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都井岬海軍レーダー基地(宮崎県串間市都井)

Category : 串間市の戦跡 |

海軍は都井岬に最新鋭の電波探知機(レーダー)の基地と、電波塔7基を設置。
探知した情報はすぐさま同県鹿屋市の航空基地に伝えられるなど、厳戒態勢が敷かれていた。
福島地区隊は米軍機の来襲に備え、串間市の都井岬や大束、市木など数カ所に監視哨を設置。当時、監視員は住民も含めた当番制だったといい、農業をしていた山口さんも何度か都井岬の監視哨に上り、双眼鏡を手に一昼夜海を見張り続けた。
「後にも先にもあれほどの緊張、不安を感じたことはない。毎日をここで過ごしている兵隊たちを心から尊敬した」
B29爆撃機、グラマン機……。終戦直前、毎日約300機が岬に飛んできた。米国の計画では、志布志湾を含む南九州への上陸作戦は11月1日と予定されていた。
山口さんは「終戦が遅れていれば、この岬がなければ、串間はどうなっていたのか。積部隊に本当に感謝している」と話す。

宮崎日日新聞特集「忘れない・戦後70年へ 戦争遺産」より 2014年

宮崎県串間市の都井岬。日本在来馬の繁殖地として有名な場所です。
太平洋に突き出た都井岬には江戸時代から海上見張所が置かれており、戦時中にはレーダー基地が設置されました。
戦後の昭和28年にも在日米軍がレーダー基地建設を計画しましたが、激しい反対運動によって頓挫。結局、基地は高畑山に設置され、現在は航空自衛隊高畑山分屯地となっています。

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都井岬に残る地下電探室跡

20世紀は航空機の技術が飛躍的に発達しました。対する防空側の索敵能力もそれに併せて向上します。
初期の索敵手段は目視や双眼鏡、聴音器やサーチライトといったものでしたが、無線や電波探知機(レーダー)の発達によってその範囲は大幅に拡大。
電波妨害やデコイによるレーダーへの対抗手段(ECM)が登場すると、今度はECMに対抗する為の対電子対抗手段(ECCM)が編み出され、更にはレーダー網を突破するためのステルス戦闘機までが登場します。

レーダー技術を軽視し後れを取った日本軍ですが、戦争後期には電波探知機の配備が進みました。
昭和16年12月より、都井岬に海軍の電探(レーダー)および通信所の建設が着工。レーダー設備は年々拡充され、本土空襲が激化すると共に、見張所を守るための対空部隊(25ミリおよび13ミリの対空機銃5基を装備)も展開しました。
ただし、それらの警戒情報が十分に活用されたかどうかは話が別。
当然ながら米軍側も対策をとっており、日本上空へ侵入する米軍機がレーダー攪乱用のチャフ(電波攪乱材)を散布していたことが当時の報道でもわかります。
こうした妨害手段に加えて、日本軍のレーダーは精度の低さや探知範囲の狭さ、更には陸軍と海軍で情報が共有できないという致命的な欠点があった為、その能力を十分に発揮できませんでした。

「異変はまず作戦室壕の隣りの、地下通信所の中で起こった。
この異変の第一線をキャッチした私の同期の奥村君(堺市在住)の話を総合すると次のようであったらしい。
彼は新田原との通信を担当していた通信手で、昨夜より徹夜の勤務が終ろうとしたこの日の早朝(多分六時から七時頃)、突然新田原より都城の呼出しが行われ、6という緊急略号信の連送が行われ始めた。
が彼にはこの6という略号の意味が解せなかったという。
しかし狂ったように連送してくる新田原の666に、何かただならぬものを感じた彼は当直の将校に連絡した所、この将校にも即座に6の意味がわかならかった。
やむを得ず新田原に6ウホ(6とは何のことか)の問合せを行った所、何と新田原より当時厳重に禁じられていた生文で「グラマンF6F」の事であり、従ってこの略号の意味する所は「都城に告ぐ、現在新田原飛行場は敵艦載機グラマンの攻撃を受けつつあり」という事であり、「直ちに全飛行場を呼出せ」という将校の命令も時既に遅く、南九州の各飛行場からは、危急を告げる緊急呼出しが一斉に始まったという。
おそらく前後の事情からして、この事件の直後であったと思うが、一人の将校が血相変えて私の居た地下壕へ入ってきて「艦載機の来襲だ。直ちに戦隊に通報しろ」と怒鳴りつけるように指示して又飛び出して行った。
私は突然の事に情況の判断が出来ず、仮定の訓練だか本物だかよくわからなかった。
それというのも都城へ展開以来、空襲警報は度々発せられたが、いつもきまって北九州へのB29の来襲で、空襲といえば北九州という先入観があったからである。
それでも一応命ぜられたように、戦隊に通報しようと壕を飛び出したが、ものの十米も走らぬ内に、突然連続した大爆発音が起り、はっとして立止ると、何と目の前の明野隊の格納庫付近が次々と爆発して、火柱と黒煙を噴き上げていた」
「埋れた青春」より 

