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空挺給水塔 其の5 ベナベナ降下作戦計画

Category : 第五部・ベナベナ降下作戦 |

畏くも、大元帥閣下におかせられましては、本廿一日宇都宮陸軍飛行場に行幸遊ばされ、空地連合演習の天覧を賜はりましたことは、帝國陸軍の無上の光榮とする所でありまして、洵に恐懼感激に堪へませぬ。
大元帥閣下におかれましては、炎暑の折にも拘はりませず長時間に亘り親しく航空、地上両部隊の連合演習を臠せられ、天機殊の外御麗しく拝し奉り、参加将兵一同は申すに及ばず、職を陸軍に奉ずる者の齋しく感激措く能はざる所でありまして、遠く外地に在る将兵もために士氣一入昂揚することと確信致すものであります。
本日の光榮を辱う致しましたにつきましても、吾々は愈々奉公の志を固くし、粉骨砕身あらん限りの力を盡し、大東亜戦争の完遂に邁進し、以て聖旨に副ひ奉らんことを深く期する次第であります。

宇都宮天覧演習について、東條英機陸相謹話より 昭和17年7月22日

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昭和17年7月21日、宇都宮陸軍飛行場でおこなわれた降下演習。天皇および三笠宮が天覧しました。この際、隊員1名が事故で殉職しています。
川南空挺慰霊祭にて

【第2挺進団創設】

第1挺進団が帰還した新田原飛行場では、第2挺進団(挺進第3聯隊と編成中の挺進第4聯隊)、グライダー滑空班(後の滑空歩兵聯隊)などが続々と新設されていました。
そこへ戦地から2個連隊が帰国して来たので、新田原や川南の兵舎は4個空挺連隊と挺進飛行隊の将兵でごった返しとなります。
川南には唐瀬原飛行場を中心とする空挺基地も建設中でしたが、まだ第2挺進団以外を受け入れる余裕はありません。

「中三時代(一九四四)、一学期で授業はおわり、二学期より川南の落下傘部隊へ動員。爆弾はこびなどやらされた。その時の兵士たちは、その後レイテ島の戦いで全滅したと聞いた。
十月より都城の川崎航空(キ六一・飛燕という陸軍の戦闘機を製作していた)へ動員。基礎訓練後。翼の製作へ配属」
山口直昭「自転車好きの少年」より

帰国した第1挺進団は日向住吉の演習廠舎に入り、戦場の疲れを癒そうとします。しかしこの住吉兵舎、2個連隊が入るには狭すぎたとか。
しかも季節は夏。空挺隊員を詰め込んだ南国宮崎の兵舎はサウナ状態と化します。

住吉兵舎は金吹山(現在のシーガイア~阿波岐原森林公園附近)の海岸に建てられていました。粗末な建物のうえに交通の便が悪過ぎたそうで、碌でもない証言ばかり残されています。
挺進第1連隊および戦後に入居した宮崎中学校の記録を見ても
「なぜ伝染病が発生しないのか不思議なくらいの不衛生さ(第1挺進団)」
「狭い・暑い・ボロい(挺進第1・第2聯隊)」
「バラック並みの建物(宮中)」
「花ヶ島バス停から遠すぎて通学に不便(宮中)」
「遠すぎて遅刻する生徒続出(宮中)」
「遠すぎて登校できない生徒続出(宮中)」
「遠すぎて赴任した教師が2日で辞表を出した(宮中)」
「遠すぎるので花ヶ島駅と日向住吉駅の間に蓮ヶ池駅を新設して欲しいと直訴するも無視された(宮中)」
「堪忍袋の緒が切れた宮中生の父兄が進駐軍に直訴、住吉兵舎からの転居命令を出してもらった(宮中)」

と散々なものばかり。

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現在の金吹山。道路の反対側は市民の森公園(阿波岐原公園)です。

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金吹山の海岸側はシーガイアやフェニックスカントリークラブになっています。住吉兵舎はこの辺にあったのでしょうか。

日向住吉廠舎で夏の暑さに苦しんでいた挺進第2聯隊は、避暑のため熊本県の菊池飛行場へ一時移動。
川南村東地区に兵舎が完成すると、宇都宮で天覧演習を終えた第1聯隊と共に川南へ移動します。

川南空挺基地の建設は、国道10号線の遮断や土地からの立ち退き以外にも地域住民に大きな影響を及ぼしました。
唐瀬原飛行場の滑走路は、黒坂地区から東地区にかけて設置されます。滑走路建設時には表土を掘り返してから転圧。この工程で元々乏しかった地力が完全に失われ、戦後の飛行場開放時に「滑走路跡は不毛の地」「農業は無理なので工場を誘致するほかない」と呼ばれる惨状へと至ります。
また、川南空挺基地の建設により、地域住民は資源の入手場所を失う結果となりました。
空挺基地の敷地内に存在した周辺農家の所有林は18町分。
それらの林野は、日々の暮らしに必要な薪や牧草や木材の供給地だったのです。

「戦前にはなおかなりの林野があり、又更に軍用の囲込地に入り込んで採取を行うことも出来たので給源には事欠かなかつたようである。しかるに戦時体制に突入するや農家の所有林は搬出に便利なために艦船用材として伐採され又食糧増産の下にかなりの林野が開墾されて焼失したのに加えて、一方さきの特殊な用益関係は飛行場や降下場の建設と共に立入り禁止となり、一挙に給源を失つた。そしてこの期間は専ら残存した私有林の掠奪的な使用によつて切り抜けてきた」
九州大学農学部教授 塩谷勉 「林野と林業の展望」より

