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陸軍第25師団と小林飛行場(小林市)

Category : 西諸県地区の戦跡 |

昭和二十年八月十日の出来事。
朝の朝礼は何の変わりもなく、みんな元気な一日の始まりでした。
その日、私達は石塚方面に草取りの奉仕作業に行くということで、先生と上級生のお姉さん等と校内を出てみんなと話しながら並んで出かけたと思います。西小林駅に差しかかった時、火の見台の上で警戒警報の鐘が鳴っていたと記憶しています。
友軍機と勘違いしました。
農協の前の道路上に、それは大きな飛行機(グラマン)でした。
黒い煙を吐いて低空飛行してくるところまでが私が見たもの。後はもう何が何だか分からずパニック状態だったと思います。
自分が撃たれたことも分からず痛みも感じませんでした。でも私の命は助かりました。
私の集落では三人もの友達が亡くなりました。
カスミさんという方はすぐ隣で遊びも学校も一緒、かけがえのない人でした。咽からお腹へ弾が抜けて何時間も生きていなかったそうです。
また、キリちゃんの足は付け根から折れて竹でくるんでありました。この方はカスミさんより少し永く生きておられたようです。
空襲を受けた直後、私は外傷だったので顔を動かして周りの様子を見ることが出来ました。
カスミさんの母親の声が今も耳に残っています。
「カスミ死んなよ、死んなよ」と必死に叫んでいる声。
キリちゃんの「水、水」という声。
お父さんが泣き叫びながらカボチャの葉っぱで水を汲み、口うつしに飲ませているのが見えました。
大城トシ子さんは沖縄の人でしたが、この方も何時間とは生きていなかったと思います。「私死にますよ」といいながら亡くなられたそうです。
家族の方々は、折角沖縄から命拾いに疎開して来たのに、「何故、何故」と嘆かれたそうです。

早田ヒサエ氏の証言より 西小林国民学校

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霧島山麓に展開していた陸軍第25師団第14連隊の軍旗奉焼跡之碑。米軍の宮崎上陸に備えていた第25師団は、敗戦と共に残務処理や武器の引渡しを済ませ、各部隊ごとに解散しました。

【小林と本土決戦】


戦争末期、小林市一帯には陸軍1コ師団が展開。さらには軍用飛行場まで建設されていました。
霧島山麓ののどかな町に、なぜ大規模な兵力がやって来たのでしょうか。
今回は、本土決戦と小林の歴史について取り上げます。

昭和20年、太平洋の戦線は至る処で崩壊し、戦局は絶望的になります。
サイパンやフィリピンの次は沖縄と台湾が狙われると予想され、その後は本土決戦がいよいよ現実問題となりました。
上陸地点のひとつと目されたのが九州南部。鹿児島県の志布志・吹上浜と宮崎県沿岸部です。
そこで、九州防衛を担当する第2総軍第16方面軍は、隷下の第57軍を都城・財部の県境へ配備しました。
宮崎県には、57軍隷下の兵力16万が続々と集結します。
上陸地点と予測される宮崎県沿岸部には、敵の上陸を牽制する国富町の154師団(護西兵団)と西都市の156師団(護路兵団)、その背後から機動打撃戦をおこなう都農町の212師団(菊池兵団)、串間から志布志湾にかけては第86師団(積兵団)が展開。
鹿児島県吹上浜には第40軍が別途配置され、57軍が窮地に陥れば増援部隊を派遣する計画でした。
ただし、米軍のオリンピック作戦では3方面から同時に上陸する予定であり、もしも本土決戦が行われた場合、日本側に戦力を融通し合う余裕など無かったワケです。

宮崎沿岸、志布志湾、吹上浜の三方面をカバーできる後方拠点が、交通の要衝であった都城~小林エリア。
こうして、都城盆地から霧島山麓にかけて大量の軍需物資が集積されることとなります。

本土決戦の準備自体は昭和19年春から始まっていますが、あくまで離島や要塞地帯が優先。九州南部の防衛が強化されたのは昭和20年に入ってからです。
すべてが後手後手でした。

昭和20年1月4日
明けて正月四日、軍監中佐以下数人の軍人と小林の有志二○数名が役場の階上に集まって厳しき達示―会議がありて、軍監より愈いよ戦争は深み行き当地方にも軍隊が駐屯するので皆さんの特別なる御協力をお願いすると云ふ話があった(当時小林はまだ町であった)。
鉄道も愈いよ多忙を極め、必要に迫って鹿児島管理部が分割して宮崎管理部が出来た。小林も又、昭和二十年一月八日付けを以って宮崎管理部下に入りて、その指示を受ける事となった(橋口与蔵氏の証言より)。

1月15日
高千穂工作隊「一七部隊」の工兵が約二○○名位来て、かねて駅に着いていた土工具類をトラックなどに満載していづこかへ行った。当地方にこんなに多くの兵隊さんが来たのはこれが初めての様だ。いや外にも来たか知らぬが一寸物珍しく地方人の目を大きくみはらした。
やっぱり是が先発隊だったかもしれぬ(橋口与蔵氏)

1月22日
西部軍の起行式が堤の城ヶ平岡にて厳に挙行された。輸送陣の代表として参列した私は、初めてこの地に糧秣の格納壕が出来る事を知らされて非常に厳粛な、なんともいひ得ぬ切迫した心になった。今度はこの奉仕作業に各部落を通して日をきめてかり出される様になった。勿論主作業は工兵部隊がいたして奉仕作業は道路の整備やその他の補助をするにとゞめられた。
雪が降る。雨が降る。昨日も今日もさんさんと降る雪は一面に銀世界と化した。雪の上に雪が降り積んで歩行に苦しむ。それに小林名物の霧島颪が吹いて肌を射す様である。
きけばこんなに深く降り積んだのは幾十年振りであるそうだ。城ヶ平岡の奉仕作業もさぞつらかろう。
貨物作業の上にもいひしれぬ苦しさが積る(橋口与蔵氏)