昭和20年3月18日、米軍は沖縄侵攻への露払いとして西日本一帯を大規模空襲。
これに伴って九州沖航空戦がはじまります。
宮崎県沿岸部のレーダーは敵機動部隊の接近を察知できず、情報も県内各飛行場へ一切伝わっていませんでした。
3月18日朝、陸軍都城西飛行場が奇襲の第一撃を受けた際の貴重な証言が残されています。

「数日後の都城の地方新聞の一隅に
「十八日敵艦載機は、都城にも来襲、軍事施設を攻撃するも、所在の部隊は応戦、敵機?機を撃墜した。我が方の損害なし」
という記事があったが、これを読んだ都城市民の人達は、あの連続した大爆発音と、終日燃え続けた格納庫の黒煙をどう考えたであろうか。
おそらく実状は勤務していた雇員の口から洩れていたと思う。

尚通信関係者のみの疑問であるが、この日都城の私達の通信では、佐多岬、都井岬(海軍)、細島等の各陸海軍の電波警戒機情報を傍受していた事である。
詳しい事は忘れたが、当時のレーダー情報は確か、哨所番号、方位、距離、単機又は編隊、敵又は味方等々といった内容を、000、111、222といった三語組織の電文で後方に伝えられていた。
従って本来からいえば、来襲する敵機は南九州沿岸より、はるか遠くの洋上で捕捉出来たわけであり、都城でも何十分か前に敵機の来襲を予知出来たわけである。
しかし基地の中枢にいた私ですら、敵機来襲を知ったのは、ロケット弾が炸裂する僅か二分前の事であり、殆んどの基地の兵は、このロケット弾の爆発音で空襲を知ったというのが本当の所である。
果してこの日電探は何キロの洋上で敵機をキャッチしたのか、又都城ではこの電探情報を傍受したのかどうか、同じ通信とはいえ任務違いで私にもわからないが、今となってはその真相は知る由もない。
戦中は勿論戦後も、電波兵器の立遅れや、来襲敵機を後方へ通報するいわゆる航空情報の不備が、味方の損害を大きくし、敗因の一つとされているが全くその通りである」
「埋れた青春」より

細島や都井岬のレーダーが探知した情報はどのように活用されていたのか。
米軍側がそれを凌駕する電波妨害を仕掛けていたのか。
その辺の事情は全く分かりません。3月18日の朝に県内の飛行場群がレーダーの恩恵を受けられず、敵の奇襲攻撃を許したことだけは事実です。

これら日本軍のレーダー基地や通信所は終戦によって撤去されました。細島や平岩の監視所跡へ行ってみたのですが、既に痕跡すら見つかりません。
唯一、遺構が保存されているのが串間市都井岬の電探基地。
先日、お馬さんと遊ぶため歴史調査の目的で都井岬へ行ってきました。

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当時の都井岬灯台

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現在の都井岬灯台

半野生馬が棲息することで有名な串間市の都井岬。
もとは元禄10年(1697年)に設置された高鍋藩の放牧地「御崎牧」であり、岬全体が柵で遮断され、軍馬が放牧されてきました。
明治の廃藩置県後に御崎牧の馬達は地元へ払い下げられ、現在も日本在来馬の血を引く「御崎馬」たちが岬全体を自由に闊歩しています。

