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第1挺進集団司令部および唐瀬原飛行場(宮崎県児湯郡川南町)

Category : 陸軍空挺部隊一覧 |


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川南護国神社慰霊祭にて

昭和16年以降、陸軍落下傘部隊の戦力化と錬成にあたったのが「挺進練習部」です。
その役目を終えた昭和19年秋、挺進練習部は全ての陸軍空挺部隊群を指揮下に置く「第1挺進集団司令部」へ再編されました。
今回は、陸軍空挺部隊の中枢であったこれらの組織を紹介しましょう。

挺進練習部があったのは、宮崎県児湯郡川南(かわみなみ)町。2010年の口蹄疫騒動で畜産業が大打撃を受けた地域です。
当時は随分と報道されていたあの町が、帝国陸軍空挺部隊の本拠地だったということは余り知られていません。

満洲国から九州へ

昭和15年、陸軍空挺部隊は静岡県の陸軍浜松飛行学校で創設されました。
翌16年5月には、防諜上の理由により満洲国の白城子飛行学校へ移転が決定します。7月から新天地での訓練を開始したものの、白城子は半年のあいだ雪に閉ざされることが判明。これでは訓練もままなりません。
飛行場と降下場を有し、冬でも温暖な訓練地として、宮崎県の陸軍新田原飛行場へ再移転したのが同年9月のこと。
更に、北側の川南村(現在の川南町)にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩をパラシュート降下場へ転換した陸軍空挺部隊は、「挺進練習部」として落下傘部隊を戦力化すべく努めます。
アメリカとの開戦を目の前に、猛スピードで部隊の錬成が進められました。

宮崎県のパラシュート部隊
満洲国から新田原飛行場へ移転した挺進練習部は、戦況の激化に伴って規模を拡大していきました。
パレンバン作戦に第1挺進団(挺進第1聯隊と挺進第2聯隊)を投入した後、更に第2挺進団(挺進第3聯隊と挺進第4聯隊)も新設。
それによって新田原飛行場が手狭になると、唐瀬原飛行場を中心とする川南空挺基地も建設されました。
挺進練習部の司令部と挺進第1聯隊、挺進第2聯隊は睦~東地区、飛行場は黒坂地区(10号線海側)、降下場は塩付~夜明原一帯(10号線尾鈴山地側)に設置されています。

茨城県のグライダー部隊
昭和17年には、パレンバンの戦訓を元に重装備を輸送可能なグライダー部隊も誕生しました。
将来的にパラシュート空挺師団とグライダー空挺師団への発展を目指す挺進練習部では、茨城県西筑波飛行場に5番目の連隊を移動し、グライダー空挺部隊の拡充に取り組みます。
以降、唐瀬原のパラシュート部隊、西筑波のグライダー部隊、新田原の空輸部隊に分れての運用が進みました。

挺進練習部から第1挺進集団へ
昭和19年10月、フィリピンに米軍が上陸。レイテ島防衛のため、直ちに第2挺進団が派遣されました。
11月、その役目を終えた挺進練習部は「第1挺進集団」へと改編。新田原・唐瀬原・西筑波に分散していた挺進飛行団、第1および第2挺進団、滑空歩兵2個連隊、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊を傘下に置きます。
準師団規模となった陸軍空挺部隊ですが、実際は各個バラバラに運用されていきます。
12月19日、既にフィリピンへ出撃していた第2挺進団、国内で戦力を温存していた第1挺進団と挺進戦車隊を除き、挺進集団司令部は残る戦力を率いてルソン島へ向かいました。
しかし、空母雲龍に乗船していた滑空歩兵第1聯隊の主力と挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、滑空飛行戦隊の先遣チームが、海路移動中に撃沈されて全滅。
第1挺進集団は、戦う前に兵力の半数を失ってしまったのです。
別の船団でフィリピンに上陸した残存部隊は、米軍の空襲を避けながらクラーク基地に集結。
空路でフィリピンへ到着した塚田集団長は、建武集団に組み込んだ滑空歩兵第2聯隊を主力としてクラーク防衛にあたりました。

フィリピンでも第1挺進集団の全部隊が集結することはなく、挺進集団司令部、滑空歩兵連隊、挺進工兵隊、第2挺進団、挺進飛行隊などが各地に分断されつつ戦闘を繰り広げました。
国内に残る空挺部隊は第1挺進団長が指揮をとり、サイパン・沖縄への特攻作戦や本土決戦に対応しています。