宮崎県沿岸、志布志~鹿屋~都城、鹿児島防衛の後方支援基地として指定されたのが、霧島山麓にある小林町でした(現在の小林市)。
現在でも、宮崎市、都城市、えびの・熊本方面の中継地点となる交通の要衝ですが、戦前の軍事施設といえば軍馬補充部高鍋支部の小林派出部(現在の「まきばの桜」)と高原派出所があっただけ。戦争との関わりはその程度だったのです。

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軍馬補充部小林派出部跡。現在は独立行政法人家畜改良センターの宮崎牧場となっています。

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家畜改良センターから望む夷守岳。戦時中、陸軍落下傘部隊がこの地で大規模なパラシュート降下訓練を行いました。空挺4個連隊の全兵力が参加した国内最大の演習でしたが、何故か軍事オタクからは無視されております(同時期、宇都宮の天覧降下演習があったせいでしょう)。

比較的のどかだった小林も、戦争末期にはその地理を活かして三方面への作戦支援拠点となりました。霧島山麓の小林・えびの・野尻・高原一帯には、満洲の関東軍から引き抜かれた第25師団(国兵団)が転入。高射砲部隊や野戦病院も次々と設置され、一大軍事拠点と化します。

こゝで二十五師団と云うのはどんな兵団だったかについて簡単に御紹介して置きますと、昭和十四年に陸軍の編制改正がありまして、それまで歩兵四ヶ聯隊だったものが三ヶ聯隊編制に変りました。
そのために各師団から余る聯隊を三つ集め、それに特科聯隊をつけて新しい師団をつくりました。
二十五師団はこの時生れた師団ですから、師団としては新しいが聯隊は歩兵第十四聯隊、第四十聯隊、第七十聯隊と、昔からあった古い聯隊であります。
この中でお気付きかも知れませんが、歩兵第十四聯隊と云うと小倉で、乃木将軍が聯隊長当時軍旗を失ったと云う由緒ある聯隊です。
これに騎兵、山砲、工兵、輜重兵各聯隊、兵器勤務隊、防疫給水部、衛生隊、病馬廠等があって兵員二万五千、馬が一万五百、自動車一四〇で、当時の日本では最大の甲編制師団であります。
この師団の兵隊さんは編成されてから第四師団管区(大阪、和歌山)から徴集されましたが、将校や古い下士官はまだ編制改正前のまゝの人が多く、幹部はなか〃精鋭でありまして、師団長も支那事変当時、鬼の赤柴聯隊長として勇名を馳せた方のあと、工兵学校長から師団長になられた築城の権威、加藤怜三中将という名将をいただき、四国の十一師団と並んで東満最前線を担当していたものであります。

第25師団参謀 高橋照次「終戦当時における郷土の防衛態勢について」より

満洲からは部隊が次々と引き抜かれ、南方や本土防衛へ送られました。
かつて精強を誇った関東軍は、戦力が激減した絶望的な状態で強大なソ連軍と対峙することとなります。
いっぽうその頃、小林では本土決戦の準備が始まっていました。

昭和20年2月14日
ちょうどその頃私は二十五師団参謀として東満国境興凱湖の近くの平陽に居りましたが、二月の中旬にはソ連極東軍の幹部演習がありまして、司令官、幕僚とおぼしき連中が非常に多勢で自動車を連ねて国境近くに現れ、地図を開いて満州国側の国境陣地を望見しているのをこちらの歩哨が発見して居ります。
この情報に接して、情報、動員、後方関係等を担任して居りました私は「今年の夏季に於てソ連軍は極東で攻勢に転ずるであろう」と云う判決を附して軍に報告したことを記憶しております。
このように、今までなかったような動きがソ連の極東軍に見られていたのであります。それに引きかえ、満州における日本軍は専ら防勢に立ち、二月の上旬には牡丹江の第一方面軍で、ト満江下流に近い渾春正面を防衛する第三軍の防衛作戦図上演習を行って居ります。このとき私ども第五軍関係でしたので、第五軍参謀長がソ軍司令官、二十五師団の白木参謀長がソ軍参謀長、私がソ軍参謀と対抗軍を受け持って、残念なことに演習にならない程私どもが勝ってしまいましたが、その後八月にソ軍が此の正面で採った作戦が、私達が演習でやったことゝ殆んど同様であったことをあとで知りまして非常に興味を持ったものであります(高橋照次参謀)

2月21日
高山大尉殿に従って城ヶ平作業場所まで参ったが、すばらしい深い立派な洞窟がいくつも出来て居た。
そして奉仕隊や兵隊さん達がまだ雪のある丘にエイエイとして作業中であった。私はこうした奉仕作業、こうした兵隊さん達をみて口に言い得ぬえも知れぬ涙がとめどなくほゝをぬらすのであった。
あの厖大な糧秣やその他のものを、この洞窟に格納するのであろうと存じ、朝も夕も作業に献身する人達を思い浮べて心から感謝の頭が下った(橋口与蔵氏)

3月1日
兵隊が臨時列車で着いた。
「弾薬、砲丸、ドラム缶入、様々の兵器が在る」。
駅頭に山の様に積まれた。砲丸は競馬場に、その他はそれぞれの場所に部隊の指令に依り数十台の軍馬や荷馬車にて運搬いたした。特に注意をさせられたのは火薬、弾薬、砲丸の取扱である。種々の取扱になれている作業陣も冷静に注意に注意を重ねていた。
引きつゞいて城ヶ平工事場送りドラム缶がドンドン着貨しだした。
各所各都市を敵機が毎日の如く襲撃すると云ふ悲報が盛んに飛んで居る。小林も又、毎日の如く空襲警報が在りいろいろな取り沙汰が乱れ飛んでいる(橋口与蔵氏)

