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空挺給水塔 其の7 滑空歩兵連隊

Category : 第七部・ルソン島の攻防 |

十一屋の女中部屋で、古い「新女苑」を見つけた。
ああ、昔。
「ヴォーグ」に出て来るきれいなおんなの人よ。ボクのたましいは、きみたちがすんでいた昔に、しきりとかえりたくなる。
十一屋から帰ると、裁縫室で、酒とすき焼きであった。ボクはほかのことを考えていて、ことば少なであった。
戦争のはなし。戦争のはなし。
マッチ箱の大きさのもので、軍艦を吹っ飛ばす発明がなされたはなし。
いいか。いいか。
みたみわれ。いいか。いけるしるしあり。あめつちの。さかえるときにあえらくおもえば(※御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に 会へらく思へば)。
いいか。いいか。いいか。
ボクが汗をかいて、ボクが銃を持って。
ボクが、グライダァで、敵の中へ降りて、ボクが戦う。草に花に、むすめさんに、白い雲に、みれんもなく。
ちからのかぎり、こんかぎり。
それはそれでよいのだが。それはそれで、ボクものぞむのだが。
わけもなく、かなしくなる。白いきれいな粉ぐすりがあって、それをばら撒くと、人が、みんなたのしくならないものか。


滑空歩兵第1聯隊 竹内浩三兵長 「筑波日記」昭和19年4月14日より抜粋

滑空
西筑波上空で、ク―8滑空機を曳航している滑空飛行戦隊。
このグライダー部隊は、空輸部隊の「滑空飛行戦隊」と戦闘部隊の「滑空歩兵部隊」で構成されていました。
川南空挺慰霊祭にて。

パレンバン作戦の後、パラシュート降下の問題点を再検討した陸軍は、グライダー部隊を新たに編成しました。
パラシュート部隊の陰に隠れて地味な存在ではありましたが、このグライダー部隊にも著名な人物がいます。
それが、第1挺進戦車隊指揮官だった田中賢一と、滑空歩兵第1連隊員だった竹内浩三。
田中さんには陸軍空挺隊史に関する多数の著作がありますし、詩人としての竹内さんについても評論が多数出版されていますね。
ただし、巷の竹内浩三論が取り上げるのは、せいぜい滑空歩兵第1連隊くらい。背景となるグライダー部隊の全容を知るには全く参考になりません。
竹内浩三の研究者が注目するのは、当然ながら竹内さん個人です。
しかし、「その他大勢の滑空隊員」の運命に興味すら示さないのは何なんでしょう。彼らは一体何者で、なぜフィリピンへ向かい、竹内浩三の戦死後どうなったのかは一切無視。
名も無き死者たちに冷淡な“竹内浩三評論家”の態度は、まさに竹内さんが「戦死やあわれ」で皮肉った日本人の姿そのものですね。
いっぽうで旧軍を礼賛する人々はといいますと、こちらも下調べをしないことにかけては同レベルの状況です。

そういう訳で、竹内さんが所属した滑空歩兵第1連隊に加えて、滑空歩兵第2連隊や第1挺進工兵隊や第1挺進戦車隊や第1挺進通信隊や第1挺進機関砲隊や滑空飛行戦隊も含めた、日本陸軍グライダー部隊のお話を。

(第6部からの続き)

陸軍空挺部隊が華々しく活躍できたのはパレンバン降下作戦のみ。
続くラシオ、ベナベナ、インパールと第1挺進団(挺進第1連隊および挺進第2連隊)の南方作戦計画は空振りに終り、唐瀬原の陸軍空挺部隊は次の作戦に備えて部隊拡充へ取りかかります。
昭和19年秋、米軍がフィリピンに上陸。
陸軍空挺部隊は即座に対応し、隷下部隊を続々とフィリピンヘ派遣しました。
レイテ島降下作戦に投入された第2挺進団(挺進第3連隊および挺進第4連隊)に続いて、ルソン島防衛のため出撃したのは、「第1挺進集団」。
こちらはパラシュート部隊ではなく、挺進第5聯隊を茨城県の西筑波飛行場で再編成したグライダー部隊を中核としていました。
滑空機(グライダー)で着陸強襲をおこなうことから、この部隊は「滑空歩兵」と呼ばれています。
日本陸軍の空挺部隊には、宮崎県を拠点とするパラシュート降下部隊と茨城県を拠点としたグライダー降下部隊があった訳ですね。

軍用輸送ヘリコプターが実用化されていない第2次大戦当時、各国の空挺部隊では重装備の空輸手段としてグライダーを多用していました。
我が国もその時流に倣い始めたのです。

【第1挺進集団の誕生】

挺進第2聯隊によるパレンバン作戦で発覚したのが
「パラシュート降下時には拳銃と手榴弾しか携行できない」
「別途投下した武器コンテナが密林や湿地帯に阻まれ発見できない」
といった問題点でした。
実際、パレンバンでは拳銃のみで戦う破目になった兵士もいたそうです。また、パラシュート投下した全ての無線機が着地の衝撃で故障し、丸一日後方との連絡が途絶する状況に陥りました。

パレンバンの直後から、空挺部隊ではこれらの問題に取り組みました。
パラシュート降下時に携帯できる「テラ銃」や収納具の開発と共に、「手っ取り早い解決策」として提案されたのが、兵士を乗せた輸送機ごと敵地へ着陸してしまうこと。
この着陸強襲は、ラシオ空挺作戦で実際に計画されています。ラシオの場合、機関銃部隊を送り込んで敵飛行場を迅速に制圧する必要がありました。そこで、挺進第1連隊ではパラシュート降下と並行した輸送機による敵飛行場への着陸強襲を立案。
しかし、作戦中止によって実行はされていません。

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パラシュート投下した物料箱から武器を取り出す日本海軍落下傘部隊員。実際の戦闘中には投下したコンテナを探し出すのも一苦労であり、陸海軍とも降下作戦での武器携行法に頭を悩ませていました。

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演習にて、速射砲を操作する海軍落下傘部隊。各種兵器の扱いには習熟していましたが、実戦投入できなければ意味がありません。戦況の激化により、このような重火器を用いる空挺作戦が模索されます。

最終的な解決案となったのが、グライダーで重火器や車両を前線に投入する戦法でした。
ドイツ降下猟兵によるエバン・エマール要塞奇襲作戦のように、各国の空挺部隊では第二次大戦の緒戦からグライダーを運用していました。

川南の挺進練習部でグライダーの導入が始まったのは、第1挺進団がパレンバンから帰還した昭和17年6月のこと。
ヘリコプター自体は1930年代に登場していますが、あくまで海外のお話でした。
意外なことに、戦時中の日本航空界でもヘリコプターの存在は常識であり、当時の航空雑誌でも関連記事をよく見かけます。
しかし、我が国の技術で実用化できるのはオートジャイロが精一杯でした。空輸法の選択肢はグライダー以外になかった訳です。

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グライダーに乗り込むイギリス軍空挺部隊

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不時着したイギリス軍のエアスピード・ホルサ滑空機を調査するドイツ兵。

