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陸軍都城東飛行場(都城市及び北諸県郡三股町)

Category : 都城市の戦跡 |

昭和十七年のある日、航空本部長から川崎航空機工業の社長に呼出しがかかった。何事かと思いおそるおそる行ってみると、数千キロを往復できる4発の超大型の長距離爆撃機を急いでつくってくれ、という指示である。

(中略)
しかし、川崎航空機の技術がいくら優秀でも、本土から数千キロを一気に往復する飛行機は当時としては容易につくれるものではない。かりにそんな飛行機ができたとしても、2~3キロの長さの滑走路を持つ飛行場が必要になってくる。
いろいろ検討してみたが、日本にそんな場所は見当たらない。
しばらく返事を保留していると、また軍から督促がきた。もうできるかできないかといった打診程度のものではなく、命令である。
主として南方へ向かって飛ぶのだから、5キロでも10キロでも南に近いほうがよい。
会社の幹部はこう考えて、九州を候補地にあて、宮崎県都城の土地を選んだ。

仙波正「川崎重工岐阜工場の想い出」より 都城市史掲載

碑文
●都城市前目公園にある東飛行場の歴史を刻んだ石碑

都城東飛行場は、国道10号線と沖水川の交わる一帯に設置されていた軍事施設です。
古来、軍事的な要衝であった都城盆地は航空基地としても適していたのか、都城東飛行場、西飛行場、北飛行場と3つの航空基地が集中。
東飛行場は、都城衛戌病院(現在の国立都城病院)の隣りに川崎航空の飛行機工場が新設されたことに伴い、その大型機用試験飛行場として建設されました。
工場から沖水川を挟んだ対岸一帯に、整地工事を経て滑走路が建設されます。

軍の委託を受けて宮崎県が用地買収に取り掛かったのが昭和15年5月のこと。
用地買収は2年後に完了。並行して埋め立て工事などが進められますが、本格的な整地ができたのは一部のみ。
広大な原野に飛行場施設や宿舎が散在する「草飛行場」のままでした。

東飛行場の滑走路が設置されていたのは現在の都城市都北町、兵舎や掩体壕は北諸県郡三股町蓼池あたり。
昭和19年頃から第六航空軍所属の特攻隊「振武隊」の出撃拠点となります。
猛烈な空襲で都城西飛行場が機能停止したことにより、残る東飛行場からは特攻機が次々に飛び立ちました。
東飛行場から出撃した特攻隊員は53名。彼らは沖縄の空で散華しました。

「昭和二十年四月、高等科二年になると、川崎航空への動員となった。
同時に東飛行場からの特攻機の出撃が開始された。朝早く特攻隊員を乗せた軍用トラックが竹林の前を通って来ると、道路沿いの人々は、自宅の前に出て、手や日の丸を振って見送ったのである。
まるで昨日、今日のように思い出される出来事であった。今、当時の悪童たちもバラバラになり、音信もない」
「八月のエスカルゴ」より 神崎義照氏の証言

戦後に滑走路や掩体壕を含む施設は撤去されてしまい、多数の特攻機が出撃した当時の面影はありません。
現在は、都城ICから少し離れた都北工業団地内の公園2箇所に記念碑だけが残されています。
※激しい爆撃に晒された都城西飛行場とは違い、草原と見間違えられた東飛行場は空襲を受けなかったそうです。

掩体壕

戦争遺跡
都北町旭公民館横の公園に設置されている特攻慰霊碑。

鎮魂(都城東飛行場)

 太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立った。
 都城東飛行場は、昭和十九年前半、海軍が地元住民の協力を得て沖水川流域の田んぼを飛行場に急造したもので、表面がでこぼこの誘導路は、たこの足のように伸びた形をしており南北に約一五○○メートル、東西に五○○メートルの大きさで、まさに自然の草原さながらであった。
 当初は海軍が零式戦闘機で訓練していたが、翌二十年三月、来る沖縄戦に備え第百飛行団配下の四式戦(疾風)装備の飛行第百一戦隊が展開、その後は陸軍専用の基地となった。
 同年三月十八日には西飛行場が空襲を受けたが、東飛行場の特攻機は、たこの足のような誘導路を伝って森林や山裾の影の掩体に潜み空襲を逃れた。
 また、部隊の宿舎も東南側の五○メートルほどの丘陵地帯に半地下壕式であったため、最後までこの飛行場から特攻機が飛び立った。
 同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立った。
 同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
 また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
以後(昭和二十年)
五月  四日 第六次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(六名)
五月 十一日 第七次総攻撃にあわせて、第六十振武隊(三名)
五月二十五日 第八次総攻撃にあわせて、第五十七振武隊(十一名)
                   第五十八振武隊(十名)
                   第六十振武隊(一名)
五月二十八日 第九次総攻撃にあわせて、第五十八振武隊(一名)
                   第五十九振武隊(三名)
六月  八日 第十次総攻撃にあわせて、第五十九振武隊(六名)
六月二十一日   航空攻撃にあわせて、第二十六振武隊(四名)
六月二十二日日            第百七十九振武隊(五名)
七月一日 第百八十振武隊(二名)
次々に飛び立ち、幾多の若者の命が散っていった。
同年八月十五日、終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝える事、恒久的平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日
  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会
  会長 岩橋辰也


たった独りで飛び立っていった特攻隊員もいたのですね……。

掩体壕

東滑走路3


東滑走路4
東飛行場の滑走路は、現在の都城家畜市場を南北に横切るかたちで設置されていました。

蓼池4

都城市とは別に、三股町の蓼池にも特攻隊の記念碑があります。
滑走路から誘導路で繋がっていた蓼池(現在の旭ヶ丘運動公園周辺)には、掩体壕の他に飛行場指揮所や多数の三角兵舎が設置されていました。
当時の誘導路は、三原交差点から蓼池郵便局へ抜ける車道として現在も利用されています。

蓼池
記念碑が設置されている三原地区コミュニティセンター。飛行場勤務者の兵舎はこの近辺に集中していたそうです。

蓼池5

「特別攻撃隊基地は都城東飛行場の名で昭和十九年に建設された。
沖縄特攻の出撃基地として六十九名の若者が出撃して行った。」
三股町教育委員会

現在、振武隊員の慰霊碑は都城陸軍墓地に設置されています。

敵機は明野隊の格納庫と兵舎に、反復してロケット弾と機銃掃射を集中していた。格納庫は第一撃でガソリンに引火し炎上した。
敵機は夢中で正確につかめなかったが、多分十数機であったと思う。
この日時間をおいて第二波が来襲し、又もや明野隊の施設に、ロケット弾と機銃掃射を集中、機数も第一波と同じ位であったと思うが、翼の不気味に曲がったコルセヤF4Uが混じっていたようであった。同期の話によると、機体にワニザメが書かれていたという。
ただ第一波と違って、第二波は来襲を予想しており、通信も小銃の対空射撃隊を編成し待機していたが、いざ本番になったら「撃つと煙が出て狙われるから撃つな」という、おかしな命令が出て射撃はしなかった。

「埋れた青春」より 都城西飛行場空襲の記録

神柱

魚雷

昭和20年3月18日。沖縄上陸へ向けた露払いとして、米機動部隊艦載機群は九州南部を奇襲攻撃します。
攻撃目標のひとつとなったのが宮崎県都城市。
この盆地は3つの陸軍飛行場と川崎飛行機の工場、鉄道が集中する大隅方面の要衝であり、米軍の攻撃リストにも詳細なデータが記載されていました。
以降、都城市は執拗な空襲に晒されます。
米軍の最優先目標だったのが都原町にあった都城西飛行場でした。
B29から徹底的な爆撃を受けた西飛行場は、5月になると機能を停止します。

「思えば今も忘れ難い三月十八日早朝のことでした。
春の彼岸前は、まだ都城地方の朝は、霜の強い日が続くころで目は覚めていたが寒いので布団の中で、まだ夢うつろの状態でいる時、突然しずかな朝の大気を突き裂くが如き振動とドシン、ドシンと大音響。
また桜島の噴火かと、思いながら布団の中で耳をすましていると、なにか知らん、微かに遠くで飛行機の爆音が聞える。はて、おかしいなあと頭を布団から出した瞬間また、先刻のようにドシン、ドシンと地響きとダッダ、ダッダと云う音に、咄嗟に、これは敵機の空襲、機銃掃射だと直感、床より跳ね起き外へ飛び出して見ると雲一つとない晴天。
南の空に黒褐色の煙が東の方へと、もくもくと、たな引いている。
どこからともなく聞えて来る空襲警報。退避しろ退避と叫び、今頃になってさけんでも遅いわと、私は一人言を、言いながら素早く身仕度して、すぐさま近くの城山(安永城跡)に駆け上がった。
既に庄内小学校に駐屯している兵隊達が退避していた。私も木蔭に身を潜めながら都城市街の方を見渡すと、まさしく都城西飛行場(現在の都原町一帯)付近から黒煙と火焔がめらめらと上がっている。
その上空から紺色に輝いた戦闘機が、次ぎから次ぎへと反転急降下して行くではないか。飛行場周辺から、撃上る機関砲と敵機の機銃掃射と撃ちあい、まるで仕掛花火でも炸裂しているような音が聞こえて来る」
「埋もれた青春」より

