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陸軍苧畑特攻基地(えびの市飯野町)

Category : 西諸県地区の戦跡 |

苧畑(うばたけ)に飛行場が出来るということで、堀浦区からも行くことになった。
母に割当が来たのを私に行けということで、隣の川野ツルエさん、一つ年上の人と二人で行った。寒い時だった。
朝早く弁当を持って歩いて行った。
広い畑の整地をする仕事で、モッコで一日中土運びだった。
男の人がスコップで土を入れてくれ、それを三角な塔のように積み上げるのに運んだ。天幕を張って飛行機を入れるのだと云っていた。兵隊は立って見張っていた。
お金は親がもらったのかどうか知らない。

「苧畑飛行場(坂元)建設秘話」より、伊地知ハルエさんの証言

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えびの市を八幡岳から眺めたところ。
昭和20年8月10日、小林への機銃掃射を終えた米軍機は、この上空をかすめるようにえびのへ襲いかかりました。

陸軍第25師団第40連隊えびの進駐

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第25師団第40連隊(愛甲聯隊)が司令部を置いていたえびの市役所飯野出張所附近。

昭和20年、フィリピンの戦いは敗色濃厚となり、硫黄島も陥落します。
沖縄と台湾に米軍が迫る中、宮崎県は特攻作戦の拠点と化しました。
迫る本土決戦に備え、宮崎沿岸部には3個師団が展開。それらを後方支援する第25師団(国兵団)も、満ソ国境から霧島山麓へ移動してきます。
師団司令部は小林市街中心部にありましたが、関連部隊はえびの、野尻、高原まで分散配置されました。

第25師団のうち、えびの方面を担当したのが愛甲立身連隊長率いる歩兵第40連隊。
連隊司令部は現在のえびの市役所飯野出張所附近に置かれ、通信、工兵、機関銃、軍馬防疫、野戦病院などが飯野~加久藤の山麓に展開しました。

「私には四年ぶりの日本、夕暮れの博多に上陸したのは、昭和二十年四月の事でございました。
博多からの汽車(客車)の旅は、桜も咲き始めた沿線の風景、久し振りに見る日本女性
四月七日早暁、西小林駅に到着。
深夜にもかかわらず、ちょうちんを持った多くの人々の出迎えを受け、その日は、近くの小学校で仮眠。
次の日は西小林公民館で一泊。
天幕生活を数日致しましたが、とにかく雨がよく降り、天幕からポトポトと雨もりがして非常に侘しく、泣きたい様な気持ちになった事を四十年余経った今もはっきり思い出すことができます。
それから飯野の方に転進命令が出て、私は出発隊の一員として、徒歩で西小林から飯野に向かい、飯野に到着。
最初にお世話になったのが伊地知様のお宅でした。
縁側でお茶をいただき、小休止の後、川内川を越え、山に入りました。
その後、駐留中は、伊地知様ならびに村の方々には、入浴を初め、お茶やからいもだんごをいただいたり、色々と筆舌につくし難い、真心のこもったお世話になりました。
敗戦により復員してからも、目を閉じれば、飯野駅からの道順、精米所の角を左に曲がり、伊地知様の石垣にそって左折、すぐ右折して右側に種馬所、そして川内川原と、次々とうかんで参ります」
伊地知フサ氏「終戦後五十年めの供養」より



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野戦病院が置かれたえびの上江駅付近

米軍が宮崎に上陸すれば、沿岸部の3個師団が踏み止まって抵抗。25師団は、その後方支援として兵力と物資を送り込む手筈でした。
霧島山麓に大部隊が集結する中、第25師団とは別途の防衛計画が進められています。
これは小林とえびの一帯に飛行場を建設し、本土決戦における特攻基地とするもの。まずは小林の競馬場と苧畑の耕作地で滑走路の建設がスタートします。

苧畑特攻基地

昭和20年3月18日、米軍艦載機が九州南部を奇襲攻撃。以降、宮崎は激しい空襲に晒されました。
ただし、内陸部で空襲を受けたエリアは都城市まで。霧島一帯の第25師団は沈黙を守り、米軍の目をかわし続けたのです。

