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殉職空挺隊員の碑

Category : 空挺隊員殉職事故 |

パラシュートで飛び降りる空挺部隊には、常に危険がつきまといます。
ただし、陸軍空挺部隊の降下装備は安全性の向上が追求されていた上、管理専門の第1挺進整備隊の奮闘もあって、国内でのパラシュート訓練で死亡事故が起きたのは公表されている2件のみ。
満洲白城子の事故を合せても3件だけです。
しかし、それ以外の原因で多くの空挺隊員が殉職しました。

川南空挺基地に関する宮崎県民の証言には「開かないパラシュートを見た」という目撃談が多々あります。
これは、敵の銃撃を避けるために低空ギリギリまで開傘しない訓練や、武器コンテナの投下を遠方から見て「墜落事故だ」と早トチリしたものだと思われます。
当時の川南空挺基地では国道10号線(当時は3号線)すら都農町~川南役場間が封鎖されていたのです。
真近で降下を見学できた民間人など殆んどいません。

陸軍落下傘部隊の殉職事故で一般に知られているのは下記の三つ。

・昭和16年、満州国白城子飛行場墜落事故
降下訓練中、初宿曹長が墜落死亡。陸軍落下傘部隊にとって初の殉職事故となります。
事故原因は、初宿曹長の降下靴にパラシュートの紐が絡みついたこと。創設初期に採用したパラシュートには予備傘がなく、空中でのトラブルには為す術がありませんでした。
以降、装具の改善と新型落下傘の開発が進められます。

・昭和17年4月29日、ラシオ降下作戦墜落事故
悪天候で作戦中止の際、引返す途中に輸送機二機が墜落。
一機はトングーへ着陸直前に失速して墜落炎上、全員が死亡しました。
もう一機は飛行中に消息を絶ち、搭乗していた隊員も行方不明となります。

ラシオ降下作戦殉職者
挺進飛行隊第4中隊
古川武大尉(24)
岡部貞男准尉(27)
四元泰憲曹長(24)
戸澤一曹長(24)

挺進第1聯隊
副島馨大尉(24)
大江忠准尉(27)
伊藤植太准尉(26)
大倉光隆准尉(27)
金田庄助曹長(25)
鹽里傳曹長(26)
小林秀圓曹長(27)
羽藤笹一曹長(25)
高野淸曹長(23)
小澤活曹長(24)
福王子秀一軍曹(24)
中島三郎上等兵(24)
神保機搭乗員は機体未発見につき全員の生死不明(氏名略)

・昭和17年7月21日、宇都宮天覧演習の死亡事故
挺進第一聯隊による天覧演習中、松浦軍曹が墜落死しました。
主傘が絡みついた為に予備傘を開くも、間に合わずに地上へ激突したものです。
入念な準備がおこなわれる大規模演習で起きた、不幸な事故でした。なお、翌年に宮崎県小林軍馬補充部でおこなわれた国内最大の降下演習(全ての空挺連隊が参加)は、無事に終了しています。

この三つ以外にも殉職事故がありました。

・昭和17年2月14日、パレンバン降下作戦での墜落事故
まるで楽勝だったかのように語られる昭和17年のパレンバン降下作戦も、実際は苦戦の末に勝ち取ったものでした。
降下の際に1名の隊員が墜落死したらしいという証言もありますが(ハーネスが脱落)、書類上は戦死として処理されたとか。
また、一連の作戦で南方へ赴いている間、事故や病気で7名の隊員が殉職しました。

3月25日 挺進第2聯隊第4中隊の大谷俊夫曹長(26)が台湾にて事故死
5月17日 プノンペン兵站病院にて挺進飛行隊第3中隊の星野儀作兵長が病死
5月24日 輸送船上で挺進第1聯隊の岡本光雄軍曹(22)が病死
5月31日 プノンペンでロ式輸送機が離陸直後に墜落、挺進飛行隊第1中隊長の筒井四郎少佐(27)が事故死
6月1日 同事故で治療中だった挺進飛行第1中隊の奥村修准尉(28)が死亡
6月2日 昭南島にて第2聯隊臨時第5中隊の來野來兵長(24)が病死
6月5日 ラングーンにて第2聯隊臨時第5中隊の松本周二上等兵(23)が病死
第一挺進團司令部「別冊 昭和十七年 自一月 至六月 戦没者名簿(昭和17年8月9日作成)」より抜粋

・滑空飛行戦隊墜落事故
陸軍空挺部隊滑空班が所沢でグライダーの研究を始めた頃、曳航機がグライダーの墜落に巻き込まれて高山中尉が殉職。
後に茨城県の西筑波で滑空飛行戦隊と滑空歩兵連隊が編成された時の演習では、曳航索の切離しに失敗したグライダーがワイヤーを引きずったまま降下。それを樹木に引っ掛けて墜落、搭乗していた滑空歩兵が全員死亡したとの記録があります。
滑空飛行戦隊では、空襲を避けて北朝鮮へ移転した昭和20年にも死亡事故が続発しました。