戦時中の日本では、青少年に向けてグライダーの趣味を奨励していました。将来のパイロット候補を育てる意味もあったのでしょう。
やがて全国各地に同好会が設立され、誰もが滑空飛行を体験できるようになったのです。
当時の宮崎県でも、グライダーは珍しいモノではありません。昭和17年頃だと、県内の学校では13もの滑空機倶楽部が活動し、宮崎市の生目村(現在の東九州自動車道宮崎PA附近)で開催される滑空機教室では、大日本滑空聯盟宮崎支部のグライダー愛好家たちが年中飛び回っていましたから。

諸君が模型グライダーに童心を羽ばたかせた空への憧れは、きつといつか「グライダーにのつてみたい」に変つてくるでせう。
澄む秋空を載つてヒユーツと軽快な音を響かせながら旋回するソアラーの美しい姿を見たら、諸君はもう矢も楯もたまらなくなるにきまつてゐます。
空の護りがいよ〃重大になる時、日本の青少年が一人残らず相當の航空知識を身につけてゐるとしたらどれほど日本は心強いかしれません。
そこで文部省でも全國の中等学校に滑空訓練を正課として、積極的に指導しようと着々準備をすゝめてゐるのです。

内閣情報局 昭和16年

そのような状況下、新田原飛行場でも「滑空班」が発足し、グライダー空挺作戦の研究がスタートします。グライダー飛行隊のパイロットだけではなく、それに載せるグライダー歩兵の編成も必要です。
パラシュート部隊として創設された陸軍空挺部隊は、この時から次の成長段階へ移行していきました。



昭和18年、第1挺進団(挺進第1および第2聯隊)は南方作戦に忙殺されていました。この2個連隊を使い回すだけでは戦況の激化に対応できず、陸軍空挺部隊は拡充強化に迫られます。
そこで、将来的には2個空挺師団へ発展させることを念頭に、パラシュート部隊とグライダー部隊への分離が始まります。
南方への切り札として、パラシュート部隊と挺進飛行隊は宮崎県唐瀬原飛行場および新田原飛行場への配置を継続。
重武装のグライダー部隊はサイパン・小笠原方面への出動に備え、中央に近い茨城県西筑波飛行場へ移動する事となりました。
当初は2個パラシュート連隊・1個飛行戦隊だった陸軍空挺部隊も、拡充後は下記の規模になります。

唐瀬原 4個パラシュート連隊、通信・工兵・戦車のグライダー搭乗部隊、パラシュート整備隊
新田原 挺進飛行2個戦隊と支援部隊
西筑波 2個グライダー歩兵連隊、機関砲隊、滑空飛行戦隊と支援部隊

単なる戦闘的落下傘部隊では任務の達成が容易ではないし、其の労果に相伴わぬものがあり、又戦術的使命も僅少であるから、強大な戦力として一つの戦略的単位をなす部隊を作って、我勢の進展に応ずるを企図した。
その主要問題は滑空部隊の編成であり、重火器や戦車等戦力補給力の増強、挺進戦隊の増援にある。

空挺戦友会資料より

錬成を急がれたのが、グライダー兵を空輸するパイロットです。空挺部隊は空を飛べなければどうしようもありません。
挺進練習部内に設置された「滑空班」と「重火器班」は、新田原飛行場でグライダー空輸作戦の研究を開始。
曳航機およびグライダーのパイロットを編入した滑空班は「滑空飛行戦隊」に再編され、所沢や西筑波で実機を使った飛行訓練に着手しました。

この滑空飛行戦隊は本部および3個中隊編成。曳航機とグライダーのパイロットで構成されていました。
各中隊が運用するのは曳航機の97式重爆9機と50機弱のク―8滑空機でした。一部では97式軽爆撃機やク―1滑空機も使っていたそうです。
飛行に専念する挺進飛行戦隊と違い、滑空飛行戦隊は敵地への着陸が前提。つまり、パイロットも滑空兵と共に戦う訳です。
その為、グライダーのパイロットには地上での戦闘訓練も課せられました。
こうして、パラシュート部隊を運ぶ「挺進飛行隊」とグライダー部隊を運ぶ「滑空飛行戦隊」が、それぞれ専門の作戦に従事可能となったのでした。

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着陸したDFS230グライダーの操縦席から突撃するドイツ降下猟兵。

滑空飛行戦隊に続き、昭和18年10月からはグライダー搭乗部隊の編成が始まります。

昭和18年秋には、滑空機搭乗部隊として挺進第5聯隊(聯隊長伊集院大佐)、挺進戦車隊(隊長 面高少佐)、挺進工兵隊(隊長 福本少佐)、挺進通信隊(隊長 坂上大尉)と、これ等部隊を空輸する滑空飛行戦隊(隊長 北浦中佐、後 古林少佐)が作られた。
その頃はク8と称する滑空機が出来ていた。ク8は搭載量約2トンで、山砲、47粍対戦車砲、高射機関砲、小型自動貨物車等が搭載出来、97式重爆撃機で曳航した。
これ等新設部隊は既設の挺進第3聯隊、第4聯隊、挺進飛行戦隊と共に挺進練習部長の隷下にあった。
当時第1挺進団(第1聯隊、第2聯隊及挺進飛行第1戦隊)は第2次出動中で、尚南方総軍司令官の隷下にあった

空挺戦友会資料より

これらのうち、挺進第5聯隊は唐瀬原から西筑波へ移動。滑空飛行戦隊と合流し、実際にグライダーを使った訓練に入ります。
挺進第5聯隊は歩兵と重火器の各中隊で構成されており、いずれは滑空歩兵および重火器中隊として独立させる計画でした。
難儀なパラシュート訓練が不要だった為、滑空歩兵の戦力化は比較的容易だったとの事です。

西筑波飛行場ではありませんが、茨城県におけるグライダー訓練所の練習風景を。

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こゝは茨城縣石岡、筑波の山裾につらなる三十萬坪の空の道場、石岡中央滑空訓練所です。
こゝでは将来青少年の滑空訓練指導者となる中学校の先生や青年学校の指導者たちが、軍隊式の日課に従つて朝から晩までプライマリーからセコンダリーへと猛烈に訓練をつゞけてゐます。

新設された陸軍グライダー部隊では、立て続けに事故が発生しています。
昭和17年秋、所沢で訓練中の無人グライダーが突風に煽られて墜落。曳航機を操縦していた滑空班の高山中尉も墜落に巻き込まれ、事故状況を報告後に息を引き取りました。
滑空班が滑空飛行戦隊に再編された後、西筑波でも死亡事故が発生しています。
ク―8滑空機が、切離しの手順ミスで曳航用ワイヤーを着けたまま降下を開始したのが事故の原因でした。
地表近くで垂れ下がったワイヤーを樹木に引っ掛けてしまい、滑空機は地面に激突。この際、搭乗していた滑空飛行戦隊員が殉職したとのことです。

二月二日
〇時四十分に出發した。
ねむりこんだ村を歩いた。
夜ふけ、ふとんの中でふと眼がさめて、おや、いまごろ兵隊が歩いてゆく。さむいことだろうと、寝がえりをうつと云う身分になりたいものだと考えていた。
五時ごろ乗車。車中、寝ていた。
筑波は、うんと暖い。
一一七部隊(※滑空飛行第1戦隊)のグライダーが空中分解して、田におちて、六人の兵隊が命をなくしたと云う。
地中へ一米も入りこんでたと云う。