戦争末期、都城西飛行場はB29による凄まじい空襲によって機能停止。都城東飛行場からは次々と特攻機が飛び立ち、都城北飛行場は敵機から隠れるように待機を続けていました。
特攻基地は霧島山麓にも建設されます。
その一つ、えびのに造られたのが「陸軍苧畑飛行場」です。
滑走路は川内川沿いの台地上に置かれ、国兵団とは別途で本土決戦に臨む予定でした。

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かつて苧畑飛行場があった場所。長さ800m・幅80mの滑走路(将来は1200mに延長予定)が画面手前から奥へと伸びていました。

「昭和二〇年二月、軍部は西部軍司令部と第六航空軍(福岡市平尾駐在)に西日本一帯の防衛作戦の任務を与えた。
この任務を完遂するため、軍は飯野町苧畑のほか、白鳥の鳥井原、原田の愛染原、えびの・小林境の茶屋平、小林競馬場跡、そして北諸県郡志和池村庄内の六カ所に特攻基地を建設し、米軍の本土上陸作戦に対する防衛構想を逐次進めていた。
このため、鹿児島県知覧にいた第六航空軍の第四一航空隊の松山友七中佐の指揮する飛行場建設部隊は、昭和一九年一二月飯野町苧畑に特攻基地を建設する為に、飯野町に移駐、本部を飯野小学校講堂(旧飯野公民館)に置いた。
この部隊は吉松から小林の茶屋平附近までの民家に宿泊しながら、同年十二月中旬から苧畑の丘陵地に特攻基地(滑走路の長さ一二〇〇メートル、幅六〇メートル)の建設を秘密裏に開始した。
当時は建設機械がそれほどない時代であったが、この作業にはブルドーザー(中型戦車を改造したもので、グアム島の戦いで鹵獲した米軍のブルドーザーを相模原造兵廠で模造したもの)六台、ローラー転圧車八台、キャリオールの自動削土車四台が投入された。
また、人力も突貫工事のため多くの人手を要し、軍隊以外に当時の国民学校高等科生徒(現在の中学生)たちや西諸県郡内の各地区から多くの民間人が奉仕隊として協力し、モッコやスコップなどによる作業に精を出した。
遠方から来ていた人々は、食糧を持参し、泊まりがけで決まった日を勤めて作業に当っていた。
また、本特攻基地の建設に当っては、この附近を南北に走っている高圧送電線の鉄柱が障害になるため、これを解体し、地下線に変更する予定で進められていた。
この特攻基地は、苧畑、小林競馬場跡とも、昭和二〇年八月の終戦直前に完成して試験飛行が行われ、大刀洗で編成された「振武第一七六特攻部隊」四八機(零戦)が近日中に到着する予定であったが、この機を待たずして終戦となったのであった。
なお、この飛行場完成と同時に、次の飛行場予定地の茶屋平では準備が進み、既に国道脇の松並木の切り倒しが始められていた。
苧畑飛行場建設の際、ブルドーザーの重みで地盤が陥没して地下式横穴墓拾数基が見いだされたという」
「えびの市史」下巻より

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滑走路沿いには北側に5カ所、南側に2カ所の半地下式掩体壕が並んでいたそうです。背後の六本原山頂に聳え立つのは、海上自衛隊えびの送信所(潜水艦との超長波通信施設)のアンテナ群。山の向こう側は熊本県です。