「(唐瀬原での)演習終了直後梅雨入りしたため帰還が大幅に遅れ六月下旬宣徳に帰還した。帰還し間もなく挺進団より安井少尉が派遣され執銃地上戦闘が一週間に亘り午前・午後行なわれた。
連日の夜間訓練―午後十一時起床、十二時より払暁に至る訓練、翌日九時より一一時三〇分迄の少飛の人達の滑空訓練など―により、疲労の累積による大事故が六月二十八日惹おこし、吉村・杉田少尉、梅戸准尉が殉職し、山田少尉他一、二名の人が重傷した」
岩佐陽太郎氏「一一七部隊追憶記」より

・昭和18年6月18日、小丸川水難事故
昭和18年には、空挺部隊の国内演習で最悪となる死亡事故が発生。
宮崎県児湯郡高鍋町(川南町と新富町の間にあります)での渡河訓練中、伊藤中尉以下8名もの空挺隊員が溺死したのです。
事故は、挺進第4連隊の新任将校に対する集合教育中に起きました。
川南空挺基地から高鍋町へ行軍した200名は、「対岸の敵が小丸橋を占拠中の為、渡河して対岸へ進出」との想定で小丸川(おまるがわ)の浅瀬を4列縦隊で渡り始めます。
雨上りではありましたが、演習指揮官の榊原中尉は事前の渡河で安全と判断していました。
しかし演習前夜、尾鈴山地の上流域には大雨が降っていたのです。
渡河の最中、小丸川はみるまに増水。その勢いで命綱が切れ、渡河中の隊員は重い装備を身に着けたまま濁流に飲まれます。
縦隊と共に渡河していた教官達と一緒に。

小丸橋
現在の小丸川。この日も前日の雨で増水していました。

岸から見ていたら、中央付近で黄色い流れに吸い込まれるように川の中へ消えていった(宮崎日日新聞「空の新兵の悲話」より)」と、事故を目撃した黒木三夫氏の証言が残されています。
教育隊は何とか岸に這い上がったものの、補助教官の鈴木少尉や演習小隊長の伊藤中尉ら8名の姿はありませんでした。
必死にもがくうち所持していた銃を流失し、上官から怒鳴られた兵もいたそうです。

「兵隊さんが溺れちょる」と叫ぶ声が聞こえました。川のあちこちに死体が流れ着いて町じゅうが大騒ぎでした。

事故発生時付近にいた、陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊 川原正雄曹長の証言より

付近住民や高鍋中学の生徒も駆けつけ、小丸川の河口まで含めた捜索が開始されます。
その中には、高鍋中学に通っていた榊原中尉の実弟もいました。

周囲はやがて暮れなずみ、岸辺ではたき火がたかれた。水死状態の兵士を裸にして体を温めた。人工呼吸をしながら横たわる兵士の名を大きな声で呼ぶ声が聞こえた。
「担架に乗せられ、毛布をかぶせられた死者の足が、たき火の明かりに異様に白く見えた。その印象は鮮やかに残っている

元旧制高鍋中学 押川国秋氏の証言より

3日間の捜索によって、8名の遺体が川の中から引き揚げられました。
ある遺体は、しっかりと小銃を握り締めていたそうです。

これほどの大事故であるにもかかわらず、8名の死は伏せられました。当時の地元新聞にも記事は見当たりません。
ただひっそりと、殉職空挺隊員の慰霊碑が小丸川の岸辺に建立されました。

昭和40年代の護岸工事に伴い、この慰霊碑は小丸川近くの高鍋大師へ移設されています。
かなり異色の宗教施設ですが、高鍋大師の岩岡保吉氏が受け入れてくれたおかげで、慰霊碑は失われずに済みました。

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高鍋大師に設置されている殉職空挺隊員の慰霊碑。戦時中から現在に至るまで、地元の人々が供養し続けています。

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移設された慰霊碑は事故現場を向いています。

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「忠烈 八勇士殉職之地」の碑文より

陸軍大尉 伊藤成一
陸軍中尉 鈴木寛
陸軍准尉 河原田津留吉
陸軍曹長 平方國三郎
陸軍兵長 池本治登
陸軍上等兵 杉村博
陸軍上等兵 山崎茂男
陸軍上等兵 大森良市

昭和十八年六月十八日挺進第四聯隊では新に所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。
前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押流されて八名が殉職した。
この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思い止まった。
翌十九年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と連携できる見込みの全く無いタクロバン降下部隊指揮官を志願し、八名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。
殉職八柱の魂魄もレイテ作戦に参加したのである。
碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか
何日散るかは知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事の為昭和四十年に現在地に移された。


碑文にあるとおり、責任を感じた榊原中尉は何度も自殺を試みます。
酔って延岡市にある病院へ押しかけ、自殺用の薬を処方するよう強要した事もあったとか。
その病院の医師が親身になって指導してくれたお蔭で次第に落ち着きを取戻した彼ですが、実は死に場所を捜していたのかもしれません。
昭和19年の高千穂空挺隊レイテ降下作戦時、榊原大尉は生還の見込みが無いタクロバン飛行場攻撃部隊を志願。
水難事故で殉職した隊員達の位牌を抱いて出撃しました。

