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椎八重および958高地・墜落日本軍用機の戦没者慰霊碑(宮崎県北諸県郡三股町)

Category : 北諸県郡の戦跡 |

七名の戦没者は、二十四年という長い間、冬季は時折雪が積もり、寒風吹きすさぶ山肌に埋まったまま放置され、さぞかし辛かったろう。
誰一人として花を手向ける者もなく、まして肉親にもめぐり会えず、安らかな眠りもできなかったであろうと思う時、誠に痛恨の極み、済まない気持ちで胸の張り裂ける思いである。
どうして、戦後二十四年も山の上にその儘にしておいたのか。
終戦後すぐ遺骨を収集する方策はなかったのか。
祖国日本の繁栄と安泰を願いつつ、散華された七名の戦没者の方々が不憫でならない。
椎八重・九五八高地のそれぞれの発掘作業は無事に終え、箱に納められた遺骨(体)は、当日援護課の職員によって県庁同課安置所に護送、安置される。そして同年六月十三日宮崎市の火葬場で荼毘に付された。その遺骨は厚生省に引き渡され、同省を通してそれぞれの遺族に交付されたとのことである。
なお、遺体発掘前に、九五八高地の戦没者加藤七郎少尉(機長)が、当時の宮崎県副知事加藤韓三氏の実弟であることが判ったということは、まことに奇妙な因縁としか言いようがない。

三股町福祉課 桑畑和男氏「椎八重・九五八高知戦没者慰霊小史」より

958高地3

三股町から北郷町・日南方面へと山越えする33号線。
その途中に、椎八重(しいばえ)公園という広場があります。
通称「つつじがおか」とも呼ばれるとおり一面にツツジが植えられており、山奥の渓谷でありながら春には花見の人々で大賑わい。以前は食事処やニジマスの釣堀もあったようですが、現在は散策コースのみに施設も縮小しました。
開花の季節以外には訪れる人もまばらです。

この公園の中央部には、木々に隠れるようにして石碑が設置されています。
のどかなこの地で、かつて2件の航空事故が発生。計10名の飛行士が殉職しました。
石碑は彼等を悼むための慰霊碑で、正式名称を「椎八重 958高地戦没者慰霊碑」といいます。

椎八重5

昭和44年2月6日のこと。宮崎県の三股町役場宛に静岡県の浜松市長より公文書が届きます。
「昭和二十年五月七日、三股村大字長田九五八高地で戦没した故大山二郎氏の戦没状況を調査して欲しい」との依頼でした。

浜松出身の大山二郎曹長は、戦争末期に赤江飛行場(現在の宮崎空港)から四式重爆撃機で出撃。沖縄方面のアメリカ艦隊攻撃から帰還する途中、三股町に搭乗機が墜落して戦死を遂げました。
大山曹長の母であるこはつさんは、息子の最期を知りたいと浜松市長を通じて三股町へ照会したのです。

これを受理した三股町役場でしたが、敗戦から既に24年が経過。戦時の記憶も薄れ始めていました。
まして、米軍上陸作戦に備えて都城近郊に防衛部隊が集結し、混乱状態だった頃の出来事です。事故を覚えている人など殆どいません。
墜落現場の山林を所有していた島津山林株式会社に問い合わせたところ、「同社の長田事務所主任である重信氏が事故処理をした」との証言が得られました。
重信氏の記憶を頼りに、さっそく調査が開始されます。

椎八重4

驚いたことに、重信氏が処理したのは全く別の墜落事故だったことが判明。
三股町には大山曹長が搭乗していた陸軍の「四式重爆撃機」だけではなく、海軍の爆撃機「銀河」も墜落していたのです。

重信氏の証言によって、昭和二十年三月二十九日夜、島津山林所有のつつじが丘下の林道を一・五キロほど登った地点の、西方に聳える山頂近くの峻嶮な崖下付近(通称くえんそで)に、海軍機「銀河」が火を吹いて激突、搭乗員三名が戦没した。
当時、重信家人氏の父親重信家朝氏(故人)が、大野集落の区長もされており、軍の指示で戦没者三名の遺体を自分の家に運んで、庭先で火葬して軍に引き渡したという事実が判明した。

