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海軍第5特攻戦隊第33突撃隊・第9回天隊特殊潜航艇基地(宮崎市内海)

Category : 宮崎市の戦跡 |


 宮崎市内海に旧日本海軍の特攻隊が着任したのは、終戦直前の1945(昭和20)年7月。戦況悪化の中、じきに配備される人間魚雷「回天」で、迫る米軍の本土上陸作戦に対抗するためだった。軍事用輸送船の造船所があり、軍隊と住民が共存していた。
「白い軍服でマフラーをまとい、女の子たちの憧れの的だった。みんなが毛糸でこしらえた人形を隊員は腰から何個もぶら下げていた」。小学6年だった近くの黒木ツヤ子さん(80)は、特別だった特攻隊員の様子を思い出す。
 隊員から女学生だった姉やいとこへラブレターを託されたのは森田義孝さん(78)=同市神宮西1丁目。「恋の行方は分からないけど、はちまきを長髪の頭に巻いて海を眺める姿が凜(りん)として心に残っている」と語った。
 特攻隊員のほか、森田さんは海軍の兵隊とも交流し、近くの山でメジロ捕りをしたことも覚えている。「おおらかな人たちばかりで、『大きくなったら軍人になれよ』と言ってかわいがってくれた」と振り返る。しかし、森田さんはその後から終戦までの記憶をほぼ失っている。「空襲の恐怖と極限状態のストレスにさいなまれた」という。7月16日に回天6基が内海に配備。それが標的になり、翌日から空襲が激化した。

宮崎日日新聞「特攻隊のいたまち」より 2013年

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戦争末期、宮崎県沿岸には本土決戦に備えた特攻艇部隊「第5特攻戦隊」が配置されました。
第5特攻戦隊のうち、県南部には「第33突撃隊」、県北部には「第35突撃隊」が展開します。
33突の所属は日南市油津の第3回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第5回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、内海港の第9回天隊についてご紹介します。

【内海の歴史】

青島神社の南側、堀切峠の先にある内海(うちうみ)。
ひっきりなしに車が通過する220号線を除き、とても静かな漁港です。
しかし中世には外国との交易港として栄え、河野水軍の拠点ともなった場所でした。適切な港湾がなく、大淀川から運ばれる土砂の堆積に悩まされた宮崎市周辺には、内海しか良港がなかったのです。
大正3年には大阪・鹿児島方面への定期航路誘致に成功し、内海港は宮崎の海運拠点となりました。物資と人の運搬のため、内海駅までの軽便鉄道も開通しています。

しかし戦後に宮崎港が完成すると、内海港はその役目を終えました。

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戦前の内海駅~宮崎駅間の路線図。当時の鉄道はこの区間しか開通していませんでした。
画像のAが第9回天隊基地、Bが海軍赤江飛行場です。

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堀切峠から眺める内海港。戦後の新婚旅行ブームの頃でしょうか?晴れた日に堀切峠沿いの旧道を下ると、まるで80メートル上空から太平洋を一望しているような絶景を楽しめます。
現在は堀切峠を貫通するバイパスとトンネルの新設により、大幅なショートカットができるようになりました(そのかわり絶景は見られませんが)。かつては新婚旅行で賑わった堀切峠フェニックスドライブインも、現在は道の駅となっています。

【第9回天隊内海基地について】

戦争末期、宮崎県沿岸部には日本海軍の特殊潜航艇部隊が展開していました。
それが、海軍第5特攻戦隊の第33突撃隊(県南部)および第35突撃隊(県北部)。33突所属部隊のうち、内海に配備されたのが第9回天隊です。
日向灘に米艦隊が出現した場合、これら宮崎沿岸に潜む特殊潜航艇と特攻ボート群が迎撃。自爆攻撃を仕掛ける計画でした。

内海特攻基地の建設が始まったのは、沖縄戦が激化した昭和20年5月のこと。当初は、油津特攻基地の第33突撃隊第3回天隊の要員が内海に派遣されていたそうです。
配備される回天は潜水艦で海中輸送され、宮崎沖で切り離されて海面へ浮上。そのまま港へ曳航されてから格納トンネル内へ揚陸されます。一連の作業は深夜ひそかに行われ、地元住民ですら気付かなかった程でした。

