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空挺給水塔 其の10 挺進飛行戦隊と滑空飛行戦隊

Category : 第十部・挺進部隊の翼 |

ある夜のこと。
「先生、起きて下さい」
生徒の声と、舎監室の戸をひどく叩く音に目がさめました。
「兵隊さんが『非常事態だ。開けろ』というので戸を開けました。すぐ来て下さい」
何のことやらさっぱりわからず、あわてて飛び出すと憲兵が二人、拳銃を手にして廊下に立っています。
「何ですか」
「脱走兵がこの付近に逃げたらしい。調べさせてもらう」
「誰も来ません。此所は外から人が入ることは出来ません。調べるなどとんでもない」と、制止するのもかまわず、部屋を全部のぞき、便所の中まで戸を開けるのです。
寮は男人禁制です。舎監長(男の先生)だって一人で見えることはありません。軍隊とは、常識の通らない全くむちゃな所です。だんだん腹が立って来ましたが、おしのけることも、文句も言えず、じっと嵐の去るのを待つばかりでした。
そのあと、また兵隊が来ました。今度は憲兵ではありません。
「兵隊は来ませんでしたか?」
「誰も来ません。先程、憲兵の方が、脱走兵を探しに来られました」
「そうですか。部隊の兵隊が居なくなって探しているのです。我々で早く見つけたいのです」
しばらくして
「失礼しました。帰ります。夜明けに飛行機が飛びますよ」
そう言い残して帰られました。
早暁、ようやく東の空が白みかけた頃、ものすごい数の飛行機が爆音を残して、海の方に次々に飛び去りました。戦闘機の出撃だったのでしょう。
勇ましい戦いのかげに、前夜のようなことがあるのを知り、どうにもならない、やるせなさを感じました。
生徒も爆音で目をさまし、窓から手を振って見送っていました


高鍋高等女学校杉田樹子教諭「いのち輝く」より 昭和17年の新田原飛行場にて

落下傘降下
97式輸送機(AT)から降下する陸軍空挺隊員

陸軍空挺部隊は、降下作戦をサポートする専従の飛行隊を保有していました。
それが下記の部隊です。

【新田原飛行場】
第1挺進飛行団司令部 
第1挺進飛行団通信隊 
挺進飛行第1戦隊 
挺進飛行第2戦隊 
第101飛行場中隊(整備隊)
第102飛行場中隊(整備隊)

【西筑波飛行場】
滑空飛行第1戦隊
第103飛行場中隊(整備隊)


降下兵たちの武勇伝に隠れ、空挺作戦を支えた飛行隊の実情は余り知られていません。
今回は、挺進集団の翼であった飛行士たちを取り上げます。

DSC08965_R.jpg
現在の航空自衛隊新田原基地。陸自の74式戦車と並ぶ飛行教導隊のF-15。

潜水艦を使った挺進作戦まで計画していた海軍空挺部隊とは違い、陸軍空挺部隊は空からの奇襲攻撃が基本です。
陸軍空挺部隊の実戦化には、パラシュート兵の空輸部隊が必要でした。
昭和16年春、専従の飛行隊が満州国の白城子飛行学校で訓練を開始。
空挺隊員と共に各種降下訓練を積んだ後、9月になって宮崎県の新田原飛行場へ移転します。

新田原において、陸軍空挺部隊は本部、教育部、研究部、材料廠から成る航空総監部直属の「挺進練習部」となりました。
そして昭和16年11月5日、「教導挺進飛行隊(後の挺進飛行第1戦隊)」の編成が完結。
太平洋戦争の直前になって、実戦部隊の形はようやく整います。

挺進飛行隊の訓練は、新田原飛行場(児湯郡新田村)と塩付降下場(児湯郡川南村)を利用しておこなわれました。
まず新田原飛行場から海へと飛び立った輸送機は、日向灘上空を廻り込んで北側の川南村へ進入。
軍馬補充部高鍋支部塩付分厩跡のパラシュート降下場へ空挺隊員を降下させていました。
時間が無い場合は、離陸後Uターンして新田原飛行場へパラシュート降下する事もあったそうです。

その挺進飛行戦隊が初めて実戦に参加したのは、昭和17年のパレンバン降下作戦。
昭和17年1月7日、新田原を離陸した挺進飛行隊は、台湾を経由してプノンペンを目指しました。

【パレンバン降下作戦】

パレンバン降下作戦1
パレンバン作戦を打ち合せ中の久米挺進団長と新原飛行戦隊長

日米開戦直前の昭和16年12月1日。
軍令陸甲第93號により、武田丈夫少佐指揮の挺進第1聯隊、および新原少佐指揮の挺進飛行隊に出撃命令が下されました。
目標はスマトラ島のパレンバン。蘭印軍が護る飛行場と精油所2箇所への同時降下という、複雑な作戦でした。
挺進飛行隊の3個中隊では数が足りず、更に物資投下と護衛にあたる飛行隊が支援につきます。

第81戦隊(先行偵察、誘導)
第59戦隊(戦闘・空中援護)
第64戦隊(〃)
第90戦隊(事前爆撃)
第98戦隊(物資投下)


挺進飛行隊がプノンペンへ到着したのは昭和17年1月19日のこと。
しかし、先着の挺進第1聯隊は輸送船の沈没事故で降下器材一式を喪失していました。
そこで急遽、編成されたばかりの挺進第2聯隊が南方へ向かうこととなります。

新田原を発った第2聯隊は2月2日にプノンペンヘ到着し、現地の第1挺進團主力と合流。パレンバンへの出撃準備に入ります。
2月11日、マレーのスンゲイパタニ飛行場へ移動した空挺部隊は、最終の機材整備、偵察写真を元にした降下計画の立案、そして戦闘訓練を重ねます。
13日、準備を終えた空挺部隊は出撃基地であるカハン飛行場へ移動。
翌14日午前7時、日本陸軍初となる空挺作戦が開始されます。

IMG_0001_R_201507050320308af.jpg
輸送機に乗り込む陸軍落下傘部隊員。機体の尾翼には落下傘を象ったマークが描かれています。


飛行第64戦隊の護衛の下、挺進飛行戦隊3個中隊及び第12獨立輸送中隊の空挺隊輸送機計36機、
物資投下の重爆一個戦隊、援護の戦闘機2個戦隊27機の編隊はマラッカ海を越えてスマトラ島の海岸線沿いに南下。
バンカ島ムントク上空で11時前に変針します。

その日、パレンバン上空は低い雲に覆われていました。
日本軍の編隊は、それを潜るようにしてパレンバンへ侵入。11時26分、空挺隊員は一斉に降下を開始します。
高度は通常の半分以下、僅か200mの低空でした。

突然空から舞い降りてきた日本兵を見て、パレンバン守備隊はパニック状態に陥ります。
滞空していた連合軍機も、組織だった反撃すら出来ずに近隣の飛行場へ撤退していきました。

いっぽうの日本軍も無傷ではありませんでした。
パレンバン飛行場上空では、物資投下任務にあたっていた飛行第98戦隊の輸送機が対空砲に被弾。
エンジンから出火しながらも物資投下を終えた直後、失速して飛行場脇の墓地へと墜落しました。
その際、須藤直彦中尉以下搭乗員7名が戦死しています。

空挺隊員を降下させた挺進飛行隊でも輸送機1機が被弾します。
カハン飛行場まで帰還しようとするもマラッカ海峡を越えたところで力尽き、センガラン付近のジャングルへ墜落。
操縦していた相澤茂男准尉(28)と安田秀司伍長(25)が戦死しました。

パラシュート降下に続いて久米挺進団長機も強行着陸を図りますが、着陸地点を探して旋回を続けるうちに飛行場から離れてしまいます。
漸く着陸できたのはパレンバン飛行場から10km以上離れた湿地帯。
水没した機体から脱出した久米団長一行は、ようやくのことでパレンバン飛行場占拠部隊と合流します。

カハンへ引返した挺進飛行隊は、翌日に増援中隊を乗せて再度飛来。
前夜にNKPM精油所を破壊されたものの、パレンバン市街、パレンバン飛行場、BPM精油所は完全に確保されました。

パレンバン降下作戦の成功を、マスコミは大々的に報道。
この時から、日本軍の落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれるようになりました。

【ラシオ降下作戦】
空挺部隊2
挺進飛行戦隊の100式輸送機に乗込む降下隊員。

続くラシオ降下作戦は、ビルマ(現在のミャンマー)への侵攻に伴って計画されました。
日本軍は、第18、33、55、56の各師団をもってビルマ内の中国軍包囲殲滅作戦を開始。
作戦の目標とされたのが、「援蒋ルート」上にある要衝ラシオでした。
陸軍空挺部隊は、このラシオ攻略へ向かう第56師団の支援を命令されます。

パレンバン降下作戦終了後、第1挺進団はプノンペンで次期作戦の準備に取り掛かっていました。
そこへ届いたのがラシオの制圧命令。
パレンバンから戻ったばかりの挺進第2聯隊は作戦から除外され、ビルマには挺進第1聯隊が進出する事となりました。
4月3日、木下中佐率いる先発隊がミンガラトン飛行場ヘ到着。
続いて、パラチフス感染から恢復した挺進第1聯隊と、パレンバン作戦に参加しなかった挺進第2聯隊の足立中隊および川畑小隊が海路ラングーンヘ向かいました。
4月12日に到着した両聯隊は、17日から第5飛行集団の指揮下に入ります。

このとき立案されたラシオ空挺作戦は下記のとおり。

・第1次挺進部隊
挺進第1聯隊主力の450名は、ラシオにパラシュート降下して中国軍兵営を急襲。続いて南方の高地を占領して敵の退路を遮断。
・第2次挺進部隊
挺進第1聯隊の壺井中隊および挺進第2聯隊の足立中隊・川畑小隊の計450名は飛行場を急襲。
まず田中賢一中尉指揮の機関銃小隊24名(重機関銃1、軽機関銃7)を飛行機で強行着陸させ、
その援護射撃を受けながら壺井・足立・川畑の各隊がパラシュート降下して飛行場を占拠。
続いて駅を占拠し、列車で救援に駆けつけようとする中国軍新編第66軍を阻止。
・久米団長機
パレンバン同様、久米団長も飛行場へ強行着陸してラシオ占拠の指揮にあたる。
・挺進飛行隊
新原少佐率いる挺進飛行隊は4月26日にラングーンヘ進出、筒井中隊(ロ式輸送機)、板野中隊(ロ式)、松渕中隊(MC輸送機)、飯渕中隊(MC)、新海中隊(MC)の5個中隊で空挺隊を輸送。
物資投下、直掩、地上攻撃の各支援飛行隊も参加。