竹内浩三「筑波日記」昭和19年2月2日より

入隊以来の飛行訓練で幾つかの事故があった。
なかでも曳航中の「クー八」の一機が空中分解した事故は無残であった。
機首は土中にめり込み、その中には五名の矮小された遺体が折り重なっていた。

谷元臣「一一七部隊回顧記」より

昭和19年秋、挺進第5聯隊は一般部隊からの転属者数百名を加えて「滑空歩兵第1聯隊」と「滑空歩兵第2聯隊」へ、更に重火器中隊を独立させた「挺進機関砲隊」の三部隊へ再編されました。

これら部隊の新設に当っては今迄の志願制を廃して強制的転属制にした。
一部は練習部や挺進聯隊との人員の交流を行ったが、志願訓練の第1~4聯隊に比すれば見劣りするは止むを得ない所であった。但し、他部隊に比すれば遙かに優良部隊であった。
特に将校は中央で意を用いたので現役が多く、約1年の訓練で落下傘部隊に劣らぬ精鋭部隊に育て上がって比島戦場に向ったのである。
滑空機搭乗各部隊の地上部隊としての練成は数ケ月で一応完成。挺進第5聯隊は滑空飛行戦隊と仝一地に在ったため度々統合訓練を受けたが、其の他の部隊は唐瀬原にあったので将校が体験飛行を行った程度で統合訓練は中々実現しなかった。
各隊は営庭に模擬胴体を作り搭載卸下の訓練を行った。
昭和19年7月朝香宮殿下の特命検閲には在西筑波部隊を川南に招致し、落下傘部隊との統合演習を実施し、待望の滑空機・落下傘統合の訓練を優秀な成績を以て遂行し、空挺戦力の運用に画期的な発展充実を加えたのであった。

空挺戦友会資料より

宮崎県の各自治体に多大な負担を押し付けたものの、川南のパラシュート部隊では地域住民に対して最大限の配慮を払っていました。川南の空挺隊員は食事や下宿先を地域社会に頼っていましたし、挺進司令部や挺進整備隊の業務も民間人職員がサポートしていましたから。
部隊内での喧嘩沙汰はしょっちゅうでしたが、地方人(軍隊における民間人の呼称)に迷惑をかける行為だけは避けていたのです。
しかし、西筑波に新設されたグライダー部隊ではその辺が徹底していなかったのでしょう。地元とのトラブルも多発していました。
関係者の証言だけでも
・グライダーの離着陸時に西筑波飛行場周辺の住宅を破損
・グライダーが引きずってきた曳航ワイヤの直撃で、農作業中の女性が両腕切断の重傷
・「自分達の勤務中に民間人が楽しんでいるのは許さん」との理由で、滑空飛行戦隊が地元の盆踊り大会を中止に追い込む
・「行軍する部隊の前を横切ったのがケシカラン」と、中隊長が軍刀を抜いて小学生を追い廻す
等が伝えられています。

滑空歩兵隊員の記録として有名なのが、竹内浩三の「筑波日記」。
彼が三重県の歩兵第33聯隊へ入営したのは昭和17年のことでした。そして翌年秋、空挺部隊の挺進第5聯隊へ転属となります。

この日記は、19年の元旦からはじまる。しかしながら、ぼくがこの筑波へきたのは、18年の9月20日であったから、約3月の記録がぬけているわけである.。この3月がぬけていると云うことは、どうも映画を途中からみるようで、たよりない気もする。と云って、今さらその日々のことをかくこともできない。
ざっとかく。
9月19日、夕方土浦は雨であった。北條の伊勢屋旅館へとまった。とおいところへきたと思った。
20日朝この部隊へきた。兵舎が建っているだけで、なんにもなかった。毎日、117(※滑空飛行戦隊)へ飛行機がとんでいた。毎日、いろんな設備が出来て行った。3中隊へかわったけれども、1週間で2中隊へもどった。毎日、演習であった。1月ほどたつと、重きかん銃へまわった。
分解はん送で閉口した。西風が吹きはじめて、冬であった。
敏之助応召の電報がきた。3泊もらって帰った

「筑波日記」より

映画監督を夢見たこの青年が、凡そ不釣合いな空挺部隊に配属された経緯は不明です。
志願者のみで構成される川南のパラシュート部隊とは違い、西筑波のグライダー部隊は一般部隊を編入した混成チーム。
竹内さんも、意図せずしてこの「斬り込み部隊」へ転属させられたのかもしれません。
昭和19年1月1日~7月27日の間手帳に記された「筑波日記」や数々の手紙で、彼の出撃前の心情を知る事は出来ます。
西筑波での日常が繊細かつユル~く綴られた(軍隊生活の不愉快な部分は書かなかったそうですが)日記を読むと、第5連隊は一種独特の雰囲気だった様ですね。
「夜、本部のうらの車庫で映画があった。まず、パラマウントのマークが写し出されたのでびっくりした。ポパイであった。I AM WHAT I YAMと云うのであった。その次が暖流であった(「筑波日記」」昭和20年7月18日より)」とあるように、敵国のハリウッド映画やアニメ作品「くもとちゅうりっぷ」まで娯楽の時間に上映されていました。

この部隊に関する記録はとても少ないので、「筑波日記」から読み取れることは沢山あります。
しかし彼の作品に注目するのは詩壇や文学界だけで、ミリタリー界の反応はイマイチというか何というか。

ヒルメシヲドッサリ喰ッタ。
喰ッテ、ブラブラ帰ッテクルト、イママデ何ヲシトッタ、スグ用意ヲセイ、グライダァニ乗ルンジャ。
生レテ、ハジメテノ、ボクノ空中飛行ガ始マル。
ゴチャゴチャト、緑色ノベルトノツイテイル落下傘ヲ着ケタ。
勇マシイ気ニナッタ。
同乗者十三人アマリ。
ヨイ数デハナイ。
赤イ旗ガフラレタ。
ガツント、ショックガアッタ
スルト、枯草ガ、モノスゴイ速サデ流レハジメタ。
ウレシクナッテ、ゲラゲラ笑ッタ
枯草ガ沈ンデ行ッタ
コノ、カワイラシイ、ウツクシイ日本ノ風土ノ空ヲアメリカノ飛行機ハ飛ンデハナラヌ

竹内浩三 「筑波日記」昭和19年3月1日より抜粋

平和だった日々を懐かしみつつ、「滑空歩兵」という特異な精鋭部隊に身を置いている、そのような自分の境遇を諦観していた詩人。
この記事では、ありがちな「反戦詩人」ではなく「グライダー空挺隊員」としての竹内浩三を取り上げましょう。



昭和19年11月、創設期から陸軍落下傘部隊を育て上げた挺進練習部は解散。
同月21日、第1挺進團、第2挺進團、挺進飛行団、滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊、挺進戦車隊は、全ての陸軍空挺部隊を統括する「第1挺進集団」の傘下に入ります。

