ここで、習志野から派遣された陸自空挺教育隊40名および海上自衛隊員若干名による記念降下が披露されています(悪天候により半数のみ降下)。
演習終了後、位牌は高野山へ運ばれました。
9月23日午前10時、高野山に建墓された「空挺落下傘部隊将兵之墓」の納霊・除幕式典が開催されます。

この年以降、陸軍空挺部隊の総合慰霊は、川南護国神社と高野山の二箇所へ分れました。高野山は9月、川南は11月と、高野山へ遷座してからも、川南での空挺慰霊祭は続けられています。
陸軍空挺部隊が訓練に励み、戦地へ向かったのはこの町なのですから。

昭和三十一年九月二十三日、夜来の高野時雨に浄められた霊山には秋波の陽光が輝いていた。
晴れ上つた高空に老杉は筆管の直なる如く森々と伸びて百尺余、古苔に寂びる墓石は幾多古人名将知士の物語を秘めて、万山万径を埋めつくし
老杉、古石、法灯連綿として、大聖、弘法大師山を開かれて一千数百年、高野山は正に天下の霊場である。
終戦後旬年、生還した落下傘部隊ゆかりの者が相集い発起、空挺関係全戦死者をこの高野山上に祀ることになり、九月二十一日、川南慰霊塔から遷座、赤江空港(※現在の宮崎空港)より自衛隊機で一万二千有余の霊こもる御位牌を大阪伊丹空港に空輸。
二十二日信太山に於て、習志野空挺隊の慰霊の降下演習を実施され、翌二十三日、戦友遺族、自衛隊挺進部隊関係者、大阪、和歌山県知事、その他来賓多数参席の上、納霊除幕式が行われた。
高野山真言宗管長、総本山金剛峯寺座主、近藤本玄大僧正、全山の浄侶を従へ着座。十時、国歌斉唱、読経、開眼顕彰の祭典が挙行された。
宮内庁御下賜供花、一対の麗花白砂に映えて燦と輝く。
祖国日本の弥栄を願い後に続く者を信じ空挺落下傘部隊将兵の霊は此処に静かに眠る。
の碑文と正面に京都鞍馬の清流の底から見つけて来たという自然石に弘法大師の真筆と認められる歓頂記の中の“空”の文字一字は空挺落下傘部隊の最初の文字であり、
一切空の亡き友の心に通ぜよとの心ぐみを含めて刻まれたとの事でした。
白砂は京都白川のそれとのことでした。
挺三部隊員、僅かの生存者として、宮崎住の野口、都城自衛隊の高橋両君と倶に、川南の忠霊塔前から高野山頂迄、英霊と詣に供し生還した者の責務のいくらかを果し得た様な気持ちでした。
高野山不動院の一室で成瀬君の御両親と出会い、全く言葉もなく、あの日私のとった措置はよかったんかなーと再考致したわけでした。
しかし当時、兵員の体力は極度に衰弱して居り、たゝ気力、精神力のみの行軍で、山をこえ、谷を渡り、かすかなうさぎ道を辿る路傍には友軍のかばねが、既に骨になり、又腐臭を放ち、今息絶えた惨姿が累々として続く、換言すれば三途の川、死生の山路もかくやと思へる苦難行のきわとて全く致し方なかつたのであつた。
ちなみに成瀬君の父君は東京都大島之元町の町会議長さんで旧年、鹿児島市にて開催の離島対策協議会の砌り、小林に立寄られ、一緒にえびの高原等案内致し、次で故田鶴雄君訓練の地、川南部隊、唐瀬原降下場附近を回遊され、感慨無量の面もちであられました。

挺進第3連隊 中園健一「落下傘部隊の思い出」より

空挺慰霊祭
陸上自衛隊の第一空挺団長は毎年参列していますが、2011年の慰霊祭では多数の空挺団員も参列しました。

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慰霊祭当日、川南町役場に並んでいた第一空挺団の車両群。わざわざ千葉県から九州までやってきたんですね(月末の新田原基地航空祭にも出演しています)。
2010年の口蹄疫騒動のときも、陸自の防疫部隊がここに集結していました。そちらはあまり思い出したくない光景ですが。

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この年の慰霊祭は生憎の雨でした。全員が静かに参列し、静かに解散します。

