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空挺給水塔 其の2 〇〇がやって来た日

Category : 第二部・新田原へ |

太平洋戦争に突入した昭和16年、南方戦線での奇襲作戦に備えて空挺落下傘部隊が川南の唐瀬原地区に創設されました。
司令部は現・川南東小学校付近にあり、隣接して附属連隊(2個連隊)・車両連隊・戦車隊・通信隊・陸軍病院・飛行場格納庫(鉄筋1棟、木骨3棟)・1500m滑走路がありました。
また、現・唐瀬原中学校付近には第4聯隊、現・国立病院機構宮崎病院付近には第3聯隊が創設されました。
「空の神兵」と讃えられ将兵の降下猛訓練がこの唐瀬原で行われ、川南村は一瞬の間に軍都と化したのです。

川南町観光協会 観光ガイド「―宮崎県―かわみなみ」より

一般には「空の神兵」と称される陸軍落下傘部隊。
しかし宮崎県民は、川南に舞う落下傘を別の名で呼んでいました。南方作戦まで、この秘密部隊の存在を秘匿する必要があったからです。
その名称が〇〇(マルマル)。
今では知る人もいない、〇〇と地域住民の関係について解説します。

降下兵3
降下装備をまとった日本陸軍空挺隊員。前面に装着してあるのは予備のパラシュート(主傘は背面です)。
耳を保護するカバーが付いた降下ヘルメットは、邪魔な庇部分の出っ張りを無くしたドングリ型。
膝上まである降下スモックは、降下中に衣服や装具のバタつきを抑え、パラシュートに絡まりそうな箇所を覆うために着用します。このような特殊装備が空挺隊員向けに開発されました。



満洲国白城子で訓練を始めてから僅か3ヶ月後。
長期の積雪により冬季訓練がままならないことを知った空挺部隊は、内地へ帰還のため移転先を探し始めます。

「航空本部では那須とか宮崎県川南の唐瀬原を候補地に挙げて居ました。
そこで私は航空総監部の野中少佐と、宮崎県高鍋の軍馬補充部に飛んで、唐瀬原周辺をくまなく偵察しました。
近くに新田原飛行場が有り、唐瀬原は降下場として最適であると判断しました。
陸軍省に戻って、高鍋軍馬補充部川南分厩を廃止し、牧場を航空本部に移管する決済を貰いました」
藤野憲三著「川南開拓地に生きて」より 元陸軍落下傘部隊少佐田中賢一氏の証言

高鍋軍馬補充部
当時の軍馬補充部高鍋支部の様子。現在は宮崎県立農業大学校となっています。
騎兵部隊は10号線を挟んだ反対側、国光原中学校付近に駐屯していました。

ここで問題となったのが、部隊の満洲移転を決定した東条英機大臣の説得でした。

「その件はうまく運びましたが、移転に付いての大臣の決裁はなかなか貰えず、非常に苦労しました。
軍事課長、軍務局長、陸軍次官を通したのですが大臣が承認されない。
「お前が行け」と言われ、一大尉の身で官邸の大臣室に行き、その時は何か良い事があってご機嫌が良く、「まあ、しょうがない」という事で、やっと決済を貰いました。
南方作戦の準備が急がれていた時期でして、もうパレンバンという地名も出ていました。使うのは開戦直後でないにしても、早く其の準備に掛らねばならない。
使わない積もりなら白城子に放り出して置いても良いが、使うなら早く内地に返せと参謀本部からも強く主張して貰いました。
移転の決定を見たのが昭和十六年八月末で移転は九月初めでした。あれがもう少し遅れれば、パレンバンには使えなかったと思います(〃)」

早くも寒風が吹き始めた9月13日、東条大臣を説き伏せた練習部は宮崎県児湯郡新田村の陸軍新田原(にゅうたばる)飛行場へ移動した。
地域住民から歓呼の声で迎えられた空挺部隊は、北側の川南村にあった軍馬補充部高鍋支部の塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。降下訓練を開始する。
やがて久米精一大佐が着任し、空挺部隊は本部、教育部、研究部、材料廠から成る航空総監部直属の「挺進練習部」と命名された。
11月5日には第1―3次の挺進練習部員による「教導挺進第1聯隊」と、降下兵を空輸する専従飛行隊として「教導挺進飛行隊」が発足したのである。

と、いうのがネットや軍事書籍で見かける陸軍空挺部隊史。
あくまで「軍隊側の視点」であって、受入れ先の自治体に与えた大混乱は見事に無視されていますね。
本当に、「地元の人々は諸手を挙げて空挺部隊の転入を歓迎した」のでしょうか?
突然やって来た秘密部隊に対し、宮崎の人々が献身的に協力してくれたのは事実です。
川南で続けられている空挺慰霊祭を見れば分かる通り、その厚意は現在も変っていません。
だからといって、軍の勝手な都合で地域に多大な負担を押し付けたことを無視されては困ります。

巷に溢れ返る「軍隊から見た空挺隊史」ばかりでは不公平ですから
今回は、日本ミリタリー界が見過ごしてきた「地域から見た空挺隊史」について取り上げましょう。

DSC08392_R.jpg
現在の航空自衛隊新田原基地

宮崎県児湯郡新富町にある航空自衛隊新田原基地。
ニュータバルという珍妙な地名の語源ですが、この地は暲子内親王(八条女院・1137年~1211年)の御領となった800年前から「新田」と呼ばれてきました。
おそらく、「にった」が訛って「にゅうた」になったんでしょうね。
で、新田(にゅうた)の原っぱ(ばる)だから「ニュウタバル」。
近隣地域には古墳群で有名なサイトバルをはじめ、チャウスバルやコッコウバルやカラセバルといった地名もあります。
要するに珍しくもなんともない訳で、同じ児湯郡なら「トロントロン」とかの方がよっぽど変ですよ。