軍部が夢見た2個空挺師団への発展計画も、戦況が悪化した昭和19年には頓挫していました。
日本陸軍が保有できる空挺戦力は、準師団規模の「集団」が精一杯だったのです。

建前上は集団化された陸軍空挺部隊ですが、実際は各個バラバラに戦地へと投入されていきました。
既に挺進第3聯隊および第4聯隊を中心とする第2挺進團は「高千穂空挺隊」としてフィリピン防衛へ派遣されており、挺進第1聯隊および第2聯隊を中心とする第1挺進團は宮崎県で戦力を温存中。
残る部隊で第1挺進集団の中核となったのが、滑空歩兵連隊だったのです。

しかし、日本初のグライダー空挺部隊はその特殊能力を発揮することなく消耗していきました。

第2挺進団を追って、第1挺進集団の各部隊もフィリピンへ出撃します。
昭和19年11月27日、同集団に属する第1挺進機関砲隊、滑空歩兵第1聯隊、第2聯隊、滑空飛行第1戦隊が西筑波で、
第1挺進工兵隊、第1挺進通信隊、第1挺進飛行團司令部、第1挺進飛行團通信隊が川南で動員編成を開始。
これらの司令部として第1挺進集団は設置され、集団長には塚田理喜智少将が着任しました。

全部隊の動員が完結したのは12月5日のこと。
翌6日、挺進集団司令部に「高千穂空挺隊がレイテのブラウエン米軍飛行場群へ降下した」とのニュースが飛び込んできました。
7日にはオルモックへの米軍上陸が伝えられ、高千穂空挺隊の第二派降下チームはそちらへ差し向けられます。第2挺進団の奮戦を聞いた塚田中将も比島作戦への参加を急ぎました。
しかし、制空権を奪われたフィリピンで、鈍足のグライダーによる空挺作戦など最早不可能。輸送機やグライダー自体も足りなかったので、重武装の挺進戦車隊は内地への残留が決定します。
苦労して育て上げたグライダー部隊は翼を奪われ、軽歩兵として地上で戦う事となったのでした。

【空母雲龍の海没】

既にフィリピンで戦っている高千穂空挺隊の後を追って、第1挺進集団は門司港と宇治港へ集結しました。

・空路派遣
第1挺進飛行團司令部

・空母雲龍乗艦
第1挺進集団司令部の一部(輸送指揮官・面高俊秀少佐)
滑空歩兵第1聯隊の主力(多田仁三少佐指揮)
第1挺進通信隊有線中隊(村川中尉指揮)
滑空飛行第1戦隊の先発チーム
第1挺進工兵隊第1中隊(高屋圭三郎大尉指揮)
第1挺進機関砲隊の一部

・輸送艦青葉丸および日向丸乗艦
滑空歩兵第1聯隊第2中隊および作業中隊
滑空歩兵第2聯隊(高屋三郎少佐指揮)
第1挺進機関砲隊の主力(田村和雄大尉指揮)
第1挺進通信隊無線中隊(坂上久義大尉指揮)
第1挺進工兵隊の主力(福本隆一少佐指揮)


彼等が目指すはフィリピンのルソン島。
防御の手薄なこの島の守備に、空挺部隊が投入されたのです。

12月17日、第1挺進集団の主力を載せた空母「雲龍」は、ルソン島へ向けて宇治を出港。残る各隊は輸送船日向丸、青葉丸に乗込みました。
台湾沖を航行中の19日夕刻、米潜水艦レッドフィッシュから放たれた魚雷が雲龍に命中します。
「巨大な空母が1発の魚雷で沈む筈がない」
雲龍の乗員は誰もがそう思い、中にはトランプに興じ続ける空挺隊員もいました。
しかし、必死で回避運動を続ける雲龍に2発目の魚雷が命中。これに積載していた特攻兵器が誘爆し始め、ダメージは回復不能となりました。
魚雷の第一撃から僅か20分後、16時57分に雲龍は沈没。乗員は真冬の海へ投げ出されます。
脱出した者も冷たい夜の海を漂う中で次々と命を落としていきました。

沈没時に生き残った滑空飛行戦隊パイロットは、台湾で後発チームと合流。器材一式が海没したことでグライダー作戦を諦め、西筑波へとUターンします。
雲龍に乗っていた挺進集団司令部、挺進機関砲隊、挺進通信隊の生存者数は不明。
滑空歩兵第1聯隊は多田仁三聯隊長以下ほぼ全滅し、生存者は坂井大尉ら僅か3名のみ。挺進工兵隊でも福本大尉が生き残りました。
救助された彼等はフィリピンへ向かいますが、その後の消息は杳として知れません。
滑空歩兵第1聯隊の残存兵力は、他の船に乗っていた舘中隊と作業中隊だけとなりました。

日本陸軍が誇る精鋭グライダー部隊は、戦場を目の前にして海へと沈んだのです。

滑空
●空母と共に海没する滑空歩兵第1連隊。川南空挺慰霊祭にて

「空母雲龍沈没」の報を聞いて、塚田集団長は言葉を失いました。
彼が頼るべき兵力は、滑空歩兵第2聯隊を中心とする部隊だけとなってしまったのです。
12月29日、滑空歩兵第2聯隊、滑空歩兵第1聯隊の残余(舘および作業中隊)、第1挺進工兵隊、第1挺進機関砲隊、第1挺進通信隊の400名がルソン島に上陸。
これらの空挺部隊群は北サンフェルナンドから列車でクラーク地区の占拠防衛に向かいました。
しかし、挺進工兵隊と滑歩一は米軍の空襲で揚陸資材を喪失。リンガエンに取り残された為、その後はバギオ方面で別行動をとる事となります。
舘大尉率いる滑空歩兵第1連隊の残存中隊は、米軍リンガエン上陸を迎え撃つ陸軍第23師團の傘下に入りました。

当時、私は滑空歩兵第2聯隊(聯隊長高屋三郎少佐)第2中隊(中隊長黒江祺一郎大尉)の機関銃小隊長を拝命しておりました。聯隊はレイテ島に降下した高千穂部隊増強の目的をもって、昭和19年12月29日、比島サンフェルナンドに上陸。開けて1月9日にクラークフィルド、ストッチェンバーグ旧米軍兵舎に到着しましたが、既にわが航空兵力は壊滅し、空挺作戦の遂行など思いもよらぬ状態でした。
三島与四治「我等クラークに死せず」より

1月6日に新田原を発った塚田集団長も8日にフィリピンへ到着。前年末に先発していた司令部と合流しました。
そこで塚田集団長の指揮下に入ったのが、12に及ぶクラーク飛行場群の防衛にあたる「建武集団」です。
名前は勇ましい建武集団ですが、その実態は数十に及ぶ陸海軍部隊の雑多な寄せ集め。しかも大部分は支援部隊であり、機動歩兵第2聯隊高山部隊と一部の海軍部隊以外の戦闘能力は期待できません。航空支援を頼もうにも、クラーク飛行場の戦闘機はとっくの昔に姿を消していました。
塚田集団長はクラークに集結した空挺部隊を建武集団の中核へ組み入れ、米軍への迎撃態勢を整えます。
但し、現地に複郭陣地は構築してあったものの、備蓄の食糧弾薬は二、三ヶ月分のみ。
建武集団は、乏しい戦力と僅かな物資だけで強大な米軍と対峙する事となりました。