戦争末期、フィリピンの陸軍空挺部隊は飢餓に苦しみつつジャングルへ立て籠もりました。
彼等が米軍に投降したのは、終戦から一ヶ月も後のことです。
国内に残留していた第1挺進団は、敗戦と共に特攻作戦の中止と復員業務、唐瀬原飛行場の農地開放、宮崎県への物資引渡し、進駐軍との交渉など終戦業務に奔走。
すべての残務処理を終えた昭和20年末、やがてフィリピンから帰国するであろう傷病空挺兵のため唐瀬原病院職員として幾名かの空挺隊員を潜入させ、その活動を終えました。

第1挺進集団司令部および挺進第1連隊・挺進第2連隊兵舎

川南
第1挺進集団司令部と第1挺進団(挺進第1連隊・第2連隊)の兵舎があったのは東地区と睦地区。現在の県立畜産試験場川南支場から川南町立東小学校付近でした。
唐瀬原飛行場滑走路は隣接地の黒坂地区に、国道10号線を挟んだ塩付地区の夜明原あたりにかけてはパラシュート降下場が設置されています(現在はお茶畑)。

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第一挺進集団司令部および唐瀬原飛行場全景。かつては画面奥に空挺部隊の基地が広がっていました。

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このへんの公的施設が、かつてここに挺進司令部が存在した痕跡を示すのみ。

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宮崎県畜産試験場川南支場。口蹄疫終息宣言から随分と経ちますが、畜産施設入口には消毒用の石灰が散布され続けています。この付近から小学校あたりにかけて、第1挺進集団司令部の各種施設や病院・倉庫・慰霊施設が集中していました。

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戦後、東地区の空挺兵舎は空襲で焼け出された宮崎師範学校の臨時校舎として利用されます。続いて町立小学校が移転してきた後、昭和40年代の改築工事によって旧軍の施設は完全に消滅してしまいました。
現在は、小学校のアルバムに木造二階建て兵舎の姿を記すのみです。

唐瀬原飛行場

滑走路
かつて唐瀬原飛行場があった国道10号線黒坂交差点付近。
秘密部隊であった空挺部隊の川南転入とともに国道10号線(当時は3号線)は封鎖され、川南から海岸沿いを都農町へ抜ける迂回道路の建設が始まりました。
国道10号線といえば、今も昔も宮崎県の動脈です。それすら遮断した川南空挺基地の建設は、宮崎県の交通や物流にも多大な影響を与えました。

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この道路の左側に、1500メートルの滑走路が並行するように設置されていました。

黒坂
滑走路部分は表土を剥ぎ取られた上に砕石を敷き詰めてあった為、戦後の開墾作業では凄まじい苦難を強いられたとか。
かつてを偲ばせる飛行場の遺構は、何も残っていません。

塩付パラシュート降下場

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JA果汁工場裏の夜明原に広がる農地。元々は軍馬補充部高鍋支部塩付分厩の牧場でした。
ここ一帯がパラシュート降下場へ転換され、映画「空の神兵」のロケ地にもなりました。

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尾鈴山方面より眺める塩付降下場跡。この広大な平野に、かつては沢山のパラシュートが舞っていました。

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2010年に口蹄疫の大打撃を受けた川南町には、このような家畜慰霊碑が設置されています。

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空の神兵たちが訓練に励んだ塩付降下場も、現在は静かな農村となっています。

川南空挺基地の戦後
昭和20年8月15日、川南の挺進集団司令部留守部隊では、塚田集団長が不在のまま戦後処理へ移行。
中村第1挺進団長のもと、陸軍上層部や宮崎県庁との交渉を経て復員業務と川南空挺基地の農地開放が行われました。
同時に海外引揚者による大規模な集団入植が始まります。軍都川南は、開拓の町として再スタートしたのでした。

空挺兵舎の一部は病院や学校、開拓者の臨時住居として利用されたものの、多くの人にとっては開拓の邪魔に過ぎませんでした。やがて、巨大な空挺施設群は次々と取り壊されてしまいます。
昭和40年代あたりで空挺基地の遺構はほぼ消滅。現在は挺進第3聯隊兵舎の給水塔を残すのみとなります。
歳月が流れると共に、「川南の落下傘部隊」の記憶も風化していきました。
今では唐瀬原基地のことを知る人も少なく、某Wikipediaの解説ですらちょっと触れる位。かくして、空の神兵は国内のどこで訓練していたのかも分からない「幽霊部隊」となってしまいました。