新田原基地の片隅には、「空挺歌碑」という碑が設置されています。
これは、同基地の前身である「陸軍新田原飛行場」に駐屯していた陸軍落下傘部隊を紀念するものです。

空挺歌碑

新田原の碑に題す

大東亜戦争の命運を分けた重大作戦毎に忽然と姿を現わす特攻覆面部隊があった
パレンバンにおける空の神兵奇襲隊 レイテの空に百千の花を咲かせた鹿島香取両空挺隊 ルソンの建武集団と高千穂部隊の悲壮敢斗 
そして沖縄における義烈空挺隊第三独立飛行隊の胴体着陸による全員玉砕等がこれである
列強に後れ昭和十五年に発足した我が空挺部隊は日米の風雲急を告ぐるや陸軍の総力を挙げ之が拡大増強に邁進した
その推進母体たる陸軍挺進練習部が此処新田原に創設されたのが昭和十六年夏で後川南に移る
全軍から簡抜された精兵は高千穂峯の落下傘筑波颪の滑空機と東西相呼応する猛訓練により皇軍随一に鍛え上げられた
その兵力は落下傘部隊四ケ聯隊 滑空歩兵二ケ聯隊 挺進通信 重火器 戦車 工兵 整備各一隊 挺進滑空一 飛行戦隊二で計二万弱に及んだ
空の神兵は次々に第一挺進団 第二挺進団 第一挺進集団となって南征し冒頭の戦歴を重ね 部隊感状六通個人感状五六四名という英霊史上未曾有の特攻玉砕部隊の武勲を樹てたのである
祖国の大事に若い花の命を捧げ盡すを昭和青年の本懐と覚悟した彼等が残し去った歌詩が心ある人の献身を集めて彼等の夢の跡に建ったこの碑に深々と刻まれている
若さは若さを血は血を魂は魂を呼んで久遠に響き伝えられるであろう
こよなく空の神兵を愛された元熊本師団長故菅島高将軍の歌に
勝を信じ海空万里征き果てし
君等の雄心紹がざらめやも
飛び起ちて帰りきませぬ将兵は
南溟に天降りて今も雄健ぶ
雄健びの声のひびきに真新しき独立の国々群り立ちぬ
とある
いみじくも空の神兵を讃え上げて余す所がない
併せ記して題辞となす

昭和四十三年十月秋
中村勇
(※元陸軍落下傘部隊第一挺進団長)

陸軍新田原飛行場は、昭和13年に建設が始まりました。

児湯郡新富町は、児湯郡新田村(にゅうたむら)と富田村(とんだむら)が昭和34年に合併して出来た町。
もともとは2つの自治体だったのです。
新田村の台地上に広がる平野が新田原(にゅうたばる)。長年に亘り、耕作地や養蚕用の桑畑として利用されてきました。
新田原への軍用飛行場建設計画は、昭和12年頃から地元自治体に打診されています。
しかし、その着工手続きは突然に通告されました。

新田村と富田村に宮崎県庁総務部から連絡が入ったのは、昭和13年4月11日のこと。
肝心の両村長が出張中だったことから、事前の調整すら無い「不意打ち」だったコトが分ります。
翌日、慌てて県庁へ駆け付けた両村役場関係者に対し、県総務部長、地方課長、特高課長および陸軍第6師団経理部長らは「新田原への陸軍飛行場建設計画」を通達。
この時から飛行場建設の大混乱が始まりました。

家や耕作地を失うのは村民の3分の1にあたる329名。そして計45戸の住民が立ち退きの対象となったのです。
問題は山積していました。
・土地を失う自作農民の救済
・地主が小作地を売却した場合、小作人の生活救済をどうするか
・該当地域内居住者の移転、移住の問題
・買収価格の決定
・村の中央に飛行場が出来ることで、地域の分断がおきるのでは
・飛行場建設に伴う工事人夫の確保
・軍関係の宿舎の確保
・飛行場の呼称の問題
それに加え、建設予定地には新田原古墳群に属する4基の古墳もありました。新田原は、西都原古墳群に隣接する遺跡だらけの場所なのです。
難航した土地買収料や離作料については、村役場を介する事で13年末には何とかカタが附きました。

飛行場予定地内にある40、42、43、44号古墳に関しては、宮内庁と文部省に申請のうえ、出土品を改葬する条件で史跡指定を解除。
発掘・移設の調査は、西都原古墳群の発掘にも携わった梅原末治京大助教授へ依頼されました。
呆れたことに、発掘作業に許されたのは僅か3日間。しかも、盗掘を避けるため発掘品の収蔵を訴える宮崎県側に対し、宮内庁は頑として改葬方式を譲りません。
発掘を指揮する梅原氏は、「半日に一基宛の調査をすませて、前後僅かに二日で全部を終へると云ふ日程の許に余に滞在三日間の主張を求められた。これは従来の乏しい自己の発掘に対する経験と、本遺跡の一般から推して、殆んど無謀に近い様に見えた」と記しています。
梅原氏が憂慮した通り、発掘作業は中途半端なまま終りました。
飛行場の南側には縮小版の古墳が再建され(現在のお大師山公園内)、出土品はそこへ改葬されます。
住民を立ち退かせ、古代の遺跡を潰し、新田原の飛行場建設は始まりました。

繰り返しますが、新田原は児湯郡新田村にあります。
しかし何故か、20世紀になっても旧高鍋藩のエリアで考えたがる不思議な思考回路の人がおりまして、新田原に完成した軍用飛行場に対しては「高鍋飛行場」の名称案が出されます。
児湯郡新田村と児湯郡高鍋町は、当時から別の自治体なんですけどね。
高鍋町にある軍事施設は、軍馬補充部高鍋支部だけです。

新田村・富田村は、「御国の為だから」と我慢して飛行場建設を受け入れました。
陸軍も立ち退きや勤労奉仕や宿舎の提供といった地域の協力を得て、飛行場建設に漕ぎ付けた訳です。
そうやってワガママ勝手を通して作った飛行場に、隣町である「高鍋」の名を付けるとは。
数々の厚意を踏みにじる、軍部の無神経さに新田住民は憤慨します。
「高鍋は隣町。ここは新田村だ!」という抗議の声が高まり、遂に新田村議会が動きました。
昭和14年11月24日、土屋重雄新田村長は陸軍航空本部長宛への抗議書「新田原飛行場名称ノ義ニ関スル件」を提出。

