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陸軍軍馬補充部高鍋支部(宮崎県児湯郡高鍋町)

Category : 児湯郡の戦跡 |

過般熊本鎮台にて数百頭の軍馬を徴発したるに、九州産の馬匹には一種の悪癖ありて無闇に人に喰付き飼養上にも困難なるが、現に此徴発馬に喰付かれたる兵士は六十余人にして其内二人は指を噛切られ終に除隊となりしとのこと。
夫に引換ひ仙台産の馬は性質温柔にして能く人に馴れ、其上戦場等にては騎手の意の儘に身体馳騁するを以て軍馬としては日本随一なりとの好評を得たる為め、目下宮城縣管内産馬に於て執行中なる二才馬競買の景況は近年になき好況なりと云ふ。

中央獣医界「九州馬と仙台馬」より 明治28年


埴輪

犬のブログとしては―此処、元々は犬のブログでした―馬の話など範疇外。手許にある資料だけでテキトーに解説していきます。

日本に馬が渡って来たのは弥生時代のこと。
それから明治になるまで、日本在来馬は物流・農耕・軍事で重要な役割を担い続けました。

江戸から明治にかけて、我が国にも西洋の馬が持ち込まれ始めます。
長い年月をかけて品種改良されてきた西洋馬は、その体格や性格の温順さが日本の馬とは別物でした。
これに慌てた明治政府は、国を挙げての馬匹改良事業に取り組みます。
欧米から指導者を招き、牧場の設置、馬医(獣医師)の育成、去勢法の励行、競馬の普及、在来馬の禁止などを次々と導入。しかし、馬匹改良は遅々として進みませんでした。
その遅れは、戦場の日本騎兵が血で贖うこととなります。


都井岬
宮崎県串間市都井岬には、日本在来馬の姿を残す野生馬が放牧されています。

都井岬
御崎馬は、元を辿れば高鍋藩の軍馬です。
明治時代にも馬の放牧が続けられ、一時期は西洋馬とも交配されました。

都井岬
スマートなサラブレッドに比べ、体高が30cmほど低い御崎馬は小柄でガッシリとしています。
よく「日本在来馬はポニー並みの体格」と大袈裟に言われますが、間近で見ると立派な大型獣。
長いあいだ岬の急傾斜地で暮らしてきた為か、この野生馬たちは優れた登攀能力をもっています(崖から転落死する馬も少なくありませんが)。
脚を骨折したあと何年も元気に暮していた個体も記録されており、精密機械のようなサラブレッドとは異質の馬なのでしょう。

昭和30年代には実業家が御崎馬の鹿児島移送を目論んだり、40年代には東京の不動産業者が都井岬の用地買収で暗躍、続けて東京のレジャー資本が都井岬のゴルフ場化をゴリ押しする等といった騒動にも晒されてきました。
大型獣とペットの区別もできない観光客が近寄っては噛まれたり蹴られたり、運転の邪魔だとクラクションで追払ったり(何しに都井岬へ来てるんだか)、乱立するホテルが馬の水場や蕃殖場を奪ったりといった問題もありました。
寄生虫や伝染性貧血の感染も依然として脅威です。
地元が野生馬保護支援を訴えても国や県はそっぽを向き、文化庁への直訴にまで発展した過去もありました。
それらを乗り越えて、貴重な在来馬の姿は残されたのです。

都井岬
馬たちの後ろに見える山頂に、かつて日本軍のレーダー基地が設置されていました。

都井岬
都井岬から志布志湾側の風景。都井岬監視所の他に、内之浦砲台や崎田海軍航空基地が設置されていました。

都井岬
都井岬では人や車よりも馬が優先です。

都井岬

都井岬

都井岬

都井岬
半野性の馬たちは勝手に繁殖し、自然の中で気儘に暮し、その生涯を終えます。

明治時代、畜産や牧羊の中心地となったのが蝦夷地や東北地方。
東京青山一帯に集められた牛馬は、続々と北へ向けて発送されていきました。
やがて、軍部は馬の調達のために「軍馬補充部」を各地に設置します。
周辺の農家から購入した仔馬を育て、騎兵や輜重といった部隊に補充するのが軍馬補充部の役目。
「調教まで担当した」とする解説もありますが、原則として訓練は各部隊の担当です。軍馬補充部では馬を育てる任務が中心でした。

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2011年に噴火した新燃岳。巨大な噴煙が火山灰を降らせながら、沿岸部へと流れて行きます。


やがて、農商務省や陸軍は九州南部に目を向けます。
明治31年には陸軍が軍馬補充部高原出張所を、翌年には農商務省が宮崎種馬所を小林に設立。
しかしその後、霧島山系の噴火が立て続けに起きて高原出張所も降灰被害を受けます。
明治41年4月には軍馬補充部高鍋支部への移転が決定され、8月21日に着工。
高原の機能は、翌年三月三十一日に完成した軍馬補充部高鍋支部(総面積5000町歩)の番野地厩と名貫分厩へ移転されました。
初期には500頭の馬が飼われていたそうです。
その姿を、当時の絵葉書から辿ってみましょう。

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軍馬補充部高鍋支部の正門

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高鍋支部構内の様子


高鍋から都農にかけては、馬を蕃殖したり飼糧を栽培する人々が集まりました。
人員は軍関係者が中心だった為、地元の人々が補充部に関わるのは繁農期の臨時雇用程度だったといいます。
それでも地域への経済効果は大きく、高鍋周辺の商店街や飲食店は軍馬補充部関係者で賑わいました。

「軍馬購買は例年高鍋、下穂北両町村に於て挙行せられしが、廿九年には高鍋を都農に改めらる。
其買上多数なるは常に下穂北にあり。
同所は当歳若は二歳駒を鹿児島恒吉、山川、踊等の各産地及郡内川南村、都農辺より購入し、五、六歳まで飼育し売却するの慣例あり。
骨格善良なる馬匹尠なからず。
要するに本郡内東部川南村、都農村の如きは生産的地方にして、好馬を産すといえども育成地にあらず。
西部即ち穂北地方は生産地にあらずといえども育成地として最も適当す」
高鍋町史より

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軍馬育成のためには飼糧の確保も重要でした。高鍋支部にて、牧草を育てるための土地を耕しているところ。