せめて軍事専門家や軍事オタクならば、自国の空挺部隊司令部が何処に在ったかくらい知っているだろう。
……などと思っていたらそうでもないんですよね。

かれこれ10年以上ネットや書籍を観察してきましたが、当時から川南空挺基地を取材してきたのは、宮崎県の自治体と新聞社、そして郷土史研究家くらいですか。地道な調査のおかげで、宮崎県には貴重なレポートが残されました。
その他は「酷い」のひと言に尽きます。
高千穂空挺隊や義烈空挺隊について展示している知覧特攻平和会館でも、唐瀬原飛行場に関する解説は何故か皆無。
元空挺隊員の手による著作を除き、ミリタリー雑誌はモチロン、戦時遺構や特攻をテーマにした書籍からも完全に無視されています。せいぜい「PXマガジン」と「歴史群像」で名前だけ登場したくらいですか。
「空の神兵を讃えよう」と叫ぶ人々も、実際に興味があるのは戦場の武勇伝ばかり。対象の部隊がどこでどうやって実戦レベルへ成長したのかは見向きもしません。
言葉だけ飾り立てたところで、「空の神兵」に対する実際の認識はこの程度なのです。

例えば、ゴードン・L・ロットマン、滝沢彰両氏の共著「日本軍落下傘部隊」では、下記のように解説しています。
「結局のところ、同年8月に同部隊は日本に戻って、宮崎県高鍋の新田原飛行場に駐屯することになった。以降、新田原は終戦まで陸軍落下傘部隊の根拠地として機能する(「日本軍落下傘部隊」より)」

この記述は間違いではないのですが、正しくもありません。
新田原飛行場と唐瀬原飛行場を混同した上、地名も間違っています。現地取材をするまでもなく、日本地図で確認できるんですけどね。
新田原飛行場があったのは「児湯郡高鍋町」ではなく「児湯郡新富町(当時の新田村と富田村)」。高鍋町と新富町は戦前から別々の地方公共団体です。
この辺はかつての日本陸軍も似たり寄ったり。新田原飛行場を「高鍋飛行場」と命名しようとして、新田村会の猛反発を喰ったという騒動が起きています。今も昔も、地域への傲慢な目線がこのような失敗をやらかす原因なのでしょう。

空挺歌碑
降下兵を空輸する挺進飛行隊が配置されていたのは「新田原飛行場」
現在の航空自衛隊新田原基地にも空挺歌碑が設置されています(新富町にて)

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挺進部隊の各聯隊がいたのは「唐瀬原飛行場」
唯一現存する挺進第3聯隊兵舎の給水塔(川南町にて)

ウソをつくな!新田原飛行場は高鍋町にあるのだ!専門書に書いているから間違いない!とおっしゃるならば、新富町役場と高鍋町役場と川南町役場の位置をグーグルマップか何かで確認してみてください。西都市あたりは無視して。
軍事専門家が本で何を書こうと、現実世界における空挺部隊の遺構は高鍋町ではなく川南町に存在しています。九州の地理なんか知った事ではないかもしれませんが、事実は事実。
陸軍空挺部隊が新田原と唐瀬原と西筑波に配置されていたコトを明確にするだけで、無用な混乱も避けられるのですが。
   
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第1挺進集団第1挺進団 挺進第1連隊(宮崎市住吉および児湯郡川南町)

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挺進第一聯隊隊歌

雲に聳ゆる高千穂の
峯を仰ぎて生い立ちし
我が丈夫(ますらお)の雄心は
八紘一宇の神意もて
天孫降臨たる其の太古の
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

二千六百一年の
師走の八月朝ぼらけ
新田が原の碧空に
米英撃ての詔賜い
誠をただに誓ふとき
我出陣の式を挙ぐ
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

唐瀬の原に技を練り
鍛え磨きしつはものが
腕を撫しつつ征くところ
佛印馬來将緬甸
我が征くところ敵はなく
御稜威は燦と輝けり
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

想は遙か緬甸路の
ラシオの空の血しぶきは
我が兄弟の咲く姿
いざ出撃に空征かば
雲染む屍山征かば
草むす屍悔はなし
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊

來らば來れ国の仇
精鋭部隊はここにあり
我等舞い下り撃ち討ちて
大義に生きるつはものの
不滅の凱歌永久に
皇御国を護りなん
嗚呼神兵と謳はるる 我等は挺進第一聯隊


作詞 陸軍曹長 相澤久義
作曲 陸軍戸山学校軍楽隊

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昭和20年5月24日、熊本県の健軍飛行場から出撃する奥山隊長と義烈空挺隊員。
この部隊は爆薬の扱いに長けた工兵出身者で構成される第1挺進連隊第4中隊から選出され、第3獨立飛行隊と合流したコマンド部隊。
当初の目標であったサイパン突入作戦、続く硫黄島突入作戦が中止となったあと、沖縄の米軍飛行場へ特攻します。
なお、第4中隊自体は作業中隊として第1聯隊に残され、指揮は奥山大尉から浪花大尉へ引き継がれました。