太平洋へ突き出た都井岬は見晴らしが良く、江戸時代から海上見張所が置かれていました。近代に入ると、船の航行を導くための灯台が建設されています。
また、同じ理由で「敵」の接近を監視するにも都合のよい場所でした。
そして太平洋戦争中、都井岬には日本軍のレーダー基地が設置されます。

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有料ですが、灯台内部も見学できます

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岬の突端から太平洋を一望。海から凄い突風が吹きあがってきます。

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都井岬の見張所についてですが、元々は簡素な監視施設として設置された様です。
戦争が激化すると共に監視システムは質・量ともに増強、レーダーや対空機関砲を備えた基地へと拡大していきました。
ただ、この基地の規模や実際の能力、成果についてはよく分りません。
戦争末期には米軍の空襲も受けていますが、その目標が灯台だったのかレーダーだったのかも不明。
宮崎・日南方面の空襲を終えた米軍機が、帰還途中に岬を襲撃していく事が多かったそうです。

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灯台における戦時中の解説はこの程度。

監視所跡地は岬突端の灯台へ向かう途中から脇道へ入り、細い道を登っていった扇山の頂にあります。
ネット上の地図には載っていない場合もあるので、入口をみつけるのは困難かもしれません。

現場近くまでは細い車道も通っているのですが、それと並行して扇山遊歩道も設置されています。

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遊歩道の看板を見て「景色を眺めながら歩いて登ろうかな」と思ったのが間違いの元。最初はなだらかだった道は、登るにつれてかなりの急勾配となっていきました。
既に遊歩道ではなく登山道と化しています。というか、道らしき道がありません。
馬に食い尽くされたか、扇山は樹木が殆んどない丸坊主状態。木陰が無いので暑い暑い。

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ぜえぜえ言いながら尾根を登り切ると、目の前に次の峰が姿を現しました。ああああああああ車で登ればよかった!
ここで一旦休憩しましょう。

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何故か、頭部だけの御地蔵さまが。

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今迄登って来た斜面を振り返ると、背後には真っ青な空と太平洋がパノラマのように広がっています。
あまりの絶景に暫くのあいだ見とれてしまいました。

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ふと足元に目をやると、夥しい量の馬糞が転がっています。こんな場所に馬がいるのかな?
山の中腹を覗いて見たら、斜面にへばりつくようにして何頭かの馬が草を食んでいました。……流石は野生馬。

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レーダー基地跡の斜面で草を食む御崎馬たち。米軍機は、この上を飛び越えて宮崎市や延岡市を目指しました。

しかしまあ、よくこんな急傾斜地を平気で歩き回れるもんですね。巨体のサラブレッドでは滑落してしまうような場所でも、小柄な御崎馬にとっては全く問題がない様です。
「鵯越の逆落し」の逸話も、日本在来馬だからこそ可能だったのかも。
あと、野生馬の排泄行為を観察していて気付いたのですが、複数の馬が同じ場所に糞をするんですね。トイレが決まっているなんてタヌキの溜糞みたい。

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眼下を飛ぶトンビ

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イヤ、馬糞を見に来たのではありません。私の目的は旧軍の遺構調査です。
ここで引き返すのも癪なので、呼吸を整えて再び登攀を開始。先程と同じくらいの斜面をひーひー言いながら攀じ登っていくと、いきなり平坦な尾根へ出ました。
ここから先、山頂部まではなだらかな地形が続いています。その向うに見えるのは通信所のアンテナ群。下をb歩いていくと、コンクリート製の基礎を發見しました。これが都井岬の特設監視所跡なのでしょう。
基地建設時には、勤労動員された女学生たちがカバンなどに砂を詰めて此処まで運び上げたそうです。
「レーダー以外に大砲も据えられた」という証言もありますが、これは大砲ではなく機関砲だったとのこと。記録によると、丘陵全体に5基の対空銃座が据え付けられていたそうです。