「当時第六航空軍は知覧の南、開聞岳の近くに飛行場を建設中であった。
私は歩兵科であったが負傷をして治療後変更して、第六航空軍一五一航空基地建設部で知覧の飛行場建設に当たっていた。
大隊長は古参の中佐で立派な人だった。私はその大隊副官で大尉だった。
宮崎県諸県郡方面の飛行場建設が指定されたので空中偵察で方々探した。
当時小林の競馬場は作り掛けており、山之口はもう出来ていた。谷頭も候補地だった。昭和十八年十月頃だったと思う。その頃は知覧は八割程度出来ており突貫工事で作り上げ、昭和十九年二月頃駆け付けた。坂元は少し狭かったが決った。
当初基幹要員が来て準備作業をした。
隊長は飯野町の国分さん宅にいた。昔の内務省の役員さん(官吏)で、秋丸次朗さんの親戚の家だった。私達数名は古川旅館に泊まり、その他町の民家を借り準備した。旅館は一軒しかなかった。
建設大隊員総数六八〇名、源照寺が炊事場だった。
飛行場建設には多くの資材がいる。秋丸さんが陸軍中佐で軍の経理部にいて物資を補給してくれたので早く出来た。
物資補給は公平でなくてはならないが故郷のため出してくれた。秋丸さんとは同じ部隊だった。
各町村の区民・学校・青年団等あらゆる人を総動員して、軽飛行場は半年も経たないうちに完成した」
「苧畑(坂元)飛行場建設秘話」より 飯島正三大尉の証言

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反対側から飛行場跡地を眺めたところ。彼方に聳えるのは霧島連山。
松山友七中佐率いる第6航空軍第151野戦飛行場建設隊では、1日あたり1000人以上を動員して苧畑飛行場を完成。
来る本土決戦に備えました。

「長びく戦争によって、農家の働き手は軍に徴用され、農家では年寄りと女子どもの家庭が多くなった。農家が人手不足のため、小学生を頼るようになったのは、昭和十八年頃からであったと思う。
農家に対する動員は学年によってちがったが、低学年は麦ふみなどの動員にかり出された。極寒期、霜柱の立った麦畑を、年端もいかない子ども達が、素足にぞうりばきで作業するのである。
私は上学年であったので、田植え、からいも(※唐芋)の草取り、稲刈り、麦刈りなどの仕事に動員された。学校から作業する田畑までは、隊伍を組み、軍歌をうたいながら行進した。

戦局が厳しくなった昭和二〇年六月、苧畑(えびの市坂元)に飛行場が建設されることになり、飯野小学校の六年以上に動員がかかった。
本土決戦に備えるため早急に飛行場を完成させよと言う軍の命令で、工事を急がされた。
飛行場作りにかり出されたのは、本土決戦に備えて、満洲から配転された旧関東軍(南九州に配置)と、各地区から動員された女性や老人、それに、小学校の生徒であった。
夏の炎天下、終日モッコで土を運び、芝をはるのは、重労働であった。手の皮がはがれ、背中は日ぶくれで大変痛かったことをおぼえている。
その中で、特にコッケイであったのは、滑走路の近くの畑の中に、張り子の飛行機が並べられていたことである。
それは、竹のかごで編んだものの上に、ぼろ布をかぶせた飛行機で、日の丸までつけてあった。
私達はその飛行機の中にもぐりこんで遊んでは、よく兵隊にしかられた。当時、アメリカのB29が毎日のように飛来していたので、上空から見て、「日本には、まだ多くの飛行機があるぞ」とカムフラージュのつもりだったのだろう。
そして、飛行場の完成をみずに敗戦の日を迎えた」
「私の体験記」より 柊山富弘氏の証言

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苧畑特攻基地への登り口。5箇所のピット兵舎は麓の221号線沿い、ここからえびの駅方面へ向かう途中に設置されました。西ノ原には450人を収容する半地下兵舎も建設されています。
都城北飛行場と同じく、苧畑特攻基地は痕跡すら残されていません。

「苧畑には人家に多くの兵隊が住みこみ、飛行場作りをしていた。
西原さんが二軒、加藤さん方二軒、白坂、持永、迫田、熊坂さん方等で一軒に二〇名前後の兵隊がいた。熊坂さんの家には隊長がいて、迫田さん方は上の人三~四人いた。
飯島さんは迫田さん方にいて娘さんと一緒になり、中島さんは塩屋の娘さんをもらった。
西原さん方が炊事場で婦人部が炊事の手伝いをしていた。
高等科は奉仕ばかりで、田植等農作業に行った。苧畑にはモッコ運びに十日ばかり行った。モッコは大きくて四人で運んだ。
一年生四〇人ばかりに靴の配給が二足来て、抽で決めた。
都城にも三回位奉仕に行った。空襲警報が鳴れば逃げかただった。
兵隊が来て電灯がついたのがよかった。今まではランプだった」
「苧畑飛行場建設秘話」より、安藤セツさんの証言

