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空挺給水塔 其の8 義烈空挺隊

Category : 第八部・義号作戦 |

作戦命令などの重要命令は私達の無線電話によらず、直接軍司令部へ受領或は都城へ持参だったと思います。
従って当時の最重要機密電報である軍機電報(ライ)や作戦急電報(サキ)等は受信した覚えはなく、至急官報(ウナ)が多かったようです。
また福岡の軍司令部と都城の作戦室を結ぶ有線電話は、あまり良く通じなかったようで、将校が「六航軍、六航軍」と何回も続けて大声で呼出しているのをよく聞きました。
五月の末だったか、義烈空挺隊の沖縄北・中飛行場強行着陸の報は、一時的に私達の士気を高めたが、間もなくまた重苦しい気持ちになってしまいました。
もうこの頃は日本が降伏するとは思わなかったが、戦の前途に勝利の希望は持てず、いずれこの南九州も戦場になるだろうと思っておりました。
なお空挺隊といえば新田原にいた時、唐瀬原の空挺隊の降下訓練をよく見ており、また外出先の高鍋や妻(※現在の西都市)でよく彼等に逢って訓練の苦しさをグチられた事を思い出します。

「埋もれた青春」より 都城西飛行場陸軍少年飛行通信隊 中島昭次氏の証言

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読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆(この機体は予備機でした)。

(第7部からの続き)

こうして台湾軍の薫空挺隊(陸軍落下傘部隊とは無関係)、第1挺進集団の高千穂空挺隊が相次いで実施したレイテ島への空挺作戦は、双方の突入部隊が全滅するという結果に終わりました。
12月6日におこなわれた高千穂空挺隊のレイテ島降下作戦に続いて、12月24日には別の部隊がサイパン島への空挺作戦を計画しています。
その名は「義烈空挺隊」。
米軍制圧下のアスリート飛行場へ強行突入する為に編成された、事実上の特攻部隊です。

それぞれの運命を辿った陸軍空挺部隊群の中でも、「二転三転する命令に翻弄され続けた悲劇の中隊」として知られる義烈空挺隊。
パレンバンの栄光は輸送船沈没事故の為に挺進第2連隊へ譲り、挺進第3、第4連隊はレイテ降下作戦へと赴く中、最古参の挺進第1連隊だけはラシオ、ベナベナと戦機を逸し続けていました。
義烈空挺隊は、その第1聯隊から選ばれたコマンド部隊だったのです。

サイパン特攻を命じられた筈の168名は、一体どのような経緯で沖縄への突入に至ったのか。
唐瀬原→豊岡→浜松→唐瀬原→西筑波→唐瀬原→健軍と、部隊が短期間に国内移動を繰り返した理由は何だったのか。

第七部では義号部隊の発足から出撃までの半年間について記します。

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【唐瀬原への帰還】

昭和18年の出撃計画は、アッツ島救援作戦、ベナベナ降下作戦と立て続けに中止されました。
1年間を棒に振ったものの、空挺部隊を「片道特攻」の犠牲とする愚行は避けられたのです(この時点では)。
昭和19年8月14日、第1挺進団は唐瀬原へ帰還。出撃を逸した第1挺進団挺進第1連隊も、再び宮崎で待機の日々を過ごすこととなりました。

一年振りに唐瀬原に帰ってきた第一挺進団に対し、近郷の町村は温かく迎えた。内地に帰ると、将校と古参の下士官は営外に居住する。大部分は独身者なので、下宿するが、田舎のことで専門の下宿屋はない。
周辺の町村は、殆んど軒なみに若い将兵を受け入れて、家族の一員にしてくれる。
「小父さん、また帰ったよ」
「オオ、よく無事に帰んなすった」
わが子を迎えたように、心から喜んでくれる。しかし本当のわが子は、戦地に出ていつ帰れるか見当もつかない。
都会は既に食料が極度に逼迫していたが、ここは海の幸、山の幸が豊富にある。いも焼酎ならいくらでも飲める。北九州は、既に数回中国大陸を発進したB–29に爆撃されているが、この片田舎には、まだ戦火の気配はない。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

「空の神兵」が華々しく活躍できたのはパレンバンまで。やがて始まった米軍の反攻に伴い、空挺部隊は劣勢を(一時的に)挽回する為の切り札となっていきます。

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訓練中の帝国海軍落下傘部隊。サイパンでは地上部隊として投入され、壊滅的な損害を蒙りました。

【サイパンの空挺部隊】

義烈空挺隊について語るならば、昭和19年のサイパン陥落から説明する必要があります。ここを省略すると、同部隊が編成された経緯が分らなくなるので。
サイパンを巡る日本空挺部隊の戦いは、海軍落下傘部隊の壊滅から義烈空挺隊の突入計画を経て、昭和20年の剣作戦まで続く事となりました。

昭和17年8月、米軍はガダルカナル島へ上陸。ソロモン諸島を巡る戦いが始まりました。
その翌月、海軍空挺部隊(横須賀鎮守府第1特別陸戦隊)900名は南洋防衛のためマリアナ諸島のサイパン島へ派遣されます。
しかし、彼等の翼である輸送機は島々への輸送任務に忙殺され、落下傘訓練に使う余裕などありません。折角サイパンまで運んできたパラシュートも仕舞い込まれたまま。
空を飛べない空挺部隊は、タラワやマキンが次々と陥落していくのを傍観するしかなかったのです。

空がダメなら海中から奇襲しようという訳で、横一特は一個中隊を「佐世保鎮守府第101特別陸戦隊」へ改編。
これは海軍内で「S特部隊(Sはサブマリンの意味)」と呼ばれていた、米軍の勢力下へ潜水艦を使って侵入する特殊部隊でした。
佐鎮101特以外のS特部隊としては、呉鎮守府第101特別陸戦隊や佐世保鎮守府第102特別陸戦隊が知られています。

「敵の来ないところで、守備ともつかず、また、輸送機を奪われては攻撃ともつかず、中ぶらりんの恰好となってしまった我々は、悶々の情に耐え兼ねて、軍司令部に陳情に行くことになった。
その結果、落下傘兵約一個中隊の兵力を以て潜水艦奇襲部隊を編成することになり、私がその任を引き受けた。私の中隊を主力として、これに若干の落下傘兵を加え、早速編成を完了した。
昭和十九年一月上旬、佐世保鎮守府第一〇一特別陸戦隊として、落下傘部隊より分離して独立、潜水艦と共同して、サイパン島に於て訓練を開始した。
これは、潜水艦が浮上すると同時に、これに搭載された特殊大発に移乗し、夜闇に乗じて敵地に隠密上陸をし、敵の後方攪乱を行うものである。
落下傘部隊装備の外に、時限爆弾、時限焼夷弾、南方作戦地の鳥の啼き声を発する特殊の笛等が追加された。
特殊任務を遂行するため、当時海軍の慣習を破って、士官以下兵に至るまで、全員頭髪を伸ばして長髪とし、これを七三に分けた(※米兵に変装するため)。
昼間は寝て、夜間訓練を行い、日課は昼夜を正反対に入れ換えた。
当初、大分変な感じで、身体も疲労したが、二十日目頃には全く慣れて、これが当り前のことに感ずるようになった。習慣は恐ろしいものだ」
元海軍少佐山辺雅男「大降下作戦」より

このS特部隊は南方方面艦隊の指揮下に入り、ソロモン諸島での後方攪乱任務を命じられました。
出撃地のラバウルへ到着した先遣チームに続き、2月13日には川内少尉指揮の59名が伊四三潜水艦でサイパンを出港。
しかし、S特隊員を乗せた伊四三はそのまま消息を絶ちます。2月15日、パラオ近海で米潜水艦アスプロに撃沈されたのでした。
残る兵力も激しい空襲でラバウルとトラックに分断され、S特部隊のソロモン奇襲作戦は頓挫しました。

昭和19年2月にマーシャル諸島を攻略した米軍は、続いてマリアナ諸島へ侵攻します。



サイパンに米海兵隊が上陸した6月15日。
その夜、島内に駐屯していた海軍空挺部隊の主力は米軍への反撃を試みました。
夜陰に乗じて奇襲を図った横一特ですが、砲爆撃で掘り返された地形を突破するのに手間取った挙句、他の斬込部隊との連携もとれないまま交戦状態に突入。米軍の戦車や艦砲射撃を前に、唐島司令をはじめ海軍空挺隊員は次々と戦死していきます。
後送された負傷者数十名もその後の戦いで命を落とし、捕虜となった横一特の生存者は僅か数名でした。

トラックとラバウルのS特部隊はサイパンへの逆上陸を計りますが、島に近づく潜水艦は悉く撃沈されていると知って作戦を断念。
以降も戦機を失ったまま、この特殊部隊は現地部隊へ吸収されてしまいました。

サイパン島守備隊は、昭和19年7月7日の総攻撃を最後に玉砕します。
米軍は奪取したアスリート飛行場にB29を配備し、本土爆撃の前進基地としつつありました。

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米軍が作成したサイパンのイラスト。画面下にアスリート飛行場を示すB29のマークが描かれていますね。
右上に記されているのはスーサイド・クリフ。バンザイ・クリフと同様、多くの在留邦人が命を絶った場所です。

これを阻止しようと、陸海軍はサイパンへの長距離爆撃を繰り返します。
しかし満足な戦果を上げることはできず、B29の配備は刻々と増強されていきました。
このような状況の中で持ち上がったのが、陸軍落下傘部隊によるサイパンへの突入案。計画されたのは、クリスマスの夜に輸送機ごとアスリート飛行場へ胴体着陸(滑走距離を短くする為)し、駐機中のB29を爆砕しようという作戦でした。
クリスマスを選んだのは米軍が油断していると思われた為。
パラシュート降下ではなく機体もろともの強行着陸にした理由は下記の様なものでした。

「攻撃要領については色々論議された。落下傘によるべきか、強行着陸か、使用機は九七重爆に限定されている。航続距離も帰航を考えなければ二倍になる。
途中硫黄島で給油することは必至である。落下傘で降下して戦力分散は不利であり、又爆薬の携行品が少なく、あわよくばB29を土産にしたい等の理由で強行着陸に決定された。飛行機数の関係上、実行部隊は150名程度に制限された」

「特攻」という言葉には神風や回天のような自爆攻撃のイメージがあります。
しかし、生還を期待しないという意味ではサイパンへの空挺作戦も特攻と同じ。
地上部隊との連携が前提だった高千穂空挺隊とは違い、敵の制圧下にある島へ空挺部隊単独で突入するのです。
余りにも無謀な作戦でした。

フィリピンの戦いに赴いた挺進第3、第4聯隊および滑空歩兵第1、第2聯隊とは別に、無傷で川南に温存されていた第1挺進團(挺進第1および第2聯隊)を中心とする空挺部隊群。
しかし、その2コ空挺連隊を活用する術など守勢に転じた軍部にはありませんでした。
せっかく育て上げた精鋭部隊はコマ切れにされ、悲惨な特攻作戦に使われ始めたのです。

サイパン特攻部隊は、その先駆けとなる筈でした。

給水塔
宮崎県川南町唐瀬原に残る挺進第3連隊兵舎給水塔。
義烈空挺隊は原隊の第1聯隊兵舎ではなく、レイテ出撃中で空いていた第3聯隊兵舎で待機を続けていました。

【ブラウエン強襲・薫空挺隊と高千穂空挺隊】

ニューギニア方面における連合軍の反攻は激しさを増し、空挺部隊が戦機を伺っていた南方作戦は空振りに終ります。
第1挺進団が唐瀬原に帰還したのは昭和19年8月14日のこと。
1年振りとなる川南空挺基地では、第3聯隊・第4聯隊・挺進整備隊に加えて挺進戦車隊・挺進通信隊・挺進工兵隊といった新設部隊が訓練に励んでいました。
茨城県西筑波飛行場のグライダー空挺部隊を含め、陸軍の全空挺戦力が初めて勢揃いしたのです。

同年10月20日、レイテ島に米軍が上陸。
これに対する陸軍空挺部隊の反応は迅速でした。5日後には挺進第3聯隊が、続いて第4聯隊や挺進飛行隊もフィリピンへ向けて出動します。
これが、第2挺進團「高千穂空挺隊」によるテ號作戦の始まりでした。

11月11日、高千穂空挺隊はマニラへ到着。レイテ島ブラウエン飛行場群への攻撃準備を整えます。
11月26日、それまで空挺部隊の育成にあたってきた挺進練習部はその役目を終え、「第1挺進集團」へ再編されました。
集団長には挺進練習部長の塚田理喜智少将が着任し、司令部はこれまで通り川南村の東地区に置かれます。
体裁上は準師團規模の兵力となった陸軍空挺部隊群ですが、既に高千穂空挺隊はフィリピンへ展開中。各部隊はバラバラに運用される事となりました。
第1挺進集団への再編に伴って河島大佐は挺進飛行団長となり、新たな第1挺進団長には中村勇大佐を迎えます。

同じ日、高千穂空挺隊の元へ思わぬニュースが飛び込んできました。11月26日、高砂族義勇兵で構成される台湾軍所属「薫空挺隊」がブラウエンの米軍飛行場へ突入したのです。
まだブラウエンへの出撃準備中だった高千穂空挺隊は、無関係の部隊に抜け駆けされた(陸軍空挺部隊側から見るとそうなります)ことを知って騒然となりました。
奇襲作戦として情報封鎖していた以上、薫空挺隊と高千穂空挺隊が互いの存在を知らなかったのは仕方ありません。しかし、軍司令部は台湾軍と落下傘部隊の作戦を把握していた筈。
それなのに、同一目標へ向かう2部隊間の情報共有や調整すらしようとしない、全くの無能無策ぶりを発揮していたのです。

薫空挺隊によるブラウエン特攻、「義号作戦」。
この作戦名は後になって甦りました。

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フィリピンにて、薫空挺隊の中重夫中尉を激励する第四航空軍の富永恭次司令官。「空挺隊」と名はつくも、薫空挺隊は陸軍落下傘部隊とは無関係の部隊です。
ちなみに戦況が悪化した翌年1月6日、富永司令官は隷下部隊を見棄てて台湾へと敵前逃亡しました。

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滅敵の闘魂を沸らせつゝ、聖壽の萬歳を奉唱し、決死敵飛行場を急襲せんとする、陸軍特別攻撃隊「薫」空挺隊の出撃直前(胸の雑嚢には爆薬が入つてゐる) 。
内閣情報局 昭和19年

4機の輸送機で出撃した薫空挺隊ですが、そのうち2機が海岸へ不時着して米軍と交戦、1機は日本軍飛行場へ不時着、残る1機は行方不明という結果となりました。生還者は一人もいません。
薫空挺隊にブラウエン攻撃の先を越された高千穂空挺隊でも、全滅必至の特攻チームを編成していました。地上部隊が進出する予定の無い、タクロバン飛行場攻撃隊がそれです。

軍部は、フィリピンに続いてサイパンへの空挺作戦も実行に移しました。

【アスリート飛行場突入命令】

薫空挺隊がブラウエンへ突入した翌日、11月27日。
教導航空軍司令部から第1挺進集団に対し、「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されます。
第2挺進団がフィリピン出撃中のため、サイパン攻撃隊は第1挺進団から選ばれる事となりました。
作戦命令は第1挺進集団司令部から河島第1挺進団長(※この時点で中村大佐は着任前)へ、そして山田秀雄第1聯隊長へと伝えられます。
山田聯隊長から特攻部隊の指揮官に指名されたのが、挺進第1聯隊第4中隊長の奥山道郎(みちお)大尉。
各挺進連隊の第4中隊は、破壊工作を目的に工兵出身者を集めていました。B29を爆破する為、サイパン特攻部隊として爆薬の扱いに長けた第1連隊第4中隊が選ばれたのです。

「そこで充当部隊の問題が重要課題として登場した。挺進第一聯隊、第二聯隊共に兄たり難く弟たり難き精鋭である。先にパレンバン出動時、南支那海で明光丸遭難で戦運を逸し、又ラシオ挺進では降下寸前密雲のため長恨を呑み、ニューギニア、スマトラ作戦でも共に戦局の急変にて空しく好機を逸して帰国した挺進部隊の嫡男、第一聯隊に白羽の矢をたてるのは何人と雖も異論のない所である。
しかも爆薬でB29を挫する為には当然工兵科たる大尉奥山道郎(陸士五十三期)を中隊長とする作業中隊であるのが至当である」
空挺戦友会資料より

奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
人員を補充再編した第4中隊残留組は「作業中隊」へ改称され、指揮は浪花実大尉が引継ぎました。

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挺進第1聯隊第4中隊長 奥山道郎大尉

「特攻隊員は全員志願のうえで出撃して行った」
などという“美談”は、義烈空挺隊のケースでは通用しません。
この「特攻隊」は志願制の体裁すらとっていなかったのです。

編成時に第4中隊で真相を知っていたのは、奥山中隊長、浪花大尉(後任中隊長)、宇津木、菅田、渡部、村上、山田の各小隊長のみ。
情報を秘匿するため、作戦の詳細は伏せられました。
高鍋から美々津あたりまでに分宿していた第4中隊員に対しては、出撃先も伝えられぬまま身辺整理が命じられます。
以前の南方出撃時には「散れや散れ 阿波岐原の若櫻 散るこそ汝の生命なりけれ」と詠んだ奥山隊長ですが、今回の出発地点は宮崎市阿波岐原の住吉兵舎ではなく、川南の空挺基地からとなりました。

「部隊の強味は選抜して編成したのではなく、私の部隊そのまゝが挺進部隊として成長したことである。
隊員はすべて十分に訓練を積んだ若武者ばかりですが、各隊長をはじめ隊員同志は直に家族のやうな愛情と團結のうちに苦労してゐたのが何と言つても心強いです」
日向日々新聞より奥山隊長の談話 昭和20年

「要するにまあ、何かやらにゃあいかん、という考えでしょうね。
あそこ(サイパン)へ行ってね、
誰が考えても、百名足らず飛行場に降ろしてパンパンやったってね、一週間経ちゃあまた元に戻るんですから。
後続部隊も行かんですしね」
「塔は黙して語らず」より、挺進第1連隊第4中隊長(後任) 浪花実氏の証言

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現在のJR日豊本線川南駅。奥山隊はここから豊岡へ向かいました。

第4中隊の指揮を浪花大尉に引き継ぎ、「特別演習参加」名目で奥山隊が川南を発ったのは12月5日夜の事です。

「昭和十九年十二月七日六時三分 大阪着
マダ薄暗イ。大阪、大阪ノ声ヲナツカシイ。両親ハ俺ガ大阪駅ニ居ルコトハユメニモ知ルマイ。
大坂ハ思ツタヨリ寒カッタ。窓カラ駅、三國ノ方ヲ見タガ名残リ惜シカッタ。出發六時十五分、御両親様ドウカ任務達成ガ出来マス様ニ、只此ダケニ力ヲアタヘテ下サイト御願ヒシタ。
生ヲウケテ二十余年、生キテ大阪駅ヲ見ルノハ此デ終リダ。今度見ル時ハ親ニ抱イテ見セテモラウノダ。大大阪モ此デサヨウナラ。
御両親様サヨウナラ」
井上祐子「誠心」より 奥山隊井上洋曹長(大阪府出身)の日誌

途中、東海地方で発生した地震の影響で汽車の運行が停止。路線を迂回したこともあって埼玉県豊岡への到着は8日となります。
奥山隊には山田連隊長も同行し、教導航空軍の下で特攻へ向かう部下をサポートしていました。

埼玉への移動前には、奥山隊全員が「血判状」を書いています。衛生隊員に注射器で採血させられた隊員達も、只の演習ではない事に気付いていました。
隊内では「おそらく高千穂空挺隊の後を追って南方へ向かうのだろう」等と噂が飛び交っていたものの
豊岡の航空士官学校(現在の航空自衛隊入間基地)で作戦内容を聞かされるまでは、まさか特攻隊に選ばれたとは思いもよらなかった筈。

空挺部隊は危険を承知の上で任務に就きます。しかし、彼らは死を目的に訓練してきたのではありません。
死ぬことを命じられた隊員の間には動揺が広がりました。
その直後、11月に結婚したばかりの曹長が自分の右足を撃ち抜きます。
思い悩んだ末の行為だったのでしょう。

部下を指揮すべき分隊長の自傷事件。
それを知った同僚の曹長達は激怒しました。

「私ら同年兵ですからね。
ほんで、私ら怒ったんですよ。
我々より下の13年、14年、15年兵が居るやないかと。それに貴様がね、そんな事をするんだったらね、俺達はね、言いたくないんやけど貴様を飛行場で殺す、と。
死体を飛行機積んで向う(サイパン)行くっちゅうたんですよ」
「塔は黙して語らず」より、義烈空挺隊第3小隊第2分隊長・和田伍朗曹長の証言

「やっぱり妻帯者は、あまり……、誰も同じですが、特に喜んでいなかったですね」
義烈空挺隊酒井曹長の証言

和田曹長らは彼の行為を諫める一方で、10名程いた妻帯者を任務から外すよう意見具申しました。

「“奥山隊長、少数精鋭でいきましょう”と。
そうせんとやね、奥さんや子供のある人はね、可哀想だと。だから、もう(妻帯者は)外せと言うたんですけどね。
“でもなあ和田、お前はそう言うけどね、そう言う訳にはいかんぞ”と(〃)」

この件については奥山隊長も最後まで悩んでいたそうですが、却下せざるを得ませんでした。
小隊長・分隊長クラスに既婚者が多かった為、指揮系統を保持できなくなる恐れがあったのです。

結果として、奥山隊からは1人の隊員も脱落していません。
しかし、その全員が平然と特攻を受け入れた訳ではないのです。鍛え抜かれた精鋭であっても、彼等は感情を持つ人間なのですから。

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整列した奥山隊。弾帯などはレイテ作戦時の高千穂空挺隊と共通ですが、降下装備を省いた分、各隊員は敵機破壊用の爆薬を大量に携行しています(それ故、両部隊は随分と違った姿に見えます)。手前の隊員が胸に提げているのは帯状爆薬などを収納する雑嚢で、中央の隊員が抱える吸盤付きの黒い円筒は「吸着爆雷」。竹竿の束は吸着爆雷の柄です。
他の隊員も破甲爆雷のケースを腰に装着していますね。

豊岡では、サイパン出撃に向けてB29の実物大模型を使った爆破訓練が開始されました。
この特攻部隊は1個指揮班及び5個小隊で編成され、各小隊は2個分隊(各4個班)構成。各班のメンバーは、敵機の爆破担当1名、援護2名でした。

胴体着陸した飛行機から飛び出すと、各組は敵に構わず滑走路を疾走し、B29に帯状爆薬や吸着爆雷を取り付けて点火。点火を確認したら30m程後退して伏せ、爆破に備えるという訓練をひたすら繰り返しました。

―爆破するとなりますと、爆薬を持っていくわけですね。
和田
吸着爆雷っていいまして、機体に吸いつくようになっているわけです。
―なにか磁気で。
和田
いや、磁気でなく、今、自動車なんかによくピシャッとこう、ひっつけるゴム(※吸盤)で、それが二つ着いているわけです。
そうしてですね、これに1キロの爆薬を仕込んどるわけで、それに柄がございまして、それが導火線なんです。ずっと下の方に口火があるわけです。
で、引っ張ると一〇秒の間燃えまして、これをB29の翼の下にパチッとひっつけるわけです。そしてB29を爆破すると……。
このほかに帯状爆薬といいまして、それをB29の胴体に巻きつけると。
その訓練を毎日やったんです。一か月間ですね。
―B29に巻きつけるって、その実物模型でもあったんですか。
和田
ええ、実物模型はですね、私たちちょうど豊岡の航空士官学校で、その実際に大きな実物大の模型を作りまして、毎日毎日朝から晩まで、B29の攻撃の訓練を積んできたわけなんです。
―そのB29なるものは、今のみなさんはなんて旧式な飛行機だとお思いになると思いますけれども、これがわれわれを悩ましたわけですね。
和田
そうですね。
―その実物模型の飛行機のどこへ爆薬をつけるということだったのですか。
和田
翼の下と、それから胴体の後ろの方に巻きつけるのです。

三國一朗「証言・私の昭和史」より、和田曹長の証言

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敵機の爆破訓練をおこなう奥山隊。胴体や主翼に取り付けた爆薬に点火した後、急いで機体から離れます。
本物のB29は手に入らないので、訓練では丸太とトタンで造った実物大模型や日本軍機のスクラップを標的にしていました。

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「かうして鍛へあげられた隊員たちの敵機爆破演習は実戦さながらの敏捷さと、壮絶さをもつて行はれた。使ひ古した飛行機を仮設敵機と見たてゝ、隠密に忍び寄り、爆雷を仕掛けて退避するその素早さは神業に近かつた。
しかも仕掛けた爆雷は一発の不発も、仕損じもないまでに技倆はめき〃と上達した」
「燦たり義烈空挺部隊」より

爆破に確実を期す為、B29諸共自爆するという案も第1小隊長の宇津木伍郎中尉から出されたそうです。
しかし、副隊長の渡部大尉から「一人で3機はやらにゃあ、日本男子があんなもの1機と心中しちゃあ、つまらん(「帰らぬ空挺部隊」より)」と却下されたとか。

自爆案はともかく、出撃に備えて全員の意思を統一する必要がありました。
奥山隊長は作戦遂行上の心構えとして、十箇条の攻撃訓を作成しています。

一つ、一斉溌剌と 
二つ、任務絶対俺がやる 
三つ、三人三世ぞ戦友ぞ 
四つ、よくみよ敵を準備を早く 
五つ、剛胆沈着腹を据え 
六つ、無駄弾撃つな大事な弾ぞ
七つ、七生報国早まるな 
八つ、早くしっかり装着点火 
九つ、ここが墓場ぞ潮時ぞ 
十で尊き任務ぞあくまで頑張れ


この頃、奥山隊は「神兵皇隊(しんぺいすめらたい)」、もしくは単に「皇隊」と呼ばれていました。

「俺ハ〇〇飛行場ヘB29ヲ爆破シニ行クノダ。大君ノ御身辺ニ爆弾ヲ落シニ来ル、ウドノ大木、オ化ケノ様ナ飛行機ヲ亡ボシニ行ク。此ンナ名誉ナ事ガ外ニ有ルカ。嬉シイ。嬉シイ。
敵地ニ着陸スレバ命ハナイノダ。シカシ敵機ヲ全部爆破スル迄ハ死ンデモ死ニ切レンゾ。敵機ヲ一機残ラズ爆破シタ後ハ、斬込ミダ。皆殺シダ。斬ッテ、斬ッテ、突イテ、突イテ、奴等ノ血ヲ蚊ノ涙程モ残サズ流シテヤル。

俺ハ神兵皇(スメラ)隊ダ。皇隊、今迄ニ皇ト云フ字ヲ戴イタ攻撃隊ガ何所ニ有ルカ。名前ダケデモ有難イ。
ヤルゾ、ヤルゾ、必ズヤルゾ、ヤラズニ居ルモノカ。
御両親様、俺ハ死ニマス。大君ノ為ニ死ニマス。喜ンデ死ニマス。喜ンデ下サイ。泣カズニ喜ンデ下サイ。俺ハ大東亜建設ノ柱ニナリマス。
B29ハ金高六十六萬ドル。七萬時間ヲ要ス。何人ノ職工デ造ルカ知ラナイガ、約八年間掛ルノダ。此ヲタッタ十秒間デ吹飛バスノダカラ、此ンナ気持ノ良イ事ガ何所ニアロウ。
俺等ガ帝都ニ爆撃ニ來ナイ様ニ必ズ致シマス」
井上洋曹長「つはもの手帖」より

12月6日、挺進第3聯隊と第4聯隊(の一部)で構成される「高千穂空挺隊」が米軍のブラウエン飛行場群に降下。
アメリカ軍と日本陸軍空挺部隊の戦いはこうして幕を開けます。
幾つかの飛行場を占拠した高千穂空挺隊は、夜通しかがり火を焚いて増援の降下を待ちました。
しかし、後続部隊はブラウエンへの降下を中止します。降下作戦の翌日になって、米軍はオルモック湾への上陸を開始。これを迎撃するため、第二派降下部隊はバレンシアへ急派されたのです。
頼みの綱だった第16師団と第26師団も、飢餓によって脊梁山脈を越える前に大部分が脱落。ブラウエンに辿りつけたのは僅かな大隊のみでした。

増援を絶たれた第一波降下部隊は米軍の反撃によって壊滅。タクロバン攻撃へ向かった片道特攻チームも、レイテ湾上空で全機撃墜されています。
第26師団の斬込み部隊と合流した白井第3聯隊長は、僅かな生き残りを率いてカンギポットへ撤退しました。

作戦上の連携もなく、情報共有もされないまま、同一目標へバラバラに空挺攻撃をかけた薫空挺隊と高千穂空挺隊。結局、二つの空挺作戦がレイテの戦局に寄与することはありませんでした。

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「パレンバンに天降つた神兵が決戦のレイテ島に再び出陣だ。體重より重い傘嚢のほかに機関銃を携へ、意気軒昂と乗込む高千穂降下部隊の勇士」 内閣情報局・写真週報より 昭和19年
勇ましく宣伝されたレイテ降下作戦も、挺進第3聯隊長以下が全滅という結果に終ります。高千穂空挺隊の予備兵力は第2挺進団長と挺進第4聯隊長の指揮下に分れ、フィリピン各地で戦い続けました。

【出撃中止】

高千穂空挺隊に続くため、奥山隊も着々と出撃準備を整えます。
12月10日、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流。
中野学校の10名はゲリラ戦・通信・語学・医療の専門家で、米軍占領下におけるサイパンの偵察や残存日本軍部隊との接触を図るため奥山隊に加わったのです。

総勢168名となった部隊は、12月17日に「義烈空挺隊」と命名されました。

同じ日、挺進第1集団司令部、滑空歩兵2コ聯隊、滑空飛行戦隊先遣チーム、挺進工兵隊、挺進機関砲隊、挺進通信隊がフィリピンへ向けて日本を出航しています。
米軍機に制空権を奪われつつあったフィリピンで、鈍足のグライダーを飛ばすなど最早不可能。グライダー部隊である滑空歩兵や挺進工兵隊は、その特技を活かすことなく地上部隊として戦うこととなります。
空母雲龍撃沈によって滑空歩兵第1聯隊の主力を失うも、ルソン島へ上陸した第1挺進集団は「建武集団」に組込まれてクラーク防衛の準備に取り掛かりました。
名前だけは勇ましい建武集団。しかしその実態は、様々な陸海支援部隊の寄せ集めでした。

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奥山隊長と諏訪部編隊長

茨城県の鉾田飛行場にて第3独立飛行隊が編成されたのは、昭和19年8月のこと。彼等はサイパン爆撃の専門部隊でした。
11月末には奥山隊との協同作戦が命じられたものの、経験に乏しい若手飛行士が多い上、燃料不足で充分な訓練もままならない状態でした。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。
「今頃の若い人にあんな飛行機に乗れ言うたら怒りまっせ。怖い言うて」と和田曹長が述懐している通り、爆弾倉は板を敷いて兵員室へ改装され、脱落した窓やドアはベニヤ板やブリキで塞いであったとか。
敵飛行場へ着陸したら、これらの修理箇所を蹴破って外へ飛び出すことになっていました。

このような中古機で浜松飛行場を飛び立ってから1200キロ先の硫黄島(秘匿名つばめ)で途中給油し、そこから先の1200キロは海面すれすれの夜間低空飛行でサイパン(秘匿名とび)を目指し、レーダーと迎撃機と対空砲火を潜り抜けて深夜の敵飛行場へ着陸する。
あまりにも困難な作戦です。

第3独立飛行隊のパイロットたちは、サイパン着陸後に奥山隊と行動を共にする予定でした。
しかし、飛行士にとって地上で戦うなど納得できる筈がありません。
歩兵として鍛え上げられた空挺隊員と、空を飛ぶパイロットでは基礎体力も違いすぎます。地上訓練では、両者が一緒に駈け廻るのすら難事だったとか。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で「B29を奪って帰還する」という案も出されたそうです。

「最初はですね、サイパンのB29を焼くと。
そしてわれわれが戦闘しとる間にですね、飛行士が奪って帰るというような計画をしたんでございます」
「証言・私の昭和史」より

荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。

玉砕覚悟の空挺隊員やパイロットとは違い、中野学校の10名は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏、残置諜者として遊撃戦を展開する任務を帯びていました。
同じ中野学校出身者がパレンバン降下作戦に参加した時とは違い、今回は特攻作戦への同行。
「生き残る事」が目的の彼等は、空挺隊員にそれを悟られぬ様、苦労して作戦計画を立てていたそうです。

初顔合わせを終えた三者は、出撃に向けた準備を開始します。
しかし、義烈空挺隊の編成から作戦予定日までの時間はあまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。

結局、技倆不足を理由にクリスマスの出撃は延期となりました。飛行隊は浜松へと引き揚げ、更なる訓練に励みます。12月26日、教導航空軍は第6航空軍へ改編。義烈空挺隊もその指揮下に入りました。
出撃命令に備えていた12月20日頃には、陸軍省報道部が義烈空挺隊の宣伝映画を撮影しています。

全員が一言づつ国民に言い残す言葉を録画することになった。端の者から順にカメラを向けられるが、咄嗟のことで、豪の者も言葉がつまって、うまく言えない。
「よし、俺がやってやる」
進み出たのは先任小隊長渡部大尉。
「国民に告げる言葉!」
余りの大音声に、マイクを手にした録音係が、一歩後へ退った。
“俺が死んだら三途の川原でヨ、鬼を集めて角力取るヨ”
終り!
皆、呆気に取られている。
何だ、歌を歌えばよいのか。
「和田曹長やります」
渡部小隊長の傍に控えていた和田分隊長が進み出た。
“咲いた桜が男なら 
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け桜花
八紘一宇の八重一重”
特攻隊に指定されてから、この歌が自分達のために作られたものと思われ、事あるごとに口づさんでいた。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

この映画はサイパン出撃後に公開される予定だったらしく、同部隊の井上洋曹長はこのように書き送っています。

「洋は此度選ばれて大御心を安んじ奉る為大東亜戦争戦勝の端を開く為我大和島根を爆撃に来るB29爆砕に・・・・島へ行きます。
行く道は知っておりますが帰る道は知りません。
洋は此の通り元気旺盛です。御安心下さい。後はよろしく御願ひします。
規は必ず立派な軍人にして兄の仇を討って呉れる様云ひ聞せて下さい。
後れまして新年御目出度う御座居ます。昭和二十年は戦勝の年です。益々團結強固にし大いにやりませう。
洋は一足先に敵機を爆砕又爆砕、斬って斬って斬りまくり奴等の血を蚊の涙程も残さず流してやります。どうぞ御期待下さい。
何時頃着くか不明ですが、大きな荷物一小包一が行きますから使へる物は皆使つて下さい。
一寸参考に申上げますが二、三ケ月後に我々の映畫が出ると思ひますから見に行って下さい。洋にも和田曹長にも會へますよ。
和田曹長は眼鏡をかけてゐます。洋と一緒です。
奥山大尉の元気なお顔も出て来ます。洋の手形を同封して置きますから置いといて下さい。
皆様御元気で」
井上祐子編「誠心」より

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整列した義烈空挺隊。軍服や装具の各所にポケットを増設しているのが分りますね。

豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。

「昭和二十年一月一日
今年の新年は靖国神社の樹の下と覚悟致していたのに、また馬齢を加えた訳です。
今度行くからには決して生きては帰れません。また、遺骨も帰らない事を覚悟しておいてください。
それ程に、我々の責務は重大なんです」

義烈空挺隊 S曹長

“特攻せよ”と死ぬ事を命令しておきながら、年が明けても出撃命令は一向に下されません。
1月10日の再演習でも飛行隊の技倆不足は改善されておらず、途中給油地の硫黄島も状況が逼迫。このような状態で、大本営には168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇いがあったと伝えられています。
しかし。
死を覚悟した隊員達にとって、それは残酷な仕打ちでした。

「“まだ死なせんとか”って言いよった位ですけん。
“まーだ死なせんか、もう死なせてくれ”って言いよったですね」
「塔は黙して語らず」より 義烈空挺隊第4小隊 酒井一義曹長の証言

1月13日、豊岡で盛大な見送りを受けた奥山隊は出撃基地である浜松飛行場へ移動。諏訪部隊と合流したものの、作戦決行日は未定のままでした。
陸軍落下傘部隊が発足した浜松の地で、義烈空挺隊は待機を続けます。

「ある寒い日、某下士官が所要あって隊長室に入った。その頃は薪炭の使用が極度に制限され、ストーブも短時間しか焚けない。
奥山は底冷えのする室内で、窓際に置いてある金魚鉢を、ジーッと見つめていた。
「オイ、当番室に湯が沸いていたら持って来てくれ」
「お茶ですか」
「いや、湯だ。この金魚も寒かろう」
金魚鉢に湯を入れてやろうというのだった。
奥山の顔には、いつもの明朗さはなく、深い悩が読みとれた」
田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

サイパン突入の中止が決定された昭和20年1月27日。
奥山隊は、空しく宮崎へと戻りました。

因みに、川南への帰還が「里帰り」となる宮崎県出身の隊員に、阿部忠秋少尉(中野学校・東諸県郡高岡町出身)、蟹田茂曹長(東臼杵郡南郷村)、新藤勝曹長(児湯郡川南村)、谷川鉄男曹長(日影局區内日之影町)、森井徳満曹長(児湯郡妻町)、津隈庄蔵伍長(西臼杵郡七折村)、堀添綴伍長(西諸県郡須木村)らがいました。※出身地名は当時のものです。
彼らの一人は家族に対してこのような手紙を書き送っています。

昭和二十年一月二十四日
前略
何たる神様のお引き合わせか。
再び生きて踏まずと覚悟した故郷に。
ただ、天にも昇る心地。
状況の急変により一応川南に引き上げ、川南にて訓練する事になりました。
三度目の正直で、また生きて帰るなんて。


kawaminami

【硫黄島への突入命令】

奥山隊が古巣へと帰還した頃、フィリピンの闘いは熾烈を極めていました。

1月21日、ルソン島でクラーク防衛にあたる建武集団は米軍との交戦状態に突入します。同集団はあっという間に蹴散らされ、戦線に踏みとどまって戦うのは空挺部隊や海軍部隊のみとなりました。
2月4日、飢餓と病に苦しみながらカンギポットへ撤退した白井挺進第3連隊長が亡くなり、高千穂空挺隊の第一波降下部隊は文字通り全滅。
フィリピン各地に展開する陸軍空挺部隊は、塚田集団長率いる第1挺進集団・徳永第2挺進團長が指揮する高千穂空挺隊予備兵力・斉田挺進第4聯隊長が掌握する同聯隊残存兵力、その他の小集団に分れて激戦を繰り広げました。

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ルソン攻略後の侵攻ルートを見せつけるために散布された、アメリカ軍の伝単(心理戦用ビラ)

川南へ戻った奥山隊は唐瀬原地区の挺進第3聯隊兵舎に入り、次の出撃命令に備えて訓練を続けます。
そう、あの空挺給水塔が残されている場所ですね。第4中隊の指揮は浪花大尉に移っていた為、挺進第1聯隊に奥山隊の戻る場所は無くなっていたのです。
九州の片隅で宙ぶらりん状態となったまま、奥山隊長は部隊の士気を下げないよう苦慮していました。
彼等は他部隊との交流を絶ち、外出も控えて訓練に集中します。

しかし、次の攻撃目標はなかなか決まらないまま時間ばかりが過ぎていきました。
この頃、渡部大尉ら5名を第六航空司令部に派遣したのも、部隊の存在をアピールする為だったのでしょう。

「昭和二十年二月七日
目と鼻の所に居りながら、毎日家に帰れないなんて本当に残念ですが、全てお国の為と諦めねばなりません。
楽しかりしあの日々。
幸せに浸りしあの頃。
しかし、余りにも短い幸せだった。
再びあの日が来るかしら。
それは神ならぬ身の知る由も無く、毎日君の写真を抱き、楽しかりしあの頃を思い浮かべて居ります。
ではまたお便り致します。
愛しき妻へ」
義烈空挺隊 S曹長

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二月二十一日(水)くもり
米軍は遂に十九日に硫黄島に上陸した。一久(※小笠原へ出征中の実弟)もここにいたのならもう駄目である。日本軍には降伏ということは許されぬから全滅するまでやるのだ。
それであちらこちらで既に度々全滅している。勝つ見込みの全くない戦争を始め、多数の生命を失はしめつつある軍部のもの共は戦争が済んだら皆処分すべきである。
戦争を起し強権を振り廻していた連中は皆殺されても当り前である。明夫、一久、八郎三人共生きて帰る見込みは先づない。油津の兄も南支に行ったというのが本当なら大抵もうだめである。
在郷軍人会で一頃暁天動員なる愚にもつかぬことをやっていたが、それが取止めになったかと思うと、今度は防衛隊編成で竹槍の稽古だ。
竹槍などで戦えるつもりでいるからひどい目に遭わされるのだ。バカ気ている。
今日から五日間教育召集だという。こんなバカ気たことで時間をつぶしておれば、敵はさぞ喜ぶことであろう。
「戦争と人間」より 谷口善美医師の日誌

やがて渡部大尉らに伝えられたのは、3月19、20日を希望日とした硫黄島千鳥飛行場への突入命令でした。
偵察情報によると、そのころ硫黄島に不時着していた米軍機は下記のとおり。

第一飛行場
B29 4機
B24 5機
B25 1機
P61 28機
F6F 3機
P51 12機

第二飛行場
B29 3機
B24 5機
F6F 14機
P47 1機

硫黄島にいる爆撃機は少数であり、大部分は戦闘機でした。奥山隊の訓練内容は小型機の破壊へ切り替えられます。
しかし、遊撃戦不可能な小島への突入命令に中野学校組は困惑。
諏訪部編隊長も“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていたそうです。

硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。


3月12日の夜、奥山隊は土浦に到着。
11日に西筑波飛行場へ集結していた諏訪部隊と合流し、連合訓練を経て出撃に備えました。

しかし、まるで思い付きのように発案されたこの硫黄島突入作戦も、日本軍守備隊玉砕により中止となります。
渡部大尉は「1個中隊だと思って軽々しく取扱うな!(「帰らぬ空挺部隊」より)」と激怒したそうですが、失意のうちに奥山隊は再び川南へと戻りました。
なお、硫黄島守備隊では川南村から出征した兵士12名が戦死しています。

隊員たちが、ギレツクウテイタイをもじって「愚劣喰ウ放題」という自虐的なニックネームを付けたのもこの頃の話。

「硫黄島の作戦が又も中止された。いよいよもって生恥ばかりかくことになった。
兵隊の中にはこの様を自嘲してか、「グレツ喰イホウダイ」というニックネームまで飛び出し、吾々の憐れさを自ら嘆いていた。
あまりに長年月に亘り道草ばかり食っている特攻隊である。ホームシックにかゝるものも若干出てきたのも仕方のないことであった。
「こんどこそどうしたらいいのか」
流石の奥山隊長も少しやせたようだ。吾々百数十名は隊長のいうまゝであったが、これからどうなることかと心配になる。
皇軍の精鋭を誇ったものの、あわれさは益々つのるばかりである。
副隊長の渡部大尉は専ら航空総軍との連絡に当っていたが、中止ときまってがっかりしていられるようだ。
恥をしのんで帰るのはいやであった……。
3月末再び川南に帰還した。ここでは無茶苦茶に訓練で気をまぎらしているだけである。
日曜は他隊と出遭うのが厭だったので、月曜日を休日にしてもらって……
奥山隊長の苦しみも、この頃では顔に現れて来ていた」
空挺戦友会誌より、和田曹長の証言

給水塔

【九州本土決戦と義烈空挺隊】

唐瀬原で待機を続ける義烈空挺隊員は、夕方に起床し、暗闇の中で夜間戦闘訓練を繰り返しました。中には、ぐっすり眠り込んでゐる他の空挺連隊兵舎へ忍び込んでイタズラを仕掛ける隊員もいたのだとか。
深夜の川南一帯に出没する義烈空挺隊を気味悪がって、第一挺進団の歩哨は彼等の動向に神経を尖らせていたそうです。

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軍衣に迷彩塗装を施す空挺隊員。特攻作戦へ向けて、奥山隊では装具に改造を施しました。画像のような、両腕部への袖袋(肩ポケット)追加もその一つ。
義烈空挺隊の装具に関しては何だかんだと諸説が飛び交っている状態ですね。

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硫黄島守備隊が決別の打電を発した翌日、昭和20年3月18日早朝。西日本各地に突如として米軍艦載機の大編隊が襲来します。沖縄侵攻へ向けた露払いである、九州沖航空戦の始まりでした。

「この日空襲警報を知らせる都城警察署の、サイレンが鳴ったかどうか忘れたが、私がこの早朝に勤務についていた事は、或は鳴ったのかも知れない。
なぜかといえば、私達の対空通信は警報が発令されると、部隊の在空機に警報を知らせ着陸させる事になっていた。
異変はまず作戦室壕の隣りの、地下通信所の中で起こった。
この異変の第一線をキャッチした私の同期の奥村君(堺市在住)の話を総合すると次のようであったらしい。
彼は新田原との通信を担当していた通信手で、昨夜より徹夜の勤務が終ろうとしたこの日の早朝(多分六時から七時頃)、突然新田原より都城の呼出しが行われ、6という緊急略号信の連送が行われ始めた。
が彼にはこの6という略号の意味が解せなかったという。
しかし狂ったように連送してくる新田原の666に、何かただならぬものを感じた彼は当直の将校に連絡した所、この将校にも即座に6の意味がわかならかった。
やむを得ず新田原に6ウホ(6とは何のことか)の問合せを行った所、何と新田原より当時厳重に禁じられていた生文で「グラマンF6F」の事であり、従ってこの略号の意味する所は「都城に告ぐ、現在新田原飛行場は敵艦載機グラマンの攻撃を受けつつあり」という事であり、「直ちに全飛行場を呼出せ」という将校の命令も時既に遅く、南九州の各飛行場からは、危急を告げる緊急呼出しが一斉に始まったという。
おそらく前後の事情からして、この事件の直後であったと思うが、一人の将校が血相変えて私の居た地下壕へ入ってきて「艦載機の来襲だ。直ちに戦隊に通報しろ」と怒鳴りつけるように指示して又飛び出して行った。
私は突然の事に情況の判断が出来ず、仮定の訓練だか本物だかよくわからなかった。
それというもの都城へ展開以来、空襲警報は度々発せられたが、いつもきまって北九州へのB29の来襲で、空襲といえば北九州という先入観があったからである。
それでも一応命ぜられたように、戦隊に通報しようと壕を飛び出したが、ものの十米も走らぬ内に、突然連続した大爆発音が起り、はっとして立止ると、何と目の前の明野隊の格納庫附近が次々と爆発して、火柱と黒煙を噴き上げていた。
同時に付近で「空襲だ」「敵機だ」「退避しろ」という叫び声があり、上空を見ると濃紺のズングリした見なれぬ単発の編隊が、翼からロケット弾の白い煙を前後に引きながら降下しており、私は驚いて指揮所の中へ飛び込んでいった」
「埋もれた青春」より

上記の通り、南九州沿岸に設置されていたレーダー群や警戒システムは殆んど役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到。この奇襲を皮切りに、赤江、新田原、富高、都城西の宮崎県内各飛行場は凄まじい空襲に晒され続けます。
無傷だったのは、草原と見間違えられて爆撃を受けなかった都城東飛行場と都城北飛行場のみ。輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、空襲から逃れるのは不可能でした。
唐瀬原飛行場から第1挺進集団司令部にかけては、激しい爆撃が加えられます。建物への直撃弾が少なかった事は幸いでした。

日向市の冨髙飛行場を飛び立った戦闘306および戦闘307飛行隊は米軍機に空戦を挑みますが、赤江や都城の戦闘機は「本土決戦に備えて戦力温存」の命令で掩体壕の奥へ隠されました。
孤軍奮闘する富高飛行隊も2日間で18機を失い、残存機は鹿児島の笠之原飛行場へ撤退。以降、富高飛行場は防空ではなく特攻の中継地と化します。
「我が軍の戦闘機はどこにいるのだ?」と悔しがる住民を嘲笑うかの如く、米軍機の波状攻撃は続きました。