地下電波探知室

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電波塔の基礎部分

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その先には地下壕の跡が残っていました。これは地下電波探知室だったとの事。
かつては入口も地表に露出していましたが、風雨のせいで土砂に埋もれつつあります。

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地表に露出している地下壕の天井部分。
通気か配線か、地下壕と通じる幾つかの孔が配置されています。
電探基地の周囲は馬糞だらけでしたが、当時の日本兵たちも馬に囲まれながら太平洋を監視していたのでしょうか。
尾根の周囲には、他にも何かを撤去した掘削跡などが散在しているのですが、これらが電探基地関連のものなのかどうかは不明。都井岬の歴史に関しては、馬と灯台以外にも調べることが沢山ありそうですね。
レーダー基地に関して、パンフレットや資料館に解説は一切ありません。
ここに登って来た殆んどの観光客は気付かないまま素通りしてしまう筈。勿体無い話ですねえ。

……とか思っていたら、しっかり掲示板があるじゃないですか。ちゃんと調べろよ俺。

兵舎跡

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兵舎は司令壕と電波探知室の谷間にあり、隊員が寝起きしていました。

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兵舎跡に建てられた白蛇神社。現在は閉鎖されています。

地下発電室

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発電室入口。上に突き出ているのは通気孔か電源ケーブルの引き出し口でしょうか。

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いきなり発電壕の撮影に加わる御崎馬。このあと急カーブを颯爽と駆け抜け……ようとして、足を滑らせ転倒しておりました。

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発電機室の内部。1室のみで、天井には通気孔、床には発電機の基礎が三つ残されています。

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天井の通気孔。突然の闖入者に驚き、ぶら下がっていた数匹のコウモリがパニック状態に。

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濾過槽および貯水槽

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近くの沢からポンプアップした水を濾過・貯水していた2つの水槽。
この丘には幾つもの湧水があります。

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地下司令壕

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貯水槽のすぐ上、現在の「八十八ヶ所霊場」には司令部の壕がありました。
レーダー探知された敵機の情報は、24時間4交代制の勤労学生隊により鹿屋飛行場へ電話連絡されていたそうです。

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壕の入り口から先は左側に曲っており、その先に3つの小部屋が設けられています。
それぞれの部屋には通気孔と窓が付いていました。

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入り口から直角に曲げたトンネルは、爆風や機銃掃射よけの構造でしょうか

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この天井に開けられた通気孔の地表部分は、何と……

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こうなっております。

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戦後に通気孔を利用して建てられた祠。昔々、この附近には平家の落人らしき人々が集落をつくり、ひっそりと暮らしていたそうです。

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これも通気孔ですね。

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採光窓の方は生い茂る草に隠れてしまっています。

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ちょっと離れて見ると何が何やら。

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壕の中で地響きがするので「何だろう?」とおもっていたら、馬の群れが頭上を通過していました。

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レーダー基地付近にある三角点の標識。「點」が旧字体なので戦前に設置されたものでしょう。

戦争末期、空襲に晒されながらも都井岬特設監視所は索敵任務を続けました。しかし、3月18日以降も続いた攻撃によって九州南部の陸海軍飛行場は次々と機能を停止。
最後には、迎撃に飛び立つ友軍機すら姿を見せなくなりました。
こうなっては、幾らレーダーを備えていてもどうしようもありません。無差別爆撃が始まるとB29は次々と町を焼き払い、人々は降り注ぐ焼夷弾や機銃掃射を避けて逃げ惑うしかなかったのです。

宮崎・鹿屋方面の空襲を終えた米軍機は、帰りがけに都井岬も襲撃していきました。対空陣地も応戦しますが、敵機を撃墜するには至らなかったようです。
爆発音に驚いた御崎馬が、崖から転落死することもあったとか。

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米軍が本土上陸作戦を決行した場合、志布志湾方面にはこの沖合から侵攻してくる筈でした。
日本軍側も、崎田や内之浦に砲台や特攻隊を配備して待ち受けていました。そうなれば住民を巻き込んだ、沖縄戦の悲劇が再現されたことでしょう。
そのような話が嘘みたいに、美しい海原が広がっています。

