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空挺給水塔 其の9 第2剣作戦部隊

Category : 第九部・幻の空挺作戦 |

第一挺進団が唐瀬原に帰って間もない頃、九月十五日、敵はペリリュー島に上陸作戦を行った。昨年の秋まで、第一挺進団が待機していた基地である。
あのときはニューギニアのベナベナハーゲンに空挺作戦を計画し、ここからでは遠過ぎて、途中に中継給油の前進基地を設けるはずであった。ペリリュー島は、その第一線から二千キロも後方で、戦闘の圏外にあった。それが、この一年足らずの間に、サイパン、グアム、テニアン陥ち、かつてのわが基地ペリリューも侵されるに至った。第一挺進団の将兵にとって、ペリリュー島に戦火が及んだことは深刻だった。
あの平和に暮らしていた島民たちはどうなったであろうか。この島は、第一次世界大戦の結果わが国の領土となったところで、島のカナカ族も当時は日本国民であった。
「この戦争、これからどうなッとぢゃろうか」
下宿の小母さんが心配そうに聞く。心なしか、その顔がペリリュー島で、炊事場の雑用を手伝っていた島民の婦人に似ている。
日向の秋は雨が多い。
「マコチ雨ばかし降ってノサン(本当に雨ばかり降って辛い)」
土地の人は言う。
兵営の近くを古い街道が通じている。五抱え余もあろうか、両側の松並木は道を覆って昼なお暗い。その街道から遠慮したように少し退って、藁葺きの農家が点在し、総てが水を含んだ刷毛で掃いたように、雨に煙っている。
トロントロンと言う妙な名前の部落が、街道筋にある。名前の由来はよく判らない。神代の時代からそう呼ばれていたのかも知れない。大和民族のふる里だから。
この民族の血も汗も雨と共に浸み込んでいる土地を、どうして敵の侵攻に委ねることが出来ようか。ペリリュー島までは致し方なしとしても。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

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訓練中の海軍落下傘部隊員。

(第8部からの続き)

高千穂空挺隊と第1挺進集團がフィリピンで死闘を繰り広げ、義烈空挺隊が沖縄で散華する中
まだ国内には第1挺進團(挺進第1および第2聯隊)と挺進戦車隊が温存されていました。
彼等は、来るべき本土決戦に備えていたのです。
九州防衛戦で全滅を避けるため、陸軍空挺部隊は宮崎の川南と三股、千葉の横芝、東京の福生、北海道の千歳へ分散配置されました。

いっぽうの海軍落下傘部隊も、メナドやクーパン降下作戦以降は待機の日々を続けます。横須賀鎮守府第1特別陸戦隊は、再び降下することのないままサイパンの地上戦で壊滅。呉鎮守府第101特別陸戦隊と横須賀鎮守府第105特別陸戦隊が残る空挺戦力として抽出されました。

そして昭和20年の夏、日本軍最後の空挺作戦が始動。
サイパンへの特攻隊として選ばれたのが、千歳で待機していた挺進第1連隊「第2剣作戦部隊」でした。

【川南の防衛作戦】

昭和20年の春を迎えた頃、戦況は絶望的となっていました。
4月になると、軍部は本土への米軍上陸を見据えた「決號作戦」の準備に着手。
陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われるようになりました。

沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
そのため、軍部は第154、156、212の各師団を宮崎各地に展開。
5月になると、米艦隊接近に備えて日向の細島、延岡の赤水、日南の油津などで第33及び第35突撃隊による震洋特攻艇や人間魚雷回天の夜間突入訓練も開始されます。
鹿児島県の知覧や鹿屋と共に、宮崎県の海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東・都城西・都城北の各飛行場も特攻基地と化していきました。
九州南部は、特攻と本土決戦の最前線となっていたのです。

しかし、昭和19年夏の段階で本土決戦は先の話であり、軍上層部は九州北部と熊本県の軍備増強を最優先。鹿児島と宮崎は第二次計画へ後回しされていました。
まあ、当初はそういう扱いだった訳です。

西部軍に於て既設飛行場の強化順位左の如し
第一次 熊本
第二次 知覧 萬世 川南 新田原 木脇
飛行場周辺に敵空輸挺進部隊の奇襲に備ふる為所要の防禦施設を準備す
之が為の陣地は歩兵一中隊分(重機二分隊属)とす
陣地構築の時期は沿岸防御陣地完成後とし、十九年秋季以降とし、別に定む


昭和40年代の防衛庁による研究でも、下記のように分析しております。

「なお注目される事は、南九州の防衛を担任する熊本師団の沿岸防御重点を種子島、有明湾(志布志湾)口部、油津附近としており、この時期より既に西部軍は一貫して志布志沿岸の防衛を重視していることがうかゞわれる。
又宮崎、薩摩半島沿岸はとり上げられておらず、油津附近を重点としているのも後口の築城兵力配置から見て注目される事である。何れにしろ軍が志布志沿岸正面を一早くより着目重視していた事は結果的ではあるが卓見であったと思われる」
安部亀夫三等陸佐「九州方面本土陸上防衛戦史」より 昭和42年

なお、沿岸防衛計画において陸軍と海軍が全く統合されていなかった事実を知った自衛隊の研究班では「陸海統合の機能と云い切るには抵抗のあるものであって、その作戦準備も陸海個別に遂行されており、隔靴掻痒の感を免れないものがある」と記しています。

宮崎の防衛が強化されたのは昭和20年に入ってからのこと。五十七軍の戦力として、大規模な部隊が投入されます。
その計画には、川南の空挺部隊も組み込まれていました。

司会者(第一挺進戦車隊長田中賢一)
「第一聯隊が何故関東地区に移ったか、そのときどのような説明を受けましたか」
玉生(挺進第一聯隊曹長)
「内容はわかりませんけど、私の同僚同士の話で聞いた範囲では、落下傘部隊というのは日本では非常に重要な精鋭部隊なんだと。
いつまでも宮崎の方に置いておいたのではだめなんで、千葉県の横芝へ行って向こうの固めをやるというような話をしていました」
司会者 
「これは秋には敵が南九州に上陸してあの辺が戦場になると。その戦闘の渦中に全部が巻き込まれてしまうということは困るということと、あなた方が最後に行こうとしたサイパン行きのああいうような作戦も予期されたので、関東地方に一部を残すという命令は記録にちゃんと残っています」

全日本空挺同志会編「空挺隊員園田直」より

本土決戦に備え、川南の空挺基地も臨戦態勢へと移行します。本土侵攻の第一撃として、米軍は南九州沿岸に上陸すると予測されていました。
九州の戦いで虎の子の空挺部隊が全滅するのを防ぐ為、第1挺進團は挺進第1聯隊を千葉県の横芝へ移動。
また、挺進戦車隊の主力を要衝の都城盆地へ差し向けます。

司会者(第一挺進戦車隊長田中賢一)
「ちょっと時点が飛びますが奥山隊の話が出た序に、五月二十四日沖縄に突入しましたね。そのときにあなた方は既に横芝に移っていたんでしょう」
森上(挺進第一聯隊准尉)
「ええ、行ってました」
司会者
「横芝におるときに義烈空挺隊が沖縄に向かって、出撃をしたという話を聞いたでしょう」
細村(挺進第一聯隊少尉)
「ええ聞きました」
星野(挺進第一聯隊軍曹)
「兵舎の廊下でラジオで聞きました。やったなァという感じがしました。横芝に来たときは関東地方は戦場のようなものですから我々も当然これに続くんだという氣持ちでした」
渡辺((挺進第一聯隊中尉・紙上参加)
「二十年三月、唐瀬原にいるとき聯隊の改編があり、園田大尉は聯隊本部へ、後任として大屋稔大尉が第二中隊長となった。聯隊は次期作戦に備え、二十年四月二十五日に千葉県横芝へ移動した」
森上
「私は第二陣ということで五月一日に横芝に着きました。その頃は空襲も激化し鉄道の運行にも日数がかかりました。
唐瀬原はまだ空襲を受けておりませんので、戦局の深刻さをさほど認識していませんでしたが、途中の都市が大きな被害を受けているのに驚きました」
星野
「汽車の窓から見る東京は爆撃の跡生々しく、これから日本はどうなるのか、我々もこの国を守るため命を棄てねばならないとつくづく思いました」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直」より

