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空挺給水塔 其の1 天降る神兵

Category : 第一部・空挺部隊誕生 |

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昨夜の小雨も名残り無く、晴れ爽かな澄み切つた大氣を徹して遠く近く雲雀の鳴声を聞き、黒く湿つた大地は太陽の輻射熱を貪り吸つて芋蟲の様にふくれ、ギラ〃と真直に立つ陽炎が緑一色の降下場を蔽ふ。
地上勤務員達は呟く。
「アゝ、申分ない降下日和だなあー」と。
湿氣を含んだ風が松林の梢をギシ〃と軋ませ、附近の峰々にトグロを巻いてゐた黒雲がアメーバ様に裾を拡げ、あちらからもこちらからも無遠慮に大口開いて水陸両棲の足軽が「ゲコ〃」とやり始めると、地上勤務員達は呟く。
「アゝ、厭な天気になりやがつた」と。


日本陸軍第一挺進團司令部「落下傘部隊概説」 第五章より抜粋

降下兵
一式落下傘を背負った日本陸軍空挺隊員

南北に長い宮崎県の、ちょうど中央にあたる地域。
尾鈴山地から日向灘へと続くなだらかな台地に、川南(かわみなみ)という町があります。
地理的には国光原(こっこうばる)と唐瀬原(からせばる)で構成される洪積地帯で、人口は約1万7000名。広大な土地を利用した農業と畜産が盛んです。

2008年9月20日。
この日、川南の空に3つのパラシュートが開きました。フロンティア・デーの催しとして、陸上自衛隊の習志野空挺部隊が落下傘降下したのです。

空挺隊員がこの地へ舞い降りたのは、実に64年振りのこと。
昭和20年に陸軍落下傘部隊が去った後も、その記憶は川南で語り継がれてきました。

フロンティアデー

川南の町おこしイベントが「フロンティア・デイ」と名付けられたのは、此処が開拓者の町だからです。
川南は三本木原や矢吹開拓地と並ぶ日本三大開拓地のひとつであり、埼玉県を除く全国46都道府県から入植者を受け入れてきた場所でした。
ただ、その事以外には何の変哲も無い田舎町ですから
町の片隅にひっそりと聳え立つ巨大な塔のことを知る人は少ないのでしょう。

その塔の周囲は、ちいさな保育園があるだけの草生した空地になっています。偶に、近所のかたが散歩している姿を見かけるくらいでしょうか。普段は人影もまばらです。
夕方、静まり返った空地を眺めていると、かつて此処に一大軍事施設があった事など想像もできません。

【カラセバルの塔】

宮崎市で働いていた頃、同僚と一緒に日向市の客先へと出掛けた日の事です。
国道10号線は光ケーブル敷設工事で渋滞していた為、佐土原町から迂回して航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の前を抜け、尾鈴山添いの道を車で北上。
そこから暫く車を走らせたところで、川南町に入りました。
周囲にはポツポツと民家があるだけで、見渡す限り耕作地が広がっています。

信号

空挺給水塔

「唐瀬」と表示のある交差点を右折して10号線方向へ走っていると、道路左手にコンクリート製の巨大な塔が姿を現しました。
あの塔、何だか見覚えがあるような気が……。
原っぱの中に聳え立つその姿が余りにも異様だったので、助手席の同僚に「何ですかねアレは?」と訊ねると、「昔、パラシュートの練習をしていた建物らしいよ」との答え。
ははぁ、パラシュートって事は、新田原基地関係の施設なんだろうなと一人合点して、そのまま通り過ぎました。

K1

塔の事などすっかり忘れてしまったある日の事。
書店で戦史関係の本をパラパラ捲っていると、とある頁の「落下傘部隊の基地は日向の唐瀬原にあり……」という一文が目に留まりました。
へえ、戦時中は宮崎に空挺部隊がいたんですね。
唐瀬原といえば、先日車で通った町です。あそこには自衛隊の塔が……。

同僚は「自衛隊の施設」とはひと言も言っていませんでした。
ただ単に「パラシュートの練習をしていた建物」だと。

もしかすると、あの塔は「唐瀬原の落下傘部隊」と関係があるのでしょうか?
空挺部隊の基地が近くにあったのかもしれません。
で、早速調べてみようとしたのですが、以前のように神保町や国会図書館へ通う訳にもいかず、ネット上の情報も乏しい時代でしたから、地方在住の身では資料捜しに結構苦労しました。