下記は第3回天隊員の証言。
第9回天隊は編成が遅れたのか、第3回天隊による内海基地建設着工から2ヶ月後に到着しました。

私は人間魚雷「回天」搭乗員として、徳山港口の大津島訓練基地で九ヶ月間猛訓練を受けました。それまでは飛行機乗りとしての訓練を受けていたわけですが、新型兵器搭乗員の募集がありましたので応募したところ、合格でした。
着任してはじめて、飛行機乗りが海を潜る魚雷乗りとは夢想だにしなかったので驚きでしたが、戦局急を告げる国難に立ち向かい、昼夜も分かたずの猛訓練に耐え、戦意旺盛なるものがありました。
上官から、この回天は八万円の高価な新型兵器である。国は貴重な財政の中から、お前一人に託すのだから必死必殺で敵艦を撃沈せよ。もしエンジントラブルでもおきた場合は浮遊機雷となり、敵艦が近づいてきた時に自爆し敵艦を道づれにせよ、と訓示を受けたものです。
昭和二十年五月、宮崎県の油津港大節に第三三突撃隊第三回天隊員として着任したのですが、この時私は十九歳でした。隊長は歴戦の勇士、帖佐大尉でした。
近づく米軍上陸に備え、必殺の体当りを期して、秘かに訓練を重ねておりました。近郊の南郷栄松、大堂津、内海にも基地作りを急いでおりましたので、我々は先遣隊として七月に入り、内海に隊長以下数名の搭乗員が出向き、作業にあたっておりました。

第3回天隊 佐藤登氏の証言より

【内海沿岸部】

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格納トンネル付近から眺める内海港。

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回天格納トンネル前の海岸。青島から小内海一帯にかけては、「鬼の洗濯岩・鬼の洗濯板」と呼ばれる特徴的な地層(油津層群)が見られます。長年に亘って砂岩と泥岩の層が波に侵食され、奇妙な地形と化しました。
鬼の洗濯岩が露出しているエリアは、北端の青島から南端のイルカ崎(画面奥側)あたりまでとなります。

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外洋と内海を隔てる防波堤。回天格納庫前の海岸から港口へ伸びており、戦時中から同じ場所にありました。
戦後にコンクリート製護岸や船溜りといった施設が整備されたものの、内海港の基本的な地形は戦時中から変わっていません。
それゆえ、当時の様子は容易に想像できます。

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海底まで広がる鬼の洗濯岩。満潮時でも水深が浅いので潜航艇の運用はムリそうです。
この一帯で潜水艇が動けるのは、鬼の洗濯岩が河口の水流で削られた内海港だけでした。

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内海の防潮堤から眺める回天基地方向。白い塔は港導灯台。

【内海港口部】

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沖合の防波堤から見る内海港

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鬼の洗濯岩の上に造られた防波堤。その上を歩くと、まるでガメラの甲羅の上にいるような錯覚に陥ります。
画面奥の海岸には、油津の第3回天隊と126震洋隊、栄松の第5回天隊及び第54・第117震洋隊などが展開していました。

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内海港の入り口

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彼方に見えるは、かつて新婚旅行ブームで賑わった堀切峠。

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沖合から見た第9回天隊基地の位置図(赤いラインが回天曳出し軌道のルート)。宮崎沿岸部の格納トンネルに潜んでいた特攻第5戦隊ですが、細島や美々津のような「岩盤が硬すぎてトンネル掘削に失敗」「そもそもトンネルを掘る場所がない」など、地理的条件に恵まれない部隊もありました。

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第9回天隊の受け入れ準備のため、内海には油津の第3回天隊から設営要員が派遣されていました。
特殊潜航艇は人目につかぬよう深夜に運び込まれたものの、それを察知した米軍は内海港を急襲します。