都城空襲

都城空襲

都城空襲

都城空襲犠牲者追悼碑 碑文

第二次大戦の末期、米軍は、沖縄本島への上陸に先立ち、南九州全域の軍事施設を攻撃した。
都城は、昭和二十年三月十八日早朝、初めて空襲され、以降終戦まで二十回余の無差別爆撃によって、街は廃墟と化し多くの人命が奪われた。
街は戦後いち早く復興したが、空襲犠牲者については半世紀も放置されてきた。
戦後五十年の行事を通し「空襲犠牲者の掌握なしに、都城の戦後は終わらない」と、調査が始まった。
治安維持法犠牲者国家賠償同盟県南支部と都城市の積極的なとりくみによって、四十四名の子供を含む八十八名の犠牲者が判明した。
ここに、心から犠牲者を悼むとともに、恒久平和を誓い、追悼碑を建立する。

平成十一年八月五日
都城空襲犠牲者遺族会


草原と見間違えられた都城東飛行場と都城北飛行場は無傷だったものの、東飛行場からは特攻機が続々と出撃。多数のパイロットが散っていきました。
北飛行場も特攻基地でしたが、こちらに配備されていたのは「赤トンボ」と呼ばれた旧式の複葉練習機。
これではさすがに出撃の機会もなく、北飛行場の特攻隊は待機のまま終戦を迎えます。

「その後二三日してから前述の空襲で敵グラマン機二機が撃墜され、その残骸が都城神柱神社の境内に晒してあるという情報が伝わって来たので翌日、自転車で、わざ〃都城神柱神社まで見に行ったことを今も思い出します。
境内に着いて見ると大勢の人だかりで、順番を待って前に出て墜落機を見ました。
胴体の紺色に白色の星のマークは鮮明に残っており、エンジン部分と両翼はメチャメチャに壊れており、パイロットが持っていた携帯無線のアンテナ(黒色の長さニmぐらい)が胴体部分に立て掛けてありました。
このアンテナを見物人のほとんどの人が、釣竿だと言っていたのを、私は今も思い出し苦笑します。
当時の都城市民は、まだ科学的な知識は低かったようです。
私も、この時初めてアメリカ軍のグラマンF6の空襲を体験して、はたして日本は、これでも勝てるのかと当時疑問が生じ出していました(〃)」

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当時の神柱神社。あの辺の風景も随分と変化したんですね。

「四月十九日出發。現・都城農業高校の裏手にあった会社の寮「高千穂寮」に入寮しました。
食堂、風呂場は建設中で、今の国立病院辺りにあった工場の食堂まで食事に出かけました。
私達三年A組は軍隊式に四つの内務班に分けられ、私は第四内務班でした。一室十二名、左右に六人づつ、私は上段ベッドでした。畳一枚だったと思います。
工場生活が始まりました。
現場配属までは錬成という訓練です。警報が出ると休みになり、空襲警報では寮に帰り、解除になるとまた寮に戻る。
その繰返しの合間に私達は防空壕も掘りました。
寮の前を流れる高木用水路を渡った田圃に、各内務班毎に造りました。
都城に来て一番こたえたのは空腹でした。故郷から食糧が送って来たり、面会に来た人が持って来たりするのを輸送船と呼びました。それがとても嬉しくて、同室の人達と分けて食べました。
西小林の山下四郎君は「謹啓、今日は天長節に御座候……」で始まる両親への手紙に「握り飯を十五個位、友第に上げるから竹の皮に包んで、四人分別々にして送ってくださいませ」と書いています。
天長節は天皇誕生日で四月二十九日でした。
その頃は毎日B29爆撃機が銀色の機体をキラキラさせながら西飛行場を爆撃していました。
私達は壕の所から西飛行場に上がる土煙を眺めていました。
高射砲弾も当たらず、稀に迎撃戦闘機が落す空中爆雷もなかなか当たらず、空しく花火を咲かすだけで、とても残念でした。
そんな中、一日休みがありました。洗濯などを済ませてから、確か同室の前田薫君だったと思いますが、二人で街に出かけました。私は筍の味噌汁が無性に食べたくて、西駅前の千日通り、神都館の辺りを歩きましたが、戦時中の事とて食堂もなく、前田町辺りで漸く食堂を見つけました。Aランチ、Bランチなるメニューがあったのを覚えていますが、それが何だったのか、そこで何を食べたのか思い出せません」
渡辺正治氏「旧制小林中学三年生工場動員の記録」より

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当時の神柱神社

都城には川崎航空機製作所の軍需工場も設置されていました。
空襲激化によって熊本の阿蘇へ工場疎開が決まりますが、度重なる米軍機の襲撃を受けて犠牲者が続出しています。

「五月に入り、我々三年生も現場配属になりました。飛行機の翼を作るのを翼結構、胴体を作るのを胴体結構と称してそれぞれの部署につきました。
そして昭和二十年五月八日、学徒隊は朝隊列を組んで工場内の食堂に行きました。
かねては警戒警報の後に空襲警報が鳴るのに、その時はいきなり空襲警報が鳴りました。
敵機が近いということで急遽退避命令が出ました。
急いで防空壕のある寮のほうに引き返しました。
その日は曇り日和で機影は見えず、爆音だけが頭上に聞えましたが、襲撃は我々のいるところではなく工場の方だろうと安易に考えていました。そこに“ザァー”という音がして空を見上げると、カラスがニ、三羽飛んで来るような爆弾が見えました。
咄嗟にその場に伏せ、同時にドカン、ドカンという凄まじい爆発音がして、背中に土砂が降ってきました。私の前を三々五々歩いていた学徒の中に落下したのです。
土石を払い無我夢中で壕の方に走りました。後ろの方で誰かが「川野君、やられた」と言いました。
振り返ると同じ学校区の後藤君が左腕を抱えていて、上腕部の肉が飛び出しています。そのまま壕まで附いてくるだろうと走りながら再び振り向くと、彼はレンゲ田の中に倒れ、足を宙に浮かせて痙攣しています。
その時私は引き返して彼を助けることが出来ませんでした。その後悔の念がトラウマとなって、今も心の傷が癒えません。
壕の中ではみんな震え、先生も震えていました。そのうち集合がかかり点呼が始まりました。誰と誰がいないと分かり、惨状が明らかになりました」
川野八郎氏「不戦の誓い新たに」より

「右手の畠の中に誰かが倒れている。近づくと同室の狩集君です。
何処もやられている様子はなく、ゲートルに血がついているだけです。胸を叩いてゆするも反応がない。
眼が白目になっているのでこれは駄目だと立ち上がると、前方七、八メートルの所を大きな男が、酔っぱらいのようにフラフラと歩いています。谷ノ木君だと判った時、彼はバタッと水溜りの上に倒れました。
それを見たまま助けにも行かず、すぐさま壕の中に飛びこみました。壕には級友たちが入っていて、中には何人か爆弾の破片で怪我をしています。
外で「助けてくれ、痛い、痛い」と大声で誰かが絶叫しています。あれは堤の後藤君が腕をやられて叫んでいるのだと誰かが言いました。
暫くして同室の米川衛君が壕に入って来ました。服の背中に一杯血がついてます。
聞けば川野君を背負って来たのだと言います。川野君は通りがかった米川君を呼び止め、落ちていた片足を拾って片足で立ち上がり、米川君の背中におぶさって壕の近くまで来たのでした。私達はじっとして、あまりの恐ろしさに震えていました。
その間壕の外では、会社の人、先生達、上級生による遺体の処理、重傷者の運搬などが行われていました。
祝吉の公会堂の所に集められたようです。
「出てこおーい」という声であちこちの壕から避難者が出て来て凄烈しました。その時寮の所で時限爆弾が爆発して、土煙が真直ぐに立ちのぼりました。私達は寮と反対方向に歩き、とある大きい家の中に入って休みました。重傷の中原君を運んでいた佐伯君、別の場所にいた鵜狩君もここで追いつきました。
私達は郡元町にあった川崎航空の社宅(一戸建て)に内務班毎に移りました。
時限爆弾が何時爆発するかも判らないとびくびくしつつ、前の寮から布団などを運び出しました。
夜食は、級友の悲惨な姿が思い出されて食べられませんでした。
通夜の夜、社宅の前で松本先生の音頭で「海行かば」を歌いました」
渡辺正治氏「旧制小林中学三年生工場動員の記録」より

「真新しい柩が幾つも横に並べられていました。
川野君のお姉さんが「やっと間に合った」と言って走って来られ、最後の別れをされました。
たまたま飛行場に向かう特攻隊員達を載せたトラックが一台通りかかり、隊員はこの異様な火葬場の様子に気づいたのか、車を止めて荷台に立ったまま声を掛け事情を聞いて、全員柩に向って挙手の礼をしました。
「仇はきっと俺達が討ってやるから」
と言って走り去りました。その時の白いマフラーと鉢巻姿がいつまでも忘れられません」
菅通教氏の回想より

神柱神宮周辺には戦争犠牲者の慰霊碑をはじめとする史跡が今も残されています。
下は戦没者の忠魂碑。

都城空襲

忠魂

忠魂

忠魂

小松原

隣の神柱神宮境内には、戦争前に寄贈された魚雷が設置されていました。

魚雷

大正15年、海軍省から下付された四十五糎魚形水雷1基と三十糎砲弾2発。

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
火薬が抜かれた弾頭内部にはコンクリートが充填されています。


軍事施設への爆撃を終えた米軍は、市街地への無差別爆撃を開始します。
度重なる空襲で都城市は焼け野原となり、多数の市民が犠牲となりました。
そして、8月6日の都城空襲へ至ります。