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苧畑に建てられた文化の灯火碑。苧畑特攻基地建設部隊の飯野大尉は、戦後に現地入植して六本原開拓に尽力します。

8月10日・えびの空襲

霧島山麓は宮崎沿岸・志布志湾・吹上浜方面の後方支援拠点と化し、膨大な軍需物資が集積されていました。
ここを先に叩かれる訳にはいかず、上空を飛ぶ米軍機に対して第25師団は沈黙を守り続けます。
米軍側も、対空砲すら撃ってこない西諸県地区にはB29による爆撃を加えませんでした。ただし、何らかの疑念は持っていたらしく、艦載機による襲撃や霧島山中への爆弾投下はおこなっています。

えびのが攻撃されたのは、終戦直前のことでした。

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8月10日、飛来した米軍機は画像の八幡丘上空からえびのへ侵入します

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八幡丘山頂より、米軍の侵入経路

昭和20年8月10日、志布志湾方面から吉都線伝いに飛来した3機の米軍艦載機は、兒童を含む住民多数を射殺しながらえびのに到達。
そこで、三手に分れて攻撃を開始します。
吉都線飯野驛では作業中の日通社員1名が頭を撃たれて即死。更に加久藤および京町驛の汽車が銃撃された後、県境を越えた鹿児島側の吉松驛も攻撃を受けました。


「昭和二十年の終戦間近の八月十日、白坂氏は父親甚之助の言いつけで、供出の麦を飯野駅前の倉庫まで運ぶことにした。そこで、麦を荷馬車に積んで馬の手綱を取って家を出発した。
その荷馬車が飯野駅前の広場に来た時、突然東方の八幡丘すれすれに、こちらに向って飛んで来る見なれない戦闘機が目についた。
それは、見る見る低空で近づいて来ると、大変な爆音とともに機関銃を撃ち始め、一撃すると目前の赤松林を除けて急上昇し西の方に飛び去って行った。その直前にも八幡丘、横尾辺の畑地にいた農夫二、三人に機銃掃射を加えたらしい。
それは、ほんの一瞬の出来事であった。その時、危険を感じた白坂氏は、咄嗟に荷馬車の下に身を潜ませた。それはまぎれもなくアメリカの戦闘機であった。
我に返った白坂氏が荷馬車の下から這い出て見ると、何と馬の腹部に機銃弾が命中して、腸が露出して地べたまで垂れ下がり瀕死の状態だった。
白坂氏は、急いで荷馬車の延棒を外してやったが、突然の出来事にどうすることも出来ず、取り敢えず一刻も早く家族の者にしらせるべく宇畑まで五キロの道を走った。
一方、腹部をやられた馬は、しばらく立っていたが、人々の前で出血多量で力なく「ヒヒン」と一声鳴いてその場にぐったりと横たわって息絶えてしまった」
木崎原操氏 「終戦前後の思い出」より  飯野駅空襲の様子

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空襲による犠牲者を出した吉都線飯野駅


「五年生の時は沖縄から来られた女の先生に、北校舎の一番西の教室で習っていました。
昭和二○年八月一○日午前一○時前、その女の先生の授業中、それまで聞いたこともない異様な飛行機の爆音に飛び上がりました。
南の停車場(飯野駅)の方を見ると、飛行機が急降下し「バリバリバリ」と音を出していました。
先生の「避難しなさい」の声で、教室から飛び出し北側の鉄条網を飛び越え、田んぼの土手にはいつくばりましたが、間もなく、先生の指示で運動場にある防空壕へと走り、もぐりこみました。
飯野では、アメリカの飛行機攻撃を直接受けたのは初めてでしたから、驚いたのは私だけではありませんでした。
飯野の駅が攻撃され、一人が負傷したことだけはその日のうちに知りました。
この時の飛行機はグラマンという戦闘機で、「バリバリバリ」の音は飛行機からの機銃掃射であったこと、
小林では、高原と小林境の踏切で四人の犠牲者が出たこと、西小林では、勤労奉仕に行く途中の西小林小学校の生徒が一一人も殺されたことを
私が先生になってから知りました。
先に「沖縄から来られた女の先生」と書きましたが、残されている記録(宮崎県内沖縄県引揚学童集団人員調査表)から「仲井真安子」という先生だったようです」
安藤正継「孫に語るじいちゃんの小さい頃」より