春になって川南に残されたのは挺進第2聯隊と挺進整備隊、そして出撃待機中の義烈空挺隊のみとなりました。
いかに精鋭の空挺部隊であろうと、空を飛べなければ小規模の軽歩兵部隊に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行戦隊のうち、新田原に戻ってきたのは僅か2機の輸送機だけだったのです。
川南の空に舞っていたパラシュートは、既に姿を消していました。
挺進飛行戦隊は北朝鮮の連浦飛行場へと移動。航空機とパイロットの戦力再建へ取組みます。

昭和20年2月17日未明、在比島の戦友と別れて台湾に飛び、嘉義に於て前任者新原戦隊長よりバトンを受け継いだ時は、飛行機僅かに3機、レイテ作戦に続く比島台湾南の輸送業務に流石偉容を誇った航空機も惨憺たる有様。而も嘉義を発って基地新田原に降り立った時は、途中基隆上空で1機を失った為、遂に2機人員18名という淋しさ。
其の後海路搬還せるもの百余名を合しても僅かに百20名足らず。
是が挺飛1戦の状態で、本来の作戦任務に就くことは到底不可能の為体。そこで、先ず人員器材の整備、教育訓練をやらねばならず、といって部隊は此の有様。而も敵機は頻々と新田原付近に出没、遂に兵営は空襲の犠牲となって炎上焼失せる為、佐土原の小学校舎に居たり、飛行場裏の谷間に穴居したり……。毎日空を眺めては複雑極まる気持で過ごすこと月余。
かかる状態では到底態勢の立ち直りは不可能なので、当時比較的平穏であった朝鮮連浦に移動して、そこで専心教育訓練することになり、4月25日新田原出發、連浦飛行場に転進す。
次で5月中旬、挺進2戦を併せ僅かの飛行機と少数の基幹人員を日夜連続訓練に励む。この間、MC機の製造会社工場の移転等の為、月産零の時もあり、1機出来れば直ちに之が受領の為人員を派遣するも、1週間乃至10日余も整備して初めて跳べるという代物。一方各地よりMCというMCを片っ端よりかき集めて漸く40機を整へて戦隊らしい態勢が出来上り、訓練亦漸く軌道に乗り、往年の挺飛戦の面目に近づく。
この頃、南方方面への輸送の為、航空輸送部に飛行機材20機を貸与せよとの命あり、1時訓練に支障を来したが、然し将兵一同の涙ぐましい努力によって訓練整備共に進捗し、何時作戦任務を受くるも直ちに応じ得る状態になる

空挺同志会資料より

第1挺進團では空挺作戦能力を維持するため、挺進飛行戦隊の戦力回復に期待していました。
乏しい戦力の中でたてられた、唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。


第一挺進団唐瀬原飛行場防御計画

一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため、所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す

三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長 挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、対空挺部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊
4、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。


日南海岸

日南海岸
米軍が上陸すると予想されていた川南町の海岸。上が高鍋方面、下が都農方面。ここから川南空挺基地までは、車で10分程度の距離しかありません。



いっぽう、米軍上陸に備えて軍部も南九州へ防衛戦力を集中し始めました。
宮崎市には二重三重の防衛ラインが構築される筈でしたが、不十分な計画によって陣地の場所も二転三転。
迫り来る米軍を前に、大混乱が続きます。

「高橋参謀長の兵員配置は宮崎郡広瀬町から宮崎市青島までが第一線、その間の住吉、蓮ヶ池、平和台、小松、山城、長峰、鏡洲の七拠点に三個連隊、佐土原町から高岡町までの第二線に一個連隊、海岸線には一グループ五十人(小隊)ぐらいの監視員を点々と置いた。一個連隊の装備は速射砲、野砲、十五センチカノン砲、爆撰(爆薬を打ちあげる筒)、噴進砲、師團通信、防空壕までざっと三千人」

川南空挺基地の北側、児湯郡都農町に配置されたのは第212師団(通称菊池兵団)。他の沿岸張り付け師団が米軍上陸部隊を喰いとめている間に、背後から攻撃を加える機動打撃師団でした。
隣接する川南の防衛も同兵団の担当となります。

「第212師団作戦計画
第1 方針
1 師団は第154師団(護路)と密に連絡し、都農北方畜台端を前縁として主抵抗陣地を占領し、敵上陸部隊を前方水際地帯に撃滅する。
唐瀬原地区に予期する敵空挺攻撃に対しては、所在航空部隊を併せ区処しこれを撃滅する。
富高、延岡方面には一部の兵力を配置し、海軍陸戦部隊を統合し細島水上(中)特攻基地及び富高航空基地の確保を重点として同要域を堅固に占領するとともに、所在特設警備部隊を併用し、敵の空海基地設定ならびに熊本平地に向う突進を阻止する。
2 状況によりその主力または一部をもって志布志方面、薩摩半島方面もしくは宮崎平地小丸川以南南地区に機動し、軍の決戦に参与しうるよう準備する」
藤野憲三「激動期の日本・川南開拓地に生きて」より

日本陸軍空挺部隊の本拠地である川南に対し、米軍側も空挺部隊で攻略してくると思われていたのですね。

しかし、「米軍上陸を迎え撃つ精鋭部隊」と称された菊池兵団の実状は酷いものでした。
物資・人材の不足により迎撃用陣地の構築は全く進捗せず、食糧や弾薬をチェックしたら1人当たり雀の涙ほどの備蓄しかない事が判明。つまり、敵に第一撃を加えた後は撃つ砲弾が無くなるのです。
このような状態で菊池兵団がどうやって戦うつもりだったのか。
桜井徳太郎師団長は延岡から志布志をカバーする機動戦を考えていた様ですが、現地を見てそれが不可能だと知ったのでしょう。
下記のような証言が残されています。

我々が現地着任早々に、第7部隊の結団式が商店街の竹乃屋で取り行はれ、永田聯隊長・中村平八郎大隊長・室積大隊長以下、将校以上全員の会合が開かれた。
当日の桜井師団長の作戦会議では下記内容の軍議で
方針
1 本土決戦に備え、持久作戦の準備として物心両面の充足を図らねば成らぬ。又敵の上陸作戦地は日向灘と予想される。
2 決戦兵団としての任務は、予想される敵上陸作戦に備えての陣地構築、迎撃準備は勿論長期交戦に備え、農家の援農は勿論、軍と言えども食糧増産、自給自足態勢の確立とともに、優秀種族保持の為、未婚兵員は結婚、人的資源の維持、増進も図らねば成らぬ。殊に独身将校は早期に伴侶を求めよ。
3 戦闘準備の為に目立つ物・光る物・音の出る物の調達の為の配慮をし、都農轟のトロ線を利用し、昼間は目立つ物、音の出る物、夜間は光る物、音の出る物を併用し、あだかも軍の大移動との欺瞞作戦を取り、敵の砲爆撃を促し、弾薬消耗作戦の準備に配慮すべし。
4 若し、敵が予想の如く日向灘都農に上陸作戦を開始し、橋頭堡を築かんとして上陸せし場合には、歩兵部隊をして名貫川を下向して、敵上陸部隊の後方より友軍の斬り込み再上陸をなさしむるが、迎撃作戦が失敗に終つても、第二次攻撃の弾薬の補給困難と思考されるので、歩兵部隊には言えぬが、其の折りには、迫撃部隊は彼我諸共に砲撃すべし。
であった

「川南開拓の記録」より 元菊池兵団藤野憲三氏の証言

現在でも「陸の孤島」と揶揄される宮崎県平野部は、海岸線を制圧されただけで動脈たる国道10号線、日豊本線、港湾施設が機能しなくなります。海岸近くにある赤江や富高の飛行場も簡単に奪取された事でしょう。
オリンピック作戦が実行された場合、当初計画された水際撃滅や護路兵団との連携、ましてや機動戦など到底不可能。
兵站を絶たれ、制空権を奪われては、避難民を連れて背後の山間部へ逃げ込んでのゲリラ戦しか抵抗の術はありません。