1月8日飛来された挺進集団長塚田理喜智中将は、現地の高山支隊(機動歩兵第2聯隊)、江口支隊(飛行場大隊の集成)、高屋支隊(滑空歩兵第2聯隊を主体とする挺進集団の諸隊)及び海軍部隊を併せた約3万の兵力によって「建武集団」を編成、クラーク地区の防衛に任ずることになり、わが聯隊はその中核として松山地区の防衛に当ることになりました(同上)

【クラークの攻防】

1月9日、アメリカ軍は旭兵団が守るリンガエン湾に上陸。
レイテ島に続き、ルソン島の攻防戦が開始されます。
その頃、マニラの防衛にあたっていた高千穂空挺隊残存兵力も第4航空軍司令部の警護を命じられてルソン島を北上していました(エチアゲ到着直後、冨永恭次航空司令官は台湾へ逃亡)。

リンガエン方向から南下した敵は1月26日より空陸呼応して猛烈な砲爆撃を繰り返し、又多数の戦車を伴って、突如第二線のわが陣地に迫り、29日遂に松山主陣地に殺到して参りました。前方に位置していた第一線部隊が連絡することなく後退してしまったからです。
私は28日夜、急遽聯隊の最前線の配置についた黒江中隊の防御陣地から更に突出した「二の台」の防御に当りました。ここは永さ120―130米の帯状の岩山で、頂上には約30米ほどの平坦地があり、遮蔽物とてなく、止むなく前面に岩を積み上げ、兵を伏せ、その上を携帯天幕で蔽い、土砂をかけて偽装しました。
わが聯隊は上陸時敵の空襲により乗船が海没、為に多くの兵器、弾薬、糧秣、車両等を失いましたが、幸いにも携行兵器は無瑕であり、私と共に伏せた兵は陣地の関係上人員こそ17名ながら選りすぐった精鋭であり、重機2、軽機2、小銃、手榴弾等武器も充分にあり、気力またみちみちていました
(〃)

米軍第14軍団がクラークへ侵攻したのは1月26日のこと。緒戦において建武集団の重火器や戦車は忽ち粉砕されます。
踏みとどまって孤軍奮闘した滑空歩兵第2聯隊ですが、僅かな兵力で米軍の大部隊に抵抗するのは不可能でした。

ヤレヤレと息つく暇もなく敵の大群来挙、激戦日夜を通した状況で、編成直后で自分は将校の名前を覚えること、中隊幹部は兵の名前を覚えることに精力の大半を使い、甚だ不本意悪条件の下に戦斗に臨んだ。
部隊はクラーク地区に配されたが、該地区は陸海の混合部隊で名こそ建武集団と勇ましいが、実質は烏合の衆に近く、且つ兵器も竹槍を用いる状況で、残念乍ら戦えば必ず敗れると云う具合。
滑空歩兵第2聯隊はこのような泥池に咲いた蓮の花のような存在で、常に第一線重点方面に使用され、死守よく陣地を確保していると、何時の間にか左右の友軍行方不明となり、左右は勿論甚だしい時は後方迄敵の侵入する所となり、全くの袋叩きといった状況であった。
部隊は久しく内地で待機を命ぜられ、徒に挺進部隊の花々しい話のみ聞かされて切歯扼腕していたときであったので、石のような困難極まりない戦況下でも克く命令に服し、自ら進んで死地に飛び込んで行った。
部隊は空腹飢餓で死んだ人よりも戦死、戦傷死者が大半を占めたのを見ても、奮戦の様子がわかる。
全然無傷の者は800名中せいぜい5人以下と記憶している。

滑空歩兵第2連隊長 高屋三郎中佐の証言より

30日、大損害を蒙った建武集団は平野部の防衛線を捨てます。
敵の攻勢下では、弾薬食糧の大部分を残したまま後方陣地へ撤退せざるを得ませんでした。挺進通信隊の努力にも拘らず、やがて方面軍司令部山下大将との連絡も途絶。
食糧も尽き果て、飢餓に苦しみながらの抵抗が続けられます。

29日の敵の総攻撃は凄まじく、観測機の誘導による砲撃は頭を上げられぬ程の猛烈さでした。敵は砲撃に付随して前進し、わが陣地前方の斜面を凡そ200名あまり、近くは5、6米先を中隊前面に接近して来ました。
満を持していた小隊は、敵の先頭をやり過ごし充分に引きつけておいて一斉射撃を開始しました。側面からの猛射を浴びて不意をつかれた敵は、多数の遺棄死体を残し散を乱して敗走いたしました。
午後になると敵は再び体勢を立て直し、今度は二の台を目標に再三再四攻撃をかけてきました。4時頃には重機、軽機悉く被弾破壊され、重火器の掩護をうけて接近する敵兵との間に壮烈な手榴弾戦が展開されました。
数度にわたる敵の強襲を撃退出来たのは、高地から手榴弾を投擲出来るという地の利と兵の勇敢さでした。
漸く陽が落ちて、敵は退きました。
この日の戦闘による犠牲は大きく、部下の生存者は僅かに3名を数えるのみでした。
夜を徹して戦死者を収容、陣地を補強して、前日と同じく17名の部下を率い、重機その他兵器も前日と同様に補充し、再び陣地につきました。
翌30日、日の出と共に隣中隊が布陣していた前方高地から12.7ミリ機銃、側面から迫撃砲、そして後方からは多数の戦車からの猛射を浴びましたが、敵は前日の失敗にこりたのか慎重そのもので、文字通りの射撃戦になったのです。
午後になると、敵は大型戦車2両を伴う歩兵を以て攻撃してきました。
地形に制約されてあまり自由に行動出来ぬ戦車の間隙に乗じ、付随する歩兵を掃射し、追落せば戦車が退き、新手を伴った敵が優勢になればこちらが落されそうになり、必死の一進一退が繰り返されました。
何とか持ち耐えることが出来たのは、弾雨をついて中隊から二度も増援を得たからです。

「我等クラークに死せず」より

クラーク防衛戦
クラーク西方を防衛する滑空歩兵第2聯隊。 川南空挺慰霊祭にて

【挺進工兵隊の奮戦】

一方、1月13日にバギオへ到着した第1挺進工兵隊は、南方総軍工兵隊の指揮下に入ります。
出発時は418名いた挺進工兵隊員ですが、12月19日には空母雲龍の撃沈で145名が戦死(生存者2名のみ)。
残存部隊はルソン島へ上陸しますが、12月30日には停泊中の青葉丸が空襲を受けて爆薬や車両など多くの物資もろとも沈没。辛うじて揚陸できた車両も、器材中隊と共にクラーク方面へ行ってしまいました。
戦闘前から多くのものを失った工兵隊は、その状態のままバギオ防衛に投入されます。
先ず命じられたのは、アリタオとを結ぶ補給道路建設。そして1月29日までは抗日武装勢力「ユサッフェ・ゲリラ」の掃討作戦へ回されます。

