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空挺給水塔 其の11 唐瀬原にて

Category : 第十一部・戦後の空挺史 |

その昔、営外駈歩で顎を出したであろう、垂門の長い坂道を登りながらふりかへりみれば、同じ距離で隔てた自動車の縦列が、白い砂塵をあげながら続く。
その白塵の両側後方はるかに廣がる唐瀬原の高台狭しと、かつて落下傘部隊、七つの新しい兵営の存在を、誇らかに表徴するかのように天空に聳え立っていたあの懐しい特異な形の七つの給水塔も、十年の流れと共に、たびたびの金ヘンの波にゆり崩されて、年々その姿を消して、今では旧挺進第三連隊兵営、現在の国立川南療養所のたった一つの給水塔となり、孤高清節を保ち、淋しさに堪へ、世俗の外に超然と聳えながらも、有情!無情!たった今断腸の訣別を惜んだ霊堂に溢れる情感に共鳴したのであろうか。
日の丸の大旗と共に永えに英霊諸士を見送るかのやうである。
神武御東征後今日に至るまで厳然として、七つの海を越え來る潮風をうけ、立ちつゞける高千穂の神峯を胸にえがきながら、
給水塔よ、永久に栄あれと祈ったのである。


第1挺進集団第1挺進団長 中村勇 「英霊遷座に侍ろうの記」より 昭和32年

陸軍落下傘部隊
川南町PR用の看板。落下傘部隊のことも記載されています。

(第10部からの続き)

昭和20年夏。
第1挺進集団は飢餓地獄のフィリピンで死闘を続け、第2剣部隊や烈號部隊は特攻作戦の準備を済ませ、挺進第2聯隊は川南で米軍上陸に備えていました。

そして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。
国家の総力を挙げた戦いは、無惨な敗けという結果に終わります。

【敗戦の日】

日本が敗北した日のこと。
川南の挺進團司令部では「重大放送あり」との連絡を受けて挺進神社前に拡声器3台を設置、玉音放送に備えました。
しかし、電波妨害で受信状態が悪かったせいか放送内容は殆んど聴き取れず、中村挺進団長も「ソ連の参戦があっても我に神州不滅の信念さえあれば、そしてこの挺進神社の英霊に続かんとする意志変らざる限り必ず勝つ!」と訓示してその場は解散となります。

8月15日に意気軒昂だったのは軍部だけ。その姿を、宮崎県の幹部は空しく眺めていました。
実は前の晩、県庁には敗戦の決定が伝えられていたのです。
「常会は徴古会館前の広場で、午前十時ごろからはじまった。長友久八警察部刑事課長はこの日の朝、ラジオが予告した「正午の重大放送」が気がかりだった。
常会では樋口(陸軍第156師団長)の勇ましい演説が長々と続く。
「いよいよ、決戦だ。国民義勇隊を招集する。戦力増強に役立つものは全部、回収する」。訓示はいつ果てるともわからない。
たまりかねた谷口(宮崎県知事)は、演説中の樋口に何か耳打ちした。
中将の顔は一瞬青ざめたようだった。
十四日夜、“終戦”のしらせが内務省から県特高課へ暗号電報で入った。これを知っていたのは軍電報員、特高課長、警察部長、知事の四人だった(長友氏の証言より)」

玉音放送の真意を知った各師団では、大混乱が始まります。
徹底抗戦を叫ぶ者、責任を取って自決を図る者、軍需物資を奪って姿を消す者、故郷を目指す者、ただ呆然と立ちすくむ者。
滑空挺進隊の山本春一少佐から停戦受諾との電話連絡を受けた中村挺進団長の元に、「第1挺進団長は速やかに総軍司令部に出頭すべし」との航空総軍指令が届いたのは22時過ぎのこと。

翌朝、中村挺進団長は唐瀬原飛行場を出発。市ヶ谷にて13時より開催された会合で、河辺正三郎大将らと敗戦処理が話し合われました。
その場に於いて、総軍司令官より
一、神州不滅の信念に徹し隠忍持久、百難を克服して國體の護持に邁進すること。
一、粛然として統制のある皇軍の特色を発揮し、堅確なる軍人精神を飽迄堅持して良民たるの基調たらしむること。
一、努めて農に帰し、一致團結永く皇國再興の基盤たらしむること。
の3つが示されます。

総参謀長からの通達は重要書類・物資の焼却と軍需資材の民需転換でした。

一、書類の整理
残地書類は死没者のみとし命令下達上必要最小限とすること。兵器保管原簿は焼却し、軍需資材の民間への転換メモは確實に。
職員長兵器、暗号書類の焼却は確實に。
二、人員の整理
下士官兵の除隊は即時在営人員の一割を目途とし、農業出身者で増産適任者を優先すること。除隊者の給与は金銭従来の通りとし、夏冬被服は一揃、毛布一、糧秣十日分以内、日用品若干、特に不軍紀を戒む。
三、通信連絡
概ね現在通りとし、つとめて有線電話を利用、防諜に努め暗号書は現用最小限を残置し他は確實に焼却すること。
四、資材関係
五、(空欄)
六、諸施設
破壊焼却せず。現在実施中の工事は直ちに中止す。秘匿飛行場はそのまゝ民間に返還す。空地は民間関係へ。


16日には各都道府県へ軍需物資の移管命令が出され、宮崎県庁の佐藤経済部長と都城署の黒田次席は鹿児島県境にある第五七軍司令部へ向かいます。

「終戦の詔勅を聞いてまる一日しかたっていない。軍司令部の参謀たちは、まだ目を真ツ赤に泣きはらし、気もたっていた。
「お前たちはトラの威をかりて物資をもらいにきたのか……」
佐藤は、もう軍をおそれなかった。「戦争は終わった。長い耐乏生活で、県民は物資の不足にあえいでいる。何とかご配慮を……」
ていねいなことば使いに、きびしさをこもらせた。
しばらく気まずい沈黙のときが流れた。それをうち破ったのがテンビン棒で一升ビンと魚をかつぎ込んだ桜井菊池師団長。
「やー、みんなごくろうであった―。まあ一ぱい」
桜井中将のねぎらいの酒。しらけた座に、やがてうつろな笑い声もまじった」

桜井徳太郎少将のお蔭で、宮崎県側への軍需物資移管は承認されます。
酒を持ち込んだのは仲裁のための演技であって、当の桜井師団長も戦後処理に頭を悩ませていました。彼が指揮する第212師団でも復員兵による物資の略奪や横流しは頻発しており、一部の指揮官は自決を図って制止されるなど大混乱に陥っています。

この時点での陸軍空挺部隊は下記のような状況にありました。
挺進第1聯隊は、20年4月から千葉県横芝へ移動(千歳の剣號部隊を除く)。
挺進第2聯隊は、オリンピック作戦に備えて挺進司令部と共に川南空挺基地に残留。
挺進第3及び第4聯隊は、多大な犠牲を払いながらフィリピンの各地に展開中。
滑空歩兵第1聯隊の残余は、第23師団及び挺進工兵隊と共にルソン島で戦闘中。
滑空歩兵第2聯隊は、挺進通信隊、挺進機関砲隊と共に戦闘後、ピナツボ山中に籠城中。
第1挺進戦車隊は、オリンピック作戦に備えて宮崎県都城市近郊へ展開中(福生の烈號部隊を除く)。
第1挺進機関砲隊は、クラーク防衛の末全滅。
第1挺進工兵隊残余は、滑空歩兵第1聯隊戸田中隊と共に第58旅団指揮下に入り、米軍と戦闘中。
第1挺進通信隊は、クラーク方面での通信任務にあたる中で壊滅。
挺進飛行第1及び第2戦隊は、レイテ作戦で受けた損害を北朝鮮で回復中。
滑空飛行第1戦隊は、挺進戦車隊の一部と共に福生で沖縄特攻準備中。

IMG_0004_R.jpg
戦闘を続ける日本兵へ、終戦を伝える米軍の伝単

フィリピンに展開している徳永第2挺進団長指揮下の高千穂空挺隊と、塚田集団長率いる滑空歩兵部隊についてはどうしようもありません。
中村第1挺進団長は、内地に分散している配下部隊の掌握に急ぎます。

事態は一刻を争いました。
園田大尉のサイパン特攻部隊と田中少佐の沖縄特攻部隊は出撃寸前、挺進第1聯隊2個中隊と第2聯隊は戦力を保持したまま国内で待機中。
まず、中村団長は停戦命令を伝えるために横芝の挺進第1聯隊の元へ駈けつけます。その日は第1聯隊の将校達と敗戦への対応を語り合いました。
剣作戦の指揮により山田第1連隊長は不在だったので、以降の敗戦処理は同連隊の弓削少佐に托されます。