川南に大部隊が展開するにつれ、その胃袋を支える食糧生産も問題となりました。
いかなる精鋭部隊であろうと、兵站(補給)無くして組織を維持する事はできません。
演習にはもってこいの唐瀬原も、「台地上の川南空挺基地」と「海岸部にある日豊線川南駅」という地理的な断絶によって物資補給には手間がかかります。あの傾斜地に伊倉ヶ浜から唐瀬原までの引き込み線を敷設するのはどう考えても不可能。
仕方ないので隣の高鍋駅を物資集積地とし、トラックによる台地上とのピストン輸送で対応することとなります。

おもしろい事に、畜産中心の川南で酪農が始まったのは陸軍空挺部隊の功績(?)でした。

「川南に乳牛が導入されたのは昭和十八年のことである。昭和十六年に川南村は県の酪農指定村となつたが、指定村たるに相応しい活動は何ら行われることもなく十八年に至つたようである。
所で、川南村には陸軍落下傘部隊が駐屯していたが、この部隊の栄養不足―特に蛋白質缺乏―の進行が激しくなつて、これが対策として軍の要求の下に乳牛導入が企てられ、実施されたのである。
これが昭和十八年のことであり、この時千葉県より十八頭が移入された。村でも指導的立場にある農民、乃至財政や農会と関係の深い農家が担当者となった。
当時販路は、軍の要求によつて導入されたにも拘らず、どうしてかその牛乳は軍に納入されることなく、輸送の困難を背負い乍らも延岡方面に搬出されていたそうである。
更に同年暮れ、森永乳業株式会社が資金を援助して一〇頭の乳牛を天草より移入(この時の援助総額一ニ、〇〇〇円)、引続き森永の援助(一頭につき一、〇〇〇円)の下に数回にわたり北海道、天草等より導入した。乳牛導入を進める傍ら、森永乳業は牛乳処理場(※バター製造工場)の設立も進めた。昭和十九年に初めての処理場が現れ、川南農業協同組合(当時は川南農会)の建物の一隅に据えられた」
九州大学経済学部教官 花田仁伍「農作物の流通構造」より

落下傘部隊が飲む筈だった牛乳を、わざわざ県北へ売っていた理由は何だったのでしょうか?

森永乳業資本の独占は続きますが、戦後には元陸軍落下傘部隊の軍医が明治乳業の支援を受けて九州酪農株式会社を設立。川南への酪農進出を図るも、森永vs.明治の戦いは森永に軍配が上がりました。
森永乳業の資金援助が終ると、地元農協が酪農支援事業を引き継ぎます。しかし、農協が北海道から移入した乳牛100頭のうち川南で売れたのは21頭のみ。残る69頭は地元農家へ貸付となりますが、結局は380万円もの負債を抱えて終了しました。
しかし、この失敗も無駄とは言えません。戦後しばらく経つと、乳牛の飼育頭数は急速に増加。昭和18年に僅か31戸だった川南の酪農家は、20年に79戸、23年には261戸、25年には377戸となっています。
陸軍落下傘部隊の要請から森永乳業・明治乳業・農協の競合を経て、ようやく川南の酪農は定着したのです。

戦時から現代に至る積み重ねを破壊したのが、2010年の口蹄疫でした。

【待機と訓練の日々】

さて、牛乳から空挺部隊のハナシへ戻ります。
陸軍空挺部隊の演習は、「パラシュート降下してその場で戦闘訓練」というイメージがあるかと思います。実際は、そんな生やさしいものではありませんでした。

規模の拡大に伴い、空挺部隊は訓練地域を宮崎県全域へ広げます。
当時の空挺隊員が使っていた演習地図を調べると、宮崎市の大淀川流域やえびのの霧島連山付近での行軍ルートが書き込まれていました。
霧島ルートの場合、霧島神宮参拝後に高千穂峰へ登頂、烏帽子嶽を一周して神宮へ戻る行程だった模様。
大淀ルートの一例を挙げると、新田原飛行場を離陸した空挺隊は川南の塩付降下場へパラシュート降下。そこから二手に分かれ、一隊は県道40号線を木城町役場まで南下して小丸川から県道312号線を茶臼原へ登り、もう一隊は国道10号線を南下して高鍋町役場から県道24号線を三財原へ登り、東都原台地の端に在る大口川交差点で合流(ここまでは普通)。
そこから目の前の新田原飛行場へ戻ると思いきや、2隊は大口川から台地を下り始め、一ツ瀬川を渡って妻町(現在の西都市)を通過し延々と24号線を南下、東諸県郡へ入って高岡町の小学校で一泊。
翌日、木城チームは大淀川沿いに国道10号線を宮崎市方面へ進み、八紘台(現在の平和台公園)へ寄り道したあと県道9号線を東進してゴールの日豊線大淀驛(現在の南宮崎駅)へ到着。
高鍋チームは大淀川から県道13号線を延々と宮崎郡へ南下し、ゴールの日豊線清武驛へ到着。
そこから列車で川南へ帰るという長距離行軍でした。ルート上には補給ポイントや仮設敵らしきマークも記されており、体力錬成というより実戦を想定した行程であったことがわかります。
第1連隊第2中隊などは、宮崎市住吉の海岸から高岡~野尻~小林を経由し京町温泉(えびの市)まで行軍していました。自動車で走っても遠い距離です。証言によると相当にキツかったとか。

