金属アレルギー 敏感肌 化粧品

スポンサーサイト

Category : スポンサー広告 |

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第1挺進集団第1挺進飛行団 第1・第2挺進飛行隊(宮崎県児湯郡新富町)

Category : 陸軍空挺部隊一覧 |

DSC05397_R.jpg

陸軍落下傘部隊には、空挺作戦をサポートする3つの飛行隊が所属していました。
パラシュート隊員を空輸する第1および第2挺進飛行隊(新田原飛行場)。
そして、グライダーで降下兵を空輸する滑空飛行戦隊(西筑波飛行場)がそれです。

空挺部隊を運ぶ飛行隊は満洲國白城子で訓練を積み、新田原飛行場へ移動した昭和16年11月に「教導挺進飛行隊」として編成を完結。
その挺進飛行隊が初めて実戦に参加したのは、翌17年のパレンバン降下作戦です。
作戦中、物資投下のため参加していた輸送機一機がパレンバン飛行場上空で撃墜され、挺進飛行隊でも隊員を降下させた一機が被弾します。こちらもマラッカ海峡を越えたところで力尽き、センガラン付近に墜落。操縦していたパイロット2名が戦死しました。

パレンバンに続いて実行されたラシオ降下作戦では、目標上空の厚い雲に阻まれて接近に失敗。
全機が引き返す途中に1機が行方不明となり、飛行場へ着陸寸前の1機も失速して墜落炎上。
2機を失って作戦は中止となりました。

搭乗
パレンバン降下作戦にて、挺進飛行隊の輸送機に乗込む挺進第二聯隊。尾翼には落下傘を象ったマークが描かれています。

戦闘以外でも、飛行隊の損害は続出します。
当初の挺進飛行戦隊は4個中隊で編成され、第1、第2中隊はロ式輸送機を、第3、第4中隊は百式輸送機を装備していました。
ロ式は故障が多い上、事故の際にも炎上し易い飛行機で、パレンバン作戦に向かった挺進飛行隊のロ式が沖縄近海で1機、プノンペンでも1機が不時着して整備員1名が死亡(溺死)。
プノンペンから出撃しようとした際も、滑走路上でパンクしたロ式が炎上するという事故がありました。
ラシオ空挺作戦が中止になった際、挺進飛行戦隊ではトラブル続きのロ式を廃止し、百式への統一を計ります。
サイゴン航空廠へ移管されることになったロ式はプノンペンを飛び立ちますが、ここで最後の機体トラブルに見舞われました。
離陸直後に機体が故障し、第一中隊長の筒井中尉機が墜落。操縦していた2名が死亡したのです。


昭和18年6月には、ベナベナとハーゲンへの降下作戦が計画されました。
第一挺進団はペリリュー島へ、挺進飛行戦隊はルソン島のクラーク基地へ進出します。ニューギニアのウエアクに移動して出撃準備を整えていた空挺部隊ですが、現地の第八方面軍の反対によって作戦中止が決定。
空襲も激化したため、9月25日には全空挺部隊がペリリュー島へ撤収しています。
其の後はメダンで待機を続けるも、出撃の機会が無いまま19年8月に内地へと帰還しました。



帰国から2か月後、挺進飛行戦隊に再度の出撃命令が下されます。
米軍が上陸したレイテ島で、空挺部隊によりブラウエンの飛行場群を襲撃する「テ號」作戦の始まりでした。
2個戦隊に増設された挺進飛行戦隊も、台湾で準備を整えた後にクラーク基地のアンフェレス飛行場へと向かいます。
12月6日、高千穂空挺隊を乗せた挺進飛行第一戦隊(霧島部隊)と挺進飛行第二戦隊(阿蘇部隊)は飛行場を離陸。
ブラウエン上空に現われた日本軍機に対し、米軍は凄まじい対空砲火で迎え撃ちます。
降下には成功したものの、挺進飛行隊機は次々と撃墜されていきました。第一波降下作戦から帰還できたのは僅か17機。
しかも大半は被弾損傷しており、無傷なのは4機のみでした。

23時、この4機は第二派降下隊員を乗せて離陸しますが、うち1機が失速して墜落。
残る3機も悪天候により引返しました。
深夜2時には応急修理した4機がリパから出撃するも、こちらも悪天候で作戦中止。帰還途中に3機が行方不明となり、第二派降下作戦は遂に中止となりました。