千歳でサイパン特攻の準備を終えていた第2剣部隊は、状況を掴めないまま玉音放送を聞いていました。

司会者
「そうこうしておると突如、終戦の玉音放送があったのですが、それはどこで聞きましたか」
細村
「玉音放送は、私らはその当時ちょうど十四日ですべての準備は終りましたので、十五日は千歳川で魚採りやりました。
小隊全部を引連れて、それで爆薬がたくさん余りましたので、澱みに爆薬を入れてはねらかして、下流に兵隊をずっと並ばして、浮いてくるやつをすくい上げていた。
そのときに将校集合の伝令が来まして、隊解散。
玉音そのものは直接は聞かれなかったのですが、それで終戦でした」
星野
「うちは、中隊長室にみんな集まれということで、ちょどその日は機関短銃の射撃があったんですけれど、十一時頃かなあ、何か射撃をしておる連中全部中隊長室に集まれというんで」
細村
「射撃はしていない。魚採りだ。小隊ごとに別だったのかな」
星野
「何か近いところでね。やめてすぐ中隊長室に集まって放送を聞いたと思います」
細村
「私ら聞かなかったね」
星野
「ところが全然何を言っているのかわからない。で、午後からじゃすぐ体操だというんで、体操の服を着て駈歩で千歳の街へ出たんです。外へ出て聞いたんです。街の人から「負けたんじゃないか」なんて」
司会者
「それで中隊長から何かそのことについて集まって話があったか、あるいは二個中隊全部集めて園田隊長が話をしたか」
細村
「その記憶はありませんね」
星野
「それはなかったみたいですね」
司会者
「それからの行動は?」
細村
「帰ったのが何日だったかな。北海道から皆さん方は帰しまして、私は残りましたよ」
司会者
「私は生前園田さんから「部隊を引連れ一式陸攻に乗って松島まで行った。本当は発進基地の厚木まで行こうとした」という話を聞きましたが、この中で誰か一緒だった者おりますか」
細村
「行った筈ですよ。私が残務整理で千歳に残ったが」
星野
「松島だったですかね。行きましたよ」
細村
「隊本部と中隊指揮班は終戦後松島に行きました。私共残務整理班は一中隊と二中隊合せて二五名だったですか、千歳に残ったのです。それで今度は所属は陸軍復帰になったんですね。
海軍の指揮下から離れたと思います。
帰らなきゃならないのに帰る計画を全然海軍の方で作ってくれないのです。それでさんざん交渉をして、やっと二十四日に千歳から出てきたのです。
残留組の中には北海道出身の者が五、六名おりましたので、その人は現地で除隊解散して、あとは内地の者を引連れて横芝へ帰ってきました」
司会者
「へえ、横芝まで帰ったのですか」
細村
「そのときには、中隊は解散してもうおりませんでしたが、うちの中隊では大屋さんだけが残っておって下さって。
大屋さんにそれを報告してあそこで解散ということになったのです」
星野
「横芝です」
司会者
「鉄道で」
星野
「ええ、そうです。あの頃のことはどうも全然わかんなかったんですが、何か海軍の飛行機を出せとは言ってましたkど。それがどこだったか」
森上
「私は渡辺源一中尉の記録を預かってきたんですけれども。八月二十四日に解散式をやっているんですね。それで解散式に園田隊長の訓示があったということがここに書いてありますけれども」
司会者
「場所はどこで」
森上
「横芝です。八月十八日に横芝に戻ってきたと書いてあります」
渡辺(紙上参加)
「北海道千歳において終戦となるや、園田隊長は泰然自若、意気鎖沈する部下を励まし、また興奮して荒れている部下を鎮撫しつつ、八月十八日に原駐屯地横芝に帰着し、二十四日に特攻隊解散式を行った。
解散式の訓示要旨次の通り

サイパン奪回突撃は決行されることなく戦争は終った。無念遣る方ないが、諸子は今から父母兄弟の待つ故郷に帰れ。
これからの日本の行方はわからぬが、我々は終戦の詔勅を心に体し、お互いに一生懸命に生きてゆこうではないか。
気の緩みから夏かぜなどを引かぬよう健康に留意せよ。
元気で生きておれば、またいつか逢う日があろう。そのときは靖国神社で会うことにしよう。まだ世情混沌としているが、途中道草を食わずに真直に帰れ」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直」より

挺進第1聯隊の元へ出向いた中村挺進団長は、翌日には沖縄特攻に備えていた烈號部隊を慰撫するため福生飛行場へ飛びます。
福生飛行場では徹底抗戦を叫ぶ軍用機が檄文を投下していきましたが、烈號部隊の大部分はそのまま解散。苦労して揃えたグライダー群は、翌週の暴風雨で破壊されてしまいました。
特攻部隊の制止に成功した中村団長は唐瀬原飛行場へ帰還。
戦後処理のため、宮崎県や川南村との交渉手続きに入ります。

こうして、国内に残留していた挺進団司令部と挺進第1及び挺進第2聯隊、挺進戦車隊、サイパン及び沖縄への特攻部隊は行動を停止。各部隊は解体され、施設・装備の廃棄と復員業務が始められました。

いっぽうで悲惨を極めたのは、北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行団です。
現地にいた挺進飛行隊と滑空飛行戦隊は敗戦の報に呆然としたまま、朝鮮半島からの脱出が遅れました。ようやく南下を開始した時には、ソ連軍が間近に迫っていたのです。
また、内地にいた滑空飛行戦隊の塩田少尉が自ら命を絶つという悲劇も起きてしまいます。滑空飛行戦隊の塩田少尉は北朝鮮から立川飛行場へ向かったのですが、悪天候により鳥取の米子飛行場へ一時退避。
挺進団から孤立した状況で敗戦の報せに接したため、独り自決の道を選んでしまったのでした。

「8月9日、ソ聯の卑怯な参戦により北鮮も俄かに騒々しく、悲しむべく8月15日のあの日
当時、空中部隊(※挺進飛行隊)は新義州に、地上部隊は鉄路新義州に向け移動中。聯隊本部若干は連浦に在り。
地上部隊は新義州に到着するも、下車することなく直ちに先づ平壌に引返へし待機、空中部隊の大邱移動と共に平壌出發。
途中沙里院北偶にてソ軍に掴まり、1部は脱出して大邱に於て収容せるも少数の者は直路内地に向いたるものゝ如く。
一方、大邱に在りては輸送任務の為立川に向った1ケ中隊は内地航空兵団の命令を受けてそのまゝ立川に留まり、この間塩田少尉、米子飛行場に於て自刃……」
空挺同志会資料より

各個バラバラに朝鮮半島から撤退中、ソ連軍に捕えられた挺進飛行戦隊員の多くはシベリアへ送られます。
フィリピンへ展開した挺進第3及び第4聯隊、滑空歩兵第2聯隊、挺進工兵隊の残存兵は、戦後しばらくして米軍に投降しました。
敗戦を知らずに戦い続けていた彼等も、8月15日以降に何人かの戦死者を出してしまいます。

空挺部隊の主な犠牲者数は下記の通り

・第1挺進集團司令部
空母雲龍の撃沈及びクラーク付近の防空戦闘にて235名中174名が戦死。

・第2挺進團司令部
高千穂空挺隊指揮の為にレイテへ赴き、140名中戦死31名、行方不明52名。

・挺進第1聯隊
ラシオ降下作戦中止の際に2機が墜落、20数名が殉職・行方不明。
昭和20年5月には義烈空挺隊168名12機が沖縄北・中飛行場へ特攻、第3獨立飛行隊と中野学校出身者を含め8機の112名戦死。機体不調で途中帰還した4機のうち、八代に不時着した機で飛行士1名が殉職。

・挺進第2聯隊
パレンバン降下作戦での戦死・行方不明者39名のみ。

・挺進第3聯隊
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。834名中白井連隊長をはじめ711名戦死。

・挺進第4聯隊
小丸川水難事故で8名殉職。
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。881名中斉田連隊長をはじめ792名戦死。

・第1挺進飛行團司令部
高千穂空挺隊の空輸任務の後に新田原へ帰還、北朝鮮で再編成中に終戦。100名中28名戦死。

・第1挺進飛行團通信隊
台湾にて挺進飛行隊の支援後帰国。更に北朝鮮に移動した時点で敗戦、ソ連軍に遭遇。189名中、49名死亡。

・挺進飛行第1及び第2戦隊
高千穂空挺隊レイテ降下作戦支援に従事。440名中71名戦死。

・滑空歩兵第1聯隊
主力はフィリピンへ向かう途中に空母雲龍撃沈により海没。生存者3名のみ。
残存の中隊は北サンフェルナンド及びバギオ防衛戦に従事。858名中727名戦死。

・滑空歩兵第2聯隊
滑空歩兵第1聯隊と共にフィリピンへ赴き、クラーク防衛戦に従事。862名中735名戦死。

・第1挺進機関砲隊
第1挺進集団としてクラーク防衛に参加、312名中301名戦死。

・滑空飛行第1戦隊
先発隊がフィリピンへ海路移動するも雲龍撃沈の際に全滅。残余は北朝鮮と福生で待機中に終戦。498名中77名戦死。

・第1挺進通信隊
第1挺進集団としてクラーク防衛に参加、416名中411名戦死。

・第1挺進工兵隊
フィリピンへ向かう途中、雲龍撃沈により海没。別動の残余は第1挺進集団としてクラーク及びバギオ防衛に参加、403名中357名戦死。

・第1挺進戦車隊
国内待機で実戦の機会なく戦死者もなし。


誕生から4年半。
こうして、帝国陸軍空挺部隊の闘いは終わります。
空挺隊員1万2千名のうち、約1万名の命が失われました。

降下兵

本土決戦は免れたものの、空襲による宮崎県民の死者は646名、負傷者559名。全焼8105戸、半壊八百二十戸。
県から出征した陸海軍人11万7千人中、復員できたのは8万人。大陸へ移住した民間人の詳細は不明。
宮崎各地の飛行場から飛び立った特攻隊員、県上空での空中戦や対空砲火で戦死した日米両軍のパイロットも多数にのぼります。