仰モ吾新田村ハ遠ク神代歴代ノ古跡ニ冨ミ、即チ新田原ニハ畏クモ神武大帝御東征ノ砌、御駐輦遊サレシ御浴湯ノ跡ヲ始メ幾多ノ聖蹟ヲ存シ、殊ニ無数ノ貴人ノ古墳群ヲナシ、隣邑妻町(※現在の西都市)西都原ニ亜ク著名ナル所ナリ。
事変下此ノ崇高尊厳極ナキ新田原ニ、今回陸軍飛行場ノ建設ヲ企画セラル之レ本村ハ素ヨリ我宮崎県トシテ無上ノ光栄トスル所ニシテ、此ノ歴史的且広袤数百町歩ノ高原新田原ノ台地ニ南九州ノ空ヲ護ル空軍ノ拠点トシテ枢要設備ヲ施行セラルゝハ国防上ヨリ解スルモ将又現時世界ノ状勢ヨリ見ルモ、実ニ絶好唯一ノ飛行場タルベク此ノ一大事業ニ関シテハ挙村一致ノ協力二依リ用地買収・家屋移転等円満裡ニ滅私奉公ノ誠ヲ致シ、今日ニ及ビタル次第ニ御座候。
今ヤ工事モ半ヲ過ギ、完成スルノ日近キニアラントス。
邦家ノ為メ洵ニ慶賀ニ堪ヘザル所ニ御座候。
然ルニ仄聞スル所ニ依レバ之レガ名称ニ就テハ地元ノ期待ニ反シ高鍋?又ハ宮崎?等ノ名称ヲ冠セラルトカ。
実ニ晴天ノ霹靂トシ驚愕仕候。
風説正ニ事実トスレバ幾多ノ伝説ト史実ニ富メル新田原ノ地名ハ永久ニ喪失サルゝニ至ルベク、誠ニ遺憾ニ禁ヘザル次第ニシテ、村民ノ失望落胆モ亦想像ニ余ルモノ有之候ニ附テハ新田原ノ光輝アル歴史ニ鑑ミ、是非共新田原ノ名称ヲ冠セラレンコトヲ本村会満場一致ノ議決ヲ経テ請願仕候也。

昭和十四年十一月二十四日
宮崎県児湯郡新田村会議長
新田村長 土屋重雄

陸軍航空本部長殿

しかし翌年1月22日に届いた陸軍航空本部からの回答は、
一、飛行場名ハ「新田原陸軍飛行場」ト命名スル如ク決定セラレタリ
二、分教場ナハ「高鍋分教場」ト命名セラル筈

という意味不明の折衷案でした。帝国陸軍は地図を読めないのでしょうか?

地元をナメ切った態度に新田村議会は猛反発。
26日には「文見た。分教場名称の件につき、緊急村会開会の結果、高鍋分教場の名称大反対あり。考慮請う」の電報を陸軍航空本部へ送りつけます。
28日、騒ぎを見かねた長谷川宮崎県知事も「新田原飛行場ニ附設セラルル飛行学校分教場ノ名称ニ関スル件」を陸軍航空本部へ極秘発送。
県を挙げて新田村への掩護に回りました。

陳者目下当県児湯郡新田村に新設工事中に係る貴管飛行場の名称は「新田原陸軍飛行場」と御命名相成ることに決定致したるやに及聞候処、右は其の所在地に因み洵に結構の次第と被存地元村民に於ても喜居候。
然る処、地元村長の申出に依れば、之に付設せらるる飛行学校分教場の名称は之と趣を異にし、他町村名たる「高鍋」の名を冠せらるる御予定なるやにて、同村民の驚きは一方ならざるもの有之候。
御承知の如く該飛行場は新田村の略中間部に位し、之が設置に依り同村南北間の交通は著しく不便となり、小学校児童の通学上の不便は固より一般村民の来往並物資運搬上不利を齎すこと甚大にして、村治上にも影響不尠処なるも、事国防に関する重要施設なるに因り、あらゆる犠牲を忍び、用地買収に当りては村当局は率先して之が円満解決に尽力し、村民亦一人の異議を称ゆる者なく、急速に解決致したるは全く村当局並村民の該施設に対する理解と努力の賜物と存する次第に有之候。
然るに、自村内に設置せらるゝ施設にてあり乍ら之に他の町村名を冠する名称を付せらるるは同村民として洵に面目なく遺憾の次第にて精神上堪へ難き処に有之目下村民間に憂慮心痛の模様相見に居候。
就ては貴部としても種々御都合も可有之と推察仕候へ共、前陳の事情御諒察相成今後分教場の所在村との関係をも考慮せられ、村民の衷情十分御汲取の上、該分教場の名称は「新田」の村名を御採用相成候様御考慮相煩度偏に御依頼申上候。

敬具

それでも埒が明かなかったのか、上京した土屋村長は軍部に直接訴え出ます。
思わぬ反応に、さすがの陸軍も驚いたのでしょう。
2月8日、第6師団経理部より「新田原飛行場ニ新設予定ノ分教場ハ、爾今「新田原分教場」ト称スルコトニ定メラレタルニ通牒ス」との回答が届き、一連の名称騒動はおさまりました。
このような苦難を経て「新田原」の地名は残されたのです。

(以上、「新富町史」より)

このブログでは、しつこい位に「新田原飛行場は高鍋ではなく新富にある」と繰り返しております。
その理由は、飛行場建設において上記のような経緯があったから。
新田原基地の歴史を語る者は、「高鍋の新田原」などという無神経な物言いを絶対に避けねばなりません。

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航空自衛隊新田原基地上空で編隊飛行中のT-4練習機

部隊の性格上、白城子から新田原への移転は秘密裡に行われます。
児湯郡の各町村は、事前の連絡調整すら拒否する軍の身勝手に振り回されました。

八月、第六師団の将校が児湯郡東部五カ町村長を高鍋の料亭に集め、川南に落下傘部隊を設置することを説明して、労力の提供と防諜に関する依頼をした。
九月、早くも四日には川南に落下傘部隊降下場建設のため、兵三〇〇名が都農駅に到着することとなった。高鍋に出張していた町長がこのことを知るのは、バスで帰る途中のことで「黒木浩日記」には「新名助役一行が軍用自動車にて下名貫甘漬神社鳥居前に来り、予(黒木)はバス上にて言葉を交し聞く」とある。すでに午後二時を回っていたが、三〇〇名分の夜食の依頼を受け、急遽、市街地の婦人会員を動員して準備した。
兵の到着は午前零時過ぎ、荷おろしが済んだのは同三時。
町長、婦人会員の帰宅は午前四時過ぎとなった。
町長はこの日行われる賃貸価格調査員の選挙立ち会いのため、睡眠をとる暇もなく午前七時半には出勤している。
何ごとも軍事優先で事を進めねばならなかった。

