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はじめに

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 「あの塔はここに落下傘部隊がいた記念のようなもの」。
川南町川南の梶原愛子さん(82)は、旧日本軍が太平洋戦争中に建てた給水塔を少女時代から眺めてきた。
「当時この辺は兵隊だらけ。新しい兵舎が何棟も並び皆エリートな感じだった」。
記憶には今と全く違う大地の姿が残る。高さ28メートルと周辺からも目立つ給水塔は、国立病院機構宮崎病院敷地内に現存し、軍都・川南を今に伝える数少ない戦争遺跡だ。


宮崎日日新聞「忘れない 戦後70年へ・戦争遺産」より 2014年

給水塔
帝國陸軍落下傘部隊・第2挺進團挺進第3聯隊兵舎の給水塔。全高27.3m
唐瀬原にて 2010年

日本陸軍落下傘部隊の本拠地であった、宮崎県児湯郡川南町唐瀬原(からせばる)。
この町には、現在も空挺兵舎の給水塔が保存されています。
しかし「陸軍の精鋭」「空の神兵」と落下傘部隊を讃える人々が、この遺構に目を向けたことはありません。
戦後半世紀以上の間、給水塔は地域の努力によって守られてきたのです。



日本陸軍がパラシュート部隊の研究を開始したのは昭和15年のこと。この空中挺進部隊(「挺身」ではなく「挺進」)は、静岡県の陸軍浜松飛行学校にて創設されます。
翌年5月には防諜上の理由で満州国の白城子飛行学校へ移転したものの、年の半分は雪に閉ざされて訓練不可能と判明。結局、わずか3ヶ月程で日本への帰還が決定されました。
間近に迫る南方作戦の「切り札」として、空挺部隊を一刻も早く実戦レベルへ錬成しなければなりません。
求められたのは、
・冬でも温暖な気候
・輸送機を運用できる軍用飛行場
・広大なパラシュート降下場
でした。

検討の結果、移転先には諸条件を満たした宮崎県児湯郡の軍用地が選ばれます。
対象地域となる新田村、富田村、高鍋町、川南村、都農町の各自治体には、陸軍第6師団から部隊の転入に伴う土地や宿舎の提供・建設作業や防諜への協力が要請されました。
昭和16年10月、新田村の新田原(にゅうたばる)陸軍飛行場へ移った空挺部隊は、北側の川南村にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩の放牧地をパラシュート降下場へ転換。
「挺進練習部」として、専従の空輸部隊である挺進飛行隊と共に猛訓練を開始しました。

この秘密部隊は、石油施設の奪取作戦で実戦デビューします。
昭和17年2月、ランゴアン飛行場を急襲した海軍落下傘部隊に続き、陸軍落下傘部隊はスマトラ島パレンバンの精油所占拠に投入されました。両作戦は大々的に報じられ、それまで落下傘部隊の存在を知らなかった国民を驚かせます。
地域住民が「〇〇(マルマル)」という隠語で秘匿してきた陸軍落下傘部隊は、この時から「空の神兵」と称されるようになりました。

パレンバン作戦以降も部隊の拡充は続き、新田原飛行場では手狭となります。そこで挺進飛行隊のみを新田原に残し、主力部隊はパラシュート降下場のある川南村へ移転するという計画が立てられました。
川南村を貫く国道10号線(当時は3号線)沿いに、唐瀬原飛行場を中心とする軍事施設群が完成したのは昭和18年のこと。
それまで軍馬の放牧地だった川南は、一転して巨大な空挺基地と化しました。