「とりわけ、五十二名の生命を奪った八月六日の大空襲は、午前八時頃に飛来した二機のロッキードの偵察飛行から始まった。
丁度、お昼頃沖縄基地を飛び立った米軍の中型爆撃機八機が、末吉、高之峰方面から超低空で侵入し、機銃掃射を加えながら、市の西部地域に焼夷弾を次々に投下した。
たちまち大火災を引き起こし、猛火は市街地中心へと広がっていった。
第二次攻撃は、約一時間後に中、小型機約三十機が市民の退路を遮断する狙いもあってか、風上の北部に機銃掃射と焼夷弾攻撃を行ってきた。
その後、十分間隔で第三、第四次と来襲し、市近郊の重要施設を攻撃するかたわら、消火活動を妨害するため上空を旋回しながら、機銃掃射を午後四時頃まで繰り返した。
この結果、松元、牟田、宮丸、八幡、姫城、上町、中町、大王、平江、栄町等の市街地と市役所、学校(五)、病院(十一)、工場(八)、寺院(一)も焼失した。
罹災家屋は千八百九十七戸(全戸数の十八%)、罹災人口は一万七千二百八十四人(全人口の二十九%)に達した。
これによって、都城空襲の犠牲者は八十八名となり、この内、半数の四十四人は十六歳以下の子供であった」
もろかた第45号掲載「都城空襲のあらまし」より抜粋

昭和二十年八月六日はお盆前の暑い日で、友人と水浴びに行く約束をし、大淀川上流の平田橋の淵に泳ぎに行った。
午後の日差しの温度もぐんぐん上がっている川には、既に十数名の河童達が水に入っている。
僕たちも急いで泳ぐ準備をしていると、突然けたたましいサイレンが鳴り出し、高射砲の音、爆弾の爆発音、シュルシュルと落ちてくる焼夷弾、数か所からのサイレンのけたたましい音である。
これは大変、近くに壕はない。山裾の下に兵隊の防空壕があるからあそこに逃げようと、田圃には稲穂が出ようとしている畦道をどう走って逃げたか分からない。
近くで空襲を見ていた兵隊が来るなと合図するがそれ所ではない。後ろを見れば街中黒煙と爆弾の破裂の音が凄まじい地獄絵そのものの「市内大空襲」である。
牟田町、西都城駅、八幡町、甲斐元、松元町、上町、中町、平江、栄町、天神、前田、小松原、市役所、裁判所、法務局、郡役所、明道国民学校、東国民学校、攝護寺本堂、都城中学校全焼。
市内全域で全焼(一四二七戸)、罹災面積一、四○○平方キロメートル、罹災人口一万七千二百八十七人である。
敵のグラマンが次々と波状爆撃する。仕方がないから壕に逃げ込もうと行くと、兵隊から平手で二、三発叩かれて来るなと言われた。恐ろしくて仕方がない。
兵隊も恐ろしかったのじゃと話しながら山裾をはって逃げ帰った」
曽原義正氏「戦火の渦中」より

「都城工場は危険が増大した為か、阿蘇の内ノ牧工場への移転が決まり、私は工員の移動の為の梱包材料の発注と送料・旅費の計算等、移転準備の書類を作成する職場に移籍、多忙を極めました。
八月六日も変わらぬ多忙で、遅くなった昼食中、仙波次長の大声で「場外退避!場外退避!」
徒ならぬ空気に弁当もその儘に、近所のいつもお世話になっていた民家の防空壕に危機一髪で退避しました。
暫くは轟音と機銃掃射の音が続いていました。
静かになったので爆撃が終ったのかとホッとした時、入り口からおそるおそる外を見ていた人の「アーッ、工場がない。工場がなくなっている」という驚きの声で急いで外に出ました。
工場はペッチャンコになって炎上中。私の働いていた事務所は辛くも焼けずに残りましたが、工場全体は無惨な裸同然の姿でございました。
アメリカ軍の緻密な軍需工場調査と、B29 の的確な攻撃振りに改めて驚嘆し、アメリカという大国の威光に恐れた一瞬でございました」
花田美代子氏「挺身隊の思い出」より

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
胴体部分。経年劣化による破損がみられます。


魚雷

魚雷

魚雷

魚雷

魚雷
スクリュー部


都城西飛行場は「本土決戦に備えて戦力温存」の命令により、都城を護る筈の迎撃機すら上げませんでした。
都城東飛行場は特攻機の出撃拠点となり、多数の若者が沖縄の米艦隊へ向けて飛び立っていきました。
都城北飛行場は、爆弾を積んだ旧式の複葉機だけが特攻命令を待ち続けていました。

3つの軍用飛行場を有しながら、都城は敵機の為すがままに蹂躙されたのです。


ヘリ
オマケで山之口あじさい公園の海自ヘリ。都城東飛行場の掩体壕や防空壕は、遠く離れたこの付近にまで設置されていました。
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陸軍都城西飛行場と歩兵第23聯隊駐屯地(宮崎県都城市都原)

Category : 都城市の戦跡 |

この頃、都城上空を飛行中のB29の編隊にただ一機の零戦が突入し、猛烈なタ弾(※空対空クラスター爆弾)攻撃を行いましたが、巨象に立向う蟻のような零戦の姿と、幾重にも四方に飛び散ったタ弾の美しい煙が印象的でした。
しかしこれで都城西飛行場に対するB29の爆撃は終わったのではなく、遂にあの都城西飛行場の最悪の日、忘れもせぬ四月二十九日の日を迎えたのでした。

「埋れた青春」より

都城西6

【歩兵第23聯隊と64聯隊】
現在の陸上自衛隊第43普通科連隊都城駐屯地には、かつて2つの陸軍歩兵連隊が配置されていました。
そのひとつ、明治17年に熊本で創設された部隊を源流とする歩兵第23聯隊は、第6師団の傘下にありました。有名な人といえば、後の総理大臣となる村山富市さんもこの部隊の所属です。
明治時代は日清・日露戦争に投入された後、大正14年に都城駐屯地を拠点とするようになります。その後も済南事件や満州事変などで、たびたび大陸へ出動しています。
日中戦争が始まった昭和12年には杭洲湾上陸作戦から南京攻略戦へ参加し、武漢作戦などで中国各地を転戦。昭和17年には第6師団傘下部隊として南太平洋の戦線へ投入され、ブーゲンビル島の防衛任務につきました。
翌年10月、アメリカ海兵隊がブーゲンビル島へ上陸を開始。上陸地点のタロキナにいた23聯隊第2中隊は壊滅的な打撃を受けます。
輸送が断たれ、「備蓄物資が尽きる前に」とアメリカ軍への反撃を試みた第6師団ですが、ジャングルの密林と米軍機の空襲に阻まれて悉く失敗。第23聯隊も、この攻勢で1000人以上の死傷者を出してしまいました。
飢餓に苦しむ日本軍に対し、アメリカ軍も険しい地形を突破してまで進攻しようとはしません。
やがてアメリカ軍はブーゲンビル攻略をオーストラリア軍へバトンタッチしますが、日豪両軍とも小競り合いを続けたまま終戦を迎えました。
23聯隊の帰還将兵が当時の回顧録を残されていますが、日本軍の斬り込み攻撃に悩まされていたオーストラリア兵は、収容所の日本軍捕虜へ激しい報復や暴行を加えたとあります。連合軍側におもねって部下への虐待に加担した某日本軍将校は、「恨みを買って復員船上から海へ投げ落とされた」とか何とか。

もうひとつの駐屯部隊である歩兵第64聯隊(明治38年編成)は、明治42年に都城へ移駐。大正14年に一旦解隊されますが、日中戦争が始まった昭和13年に再編成となり、満ソ国境へ展開しました。
昭和14年に関東軍とソ連軍が激突したノモンハン事件では連隊長が自決するほどの猛攻撃を受け、大損害を蒙ります。
昭和19年にはフィリピンのルソン島へ移動。同じく宮崎県児湯郡を拠点とする陸軍落下傘部隊第1挺進工兵隊と共に、バレテ攻防戦に投入されました。

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当時の歩兵23聯隊前の並木道。現在は風景も一変しています。

郷土館
陸上自衛隊都城駐屯地にある「郷土館」
明治43年の歩兵64聯隊、続く歩兵23聯隊時代を通して使われている建築物で、都城西飛行場の詳細な記録も展示してあります。
戦前の痕跡も多々残されており、ここの廊下で「満期二日ナリ 蚊ニ喰ワレツツ軍旗ヲ守ル」という昭和12年7月7日のラクガキが發見されて話題となりました。
館内で確認してきましたが、このラクガキは現在でも読めます。

【都城西飛行場】

第23聯隊駐屯地から谷を挟んだ反対側には、都城西飛行場が建設されています。
宮崎県都城市の都原台地(現在の陸上自衛隊都城駐屯地附近)で都城西飛行場の建設が始まったのは、昭和9年のことです。
元々は昭和7年に歩兵第23聯隊の満州出動記念として造成された和田原の軍用地であり、昭和15年には逓信省からの委託も受けた拡張工事に着手。
昭和17年には、逓信省管轄の航空機乗員及び整備員養成所としての機能を追加した飛行場が完成します。
115万5000㎡の都城西飛行場は、東南より母智丘方面へ向けて1200m級の滑走路を備えた大型飛行場となりました。

西飛行場には逓信省航空乗員養成所が設置され、昭和十九年から明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が展開して、一区隊が陸士五七期と甲種幹部候補生の転科少尉と特操一期生の少尉、そして二区少年飛行兵出身の下士官の二隊がおり、一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施、飛行場はほぼ正方形で対角線上に舗装した滑走路が作られていた。
秋頃は突貫工事で日曜返上の「月月火水木金金」で、僕たち少年も毎日休み無しの奉仕作業に明け暮れた