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こちらは牧草の収穫風景。

そういえば、県内にはいくつかの競馬場も作られました。古地図を眺めていると、思わぬ場所に競馬場を発見して驚く事があります。

競馬の奨励も馬匹改良事業の一環。
また、牧畜や畜産は家畜伝染病との闘いでしたから、獣医学の分野も飛躍的に発展しました。
日本の軍馬史と競馬史と畜産史と獣医学史は深く結びついています。

日本の馬史とはどのようなモノだったのか。
手許の史料から明治時代の牛馬に関する雑多な記録を拾い集めてみました。
たった44年分でも結構な量がありますね。
面倒なので大正・昭和の記録は調べていません。

1868年(明治元年)
軍馬の調達機関として大総督府厩を設置。
各地で牧畜・開墾計画開始。
農耕牛の中から食用肉の調達が始まるも、農村部及び中高年層の多くは牛肉食を忌避し続けます。

1869年(明治2年)
兵部省発足により軍務官厩(大総督府厩)を兵部省厩へ改称。
通商司屠牛所設置、及び家畜屠殺規則制定。開拓使が牧場を開設。
牧畜業が大蔵省通商司の管轄下へ。
築地門跡に大蔵省通商司が牛馬商社を設立、搾乳と屠牛を開始すると共に牛乳の効能を宣伝しました。
角田米三郎氏らが協救社を設立、穀物不作による飢饉対策として養豚をPR。
清原来助氏が牛肉売買禁止案を集議院にて訴え。陸前玉造郡で馬の金華山誕生。
蝦夷地を北海道へ改称、開拓使を設置。明治天皇が北海道開拓事業の有望性に関し諮問。

1870年(明治3年)
軍事病院が「馬医」の官位を制定。
宮内省御厩局発足。民部省開墾局発足、牧牛馬掛を設置。民部省から工部省を分離。
昨年設立されたばかりの大蔵省通商司牛馬商社、民間業者からの反発により施設と洋牛を払下げて閉鎖へ。
黒田清隆北海道開拓使長官が欧米視察に出発。
赤坂区青山町一帯を北海道開拓使用地第1~3官園とし、外国から輸入した各種家畜や農作物の検疫飼育・北海道へ移送する諸施設を完成。  

1871年(明治4年)
天皇直属の御親兵編成、及び廃藩置県による各藩余剰兵の統合化と邏卒(巡査)制度開始。
軍馬業務は兵部省会計局の担当に。
民部省廃止により牧畜事業は大蔵省勧農寮の管轄へ。駒場に牧畜場設置。
大久保利通が薩摩藩士岩山敬義(後の下総種畜場長・石川県及び宮崎県知事)と長州藩士三隅市之助をアメリカへ派遣、農業視察と種馬輸入の豫定。         
明治天皇が肉膳を食した事が翌年になって公表されます。
東京招魂社競馬が招魂社大祭にて奉納競馬開催。          
黒田清隆氏が帰国、各種農具と諸種畜・雄馬・牧草を輸入。
黒田氏の帰国と共に農事指導者ケプロン、アンチセル、エルドリッジ、ウォーフィールド氏らを招聘。英国人ジェームス・プライアー来日。          
青年層を中心に牛鍋が大流行。
食肉生産システムの未整備により、野良犬の肉を牛肉と偽って売る悪徳業者も横行。          

1872年(明治5年)
兵部省を廃止、陸軍省と海軍省発足。徴兵令制定。兵部省厩を陸軍省厩へ改編、軍用馬の補充拡大へ。
民部省が家畜伝染病取締を発令。
東京市芝公園内に開拓使学校を設置(札幌農学校の前身)、米英から種牡馬2頭と牧草種子を輸入。開拓使が羊を輸入。                           
札幌競馬倶楽部設立、札幌神社祭にて第1回競馬会開催。
      
1873年(明治6年)
日本陸軍が輜重隊と馬医部を設置。軍の馬医と馬医学生に対し、日本初の獣医教育制度が開始されます。
米国人エドウィン・ダンと北海道での農事指導契約、大蔵省が多数の羊を輸入。
岩山敬義と三隅市之助がアメリカ農事留学から帰国。

1874年(明治7年)
陸軍が軍馬局を設置、最初の外国産軍種馬となるアラビア種牡4頭、牝3頭を輸入。
調馬厩にて蹄鉄規則と装蹄並刈毛規則規定。
軍の馬医生に対し、フランス軍獣医官アウギュスト・アンゴーを招聘して蹄鉄術教育が行われました。
内務省勧業寮新宿出張所に農事修学場を設置、外国から農学指導者を招聘。
悪徳牛肉業者排除の為、福井数右衛門さんが牛肉店結社を設立。一般市民に牛乳の飲用が定着。

1875年(明治8年)
陸軍馬医部条例発布、病馬院設立。
ホーレス・ケプロン帰国。エドウィン・ダンが北海道で馬の去勢術を指導。
アメリカから種馬29頭輸入。取香種蓄場設置。
大久保利通が牧羊所建設予定地として千葉・茨城両県を視察。
その後、内務省が牧羊生徒を募集、千葉県三里塚に下総牧羊場開設。帰国した岩山敬義氏が種畜長に。
下総での牧羊指導はアップ・ジョーンズが担当。羊毛の需要も増加傾向へ。内務省が清国からの羊輸入を拡大。
東京の開拓使学校を札幌に移設(後の北海道帝国大学農学部)。
日本競馬倶楽部(1861年、横浜在留外国人が組織)秋季競馬会に、西郷従道公所有馬が出場。これが日本人の個人所有馬初参加となります。
なお、宮内省御厩課、内務省三里塚種畜場、陸軍省軍馬局の馬も参加していました。馬匹啓蒙に役立つとして政府も競馬を奨励します。

1876年(明治9年)
内務省農事修学場に農学・獣医学専門科設置。駒場農学校獣医学科が英国人ジョン・マックブライト博士を招聘。
政府が牧場課設置。
明治天皇が奥羽地方を巡幸した際、御料馬として金華山号を購入。
都市部や軍隊から帰郷した兵士や学生を介し、地方・農村部にも牛肉食が広まっていきます。鉄道網の発達もこれに貢献しました。