3月に入り、第25師団へ内地への移動が内示されます。
代りの国境警備は、大砲の数も不足している二線級の部隊がつきました。満ソ国境地帯の関東軍は、まさに張子の虎と化しつつあったのです。

3月15日
身替り師団の編成を終ると、十五日から八面通と云うところに防御陣地を新しく構築することゝなり、私は資材集積に現地に行って居りました。ところが十六日の夜十一時頃になって「高橋参謀すぐ帰れ」と云う無線が入りました。
何か判りませんが、直ちに自動車をとばして朝の四時頃漸く平陽の司令部に帰りましたところ、参謀長と高級参謀は東安の軍司令部に命令受領に行っていると云う。師団長に「何かありましたか」と尋ねると「師団に動員が下った。細部は参謀長が帰らんとわからん。又お前もいそがしくなるから少しでも寝んでくれ」と云われても一寸眠れませんでした(高橋照次参謀)

こうして、満洲の果てでソ連軍と対峙していた第25師団は内地へ帰還。
装備と兵員を猛スピードで纏め、遥か南方に在る宮崎県への大移動が始まります。

3月16日
十六日夜に入って動員下令となった第二十五師団はそれまでの満洲第五三六(イサム)部隊の秘匿名称から新たに国部隊を名乗り、二十一日から輸送を開始いたしました。しかし此の時には船腹の関係等もあって、兵員一万八千、馬は零、自動車は九〇輛と編制を縮小されて居り、兵員及び最小限必要な馬は内地に行ってから充足することになっていました。
私ども幕僚は、それ〃任務を分担することゝし、編成と釜山までの輸送計画が私、釜山の船舶輸送計画が高級参謀、博多の上陸地とそれからの汽車輸送が高級副官、新任地における西部軍との連絡及び部隊の配置等を参謀長が担任いたしまして、皆があわただしく先にとんで行きます(高橋照次参謀)

【国兵団到着】

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県立小林高校から眺める第25師団司令部跡地全景。小高い丘に軍事施設が設置されました。ただし要塞化すらされず、防空壕を掘った程度です。

3月18日
小林の上空を敵機が、しかも二九機悠々として飛んで行く。宮崎方面より来て芳松上空に消えて、しばらくして引返していづこかへ飛び去った。警報は盛んに急をつげしが、敵機をみつゝ吾等はこれからどうする事の出来ざる残念さ。たゞ上空をみて傍観するのみであった。
最近毎日の如く敵飛行機が飛ぶ。宮崎や志布志、鹿児島を襲撃するものの由である。戦は愈いよ深刻になり出した。
学校の先生達にも令状が次ぎ〃に来て授業が出来ぬ。それと子供の安全をみて県では緊迫なる事情のため遂に一ヶ年間の授業を中止すると云ふ通達を三月十四日付にいたしている(橋口与蔵氏)

昭和20年3月18日、九州沖に接近した米空母から飛び立った艦載機は、宮崎県各地の軍用飛行場を奇襲攻撃します。
沖縄進攻に先立ち、後方基地である九州南部を露払いしたのでした。
この攻撃で沿岸部の赤江飛行場(現・宮崎空港)と新田原飛行場(現・航空自衛隊新田原基地)は勿論、内陸部の都城西飛行場までもが大損害を受けます。
沖縄・台湾の次は九州が狙われる。
それを確信した軍部は、宮崎への防衛部隊派遣を急ぎました。

3月28日
師団長の出発は二十八日と定めましたが、師団では私と高級参謀が最も新しく、それだけに内地の事情をよく知って居りますので、定められた配車(船)計画で最大限に作戦資材を持たせることゝいたしました。
一例を申しますと、師団の固有装備の外に一千五百屯の弾薬や、陣地構築資材の有刺鉄線、或は爆薬等まで、軍に餞別に下さいと頼みこんで輸送いたしました。従ってその輸送は、大陸鉄道司令部始まって以来の強行輸送と言われましたが、定員六〇名(二段収容)の貨車に、下段の床には米の叺か塩の叺をギッシリ並べ、その上に一一六名詰めて釜山まで二日二晩、身動きも出来ない程の輸送にも各部隊長以下不平一つも云わずに強行してくれました。
軍司令部では「高橋の奴、あんなに欲張って何でも持って行くが、釜山では積み切れずに滞貨の山を残すだろうから残置物件収集班を出そう」と中尉を長とする三〇名を追尾させられましたが、此の収集班は、僅かに防空被服を借りて来た部隊があったので、それを持って帰ったに過ぎませんでした。私は特に「立つ鳥跡を濁さず」と各兵舎の清掃を厳重に要求し、点検もして廻りましたが、此の輸送は実に素晴しい教育の機會ともなりました(高橋照次参謀)

4月6日
特別列車で西部軍(国部隊)が満洲より約三ヶ列車引揚げて来た。
軍馬も七○車到着したが、引きつゞいてぞくぞく列車が入って来る。糧秣も又幾十台も着いて駅頭は足のふみ場も無い様だ。
今や将に小林地方は戦時の体制で、ここも彼処も兵隊さんや軍馬で一っぱいである。一時に数万の軍馬で、まことに鼎をひっくり返した様な騒ぎである(橋口与蔵氏)