豊岡や西筑波で待機中、義烈空挺隊員らは本土空襲の惨禍を目にしていました。覚悟はしていましたが、遂に平穏だった宮崎も敵機の標的となったのです。再び唐瀬原へ戻ってきた奥山隊も川南空襲に遭遇。被害はなかったものの、逼迫する戦況の中で待機を続ける心境は如何ばかりだったでしょうか。

九州南部にひと通りの打撃を与えた米軍は、沖縄へ航空戦力を注ぎ込みました。宮崎への空襲も、4月中旬までぱったりと止んでいます。

昭和20年4月1日、米軍が沖縄へ上陸。いよいよ戦況は絶望的となります。
この頃になると、軍部は本土決戦を見据えた「決號作戦」の準備に着手。陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われる事になりました。
沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
米軍上陸に備え、第57軍は第154、156、212の各師団を宮崎沿岸部に展開し、霧島山麓には第25師団を配置。海軍も延岡の赤水、日向の細島、日南の油津などに第33及び第35突撃隊の人間魚雷陣地を建設します。
海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東飛行場からも、続々と特攻機が飛び立っていきました。
宮崎は、特攻と本土決戦の最前線と化したのです。

やがて沖縄戦の勝敗が見えてくると、米軍機は再び九州南部へ襲いかかりました。
戦災を逃れるために沖縄から疎開していた児童にも、宮崎空襲による犠牲者が出てしまいます。
郷土を護ってくれると思い、広大な土地を提供し、過酷な建設作業に協力した軍用飛行場。それらが迎撃機すら上げず、反対に敵機の攻撃を誘引しているとは。
想定外の状況に、地域住民は愕然となりました。

当初は軍事基地や鉄道施設ばかり攻撃されていたので「空襲慣れ」していた宮崎県民も、無差別爆撃が始まると同時に内陸部へ一斉疎開し、焼夷弾延焼防止のため家屋疎開も始まります。
ゴーストタウンと化しつつある宮崎市街では、陸軍第154師団による疎開家屋からの物資徴発も行われました。要するに、無断で留守宅へ入り込んで家財道具を持ち出したのです。空き巣まがいの「徴発」に市民は憤りますが、本土防衛のためには耐え忍ぶしかありませんでした。
季節は梅雨へと移行しつつあり、資材不足と連日の雨で陣地構築は遅滞。二転三転する防衛計画もそれに拍車をかけました。
沿岸部張付けの3個師団は山間部へ立て籠もるための防空壕掘削にとりかかります。後方支援基地の霧島山麓一帯には膨大な軍需物資が集積されつつありました。



そして宮崎県の防衛戦には、川南の空挺部隊も組み込まれていました。空挺作戦をしようにも輸送機は足りず、地上部隊として戦うしかなかったのです。
空襲警報が発令される度、空挺隊員らも防空壕へ逃げ込む日々が続きました。いかに精鋭部隊であろうと、空を飛べなければ歩兵の集団に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行隊のうち、日本に戻ってきたのは僅か2機でした。
大損害を蒙った挺進飛行隊は、西筑波の滑空飛行戦隊と共に北朝鮮で戦力回復に努めます。敗戦時、この措置が裏目に出てしまうのですが。

決號作戦に備え、第1挺進団と第1挺進戦車隊は部隊の移動を開始します。
予想される米軍の上陸地点は、本州の九十九里浜と九州の鹿児島・宮崎沿岸部。南九州の戦いで全滅するのを避ける為、空挺部隊を関東にも分散配置することが決定されました。

まず、挺進第1聯隊は千葉県の横芝へ移動。第1挺進戦車隊は大隅方面の要衝・都城盆地へ差し向けられます。
第1挺進集団のうち、川南に残されたのは挺進第2聯隊と第1挺進整備隊。そして、次の出撃命令を待つ義烈空挺隊のみとなりました。

第1挺進集団の指揮を離れ、第6航空軍の隷下となっていた義烈空挺隊。彼等は、仲間たちが本土決戦に備える川南で浮いた存在となっていました。

米軍の九州侵攻が現実味を帯びてきたこの頃、中野学校関係者が義烈空挺隊を秘かに訪問。同期の辻岡少尉へ本土決戦に備えた「地区特設警備隊」の編成計画を伝えたと「帰らぬ空挺部隊」にあります。
まるでスパイ小説のようなエピソードですが、同時期の宮崎県に中野学校出身者が集結していたのは事実です。この九州ゲリラ戦計画は、最近のNHKによる取材によって明らかとなりました。

沖縄戦が始まるおよそ3ヶ月前のことだ。高橋さん(※中野二俣分校出身・高橋章氏)ら見習士官は、福岡に先に赴任していた中野出身の上官から、本土決戦に向けた具体的な任務を言い渡されていたという。
「沖縄が危なくなったら必ず九州(鹿児島の)志布志湾が上陸の最前線で、(宮崎県の)川南、高鍋の地帯は、敵の艦砲射撃の元に落下傘が下りてくるぞと。いかにしてそれを守るかというのが、私たちに与えられた参謀本部からの指令で、中野式の遊撃戦を展開するためにどうすべきかということを、お前らそこで勉強せいと言われて、二十何名、飫肥(現・日南市)の振徳堂(※飫肥藩の藩校跡)に皆集めて、いわゆる見習士官ばっかり集めて訓練をし始めたんです」
―飫肥には何があったんですか?
「教育隊。幹部だけだから、兵隊はおらんわけですから。皆、予備士官学校出の、バリバリの中野学校出身者を集めて」
―みんな中野の人ですか。
「皆、中野出身です。九州に(アメリカ軍が)揚がったときに、どういうふうに戦うかということを、それだけを専門に勉強したんですよ。トンネルがどれくらいある。洞穴がどれくらいある、どこにどういう隠れ場所がある。陣地はこういうふうにする、何々部隊が何百メートルの隧道を掘る。そういうのを全部調べ上げた。米がだいたい何百俵、麦がなんぼ、とうもろこし、さつまいもなんぼで、何ヶ月間、兵隊を養えるか。そういうことまで全部、「兵要地誌調査」というのを、我々が専門的にやったもんですわ」

NHKスペシャル取材班「僕は少年ゲリラ兵だった」より

辻岡少尉のエピソードは真偽不明ですが、日南における中野学校ゲリラ戦義勇部隊「霧島部隊」発足と、その近くの川南に義烈空挺隊が待機していた時期は奇妙に重なります。
この本土防衛計画が実現する前に、激化する沖縄戦への義烈空挺隊投入が検討され始めました。

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整列する義烈空挺隊員。中央の兵士が手に提げているのは火炎壜でしょうか?

【健軍へ】

米軍上陸以降、沖縄の第32軍は戦略持久の方針を採っていました。これに対し、軍上層部からの「消極的」「米軍に制圧された飛行場を奪回してほしい」との圧力が強まります。
上陸初日に制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、あっという間に米軍の防空拠点へ早変わり。
ここから飛び立つ米軍機により、多数の特攻機が撃墜されていきました。沖縄方面への特攻作戦支援として、両飛行場の機能停止が要請されたのです。
5月4日、第32軍は反転攻勢を開始。しかし、全戦力の半分を失うという最悪の結果に終わりました。

以降も両飛行場への航空攻撃は続けられますが、米軍側も迎撃機と対空砲火で激しく応戦。目立った空襲の成果はありませんでした。
そこで、義烈空挺隊が北・中飛行場へ強行着陸、制圧している間に陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立案されたのです。
あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。

お手のものの出動準備はまたたくまに終った。
川南駅から水前寺駅を経て熊本健軍飛行場へ向かった。ここで第一挺進団の隷下を脱し、菅原第六航空司令官の直轄となった。
攻撃目標は北及び中飛行場とのことだ。こんどこそ決行間違いない。毎日毎日飛行場攻撃の訓練が、真っ黒になって繰り返えされた。
突撃!突撃!
走れるだけ走って1機でも多く焼いてやるんだ。
此頃では熊本も毎日グラマンの銃撃を受けていた。吾々営外者は旅館の1室を借りて毎日部隊に通った。
館主は吾々を見ると「兵隊さん、日本に飛行機があるんですか」「この戦争は一体どうなるんですか」との質問攻めである。まさか「この飛行機をやっつけに征くのだ」とも云えず閉口した。
毎日新しい空中写真での研究である。
沖縄の地形は日を追って変ってゆく。米軍の物量のほどを物語っている。
海上は沖の方が軍艦、その手前が輸送船、その又手前に海上トラック、上陸用舟艇と、海面余す処なく、沖縄は全く米軍の真中にある。夏の虫といった方が当っているかも知れぬ!
しかし一寸の虫には五分の魂があるという。
何が何でも今度こそは決行だ

義烈空挺隊第3小隊 和田曹長の証言より

昭和二十年四月十日
愈々お別れの日が参りました。
何もかも、あの時のあの固い覚悟で……。
すべては神様のみ御存じの明日の運命。
人間、欲には限りありません。
上を見れば上には限りなく、また、下を見れば下にも限りありません。
僕達としては、今日迄生活できた事を感謝せねばなりません。
今こそ国家危急存亡の時。私事にばかり走っては居られません。
錦旗の元に馳せ参ずるは今です。
無理な事を申す様ですが、小生の心中もお察しください

義烈空挺隊第4小隊 新藤曹長の手紙より

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健軍の三角兵舎前で、軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員。兵舎の屋根は木の枝で擬装されています。

5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入りました。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着し、出撃までの僅かな日々を合同訓練に費やします。

空挺部隊の訓練は戦闘訓練とともに、いやむしろそれ以上にこれらの訓練を重視して連日連夜あらゆる方法で、火の出るやうな訓練が課せられた。
踊り出すには〇秒の時間がきめられ、その基準に達するまでは何千回でも繰り返された。
もちろんこれと並行して輸送機の改造にもなみ〃ならぬ苦心が拂はれた。風防ガラスや天蓋がある装置で一度ぱつと開くやうな創意工夫も施されたが、これは訓練又訓練の血のにじむ努力の中から生まれた貴重な所産だつた。
また重い装具をつけてゐながらすばやい行動をとるためには脚力の養成が絶対必要なところから、隊員達は四十キロ以上の重荷を背負ひ、毎日何里となく駈歩を行つた。
駈歩は訓練中ばかりでなく、洗面に行くにも、便所に行くにも、入浴の往復にもすべてそれだつた

「燦たり義烈空挺隊」より

この頃になると、猛訓練の成果とパイロットの入れ換えによって諏訪部隊の技量も大幅に向上していました。

「私は毎日、隊長の操縦する九七重に同乗した。
海上五メートルという超低空で訓練するので、波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸したとき鴎の死骸が入っていることも度々だった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦後史別巻4」より、日本映画社藤波カメラマンの証言

昼は暗幕の室に寝、夜になると飛び起きて飛行場に走つた。
飛行機や戦車、物資集積所の模型に對し暗がりの中で夜の明けるまで猛訓練を続けた。
後にはわが偵察機の航空写真により敵航空基地そつくりのものが作られ、従つて一つの目標に對する訓練の程度は白昼行動するに等しいほどの正確さをもつてなされた。
また飛行機のどこを爆破すれば一番効果があるか、戦車のどの辺に爆薬を噛ませればよいか、周到綿密な訓練が何百編何千編となく行はれた。
暗闇の中で隊員同士がお互ひの気配を分別するはおろか、一人々々の気配まで区別して闇の向うから歩いて来るのに「おい○○」と呼び掛ける。
敵の真只中に強行着陸し、味方討ちせぬためにはこれまで徹底した魂の交流が必要であつた。
空挺部隊の特色は敵の腹中に飛び込んで、心臓を掻き回す戦術を続けねばならない。
このためには敵の砲の操作までも覚え込むといふ廣範囲の訓練が別途になされた。
空挺部隊を讃へる「空の神兵」といふ言葉があるが、隊員は之をにやけた言葉だといつて嫌つた。
「空の神兵等をこがましい。おれたちは當り前のことをやつて當り前の人間らしく死ぬのだ」といつてゐた隊長奥山大尉は豪放磊落な強者、典型的な空挺隊員で、日頃から生死を超越した明朗さだつた。
「俺達は永生きせねばならぬ。
みんな身體だけは大事にせよ。敵中においても出来るだけ頑張つて一人でも多く一機でも多くやつゝける」
何時も隊員にかう訓示した

「義烈隊勇士の神技」より 昭和20年

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健軍を訪れた上官に、作戦内容を解説する奥山隊長ら義烈空挺隊幹部。

5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。
同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。
20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。


1.義号部隊を以て沖縄(北)(中)両飛行場に挺進し 敵航空基地を制圧し、其の機に乗じ陸海航空兵力を以て沖縄附近敵艦船に対し総攻撃を実施す。
2.北飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及同地周辺地区の軍需品集積所を攻撃す。
3.着陸後有力なる一部を以って敵司令部及通信所を急襲し、高級将校指揮中枢を崩壊せしむ。
4.爾後海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点附近の物資集積所を攻撃す。
5.中飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて同地周辺地区・物資集積所を攻撃し、爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
6.予定滑走路以外に着陸せる場合に於いても、速に担任地域に至り任務完遂に努むべし。
7.目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期はX日Y時と予定し青吊星を併用す。
8.3Fsは搭乗機毎に一組となり、各部隊と共に戦闘せしむ。


奥山隊は離脱潜伏後、力の続く限り北飛行場への斬り込みを繰り返す計画となっていました。第1小隊関軍曹が遺した作戦計画書には、攻撃目標の地図に「我が墓場予定地ナリ」と書き込まれています。
つまり、飛行場の機能を一日でも長く妨害することに専念し、現地第32軍との連携や合流は一切考慮されていません。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部飛行隊長はそれを断ったと伝えられているそうです。

沖縄の敵飛行場に強行着陸に成功すれば、その晩のうちに敵飛行場爆砕の仕事を片づけてしまひます。隊員全部敵飛行場を自分の墓場と心得て手當り次第敵機をやつつけるつもりだから、自分は必ず成功する自信があります。
空挺部隊の目的を遂げたその後もなほ、もし万一生残ることが出来れば山中にもぐりて敵飛行場の周囲や戦果の報告など、最後の一兵となるまでゲリラ戦を續けて敵を殲滅する覚悟です

「最後の一兵迄 奥山隊長の決意」より 昭和20年

いっぽうの中野学校の10名はどのような作戦を立てていたのか。
中飛行場突入を予定していた熊倉順策少尉は、下記の様な証言を残されています。

一つは、無線班があります。無線機一台に二人がついて、これが二組あった(1.辻岡創少尉・酒井武行軍曹、2.阿部忠秋少尉・菅野敏蔵軍曹)。
着陸後は地上戦に参加しないで、すぐジャングルに駆けこみ、通信を確保する。
とくかく彼らは生かさねばならない。それで、技倆の一番確かな一番機に四人とも乗せているんです。
攻撃のあと、支援班が彼らに協力する。
英語に堪能な者(石山俊雄少尉)が、敵の兵舎などに潜入して、情報を得る。もう一人は医大を卒業した者(原田宣章少尉)で、負傷者らの治療にあたることになっていた」(熊倉氏)
熊倉少尉らを含む四人は、遊撃班である(梶原哲巳、棟方哲三、渡辺裕輔少尉)。地上機や兵舎、物資集積所を攻撃した後は、ゲリラ戦・謀略戦を縦横に行う手筈であった

嘉瀬秀彦「義烈空挺隊・読谷飛行場を急襲」より

地上戦が始まる前、沖縄各地には民間人や教師に変装した中野出身者らが潜入していました。空挺隊から離脱した彼等は、現地工作員や残存部隊との連携を図っていたのでしょう。

【沖縄への出撃】

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かつては健軍飛行場だった熊本赤十字病院の裏通り。
滑走路は、この道と103号線の間を東西方向に伸びていました。

義烈空挺隊が健軍へ移動した後、隊員は地元の陸軍指定銭湯「健康湯(後の観音湯)」へ通うようになりました。
出征によって若者の姿が少なくなっていた時期ですから、彼らの姿は餘計に目立った様です。
湯上りに二階の休憩室で寛ぐ彼らを、銭湯の堤ハツさんは乏しくなっていた茶菓子などを手配してもてなしました。