1877年(明治10年)
西南戦争勃発。陸軍馬医学会設立及び陸軍馬医学舎規則制定。
第1回内国勧業博覧会開催、九州方面から多数の畜産品出品。
内務省農事修学場がマックブライド博士を招聘、獣医学講義開始。駒場農学校設立。
大阪での牛乳価格は1合12銭5厘也。

1878年(明治11年)
諸経費増大、西南戦争の戦費、貿易赤字拡大による国家財政難へ。
下総種畜場獣医生徒養成所(帝国大学農学部獣医学科の前身)が生徒募集開始。
紀尾井坂の変にて大久保利通暗殺。
「公の薨去は、国家造畜産業の一大損失と云はざるべからず(齋藤獣医正)」。

1879年(明治12年)
陸軍が輜重輸卒制度制定。
内務省が千住製絨所を開設し、羊毛製品生産開始。
農事修事場移転跡地、宮内省管轄下へ(現在の新宿御苑)。
元アメリカ大統領ユリシーズ・グラント将軍が来日。
共同競馬会発足。グラント将軍来日を記念して戸山原の競馬場で第1回競馬会開催。

1880年(明治13年)
内務省農事修学場がドイツよりルードヴィヒ・ヤンソンを招聘。
全国各地の農学校で獣医学教育開始。下総牧羊場と取香種蓄場が合併、下総種畜場へ。
芝区三田種畜場に木村荘平氏らが興農競馬会設立(明治23年廃止)。営業税雑種税規則第二條雑種税として、新潟県が乗馬税を導入。

1881年(明治14年)
農商務省発足。
下総種畜場と千住製絨所が農商務省の管轄下に。
内務省農事修学場がヤンソンに続きドイツ人教師トロエスル招聘。以降、イギリス式獣医教育をドイツ式に転換。
駒場農学校獣医科第1期卒業生が全国各地で開業、地元獣医界と新旧治療法を巡って対立します。
下総種畜場の緬羊が7千頭に増殖するも、フィラリア症の蔓延などで壊滅状態に。各地の牧羊事業も病気や野犬の襲撃で次々頓挫。

1882年(明治15年)
陸軍獣医学会設立。
明治天皇が下総種畜場を視察。同場の獣医生徒は駒場農学校へ転出。
北海道開拓使を廃止。

1883年(明治16年)
国内飼育乳牛が順調に増加。新冠牧場が御料牧場へ。                 
政府がシーボルトを介してハンガリー産牡馬32頭輸入、東北地方で繁殖開始。
陸軍はオーストリアから種牡馬26頭を輸入。軍馬の去勢開始。

1884年(明治17年)
乗馬飼育令公布、月給600円以上の官吏は馬を飼育すべきと通達。         
上野不忍池附近に戸山原の競馬場を移転、そのせいで地価が暴騰。
御料牧場の牧羊が復活しつつあったのか、明治天皇の詠んだ歌。
としどしに牧のひつじのかづそひぬ みけし織らむもほどやなからむ 

1885年(明治18年)
獣医開業試験規則制定。戦時病馬厩服務規則制定。
陸軍の馬医部馬医を獣医部獣医に改称。馬医生を看馬長へ改称。       
民有種牡馬、牛取締に関する規則公布。
宮内省が藤波言忠子爵と新山荘輔子爵をヨーロッパ牧畜視察に派遣。      
下総種畜場、宮内省への移管により下総御料牧場に改称。
大日本獣医会発足。

1886年(明治19年)
軍馬局・病馬厩が廃止され、業務は新設の陸軍省騎兵局へ移管。
獣類伝染病予防規則制定。      
内務省農事修学場と山林学校を合併、東京農林学校を設立。        
清仏戦争の際、フランスがアルジェリアから連れて来た軍馬200頭を講和後に払下げ。
日本陸軍がこれを購買、194頭を種馬として使用。日本軍馬の雑化が顕著となります。

1887年(明治20年)
軍馬伝染病取扱規則制定、馬療器械定数表発布。       
鎮台条例を廃止して師団司令部条例発布、軍が師団編成に。
それまでの東京1コ騎兵大隊・近衛1コ騎兵中隊編成から、各師団に騎兵中隊が新設されて軍馬需要急増。   
騎兵局第3課を廃し、陸軍総務局に獣医課を設置。軍用種馬産地選定委員活動開始。
秋山好古大尉、騎兵運用技術習得の為フランスへ留学。
石川潔太陸軍工兵中尉、伝書鳩飼育研究を私費で開始。海軍もほぼ同時期に研究開始。
馬肉料理が流行し始め、今度は安物馬肉を牛肉と称して売る悪徳業者出現。
交通事故の被害者増加中(自動車ではなく馬車によるもの)。        

1888年(明治21年)
陸軍蹄鉄学舎条例公布。看馬長職廃止。騎兵局の第一調馬隊を軍馬育成所本部に。
千住製絨所が陸軍省の管轄へ。下総牧場、緬羊飼育廃止。

1889年(明治22年)
大日本帝国憲法公布。
陸軍蹄鉄工卒教育規則制定。      
乗馬飼養令廃止。陸軍乗馬学校、新馬調教の為に空砲発火演習及び毎土曜に水馬術稽古(渡河訓練)開催。   
泥酔イギリス人水夫、横浜の路上で荷を曳いていた牛に決闘を挑んで大怪我。       
深川の萬年橋にて、過度に鞭打たれた事で荷役馬が激怒、主人菊地さんの腿肉を喰い千切って大騒ぎに。
故桐野利秋少将の軍馬、民間馬車会社へ払下げ。         