七月十六日、内海港入口に輸送用潜水艦が着艦。運ばれてきた回天六基を小型船で収容、近くの山あいに築かれた掩体壕に搬入と、昼夜兼行の作業を続け、翌十七日早朝二時頃完了、そして眠りにつきました。
五時半起床、夏堀、井手籠の両君がいない。内海港防波堤に好きな釣りに出かけたらしい。朝食をとっていた七時三十分頃、突然P51戦闘機二機による銃爆撃の急襲を受ける。
約二十分後、基地隊員より搭乗服の一名が防波堤電柱の陰に倒れているとの通報があり、二手に別れて捜索しました。
防波堤に倒れていたのは井手籠君で、頭部、腹部に十三粍機銃貫通で即死。
夏堀君は走り込んだ二階建住宅への爆撃による倒壊の下敷となっていた。遺体は軽爆弾の直撃を受けたとみえ、頭髪と骨の一部を残し、肉片は残していなかった。
納棺、軍艦旗につつみ、トラックで油津基地に帰還。翌十八日、ガソリンの補給を受け荼毘に付した。海軍葬を近くの正行寺で行い、遺骨の分骨は隊舎に安置された。
両君はともに北海道の釧路中出身で中学、海軍生活、出撃先も一緒と、兄弟以上の親友でした。
回天を搬入した内海基地には、光訓練基地より六名の特攻搭乗員が正式に七月二十二日に着任しました。両君の無念をはらさんと、米軍上陸を待ちかまえておりましたが、まさか一ヶ月にもならないうちに終戦になろうとは、予想もしませんでした。追いたてられるようにようにそれぞれの故郷へ帰されました

第3回天隊 佐藤登氏の証言より

米軍機の襲撃により、第3回天隊以外に地域住民も被害にあったそうです。

 「誰か助けて」。自宅前で米軍機による機銃を受けた当時9歳の大澤ヒロ子さん(77)は叫んでいた。銃弾が肩から右腕にかけて貫通していたが、山へ逃げようとする兵隊は誰も振り返らなかった。
 地鳴りのような空襲が続く中、逃げ場所を求めてさまよい歩き、神社にたどり着いた。駆けつけた医者は大澤さんに「向こう向いとけ」と叫び右腕を切断した。不思議と痛みは感じなかった記憶がある。負傷して横たわっていた近所の男性は「みずー」とうなっていた。誰かが水を少し飲ませると息を引き取った。
 いまだ銃弾のかけらは大澤さんの体に残り、失った右腕を思えば空襲の惨劇を忘れることはできない。「召集令状が来ても腕を返してもらわんと子供は戦争には行かせない」が口癖になったという。
 空襲による犠牲者は約30人に上り多くの住民も巻き込まれた。終戦を迎え、出撃することがなかった特攻隊員や兵士たちは姿を消した。

宮崎日日新聞「特攻隊のいたまち」より

その他、日向市細島港や日南市油津の特攻艇基地も米軍機の襲撃を受けています。宮崎沿岸部での不審な動きは、米軍側も監視していたのでしょう。

それでは橋を渡り、港の対岸へ。

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河口付近の岸辺には、旧い桟橋の跡が幾つも見られます。おそらく漁船用のもので、回天とは関係ありません。

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【内海港全景】

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港を見下ろす山中にも港導灯台が設置されています

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丘の上から見下ろす内海の街並み。

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JR内海駅。現在は日南・串間まで全線開通していますが、当時の鉄道は宮崎市~内海までの区間のみでした。
第9回天隊とこの駅は、特に関係ありません。

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内海駅舎。駅裏の山の向こう側に、回天格納トンネルが掘られていました。わざわざ山登りをせずとも、内海駅より先の道路沿いに回天基地への入り口があるんですけどね。

【海軍桟橋】

記録によると、内海港には「海軍桟橋」なる揚陸拠点があったそうです。
回天隊用の物資を揚陸したのだと思われますが、詳細は不明。

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海軍桟橋があった場所(茂みの向こう側)を対岸より眺めたところ。

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かつて海軍桟橋があった場所。

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現在は、その痕跡すら残っていません。

第3回天隊先遣隊が空襲を受けた後、7月22日には重岡、小川、片岡、金子、真部、山口ら第9回天隊員が内海に到着しました。

山口県の光訓練基地から、内海の人間魚雷発進基地に、第九回天隊員として六名の仲間と共に着任したのは七月二十二日でした。宿舎は民家でした。港近くの山の谷あいに掩体壕があり、そこに回天六基が厳重に保管されておりました。
各自、自分の操縦する回天を整備兵と共に整備点検したり、掩体壕から港の海底まで回天を発進する為の線路が敷設されておりましたので、その線路を敵機に察知されないように砂でおおい隠す仕事が主な日課でした。
敵機による内海空襲でも回天には異状がなく、米軍上陸近しと待ちかまえていましたが、一ヶ月もたたない八月十五日が終戦となり、茫然となりました。
早々に故郷に帰るよう指示があり、十八日頃内海を発ちましたので、回天や掩体壕はどのようになったのかわかりません