都農
菊池兵団が防衛する筈だった都農町の海岸線

昭和19年あたりから、農業地帯である宮崎県でも食糧や物資の不足は深刻になりつつありました。
あらゆる資源は戦争優先。
菊池兵団の隊員たちも、雨漏りがするような急造兵舎で寝泊まりしていました。
軍需工場へ勤労奉仕に出ていた人々には竹製食器が支給されていたそうです(「洗ってもすぐにカビが生えて困った」との事)。

消火活動中に夜が明けてしまった。今日は通常作業は中止し、トラックで機銃弾工場の復旧作業に行く。
焼け落ちた倉庫の屋根に登って、壊れ残ったスレートを落とす。
下から薬品の悪臭が鼻をつく。機銃弾保管箱が裂け四方の壁に弾痕が残っている。不発の焼夷弾が工場内樹木の根の地中にささったまま。一寸不気味。
麦飯の握りが二つ配給される。市内焼跡に「我れに菊池兵団あり。延岡市民よ奮起せよ」の立札が目立つ。
銃も銃剣もなくゲートル裸足の栄養失調気味の痩せた補充兵の警邏を見ると、日本ももう駄目だと思う

「学徒動員の日記から」より 伊藤利夫氏の証言

このような状況下、上陸してきた米軍との長期戦を展開できるのかどうか。
それを不可能と悟った菊池兵団では、米軍上陸部隊へ玉砕覚悟の側面迂回攻撃を仕掛ける積りでした。
また、志布志湾を護る串間の部隊は水際防衛を諦めて山中に防衛ラインを構築します。残された配置図を見ると小さな拠点が集まっていた程度で、敵の進撃を食い止めるには余りにも脆弱でした。
米軍側の作戦では日南・串間を無視して宮崎市と鹿屋市から内陸へ侵攻。都城市で合流して大隅半島を包囲する計画となっています。
袋の鼠となった南九州の日本軍は、山奥に潜んで抵抗を続けた挙句、各個撃破されたことでしょう。住民を巻き込んだ沖縄地上戦の惨事が、本土でも繰返されようとしていました。

油津、内海の島影には、人間魚雷回天がひそみ、陸軍は宮崎平野を放棄して山岳戦に持ち込むべく、穴掘りに余念がなかった。
海岸沿いの国道は占拠されるものとして、山間部の県下縦貫道路の工事が始まり、北諸地方(都城市周辺)にはおびただしい食糧が用意された。
当時、配給米さえ二割減になっていたが、北諸県(きたもろかた)では約五百のどうくつ、農業会、学校、民家までに食糧があふれ、コーリヤンや、大豆は、野ざらしのまま朽ちはてる状態だったという
(宮崎縣政史より)

高鍋から西都にかけても大量の物資が秘匿されます。
貴重な遺跡である西都原古墳群も秘匿場所となり、古墳の中にまで物資が詰め込まれました。

もともと宮崎県は、戦火を避ける疎開地の筈でした。
それが本土決戦の最前線と化しつつあったのです。

昭和19年7月、沖縄県民10万人(女性・児童・高齢者が対象)の九州三県および台湾への集団疎開が始まります。
直後に疎開船対馬丸が撃沈されたこと、また易々と故郷を離れる訳にはいかないことで疎開を躊躇する人が続出。対馬丸以外の船は無事でしたが、疎開に応じたのは6万人のみです。
鹿児島県は奄美方面の疎開者を受け入れたため、沖縄県の最大疎開地となったのが宮崎県でした。
宮崎県には4回に亘って、沖縄・奄美方面から児童と父兄の2643名が上陸。宮崎県側では県内各地の学校に彼等を受け入れています。
受け入れ側も可能な限り食料配給などに配慮しましたが、戦時下では充分な量が確保できません。やがて訪れた本土の冬の寒さ(宮崎でも山間部は雪が降ったりします)と空腹に耐えながら、沖縄へ戻る日を待ち望んだ子供たち。しかし、春の到来とともに彼等の故郷は激しい地上戦に晒されたのです。

特攻花
宮崎空港の特攻慰霊碑にて。
※実は、オオキンケイギクと特攻花は無関係です。実際の「特攻花」は桜でした。

宮崎上空に米軍の偵察機が姿を現したのは昭和19年末のこと。
正月には、宮崎県内の工場が疎開を始めました。

アンモニア合成工場(現在の旭化成)を九重山のふもとにつくる。手りゅう弾地下工場へ移せという軍命令もきた。米軍の艦砲撃から守るため、二百メートル以内の社宅は強制的にとりこわされ、社員たちは疎開した。まさに本土決戦が近づくかと思われた(宮崎縣政史より)」

宮崎と都城の川崎航空機工場、南郷の外之浦造船、細島の三菱石油や九州造船の軍需工場は稼働を続けますが、後の米軍空襲で集中攻撃を浴びることとなります。
工場への空襲で航空機生産はストップし、造船所の貨物船は進水すると同時に撃沈されていきました。

昭和20年3月18日早朝、九州南部に突如として米軍機1400機が襲来します。
都井岬や日向に設置されていたレーダーは役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到していました。
こうして、九州沖航空戦が始まります。
宮崎各地へ飛来した米軍機のうち6機が空中戦や対空砲火で撃墜されるも、日本軍機の損害は倍以上でした。

軍上層部は米軍の動きを察知しており、紫明館(大淀川河畔にあった旅館)に宿泊していた三笠宮殿下は前夜のうちに八紘台の地下壕へと避難しています。
三笠宮の副官から米軍空襲の情報を伝えられた紫明館の御主人は「心配の余り眠れずに空を眺めていたところ、18日の明け方になって赤江飛行場方面で戦闘が始まった」と証言しています。
不可解な事に、これらの空襲情報は県内の各部隊に一切伝えられていません。

沖縄進攻への露払いとして、九州南部は徹底的に爆撃されます。
赤江、新田原、都城西の各軍用飛行場は次々と機能を停止。特攻機を送り出すのは、都城東飛行場と富高飛行場だけとなりました。
これらの飛行場が郷土を護ってくれると思い込み、建設に協力した宮崎県民は困惑します。
空襲があっても、軍部は迎撃機すら上げようとしないのです。宮崎上空には米軍機が我物顔で飛び回るようになりました。空母から飛び立つ艦載機に加え、遂にB29戦略爆撃機も姿を現します。

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アメリカ軍が散布した伝単より、B29爆撃機の影に覆われる日本の街並。

海軍赤江飛行場
「今日も亦、B29九州各地に来襲。宮崎にも二〇機ばかり来て赤江飛行場で爆弾を投下せり。連続三日間の宮崎地方来襲にて仕事も手につかず。
看護婦の田中のうちより牡どりを持って来てくれたので、懸案のニワトリ小屋を造れり。
今は飛行場丈けをねらって来ているのだからいいが、これが大都市のように市街地を目的に来るようになれば、宮崎市など忽ち全滅なり。何時までの生命か分らぬようなものなり」
谷口善美医師の日記 昭和20年4月28日

陸軍新田原飛行場
「新田原飛行場に対する艦載機の急降下爆撃は、日向灘の上空から飛行場へぶつかるように急降下し、爆弾を落としたあとは低空飛行して、西の九州山脈の方から上昇するパターンであった。
黒煙がもうもうと上がる。日本機による迎撃は一度見たきりであとは爆撃を受けるばかりであった。
高射砲で打たないのかと話題はあったが、一度だけ高射砲の爆発破片が防空壕の入り口に落ちてきたことがあった。竹やぶの中の防空壕なので竹をかさかさと激しく音を立てて落ちてきたのを覚えている。破片は七cmぐらいの縦長の鋭利な破片であった。防空頭巾を被るよう指導されていたが、このときに始めてその必要を感じた
(中略)
町から1kmはなれた田中、田島の方には時限爆弾が絨毯爆撃のように落とされた。何日間も立ち入り禁止となり、毎日のように爆発があった。
時限爆弾は遠くから見ていると先ず土煙が数十m上昇した後、数秒後に爆発音が鳴り響いた。雷は稲妻から数秒後に大きな音が炸裂するが、それ以上に爆弾は何処に落ちているか解らず、恐さ一〇〇倍であった。夜は見えないので尚更に恐かった。
防空壕の中では爆発すると、壁の砂がさらさらと落ちた。生きた心地がしなかった。
この爆撃は、新田原飛行場を狙った夜間爆撃であったが、数キロメートル南の誤爆になったものである。
全ては、新田原飛行場に原因があった。大阪から疎開するときは、その存在の恐ろしさを知る由もなかった。縁故疎開がとんでもない敵の攻撃目標の地だったのである。
町史によると空爆場所三カ所、死者四五名、負傷者、家屋の倒半壊多数とされている」
杉本信也「一ツ瀬川ものがたり」より