8月15日の後、更に多くの兵士が命を失いました。
8月21日、鹿屋航空基地の兵士に復員命令が出されます。空襲で小丸橋が損傷した日豊線は不通となっていたので、鹿屋の海軍兵達は薩肥線を使って故郷を目指しました。
22日、都城駅では第57軍の陸軍兵まで汽車に乗込みます。復員列車は超満員の状態で山間部へと向かいました。
吉松駅から先はスイッチバックを使う程の急勾配が続き、喘ぐように坂道を登っていた列車も、えびの市郊外にある第2山神トンネル内で身動きできなくなってしまいました。
暗闇に充満する煤煙に耐えられず、兵士達は立ち往生した列車を降りてトンネル内を引き返します。そこへ退避しようとした列車が後退し始め、トンネル内の人々をはね飛ばしながら入口まで滑り落ちていきました。
この事故により、海軍軍人42名、陸軍軍人13名、民間人1名が死亡。
家族との再会を夢見て故郷を目指した56名は、暗いトンネルの中で命を落としたのです。

復員の日まで、枕崎台風の復旧作業に従事していた第25師団第40連隊の工兵作業班でも事故が発生します。
えびの大迫の兵舎が土砂崩れに巻き込まれ、16名が生き埋めに。必死の救助作業にもかかわらず、12名が犠牲となりました。

DSC02308_R.jpg
崩落事故現場付近に建立された第40連隊兵士の慰霊碑。

特攻基地であった鹿屋は混乱の極にあり、占領軍から逃げようと1万人もの海軍兵が都城へ押し寄せてきました。
23日から都城地域の軍人を復員させようと計画していた都城駅は、鹿屋からの復員兵でパンク状態になります。
都城駅長から「鹿屋の海軍兵殺到中」の急報を受けた小林の国兵団(陸軍第25師団)司令部は、陸軍の復員計画を3日先延ばしして海軍の復員を優先させつつ、鹿屋市へ参謀を派遣して現地を視察。
敗戦で自暴自棄になった海軍兵の無法行為は目に余るものがあり、国兵団と積兵団(陸軍第86師団)は鹿屋へ鎮圧部隊を投入しました。


都城から引き返した私は、すぐに司令官に報告し、鹿屋は軍の作戦地域内でもあるし、厚木飛行場に次いで八月末には米軍が着陸することになっているので行ってみる必要があると意見具申しました。
即座に私に行って見ろと命ぜられましたので、一期下の参謀を伴なって車を飛ばしました。
その実情は語ることを避けますが、私はとりあへず近くの積兵団に、二ヶ中隊の兵力を地下倉庫の警備に出すように連絡して帰り、改めて軍命令を出して貰いました。
又「歩兵三中隊、工兵一中隊、自動車二十輛を使っても飛行場の応急修理に一週間以上かゝる」と報告しましたところ、「お前に任せる」と司令官は申されるので、その夜小林の師団司令部に参り、直ちに師団命令を出していたゝきまして、各聯隊から最も精鋭の一ヶ中隊を出してもらい、翌朝九時には高原の赤塚三叉路を出発いたしました。
夕刻鹿屋中学校に到着し、宵闇の中で大隊長以下全員に対して「海軍航空とともに二十六年を暮らしてきた鹿屋の市民は潰乱的解散によって軍隊に対する信頼を失っている。
我々は我々自身の行動によって軍隊に対する市民の信頼をとり戻し、消え行く皇軍の最后の姿を国民の眼底に残して行かねばならない」と訓示し、公務以外将校以下の外出を禁じました。
永田鹿屋市長も「私は海軍航空を二十六年間育てゝ来たが、今度は裏切られた。陸軍嫌いだったが、あなたのつれて来た軍隊こそ本当の皇軍だ」と激賞され、その後海軍特別警備隊も大村から送られ、又宇垣中将が終戦翌日沖縄に突っ込んで、多数の部下の後を追われましたので、第五航空艦隊司令長官には草鹿中将が連合艦隊参謀長から転ぜられて、鹿屋まで進出されることになり、参謀達も来て居りましたけれども、先に軍需品の管理を鹿屋市長に譲って解散してしまっていたので、それを使うことができない。それで私が仲介に入ってとりなして、海軍に渡すことに致したような一幕もありました。
八日間、一生懸命に飛行場の整備をやって、愈々明朝は帰ると云う晩、大隊長が参りまして「将校だけでも今夜外出を許してほしい」と申しましたが、私はとう〃許しませんでした。
そして翌日、市長以下市民や、海軍の人達に見送られて堂々と自動車行軍で西海岸を廻って帰って来たことが部隊を指揮しての最后の勤めだったので、未だに記憶に生々しいものがございます。

陸軍第25師団参謀 高橋照次氏「終戦当時における郷土の防衛態勢について」より

8月30日には福岡の捕虜収容所へ物資投下に向ったB29が視界不良により高千穂町の祖母山へ激突、H・ベイカー機長以下12名が即死。
年末には、森源市氏がB29墜落現場から少し離れた小河内山中に不時着している日本軍戦闘機を発見します。
それは8月7日に夜間航法訓練で目達原飛行場を飛び立ったまま行方不明となった飛行第65戦隊の隼であり、操縦席からは徳義仁軍曹の遺体が回収されました。
佐賀県沖に墜落したと思われていた徳軍曹機が高千穂山中で発見された理由は、今となっては誰にもわかりません。

更に昭和44年、三股町の椎八重に墜落した海軍爆撃機の3名、天神山に墜ちた陸軍爆撃機の7名の遺体が現地に残されていた事実が判明。敗戦から24年経って、10名の遺骨はようやく故郷へ帰りました。

終戦によって川南の広大な軍用地も農林省の管轄下へ置かれ、満州からの引揚者、戦災被害者、復員軍人のための入植用地へ転用。
その開拓計画面積は軍馬補充部高鍋支部跡地が768.89ha、塩付パラシュート降下場が990.21ha、唐瀬原空挺基地群で1,249.63haなど、計3008.73haにも及びました。
当面は既存の施設群を流用しながら、入植者の受け入れ事業が始まります。

【進駐軍】

敗戦直後、各自治体の間では進駐軍への懸念が広まっていました。
今にも進駐軍が上陸してくると早合点した萱島陸軍中将(宮崎市長)は、「これは大変なことになる」と市内の婦女子に対して退避勧告の回覧板を出してしまいます。
この回覧板によって、宮崎市内の全女性が郊外へ一斉避難する大騒動へ発展しました。
あとから笑い話になったそうですが、敗戦直後は誰もが疑心暗鬼に陥っていたのです。

回覧板事件から二ヶ月後、10月5日の朝。
佐世保からやって来た進駐軍将校が、宮崎駅へと降り立ちます。
先遣チームはアメリカ海兵隊のマスマン少佐、スミス大尉、マイヤー大尉、バレット中尉ら4名。
宮崎県庁へ移動した彼等は、案内役の吉野知事官房主事に向かって早速訊問を始めました。

マスマン少佐「ピストルはどうしたか」
吉野主事「回収した」
マ少佐「県内に伝染病が発生してはいないか」
吉野「していない」
マ少佐「日本刀はどうしたか」
吉野「なにもしていない」
吉野主事の返事の通訳が終わるか終わらぬうちに、マ少佐は顔を真っ赤にして怒りだした。
「ニッポン・トー」「ニッポン・トー」
日本刀の回収をしていないのは職務怠慢でけしからぬというのだ。
日本刀の回収指令は、県にきていなかった事をマ少佐は三日後に知った。
事情を知った後でマ少佐は吉野にあやまった。
「宮崎縣政外史」より

進駐軍先遣チームは、10月17日に民生部の発足を宣言。
宮崎県知事に対しては、進駐軍との窓口である宮崎・都城・延岡地区連絡委員会の設置、旧軍物資の計画的配布、県下すべての電気式アイロン(制服クリーニング用)と塩素(上水道殺菌用)の調達、進駐軍宿舎の確保が命じられました。
何もかもが不足している敗戦直後のこと、県職員たちはアイロンと消毒剤を求めて走り廻りました。

11月10日、鹿児島へ上陸した第2海兵師団第2連隊3000名が宮崎・都城・延岡の各市に到着し始めます。
CIC(指揮所)は養蚕会館を、MP(憲兵隊)は医師会館を接収。接収を知った医師たちから反発の声が上がりました。
「アメリカ海兵第2連隊本部は陸軍第23聯隊駐屯地跡へ入る」との通知には、都城市側が大慌てになります。備品を撤去した後、職人を急募。空襲で破壊された都城駐屯地兵舎を僅か一週間の突貫工事で再建し、何とか海兵隊の到着には間に合いました。