曽原義正氏「戦火の渦中」より

ちなみに、「月月火水木金金」を言い出したのは宮崎県出身の津留雄三海軍大尉。
明治末期の日本海軍は、日露戦争の勝利で猛訓練に励んでいました。それを見た津留さんは「休日返上での訓練はやり過ぎだろう」という意味でコレを言ったのですが、なぜか「休日返上で訓練に励め」に曲解されて広まり、やがて軍歌にまでなってしまいました。

当時の西飛行場には複数の部隊が混在していた為、飛行場の勤務者でもすべてを把握できなかった様です。
夜中に飛行場の中で迷子となり、翌朝になって漸く兵舎に帰り着いた兵士もいました。飛行場の周囲には狐が棲息していたので「キツネに化かされたんだろう」などと笑い話になったとか。

現在は住宅地や学校となっていますが、当時の西飛行場の敷地は都原町一帯を含む広大なものでした。飛行場は軍隊以外も利用しており、県立西高校付近には逓信省パイロット養成所の校舎や格納庫が設置されています。
これらの飛行場施設群は、昭和20年3月18日の空襲で壊滅。B29爆撃機の集中攻撃によって航空基地としての機能も失い、地下壕などに籠っての任務が続けられました。

都原
道路左手が陸上自衛隊都城訓練場。右手奥が都原団地。

都城駐屯地
この訓練場を含む広大な範囲が、西飛行場の敷地となっていました。

都城西飛行場

都城西飛行場
都城駐屯地訓練場内部の様子。主滑走路は訓練場を横切るように設置されていました。
部外者は駐屯地祭の時だけ入場できます。

3月18日、沖縄進攻への露払いとして、米機動艦隊は九州南部の軍用飛行場を空襲。いわゆる九州沖航空戦の始まりでした。
その日の早朝から、新田原、赤江、都城西、富高の陸海軍飛行場は米軍艦載機による激しい攻撃を受けます。
沖縄戦が終ると共に米軍機は再び宮崎へ襲来し、西飛行場では計55名が戦死しました。爆発の衝撃で地下壕が崩落し、生き埋めになった兵士もいたとのことです。

自宅前四百米位の所に陸軍歩兵二十三連隊があり、裏の畑を過ぎ谷を越えた所に西飛行場がある。
初めての空襲である。そのあと毎日警戒警報と空襲警報で機銃掃射と爆撃の連続である。壕に逃げ込んだが爆発音と地響きで土がばらばらと落ちてくる。天井は竹で縦横に桟をはり菰を被せ、土と芝を上に張った急拵えの防空壕で、中にいても生きている気持ちはしない。
空襲警報も解除になり、近くに敵グラマンが落ちたという。家裏近くである。僕たちもついて行くと上村方面で煙があがっている。飛行機のそばにつくと異様な匂いがする。機銃の弾は左右の翼下に未発で飛び出している。
その時誰かが「敵機来襲」と叫ぶ。
市街地の方から機銃掃射しながらグラマン二機が我々を目がけて飛んでくる。
「こりゃ危ない」と、皆蜘蛛の仔を散らしたように山蔭へ逃げた。
いつの間にか自宅裏の畑に三百、四百米置きに機関砲の陣地が据わっていた。その一陣地から撃った弾が当たったらしく、その兵隊は二階級特進だったという。
連隊以外の兵が続々と大阪や各方面から都城周辺に駐屯し、宿泊も民家に泊まり、いよいよ本土決戦に備えての集結であるという。今日も警報で自宅の防空壕に飛びこむ。壕は前後に三か所も掘ってある

曽原義正氏「戦火の渦中」より

また桜島の噴火かと、思いながら布団の中で耳をすましていると、何か知らん、微かに遠くで飛行機の爆音が聞こえる。
はて、おかしいなあと頭を布団から出した瞬間また、先刻のようにドシン、ドシンと地響きとダッダ、ダッダダッダと云う音に、咄嗟に、これは敵機の空襲、機銃掃射だと直感、床より跳ね起き外へ飛び出して見ると、雲一つない晴天。
南の空に黒褐色の煙が東の方へと煙が東の方へと、もくもくと、たな引いている。
どこからともなく聞えて来る空襲警報、退避しろ退避しろと叫び、今頃になってさけんでも遅いわと私は一人言を、言いながら素早く身仕度して、すぐさま近くの城山(安永城跡)に駆け上った。
既に庄内小学校に駐屯している兵隊達が退避していた。私も木陰に身を潜めながら都城市街の方を見渡すと、まさしく都城西飛行場(現在の都原町一帯)付近から黒煙と火焔がめらめらと上がっている。
その上空から紺色に輝いた戦闘機が、次ぎから次ぎへと反転急降下して行くではないか。
飛行場周辺から、撃上る機関砲と敵機の機銃掃射と撃ちあい、まるで仕掛花火でも炸裂しているような音が聞こえて来る。


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都城西飛行場への空襲を庄内の人々が眺めていた安永城跡(南洲神社)。
第57軍野戦輸送司令部が置かれていた庄内も、8月6日に米軍機の焼夷弾攻撃に晒されました。

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安永城跡から眺める都城西飛行場方面。母智丘トーチカは、画像の道路で高台を越えた所にあります。

自宅から南西百米のところに高射砲陣地が十門座わるという。弾の飛ぶ距離は九千九百米で、これでB29も撃ち落としてくれると上官が言う。
でも空襲が激しくなり、日毎にB29の来襲であるが弾は当りもしない。兵隊に聞けばB29の高度は一万米以上の高さで飛んで来るから当らないという。
どうしようもない。
毎日激しくなるばかりでB29・グラマンも日夜の空襲である。
三か月位経って、父が慌てて帰ってきた。いよいよ疎開命令が出たぞと言う。荷物を必要なものだけ準備して荷車に積み込む。
夕方になって父が座敷に来いという。兄と僕が上がって見ると、母も座り何か話している。
床の前には高お膳が置いてあって、父の話をよく聞けと言う。
隣の畑十五米のところに電波探知機が据わるからどうしても疎開せよとのことで、田舎の母さんの実家のじいちゃんにも相談したので疎開することに決めた。お前たちとも最後の別れになるかも知れないので一応水盃を交しておこうと話し、戦況も悪化し軍にしてみれば家の周囲は防風林で陰になり探知機の設置にはもってこいである。
こっちは迷惑であるが戦争に勝つまでは仕方がない。夜遅く親戚に着くとじいちゃんや叔父たちが提灯を下げて待っていてくれた。
荷物を降ろしながらここも「大丈夫」とはいえないが心配だねといいながら、じいちゃんの家に落ち着くことになった。
それから一週間も経った頃父が尋ねて来て、母に家に帰るという。じいちゃんや叔父たちにも相談して来たと言い「死ぬときは家族一緒だ」と言って自宅に帰ることになったが、祖父たちは心配顔で危ない時は子供だけでも疎開させよと言ったが、僕たちも父母とは離れたくはなかった。
夕方遅くに自宅に着いた。
翌朝隣の畑を見ると、大きな穴を掘って土台はコンクリート工事がしてあって、まだ未完成である

曽原義正氏「戦火の渦中」より

都城西2

都城西3
旧都城西飛行場の存在を伝える碑は、都原団地の一角に設置されています。

都城西4

其の後も、西飛行場は激しい空襲に晒され続けました。

爆弾回数が多くその範囲も広く、またその頃飛行場には飛行団、戦隊、通信、整備、飛大、高射砲、防衛隊等々指揮系統の異なる各種の部隊が各所に分散駐在していたため、その正確な数は定かではありません。
戦後伝え聞いた話では、作戦室の壕内より救出されたあの若い生き埋めの兵は、復員後も精神異常は回復せず、不幸な一生を送ったようです

鎌田政孝編「埋れた青春」より

都城西7

鎮魂(都城西飛行場)

 太平洋戦争の末期、宮崎県の軍都であった都城市の郊外には、陸軍特攻基地として都城西飛行場と都城東飛行場があり、両飛行場からは、四月六日から七月一日までの間に十振武隊七十九名の若者が特攻に飛び立って行った。
 都城西飛行場は、昭和八年都城歩兵二十三連隊が満州事変から鎧旋したのを記念して、昭和九年末に一般市民及び諸団体の勤労奉仕等により建設されたもので、ほぼ正方形をしており対角線上に舗装のない滑走路があり、その長さは昭和二十年四月頃までに一二〇〇メートルまで延長された。
 昭和一七年四月には、民間航空機要員の養成を目的とした逓信省航空乗員養成所が設置され、九五式一型乙中間練習機(赤とんぼ)による訓練が行われていた。
 太平洋戦争が始まり、昭和十九年には明野教導飛行師団の第二教導飛行隊が西飛行場に展開していて、一区隊(陸士五十七期と甲種幹部候補生転科の小尉)、二区隊(少年飛行兵)の二隊が一式戦と四式戦による戦闘訓練を実施していた。
 翌年の昭和二十年三月には、南九州の各基地に来る沖縄戦に備えて飛行部隊が集結しており、都城東・西飛行場には第百飛行団、四式戦(疾風はやて)装備の飛行第百一・百二戦隊及び特攻二隊が展開してきた。
 同年三月十八日に午前七時頃初めての空襲を受けたが、地上勤務員によりほぼ復旧している。
 同年四月六日に第百一・第百二両戦隊からの志願者十名(第一特別振武隊)のうち八名が第一次航空総攻撃(戦艦大和の特攻出撃)にあわせて、四月十二日に第一特別振武隊の残り二名が第二次航空総攻撃にあわせて飛び立ち若い命を散らしている。
 同年四月二十七日・二十八日の西飛行場連続の空襲では多数の特攻機及び建物が直撃を受け死者十八名を出した。
また、時限式爆弾のため復旧作業もできず第五次航空総攻撃にあわせて飛び立つ予定であった第六十一振武隊(七名)は、急遽東飛行場に転進し飛び立って行った。
 以後、出撃は都城東飛行場からとなり同年八月十五日終戦を迎えた。