熊本驛前向入ル 藤江旅館内 井上洋
永らく御無音に打過ぎ失礼致しましたが御両親様御変り御座居ませんか、御伺ひ申上げます。
洋はまだ此の通り生きて居ります。
荷物着きましたでせう。あまり早く着き過ぎて驚かれたでせう。荷物は開けましたでせう。中も見られたでせう。
ノート手帖手紙も見られたでせう。
實はあの通りの仕事をやるのですが、今度は仕事をする所が異なっただけです。
洋は営外者で有りますので只今旅館生活をして居ります。此が生れて初めてで終りです。有難い事です。
父上様も毎日御元気でせう。まだまだ頑張って下さいよ。
母上様も相変らず面白い事を云って居られるでせう。家はしっかり守って下さい。たのみましたよ。
それから今居る家をかわらぬことにして下さい。何故ならば洋が死んでから軍隊の方から色々な連絡が有りますからです。
洋にはもう金は不用になりましたので五百七十円送る様にして居りましたから受取って下さい。小包の小さいのが行きますから此もたのみます。
行けば洋の人生は終りです。死んでも泣かずに喜んで下さい。後は必ず規が続く様に教育して下さいよ。一枝はまだ朝鮮に居るのでせう。元気でせうか。康も元気ですか。大きな体ですね。
洋は家の事は何一つ心配は有りません。元気一杯走り廻ります。家にこの手紙が着いた頃には……。
御父上様も御母上様も此の戦争に勝つ迄は生きて居て下さい。必ず勝ちます。
母上様に申上げますが貯金通帖あれは勘弁して下さいね。洋は小さい時から体が弱くて親に相當心配を掛けました。大きくなっても此と云ふ孝行をしてゐない。全く御両親様にはすまないと思って居ります。どうか御勘弁を願ひます。
此度は孝行を一束にして致しますから泣かずに喜んで下さい。
洋の軍刀は規にやります。荷物の中の使へる物は使って下さい。食物は不服は無かったが丁度今頃たけのこのでんがくが食べたかった。あれは洋が好きでねえ。
熊本でいちごを食べた。生梅も木から千切って食べた。うまかった。
此でもう良い元気で行くよ。
御両親様御元気で。弟妹達によろしく。返事は絶對不用。 

御両親様
昭和二十年五月二十二日

井上祐子「誠心」より 義烈空挺隊第3小隊 井上曹長

義烈空挺隊が健軍へ移動して2週間後。
出撃予定日の5月23日がやって来ます。

この日は午睡のあと報道取材があり、隊員達は記者に対して思い思いの言葉を語りました。
彼等の様子については、幾つか記録も残されています。

「私達は兵舎の一隅で最後の撮影プランに入る。
午睡の時間か、静かなひととき。
チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。
奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がピシッ、ピシッと響いてくる。木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。
あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった」
「別冊一億人の昭和史」より 日本映画社演出担当大峯淑生氏の証言

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突入後に自分達が攻撃する目標を確認中の義烈空挺隊員。この分隊ではヘルメットを携行していますね。

私は任官後内地の勤務ばかりで弾丸の下を一回も潜つたことがない。
今度が初陣、任務が任務ですから日本男子としての光栄これに過ぐるものはありません。

中飛行場攻撃部隊指揮官 渡部利夫大尉(秋田県)



やりますよ、きつとやりますよ。沖縄は自分の郷里ですから何とかして敵を斬り倒して敵を殲滅して県民を安心させたいと思ひます。
(中略)
徴兵検査の時までこの土地で成長した。妻にも軍刀を一口呉れました。敵が來たらやるんだと。妻も元気で頑張つてくれてゐます。
故山に帰る、これほど武運に恵まれた喜びはありません。私は立派に死ぬことが出来ます。
まあ沖縄に行つたら私が道案内といふ所ですね。

山城金栄准尉(沖縄県国頭郡。沖縄出身の義烈空挺隊員は、他に比嘉春弘伍長がいました)



三角兵舎の陰に國民学校六年生の女子の書いた「祈必勝」の書き方を貼つて、熱心に眺めてゐる将校は東京外語出身の石山俊雄少尉だつた。
園芸が好きである。子供が好きであると語る少尉は、非常に優しい人。
「子供つて可愛い。子供がこれを書いて送つてくれたんです。これを持つて行く積りです」
少尉は何日も宿舎の表で数人の子供を相手に遊んでゐた。
一方の壁を見ると、女生徒の「霊忠」の書き方にまゝごとの人形がぶら下がつてゐた。




医学を勉強した私が何故軍人になつたかとよく聞かれますが、私は唯御國のために御役に立ちたいと思つてゐます。
恩師岡山勝博士は長岡の山本五十六閣下の隣の家で育つたさうです。この恩師は教育も医学も御国のために役立たせねば意味がないといつてゐる。
私はこの薫陶の御蔭だと思つて何時も感謝してゐる。

北飛行場敵司令部攻撃隊指揮 原田宣章少尉(満州國ハルピン市。石山・原田両名は中野学校隊員)



第○部隊
分隊長三浦歳一郎曹長(宇和島市)が地図を展げて部下に注意を与へてゐる。
「みなはぐれるな。着陸場所はこゝだ、分かつとるなあ。
着陸したら天蓋をはづしてすぐ外に飛び出る。飛び出たらペラ(※機体のプロペラ)に注意しろ。いゝか、疎開することを決して忘れてはいかんぞ。
この辺まで進んで手榴弾戦をやる。いゝな、もういはんでも皆分かつとるな。
ようし最後まで頑張るぞ」




奥山隊長室
幼年学校時代からの親友だといふ武井盆夫大尉(群馬県)が坐りこんでゐた。
武井大尉は爆撃隊としてこの日沖縄へ進攻したのである。
奥山大尉「きさまとは長い間の交際だな」
武井大尉「これが腐れ縁といふやつか。幼年学校の時からずつと同じ釜の飯を食つて來たのだから」
奥山大尉「同期生にもよろしくいつてくれ、元気で突込んだとな」
武井大尉「うん!」
奥山大尉「どころできさま、おれたちが突込むところをよく見て帰れよ、頼むぞ」
武井大尉「そいつだけは引受けた。おれに任せておけ。この次はきさまの骨を拾つて來てやるよ(爆笑)」
隊長はむしや〃するめを齧つてゐる。
武井大尉「きさまがさうしてするめを齧つてゐる圖はどう見ても〃ヨイコ〃としか思へんわい、あはゝゝ…」
奥山大尉「こいつつまらぬことをいふな……」
武井大尉「きさま少し痩せたな」
奥山大尉「昔は二十二貫を軽く突破してゐたがなあ、だがこいつだけは確かだ」
腕を撫して昂然!




編隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)は手紙を讀んでゐる。
宇津木中尉「誰から來た手紙ですか」
諏訪部大尉「見たこともない御嬢さんだが、女子挺身隊の女学生らしいなあ。東京都多摩郡吉野村四八八、久保富子さんだ」
宇津木中尉「綺麗な字ですなあ」
諏訪部大尉「うん」(讀む)
航空隊の勇士様達に負けないやうに生産に頑張ります。御安心下さい。
私達は勇士様達の飛行機を一生懸命に造ります。どうか私達の造つた飛行機で仇敵を撃砕して下さい。
そしてこの美しい皇土を護り抜きませう。
勇士様の武運長久を祈ります。

日向日日新聞「悠々たりし義烈隊勇士」より 昭和20年

この日、兵舎廊下の黒板にはこのような図が描いてあったそうです。
沖縄本島には伊江島方向から突入する予定でした。当初は反対側の伊計島方向から突入する案も検討されていた模様です。

義号作戦

空挺戦友会の資料や残された編隊図等を見ると、義烈空挺隊は下記のような編成になっていました。
サイパンから沖縄出撃までの間に、一部が変更されていたそうです。

熊本~沖縄までの誘導機
飛行第60戦隊 杉森大尉以下乗員7名(四式重爆)

北飛行場攻撃部隊(奥山道郎大尉指揮)
編成:指揮班、第1、第2及び第5小隊 
全12機中の8機で突入予定

隊長機
機番:4484
隊長:奥山大尉指揮 
正操縦士:川守田少尉
副操縦士:諏訪部忠一編隊長、
航法士:小林少尉
通信士:長瀬軍曹
無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹
第1小隊第2分隊長・尾身曹長
北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長

2番機
機番4132
第1小隊長:宇津木五郎中尉指揮
正操縦士:長谷川曹長
副操縦士:酒井少尉
航法及び通信担当:なし
第1小隊第1分隊長:宮越准尉
谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長

3番機
機番:4156
中野学校:石山俊雄少尉指揮
正操縦士:藤田曹長
副操縦士:新妻少尉
航法及び通信担当:なし
第5小隊第2分隊長:三浦曹長
蟹田曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長

4番機
機番:6540
中野学校:原田宣章少尉指揮
正操縦士:岡本曹長
副操縦士:町田中尉
航法士:瀬立少尉
通信士:石川伍長
指揮班長:石丸曹長
松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長

5番機
機番:4082
第2小隊長・菅田寿美中尉指揮
正操縦士:茂木軍曹
副操縦士:菊谷軍曹
航法及び通信担当:なし
第2小隊第1分隊長・藤村曹長
大浦曹長、佐藤曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長

6番機
機番:4138
中野学校:梶原哲巳少尉指揮 
正操縦士:岡本軍曹
副操縦士:松尾曹長
航法及び通信担当:なし
第2小隊第2分隊長・今村曹長
大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長

7番機
機番:6156
中野学校:棟方哲三少尉指揮
正操縦士:宮岡曹長
副操縦士:中原准尉
航法士:青井少尉
通信士:今田兵長
独立分隊:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長

8番機
機番:4475
第5小隊長:山田満寿雄中尉指揮
正操縦士:山本曹長
副操縦士:小川軍曹
航法及び通信担当:なし
第5小隊第1分隊長・伊藤准尉
高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長

中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮)
編成:第3及び第4小隊 
全12機中の4機で突入予定 

9番機
機番:6547
第3小隊長:渡部利夫大尉指揮
正操縦士:荒谷少尉
副操縦士:久野中尉
航法士:酒井少尉
通信士:簑島曹長
第3小隊第1分隊長:山城准尉
池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長

10番機
機番:6001
中野学校:熊倉順策少尉指揮
正操縦士:高橋少尉
副操縦士:小野曹長
航法及び通信担当:なし
第3小隊第2分隊長:和田曹長
南曹長、森山曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長

11番機
機番:4161
第4小隊長:村上信行中尉指揮
正操縦士:水上曹長
副操縦士:吉沢曹長
航法及び通信担当:なし
第4小隊第1分隊長・道上曹長
酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長

12番機
機番:4307
中野学校:渡辺祐輔少尉指揮
正操縦士:小林軍曹
副操縦士:木村曹長
航法及び通信担当:なし
第4小隊第2分隊長・新藤曹長(旧姓東郷)
稲津曹長、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長

予備機
4062、6680、6546、4170

※11番機が渡辺少尉指揮、12番機が村上中尉指揮と記載されている資料もあります

中隊は5個小隊、小隊は2個分隊、分隊は3個班、班は3名編成。
指揮隊1と攻撃隊9から成り、各攻撃隊は爆破・軽機関銃・擲弾筒チーム編成。
飛行機1機につき正副パイロット各1名。
各小隊に特別任務将校各1名配属。
爆薬・帯状爆薬各班2名、其の他手榴弾、破甲爆雷。
各分隊に軽機関銃1、小銃5、擲弾筒1。
沖縄にはハブがいる為、毒蛇の血清も携行しています。

義烈空挺隊に関して注目の的となっているのが、手製の迷彩服。
その色や染料に関しては所説紛々状態となっております。

挺進部隊の迷彩服について解説したテキストが、高橋昇氏による「日本陸軍軍装史」。真贋については知る由もありませんが、興味深い内容ですから、ちょっと引用してみましょう。
「義烈空挺隊は全員、軍衣を墨や草木の汁などで染色、または吹きつけ、ハケ塗りを施した迷彩服を着用した。服は各人により手榴弾を入れるポケットも追加され、当時の写真を見るとその改造も一定していない。カラー写真で紹介する服は現存する義烈空挺隊の軍衣で(※当ブログでは画像は載せておりません)、昭和19年製の本廠検定のある濃緑色防暑服である。
曹長の襟章がつき、全体に墨を吹きつけた迷彩が施されている。おそらく飛行場のコンプレッサーなどを使って施したものと推測される。
墨は墨汁ではなく、通常の擦る墨である。左右の上腕部には小さなポケットが各1個つき、右腕はボタンつきで左腕は斜めにやや大きめで紐がついている。右肩には2本の紐が縫いつけられているが、これは装具の固定用であろう。
また、服の内側には地図などを収納できる大きさの29.5×19cm(右側)の2つの内ポケットがある。
私の見たところでは、仕上げがきれいなところから、この服の改造は個人の自作ではなく、修理工場で行ったものと思われる(高橋昇氏)」

義烈空挺隊の迷彩色について記した目撃談はこちら。カーキ地に黒模様かと思っていたら、いずれも「濃緑色」「緑青」とか書いてありますね。出撃の様子は映像や隊員の証言とも合致しているので、信頼性は高いと思うのですが。

防空情報が戦局の危急を傳へ、まだ明けて間もないこの基地に何かはげしい動きがあつた。木立に囲まれた基地には、まだ見たことのない姿の兵士が美しく整列してゐる。
これぞ廿四日出撃の命下つた神兵、義烈空挺部隊の集合であつた。
全員の注目を浴び、一段高い堤に立つ現地航空部隊指揮官が最後の訓示を行つてゐる。隊伍の右翼に堂々たる隊長奥山道郎大尉、隣りは痩形の操縦隊長諏訪部忠一大尉、續いて各搭乗空挺機毎に一班一班とづらりと並び、けふを晴れの装束は下着から全部濃緑色の軍服もまだらな手製染抜きである。
軍服の上には胴体をぐるりと取巻くやうに各種兵器が装備され、全身武装でふくれてゐた。
汗が勇士の額に流れてゐた。しかし顔だけは明るくほころんでゐる。死線を越えた神の笑いがその表情にあつた。
先頭勇士の肩に靡く「義烈空挺部隊」の旗印、軍帽の下から日の丸の染抜きの鉢巻の端が古武士出陣の晴れ姿にも似てきりゝち締まつてゐた

「莞爾と征く義烈空挺部隊」より 昭和20年5月28日

飛行場に並んだ飛行機は、輸送隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)の指揮する隊員搭乗の精鋭機だ。
出撃前十時半、部隊長の服装検査が行はれた。隊員は隊長以下何れも緑青の染色にまばらの偽装を施した制服を着用し、手にする兵器は爆雷を始め十数種の新鋭兵器など。
それに三食分の圧搾食糧、航空食などその重量兵一人約××キロ、普通の×人分に近い装備である。

静岡新聞「倒るを已まず」より 昭和20年5月29日
義烈空挺隊

奥山隊長の訓示に先立つて、航空部隊長が軍装検査を行つた。巡視する同部隊長は装具の装着や兵器の点検等を行ひながら、一人一人に対して慈父の情のこもつた問を発した。
「お前がたゞ一人負傷して戦闘に堪へぬ時の決意如何」
「自決」
「自決法如何」
「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」

「燦たり義烈空挺部隊」より

中野学校出身者は、この遣り取りをどういう思いで聞いていたのでしょうか。

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5月23日、陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。かつて川南空挺基地の建設に関わった菅原中将が、空挺部隊最後の出撃に立ち会う巡り合せとなったのです。


閲兵を終えた菅原道大中将は、死地へ向かう空挺隊員たちへ訓示を述べます。

隊員の一人一人に対して慈父の如く前を見後を見て、隊長の顔は凛烈の闘魂に燃え盛る。これ等勇士の姿に感に堪へぬ面持ちである。
そして部隊長は出陣前に当つてつぎの訓辞を行つた。
「本職親しくその軍容を検視、諸士の意気愈々高潮、既に敵を呑むの慨あるを認め、真に意を強うするものがある。いま皇国の危急に対し精鋭無比の諸士の決戦の焦点に突入せんとするその意義特に重大にして、その機を得たる今日より大なるはない。
今は沖縄の死闘将に酎にしてこの一挙が友軍今後の作戦に及ぼす所極めて大なるものにして、現地はもとより、全軍の括目凝視する所、諸士よく思ひ起ひをこゝに致し、縦横奮戦余す所なく奮つて任務の達成を図り以て聖慮を安んじ奉らんことを期すべし」