空からの増援を絶たれたブラウエンの高千穂空挺隊は、米軍の反撃によって壊滅。一部は第26師団の斬込隊と合流してカンギポットへ撤退するも、飢えと病によって文字通り全滅します。
第二派降下のため待機していた高千穂空挺隊の残存兵力481名は、オルモック方面への派遣が決定。
高千穂空挺隊は、修理を終えた7機に分乗してバレンシアへパラシュート降下しました。
敵中降下作戦ではなかったものの、この作戦中に敵機の襲撃を受けて4機が撃墜されています。

残る高千穂空挺隊の戦力は500名。しかし、これを空輸する飛行機は殆んど残っていませんでした。
バレンシア降下作戦の後も空襲で損害を受け、飛行可能な機体は激減。
第四航空軍の命令で、バゴロド防衛のため高千穂空挺隊の投入が決定されたものの、2回の空輸作戦で2機が撃墜されてしまいます。
飛行機を失った挺進飛行隊は、作戦遂行が不可能となりました。

挺進飛行隊司令部は台湾へ戻ることとなりましたが、地上整備員120名はフィリピンから撤収する輸送機に乗れず、徳永第二挺進団長のもとで高千穂空挺隊員として戦闘に参加します。
アンフェレスに展開した挺進飛行戦隊地上整備員120名のうち、終戦まで生き残ったのは僅か20名でした。



挺進飛行戦隊とは別に、昭和17年にはグライダー部隊である「滑空班」が発足します。
こちらは西筑波飛行場へ移動し、滑空歩兵連隊の作戦をサポートする滑空飛行戦隊となりました。

フィリピンには滑空歩兵も赴いています。彼等をサポートする滑空飛行戦隊も後に続きました。
滑空飛行戦隊はグライダーによる着陸強襲を任務とする部隊ですが、戦史において空挺作戦への参加記録は無し。
フィリピンへの物資輸送に飛び立ったものの、グライダーを曳航しての低速飛行では米軍機のいいカモです。
何とか無事に台湾まで辿り着いたものの、そこから先は曳航機の97式重爆のみで物資輸送任務にあたりました。
既に米軍機が制空権を握りつつあり、フィリピンへ物資を届けた滑空飛行戦隊も帰路には中隊長機を撃墜されています。

その頃には新田原飛行場・西筑波飛行場とも本土空襲の標的とされつつあり、訓練中の滑空飛行戦隊機が撃墜される被害も受けています。
挺進飛行隊と滑空飛行戦隊の残存兵力は比較的平穏な北朝鮮へ退避し、そこで戦力回復に努めました。

滑空飛行戦隊では、義烈空挺隊に続く沖縄へのグライダー強襲を計画します。
一部の機体を福生に移動して第一挺進団や挺進戦車隊と協同で訓練に励みましたが、作戦決行前に終戦となりました。

北朝鮮で戦力回復をはかる挺進飛行隊と滑空飛行戦隊も現地で終戦を迎えます。
隊員は各個バラバラになって朝鮮半島を南下しますが、その多くは侵攻してきたソ連軍と遭遇。多数が抑留されました。
パレンバンの華々しい活躍でデビューした挺進飛行戦隊は、地上での潰走という形で終焉を迎えたのです。

空挺歌碑
昭和19年、レイテへ出撃する高千穂空挺隊がサンフェルナンド隊舎の壁に書き残していった歌。
近年では「薫空挺隊の歌」と間違われることもあります。


空挺歌碑

空挺歌碑

空挺歌碑

宮崎県児湯郡新富町にある航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地。
新田原基地の前身は、昭和16年に建設された日本陸軍新田原飛行場です。

その新田原基地の片隅には、陸軍空挺隊員らが遺した歌を刻んだ碑が建立されています。

「陸軍落下傘部隊の最終拠点は新田原飛行場」などと解説している資料を見かけますが、これは誤り。
防諜上の理由で昭和16年に満洲へ移転した陸軍空挺部隊ですが、1年の半分は積雪によって訓練不可能と判明。
3か月後、慌てて本土への帰還を決定しています。
まず陸軍新田原飛行場に入った空挺部隊は、北側の川南村にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。
更には唐瀬原飛行場をはじめとする大規模な訓練施設を建設して、新田原から川南へと移転しました。