道路建設に移ってからも抗日ゲリラの襲撃は続き、2月12日には米軍機の空襲で橋梁建設作業中の渡辺中尉以下24名が戦死。
渡辺小隊を失った挺進工兵隊は一時撤収へ追い込まれます。
以降は飢えに苦しみつつ作業に当たっていましたが、3月になると補給は完全に断たれ、戦闘も激化していきました。

3月10日、挺進工兵隊は米軍接近に備えてバギオ北方ウグ山に陣地構築。
3月18日、ウグ山陣地の挺進工兵隊にバギオへの帰還命令。
3月20日、バギオからツゲガラオ飛行場へ退避する村田大使、日本大使館員、ホセ・ラウレル大統領、アキノ氏らの防衛の為、挺進工兵隊は北サンフェルナンドへ展開。米軍との激戦で第2中隊長以下多数を失います。
3月25日、フィリピン要人の台湾脱出まで米軍の足止めに成功した挺進工兵隊は、バギオに撤退しました。

3月26日、挺進工兵隊と滑歩一はバギオ北方のベンゲット州アトック郡一帯に展開するアメリカ・フィリピン混成軍の討伐作戦を命じられました。
28日、旭兵団と共に行動していた滑空歩兵第1連隊の残余は、第1挺進工兵隊と再び合流します。
その中には竹内浩三兵長の姿もありました。
雲龍撃沈の難からは逃れたものの、上陸したフィリピンでは絶望的な戦いが彼を待っていたのです。

30日20時に出発した空挺部隊は24時にポントック道34km地點へ到着。アトック攻撃隊長吉岡少佐の指揮下に入りました。日中は敵偵察機から身を隠しつつ、31日夕刻に薄暮攻撃準備を完了します。

アトック攻撃隊編成
攻撃隊長 吉岡砲兵大佐
附 宇土少佐
第1挺進工兵隊長 中井少佐
副官 安田大尉
附 西垣大尉
附 長谷川少尉
軍医 丸山大尉
第2中隊長代理 片野大尉
第1小隊長 鎌田中尉
第2小隊長 高橋中尉
第3小隊長 伊藤中尉
滑空歩兵第1連隊作業隊長 戸沢大尉
滑空歩兵第1連隊歩兵砲小隊長 鈴木中尉

4月1日、薄暮攻撃再開。吉岡部隊長は前日に引続き主力を以て敵主陣地正面を攻撃、一部(中西中尉の1ヶ中隊)を以て敵左側背を攻撃、工兵隊は全力をあげて敵右側背の攻撃を開始した。
企図を秘して前進、約1時間後に敵右陣地附近に進出、俄然迫撃砲を伴う重大量の集中に遭ったが、敵の不意の攻撃に奮然となった工兵隊の精鋭は前進又前進、遂に敵の第1隊陣地突破に成功した。
曳光弾がヒュンヒュン唸る中を兵は鉄帽を目深に被って、ワッショイ、ワッショイ掛声勇しく意気天を衝いて突進した。
4月1日夜半に至るも更に攻撃奏功せず、各隊指揮官より果敢な突撃により一挙に敵を蹴散らす以外に方法なしとの声が各所に起こった。
2日0200遂に突撃敢行、各隊は敵弾雨飛の中を揉みに揉んで遂に敵の本拠たるアトック完全占領、時に0300であった。敵は戦死者を若干残して西方山中に退却、他のゲリラと合流したらしい。
吉岡部隊及び工兵隊は全部隊に休養を採り、更に敵のゲリラ部隊の本拠1文字山を攻撃すべく捜索及戦斗準備を行い、又数組の斬込隊を放ち、敵司令部及砲兵陣地を攻撃した。この戦斗で武田兵長以下5名戦死を遂げた


アトック戦を終えた空挺部隊に対し、第14方面軍はイリサン方面での米軍進攻阻止を命じました。
4月14日深夜1時、イリサンへ移動した挺進工兵隊と滑空歩兵第1連隊は防衛陣地を構築。米軍の攻撃に備えます。
同日、米軍はイリサンへの攻撃を開始しました。大砲と迫撃砲の猛射に続き、米軍戦車隊が侵攻。23師團を中核とする日本軍も激しく応戦しました。
19日に防衛ラインは突破され、戦線は崩壊。大混戦の中、互いを味方と勘違いした米軍と滑空歩兵が並んで布陣する珍事も起きています。
大損害を被った空挺部隊に対し、前線から3kmの後退命令が出たのは20時のことでした。
19師團の増援中隊と合流した空挺部隊は、24時に後方陣地へと退きます。その後は米軍への奇襲攻撃を繰返しますが、24日にバギオは陥落。
25日に撤退を命じられた時、空挺部隊は敵中深く取り残されていました。ナギリアン道からバギオへと雪崩れ込む米軍を迂回しつつ、生存者20名は何とかトリンダッド村まで辿りつきます。
4月30日、ボンドック道24km地点に陣地を構築した空挺部隊は、敵の進撃阻止にあたりました。
以降は補給も途絶え、飢えと病に苦しみながらの斬り込み作戦が続きます。

滑空歩兵第1聯隊858名中、雲龍撃沈を含めた戦死者は実に727名。
宮沢賢治の本に忍ばせた筑波日記と、「僕が死んだら豆腐のような白い小さなお墓を立てて下さい」という言葉を姉に残した竹内浩三も、昭和20年4月9日、バギオ北方1052高地附近の戦闘で散ります。
23歳でした。


戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女の身だしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し

なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

竹内浩三「骨のうたう」より

4月14日、バギオへの侵攻を開始した米軍に対し、挺進工兵隊はイリサンに防衛線を張りました。イリサン到着後休む間もなく久米川参謀より米軍戦車隊の阻止を命じられ、紙一重の差で戦車進路上の橋梁爆破に成功。

挺進工兵隊
4月14日のイリサン攻防戦にて、米軍戦車隊の進撃を阻止する挺進工兵隊と滑空歩兵第1連隊の混成部隊。
川南空挺慰霊祭にて

(4月14日)0600過ぎ部隊の第1線陣地附近に帰ると、軍参謀久米大佐以下が工兵隊の若い将校を掴えてあれこれ言っている。
何事ならんと傍に寄ると「オー!丁度好い所に来た。見ろ、あすこを!!戦車だ、戦車が出て来たんだ。約4粁、あいつを押えにゃならん。この下の橋を爆破して呉れ。俺も一緒に行くからすぐ準備をして呉れ」
吾々は昨夜一睡もせず空腹を抱えて走り廻り、漸く待望の朝食にありつけたと喜んだのも束の間、又又重大任務である。
橋梁に最も近い作業隊長、戸沢大尉に橋梁爆破の伝令を飛ばし、吾々も携帯口糧を口に放り込んで橋梁に向かって突進した。
戦車はすぐ近くに来ている。これを阻止せねばならぬ。これをバギオに通したら、我等も戦わずして敵中に孤立することになる。
危機一髪だ。
漸く橋梁に到着、戸沢大尉は極めて段取りよく既に破壊準備を実施中であった。賢明なる戸沢大尉は、我々が命令受領中、敵情を偵察し破壊命令が下ることを予期して待っていたのだろう。
橋の長さは約20米、高さは約12、3米。両岸は断崖で灌木が岩の間に茂っている。この破壊に成功すれば、約1週間は敵戦車の前進を阻止することが出来るだろう。
此の間にも、敵戦車砲の発射音は近付いて来る。
12、3分位経った頃、所沢大尉の準備完了報告がある。中井少佐はにっこり笑って「ヨシ!!点火」の命令。轟然たる音響と共に橋の1部が吹き飛び、鉄片が周囲の断崖に突き刺さった。
物の見事に工兵隊はイリサン戦場最初の重任を果したのだ。
「ヨーシ!!良くやった。貴公等の健闘は軍司令官閣下によくお伝えするぞ」
久米大佐は感謝しながら吾々の手を固く握った。
斯くて、挺進工兵隊が全滅を賭して敢闘したイリサンの戦場の幕は切って落とされた