特攻隊員たちを送り出す際に「自分も後に続く」と公言していたこの司令官が、約束を果す事は遂にありませんでした。

「今やこの壮挙は天機震撼の神機なり。諸士こゝに思ひを致し永へに皇國を万代の安きに置き、以て聖慮を安んじ奉らんことを期せよ」
指揮官の訓示に續き、奥山隊長は隊員に代り
「有難き訓示を賜はり、感激に堪へません。最後の一兵となるも誓つて任務に邁進します。全員喜んで征きます」
と決然といひ放つた。
指揮官は更に「こゝに一女性が赤誠の純血で染めた國旗のほか、〇〇高女生徒の手になる鉢巻、人形などの数々がある。荷物になるかもしれないが持つて行つて戴きたい。更に、この短刀は〇〇の有志から贈られたものである」と奥山隊長、諏訪部隊長に一振が渡された。指揮官と最後の對面を終へた勇士達は、晝食後二時間の午睡をとるやう命ぜられた。
晝食を終ると隊員は手帳や手紙など私物を焼却したり、装具の点検などで多忙であつた。
「おい、死ぬ前は何と忙しいもんぢやな」
壕舎に天井が裂けるやうな哄笑が沸く。数棟の壕舎がゆれるやうに賑やかだ。今夜沖縄の北、中両飛行場に敵中着陸、殴込みをかけようといふ勇士達がわく〃する喜びを顔一杯に示してゐるのである。
午睡の時間が來た。
今夜の活動に備へてぐつすり寝て置かうといふのだ。雲雀が鳴く。静かだ。
敵艦上機が〇〇〇に侵入した、との報が入り、戦局はかうした中にも刻々危急の度を増して行く。
がつちり二時間を寝て起きた勇士達は素早く軍装を整へた。
最後の晩餐は肉汁であつた。粗末な晩餐でも勇士達は満足して一粒も残さなかつた。

「莞爾と征く義烈空挺部隊」より

「我々一同、最後の一兵となるも任務に向かって邁進、もって重大責務を果たす覚悟であります。全員喜び勇んでいきます」

夕刻、出陣式を終えた部隊が飛行機に搭乗しようとしたとき、思わぬ事態が起きます。
予報によると「23日の沖縄方面は天候が回復」とされていました。
しかし、先行する爆撃隊からは現地天候不良の報告が入ります。続いて海軍の杉浦参謀からは「現地悪天候により総攻撃を一日繰り延べにする」との連絡がありました。
海軍の作戦延期を聞いた第6航空軍は大混乱に陥ります。

菅原軍司令官は、沖縄へ向かう爆撃隊へ反転命令を打電。
出撃寸前だった義烈空挺隊員は静かに兵舎へと引き上げました。

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翌5月24日。
先行の爆撃隊より「現地天候良好」の報告が入り、出撃は決定されました。
迷彩を施した軍服をまとい、体中に弾帯や爆薬を装着した168名は再び健軍飛行場に集結します(この日、菅原道大司令官は参列せず)。

隊長の訓示を一語も聞き漏らすまいと全身を耳にして聞き入る隊員たちの眼は爛々と必殺に燃え、食ひしばつた口もとに殺気がたゞよつてゐる。
左右の肩から交叉して掛けた爆雷や手榴弾、擲弾筒などをはじめ十数種の新鋭兵器、それに携帯口糧、航空糧食などで体全体が異様にふくれあがり、その上からだんだら模様塗つた草汁の偽装が更に物々しい感じを與へるいでたちである。
大和をみなの純情と敵必滅の猛き血願をこめて全國各地から贈られた白鉢巻をきりりとしめた隊員たちの顔、顔、顔……


しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は次々と飛び立って行きました。

奥山隊の犠牲は、本命の航空攻撃を成功させる為のものだった筈。
しかし、陸軍と海軍の歯車は最後まで噛みあわないままでした。

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出撃前、それぞれ自分の故郷の方向に頭を下げる義烈隊員たち。川南空挺慰霊祭にて。
これらの油絵は同じものが2部製作され、陸上自衛隊と川南町が各1セット保管しています。

「捧げ銃!」
奥山隊長の号令一声、全員は宮城に対し奉り、最後の遥拝を行つた。時まさに〇時、遥拝を終つた隊員たちは、思ひ〃の方向に向ひてふるさとの父母兄弟に決別の挨拶をし終り、三々五々各自の搭乗機に向つて歩き出した

「燦たり義烈空挺部隊」より 昭和20年

隊員達は出撃前、家族や世話になった人々に宛てて遺書を残しています。
奥山隊長の手紙は、母に別れを告げるものでした。

昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様


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諏訪部編隊長は、兄宛の手紙に「部下多数あり 宜敷く御願い致します」と短く記し、飛行士32名の名簿を添えて送りました。

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「川南の空挺隊史」のブログですから、宮崎県出身の隊員が遺した手紙も載せておきます。

拝啓 御両親様 
忠秋ハ本日敵飛行場ニ斬込ミマス
生前何一ツモ出来ズ申訳アリマセン
リツ、高坊ニハ呉々モ宜シク御伝ヘ下サイ
祖父母様ニモ宜シク御伝ヘ下サイ
其レカラ私物梱包一個軍刀一個送リマス
承知下サイ
二十四歳デ玉砕シマス
任官以来御世話ニナッタ方モ沢山アリマスガ略シマス
面白イ話モ沢山アリマスガ略シマス
附記 
死後ノ処置ニツイテ
イ 金銭ノ貸借ナシ
ロ 婦人関係ナシ

隊長機搭乗 阿部忠秋少尉(東諸県郡高岡町出身。現在は宮崎市に合併)
第2小隊の前原曹長も似たような文面の遺書を残していますので、隊員同士で添削し合っていたのでしょう。

あの「健康湯」には正装した空挺隊員らが訪れ、出迎えた堤さんへ出撃を報告します。
もう必要ないからと100円ばかりの金を手渡した彼らは、今まで世話になったお礼を述べて去ってゆきました。
後日、健康湯へこのような手紙が届きます。

おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。
私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。
私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。
どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。
最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。
愛機南へ飛ぶ。
乱筆にてさようなら

2番機搭乗 谷川鉄男曹長(日之影區内日之影町出身。現在の西臼杵郡日之影町)

(妻の)写真と共に敵地にと思い居りましたが、
余りにも可哀想だから送りますれば、決して変に取らない様。  
では、いつまでも元気でね。
僕も元気で行きます。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
五月二十一日夜

12番機搭乗 新藤勝曹長(児湯郡川南村出身。現在の川南町)

「作戦計画が決まり、奥山隊は最後の仕上げの猛訓練を続ける。
暗夜の誘導路を息の続くかぎり走る。
一人が敵機に爆薬を装着する。
妨害する敵を二人が攻撃する。
爆破手が倒れれば次の者がかわる。
合図は呼子で自由自在に進退する。
数名が一団となり他の部隊の兵舎に忍び込んだり、急に出現したり忍者そのもので気味が悪い。
私は陸海軍の訓練や演習をいく度となく取材してきたが、こんな荒っぽい、しかも厳しい部隊は初めてだった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」より、日本映画社 大峯淑生氏

出撃に至る3日間、報道関係者は義烈空挺隊と寝食を共にして密着取材を行いました。
日本映画社時事製作局からは、7名の撮影スタッフが健軍に派遣されています。

「隊員達と起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。
窪塚カメラマンは“ひげのおっちゃん”と、親父くらいの年齢なので親しまれていた。
一番身体の小さい村瀬伍長は『韋駄天村瀬』の異名をとる二十歳の青年で、サントリーの12年ものを我々にすすめてくれたりした。
村上中尉は将棋盤を持って『一番願います』と私の好敵手だった。
飛行隊の長谷川曹長は、ひとなつっこい写真好きな青年で、撮影機を覗いて『見える見える、撮りますよ』と無邪気だった」

この長谷川道郎曹長(京都府)は民間パイロット出身で、出撃前に第3独立飛行隊の2番機機長に指名された人でした。

「妻子にも親にも秘密でしたからね。
『どちらへ行った?』『某飛行場、まあ九州方面』って言うだけでね。
何処へ行ったか判んなかったんですよ」
「塔は黙して語らず」より、長谷川曹長の遺族の証言

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出發!
あゝ遂に時こそ來た。廣場のトラツクに分乗、基地を横切つて出發。整備兵、修理班の兵隊はもう神兵を送らうとして大國旗を打ち振り〃「頼むぞ」と叫び、「お世話になりました」と神兵は答へる。
太陽が斜に、もう夕刻が間近である。赤く照り映える勇士達の顔は更に紅潮してゐた。美しい。これほど美しい顔はない。
基地の一隅に速製の板テーブルが設けられてゐた。
紅白の餅、小匙一杯の赤飯、勝栗の代りの豆、するめ、一切が一人々々の前に決死の門出を祝うてゐた。
現地航空軍指揮官は「もう何もいふことはない。皇國の彌栄を讃へんため最後の万歳を三唱する」
戦史を飾る航空総攻撃が始まらうといふ寸前、万歳の叫びが基地をゆすぶつた


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義烈隊員が帽子の後ろに付けている白いマークは夜光標識でしょうか?

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健軍飛行場にて、最後の宴

日本映画社の取材陣とは別に、健軍には従軍カメラマンの小柳次一氏も滞在していました。
義烈空挺隊を語る上で、彼の名を知らぬ者はいないでしょう。
数々の最前線で写真を撮り続けてきた小柳氏も、特攻隊の取材は辛かったと述懐しています。

私は十二月末からの中国、比島の前線従軍から、二月末に帰国していた。そして四月より、沖縄へ出撃する陸軍特攻隊基地の鹿児島・知覧飛行場と、同爆撃基地の熊本・健軍の両基地の取材に当っていた。
五月下旬早朝、二五〇キロ爆弾を抱いて数少ない隊員に見送られて発進して征った数機の特攻機を取材して帰った宿舎へ、至急もう一度健軍へ行けと連絡があった。
第六航空軍司令部に着いて初めて義号作戦を知った。「特攻機が敵の艦船に突入できるように敵飛行場をしばらくの間でもつかえぬよう」にする任務だった。
私は市内から通うのをやめて、基地の宿舎に泊ることにした。義烈の隊員は前線、あるいは国内の部隊からの志願者の中から撰び抜かれた下士官以上の強者で、訓練ももっぱら夜間訓練ばかりで、ある兵士が「われわれは落下傘兵ですが、作戦上夜間訓練ばかりで、飛ぶのではなく犬か猫と同じ夜行動物となりましたよ」と笑っていた。
また、ある兵士は「現在第一線に戦っているものよりうまいものを喰わしてもらい、たびたびの作戦中止になって申訳なく、いつ死なしてくれるかとそればかり考えていたが、今度死場所を得て幸せです」とも語った。
何か家族の方に伝言でも、と聞けば「国を護るということは、国民を護り、家族を護るということですから、家族のものも喜んでくれますよ」と答えるものもいた。
出撃前夜、奥山隊長を訪ねると「散る桜、残る桜も散る桜」の句をよみ、私に「挺進殉国」と色紙に書き、「自分の心境です」といって渡してくれた。

「義烈空挺隊を撮る」より 小柳次一

彼が撮影した写真には、笑顔で乾杯する宮越准尉や部隊最年長で沖縄出身の山城准尉、機内に乗込んだ新藤分隊長、小寺軍曹、宍戸伍長ら東郷分隊の面々、煙草を喫う熊倉少尉や和田曹長、お互いの階級章を外したり、整備兵に携行食料を分ける隊員達の姿が写っています。

中でも有名なのが、飛行機の前で握手を交わす奥山隊長と諏訪部飛行隊長の写真です。
2人を囲むのは、渡部利夫、町田一郎、小林真吾、新島幸雄、荒谷猛、川守田哲志、酒井義男らの各隊員。

「私は取材のとき、ノン・フィクションを建前にしていたが、奥山隊長の出撃機搭乗直前、諏訪部飛行隊長との握手を頼んだ(「義烈空挺隊を撮る」より)」
と小柳氏が書いているように、これは最初撮り逃してしまったので再度ポーズを頼んだものです。

奥山隊長
当時の写真より、搭乗直前に握手を交わす奥山隊長と諏訪部編隊長。

このエピソードは戦史家や軍事オタクによって好き勝手に脚色されていますが、撮影したご本人による説明は下記のとおり。

「隊長同士……、
奥山さんが乗る寸前にですね、“すいません、そこで握手してください”って言ったら
奥山さんが“千両役者ですねえ”って言って握手してくれたもんだから
周りの兵隊さん、笑ってる訳です」

「塔は黙して語らず」より 小柳次一氏晩年の証言

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義烈空挺隊員たちは、出撃前の短い待機時間を思い思いに過ごします。
陸軍予科士官学校教官だった中村勇挺進団長の周りには同校出身の隊員が集まり、母校の校歌を合唱。
他の小隊でも、負けじと義烈空挺隊の隊歌を唄いました。

頭上には早くも直掩する戦闘機が数十機旋回してゐる。すでに敵艦船群をはじめ飛行場を爆砕する陸海特攻機は他の基地から飛び立つてゐるのだ。
指揮官は一人々々の隊員に杯を運び、酒を汲んだ。向ひ側の爆撃機が始動を開始する。乾杯がすむとそれ〃隊員は各搭乗機の前に整列した。
ある班では最後に歌でも歌はうと腕を組み、顔を突き合せて「咲いた櫻が男子なら……」の特攻隊の歌を歌つてゐた。
神兵達の眼にも涙が、感傷ではない、嬉しいのだ。


記事中に出て来る歌とは、軍歌「さくら進軍」の歌詞を空挺隊向けにした替え歌「君は御空の特攻隊」のこと。隊員達によって愛唱されていたそうです。
※ほぼ同じ特攻隊向けの替え歌もありました。こちらは昭和20年公開の映画「最後の帰郷」の宴会シーンで特攻隊員達が合唱していますね。

1番(「さくら進軍」では5番)
咲いた櫻が男子なら 
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け 桜花 
八紘一宇の八重一重

2番(同3番)
明日は初陣軍刀を 
月にかざせば散る桜 
意気で咲け 桜花 
俺も散ろうぜ花やかに

3番(同1番)
日本ざくらの枝伸びて 
花は亜細亜に乱れ咲く 
意気で咲け 桜花 
揚る凱歌の朝ぼらけ

4番(同2番)
天下無敵の神兵の
姿頼もし花の空 
意気で咲け 桜花 
君は御空の特攻隊
君は御空の特攻隊

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健軍飛行場から出撃する義烈空挺隊。
最前列にはアンテナ用のポールを携えた無線班らが並びました。

爆撃機は滑走路に整列した。
一番機を先頭に空挺部隊員の前を離陸する。太陽がすつかり没して夕焼に染つた。
「北飛行場の西側攻撃だぞ、遅れるな」「いゝか、合言葉は」「二突きで殺すやうな下手はするな。一突きでやるんだ」
各班に気忙しく注意する。
爆撃機はすでに全機離陸してゐる。


18時50分。
奥山隊長の「搭乗」の号令の下、隊員を乗せた97式重爆は次々と健軍飛行場を離陸していきました。
しかし、8番機、9番機、10番機はエンジンが不調。渡部大尉らは9番機を棄て、予備機に乗り換えて出撃します。
山田隊の8番機、熊倉隊の10番機も離陸できず、焦燥感を募らせながら修理完了を待っていました。