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式典終了後、空挺落下傘部隊発祥之碑を見学する陸自隊員たち。

川南護国神社慰霊祭が開催されるのは毎年11月23日。この半世紀、川南町の人々によって継続されてきました。参列者は元空挺隊員や地元の遺族会、宮崎県や川南町といった自治体や陸自・空自・空挺団関係者など。
たまに地元テレビ局や自衛隊の広報関係者が取材に訪れており、何年か前までは唐瀬原中学校の生徒さんたちが熱心に記録撮影を続けていました。郷土のアーカイブとして、是非とも保存していただきたいものです。
参列する空挺隊員やご遺族が年々減少する中、慰霊祭が「世代交代」によって変質する可能性はないのか。本来の姿を伝え続けるためにも、慰霊祭の記録はとても重要なのです。

【式典風景】

慰霊祭の開催時間中、会場には空挺隊の歴史を描いた絵画17点が飾られます。
この絵画は2セット制作され、1セットは陸上自衛隊、もう1セットは川南町が保管しています。

戦争遺跡
挺進第3聯隊のレイテ降下作戦と挺進第4聯隊のバレテ峠攻防戦

戦争遺跡
挺進第1聯隊の天覧演習と挺進第2聯隊のパレンバン降下作戦

戦争遺跡
滑空部隊の第1挺進戦車隊と第1挺進機関砲隊の演習、第1挺進工兵隊のバギオ攻防戦

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慰霊祭終了後。
設営から後片付けまで、慰霊祭は川南町の人々によって支えられています。

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慰霊祭のあと、川南護国神社で見かけた仔猫

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食べ物の匂いに釣られたのか、屋台の方へ行ってしまいました。



川南の幽霊騒動は、護国神社の完成と共に忘れ去られました。
しかし、冒頭に取り上げた挺進第4連隊員の小丸川水難事故関係でもこんな話が残されています。

小丸川渡河訓練での殉職者を祭った記念碑を毎月お参りする高鍋町持田、農業黒木三夫さん(七一)」は十年ほど前にこんな体験をした。
事故があった前日に当たる六月十七日に供養をして煮しめ、魚、酒などのごちそうを慰霊碑にささげた。
その時、どこからともなく「ありがとうございます」と兵隊調の澄んだ声が響いたという。
黒木さんだけではなく、そこにいた複数の人がその声を耳にした。
若々しい空の神兵たちが、天から私たちを見詰めているのだろうか。

宮崎日日新聞特集「空の神兵の悲話」第4回より 

オカルトや宗教を全く信じない私は、幽霊騒動の真相が何だったかなど知る気もありません。
くだらないと嘲笑う気も、興味本位の怪談として取り上げるつもりもありません。

幽霊騒動を、挺進神社喪失に因るものと真摯に受け止めた人々がいたこと。
多くの戦没者を悼むため、現在も慰霊行事が続けられていること。
その発端でもある幽霊騒動は、川南慰霊施設再建への努力や八勇士の碑保存にまつわる地元の人々の厚意を語る上で忘れてはならない出来事です。
川南町の戦後史や陸軍空挺部隊史に記されるべきエピソードであり、怪談扱いは避けるべきでしょう。

ただ、世の中にはオカルトに興味本位で飛びついたり、空挺給水塔のような戦跡をわざわざ心霊スポットに仕立てたがる人がいるのは仕方ないのでしょう。
しかし、もしユーレイがいたとしても、空挺給水塔のある唐瀬原地区に出てくる筈がありません。唐瀬原に居た挺進第3連隊が壊滅的な損害を受けたのは、フィリピンのレイテ島なのですから。

幽霊騒動が起きたのも現在の県立畜産試験場付近であり、空挺給水塔の場所とは随分と離れていますよね。
期待している人には申し訳ないのですが、給水塔や畜産試験場は心霊スポットにはなり得ません。試験場あたりで夜中に幽霊が出たとしても、それに気付くのは畜舎の牛さんくらいでしょう。

ただ、空挺給水塔の周囲には本当に「出る」ので気を付けてくださいね。特に夏場から秋が危ないそうです。
噛まれると大変ですよ。
毒蛇ですから。

まむし
挺進第3連隊跡地にて
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