幹線道路沿いでハデな降下演習を繰り返す「秘密部隊」がパレンバン作戦まで存在を隠し通せた理由。それは、地元自治体と住民の献身的な協力のお蔭でした。
その事実をもって「宮崎県民は諸手をあげて空挺隊の転入を歓迎した」という解説も散見されますが、大きな誤りです。
空挺基地建設に伴う周辺農家の集団立ち退き、過酷な建設奉仕作業への大量動員、土地や宿舎の提供、住民や通勤通学者への防諜要請、林野資源や耕作地(および税収)の喪失、果ては県の動脈たる国道10号線の封鎖・迂回路建設といった負担の数々が、軍の都合で押し付けられたのですから。
それは、川南の戦後復興にも大きな傷跡を残しました。

一方で、「タンパク質補給のため牛乳を飲みたい」という空挺部隊からの要請により、川南に酪農が導入されたという妙な功績もあります。県外からは多数の乳牛が持ち込まれ、昭和19年には森永乳業のバター工場も完成。
この様にして、空挺部隊と地域社会は共存の道を歩んでいったのです。

川南の地において、挺進練習部は4個パラシュート連隊に規模を拡大しました。
更に、パラシュート降下では小火器しか携行できなかったパレンバンの戦訓から、重武装での空挺作戦を可能とする滑空班(グライダー部隊)の研究が開始されます。
パラシュート部隊は南方への切り札として川南に残し、新たなグライダー部隊は小笠原方面への備えとして茨城県に配置する事となりました。
昭和18年、茨城県西筑波飛行場に曳航機およびグライダーのパイロットを集めて「滑空飛行戦隊」が発足。
続いて挺進第5連隊も西筑波へ移動し、昭和19年秋に滑空歩兵2個連隊と挺進機関砲隊へ再編されます。川南でも、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊といったグライダー搭乗部隊が続々と誕生しました(挺進通信隊だけはパラシュート降下能力あり)。

しかし、空挺部隊を活用する機会はなかなか訪れず、戦局の推移、地理・気象条件、地上部隊との連携などの問題で、パレンバン以降は作戦中止と待機の日々が続きました。

昭和19年、陸軍空挺部隊の育成にあたってきた挺進練習部はその役目を終えます。
そして同年11月、唐瀬原のパラシュート部隊・西筑波のグライダー部隊・新田原の空輸部隊および支援部隊群は、「第1挺進集団」の傘下に纏められました。
1万4千名の準師団規模となった第1挺進集団ですが、実際は各個バラバラに運用されています。
制空権を奪われつつあった戦争末期、もはや大規模空挺作戦をおこなえる状況ではありませんでした。
レイテ島へ降下した挺進第3連隊と挺進第4連隊は米軍との交戦によって壊滅。ルソン島へ向かった滑空歩兵第1連隊は空母雲龍と共に撃沈され、残る滑空歩兵第2連隊や挺進工兵隊もルソン防衛戦で多数の将兵を失いました。
残存の空挺兵力はジャングルに立て籠もり、飢餓に苦しみながらフィリピン各地で抗戦を続けます。挺進通信隊や挺進機関砲隊は、全滅に近い損害を蒙りました。

降下作戦に従事した挺進飛行隊も多数を撃墜されてフィリピンから撤退、朝鮮半島での戦力回復に務めます。鈍足のグライダー飛行隊もフィリピン空域の米軍機に阻まれ、台湾で足止め。その特殊能力を一度も活かすことなく北朝鮮へ退避していきました。
本土防衛のため内地に温存されていた挺進第1連隊・挺進第2連隊・挺進戦車隊は、悲惨な特攻作戦へ投入される事となります。
昭和20年5月、義烈空挺隊(挺進第1連隊第4中隊)が沖縄の米軍飛行場へ突入。横芝へ移動した第1連隊主力からも、2個中隊がサイパン特攻を命じられます。都城市防衛についた挺進戦車隊では、挺進第2連隊の一部と共に沖縄へのグライダー特攻部隊が編成されました。