陸軍都城西飛行場
「戦後発行された某誌によれば、戦時中日本の主要都市が受けた空襲回数の中で、東京は別として都城は鹿屋に次いで全国第二位にランクされており、そのほとんどは西飛行場空襲であるわけで、私にとっては余り有難くない記録順位でした。
B29は三十日も来襲しましたが、一応四月末をもってようやく峠を越し、五月に入るとほとんど来襲しなくなりました。
この頃執拗に来襲するB29に対し、都城の疾風戦闘機隊に邀撃命令が出たそうですが、その詳細は知りません。多分、「座して死を待つよりは」の気持ちから出た命令だったのでしょう。
邀撃といえば、当時私は都城市民の方から「飛行場には飛行機が沢山匿されているというのに、なぜあれだけやられても味方の戦闘機が飛び立って敵機をやっつけないのだ」となじられるように質問された事がありますが、私は答える立場ではなく返答に困りました。
飛行場の穴は埋め切る事が出来ず、確か南北方向に飛行機が一台やっと離着出来る道路の様な線の滑走路を作り、目印に犬小屋の屋根のような三角の標示板がその両側に並べられ、南方第一線基地のようでした。
いずれにしても都城西飛行場は、四月二十九日の空襲をもって、重要施設のほとんどを破壊され、また飛行場内至る所に投下された時限爆弾の為に完全に使用不能となり、特攻隊や制空隊の出動が出来なくなりました」
「埋れた青春」より

「九州南部は米軍の上陸目標になっている」という情報は、既に地元で噂されていました。

空襲がこんなに激化し不安がましているとき、一つのうわさが流れた。「鴨野(児湯郡高鍋町)の海岸は遠浅で、敵が上陸地点として想定している」(戦後、南九州海岸は沖縄に次いで上陸地点に予定されていたとわかった)と。それで、鴨野の病人や子供は木城方面に疎開するという事態になっていった。沖縄は完全に占領され、いよいよアメリカと本土決戦だといわれ、私達も覚悟を決めていった
「戦争中の鴨野」より 岩下チドリ・森アサエ両氏の証言

昭和二十年六月二十三日、沖縄守備隊ついに玉砕。七月になると殆んど連日B29かB24、又は艦載機の空襲。宮崎や都城も焼夷弾で焼き払われ、軍施設も破壊され、飛行場はすぐにでも米軍に使われる。
次はいよいよ宮崎県海岸上陸が必至であると予想された。
私は学校長によばれた。「県知事の命令一下、国民学校児童は直ちに難をさける為小丸川沿いの山路づたいに神門・渡川方面に緊急避難疎開することになる。内密裏に準備を進めてくれ」との密命があった。
いよいよ来るものが来た。遠足や旅行とは違う。
早速岩切・児島両訓導は現地と経路の実地調査に急行した。
私は食糧等の運搬用リヤカー・手車・炊飯用大釜、鍋等の借用計画を立て、児童には内密に背負袋を用意させた。出發は地区単位に夜間行動を予定した。
敵の上陸作戦が開始されたら、艦砲射撃は奥地までものすごく、敵機の銃爆撃とで橋も山路も爆破され、重い荷物を背負って谷川を渡り崖をよじ登って難行軍となる。
幼い児童達に傷病者が出るのは必至。医薬品は用意して行くが、きっと地獄の沙汰であろう。
対策を考えては夜もろくに眠れなくなった。
私は母に事情を述べて、「神門にはいくらか知りべもあるから孫達三人を連れて一足先に疎開していたらどうでしょう」と相談したところ、母は即座に「お前は生徒を守る責任があるから一しょに行きなさい。
私はアメリカ兵がきたらきっと殺される。
先祖のお墓の前で立派に死んでみせる。心配しなくていいよ」と決然と言いはなった。
この一言で私の決意は益々固まった

「母の一言」より 永友千秋氏の証言

宮崎県知事は米軍上陸作戦に県民が巻き込まれることを危惧しており、宮崎県警察本部の白川武夫警部を中心とした県民の大規模避難計画立案に取り掛かります。

昭和二十年、終戦間際のこと。私は県警察本部警防課勤務を命じられ、分室にスタッフ五名と共に通称「作戦室」を構成していた。戦況が敗色濃くなった六月初旬には宮崎海岸に敵が上陸する公算大ということから、県民をいかに無事避難させるかが緊急課題となり、連日その計画案に頭を悩ませていた。
その腹案は、県内を交戦地区(米軍の艦砲射程圏)、臨戦地区(交戦地区の周辺)、避難地区(山間部)の三つに分け、交戦地区住民の住所氏名年齢を調査しておくこと。また、避難地区については、畳の枚数、収容能力、輸送方法および順路などの青写真をつくっておかねばならない。
当時は自動車が軍に徴発されているため、荷馬車を使わねばならず、持ち出す荷物も一戸三十キロと制限する計画だった

「平和の鐘」より 元宮崎警察署長白川武夫氏の証言

県庁地下室で練り上げられたこの計画も、軍部の二転三転する防衛方針に振り回されます。
漸く完成した避難計画が県内各市町村長へ公表されたのは、昭和20年7月30日のことでした。

二十年七月、県庁三階の会議室。じっと聞き入っていた市町村長のあいだから一瞬どよめきが起こった。
谷口知事の極秘命令で、ひそかに練っていた避難作戦がやっと公開されたのである。
その年の五月、縣警察部警防課分室に県下各署から警部補五人が作戦要員としてひきぬかれた。避難オペレーション・センターは県庁地下一階の一室。ここなら空襲の心配もない。
まず全県図をタテに三本の線がひかれた。艦砲射撃の射程距離―砲弾がとどく二十キロ以内は交戦区。避難地区は椎葉、高千穂、真幸、米良、西諸の山岳地帯。その中間が臨戦地区。
県民八十六万人。うち、交、臨戦地区はそれぞれ三十万人を避難させようとする移動作戦。
基本構想がまとまると、白川以下五人の作戦スタッフは県下へ散った。
交戦地区にどれだけの人が残っているか。これを受け入れる避難地区の家族構成は?避難者の荷物は一個三十キロ、二個まで。輸送は荷馬車か手ひき車と決め、輸送ルートをつくるため、各兵団の幹部と何度も折衝した。
引率警官の割り当てまですんだのに、相次ぐ空襲でプランはメチャメチャ。米軍に渡しては悪いと、膨大な作戦資料も終戦と同時に焼いた


住民避難計画のいっぽうで、地域住民で構成された郷土防衛民兵組織「国民義勇戦闘隊(20年6月制定)」の編成も着々と進められます。
ただし、民間人義勇部隊への武器弾薬の支給はナシ。
猟銃を所持していた人はマシな方で、手許にある農具や工具、果ては台所の包丁で戦えというものでした。
竹槍訓練(男女別に開催)に参加していた宮崎市民は「これで勝てる筈がない」と記していますが、かといって他の防衛手段はありませんでした。
米軍が県北から熊本方面へ突破を試みた場合、西臼杵郡の住民が猟銃・竹槍やブービートラップで山岳ゲリラ戦を展開するという計画も本気で立案されています。
実際のオリンピック作戦計画では、宮崎沿岸に上陸した米海兵隊は北上しつつ延岡の手前で侵攻をストップ。鹿児島・宮崎を占領するだけで、九州北部への地上部隊進撃は行われない予定でした。

「本土決戦が行われたら米軍に多くの出血を強いた筈」という大層勇ましい論調もあります。
しかし、日本側の「出血」はどうなるのでしょうか。
資源も枯渇し、食糧は不足し、制空権や制海権も奪われ、挙句は本土決戦の最前線ですらこのような有様だったというのに。

【米軍機襲来】

沖縄戦が始まると、輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、遂に米軍機の標的となりました。
唐瀬原の給水塔にも、米軍機の機銃掃射による弾痕が刻まれています。