作戦決行日とされたのは4月29日。
挺進飛行隊は26日、空挺部隊は28日にトングーへと進出しました。



昭和17年4月29日朝、挺進飛行隊は計1000名の空挺隊員を載せてトングー飛行場を離陸します。
しかし、到着したラシオ上空は厚い雨雲に覆われていて降下は不可能。新原戦隊長は突入を断念し、トングーへ帰還します。

帰還途中、第1聯隊第1中隊神保曹長以下の搭乗機が行方不明となり、片方のエンジンが故障したままトングー飛行場へ辿り着いた古川大尉機も着陸直前に墜落炎上しました。
結局、30余名の戦死者を出してラシオ降下作戦は中止されます。
ラシオには56師団が突入し、占拠に成功しました。

この作戦における挺進飛行隊パイロットの殉職者は下記のとおり。

挺進飛行隊第4中隊
古川武大尉(24)
岡部貞男准尉(27)
四元泰憲曹長(24)
戸澤一曹長(24)

このように、墜落事故で犠牲となったパイロットも少なくありません。
パレンバン作戦時の挺進飛行戦隊は4個中隊で編成され、使用していた機体は第1、第2中隊がロッキードL14スーパーエレクトラ(ロ式輸送機)、第3、第4中隊は百式輸送機。
このロ式は故障が多い上に失速癖があり、事故の際にも炎上し易いとしてパイロットから嫌われていました。
挺進飛行隊のロ式も沖縄近海で1機、プノンペンで1機が不時着。沖縄の事故では乗っていた整備員1名が溺死しています。
プノンペンでは、滑走路上でパンクしたロ式が炎上するというトラブルもありました。
ラシオ空挺作戦が中止になった際、挺進飛行戦隊ではロ式を廃止し、百式への機種統一を決定。
5月31日、サイゴン航空廠へ移管されることになったロ式はプノンペンを飛び立ちます。しかし、ここで最後の事故に見舞われました。
離陸直後に機体が失速し、第1中隊長の筒井四郎中尉機が墜落。操縦していた筒井中隊長と奥村修准尉が殉職したのです。

プノンペンを発ってサイゴンまで、ロ式(※ロ式輸送機)による最後の飛行を行った際、戦隊の第1中隊長筒井四郎中尉は、いつもの通り先頭で離陸した。
高度五〇メートル位のとき、エンジンの故障だったろうか、飛行場の端から二、三百メートル程の所に不時着し焔に包まれた。
一名が機外に投出されて助かったが、筒井中尉以下数名は焼死した(※実際の死者は二名のみ)。
パレンバン作戦でもラシオ作戦でも、筒井機は副操縦席に新原戦隊長を載せ、編隊群の先頭に在った。
最後の飛行では新原少佐は乗っていなかったが、中隊長と運命を共にしたのは栄あるクルーだった。

全日本空挺同志会資料より

5月23日、戦況が落ち付いたことで第1挺進團に撤収命令が出されます。
空挺隊員はラングーンから出港し、7月4日に宮崎へ帰還しました。
6月6日に挺進飛行隊も西貢(サイクン)を離陸し、11日に新田原飛行場へ戻っています。

第1挺進団が帰還した新田原飛行場では、挺進第3聯隊と挺進第4聯隊、グライダー滑空班(後の滑空歩兵聯隊)などが続々と新設されていました。
そこへ戦地から2個聯隊が帰国して来たので、新田原飛行場は4個空挺聯隊と挺進飛行隊の将兵でごった返しとなります。
収容能力の問題から挺進飛行隊のみを新田原に残し、降下部隊は川南村へ移転することが決定。
唐瀬原飛行場を中心とする川南空挺基地の建設も始まりました。

パレンバンの戦果は大々的に報じられ、新田原飛行場の挺進司令部には取材要請が殺到します。
作家の火野葦平もその一人。
泊まりがけで取材に訪れた火野は、降下兵とパイロットの関係についてこう記しています。

深夜、状袋にはいつて寝についてゐる私の耳の傍でけたたましく叫ぶものがあつた。
「第二十一編隊長、心配すんな」
まつ暗なのでだれであるかわからない。向ふ側の寝台かららしかつたが、そのあとはしんとなつたので、寝言の主をたしかめることもできない。兵隊が寝言をいふといふことは晝間から聞いてゐた。
跳下して帰つた晩など、機體をはなれる「やあつ」といふ掛け声が方々から起るといふことであつた。また、前日、夢を見る兵隊も多く、その姿が無意識の言葉になつて口をついて出る。
それにしても、編隊長心配するなといふやうなこみいつた寝言をいふのは誰であらうか。恐らく下士官にちがひない。
ここには各兵科からすでに教育を受けた兵隊たちが集まつて來てゐるので、下士官の多いのにはおどろくばかりである。
軍曹が歩哨に立つやうな部隊はあまりあるまい。寝言の直接の意味はよくわからないが、落下傘部隊と飛行機部隊との協力についての感想であることはうなづかれる。なかなかよろしき寝言である。
見学に來て實際を見るまでは、私にはこのことはよくわかつてゐなかつた。
飛行機と落下傘兵とをなんとなく一つのものに考へてゐたのである。ところが、實際はさうではなく、飛行機と落下傘部隊といふものはまつたく別なので、この二つの部隊の緊密な協力によつて、はじめて落下傘作戦が決行されるといふことを知つた。
落下傘によつて降下し戦闘する兵隊の花々しさばかりに私たちの眼はうばわれてゐたやうである。
落下傘部隊は飛行機から跳下するだけが目的ではない。跳下はいはば歩兵の行軍にあたる部分であつて、降りてからの地上戦闘が主任務なのである。
したがつて、所期の地點にうまく降りる降りないとかといふことで、すでに成功の可否を決せられる。重量品であればその自らの重さによつて割合に正確に思つたところに降ろすことができるが、軽い布の傘にささへられた人間を、あやまりなく所期の地點に降ろすことはそんなに容易のことではない。
まづ風向風速を的確に知ることがなにより大切だ。操縦者の技倆が立派でなくては落下傘作戦は成功しないといふことになるのである。
跳下地點の選定と、降下時期の決定とは、跳びおりる落下傘兵自身がやるのではなくて、戦隊の方でやるのである。それだけ責任も重く、慎重の注意と決断力を要する。
出発前には、諸準備をととのへ、着地點などの豫備知識をあたへ、落下傘兵をして空中勤務者の技倆に全幅の信頼を置かせる。
この空中勤務者と降下者とが心意一體になることが絶對に必要だ。

火野葦平「落下傘部隊」より 昭和18年


【ベナベナ空挺作戦】


翌18年、第1挺進団は再び南方へと出撃します。
反攻を開始した米軍は、ニューギニアのベナベナ及びハーゲンに飛行場を建設しつつありました。
ここから飛び立つ連合軍機は、日本の輸送船にとって脅威と化します。
6月19日、ベナベナの飛行場群を制圧するため、空挺部隊に出動命令が下されました。
第1挺進団は28日に動員完了。挺進第1聯隊は青葉丸と有馬丸に、挺進第2聯隊は焼津丸に乗船して7月6日に宇治を出港。
翌月12日にはパラオ諸島のコロール島へ上陸後、ペリリュー島の松島飛行場へと海路移動します。

ペリリュー島まで進出した第1挺進團でしたが、現地の第18軍は「例え空挺部隊が現地を占拠しても、険しい山脈を踏破してベナベナ・ハーゲンへ地上部隊が進出するのは極めて困難」と判断。
作戦案には消極的でした。
空挺部隊単独での攻撃も検討されますが、米軍の反攻によって計画は延期。そのうちペリリューも敵の空襲に晒されるようになり、ベナベナ降下作戦は9月25日に中止となります。

昭和18年11月19日、第1挺進団は帰国の途につきました。
しかし、日本に上陸する暇もなく南方への再出撃が命じられます。

29日、部隊は門司港到着と共にすぐさま反転。台湾・シンガポールを経由して再びスマトラへと向かいます。
スマトラ島ベラワンへ上陸後、団司令部と飛行隊はメダン、挺進第1聯隊はペマタンシャンタル、挺進第2聯隊はシボロンボロンに展開。ビルマ方面軍と連携しながら、ビルマやアンダマン諸島方面の連合軍反攻に備えました。

昭和19年3月、ビルマ方面軍はインパール作戦を開始。
補給を無視した杜撰な作戦の無惨な結末は御存知のとおりです。この大惨敗において、もはや空挺部隊の出番などありません。
南方作戦を諦めた第1挺進團は、昭和19年8月14日に川南へ帰還しました。

【グライダー部隊創設】

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クレタ島強襲におけるドイツ軍グライダーを報じた記事

下志津は偵察機の学校だというので、別に行きたいとは思わなかったが、滑空飛行第一戦隊というのは聞き馴れない名前なので、何に乗るのか判らず、聊か不安であった。
唯、滑空という名前がついているのだから、もしかしたらグライダーを使っているのかも知れないと思った。
行き先が決まると、戦隊より我々を迎えに来られた松本中尉殿より各人に切符を渡され、中尉の引率のもとに研究所を出て、青梅線の昭和駅に向かって出発した。
駅より中央線に乗り、新宿で山手線に乗り換えて上野駅へ来た。ここで三〇分待って常磐線に乗り、取手で常総鉄道と云う私鉄に乗り換えた。
丁度、小学校の遠足の時に乗った秩父鉄道の様な感じの、極く田舎びた鉄道であった。
目的地の下妻駅まで暇なので、地方人(※「民間人」を意味する軍隊用語)に声を掛けてみた。
「この辺に飛行場があるでしょう。」
「ええ、ありますよ。」
当時はこう云うことは軍事機密なので話してはいけないのであるが、相手が軍人なので教えてくれた。
「どんな飛行機が飛んでいます?」
「そうですね。重爆や軽爆や色々です。」
「グライダーは飛んでいませんか?」
「ええ、飛んでいますよ。大きいのや小さいのが。」
これで判った。どうやらグライダー部隊らしい。
でも待てよ。何故、我々がグライダーに乗らなくてはならないのだろう。既に練習機課程を終了しようとしているのに。
それが、グライダーに逆戻りとは、どうしても理解出来なかった。