続いて、飯野駅の先にある加久藤駅も機銃掃射されます。日本軍機と勘違いして手を振る児童たちを横目に、米軍機は激しい攻撃を加えました。

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続いて襲撃を受けた加久藤駅(現在のえびの駅)。

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当時の駅舎が保存されており、レトロな佇まいから観光スポットとしても知られています。

米軍機は加久藤駅から線路伝いに北上、京町駅を攻撃します。その際、通りかかった汽車が機銃掃射を受けました。

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機銃掃射を受けた京町温泉駅。カメの甲羅みたいな物体は、昭和43年に発生したえびの地震の記念碑。

えびの空襲を終えた米軍機は、更に鹿児島県側へ進攻。
吉松駅の汽車を機銃掃射した後、更に線路伝いに攻撃を加えながら霧島連山を半周して飛び去りました。

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鹿児島県吉松から眺める、米軍機が飛来した宮崎県えびの方向。

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駅舎と汽車への機銃掃射を受けた吉松駅

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吉松駅に展示してある蒸気機関車

高原、小林、えびの、吉松が攻撃された10日の空襲では、死者16名と多数の重軽傷者を出しました。
このとき小林の第25師団が反撃していれば、次はB29による無差別爆撃を受けたことでしょう。実際、米軍機は西諸県地区にも心理戦用の伝単(警告ビラ)を散布しています。
しかし、西諸県地区への空襲はこの1日だけで終りました。
それから数日後、8月15日を迎えたのです。

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えびのに建立された戦傷病者の記念碑

戦後の犠牲者たち

飛行場には一回も飛行機は来ず運命の日、昭和二十年八月十五日終戦となり、秋丸さんも帰って来た。
残務整理をしなくてはならない。
土地は西部軍が買い上げたもの、どのように処分するか、元の所有者に返すべきである。
しかし土地代はどうするのか、結局土地代は返さないこととし、境界は分区長、区長等に決めてもらった。
区民も喜び一つの問題も起こらなかった。
秘密兵器は藪の中に埋めた。車輛・ブルドーザー等は軍の兵器部長の名で処分せよとの通知があり処分した。
建設資材は秋丸さんが持っており、市来、柏木、豊福さんの蔵にはまだ相当残っていた。

飯野正三大尉の証言より

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第40連隊が軍旗を奉焼した亀城公園附近。一応は観光スポットなのですが、道が狭すぎて車では辿り着けません。

空襲から5日後の8月15日、日本は敗北します。
駐屯していた第25師団第40連隊は飯野城址(現在の亀城公園)で連隊旗を奉焼した後、解散。兵器類は国産館へ集められて米軍に引渡されます。野戦飛行場建設隊も現地で解散となり、苧畑飛行場も農地として開放されました。
こうして、えびのの戦争は終わります。
八幡神社裏で地下壕建設にあたっていた第40連隊工兵隊は、敗戦と共に作業を中止。八幡丘裏の兵舎を大迫(宮崎自動車道附近)へ移し、復員まで枕崎台風の災害復旧に従事しました。

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飯野青年学校(現在の飯野中学校)に建立された、第40連隊殉難碑。その後、進駐軍の命令で官軍墓地へ移設されています。
元々刻まれていないのか、それとも蘚苔類に覆われているせいか、碑文などは読み取れません。