清掃ボランティアなどで地域のお年寄りと話していると、「そういえば昔、近所に特攻隊の基地があった」などという話題がポコッと出てきます。
木脇飛行場のコトだと思いますが「うちの近くにもあった。赤トンボ(複葉の練習機)がよう飛んどった」などと他の人にも話が広がったりして、戦時中の宮崎に多数の軍事施設が存在していたことは知っていました。
※新田原の証言に関しては、陸軍新田原飛行場と自衛隊新田原基地の話がごっちゃになっている場合もありますけど。

グラウンド
野球グラウンド側から見た塔

宮崎に謎の空挺部隊が駐屯していた!
……などと一人コーフンしていたのですが、調べるうちに私が無知なだけだと判明。戦時中の宮崎県に空挺部隊が駐屯していた事は、様々な文献に記されていました。
こんなイナカに拠点を置いたのは「訓練場所に選んだ満州が寒過ぎたので、冬でも暖かい宮崎へ引っ越した」という、プロ野球の宮崎キャンプみたいな理由だったそうです。

しかし、あの「パラシュートの塔」についてだけは正体がさっぱり判りません。
空挺部隊や戦争遺構の本を手当たり次第に読んでも、一切出てこないのです。

空挺部隊といえば日本陸軍の誇る精鋭部隊。
それだけ有名な部隊の遺構ならば、プロの軍事研究家や写真家が無視する筈ありませんし。「日本の戦跡」とかいうタイトルの本を読んでも、南九州地域で取り上げられるのは鹿児島の知覧や鹿屋ばかりで宮崎は空白地帯。
……やっぱり関係ないのかな?

何度も唐瀬原へ通ってみたのですが、塔のある場所は病院施設や歩くのも困難な林、水没しかけた湿地帯(川南湿原)まであって、他の手がかりを探すのは難しそうです。
ただ、給水塔付近にある林の中には、人為的に掘られた壕や埋没しかけた素掘りのトンネルがそこかしこに散在していました。
もしかしたら、防空壕か演習地の痕跡かもしれません。

kawaminami

kawaminami

朝靄たちこめる川南湿原。フェンスの先は水没しています。

林
野球グラウンド脇、川南湿原へ続く密生した林

壕
林の中にある壕のひとつ

穴

壕
幾つかの壕の突き当りには、埋没しかけた素掘りのトンネルがあります

取敢えず、塔を四方から観察してみました。
隣接する配電柱が高さ10m弱として、その3倍はあります。だとすると塔の高さは30m近くですね。形状は、支柱部の上に太い円筒を載せたようなコケシ型。側面には金属製の昇降用梯子とパイプ類が取り付けられています。
「頭」に当たる部分の東側には人が乗れる程の手摺付き金属製テラスが突き出していて、そこから天頂部へ登る階段が延びていました。てっぺんに立っているのは避雷針かな?
支柱部東側中央にも出入り口らしき開口部があります。そこから鳩の姿が見え隠れしていますので、現在は鳥の巣と化している様ですね。雨水でも溜っているのか、晴れているのに水滴がぱらぱらと降ってきます。
コンクリートの表面には無数のヒビが走っていて、旧い建物には間違いなさそう。

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塔の北側

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塔の南側

水栓
傍らにポツンとある水道栓

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井戸なのかポンプの跡なのか。

しかし高さも中途半端ですし、こんな所からパラシュート降下なんか出来そうもありません。
かつて二子玉川にあった読売落下傘塔の写真は、四本のアームが突き出したもっとメカメカしいデザインでした。
では、一体何なのでしょうか、コレは?