諸子の英霊の安らかなご冥福を祈るとともに、その尊き犠牲の代償である日本の平和を末代へと伝えること、恒久的世界平和の実現及び人類の繁栄を心より祈念いたします。

  平成十三年六月吉日 
  都城特別攻撃隊戦没者奉賛会 
  会長 岩橋辰也
なお、各振武隊員のお名前は、都島公園(旧陸軍墓地)の特別攻撃隊はやて慰霊碑に有ります。


都城西

昭和二十年頃より戦争も悪化し、海軍と陸軍とが入り混じって空中戦などの訓練が頻繁に行われていた。最初は、特攻機は祝砲を合図に数機ずつ飛び立っていた。
兄が、丁度休みで飛行場へ遊びに行くというので付いてゆくと、兵舎の向こうを指差し特攻機の出撃だと走り出す。後を付いてゆくと、庭に机を白い布で被い、コップが置かれ、隊員たちは日の丸鉢巻をきりっと締め、首にはまっ白いマフラーを巻き、上官の訓示が終りコップを片手にグイと飲み干し、隊員たちは上官に「行って来ます。後を頼みます」とそれぞれ敬礼し飛び立つのであった。
帽振れの合図と共に特攻機は飛び立ち、上空を旋回して飛び去っていくのである。
残っている兵隊達も涙ながらに南の空へ特攻機の機影が消えるまで帽子を振っていた。僕達もいつの間にか涙を拭いていた。
都城西飛行場、東飛行場からも十六歳から三○歳の若者たち七十九名の尊い命が南の島へ若鷲となって戦死している。
都城都島三八○番地の陸軍墓地に、七十九名の特攻隊員の名を刻んだ碑が建っている

曽原義正氏「戦火の渦中」より

陸軍墓地
陸自都城駐屯地から都城西駅方面へ下る途中に陸軍墓地があります。
この墓地の片隅に、西飛行場と東飛行場から飛び立って行った振武隊の慰霊碑が建立されました。

振武隊慰霊碑

私の家は、当時安永旅館を経営しておりました。
二十四才頃で、庄内には兵隊さんがたくさん駐留しておりましたので、軍人さんへの面会客が多く、毎日忙しい日をすごしていました。また将校さんの宿舎にもなっていました。
その中に特攻隊の整備士の方が泊まっておられました。
少尉さんでした。
その方の言っていられた言葉を思い出します。
「きょうは、風が吹いて出撃できなかったからよかったなあー」とか「きょうもだめだった。風が吹いて出られなかった」とか、複雑な心境を吐き出されていました。朝二時から三時頃朝早く旅館を出ていかれておりましたが、戦友愛といいますか、生を共にした男子同志の友情は、女の私には到底わかるはずもなく、ご武運を祈るだけでした。
この特攻の整備士さんの心が、今になって死んでほしくない気持ちがわかる様な気がいたします。

「阿鼻叫喚」より 中井あさ子さんの証言

振武隊

都城市の特攻隊を調べるならば、都城歴史資料館を訪れるのもよいでしょう。
資料館は都之城の城址に建てられており、旧石器時代から近世にかけての歴史、島津家ゆかりの品々、近代に至る宮崎の出土品や民具、西南戦争の記録が展示されています。
その一角に、戦時中の暮しに関するコーナーがあります。

歴史資料館
都城歴史資料館

郵便局の下の楯さんの二階に特攻隊の人が六・七人住んでいられました。
三、四人の方の名前も知っておりましたが、その方達に「きょうも無事でよかったですね。お帰りなさい」と、声をかけておりました。
二十代の方々で、飛行機の爆音で戦友の出撃を知っておられたようで、胸が熱くなりました。いつ、非常招集があるかわからないので、何時でも飛び立てる様に心の準備をしておかなくてはならないと語っておられましたが、その心境の深刻さは想像を絶するものがありました。

「わが家が焼失した!!」より 岩切サキさんの証言

歴史資料館

館内は写真撮影禁止ですから、文章のみで。
収蔵されている特攻関係資料は、都城東、西、北飛行場の歴史や見取り図、出撃して行った特攻隊員や遺族の手紙、各種の飛行服や装備品。
また、四式戦闘機のプロペラ、タイヤ、防弾板、操縦パネル、操縦桿など、機体の一部も展示してあります。
都城空襲や、戦時下に於ける人々の暮らしについての貴重な史料もあります。

古い農具や石器などが好きな私は、そちらのコーナーも勉強になりました。

都之城
大手門。実際の都之城は簡素な造りだった様です。

3月18日の空襲を皮切りに、都城西飛行場は凄まじい空襲に晒されます。B29の集中爆撃を受けた結果、遂に機能を停止。出撃拠点は東飛行場へ移り、多数の特攻隊員が飛び立っていきました。

私の家の隣の有馬うきさん宅は、機銃掃射の弾こんが今も残されています。隣の私の家は何事もなかったのですが、こうして生きながらえていることが不思議のようです。
楯さんの所には特攻隊の人が宿を借りておられ、往って帰らない飛行機に乗る為に毎日を過ごしておられましたが、出陣せずに終戦になりました。
確実な死を前にして、どんな思いで過ごされたのでしょう。
飛ばなくてよかったと思います。もしも無条件降伏が遅れていたら命を落とされていたことでしょう。
この人達のことを思いますと戦争の悲惨さ、非情さを改めて痛感させられます。

「機銃掃射の弾痕」より 島田屯さんの証言

陸軍都城北飛行場(宮崎県都城市野々美谷町)

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森田原ハ田アリ畑アリ農村唯一ノ恵沢ノ地タリ
偶大東亜戦争トナリ此地モ亦守備陣営ノ枢地トナリ
亀沢村長ノ時空軍基地ニ採用 農民ノ楽土ハ一瞬ニシテ飛行場ノ使命ノ許ニ地
均埋立滑走路砂利敷兵舎等設備サレ 農地ノ望絶チ殖産ノ光ヲ失フ
斯テ昭和廿年終戦トナリ 一切ノ軍用施設ハ解除サレ官有地モ亦民有ニ返還愁眉ヲ開ク
此ニ於テ村長地主ヲ集メ 復旧対策トシテ耕地整理組合法ニ基キ区画ヲ整理シ
井然タル農道ヲ作製シ農地配分ヲナスノ利ヲ説キ
一同大ニ賛シ直ニ委員選定ヲナシ組合長ニ堀之内助利氏当選シ
外別表ノ役職員ヲ設ケ事務員技術者ノ専任ヲシテ実施ノ運トナリシモ
茲ニ事業面ニ大ナル癌ニ遭遇シタリ

北飛行場跡 耕地整理記念碑より 碑文の一部

都城北飛行場

戦争末期、特攻隊の出撃拠点・本土防衛戦の前線基地となった宮崎県都城市。
交通の要衝である都城盆地は古くから北郷氏(都城島津氏)の領地となっており、幾つかの城址も点在しています。いつぞや、「島津発祥の地」を巡ってNHKと都城市が喧嘩したこともありましたね。
明治時代は西南戦争に巻き込まれ、そして昭和の戦争では陸海軍の軍事拠点と化しました。

霧島
森田原から眺める霧島連山。美しい姿の山ですが、2011年には画面奥の新燃岳が大噴火。
一年前は、この辺一帯も降灰で砂浜みたいになっていました。

戦時中、都城市には3つもの飛行場が押し込まれるように建設されていました。
現在はいちいち宮崎空港か鹿児島空港まで行かなければならないのに、昔は便利だったんですねえ。
……などという呑気な状況ではなく、これらの飛行場は米軍に対抗する特攻基地と化しました。
鹿児島・志布志湾・宮崎沿岸部と三方面に対応できる地理的条件から、都城が建設地に選ばれたのでしょう。

都城市の谷頭に「北飛行場」が建設されたのは昭和19年のことでした。

陸軍は陸軍に、海軍は海軍に、それぞれの輸送打合をいたして少しでも早く輸送が出来る様に斗った。
八の日が大詔奉戴日となって居て戦に勝つため献身奉国の実を誓った私達輸送人は、殊の外はりきって朝は暗い中より夜の入るまで輸送に励んだ。
発着の貨物が非常に多く、青年学校の生徒さん達も上級生は学徒動員のため下級生だけ。なれぬ作業に無理があり、殊にせっかく協力いたして下さる各報国隊の人達も女の人が多くて能率も半減いたしました。輸送協議会、軍用会等々警察の階上や役場やその他にて厳しく会議などが重なって、実績を実績をと云ふうちに昭和十九年も早半ば過ぎとなった。
はりきった心は暑さも寒さもなんのその、明けても暮れても輸送作業で追はれている。
鹿屋にも飛行場はあるが、軍部ではどうしても飛行場が不足すると云ふので、谷頭の平野に飛行場が出来る事になり、附近の各町村より奉仕隊が徴発された。
九月に入り小林町(現在の小林市)も又各部落毎に作業を奉仕する事になり、朝は早くより貨物列車に乗って行く人達も又一億一心勝利のための奉仕である。