義烈空挺隊の拠点が健軍であったかのように誤解される事もありますが、熊本県に居たのは2週間だけでした。
この部隊について取り上げる人は多いのですが、彼等の原隊である挺進第1連隊の拠点がどこにあったかは誰も書いていません。不思議ですねえ。



宮崎県の新田原飛行場で「教導挺進第1聯隊」が編成を完結したのは昭和16年11月のこと。
陸軍で最も早く戦力化されたパラシュート連隊でした。
しかし、パレンバン降下作戦に投入された挺進第2連隊、レイテ降下作戦に赴いた挺進第3及び第4連隊と比べ、挺進第1連隊は影が薄い存在となっています。
パレンバン降下作戦は輸送船沈没事故とパラチフスの集団感染で参加出来ず、ラシオ降下作戦は悪天候で中止。
空しく帰国した第1聯隊は、日向住吉の海岸にある兵舎で悶悶とした日々を送ります。

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当時の日向住吉。中央が高等農林学校、画像向かって左手に行くと国道10号線と日向住吉駅、右手に行くと塩路住吉神社と住吉海岸です。阿波岐原と宮崎市街は手前方向、新田原飛行場と唐瀬原飛行場は画面上方の遙か彼方に位置していました。一ツ葉有料道路や佐土原バイパスが無い当時は、住吉~新田原間の往復も不便だった事でしょう。

続いて計画されたのがベナベナとハーゲンへの降下作戦でした。
しかし、この作戦も戦況悪化で中止。再び帰国した第1聯隊は、本土決戦の予備戦力として扱われます。

戦機を逸し続けた挺進第1連隊で実戦に参加したのは、第4中隊から抽出されて沖縄へ突入した義烈空挺隊のみ。
この部隊は昭和19年にサイパン特攻を命じられ、川南から豊岡へ移動しました。出撃地の浜松で待機を続けるも、戦況悪化により作戦は中止。
翌年に川南へ帰還した奥山隊は、硫黄島突入命令を受けて西筑波へ移動します。しかし硫黄島玉砕によって作戦中止が決定され、再び川南へ帰還。
昭和20年5月には沖縄への突入を命じられ、健軍へ移動してから2週間後に出撃しました。
目まぐるしく変遷する計画に翻弄された、悲劇の特攻隊だったのです。

残る第1聯隊の主力は、昭和20年4月に米軍の九州上陸を避けて千葉県横芝へ移動。そこから園田直大尉率いる2個中隊をサイパン特攻部隊として差し出すも、出撃直前に8月15日を迎えます。

第1聯隊の犠牲は義烈空挺隊のほか、ラシオ空挺作戦時の墜落事故で失った30名のみ。
フィリピンで壊滅的な損害を受けた挺進第3聯隊、第4聯隊と違い、国内での待機が多かった挺進第1聯隊と第2聯隊は戦死者も比較的少数です。



今回は、その挺進第1連隊の遺構を調べに行きました。
第1連隊が最初に入っていたのは日向住吉地区の陸軍兵舎。そこから佐土原町を通って新田原飛行場へ通っていた訳です。
この住吉兵舎の場所、最初は日向住吉駅ちかくの宮崎大学農学部住吉フィールドあたりかと思ったのですが、どうも違うようです。戦時中も住吉フィールドは農場のままでしたから。

住吉兵舎の証言は多数残っていますが、調べても金吹山(現在のシーガイア付近)にあったことしか分りません。
第1連隊の兵員や物資の移動には、日向住吉駅ではなく花ヶ島駅(現在の宮崎神宮駅)を利用していました。だから兵舎も塩路ではなく阿波岐原附近にあった訳ですね。因みに、中間地点に蓮ヶ池駅が出来たのは戦後のこと。

終戦、そして再び学校に帰った。ある朝、朝礼台の上から三羽ガラスの栗原先生が「本日より映画見物も自由、男女交際も許可」とのたまわった時には、全校生徒の間に、ざわめきが起こった。
自由を得られたのはよいが、延岡から帰ってみて困った事は、通学の苦労である。
校舎は住吉の兵舎にうつり、家は八代村に疎開していた。朝早く一里に近い砂利道を、弟と二人で歩いて本庄に出る。そこからバスで神宮前へ、そして又歩いて住吉まで行くわけであるから、時々しか学校には到着せず、途中から帰ることも多かった。

「宮中と歌と私」より 川越毅さんの証言

学校のほうは、焼け残っていた寄宿舎を教室にして二部授業が開始され、さらに何日もしないうちに、住吉のはずれの旧兵舎に移った。
ここの印象は人里離れた砂丘の掘っ立て小屋の殺風景さと、登下校がやたらと遠かった記憶しか残っていない。
歩くのはヨダキイ(※宮崎弁で「面倒くさい」「ダルい」の意味)ので、友達と砂ぼこりの達、でこぼこの国道へ出て、おんぼろの木炭トラックにぶらさがったり、よじ登ったりしたこともあった。
うんざりしながら、住吉に通ったのはどのくらいの期間だったろうか。大宮高校百年史の記録では、翌二十一年二月に大淀の宮崎工業高校へ引越したとなっている。

