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海軍第5特攻戦隊第33突撃隊・第126震洋隊及び第3回天隊特攻基地(宮崎県日南市油津)

Category : 日南市の戦跡 |

第3回天隊の特攻要員には、軍歌「同期の桜」の原曲「戦友の桜」作詞者である帖佐裕大尉も配属されていました。
昭和二十年の終戦後、何月だったか記憶がさだかでないが、人間魚雷「回天」一基が港内の広場で解体され、無残で不気味な姿をさらけだしていた。
当時、私は八歳であったが、人間が操縦し、敵艦に体当りして轟沈させる強力な魚雷であることはよく知っていた。

湯浅倉平氏「内海港の人間魚雷発進基地検証」より

第3回天2

油津港
回天と震洋部隊が展開していた日南の油津港。

戦争末期、宮崎県沿岸には本土決戦に備えた特攻艇部隊「第5特攻戦隊」が配置されました。
第5特攻戦隊のうち、県南部には「第33突撃隊」、県北部には「第35突撃隊」が展開します。
33突の所属は日南市油津の第3回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第5回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、油津の第126震洋隊と第3回天隊について紹介しましょう。

第33突撃隊が拠点を置いていたのは油津港大節鼻埠頭の手前、埋め立て地と漁港の境付近です。
現在は海辺の道路沿いにコンクリート製の遺構のみが残されており、繁茂した藪の為に回天格納トンネルの有無は確認出来ません。

第3回天14

第3回天5

第3回天4

第3回天6

第3回天11

第3回天12

昭和20年、香川芳明技術大尉を長とする「海軍第514設営隊」「呉海軍施設部第931部隊」が宮崎県の海軍赤江飛行場に配備されます。

「昭和二十年、私は弱冠二六歳の技術大尉で、呉海軍施設部第九三一部隊(徴用工員一二〇〇名)と、海軍第五一四設営隊(召集軍人八〇〇名)の二個部隊の長を命ぜられ、部隊本部を宮崎の赤江飛行場に置いて、沖縄戦の支援と同時に日向灘からの対上陸防塞施設の構築を担当し、宮崎県の海岸線全体にわたり、延岡・富高・美々津・都農・高鍋・内海・油津・大堂津・榮松などに分遣隊を出して、特攻隊のための飛行場の補修・整備や水上特攻隊の甲標的(特殊潜航艇)・震洋(爆装したモーターボート)・回天(人間魚雷)などの基地を構築していた。
油津の水上特攻隊の隊舎が間に合わず、海岸にあった遊郭を移転させて応急の隊舎にして大石大佐の率いる水上特攻隊を受け入れたこともあった。
沖縄戦の終了した六月に、油津方面の呉海軍施設部は、佐世保の施設部に移管され、私は、軍人設営隊を連れて、福岡県築城基地に転進した」
香川芳明氏の証言より

証言のとおり、震洋部隊の油津基地は建設が難航。そのまま外浦港へ移転となり、待機を続けました。
呉施設隊と交代してやって来たのが佐世保施設隊です。彼等は、陸軍部隊と共に防衛陣地の構築にあたりました。

第3回天16

第3回天10

第3回天9

第3回天3

第3回天7

第3回天8
回天基地跡前の海中には、コンクリート製の構造物が幾つか残されています。
海軍のものなのかどうかは不明。

油津回天
この付近の山にも回天の格納庫があったと伝えられますが、立ち入りが出来ないので詳細は不明です。

第126「青木」隊は5月5日に佐世保で編成され、特攻艇26隻、士官7名、特攻隊員48名、整備員31名、基地隊76名、本部付9名の総員171名。
外浦港の特攻ボート格納トンネルは6本が構築中で、震洋は基地完成まで飫肥駅に保管されていました。