橋口与蔵氏 「終戦直前の輸送」より

丸野小
森田原の丸野小近辺。北飛行場があった場所です。

そして、この隣接する3飛行場はそれぞれ全く違う運命を辿る事となります。

昭和20年3月18日早朝。
陸軍新田原飛行場から緊急通信が発せられ始めました。
都城西飛行場が電文の内容を問い合わせている間に、新田原飛行場を襲撃した米軍機は赤江・富高の海軍飛行場、そして内陸部の都城西飛行場へ殺到。各飛行場は凄まじい爆撃に晒されます。
沖縄侵攻への露払いとして、米軍は南九州の航空基地を奇襲攻撃したのでした。
この日以降、都城西飛行場は徹底的に空襲で叩かれ、遂に航空基地としての機能を停止します。

都城西飛行場と違い、都城東飛行場は全く攻撃を受けませんでした。
おそらく草原と見間違えられたのだと思われますが、こうして東飛行場は航空特攻の拠点となります。
東飛行場からは振武隊の特攻機が次々と飛び立ち、敵艦へ向けて突入して行きました。

同時期には、北飛行場にも特攻隊が展開します。
それが第95および第96振武隊。
名前は勇ましいこの部隊ですが、彼らが受領した「特攻機」はとんでもない機体でした。

昭和二〇年二月下旬、筆者は温井戸里の第十九教飛で特攻要員に指名された(少年十五期主体)。
四月十三日付で第六航軍に転属となり、特攻隊二ケ隊(二四名)が編成され、第九五および第九六振武隊と命名された。
隊員は飛行機受領の為に五月帰国、母校熊谷飛行学校で暗緑色に塗装された九五中練を受領、後部座席にドラム缶一本が搭載された改造機であった。
搭乗員として初めて与えられた愛機であったが、喜びと失望が相半ばした。
大空に憧れて始めて乗ったのがこの九五中練で、而もそれを操って出撃することになるとは感慨無量であった。
愛機の整備点検も終へ岡山飛行場に転進。此処での訓練は主として洋上に於ける実戦さながらの超低空水平攻撃、また児島湾内の漁船を仮想敵に見立てての体当たり等を約一ヶ月間行ない、七月下旬岡山を後に都城に向け出発。
瀬戸内海洋上を二四機編隊、翼を連ねて意気揚々途中防府で給油、豊後水道、日豊海岸沿いに飛び、宮崎市上空を経て都城上空に到着。
東西両飛行場の滑走路が視野に入って来た。
我々は都城北飛行場を捜し求めて旋廻を繰返し、北方の畑の中に村道を拡張して偽装された一本の急造滑走路を発見、これが北飛行場の滑走路であることを確認、全無事着陸、直ちに滑走路から南北に出る数本の砂利道誘導路を通り、囃子の中の掩体壕或は農家周辺の繁みに迷彩して格納を終え、林中に散在する三角兵舎に入った。

牧外吉「鎮魂」より 都城市史掲載

陸軍北飛行場

彼らに与えられた特攻機は、陸軍95式1型練習機。つまり、「赤トンボ」と呼ばれた訓練用の複葉機でした。
最新鋭の航空機と針ネズミのような対空火器で武装した米艦隊に対し、木の葉の様な練習機で立向えというのです。
無謀を通り越して呆れるしかない話ですが、これが戦争末期の現実でした。
しかし、北飛行場の特攻隊員達は粛々とこの現実を受け入れます。
南を眺めれば西飛行場はB29の猛爆撃を受け、目と鼻の先にある東飛行場からは続々と特攻機が飛び立って行く。
北飛行場では、「次は自分達の番だ」と覚悟を決めていたのでしょう。

八月になって基地上空はグラマンの跳梁が激しくなり、我々の飛行訓練も一、二回日南海岸の地形偵察飛行をしただけで中断され、来る日も来る日も待機が日課となり、次第に三角兵舎には重苦しさが漂い始め、互いの口数も徐々に減り、間近に迫り来る死の恐怖を肌で感じながら、遺書を認めたり私物の整理が続いた。
都城市史掲載 牧外吉「鎮魂」より 

森田原1
森田原2
森田原を横切る送電線鉄塔。1600メートルに及ぶ北飛行場のX状滑走路も、これと並行する場所に設置されていました。

しかし、幸いなことに北飛行場から特攻機は飛び立ちませんでした。
出撃待機状態のまま、8月15日を迎えたのです。

【戦後の北飛行場】

戦後、北飛行場の滑走路は農地として解放されました。
現在の谷頭駅東側に広がる「森田原」がソレです。今ではのどかな耕作地が広がっており、当時の面影などありません。
農道の片隅に立てられた小さな案内板だけが、かつてこの場所が特攻基地だったことを伝えています。

開墾碑
丸野耕地整理組合による記念碑。森田原開墾の歴史が刻まれており、北飛行場についても触れられています。

開墾碑2

開墾碑3

そういう訳で、都城北飛行場の痕跡を探すことは不可能。完全に消滅してしまったのです。
木脇飛行場みたいにトーチカか何か残ってないかなー、と思ってウロウロしていたら……
古墳1
こんなのとか

古墳2
こんな物体を発見。
おお!掩体壕かもしれない……と思ったら古墳でした。
宮崎県は沿岸部に大小無数の古墳が存在しますが、こんな内陸部にもあったんですねえ。
そういえば、陸軍新田原飛行場建設の際も遺跡保存が問題になったそうですけれど。

そういう訳で、当時を偲ばせるものは記念碑と案内板だけです。
都城北飛行場
陸軍北飛行場2

現在の平和な農村風景こそが、高千穂の峰を望むこの地に相応しい姿。
しかし、かつて複葉機による特攻を命じられた若者たちが待機を続けていた事だけは、長く記憶に留めておきたいものです。

高千穂
この日は高千穂の峰も冠雪していました。
雨と火山灰しか降らないと思われている九州南部にも、ごく偶には雪が降るんですよ。


第57軍第7野戦輸送司令部と母智丘トーチカ(都城市)

Category : 都城市の戦跡 |


当時、庄内には、城山・湯谷と横穴の洞窟を掘って、軍の資材・食糧などを、相当量保管していました。
私達も軍の要請により、谷頭の駅から荷馬車で大分運んだものです。その関係もあってか、庄内小学校には兵隊が入っていました。願心寺には幾分、年とった防衛隊が入っていました。
その頃、毎日のようにB29の襲来があり、上空を通過していました。
そのうち双胴体の今まで見たこともない、珍しい飛行機(※P-38ライトニング)が上空を何回か飛んで行きました。
考えてみますと、これが上空からの偵察だった様です。
八月六日は、たまたま我が家にいたのですが、たしか都城の空襲の日と同じだったとも思います。二機のグラマン戦闘機が谷頭の上空から半田の方向に低空で飛んで行きました。
グラマンが自分の上空まで来る時は、堀の中に身をひそめていましたが、自分の上を通り過ぎると、もう安全ですから堀から身をのり出して見ていました。
二機のグラマンは平田上空で急に旋回して、庄内の町の方向に飛んで行き、そのあと、まもなく火の手があがりました。小学校の講堂のは、焼夷弾によるものと思います。北東風にあおられて南西の方向に町中焼けた訳ですね。
上空からの偵察機は、ほんとうによく見ているんだなあと思いました。

宮島緑さんの証言より

トーチカ
母智丘の対空トーチカ

【第57軍野戦輸送司令部】

ほぼ消滅してしまった都城の戦跡ですが、数少ない遺構として母智丘(もちお)に対空トーチカが残されています。
大隅方面の要衝であった戦時中の都城には、本土決戦に備えて第57軍の大部隊が集結していました。
第57軍司令部は鹿児島県財部(たからべ)に置かれ、宮崎県沿岸部の防衛部隊としては第212師団(都農町)、第154師団(西都市)、第156師団(国富町)、串間から志布志にかけては第86師団を展開。
それら沿岸防衛部隊の後方支援を担うのが、内陸部に展開していた部隊です。小林の第25師団を中心に、都城西、都城東、都城北、小林、苧畑といった陸海軍の飛行場も続々と建設され、都城と小林には大量の軍需物資が集積されつつありました。

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正面が第57軍の糧秣倉庫となっていた庄内小学校、向かって右の建物の場所に野戦輸送司令部が置かれていました。

これら第57軍の軍需物資を管理するのが、椎橋侃二少将率いる第7野戦輸送司令部。
司令部は庄内町役場に置かれ、隣接の庄内小学校は物資集積所に改変されます。すべては軍事優先の時代、小学生たちは青空教室での授業となりました。

昭和二十年十月に米軍が志布志湾に侵攻すると予測した軍部は、当地区に五ヶ師団を配置することになり、これに対応するために、陸軍糧秣廠を庄内青年学校(現庄内中)に設置することになったということです。
昭和十九年春頃、藤實恵夫大尉が先遣隊長として赴任し、昭和十九年六月頃、鋒・奈良部隊の隊長、奈良愛英中佐の率いる本隊が到着。
物資の搬入は十九年の末頃から行われ、庄内を中心に、財部や山田など北諸県郡内の町村の洞窟や野積みなど約七〇〇ヶ所に十万人が六ヶ月間、生活できるだけの食糧・被服・医薬品などの物資が集積されていて、九州では最大規模のものだったそうです。
後に小林地区に設置されていた被服廠や需品廠も合併されて、第57軍野戦貨物廠と改称されたのが丁度終戦の日の八月十五日でした。私は昭和十九年七月、十八歳のとき、川崎航空都城工場より糧秣廠に転属になり、筆生(事務官の呼称)として勤務していました。