先に、軍から落下傘部隊降下場の建設のための町民の勤労奉仕は六日の区長会で配分が計られ、八日の第一日目は三日月原・名貫・篠別府の三地区民一〇〇名が参加した。
また、区長会では憲兵分隊長も来て防諜については厳しく呼び掛けた。
そのため、川南の軍事施設については実名を呼ばず〇〇(まるまる)と呼ぶようになる。

都農町史より

新田原へ到着した空挺隊員は、さっそく訓練の準備に取り掛かります。
九州の片隅へ移転した心境については、このように書き遺されていました。

八月三十一日 月曜 雨後晴
今日も朝から雨が降つてゐる。思ひ返せば丁度一年前、満洲から此の九州へ帰って来た日だ。
高鍋へ著いた時も今日と同じく雨が降って居た。著いた當時は淋しい所へ来たものだと思ったが、もう一年も経てば何とも無い。住めば都よ我里よ。
田畠は水も増してゐる。百姓は喜んでゐるだらう。午後から晴た。やっぱり雨より天気の方が良い。
母、妹より便りが来た。仲々面白い事を書いて来てゐる。今日は浪の音も聞えない。静かだ。

井上祐子編「誠心」より 挺進第1連隊第4中隊井上洋曹長の日記より

「浪の音」とありますが、宮崎へ来たばかりの空挺隊員は宮崎市住吉海岸のオンボロ兵舎を拠点としていました。
殆んどバラックに近い建物で、陸軍空挺部隊では「あの衛生環境で伝染病が発生しないのは不思議である」とまで記しています。

帰国した陸軍空挺部隊では各方面での技術習得や情報収集に注力。その中には、ライバルである海軍空挺部隊の演習視察まで含まれています。
予想される南方作戦まで、残された時間は僅かでした。

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海軍落下傘部隊の訓練風景

【川南の歩み】

やがて、部隊の拡充によって新田原飛行場は手狭となってきます。
昭和18年、挺進練習部はパラシュート降下場がある川南への移動を決定。
川南村一帯には1500メートルの滑走路や格納庫・病院を備えた空挺施設群が建設されることとなりました。
川南村での基地建設に当たっては、元々あった陸軍省用地などを転用します。
高鍋町から都農町にかけては軍馬補充部高鍋支部の用地が点在しており、用地確保は容易と思われたのでしょう。

当時、設置予定地の川南村は広大な松林で覆われていました。現在は開墾とマツクイムシ被害で消滅しましたが、むかしは相当に密生していたとか。
塩付分厩の牧場があったとはいえ建設作業は大変な重労働であり、松の伐採や切株の掘り起し、整地作業も地元にとって多大な負担となりました。

高鍋軍馬補充部3
高鍋軍馬補充部塩付分厩の川南放牧場。この一帯がパラシュート降下場へ転換されました。
現在でいうと、JA果汁工場の裏あたりです。

児湯郡は、古くから高鍋藩によって軍馬の蕃殖がおこなわれてきた地。
高鍋の馬も、明治の訪れと共に大きな変化を遂げることとなりました。

開国によって外国産馬の体格と従順さに驚愕した明治政府は、国を挙げての馬匹改良事業に着手。
陸軍も良質の軍馬を調達するため全国各地に軍馬補充部を設置、大規模な馬の買付け、放牧育成(訓練は行いません)を展開しました。
明治31年、霧島山麓の西諸県郡高原村(現・高原町)にも軍馬補充部福本支部高原派出所が開設されます。

高原派出所は、やがて高原支部へと規模を拡充。
しかしその後、霧島山系の噴火が立て続けに起きて高原支部も降灰被害を受けます。
そのため、明治43年には海沿いの児湯郡高鍋町に「軍馬補充部高鍋支部」として移転しました。

古くは「香田が原」と呼ばれた高鍋北方の台地には広大な原野が広がっており、馬の放牧地としては最適だったのです。
高鍋軍馬補充部は拡大を続け、北側の川南村塩付地区に分厩を増設しました。

川南は、上杉鷹山の出身で知られる高鍋藩の領地にあった村です。
明治4年、廃藩置県で高鍋藩が消滅したことによって川南村は高鍋県へ編入。
美々津県と都城県が合併して「宮崎県」が設置された明治6年に、同県第四大區の所属となります。
当時の川南は人口3000名弱の小さな村落でした。

明治9年8月21日に第一次宮崎県は消滅し、「鹿児島県宮崎支庁」の扱いとなりました。
行政整理を名目とする大政官達第百十二号によって、全国の16県に廃止・管轄替の処置が下されたのです。
「交通・港湾が未発達で一次産業が中心、向上心にも欠ける」と評されていた宮崎県は、大きく発展中の薩摩・大隅に吸収した方が合理的。
そして、薩摩の動きに同調する旧士族が割拠し続けていたことも明治政府が廃県対象とした一因でした。

翌年に勃発した西南戦争では、薩摩軍の転戦と政府軍の追撃によって宮崎も戦禍に巻き込まれました。
戦争が終わっても復興計画が進められたのは薩摩・大隅地方のみ。
戦乱で町や田畑は荒れ、濫発された「西郷札」も紙クズと化した経済困窮の末、行政からも見棄てられたのです。

日向の人々は、自分達の住む地が「陸の孤島」であることを痛いほど思い知りました。
あまりにも不公平な戦後復興策は、鹿児島県令への猛反発を生みます。
やがて、薩摩への親近感が薄い宮崎・延岡・小林方面を中心に独立運動が始まりました。反対に、薩摩との交流が深い都城・佐土原の人々は独立に否定的だったとか。
明治13年、徳島県が高知県から独立したのを見た独立派の有志たちは「日向懇親会」を発足。その規模を日向全域へ拡大していきます。

「県治雨露の恩は薩隅に偏降して、日州は常に涸池の瘠魚たるを免る能はざるなり(「分県の儀追申」 明治14年)」

彼等の請願を、鹿児島県令はにべもなく拒絶しました。
薩閥に占められていた政府や鹿児島県議員に頼る事は出来ません。独立派は上京して長州閥等への仲介依頼といった政治工作を展開。
度重なる請願の却下、鹿児島県会議員への根回し、そして「鹿児島県下日向国分離の建議」を経て分県案は可決されました。