4月8日
早朝に小林警察署屋上に軍部が機関砲を据へつけた。
硫黄島の玉砕や各都市の敵機襲撃に気をくさくさして居た吾等町民は、ここに至って初めて気を強くいたした。米英なにするものぞ、今に目にものみせてくれるぞと云ふ向ふ見ずの心になって更に頑張った。兵隊さん列車や糧秣列車が臨時列車で引きつゞき到着する。風が出た。雨が強く降り出した。今年は雨が非常に多い。
こんなに毎日毎日雨に降りこまれては作業も出来ぬ。本当に作業員泣かせの天候である。
糧秣が多く到着する。米もある。高粱もある。罐詰も数へきれぬ程ある。
久しい間の戦で食糧は欠乏している。飢へている人もあろう。数多い兵隊さんも長途の旅にいひ得ぬ苦しみもあった事だろう。腹もすいている事だろう。
駅の倉庫にや日通の倉庫にはいろいろの糧秣が一ぱい満載してある。いつの間にか米や罐詰などがちょいちょい盗癖がある。油類が盗まれる。私達日通は軍の貨物を預って居る責任がある。
軍部より八釡間しく交渉があるがどうしてよいか分からぬ。夜を通して立ちつくした事もあった(橋口与蔵氏)

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対空機関砲が設置された小林警察署附近。この221号・268号線に挟まれるようにして、小林飛行場が建設されました(画面中央、クスの樹の奥側です)

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小林警察署の対空機関砲とは別に、小林飛行場付近にはB29爆撃機を迎撃する対空砲部隊も展開します。

4月10日
国部隊に配属された高射砲中隊が(一個中隊)競馬場の西小高い丘に高射砲を六門据へつけた。この高射砲中隊は會て八幡の製鉄所を防衛して敵のB二九を打ち墜して感状を貰った非常に優秀な部隊の由である。
そして試射砲を二日ばかり続けて上空に発砲した。
ドカーンと大音響と共に、はるか空高く破裂する様は実に見事で痛快であった(橋口与蔵氏)

4月15日
私は西部軍に行き「馬はどうなっているのか」と尋ねましたがわからないと云うので、師団長の許可と西部軍の諒解のもとに大本営に参りまして、空襲続きの当時でしたから中枢部は全部地下防空壕に居りましたが、そこでとりあへず必要な馬三、二〇〇(上陸作戦が始まったら五千頭に増してよい)を購買の許可を貰って帰り、初めて小林の駅頭に到着したのが四月十五日でございます。私が東京を出た十三日の晩、新宿附近東京西部一帯が空襲で焼けてしまいました。
小林の駅頭に立って、子供の頃からきかされた、雲にそびゆる高千穂の峯を望んで、いよ〃私もこゝで死ぬのかと深い感慨に打たれた次第であります。
しかしその感慨も、すぐに破られました。それは迎へに出た次級副官と参謀部付将校から馬がないので、到着した弾薬資材の運搬に困っていることをきいたからです。何しろ足のない部隊ですが、馬の購買は一日二日では出来ませんので、地元の馬車組合の方々を始め、随分皆様の御盡力をいたゞいて何とか四月末には此の大輸送を終ることができました(高橋照次参謀)

5月8日
国部隊の糧秣や器具その他が臨時列車で二ヶ列車着いたが、兵力三○○人とトラック三○台を以て終夜運搬いたした。
尚ほその余力で今まで滞貨して居る駅前の一部を整理してくれたので、まことに助かった(橋口与蔵氏)

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道路を挟んで左側が小林高校、右側の丘に25師団司令部が置かれていました。

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丘の上にある杉林。かつて25師団の地下陣地が構築されていました。

【犠牲者続出】

小林に展開した国兵団ですが、独自の施設を建てる余裕すらなく、地域の建物を間借りしての任務となりました。
師団本部は小林高校裏手の丘に設置され、高原・野尻・えびの方面にまで所属部隊が展開します。続々と運び込まれる備蓄物資のため、幾つものトンネルが建設されました。

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第25師団第14連隊が展開していた高原町松ヶ丘の運動公園。周辺の杉林や谷底を歩いて見ましたが、当時の遺構は残っていないようです。

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松ヶ丘観音の周囲には、日清、日露を含めた戦没者の慰霊碑が置かれています。

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高原町の忠霊堂

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丘の上に聳える陸軍塔と海軍塔。陸軍塔に刻まれた「忠勇」は荒木貞夫の揮毫でした。

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戦没者の名が刻まれた石碑

宮崎県南部には、加久藤カルデラから噴出した火山灰が厚く堆積した「シラス台地」が広がっています。掘削自体は容易なのですが、砂状のシラスはいとも簡単に崩落します。
25師団でも、戦時中と敗戦直後の落盤事故で多くの命が失われました。
最初の落盤事故は、小林市街から山側へ入った真方地区にて発生します。

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真方地区の道端にぽつんと建っていた開拓碑

西ノ村では掘削中に落盤が起り、上の山にポッカリ穴があき、作業中の工兵隊の下士官以下四名が埋没してしまいました。私はその時競馬場で兵器勤務隊が新しく考案した対戦車攻撃用の爆薬投射器の試験を師団長に随行して視察して居りましたが、此の事故の報に馬を飛ばして行ってみますと、工兵聯隊長はもう狂気のようになって、部下を督励して救出作業を進めて居りましたが、掘れば掘る程崩れ落ちて来ます。さしも工兵学校を恩賜で卒業した藤村聯隊長の技術を以てしても、此の過酷な自然の力には勝てません。
夕刻まで必死の作業を進めましたが、一番手前に居った兵の死体を収容したのみで、掘進どころか押し返される有様で愈々危険を加へ、このまゝ作業を続行することは却って新たなる犠牲者を出す惧れがあります。
私は遂に「工兵聯隊長は遭難者の収容作業を中止すべし」と涙を呑んで師団命令を下しました。今もあそこを通るときは、あの地下に埋もれている三人の霊に黙祷を捧げて通るのでございます
(高橋照次参謀)