また、油津に完成した特殊潜航艇格納トンネルには8基の回天が格納されます。
あわせて、これに乗込む10名の特攻隊員も油津へやって来ました。
海軍大尉 帖佐裕
海軍中尉 羽田育三
海軍少尉 塩津礼二郎
海軍兵曹 佐賀正一・奥山繁勝・浅野豊・佐藤登・高野進・稲永眞・前田敏郎
特攻隊の一人であった佐藤氏は、当時の様子をこう述懐しています。

「私は、海軍甲飛予科練十三期、土浦航空隊出身で、昭和十九年九月から山口県徳山市沖の大津島で人間魚雷搭乗員として訓練を受け、同二十年六月二日、油津港配備の「回天」搭乗員として油津に赴任した。
当時、油津港に駐屯していた嵐部隊は「回天」乗組みの帖佐大尉を隊長に、士官三名、下士官五名、計八名に整備員。
基地隊員は司令大石大佐以下百数十名で配置についており、「回天」八基は、東海岸(現在宇部セメント~石油基地群)に掘削された壕四本に二基ずつ格納された。
搭乗員宿舎は、下町東遊郭にあり、同二十年十一月に予想される米軍上陸に備え、米機動部隊撃滅を期して勤務した。
油津港出撃予定の特攻隊名を第三回天隊とよび、大堂津三基が第十回天隊、榮松七基が第五回天隊となっていた」
佐藤正一氏の証言より

彼らはまた、宮崎市内海(うちうみ)港に展開する第9回天隊の潜航艇受領にも従事しています。
第9回天隊の内海到着は7月に遅れたため、内海基地建設時は第3回天隊がカバーしました。
こちらは山中の谷間に回天の格納トンネルを掘り、そこから内海港までレールで曳き出す方式。「鬼の洗濯岩」で知られる岩礁地帯が広がる遠浅の内海では、目の前の海へ直接出撃する訳にはいかなかったのです。
宮崎市から日南市までの距離(当時の日南海岸は道路事情も悪く、鉄道も全線開通していませんでした)を行ったり来たりと、なかなか忙しい部隊でした。

米軍側は宮崎沿岸への特攻隊布陣を察知していたらしく、内海港を奇襲攻撃しました。
そして、第3回天隊員から戦死者を出してしまいます。

「七月十六日、内海港入口に輸送用潜水艦が着艦。運ばれてきた回天六基を小型船で収容、近くの山あいに築かれた掩体壕に搬入と、昼夜兼行の作業を続け、翌十七日早朝二時頃完了、そして眠りにつきました。
五時半起床、夏堀、井手籠の両君がいない。内海港防波堤に好きな釣りに出かけたらしい。朝食をとっていた七時三十分頃、突然P51戦闘機二機による銃爆撃の急襲を受ける。
約二十分後、基地隊員より搭乗服の一名が防波堤電柱の陰に倒れているとの通報があり、二手に別れて捜索しました。
防波堤に倒れていたのは井手籠君で、頭部、腹部に十三粍機銃貫通で即死。
夏堀君は走り込んだ二階建住宅への爆撃による倒壊の下敷となっていた。遺体は軽爆弾の直撃を受けたとみえ、頭髪と骨の一部を残し、肉片は残していなかった。
納棺、軍艦旗につつみ、トラックで油津基地に帰還。翌十八日、ガソリンの補給を受け荼毘に付した。海軍葬を近くの正行寺で行い、遺骨の分骨は隊舎に安置された。
両君はともに北海道の釧路中出身で中学、海軍生活、出撃先も一緒と、兄弟以上の親友でした。
回天を搬入した内海基地には、光訓練基地より六名の特攻搭乗員が正式に七月二十二日に着任しました。両君の無念をはらさんと、米軍上陸を待ちかまえておりましたが、まさか一ヶ月にもならないうちに終戦になろうとは、予想もしませんでした。追いたてられるようにようにそれぞれの故郷へ帰されました」
第3回天隊 佐藤登氏の証言より