太政大臣より、置県の令が公布されたのは明治16年5月9日のこと。

布達
今般其縣ヲ置キ、日向國諸縣郡ノ内、志布志郷、大崎郷、松山郷ヲ除キ同國一圓管轄セシメ候條、鹿児島縣ヨリ受取方可取計此旨相達候事。
明治十六年五月九日 太政大臣三條實美


こうして宮崎県は復活。
高鍋に児湯郡役所が再設置されたのもこの頃のことです。

鹿児島県とくっついたり離れたり、意外と混乱が続いたんですねえ。いまだに県北・県中央・県南が団結出来ないのも、これが一因なのでしょうか?
旧島津領だった都城市などは「あそこは鹿児島の植民地だ」とか言われたりしますし(言葉も鹿児島弁に近いそうです)。

町村制へ移行した明治22年には川南村と平田村が合併、現在の川南町を形成する地域が成立します。

そのような混乱の時代、川南の開拓は始まりました。
高鍋藩が士族を開拓者として送り込んだ明治初期から、段階を経て開拓は進みます。
唐瀬原の開墾に着手したのは明治14年のこと。
水利権のゴタゴタもあり、これは半年程で頓挫しています。

続いて明治20年には前田正名氏や松浦健太郎氏が川南村内の原野を購入、農場建設に着手しました。その際、四国からも入植者を受け入れていますが、この時も灌漑用水不足などに苦しんだ様です。
国営による大規模な川南開墾事業が始まったのは明治44年のことでした。大正14年には農林省への申請が行われ、昭和14年から5箇年計画で着手。
川南町史によりますと、陸軍の川南進出はこれより早く行われています。
前田氏購入の土地1063町4反7畝8歩は、明治41年に陸軍用地として112938圓15銭で買い上げが決定されます。
買上げは翌42年も続きました。

この陸軍用地が、塩付分厩を経て落下傘降下場となる訳ですね(説明が長くてスミマセン)。

【軍馬補充部と空挺部隊】

高鍋軍馬補充部4
軍馬補充部高鍋支部正門

高鍋と川南に進出した軍馬補充部では、九州産馬の欠点とされた「性格凶暴」「体格矮小」「歩様短切」を改善しつつ、高鍋と川南を優良な軍馬の産地へと変えていきました。
明治初期に来日した外国人から「猛獣」と揶揄され、義和団の乱で出兵した際には「隊伍を組めない」「気性が荒い」「牝馬を見ると暴走する」といった醜態を晒し、各国の騎兵隊から嘲笑された小柄で粗暴な日本の軍馬。
それを改善すべく去勢法の施行となる訳ですが、結局は日露戦争の勃発で頓挫してしまいます。

高鍋軍馬補充部では、去勢の徹底、体罰や大声による叱責の禁止、青草を食べ慣れない放牧転換期に栄養価の高い餌を併用する等の地道な努力を重ねました。
その努力は実を結び、明治末期には温順で体格も改善された良馬が揃い始めます。

周辺の農家から購入した仔馬を育て、第6師団の騎兵・輜重兵部隊に補充するのが高鍋軍馬補充部の役目。ですから、補充部周辺には馬の蕃殖や飼糧のトウモロコシ栽培に携わる多数の農家がありました。
長い間、軍馬補充部と地元農家は共存してきたのです。

その関係が崩れたのは日中戦争がはじまった頃。昭和12年、軍馬の不足から川南の農耕馬200頭が強制的に徴発されました。
戦争による人手不足に加えて馬まで奪われ、農業生産にも影響が出始めます。

そこへ、泣き面に蜂の如く(文字通り)降って湧いた落下傘部隊の移転問題。
大規模な陸軍施設と広大なパラシュート降下場の建設は、塩付・黒坂地区周辺に入植していた人々にとって深刻な問題でした。
地元が軍用地になることは、苦労して開墾した土地から追い出されることを意味していたのです。

この年の秋、軍馬補充部の牧場が整備されて(毎日の様に出没した)落下傘部隊の訓練が始まった頃、“陸軍部隊の兵舎が出来るげな”“飛行場が出来るげな”と、様々な噂が流れ始めた。
何をするともわからず、測量班が毎日の様に行動を始めた。
いよいよ噂は本物になるかと感じられ、次に打つ手を考えねばならぬ様になった。

二杉房次著「八十年を省みて」より 

同じ頃、菅原道大陸軍中将が川南を訪れます。
出迎えた財津吉男村長は「軍馬補充部の視察にきたのだろう」と呑気に考えていました。しかし、実際の目的は落下傘部隊転入予定地の下見だったそうです。
後に、落下傘部隊は菅原中将のもとで実戦デビューすることとなりました。

昭和16年8月27日、熊本師団司令部の経理部長が主任の原主計少佐を伴い高鍋小村第2四季亭に「高鍋町長・山内武玄、木城村長・矢野勝次、都農町長・黒木宏」の3氏と共に、川南村長・財津吉男を呼んで昼食を共にした。
この時、川南村地内に軍の有力なる部隊が設立される。一時的な施設ではなく永久的なもので、近々着工にかかるので協力をお願いする。
特に川南村長にはご苦労をかける事になるので、特別にお願いするとの言葉であった。
何の有力な部隊かとの質問には、今はまだ秘密故言えないとの事。
同9月1日、此地に派遣命令を受けた者ですと尉官級の方が見えられ、実は落下傘部隊が設置されます。
実に大部隊の設置であるとの事、さらに降下場を急いで整備し降下演習をやりたいから、、沢山の作業人員を必要とする。
初めの1週間余日は3百名位、更に1千名、2千名、5千名、1万名、それに第1回降下までは内容は秘しておいて、人員を急ぎ集めてくれとの事

川南観光協会「空挺落下傘部隊」より

余りにも勝手な言い分ですが、地方の小村が軍部の方針に逆らえる筈がありません。
結局、軍事施設の建設にあたって豊原地区24戸、甘付地区2戸、名貫地区20戸、黒坂地区5戸、塩付地区33戸、計84戸もの農家が立ち退きを余儀なくされます。



昭和16年9月。
川南村在郷軍人会川南岩切分会長を中心として、川南空挺基地の建設が開始されます。
延べ1万人を投入した降下場建設は50日で完了。
但し、鉄筋1、木造2の格納庫を備えた飛行場建設には1年半を費やし、しかも富高農学校生と地元住民の犠牲者2名をだしてしまいました。
地域住民も昼間は基地建設の奉仕作業に忙殺され、農作業は夕方から夜間にかけてという過酷な労働を強いられます。