(戦没者名)  (階級)  (本籍地)
加々美勤 海軍大尉 山梨県
坂下義之 海軍飛行兵曹長 茨城県
上玉利俊之 海軍飛行兵曹長 鹿児島県

なお、戦没者三名の現場における残骨は、前大野墓地(現在椎八重公園の中央付近)に埋葬した事実も判明し、同年三月三十一日墓標を建て供養する。

「椎八重・九五八高知戦没者慰霊小史」より

調査開始から1か月後の3月20日、鹿屋市で特攻慰霊式典が開催されました。
その帰路、式典に参加した大山こはつさんが都城市に立寄ります。
都城市役所から通知を受けたものの、大山曹長が搭乗していた陸軍機は墜落現場すら判明しておらず、三股町役場では海軍機の墜落地点へ遺族を案内するしかありませんでした。

椎八重3
椎八重公園からの眺望。山々の向こうに958高地こと天神山があります。

そのまま調査が頓挫しかけた頃、新たな証言が得られます。
重信主任の助言から、墜落地点の田野町側にある島津山林天神事務所にも調査を依頼していたのですが、同事務所の大村主任が墜落現場を目撃した無頭子集落(現在は天神ダムに水没)の住民3名を探し当てたのです。
3月25日、天神事務所で行われた訊き取り調査によって下記の事実が判明しました。


終戦直前の昭和二十年五月六日、夜十一時頃西方から火を吹きながら友軍機一機が鰐塚山近くの山頂(九五八高地)の下に激突して燃え上がり、周囲の山林は火の海と化したとのことである。
その翌日、当時青井岳地区に内地軍として軍務についていた数名が遭難の現場に遺体処理のため急行した。
前述の三人は、子供ながらも好奇心から恐る恐る兵隊の後について行ったとのことである。
遭難現場の雑木林は焼きつくされ、遭難者七名の遺体はすべて焼死体で黒焦げとなり、一人の方は焼けた木の枝に宙づりになっていたという。
七名の遺体は、一体づつ斜面になった山肌に適当な穴を掘り、埋葬されたとのことである。
埋葬作業後、作業に当たった兵隊から子供たちに対して、この事実は他の人にはどういうことがあっても公言してはならないと、軍事機密の面からきつく注意された。
そこで、三名の少年はこの事実を知りながら、当時言われた軍事機密を戦後二十四年間も忠実に守り続け、今日まで一切、公にしなかったとのことである。
当日、帰庁後早速県援護課に、九五八高地の戦没状況調査の結果を報告。痛ましいこの事実が判明した以上は、一刻も早く遺骨を発掘して遺族に渡すよう強く要請する。

「椎八重・九五八高知戦没者慰霊小史」より

事故が起きたのは昭和二〇年(一九四五)五月六日夜半で、旧日本陸軍赤江飛行場駐留の飛行第九八編隊、爆撃機「飛龍」だった。
宇木中佐率いる三機編隊の爆撃機は沖縄を攻撃しているアメリカ航空母艦への魚雷攻撃の目的で航行していたが
途中で敵機の猛攻撃をうけ三番機(加藤機)が被弾しエンジン不調となり部隊長の指示により攻撃を諦め、宮崎赤江飛行場への帰還を目指した。
ようやく飛行場の明かりが見える天神山九五八高地の上空に達して、先に宇木中佐機が旋回を始め着陸態勢をとった時に後方加藤機が火を噴いて山頂に墜落した。
三番機には大山二郎曹長(操縦士)、加藤七郎少尉、高橋建雄曹長、藤谷善一軍曹、加藤定安軍曹、原宏伍長、遠藤雄次郎伍長の七名が登場しており全員が死亡した。
(五月七日)夜中の出来事であったが山の麓の青井岳無頭子地区の人々は轟音とともに赤く燃える山の頂上を眺め「何処の飛行機やろうか」と案じたという。
翌日、軍関係者がやって来て地区民に現場まで案内させた。
遺体を現地に埋葬し、地区の目撃者等に口外することを強く禁じて引き揚げた。
昭和四四年(一九六九)に犠牲者の一人大山二郎曹長の出身地であった静岡県浜松市の市長が三股町に墜落現場の調査を依頼されるまで、このことを知る人は無く忘れられていた。

