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陸軍都城北飛行場(宮崎県都城市野々美谷町)

Category : 都城市の戦跡 |

森田原ハ田アリ畑アリ農村唯一ノ恵沢ノ地タリ
偶大東亜戦争トナリ此地モ亦守備陣営ノ枢地トナリ
亀沢村長ノ時空軍基地ニ採用 農民ノ楽土ハ一瞬ニシテ飛行場ノ使命ノ許ニ地
均埋立滑走路砂利敷兵舎等設備サレ 農地ノ望絶チ殖産ノ光ヲ失フ
斯テ昭和廿年終戦トナリ 一切ノ軍用施設ハ解除サレ官有地モ亦民有ニ返還愁眉ヲ開ク
此ニ於テ村長地主ヲ集メ 復旧対策トシテ耕地整理組合法ニ基キ区画ヲ整理シ
井然タル農道ヲ作製シ農地配分ヲナスノ利ヲ説キ
一同大ニ賛シ直ニ委員選定ヲナシ組合長ニ堀之内助利氏当選シ
外別表ノ役職員ヲ設ケ事務員技術者ノ専任ヲシテ実施ノ運トナリシモ
茲ニ事業面ニ大ナル癌ニ遭遇シタリ

北飛行場跡 耕地整理記念碑より 碑文の一部

都城北飛行場

戦争末期、特攻隊の出撃拠点・本土防衛戦の前線基地となった宮崎県都城市。
交通の要衝である都城盆地は古くから北郷氏(都城島津氏)の領地となっており、幾つかの城址も点在しています。いつぞや、「島津発祥の地」を巡ってNHKと都城市が喧嘩したこともありましたね。
明治時代は西南戦争に巻き込まれ、そして昭和の戦争では陸海軍の軍事拠点と化しました。

霧島
森田原から眺める霧島連山。美しい姿の山ですが、2011年には画面奥の新燃岳が大噴火。
一年前は、この辺一帯も降灰で砂浜みたいになっていました。

戦時中、都城市には3つもの飛行場が押し込まれるように建設されていました。
現在はいちいち宮崎空港か鹿児島空港まで行かなければならないのに、昔は便利だったんですねえ。
……などという呑気な状況ではなく、これらの飛行場は米軍に対抗する特攻基地と化しました。
鹿児島・志布志湾・宮崎沿岸部と三方面に対応できる地理的条件から、都城が建設地に選ばれたのでしょう。

都城市の谷頭に「北飛行場」が建設されたのは昭和19年のことでした。

陸軍は陸軍に、海軍は海軍に、それぞれの輸送打合をいたして少しでも早く輸送が出来る様に斗った。
八の日が大詔奉戴日となって居て戦に勝つため献身奉国の実を誓った私達輸送人は、殊の外はりきって朝は暗い中より夜の入るまで輸送に励んだ。
発着の貨物が非常に多く、青年学校の生徒さん達も上級生は学徒動員のため下級生だけ。なれぬ作業に無理があり、殊にせっかく協力いたして下さる各報国隊の人達も女の人が多くて能率も半減いたしました。輸送協議会、軍用会等々警察の階上や役場やその他にて厳しく会議などが重なって、実績を実績をと云ふうちに昭和十九年も早半ば過ぎとなった。
はりきった心は暑さも寒さもなんのその、明けても暮れても輸送作業で追はれている。
鹿屋にも飛行場はあるが、軍部ではどうしても飛行場が不足すると云ふので、谷頭の平野に飛行場が出来る事になり、附近の各町村より奉仕隊が徴発された。
九月に入り小林町(現在の小林市)も又各部落毎に作業を奉仕する事になり、朝は早くより貨物列車に乗って行く人達も又一億一心勝利のための奉仕である。

橋口与蔵氏 「終戦直前の輸送」より

丸野小
森田原の丸野小近辺。北飛行場があった場所です。

そして、この隣接する3飛行場はそれぞれ全く違う運命を辿る事となります。

昭和20年3月18日早朝。
陸軍新田原飛行場から緊急通信が発せられ始めました。
都城西飛行場が電文の内容を問い合わせている間に、新田原飛行場を襲撃した米軍機は赤江・富高の海軍飛行場、そして内陸部の都城西飛行場へ殺到。各飛行場は凄まじい爆撃に晒されます。
沖縄侵攻への露払いとして、米軍は南九州の航空基地を奇襲攻撃したのでした。
この日以降、都城西飛行場は徹底的に空襲で叩かれ、遂に航空基地としての機能を停止します。

都城西飛行場と違い、都城東飛行場は全く攻撃を受けませんでした。
おそらく草原と見間違えられたのだと思われますが、こうして東飛行場は航空特攻の拠点となります。
東飛行場からは振武隊の特攻機が次々と飛び立ち、敵艦へ向けて突入して行きました。