皆さん(挺進第1聯隊)が唐瀬原を去った直後だと思いますが、唐瀬原も数回艦載機の攻撃を受けましたよ。あの頃は沖縄戦の真っ最中でしたから、唐瀬原に残った第二聯隊、それに私の挺進戦車隊も対空射撃で奮戦しました
「空挺隊員園田直」より 挺進戦車隊長田中賢一氏の証言

弾痕
空挺給水塔に刻まれた機銃掃射の跡

空襲の激化と共に米軍の上陸作戦への備えが叫ばれ始め、陸軍省教育総監部ではアメリカ空挺部隊対処マニュアルも公布しています。
一、敵の空挺隊に對しては、全員一致して迅速に撃滅せよ。
一、監視は敵の爆撃を恐れぬこと、敵の降下を観たら人をやつて確めること(夜は人形でだます場合がある)。
一、連絡はお互に任務を定めて漏れのないやう、知らぬふりをせぬこと、騒ぎ立てぬこと。
一、報告は迅速なること、ありのまゝに地點と数を報告すること、豫行訓練を行ふこと。居合すものは直ちに猛烈に攻撃せよ。敵は着地前が最も弱點なり。果敢拙速なれ。
一、障碍は敵の降りさうなところに何でも利用して手軽に造れ。軍の工事に全員協力せよ。
一、要點=橋、倉庫、工場、駅などを護れ。郷土を護れ、これが國を救ふ途なり。


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対空挺マニュアル
米軍グライダーの解説と、敵空挺部隊による本土攻撃への対処法。 いずれも昭和20年

この頃の、米軍パラシュート部隊九州侵攻への恐怖を記した証言が残されています。

父は近頃、先祖伝来の日本刀を背中に括り付けて、敵が落下傘で降りて来たら切り殺すと、いつも家の裏山から覗いて、敵機がどの方角から来るぞと知らせた。
グラマン艦載機、B29の爆音である。爆弾の落ちる音が近い。
飛行場や連隊周辺が機銃掃射と爆弾でやられた。蓑原地区と後田地区が大分やられたと兄が言いながら帰ってきた。近くのT君F君と四人で見に行くと、爆弾やロケット弾、機銃掃射でその辺りは無惨にやられている。
集落の人たちはそこらには見当たらない。爆弾のあとは十米四方に草も木も二センチ位の長さに刈払機で刈った様にきれいになぎ払われている。約ニ、三米位の深さである。
被爆にあった家屋は爆風で無惨に傾き、家財道具は倒れ柱は二つに折れ、破片が柱に食い込んでいる。人間の体にでも当ったら即死である。
戦争の無惨さを見て恐ろしさを感じ「戦争は嫌だ、早く終ればいいが」と話しながら帰途についた

都城市 曽原義正氏「戦火の渦中」より

緊張した中、二〇年の四月の終り頃だったと思う(※実際の記録では5月5日)。
可愛岳の上空の方から落下傘でアメリカ兵が降りてきた。
体調をくずして、午前中学校を休んでいたが、午後は行かねばと用意している時、空襲警報。
急いで近くの壕に飛びこむと「落下傘だ、落下傘だ」と、みんなが騒ぎ出した。「出るな出るな」と男の人達が叫び出した。
てっきり落下傘部隊が降りてきたものと思い「ああ、これまでか」と、悲壮な覚悟をした。
アメリカ機が空中戦でやられたのか煙をはいて海の方にむかっていく時、落下傘でおりてきたらしかった。
川坂の岩戸の田んぼの中に一人降り、村人につかまった。
仁瀬の消防倉庫の前に連れてきていた。
その時、はじめてナイロンという布地を見た(落下傘がナイロン製)。
ポケットに櫛や鏡、写真等入れていた。村の男の人達は伐採鎌やフォーク(農業用)、日本刀、とび口に鎌等持ってかけつけた。
「わんどん(お前達)が家の息子を殺したのだ」と、口々に肉親が戦死した悲しみを叩きつけていたが、傷つける人は一人もいなかった

北川町編「あの日あの時」より 矢野ウメノさんの証言

このB29は、長崎県から飛び立った日本軍機の迎撃を受け撃墜されました。乗員6名は機体と共に墜落死、パラシュートで脱出した5名のうち重傷を負っていた1名も死亡。捕虜となった米軍飛行士4名(福岡県へ移送後に処刑)の通訳は、日系カナダ人だった安賀多国民学校教師の栗田彰子氏が担当しています。
結局、彼女が切望していたカナダへの帰国は叶いませんでした。
延岡市が空襲に晒された6月29日。
校舎の消火活動にあたっていた栗田先生は、米軍の投下した焼夷弾の直撃を受けて亡くなられます。

震洋
日向市細島港に残る、第121震洋隊の特攻ボート格納庫跡。岩盤が硬すぎて掘削に失敗したため北側の向ケ浜へ移動後、出撃前に終戦を迎えました。

掩体壕
宮崎空港周辺に7基残されている海軍赤江飛行場の掩体壕群(写真のものは、宮崎市の資料で「六号掩体壕」と呼ばれています)。

ある日の午後、グラマンとB29が入り混って波状攻撃がありました。
相当長時間経過したので「もう大丈夫だろう」と校舎に戻った職員と生徒がいました。その時、大空襲になりました。
やや落着いて壕から出ると、校舎の所々から煙が出ています。
“消火だ”とかけ出して行くと、「生徒がやられた」との声。走って行くと、小使室の井戸の前で、機銃の弾で生徒が即死です。
「どうして?なぜ?どうしたらいいの?」と震える私に、「先生、しっかりして。手伝って」と看護の先生の叱声。
「痛かったでしょう。一人で。どうしてこんな所に居たの?お水がほしかったの?」
とめどなく流れる涙で眼鏡が曇り、何も見えません。戦争の非情さ、冷酷さ、無意味さをいやという程思い知らされました。
「先生、担架の用意」「ガーゼ、ホータイ」
矢継早に言われる看護の先生に、わたしはウロウロするばかりでした。
「体育館がもえる。すぐ行って。早く早く」と大きな声。
「此所はいいから、行って」と看護の先生の声で我に返って、用水桶の水を汲んで走りました。
体育館の中には落下傘が山と積まれていて、その中がくすぶっています。水をかけたり、外に運んでいたら兵隊が来て「大切な品を水でぬらした」と怒るので、「自分達で管理して下さい。学校が火事になる所でした」と言い返しました。
この時は先生方もひどく殺気だった雰囲気でした。
相変らず、雲の中から敵機のにぶい音が不気味に聞え、生きた気持ちもありませんでした。
その夜は亡くなった生徒のお通夜に行きましたが、とても悲しく、淋しく、わけのわからない腹立ちさでした。
朝からグラマンがうるさい日でした。

「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言

昭和20年春には冨髙飛行場の戦闘307飛行隊も力尽き、宮崎上空は米軍機が支配するようになります。
宮崎県沿岸部に対する米軍の攻撃は、空挺部隊にとっても深刻な影響を与えていました。
挺進司令部では、物資を川南や高鍋一帯の施設や防空壕へ分散秘匿。唐瀬原陸軍病院も新富の半地下陣地への移転が計画されます。
上記のように、高鍋の女学校までもがパラシュートの隠し場所となっていたのです(因みにこのパラシュート、敗戦後に同校生徒たちの家庭科用教材と化しました)。

その頃、川南の挺進集団司令部には大勢の民間人職員も勤務していました。

当時、師団本部に事務員として勤務していたのが森田さん妻ゆり子さん(四九)で、団本部に勤務「選考された本部付女子だけで、二、三十名もいたでせうか。
研究部、庶務、人事、経理の四班に分かれていたが、落下傘をたゝむ女子挺身隊員を加えると、大変な人員でした。
団には下士官以上の将校だけでした」と語る


他の民間人に対し、機密保持の点から空挺部隊では入場制限をかけていました。
但し、財津村長の斡旋によって農作物軍用納入組合員20名ほどは比較的自由に挺進団司令部へ入ることができたそうです。
その中のひとり、安部富士夫氏の証言を。