佐藤澄久氏「滑空飛行第一戦隊に入る」より

これより先、ラシオ作戦からの帰国後には、戦力の回復と共にパレンバンとラシオで得られた戦訓の評価も進められます。
特に問題視されたのが制空権と火力でした。

理想的なのは、ラシオのように制空権が確保されていた空挺作戦。
しかし、パレンバンのように敵戦闘機が跳梁する中での作戦強行もあり得ます。
たまたま敵機が出払っていたパレンバン降下作戦は、あくまで運が良かっただけ。空の上で本格的な迎撃を受ければ、直掩機だけで挺進飛行隊を護り切れる保証はありません。
敵機との遭遇を避け、奇襲の効果を高める為の手段として夜間挺進・夜間降下訓練が導入されました。

もうひとつの問題が、パレンバンで露呈した貧弱な火力。
輸送機で運んだり、パラシュート降下時に携行できる武器には限界があります。
パレンバンでは輸送機から投下された物資の捜索に貴重な時間を浪費し、更にはジャングルや湿地帯に阻まれて投下コンテナを発見できないケースも多発。携行の拳銃と手榴弾だけで戦う派目になった隊員もいました。
これら諸問題を解決し、重火器や車両まで空輸する方法として発案されたのがグライダーの導入です。

同年には、ドイツが軍用ヘリコプター「Fa223ドラッヘ」を量産化していました。
しかし、当時の日本にヘリコプターを製造する能力は無く(ヘリコプターの情報は知られていましたが)、各国に倣いグライダーを選んだのです。

単なる戦闘的落下傘部隊では任務の達成が容易ではないし、其の労果に相伴わぬものがあり、又戦術的使命も僅少であるから、強大な戦力として一つの戦略的単位をなす部隊を作って、我勢の進展に応ずるを企図した。
その主要問題は滑空部隊の編成であり、重火器や戦車等戦力補給力の増強、挺進戦隊の増援にある。

空挺戦友会資料より

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昭和17年、挺進練習部内に設置された「滑空班」と「重火器班」は、新田原飛行場でグライダーによる空輸作戦の研究を開始。
更に、滑空班を「滑空飛行第1戦隊」に再編し、所沢や西筑波で実機を使った飛行訓練に着手しました。
滑空飛行戦隊は本部および3個中隊で構成され、各中隊が運用するのは曳航機の97式重爆9機と50機弱のク―8滑空機(一部では97式軽爆撃機やク―1滑空機も使用)。
こうして、パラシュート部隊を運ぶ「挺進飛行隊」とグライダー部隊を運ぶ「滑空飛行戦隊」が、それぞれ専門とする作戦に従事可能となりました。

滑空飛行戦隊のパイロットは、曳航機とグライダーの操縦者に分れます。
曳航機のパイロットは空を飛ぶだけ。
しかし、降下兵と共に着陸するグライダー操縦者はそのまま地上戦闘要員へ組み込まれ、搭乗部隊と共に戦う事となっていました。
空輸のみに専念する挺進飛行隊とは異質の部隊だったのです。

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曳航中のドイツ軍Go242グライダー

同時期にはク―8滑空機の配備も始まり、滑空飛行戦隊の戦力は拡大。
更に、グライダーへ搭乗する空挺部隊の編成も開始されました。

昭和18年秋には、滑空機搭乗部隊として挺進第5聯隊(聯隊長伊集院大佐)、挺進戦車隊(隊長 面高少佐)、挺進工兵隊(隊長 福本少佐)、挺進通信隊(隊長 坂上大尉)と、これ等部隊を空輸する滑空飛行戦隊(隊長 北浦中佐、後 古林少佐)が作られた。
その頃はク8と称する滑空機が出来ていた。ク8は搭載量約2トンで、山砲、47粍対戦車砲、高射機関砲、小型自動貨物車等が搭載出来、97式重爆撃機で曳航した。
これ等新設部隊は既設の挺進第3聯隊、第4聯隊、挺進飛行戦隊と共に挺進練習部長の隷下にあった。
当時第1挺進団(第1聯隊、第2聯隊及挺進飛行第1戦隊)は第2次出動中で、尚南方総軍司令官の隷下にあった。

空挺戦友会資料より

これらのうち、挺進第5聯隊だけは宮崎県から茨城県の西筑波飛行場へ移動。
更に一般部隊からの転属者数百名を加え、昭和19年秋には滑空歩兵第1聯隊と第2聯隊、及び対空部隊である挺進機関砲隊へと改編されました。

これら部隊の新設に当っては今迄の志願制を廃して強制的転属制にした。
一部は練習部や挺進聯隊との人員の交流を行ったが、志願訓練の第1~4聯隊に比すれば見劣りするは止むを得ない所であった。但し、他部隊に比すれば遙かに優良部隊であった。
特に将校は中央で意を用いたので現役が多く、約1年の訓練で落下傘部隊に劣らぬ精鋭部隊に育て上がって比島戦場に向ったのである。
滑空機搭乗各部隊の地上部隊としての練成は数ケ月で一応完成。
挺進第5聯隊は滑空飛行戦隊と仝一地に在ったため度々統合訓練を受けたが、其の他の部隊は唐瀬原にあったので将校が体験飛行を行った程度で統合訓練は中々実現しなかった。
各隊は営庭に模擬胴体を作り搭載卸下の訓練を行った。
昭和19年7月朝香宮殿下の特命検閲には在西筑波部隊を川南に招致し、落下傘部隊との統合演習を実施し、待望の滑空機・落下傘統合の訓練を優秀な成績を以て遂行し、空挺戦力の運用に画期的な発展充実を加えたのであった。

空挺戦友会資料より

グライダー空挺部隊は複数編成されたものの、実際にグライダー搭乗訓練をおこなっていたのは西筑波の第5聯隊のみ。
グライダーがいない唐瀬原の部隊は、地上訓練に専念していました。

創設期の滑空飛行戦隊では、立て続けに事故が発生しています。
昭和17年秋、所沢で訓練中の無人グライダーが突風に煽られて墜落。曳航機を操縦していた滑空班の高山中尉も墜落に巻き込まれ、事故状況を報告後に息を引き取りました。
滑空班が滑空飛行戦隊に再編された後、西筑波でも死亡事故が発生しています。
ク―8滑空機が、切離しの手順ミスで曳航用ワイヤーを着けたまま降下を開始。
地表近くで垂れ下がったワイヤーを樹木に引っ掛けてしまい、滑空機は地面に激突しました。この際、搭乗していた滑空飛行戦隊員が殉職したとのことです。

【無線器空輸作戦】

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インド・ビルマ方面のイギリス軍は、ジャングル地帯へのパラシュート投下やグライダーによる物資輸送で日本軍に対抗しました。いっぽうの日本軍は補給を軽視し、インパール作戦を強行。餓死者続出の無惨な敗北を喫します。

帰国した挺進飛行戦隊と入れ替わるように、10月10日には滑空飛行第1戦隊の曳航機3機とグライダー3機が西筑波を飛び立ちます。
これはフィリピンへ無線装置を輸送する任務でした。
浜松で物資を積んだ飛行隊は翌日に新田原へ到着。次の給油地である沖縄には台風が接近中だった為、九州から済州島飛行場へ迂回します。
そこから上海の大場鎮を経由して台湾の嘉義へ着陸しました。

しかし、グライダーを曳航した97式重爆の前線投入は自殺行為。
米軍機が跳梁する南方の空域で、ノロノロ飛行するグライダーの編隊など標的に過ぎません。
実際、飛行中の滑空飛行戦隊がグラマンの編隊と擦れ違うという危機一髪の状況も発生していました。
幸いにも敵機には気付かれませんでしたが、台湾から先の物資輸送任務は97式重爆のみと決定されます。

九月十三日(※10月の誤り)午前八時、済州島飛行場を飛び立ち、上海の大場鎮飛行場を目指す。高度七〇〇〇メートルを飛び続ける。
翼下を見れば、ミルクコーヒーを流したような黄海がゆったりとさざ波に太陽の光を受け、きらきらと輝いている。
外部を監視中、翼下二、三〇〇〇メートルの処を逆方向にグラマンが三機、銀翼をきらつかせて飛び去るのを発見した。
それを見た瞬間、急に胸が早鐘を打つように、どきどきする思いで一杯であった。
もし万一、先に彼らが我が編隊を発見したとすれば、一堪りもなかっただろうと考えると冷汗が出て余計にいらいらする思いであった。
徐々に高度が下がるにつれて、屋根の庇が上に向って跳ね上がった家々が見えて来た。
中国独特の風景に接して中国大陸を実感した。
夕方、大場鎮飛行場に着陸。

粟屋晃氏「無線機輸送作戦」より

10月18日、滑空飛行戦隊の97式重爆はグライダーを残して嘉義を出発。辿り着いたフィリピンでは、恐れていたとおり米軍機の脅威に晒されます。
空襲警報が鳴り響く中、無線機を降ろした滑空飛行戦隊は急いで台湾へと撤退していきました。
しかし、エンジン不調で離陸が遅れた中隊長機はバターン半島上空で消息を絶ちます。
「米軍機に追われて積乱雲へ飛び込んでいった」「炎上する爆撃機が墜ちて行った」という目撃談はあるものの、その最期は判りませんでした。
残存機は20日に台湾へ着陸。沖縄・新田原を経由して23日に西筑波へ帰還しました。