「私の宮中時代」より 本條敦巳さんの証言
その他としては
交通が不便なので、赴任した英語教師が2日で辞表を出した」とか、
交通が不便なので、近くの蓮ヶ池に駅を造ってほしいと訴えたが却下された」とか
交通が不便なので、父兄が進駐軍に訴えて住吉兵舎からの転出を命じて貰った」などと
碌でもない証言ばかり残されています。
空挺部隊の衛生資料でも「あの環境で伝染病が発生しないのは不思議」と書かれる程に酷い兵舎でした。

さて。
住吉兵舎跡を調べるにしても、現在の金吹山はシーガイアとゴルフ場と市民の森公園となっているのでどうにもこうにも。
シーガイアの写真を載せて「ここが第1連隊兵舎跡」と書けば済むのですが、それでは全く面白くありません。イヤ、あの辺の広大な森を散策するのは楽しいんですけど、軍事遺構は綺麗サッパリ無くなっていますからね。
二番目の兵舎である川南の方が確認し易いでしょう。そうしましょう。

陸軍精鋭部隊の兵舎の位置がよく分らない、というのも間抜けなハナシではあります。
第3聯隊兵舎みたいに給水塔が残っていたり、第4聯隊兵舎のように中学校となっていたら調査もカンタンなのですが。

通山
軍馬補充部高鍋支部跡地。

戦後に再現された地図上では、第1連隊兵舎は川南村通山(とおりやま)地区に記されています。
しかし、第1連隊側の証言では「唐瀬原の挺進司令部近くに移った」となっております。
当時の通山地区にそれらしい大型施設は見当たらないので、睦地区あたりの兵舎を誤記載したのかもしれません。

「第1連隊兵舎は唐瀬原飛行場にありました」では面白くないので、とりあえず通山地区に兵舎があったと仮定しましょう。
戦後、挺進司令部及び挺進第2連隊兵舎は川南町立東小学校、挺進第3連隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第4連隊兵舎は川南町立唐瀬原中学校となりました。

挺進第1連隊兵舎も、何かしらの公共施設として再利用されたのでは?
そう思って目当てを付けたのが、宮崎県立農業大学校。農大の敷地は、戦時中に軍馬補充部高鍋支部が拠点としていた場所です。

農大

ルピナスパーク

軍馬補充部5

農大の敷地には立ち入れないので、隣接するルピナスパークを散策しながら探してみます。
しかし、広々として綺麗な公園ですねー。天気もいいし、寝転がって昼寝でもしたい気分です。
公園内をウロウロした挙句、見つかったのは高鍋軍馬補充部の記念碑のみでした。

農業大学校の周囲で「この辺だろう」と推測される場所を歩いてみたのですが、今では一面の水田になっており当時の面影すらありません。

通山

通山

通山
川南町の資料では、この水田あたりに「住吉第一聯隊」の拠点が書き込まれています。

第1聯隊兵舎の一部が、何かしらの公共施設の資材に流用された可能性はないでしょうか。
農業大学校周囲の公共施設といえば、国光原中学校と通山小学校があります。国光原中は戦時中に騎兵部隊の駐屯地だった場所。空挺部隊とは無関係です。
だとすれば通山小学校はどうでしょうか?

地図
地図の左側が国道10号線、中央の大きな区画が宮崎農業大学校、右側が日向灘です。
第一聯隊があったとされるのは、水色の部分と農業大学の中間付近(紺色の線が大きく膨らんでいる場所)。

通山地区
通山小学校付近の状況

通山

通山地区の地図を眺めてみたのですが、耕作地として細かく区画されたこの地域で旧軍用地らしき場所はありません
通山小学校の周囲もぐるっと一周してみたのですが、のどかな農地が広がっているだけで旧軍の遺構や記念碑らしきものは一切ナシ。

川南は口蹄疫の惨劇からも一歩一歩回復しつつある様ですね。近くの畜舎に牛の姿を見かけてホッとしました。

この場所はハズレかな、と思いつつ小学校正面にまで戻った時。妙なものを発見しました。
古い石柱が2本、学校の入口に立っています。
第1連隊

第1連隊2

第1空挺連隊
片方には、何か書かれたプレートが貼ってありました。

旧校地

「この門柱は 旧校地使用の門柱」

旧校地?何ですかソレ?
「旧校地」が建て替え前の学校施設のことなのか、学校が建つ前にあった別の施設のことなのか、判然としない書き方ですね。もし軍事施設だったとしても、教育上宜しくないからこのような表現にしているのでしょうか。
とりあえず、通山地区で見つけた古い遺構はこの門柱だけでした。