山口仁之氏の証言より

【回天曳出し軌道】

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赤い線が回天曳出し軌道のルート。

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山中から曳き出された回天は、この対岸から海中へ降ろされていました。

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現在の曳出しレール跡は、港へ続く道路となっています。

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回天格納トンネルから内海港へ続く道路。かつて、この道沿いに特殊潜航艇の曳出しレールが設置されていました。
当時は鉄道も開通しておらず、自動車の通行量も少なかったので、220号線を横切る「回天レール」の存在も問題なかったのでしょう。

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レールは海岸の燈台あたりから右手にカーブし、220号線方向へ。
回天格納トンネルは、突き当りの丘の向う側に掘られていました。この道を直進すると崖に阻まれるので、当時の軌道はやや南寄りに敷かれていたと思われます。

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曳出しレール跡より、格納庫側から内海港を眺めたところ

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海軍桟橋跡の隣にある、スリップウェイ式の船揚場(漁船の修理施設)。戦時中は近くの護岸に木製の斜路が設置され、鵜山格納庫からレールで曳いてきた回天を海中へ下ろせるようになっていました。
「いざ出撃」となっても、出航までにはかなりの手間と時間を要したわけです。

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回天を海に降ろす木製斜路は、ここから数十メートルほど海寄りの場所にありました。

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かつて、回天の斜路もこのように設置されていたのでしょうか。

【回天格納庫跡】

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回天格納庫の案内板

人間魚雷を格納する掩体壕は、私の所有する鵜山という山の谷あいに、二本ほどトンネルを掘って築かれていました。
幅三メートル、長さ五十メートルでした。掩体壕の中まで線路が敷かれ、ほぼ一直線に港に出動できるようになっておりました。
終戦後、処分する為に警防団が回天を壕から搬出する様子を見ていましたが、錆びついていて手間どっていたようです。
掩体壕の入口は埋め立てられましたが、奥の方は空洞のままです。

河野為一氏の証言より

他の33突基地は爽やかな潮風の吹く海岸線にあるのですが、第9回天隊のみ山の裏側の谷間に基地が造られました。部隊が展開した夏場には、湿気や暑気、蚊やブヨにも悩まされたことでしょう。
山の中にある潜水艇の基地というのも、考えてみればシュールですね。
回天格納トンネルは埋設処理されたので、外部からの確認は不可能。山中には痕跡すら残っていません。

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回天を鵜山から内海港へ曳出していた場所。戦後に敷設された日南線の線路が横切っています。

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曳出しレールの跡は消え、自然に還りつつあります。

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特殊潜航艇を運び込めそうな地形はこの辺まで。

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谷間の奥は幅も狭く、トンネルを掘れそうな場所もありません。

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回天格納庫があったと思しき場所。当時の痕跡は全く無し。踏み込んだところで、行く手には生い茂った藪、重なり合う風倒木、地下水がジクジクと滲みだす湿地と川が立ちふさがり、トドメとばかりにスギ花粉が充満しております。
風倒木に蹴躓き、藪に絡まり、ぬかるみに足をとられ、クシャミと鼻水は止まらず、這う這うの体で退散しました。

かつて、自爆攻撃のために特攻隊員が待機していた内海港。
そのような過去がウソみたいに、現在はのどかな風景が広がっています。
もしも本土決戦になれば、内海の回天隊も一矢報いることができた筈……などというのは、米軍のオリンピック作戦計画を知らない者によるタワゴトに過ぎません。
人間魚雷は、空から襲いかかる敵機に対しては無力です。
米軍の宮崎上陸計画では、「露払い」として沿岸部の特攻艇基地を徹底的に爆撃する予定でした。そうなれば、この小さな漁港も灰燼に帰したことでしょう。

基地設営時に派遣された第3回天隊から2名の戦死者を出してしまったものの、第9回天隊は損害を受けることなく敗戦の日を迎えています。

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