……何処かで見た記憶はあるのですが。

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国立病院4

ウロウロと無駄に歩き回るのに疲れ、何か空挺隊の手がかりが無いか地元の人に尋ねたところ、「護国神社へ行って見ればいい」と教えていただきました。
その神社に、川南の戦死者が祀られているのだそうです。

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トロントロンのバス停

川南護国神社は国道の反対側、川南町役場ちかくの「トロントロン」という奇妙な名前の場所にあります。
漢字ではなく、カタカナでトロントロン。もちろん正式な地名です。地名の由来は“泉から湧き出る水音を表現したもの”らしいのですが、最初は何かの冗談かと思いました。
川南護国神社は川南町の中心部、住宅地に囲まれた丘の上に建っていました。
生協から川南町役場へ向かって歩いていくと、道端に「陸軍落下傘部隊発祥の碑入口」という石碑を発見。

やはり此処だったのですね。

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その横道を登っていった所が川南護国神社でした。しかし、丘の上にあるのは神社の建物だけ。「落下傘部隊の碑」とやらは見当たりません。
とりあえず鳥居から梅園あたりをぐるっと一周。

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それから神社の裏手にある広場へ歩いていくと、ようやく目的の場所を見付けました。
野外ステージの奥にある広場が落下傘部隊の慰霊スペースとなっており、中央の大きな石碑には「空挺落下傘部隊発祥之地」と刻まれてあります。

石碑を見て、この地に空挺部隊が居た事をようやく実感。神社では、空挺部隊の慰霊祭も毎年執り行われているそうです。
ただ、塔の正体は解らないままでしたが。

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【塔の正体】

それから暫く経った5月24日の朝。
出勤前に新聞のTV欄を見ていると、ある番組が目に留まりました。

「塔は黙して語らず 特攻“義烈空挺隊”の真実」。

それは太平洋戦争末期、沖縄の米軍飛行場へ強行突入した「義烈空挺隊」に関する地元民放製作のドキュメンタリーでした。
義烈空挺隊が出撃したのは昭和20年5月24日ですから、同じ日に合わせて放映するのでしょう。
どうせお涙頂戴か説教臭い番組なんだろーな、と余り期待しないでタイマー録画をセット。
宮崎県は民放が2局しかないから予約もカンタンです。何の自慢にもなりませんけど。

落下傘部隊関連という事で、この義烈空挺隊について書かれた本も何冊か読んでいたのですが、
「97式重爆12機で沖縄に夜間着陸」とか
「北(読谷)・中(嘉手納)飛行場に6機着陸」とか
「北飛行場に1機のみ着陸成功」とか
「中飛行場にも50名着陸」とか
「一部は落下傘降下した」とか
「グライダーで着陸した」とか
「着陸後に再び飛び去った」とか
「沖縄へ突入したのは高千穂空挺隊である」等と諸説があって、是非とも詳細を知りたい部隊のひとつでした。

その夜、帰宅してからビデオを再生。さて、どんな内容だろう?
晩飯でも食いながらゆっくり観るか……、とリモコンの録画再生ボタンを押した途端
いきなり、あの川南の塔がTV画面に写りました。

何で義烈空挺隊の番組にあの塔が?
慌てて音声のボリュームを上げました。


番組は、沖縄で戦死した義烈空挺隊員の遺族と不時着帰還した義烈空挺隊の元曹長とが、あの塔の下で再会するシーンから始まりました。
元空挺隊員、遺族や報道関係者の証言を交えながら、川南出身の義烈空挺隊員が遺したノートを元に、出撃に至るまでの経緯が淡々と語られていきます。

その中では、あの塔の建設に従事した方々の証言も取り上げられていました。
番組の解説によると、あれは落下傘部隊兵舎の給水塔であり、図面を含めて現在に至るまで大切に保存されていたものなのだそうです。

DSC00669_R - コピー

川南給水塔の施工図より
地上高 27.37m
地耐力 1平米あたり20t
A 
・水槽 高さ 5.45m 直径 7.35m
B 
・梯子用踊り場 長さ 1.7m  幅 1.2m 手摺高さ 96cm 
・排水枡 實施ニ際シテハ踊場直下(塔内)ニ設ケルモノトス
C
・検査口 幅 75cm
・換気口 直径 60cm×7箇所
D
・筒部 水槽下端まで 高さ 21.75m
・筒上部 直径 5.8m コンクリート厚 15cm
E
・筒下部 直径 7m コンクリート厚 30cm
F
・地中基礎部 直径 13m 盛土 75cm


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給水塔横の道路に沿って、かつては挺進第3聯隊(高千穂空挺隊)の兵舎が4棟並んでいました。