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戦前の油津港

特攻隊が展開する前の3月1日には油津上空で空中戦があり、鹿屋飛行場から飛び立った703飛行隊の一式陸攻2機がグラマンに撃墜されました。
「米軍爆撃機が撃墜された」と勘違いした小玉与八氏が漁船で現場海域へ赴くと、海面に漂っていたのは日本軍の飛行士たち。
油津沖700m附近に墜ちた83号機の搭乗員のうち7名の遺体が回収されるも、残る5名の遺体は機体と共に沈みました。
7名の遺体は油津漁協の事務所に運ばれ、翌日鹿屋基地から到着した係員によって荼毘に付されます。

鵜戸沖に墜ちた81号機の搭乗員は5名が救助されるも、7名が戦死。
2機の機体と搭乗員の遺体は、今も日南の海に眠っています。


もと攻撃七〇三飛行隊員河原文久および倉垣宗、謹んで十二勇士のみ霊に告げまいらせます。
命たちの八十三号機は、昭和二十年三月一日、鹿屋基地を発進、八十一号機と二機で徳島基地へ向かう途中、十四時五十二分、都井岬上空で敵小型機と空戦し、ここ油津沖に墜落し、つぎの十二名のかたがたが戦死されました。
海軍少尉 渡辺勉
海軍上等飛行兵曹 内海憲太
海軍一等飛行兵曹 田中龍雄
海軍一等整備兵曹 斉藤邦政
海軍一等整備兵曹 大原貴四郎
海軍一等整備兵曹 磯部義光
海軍飛行兵長 上田信夫
海軍飛行兵長 杉村正一
海軍飛行兵長 長野正夫
海軍整備兵長 国吉房長
海軍整備兵長 小村登
海軍上等整備兵 渋谷甚市

またもう一機の八十一号機(機長岡北愛伯中尉)は、鵜戸村南方五千メートルの海上に不時着し、五名が重軽傷、七名の方が戦死されました。
誠に痛恨にたえず、謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
命たちの状況は、永らくわかりませんでしたが、まず八十一号機の状況が判明し、昨年二月二十九日、現地宮浦へ通い、地元のかたがたにお礼を申し上げ、慰霊祭をおこなってきました。
その後、もと隊員の証言をもとに地元の青木繁様、細田純市様のご尽力を得て本日ここにみ霊をお慰めするために参りました。
実に四十八年目のことで、遅きに失し、甚だ申し訳なく存じております。
本日のことは、ご遺族、もと隊員の諸兄にも報告し、命たちのご功績をしのびたいと存じます。
今後とも、ご遺族とわれわれ生存者にご加護を賜わり、お導きくださるようお願い申し上げます。
どうぞ安らかにお眠りください。

平成五年三月一日
もと攻撃七〇三飛行隊員 河原文久 倉垣宗


油津海上慰霊祭にて 平成5年

回天格納庫跡から岬の突端へ向かう途中、山の方へ左折する道路があります。真っ直ぐ行くと大節鼻の埠頭で行き止まりですから、此処を左折しましょう。
道路を進んでいくと、波に浸食された奇岩がずらりと並ぶ日南海岸の美しい景色が見えてきます。
海岸から道路を挟んだ場所にあるのが日南市立油津中学校。付近の集落が梅ケ浜地区です。