非常に頭の良い参謀の一人は、米軍から残務処理要員として私とともに指名されていたにも拘らず、彼は逃げてしまいました。結局軍参謀としては一番新米の私だけが十二月一日に全軍復員后も一人残りまして兵器処理に当り、宮崎地区、都城地区、大隅地区、それに財部の兵器廠関係と一人づゝ残つた参謀を指揮し、二月十五日までかゝつて一切を終了致しました。
この様に残務整理のために転任したようなものでしたが、十一月初めには、マスマン軍政長官を引つ張り出して、兵器集積所を廻り乍ら此の車は残せ、此の無線機は警察にやれと、なるべく破壊させないで今后の復興に役立たせようと努力しました。
都城兵営で「明十一月五日午后から米軍が入つて来るから正午迄に兵器以外の一切の物品を持出せ」とマスマンが言い出したもの、此の集積所廻りの途中の出来事でありました。突然の命令にビツクリした県の係官達は四日かゝると尻込みするので、私が引受けまして約束通り、翌日十一時まで終りました時、彼は「日本の将校のすぐれた指揮を初めて見た」とお世辞を云つて居りましたが、その為か後日私ども参謀が揃つて進駐してきた米軍の司令官に敬意を表した時に「高橋とはどれか」と尋ねたことがありました。

そんな工合で、米軍側でもその后は、私の要望もきいてくれるようになりました。

DSC01678_R.jpg
マスマン長官が宿泊した松之枝旅館(現在は老朽化により解体撤去)

終戦后十一月の五日、先に述べました都城兵営明渡しの日ですが、都城の松之枝旅館にマスマン軍政長官と泊まりましたとき、米軍の海兵第二師団の情報参謀をしていたハイ大尉が同宿しました。
彼は大学で商業史を教へていたと云うプロフエツサーで日本語が相当わかりますので、私のブロークンイングリツシユとつき合わすと結構話が出来ます。
二人で青白い月を窓から眺め乍ら四時間も話し合いました。

陸軍第25師団 高橋参謀の証言より


狼藉の限りを尽くすと恐れられた進駐軍兵士でしたが、憲兵隊の徹底取り締まりによって犯罪件数は75件に抑えられます。
アメリカ兵よりタチが悪かったのは、進駐軍の威光を笠に威張り散らす日本人通訳のほうだったとか。
進駐軍への苦情殺到で一旦は解雇されたものの、問題通訳は軍属として再び米軍へ潜りこみ、県職員に対して更なる横暴を極めました。
それでも、敗戦国としては我慢する他なかったのです。

民政部長マスマン少佐の指揮下、進駐軍は海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や川南空挺基地を中心とする陸海軍施設の接収・解体に着手。
日本陸軍の野砲24門、重砲72門と多数の砲弾が清武町・花ヶ島・住吉に集積されました。
軍用機と戦車は国富の六野原飛行場へ集められます。
小銃や銃剣でさえ、リストと照らし合わせながら厳重なチェックが行われました。

県北の武器弾薬類は細島港へ、県南では油津港へ集積。
これら何万トンもの砲弾類は、宮崎県警の監督下で沖合8海里の場所へ運ばれ、海中投棄されます。
日南・日向・延岡に展開していた33突撃隊および35突撃隊の震洋や回天などの特攻艇は爆薬を抜かれた後に遺棄され、直後に襲来した枕崎台風によって海没しました。

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昭和21年の公示より

都城盆地に展開していた挺進戦車隊の車両も、このような形で処分されたのだと思われます。
画像の兵器処理委員会都城出張所があったのは、現在の陸上自衛隊都城駐屯地附近。
霧島山系に配置されていた第六戦車旅団の戦車や武器類は、解体もしくは山腹にある御池の湖底へ沈められます。
「御池の戦車」については、先年の湖底調査では発見できませんでした。長い年月の間に朽ち果てたか、こっそり引揚げられてスクラップにされたのでしょう。

「六野原の戦車は、火薬で爆破された。小銃・砲身・日本刀は切断機を持ち込んでバラバラにくだく。
巡視に行った高橋参謀長は日ごとに積みあげられるスクラップの山をながめ、感慨無量だったという。
敗戦直後のことだった。
残務整理の兵隊たちの軍規を維持するため、師団司令部は臨時憲兵隊を組織しかけたことがある。
兵力はざっと一個大隊。
だが、それも、旧日本軍の解体を急ぐ占領軍は許さなかった」
「宮崎縣政史」より

松根油製造、食糧増産、トーチカや防空壕の建設などと米軍上陸に備えていた宮崎県は、進駐軍の受け入れと戦後復興へ移行。
次々と暴かれる大本営発表の嘘に戸惑いながら、やがて新しい時代に順応していきます。

宮崎県内のアメリカ海兵隊は7カ月後に佐世保へ引揚げますが、進駐軍による占領政策は昭和27年4月の日米講話条約締結まで続きます。

【戦後の唐瀬原飛行場】

戦争が終わったとはいえ、唐瀬原の空挺基地では山の様な戦後処理に忙殺されていました。
戦没者名簿、功績者名簿の整理や家族・遺族との処理連絡は鈴木副官と戸次准尉が担当します。
米軍への物資引渡し業務は上田少佐が指揮しました。
兵器は木下大尉、糧秣被服は竹田主計大尉、車輛・燃料・工場・施設は伊佐見少佐、医薬品は黒沢軍医中佐が担当。
空襲を避けて尾鈴山中から日向灘一帯の百箇所以上に分散秘匿していた武器弾薬・糧秣関係の収拾、集積、品目員数の整理も大変な作業でした。
トラックや荷馬車が何十台も動員され、秘匿物資を集めに川南一帯を走り回ります。その中ではトラブルも頻発しました。

11月にやって来た進駐軍側は、軍事物資の在り処を徹底的に調査しました。
空挺部隊がパラシュートを隠していた高鍋高等女学校も、その捜査対象となります。

「兵隊が使用した教室を掃除したり、山と積まれた残り物は燃やし、軍用トイレを埋めたり消毒したり、本当に沢山の仕事を残して消えてしまった部隊でした。
体育館の落下傘も置きざりです。とても数えられない程、沢山でした。
布類の無い時ですから、裁縫の先生は大よろこびで教材に使用され、ワイシャツ、ベビー服、絞りの風呂敷、クッション、テーブル掛けなど作りはじめられました。役場でも落下傘を引き取って家庭に配給があったようでした。
(中略)
進駐軍が初めて学校に来た時、教師全員廊下に出て最敬礼をしました。前日、学校中を大掃除してピカピカに光る板床を軍靴で上って来るのがなんとも情けなく、自分が踏まれるような気がしました。
高鍋高女は落下傘(武器なんだそうです)を置いていたので戦犯学校とマークされ、調査や事情聴取をされました。
落下傘を教材に使用したのは武器を勝手に持出したとの解釈です。
軍隊が勝手に置いたのだといくら説明しても、その理屈は通らないのです。もう一つ印象を悪くしたのは、体育用具倉庫の中に垣根を作る予定だった有刺鉄線がいっぱい積んであったのです。
「これは何に使用するのか」「なぜ、こんなものを隠しているのか」と厳しいものでした。
校長、教頭先生はとても心配され善後策に走り廻られていました。万策つきて、落下傘で作ったクッション、マフラ、ふろしき、ガウン等をおみやげに持参し「生徒が教材として使っている」と説明すると、すっかり上機嫌で「もっとほしい」とのことだったと、肩の荷を下した表情で教頭先生が帰って来られました。
次の日から、おおっぴらに、おみやげ品作りでした。職員も厳しい目でみられました。私は雑誌に「戦争と人口問題」と題して寄稿したのが調べられ、質問を受けたり、資料の提出を求められました。
当時はこんな事はとても恐ろしいことでした。
痛くもない腹をさぐられるのが嫌で、私はこの時、戦争中の貴重なメモや日記をことごとく焼きました。
本当に残念なことをしたものです。
進駐軍の人々から、人に接するには柔かいが、仕事となると、とても厳しく、いい加減なことは決して許さない姿勢を学びとりました。しかし習慣や考え方の相違は誤解を招き、いらだちや気苦労をしたものです。
三月の雛節句の時、おひな様を飾り進駐軍の人に見せてあげたら、それを見て「神様か」と険しい表情で聞くので「日本の人形で、女の子がとても大切にして、三月には家庭で飾って楽しむのだ」と言うと「オーケ、カワイイ。キレイ」の連発でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言


パラシュートとは別に、トラック十数台分にもなる軍衣類は宮崎県へ寄贈されました。しかし、この際も挺進団長の許可書類が無いと受け取れないとの回答で宮崎県庁と川南空挺基地の間を担当者が往復する羽目になっています。
空挺部隊の保有する武器弾薬は唐瀬原飛行場へ集められ、米兵監視の下で破壊処理されました。

空挺部隊が保有していた施設や200台ほどのトラックについては、整備隊長の伊佐見少佐が官公庁や宮崎交通株式会社への移譲を進めます。
それでも捌ききれなかったので、田中挺進戦車隊長により50台規模の運送会社設立が計画されました。
傷ついた高千穂空挺隊員の療養もかねて、会社の拠点は温泉地の霧島にすることまで決まります。
しかし、進駐軍のマスマン中佐は「一企業あたりの将校数は3名が限度」とこの計画を認めてくれません。
軍人が、しかも空挺隊員が何十人もの集団を結成するなどもっての他だったのです。
この決定で空挺隊員の集団帰農も否決。各個人が帰農手続することとなりました。
既に終戦直後には一割の空挺隊員、8月28日には在営人員の半数がそれぞれの故郷に復員していましたが、進駐軍はそれを加速するよう要求。
つまり、一刻も早く目障りな空挺部隊を解体したかったのです。