1890年(明治23年)
獣医師免許規則発布。東京獣医講習所設立。陸軍獣医11名が欧州留学へ。
第1回内国獣医公会開催。
警視庁が畜犬税課税検討、警察厩舎は廃止して保有馬10頭を消防本部へ。
獣医学会にて、今井吉平氏が「我国牛馬ノ虐待ヲ論ズ」として過度の使役と食餌の不足を問題に。      
京橋署、牛肉に馬肉を混ぜていた偽装牛肉事件を摘発、罰金1円50銭。他の牛肉屋でも軍鶏肉を混入しているという噂が。
第3回内国勧業博覧会にて臨時競馬を開催。優勝賞金は千円という高額のものでした。
上野戦争犠牲者の慰霊として靖国神社で曲馬奉納。全国畜産家大会開催。         
麻布の路上にて、荏原さんの荷役馬が通行人(女性)の乳を飲もうと襲いかかり大騒ぎに。被害者の胸に歯形が付いただけなので示談成立。
上野停車場に捨て馬出現。タテガミに「辛い境遇に耐えかね逃げてきました。私に餌を下さい」という内容の手紙が結んでありました。
蜂須賀府知事の乗った馬車が暴走。負傷者2名。
埼玉で牝馬が炭疽菌に感染、牛馬移動禁止措置による封じ込め作戦開始。          
        
1891年(明治24年)。
南佐久間町の共同馬車会社から出火。その時解き放たれた厩舎の役馬のうち、西郷内務大臣から払下げられた馬だけは古巣の西郷邸へ逃げ戻って一泊。翌日帰社。
偽装牛肉(馬肉)流通阻止の為、警視庁が配達途中の牛肉抜き打ち検査開始。
フォスター氏、乗馬飼養令の廃止により輸入馬が売れずに困っていた処、神田の乗馬伝習所が購入を決定。
鉄道庁が馬匹運輸車輛を開発。
岩手・宮城・栃木で馬の鼻疽大流行。600頭が感染、警戒態勢へ。         
品川・愛宕町と松葉町の乗合馬車会社同士の喧嘩が拉致監禁・殺人事件へ発展。
衆議院の馬糞投擲事件で松本九一容疑者ら3名を逮捕。陸軍乗馬学校跡地、宮内省ではなく陸軍第1師団騎兵隊への移管決定。

1892年(明治25年)
農商務省が農林省へ改称。東京獣医学校設立。
宮内省、駿馬120頭をフランスから購入。受領・移送の為、御厩課員と馬丁60名をフランスへ派遣。購入馬は御料局にて牧場で飼育予定。
朝鮮江原・京幾道で牛疫大流行。仁川から輸入した牛皮は消毒するよう警察が通達。栃木・福島両県では馬疫が大流行。
暴風による建物倒壊被害などが続き、上野競馬場解散。
牛疫が関東・関西・九州で大流行、当局が病牛の撲殺と流通阻止、牛乳販売業者への注意喚起。

1893年(明治26年)
陸軍獣医学校条例が公布され、上目黒村陸軍乗馬学校内に重症病馬治療所と蹄鉄学舎を統合した陸軍獣医学校設立。
軍馬育成所を軍馬補充署へ改称。

1894年(明治27年)
日清戦争勃発、軍馬が戦地へ。陸軍獣医学校も要員出征により半年閉鎖。
赤ズボンの騎兵や赤帽の近衛兵が臺湾の水牛に襲われたとか何とか。
川田獣医学校設立、東京獣医講習所を麻布獣医学校へ改称。
バイエルンで80歳の老人と30歳の老馬が競走、老人勝利。
石井某が馬3頭を盗んだところ、更に高橋某がその馬を盗んで逃走。馬3頭を曳いてウロウロしている石井某を警官が拘引、けっきょく馬泥棒は二人とも新宿署が逮捕。

1895年(明治28年)
明治天皇の愛馬「金華山」が老衰で死亡、剥製に。       
台湾で乙未戦争勃発。日本軍が台湾民主国軍と交戦後に台湾統治を開始。今迄台湾に存在しなかった馬を持ち込んだら大騒ぎに。         
「敵ノ士官ノ乗リ居リタルモノ(※馬)二頭分捕リタルノ外一頭モ見當ラズ(「台湾島ノ牧畜」より)」。この日本部隊ではカナリアも飼っています。           
日清戦争の戦訓として騎兵大隊を連隊規模へ改編、騎兵旅団2個新設、輜重・野砲部隊への軍馬配備を増加。  
また、日本軍馬の体格矮小、性格凶暴、親和性欠如、事故頻発を痛感した農商務省が馬匹調査会を設立。有識者を集めて国家としての産馬方針を審議します。
全国畜産大会開催。新潟県で山羊飼育流行。 

1896年(明治29年)
獣疫予防法公布。軍馬補充部条例により軍馬補充署を軍馬補充部へ改称。征清従軍陣没獣医諸君追悼会開催。 
馬匹調査会の審議に基き、農務省内に牧馬掛を再設置。内国産馬の改良淘汰と並行し、サラブレッドとアラブ種輸入の為に購買委員を各国へ派遣。         
日本競馬倶楽部がオーストラリア産馬の輸入開始。
馬政局が奥羽種馬牧場と岩手・熊本・宮城種馬所を設置。 

1897年(明治30年)
越中島に陸軍中央糧抹廠設置、支庁も宇品へ設置。牛疫検疫規則制定。
相も変わらず犬、馬、豚の肉を牛肉と称して売る輩が横行。        
荷役牛馬への虐待行為、愛護精神欠如について獣医師が批判。廣井辰太郎が動物虐待防止会を発足。      
馬政局が秋田種馬所設置。       
神奈川で2名と牛1頭が犬に噛まれて狂犬病発症。狂犬病の感染報告は犬40頭、馬4頭、牛5頭。

1898年(明治31年)
台湾陸軍獣医部条例公布。靖国神社大祭での奉納競馬廃止、馬場も撤去。
種馬検査法を公布し、民有種牡馬の交配を取締り。         
宮崎に軍馬補充部高原出張所設置。
狂犬病の感染報告は犬56頭、馬3頭、牛11頭。

1899年(明治32年)
陸軍獣医学会設立。        
馬政局が福島及び宮崎に種馬所設置。牧馬掛を廃止して牧馬課設置。
狂犬病の感染報告は犬91頭、牛20頭。

1900年(明治33年)
北清事変により日本を含む8カ国が清国に出兵、義和団及び清国軍と交戦。各国軍馬と日本軍馬の違いが顕著に。
畜牛改良調査委員会設置。広島県七塚原に国立種牛牧場設置。馬政局が島根種馬所設置。
狂犬病の感染報告は犬124頭、馬59頭、牛51頭、猫・羊・山羊各1頭。