十月 
前月に引き続き川南での作業は続き、最初の降下演習が十二日実施された。「黒木日記」には「〇〇演習挙行」とあり、落下傘降下の文字はない。
さらに、二十八日には、南方総司令官となる寺内寿一大将が来て、大規模な演習が行われている。
十一月
二十七日将校・下士官ら二六名の営外居住者が、町筋付近の民家に下宿を割当てられ、町内はさらに軍事色が強くなる。
三十日は日曜日であったが、町長はじめ役場・学校・銀行などに勤める町内俸給者七三名が、朝七時から午後五時まで降下場整備の奉仕作業に参加した。
この頃、新聞やラジオは日米関係の緊迫を毎日伝えている。

都農町史より

唐瀬原基地の建設にあたっては、戦時の人手不足から工業学校を卒業したばかりの若者達が設計・現場監督を担当しました。
建設作業に従事したのは、県内から勤労動員された人々や学生、建設会社や朝鮮人労働者(計673名)など延人数にして36万5千人。
唐瀬原飛行場が完成後、朝鮮人労働者は故郷へ戻るか、次の現場へと移動していきました。彼らの一部は赤江飛行場の工事にも従事しており、本郷の作業宿舎が空襲を受けた際は犠牲者も出たとのことです。

「戦時中、静かな農村だった川南の唐瀬原に、落下傘部隊飛行場建設のための請負工事に沢山の下請組がきていました。その一つの組に事務員として働いていた私は、一生忘れ得ぬ思い出があります。
私の勤めた事務室は韓国の人が多く、日本名になっている人は日本語も達者で達筆、若い私は優しくしてもらい仕事も楽しくしておりました。
ある日、韓国から都農へ慰問団が来ることになりました。韓国の人々はずっと前から楽しみにして仕事の合間には慰問団のことで話がはずむほどでした。私にも一緒に行こうとお招きがあり、見知らぬ国の唄と踊りを楽しみに待っていたものです」
「たかなべ戦中戦後の体験集」より 水町幸子さんの証言

部隊の水道施設として地下水を汲み上げる6基の給水塔が建てられ、これらは新田原飛行場から飛び立つ空挺隊員の降下目標にもなっていたそうです。

降下兵
輸送機の胴体を模した「機胴台」。

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機胴台からの跳下訓練をおこなう空挺隊員。

【軍都川南へ】

昭和17年、650haの降下場に加えて600haに及ぶ巨大な川南空挺基地が完成しました。
これに伴い、部隊の規模は4個連隊に増強されます。

「第1挺進團」に所属するのが挺進第1聯隊と挺進第2聯隊。
第一挺進團が出撃している間、練習員の課程を修了した追加の隊員で教導挺進第1聯隊及び教導挺進第2聯隊が編成されます。
この2コ聯隊は、「第2挺進團」に所属する挺進第3聯隊と第4聯隊に改編されました。

後から編成された第2挺進團は唐瀬原の仮兵舎に入りますが、やがて本格的な兵舎が完成。
その中の一つが、あの給水塔の場所に設置された挺進第3聯隊兵舎です。
また、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、そして空挺隊員を輸送する挺進飛行隊などの支援部隊も次々と創設されていきました。

空挺部隊が増強されるにつれ、川南に駐屯する部隊は2万人もの規模に拡大。
それまで軍馬の牧場と西部8051騎兵部隊しかなかった川南は「軍都と化した」と町史に記されています。

陸軍空挺部隊の中枢は睦地区、現在の東小学校付近にありました。
今の風景からは想像も出来ませんが、当時はあの場所一帯に挺進司令部及び第1挺進団兵舎、陸軍病院、通信所、格納庫、滑走路といった大規模軍事施設が設置されていたのです。
第2挺進団(挺進第3、第4連隊)は、挺進司令部から南下した10号線沿いに居を構えました。
現在の国立病院付近には第3連隊、唐瀬原中学校付近に第4連隊。
黒坂の交差点付近、10号線から海へ向かっては滑走路が伸びていました。

空挺慰霊碑

陸軍空挺部隊群の所在地および通称は下記の通り。

陸軍挺進練習部(西部第一一六部隊)・第一挺進集団司令部(鸞第一九〇三八部隊)
静岡県浜松陸軍飛行学校→満州国白城子陸軍飛行場→宮崎県新田原飛行場→川南・睦地区

第一挺進団司令部(帥第九九四四部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第一聯隊(帥第九九四五部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第二聯隊(帥第九九四六部隊) 宮崎県川南・睦地区

第二挺進団司令部(威一九〇四〇部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第三聯隊(西部第一一八部隊) 宮崎県川南・唐瀬原地区
挺進第四聯隊(西部第一一九部隊) 宮崎県川南・唐瀬原地区

第一挺進飛行団司令部(鸞第一九一五〇部隊) 宮崎県新田原
第一挺進飛行団通信隊(鸞一九一五一部隊) 宮崎県新田原
挺進飛行第一戦隊(威九九四七部隊) 宮崎県新田原
挺進飛行第二戦隊(鸞一九〇三九部隊) 宮崎県新田原
滑空飛行第一戦隊(鸞一九〇五二部隊) 茨城県西筑波
第百一飛行場中隊(不明) 宮崎県新田原
第百二飛行場中隊(不明) 宮崎県新田原
第百三飛行場中隊(鸞一九〇五三部隊) 茨城県西筑波

滑空歩兵第一聯隊(鸞一九四〇五部隊) 茨城県西筑波
滑空歩兵第二聯隊(鸞一九四〇六部隊) 茨城県西筑波

第一挺進通信隊(鸞一九〇四四部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進機関砲隊(鸞一九〇四七部隊) 茨城県西筑波
第一挺進工兵隊(鸞一九〇四八部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進戦車隊(帥第一九〇四九部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進整備隊(帥第一九〇五一部隊) 宮崎県川南・睦地区

唐瀬原飛行場 宮崎県川南・黒坂地区
落下傘降下場 宮崎県川南・塩付地区


落下傘整備
裏方の挺進整備隊は、命を託すパラシュートの管理を担当する重要な部隊でした。川南空挺慰霊祭にて

訓練
パラシュートの折り畳み方を学ぶ空挺隊員たち。

話を昭和16年に戻しましょう。
降下場が完成した昭和16年秋、先に編成された挺進第1連隊は猛訓練を開始。来るべき出撃へと備えます。
記念すべき唐瀬原への初降下は、下記のようなものだったのだとか。