真方地区落盤事故の犠牲者たちは、戦後30年目を前にしてようやく収容されました。・

昭和二十年五月から六月にかけてのある日、小林の真方西ノ村で、洞窟掘削中の第二十五師団工兵連隊(藤村部隊)下士官四人が落盤事故により生き埋めとなった。必死の救出作業により一人の遺体を収容したが、シラス台地の作業は難航した。
掘れば掘るほど砂に押し戻されて二次災害の危険が生じ、工兵学校出身(恩賜組)である藤村中佐の作業続行の願いも空しく師団長命令により中止された。
終戦後有志により遺体発掘の事が計画されたが、資金難も加わって沙汰止みとなっていた。
昭和四十九年になって小林の土建業者が協力し、遺体収容に乗出した。ユンボ、ブルドーザーを用い、台地の頂上から垂直に十七メートルほど掘り下げたところで三人の遺体を収容し、二十九年振りに遺族の許へ帰された。その間、坑口の慰霊碑には近くの住民による供花が絶えなかったという。

齋藤勉氏「太平洋戦争と霧島山麓」より

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工兵隊員4名が犠牲となった真方地区の落盤事故現場付近。

【小林の特攻基地】

沖縄戦の決着が見えると、米軍機は再び宮崎へと襲いかかりました。
梅雨が訪れても、B29は雨雲の上から投弾していきます。宮崎市は激しい空襲に晒され、市民の疎開も始まります。
しかし、小林では平穏な日々が続いていました。

いっぽうの都城市では空襲も激しさを増し、都城西飛行場は機能を停止。都城東、都城北に続く特攻基地が必要となりました。
そこで、小林の競馬場を軍用飛行場へ転換することが決定されます。平坦で広大な馬場があったので、滑走路建設も容易だったのでしょう。

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かつて小林飛行場があった場所。遺構が失われた現在も、「競馬場」の地名だけは残されています。

いつの時代も同じで、癒し慰める人間の心に変わりはありませんでした。
英語禁止、外国の音楽禁止と、現代では想像出来ないほどのそれは厳しい世の中でした。お国のためにいろいろな奉仕作業、婦人会、女子青年団で身を粉にして頑張り、出征軍人の家、戦死者の家、軍馬補充部、都城陸軍病院等を、草取り、稲刈り、歌と踊りで慰問する日々でした。
第二十五師団(國部隊)が小林に司令部を置き、飯野、高原、野尻に各部隊が配属されました。
兵隊は昼夜を厭わず、攻勢陣地構築、地下軍需品倉庫の構築に当たり、これに民間人も協力を惜しみませんでした。また、兵隊たちの休養を利用していろいろな慰問等も催されていました。
ある日、“國部隊人見楽団”があるのを知りました(楽長の人見清さんは、兵役まで宝塚のピアニストでした)。
それからというもの、國部隊慰問ため、松尾ハナさんのみづほ館(映画館)を解放していただき、人見楽長にきていただき、毎晩歌と踊りを練習したものでした。芳紀二十歳の春でした。
当時、私は小林警察署労働書記として勤務していました(小林警察署長・清速警部)が、まもなく、國部隊司令部高級副官付で働くようになりました。ちなみに、師団長付きに小林在住の同級生、亀崎幸枝さんがいました。

井料禮子氏「回想記」より

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小林特攻基地跡の全景。かつては画面奥に向って楕円形の競馬場が広がっており、そこが滑走路に改修されました。画面に見える直線道路は滑走路東側沿いに走っています。

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まず、滑走路西側を221号線沿いに歩いてみましょう。

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競馬場南交差点

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滑走路南端へ到着。現在は農政局の水利事務所と小林保健所があります。桜が綺麗ですねえ。

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かつての面影は全く無し。知らなければ、ここに馬や飛行機の施設があった事など想像もできません。

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保健所前の道路は、競馬場の楕円形コース沿いにカーブしています。

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滑走路東側の直線道路。病院敷地に突き当たるので268号線へ迂回します。

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滑走路は、221号線と268号線に挟まれた地域にあります。

6月9日
特種輸送で十五車引いて十二日に三六車着いたが、降り出した雨は止みそうも無い。今日も明日も降りつゞいて遂に一週間盆をくつ返した様な雨が降る。屋外に野積している貨物の事を思ふとほんとうに嫌な思いで、身の細る様な気持ちがする(橋口与蔵氏)

6月23日
この日は沖縄が陥落し、いよいよ本土決戦が目の前に迫ります。大本営は、米軍の宮崎上陸作戦は11月頃になると予測していました。
国兵団は物資備蓄に注力しますが、まだ準備段階だというのに食糧不足と防空壕掘削作業の重労働、そこへ赤痢の流行が重なって、兵士たちはバタバタと倒れていきます。
熊本から小林へ移転してきた熊本陸軍病院小林分院でも、本土決戦開始前に大量の患者が運び込まれるという想定外の事態にててんてこ舞いとなりました。

7月17日
鉄道線路を伝って飛来した敵機が谷頭、高崎新田間の鉄道を爆撃して一時不通となりしも日ならず修復いたしたので、たいして輸送には差し支へざりしも、一時はなかなかの騒ぎであった(橋口与蔵氏)

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再び滑走路東沿いの道路へ潜るも、家電量販店の敷地にぶつかって再度268号線へ。

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268号線から滑走路北端の路地へ入り込むと、競馬場コーナーの曲線が明確に残っていました。

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カーブの頂点附近

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滑走路北端カーブの終了地点。

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ようやく飛行場跡を一周、221号線に戻ってきました。

8月1日
鉄道も又戦斗義勇隊を結成いたし、吾等輸送陣も是に包含して義勇奉公を誓い、勇気凛々として明日よりの発足を快くいたした。
敵機は毎日の如く空高く飛んでいる。敵か味方か専門家でない吾れ吾れには分からざるも、二機三機かすかに姿がみへて爆音を高く残して行く。時には編隊を組んだ数十機が飛び去る事もある。
鉄道を爆撃したり工場などを爆撃するのは大方敵のどまぐれ飛行機だろう。今に吾が軍のえじきになるだろうが不快極まるものだ(橋口与蔵氏)