1901年(明治34年)
畜牛結核予防法公布。
北清事変にて出動した各国軍馬に比べ日本軍馬の劣性が決定的となり、法令第22号による馬匹去勢法案を可決。実施までの猶予は3年間。         
馬政局が愛知種馬所設置。        
狂犬病の感染報告は犬158頭、馬39頭、牛47頭。
佐賀県山浦村では村人6名と牛2頭が狂犬に噛まれ、2名2頭が死亡。

1902年(明治35年)
糧秣の調達・製造・貯蔵・補給の為、陸軍中央糧抹廠を糧秣廠に改編。陸軍省経理局衣料課とは別途に活動、経理局被服廠も陸軍大臣管轄下へ。
当時、軍用缶詰用の生牛はすべて関西産。屠殺剤は獣医が、精肉と製缶は糧秣廠技手が検査を担当。
馬政局が石川種馬所設置。
軍獣医の最高官位を1等獣医正(大佐クラス)に。
両国から萬世橋へ向かっていた乗合馬車の馬が、過度に鞭打たれて逆上暴走。通行人と馬車会社従業員の2名を蹴倒して重傷を負わせた挙句、電信柱に激突して即死。
新橋ステーションで郵便馬車が暴走、駐在所へ突入し警官が負傷。

1903年(明治36年)
日露開戦に備え、中国・朝鮮・アメリカからの軍用牡牛皮輸入増大。軍への納入業者は櫻組、東京製皮株式会社、田中商店、大倉組、福島組、守道商店。
狂犬病の感染報告は犬69頭、馬3頭、牛4頭。広島で発症者6名が死亡。

1904年(明治37年)
日露戦争勃発。         
捕虜のロシア兵が、ロシア犬ミシュカを従軍日本人技師に寄贈。鹵獲ロシア軍馬Я号と共に日本軍部隊で飼育中。
兵食用の牛缶は糧秣廠ドイツ製カールカルゲス式製缶機で生産。1個160匁。製缶技術は戦後の民用転換も考慮。
その他、品川・名古屋・京都・大阪・和歌山・広島・岡山・下関・伊予・長崎等で1箱96個入(1個40匁)の小型牛缶を製造。
軍用馬糧として戦地へ送るのは陸軍省が各県知事に委託して買い上げた大麦のみ。
欧米で主流の圧搾秣技術が無い事と、戦地でトウモロコシや豆を入手出来る為の措置。秣は船舶輸送時の軍馬飼料としてのみ調達。
1日の軍馬食糧は大麦5升と干草1貫匁。代用食として玄米・カラス麦・小麦・トウモロコシ・藁・大豆・稗を使用。
偵察任務でコサック騎兵と日本騎兵の遭遇戦が頻発、両軍騎兵の死傷者多数。コサック兵の使う投槍による創傷が「治療困難」と問題に。コサックとの戦闘で死亡した堀江伍長と軍馬藪川号の話が報道されます。
アメリカでは「体格矮小、体力貧弱、性格凶暴」と日本軍用馬を酷評。
農商務省、一向に進展しない馬匹去勢法実施に対し1頭あたり3円の奨励金下付中。各地方長官にも府県令での徹底を通達。
長距離鉄道輸送に耐えかね、斃死するロシア軍馬続出。ロシア軍、ハルピンに病馬隔離施設を設置。
鹵獲されたロシア軍馬3頭、日清戦争で鹵獲された清国軍馬11頭と共に内廷厩へ収容。
リガ在住のプーセップ夫人、コサック連隊に志願。
小笠原の嫁島へ向けて航行中の長盛丸で、積んでいた牛4頭が大暴れ。慌てて牛を海に放り込んだら、1頭が船に這い上がろうとしたので遂に転覆。嫁島へ泳いで行こうとした1名が溺死。
電車に驚いた馬車が暴走、乗っていた小村寿太郎外相が軽傷。
従軍する外国の観戦武官に対し、騎兵実施学校から20頭の軍馬貸与。
勅令第290号によって臨時馬政調査委員会官制発布。日露戦争により、軍用羊毛価格が各国で暴騰。
南青山で騎兵の馬が大工の細井さんを轢き逃げ。
長野・岸澤両名、病馬を食肉業者へ販売した容疑で逮捕。
麻布にて食人馬出現(暴れ馬が人に噛み付いただけです)。          
溜池山王に徴用馬収容厩舎建設、戦時金属買い上げも開始。コレ、全部読む人いるのかな?
スペインで闘牛の余興として牛と虎が格闘、牛が勝利。アメリカで変テコ乗馬用補助輪発明。実用化されたかは不明。        
警視庁が結核牛と不良牛乳販売一斉取締。荏原村踏切で石炭荷馬車と赤羽行列車が衝突、馬1頭死亡。
青森畜産学校が火事で焼失。

1905年(明治38年)
旅順要塞陥落。ロシア軍、オデッサ・ワルシャワ・モスクワ軍管区で馬匹徴発令。
1月27日、沙河で近衛騎兵連隊の軍馬北獄号が戦死。出征中の息子から「愛馬北獄号の葬儀を頼む」と依頼され、海老原粂助氏が回向院で馬の葬儀を営んだとか。
ロシア軍から鹵獲した牽引式炊爨車、軍馬用覆面、折畳式携帯ベッド等が天覧に供されます。
鹵獲したロシア軍馬とロシア軍犬を天皇に献上。      
陸軍がオーストラリアから軍馬1万頭の輸入を計画するも、その前に戦争終結。
これらのうち牝馬3千頭以上は各産馬地へ交付、他は近衛及び第1師団の騎兵及び砲兵隊へ補充、残りは将校に払下げ。                  
日露戦争から凱旋帰国してくる軍馬の為、臨時軍馬検疫規則が発令されました。
馬の種付け出願頭数17368頭、うち合格が6054頭。