11月には緊急開拓事業が閣議決定され、川南の再開拓も始まりました。
復興に取り組んだのは宮崎県民だけではありません。
沖縄から疎開したまま焦土と化した故郷に戻れなくなったり、敗戦で職を失った軍人などの中から、宮崎県への定住を選んだ人々もいました。
農地として解放された川南の落下傘降下場には、満州から引き揚げてきた開拓団が入植します。
取敢えず、この入植グループには挺進第4聯隊の施設が宿舎として宛がわれました(後の川南開拓協同組合)。

翌年春以降は戦地からも次々と高千穂空挺隊や滑空歩兵の生存者が帰国してきます。
空挺隊の帰還者については、戦闘と病、そして飢餓による身心への影響が予想されました。
その為、療養を兼ねての営農宿営施設の設置も着手されます。
空挺隊員の中には帰る家や家族を空襲で失ったケースもありました。彼等のうち、川南への帰農希望グループについては滑空歩兵部隊の山本春一少佐が指導にあたり、被服、寝具、糧秣が配当されます。
また、建築資材や耕作適地、高鍋軍馬補充部からは百数十頭の軍馬も川南への入植団へ渡されました。
※軍の焼印が記された馬は、進駐軍から睨まれるのを怖れて当初引取り手がいなかったという話もあります。

山本少佐は、高千穂空挺隊員の帰国に備えて農地と住居確保に奔走していました。
当初は百名程度だった川南の入植者も、暫くたつと全国から続々と押し寄せ始めたのです。
宮崎に展開していた菊池兵団や護路兵団からも帰農希望者が続出。遂には過剰入植ともいえる様相を呈し始めます。

昭和21年、戦争によって中断されていた川南原開拓事業が再開されました。
戦後の開拓対象はそれまでの民有地から軍用地へと変更。
塩付パラシュート降下場地区、唐瀬原飛行場地区、高鍋軍馬補充部地区の3大軍用地は農地へ開放、空挺部隊の兵舎は学校や病院へと転換されていきます。



8月27日の暴風と9月17日の枕崎台風によって講堂屋根損壊、寮倒壊、窓ガラス全損の被害を受けた高鍋国民学校では、川南の第一挺進集団司令部兵舎から復旧用資材を譲渡されています。
石丸氏が保存していた堀之内校長の日誌より抜粋してみましょう。

十月五日
的場訓導、倉永訓導の職員への紹介。
九時より古谷訓導同伴、町長とともに川南村、九九四四部隊の兵舎貰ひに赴く。途中トラック、スリップして多賀より自転車にて赴き困難せり。
兵舎二棟を譲り受く。
帰校午後五時。四日間に取片付を了せねばならぬので、倒壊校舎後片付の奉仕を、この方へ変更する事に決意せり。
十月六日
男子職員、兵舎取こはしに川南に赴く。製塩場の件にて中学校に折衝す。
十月七日
倒壊校舎復旧用として部隊より譲渡を受けし兵舎こはしに、町民の奉仕を乞ふ。意外に多数の献身的奉仕に全く感激せり。
兵舎は全長四十四間、幅八間、総計三百五十二坪なり。時価二十万円を要すといふ。微雨ありけれ共、殆んど休息もなしに町民の努力を傾けられし事、全く感謝の詞なし。

石丸恵守氏「堀之内恒夫日誌について 終戦前後の高鍋国民学校」より

戦争によるインフラの破壊により、電力・水道の復旧は遅れに遅れます。
そのような状況下、川南開拓は苦難の連続となりました。
入植者は全国から集まっているので、そもそもお互いの方言が理解できません。
福岡県から転入してきた人でさえ「同じ九州なのに言葉が通じない」「福岡に比べて十数年遅れた世界だ」と驚くほど、戦後の川南は大混乱に陥っていたのです。
火山灰が厚く堆積した国光原と唐瀬原の台地は、水源に乏しく痩せた土地でした。要するに、農業には不向きなので江戸時代から馬の放牧地にしか使われなかった訳です。

一大農業地帯へ生まれ変わったものの、入植当初の各農家では深刻な食糧不足に苦しみました。
更に、空挺兵舎の取り壊しが始まると間借りしていた入植者は追い出され(モチロン転出先の手配は無し)、廃材を集めた掘立小屋暮しを余儀なくされます。
水源地付近を耕地に割り当てられた人が、「水源の開墾は認めない」と押しかけた地元農家と一触即発の状態になったこともありました。川南入植者の中には、あまりの過酷さに離農したケースも少なくありません。
それでも残った人々は兵舎を撤去し、突き固められた滑走路を掘り返し、火山性の酸性土壌を改良し、灌漑施設を整備するなど忍耐強く努力を続け、この地を豊かな農業地帯へと変えていったのです。

やがて、平田川上流域に青鹿ダムが完成。ここから唐瀬原地区へ農業用水が導入されました。
水不足の解決によって、川南原開拓は大きく進展していきます。

再び開拓の地となった川南は、後に「川南合衆国」と呼ばれるようになりました。



農地へ転用された川南空挺基地跡には、全国から集った開拓団に混じって菊池兵団や元空挺隊員らが入植していきます。
酸性土壌の改良、施肥、灌漑設備の整備。
軍用地を農地へ転換するには、その後20年もの月日がかかります。それでも、入植者の努力によって軍都川南の解体と戦後復興は着実に進んでいきました。
その頃の様子について書かれたレポートがあります。

「会議室の一隅に、わたしもチヨコンと坐つて傍聴さしてもらつた。
県農政課の赤木氏をはじめ、約四十名の人達によつてはじめられた会議は、實に生き生きと血が通つたものであつた。
開拓、帰農といふことは、趣味や道楽ではなく「食べること。生きること」に對する切実な「國と個」の要請に立脚したものであるからであらう。
“落下傘の降下場であつた八百町歩の土地は、どの様な人々によつて拓かれるのであらうか”
視線を落せば、机の下に居ならんだ脚にはかれた履物は、軍靴が大部分、次に地下足袋、役場関係の人の短靴。
履物によつて示される通り、菊池兵団の残留者が、有力なグループの一つを形づくつてゐる。
剣を鍬に代へて、作戦図ならぬ土地図付の青写真のまはりで、誰も彼もが、真剣なひとみで、村長のむちの先を追つてゐる。
菊池五部隊はここを、七部隊はここをとかつての参謀長は、部下の将来をおもんばかつて、村長の計画と兵隊の現實の間にたつてテキパキと交渉をすゝめていく。
「何でもいゝからつくれ、つくれ」
といふ国家の掛声はあまりにも非現實的である。考へて見ても、折角土台石を据ゑ、一片の土地を耕した後、そこが民間へ払下げになる土地だなんと言ふことにならぬとも限らず、現に、他図に引かれた境界線からはみ出してゐる数戸があり、村長さんを悩ましてゐる。
これは、元の土地の所有者と諒解がつけばよい問題である。
ひるが来ても誰も弁當をひらくものもなく、鍬を下す土地の決定へと強引に議事をすすめて行く……。
「實際皆、グラグラしてますからなあ」
終戦になつてから、今日まで流れた月日の中での、これ等若い帰農者の心境が、大塊のやうに私の心にもひびいてくる。
實際に作づけするまでには何と知られざる多くの日数と経費と精神の消耗があることであらう。
菊池兵団の他に挺進団とよばれるいはゆる落下傘部隊であつた組と、北川村、南郷村から三年前満州へ開拓団として移住して行つた人達と、まづこの三つの團體によつて、唐瀬原の八百町歩の原つぱは拓かれて行くのである。
県の方から斡旋する戦災者や帰農希望者の数を入れれば、地図の上ではもはや目白押の感がある位である。
「ここは芋村だから、芋位はでるぢやろ」
と誰かの預言が的中して、もろぶたに湯気立のぼる唐芋が運ばれ、二時前会議終了とともに遅いひるが始まつた。
やがて現地へ、参謀長殿のくるまへ皆のりこんで、空の神兵を生んだ土地へ今の分割図をひろげるべく出かけるのである。
現地が一望にをさめられる高台ではじめられた。何にもない草原、これで八百町歩もあるのかしら、右手にさへぎるものもなく海が見える。
「ここは立派な松林ぢやつた。それを毎日毎日振興隊で松を引つこぬいて大急ぎ降下場をつくつた。
えらいもんで七千人の人がここに入ると、どけいつたか(※何処へ行ったのか、の意)と言ふ位でなあ」
村長の言葉に、いまになれば感嘆とも悲哀ともとれない沈黙が答へるばかりであつた。
「すみません」
もはや地方人である元の落下傘部隊の一将校がぽつんといひ
「いやあ」
と皆の口辺に、ほろ苦い微苦笑がのぼつたけれど
「この傾斜地は防風林薪炭地として残す」
「あの松の下の所へ道路が通じる」
といはれて見て、この落莫とした秋枯の野は、豊かな畑地に、骨組ばかりのチラホラと立ちかけた家は、質朴な部落へと、私達の眼前で変貌して行く思ひであつた」
森千枝「新しき村を見る・川南村開拓地の巻」より 昭和20年