彼は団本部付落下傘研究部の飛行歩兵少佐だった。武勲輝く勲五等正六位、功五級の旭日章を拝受している。
総司令部団長は最初が久米。次が河島、中村と団長が変った。
彼は茲に一年半駐留したが、新田原から唐瀬原へ飛んだ最初の落下傘訓練の試乗者であった。然も技術研究将校としての降下であった。
輸送搭乗者約十名、まづ彼自身指揮官として自から先頭に立って五名降下した。
背腹に軍装備同様な重さの石を背負い、美々津(みみつ)沖の海上へ降下する実戦訓練だったが、だが生憎台風のあとだけに波が高い。
予定の漁舟が一艘も出漁していなかった。
そこで彼は唐瀬原飛行場へ行き、次ぎ次ぎ降下した。
この時、彼は左手に二ヶ月の重傷。さっそく別府の陸軍病院へ入院治療した。

「川南開拓の記録」より、元陸軍落下傘部隊 谷文夫氏について


新田原にいた頃と違い、川南へ移動後は輸送機が離着陸する新田原飛行場まで通う必要がありました。
空輸担当の挺進飛行隊は新田原に留まっていましたからね。

悪天候時以外、川南の空挺隊員は列車で新田原へと「通勤」していました。
これは軍用列車ではなく、県北から宮崎市方面へ通勤通学する人々も一緒に乗り合わせる普通列車です。
空挺隊員は富田駅(現JR日豊線日向新富駅)で下車してからトラックで新田原飛行場へ。そこから航空機に乗って川南へと戻り、上空からパラシュート降下していたそうです。

縁のない丸い跳下帽をかぶつた兵隊たちは、いよいよ飛行機に乗る(私も跳下する兵といつしよに乗つた)。傘は十分に精密點検を終つてはゐるのだが、なんとなしに気になつて、傘嚢や、付属の金具などのあちこちを皮手袋をはめた手で触つてみる。跳下場がちかづいて來ると、無口になる。生あくびをする者もある。しかし、だまつてゐるとかへつて気分がうはずつて來るので、兵隊達はわざといろいろな雑談をやる。浪花節をうなる者もある。大声で笑つたりするが、その唇はどこか硬ばつてゐてほんとうの笑ひではない。
兵隊は渾身の勇をふるつて精神を統一し、静めようと努力する。跳下場が眼下に見えて來る。跳下用意の合圖のブザーが三つ鳴る。


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扉がひらかれる。自動索の茄子環が機體の内部に張られたワイアにかけられる。茄子環をかける手がこころもちふるえてゐる。
かけた索をなんども引つぱつてみる。眼が血走つてゐる。
「跳下用意」
兵隊ははげしい風圧のなかに両手をつきだし「一、二」と號令をかけて手すりを握る。


降下

「跳下」
叫んだ分隊長は兵隊の背中をたたいた(私の泊つた内務班のある曹長は、ぷつと手に唾をふつつけ「ようし」と大きな声をだして、どんと跳下兵の背なかをどやしつけることで有名である。その班長の動作で跳び下りる兵隊は力を得て空間にとびだすことができるといふ)。
躊躇することは禁物である。
「やあつ」
と掛け声をかけ、両手を高くあげ、四十五度の角度に身體をかたむけた姿勢で、兵隊はとびだす。
その「やあ」はかけ声といふよりも、兵隊の全身が叫び声にかはつてしまつたかと思はれるやうな気魄に溢れた絶叫である。


降下兵6

空間に出た瞬間は無我夢中である。
視力がなくなる。開傘と同時にうけるはげしい衝撃ではつと我にかへる。何回もとび降りると、この開傘までの数秒の時間をながいと思つたり、その短い時間に傘がひらくか知らんと思つたり、自動索の切れるぷつつといふ音が聞えたりするやうになる。
ああ傘がひらいたなと思ふとともに、生きてゐたといふ溢れるやうな生命感が胸によみがへる。
このときのうれしさと誇らしさといふものはたとへやうがない。大空を征服したやうな英雄的な気持になり、胸が張つてみたい。
知つてゐる誰かれに見せたい思ひに駆られるのはそのときである。
同時に空間にぽつんととりのこされたやうな寂寥感にとらはれるのもそのときである。叫びたい衝動に駆られる。


降下

はじめは落ちてゆくといふ感じはなく、浮いて流されてゐる気持。耳のそばでしゆうしゆうと音がする。
豫備傘をすてなければならぬ高さになつて來ると、にはかに大地がぐつとせりあがつて來る。着地の瞬間まで気をゆるめてはいけない。
地に足が着いたときには、ふたたび生きてゐたといふ氣持に心ものびやかになる。なんでもできないことはないといふやうな大きな氣持がわく。まだ飛んだことのない初年兵たちは、無事に降りて來るのを見ると拍手をする。


降下

疲れてゐて身體はだるい。汗がにじみ出てゐる。トラツクで兵営にかへるときには凱旋するやうな気持で、口笛を吹いたり、歌をうたつたりする。
生の圧迫感からにはかに解放された興奮である。


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さいしよはほとんど突きおとすやうにする分隊長と跳下兵とは、生命をあづかりあづける気持のうへに、とくべつの愛情が生ずる。一人前にするために分隊長はいかなる努力もおしまず、また一身上のことや、身のまはりのことまで細かく世話をやいてやるのである。
火野葦平「落下傘部隊」より 昭和18年

空挺部隊の存在を隠すため、付近を通過する列車はシャッターを下ろすなどの防諜措置もとられていました。
まあ、多くの宮崎県民にとっては「公然の秘密」だった事でしょう。
空から舞い降りるたくさんのパラシュートを隠すなんて、どう考えても不可能ですから。

唐瀬原台地の下を通る日豊線はいいとして、問題は台地の上を通る国道10号線(当時は3号線)。
陸軍の秘密部隊が幹線道路の真横で訓練をするという、訳のわからない状況が出現していたのです。
現在でいいますと、川南町役場から都農町方面へ国道を走っていくと、塩付のJA果汁工場裏あたりでパラシュートが舞っていた事になります。これでは軍事機密もヘッタクレもありません。