出陣前に貰った百枚ほどの毛布を、(空襲を受けた)延岡の戦災者へ贈ったことがあるが、落下傘部隊の予算は普通予算の四倍程であった。
終戦間際になると、飛行場の空襲が烈しくなった。主計科には四十名ほどいた。
その事務所の下部は厚い鉄板で、防空壕がつくられており、師団長(正しくは第1挺進団長)は「早く君らから先に這入れ」とまづ私ら御用商人まで気をくばり、最後に由々と自分が這入ったというのだ。
かくして若くして優位な多数の百十八(第3連隊)、百十九(第4連隊)両部隊員は高千穂降下部隊を編成して
フィリッピンのレイテー島に集中、敵の上陸地に直撃的に降下して失敗、悪戦苦斗の末、その大部分は戦死した

河野助著「川南開拓の記録」より

その後も県内各地は激しい空襲に晒され続けました。必死の防空戦で米軍機にも少なからぬ被害は出ましたが、物量の差によって日本側は次第に圧倒されていきます。
4月中旬まではぱたりと止んでいた空襲も、沖縄戦の勝敗が見えて来ると同時に再開されました。
当初は軍事施設に集中していた空襲も、途中から無差別爆撃に方針転換されると、宮崎・延岡・都城の市街地は次々と炎上。灰燼に帰します。

こうして挺進第2聯隊が川南防衛に当っていた頃、千葉の横芝へ移動していた挺進第1聯隊も激しい空襲に晒されていました。

司会者
「それで横芝に行って、横芝飛行場の傍の廠舎みたいなところへ入ったわけですな。そこでは何か訓練しましたか。サイパン行きが決まるより以前の段階で。そこに二ヶ月ぐらいいましたね」
細村
「ええ、おりました。松林の中で半分は傾斜の砂の中で」
司会者
「三角兵舎で半分が地面の中にもぐっているようなものですね」
細村
「あそこではそれほど訓練に従事するということはなかったと思います」
星野
「実際には敵の飛行機が……」
森上
「B29が。それから艦載機のグラマンとかに相当やられましたから」
玉生
「飛行機の移動くらいじゃないですか」
細村
「隠すためにね」
玉生
「それから飛行場に爆撃機の模型を作ったり擬装をしてね」
司会者
「そういう仕事をしておったのですね」
玉生
「だから訓練らしい訓練というのはなかったですね」
司会者
「対空戦闘とか遮蔽とかそういうことをやってたんですね」
星野
「あれは実戦だったのですね。一機敵の飛行機を落としたものね」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直」より

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海軍落下傘部隊員

【剣作戦始動】

川南で挺進第2聯隊が米軍上陸に備える中、サイパン、硫黄島と出撃機会を逸した義烈空挺隊はフィリピン出撃中の挺進第3連隊兵舎に入って待機を続けていました。

その義烈空挺隊に沖縄への特攻が命令されたのは4月のことです。
5月8日に川南を発った空挺隊は、熊本県の健軍基地で飛行隊と合流。17日には沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されました。
サイパン特攻を命じられてから半年後の5月24日、義烈空挺隊168名は12機の97式重爆に搭乗して健軍を出撃します。
その夜、機体トラブルで途中帰還した4機を除く8機112名が読谷および嘉手納飛行場へ突入。これら8機の義烈隊員は全滅しましたが、途中帰還した4機の隊員には再度の出撃を命じられた者達がいました。

まず、山本金保曹長ら不時着機のパイロット全7名が物資輸送任務に指名されます。
5月28日と6月3日、彼等は再び沖縄へ飛び立ち、次々と戦死していきました。

一方、奥山隊の不時着組48名は挺進第1聯隊や挺進戦車隊へ吸収されますが、そのうち熊倉順策少尉(隅之庄不時着)や、酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは再度サイパン特攻作戦に関わることとなります。
これは海軍空挺部隊(呉鎮守府101特別陸戦隊および横須賀鎮守府第105特別陸戦隊)と協同で行う「剣作戦」と呼ばれるものでした。

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訓練中の日本海軍空挺部隊

待機を続けていた挺進第1聯隊に、再びサイパン特攻が命じられたのは初夏を迎えた頃のこと。
これが、陸軍落下傘部隊最後となる空挺作戦のはじまりでした。

剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。

海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」 
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり

「烈作戦」 
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり
(「特攻」より)」


剣作戦参加部隊は、義烈空挺隊と同じく敵飛行場への着陸強襲を計画しています。
しかし、実戦経験のある海軍横須賀鎮守府特別陸戦隊はサイパン陥落時に全滅。この特攻作戦に際し、海軍空挺部隊は地上戦闘の指導を陸軍空挺部隊に要請しました。

陸軍空挺部隊にはB29の破壊訓練を積んだ義烈空挺隊員の不時着組が吸収されていたので「元義烈空挺隊員の中には、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった者もいた」との証言もあります。
こうして、海軍の空挺作戦は陸軍空挺部隊との協同作戦へと変更されました。

義烈空挺隊が果たせなかったサイパン特攻は、こうして再び挺進第1聯隊に命じられたのです。
サイパン特攻を命じられた山田聯隊長は、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」を編成しました。

山田聯隊長は陸軍部隊指揮官に園田直大尉を任命した。攻撃隊には山本章大尉を長とする第1中隊と、大屋稔大尉を長とする第2中隊が命ぜられ、両中隊は限りなき光栄と、しびれるばかりの感激とを以て出發準備に着手した。
八月初め、横芝基地に中村勇挺進団長を迎えて出陣式を行った。陸軍戸山学校の軍楽隊は「突撃」その他の曲を演奏して、かつて同校にあって準備体操訓練をしたゆかりの強者達の特攻攻撃を心から祝った。
東陽の村人達も亦役場に送別会場を設けて成功を祈ってくれた。
8月6日、横芝を出發。紅白の神旗を先頭にした両中隊は青森県の三沢を経て北海道の千歳に向かった。
青森県三沢駅で将校全員下車、海軍と図上戦術を実施、攻撃部署を左の通り決定した

海軍攻撃部隊 
指揮官 平田海軍少佐
グァム島攻撃隊 平田海軍少佐以下300名

陸軍攻撃部隊
指揮官 園田陸軍大尉
サイパン・アスリート飛行場攻撃部隊 大屋稔大尉以下、第2中隊の136名
テニアン飛行場攻撃部隊 山本章大尉以下、第1中隊の150名


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降下後の戦闘訓練をおこなう海軍落下傘部隊。剣作戦は、陸海軍とも輸送機ごとの着陸強襲となる計画でした。

園田隊305名は、空襲を避けるため北海道の千歳に移動して訓練を開始。
これらの陸海軍混成特攻部隊は「天雷特別攻撃隊」と呼ばれていました。

陸軍園田隊が参加後、作戦内容は下記のように変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。

渡辺
「私はサイパン攻撃の命令が出たときは、結婚のため帰省中でして、八月五日休暇が終って帰隊すると、横芝駅から隊長以下青森県の三沢に向い出発するところだった。私は八月十一日後発を率いて千歳に向った」
司会者
「一旦三沢に集結してそれから千歳に行ったのですか」
細村
「三沢へ行ったのは、各中隊の先遣隊というか幹部だけです。あと大部分は直接千歳へ行ったんです」
司会者
「それで、千歳に行ってどんな準備をしましたか」
細村
「千歳へ行ってからは主として帯状爆薬の操作ですね。子供をおぶうような帯の爆薬でB29の胴体模型に引っかける訓練とか、あとは吸着っていうんですね。横に棒のついた爆薬で吸い着ける訓練とか、まあ、大体そんな程度の訓練だけだったですね」
司会者
「一週間くらいなもんでしょう」
細村
「そうなんです。行って二回か三回くらいしかうちの小隊ではやれなかったのです。私はその頃は小隊長で行きましたので訓練の方に参加してました」
司会者
「海軍の飛行隊とは顔合せをやりましたか」
細村
「特別に全部の顔合せはございませんでした」
星野
「兵舎は一緒でしたよ。自分達は一緒にいたからね。整備員か何かと一緒に同じ内務班で」
細村
「そう?あのとき私らは待遇を良くして頂きまして、海軍の士官の招待を受けましたので、どうせ兵隊になるんなら海軍が良かったとつくづく感じました(笑声)」
森上
「だって連合作戦を計画したのは海軍だから。我々は加勢に行ったのだから」
司会者
「一式陸攻には乗ったんですか」
細村
「一式陸攻には乗りません。止ているところへ乗っただけで飛ばなかったのです。一式陸攻の改造したやつの地上にいるのに乗って兵隊の配置とか跳出す要領とか、一応の訓練はしましたが飛ぶことはしません」