空挺同志会の資料では、宮崎県内各地どころか満洲まで遠征していたことが記されています。

「訓練は唐瀬原で行われたが、当時のことであったから演習場以外の道路や山林などはどこでも演習に使うことができた。
我々は敵地に降下したならば地上機動は脚力によるほかなかった。歩兵のように連日行軍を続けるようなことはないにしても、ある距離を至短時間に機動する必要性は大きいものと考えていた。
そこで北は延岡、南は本庄、高岡あたりまでは縦横に使ってこの種の訓練を行った。
訓練で流す汗は戦場で流す血に代るものだった。
熟地ばかりで降下していては訓練にならぬというので、霧島山麓にある軍馬補充部(※軍馬補充部高鍋支部小林派出部)の牧場を借りて降下訓練を行ったこともあった。
また、予想戦場は南方だけではないと、十八年二月及び十九年一月の二回、満洲に渡り白城子で寒地研究演習を行った」
「空挺部隊写真集」より

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宇都宮天覧演習の解説。因みに、実際の宇都宮演習は7月21日開催で、一般報道されたのが22日です。
川南空挺慰霊祭にて

【宇都宮の天覧演習】

宮崎で次の作戦に備える第1挺進団でしたが、栃木県宇都宮で昭和17年7月21日に開催された天覧演習「特別空地協同演習」にも参加しています。
演習の内容は、宇都宮飛行場を防衛する「赤軍」に対し、「藍軍」が航空攻撃をかけるというもの。落下傘部隊はもちろん藍軍です。

大元帥閣下には、廿一日親しく聖駕を栃木縣宇都宮陸軍飛行場に進めさせ給ひ、教育総監山田乙三大将の下、世界に冠たる帝國軍航空部隊の「特別空地協同演習」は藍軍(攻撃軍)、赤軍(防衛軍)攻防の大立體戦闘演習であり、去る二月十四日突如として蘭印スマトラの要衝パレンバンに降下し世界を驚倒せしめたわが空の神兵、陸軍落下傘部隊の激闘を彷彿せしめる降下攻撃軍(藍軍)と、これを邀撃する宇都宮守備隊(赤軍)の演習である。
大東亜戦争下殉忠の誓ひも固く、極暑瘴癘頑敵の障碍を克服して聖戦完遂に邁進する皇軍将兵の赫々たる武勲を御嘉尚あらせ給ひ、またその労苦を偲ばせ給ふと共に、戦時下将兵の士氣を御鼓舞遊ばさるゝ特別の思召による意義深き陸軍演習への行幸、その訓練を天覧あらせられたが、重ねての畏き大御心の程拝察するだに誠に畏き極みである。


8時30分に日光田母澤御用邸を出発した天皇一行の自動車は、9時50分に宇都宮飛行場へ到着。先着の三笠宮(実弟・陸軍将校)と合流し、山田演習統監、寺田幕僚長、後藤少将、宇都宮師団長、東條陸相、杉山参謀総長、土肥原航空総監、四尾軍参議官、安藤軍参議官、木村陸軍次官ら軍高官の挨拶を受けます。
その後は山田演習統監、寺田幕僚長の案内で、開戦後に鹵獲した連合軍のホーカー・ハリケーン戦闘機、ロッキード・ハドソン爆撃機、マーチン爆撃機などを見学。
続いて落下傘部隊の武器や装備に関する解説の後、演習開始に臨みました。

10時20分、青吊星の信号弾2発が打ちあがると同時に、藍軍の爆撃隊が南方から宇都宮上空へ侵攻。「彼我不明の大飛行部隊は○時○分富嶽を通過、東北進中なり」の連絡を受けた赤軍は直ちに迎撃機と対空砲火で邀撃態勢に入り、模擬空中戦が展開されます。

「彼我弾幕の寸隙を縫ふこの大決戦は、マレー、ビルマの航空撃滅戦もかくやと偲ばれて凄愴の極。この戦闘の経過は統監山田大将より逐次、陛下に奏上されたが、陛下には親しく双眼鏡を御手に天覧あらせ給ふた。
かくて戦機いよ〃熟し、一度退避した攻撃郡爆撃部隊は再度襲來、地上對空火器に對し猛烈な制圧攻撃を開始した。攻防決死一如、戦ひ正に酣なる時、天地を圧する爆音轟々と飛來するは空の大艦隊藍軍新型大型輸送機の大部隊である。
忽ち鵬翼大空を覆うたと思ふ瞬間、飛び散るは空の精鋭落下傘兵の一群である。黒きつぶての如く兵は落下する。背後に白百合の如き傘を負うて……。
ついで、南方作戦に威力を發揮した火炎放射器、弾薬等新鋭兵器も續々投下される。
地上守備兵はどうか。落下傘部隊に協力する攻撃軍戦闘機の銃撃を物ともせず、降下兵を殲滅すべく抵抗線の砂嚢より前進邀撃し、既に終結を終つた落下傘兵との大決戦に移つたが、この時戦車等機械化部隊の宇都宮警備隊の一隊が救援に到着。
場内は血闘につぐ血闘の修羅場と化し、こゝに攻防戦は最高潮に達し、カリジャチの遠藤部隊戦車殲滅戦もかくやとばかりの大激闘を展開し、正に落下傘部隊の攻略成らんとする時、黒龍の信號弾(黒龍のやうな黒煙のあがる信號弾)發せられて、演習は中止された。時に午前十一時卅分。終始天機殊のほか御麗はしくこの演習を臠せられられた。
大元帥閣下は一旦便殿に入御、御少憩の御後午前十一時四十分統監、幕僚御先導、蓮沼侍従武官陪乗の無蓋自動車に御乗、整理された演習場戦線を御巡視、戦ひ終つて汗、埃、硝煙にまみれた我衣のまゝ直立してこの日の光榮に感泣する演習部隊勇士の奉送裡に再び玉座に着御。
御少憩の御後、正午君が代吹奏、諸員各隊奉送裡に飛行場發御。午後零時廿五分、宇都宮驛發車、午後一時廿九分御用邸に還幸遊ばされた。
なほこの日、演習に参加した勇士一同に御煙草を、又特に陪観を許された幼年學校生徒一同に御菓子を御下賜あらせられ、重ね重ねの光榮に一同感泣した」
東京日日新聞「陸軍落下傘部隊攻防演習を天覧」より