山下ひとみ氏「旧日本軍戦闘機墜落現場の慰霊碑(南九州文化掲載)」より 

6月10日、三股町から再三の要請を受けた宮崎県援護課は、2カ所の墜落地点で遺骨発掘作業を実施しました。
椎八重大野墓地発掘作業班は12名、九五八高地発掘作業班は16名。各班は県職員、町職員、僧侶、遺族会、作業員、島津山林社員で構成されていました。 
山奥での難作業が予想される九五八高地発掘班は国民宿舎青井岳荘に前泊、明朝6時に出発します。


喘ぎながら山腹の長い道程を攀じ登り、戦没者の埋葬現地に着くとすぐ、僧侶の読経・供養などをすませ、いよいよ発掘作業に入る。
現地は、標高九五八メートルの山頂から二、三十メートル下がった斜面に、あちこち雑木林があって、遺体は山の斜面をうまく選定して、じぐざぐに埋葬してあった。
六名の作業員は、おそるおそる発掘作業に入る。
すべての遺体はすっかり白骨化しており、身元確認ができたのは七名のうち一名(飛行靴に白いエナメルで「えんどう」と明示されていた)のみで、あとの方は遺体のそばに拳銃があったもの、金歯のある人、銀歯のある人、また一人は頭蓋骨がなかった。
それぞれの特徴を捉えて、一体づつ準備された箱に納める。緊張の中にも発掘作業は無事終わる。

「椎八重・九五八高知戦没者慰霊小史」より

椎八重2

遺骨収集が完了した同年11月、大河内三股町長は慰霊碑建立を発案します。
翌年6月13日、町長を委員長とする慰霊碑建設委員会が発足。三股町議会の承認を受けて公民館長連絡協議会を開催し、地元住民に対する建設への理解と協力が依頼されます。
7月4日に建設趣意書が配布されると、各方面から寄付金が続々と集まりました。
その額は、当時のお金で三股町民から180,171円と遺族・自衛隊員から86,000円。建設費40万円のうち、合計266,171円が寄付金で充当されました。

椎八重6

慰霊碑の設置場所は建設中だった椎八重公園内と決まり、椎八重川流域では町職員の高橋義忠氏による碑石の選定作業が始まりました。
検討の結果、碑石は椎八重公園から1.5㎞上流にあった石(重量5t)に決定。搬出作業には、島津山林の許可と陸上自衛隊都城駐屯地の協力が得られました。
昭和45年11月6日、第23普通科連隊は本部管理中隊員14名と重機を投入、碑石の搬出作業を無事完了します。

958高地6

958高地8

慰霊碑の設計は三股町建設課の中村課長、碑文は町民課の大脇主幹、施工は坂下石材店が担当し、12月20日に着工。
飛行機の両翼を模った台座には現場で発掘された戦没者の遺品(靴底、拳銃、機体の破片)などが埋め込まれ、懸念された寒さによる遅れもなく昭和46年2月1日に竣工しました。

958高地4

つつじ

同年3月21日、戦没者の遺族、宮崎県知事代理の加藤副知事(加藤少尉の実兄)、県援護課長、三股町三役、郷友会、自衛隊関係者を招いての除幕式が開催されました。
事故解明の発端となった大山曹長の母、こはつさんも静岡県から参列し、険しい天神山を登って息子が遭難した現場を訪れています。

958高地5

958高地2

建立経緯
ときに昭和二十年 大東亜戦争も日を追って激しくなり たまたま三股町椎八重並びに九五八高地に於いて飛行第九八編隊の七名 及び暁輸送部隊の三名は沖縄出撃の重大任務をおびて行動中 惜しくも遭難戦死をされ 遺体は二十数年間現地の山中に埋葬され 状況不明のまゝ放置されていた。
ところが昭和四十年二月 この事実が詳かになり 同年六月地元の人や島津山林株式会社の協力によって発掘し 遺骨は無事に遺族のもとに届けられたのである。
ここに祖国の栄光を念じつつ散華された十名のゆかりの地に町民こぞってとこしえにみたまの安らかなれと祈り
この慰霊の碑を建立する。

昭和四十五年十二月二十三日
三股町民


都城市から車で30分程度の場所に墜ちた飛行機が、何故忘れられたのか。
それは、墜落地点の天神山に登ってみれば分かります。

DSC02558_R.jpg
山之口町の青井岳方面から境川沿いに登ったところ。
飛龍が墜落した天神山は、擁壁で固められた山の向こう側にあります。この辺の地質は手で砕けるほど脆い泥岩であり、いともカンタンに山崩れをおこします。
先年、天神山一帯でも大規模な斜面崩落がありました。
※2014年夏に再び土砂崩れが発生し、復旧工事のため現在進入禁止です。