8月7日
午前十時頃だったろうか。小林の上空を敵飛行機が、しかも数十機大型小型、B二九も在っただろうし編隊を組んで、然も低空にはっきり見る程度に悠々と飛んで来た。
さあ時来れり。
先に吾が高射砲の威力を見て知っている吾等町民はひとしく今度こそ高射砲で一機も残さず打ち落すだろうと、はりきって今か今かと心の踊るまゝ手につばして時をまっていたが、一向発砲する模様も無いのはなぜだろう。
なぜ打たぬのだと、いらいらしているうちに敵は東方はるかに姿を消した。
なぜ砲撃しなかったのか。あれほどの威力のある高射砲を持って居りながら砲撃しなかったと云ふ事はなぜだ。
今更臆病風にとりつかれたのではあるまい。言葉はげしく軍部をののしり合ふのであった。
是は後で聞いた話だが、軍部ではいち早く敵機来を知り、是を砲撃すべく師団本部に通知したところ、加藤師団長命で「砲撃するな」と云ふて来た。何かの間違いでは無いかと訊したがやはり「砲撃するな」と云ふて来た。
時は刻々として過る。
今はもう気負いの如くなり、再三再四通知したが砲撃の許可が無い。部隊でも師団をののしり無念やる方なく、吾々以上に涙を流して口惜しがっていたそうである。
師団司令部では又是を重視して砲撃させなかった。若し是を砲撃して居たら、小林附近には高射砲があると云ふので今度は徹底的な爆撃を受けるだろう。宮崎、都城の都心部が焼野ヶ原となったそれ以上に、負傷者が出て死者が出るだろう。
それを思ふと、小林は一度の爆撃も受けず完全なるまゝ、今日在るは一に当時の司令部の良識に依るものと今更ながら深く感謝する次第である。
けれども当時の私達の憤慨無念さは非常なもので、今尚ほ身体の熱っする思いがする(橋口与蔵氏)

【小林空襲の日】

8月10日
筆者は会社に在りて国部隊の将兵に作業の指示を受けていたとき、急にパン、パン、パンと大音響がして敵機の襲撃を受けた。
私達は無意識の中に机の許に伏したが、大した事も無く飛び去った。
是は敵のグラマンが一機、鉄道線路伝いに都城方面より来て機銃を無ちゃくちゃに打ちまくったもので、小林駅、日立、無水工場を襲ふたが大した被害も無かった。
しかし高原では二人の死者を出し、更に西小林に至り先生に引率されて作業場より帰途中の頑是無い小学生六名を即死せしめ、八名の負傷者を出した。
更に飯野にては日通の作業員が即死し一人を負傷さした外、幾多の被害を残して飛び去った。まことに鬼畜に等しい憎むべき敵機である(橋口与蔵氏)

B29爆撃機による猛爆撃を受けた隣の都城市と違い、小林への空襲は艦載機による散発的な機銃掃射で済みました。
地下陣地化に加えて高射砲部隊の応戦すら禁じ、国兵団は自らの存在を秘匿し続けます。
こうして空襲を免れていた小林でも、遂に多数の住民が犠牲となる日がやってきます。
8月10日、都城方面から吉都線づたいに飛来した2機のグラマンは、進路上にある建物や人間を掃射しながら小林上空へ到達。更なる攻撃を加える為えびの方面へ飛び去りました。
米軍機の目的が鉄道施設の破壊だったのか、西諸県地域で日本軍の存在を探るための威力偵察だったのかは不明。
戦時を通じてたった1日だけの小林空襲でしたが、その日たまたま線路の周辺にいた人々が犠牲となってしまいます。
あと数日で戦争も終わったというのに、運命と呼ぶには余りにも酷な一瞬の出来事でした。

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空襲による惨劇は、吉都線西小林駅の近くで起きました。

この空襲により、線路付近を自転車で通りかかった三人の義兄弟、勤労奉仕に行く途中の女生徒6名、路上を歩いていた老人が機銃掃射を受けて死亡。
隣のえびのでも、飯野駅にいた作業員が頭部を撃たれて即死しています。

七月三十日転任の命を受けましたが、茶旧原の陣地構築が少し遅れ(八月から又、松山付近に陣地構築予定)、参謀長も高級参謀もその督励に行って居りましたので、北九州から帰ってもすぐに赴任するわけにもゆかず、留守を預かって居りましたが参謀長以下帰って来られましたので、八月十日朝、大脇さんの山の司令部を下って自動車で財部へ出発いたしました。
ちょうど高原の赤塚三叉路に参りますと、グラマンが超低空飛行しながら小学校の上から銃撃をして居ります。
すぐに車を道路の傍に停めさせ、トラックの上に居った兵を退避させまして、私は路上で、グラマンが小林方面へ飛び去るまで見て居りましたが、此の日御承知のように吉都線の沿線各所が銃撃を受け、小林の牧本さんや西小林の永野さんの子供さんなど十数名が死亡されて居ります。
私は小林の上町の上(今の一本杉住宅地)に陣地占領している高射砲が射撃を開始しなければよいがと祈るような気持ちで耳をすませて居りましたが、高射砲の音もしませんので、安心して財部に向いました。
前にも述べましたように、此の高射砲中隊は感状に輝やく腕を撫して居るわけですから、もし過早に射撃すると、忽ち翌日は報復的に小林は灰燼に帰せしめられるわけであります。
師団長以下之を心配されまして「対空射撃の開始については師團長が之を命ずる」と厳に戒めてあったのであります。
予め出されていた此の師団命令が、小林を戦火から救ったと申すと過言でしょうか。
(高橋照次参謀)