僅か1時間とはいえ、天皇と軍高官の前でその能力を披露したことは、鬱憤を溜め込んだ挺進第1連隊にとってガス抜きとなりました。
但し、この演習では松浦軍曹が墜落死するという痛ましい不開傘事故も起きています。

当時の落下傘の降下は未だ九七式の傘で、総べて降下演習は降下場のみで行われていた。ただ昭和十七年の夏、宇都宮練兵場に於て、第一聯隊が天覧降下演習の光栄に浴したが、一人傘が開かぬ儘落下、天皇の眼前にて殉職したのは誠に痛ましい限りであった。
当日は雲が低く、普通降下開始が通常高さ六〇〇米位から行うのが、四〇〇米位から開始されたらしく、後尾の降下者は高さ二〇〇余米位から降下することになった為、主傘が開かず、前部につけた予備傘を開いたが完開する以前に着地して仕舞つたというわけである。
落下傘部隊の初の生地降下演習は、或る意味では日本陸軍の戦力増強確認の為の大きな前進的実力判定の試金石とも考えられたろう

挺進第3聯隊 中園健一氏「落下傘部隊の思い出」より 昭和40年

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宮崎県小林市「まきばの桜」にある陸軍軍馬補充部高鍋支部小林派出部記念碑。現在ものどかな牧場ですが、かつて日本最大の空挺演習が行われた地でもあります。

【小林の大降下演習】

十月十八日 日曜
十時より聯隊長殿の離任式が有り、後落下傘の装帯点検。一式落下傘は大丈夫と信じ切った。一式で降下するのは初めてで、不開傘と云ふのは無いと云ふ。
二十日は生地降下演習。午後からは、降下準備訓練。機胴体の飛降り、体操、傘を両方付けてゐるので、機体の中は仲々せまい。飛出しにくく思ふ。空中寫眞地図等を見ても、大した不生地でも無いらしい。

十月十九日 月曜
午前中は住吉神社に参拝。体操服を久し振りに着た。浜松、東京時代を思い出す。上空を見上げれば、ATが七機、見事な編隊で飛んでゐる。明日の今頃は、井上も乗ってゐるのだ。千米以上は有る。風が少しもない。降下は楽だろう。不生地だから困るだろう。

十月二十日 火曜
今日は待ちに待った降下も終わった。思ったより楽だ。不生地と思ったがそうでもない。しかし木に掛った者も多くゐる。自分は平たい草の上に着地した。一式の傘は初めてだったが、何とも思はず飛出た。二番降下者は一番が離脱したらすぐ出るので一寸びっくりする。三番が良い。講評は中々良い。しかし無鉄砲な者ばっかり居るらしい。今迄ノ中で一番風が強い相だ。其で一番集結したと云ふからうまいものだ。

十月二十一日 水曜
今日は侍従武官の巡視。無事終了。営内はきれいになつた。冬服を着用したが重い。もう早く夏服が着たい。

十月二十二日 木曜
今日は射撃。三百射ったがスコ0だ。どうして當らないかと思ふ位である。午後から落下傘の点検。虫が喰った所は大きな穴が明いてゐる。絹に防虫薬でも付けて置けば虫も食はないと思ふ。明日は例大祭だ。延刻外出。今月と来月は休みが多いぞ。ちと本を見なければならない。まだ遊びたい氣持が多くて困る。

井上祐子著・陸軍落下傘部隊挺進第1聯隊第4中隊 井上洋曹長の日誌「誠心」より、小林大降下演習前後の様子

宇都宮演習を上回る規模となったのが、同年10月19、20日に小林町(現在の宮崎県小林市)でおこなわれたパラシュート降下演習でした。
場所は小林町細野にあった軍馬補充部高鍋支部小林派出部の軍用地。現在では「まきばの桜」として知られるお花見スポットでもあります。
こちらは全てのパラシュート連隊が参加した記念すべき演習だったものの、空挺部隊関連の資料ではごく簡単に触れた記述ばかり。天覧演習の陰に隠れて、全くといってよい程知られていません。
幸いにも、参加者の貴重な証言が残されているので引用してみましょう。