「空挺隊員園田直」より

情報収集の為、サイパンへの偵察飛行が繰り返されます。撃墜された米軍捕虜を千歳に移送して、各飛行場の詳細な状況の訊問も行われました。
広大な飛行場に素早く展開する為、オートバイ数台と自転車が掻き集められ(オートバイは重過ぎて使用中止)、入手した米軍パイロットのサバイバルベストを参考に、爆薬携行用のチョッキも作製されたとか。

其の頃、義烈空挺隊の出撃を撮影した小柳次一氏も、軍報道部からサイパンへの同行取材を強要されてこれを拒否。怒鳴り合いの喧嘩になっています。

七月の中ごろだったと思うんですが、報道部から来てくれと電話がありまして。それで報道部に行きましたら、今度、日本の全爆撃機を挙げてサイパンを空襲するからそれに乗り組んでくれと言われたんです」
「それは命令ですか?」
「そうだ」
「いくら私でもそれはできません」
このときだけです。軍の命令を断ったのは。
「いままで付き合ってきたのに貴様は逃げるのか」
と言うから
「逃げるんじゃないです。あんた方は本土決戦て言ってるでしょ。本土決戦ということだったら、私だって手伝えることはありますが、今度の作戦は百機行って何機帰れます。百機行って五十機帰れるのなら行きます。でも、百行って九十九機帰れるわけのない作戦でしょうが。それに乗れというのはどういう命令ですか。もし、そういうことだったら辞めさせてください」
と返事をしまして、そうしたら、その将校が
「辞めたきゃ辞めてもいいぞ。こっちは一銭五厘で呼びつけるだけだから」と脅かしまして。
もう喧嘩です。一銭五厘というのは徴用の葉書代のことですね。召集でも徴用でも命令が来たら、いやでも拒否できませんからね。
大声で怒鳴り合っていたもんだから、沖縄出身の親泊さんという将校が心配して、どうしたんだとわけを聞いてくれまして。
「あんたは嘱託だよな。おまけに無給嘱託だ。正式に軍籍にある軍属だったらそんな事は言わさねえが、そりゃあ、あんたが怒るのが当たり前だ」

「従軍カメラマンの戦争」より、小柳氏の証言

民間人カメラマンを特攻に出そうとする方がどうかと思うのですが、しかし、追い詰められていた軍部ではそんな事に構っていられなかったのでしょう。
親泊さんの御蔭で、小柳氏は大陸へ身を隠すことが出来ました。

【烈号作戦始動】

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都城盆地防衛のため、挺進戦車隊の主力が駐屯していた三股中学校付近。

同時期、天雷特攻隊とは別の空挺作戦も計画されていました。
挺進第2連隊・第1挺進戦車隊・滑空飛行戦隊の混成48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」です。
これより先の昭和20年春、唐瀬原の空挺隊と北朝鮮の滑空飛行戦隊が合同演習を開催。
フィリピンへ赴いた滑空歩兵に代り、グライダーによる特攻作戦が始まろうとしていたのです。

挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
川南で待機を続ける挺進戦車隊は、3月18日に宮崎を訪れた三笠宮殿下の巡察を受ける予定でした。しかし前述のとおり、当日の米軍空襲を「予告」されていた三笠宮一行は紫明館から八紘台(現・平和台公園)の重砲兵隊地下陣地へ避難。
ようやく空襲が終った20日夜に挺進戦車隊と空挺隊員は宮崎神宮へ移動、三日間地下に籠っていた三笠宮の前で、遭遇戦における協同演習を披露しました。

そして義烈空挺隊が沖縄へ突入した5月。
滑空飛行戦隊のグライダーが唐瀬原へ飛来します。

下旬岩佐、宮本准尉以下十一名に挺進団合同演習に参加するよう下命があり、早々に唐瀬原に向って出発した。次の日挺進団で演習の合同会議があり、三日間午前一回午後一回の慣熟飛行を行なうことになった。
挺進団の人々はわが「クー八」を不安げに見ながら搭乗した。
中には「クー八」の羽布を撫でながら大丈夫ですかと洩らす人もいた。が着陸すると異口同音に飛び降りなくてすむの一言で評判はまずまずであった。
三日目には戦闘指揮所を攻撃目標とし出来るだけ近くに接地し、操縦席横のピン二本を落し、操縦席を横開きにして接地板を二本引き出して此所からも人員を降ろした。
目標近くに接地、直ちに攻撃態勢に入れるということで頗る好評であった。
同日夕刻より団長の招宴が将集で行なわれ、お褒めの言葉を頂いた。宮本准尉以下の人々の協力の賜物であり、特に操縦者の身でありながら索張り滑空機の撤収迄苦労を惜しまず努力してくれた吉田栄次さんには改めて感謝を表したい。
演習終了直後梅雨入りしたため帰還が大幅に遅れ六月下旬宣徳に帰還した。
帰還し間もなく挺進団より安井少尉が派遣され執銃地上戦闘が一週間に亘り午前・午後行なわれた。
連日の夜間訓練―午後十一時起床、十二時より払暁に至る訓練、翌日九時より一一時三〇分迄の少飛の人達の滑空訓練など―により、疲労の累積による大事故が六月二十八日惹おこし、吉村・杉田少尉、梅戸准尉が殉職し、山田少尉他一、二名の人が重傷した。

岩佐陽太郎氏「一一七部隊追憶記」より

6月中旬頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
歩兵中隊

でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。

司会者(田中賢一)
「それでサイパン行きになるちょっと前に、沖縄行きのグライダーで行く特攻隊の要員を中隊から(挺進第1聯隊)も出したでしょう。今日来てない木谷さんもそれに出たのでしょう」
細村
「ええ、木谷君です。あのときは階級と特に優秀者をという聯隊の方から付箋が付いておって。それで選考したわけです。
そういう選考要領というかそういう指示があったのはあのときだけだったと思います。それで中隊からも木谷君らが何名か出たのです」
司会者
「聯隊からは十二、三名出てるでしょうか。二聯隊からも、両方併せて二十四名」
細村
「中隊からは木谷君ともう一人誰か出たでしょう」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直より」


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訓練中の第1挺進戦車隊。川南空挺慰霊祭の展示より

義烈空挺隊に続く沖縄特攻作戦の指揮官は田中賢一少佐。ラシオ空挺作戦で敵飛行場への着陸強襲を担当していたあの人です。
作戦名は、非公式に「烈號作戦」と呼ばれていました。

剣号作戦と同時に準備を命ぜられたのは烈号作戦である。それは挺進戦車隊待望の滑空機による37粍砲装備の軽装甲車及12糎迫撃砲を以てする沖縄北飛行場への急襲作戦である。
挺進戦車隊は田中賢一少佐を隊長とする滑空機による挺進部隊である。西筑波に於ける古林少佐等の懸命の努力にも拘らず、実働滑空機の整備が遅々として進まず、その間に次々と落下傘部隊、そして滑空諸部隊を南方に送りながら、一日千秋で時機到来を待ったのである。
滑空飛行戦隊は7月20日迄に滑空機20機、曳航機20機の到達目標であった。ともすると焦燥感の若者を指導する田中少佐の苦心も並大抵ではなかった。
挺進後の歩戦一体を強調し、歩兵中隊の充実を期したのも隊長自ら指導する幹部の落下傘訓練の実施などは、その鎮撫策の一つであった