川南空挺基地に残されたのは挺進第2連隊主力と挺進整備隊のみ。彼らは児湯防衛にあたる陸軍第212師団と共に、予想される米軍の宮崎上陸に備えていました。

落下傘
川南町の空挺慰霊祭にて。

パレンバン降下作戦のイメージからか、単体のパラシュート部隊と誤解されがちな日本陸軍空挺部隊。
しかし、実態はグライダー部隊や飛行隊を含む様々な特別部隊の集合体でした。
そのうえ浜松~白城子~新田原・唐瀬原・西筑波の各飛行場へ移転・分散を続けていたので、全体像を掴み難いのでしょう。

陸軍空挺部隊を構成する諸部隊と拠点は下記のとおり。

・挺進練習部(宮崎県川南):陸軍空挺部隊の育成にあたり、後に第1挺進集団へ改編。
・第1挺進集團司令部(川南およびフィリピン):挺進練習部を前身とし、全ての陸軍空挺部隊を統括。

・第1挺進團司令部(川南):第1挺進団は挺進第1連隊と挺進第2連隊を指揮します。
・挺進第1聯隊(川南):最古参のパラシュート部隊。
・挺進第2聯隊(川南):パレンバン降下作戦に投入されたパラシュート部隊。

・第2挺進團司令部(川南):第2挺進団は挺進第3連隊と挺進第4連隊を指揮します。
・挺進第3聯隊(川南):高千穂空挺隊としてレイテ島防衛に投入されたパラシュート部隊。
・挺進第4聯隊(川南):高千穂空挺隊としてレイテ島防衛に投入されたパラシュート部隊。

・滑空歩兵第1聯隊(茨城県西筑波):グライダー部隊。ルソン島へ移動中に撃沈され、主力は一度も戦わずに全滅。
・滑空歩兵第2聯隊(西筑波):ルソン島防衛に投入されたグライダー部隊。

・第1挺進機関砲隊(西筑波):ルソン島防衛に投入された重火器部隊。
・第1挺進通信隊(川南):ルソン島防衛に投入された有線・無線部隊。
・第1挺進工兵隊(川南):ルソン島防衛に投入された工兵部隊。
・第1挺進戦車隊(川南):戦闘車両を有する装甲部隊。出撃の機会なく都城で待機。
・第1挺進整備隊(川南):パラシュートの補充管理を担当する部隊。

・第1挺進飛行團司令部(宮崎県新田原):空輸飛行隊を統括する司令部。
・第1挺進飛行團通信隊(新田原):挺進飛行團司令部の支援部隊。
・挺進飛行第1戦隊(新田原):落下傘兵を空輸する飛行隊。
・挺進飛行第2戦隊(新田原):落下傘兵を空輸する飛行隊。
・滑空飛行第1戦隊(西筑波):滑空歩兵を空輸するグライダー飛行隊。
・第101飛行場中隊(新田原):挺進飛行戦隊の支援部隊。
・第102飛行場中隊(新田原):挺進飛行戦隊の支援部隊。
・第103飛行場中隊(西筑波):滑空飛行戦隊の支援部隊。

幾つかの空挺作戦では、参加部隊に名前がつけられています。
・高千穂空挺隊:レイテ降下作戦に投入された第2挺進団の通称。
・義烈空挺隊:挺進第1連隊第4中隊から抽出され、第3独立飛行隊と合同で沖縄へ突入した特攻隊。
・第二剣作戦部隊:海軍空挺部隊と協同でサイパン特攻を計画していた挺進第1連隊の2個中隊。
・烈號部隊:グライダーによる沖縄特攻を計画していた、挺進戦車隊・挺進第2連隊・滑空飛行戦隊の混成部隊。名称は非公式のもの。

第1挺進集団とは無関係なのに「空挺隊」と名付けられた部隊もありました。
それが薫空挺隊(かおるくうていたい)です。
台湾軍に所属する薫空挺隊は、高砂族(台湾山岳民族)義勇兵で構成される遊撃部隊でした。昭和19年、この部隊は高千穂空挺隊に先んじてブラウエンへ突入するも失敗。隊員は全滅します。
攻撃目標が高千穂空挺隊と同じ米軍ブラウエン飛行場、作戦名が義烈空挺隊と同じ「義号作戦」だったことから、薫空挺隊が陸軍落下傘部隊の所属と勘違いされることもあるとか。
そのような混乱を避けるため、当ブログでは薫空挺隊を取り上げません。関東軍の気球作戦も同じです。