現在、小林空襲で犠牲となった児童たちの慰霊碑は西小林小学校校庭に設置されています。

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現在の西小林小学校

8月11日
さて財部に着任致しまして、翌十一日には早くも戦争は終わることを予知しました。
それはハワイ生れの二世の岡元と云ふ伍長に軍の情報室で短波受信機を使って、外国放送を傍受させてあったのですが、此の岡元伍長は真青な顔をしてヒヤリングしたまゝの英文情報を、情報主任参謀となった私のところへ持って来たからです。
直ちに軍司令部室で参謀会議を開いて、此のサンフランシスコ放送を検討致しました。
六人の参謀中五人までデマだと申します。
私は情報主任として「此の放送は本当だと思う。何故なら一方的な戦を進めている連合軍は、もうデマ放送の必要もあるまい。
特に広島に投下された原子爆弾とソ連の参戦で戦局は全く一変した」
と申しましたところ、藤原作戦主任参謀も、これに同意しました。
参謀長は風邪で休んで居られますし、西原貫治司令官は暗い表情で一語も発せられませんが、覚悟をされたようでした。
間もなくメルボルン放送で同様のものが入りました。
それによると「日本の最高戦争指導部はポツダム宣言受諾の方向に傾いている」と云うものでした。
此の情報を持って私達は、フランスで第二次大戦におけるフランスの敗戦を経験して居られる吉武参謀長を病床に訪ねて、いろ〃指導を受けたのであります(高橋照次参謀)

8月12日
今までどう云ふ事があってもと頑張って居た日通の経理課は、大事な書類があるので疎開の必要が迫り、遂に大河平方に疎開した。
敵機は盛んに飛んだ。
空襲警報、灯火管制も間断なく行はれた。大空を高く飛ぶ敵機は、東へ東へ飛ぶ様である。東方の都はいづこぞ(橋口与蔵氏)

【8月15日】
皇国民の忘るべからざる日だ。遂に来る時が来た。
敗け無い、絶体に屈すべからざると信じて居た吾等一同は、たゞ夢の如く茫然として聞いた。
本日の○時を期して一大ニュースがあると云ふのでスイッチを入れてまっていた。
天皇陛下の湿った声で、ラジオを通じて国民一般に「聯合国に対して皇国はここに無条件降伏をいたさゞるを得ぬ」と云ふ事を声涙共に下る告示があった。嗚呼!(橋口与蔵氏)

十二、三日は大した変化もありませんでしたが、十四日には決定的となりました。
十五日未明には「阿南陸軍大臣自刃」の軍機電報が司令部宛に入りました。
そして十五日十二時には、覚悟はして居りましたものゝ涙とともに終戦の詔勅を拝したのでございます。
直ちに「軽挙妄動せずに後命を待て」と軍命令が発せられ、私どもは電話で各兵団に要旨を伝へましたが
二十五師団の高級参謀などはえらい剣幕で「貴様はよくもそんなに冷静で居れるな。師団は依然任務を続行する」と電話で私を怒鳴りつける有様でした。
その後私が二十五師団を訪れて師団長にお目にかゝりましたとき、長い間東京を離れて居られたゝめか、師団長すら「上の奴等は嘘ばかり言って、勝つ〃とこゝまで引っ張って来てしまった。
それを信じて部下を叱り、この地方の方々にも無理を言って来たことは申訳ない」と涙を流された程ですから、各部隊長や幕僚が玉音放送すら信じなかったのも無理ではなかったと思います。
翌日この師団から「此の世の射ち納めだから、霧島山麓で実弾射撃を許可してもらってくれ」と私に電話がありましたので、軍司令部にお願いして許して頂きました。
十七日頃でしたか、終日大小の射撃音が財部まできこえます。
一日で終るかと思ったら又翌日もきこえます。
とう〃軍司令部が「高橋、二十五師団の射撃はもうよかろう。止めさせろ」
と叱られてやめさせたようなわけでした(高橋照次参謀)

第25師団の所属部隊は各々解散。そのまま復員業務へ取りかかります。
高原町に展開していた第14連隊は、陣地近くの丘の上で軍旗を奉焼しました。

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歩兵第十四聯隊は明治八年小倉に創設し 軍旗は明治十一年一月二十一日戦功に依り再受
爾来日清日露シベリヤ上海事変等に於て赫くたる武勲を立つ
昭和十一年四月満ソ国境に移駐 北辺の守りにつく
昭和二十年四月大東亜戦局急を告ぐるや本土決戦部隊として高原周辺に進駐し 高鍋地区に決戦準備を完了す
昭和二十年八月十五日聖断に依り終戦となる
九月一日日本発祥の地高千穂の麓礎高原に於て全将兵参列し七十年の由緒ある歴史と武勲に輝く軍旗を此の地に奉焼し 平和日本建設の礎とならんことを期し此の碑を立つ

昭和四十九年十月吉日
歩兵第十四聯隊関係有志一同


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14連隊の布陣位置を示す矢印

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松ヶ丘観音と十四聯隊軍旗奉焼跡之碑

【国兵団の敗戦処理】

米軍上陸が無いまま8月15日を迎え、国兵団は現地で解散します。
国兵団の残務処理班は軍需物資の民間譲渡、施設の明け渡し、野戦病院の民間人診療継続、敗戦で大混乱に陥った鹿屋飛行場への警備部隊派遣といった後始末に大童となりました。