「会報特攻」より

七月初旬、戦隊長・山本副官・片山中尉・加畑少尉が航本に出張した。何か作戦があるのではないかと一抹の懸念が脳裏を掠めた。訓練は何事もないかのように連日続いた。
中旬に入り特攻志望の調査があった。
一中隊においては熱烈望・熱望・志望の三項目で志望せずの項目はなかった。全員熱烈望であったとのことで、中隊長は喜んでいられたとのことであった。
訓練は相変らず深夜より早朝迄と午後少飛の人達の訓練が続いた。七月の北朝鮮は気候も良く快適そのものの生活が続いた。
七月二十三日(その日は私の誕生日)登庁すると、週番下士官より全員舎前に集合の命令が下達され、八時何かあるなの気配を感じつつ集合した。
北村大尉より次の者は一歩前に出よで、神吉・佐波・岩佐・阿部・石津少尉、黒木・今西曹長、秋庭・竹中・古郡軍曹の一〇名。
二中隊では竹内・大里・藤井少尉他三名の六名が指命特攻を命ずると下命された。
直ちに戦隊長室に集合し、神吉少尉が、代表申告し神吉・佐波・秋庭組は北飛行場、岩佐・今西・阿部・竹中は中飛行場、石津・古郡組は予備とし一応金武飛行場と指命された。
又竹中・金子組をはじめ夫々攻撃目標を指命され、二万五〇〇〇分の一の地図と各飛行場のB29の繋留状況の航空写真が提示された。
攻撃方法としては九五式四輪駆動車に二〇ミリ及び一二・七ミリの航空機関砲を固定し、射手としては挺進戦車隊及び挺進第二連隊将兵一六名を充て、吾々滑操(※滑空機操縦者)は自動車の操縦に当ることとなった。
携行武器としては一〇〇式短機関銃と手榴弾とのことであった。色々の思いが脳裏を掠める裡に兵舎に戻った。
中隊長に申告して後、特攻要員は一軒の宿舎に移り出發の日迄起居を共にすることとなった。神の家と称されたように記憶している。
二十四日より三日間、矢部少尉を教官とし今西曹長を助教とし、一日二時間の自動車の教習を受け、三日目は長距離行軍が行われた。
再度来隊した安井少尉より発破掛け及び奪取武器による攻撃等の訓練を受けた。
七月終りに最後の仕上げとして無灯火(尾赤灯のみ)の編隊着陸を行なった。
八月五日連浦の挺進飛行団へ全員で申告に赴いた。
川島大佐(飛行団長)に申告、全員の健闘を祈るの激励を受け神吉・岩佐・今西・黒木の四名の外は即刻挺進飛行第一戦隊の一〇〇式輸送機(MC20)で福生へ移動した。神吉少尉他三名は帰隊後「ク―八」に携行品を搭載し、翌日の出發に備えた。六日早朝残留者の見送りを受け宣徳を後にした。
敦賀に進入して間もなく特殊爆弾投下のため広島が壊滅した旨の電報に接した。
折から東海地方は空襲を受けていたので北アルプス方面に退避したが、燃料の都合により小牧飛行場に着陸した。
再度の空襲のため薄暮小牧を離陸し浜松に滑り込んだ。
闇の浜名湖畔に一泊。翌七日早朝離陸の予定が空襲のため三時過ぎ漸く離陸、薄暮の福生に到着した

岩佐陽太郎氏「一一七部隊追憶記」より

烈號部隊を空輸する滑空飛行第1戦隊は、本土空襲を避けて西筑波から朝鮮半島へ退避中。
特攻に選ばれた8組のグライダーは北朝鮮を飛び立ち、空襲を避けつつ福生へ到着しました。
しかしグライダーの配備が遅れた為、烈號作戦の決行予定は8月20日頃となります。

この部隊を代表して第1陣として烈号作戦要員に選ばれたのが、広田敏夫大尉以下20名であり、東京近郊福生飛行場に転進したのが8月1日であった。
そして義烈空挺隊を偲びながら、沖縄北飛行場への急襲を準備したのであった


広田敏夫大尉ら烈号部隊員は、曳航機およびクー8滑空機20機編隊で読谷および嘉手納飛行場の手前に夜間着陸後、パイロットが運転する軽車両で両飛行場へ突入。
車載機銃で駐機中の米軍機を破壊して回る作戦でした。
しかし、訓練開始直後にとんでもないトラブルが発生します。

沖縄特攻を真近かにして、敵飛行場に滑空機で強行着陸をして、敵機爆砕のために走り廻る四輪駆動車の操縦訓練や二十ミリ機関砲の射撃訓練をしていた。
機関砲の扱いにも習熟し、夢中になって標的に向かって射撃していたところ、突然砲声が鳴り止んだ。
はて故障かと砲身を見ると何と砲身の先端が二十糎程真っ赤になって垂れ下がっているではないか。それは飛行機に搭載して高高度で射撃する云わば空冷の機関砲を無謀にも炎暑の地上で連続発射したのが原因であった。
この報告を受けた部隊幹部は愕然とした。予定していた沖縄の敵飛行場では全く役に立たないということだからである

滑空飛行第1戦隊 石津正昌夫少尉 「国破山河在」より

九七式重爆で出撃した義烈空挺隊ですら機体トラブルでの脱落や撃墜される機が相次いだというのに、更に鈍足のグライダー部隊が沖縄へ突入できたかどうか。
運よく迎撃機の目を逃れたグライダーが沖縄へ着陸できたとしても、そこから夜道を何キロも走破し、米軍が防御する飛行場へ辿り着けるのか。
しかも車載機銃は地上で使い物にならない航空用です。義烈空挺隊よりも成功の可能性は低かった事でしょう。

kawaminami
訓練中の挺進戦車隊。画像の大型グライダーは試験飛行段階で終戦を迎えた為、あくまで「こうなる筈だった」的な願望図です。
川南空挺慰霊祭にて

高千穂空挺隊や義烈空挺隊の悲惨な前例を見るまでも無く、天雷特攻隊や挺進戦車隊の特攻作戦も、余りに無謀でした。

月明かりを頼りに太平洋の真ん中へ夜間飛行で辿り着き、厳重な防空網を突破し、敵の飛行場へ果して何機が着陸できたのか。
義烈空挺隊の諏訪部編隊長がサイパン出撃計画で漏らしたように「上手くいって半分、下手するとゼロ」だったかもしれません。

沖縄へのグライダー攻撃も、義烈空挺隊と同じ結果に終わったことでしょう。
しかも、此等の作戦が実行されたとしても後続部隊の投入や連動する友軍の攻撃はナシ。敵に一時的な打撃を与えるだけの単発作戦でした。
結果として日本の空挺戦力は陸海軍共ほぼ壊滅し、残る挺進第2聯隊と僅かな中隊だけで本土決戦に臨むしかなかったのです。

千歳の剣作戦部隊と福生の烈號部隊が特攻の準備を整える中、川南に残った空挺部隊でも犠牲者を出してしまいました。

当時私は高鍋駅で二〇歳の青年駅員として空襲下の駅に勤務していました。
昭和二十年七月十二日、米軍艦載機約三〇機は高鍋駅や蚊口地区を中心に、猛烈な銃爆撃を行いました。
防空壕に避難していた私たちは、敵機の爆音が遠のいたので、駅の被害状況の見回りを始めました。と、一両の貨車から煙が出ている。
早速扉を押し開いて見ると、赤茶けた煙と炎が吹き出した。
先刻撃ち込まれた機銃弾の焼夷実包の発火である。
青年駅員十余名、駅北側の井戸水をくんで、バケツ注水消火に努めていると、突然「ドーン」と貨車内が爆発。
「あぶない、待避しよ」だれ言うとなく一斉に待避。次の瞬間、あの大爆発。
百雷が一時に落ちたようなものすごい地響き、「やられたっ」と思って見回したが、しばらくは何も見えず何も分らなかった。
貨物倉庫、農会の出荷場や倉庫、日本通運社屋など完全に倒壊、駅舎も傾いて倒壊寸前。
線路上に将校が一人、少し離れた所に保線区員の古川さん(古川尊氏)が倒れている。
将校は川南落下傘部隊の三浦少尉(年齢ほか不詳)だったとのこと。
頭の骨が割れ真っ赤に血に染っているのを、いっしょに来ていた曹長(氏名不詳)が背負って秋月医院に走ったが助からなかった由。
古川さんは胸からおびただしい出血、私は腰のタオルで出血を止めようとしたところ、タオルは傷の中にすっぽり入った。
その古川さんもついに―。
重傷者は幾人もいたとのことだった。鵜戸神社鳥居前大木の下にも兵隊が一人死んでいた

西村敏春氏の証言より

その2日後。
7月14日に予定されていたサイパン特攻作戦は、必死で集めた輸送機を空襲で失って延期となります。

かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より

しかし、剣部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

第3空挺連隊

陸軍空挺部隊の終焉。
それは、軍都川南が開拓地へ再生するための第一歩でもありました。

(第10部へ続く)
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