【テ號作戦】
高千穂空挺隊
ブラウエンに高千穂空挺隊を降下させる挺進飛行戦隊。川南空挺慰霊祭にて

空しく帰国した第1挺進團と交代するように、挺進第3聯隊及び第4聯隊で構成される「第2挺進團」は新たな空挺作戦へ投入される事となります。

昭和19年10月20日、米軍がレイテ島に上陸。
10月24日、宮崎県川南で訓練中の挺進第3聯隊に出動命令が下されます。
これが、第2挺進団(秘匿名「高千穂」)による、レイテ島の米軍飛行場群を制圧する「テ号」作戦の始まりでした。

第2挺進團の編成は下記の通り。
第2挺進團(高千穂) 団長 徳永賢治大佐
挺進第3聯隊(香取) 聯隊長 白井恒春少佐
挺進第4聯隊(鹿島) 聯隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島) 戦隊長 新原季人中佐
挺進飛行第2戦隊第1中隊(阿蘇) 中隊長 三浦浩大尉

1.高千穂は意図を秘匿しつつX-1日夕までに「アンヘレス」地区及び「リパ」地区に集中し、X日薄暮、戦爆主力の掩護の下レイテ島に進航、跳下(落下傘降下の事)す。
2.跳下部隊は主力を以て「ブラウエン」北、各一部を以て「ブラウエン」南及「サンパブロ」飛行場に跳下し まず敵飛行機、飛行場施設及資材を破壊焼却したる後「ブラウエン」北飛行場に集結し、尚武の斬込部隊と提携して為し得る限り同飛行場を確保す
3.着陸部隊はタクロバン及ドラッグ飛行場に強行着陸し 敵飛行機、飛行場施設、特に滑走路を破壊し、あるいは障碍を設け、まず夜間戦闘機の活動を封殺したる後、所在航空資材の覆滅に勉む

10月24日、第3聯隊は唐瀬原を出発。
佐世保からルソンへ向け空母隼鷹に乗込みます。
続いて25日には第4聯隊も動員発令を受け、赤城山丸にて出発。
新田原の挺進団司令部と挺進飛行第1戦隊は11月6日に後を追いました。

昭和19年11月6日 
動員下令
14日
新田原離陸、台湾義嘉着陸。第2編隊1番機、単機縦。
全コース殆んど晴、6時間半の長時間1人で操縦でグッタリ。途中排尿で苦労する。
再三、再四飛んだコースなれば悠々たるものあり。
編成=4ケ中隊、1中隊12~13機(この間義嘉市内元料亭を宿舎として整備)
12月1日
先発隊として義嘉離陸。比島アンヘレス(クラーク南方)
師走と言うにこの暑さ。比島へ向う機上にて、操縦交代して手帖を開く。今10時半、雲上を飛ぶ。
台湾の連山左後方に。
今朝4時起床、宿舎發5時、霧発生。未だ十分晴れざる中を離陸。
12月2日
ネグロス島バゴロドに向う。高度2000。以上殆んど雲に蔽われ、我々には良好な飛行し得る(敵機からの攻撃を受けるに)

挺進飛行隊 渡部一郎軍曹の日誌より

高千穂空挺隊は、ブラウエン北(ブリ)、ブラウエン南(バユグ)、ブラウエン中(サンパブロ)、ドラグ、タクロバン各飛行場群への落下傘降下及び輸送機ごとの着陸強襲を行い、現地第16及び第26師団の斬り込み部隊と連携して飛行場を制圧する計画でした。


第1波レイテ降下部隊
ブラウエン北飛行場攻撃隊 
挺進第3聯隊 聯隊長白井恒春少佐 挺進飛行隊17機 パラシュート降下 
ブラウエン南飛行場攻撃隊 
挺進第3聯隊 桂善彦大尉 挺進飛行隊6機 パラシュート降下 南・北合計330名
サンパプロ飛行場攻撃隊  
挺進第4聯隊 龝田大尉 挺進飛行隊3機 パラシュート降下 24名
ドラッグ飛行場攻撃隊  
挺進第3聯隊 竹本中尉 第95戦隊重爆2機 26名
挺進第4聯隊 宮田嘉孝中尉 挺進飛行隊7機 パラシュート降下  50名?
タクロバン飛行場攻撃隊 
挺進第3聯隊 佐藤中尉 第74戦隊重爆2機 強行着陸 13名
挺進第4聯隊 榊原大尉 挺進飛行隊2機 パラシュート降下 13名
第5飛行團 13機が煙幕構成、4機がタクロバンとドラグへの強行着陸に協力。

第2派レイテ降下部隊(予備部隊)
挺進第3聯隊残余 輸送機の航続距離を考え、リパ飛行場にて待機
挺進第4聯隊残余 アンフェレス飛行場にて待機


11月14日、挺進團司令部と第3聯隊が南サンフェルナンドの製糖工場倉庫(宿舎)に到着。
12月3日には第4聯隊も合流しました。

出撃準備中の高千穂空挺隊に、「台湾軍の薫空挺隊がブラウエンへの強行着陸を計った」というニュースが飛び込んできます。
落下傘兵以外の者にブラウエン攻撃の先を越され、高千穂空挺隊は騒然となりました。
生還の見込み薄いタクロバン飛行場への突入が追加されたのは、薫空挺隊への対抗心が一因ともされています。

空挺部隊が露払いをしてから主力部隊が侵攻するという、一応は空挺作戦のセオリーに則ったブラウエン攻撃作戦の中で、タクロバン飛行場攻撃は無謀としか言いようの無い計画でした。
ブラウエンから離れた地点にあるタクロバン飛行場は、例え空挺部隊が制圧に成功したとしても、友軍がそこ迄進出する予定は無かったのです。

急遽追加された「玉砕攻撃」は、挺進飛行隊とは無関係のパイロットたちまで巻き込む結果となりました。
タクロバンおよびドラグ攻撃隊の空輸には、挺進飛行隊に加えて第5飛行団の第74戦隊(海藤稔軍曹以下5名)及び第95戦隊(佐藤嘉男曹長以下5名)から計4機の重爆が参加しています。
第5飛行団は両飛行場への攻撃ルートを熟知していた為、わざわざ選ばれたのかもしれません。

第四航空軍特別秘密命令(十一月廿八日発令)
テ號作戦實施要領に基いて第十表の人員、器材を降下部隊である高千穂部隊の指揮下に入れた。
本機の搭乗区分は各機操縦者一、整備係一、及び二機につき通信者一とし、その任務は高千穂部隊強行着陸要員四十名と一体となり、各機には各々その要員十名を搭乗せしめ、四機の中、二機はタクロバンに他の二機はドウラグ飛行場滑走路上に胴体着陸し、除去を困難にする処置を講じて障碍となし
高千穂部隊の降下間、敵戦斗機の活動を封鎖した後、敵飛行機、飛行場施設等を破壊して所在航空資材を覆滅するにあった。
所要の任務を終了すれば、敵の機動艇を奪い夜暗に乗じて帰来する意図をもってはいたが、實行は不可能に近いとされていた。
軍司令官(※富永恭二司令)は本人員は任務遂行後、少尉に任官せしむといわれていた。

※この約束は、富永司令の逃亡劇もあって有耶無耶にされたそうです。

タクロバン攻撃を続けてきた第5飛行団にとっても、テ號作戦参加者の見送りは辛いものがありました。

テ號作戦に方り、タクロバン飛行場とドウラグ飛行場とに高千穂部隊の強行着陸隊員と共に坐り込み・斬り込み戦斗に参加した佐藤曹長以下十勇士の行動は、特別攻撃隊とどこにも差異はない。
高千穂部隊にはこれに策応すべき霧島飛行部隊(※挺進飛行隊の秘匿名)がついているのであるが、それが俄かに第五飛行団に、天下りの命令では隊員には心の余裕を与える暇もなく、この任務を強要したのである。
私は堪え難い焦慮に襲われながら宿舎に十勇士を招いて会食を共にした。
全員は悠久の大義に生きんとする決意も堅く、頬を輝かせている。
中には金城敏盛という紅顔可憐の年少伍長がいた。父母はこの時、既にサイパンの孤島に国難に殉じている。
その仇討をするんだと嬉々としはしゃいでいた美しい光景はいまだに私の眼底から去ることが出来ない。
私は個室に鍵をかけて慟哭した。
七十四戦隊の五名の伍長は新しい軍装に身を固め、新しい軍曹の肩章を付け、拳銃を欲せず、軍刀を要求して之を
佩ぎ、舎前に整列して見送る戦隊長以下の隊員に挨拶を交わし、胸をふくらませて降下部隊へ出発していった。

第五飛行団長小川小二郎「第五飛行団比島戦斗史」より


12月1日にはフィリピンヘ到着していた挺進飛行戦隊ですが、爆薬や飛行士の空輸を命じられて降下部隊との合流を果せませんでした。
5日には搭乗予定者が丸一日遅刻したりで、更に時間を浪費。
ようやく挺進飛行隊が勢揃いしたのは作戦当日のことでした。

12月5日
夕刻より空中勤務者空輸の為、リパ飛行場に向う。日没に入るも来らず、兵舎にて宿泊する。
12月6日(降下作戦決行日)
早朝重爆2機来る。その人員をアンヘレスに空輸する。台湾から本隊すでに到着。夜の攻撃準備もあり。

挺進飛行隊 渡部一郎軍曹の日記より

12月5日の出撃予定は挺進飛行隊の到着遅延で6日に延期。
しかし、ブラウエン付近に潜む地上部隊へそれを伝える術はありませんでした。
「連日の爆撃で目標周辺の対空砲は損害を受けている」という報告も、全て希望的観測。米軍の強力な防空網は健在でした。
机上の計画と、戦地の現実は悲惨な程に乖離していたのです。

台湾で再編成を終えた挺進飛行戦隊本隊はアンフェレスに到着、5日になって漸く降下部隊と合流しました。
残る機も翌日に到着し、1日遅れでテ號作戦は開始されます。

「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」
南サンフェルナンド倉庫の壁にこう書き残し、昭和19年12月6日16時40分、高千穂空挺隊第一波降下部隊470名は挺進飛行隊36機に分乗してルソン島クラーク飛行場を飛び立ちました。
続いて煙幕構成任務の第5飛行團重爆13機とタクロバン・ドラグ攻撃機4機が離陸。
編隊はバゴロド上空で護衛戦闘機30機と合流し、一路レイテ島を目指します。