戦争は終わったというのに、立て続けに発生した事故で更なる犠牲者が出てしまいます。
まずは8月22日、鹿屋基地からの復員兵を満載した汽車が肥薩線山神第二トンネル内で立ち往生。充満する排煙から逃れようと歩いて入口を目指す復員兵達に、後退して来た汽車が衝突して53名が死亡しました。負傷者の手当てには第25師団の陸軍熊本病院小林分院も協力しています。
続く事故は、西小林小学校の先で発生しました。枕崎台風による地盤の緩みで土砂崩れが発生し、直下にあった第40連隊工兵作業隊の兵舎が押し潰されたのです。
必死の救助活動がおこなわれたものの、生存者は4名のみ。橋の復旧作業のため兵舎に泊まっていた12名が命を落としました。

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昭和二十年九月二十一日夕刻、えびの市大字原田大迫の谷あいに仮設した兵舎の裏山が突然崩れ落ち、中で休んでいた十六人が生き埋めとなった。アセチレンガスの灯を頼りに夜を通して救出作業が続けられたが、十二人の生命は還らなかった。
沖縄付近を北上した台風十六号は九月十七日午後鹿児島県枕崎市に上陸し、北東に進んで九州・四国・北陸・東北地方を通過して三陸沖へ抜けた。
宮崎県細島で最大風速五一・三メートル(最大瞬間風速七五・五メートル)を記録したその枕崎台風は、全国各地に甚大な被害をもたらし、この地方でも連日の豪雨により数箇所の橋が流失した。
満洲第九六〇部隊作業隊の隊員が除隊を控えて待機中の出来事であった。地元への最後の奉仕として、台風で流失した飯野橋の復旧作業に当っていた矢先の惨事であった。
この部隊はソ連国境東部方面の戦線で、築城、架橋、道路補修ほかトーチカや戦車攻撃といった特殊作戦に当っていたが、二十年四月、本土決戦に備えての移動命令で、えびの市飯野の山麓地帯に駐留し、九州防衛の任務に従事していたのである。
犠牲者の中には、翌日の除隊を前に荷造りを終っていた人もいたという。
残った隊員たちは、涙ながらに遺体を荼毘に付し、現地に木製の墓碑を立てて復員した。
戦友会が毎年開かれていたが、いつしか墓碑も腐り、雑草が周囲を埋めて見る影もなくなり、会員の発議により新しく慰霊碑を建立することになった。
事故現場から五〇〇メートルほど離れた山麓線(県道五〇三号)沿いの景勝地(小林市大字南西方立野)。御影石製一・五メートルの高さである(昭和四十八年八月十四日付読売新聞記事等による)。
碑文には、満洲国境から中国の広野、南方諸島転戦、本土決戦に備えての飯野進駐のことを記し、「この間、壮烈なる戦死を遂げた五十余柱、茲に有志相集作業隊終焉のこの地に碑を建つ」と刻され、昭和四十八年九月二十九日に除幕式が行われている。

慰霊碑の真後ろに「鎮魂歌碑」が建っている。「平成六年八月十五日終戦記念日 建立者 千葉縣我孫子市 作詞者 村山正八・村山祥峰」とあり、碑文と共に次の歌が刻んである。
殉難者の遺族あるいは部隊の関係者であろうか。
古里の明日を夢見し兵士らの殉難いみじえびの高原 祥峰

齋藤勉氏「太平洋戦争と霧島山麓」より

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えびの・小林の境に建てられた慰霊碑は、その後の道路拡張工事によって移設されます。移設先は道路を挟んで事故現場の反対側、500mほど離れた小林市となり、戦後70年経った現在も地域の人々により供養が続けられています。
私が訪れた時も、慰霊碑には真新しい花が供えられていました。

鎮魂歌碑の碑
昭和二十年八月終戦直後 明日の除隊を前に兵舎後方の崖崩れに依り
数多くの兵達が殉難死したことは 誠に痛恨に堪えない。
こゝに鎮魂歌碑を建立 その霊魂の安らかなれと祈ります。 
平成六年八月十五日 終戦記念日

建立者 千葉県我孫子市 江藤勇
作詞者 村山正八 村山祥峰


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