1906年(明治39年)
屠場法公布。
勅令第121号によって内閣馬政局設立、臨時馬政調査委員会を廃止。
全国の産馬地を6馬政管区への分割と馬政官配置、種馬牧場(北海道・青森・鹿児島)、種馬育成所(岩手)を配置。                 
馬匹に関する閣令第7号及第10号により、東京競馬会と競馬場設立。第1次競馬会も開催。
明治天皇が体調不良と肥満により趣味の乗馬を控えるように。             
北海道月寒に国立種牛牧場開設、外国牛を元に乳・役・肉3用途兼用の品種改良開始。国内畜産家はこれに関心を示しませんでした。         

1907年(明治40年)       
軍馬医療の参考として、陸軍下志津射撃場にて馬、豚、犬に対する射撃銃創実験。
明治40年閣令第3号により馬匹去勢奨励。馬政局が日高種馬牧場・種馬育成所(岩手県)・鹿児島種馬所設置。高知・福島・岐阜・富山・北海道・石川・栃木各県で第1回産馬共進会開催。
狂犬病の感染報告は犬175頭、馬17頭、牛16頭、豚3頭、猫2頭。

1908年 明治41年)
陸軍獣医部条例公布。
今まで黙認していた馬券競馬を政府が公認するも、ギャンブラー大量出現の結果に大慌て。
馬政局が青森種馬所設置。兵庫・鳥取・山形・奥羽六県・青森・愛知・長野各県で第1回産馬共進会開催。
馬政官三浦清吉、種馬所長熊井駒之助を欧米派遣、仏・勾・白・英から雄馬44頭、雌馬40頭購買。品種はサラブレッド、ハクニー、アングロノルマン、ブラバンソン、ギドラン、フリオゾー、ノーニュース等。
産馬組合数69、産牛組合数145、馬匹去勢奨励金61,608円、去勢頭数15,402頭。
この時点で設立された競馬会は、函館競馬会、日本競馬倶楽部、東京競馬会、京濱競馬倶楽部、日本競馬会、京都競馬会、関西競馬倶楽部、北海道競馬会、総武競馬会、東洋競馬会、東京ジヨツケー倶楽部、鳴尾速歩競馬会、宮崎競馬会、越佐競馬会、藤枝競馬倶楽部、武州競馬会の16箇所。

1909年(明治42年)       
国民の公序良俗を破壊するとして、政府が馬券競馬興業禁止。日本競馬界は生き残りをかけて再編へ。
北海道競馬倶楽部は札幌競馬倶楽部へ改称。
東京競馬会・京浜競馬倶楽部・日本競馬会・東京ジヨツケー倶楽部は東京競馬倶楽部へ統合。
鳴尾速歩競馬会と関西競馬倶楽部は阪神競馬倶楽部へ統合。
京都競馬会は京都競馬倶楽部へ改称。
総務競馬倶楽部は中山競馬倶楽部へ改称。
宮崎競馬会は宮崎競馬倶楽部へ改称。
東洋競馬会は小倉競馬倶楽部へ改称。
越後競馬会は新潟競馬倶楽部へ改称。
藤枝競馬倶楽部は福島競馬倶楽部へ改称。

1910年(明治43年)
馬政局業務を農商務省から陸軍省へ移管。
霧島山系噴火の影響により、軍馬補充部高原支部を高鍋へ移転。

1911年(明治44年)
農商務省畜産技師佐藤清八氏、牛乳研究の為欧州へ。        

悪ノリしすぎました。

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全国の軍馬産地烙印一覧。宮崎県は左端に並んでいます。

大正2年、陸軍は西諸県郡小林町に高鍋軍馬補充部小林出張所を新設。
更に高鍋軍馬補充部から国道10号線を北上した児湯郡川南村(現川南町)には川南分厩も増設されました。

早期から飼育交配に注意が払われてきた東北産の馬に比べ、山口富郎氏の著書によると九州産の馬には大きな欠点があったそうです。
1.過敏で落着きがない性格、群れでの行動が苦手
2.体格矮小
3.体幅が狭く、歩様が短切
4.購入後の初放牧で体重が激減、発育不良に陥る

同じ馬の筈なのに、どうして南北でこうも違うのか?
そもそも日本の馬が荒っぽい性格なのは何故なのか?
欧州や中国では、馬が温順な性質になるよう飼育や去勢・交配について多大な努力を払ってきました。
しかし日本人は馬の去勢を知らず、「荒馬こそが良馬」などと盛大に勘違いしていたのです。
幕末から明治初期にかけて来日した外国人は、日本の馬を「猛獣」と表現しました。

明治時代、フランス万国博覧会に出陳された松方正義(明治政府の総理大臣)自慢の愛馬に、金杯が与えられたというエピソードがあります。
てっきり馬の優秀さが認められたのかと思いきや、「生きた化石」として原始的な馬であることが評価されたのだとか。

「貴下出品の馬は、実に珍しいもので、学術上の参考品である。今世紀に見られないものを、実物として見ることが出来たのは、全く貴下の学術を重んぜらる功労である」
山口富郎著「馬と宮崎と二十世紀」より



日本人は馬匹改良の意義は理解はしていたものの、徹底には至りませんでした。
明治34年に漸く制定された馬匹去勢法も日露戦争の勃発で有耶無耶に。
日本産馬の改良を放置したツケは、大陸進出を目論む日本陸軍にそのまま跳ね返ってきました。

明治33年、義和団の乱に於いて欧州各国軍と共に日本軍も出兵します。
日本の騎兵部隊は、西洋列強の前で恥を晒すこととなりました。
整然と行動する西洋各国の騎馬隊とは違い、日本の軍馬は暴れ馬の集団にしか見えなかったのです。

「わが国の出征軍馬のみは、素質獰猛であり、牝馬を見ては隊列を乱し、輸送に当っては兵を傷つけ、実に苦心を要するものがあって、各国兵から軽侮嘲笑を受け」たと記録にあります。

日清・日露戦争で清国軍やコサック部隊の優秀な騎馬に遭遇した日本軍の騎兵たちは、自国の軍馬の劣性について身を以て知る事となりました。
冗談ではなく、それは戦場での生死に繋がったのです。

「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」などと揶揄された、輸送部隊への蔑視も明治時代から記録されていますね。
日露戦争の頃には、戦地の輸送部隊から「自分達の苦労を分かってもらえない」と苦情の投書までありました。
花形の騎兵にくらべ、馬でえっちらおっちら荷物を運ぶ彼等はどうしても地味な存在。
「軍事の素人は戦略を語り、プロは兵站を語る」などという言葉もありますが、日本軍も補給に苦しんだ軍隊です。
兵站軽視というのは大袈裟ですが、輜重が不人気兵科なのは確かでした。
乗馬(騎兵隊)と駄馬(輜重隊)と輓馬(砲兵隊)の間で格差もあったのでしょうか?