待望の時機到来。勇躍進発。御下賜の御酒にて乾杯。目的達成を祈って(搭乗者に遺留品出せの指示あり、印鑑を出した記憶あり。台湾で財布を空にして、「三途の川を渡る渡し銭もない」と笑わせた戦友がおったが、その戦友も戦死)。
第2編成2番機(1238号)操縦。
機関係に泉田君とただ2人(完全武装の落下者10数名搭乗。重く離陸に大へん苦労する)、離陸後第2編隊長機(吉岡准尉)故障か編隊中に組めず。ついに長機離脱。
その為長機となり南下。前上方、後方に戦闘機護衛、正に勇そう。

挺進飛行戦隊 渡部一郎軍曹の日記より

ブラウエン攻撃隊の先頭を行くのは煙幕を展開する第5飛行団第95戦隊の重爆7機、その後を同74戦隊の6機が進み、3分航程遅れて空挺隊員を乗せた霧島隊(挺進飛行隊)が続きました。

日没が迫り、護衛戦闘機は基地へ帰還。中古機を寄せ集めた編隊は、一路レイテ島を目指します。
18時過ぎにいったんレイテ島沿岸を通過した編隊は、スリガオ海峡上空でレイテへ向け反転。
二手に分かれてブラウエンへの突入を開始しました。
この時、日本機大編隊襲来の報により、米軍は迎撃態勢を整えつつあったのです。

18時30分、ブラウエン上空に日本軍の大編隊が出現しました。
先行の第5飛行団13機は攻撃高度3000メートル、速度270㎞/hで目標上空へ侵入。
煙幕展開部隊は大した抵抗も受けず、飛行場風上地点への煙幕弾投下に成功しました。
続いて300メートルまで高度を下げた挺進飛行隊が目標上空へ到達。
しかし、待ち構えていた米軍は地上及び艦艇群からの猛烈な対空砲火で迎え撃ちました。
せっかくの煙幕も役には立たず、集中射撃を浴びた挺進飛行隊は次々と撃墜されていきます。

レイテ島西側を飛び南端より迂回進入、南端岬旋回中、早や対空火器の射撃を浴びる。曳光弾眼前を飛ぶ。
海岸線に沿って目的地に向かって北方。湾内の敵艦も我等を発見。くれゆく海上より火を吐く。
進攻線に沿って炸裂する黒煙をみる。唯一心に正しい編隊を保つ。間もなく地上よりの対空火器そう烈、前後左右より飛来、曳光弾の光美しい位。又その為僚我よく見える。
その中を飛ぶ飛ぶ。敵弾何ものぞ。

挺進飛行第1戦隊 渡部一郎軍曹の日記より

ブラウエンへ向かう編隊からスリガオ海峡上空で別れ、レイテ湾を目指す輸送機の一群がありました。
タクロバン飛行場へ向かう第95戦隊2機とドラグ飛行場へ向かう第74戦隊2機、挺進飛行隊9機の計13機です。
ブラウエン攻撃隊パイロットが最後に見たのは、米艦隊からの猛射に晒されながら飛んでゆく13機の姿。
彼等は1機も戻ってきませんでした。

タクロバン攻撃隊の大部分は突入前にレイテ湾上空で撃墜されます。1機のみが目標に到達し、駐機中の米軍機5機を巻き込んで墜落炎上。
ドラグ攻撃隊も、目標到達前に全機撃墜されたと推定されています。
生き残ったのは、撃墜されて海上漂流中に捕虜となったパイロット1名と空挺隊員3名のみ。タクロバンの捕虜収容所へ送られた彼等は、攻撃目標が無傷なのを知って落胆します。
米軍無線を傍受していた日本側も、「タクロバン方面の敵に多少の動揺があったらしい」ことしか聴き取れませんでした。

いっぽう、ブラウエン北・南及びサンパブロ攻撃隊は、18時50分に高度300メートルから一斉に降下を開始しました。

全員降下まではどうしても被弾なきよう祈る。やがて長機からの第一降下を合図に続々と降下。1人1人の降下が操縦桿にひびく。地上まで無事であれ。
降下後の対空砲愈々凄烈となる。我が機にも被弾数發。
その度毎に、発動機か、操縦系統でないか、瞬時に点検。第1編隊の三番機(新山准尉)に次いで2番機(山下中尉)も離脱する。被弾らし。無事不時着水を祈って、戦場を脱す。
完全に戦場を脱して水筒の水、存分に飲み機関の泉田君と目的達成を喜びあう。
リパ飛行場に着陸。中隊長(河合大尉)に状況報告。
帰った戦友とそのそう烈さを語り合う。
ひと休み。
再度明早朝攻撃の命出る。

渡部一郎軍曹

白井隊は、夜通しかがり火を焚いて第16師団の突入と後続部隊の到着を待ちました。
しかし、第一波降下隊の輸送機39機のうち、帰還できたのは僅か17機。
挺進飛行隊はルソン島のクラーク飛行場、第5飛行団の第74戦隊は同じくデルカルメン飛行場へ、第95戦隊はレイテ島上空を旋回してミンダナオ島のカガヤンへ着陸します。

帰還機はいずれも被弾損傷機多数であり、後続降下部隊の出撃は不可能でした。
同日23時、何とか応急修理を済ませた挺進飛行隊の4機と支援の重爆2機は、第2次降下部隊を載せてリパを飛び立ちます。
しかし、村川機が離陸直後失速して墜落。他機も雨雲に阻まれて引き返しました。

暗夜の中を離陸、払暁を期すも天候不良の為引返すの止むなく、アンヘレスに着陸。
未だ帰還せざるもの3機―山下機、吉岡機、新山機―。
村川機(永井准尉、山崎曹長)第2撃離陸直後、墜落炎上するを編隊構成中に見る。

渡部一郎軍曹

レイテ上空に達した1機からは空挺隊員が制止を振り切って降下、そのまま全員が行方不明に。
続いて修理を終えた4機も降下チームを載せて離陸していますが、こちらも悪天候で引き返す途中に鈴木機以外の3機が墜落。
遂に、第2波の降下は中止となりました。

高千穂空挺隊の支援にあたった第5飛行團の13機も、大きな損害を蒙ります。
74戦隊の中田編隊3機は花岡中尉からの「天候不良の為不時着す」の連絡を最後にマニラ湾へ不時着し、生存者は井森・須藤軍曹の2名のみ。
内田編隊の3機は翌7日深夜2時30分に空挺部隊の支援爆撃へ再出撃するも、天候不良により現在位置をロスト。
マニラやクラークの方向探知機へ呼びかけるも通信状態が悪く、「ビラリン島に不時着す」と発信して消息を絶ちました。
ビラリン島へ降りた本間准尉機はすぐ救出され、ミンドロ島へ不時着した7名中内田大尉以下4名も12月30日に奇跡の生還を遂げます。
ただ、足を怪我してボートでの脱出を選んだ小松原曹長はそのまま行方不明に。市川・中山の両曹長はゲリラとの交戦で命を落としました。

95戦隊もデルモンテから空挺部隊の支援爆撃へ再出撃。山本大尉率いる4機はタクロバン飛行場を爆撃して帰還します。
マバラカットから再出撃した丸山大尉率いる3機は、うち1機が離陸直後に墜落して搭載爆弾が誘爆。
搭乗員の大部分は脱出したものの、失神して機内にとり残された神宮秀信軍曹が爆死します。
丸山大尉らも天候不良により攻撃を中止して引返しました。
第5飛行團は強行着陸機4機と支援の重爆6機を失い、25名の飛行士が戦死または行方不明となっています。

【オルモック降下作戦】
落下傘
演習中の挺進飛行戦隊 川南町空挺慰霊祭にて

ブラウエン降下作戦の翌7日、米軍はレイテ島西のオルモック湾から上陸を開始しました。
これによりテ號作戦は中断となり、出撃待機中の高千穂第三次降下部隊はこの防御支援に回されます。
しかし前日の作戦で大損害を蒙った為、飛行機が足りません。斉田少佐率いる挺進第4聯隊481名は12月8~14日にかけて6回に分かれパレンシアへ降下しました。