出撃の様子については、当時の新聞でこのように書かれています。
勿論、故障機が離陸できなかったトラブルには触れられていません。

義烈空挺隊出撃の日は快晴であつた。
柔かい風がピスト前の吹流しを弄んでゐた。いま勇士達にとつて、一番心配なことは沖縄上空の天気であつた。
だが、沖縄上空快晴に向かひつつあり、の嬉しい情報がピストに飛び込んだ時、基地はさつと殺気を孕んだのである。
今次作戦に際し奏上の際、陛下には畏くも本作戦に特に御嘉尚の御言葉があつた、との参謀総長から部隊長への傳達を部隊長から各部隊へ傳達され、勇士達の感激は極度に達した。皇軍はもう戦はずして敵を呑んだ。
「義烈空挺隊を中核とする航空総攻撃の壮挙にあたり、切にその成功を祈る」
部隊長の訓示は、後に続く義烈空挺隊を主力とする海空陸が一丸、一挙に沖縄の敵戦力を殲滅しようとする豪快放胆な総攻撃をいま決行しようといふのだ。
空挺隊の誘導隊として同基地を発進する爆撃隊の轟音が地を揺すぶつた。 空輸機の整備が完了した。空挺隊の乗組みを待つばかりだ。 
軍衣に淡緑色の迷彩を施し、重い装具をつけた空挺隊勇士は、静かに壮行の式場に車から降り立つた。
現地航空部隊長が勇士たちの前に立つた。
荘重な声で
「今はもう何もいふ事はない。
諸子の気持ちを察し、皇国の彌栄を讃へんが為に乾杯をする。東方を向いて、大元帥閣下の万歳を奉唱する。唱和して貰ひたい」
杯を上げて万歳を奉唱する声の集団は、既に敵中に踊り込んでゐた。
隊長奥山大尉の杯になみなみと注ぐ、部隊長の笑顔は勇士達の『父親』の表情であつた。
「自分は余りいけないのですが」
はにかむ奥山隊長は堂々たる体躯の隊長であつた。
「しつかり頼むぞ」「必ずやります」
じつと見つめる部隊長と隊長。空輸機の発動機も快調の轟音を響かし、砂塵は基地を吹き捲くつた。
出撃は迫つた。
「いいか俺について来い、最後の一兵まで任務に邁進せよ」
奥山隊長の凛烈の声が軍刀にきらりと光つた。いよいよ出発だ。
「各分隊ごとに搭乗」
隊長奥山大尉の凛烈、火を吐く号令が轟々たる空気をかき消すやうに響き渡つた。
一機、二機、三機、爆撃隊が進発して行く。続いて空挺隊を乗せた空輸機が―敵中に強行着陸、敵陣に斬込み、敵陣を引掻き回さうといふ空挺隊。壮烈鬼人も泣く―言葉の彼方にある世界を何と表現し得られよう。
空輸機の機影も夜空に見えなくなつた。
飛行場にいつまでも機影を求めて空を仰ぐ部隊長、参謀長、隊長らの後姿……

讀賣新聞「火を吐く号令 今ぞ義烈空挺隊は征く」より 昭和20年5月

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「鉄帽・白襷も凛々しく手に手に武器を執り、輸送機に乗り込む空挺隊員」 内閣情報局

中村第1挺進団長は、機体に乗込む奥山隊長を呼び止めました。

十八時十分搭乗開始。
全員の搭乗を見きわめて奥山隊長が機上の人となった。錦の袋に入れた小刀が腹部のバンドに右から斜に差しているのが目にしみる。
ふと見ると大尉の襟章がついている。已に少佐に進級していることを通報してあった筈だが!と思いながら
「奥山、その襟章はもういるまい」
「そうですな!沖縄へゆくと軍司令官ですから」
と右の襟章ととりにかゝる。
そのとき思はず機上にのぼって左の襟章をとりながら
「なにかお母さんに?」
「なにもありません」
と右の軍袴の物入れから出したものは印鑑である。
十八時四十分離陸!機一ぱいに乗り込んだ九七式重爆機の前方のガラス張にも腹ばいになつて軽機を抱いて、片手を振りながら笑っているつはものたちは、これから三時間も山を越え海面をはいながら、沖縄の敵中に向うのである。

中村勇「建墓に至る道」より 昭和32年

このとき渡された襟章と印鑑が、奥山隊長の形見となったのです。

やがて基地をゆるがす轟々たる発動機の爆音砂塵が飛行場に渦巻いた。一番機に登場した奥山隊長が天蓋をあけて手を振つてゐる。ロイド眼鏡の底に光る眼を細くして、微笑んでゐるやうだ。
輸送隊長諏訪部忠一大尉も天蓋をあけて、日の丸を大きく振つてゐる。基地界隈の古老から贈られたといふ両隊長の腰の短刀が、天空に浮き出てくつきり見える。
二番機、三番機、四番機……。
全機が列線上に並んだと見るや滑走、離陸。ついで起る萬歳の怒涛、滑走路を挟んで並んだ部隊長も将校も整備員も、日の丸を振り、手を振つてこの壮途を見送る中を、全機は翼を接して離陸し、見事な編隊を沖縄の空目指して没して行つた。

「燦たり義烈空挺部隊」より 昭和20年

飛行場にとり残された8番機と10番機は、繰り返し離陸を試みました。
しかし機体の出力は一向に上がらず、山田隊は予備機に、熊倉隊も渡部隊が捨てていった機体に乗替えます。
「飛行は無理だ」と反対する整備員を押し切って、両隊は離陸を強行。エンジン不調機で1時間遅れて出撃します。
もともと8番機と10番機に航法士は乗っておらず、渡部隊の9番機に追随して沖縄へ向かう計画でした。
何とか飛び立ったものの、誘導する9番機がいない彼等が沖縄へ辿り着くことは不可能だったのです。
自分の位置も分らず、いつ停止してもおかしくないエンジンで、遅延の2機はとにかく南へ向かって飛び始めました。

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洋上飛行訓練中の諏訪部隊

健軍を離陸した12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に8番機と10番機がエンジン不調で、5番機と11番機が航法ミスにより脱落。
これら4機は九州へ反転しました。

渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。この10番機は何とか九州へ辿り着き、運よく隈庄飛行場附近へ不時着しました(パイロット1名が負傷)。
その他の3機は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着します。

八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、充分に減速できないまま橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職します。
※この不時着機に搭乗していた酒井曹長は「あちら(下流側)から降りて来て橋桁に当てた」と証言しています。

【突入成功】

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北飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機を調べる米兵。着地の衝撃で左翼側のエンジンがもぎ取られています。

「折からの夕日は翼を染めて一機また一機と飛び立つて行つた後、部隊長は奥山道郎大尉から手渡された小さな紙包を抱き抱へる様にしてピストへ帰つて来ると机の上にそれを置いて言葉もなくじつと見詰めた。
人々は隊長に倣ひほの暗い燈の下で同じ様にそれを見守り続けてゐた。
やがて沖縄本島の北、中飛行場に對する奇襲決行着陸に成功したとの報告が入り、更に北飛行場で敵の基地空軍力を根こそぎゆすり上げ、また中飛行場に對してもその特別攻撃が着々功を収めつつあるとの報告が矢継ぎ早に齎されるに至つて、紙の白さは見詰めるものの瞳に愈よまぶしく拡つて行つた。
部隊長が衝動的に立ち上つてそれを額に押しあてた。
中身はお金である。
義烈空挺隊の奥山隊長以下全員が、淡々たる別れの中に銃後に残して行つたのだ。それは百円札からばら銭までがごつたに混つてゐた。
義烈空挺部隊は元々落下傘部隊としての降下訓練を永年受けて来た精兵中の精兵である。沖縄決戦場にその機を迎へ、この基地に推進して来た。
しかし落下傘による降下でなくて空挺部隊として出撃するときまつた。勿論それに何不足はないのであるが、敵飛行場に飛行機ごと殴り込むこの作戦には當然大切な輸送機を台なしにしなければならない、非常な残念さがあつた。
そこで一人重爆一機以上と突入訓練が開始された。一人一人が重爆一機の攻撃力以上の戦果をあげることによつてこの輸送機を失ふ痛手をとりかへさうと言ふのである。十何種類の兵器を身につけて隊員達は基地を疾風の様に駆けめぐる訓練が熾烈を極めた。
最もめぐまれた条件の下に五月二十四日の夜を迎へた。
この日の朝、思ひがけなく義烈空挺部隊の原隊である落下傘部隊から部隊長がこの基地に訪れて来た。
そして出撃の直前まで行はれた部下達の烈しい訓練を観察してその成功を嬉しく信じたのであつた。ずらりと居並んだ輸送機の傍まで来るとその翼をなでさする様にして「これを失ふのはたまらんなあ」と奥山部隊長を振りかへつた。
パレンバン、レイテ、そして今度の義烈空挺部隊と難局にその都度大きな石を投じて来た陸軍落下傘部隊には今や陸続として後輩が続き、来るべき日に備へてゐるのではあるが、ともすれば輸送機が不足し勝ちで訓練が十分に進まないのだ、輸送機が欲しいと部隊長の話を聞いて奥山隊長は唇をかんだ。
「さうだ自分が今度の作戦で敵は勿論味方まで圧倒させるほどの奮闘をするので、それが後輩たちの道を開いてやることになる」と居合せた航空本部の某将校に語つたと言ふが、それでもなほ奥山隊長の気持はすまされなかつたのであらう」
日向日日新聞「空挺隊の尊いお金」より 昭和20年

義号部隊を送り出した健軍基地では、突入の報告を待ち続けました。
しかし、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線は一向に入りません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今到着」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。

同時刻、飛行第60戦隊の杉森大尉機(四式重爆・乗員7名)が伊江島方向から沖縄上空へ侵入。残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下しました。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。

待ちに待った知らせに健軍基地は沸き返りました。しかし、この入電を最後に義烈空挺隊からの連絡は途絶えます。
22時25分、着陸体勢に入った6機の赤信号を戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、パニック状態で緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。

沖縄の戦況情報が流れる。米二世を交えた特情傍受班が敵方の無線電話を邦訳して放送しているとの事であった。
「在空機は着陸するな」
「島外飛行場を利用せよ」
次々と敵飛行場の混乱が報ぜられた。
その時「大牟田近郊に不時着せる特攻機1炎上中」「隈府に特攻機1大破」「三角附近不時着1機あり」と矢継ぎ早の連絡だ。流石の菅原将軍も一寸当惑された様であった。
「引返機の処理は私の方でやります」との中村大佐の申し出に「よろしく頼む」との返事。
木下大尉の東奔西走で手際よく処理が進められた。事故機は後で判明したのであるが、1859(熊倉少尉高橋少尉機)1922(山田中尉機)1840(村上中尉機)後で更に1機が追加せられた。
引返機の原因は二機器材、二機航法と航空軍は調査報告している

空挺戦友会資料より

この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。

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現在の在日米軍嘉手納基地。もう一つの目標である読谷飛行場は写真の背後側に位置していました。嘉手納へ向かった義烈空挺隊機はいずれも突入に至っていません。

着陸後の通信を担当する筈だったのは、一番機搭乗の辻岡少尉ら無線班。
彼等が全滅したことで沖縄からの連絡は途絶えます。以降、義烈空挺隊の戦果については航空偵察と海外報道から得た情報から推測するしかありませんでした。

一、空挺部隊は進航途上における哨戒、目標周辺における敵夜間戦闘機の邀撃ならびに飛行場付近における熾烈な對空砲火を突破して北、中飛行場に敢然着陸成功したのは午後十時半であつた。
二、着陸と同時に全員勇躍まづ在地敵機を焼却破壊、同行爆撃機は空挺部隊の着陸ならびについで続々敵機の炎上する光景を確認して帰還した。
三、敵は大混乱に陥りその在空戦闘機は飛行場着陸不能なため或は母艦に着陸を企て海中に墜落し、或は不時着するなど自滅したもののやうである。
四、在地敵機を焼却した挺進部隊はついで所在の司令部、集積所に突入しこれが尽滅を期し敢闘中である。
五、空挺部隊並に爆撃機により沖縄基地航空力を撃破制圧せる機会に乗じわが特攻隊はどし〃沖縄周辺の敵艦隊に突入中であり、すでに二十五日午前中に體當りを報告した特攻機は次の四十機に達してゐるが、無電装置のない特攻機の體當りは報告に含まれてゐないので敵に与へた損害は甚大なものがあると思はれる。

「空挺部隊 敵司令部へ突入」より 昭和20年5月

廿四、五日の特別総攻撃が最高潮に達するころ、沖縄付近の天候はふたゝび急変した。二十五日朝の沖縄は雲高五百、視程十キロで、徳之島以南は小雨が降つてゐた。さうしてところによつては雨雲が海面すれ〃にまで垂れ下り、雲状況は八千四五百に達する厚い密集の壁を作つてゐた。
義烈空挺隊と特別攻撃隊を主軸とするわが航空部隊の主作戦がこの悪天候を冒して強烈につゞけられた。
雲の壁に阻まれて戦果の確認は困難を極めてゐるが、同日夕地上友軍部隊から入つた情報によると、二十五日は本島上空には終日敵機影を認めず、強行着陸を敢行した義烈空挺部隊の肉弾攻撃が熾烈拘束の目的を完全に達成したことを物語つてゐる。
現在なほ義烈空挺部隊と敵軍との間に砲戦が交へられてゐる模様である。
わが空挺強襲の際、本島北飛行場八箇所に大爆発を起して使用不能に陥つてゐた。
當時この飛行場にはP51、P47を主力にグラマンと少数の大型機を含む約三百機の敵機があり、義烈部隊の着陸當時、そのうち相當数が旋回に上つてゐたとしても地上において爆砕されたものが多数に達したものと判断される。
また中飛行場はその後なほ暫らく活動してゐたが、やがて滑走路に大爆発が起り、北飛行場よりやゝ遅れて機能を停止した。
陸海軍爆撃隊によつて行はれた伊江島に對する夜間爆撃も同飛行場の八箇所を炎上させ、若干の誘発を起したことも認められた。
一方振武神風特攻隊の大挙出撃は、前記の作戦より数時間をずらして實施された。徳之島以南の天候急変にぶつかり、一部攻撃を阻害されたものもあるやうだが、大部分は密雲を突切り雨の中を匐つて海面すれ〃に目標上空に到達、同日午前中に判明したものだけでも空母一、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、輸送船一、艦種不詳四に體當りを敢行してゐる。
悪天候に海上捜索が困難なために戦果はなほ確認されてないものが多いが、最終的にはなほ正確な偵察の結果を待たねばならぬ。

朝日新聞「義烈空挺隊、敵と砲戦」より 5月29日

義号作戦については各方面で報道されました。
そのうちのひとつ、讀賣新聞掲載の「月光下、天降る神兵」では下記のような内容になっています。
勿論、記者が沖縄特攻に同行取材した訳ではありません。突入後の描写は大本営発表を元にした創作。
要するにウソ記事です。

すなはち悪天候の間、満を持して待機してゐた各飛行部隊は晴天の訪れと共に一斉に襲撃を開始、沖縄戦場に猛然と殺到して行つた。
二十四日前夜半戦闘隊の掩護の下に、まず飛龍爆撃隊が出撃、伊江島基地を主目標として北、中飛行場の三飛行場を急襲。同夜は一晩中少数機による波状攻撃を繰行し、敵三基地を拘束した。敵基地空軍の制圧成るとみるや、突如奥山隊長の指揮する義烈空挺隊が行動を起し、北、中両飛行場に強行着陸を敢行した。
輸送機から踊り出した義烈隊員は直ちに在地敵機を求めて散開した。
偽装も遮蔽も無い敵機の位置はすぐにわかつた。
義烈隊員は脱兎のごとく身軽に敵機にかけつけるや、携行の新兵器を素早く駆使して敵機をもたゝく間(原文ママ)に破壊または炎上させてしまつた。
阿修羅の如く縦横無尽に暴れ回る義烈隊員の姿は、折柄十三夜の皎々たる月光に照し出されて凄愴を極めた。
忽然と出現した義烈隊員の奮闘ぶりに敵は茫然自失、一時は射撃も忘れてしまつたほどで、義烈空挺隊および飛龍爆撃隊は月光下に思ふ存分敵基地を蹂躙し、その機能を死滅させ、北、中飛行場はつひに使用不可能となつた。
この敵基地航空殲滅作戦に引続き、二十五日黎明には飛龍特攻隊が勇躍進発した。
飛龍特攻隊は昇る朝日にその両翼を輝かせて嘉手納沖に進撃、我が地上軍に砲撃を加へてゐる敵戦艦に対し猛烈な体當り攻撃を敢行した。如何に戦艦といへども飛龍の抱く大型爆弾の必中を食つてはひとたまりもなかつた。戦艦護衛の駆逐艦は慌てゝ逃げ惑ひ、右往左往する輸送船と衝突するものさへあつた。
飛龍特攻隊の進入とほゞ時を同じくして各その基地からは飛燕、破邪、山吹、九段、葉隠、悠久、降魔、天誅、櫻花など、振武特攻隊の各隊は一斉に発進した。
前線基地に待機中の振武隊はこの好機を掴んで全機敵艦船目がけて突入した。○○梯団(検閲による伏字)に分れた振武特攻隊は各梯団、各距離、間隔、高度差を効果的に保持しながら、厖大な幅と厚みと深さとを持つ立体的構成をもつて肉薄した。未だかつてみない多数機の堂々たる立体翼陣の波状進撃である。
邀撃に舞ひ上つたわづかの敵戦闘機群はその威容に圧倒され施す術もなかつた。振武隊は敵戦闘機の抵抗を受けなかつた。また敵艦からの対空射撃もなかつた。
このやうに振武隊が敵の妨害なしに目標上空まで進入することが出来たのは初めてのことであつた。飛龍爆撃隊ならび飛龍特攻隊さらに義烈空挺隊の事前空襲の効果は十分であつた。
たゞ海面だけがぎらぎらまぶしく光つてゐた。
そして嘉手納沖から糸満、湊川にかけておびたゞしい敵輸送船が死んだやうに横たはつてゐた。二、三日前に到着した敵船は軍需品を満載してゐた。振武隊にとつて絶好の目標である。絶好の機会であつた。
振武隊から発進する突入信号は、雀躍りするやうにこの基地の無電室にはづんで来た。
(中略)
この特別総攻撃の結果、物量依存の敵が絶対不可欠とする海と物の必需限度以上を瞬時に失つたに相違ない。混乱と狼狽の壁にぶちつけられた敵陣営の悲嘆こそいかばかりであらう