日本陸軍は、日清日露の戦訓によって根本から思考を変える必要に迫られました。
九州産軍馬における問題を重視した陸軍では、その原因と対策を探り出します。

前掲の問題点の結論として
1.短気な九州人は馬の扱いが荒く、鞭による体罰や大声での叱責も目立つ。それが馬に警戒心を植え付けていた。管理者には馬の飼育を熟知した性格温厚な人物を選び、広い厩舎で飼育して馬同士を馴染ませる事。
2.幼育期の栄養および運動不足による。仔馬の頃から豊富な餌を与え、適切な運動をさせる事。
3.運動不足による。2を改善する事で解決する。
4.農家で餌を与えられていた馬がいきなり放牧されても、自力で草を食べる事に慣れるまでは食が細って痩せてしまう。放牧初期には栄養豊富な餌を併用する事。
という改善がなされます。

問題点を解決したことで、明治中期には九州産馬の質も大きく向上したとのことです。
大正3年には、宮崎県でも馬の交配を厳格におこなうよう方針を決定しました。

高鍋軍馬補充部2

高鍋軍馬補充部
軍馬補充部高鍋支部の様子

そして昭和に入ると満州事変や上海事変が日中戦争へと繋がっていきます。
大陸へ送り込まれた軍馬は、騎兵部隊や輜重部隊で活躍しました。
馬なくして、機械化が遅れていた日本陸軍の破竹の進撃はあり得なかったのです。
当時、兵站まで機械化していたモンスターはアメリカ軍くらいなもの。科学大国のドイツ軍でさえ輸送は軍馬に頼る部分がありました。

さて。
軍馬批判論の中には、日本軍が馬を虐待していたかのような主張も見られます。
しかし、軍馬は兵士のペットではありません。国費を投じて調達された軍の「装備品」です。
軍の備品である以上、軍馬は管理規則に則って厳格に運用されました。
運用管理には部隊長の許可が必要。好き勝手に扱うことは許されていません。
たしかに苛酷な戦場で使役されましたが、決して粗末に扱われていた訳ではないのです。

私がそんな事を叫んでも説得力はありませんよね。
真偽を確かめたければ、軍馬の健康を維持するために日本軍がどれだけ多くの衛生器材を備えていたか、どれだけの労力を払っていたか、陸軍騎兵学校や陸軍獣医学校の史料を調べてみては如何でしょうか。
厖大な規則や備品に驚くと思います。

軍にとっては備品でも、兵士にしたら馬は戦友です。
彼等は馬をとても大切にしました。装備品と云っても生きている動物ですから、餌や休息や健康管理は一日足りとてサボれません。

呑気そうに見える馬取扱兵の実態は苛酷なものでした。
小休止の間も、彼等だけは馬の餌やりや水与、健康状態や蹄鉄のチェックに大忙し。
馬の世話が終わる頃には再び行軍命令が出て、休憩する暇すらなかったそうです。
軍犬兵も「犬を連れた歩兵」ですし、比較的ラクだったのは軍鳩兵くらいでした。

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川南にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩。

高鍋軍馬補充部は、第二次大戦中に大きな転機を迎えます。
日中戦争へ突入した昭和12年以降、高鍋では農耕馬や肉牛の徴発が始まりました。
農家は働き手を兵隊に取られた上に、大事な労働力である牛馬まで奪われたのです。

「学校も大いに、軍事教練が多くなっていった。昭和十三年だったと思うが、我が家の馬を含む、地区から三名の飼い馬が徴発されて、三名共馬と共に貨車に詰め込まれ、馬の世話をしながら善通寺まで行き、馬に別れを告げて帰る途中の寂しさが、忘れられなかった」
「思い出」より 能勢正盛氏の証言

長年共存してきた軍馬補充部と地元農家の関係は、この頃から少しずつ変わっていきます。
高鍋に続き、川南の塩付分厩も戦争へと巻き込まれました。

昭和16年、浜松で新設された日本陸軍落下傘部隊が満州国白城子飛行場へ移転します。
しかし、白城子で訓練出来るのは春と夏の間だけと判明。
半年間も雪に閉ざされる満州では、創設したばかりの空挺部隊の練成に時間を浪費するだけでした。
一刻も早く実戦レベルへ育てるため、空挺部隊は気候温暖でパラシュート降下場と飛行場を確保できる宮崎県への再移転を決定します。
先ず陸軍新田原飛行場へ入った空挺部隊は、昭和18年に北側の川南村に唐瀬原飛行場を建設。
軍馬補充部塩付分厩の一帯(現在のJA果汁工場裏)をパラシュート降下場へ転換し、訓練に励みます。
こうして実戦レベルへと育て上げられた陸軍空挺部隊は、師団規模の「第一挺進集団」へと成長。
パレンバンをはじめとする様々な空挺作戦に投入されていきました。

陸軍空挺部隊の主力は川南町に集中していたのですが、「ルピナスパークの海側には挺進第一聯隊が離れて駐屯していた」と川南町の資料にはあります。
これは誤りらしく、実際の位置は東地区や睦地区だった様ですね。しかし、当時のあの辺一帯に巨大な軍事施設群が存在していたことは確かです。

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こちらは高鍋支部最北端の都農牧場


戦争末期、宮崎県各地は激しい空襲に晒されます。


「三月十八日、この日午前九時過ぎに空襲警報発令、やがて東方洋上から侵入して来た米艦載機グラマン数十機の大編隊は、高鍋上空で二隊に分かれ、新田原・唐瀬原両飛行場を猛烈に銃爆撃。
滑走路、格納庫など大被害を受けた。
翌十九日午後も又空襲、高鍋無水アルコール工場は、グラマン数機の猛烈な機銃攻撃を受けて発火、工場の大部分が消失し、生産中止のやむなきに至った」