空挺
陸軍落下傘部隊のシンボルマーク。落下傘を簡略化した意匠となっています。

日本陸軍の空挺部隊は、それぞれの運命を辿りました。
戦機を逸した挙句に特攻隊として扱われた挺進第1連隊、パレンバンの栄光に輝いた挺進第2連隊。
空の降下作戦で、地上の遊撃戦で、海上の護衛任務で戦った挺進第3連隊と第4連隊。
戦う前に海へ沈んだ滑空歩兵第1連隊、クラーク防衛に奮闘した滑空歩兵第2連隊。
ルソンの戦いで全滅に近い損害を蒙った挺進機関砲隊、挺進通信隊、挺進工兵隊。
フィリピンで輸送機の大半を失った挺進飛行隊。
宮崎で待機を続けた挺進戦車隊や挺進整備隊。

創設から4年半。
昭和20年の敗戦によって、陸軍空挺部隊は消滅します。

8月15日の時点で、第1挺進集団と第2挺進団は終戦を知らないままフィリピンで戦闘を継続中。
北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行隊や滑空飛行戦隊は、潰走状態で朝鮮半島を南下します(途中でソ連軍に抑留)。
国内に残っていた第1挺進団は、軍の命令により敗戦処理に着手しました。
川南防衛にあたる挺進第2連隊の解散。出撃寸前だった挺進第1連隊や挺進戦車隊への特攻作戦中止命令。
宮崎県や民間への施設や物資の譲渡。分散秘匿していた武器の回収。故郷への復員手続や、川南へ帰農する空挺隊員への住居や耕作地の割り当て。
敗戦処理班の業務は多忙を極めました。

同年秋から宮崎県へ着任した進駐軍のマスマン少佐は、川南の空挺部隊を徹底的に解体。空挺出身者が集まっての起業計画も妨害し、とにかくバラバラに分散するよう仕向けました。
これまでの川南原開拓事業も、対象は民有地から軍用地へ変更されます。
塩付パラシュート降下地区、唐瀬原飛行場地区、高鍋軍馬補充部地区の三大軍用地は農地として開放。各空挺兵舎は学校や病院へ転用されました。

昭和20年12月、陸軍空挺部隊最後の秘密作戦がおこなわれます。
それが、挺進第3連隊跡地へ移転してきた国立宮崎療養所への要員派遣。
やがて戦地から復員してくるであろう傷病空挺兵を受入れるため、残務処理班を病院職員として潜入させたのです。
これをもって、陸軍空挺部隊はひっそりと活動を終えました。「軍都川南」は解体され、「開拓の町」として再出発したのです。
インフラ復旧が遅れる中での灌漑施設の整備や土壌改良など、苦難の連続だった川南開拓。
この地の開墾に取り組んだ入植者の中には、かつての「空の神兵」たちの姿もありました。

翌年の春、戦没空挺隊員を祀る川南挺進神社が進駐軍によって焼討ちされます。
挺進神社の焼失を機に、中村勇第1挺進団長と川南の人々は戦没者慰霊施設の再建に着手。
敗戦によって消える筈だった空挺部隊の記憶は、川南護国神社の完成を経て戦後の宮崎へと受け継がれることとなりました。