「鋒・奈良部隊のこと」より 堂園幸子さんの証言

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糧秣用の地下壕が掘られていた安永城跡


城山のシラスを刳り貫いた倉庫は、糧秣倉庫となっており、城山の西側には通称「川崎航空」の模擬飛行機を作るところがあって、私の姉ミエはここで働いていましたが、仕事の内容のことについては何も話してくれませんでした。
きっと機密を守るように言われていたのだろうと思います。終戦になると兵隊はすぐ引き揚げましたので、糧秣倉庫の在庫品の管理は大変だったようです。
食べ物が不足していたので醜いできごとや噂が広がっていました。軍馬の拂い下げもありましたが、軍馬にはお尻のところに「エ」の焼印が押してあったので、アメリカ兵にみつかると大変なことになるということで、貰い手がなかなか無かったようです。

「私が十八才の時」より長瀬ツムさんの証言

【母智丘の対空トーチカ】

昭和20年3月18日、都井岬沖に現れた米海軍機動艦隊から多数の艦載機が出撃。九州南部の軍用飛行場を奇襲攻撃しました。
この沖縄進攻の露払いとして始まった九州沖航空戦では、都城西飛行場も標的となります。
攻撃を受けた新田原飛行場から警報が届いた時、既に都城上空にもグラマンが殺到していました。

この日より、都城西飛行場への空襲が始まりました。
沖縄戦と同時に一時中断された空襲も、勝敗が見える頃になると再開されます。艦載機に続いてB29爆撃機が飛来し、都城市を徹底的に爆撃していきました。
圧倒的な米軍航空戦力の前に、日本側は防戦一方となります。
都城西飛行場は迎撃機を上げる前に集中爆撃で機能を停止。都城東飛行場からは沖縄へ向けて特攻機が続々と飛び立ち、都城北飛行場の特攻隊は本土決戦に備えて待機を続けます。
第57軍も、来るべき米軍上陸に備えて大量の物資を都城~霧島山麓へ集積していました。

掩体壕

私のすぐそばに居た下士官(軍曹)に空襲の最初の時刻を尋ねてみたら、丁度午前六時三十分過ぎた頃、都城市の東、山之口町の東岳上空すれすれの方角から大きな爆音がして来たかと思ったら、とたんに都城市街上空で爆音がはたと、とまり五機編隊の紺色に輝いた飛行機が猛スピードで市街上空を西の方向へ通り抜け、財部町(たからべちょう)上空で南廻りに反転したかと思ったら、西飛行場付近から、物すごい爆発音と同時に大火柱が三つ立ち上がった瞬間、真黒い煙と火焔がめら〃とあがったがと思ったら、すぐに次の第二波の五機編隊が猛スピードで低空機銃掃射をしてきたそうです。
先刻より飛行場の方は格納庫や各施設が爆撃により大火災を発生しているのであろう、黒い煙とガソリンの燃える独特のオレンジ色の舌焔が上に蛇行しながら日本晴れの青い空に吸い込まれていっているのが印象的でした。
そのうち数機の日本の戦闘機が何処からか舞い上がって来たのか、母智丘、現在の丸山ゴルフ場の上空スレ〃に関之尾方面へ急カーブしながら猛スピードで庄内町上空を東に向け二機の戦闘機が通過して行き、その後方から追従しているのが胴体に真紅の日の丸印が見えたので日本機が敵機を蹴散らしに、おそらく都城東飛行場より上って来たのだろうと退避中の兵隊達はいっていた。
南にあたる梅北上空でも空中戦でも始まったのか飛行機の爆音のウナリが聞こえて来る。
もはや都城地方も戦場と化して行くのが明らかになったようである。
そのうち爆音や機銃音もとぎれ、とぎれになり、西飛行場方面を眺めると黒煙も薄くなり敵機も退散したらしく、やがて静けさも取り戻し、小鳥のサエヅリも耳に入るようになり、腕時計を見ると午前七時二十分を僅に過ぎていた。

鎌田政孝編「埋れた青春」より

この第57軍の数少ない遺構として、「対空トーチカ」が母智丘の入口に保存されています。
現在の陸軍墓地付近から移転してきた都城通信司令部では「ここに対空機関砲を据えていた」とありますが、内部は大人2名ほどしか入れないので、単なる防空監視要員の待避用シェルターかもしれません。
春は花見客で賑わう櫻並木の脇にポツリと建っており、何故か田の神様(たのかんさあ)の像がてっぺんに鎮座しています。

掩体壕


トーチカと田の神
トーチカとは、コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地のことで、ほとんど半地下式になっている。
このトーチカもその様式にならっており、太平洋戦争が激しくなってきた昭和十八年(一九四三)、本土防衛のために建設された。
昭和十九年(一九四四)八月以降、陸軍航空隊が都城西飛行場を全面使用することになり、さらに同二十年(一九四五)四月からは特攻基地となったため、米軍機の空襲が激しくなったので、このトーチカからも機関砲で応戦していた。
しかし、同二十年八月十五日終戦を迎えたため、防御施設としての役目を終えた。
当時は、この他にも数箇所にわたり設置されていたが、五十有余年の歳月とともに徐々に取り壊され、このトーチカが風雨に耐えて残った。
終戦直後、誰かがこのトーチカの上に田の神を据えた。以来、今日に至るまで豊作祈念の神として鎮座し、眼下に広がる水田を見守ってきた。
田の神は、旧薩摩藩領内に多くみられ、稲穂の成長を願って作られ、田の神信仰として藩独特の文化を形成した。
今後、このトーチカが戦争を語り継ぐ史跡として保存され、永遠の平和への願いを新たにする資となることを祈念して説明板を設置する。
平成十年三月


トーチカ

トーチカ

トーチカ

トーチカ
普段は近隣のかたが清掃や草刈りなど手入れをされているのですが、この日は新燃岳の噴火で火山灰まみれでした。

掩体壕

トーチカ
トーチカの屋根に鎮座する田の神様。

トーチカ

掩体壕

トーチカ
トーチカの銃眼

さて、戦時中にこのトーチカがどのように活用されたのか。
その辺の記録は残っていません。

【8月6日・庄内空襲】

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庄内小学校横に建てられた「庄内空襲之碑」

激しい空襲に晒された都城市ですが、郊外にある第57軍の糧秣廠は攻撃を免れていました。
しかし8月6日、都城に飛来した米軍機の一部が庄内を奇襲攻撃します。物資集積所の存在は、空中偵察でバレていたのでした。

糧秣廠の物資を入れる地下壕を掘るための兵隊さんが、あちこちの家に分宿していて、私内の前の道路(県道霧島線)で、毎朝点呼が行われていました。
私内に居た軍属さんは炊事係をされていたようです。大きな釜鍋を据えつけて、大きな豚肉の固まりを持ってきて煮たりしておられました。
その日、私は丁度、後の永山さんとこの法事の手伝いに行っていました。昼食後に都城が空襲を受けているとの事で、後の高土手の上から見ていましたが、もしかしたらこちらにもくるかも知れないと思い私内に帰りました。
軍属さんの赤ちゃんのオムツが干してあったので、すぐ小屋に取り込み土間でモンペを着ていましたところ、敵機が五・六機、物凄い音で頭の上を通りこし、西の方へ廻りましたので「これは大変」と、すぐ庭の壕の中に一人でいるのが怖くなって外へ出ました。
丁度その時、西隣りの小山田しづさんが、異様な声を出して逃げてこられました。
後で判ったのですが、焼夷弾が私内の横の通り道に落ちたからでした。その時は、私の家にはまだ火はついていませんでした。
でも一瞬の後に、しづさん処から煙が立ち上がりました。そして、私内の店のカンナ屑が燃えていました。
私は早速家の中の荷物を運びにかかりました。その頃、雨上がりで防空壕の中に水が出ていて、壕に入れていた荷物を外に出し乾かして家の中に運び込んでありました。

まとめていた荷物を四・五回持ち出しましたが、ひどく咽喉が渇き、胸が苦しくなりました。
お父さんは、私が帰ったとき土間ですれちがいましたが、そのまま奥の方の居住用の防空壕に避難されました。
一人であちこちしているうちに、とうとう納戸が燃え上がりました。怖くなって、東隣の花吉さんの間を通り、現在の東常次さん宅(当時は、沖縄から疎開してきた人達が多勢住んでおられました)の方へ逃げました。
その時、一人の兵隊さんが「ここは誰もいないのか」と言われました。
「多分、外の防空壕でしょう」と言って、前の通りに出て、後を振り返って見た時、堂園さんの家の前の部分が燃え上がっていました。立派な大きな家で、「勿体ない」と思いましたが、誰一人として消火する人もなく、燃えるにまかせるほかない有様でした。後の話ですが、花吉さんの裏の畑の茶の木の下に、荷物が二個持ち出されてあったとのことです。
多分、あの声をかけた兵隊さんが持ち出して下さったものと思います。花吉さんも「お蔭で助かった」と大変喜んでおられました。
私内の家が大きかったので、花吉さんの家は類焼したのでしょう。
しばらくして帰ってみたら、すっかり丸焼けでしたが、家族はみんな無事でした。
一年生の子供が、焼け跡を見て、「ランドセルがなくなった」と泣き出しました。
今でも当時のことを思い出すと、くやしくてなりません。いずれは、何処も焼けると思っていましたのに…。焼け出された者がみじめでした。


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安永城跡から見下ろす庄内の町

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向って左手が焼夷弾攻撃を受けた庄内小学校、正面が野戦輸送司令部、右手が機銃掃射を受けた住宅地

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野戦輸送司令部と庄内の町。この道をまっすぐ行くと、都城西飛行場があります。