南九州の防空戦における目と耳の役割を担った都井岬見張所。その遺構は、このまま埋れていってしまうのでしょうか。
都井岬灯台と同じくらい歴史的價値はあると思うのですが。

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何にせよ、目的は達しました。
これで心置きなく馬と遊べます。
御崎馬は好き勝手に岬の中を移動するので、所在を探すのは非常に困難。岬突端の灯台付近は森に蔽われているので、馬を間近で見るには料金所方面の放牧場へどうぞ。

敗戦の混乱期、御崎馬の数は激減します。
更に観光ブームが到来すると、ゴルフ場開発を目論んだ東京の不動産業者が都井岬の土地買収に暗躍。「馬と一緒にゴルフプレー」を売りにしようとしたのかは不明ですが、コース上に撒き散らされるであろう大量の馬糞をどうする気だったのでしょうか?それより馬に打球が当たったらどうすんだ。
この騒動に無視を決め込む宮崎県側の無策も手伝って、開発か御崎馬保護かで地元が真っ二つに割れる騒ぎに陥りました。
ついでにホテルも次々に建てられ、馬達の生活エリアは破壊されていきます。そこへ18ホールのゴルフ場なんか作ったら、馬の保護活動にとって致命的でした。
札束片手に都井岬を荒し回る不動産業者と、全く頼りにならない行政機関。
これに反発した地域は逆に結束し、国のバックアップもあって野生馬保護運動は強化されました。土地の買収に失敗したゴルフ開発業者も、遂には撤退します。
撤退して正解だったと思いますよ。
観光コースとして串間は遠く、やがて観光客が沖縄やハワイへ流れると共にホテル群の多くは廃業。一歩間違えれば、それらにゴルフ場の残骸が加わっていたかもしれません。

御崎馬にとっては、これで良かったのでしょう。

御崎馬は人間や車に対し無関心な態度を貫いており、近くに寄っても問題はありません。ただ、触ったり背後に立つ無礼なニンゲンに対しては噛み付きやキックをかましたりします。
運転の邪魔だからと馬にクラクションを鳴らす非常識な輩もいるそうで、一体何しに都井岬へ来てるんだか訳がわかりません。
脅したりしなければ、この岬では人と馬の共存が可能なのに。

あとは馬糞を踏まないように注意しましょう。本当に馬糞だらけです。
以上、馬糞のレポートでした。

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戦前の御崎馬

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現在の御崎馬

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馬たちの後方に、先程のぼってきた扇山が見えます。

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崎田海軍航空基地(宮崎県串間市崎田)

Category : 串間市の戦跡 |

志布志湾に面する同市・崎田浜にはかつて、海軍の水上基地があった。
「当時は海軍の人たちと遊ぶのが日課だった」と話すのは、近くに住む山崎辰生さん(86)。中学生だった山崎さんは学校が終ると毎日、友人とともに海軍が訓練していた崎田漁港に向かっていた。
山崎さん宅には20人ほどの海軍兵が寝泊まりしており「いつも海軍のことを教えてくれた。おなかがすいたと言うと乾パンをくれた」。
彼らに憧れ、自身も43(同18年)に海軍入り。終戦まで海軍機の整備士として活躍した。
ツアー客が来たときなどは海軍基地跡を前に、当時の記憶を交えながら戦争について解説する山崎さん。「体が動く限り伝えていきたい。それがあの時、国のために散っていった海軍兵たちへの恩返しになれば」と力強く語った。


宮崎日日新聞「忘れない・戦後70年へ 戦争遺産」より 2014年

給水塔


米軍上陸作戦の目標であった志布志湾は、宮崎県側の突端である都井岬特設監視所と鹿児島県側の突端である内之浦砲台によって防御されていました。
この2つは有名なのですが、戦時中の志布志湾に海軍の航空隊が展開していた事は余り知られていません(私も知りませんでした)。

2010年、福田鉄文著「宮崎の戦争遺跡」によってその詳細が初めて紹介されました。
崎田基地を取り上げているサイトは幾つかありますが、当ブログを含めて全てが福田氏の後追いです。
あの本以上の内容を発掘できたものが皆無で、どれもコレも似たり寄ったりになっているのはそれが原因。
このことは、きちんと明記しておいた方がよいでしょう。