そのシンボルとなったのが、唐瀬原に残された挺進第3連隊兵舎の給水塔。
陸軍落下傘部隊に関する唯一にして最大の遺構です。

空挺部隊碑
川南護国神社の空挺部隊記念碑。

世の中に旧軍落下傘部隊を取り上げた本やサイトは色々ありますよね。
ただ、書籍やネットで目にする空挺部隊の話は戦場の勇ましい活躍ばかり。陸軍空挺部隊と川南開拓史の関わりというローカルネタは、我が国の軍事研究家から無視されてきました。
自国の陸軍空挺部隊が何処でどうやって準師団規模へ成長したのか、きちんと説明してある書籍やサイトはごく僅か。
その部分を疎かにすると、隣接する新田原飛行場と唐瀬原飛行場を混同したり、高野山の空挺慰霊碑や知覧特攻平和会館の展示を見て「和歌山県や知覧に空挺部隊の基地があったのか!」などと早トチリする危険があります。
「戦場の空挺隊史」ばかり注目していると、創設から戦後処理に到る「銃後の空挺隊史」の存在を忘れてしまうのでしょう。

いっぽうで、戦時の記憶を後世へ伝えようという努力は地域の人々や地元メディアによって続けられています。
証言を集めて郷土の歴史として語り継ぐ過程で、宮崎県には「空の神兵」に関する貴重な記録が残されました。

江戸時代に始まった川南原開拓
明治時代の西南戦争や軍馬補充部の設置
戦時中の空挺部隊の転入、空襲、米軍九州上陸の危機と敗戦
戦後の空挺部隊解体と軍用地の開放、米軍進駐と川南護国神社の建設、集団入植と戦後復興、農地整備事業への取組み
そして2010年の口蹄疫による大打撃。
幾度もの試練を乗り越えてきた川南の歴史を忘れない為に
当ブログでも、ミリタリーや歴史批評ではなく「地域史としての陸軍落下傘部隊」を取り上げました。

てな訳で、此処は宮崎県の近代史のブログです。
ミヤザキがカワミナミがとしつこく繰り返すのも、その部分を勘違いされない為です。
陸軍空挺部隊の戦術装備や武勇伝などを知りたい方には物足りない内容かもしれません。歴史には色々な見方がありますから、数ある資料のひとつとして御覧ください。

IMG_1509_R.jpg

しかし「川南の空挺隊史」とか言われても、宮崎県の場所すら知らない人が多い筈(九州の南の端っこです)。
当時の状況をや地理を大まかに把握する為、主要な軍事施設の配置図を載せておきますね。

「陸の孤島」と揶揄される宮崎に軍事施設が集中していた理由は、同県が鹿児島県の知覧や鹿屋に次ぐ沖縄特攻の出撃拠点であり、米軍本土上陸の第一目標と予測されていたからです。
戦時の記憶と正面から向き合ってきた知覧と違い、目を逸らせ続けてきた戦後の宮崎。
忘れられた特攻の地と化した現在、空挺給水塔の存在が知られないのも当然の結果なのでしょう。それを嘆いても仕方ないので、まずは情報発信から始めなければ。

それでは配置図の解説を。
・赤字が陸軍、青字が海軍の拠点。
・バツ印は軍用機の墜落地点(航空事故4件を含みます)。緑が日本軍機、オレンジが米軍機。
大まかな地点を示すもので、墜ちた機体数や機種とは無関係です。
・地名は現在のものを使用。