「開拓地の配分も家の近くに決まり、毎日荒地の開拓に努めましたが、耕作されていく畑地が全ての苦労を忘れさせて呉れました。
甘藷を主とした食料が、物資欠乏の時代でありましたから、これ程有り難いものは有りませんでした。
其の後、落下傘部隊本部裏に雨天体操場が有りました。鉄柱が林立した様な土地ですが、伊倉の矢野助役さん、登り口の永友美義さん、其の他の方々が、男の子供が三人も居る事だからと言う事で配分して頂きました。
現在は手の施し様もできなかったコンクリート鉄柱の跡も無くなり、美田と成りました。その当時頂いた温情は、年と共に感謝の念を深くして居りますし、又、家族一同折にふれて、話して居ります」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 鍋倉サダ氏の証言

「十一月の中旬に、やっと長野恵組合長にお遭いをして、私の入植目的を話して、唐瀬原開拓地の降下場に配分地をお願いした。
組合運営上の組織として小組合長会が有り、組合長から私の入植の話を出して頂き、菊友小組合の坂上清一小組合長が、菊友地区の一人分の配分地を世話して貰い、初めて開拓者として入植が決定致しました。十二月三日に川南に移って来て、屯田僧としての生活が開始されました。
高鍋管財局から兵舎の一部を借り受けて、一先ず其処に入りました。
大きな空屋の旧兵舎の南向きの部屋に、破れた窓ガラスを修理して何とか生活できる様にして生活が始まりました。
配分地の降下場までは4km近く有り、それから毎日通い開墾に取り掛かりました。
降下場の原野に木一本無く、見渡す限りの草原で、ニ~三入植者の家が有っただけでした」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 僧侶 菊友三蔵氏の証言

川南一帯に散在する空挺部隊の兵舎は、まずは入植者の仮宿舎、やがては公共施設に再利用されていきました。

挺進第二聯隊
挺進司令部、第1挺進團、唐瀬原飛行場などが集中していた川南町睦地区。
空挺基地の大部分は農地として開拓され、兵舎群は県の畜産試験場や東小学校となっています。

挺進第1聯隊
画像は通山小学校の門柱。
軍馬補充部高鍋支部跡地は、宮崎農業大学校と国東中学校となっています。パラシュート降下場だった塩付分厩は農地開放されました。

給水塔
国立病院機構宮崎病院の敷地内に残された、挺進第3聯隊兵舎給水塔。
挺進第3聯隊兵舎跡地には国立療養所が転入し、現在も医療機関として使用されています。

挺進飛行隊
航空自衛隊新田原基地周辺に4基残されている旧軍掩体壕。
新田原飛行場は農地開放されますが、航空自衛隊の発足により新田原基地として再スタートします。

開拓への道を歩み出した川南で、空挺部隊は最後の時を迎えていました。

昭和20年10月1日、挺進司令部は各部隊の状況説明者、監視および経理要員のみを残して在営隊員の復員を完了。
同月中旬に挺進司令部は解散、残務整理班の編成が認可されます。
第1挺進團司令部残務整理班は、下記の業務にあたりました。
一、比島出動部隊主力の帰還を予想する一月中旬を目途とし、当面的支援の達成。
一、復員者の援護
一、経費
一、帰還者の受入要領
一、補導事務所開設の促進
一、川南国立療養所(復員兵療養目的)設置への協力と連携
この残務整理班も、12月31日には解散。個別の復員支援業務へと移行して行きました。

川南国立療養所(現在の国立病院機構宮崎病院)は、唐瀬原の挺進第3聯隊兵舎跡に入居します。
国立療養所長には、幸いにも空挺部隊と関係の深い唐瀬原陸軍病院の水上軍医大佐が就任していました。水上所長の計らいで、残務整理班の竹田主計大尉らは病院の庶務担当として採用されます。
こうして、戦地から復員してくる高千穂空挺隊員の療養体制が確立したのでした。

この川南国立療養所派遣業務を最後に、帝国陸軍空挺部隊はひっそりと活動を終えます。

挺進第三聯隊
現在の国立病院機構宮崎病院(もと挺進第3聯隊駐屯地)

戦後の川南は、開拓の地として再出発します。
広大な落下傘降下場や飛行場は農地となり、挺進第1聯隊兵舎は通山小学校、挺進第2聯隊兵舎は東小学校、挺進第3聯隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第4聯隊兵舎は唐瀬原中学校へ姿を変えました。
灌漑施設の整備により、苦難を極めた開墾作業もようやく軌道に乗り始めます。生活にも余裕が生まれ、川南は畜産の町として再スタートしたのです。

川南原の大開拓地に全国からまた、海外からも入植し、八,一一三人に達しました。
開拓者は困苦欠乏に堪えています。
水と燃料に不自由し、また地力が低いために生産はあがらず苦労しております。水は国営開田を待っております。
開拓地の大部分は未だ電力が通じておりませんが、前方の落下傘降下場地区だけは近く電力導入の運びになっております。
入植者は一般に教養の高い人が多いので、三千町歩の旧軍用地も自然の恵みと開拓者自身の努力によりまして、全地域が沃土と化し、やがて日本の興隆に大きな役割を果たす日も遠くないと信じております。

昭和24年6月6日 昭和天皇川南訪問の際の岩切秋雄村長の挨拶
河野弥市「傘寿記念 懸命に生きる」より 

そのまま、「軍都川南」の記憶は忘れ去られる筈でした。

空挺部隊解体後、中村勇挺進団長は川南の竹山地区に残り、農作業をしつつ空挺隊員の帰農支援、戦死者を祀る挺進神社の世話を行っていました。
進駐軍は中村団長以下空挺隊員らの動向に監視の目を光らせており、妨害行為もあったといいます。

【挺進神社焼討ち事件】

終戦直後の話。
5月11日の空襲で焼け出された宮崎市の師範学校が空挺兵舎跡に間借りする事となりました(空襲の際、生徒6名が死亡)。
中村団長は、兵舎の提供ついでに挺進神社の世話を彼等に委託します。
突如進駐軍が川南に現れ、師範学校生達の抗議も聞き入れずに神社を焼き払ったのは、それから暫く後の事でした。
この頃、「空挺兵舎の師範学校生が、夜な夜な周囲を駆け回る白衣の集団や進軍ラッパの音に怯えて眠れない」という記事が地元新聞に載ったこともあります。

地元の人から「新聞に神社が焼き払われたと書いてある」と知らされた中村団長が急いで神社へ駆けつけた時、全ては終わった後でした。
団長が神社の焼け跡から拾い集めた釘は、御神体として地元の石川富士之助氏宅の祭壇に祀られます。石川氏は三男を戦争で亡くしており、地元戦死者を祀るトロントロンの招魂堂復興を願っていました。挺進神社の釘も、その気持ちから預かったのでしょう。
ただ、いつまでも個人の厚意に頼る訳にもいかず、中村団長は慰霊施設の建設に取り掛かります。
団長とは別に、かつての降下場付近に集団入植した空挺隊員たちも挺進神社復興を計画していました。
独自に農地の一部を整備しつつありましたが、正式な神社建設手続きを経ていないとして用地を没収されてしまいます。

中村団長は挺進神社の復興を断念、新たな慰霊施設の建設を目指しました。
遺族会の協力も得て、招魂堂を改装した神社建設の募金集めに奔走。
川南村民もその熱意に動かされ、トロントロン地区で護国神社の建設が開始されました。
進駐軍に怯えながらの建築作業でしたが、妨害行為は無かったといいます。 

ルソン島の飢餓地獄を体験した挺進集団長の塚田理喜智中将は、千葉県へ戻ったあと農業の研究に没頭していました。
各方面で戦没空挺隊員慰霊の動きが始まると、そちらの支援もおこなっています。

新たに建設される護国神社には、川南から出征し、戦没した空挺隊員や地元出身兵士らの御霊1万2千柱が祀られる予定でした。
戦没空挺隊員の名簿は挺進神社と共に灰になってしまった為、中村団長は復員局へ出向いて空挺部隊の名簿を書き写しています。

川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来

昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった 
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である

平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同

川南護国神社の空挺碑文より

空挺慰霊碑

理不尽な焼き討ちから4年後の昭和24年、遂に川南護国神社が完成します。
3月21日、第1回の慰霊祭には2千人を超える川南住民が詰めかけました。あまりの多さに、付近の道路が通行止めになるほどだったといいます。
以降、川南の慰霊祭は毎年開催されることとなりました。

川南護国神社例祭の日は毎年11月23日。
全国から集まった元空挺隊員、宮崎県や川南町、地元遺族会、航空自衛隊や陸上自衛隊の関係者も参列しています。
慰霊祭は川南町のお祭りの一環として開催されており、当日は町の人々が大勢神社に集まっていました。
普段とは違い、参道には屋台も並んでいます。
その日の朝から川南護国神社の周囲を歩いてみて分りました。
会場の設営作業や受付を含め、川南の人々が一体となってこの慰霊祭を支えているのですね。
地元の学校からも生徒さんが参加されており、三脚を据えて慰霊祭の様子をビデオ撮影して居ました。

慰霊祭はモノモノしい雰囲気や派手な催しなど無く、静かに進行されます。
式典会場を取囲むように空挺部隊の活躍を描いた油絵17点(松本武仁画)が並べられ、それらを熱心に見ている人もいました。