戦争末期、油津の海で米艦隊への突入に備えていた震洋や回天の搭乗員達。
しかし、生命の危機に晒されたのは油津の人々も同じでした。

「飫肥警察練習所は、飫肥高等女学校寄宿舎を若干改修して創設された。
そこは飫肥城址東台で見晴しもよく、広い敷地に校舎風に建てられた寄宿舎は、六人部屋六室と教官室教場等もあって、練習所にふさわしく即刻対応の建物だった。玄関前は点検場になり、宿舎の裏側は食糧難から耕作されて甘藷畑になった。
女学校と寄宿舎の境界は高さ三メートルの崖になっていて、私たちはこの崖を利用して防空壕を構築した。警察操練は女学校の校庭で実施されたが、訓練中何度かグラマン機に急襲されて、慌てて木の陰に隠れたり、防空壕に逃げ込んだりした。
五月二十九日、私たち第一六六期生三十六名の入所式と帯刀式があった。生れて晴れて官服を着用し、一人ひとり前に進み出て、警察部警務課長からサーベルを貸与されて帯刀した。天気は曇りから雨になった。
この日、油津港の沖では漁船がグラマンに襲われて沈没し、十一人が犠牲になった。このような戦況の中、晴の入所式もそこそこに終了し、きびしい門出となった。
警察訓練所の下には、飫肥青年学校と、明治政府の外務大臣小村寿太郎公も学んだ藩校の振徳堂があり、ここに人間魚雷「回天」の出撃をまつ海軍特攻隊が駐屯していた。
特攻隊は学徒動員兵で、飛行服に身を包み、白いマフラーを首に巻き、酒をあおって新撰組気取りで街を闊歩していた。
私たちはこの特攻隊を意識して、「下に負けるな」が合言葉であった」
宮崎県警 長崎静男氏「私と太平洋戦争」より

油津沖で日本軍爆撃機が撃墜されてから二週間後、九州南部は米軍機の奇襲攻撃を受けます。
造船所などがあった油津も、その標的となりました。

日南3

日南海岸

日南
油津港から梅ケ浜に続く海岸

3月18日に始まった宮崎への空襲は、その後も執拗に繰り返されます。
5月29日には沖合で操業中の特殊漁船が米軍機の襲撃を受け、大平丸と第五日置丸が沈没。計21名が死亡しました。

そして昭和20年7月16日、11時半。米軍機の編隊30機が梅ケ浜を奇襲攻撃、多数の死傷者を出す惨事となりました。
何故、油津港から離れた小さな集落が集中攻撃を受けたのか。
もしかすると、梅ケ浜が日本軍の爆薬集積所であったことを米軍が察知していたのかもしれません。

梅が浜2
●梅ケ浜にある被爆者慰霊碑

「一九四五年(昭和20)七月十六日、その頃ぼくは油津小学校の五年生でした。
ぼくの家は梅ケ浜下町で、となりに天理教教会があり、海軍の宿舎になっていて、数人の兵隊さんが寝とまりしていました。
そこへ遊びに行っていて恐ろしい目にあいました。よくぞ今生きていると思います。
この日は朝から空襲のため学校は休みで、よく行く教会へ、その日も遊びに行きました。
佐賀から来たという兵隊さんが、テントで、コウリャン飯と白米飯をたいていました。
肉もありました。
その朝一〇時頃、トラックが来て教会へ弾薬の運びこみがありました。
一一時半頃、「敵機襲来、大島を北上中、B24、数機」の声が聞こえると、すぐアメリカ軍機が油津をこえて鵜戸の方へ飛んだと思うと、すぐ引き返してきました。
今度は低い、こちらの方を向いている。
「テッキライシュウ」の大声。シュルシュルー、爆弾か。
「こどもは早く、かくれろ」
それから先はおぼえていません(あとから聞きました。爆弾のふる中を走って逃げてきたようです)。
気づいたら大人にかこまれていました。
ここは今の油津中学校横の稲荷神社の防空壕でした。教会から三〇〇メートルくらい離れたところです。
「体があちこち痛い。体にささった破片が熱い。腰が一番痛い。足、背中も傷をおい血が流れている」
まわりの大人が三角巾でしばってくれました。
戸板にのせられ、斃れた家や煙の中を、梅ケ浜上町の病院に運びこまれました。
病院は負傷者でいっぱいで、庭のござにいて、包帯をまかれました。
あちこち痛いけど、少し眠ったみたいでした。
しばらくして「お前の父ちゃん、近くにいるよ」とまわりの人がいうので、痛いのをがまんして会いにいくと、病院の庭のござの上にお父さんが寝ていました。
「お父さん、お父さん…。返事がない…。死んでいる」
全身から力がぬけて、すわりこんでしまい、わんわん泣きました。
その頃五時だったことを、おぼえています。
(中略)
地区民二九人、海軍の兵隊さん四人、あわせて三三人の犠牲者が出たと。遊んだあの兵隊さんもいない。その外たくさんの負傷者が出ました。
教会はテニスコートぐらいの荒地になり、深い穴ができていました。
弾薬の連続大爆発があったという。約三五戸あった梅ケ浜下町は、爆弾でやられた黒い柱、かわらや石がとびちり、がれきと化して、それはひどいもんでした。
爆弾は一〇数個落ちたと言われます。
爆弾や弾薬爆発の激しさに、身ぶるいしました。
ぼくのうちのうら山の弾薬倉庫に近い所は、赤い岩がむき出しで、遠くの木はなぎ倒され、根っこが上を向いたりしていました。
今でもわかりません。どうして天理教教会に弾薬があることが分かったんだろう。
ぼくの家族は母子四人となってしまいました」
宮崎県退職教職者連絡協議会編「語りつぐ―ふるさとの太平洋戦争―」より 梅ケ浜被爆体験記(三十三人に祈る) 片衛意文氏の証言