おそらく、戦後に作成された川南基地の地図は間違っているのでしょう。
しかし、挺進司令部と唐瀬原飛行場があった睦地区あたりも耕作地に姿を変えており、畜産試験場と東小学校の区画が当時の痕跡を残すのみです。

陸軍落下傘部隊の最精鋭、挺進第1聯隊の痕跡は川南から消えてしまったのですね。
まあ、空挺兵舎の写真は東小学校のアルバムに幾らでも載っているのですが。

ツツジ
通山小学校の前には、綺麗な花々が咲いていました。






第1挺進集団第1挺進団 挺進第2連隊(宮崎県児湯郡川南町)

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挺進第二聯隊隊歌
一、
男命の捨てどころ 果て無き空ぞ我が住家
翼銀翼日の丸に 乗せた身体よ若人よ
大和男児の気ははやる

二、
サッと飛び出す急降下 パッと開いた白百合は
ちぎれの雲か浮雲か 敵のとりでも目の下に
大和男児の胸は鳴る

三、
腕だ度胸だ男なら 日本刀がもの言うぞ
燃ゆる朝日を背に浴びて 頼むぞさらば荒鷲よ
大和男児の言づけを

四、
あゝ空征かば空征かば 大和男児の雄叫びに
世界平和の鐘が鳴る 香りもゆかし白百合の
悠久燦たり挺進兵


作詞者不明

パレンバン降下作戦
パレンバンのBPM精油所を攻撃する挺進第二連隊 川南空挺慰霊祭にて

挺進第1聯隊に続き、昭和16年末に新設されたパラシュート部隊が挺進第2聯隊です。
所沢で選抜された人員を新田原へ送り込み、初期の降下訓練を終えた時点でパレンバンへ向かう挺進第1聯隊を乗せた輸送船が沈没。
まだ組織すら固まっていなかった挺進第2聯隊は、第1聯隊の代わりにパレンバン作戦へ投入されます。
昭和17年2月、パレンバンへ降下した第2聯隊は精油所2箇所と飛行場の確保に成功。
その戦果は大々的に報道され、「空の神兵」と讃えられました。
パレンバンに参加しなかった中隊は第1聯隊主力と共にラシオ空挺作戦に投入されますが、悪天候に依り作戦中止。

その後の第2聯隊は、挺進第1聯隊と共に東南アジア各地で待機を続けます。
しかし、出撃の機会はないまま帰国。
新田原の兵舎を挺進第3聯隊と挺進第4聯隊が使っていたため、川南空挺基地が完成するまでは熊本県の菊池飛行場を間借りしていました。
以降、第1聯隊と第2聯隊は第1挺進団、第3聯隊と第4聯隊は第2挺進団として配備されます。

完成した川南空挺基地へ移動した挺進第2聯隊は、第2挺進団が出撃して行く中で宮崎に残ります。
主力は米軍上陸に備えて川南防衛にあたり、兵員の一部は挺進戦車隊による沖縄特攻作戦参加のため福生へ移動。
そのまま国内で終戦を迎えました。

第2聯隊の兵舎は川南町の東地区にありましたが、現在は農業試験場と東小学校になっています。
小学校の建物も昭和40年代に改築されてしまい、木造二階建て兵舎は小学校のアルバムに姿を記すのみです。

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第1挺進集団第2挺進団 挺進第3連隊 (宮崎県児湯郡川南町)

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機窓はるか霧島裾野ひろがりぬ
いざ心して天ゆ降らむ

挺進第3連隊 中園健一氏

第1挺進集団の挺進第3聯隊と挺進第4聯隊は、「第2挺進団」所属のパラシュート部隊です。
映画「加藤隼戦闘隊」のパレンバン作戦シーンでエキストラ出演したのも第2挺進団。
レイテ降下作戦に投入された事でも知られていますね。



川南町の国立病院機構宮崎病院には巨大な給水塔が保存されています。
これは、当地に駐屯していた陸軍落下傘部隊挺進第3聯隊兵舎の給水施設であり、唯一残された陸軍空挺部隊の遺構でもあります。
しかし、陸軍落下傘部隊を「空の神兵」と讃える人々が、その遺構に目を向けたことはありません。
空挺部隊や戦跡関係の書籍やサイトには随分と目を通しましたが、何十年も前から給水塔を調査していたのは地元の郷土史研究家や新聞社の資料だけです。あとのミリタリー書籍は完全無視。
悲しいかな、軍事オタクが求めるのは空挺部隊の武勇伝ばかりという訳ですね。給水塔は、戦後70年に亘って地域の努力により守られてきたのです。