「たしか巣の浦台地一帯の夷守(ひなもり)岳北側高原は某仮想敵国の地形に相似の点があったかのかもわからない。
とにかく空挺部隊の初の生地降下演習であり、挺一、挺二、挺三、挺四と当時の日本の全陸軍落下傘部隊の総力が結集されたわけで、昭和十七年十月十九、二十日の両日、各聯隊毎、午前十時、午後二時に分れた演習は相当計画も周到に、又大掛りな事前準備もされたらしいのである。
当時はぼつ〃補充兵の召集も頻繁になり、既に平時の日本陸軍の姿はデサント(※ロシア語で「空挺部隊」の意味)部隊にしかないと云われて居た事実の通り、日本陸軍の虎の子の精鋭だったわけである。
それだけ防諜関係もきびしく、そのころ、新田、川南附近は、日豊本線の列車の窓さえ、とざして通過させ、降下訓練の実態を望見させなかった頃だけに、小林附近の人々は、夷守岳の緑をバックに空に浮いた“空の神兵”の唄の一節、真白きバラの花模様そのまゝの情景は今尚、印象深く残って居ることと思っている。
憲兵や警官の警戒態勢も厳を極めたらしい。然し土台見るなというのが無理なはなし、南の空を見てさえおれば、いやでも応でも目に入って来るわけで、その上見るなといえば余計に見たいのが人情の常。警戒の眼をかすめ、ひそかに、夫々降下地点付近に忍び寄る人には正に甲賀、伊賀の忍者の情感が沸いたかもわからない」
挺進第3聯隊 中園健一氏「落下傘部隊の思い出」より

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小林降下演習がおこなわれた軍馬補充部高鍋支部小林派出部跡地(現在の独立行政法人家畜改良センター宮崎牧場)。
奥に聳えるのは夷守岳と霧島連峰。

この中園氏は、降下地である宮崎県小林町(現在の小林市)の出身。
野砲第6聯隊から千葉の野戦砲兵学校職員を経て、中支派遣第11軍司令部参謀部付特務機関員として大陸へ赴任。揚子江流域の交通事情・外国人資産の調査に当っていた時期に「中支戦線より機動部隊要員として三名採用」の文書を目にします。
調査任務に退屈していた中園氏は、この募集に飛び付きました。

「上海に越年、長崎港に上陸、新田原基地に入ったのは昭和十七年の新春であった。パレンバン出撃歓送の直後、挺三部隊の編成を担当、R本部人事係として半才、仮兵舎から新装の営舎に移転を完了したのは既に尾鈴の山に秋の気配が漂いはじめる頃であった。
挺進部隊は聯隊長以下全員が落下傘降下して戦斗に参加する為、隊長は勿論、軍医も、主計も、とにかく部隊員全員が落下傘の降下訓練は一律である。
無論、私もその通りで、創設事務のをり〃、単独降下から集団降下、夜間降下と一通りの基本降下の試練を終へた。落下傘降下は降下の度毎に生死の間を一度は彷徨することになるわけだが、それ故にか、降下手当があった。
当時のお金で月給の半分に近い高額が月のうち三度以上の降下者に支給された。その為に兵など血の気が多い連中は日曜日の小遣いかせぎと、降下訓練志望者も多かった様である。
武者小路実篤の日向の新しき村、木城村(※現在の木城町)から高鍋町の北を流れる小丸川に秋はぜ釣りの一日、右足首に護岸用蛇籠の針金を刺したのが化膿し、小林の生地降下には参加せぬと連絡したら、親父が高鍋迄やって来た。
故郷の空で降下せぬとは何たる親不孝か。
足の一本位折れても跳べということらしいのである。そこで足の痛みはおして跳ぶということになり、ニコ〃して帰って行った父も逝いて十二年、今は懐かしい追憶の一こまである(中園氏)」

あまりに大規模な演習のため、降下部隊は2手に分れて発進します。
10月19日、第1挺進団は熊本の黒石原から、第2挺進団は新田原から離陸。それぞれ小林上空を目指しました。

「一片の雲もない清澄な晩秋の故郷、小林の空であった。
新田原飛行場を飛び立った数十機のAT輸送機は太平洋上で大きく旋回、整然と編隊を組み、白波砕け散る青島上空から一路高千穂峯(※西臼杵郡高千穂町ではなく霧島連峰の高千穂峰です)北側をかすめ、小林上空に進入して来た……高度一二〇〇米……。
(中略)
私の知悉する範囲に於ては、小林附近の生地降下演習が最初であり、又最終の生地の降下演習であった様である。
時速二〇〇キロの輸送機は高度一二〇〇米(地上よりの高さは約六五〇米位でしたろうか)附近より逐次降下が開始され、一機の降下人員十二名の数十機故、一こ聯隊の降下人員は大体数百人だったろう。ちなみに当時の聯隊総員は約一、〇〇〇名前後であった。
勿論、憲兵も警官も、とにかく日本人にとっては初めて公開の大空中ショウ。パッ〃〃と落下傘が開いた瞬間、かしこの草むら、こちらの山かげから、見物人の顔〃〃でしたろう。
そして憲兵も警官も空を見上げるのが精一杯、叱るどころぢゃない。開いた〃で共に顔見合せて感激をわかったというところぢゃなかったろうか。
その例に洩れず、永田平公園の丘も待機して居る人で一杯だったらしい。私の縁つづきのJ叔父は、予め父から私の搭乗機と降下時間と降下の順番を聞いていたらしい。
“ひれた、ひれた。健一どんが傘がひれた(訳:開いた、開いた。健一さんの傘が開いた)。もうつかやねー(※解読不能)”と吾しらず叫んで仕舞ったとか。無論私が確認出来たわけぢゃないだろうが。
強い衝撃を両肩に覚え、巨人の手で首をつかまれて振り廻される様な状態の末、傘が全開、漸次降下し乍らの故郷小林の眺望。
山や川、森や田畑の黄金の穂波。部落のたたずまい。矢張し何処の地よりも美しく感じられたのも、空よりの郷土訪問が出来たよろこびと、さゝやかな誇りの情が胸中を去来したのでしょうか。
柿の豊作の年で、真紅の冨有柿を籠で一杯、大満悦のM家の義父から貰い、帰路の車中、皆と一緒に舌づゝみをうったこと。
町役場の二階で大歓待をうけたこと、たしか兵事係は今はなき大坪さんでした。私の在熊時代、大変お世話になった現海老原市議の御尊父や、現市議種子田さんも当時の役場で、軍関係の担当で、いろ〃御厄介になり、又喜んでいただいたことが思い出されます。
生家にも一寸寄り、近所の人々に対しいさゝか得意の様でした。東方の大久津市議の令弟、敬二君が挺三聯隊に在隊、小林の出身として、地上勤務で来られる様手配も致しました。
大久津君はやがて良成績で累進、中堅下士官として精励、十九年高千穂特別挺進攻撃部隊員として共に比島に出動、凄烈なルソン島攻防戦に参加、幾度か死線を越す戦斗を闘ひ抜き、重傷を負われながらも生還。今元気で農業を自営されて居ります。
挺一、挺二は熊本黒石原基地から、挺三、挺四は宮崎新田原から搭乗、連日二日の降下演習は小林附近の人々に強い皇軍信頼と戦意発揚の念を更に昂め、金色の鳶のマークを胸部につけた空挺部隊員の人気もとみにあがりました」