慰霊祭は1時間ほどで終了します。
参列者が退去すると同時に式場や絵画は撤去され、すぐさまお祭りのイベント会場へ早変わり。
自衛隊関係者は隣の広場へ移動し、落下傘部隊碑の前で記念写真なんかを撮っていました。
慰霊祭後の護国神社は、お祭りを楽しむ家族連れで夕方まで賑わいます。
※陸軍空挺部隊の慰霊行事としては、他に高野山や健軍などでもおこなわれています。

設営
慰霊祭の設営風景

慰霊祭

慰霊祭

川南神社

川南護国神社が完成してから6年後、和歌山県の高野山に「陸軍空挺落下傘部隊英霊碑」の建立計画が持ち上がりました。
戦没空挺隊員の慰霊に奔走する中村勇挺進団長と元挺進第3聯隊付軍医の中村秀雄氏(旧姓深田)により、聖地である高野山に建墓しようという事で意見が纏まったのです。

「高野山でなくてもとの意見は、当然あると存じます。
日向の地を離れることについては釈然としない方もあるようで、他の地につていも色々と考えましたが、東京駅頭も、銀座の真中も人目にはつくでしょうが、やはり霊は霊地にあるべきで、日本全国から霊が集っていて、全国の人の参拝の絶間ない処で、最も幽玄な地と思って高野山を選びました(中村秀雄氏「唐瀬原」より 昭和31年)」

高野山本山の近藤本玄大僧正もこの申出に賛同、墓域の付与を許可します。
墓はあっても、空挺隊員の遺骨はありません。代わりに戦没空挺隊員の名簿が収められました。

昭和31年9月21日、川南護国神社から高野山への英霊奉遷式典がおこなわれます。
戦没空挺隊員の名簿作成に協力した防衛庁は、赤江飛行場(宮崎空港)に航空自衛隊のC46輸送機を派遣。
川南町から宮崎市までの位牌1万2千柱の輸送は都城駐屯地の陸上自衛隊が担当しました。

「美しい川南を英霊を先頭にして、日の丸の小旗を振って送ってくれる町の人達と別れ、つわもの共の夢の跡を辿りながら、十三里の日向路を赤江飛行場に向う。
昭和十八年の渡河演習で、一瞬にして八名を呑んだ恨みの思出を持つ小丸川。それを渡れば高鍋である。
英霊にも懐しい町並を抜け、更に南下して、最近竣工した一ツ瀬川橋梁を渡る。
右後方に紫色に霞むのが新田原の台である。
こゝで降下訓練を行うとき、日向灘から進入すればこの国道の上では既に扉を開いて降下姿勢をとっている。
“まなじり高きつわものの、いづくか見ゆる幼な顔”。決死の訓練が反復されたのである。
川は昔のまゝに流れ、台上は変ることなく紫色につゝまれているが、紅顔の若人達は今何処。
万感交々迫り来る。
一時四十分赤江飛行場を離陸、思出の日向の山野にもう一度別れを惜しみ、C-46輸送機は伊丹に向う
(全日本空挺同志会「高野山建墓の由来 英霊ここに眠る」より)」

関西へ到着した位牌は、翌日に陸上自衛隊信太山演習場へ運ばれます。元空挺隊員と遺族たちも演習場へ集合しました。
予定では、習志野から派遣された陸自空挺教育隊40名および海上自衛隊員が木更津を離陸、信太山でパラシュート降下を披露することになっていました。しかし折からの悪天候で、米軍の気象観測では「降下不可能」との判断が下されます。
落胆している人々の元へ、橋詰幕僚長が「はりきった空挺隊の人々は、悪天候を冒し予定通り空挺を続けております」と報告を持ってきました。

14時20分、3機のC46輸送機が葛城山方面から姿を現します。

真黒い二つのフットボール様のものが一機の両側から転げ落ちた。
「アッ」
音にならない叫びであろうが、数万の数である。……生涯初めて聞く声である。
十年の夢に見果てぬ我が子、我が夫の姿……。
真黒い玉がつぎつぎと転げ落ちる。
パッパッ。音なき音を遺族の胸に響かせながら、世紀の華、落下傘は開く。舞降りる。
玉は嬰児の如く大きくなる。頭も手も足も見える。傘を操作している。
「空の神兵」である。その上前方には、まだ黒い玉が落ち続ける……。
一瞬の出来事である。八つの神兵は天降る。しぐれ始めた原の中で、八名は傘をたゝみ、煙幕をたき標識を設ける。後続部隊の降下を誘導するのである。
見事な活躍振りである。
それもその筈である。後で解ったことであるが、それは英霊と共に練武に練武を重ね、現在空挺教育隊の骨幹幹部となって活躍中の、田中、本間、大城、徳村、名井、それに海軍の海保軍の諸氏で、千軍万馬の古強兵であったのである。
かくして時雨をついて第二陣四十数名が続いて降下する。高架線にひきかゝるもの、松の木にぶら下がるもの、屋根の上、畑の中、さまざまである。
「編隊をくみ得ず」との空中よりの連絡により、第三回を中止する。あのときの遺族を初め、満場の瞳に輝く安堵の光。終生の思い出である。

「祭典行事の経過」より

新旧の「空の神兵」は、こうして相見えたのです。

9月23日午前10時、高野山に建墓された空挺落下傘部隊将兵之墓にて納霊・除幕式典は開催されました。

空挺落下傘部隊
川南空挺慰霊祭に参列した陸自の第一空挺団

“祖國日本の彌栄を願い 後に續く者を信じ 空挺落下傘部隊将兵の霊は此處に静かに眠る”

副碑に刻まれた碑文を読んで「慰霊碑があるということは、和歌山県に空挺部隊がいたのだろう」と勘違いする人もいる様ですが、あの慰霊碑が高野山に建てられた経緯は以上のようなものです。

給水塔

【川南合衆国】

戦後暫くの間、特攻隊は軍国主義の象徴と見られ、元空挺隊員やその遺族達も周囲からの非難や無理解に苦しみました。
片方のエンジンが停止して乗機が不時着、生還した義烈空挺隊の和田曹長は当時の状況をこう回想しています。

「“特攻隊か、馬鹿の寄せ集めか”と思たんと違いますか。
“特攻隊にいたからというて戦争に勝てる訳でもなし”と」

人々が日々の暮らしに追われていた、復興の時代の話です。

そんな中で忘れ去られていた義烈空挺隊の存在に、再び光を当てる機会が訪れます。
それは、戦後20年目の節目としてカメラ雑誌で戦争特集をする企画が持ち上がり、小柳次一氏の撮影した写真が使われる事となったのが発端でした。
終戦時には報道写真の多くが廃棄処分されたのですが、小柳氏は撮影した写真を自宅に保管しており、貴重な記録が失われずに済んだのです。
結局この企画は流れましたが、かわりに昭和40年8月、写真展「軍靴の音」が開催されます。
義烈空挺隊出撃の写真も展示され、元隊員や「ここに夫がいます」と涙する遺族達が会場を埋め尽くしました。

―ご主人が、この出撃の写真にですね、つまり美都子さんのお父様が写っていらっしゃるということを、どうしてお知りになりましたか。
長谷川
昨年の八月の五日から一二日まででしょうか、あの小柳さんが個展を開いてくださったんです。そのときに、東京の知人の方から速達で送っていただきまして、もしや義烈空挺隊の中にご主人の写真があるかもわからないからとお知らせいただいたもんですから、とりあえず会場の方へかけつけてまいりました。
―で、お探しになったら、まさしく……。もう一目でわかりますね。
長谷川
そこで初めて出撃の様子を聞かせていただきまして……。
―初めてとおっしゃると、御主人からはなにもお聞きになっていらっしゃらなかったのですか。
長谷川
はい、どこからたったのかも、全然知らなかったんです。二〇年間探し求めていたんです。
原隊は輸送隊におりましたから、戦友の方なんかも必死になって全国の方に呼びかけて資料を集めてくださったんですけど、具体的なこともわからず、どこからたったのかすらわからなかったんです。

三國一朗「証言 私の昭和史」より 義烈空挺隊パイロット 長谷川道明曹長の家族の証言

小柳氏の写真は一躍有名となったものの、これらを借りていく出版社の対応は酷いものだったそうです。
「載せたのを送ってきたのを読んでみたら、日本軍はこういう悪いことをしておったという使い方ばっかりでしょ。
ひどいのになったら、写真を載せましたから本を買えですからね。
情けなくなったですね」
小柳次一「従軍カメラマンの戦争」より

小柳氏は目を悪くした事もあり、写真の世界から離れます。

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都城駐屯地に降下する第一空挺団

戦争の記憶も薄れかけた宮崎県に、再び落下傘部隊が現れたのは昭和45年11月22日のこと。
陸上自衛隊第43普通科連隊の秋季演習にて、仮想敵として第1空挺団がパラシュート降下したのです。
場所は都城市高木町。
現在の宮崎自動車道都城インター付近です。

この演習には数万もの都城市民が見物に詰めかけました。
第1挺進戦車隊が都城市防衛に派遣されてから20年。
市民にとって、空に舞う落下傘は忌わしき戦時の象徴ではなく、かつて都城を護った「空の神兵」のイメージであり続けていたのかもしれません。
親戚知人に誰かしら自衛隊員がいるような土地柄でもありますし、アレルギーも少なかったのでしょう。