12月8日 
オルモック方面に敵上陸せる為に増兵を要し、薄暮を以て攻撃に出發。成功帰還する。
途中天候不良、再三雲中に入り長機を見失う。疲労のためか。
搭乗者 竹内曹長、渡部、江副軍曹(機関)
12月9日
次の攻撃は明夜明けを期して、ゆっくりと休息する。
12月10日
1320号に搭乗、地上滑走にて車輪を側溝に落とし離陸遅れる。単機にて離陸、心配し乍ら本隊を追う。幸いレイテ島北方にて発見、編隊に入り、18時過攻撃に成功。
レイテ島上空に敵機あり。そろそろ敵機も活発に動いているらし。
操縦 渡部、黒石伍長、機関 福森准尉
12月11日
第1中隊應援、2番機操縦、相当に天候悪し。
暮れゆくレイテ島に侵入、オルモックに降下成功。ネグロス島シライに着陸、一泊する。
12月12日
早朝シライ飛行場離陸し、アンヘレスに帰還する。ひと休み後、再度第1中隊機にて出勤。
14時半離陸、もうれつな低空にてレイテに進入。島上空に敵機を見る。発見されれば強行着陸と決するも発見されず。無事落下完了。
海上すれすれに飛び帰還。
操縦 渡部、機関 鬼頭曹長
中隊長機未だ帰らず。
12月13日
3時30分離陸、処々薄き雲あり。5時少し前利鎌の如き月出る。レイテ島上層雲なし、快晴、低空にて進入、山あいに霧あり、オルモックも。
その上から降下。白雲上に出て帰還。昨日出発したる中隊長機未だ還らず。
宿舎にて、寝不足の筈なれど、午前も中食後も中々寝つかれず、ごろりとなって、身体も相当に疲労して来たようだ。
今朝の2時過ぎの起床つらし。又、体も何となくだるし。色々と給養のことには心がけているんだが、衛生兵を呼んで栄養剤の注射を行う。
又明朝から働こう、働こう。体どこまでつづくか。
12月14日
昨日同様2時起床して朝食、飛行場へ。3時半離陸し雲上を飛びレイテ島オルモック飛行場を攻撃。
昨日重爆が敵の夜間戦闘機に再度出合ったの話あり。充分警戒して飛ぶ。
上空薄明るく星輝いて美しい。夜明けの空も、ここでは実に不気味だ。
変った星野きらめきにも注意せねばならぬ。2つ並んだ星にもひやりさせられる。帰りは低空、雲下を飛ぶ。
ルソン島見え始め、操縦交代し副席に居れば、疲労のためか、ついトロリ。
マニラ市を斜前方に見る頃、市上空に敵戦闘機群を発見。「これは!!」と想い超低空に高度をさげて山の蔭を利用して飛ぶ。編隊を分解して単縦順に。アンヘレス着陸を避けて、リンガイン飛行場に着陸。ひと休みした頃空襲され乗っていた飛行機再三の銃撃により炎上する。
スマトラのサバン島での空襲、台湾義嘉にての空襲、敵も中々やってくれる。
操縦桿に掛けておいた御守り、我が身に代ってか……。
中食して宿舎にて休息、海岸ゆえ波の音も敵機の爆音に聞える始末。夕刻まで7、8回空襲あり。
18時過に残った1機に搭乗して離陸。この飛行機も合計30数發の弾痕あり。飛行中クラーク地域にも未だ空襲。敵執拗にねばっている。
発見されたら最後だと思う。超低空にて飛びようよう基地アンヘレスに着陸する。
宿舎にも数發の弾痕あり。掛けていた両外波の頚根にも手ぬぐいにも被弾している有様。

挺進飛行隊 渡部軍曹の日記より

オルモックは味方勢力圏への降下だったものの、米軍機との遭遇は避けられませんでした。
12日には降下を終えた輸送機4機が敵機の攻撃を受け、全機撃墜されています。
輸送機の不足により、オルモック降下作戦も14日で打ち切られました。

【バゴロド空輸作戦】


レイテの敗北が決定的となった頃、もうひとつの空挺作戦がおこなわれました。
13日にネグロス島近海に敵船団が出現したため、第4航空軍は警備の手薄なバゴロド地区へ高千穂隊残余500名の空輸を命じたのです(こちらは降下作戦ではありませんでした)。
挺進飛行戦隊は残存機体をフル活用して高千穂空挺隊を空輸しました。
17日に5機、18日に3機で本村大尉率いる挺進第3聯隊がネグロス島シライ飛行場へ向かいます。しかし、途中で2機が撃墜された為に僅か2回でバゴロド空輸作戦も中止されました。

12月16日
快晴、終日空襲さる。
疲労つのったか、左胸部の肋骨へんが痛む。神経痛か。
バコロド地区へ行けの命あるも、途中天候不良とのことで中止さる。
灯を消し早く休む。
12月17日 曇
昨夜より敵機の来襲なし。時々自動車、友軍機の爆音に驚かされる。朝から防空ごうつくり。そよ風吹き涼し。
雲出で小雨降るも程なく止む。
バコロド地区への空輸、小野大尉副席の長機操縦し、1中隊機に乗るも、途中右発動機息をつき不調の為引きかへす。
夕刻台湾からの補給機が大群雲間よりあらわる。心強し。
12月18日
MC輸送機5機、97式重爆撃機1機を以て、ルソン島アンヘレス飛行場離陸。18時40分ネグロス島シライ飛行場に着陸。途中、西沢中尉搭乗機2帰、ビサヤン海に不時着した模様なるも詳細不明。
飛行場着陸は本村大尉機及堺中尉機のみ(挺進飛行隊記録)

午前中宿舎にてゆっくりと休務。何処へ移動するのか〇砲隊の自動車が列を成して通る。昼食後飛行場に出る。
1中隊機にてバコロド地区に向う。海岸線に沿って低空飛行、暗れゆくネグロス島に着く。
丁度シライ飛行場附近にて警報入り、びっくり。急旋回、高度をさげる。狭い飛行場乍らもきれいに着陸。
宿舎への自動車の便悪く、ついに飛行機の中に寝る。
12月19日
MC輸送機3機を以て、挺3本部及重火器中隊の一部搭乗、アンヘレス飛行場発進、19時飛行場着陸、即日仝島バゴロード市河野兵団(102旅団)の指揮下に入り、仝隷下部隊山口部隊に配属せられる(挺進飛行隊記録)
3時起床、少しも熟睡できず。天候あまり良好ならず。帰りは1機となる。
昨日3番機、リパに不時着。今朝は2番機発動機不調のため離陸不能。
離陸後間もなく雲の中に入る。高度3千近くまで。ここへ来ても未だ暗し。
夜間灯に依って着陸。ひる飯も忘れて寝る。小野大尉の指揮で、1中隊機に搭乗、リパへ飛行機受領に行く命あり、準備したるところリパ上空に敵戦闘機あるの報で中止。
夜そよ風吹き氣持ち良し。加給品の葡萄酒飲む。みかんの缶詰も又うまし。

挺進飛行隊 渡部軍曹の日記より

この作戦でネグロス島へ空輸できたのは本村大尉以下60名のみ。
後続部隊の投入中止により、本村隊は置き去り同然でバゴロド防衛にあたりました。

【第1挺進集団の創設】

kawaminami
西筑波飛行場にて、滑空飛行戦隊のクー8グライダーで地上展開する第1挺進機関砲隊。
同部隊はルソンの戦いで全滅に近い損害を蒙ります。川南空挺慰霊祭にて

ボクは空をとんだ
バスのようなグライダァでとんだ
ボクのからだが空をとんだ
枯草や鶏小屋や半鐘がちいさくちいさく見える高いところをとんだ
川や林や畑の上をとんだ
あの白い烟は軽便だ
ボクは空をとんだ
思いがけないところに、富士山が現れた。グッと廻ったかと思ったら、霧の中から、筑波山が湧いてきた。
飛行機のロープを切った。高度八百米。
夜、演芸会。演芸会にはいつも出る。わい談長講一席。酒が上って、いささか呑んだので、きげんもよい。

挺進第5聯隊 竹内浩三兵長「筑波日記」より

米軍が上陸したフィリピンには、陸軍空挺部隊が続々と投入されました。
高千穂空挺隊に続いて出撃したのは、「第1挺進集団」。
こちらは落下傘降下部隊ではなく、挺進第5聯隊を茨城県の西筑波飛行場で再編成した滑空歩兵部隊を中核としていました。

昭和19年11月、陸軍落下傘部隊を育て上げた挺進練習部は解散。
11月21日、第1挺進團、第2挺進團、挺進飛行団、滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊、挺進戦車隊を傘下に置く、「第1挺進集団」へ再編されます。

しかし、日本初のグライダー空挺部隊はその特殊能力を発揮することなく消耗していきました。

第2挺進團の高千穂空挺隊に続き、挺進第1集団の各部隊もフィリピンへ向けて出撃します。
昭和19年11月27日、第1挺進機関砲隊、滑空歩兵第1聯隊、第2聯隊、滑空飛行第1戦隊が筑波で
第1挺進工兵隊、第1挺進通信隊、第1挺進飛行團司令部、第1挺進飛行團通信隊が川南で動員編成を開始。
これらの司令部として第1挺進集団は設置され、集団長には塚田理喜智少将が着任しました。

全部隊の動員が完結した翌日のこと。
12月6日、挺進集団司令部に「高千穂空挺隊がレイテへ降下した」とのニュースが飛び込んできました。
7日にはオルモックへの米軍上陸が伝えられ、塚田中将も比島作戦への参加を急ぎます。
しかし輸送機やグライダーの不足により、重武装の挺進戦車隊は内地への残留が決定。第1挺進団も国内で戦力温存となります。
既にフィリピンで戦っている第2挺進團の後を追って、第1挺進集団は門司港と宇治港へ集結しました。

第1挺進飛行團司令部要員は新田原から空路で移動しましたが、滑空飛行第1戦隊の先発チームは空母雲龍に搭乗。
12月17日、ルソン島を目指し宇治を出港します。

しかし、台湾沖を航行中の19日16時半、米潜水艦レッドフィッシュから放たれた魚雷が雲龍に命中。
積載していた特攻兵器の誘爆によって雲龍は沈没し、空挺隊員らは冬の海へと投げ出されます。救助された滑空飛行第1戦隊パイロットは鄭中尉ら僅か3名のみ。残りの飛行士は海へと沈みました。
台湾で生存者と合流した後続チームは、損害の大きさに作戦継続を断念。そのまま西筑波へUターンしていきました。

せっかく育て上げた滑空歩兵も、パイロットとグライダー無しに空挺作戦は出来ません。
日本陸軍の誇るグライダー空挺部隊は、地上部隊としてレイテ島防衛にあたりました。

【アスリート飛行場突入命令】
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義烈空挺隊は熊本県の健軍飛行場から出撃しました。
残念ながら、健軍飛行場を偲ばせる遺構は残っていません。最近まで保存されていた無蓋掩体壕も2012年に撤去され、現在は更地状態。
史跡が消えた空地には、「ここは史跡保護のため、関係者以外の立入を禁止します」の看板だけが残っています。

昭和19年末、米軍による本土空襲は激しさを増していました。
B29爆撃機の出撃拠点となったアスリート飛行場を叩くため、軍部はサイパンへの空挺作戦を計画します。

昭和19年11月27日。
教導航空司令官から宮崎県川南の第1挺進集団司令部に対し「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されました。
第2挺進団がフィリピン出撃中のため、サイパン特攻部隊として選ばれたのが第1挺進団挺進第1聯隊第4中隊。

第4中隊の奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
12月5日に川南を発ち、8日には埼玉県豊岡へ到着しました。
挺進飛行隊がフィリピンへ展開中のため、奥山隊の空輸は第3独立飛行隊が担当となります。
10日、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流。
総勢168名となった部隊は、12月17日に「義烈空挺隊」と命名されました。