小林の演習でも、空中投下される予備傘を見て「落下傘が開かなかった殉職事故」と勘違いする人が続出したそうです。
この辺の見間違いは、川南住民と同じですね。

「今に尚、当日物料投下の染色の木綿の落下傘が隊長用だったとか、胸部に装着していた予備傘の着地前投下を見て、傘が開かず殉死した者が幾人か居たとか、などの思い出を四方山ばなしの時をり聞くことがあります(中園氏)」

その後の落下傘部隊は、宮崎で訓練と待機を続けながら冬を越します。陸軍落下傘部隊史においてはエアポケットのように平穏な時期であり、空挺兵舎の市民見学会やスポーツ大会などのイベントが開催されたり、正月には休暇をとって久々の帰省をする隊員もいました。
下記は空挺兵舎一般開放の様子。大勢の宮崎市民が見物に押し掛ける様子や時期・場所的に、現在の新田原基地航空ショー(毎年末開催)を彷彿させます。


十月二十八日 水曜
今日は一日ポスターをはりに佐渡原(原文ママ。佐土原の誤り)から大淀(川)へ、全部で一五○枚位はった。三十、四十枚位すぐはると思ってゐたが、中々場所を考へてやると時間が掛るものだ。井上は宮崎の南部及び大淀を受持ったが、二十二時迄掛った。其でもはって帰らない訳には行かない。一人でも多くの人が来る様にやるのだ。記念祭が楽しみである。

十月二十九日 木曜
五時起床、射撃、一發命中、珍らしい。新聯隊長殿の着任式、後模型の飛行機を製作。明日は手榴弾投擲の競技會だ。

十月三十日 金曜
明後日は創立記念日第一回。うれしい氣がする。子供だ。何人位來るかしらんと思ふ。少ししか來なかったらがっかりするぞ。午後から(挺進)練習部の手榴弾の競技會。日常の練習が口を利いて今度は聯隊で一番。他の聯隊にも負けない位の点数だ。うれしい。自分もめったに入らない銃眼に三發入った。珍しい。記念日の準備に多忙だ。何やらかんやらやったやった。

十月三十一日 土曜
今日は終日準備だ。明日の一日だけの事であるが、中々大事。博物館も出來るし、面白いぞ。假装行列には面白く笑はしてやろう。

十一月一日 日曜
朝から來た來た。えらい人間の浪。式に出たが、早くすめばよいと思ふばっかり。次次の行事に忙しい。思ってゐたより人の多い事。自分等の起居してゐる兵舎にわんわん入って來ると、子供の様に嬉しい。皆張切ってゐる。兵隊さんは兵営に居る時は知らぬ顔をしてゐるが、良い人を知ってゐるものだ。びっくりする。まあ天下御免だから、色々な面會だ。

十一月二日 月曜
朝起きたが氣が抜けた様だ。しかし昨日の事は何もわすれて又演習だ。午後は聯隊長殿の初度巡視。今度の隊長は良い人だ。聯隊の為に大いにやるぞ。今の調子でやればものすごい中隊になる。

十一月三日 火曜
今日は四大節の一つ、明治節である。聯隊長殿は、挺進隊の戦人は世界で一番優秀でなければならぬと云はれた。何時もそうなければならぬとは思ってゐるが、其が中々なれない。平常はどうか判らないが、一つ事が起れば判るのだと思ふ。外出もあるが、何か良い事を一つしよと思ひ乍ら外出したが、一つも良い事をしないで終ってしまった。二十三時二十分営門を入った。

十一月四日 水曜
休日の翌日は、ぼやっとして飛行機も落ちると云はれるが、成程もさっとする。其はまだ頭の中に昨日の事が残ってゐるからだ。からりと忘れて、又演習をやるのだ。此で良いのだ。遊ぶ時には大いに遊ぶ。やる時には大いにやるのだ。

井上洋曹長の日誌「誠心」より

こうして宮崎に4個パラシュート連隊が勢揃いしたものの、翌18年、第1挺進団は再び南方へと出撃しました。
そして、僅か1年間のうちに、前線の情況が悪化していることを目の当たりにします。

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投下された火炎放射器を組み立てる陸軍空挺隊員。パラシュート降下の場合、かさばる武器は別途降ろす必要がありました。こうした問題点を克服する手段としてグライダーの導入が始まります。