戦争遺跡

現在の唐瀬原中学校付近には陸軍空挺部隊の挺進第4聯隊が、そこから川南湿原を挟んだ国立病院機構宮崎病院に挺進第3聯隊が駐屯していました。
この2個連隊は、空挺部隊の増強に伴って挺進第1聯隊と第2聯隊が南方へ出撃中に川南で編成されています。
以降、第1聯隊と第2聯隊は「第1挺進團」、第3聯隊と第4聯隊は「第2挺進團」として運用されるようになりました。

昭和19年、第2挺進団は「高千穂空挺隊」としてフィリピンの戦場へ赴きます。
レイテ島へ上陸した米軍は、ブラウエン一帯の飛行場群から迎撃機を出撃させ、日本軍の輸送船団を徹底攻撃。
武器と食糧の補給を絶たれた日本軍レイテ守備隊は、空挺作戦と連携した米軍飛行場の破壊を計画したのです。

高千穂空挺隊が作戦準備中、台湾義勇兵で構成される「薫空挺隊」がブラウエンへ空挺攻撃をかけました。
無関係の部隊に抜け駆けされた事を知り、空挺部隊側の動揺は大きかったといいます。

高千穂空挺隊
昭和19年12月6日夕刻、レイテ島の米軍ブラウエン飛行場へ降下する挺進第3聯隊。川南空挺慰霊祭にて

12月6日、高千穂空挺隊第一波降下部隊はブラウエンへ向け出撃。
目標上空へ到達した高千穂空挺隊ですが、待ち構えていた米軍は凄まじい対空砲火で迎撃します。輸送機が次々と撃墜される中、空挺隊員らは夕闇迫るブラウエンへ降下していきました。
飛行場の占拠と米軍機の破壊には成功したものの、連携して突入する予定だった地上部隊は姿を見せません。実は、地上部隊の主力は飢餓によって行動不能となり、ブラウエンまで辿り着けたのは一部の大隊だけだったのです。

ブラウエンを占拠した空挺部隊は、夜通しかがり火を焚いて第二派の降下を待ちました。
しかし、ブラウエンから帰還した輸送機は被弾損傷多数で飛行不能。応急修理で飛び立った僅かな輸送機も悪天候に阻まれ、後続部隊の降下に失敗します。
翌朝になって米軍は反撃を開始。増援を得られないまま、高千穂空挺隊は袋の鼠となって各個撃破されました。何とかカンギポットまで撤退した第3聯隊の白井聯隊長以下十数名も、飢餓と病によって陣没。第一波降下部隊は文字通り全滅します。
ブラウエン攻撃の生存者は、撃墜されてレイテ湾を漂流中に捕虜となったパイロット1名、空挺隊員3名のみでした。

残る第4聯隊の斉田聯隊長らはオルモックへ上陸した米軍の迎撃へ向かい、斬込み攻撃を続けた後にカンギポットへ撤退。
更にはボートでレイテ島から脱出する第35軍司令部を護衛して、抗日ゲリラと洋上戦を繰り広げます。米軍とゲリラの追撃を受けた4隻は撃沈、または航行不能となり、ミンダナオ島へ辿り着いたのは斉田聯隊長の1隻のみ。
その斉田連隊長も、後の戦闘で行方不明となりました。

これら2個聯隊とは別に、徳永第2挺進團長率いる高千穂空挺隊予備兵力400名は「徳永遊撃隊」としてフィリピン各地に展開。
こちらも米軍との攻防、飢えや病気によって多数の隊員が犠牲となりました。
生残った空挺兵はジャングルに立て籠もったまま終戦を迎えます。



また、レイテ出撃中だった挺進第3連隊の空兵舎には、挺進第1連隊第4中隊から抽出された「義烈空挺隊」が入って特攻作戦の訓練を続けています。
埼玉県へ移動してサイパンへの強行突入に備えていた義烈空挺隊ですが、作戦中止決定により川南へ帰還。
原隊の挺進第1聯隊第4中隊は再編成されていた為、川南に義烈空挺隊の居場所はありませんでした。
仕方なく第3聯隊兵舎に間借りした同部隊は、次の出撃命令が下るまで訓練に明け暮れます。

唐瀬原兵舎の義烈空挺隊に沖縄突入命令が下されたのは昭和20年4月のこと。翌月に熊本県の健軍飛行場へ移動した義烈空挺隊は、2週間後の5月24日に沖縄の北・中飛行場へ突入。米軍側の記録では、1機のみが強行着陸に成功しています。
12機で出撃した義烈空挺隊168名(パイロットおよび中野学校出身者含む)は、エンジン不調で途中帰還した4機の隊員を除く8機112名全員が戦死しました。