その後は苦労の連続でした。
私の家は、裏通りに沿った小屋が残っていましたので、そこで雨露をしのぎました。住居のなくなった人達には、班の方々が、ワラブキの片屋根の家を作って下さいましたが、後の方が、地べたにくっついた小屋でした。
哀れな家で、今でも目に浮かんできます。
私内に間借りしていた軍属さんは、荷物も沢山持ってきておられましたが、荷物もそのまんま焼け出され、赤ちゃん一人を抱いて逃げられたのでしょう。
その後平田区辺りに居られる噂を聞きましたが、一回も逢う機会もありませんでした。私より、ひとめぐりぐらい若かったでしょうから、何処かで元気に生きておられるだろうと時折思い出したりします。
町役場は、西区の方の防空壕に疎開していました。そこに、一回だけ、被災者一同が集められて、説明会がありました。
今は、その内容もはっきり覚えていませんし、地下壕の役場のあった場所も、はっきりは覚えていません。
町民税が一回だけ免除になり、持家に一千円、家財道具に五百円、軍用毛布二枚が支給されました(貸家については支給されませんでした)。

庄内空襲の日より 今城フヂエさんの証言

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八月六日午前十一時五十分前後の事と思われる(正午過ぎでないと確信している)。
当時十五才、旧制中学四年の私は、腎臓疾患のため都城市にある川崎航空機工場の学徒動員を休んで、自宅で母といつもより早い昼食を取っていた。
空襲警報が発令されたかどうか記憶にないが、異様な物音(グラマンの爆音と後で判明)に二十メートル先の防空壕にかけこんだ記憶がある。
壕のなかで母が居るのを確認できる程の慌てようである。
庄内に駐屯していた関部隊の多くの兵士の姿がたとえ上空から観察されていたとしても、よもやこの庄内という山間の辺地が焼夷弾の被害を受けるとは、だれも予想していなかったと思う。
約十分か十五分(全く時間の長短は分からないが、短い記憶がある)の防空壕の後、もう敵機は去った様子に外に出たところ、壕と家との間にある高さ約五メートルぐらいの柿の木の頂上付近の、直径約七センチほどの枝が飛行機の主翼か何かで折られたと思われる無残な姿が目についた。低空を飛んだという実感と同時に、藁葺きの校長公舎の屋根の数ヶ所より白煙および火炎が上がっているのに気づいた。

畠中通夫氏の証言より

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昭和二十年八月六日、私は何かの用事で偶然にも庄内に帰っていました。
丁度昼ごろだったと思います。空襲のサイレンが鳴り響きました。私は何回も敵と銃火を交える修羅場を経験していましたので別に気にもしませんでしたが、
どうも様子がただ事でないので外に出てみますと都城が盛んに空襲を受けていました。
私の家は宮原の高いところにありましたので都城方面がよく見えました。もくもくと立ちのぼる煙の量からして相当の被害と察知されました。
そのうち横市方面より真っすぐこちらに突っ込んで来る飛行機がありました。
庄内上空で何かばらまいたようでした。それは液体のようにも感じられました。
ほんの一瞬の出来事でした。やがて静かになりましたが、まず黒煙を噴き上げたのは小学校の講堂の様でした。
その頃、庄内は本土決戦に備えた陸軍の糧秣基地になっていました。小学校の講堂にはギッシリ物資が詰まっており、運動場にも色々なものがうずたかく積まれていました。
また城山付近には横穴があちこち掘られ、兵隊もたくさんおりましたのでキット重要な物資が貯蔵されていたのでしょう。
敵はこれを狙って来たものと思います。火の手は行動から西区方面にかけて広がっていきました。


私の家内の家は学校下の掘どんの下の西俣です。
西俣家には二十才になる家内の妹と家内の弟の子である三才になる女の子がいるはずです。私は夢中で走りました。カタン馬場を一気に駆け抜け一歩園の所まで来ますと、燃え盛る講堂の火煙が道をふさぎ前に進めません。止む無く講堂を東に大回りして学校下に出て小林どんの庭を踏み切って西俣家にたどり着きました。
家の屋根はもう燃え上がっており妹たちも退避したかのようでした。一安心の私は火の中に飛び込みまず米びつを探しましたが見当たりませんでした。
今思うと恥ずかしいようですが当時は食うものがなく一粒の米が何より貴重品だったのです。屋根は藁葺きでしたので火の回りが早く、床には火の塊がボタボタ落ちてきますので無我夢中でタンスの引き出しを外に放り出しました。
最後に持ち出したものがモロブタでした。このモロブタは記念として今でも私が保存しています。
危険が迫りましたので持ち出しを諦めて外に出たとき兵隊さんが一人やってきました。兵隊さんは自分たちの食料としてここで四、五頭の豚を飼育していましたが、それを見に来たのでした。
この兵隊さんの話で庭の隅の防空壕に義妹たちが居ることが分かり、慌てて中を覗いて見ました所、中には義妹と三才になる初子と隣の三才の子供の三人が折り重なって倒れて居るではありませんか。
子供二人は無事で大丈夫でしたが、義妹はうつ伏せになったまま動きません。びっくりして抱き起しますと胸の辺りからドッと血が噴き出しました。
胸に大きな怪我をしているようです。まだ死んではいませんでした。
兵隊さんに加勢をもらって義妹を背中に縛り付け、子供を胸に抱いて塚野民衛さん方の庭を突っ切って田中医者どんを目指して走りました。大浦商店の所で私も力尽きて座り込んでいたことろ、通りかかった四人の兵隊さんが加勢をしてくれました。
丁度その頃は講堂や人家の燃え盛る炎や黒煙が周囲に渦巻き、熱風が台風の様でした。



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安永城の山腹には、西南戦争から50年目を記念して昭和4年に建立された「南洲神社」があります。ここは、兵士や住民の避難所にもなっていたそうです。

しばらくして空襲で焼けた家の仮小屋の建設が始まりました。それは役場から割り当てがあって各隣保班で一軒を受けもつ事になりました。
私たちの安永隣保班は久保三太さんの家を造りました。各戸から藁や木材を持ち寄って大体二日位で造り上げたと思います。

「忘れえぬ大惨事」より 久保田武美氏の証言

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庄内空襲之碑と碑文


「戦後発行された某誌によれば、戦時中日本の主要都市が受けた空襲回数の中で、東京は別として都城は鹿屋に次いで全国第二位にランクされており、そのほとんどは西飛行場空襲であるわけで、私にとっては余り有難くない記録順位でした。
B29は三十日も来襲しましたが、一応四月末をもってようやく峠を越し、五月に入るとほとんど来襲しなくなりました。
この頃執拗に来襲するB29に対し、都城の疾風戦闘機隊に邀撃命令が出たそうですが、その詳細は知りません。
多分、「坐して死を待つよりは」の気持ちから出た命令だったのでしょう。
邀撃といえば、当時私は都城市民の方から「飛行場には飛行機が沢山匿されているというのに、なぜあれだけやられても見方の飛行機が飛び立って敵機をやっつけないのだ」となじられるように質問された事がありますが、私は答える立場ではなく返答に困りました。
飛行場の穴は埋め切る事が出来ず、確か南北方向に飛行機が一台やっと離着出来る道路のような線の滑走路を作り、目印に犬小屋の屋根のような三角の標示板がその両側に並べられ、南方第一線基地のようでした。
いずれにしても都城西飛行場は、四月二十九日の空襲をもって、重要施設のほとんどを破壊され、また飛行場内至る所に投下された時限爆弾の為に完全に使用不能となり、特攻隊や制空隊の出動が出来なくなりました(〃)」

八月六日、遂に庄内が空襲を受けました。庄内小学校を中心に、西区、町区はひどい災害を受け、人々はただ茫然として立ちつくすのみでした。
幸い私の家はそのままでしたので、小学校周辺を宿舎としていて焼け出された兵隊さん十八名が、宿舎として住まわれることになりました。
両隣りは上官の宿舎です。
しばらくの間ではありましたが夫は戦地、家族、幼い子を抱えて、今ではよく頑張ったものだと思います。
八月十五日、重大放送があるというのでお盆の日でもあるし、親族や客の人たちとともに聞いた終戦のラジオ放送。
天皇陛下のとぎれとぎれ聞えてくるお言葉に、ただ唖然として言葉もありません。残念な気持ちとホッとした気持ちでした。
放送後しばらくして兵隊さんたちは帰ってこられました。
皆言葉はありません。夕方になって諏訪神社前の道路で、たくさんの将校、兵隊さんが、手帳をはじめ、重要書類みたようなものを、泣きながら焼いている姿が今でも消えません。
夜になると、私の家の兵隊さんたちは酒宴が始まりました。
それも皆が泣きじゃくりながらの宴会。間もなく兵隊の一人が上官に向かって暴言をはく始末。
でも上官は寝入ったふりして何も答えません。しまいにはドタン、バタンと、とっくみあいの大騒ぎ。
その時、私は初めて全身に龍の入墨をしている人を見ました。実に不安でした。
予想もしない終戦という事態になって、皆気持ちの収拾がつかず、やるせない、うっ憤ばらしの挙句の果てとは思うものの、幼児をかかえ、夫の陰膳に無事を祈り、床についてもねむれぬ夜でした。
翌日から翌々日の夕方までには皆さん郷里へと出発されました。

「終戦の日前後」より、黒木ミツさんの証言

もしも米軍の宮崎上陸作戦がおこなわれた場合、都城市では沖縄戦の惨劇が再現されたことでしょう。
庄内空襲から10日後、日本は降伏。敗戦により、第57軍は終戦業務へ移行します。
隷下の第25師団は物資の処分、進駐軍への武器弾薬引渡し、復員業務などに取り掛かりました。
こうして、庄内の戦争は終わったのです。

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