【アッツ島救援作戦】

空挺部隊を片道特攻に使おうとした最初の事例が、アッツ島の戦いでした。

昭和17年6月、日本陸海軍はアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を電撃占拠。これはミッドウェーと連動した陽動作戦であり、戦略的な価値や長期化させる必要などありません。
しかし、ミッドウェーの大敗北を隠したい軍上層部は両島の占領をハデに宣伝。そしてズルズルと占領を引延ばします。同年11月に報告された「早期の撤退か、もしくは両島全体をベトンで固めた要塞化が必要(「戦史叢書」より)」という現地レポートも無視されてしまいます。
守備隊が北の孤島で越冬している間に、米軍はアムチトカ島へ飛行場を建設。アッツ・キスカ奪回作戦の準備を整えてしまいました。
昭和18年5月、米軍はアッツ島への上陸を開始。激しい空襲を受けていたキスカ島に、アッツ島を支援する力はありません。南太平洋へ戦力を投じていた海軍にも、北の果てに回す余力はナシ。
軍部が全くの無能無策だったという訳ではなく、幾つかの救援作戦も立案されました。
孤立無援となったアッツ守備隊への支援策が、陸海軍合同による空挺作戦。アッツ降下作戦は陸軍空挺部隊500名、海軍空挺部隊300名から成る「白菊部隊」を投入する大規模なもの。無論、米軍に包囲されたアッツ守備隊を救うのは不可能でした。
それでも味方の到着を信じて戦い続けるアッツ島に対し、「せめて空挺部隊による増援を」という意見が出たのでしょう。
しかし5月29日、木更津基地で準備を整えた白菊部隊が出撃拠点の北海道へ進出する前にアッツ守備隊は壊滅。
アッツ島降下作戦は幻に終わりました。

空挺部隊の戦場は東南アジアから北太平洋のアッツ島へ、そして南太平洋の島々に移ります。

【ベナベナ空挺作戦】

米軍の反攻が始まった昭和18年、ニューギニアの山岳地帯ベナベナ及びハーゲンには連合軍の飛行場が建設されつつありました。ここから飛び立つ連合軍機は、日本の輸送船団にとって脅威と化します。

アッツ救援作戦が中止となった直後の6月19日、ベナベナの飛行場群を制圧するため、第1挺進団に出動命令が下されました。

昭和十八年七月二日 雨後曇り 住吉発十九時
中隊全員舎前に整列し御旗を奉じ必捷の確信に燃え勇躍兵衛出門、花ヶ島駅(※現在の宮崎神宮駅)に向ふ。途中部隊を留め隊長訓示を行ふ。聖地阿波岐原頭を出でて今正に征途に就かんとす。神武の御東征を偲び光栄一入なり。阿波岐原頭に浄雨降り注ぎ、妖雲空を覆ふと雖も、東南の空を望めば瑞兆なるかな紺碧の空光を放ち……

森上起男氏の証言「園田隊長を偲んで」より、ニューギニア出撃時の様子。

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現在の日豊線宮崎神宮駅(旧花ケ島驛)。第1連隊は、ここからニューギニアへ出撃しました。

第1挺進団は6月28日に動員完了。宇品港へ向かった挺進第1連隊は青葉丸と有馬丸に、挺進第2連隊は焼津丸に乗船して7月6日に宇治を出港。翌月12日にはパラオ諸島のコロール島へ上陸後、船舶に分乗してペリリュー島の松島飛行場へと移動します。

破竹の進撃を続けていた前年とうって変わって、ガダルカナルの敗退、山本五十六連合艦隊長官の戦死など、南方戦線は劣勢に転じつつありました。
そのような状況を認識していなかった空挺部隊側は、現地部隊との齟齬をきたしてしまいます。

ペリリュー島まで進出した第1挺進団でしたが、現地の第18軍は「例え空挺部隊が現地を占拠しても、1000m級の険しい山脈を踏破してベナベナ・ハーゲンへ地上部隊が進出するのは極めて困難」と判断。現状を認識できず、机上の空論に終始する陸軍上層部とは反対に、空挺部隊の投入案には否定的でした。
第18軍の理性的な判断とは違い、血気に逸る空挺部隊では戦略的思考すら失われていた様です。
近視眼的な自己満足か自暴自棄か、呆れたことに片道特攻に等しい空挺部隊単独での攻撃も検討されました。しかし、米軍の空襲激化によってすべての計画は頓挫。更にはペリリューも敵の空襲に晒されるようになり、降下作戦は9月25日に中止となります。

昭和18年11月19日、第1挺進団は帰国の途につきました。
しかし、日本に上陸する暇もなく南方への再出撃が命じられます。

29日、部隊は門司港到着と共にすぐさま反転。台湾・シンガポールを経由して再びスマトラへと向かいます。
スマトラ島ベラワンへ上陸後、団司令部と飛行隊はメダン、挺進第1聯隊はペマタンシャンタル、挺進第2聯隊はシボロンボロンに展開。
ビルマ方面軍と連携しながら、ビルマやアンダマン諸島方面の連合軍反攻に備えました。