4月17日まで米軍戦車隊との攻防を続けた挺進工兵隊ですが、18日には指揮官である中井隊長が戦死。

副官、安田大尉は中井少佐に対して「此の戦斗は私が引受ける。貴方の身体には部隊の全責任が懸っているから、私が死んでからでなくては決して出て来て貰い度くない」旨言い残して、花輪准尉と共に片野大尉の指揮所に前進する時に、10:00敵の猛攻は更に加わり、陣地の確保困難の状態となる。
10:30中井少佐は米田少尉を伴い突如第一中隊指揮所に現われた。
中井少佐以下各級幹部将兵一体の奮戦は、目前の敵を撃退すべく死斗数回、少佐の指揮適切且将兵の奮戦目覚ましく、流石の頑敵も撃退するやに見えた瞬時、中迫撃砲の1弾は中井少佐、米田少尉の中間に炸裂、両名は全弾を受けて壮烈な戦死を遂げる。惜しい哉、中井少佐、若冠26才陸士第54期。比島上陸以来常に率先難に会して臆せず事を処するに果断、真に純性な青年将校であった。
この頃、右翼隊山本大隊は敵の攻撃餘りに激しき為、我が隊に何等の連絡なしに戦場を離脱する。
そのため我右翼に敵溢出して益々戦斗不利に陥った


4月20日、第1挺進工兵隊の指揮を継いだ安田大尉の手記にはこうあります。

4月20日、早朝から敵の攻撃熾烈、稜線の反対斜面一帯に敵の攻撃陣地が構築され、敵の人相迄明らかに識別できるように接近した。
隊員一同、「今日限りの命」としみじみ感じ、全員玉砕を覚悟せざるを得なくなった。
だがどうせ永くない命と思うと、案外坦々たる心境に入って戦斗することが出来た。
此の日全員自決用の1発を残して、今日迄節約に節約を重ねて来た弾薬を殆んど撃ち尽くしてしまい、余すものは肉弾のみとなった。
本部の下士官以下を中隊に補充し戦力の低下を防いだが、敵の無限の鋼鉄の力の前には陣地はじりじりと押し潰されてゆく。
この日、葛井原曹長、梅村、須田、小林、桜井、河本軍曹をはじめ多くの勇士を失った。
しかし挺進工兵隊はまだイリサンの一角を占領して、大敵をしてバギオへの突進を釘付けにしているのだ


兵力増援要請は受け入れられず、孤軍奮闘のまま戦死者は続出。
戦闘終了後、安田隊の人数は20数名となっていました。
イリサン防衛戦に於いて、挺進工兵隊は中井少佐以下戦死47名、行方不明35名の犠牲を出します。

挺進通信隊
演習中の挺進通信隊(有線中隊および無線中隊で構成)。雲龍撃沈で半数を失い、残存部隊もクラーク防衛に参加、ほぼ全滅します。
川南空挺慰霊祭にて

挺進工兵隊が戦っている頃、クラークの滑空歩兵は建武集団退却のため抵抗を続けていました。

重傷者は逐次後退せよとの命令があり、藤本大尉と私は兵2名と互に力を合わせて遙か後方の応急野戦病院まで後退いたしました。しかしながら、その後の戦況は日増しに悪化し、常に第一線にあった聯隊は戦闘に次ぐ戦闘で著しく兵員の損傷を受け悪戦苦闘中との報に接し、「聯隊長と一緒に死のう」との藤本大尉の一言で、2月中旬、下士官兵5名と共に第一線に復帰いたしました。
1ケ月、小戦闘を繰り返し、その間聯隊は再編成され、私は2ケ小隊からなる三嶋隊の隊長を命ぜられました。
3月20日頃、敵はのちに上田山と名付けられた無名高地を占領、そこに観測所を設け昼夜をわかたず猛砲撃を加えてきたため、集団の転進が不可能に近い状態となり、わが聯隊に上田山奪還の命が下りました。
高屋聯隊長は直ちに攻撃命令を下し、三嶋隊は上田山西方400米ほど離れた台地上から、厳しい転進の間にも辛うじて保持していた重機2銃を以て、薄暮寸前、奇襲射撃を敢行いたしました。
上田山の斜面に立ち観測中であった敵は将棋倒しに倒れ、大混乱に陥ち入りました。その隙に乗じ前夜より隠密裡に敵陣に接近していた上田隊は、三嶋隊に呼応して突入、奪還に成功し、数日間これを確保して集団の転進を可能ならしめました。
この戦闘に於て、60余名の上田隊は隊長以下殆んど戦死を遂げました。のちにこの無名高地を誰云うとなく上田山と呼ぶようになりました。
集団及び聯隊の大きな戦闘はこれを以て終り、再び転進が始まりました。


4月になると、武器食糧の尽きた建武集団では餓死者が続出。1月には3万の兵力だった建武集団は、戦闘と飢えと病によって1500名程度にまで減ってしまいます。
4月20日、塚田中将は遂に集団を解散し、以降は各自で自活行動に入るよう通達しました。
4月24日、日本軍の抵抗を排除した米軍はバギオ市への突入を開始します。

この日、戦区本部は十四戦区を解散し、以後各科毎に行動する事を命じた。主計科は米その他の食糧を分けた。武器弾薬もすべて分配した。
医務科も二〇一航空隊本来の隊員と、後から入ってきた一式陸攻隊の隊員と分離、別行動をとることになって、衛生資材、武器弾薬、天幕まで細かく切り裂いて個人用にと配布した。ただ当時の期日が、四月二十日クラーク防衛隊を解き、各戦区指揮官に委ねられた日であったかどうかは知らない。
(中略)
今はもう組織としての軍隊ではない。命令もなくなり、通報、伝達など無縁となった。ただ自分のグループについて行くだけである。
暦の上の日付など忘れている。今何月何日なのか、そんな事はどうでもよかった。夜になって丸い月を見ると、故郷の十五夜を思い出して語り明かすのである。この頃まではどのグループも糧食を持ち、体力も幾らかあった。目的とてなくも、西海岸へ出るのだと張り切った姿も見られた。
どのグループを見ても部隊を解散された兵士達であり、特に海軍グループが多く目につく。毎日多くのグループが続くためか、ネグリート族の襲撃にも遭わない。
見つけた焼畑の芋を掘り、食べながら、他のグループがすることに従うことが大部分であった。
こうしたグループの中に、何時からか完全武装に近い一個中隊ほどの陸軍兵がいた。食糧よりも武器を多く持っている。重たい機銃を担ぎ、迫撃砲を持っていた。指揮官らしい将校が「これから米軍にひと泡ふかせてやるんだ」と、意気まいていた。
間もなく他のグループを置いて先に進んでいったが、米軍の襲撃に遭って応戦の末、全滅に近い被害を受けた、と何人かの兵士が生き残って帰って来た