「269号線から境川沿いに延々と上って行けば、天神山頂へ迂回する登山道があるだろう」などと思うのは大間違い。
上流域の道路は林業用の私有地として封鎖されており、関係者以外の車両は立ち入り禁止です。
地図で確認すると、迷路のように分岐した作業用道路が山腹全体に張り巡らされている上、天神山のずっと手前で林道は行き止まり。
要するに車で辿り着くのは不可能です。

天神山への最短ルートとしては、麓の砂防ダム付近から徒歩で登る以外ありません。登山道は大規模崩落で消滅していますし、余程の物好きしか登らないんじゃないでしょうか?
谷底を溯上すると幾重もの砂防ダムが立ちはだかり、周囲の尾根から迂回しようとすれば密生したススキの藪が行く手を阻みます。
夏場はコレに加えて蚊とアブとブユの猛攻。周辺に広がる湿地帯はイノシシのヌタ場と化しており、視界が悪いのでそっち方面との遭遇も不安だったりします。

天神山登頂を目指す中には、巨大な擁壁を攀じ登って頂上へ行こうとする人もいる筈です。私みたいに。
アレは止めといたほうがいいですよ。

どちらにせよ、半世紀以上が経過した墜落地点へ辿り着くのは非常に困難。
墜落事故が忘れられた理由は、このような地理的条件も影響していたと思われます。



天神山麓には、旧軍関係者による飛龍墜落事故の看板が設置されています。おそらく地主さんの厚意によるものでしょう。
墜落事件が明らかになった昭和44年といえば、私が生れる前のお話。
戦後24年間、ご遺族や戦友はずっと戦争を引きずっていたのですね。
天神山で命を落としたパイロット達への思いが、この看板には切々と記されています。

DSC02565_R.jpg

山主様 無断使用御許し下さい
※沖縄航空戦の出来事
昭和20年5月6日、加藤機は宇木中佐(部隊長)の指揮する三機編隊の三番機として沖縄アメリカ航空母艦えの魚雷攻撃に出動する。
而し機体に被弾して飛行困難となる。
部隊長の指示により、ようやく赤江飛行場上空に帰る。着陸のための旋回飛行に移る。
宇木中佐機が着陸態勢に入った、そのとき後方に火災が見えた。
無念でならなかったと、後日真況を私に話された。
操縦は大山軍曹だったのに残念でならない。
戦後は戦犯となりどうすることも出来なかった。心中で御慰霊申上げるだけで本当申訳ない。
私に下さるお手紙には、幾度か此の言葉を使われていた。


DSC02569_R.jpg

左の写真は私の愛機です。赤江飛行場にて魚雷の搭載作業中です。


追書
加藤少尉、大山軍曹、高橋軍曹、藤谷伍長、加藤伍長、原兵長の六名の英霊は椎八重公園にて永眠中です。

以上、原文ママ

椎八重7


思うに、あの浜松市長からの貴重な文書がなかったら、本町におけるこの件の戦後処理の作業は、もっと遅れていたかも分からない。
特に、九五八高地で遭難戦没された七名の方々は、前述のように、二十四年もの長い間あの北向きの酷寒の山の頂きにあって、冷たい風雪にさらされ、誰一人として花を手向ける者もなく、さぞかし辛く寂しかったであろう。
返す返すも、尊い御霊に対し、胸の詰まる思いで一杯である。
唯せめてもの救いは、多くの方々の浄財とご厚情によって、終焉のゆかりの地に慰霊の意をこめた立派な碑を建立することができた事である。
これからは、九五八高地の戦没者七名と椎八重の同三名の方々を末永く後世に顕彰していくことが、私達に課せられた責務である。
どうぞ、十名の戦没者の皆さん、この終焉の地で、とこしえに、安らかに。

三股町役場 桑畑和男氏

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海軍勝山通信所(宮崎県北諸県郡三股町勝山)

Category : 北諸県郡の戦跡 |

三股
勝山の海軍通信所跡地

都城東飛行場の裏手にあたる三股町勝山地区には、陸軍都城東飛行場と隣接して海軍の通信施設がありました。
勝岡小学校の東側にある竹薮附近には基礎も残っていたそうですが、現在は標識を含めて撤去されています。