南方総軍司令部では、インド国内の情報を収集するため、チャンドラボースの指揮するインド独立義勇軍の兵士を、インドに空路潜入させることになった。このインド兵は、初めイギリス軍に属し、日本と戦い捕虜になった連中で、後にインド独立義勇軍に編入され、日本軍に協力していたのである。
陸軍挺進練習部では、南方総軍からの要請を受け、松宗中尉以下数名を派遣し、スンゲーパタニ―で、インド兵に降下訓練を実施した。今度は、パレンバン降下に加った中野学校出身者とは違い、日本の練習員と同じ時間をかけ、しっかり教育した。降下は数回実施し、無線機を携行して夜間降下ができるまでになった。ここで教育を受けたインド兵は、三〇名ばかりだったという。
次で訓練場を、スマトラのメダンに移し、ここでは、インド兵の諜報員だけでなく、チャンドラボースの親衛隊に対しても、降下訓練を実施した。当時メダンにはわが第一挺進団が駐留しており、この教育を担当した。
さて、降下訓練の終わったインド兵の諜報員は、ビルマの最前線キャンプに移動し、ここから月明の番に飛び立って、インド国内に降下潜入した。
その後どうなったか、現存資料では明確でない。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

スマトラ滞在中の挺進団は、外国軍兵士に対するパラシュート降下教育も担当しています。これはチャンドラ・ボースのインド国民軍兵士に対するもので、将来のインド侵攻へ向けた支援として行われたのでした。
同時に、空挺部隊では敵勢力下へ降下潜入する諜報要員の育成も計画していた様です。

「当時、万に近い大部隊が中部日向の平地に屯し、高鍋近郊は一躍軍都の観を呈したのである。
この間、私も静岡の航空情報聯隊に、印緬作戦に呼応、印度領に降下、後方攪乱要員として欧文無線、語学を専攻。熱心に努力したせいか、数カ月後は、ホノルル、ダッチハーバー、エスピリットサントetc、直接米軍の生電文を傍受することが出来る様になって居た。卒業をまたず、次で豊岡陸軍航空士官学校、水戸航空通信学校将校学生として全く寧日なく、きたえらえどおし。今考へると口笑しいようですが、三十才前でしたかが自ら老骨とオンヂョぶって大難儀の様でありました(中園氏)」

昭和19年3月、ビルマ方面軍はインパール作戦を開始。
山脈と密林を踏破して英軍との戦いに臨んだ第15軍ですが、峻嶮な地形と悪天候によって杜撰な補給計画はすぐに破綻します。その結果、飢餓と病で膨大な数の将兵が犠牲となりました。
無能な上層部によって惹き起されたインパールの悲劇を、あえてここで解説する必要はないでしょう。この大敗北において、もはや空挺部隊の出番などありませんでした。

1年間を棒に振った第1挺進団は、南方作戦を諦めて昭和19年8月14日に川南へ帰還。
空しく帰国した第1挺進団と交代するように、挺進第3連隊及び第4連隊で構成される「第2挺進團」は新たな空挺作戦へ投入される事となります。

第2挺進団、通称「高千穂空挺隊」によるレイテ降下作戦の始まりでした。

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クレタ島を強襲したドイツ降下猟兵は、連合軍の反撃によって大損害を被ります。

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負傷した仲間を野戦病院へ後送するドイツ空挺隊員。東部戦線にて 1943年

因みに本家であるドイツでは、クレタ島降下作戦(昭和16年)における空挺部隊の犠牲の多さに驚愕し、以降大規模な降下作戦を行っていません。
ノルマンディーやマーケット・ガーデンといった大作戦に投入された連合国側空挺部隊に比べ、日独伊の枢軸国側空挺部隊は敗色が濃くなるにつれ、いずれも地上部隊として、または小規模な特殊作戦で使用されるに止まっています。

戦局の暗転と共に、日本陸軍落下傘部隊も悲劇的な運命を辿ることとなりました。

kawaminami


そのうち、市内にたくさんの兵士達が来るようになり、土曜日曜は、兵隊さんばかりで、市内が賑やかになり驚くばかり。話によれば、川南と新田原の基地駐屯兵士達という事でした。上官に会うごとに直立不動の姿勢で、階級下となる兵は手を降す事なく敬礼ばかりしていた。
私は、その様子を見て、階級社会とは厳しい定めがある事を知り、上官に対し絶対服従とは見た通りの姿であろうと思い、主人も牡丹江ではさぞ油を絞られる兵隊のろまの一人に近いないと思うのでした。
店には川南に駐屯していた千葉県の方で、鴇矢(ときや)という軍曹が公用で見えた。丼、茶器類等よく買って下さる。
時には私に見立てて下さい、丈夫なのがよいですと言う。私がこの品がよいでしょうと言うと、すぐ買い求めて帰って行く。ときどき立ち寄り暫く世間話、自分の故郷の事を懐かしそうに話しておりました。
僅かな時間に楽しそうに話して隊へ帰って行く姿は、明日の事も知れないお国に捧げた体、覚悟の精神で満ちあふれていたように見えました。宮崎市内に来たら必ず店へ来て下さっていた鴇矢軍曹は、少しですが皆さんで分けて下さいと、かん詰類、チョコレートを持って来て下さる。皆なで二十分ほど雑談しては、ジープで隊へ帰っていた。
しばしの休憩でも楽しそうでした。
一週間過ぎた頃、市内に外出してくる兵士達がだんだん少なくなるように見えていた。突然、違う兵が見えて、鴇矢軍曹より小包を頼まれましたと私に差し出した。何だろうと皆と開けて見たところ、板チョコ菓子がたくさん入っていた。
走り書きで「自分は隊を立ちます。体に気をつけて下さい」という内容が書いてあった。
日が経つごとに市内での兵隊さんの姿は見られなくなり、淋しい町になっていきました。


藤川ツユコ著「道をひらく わが半生の記」より

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