4月26日以降、高鍋町には連日のように空襲警報が発令されます。
米軍機は鉄橋や日豊線を執拗に攻撃。鉄興社前の陸軍高射砲と小丸川鉄橋付近の海軍高射砲も激しく応戦しますが、戦果を挙げられないまま撤収していきました。
そして遂に、高鍋の軍馬補充部も標的となります。

「これも期日不詳であるが、軍馬補充部高鍋支部構内(高鍋町俵橋)の菊池兵団の兵士五人と軍属一名も爆弾破片と機銃弾で戦死。
その翌日構内農場で作業中だった通浜の主婦一名も爆弾破片で即死。
その背に負われていた幼児は片足骨折の大けがで、火が飛び付いたように泣き叫んでいた(通山古老談)」

高鍋町への空襲は、8月8日まで続きました。

昭和20年8月15日、日本は敗北します。
翌16日、陸軍は川南空挺基地を民用地へ転換するよう中村第一挺進団長へ指示しました。
川南に温存されていた挺進第2聯隊、都城防衛にあたっていた挺進戦車隊、千葉と北海道に移動していた挺進第一聯隊は解散し、隊員には故郷への復員が命じられます。
第3、第4聯隊と滑空歩兵聯隊は、終戦を知らずにフィリピンの山奥で抵抗を続けていました。

戦後、川南や高鍋の隊舎は公共施設や入植者の宿舎に、広大な落下傘降下場や唐瀬原飛行場は農地として移譲されました
軍都川南は、開拓の地として再出発することとなったのです。
解体される高鍋軍馬補充部も、保有する何百頭もの軍馬を川南への入植者に寄贈しました。
軍の焼き印が押された補充部の馬は、進駐軍の目を恐れて貰い手がなかなか見つからなかったそうです。

残念ながら、敗戦時の高鍋軍馬補充部の動きはよく分っていません。
10月に宮崎へ展開した進駐軍により、軍馬補充部の資料は焼却処理されてしまったのです。


ルピナスパーク

ルピナスパーク
宮崎農業大学校の公園「ルピナスパーク」

終戦時、内地に残留していた軍馬はこうして農耕馬へと戻っていきました。
しかし、戦地へ送られた軍馬の多くは、二度と祖国に帰ってこなかったのです。

因みに、日露戦争の頃までは戦地へ出征した軍馬も帰国していました。
そのための検疫体制まで構築されていますから。
軍馬は大切な「國家の財産」だったのです。

泰郁彦氏の調査では、第二次大戦で用役に適さずとして戦地から戻された日本軍馬は約4000頭。
それ以外の馬は戦地へ消えて行きました。
戦闘で斃れた軍馬も数多くいました。泥濘に嵌まって身動きがとれないまま遺棄されたり、病気や苛酷な環境で衰弱死した馬もいます。
敗戦時には、軍馬の主人である日本軍自体が消滅してしまいました。
主人を失った敗軍の馬たちは、それぞれの運命を辿ります。

タイに進駐したイギリス軍は日本軍馬の殺処分を指示、多数の馬が殺されました。
反対に、中国軍は日本軍馬を大量に接収。自軍の馬として「再雇用」しています。
特に、自分用の乗馬を欲しがっていた中国軍将校は我先に日本軍馬を得ようとしました。

しかし、日本軍馬は見慣れぬ中国兵を近付けまいと暴れまくります。
大陸を駈ける馬賊のイメージと違い、中国軍に軍馬の扱いに長けた兵士は少なかったのでしょう。
暴れ馬への恐怖から逃亡した馬取扱兵もいたのだとか。
そんな時に協力を要請されたのが捕虜の日本兵でした。
中には愛馬の待遇改善のチャンスとみて、「新鮮な餌を与えないから暴れるのだ」と嘘八百を並べ立てた兵士もいたそうです(翌日から、中国軍将校の鶴の一声で新鮮な飼葉がたっぷりと届けられる様になったのだとか)。
そのような馴致期間の後、日本軍馬は返納式を経て正式に中国軍へと引き渡されました。
また、地元の中国人農家へ引き取られた軍馬もいます。
中国に残った軍馬がその後どのような生涯を送ったのか、国共内戦を生き延びる事が出来たのか。
それは、誰にも分りません。

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戦場へ向かった軍馬の多くが命を落とします。
軍馬補充部高鍋支部でも、軍馬招魂碑を建立してその犠牲を悼みました。


高鍋軍馬補充部と川南空挺基地は、戦後になって日本三大開拓地川南町に姿を変えます。
軍馬補充部の施設も、戦後に殆んどが撤去されてしまいました。

高鍋町から川南町へ国道10号線を走ると、宮崎農業大学校の広大な敷地が見えますよね。
あれが、現在残された軍馬補充部の跡地です。

農業大学校は、昭和9年に茶旧原農民道場として設立されました。
道場が軍馬補充部跡へ移転するのは終戦の翌年、4月29日のことです。
この地で「宮崎県開拓増産修練農場」と改称され、様々な施設を追加しながら規模を拡大。
昭和47年に「宮崎県農業大学校」となりました。

高鍋軍馬補充部

軍馬補充部

軍馬補充部

軍馬補充部

軍馬補充部
ルピナスパークの一角に残る、軍馬補充部高鍋支部の軍馬招魂碑。

敷地内のルピナスパークは誰でも入れますから、散策がてら内部を一周してみました。農大の畜産部は牛が中心なので、馬の姿はありません。
都井岬みたいに馬が闊歩している風景を期待したのですが、高鍋の軍馬は遠い過去の物語となったのでしょう。

戦争から農耕へと役目を変えた馬たちの働きにより、高鍋と川南は開拓の地へと戻っていきました。
戦後は急速に農業の機械化が進み、1960年代を最後に馬の役目も終わります。
宮崎県内の競馬場も、次々と閉鎖されていきました。

現在のルピナスパークは軍馬補充部の敷地をそのまま利用しています。しかし、当時の面影はありません。
ただ、昭和11年4月11日に建立された軍馬招魂碑と畜魂碑が公園の片隅に残されているだけです。
戦時中は盛大に開催されていた軍馬慰霊祭も、今では昔話となってしまいました。

ルピナスパーク

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