梅が浜3

梅が浜

現在、梅ケ浜の片隅には空襲による死者を弔う「被爆者慰霊碑」が建立されています。

太平洋戦争末期の昭和二十年七月十六日午前十一時三十分頃
数十のアメリカ機が日本軍の弾薬庫となっていた天理教教会を襲ったため 
附近一帯は一瞬のうちに修羅場と化し
地区民二十九名 海軍兵四名が亡くなった
ほか多数の負傷者が出た
平成七年五月七日「梅ケ浜を語ろう会」に集まった当時を知る人びとの間に「被爆者慰霊碑」建設の議が起った
ここに広く浄財を募って空襲の犠牲となり
この地に眠る人びとの霊を慰めるためこの碑を建立する


沖縄を占領した米軍は、九州上陸作戦の準備へ取りかかります。
九州各地の特攻基地でも、臨戦態勢を整えていました。しかし、彼等は出撃することなく8月15日を迎えたのです。

それは終戦を間近に控えた二十年七月二十一日のこと。特攻隊員宿舎近くにあった青木宅に顔見知りで十八歳になる学徒兵2人が訪れた。
「お世話になりました。明日出撃します」
どこに何の任務で出撃するのか学徒兵は語らない。しかし、青木さんは察しがついた。
「いよいよこの若者も死ぬのか」
このとき青木さんはかん詰めの赤飯で出撃を祝った。そして翌日から二人の姿を見ることはなかったのである。
今も青木さんには学徒兵の生死はわからない。また本当に敵を求めて、出撃したのかどうかも不明だ。すべてが軍機密で、憲兵が監視に目を光らせていた時代のひとこまだったからである。
八月十五日終戦。
油津の人々が玉音放送を聴いて半ば放心状態になっているとき、サイドカーがけたたましく町内を回った。
車上で顔を引きつらせた特攻隊員が日本刀を振りかざした。
「日本は敗けやせん。軍は戦うのだ」
若い少尉が叫んだ。
死を覚悟し、冷静そのものだった特攻隊員が初めて見せた動揺だったろうか。このあと基地をのぞいた地元義勇軍情報担当の野崎正雄さんも「デマにまどわされるな」と隊員から日本刀で脅された。
やがて時がたつにつれ隊員も冷静さを取り戻し、それぞれの郷里へ。回天は戦後、進駐した米軍により解体された。
死と隣り合わせの時代は終わった。
そんな中にも特攻隊員と地元娘との間に数組のロマンが咲いた。うち一人は油津にとどまり、幸福な家庭を築いてマグロ船に乗り組んでいる。

宮崎日日新聞社「宮崎の昭和史」より 青木繁氏の証言

こうして、油津の戦争は終わりました。
第3回天隊では、第9回天隊の受け入れ準備のため内海港に派遣された2名が空襲により戦死。
第126震洋隊171名は、幸いにも戦死者なしで復員を果します。
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