もともと、第3独立飛行隊はサイパン爆撃のため編成された専門部隊でした。
ただし、経験不足の若手飛行士が多い上、燃料不足で充分な訓練もままならない状態。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。

―ただ飛行機はなんだかずいぶんボロボロだったようですね。
和田
あれはですね、だいたい浜松に置いときました飛行機で、それで雨ざらにになっとったわけなんです。それでエンジンだけを取りかえまして、どうせ沖縄とかサイパンへいけばですね、帰らない飛行だと。
だからりっぱな飛行機に載って行くのは、もったいないと。一機でもですね、戦力になるようなものは、置いとかなきゃあならん、ということで、ボロ飛行機といわれると語弊があるんですけども、そういう飛行機を用いたわけなんですよ。
三國一朗「証言 私の昭和史」より 和田伍朗氏の証言

このような状態で浜松飛行場を飛び立ってから1200キロ先の硫黄島(秘匿名つばめ)で途中給油し、そこから先の1200キロは海面すれすれの夜間低空飛行でサイパン(秘匿名とび)を目指し、レーダーと対空砲火を潜り抜けて深夜の敵飛行場へ着陸するのです。

第3独立飛行隊のパイロットたちは、サイパン着陸後に奥山隊と行動を共にする予定でした。
しかし、飛行士たちにとって地上で戦うなど納得できる訳がありません。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で「B29を奪って帰還する」という案も出されたそうです。
荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。

初顔合わせを終えた三者は、出撃に向けた準備を開始します。
しかし、義烈空挺隊の編成から作戦予定日までの時間はあまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。

結局、技量不足を理由にクリスマスの出撃は延期となり、豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。
1月10日の再演習でも飛行隊の技倆不足は改善されておらず、途中給油地の硫黄島も状況が逼迫。
13日、浜松へ移動した奥山隊は諏訪部隊と合流したものの、27日になってサイパン特攻は中止となりました。

義烈空挺隊に与えられた新たな攻撃目標は、米軍に占拠された硫黄島の千鳥飛行場。
故障したB29の緊急着陸先となっていた硫黄島へ突入し、使用不能にしようというものでした。
しかし、諏訪部編隊長は“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていました。

硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。


3月12日の夜、奥山隊は土浦に到着。
11日に西筑波飛行場へ集結していた諏訪部隊と合流し、連合訓練を経て出撃に備えました。
しかし、日本軍守備隊玉砕により硫黄島突入作戦も中止となります。

出撃延期が繰り返される中、飛行士たちの心境はどのようなものだったのか。
義烈空挺隊パイロット、長谷川道明曹長の家族の証言があります。

―結婚の式をおあげになって、すぐ飛びたっていらしたわけなんですか。
長谷川
いいえ。その当時はまだ主人は立川の輸送隊におりまして、それが輸送隊は第一、第二、第三飛行隊と分れていまして、で、第二飛行隊の方へ所属していまして、群馬県の太田の飛行場の方へ配属されました。
―いま和田さんからも、小柳さんからも義烈空挺隊隊員は悲壮な任務を受けて、しかも毎日訓練を激しくやっていながら、非常に表情は明るかったということを伺ったんですが、奥さまがお感じになったところでは、いかがでしたか。
長谷川
私は最後、浜松の基地で別れたんですけれども、ちょうど一か月、操縦士にだけ妻帯が許されまして、それで私、一緒にずっと暮らしておりましたんですけれども、毎日毎日出撃を待っておりまして、毎日が別れでございました。
朝出るときには、ご無事を祈りますとお別れして、夕方また今日も出撃できなかったって残念な顔をして帰ってくるような始末で、それがずうっと連続で、ちょうど一か月になりましたから、最後のほんとうのお別れのときにも、また戻ってくるんじゃあないかなあっていう気持ちで……。
で、主人も義烈作戦部隊ですから、絶対に妻にも親にも、自分の出撃の日すら申しませんし……。
―じゃあ、どういう作戦かということも、もちろん知っていらっしゃらなかった……。
長谷川
はい。詳しくは全然聞いておりません。

三國一朗「証言 私の昭和史」より 

続いて命じられたのは、沖縄への突入作戦。
米軍に奪取された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場を義烈空挺隊が制圧し、米軍の迎撃機を足止めしている間に特攻機が米艦隊へ突入する作戦でした。

5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入ります。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着。
義烈空挺隊は、出撃までの僅かな日々を合同訓練に費やします。この頃になると、猛訓練の成果とパイロットの入れ替えによって諏訪部隊の技量も大幅に向上していました。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部編隊長はそれを断ったと伝えられています。

義烈空挺隊が健軍へ移動して2週間後。
出撃日の5月23日がやって来ます。しかし、先行の爆撃隊からは「現地天候不良」の報告が入り、海軍も総攻撃を一日繰り延べにすると決定。
健軍飛行場で出撃準備を整えていた義烈空挺隊は、兵舎へと引き上げました。

翌5月24日。
先行の爆撃隊より「現地天候良好」の報告が入り、出撃は決定されました。
義烈空挺隊168名は再び健軍飛行場に集結します。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は次々と飛び立って行きました。

18時50分。
奥山隊長の号令の下、義烈空挺隊は12機の97式重爆に分乗して健軍飛行場を離陸していきました。
しかし9番機はエンジンが不調で、渡部大尉らは予備機に乗り換えて出撃。
10番機も出力が足りず、熊倉隊は渡部隊が乗り捨てていった機体に乗込みます。
整備員は離陸を反対しましたが、熊倉隊はエンジン不調機で1時間遅れて飛び立ちました。

やがて基地をゆるがす轟々たる発動機の爆音砂塵が飛行場に渦巻いた。一番機に登場した奥山隊長が天蓋をあけて手を振つてゐる。ロイド眼鏡の底に光る眼を細くして、微笑んでゐるやうだ。
輸送隊長諏訪部忠一大尉も天蓋をあけて、日の丸を大きく振つてゐる。
基地界隈の古老から贈られたといふ両隊長の腰の短刀が、天空に浮き出てくつきり見える。二番機、三番機、四番機……。
全機が列線上に並んだと見るや滑走、離陸。ついで起る萬歳の怒涛、滑走路を挟んで並んだ部隊長も将校も整備員も、日の丸を振り、手を振つてこの壮途を見送る中を、全機は翼を接して離陸し、見事な編隊を沖縄の空目指して没して行つた。

「燦たり義烈空挺部隊」より 昭和20年

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飛行訓練中の諏訪部隊機

12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に5、8、10、11番機がエンジン不調や航法ミスにより脱落。
これら4機は九州へ反転しました。

渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。
この10番機は何とか九州へ辿り着き、運よく隅の庄飛行場附近へ不時着しました(パイロット1名が重傷)。
その他の3機は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着します。

八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職しています。

義号部隊を送り出した健軍基地では、突入の報告を待ち続けました。
しかし、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線は一向に入りません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今到着」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。

同時刻、飛行第60戦隊の杉森大尉機(四式重爆・乗員7名)が伊江島方向から沖縄上空へ侵入。
残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下しました。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。

22時25分、着陸体勢に入った6機の赤信号を戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。

この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。

日本側は「北飛行場と中飛行場へ突入した義烈空挺隊は、引続き奮戦中」と報道。
しかし、米軍側の記録では「突入機の大部分が撃墜され、北飛行場へ1機のみが着陸成功」とされています。
この1機のために多数の米軍機が破壊され、北飛行場は大混乱に陥りました。しかし、米軍と交戦した義烈空挺隊員はその夜のうちに全滅。
本来の目的であった航空特攻も、梅雨時の悪天候に阻まれて戦果を挙げるには至りませんでした。
沖縄へ突入した義烈空挺隊、8機112名の中に生還者はいません。

そして、作戦終了後にも7名の義烈空挺隊員が戦死しています。
エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機。その搭乗員に沖縄への物資投下任務が命じられたのは、不時着から4日後のことでした。

山本金保曹長ら7名の不時着機パイロット達は、5月28日と6月3日に沖縄へ向け飛び立ちます。
そして、二度と還ってきませんでした。



義烈空挺隊の突入後、川南に残されたのは挺進第2聯隊と挺進整備隊のみとなりました。
フィリピンへ赴いた挺進飛行戦隊のうち、新田原に戻ってきたのは僅か2機のみ。
挺進飛行戦隊は北朝鮮の連浦飛行場へと移動。西筑波で空襲に晒されていた滑空飛行戦隊も同じく北朝鮮へ向かい、戦力再建へ取組みます。

昭和20年2月17日未明、在比島の戦友と別れて台湾に飛び、嘉義に於て前任者新原戦隊長よりバトンを受け継いだ時は、飛行機僅かに3機、レイテ作戦に続く比島台湾南の輸送業務に流石偉容を誇った航空機も惨憺たる有様。
而も嘉義を発って基地新田原に降り立った時は、途中基隆上空で1機を失った為、遂に2機人員18名という淋しさ。
其の後海路搬還せるもの百余名を合しても僅かに百20名足らず。
是が挺飛1戦の状態で、本来の作戦任務に就くことは到底不可能の為体。
そこで、先ず人員器材の整備、教育訓練をやらねばならず、といって部隊は此の有様。而も敵機は頻々と新田原付近に出没、遂に兵営は空襲の犠牲となって炎上焼失せる為、佐土原の小学校舎に居たり、飛行場裏の谷間に穴居したり……。毎日空を眺めては複雑極まる気持で過ごすこと月余。
かかる状態では到底態勢の立ち直りは不可能なので、当時比較的平穏であった朝鮮連浦に移動して、そこで専心教育訓練することになり、4月25日新田原出發、連浦飛行場に転進す。
次で5月中旬、挺進2戦を併せ僅かの飛行機と少数の基幹人員を日夜連続訓練に励む。
この間、MC機の製造会社工場の移転等の為、月産零の時もあり、1機出来れば直ちに之が受領の為人員を派遣するも、1週間乃至10日余も整備して初めて跳べるという代物。
一方各地よりMCというMCを片っ端よりかき集めて漸く40機を整へて戦隊らしい態勢が出来上り、訓練亦漸く軌道に乗り、往年の挺飛戦の面目に近づく。
この頃、南方方面への輸送の為、航空輸送部に飛行機材20機を貸与せよとの命あり、1時訓練に支障を来したが、然し将兵一同の涙ぐましい努力によって訓練整備共に進捗し、何時作戦任務を受くるも直ちに応じ得る状態になる。