そういう訳で、空挺部隊の本拠地は児湯郡新富町の新田原飛行場ではなく、児湯郡川南町の唐瀬原飛行場です。
新田原飛行場を拠点としていたのは落下傘兵を空輸する「挺進飛行隊」でした。
専門書に何と書かれていようが、現実世界の陸軍落下傘部隊の遺構は川南町に存在しているので仕方ありません。


陸軍落下傘部隊はパラシュート4個連隊、グライダー2個連隊、3個飛行隊、及び工兵隊、戦車隊、通信隊、防空隊、整備隊、支援部隊などを含めた特別部隊の集合体です。
それらが浜松→満州国白城子→新田原→川南(及び筑波)と再編・移転を繰返していたのも誤解の原因でしょう。

給水塔
児湯郡川南町唐瀬原に保存されている、陸軍落下傘部隊挺進第三聯隊兵舎の給水塔。
川南町は、新富町から車で30分程北上した全く別の場所にあります(地図でご確認ください)。


川南町と新富町は高鍋町を挟んだ位置にあり、戦時中の新田原飛行場は川南の陸軍落下傘部隊基地とも密接な関係にありました。
川南空挺基地が完成するまでの期間、空挺部隊は新田原にも駐屯しています。

川南の空挺隊員は日豊線の列車で新富へ通い、新田原飛行場から輸送機で離陸。川南基地にパラシュート降下で戻るという訓練を繰り返していました。


空挺歌碑

新田原の碑に題す
大東亜戦争の命運を分けた重大作戦毎に忽然と姿を現わす特攻覆面部隊があった
パレンバンにおける空の神兵奇襲隊 レイテの空に百千の花を咲かせた鹿島香取両空挺隊 ルソンの建武集団と高千穂部隊の悲壮敢斗 
そして沖縄における義烈空挺隊第三独立飛行隊の胴体着陸による全員玉砕等がこれである
列強に後れ昭和十五年に発足した我が空挺部隊は日米の風雲急を告ぐるや陸軍の総力を挙げ之が拡大増強に邁進した
その推進母体たる陸軍挺進練習部が此処新田原に創設されたのが昭和十六年夏で後川南に移る
全軍から簡抜された精兵は高千穂峯の落下傘筑波颪の滑空機と東西相呼応する猛訓練により皇軍随一に鍛え上げられた
その兵力は落下傘部隊四ケ聯隊 滑空歩兵二ケ聯隊 挺進通信 重火器 戦車 工兵 整備各一隊 挺進滑空一 飛行戦隊二で計二万弱に及んだ
空の神兵は次々に第一挺進団 第二挺進団 第一挺進集団となって南征し冒頭の戦歴を重ね 部隊感状六通個人感状五六四名という英霊史上未曾有の特攻玉砕部隊の武勲を樹てたのである
祖国の大事に若い花の命を捧げ盡すを昭和青年の本懐と覚悟した彼等が残し去った歌詩が心ある人の献身を集めて彼等の夢の跡に建ったこの碑に深々と刻まれている
若さは若さを血は血を魂は魂を呼んで久遠に響き伝えられるであろう
こよなく空の神兵を愛された元熊本師団長故菅島高将軍の歌に
勝を信じ海空万里征き果てし
君等の雄心紹がざらめやも
飛び起ちて帰りきませぬ将兵は
南溟に天降りて今も雄健ぶ
雄健びの声のひびきに真新しき独立の国々群り立ちぬ
とある
いみじくも空の神兵を讃え上げて余す所がない
併せ記して題辞となす

昭和四十三年十月秋
中村勇
(※元陸軍第一挺進団長)


レイテ降下作戦
レイテ降下作戦における挺進飛行隊 川南空挺慰霊祭にて


緒戦から義号作戦にかけて、空挺隊員たちが詠んだ歌。
空挺歌碑
空挺歌碑
空挺歌碑

身はたとへ南海の孤島に朽ちるとも 永久に護らん神州の空
これは昭和19年12月の義烈空挺隊サイパン出撃(中止)前に宮崎県出身の義烈空挺隊員がノートに記した歌。
彼は第4小隊東郷分隊を率いて昭和20年5月に沖縄の嘉手納飛行場へ突入、戦死しました

空挺歌碑
空挺歌碑



空挺歌碑

この日、新田原基地では陸上自衛隊第一空挺団による落下傘降下実演がおこなわれました。
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団
第一空挺団


高千穂空挺隊

スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。