脚色された「大本営発表」をもう一つ。

新司偵は今日こそはグラマンもサンダーボルトも恐れぬ超低空だ。そして北飛行場に降下した神兵達が敵機をぶちこはしてあるのを確認することが出来た。これらの破壊班を護つて降下、直ちに転展して敵兵を邀へ撃つ勇士達も見た。
それは阿修羅の如き沖縄戦場の様相である。かく戦ふ勇士達の働きは一つ〃この基地無線班にぶつ續けに入つて來た。両飛行場では必死に戦ふ友軍も發見したし、右往左往する敵兵の醜態振りを見つけたのである。あゝ沖縄周辺で散華した特攻隊勇士、北、中両飛行場に天下つた天兵、これらの人々の沖縄総攻撃はみごとに成功。敵機動部隊の飛行機も徹底的に叩いたのである

合同新聞「義烈空挺隊出撃す 強行上陸成功せり」より

これらの記事が発表されたのは昭和20年5月27日。
同じ日の14時10分、米軍の放送は下記のように伝えています。

「強行着陸した日本軍全滅。本日10時以降北飛行場の使用支障なし」

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義烈空挺隊に破壊された米軍機

沖縄へ突入した義烈空挺隊はそのまま消息を絶ちます。
しかし、翻訳した外国の報道によって日本側も大まかな状況を把握していました。

リスボン二十六日発同盟
グアム島からのエーピー電は二十六日に至り右事實を初めて確認すると共に攻撃の模様を次の通り傳へてゐる。
「日本航空部隊が超低空から機銃掃射を加へる間に、日本軍の双発機は飛行場に強行着陸した。
飛行機の中からは日本兵が月光を浴び、相次いで飛出し爆筒と手榴弾をひつさげて飛行場に並んだ米軍飛行機を次々に攻撃して火を放つた」
一方ニミツツ司令部は二十七日公報で
「日本軍は空陸呼応して過去数週間中最も熾烈な攻撃を沖縄本島の米軍に加へて来た。
日本特攻隊の攻撃は今次戦争開始以来最も強烈なものであつた」と述べ、日本特攻隊並に航空部隊の奮闘を裏書してゐる。 

昭和20年5月29日

チユーリツヒ三十一日発同盟
沖縄本島の北、中飛行場に挺進強行着陸したわが義烈空挺隊は米軍の空軍基地を大混乱に陥れ、多大の戦果をあげたが、パリ来電によれば、ヘラルド・トリビユーン紙パリ版は五月二十六日沖縄発同紙特電としてわが空挺部隊の敵飛行場着陸刹那の凄肝な情景を次の通り打電してゐる。

二十五日夜日本軍の空挺部隊は突如として沖縄の米軍飛行場に強引に着陸を強行した。
折柄飛行場の滑走路には数百機の飛行機がおかれてゐた。この群る飛行機の真只中に双発の爆撃機に分乗した日本軍空挺部隊が着陸したのだ。
基地司令官の一人スミム中佐の推定によると、日本兵は飛行機一台に十二名乃至十五づつ分乗、この飛行場に着陸した彼らは何れも手榴弾、爆弾その他放火兵器を所持し、更に数日分の食糧を携へて来たらしい。
一台の日本軍爆撃機は米軍の輸送機と戦闘機が群り集まつてゐる真只中に見事着陸、間髪をいれずその中から十五名の日本兵が躍り出した。
着陸地から百ヤードと離れてゐない司令塔にあつた當直の一将校は直ちに日本兵に對して急射撃を加へ、塔の下まで迫つた日本兵を打ち殺したが、彼自身も胸に貫通銃創を受けて逃げた。
日本軍航空部隊はこの空挺部隊の攻撃と相呼応して同夜米軍飛行場を猛烈に爆撃したが、その爆撃は沖縄作戦開始以来最も長時間に亘り実に八時間続行された。

昭和20年6月2日

一連の外国報道を大袈裟に脚色し、日本側は義烈空挺隊の武勇伝を新聞雑誌で報道します。
このニュースも、国民にとっては米軍に一矢報いた程度の「朗報」に過ぎませんでした。
勇ましい大本営発表とは反対に、連日の空襲によって市街地は次々と炎上。
目の前の現実は余りにも絶望的だったのです。

五月二十五日(金)
二~三日静かなりしに、昨日は午後突如として艦上機の来襲あり。赤江より黒煙上れり。
昨日は帝都に零時半頃より二時間ばかりB29、二五〇機が来た。度々の空襲にて焼け野原なる如し。名古屋など全く焦土となったらしい。
宮崎も市内から逃げ出すものが多く、空家多し。その代り安全地帯とみられる地域はどこも満員なりと。
高岡と清武へ疎開荷物を昨日送り出した。主として衛生材料なり。
五月二十七日(日)
ここ二~三日は警報も出ず。静かなり。
東京には一昨夜半より昨暁にかけB29、二五〇機来り。火災を各所に生じて宮城や大宮御所も焼失せるものの如し。
米軍占領下の沖縄飛行場に日本の空挺部隊降下せる由なるも、どうせ一時的の孤立無援のもの故、これでどうなるというものに非ず。

谷口二郎「戦争と人間」より 谷口善実医師の日誌抜粋



奥山隊はどのような最期を遂げたのか。
それが明らかとなったのは、米軍の記録が公表された戦後のこと。「日米最後の戦闘」などを総合すると、概略は下記のようなものでした。

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美ら海水族館から望む伊江島。義号部隊は、この上空を読谷・嘉手納へ向け突入していきました。

5月24日は海岸及び沖合いの艦船に対する日本軍の来襲は頻繁となった。
24日の晩、天空は澄み渡り、満月で爆撃には最適であった。
20時に発令された空襲警報が解除になった24時迄の間、日本軍の来襲を重ねること7回に及んだ。第1回目に来襲した数機は読谷・嘉手納の両飛行場を爆撃し、第3、4及び6回目の来襲群も飛行場に対する投弾に成功した。
空襲警報は夜の早いうちから発令されました。しかし、暫くの間は何も起きませんでした。
頭上のどこかにジャップがいて、私達から数マイル北に照明弾を投下しました。これは通常、私たちにとってすぐにでも空襲が始まるという警告です。
最初の攻撃は21時頃、対空砲の遙か上空からベティ(一式陸攻のコードネーム)らしき双発爆撃機によっておこなわれました。
投下された白燐弾が飛散しました。私が数えた爆発は3回です。我々のサーチライトを浴びた爆撃機は、飛行場を旋回して姿を消しました。私達は激しい攻撃を加えました
(管制塔勤務の海兵隊軍曹による証言・意訳)」

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対空砲により、突入寸前で撃墜された義烈空挺隊機の尾部。

第7回目の来襲群は双発爆撃機5機から成り、22時30分頃伊江島方向から読谷飛行場に低空で侵入してきた。
対空中隊は直ちにこれを邀撃し、うち4機は炎上しながら読谷飛行場付近に墜落した。
私は対空砲火にも拘らず眺めていたのですが、管制塔から約500ヤード附近でそれが火を噴いた時はじめて爆撃機を視認しました。
その日本軍機は南―北滑走路の上を飛んでおり、約50フィートの管制塔ほどの高さで急速に接近して来ました。
敵機は炎上していて、どんどん高度を失いつつありました。
そして管制塔から約300ヤード離れた地上附近で爆発しました。
何機かの味方戦闘機が近くに駐機していましたが、被害はありませんでした


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読谷飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機。

しかし、5番目の飛行機は指揮塔から約250フィートの北東から南西に伸びる滑走路に胴体着陸した。
私は、炎上する墜落機の向うに、北東―南西滑走路に侵入しようと旋回している二番目の爆撃機を見ました。
私は、対空砲が敵機を破壊したと思って叫びました。
敵機がいつ炎上するかと見ていたのですが、それは管制塔を通り過ぎて完璧な胴体着陸をし、約100ヤード離れた地点に停止しました。
エンジンが切られ、静かに滑走したその爆撃機は影に隠れました


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読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機(別角度より撮影)。胴体側面に空いた搭乗口から、空挺隊員たちが飛び出していったのでしょう。
和田曹長の証言にあったように、天蓋部分は板で塞がれていますね。

滑走を終えないうちに約10名の完全武装兵がこの機から躍り出て、滑走路に沿って配置してある飛行機に向かって手榴弾及び焼夷弾を投げ、更にその一帯を小火器で掃射し始めた。
敵のパイロットが生存しているだろうと思った私は、双眼鏡を掴みました。
日本軍機のドアはこちらから見えない側にありました。2、3人の男が機体の廻りにいて、影の中に蹲りました。
それを炎上している爆撃機と月明りが照らしていました。
私は、彼等がパイロットと爆撃手だろうと考えました。38口径のピストルで武装した当直将校が、管制塔の階段を下りてジープへ向かいました。
彼がそうする前に、私は数人以上の男が飛行機の周囲へ来るのを見ました。私が注意するよう叫んだので、将校は戻ってきました。私達は「滑走路にいるのは日本兵だ」と叫び、周囲に警戒を促しました


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読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機の内部を調べる米兵。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
米軍撮影の写真より

この為、コルセア2機、C-54輸送機4機、プライバティア1機が破壊され、その他26機が損傷を被った。
日本軍の挺進攻撃によって想像を絶するような混乱が基地内に惹き起こされ、小銃機関銃火が乱れ飛び、米軍に多数の死傷者を出した。
海兵隊は、飛行場の端にあるカーチスC-46コマンド輸送機前の小さなテント区画に素早く陣取り、日本兵が銃撃を始めたので、低くかがんでC-46の方へ注意深く通路を横切りました

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義烈空挺隊に破壊された米軍機

日本兵は損傷した輸送機に隠れて手榴弾を投げ、これにより足を吹き飛ばされた海兵隊員を含め18名が負傷し、管制塔勤務のケリー中尉は負傷後死亡した。
この攻撃により、総計33機の破壊損傷機を出した他、7万ガロンのガソリンが炎上した。
23時38分には増援部隊が読谷飛行場に到着、飛行場勤務部隊を支援し、更に来襲を予想される日本軍空挺部隊に対する配置についた。
日本兵が管制塔を銃撃し始めたので、私達は急いで下に降りました。そして彼等を撃って、輸送機の方へ駈けて行く一人を倒しました。
他の日本兵が手榴弾を投げつけたので、塹壕の無い私達は後退せざるを得ませんでした。
日本兵はこの機を利用して、自分達の飛行機の方向へ駆け戻りました。
まるで行く先を探しているかのように、彼等は滑走路の真ん中で立ち止まりました。その中の2人は我々の銃撃で倒れました。我々の小型対空砲も彼等に向けられました。残りは影の中へ姿を消しました


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義烈空挺隊に破壊された米軍機。

調査の結果によれば、胴体着陸機の日本兵10名が読谷飛行場で戦死し、他の3名は飛行機内に於いて対空砲火の為戦死を遂げていた。
撃墜された4機には各々14名の兵士が搭乗していたが、遺体は何れも墜落炎上した飛行機内に散乱して発見された。海軍設営隊によって埋葬されたこれらの日本軍戦死者は69名を数えたが、捕虜になったものは1名もなく、ある者は自決した。
25日0時55分、残波岬で1名の日本兵が道路から藪に這い込もうとしたところを射殺されたが、おそらく空挺部隊最後の1兵士であったのだろう。
これが起こっていた間、更に2機の爆撃機を撃墜しました。
散発的な爆発をのぞいて、すべての区域の銃撃戦はじきに終りました


読谷飛行場は、滑走路上に散乱した破壊物の破片の為、25日8時まで使用できない状態であった。
空挺部隊の攻撃と同時に日本軍機が伊江島飛行場に来襲した。
この爆撃は飛行場に対し直接大損害を与えなかったが、米軍は60名の死傷者を出した。
この夜、空中攻撃によって日本軍機11機を沖縄で、16機を伊江島上空で撃墜した。



北飛行場へ向かった8機中、1機が着陸に成功、被撃墜4機、不明1機、途中帰還2機。
中飛行場に向かった4機中、途中帰還2機、残る2機は不明。
12機中僅か1機しか着陸できなかったにせよ、その1機の為に北飛行場は大混乱に陥りました。
それだけ見れば、ある程度の戦果はあったと言えるでしょう。

しかし、奥山隊の死闘空しく、主目的の航空攻撃は梅雨時の悪天候により失敗します。
こうして義号作戦は終了。「1名の飛行士が敵中を突破、6月12日頃に第32軍と合流した」とも伝えられていますが、真偽の程は不明です。
いずれにせよ、沖縄へ突入した8機112名の中に生還者はいません。


現地第32軍の八原博通作戦参謀は、義号作戦について戦後このような感想を述べています。

五月二十四日夜の義烈空挺隊の北・中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防衛戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。
むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北・中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遥か北、中飛行場の方向にあたって、火の手が揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して、感動を久しくした


……。

翌朝になって米軍が撮影した写真には、着陸・撃墜された97式重爆と破壊された米軍機の残骸、そして死闘の末に斃れた義烈隊員達が写っています。
空挺隊員の遺体は一人ひとり所持品や携行弾薬を調べられた後、重機で掘った穴へロープで牽引。地中深く埋葬されました(米軍の写真を見る限りでは、複数個所へ埋葬した様です)。

出撃直前に撮影された妙に和やかな雰囲気の隊員達と、それから数時間後の無残な結末の映像は
ひと繋がりの出来事だと理解はしていても、見比べて言葉を失います。

【知られざる戦死者たち】

こうして、沖縄へ突入した8機の隊員は全滅しました。
義号作戦の結末を「尻切れトンボ」と表現した菅原道大中将ですが、5月24日で全てが終わった訳ではありません。あまり知られていないのですが、作戦終了後に7名の義烈隊員が戦死しています。
エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機。
その搭乗員にも再出撃が命じられたのです。

沖縄への物資投下任務に指名されたのは、山本金保曹長ら7名の不時着機パイロット達。義号作戦から僅か4日後の出撃命令でした。
5月28日と6月3日、飛行60戦隊に組み込まれた義烈空挺隊の飛行士は再び沖縄へ飛び立ちます。
そして、二度と還ってきませんでした。

一方、奥山隊の不時着組48名は母体である挺進第1聯隊に吸収されます。
そのうち熊倉順策少尉(隈庄不時着)や酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは、再び特攻作戦への参加を命じられました。

義号作戦の後も、陸軍は空挺特攻を重ねようとします。
次の目標として選ばれたのは、義烈空挺隊が散華した沖縄と、半年前に突入する筈だったサイパン。
海軍空挺部隊と協同で行う「第二剣作戦」、そしてグライダーによる沖縄特攻「烈號作戦」はこうして始まりました。

米軍との死闘を繰り広げるレイテの高千穂空挺隊。
崩壊した戦線に踏みとどまる、ルソンの滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊。
大損害を蒙って戦力回復中の挺進飛行隊。
沖縄で散華した義烈空挺隊。

彼等に続いて、内地に温存されていた挺進第1聯隊及び第2聯隊、挺進戦車隊や挺進整備隊も戦いの準備に取り掛かります。

陸軍最後の空挺作戦。
それは、空挺戦力の壊滅を意味していました。

(第9部へ続く)
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