宮崎病院

宮崎病院
●国立病院機構宮崎病院。空挺給水塔は病院の裏にあります。

第3連隊の兵舎は、戦後になって国立宮崎療養所へ転用されます。
川南で終戦手続にあたっていた空挺司令部の残務処理班メンバーは、進駐軍の監視下で空挺部隊の解体を進めました。
第3連隊兵舎の国立療養所への転換もそのひとつです。
年末までに軍用地の開放や武器の集積・破壊、車両や備品類の民間放出、隊員の除隊手続などは完了。
残されたのが、やがてフィリピンから復員してくるであろう空挺隊員の受け入れ準備でした。
飢餓と病気と激戦に晒された高千穂空挺隊員や滑空歩兵隊員ら帰国傷病兵の為に、国立療養所での治療体制を準備する必要があったのです。
幸いにも、療養所の所長は川南空挺基地にあった唐瀬原陸軍病院の出身者。
事情を理解していた療養所側によって、空挺残務処理班メンバーは事務員として病院に採用されました。
この復員業務を最後に、「空の神兵」と謳われた精鋭部隊はひっそりと活動を終えたのです。

第3連隊1
高さは28メートル。横にある配電柱と比較すると、その大きさがわかります。
新田原から飛び立って塩付降下場に降下する空挺部隊は、これら唐瀬原の給水塔を目標にしていました。

第3連隊2

療養所として再利用された挺進第3聯隊兵舎も後年の改築で消滅。現在は、兵舎で使われていた給水塔1基のみが残されます。
国立病院機構宮崎病院のサイトによりますと「現在では老朽化も進み宮崎病院では解体予定もありましたが、地域からの存続願いが強かったため現在も使用されて残っています」とのこと。

まるで無関係のように書かれていますが、前述のとおり陸軍空挺部隊は国立宮崎病院の設立に深く関わっているのです。

K3
※煙突みたいに見えますが、煙じゃなくて雲ですよ。

2012年からは宮崎病院の敷地で大規模改修工事が始まりました。隣接する保育所も新築移転しましたし、給水塔の周囲の風景は急速に変化していくのでしょう。

川南町側が地元のシンボルである給水塔を末永く残していきたいと思っていても
これが国立病院機構の所有物である以上、老朽化や保守費用の問題も含めてどうなるかはわかりません。
戦争遺跡を観光資源や歴史資産として有効活用するか、開発の邪魔として破壊するか。
双方に言い分はあるので、なかなか難しい問題ですね。

第1挺進集団第2挺進団 挺進第4連隊(宮崎県児湯郡川南町)

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挺進第3聯隊と挺進第4聯隊は、第1挺進団に続いて新設された「第2挺進団」の所属部隊です。
昭和19年10月、第2挺進団は米軍のレイテ島上陸を受けてフィリピンへ出撃。
第4聯隊は第3聯隊を主力とするレイテ降下作戦に一部を差出したあと、バレンシア方面に降下。以降は徳永第2挺進団長指揮下の予備兵力と斉田挺進第4聯隊長の掌握する残存部隊に分れて各地で激戦を繰り広げました。
この挺進第3および第4聯隊は、秘匿名をとって「高千穂空挺隊」と呼ばれています。

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挺進第4連隊兵舎のあった唐瀬原の中学校付近。画面右手が兵舎群、左手が訓練場でした。

現在は国立病院機構宮崎病院となっている挺進第3聯隊の隣には、川南湿原を挟んで挺進第4聯隊が駐屯していました。フィリピンへ出撃した第4聯隊は再び戻るこもなく、敗戦まで戦い続けます。
戦後、川南空挺基地は農地として開放。第4聯隊の兵舎も民間施設として利用されました。
現在、その場所は唐瀬原中学校となっています。

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画像は挺進第3連隊兵舎に隣接する川南湿原。挺進第4連隊はこの北側に離れて駐屯していました。

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唐瀬原中学校近辺にはそれらしき門柱や基礎もあるのですが、兵舎の遺構なのかどうか詳細は不明です。

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隣の高鍋町では、昭和18年の小丸川渡河演習中に挺進第4聯隊員8名が溺死。最初は川岸に建てられた慰霊碑も、護岸工事のため高鍋大師に移設されています。
これが、現在確認できる挺進第4聯隊唯一の遺構となっています。

高千穂空挺隊
バレテ峠にて、米軍との激戦を繰り広げる高千穂空挺隊。川南空挺慰霊祭にて

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