当然ながら、空挺部隊側では情報を秘匿する必要に迫られます。
なので、ハタ迷惑なことに国道は封鎖されてしまいました。
今も昔も、国道10号線と日豊線は宮崎県の動脈です。その生命線を陸軍の勝手な都合で切断されては堪りません。日向と延岡が孤立してしまいます。

で、苦肉の策として造られたのが、県北へ迂回する代用国道。
10号線からトロントロンの旧道へ入ると、唐瀬原台地をくだって海岸沿いを都農町方面へ抜ける道路がありますよね。アレが代用国道の名残りだったりします。
昭和17年6月1日に80万圓を投じて始まった「カテ一国道付替工事」は台風襲来などで予想外に難航し、全長9949mの迂回道路が完成したのは昭和19年3月11日のことでした。

宮崎縣公報
宮崎縣告示第七十五號農林省高鍋川南開拓建設事業

國道三號線中、左記區間ハ圖面ノ通區域ヲ変更シ、新道及之ヲ接續スル橋梁ノ使用ヲ開始スルト共ニ
舊道及之ヲ接續スル橋梁ノ使用ヲ廃止ス

昭和二十年三月十三日
宮崎縣知事 谷口明三


これと並行して、地域住民に対しては機密保持のための取組みが行われました。

練習部は全員降下者の主義の下に木下中佐以下全佐尉官は降下訓練を受け、降下金鵄章を腕に輝かせて其の英気を自ら振作すると共に、舞台の団結戦力の向上を計ったのである。
防諜のためには単に秘することは空から白傘が下りるので不可能であるから、地方地元の人には部隊を見学させ、好奇心を除いた后に地方外に漏れることを民衆の口から防止する政策を取った所、県外に落下傘部隊の駐屯を秘することに成功した。

空挺戦友会資料より

そりゃそうですよね。

さて、防諜の問題は置いといて。
「切り札」ゆえに、陸軍落下傘部隊の実戦投入は簡単におこなわれませんでした。
華々しい大規模空挺作戦から悲惨な結果に終った特攻作戦まで、戦局の所々でその姿を現す隠密部隊だったのです。軍上層部ですら空挺部隊が何をしているか実際に見た人は少なく、昭和16年10月28日には陸軍省をはじめとする軍高官らを招いて唐瀬原での降下演習が披露されました。
この演習によって、軍内部での陸軍落下傘部隊への評価は高まります。

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降下前、パラシュートの最終点検をおこなう陸軍空挺隊員

「永友有計子先生と生徒代表の五名は、陸軍病院に傷病兵の慰問に出かけることに決まり、私も行きました。
戦局もあまりせっぱつまってはおりませんでしたから、昭和十七年頃の初冬の頃ではなかったかと思います。
その病院がどこだったのかはよく覚えていませんが、たしか軍の車に乗って行ったと思います。
クラスで持ちよった花、はげましの手紙(名前は記入してはいけない。学校の方針でした)廃物利用で作ったお人形、などを持って行きました。
入院患者の殆んどは怪我の人でした(外科病棟に案内されたかもしれません。)
どの病室もいっぱいでした。クレゾールのきついにおいと、殺風景な病室、男の看護人に普通の病院との違いを見ました。
一番初めに入った病室には、足に大きな副木をして、動かないように天井から足が支えてありました。
あまりの痛々しさに驚きました。言葉も出ません。
先生が「お話していいですか。体にさわりませんか」と言われると、その人は嬉しそうにして、いろいろ話されました。
きっと永友先生を、お母さんのように思われたのでしょう。
落下傘部隊の軍人さんでした。降下時に引きずられて複雑骨折だったのでしょう。
飛行機から落下傘で下りるのを、遠くから見ているととても美しく、軽やかにファーッと地上に着くようですが、かなりのショックだそうで、風が強かったりすると予想出来ない事故もあると話されました。
落下傘は相当に厚みのある絹で、とても大きく重量もあるから、引きずられると恐かったことでしょう。
現在のは全く知りませんが、あんな落下傘ではないだろうと思います。
先生が「飛行機から飛び下りるのは、初めはとても心配もあるし、こわいでしょうが、慣れると平気になるのですか」と尋ねられると、「いいえ、落下傘だけは慣れる程、恐ろしさが加わります」と言われたのが忘れられませんでした。
家に帰ってこの事を話すと、母が「可哀想ね」と涙ぐんでいました。
高鍋では訓練時、落下傘が開かないことはなかったが、荷物用のが開かないことがあったそうです。
それだけ人が使用するのは真剣に慎重に、取扱ったのでしょう」
「いのち輝く」より

洋の東西を問わず空挺部隊の訓練は危険が多いもので、日本陸海軍空挺部隊でも負傷者や殉職者を出しています。
陸軍空挺部隊では、白城子での訓練中と宇都宮での天覧演習時に不開傘による墜落死亡事故が発生し、初宿曹長と松浦軍曹の2名が殉職。
使用する降下装備は何度も改修され、より安全性を高めたものとなりましたが、それでも空挺隊員はいつも死と隣り合わせでした。
昭和17年に製作された映画「空の神兵」では、普段より入念に落下傘を折り畳み、友人知人に手紙を書きまくったり、ドイツ空挺隊教本を読みふける者など、初降下を控えて不安げな隊員達の心情が描かれた場面が出てきます。


もし傘が開かなかつたら?
落下傘兵にとつて、それは犬死にひとしい。
落下傘兵は死んではならない。
失敗は成功の基、といふ諺がある。
しかし落下傘兵にとつては、失敗は永久の失敗でしかない。
落下傘兵は死んではならない。
少なくとも目的を貫徹するまでは、断じて死んではならない。
落下傘の降下はあくまで奇襲にある。
落下傘部隊が全滅した場合、特異なその奇襲作戦は根こそぎ覆滅されるからである。
従つて傘は何よりも大切な兵器であり、生命そのものといふよりも、
着地するまではむしろ生命以上のものなのである。

昭和17年2月讀賣新聞掲載「落下傘部隊長徳永中尉手記」より

その落下傘に命を託し、陸軍空挺部隊が最初に実戦投入されたのは、昭和17年に行われたスマトラのパレンバン精油所占領作戦でした。
南方石油資源確保の為、「切り札」が使われる事となったのです。

(第3部へ続く)
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