レイテ上空へ現れた高千穂空挺隊に対し、米軍は陸海から激しく応戦します。
タクロバンとドラグ飛行場へ向かった編隊13機は凄まじい対空砲火によって全滅。榊原大尉も戦死します。
ブラウエン飛行場群へパラシュート降下した高千穂部隊は一時占拠に成功しますが、悪天候と輸送機の被弾損傷により第二派降下部隊の投入に失敗してしまいました。
翌日から開始された米軍の反撃によって大損害を被った白井第3連隊長は撤退を決断します。
生存者をまとめて第16師団や第26師団の斬込隊と合流、カンギポットを目指しますが、飢えと病によって全員が戦没。ブラウエンに残って抵抗を続けた空挺隊員も、袋の鼠となって全滅します。
高千穂空挺隊第一波降下部隊の生存者は、撃墜されてレイテ湾を漂流中に捕虜となった飛行士1名、空挺隊員3名のみでした。

派手な活躍ばかり喧伝される陸軍空挺部隊史のなかで、小丸川の悲しい出来事を知る人はあまり居ません。
それでもいいのだと思います。
碑の移設を受け入れた岩岡氏の遺志を継ぎ、今でも高鍋町の人々が殉職隊員たちを手厚く弔ってくれているのですから。

・昭和19年12月6日、レイテ降下作戦での不開傘事故
高千穂空挺隊がブラウエン飛行場上空へ到達した際、一機で開傘用スタティックラインを結ぶ機内ケーブルが破損。それに気づかず不開傘状態のまま飛び下りた空挺隊員が複数いたというパイロットの証言があります。
しかし、戦闘中の混乱ゆえ記録には残っていません。被弾損傷をおして再出撃した挺進飛行隊機も、何機かが未帰還となっています。

・昭和20年5月24日、八代不時着事故
昭和20年に決行された義烈空挺隊の沖縄特攻でも1名のパイロットが殉職しています。
健軍飛行場を離陸した12機のうち、沖縄へ突入したのは8機(1機のみ着陸に成功)。
4機は機体トラブルで反転帰還し、そのうち11番機は八代郊外の川へ不時着水を試みました。
しかし、機体は橋桁に激突炎上。
空挺隊員は脱出したものの、機内にとり残された飛行士の水上清孝曹長が死亡します。



戦争末期、フィリピン各地に展開した第1挺進集団司令部、第2挺進団(挺進第3、第4聯隊)、滑空歩兵第2聯隊、挺進機関砲隊、挺進工兵隊、挺進通信隊はジャングルに立て籠もります。
とうの昔に食料も尽きており、空挺部隊では多数の餓死者や戦病死者を出してしまいました。
あまりにも悲惨な状況に、フィリピンで散った個々の空挺隊員の最期は殆んど分かっていません。

内地で戦力を温存していた第1挺進団(挺進第1、第2聯隊)と挺進戦車隊も、本土決戦に備えて臨戦態勢に入ります。挺進第一聯隊は千葉の横芝と北海道の千歳に移動。挺進戦車隊は都城と福生に展開。
川南空挺基地に残された空挺戦力は、挺進第2聯隊と挺進整備隊のみとなりました。挺進戦車隊では訓練中に戦車が横転、跨乗していた挺進兵が死亡する事故も発生しています。


・昭和20年7月12日、高鍋駅爆発事故
国内における陸軍落下傘部隊最後の殉職者は、戦争末期の高鍋空襲で犠牲となった三浦少尉でした。
この日、宮崎県沿岸部を襲った米軍機は高鍋駅に機銃掃射を浴びせます。
高鍋駅には、陸軍154師団(西都市)や212師団(都農町)、空挺部隊(川南町)用の武器弾薬が集積されていました。
砲弾や手榴弾を満載した貨物車も被弾し、空襲が終ると同時に煙を吹き始めます。
駅員による必死の消火活動もむなしく、火勢は強まるいっぽう。諦めて待避した途端、貨車は大爆発を起します。
その威力は凄まじく、駅周辺の建物はなぎ倒されます。空襲の被害を上回る程の爆発でした。

爆発がおさまった高鍋駅では、改札付近に一人の将校が倒れていました。
彼は陸軍落下傘部隊の三浦少尉であり、頭に傷を受けて即死状態だったといいます。他の空挺隊員が駆け付けるも、手の施しようがなかったとか。
この日、高鍋では三浦少尉を含め3名のかたが亡くなりました。



書籍やネットで繰り返し伝えられるパレンバンの武勇伝や義烈空挺隊の悲話の蔭には、このような殉職者たちの記録も残されています。
ハデな話に飛び付くばかりではなく、彼等の記録をひとつでも多く掘り起こす作業が我が国の空挺部隊史にも必要なのでしょう。

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