空挺同志会資料より

第1挺進團では空挺作戦能力を維持するため、挺進飛行戦隊や滑空飛行戦隊の戦力回復に期待していました。但し、川南防衛部隊への航空機配備は不可能。
乏しい戦力の中でたてられた、唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。

第一挺進団唐瀬原飛行場防御計画

一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため、所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す

三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長 挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、対空挺部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊
4、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。


【剣作戦始動】

千葉県横芝で待機を続けていた挺進第1聯隊に、再びサイパン特攻が命じられたのは初夏を迎えた頃のこと。
これが、陸軍落下傘部隊最後となる空挺作戦のはじまりでした。

剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。

海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」 
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり

「烈作戦」 
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり(「特攻」より)」


剣作戦参加部隊は、義烈空挺隊と同じく敵飛行場への着陸強襲を計画しています。
しかし、実戦経験のある海軍横須賀鎮守府特別陸戦隊はサイパン陥落時に全滅。
この特攻作戦に際し、海軍空挺部隊は地上戦闘の指導を陸軍空挺部隊に要請しました。

陸軍空挺部隊にはB29の破壊訓練を積んだ義烈空挺隊員の不時着組が吸収されていたので「元義烈空挺隊員の中には、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった者もいた」との証言もあります。
こうして、海軍の空挺作戦は陸軍空挺部隊との協同作戦へと変更されました。

義烈空挺隊が果たせなかったサイパン特攻は、こうして再び挺進第1聯隊に命じられたのです。
サイパン特攻を命じられた山田聯隊長は、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」を編成しました。

海軍攻撃部隊 
指揮官 平田海軍少佐
グァム島攻撃隊 平田海軍少佐以下300名

陸軍攻撃部隊
指揮官 園田陸軍大尉
サイパン・アスリート飛行場攻撃部隊 大屋稔大尉以下、第2中隊の136名
テニアン飛行場攻撃部隊 山本章大尉以下、第1中隊の150名


園田隊305名は、空襲を避けるため千歳に移動して訓練を開始。
陸軍園田隊が参加後、作戦内容は下記のように変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。

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パラシュート降下演習にて、九六式輸送機に搭乗する海軍落下傘部隊。
剣作戦はこのような落下傘降下ではなく、着陸強襲となる計画でした。

【烈号作戦】
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ドイツ軍は超大型グライダーMe 321ギガントを運用しており、更に自力飛行が可能なMe 323へ発展させました。
日本軍も大型グライダー「ク‐7」を開発していましたが、終戦までに試作機2機が完成したのみ。挺進戦車隊は軽車両で戦うしかありませんでした。

剣作戦とは別に、挺進第2聯隊・挺進戦車隊・滑空飛行戦隊の混成48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」も計画されていました。

挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
6月中旬頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
歩兵中隊
でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。

剣号作戦と同時に準備を命ぜられたのは烈号作戦である。それは挺進戦車隊待望の滑空機による37粍砲装備の軽装甲車及12糎迫撃砲を以てする沖縄北飛行場への急襲作戦である。
挺進戦車隊は田中賢一少佐を隊長とする滑空機による挺進部隊である。
西筑波に於ける古林少佐等の懸命の努力にも拘らず、実働滑空機の整備が遅々として進まず、その間に次々と落下傘部隊、そして滑空諸部隊を南方に送りながら、一日千秋で時機到来を待ったのである。

滑空飛行戦隊は7月20日迄に滑空機20機、曳航機20機の到達目標であった。
ともすると焦燥感の若者を指導する田中少佐の苦心も並大抵ではなかった。
挺進後の歩戦一体を強調し、歩兵中隊の充実を期したのも隊長自ら指導する幹部の落下傘訓練の実施などは、その鎮撫策の一つであった。


烈號部隊を空輸する滑空飛行戦隊は、西筑波空襲を避けて北朝鮮の宣徳飛行場へ退避中。
その一部から沖縄特攻に選ばれたパイロットは、福生飛行場(現在の在日米軍横田基地)へ再移動しました。
しかしグライダーの配備が遅れた為、烈號作戦の決行予定は8月20日頃となります。

この部隊を代表して第1陣として烈号作戦要員に選ばれたのが、広田敏夫大尉以下20名であり、東京近郊福生飛行場に転進したのが8月1日であった。
そして義烈空挺隊を偲びながら、沖縄北飛行場への急襲を準備したのであった。


広田敏夫大尉ら烈号部隊員は、曳航機およびクー8滑空機20機編隊で沖縄へ夜間着陸。そこから読谷飛行場へ突入し、機関砲と迫撃砲を搭載した軽装甲車で米軍機を破壊して回る訓練を行います。
しかし、訓練開始直後にとんでもないトラブルが発生しました。

沖縄特攻を真近かにして、敵飛行場に滑空機で強行着陸をして、敵機爆砕のために走り廻る四輪駆動車の操縦訓練や二十ミリ機関砲の射撃訓練をしていた。
機関砲の扱いにも習熟し、夢中になって標的に向かって射撃していたところ、突然砲声が鳴り止んだ。
はて故障かと砲身を見ると何と砲身の先端が二十糎程真っ赤になって垂れ下がっているではないか。それは飛行機に搭載して高高度で射撃する云わば空冷の機関砲を無謀にも炎暑の地上で連続発射したのが原因であった。
この報告を受けた部隊幹部は愕然とした。予定していた沖縄の敵飛行場では全く役に立たないということだからである。

滑空飛行第1戦隊 石津正昌夫少尉 「国破山河在」より

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月明かりを頼りに太平洋の真ん中へ夜間飛行で辿り着き、厳重な防空網を突破し、敵の飛行場へ果して何機が着陸できたのか。
義烈空挺隊の諏訪部編隊長がサイパン出撃計画で漏らしたように「上手くいって半分、下手するとゼロ」だったかもしれません。
沖縄へのグライダー攻撃も、義烈空挺隊と同じ結果に終わったことでしょう。

7月14日に予定されていたサイパン特攻作戦は、必死で集めた輸送機を空襲で失って延期となります。

かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である。
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より

しかし、剣部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

【飛行隊の最期】

日本が敗北した日のこと。
川南の挺進團司令部では「重大放送あり」との連絡を受けて挺進神社前に拡声器3台を設置、玉音放送に備えました。
しかし、電波妨害のせいで受信状態が悪かった為に放送内容は殆んど聴き取れず、中村挺進団長も「ソ連の参戦があっても我に神州不滅の信念さえあれば、そしてこの挺進神社の英霊に続かんとする意志変らざる限り必ず勝つ!」と訓示してその場は解散となります。

玉音放送の真意を知った各部隊では、大混乱が始まります。
徹底抗戦を叫ぶ者、責任を取って自決を図る者、軍需物資を奪って姿を消す者、故郷を目指す者、ただ呆然と立ちすくむ者。
滑空挺進隊の山本春一少佐から停戦受諾との電話連絡を受けた中村団長の元に、「第1挺進団長は速やかに総軍司令部に出頭すべし」との航空総軍指令が届いたのは22時過ぎのこと。
唐瀬原飛行場を飛び立った中村団長は、東京で敗戦処理の命令を受けます。

横芝の挺進第1聯隊の元へ出向いた中村挺進団長は、翌日には沖縄特攻に備えていた烈號部隊を慰撫するため福生飛行場へ飛びます。
福生飛行場では戦争継続を叫ぶ軍用機が檄文を投下していきましたが、烈號部隊の大部分はそのまま解散。
苦労して揃えたグライダー群は、翌週の暴風雨で破壊されてしまいました。
各挺進部隊は解体され、施設・装備の廃棄と復員業務が始められました。

いっぽうで悲惨を極めたのは、北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行団です。
現地にいた挺進飛行隊と滑空飛行戦隊は状況の急変と共に南下を開始。しかし多数がソ連軍の捕虜となり、シベリアへ送られました。
また、内地にいた滑空飛行戦隊の塩田少尉が自ら命を絶つという悲劇も起きてしまいます。

8月9日、ソ聯の卑怯な参戦により北鮮も俄かに騒々しく、悲しむべく8月15日のあの日
当時、空中部隊(※挺進飛行隊)は新義州に、地上部隊は鉄路新義州に向け移動中。聯隊本部若干は連浦に在り。
地上部隊は新義州に到着するも、下車することなく直ちに先づ平壌に引返へし待機、空中部隊の大邱移動と共に平壌出發。
途中沙里院北偶にてソ軍に掴まり、1部は脱出して大邱に於て収容せるも少数の者は直路内地に向いたるものゝ如く。
一方、大邱に在りては輸送任務の為立川に向った1ケ中隊は内地航空兵団の命令を受けてそのまゝ立川に留まり、この間塩田少尉、米子飛行場に於て自刃……。

空挺同志会資料より

滑空飛行戦隊の塩田少尉は北朝鮮から立川飛行場へ向かったのですが、悪天候により鳥取の米子飛行場へ一時退避。
挺進団から孤立した状況で敗戦の報せに接したため、独り自決の道を選んでしまったのでした。

各個バラバラに朝鮮半島から撤退中、ソ連軍に遭遇した挺進飛行戦隊員の多くは収容所へ送られます。シベリアで重労働に従事させられた彼らのうち、祖国の土を踏めなかった者もいました。

飛行隊の主な犠牲者数は下記の通り

第1挺進飛行團司令部100名中、28名戦死。
第1挺進飛行團通信隊189名中、49名戦死。
挺進飛行第1及び第2戦隊440名中、71名戦死。
滑空飛行第1戦隊498名中、77名戦死。


誕生から4年半。
こうして、挺進飛行隊は無惨な終焉を迎えました。

(第11部へ続く)


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