第一空挺団
都城毎日新聞より 昭和45年

昭和49年、小柳氏は空挺同志会員からの招きで、長年暮らしていた鎌倉から川南へ転居して晩年まで過ごしました。
川南護国神社の慰霊祭には毎年出席していたとの事です。
そういえば、慰霊祭に参加される元空挺隊員のかたがたも年々少なくなってきていますね。

義烈空挺隊
毎年11月23日に開催される、川南護国神社の空挺慰霊祭。宮崎県、川南町、遺族会、空挺同志会、陸上及び航空自衛隊関係者などが参列されます。
空挺隊戦没者だけではなく、地元川南から出征し、戦死された人々も含めた慰霊行事です。

空挺部隊の基地から農業・畜産の町として復興を遂げた川南。
その川南に、再び試練が訪れたのは平成22年の春でした。

口蹄疫ウィルスが宮崎へ侵入したのは、この年の3月頃だったと推測されています。
侵入ルートについてはネット上で根拠不明の噂が飛び交っていますが、公式調査での真相は不明のまま。

都農町と川南町で発生した口蹄疫は瞬く間に町全体へと広がっていきました。
防疫への軽視と風評被害への配慮から、県の対応と情報公開は後手後手に回ります。
4月9日から県への発症報告が入ってきたにも関わらず、行政側が動き出すのは口蹄疫と確認できた20日になってから。
この初動の遅れが致命傷となりました。

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消毒用の石灰で覆われた道路。

4月20日には口蹄疫防疫対策本部が設置され、国と県は口蹄疫対策に乗り出しました。
感染拡大に伴って、川南町も全力で消毒作業にあたります。
至る所で農道が封鎖され、消毒用石灰が道路いっぱいに散布されました。
国道に設置された消毒ポイントでは、防護服を着た消毒班がゴールデンウィーク返上で畜産車両の消毒作業。
川南町役場には自衛隊や県警の車両が続々と集結し、獣医師も応援に駈けつけました。
これだけ対応すれば大丈夫なんだろう。所詮は家畜の伝染病だし。
防疫対策本部で指揮をとってきた農水大臣は30日に海外へ出かけてしまいましたし、県知事も奥歯にモノが挟まったような談話しか発表しませんし。
テレビや新聞も地元メディア以外は騒いでいないから、そんな大した問題ではないのでしょう。

初期の段階で、人々はそう思っていました。

傍から見て不思議だったのは、川南の真中を突っ切る国道10号線での全面消毒措置が取られなかったこと。
肝心の10号線を放置すると、県北と県南に拡散するのでは?
当初の国道消毒ポイントは僅か4箇所。しかも一般車両は消毒の対象外でした。
渋滞を防ぎたかった、というのが行政側の本音だった様です。

国道通行車両の全面消毒に踏み切ったのは、5月も半ばになってから。ウィルスの潜伏期間を考えると、もはや手遅れでした。

「まあ、前回の発生でも大した事なかったし」「農業関係の車だけ消毒すれば大丈夫なんだろう」
県民が呑気な事を囁き合っているうちに、口蹄疫ウィルスは県内各地へ爆発的に拡散。
たかが家畜伝染病といえど、その影響は想像の域を越えていました。

国と県が責任の押し付け合いを演じている間に、川南はおろか宮崎県の畜産は壊滅の危機に陥ります。
ついには一万頭を擁する大規模畜産場が口蹄疫に感染。
これによって、封じ込め作戦は破綻しました。
厖大な数の家畜を殺処分しようにも、人手も薬剤も埋設処分地も足りません。
県と市町村、獣医師、警察、自衛隊の命令系統や担当範囲もバラバラで、各組織の連携にも手間取りました。
防疫スタッフの対処能力も限界を迎えつつあり、状況は加速度的に悪化していきます。

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都城駐屯地から災害派遣された車両

畜産界の壊滅を防ぐため、県内全域で人やモノの移動も大幅に制限されます。
あっという間に地域経済は悪化していきました。
「家畜の伝染病如き」でひとつの県が身動きできなくなってしまったのです。

宮崎県は情報共有に消極的だと判断した隣接県は危機感を高めます。感染は治まるどころか、遂には県境の都城市やえびの市へ飛び火。
九州全域への拡散という最悪の事態が目の前に迫っていました。

高速道路のインターや県境のあらゆる道路に車両消毒用のプールが設置され、県外への拡散阻止態勢が敷かれます。
農作物への風評被害に続き、宮崎ナンバーの車両お断り、宮崎産品は扱いませんなどと宣言する店舗が出現したのもこの頃のこと。
やがて農家はおろか企業や店舗の入口にも消石灰が散布され、「次はどこへ飛び火するんだろう」と息が詰まるような日々が続きました。

現地視察直後に辞任表明した首相以下、神経を逆撫でするような対応しかできない政府。
破滅的な状況の中ですべての対応が後手後手に回り、疲弊しきった県と市町村。
これらを見て「お上が何か指示するまで待っていよう」などと構えていた県民も遅ればせながら自衛策をとり始めます。
県外出張は止めて可能な限り電話とメールで済ませ、催事や会合も次々と中止。
職場の飲み会ですら「人が動くとウィルスが拡散するかも」などと自粛ムードへ。
他に出来る事は何でしょう。
畜産家への支援募金と、県産品の購入と、……あとは神仏に祈るくらいですか。

そして8月27日。
ようやく口蹄疫の終息宣言が出された時、川南から牛や豚の姿は消えていました。
残されたのは、石灰に白く覆われた空の畜舎だけ。
宮崎全体で殺処分された家畜の総数は、29万7千800頭にのぼりました。
かつてこの地に空挺部隊がやって来た時とは比較にならない、まさに大打撃となったのです。

口蹄疫

やがて、全国からの支援を受けて、川南は再び復活への道を歩み始めます。
その年の11月23日、護国神社での空挺慰霊祭も例年通り開催されました。

口蹄疫の傷が癒えるには、この先も長い時間がかかるのでしょう。明るみになった防疫体制の欠陥が改善されたのかも疑問です。
あまりの被害に畜産業から離れた人も少なくありません。
けれど、徐々にですが家畜の姿も戻りつつあります。
月末恒例のトロントロン軽トラ市を覗いて来ましたけど、なかなか盛況なようで。ホッとしました。

塔は黙して語らず

こうして川南の姿は変わりつつあります。

2012年より、国立病院機構宮崎病院では大規模な病棟改修工事が着工。
給水塔の隣にあった保育所や、川南の歴史を発信して来た尾鈴水利事務所も新築移転が決定し、周囲でも工事用の整地作業が進められています。

耐震の問題から古い建物が消えていく中、このさき老朽化が進む給水塔はどうなるのでしょうか。
川南町としては貴重な歴史的遺産として保存したい筈ですが、町有地ではないですからね。

川南給水塔のある風景も、いずれは大きく変化していくのでしょう。
部外者には、その時々の姿を記録することしか出来ません。

塔は黙して語らず
給水塔が子供たちの成長を見守り続けてきた保育所も無人となり、あとは解体を待つばかり。

川南が陸軍空挺部隊の拠点であったことは殆んど知られていない。
私がそう確信したのも口蹄疫パニックの時でした。ネット上で口蹄疫の話題を眺めていても、ニュースになっている川南にどのような歴史があるか知っている人はほぼ皆無。
「知られていないならば、こちらから情報発信していく必要があるんだな」と痛感しました。

地元宮崎でさえ、川南に空挺部隊が存在していたことなど遠い過去の話となってしまいました。
平成10年に宮崎日日新聞が連載した「空の神兵の悲話」あたりで、初めて知ったという人も多いのではないでしょうか。
いっぽうで、その記憶を消すまいと努力された方々もいらっしゃいます。

小丸川水難事故を目撃した高鍋町の黒木三夫さんは、殉職空挺隊員慰霊碑の供養を欠かしませんでした。
古代の人々の霊を慰めるために巨大な石像を刻み続けた岩岡保吉氏は、工事で撤去される殉職八勇士の碑を高鍋大師に受け入れてくれました。
高千穂空挺隊の無残な最期を知った林公子さんと藤原美々子さんは、少女時代に延岡で出会った榊原大尉の話を地元の子供たちに伝え続けました。
小柳・藤波カメラマンをはじめとする義号作戦を取材した報道関係者、健軍で隊員の世話をしてた堤ハツさんも、元義烈空挺隊員や遺族と関わり続けました。
そして、川南町の人々によって空挺隊員の慰霊祭は受け継がれています。

その想いは、下記の一文に集約されているのでしょう。

「国の護りに征った彼等の心情を、厚く厚く汲んでやらなければ、その遺志を踏みにじることになると、私は思えてならない」
「義烈空挺隊を撮る 小柳次一」より

小柳氏は平成6年8月に他界されます。享年87歳。
晩年のインタビューで義号作戦について訊かれ、病の床でこう答えていました。

「考えてみると、馬鹿馬鹿しい、ですね。
今になって考えて、馬鹿馬鹿しいなあと思いますね……」



西の地平へ沈んでいく夕陽に照らされ、唐瀬原の給水塔はオレンジ色に染まっています。
半世紀前の夕刻にも、ここで塔を眺めていた兵士がいたのでしょうか。
昔の出来事など、いつかは人々の記憶から忘れ去られてゆくのかもしれません。
ただ、かつて「空の神兵」と謳われた者達が此の地に存在していた証として
異形の塔は、今も静かに聳え立っているのです。

国立病院2


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