米英の兵隊がすでに上陸した。女子供は早く山に逃げよ。どんな事になるやらわからぬ。
噂に噂が飛んで人心はために平穏でない。
間も無く各地に駐屯していた兵隊が機関車や貨物列車に乗って思い思いに引揚げ出した。
駅頭の吾等も何かこう、そはそはと落ちつかぬ気持ちだ。
ともうも無い噂が飛んだり、今にもアメリカ兵が来て殺戮するんだと云ふ様な噂まで飛んで人々をまどわした。その上軍需物資の放出やその他の事にまつはるデマが飛んで、切実に吾等当事者の意表を強く刺戟いたした。
二人寄っては無条件降伏の話になり、三人集ってはこうした話になり、次から次にあらぬ噂になって吾等は等しく無念と不満で時を過した。引揚げる兵隊さん達は吾れ先にと機関車に乗ったり貨物列車の上に隠れる如くにして帰りを急いでいる
(橋口与蔵氏)

敗戦によって、海軍特攻作戦の拠点であった鹿屋基地は大混乱に陥っていました。
司令部の解散が早過ぎた為、命令系統が崩壊してしまったのです。飛行機を奪って逃げる者、軍需物資を略奪する者、自決をはかって制止される者。そして、他の大部分は故郷を目指して列車に乗り込みます。
都城駅長より「鹿屋方面から兵士が殺到している」との連絡を受けた第25師団では、陸軍の復員業務を一旦中止して海軍鹿屋基地の状況を探るために要員を派遣しました。

辿り着いた鹿屋では、自暴自棄となった海軍将兵が暴徒化していました。その惨状を見た第25師団では直ちに鎮圧部隊の派遣を決定します。

「都城から引き返した私は、すぐに司令官に報告し、鹿屋は軍の作戦地域内でもあるし、厚木飛行場に次いで八月末には米軍が着陸することになっているので行ってみる必要があると意見具申しました。
即座に私に行って見ろと命ぜられましたので、一期下の参謀を伴なって車を飛ばしました。
その実情は語ることを避けますが、私はとりあへず近くの関兵団に、二ヶ中隊の兵力を地下倉庫の警備に出すように連絡して帰り、改めて軍命令を出して貰いました。
又「歩兵三中隊、工兵一中隊、自動車二十輛を使っても飛行場の応急修理に一週間以上かゝる」と報告しましたところ、「お前に任せる」と司令官は申されるので、その夜小林の師団司令部に参り、直ちに師団命令を出していたゝきまして、各聯隊から最も精鋭の一ヶ中隊を出してもらい、翌朝九時には高原の赤塚三叉路を出発いたしました。
夕刻鹿屋中学校に到着し、宵闇の中で大隊長以下全員に対して「海軍航空とともに二十六年を暮らしてきた鹿屋の市民は潰乱的解散によって軍隊に対する信頼を失っている。
我々は我々自身の行動によって軍隊に対する市民の信頼をとり戻し、消え行く皇軍の最后の姿を国民の眼底に残して行かねばならない」と訓示し、公務以外将校以下の外出を禁じました。
永田鹿屋市長も「私は海軍航空を二十六年間育てゝ来たが、今度は裏切られた。陸軍嫌いだったが、あなたのつれて来た軍隊こそ本当の皇軍だ」と激賞され、その後海軍特別警備隊も大村から送られ……(高橋照次参謀)」

進駐軍よりも先に鹿屋基地へ進駐した25師団は、市街を徘徊する海軍兵を飛行場へ連れ戻した上で軍需物資の整理と滑走路の補修を命令。外出許可を求める海軍の要請を一蹴し、鹿屋基地内へ封じ込めました。
陸軍部隊は、引き継ぎ業務が完遂した一週間後に鹿屋から撤収します。

いっぽう第25師団の軍事施設、特に小林飛行場がどのように処分されたのかはよく分かりません。
下記のような証言があるだけです。

「終戦時には私は西諸県郡畜産組合に勤務していた。
同組合にはその頃日本軍が駐在していて、軍需品も相当積まれてあったが、すべて占領軍の手に渡ったのであり、その軍需品はやがて軍が管理する事になって県の係員が出張していろいろと整理に当った。
軍需品の内シートが大分濡れたものもあって、それを競馬場の野原に干されたが、いつとはなし段々枚数が少なくなり気の毒な思ひがした。
更にある日のこと、競馬場の西の畑の中に占領軍の将校らが、日本軍の火薬を多量に集めてそれに火をつけた。その焔は天に冲し、すさまじく燃える様を見ては実に残念な、こわい思いがしてならなかった。
吾々組合勤務の者は県の係員に協力して整理にお手伝いしたが、その為か係員の方がお礼という気持ちだったろう?不用とおぼしき品をくだされた。私はモビルの入った缶のとりさしをもらった」
有屋田彦義氏「戦時終戦当時のさまざま」より

【戦後の犠牲者たち】

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当時、熊本陸軍病院小林分院があった場所。

戦争が終わったからといって入院患者が消える筈もなく、熊本陸軍病院小林分院では戦後も診療業務を継続していました。
敗戦後の復員業務でも犠牲者が続出したことで、設備の整った唯一の医療機関として閉鎖する訳にはいかなかったのです。
8月22日、薩肥線で鹿屋・都城からの復員兵を満載した列車が山神第2トンネル内で立ち往生。煙にむせた兵士らが線路上を入口へ歩き始めた所へ列車がバックし始め、53名もの轢死者を出すという大事故が発生します。
この事故での負傷者も、小林分院が受入れました。

民間の患者も小林分院での診療を求めたため、すべての患者の治療を終えたのは敗戦から半年後のこと。
熊本陸軍病院小林分院スタッフの解散により、ようやく小林の「戦時」は終わったのです。

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敗戦直後、えびのと小林の町境で崩落事故が発生。土砂崩れで兵舎が押し潰され、多数の犠牲者を出してしまいます。
彼等は、復員を前に奉仕活動で橋の復旧作業に従事していた満洲第960部隊の兵士たちでした。
道路拡張工事のため、慰霊碑はえびの側から小林側へ移設されています。

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