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よく晴れた日の本城川河口では、息をのむほど美しい夕陽を見ることができます。


志布志湾の宮崎県側、串間市の本城川河口に崎田という漁港があります。
この静かな港に、海軍の航空隊が展開したのは昭和8年前後のこと。
「航空隊」といっても滑走路が建設された訳ではなく、水上機の基地でした。飛行場と云うより軍港みたいなイメージでしょうか。

水上機とはフロートで船のように浮き、そのまま海面を滑走して飛び立つ下駄履きの航空機。
宮崎市民なら見慣れていると思いますが、宮崎空港の近所に妙な形のセスナ機が展示してありますよね。アレの軍事版だと思ってください。

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これが水上機。第2次上海事変にて、昭和12年

崎田地区には海軍兵舎とそれに伴う諸施設が設置されました。
滑走路が無かったため飛行場にしては小規模で、現在では宿舎で使われていた給水塔や弾薬庫などが残されているだけです。

崎田

崎田
現在の崎田漁港
此の先の海辺に水上機が係留されていました。

崎田
崎田地区の集会所。元々は海軍の烹炊所があった場所です。

崎田

戦前から、志布志湾では日本海軍の軍艦や伊号潜水艦が頻繁に演習をおこなっており
それらに搭載される水上機も崎田からダグリ岬あたりの水域で射撃標的の曳航などに参加していたそうです。
こうして、崎田の海軍基地は訓練施設としてスタートしました。
本格的な訓練開始は昭和12年頃から。それから昭和16年まで海軍部隊が駐屯していました。

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当時の日本海軍が配備していた95式水上偵察機

昭和16年、太平洋戦争が始まってからの崎田基地については詳細が不明です。
17年には教育部隊が崎田基地へ転入し、終戦直前には人間魚雷部隊が駐屯していたという記録くらいしか残っていません。
昭和19年9月、南九州防衛のため志布志湾一帯に陸軍第86師団が展開。串間市には同師団の歩兵第189連隊が配置されます。
翌年5月に第86師団は「大隅集団」に再編。189連隊も砲兵隊などと統合された「福島地区隊」となりました。

その後、坂を転げ落ちるように戦況は悪化。
昭和20年4月に沖縄戦が始まると、軍部は本土決戦への備えを固めます。
日本軍側は米軍の九州上陸地点を正確に予測しており、宮崎県沿岸・志布志湾・吹上浜に防衛部隊を展開していました。
尤もその防御は堅固とはいえず、比較的マシだったのは志布志湾のみ。
その志布志湾も、艦砲射撃と航空攻撃の支援を受けて殺到するであろう米軍上陸部隊に対して、内之浦砲台が与え得る打撃はそれ程大きくなかったでしょう。
後方支援を頼もうにも、内陸部の鹿屋や都城の飛行場群は米軍機の猛襲でズタズタにされていましたし。
都井岬のレーダーも、昭和20年3月18日の米軍機奇襲を察知できなかった事は都城西飛行場の記事で書いたとおり。

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串間市山中には二重三重の防衛ラインが構築されたものの、配置図を見ると小規模な陣地が散在していたという方が正確です。
米軍の内陸侵攻を防ぐには、余りにも貧弱でした。
もっとも、米軍のオリンピック作戦では串間市方面を無視して鹿屋市と宮崎市の二方向から進撃。
都城市で合流して大隅半島を包囲する計画だった様です。袋の鼠状態と化した串間・日南方面の部隊に持久戦の術は無かったことでしょう。