二木滉著「クラーク戦線」より

挺進工兵隊
イリサン付近における第1挺進工兵隊の手榴弾戦。 川南空挺慰霊祭より

5月4日、挺進工兵隊は獨立混成第58旅団工兵隊の指揮下に入り、ボンドックへ向けて侵攻する米軍を迎撃。
此の頃から食糧事情は更に悪化し、5月末には殆んど飢餓状態に陥ります。
6月は敵への夜襲を続けながらボンドッグ道をジリジリと後退。この撤退戦で加藤准尉ら27名が戦死します。
7月20日、第1挺進工兵隊残存兵力はバギオ北方アキサンムの山岳陣地に展開しました。高橋中尉以下17名を失いながら、ここを最後の拠点として敵への斬り込み攻撃を繰り返します。

【第1挺進集団の最後】

これ以後、フィリピン各地に展開した第1挺進集団は、現地軍と合流、または独立部隊として闘い続けました。
8月15日以降もジャングルに立て籠もっていた彼等ですが、8月29日、米軍が散布した伝単で日本の敗戦を知ります。
そこで塚田団長は、軍使の出田海軍大尉をアメリカ軍へ派遣しました。

軍使は米軍基地に向かって進んでいきました。私は市田少尉と安田上整を伴って長い森の中を歩いていきますと、途中、敵の歩哨線近くで数名の米兵に機銃と銃剣を突きつけられて包囲されてしまいました。
私は早く何とか言わなければならないと思うのですが、胸は早鐘のように鼓動がうち、それに戦争ボケで英語が思うように出てきません。
「軍使、最高指揮官からの軍使だ」
私は必死になって叫ぶと、続けて言いました。
「鉛筆をくれ」
うまく話せない英語を筆談で知らせたいと思ったからでした。それからは口から出まかせの英語と筆談とで、やっと我々を理解したのでしょうか、コチコチの米軍中尉がやってきて、拳銃を突きつけながら我々を救急車に乗せました。
途中米軍の戦車がひっくりかえっている急造の道を走っていますと、突然私達を載せた車はエンジンが火を噴き出しました。
急停車、あわや火災かと思っていますと、コチコチ中尉は急いで出口の扉を開けてくれました。恐ろしい顔をしていますが、なかなかしっかりしていて親切なところもあります。
更に森の中を走って広場に出ました。そこには見憶えのある黄山がありました。そうすると今車から降りた所が五の谷でしょうか。
何という変わりようでしょうか。
今ではすっかり整地がされて、ここには幾つもの天幕が建てられ、金網の囲いができていました。

七六三海軍航空隊 出田大尉の証言より

9月4日、方面軍司令部の命令により建武集団の投降が決定。
以降、米軍と軍使の間で投降手続きが進められます。
辛うじて組織を維持していた十六戦區など一部の海軍部隊を除き、そう簡単に投降はできません。バラバラに分散していた兵士の集結と武装解除、傷病兵の搬送も必要でした。
日本軍の要請した投降条件は意外にも受け入れられ、山中に残る日本兵に対して米軍機による食糧投下が開始されます。

敵の戦車道路が海岸に通じたため、退路を絶たれた集団は遂に4月5日、組織的戦闘体勢を解き、文字通り不毛の地で部隊ごとに自活態勢を確立し、抗戦を続行することになりました。
700有余の精強を誇った高屋支隊も相次ぐ激戦でもはや40数名を数えるのみでした。
8月末、私達は飛行機よりの伝単によって日本の無条件降伏を知りました。
集団長は直ちに各支隊長を集合させ、軍使を出してその事実を確認し、更に山下軍司令部の命を確認した上で、9月中旬、私達は思い出多き山を降りたのです。

滑空歩兵第2聯隊三嶋与四治氏「我等クラークに死せず」より

IMG_0001_R_20140910200437ba0.jpg
ルソン島の日本兵に投降を呼びかける米軍の伝単

9月10~14日にかけて、建武集団の1500名は米軍に投降。
投降時に生存していた空挺隊員は、建武集団で約100名、バギオの挺進工兵隊では僅か40名だったそうです。挺進通信隊、挺進機関砲隊、滑空歩兵第1連隊の損害は更に酷く、全滅に近い状態でした。
これより先に徳永第2挺進団長率いる高千穂空挺隊残存兵も投降しましたが、その悲惨さは滑空歩兵と同じです。
高千穂空挺隊や滑空歩兵部隊が奮闘したところで、負け戦になってからの空挺作戦が戦局に寄与するのは不可能。
フィリピンの戦いは、陸軍空挺部隊にとって無残な敗北に終わりました。

九月十日頃、指揮官は塚田陸軍中将(挺進集団長)に諮られて、戦没者の慰霊祭を第二深山の塚田中将幕舎近くで行われた。
その日の夕方、私は非常用に蓄えていた約三・五リットルの米を出して、安田上整に炊事をさせていた。
ちょうどそこに塚田中将から連絡を受けた陸軍参謀山田少佐が岡本伍長とやって来た。米飯の炊事を見て驚いたようにのぞき込んで思わず言った。
「一口でよいからその米の飯を食べさしてくれないか。是非お願いしたい」
どこの誰だって、ずいぶん長い間米の粒なんて拝んだことはなかったはずである。この陸軍の参謀にしたって、草を噛み、木の根をかじって生き延びてきたに違いなかった。私はこの人達の気持ちがわかるだけに、その申し入れを快く受け入れた。
「もっと水を入れておかゆにしろ」
私は、安田上整に促した。
「いや、おかゆではなくて、固いものを食べさせてくださらないか」
山口少佐は懇願するように言った。だが、栄養失調者にいきなり固めの飯を食べさせたら、命とりになりかねない。
「いやいけません。固いものをいきなり食べたら、貴方達は死んでしまいますよ」
私は諭すように言って聞かせた。やがて、おかゆと米飯との中間位の軟らかめのものが出来あがり、海軍食器中椀一杯ずつ盛って二人に差し出した。
「岡本伍長、俺等はもう何時死んでも、思い残すことはないな。米の飯を食べられてよかったな」
目を潤ませながら、少佐は何回ともなくつぶやいていた。

「十六戦区本部転戦の記」より 七六三海軍航空隊 鳥井芳春少尉の証言

高千穂空挺隊と滑空歩兵がフィリピンへ向かった後、日本陸軍空挺部隊による捨身の特攻作戦が決行されます。
挺進第1連隊第4中隊による、「義号作戦」の始まりでした。

(第8部へ続く)
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