宮崎の軍事施設

A 海軍第48及び116震洋特攻隊(延岡市土々呂)
B 海軍第08回天特殊潜航艇及び第121震洋特攻隊(日向市細島及び梶木)
C 海軍富高飛行場(日向市財光寺)
D 海軍呉鎮守府平岩派遣隊通信基地(日向市平岩)
E 海軍第122震洋特攻隊(日向市美々津)
F 陸軍第212師団(児湯郡都農町)
G 陸軍落下傘部隊・唐瀬原飛行場(児湯郡川南町)
H 陸軍軍馬補充部高鍋支部(児湯郡高鍋町)
I 陸軍第154師団(西都市) 
J 陸軍新田原飛行場(児湯郡新富町) 
K 陸軍木脇飛行場および獨立戦車第五旅団(東諸県郡国富町及び綾町)
L 陸軍第156師団(宮崎市本庄) 
M 海軍赤江飛行場(宮崎市赤江) 
N 海軍第09回天特殊潜航艇隊(宮崎市内海)
O 海軍第03回天特殊潜航艇隊及び第126震洋特攻隊(日南市油津)
P 海軍第05回天特殊潜航艇隊及び第54・第117震洋特攻隊(日南市南郷) 
Q 海軍都井岬レーダー基地(串間市都井岬)
R 海軍崎田航空基地(串間市崎田)
S 陸軍第86師団(都城市~鹿児島県曽於郡) 
T 陸軍歩兵第23聯隊(都城市都原町)
U 陸軍都城西飛行場(都城市都原町)
V 陸軍都城東飛行場(都城市都北町・北諸県郡三股町)
W 海軍勝山通信所(北諸県郡三股町)
X 陸軍都城北飛行場(都城市野々美谷町)
Y 陸軍第25師団・陸軍小林飛行場・軍馬補充部小林分厩(小林市)
Z 陸軍えびの飛行場(えびの市)

高千穂
高千穂町B29及び一式戦闘機墜落事故:慰霊碑、案内板、機体の破片など

土々呂
海軍第48及び116震洋特攻隊:震洋格納庫跡3、実物大模型1隻

富高
海軍富高飛行場:滑走路の一部、掩体壕の一部、門柱、爆撃痕など

細島
海軍第08回天特攻隊:案内板のみ。回天が埋設処分してあるとの噂も。

細島
第121震洋特攻隊:記念碑2箇所と格納庫跡(細島・梶木に各1基残存)

美々津
日本海軍発祥の地碑:記念碑のみ。震洋美々津基地跡は消滅

川南
陸軍落下傘部隊唐瀬原飛行場:挺進第三聯隊給水塔、慰霊碑など

高鍋
陸軍軍馬補充部高鍋支部(現・宮崎農業大学校):軍馬慰霊碑のみ

新田原
陸軍新田原飛行場(現・航空自衛隊新田原基地):掩体壕4基、揚水場基礎跡、門柱、空挺歌碑など

六郷ヶ原
陸軍木脇飛行場:記念碑、弾薬庫、トーチカ4基

赤江
海軍赤江飛行場(現・宮崎空港):掩体壕7基、弾薬庫4基、地下壕数箇所、門柱、特攻慰霊碑など

油津
海軍第03回天特攻隊:基礎部分のみ

大堂津
海軍第126震洋特攻隊:記念碑のみ

榮松
海軍第05回天特攻隊及び第54・第117震洋特攻隊:回天格納トンネル1基

DSC00208_R.jpg
都井岬特設見張所:レーダー基地の電波塔基礎、地下発電室、地下指令室、貯水槽

崎田
海軍崎田航空基地:弾薬庫、給水塔など

都原
歩兵第23聯隊(現・陸上自衛隊第43普通科連隊駐屯地):記念碑及び資料館など

都城西
都城西飛行場:記念碑、トーチカ1基

都城東
都城東飛行場:記念碑のみ

都城北
都城北飛行場:案内板と記念碑のみ

椎八重
椎八重日本軍機墜落事故:慰霊碑及び墜落2地点の案内板、機体の破片(山中に残存)など

※串間・小林・えびのの軍事施設につきましては、福田鉄文氏の「宮崎の戦争遺跡」を参照しております
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コメント一覧

#29 父が落下傘部隊でした。
もっと話を聞いとけば良かったと後悔して
#30 Re: 父が落下傘部隊でした。
はじめまして。
空挺部隊の基地があった川南ですが、当時の面影は全くありません。
部隊があの場所に居た事すら忘れられつつあるので、ブログでは創設から戦後までの流れを大まかに取り上げてみました。
何かしらの御参考になれば幸いでございます。

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