同時期には、北飛行場にも特攻隊が展開します。
それが第95および第96振武隊。
名前は勇ましいこの部隊ですが、彼らが受領した「特攻機」はとんでもない機体でした。

昭和二〇年二月下旬、筆者は温井戸里の第十九教飛で特攻要員に指名された(少年十五期主体)。
四月十三日付で第六航軍に転属となり、特攻隊二ケ隊(二四名)が編成され、第九五および第九六振武隊と命名された。
隊員は飛行機受領の為に五月帰国、母校熊谷飛行学校で暗緑色に塗装された九五中練を受領、後部座席にドラム缶一本が搭載された改造機であった。
搭乗員として初めて与えられた愛機であったが、喜びと失望が相半ばした。
大空に憧れて始めて乗ったのがこの九五中練で、而もそれを操って出撃することになるとは感慨無量であった。
愛機の整備点検も終へ岡山飛行場に転進。此処での訓練は主として洋上に於ける実戦さながらの超低空水平攻撃、また児島湾内の漁船を仮想敵に見立てての体当たり等を約一ヶ月間行ない、七月下旬岡山を後に都城に向け出発。
瀬戸内海洋上を二四機編隊、翼を連ねて意気揚々途中防府で給油、豊後水道、日豊海岸沿いに飛び、宮崎市上空を経て都城上空に到着。
東西両飛行場の滑走路が視野に入って来た。
我々は都城北飛行場を捜し求めて旋廻を繰返し、北方の畑の中に村道を拡張して偽装された一本の急造滑走路を発見、これが北飛行場の滑走路であることを確認、全無事着陸、直ちに滑走路から南北に出る数本の砂利道誘導路を通り、囃子の中の掩体壕或は農家周辺の繁みに迷彩して格納を終え、林中に散在する三角兵舎に入った。

牧外吉「鎮魂」より 都城市史掲載

陸軍北飛行場

彼らに与えられた特攻機は、陸軍95式1型練習機。つまり、「赤トンボ」と呼ばれた訓練用の複葉機でした。
最新鋭の航空機と針ネズミのような対空火器で武装した米艦隊に対し、木の葉の様な練習機で立向えというのです。
無謀を通り越して呆れるしかない話ですが、これが戦争末期の現実でした。
しかし、北飛行場の特攻隊員達は粛々とこの現実を受け入れます。
南を眺めれば西飛行場はB29の猛爆撃を受け、目と鼻の先にある東飛行場からは続々と特攻機が飛び立って行く。
北飛行場では、「次は自分達の番だ」と覚悟を決めていたのでしょう。

八月になって基地上空はグラマンの跳梁が激しくなり、我々の飛行訓練も一、二回日南海岸の地形偵察飛行をしただけで中断され、来る日も来る日も待機が日課となり、次第に三角兵舎には重苦しさが漂い始め、互いの口数も徐々に減り、間近に迫り来る死の恐怖を肌で感じながら、遺書を認めたり私物の整理が続いた。
都城市史掲載 牧外吉「鎮魂」より 

森田原1
森田原2
森田原を横切る送電線鉄塔。1600メートルに及ぶ北飛行場のX状滑走路も、これと並行する場所に設置されていました。

しかし、幸いなことに北飛行場から特攻機は飛び立ちませんでした。
出撃待機状態のまま、8月15日を迎えたのです。

【戦後の北飛行場】

戦後、北飛行場の滑走路は農地として解放されました。
現在の谷頭駅東側に広がる「森田原」がソレです。今ではのどかな耕作地が広がっており、当時の面影などありません。
農道の片隅に立てられた小さな案内板だけが、かつてこの場所が特攻基地だったことを伝えています。

開墾碑
丸野耕地整理組合による記念碑。森田原開墾の歴史が刻まれており、北飛行場についても触れられています。

開墾碑2

開墾碑3

そういう訳で、都城北飛行場の痕跡を探すことは不可能。完全に消滅してしまったのです。
木脇飛行場みたいにトーチカか何か残ってないかなー、と思ってウロウロしていたら……
古墳1
こんなのとか

古墳2
こんな物体を発見。
おお!掩体壕かもしれない……と思ったら古墳でした。
宮崎県は沿岸部に大小無数の古墳が存在しますが、こんな内陸部にもあったんですねえ。
そういえば、陸軍新田原飛行場建設の際も遺跡保存が問題になったそうですけれど。

そういう訳で、当時を偲ばせるものは記念碑と案内板だけです。
都城北飛行場
陸軍北飛行場2

現在の平和な農村風景こそが、高千穂の峰を望むこの地に相応しい姿。
しかし、かつて複葉機による特攻を命じられた若者たちが待機を続けていた事だけは、長く記憶に留めておきたいものです。

高千穂
この日は高千穂の峰も冠雪していました。
雨と火山灰しか降らないと思われている九州南部にも、ごく偶には雪が降るんですよ。


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