終戦間際の防衛体制については、串間市史に詳しく記されています。

福島地区隊の作戦準備(積四部隊)
元歩兵第一八九連隊副官石橋喜作ほか地区住民からの聞き込み等

1.連合軍の上陸地点が油津方面にも一部指向されるという情況判断に立ち、油津方面の海上監視のため、大束の中原北東の山に立木を生かして半永久的な監視塔をつくり、監視兵一小隊を常駐させた。
本部との連絡は有線電話で行った。
2.連隊本部を福島小学校から大束小学校に移転した後、椿山(大束、平原)に三角兵舎を建てたほか、揚原への道路沿いに洞窟を掘り、兵員の棲息、兵器、弾薬の格納にあてた。
3.都城方面へ部隊転用のあることを予想して、大束から志布志四浦へ至る道路設置、架橋工事を行ったが、橋はできたが道路は未完成だった。
4.敵の内陸侵攻にこの道路が逆用されるおそれもあるため、真萱にあった患者の一時収容所を北方小学校に移し、大重野、真萱に止阻陣地が構築され、火砲などを隠したりタコツボも用意された。
陣地はすべて坑道式である。
5.止阻陣地は奈留、仲別府地域、鹿谷付近にも準備された。
6.万一、敵が上陸した場合に備え、今町橋爆破、みかん山の野砲、北方地区山上の機関銃座が準備された。
7.海岸地帯には偽陣地が用意されたほか、一里崎に砲兵陣地を構築中であったが、完成を見ていない。
8.油津に海軍特攻基地司令部があり、特攻基地が油津、大堂津、外の浦に置かれ、第五特攻戦隊(嵐部隊)突撃隊基地が崎田に設けられた。
9.日南の隈谷トンネルは、燃料、弾薬の貯蔵庫として使われた。
10.現地自活用兵器として刺突爆雷(三キログラム及び五キログラム)を製作した。
11.防衛庁「本土決戦準備(2)」によると、終戦時ごろの作戦準備の進捗状況は福島地区隊では、僅か一〇~三〇パーセント程度であったという(志布志地区八〇~九〇パーセント、鹿屋地区三〇~五〇パーセント)。
12.その他地域住民の協力
陣地、掩砲(銃)壕の構築に婦人会、高等女学校生徒が真萱方面に出動している。芳中第八六師団長は住民の協力が大きかったと後で述懐している。
学校はほとんどが、各隊の本部、宿舎となり、運動場は厩舎になったりしたため、授業は公民館や神社、寺院などに分散して行われた。
小学校でも高学年の児童は、兵隊とともに壕掘りに協力、かばんに石や土を入れて運び出した。
婦女子に対する竹槍訓練も行われ、査問官による指導もあった。
「串間市史」より

崎田水上飛行基地は海軍第5特攻戦隊の拠点となりました。
上記の「本土決戦準備」には、崎田付近に回天と特四襲撃隊のマークが記してあります。
「特四襲撃隊」が特四式内火艇(水陸両用車両)のことだとしたら、竜巻作戦以外でも使用する予定だったのでしょうか?

給水塔

給水塔

給水塔
縫製工場裏にある戦時中の給水塔。「宮崎の戦争遺跡」には、海軍兵士がこの下でシャワーを浴びていたとの証言が載っています。

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給水塔の基礎部分

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給水塔附近に散在する古い構造物

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手洗い場の跡。旧軍のものかは不明。

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米軍が現れないまま訪れた昭和20年8月15日、崎田基地の部隊は解散します。
武器は油津、弾薬は大束競馬場に集められて進駐軍の監視下で海洋投棄処分されました。
軍の衣類や食料は飫肥に集積の上、十一月に宮崎県側へ譲渡を完了。
串間に展開していた軍人の復員は9月23日に始まり、10月には完了したそうです。

残された軍事施設は町が引き継ぐこととなります。
幸いにも僅かな遺構は保存されましたが、、残念ながら案内板などは設置されていません。
現存する崎田海軍航空基地の痕跡は、町の風景に溶け込んでしまっています。

貯水槽

貯水槽
崎田町内に残されている戦時中の貯水槽。崎田海軍基地でも利用していたとか。

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貯水槽
貯水槽はもうひとつあります。

弾薬庫
漁港脇に保存されている崎田基地の弾薬庫。
イタビカズラに蔽われている周囲の壁も当時のもの。

弾薬庫

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弾薬庫
戦後は倉庫として使われていた様で、改修工事で鉄骨などが追加されています。
一部は道路開通により撤去されたとの事。

弾薬庫

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