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塔上部にある水槽。完全な円筒形ではなく、一部が妙に膨らんでいるのが分かります。

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塔東側上部。塔頂へ登る梯子と踊り場、点検口が設けられています。

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塔東側基部。排水枡が併設されています。

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地中に掘り下げられた排水枡内の様子。底部へ下りる手摺と給排水用のバルブが見えます。

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塔の周囲には、近年に設置された量水器ボックスなどがあります。

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塔西側上部。塔頂部と塔中部へ4本の鉄パイプが接続されています。

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塔の西側基部。給水管が地中へ延びています。

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塔基部に張り付けてある何かのメーターと、そこから頂上へ延びる電線。塔頂部にはアンテナらしき機器が設置してあるので、その関連機器でしょうか。

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成程。パラシュート降下訓練塔ではなく、給水塔ですか。
そういえば、あの辺は川南湿原があるくらいですから地下水も豊富でしょうね。台地の端からは、尾鈴山地から流れて来た大量の地下水が湧き出ていますし。
同じく台地の上に作られた新田原飛行場では、水源の確保に苦労したのか麓からポンプアップしていました(現在も揚水施設の跡が残っています)。

給水塔だと知って、あの塔に見覚えがあった理由が分かりました。
かつて私が府中で働いていた頃、航空自衛隊の横を毎日通勤していたのですが、その府中基地の給水塔が唐瀬原の塔とそっくりなのです。

府中
航空自衛隊府中基地の給水塔。半分くらいのサイズですが川南の塔と酷似しています。

番組で川南を数十年振りに訪れた元義烈空挺隊員は、「まさかこれが残ってるとは」と驚いていました。サイパン、硫黄島、沖縄と攻撃目標が変更される中、義烈空挺隊が待機していたのが唐瀬原にあった挺進第3連隊の兵舎。
やはり、あの塔は空挺部隊の施設だったのです。

番組は、準師団規模だった陸軍空挺部隊の僅か一個中隊にスポットを当てたに過ぎません。
それでも、川南が空挺部隊の拠点だったと確認するには十分な内容でした。

川南に保存されている空挺給水塔。川南で続けられている空挺慰霊祭。
それらを軍事専門家が取り上げない理由は、ただ単に知られていなかっただけ。
「空の神兵」の遺構が日本ミリタリー界から完全に忘れ去られていて、宮崎県側の情報発信も殆んどナシという事実はとてもショックでした。
まあ、私も知らなかったうちの一人なんですけど。

観光名所にもならない無名の塔など、とっくの昔に撤去されていても不思議ではありません。宮崎空港(海軍赤江飛行場)や日向(海軍冨高飛行場)の旧軍遺構なんか、開発によって次々に解体されていますし。
この半世紀、塔を解体して跡地を有効利用すべきとの意見もあった筈。しかし、幸運にも給水塔は残されたのです。
全国で戦跡が消えゆく中、「よくぞ保存してくれた」と地域の努力に頭が下がる思いでした。

その努力に僅かなりとも応える方法とは、川南町の歴史を広く知らしめること。
空挺部隊がどんな鉄砲を持っていたとか、その装備がどうこうといった話は、これまで通り軍事研究家が発表してくださるでしょう。
私が知るべきは、眼の前の唐瀬原に記された「川南の空挺隊史」です。
しかし、川南と空挺部隊の関係を知りたくても、本屋に並ぶミリタリー雑誌にはそんなローカルネタなど載っていません。
そんな話は載せても売れないのか、ただ単に編集者が知らないだけなのか。まあ、どうでもいいか。

これ以上期待するのは止めましょう。
かわりに県・市町村の郷土史を中心に調べようと、県北から県南までの図書館巡りを始めました。
冒頭で「宮崎は南北に長い」と書きましたが、コレが嫌になるほど長い上に交通網も貧弱なのです(高速道路が漸く西都ICまで開通した頃のこと)。
図書館の閉館時間までに資料を探し終える必要があるので、県北や県南方面は移動が結構大変でした。わざわざ前泊したりして、「せっかくの週末にナニやってんだ俺は?」と自問自答しながらの作業となりました。

何年か続ける内、自治体や地元新聞社や郷土史研究家などによる戦時レポートを幾つも発見。
その中には、川南で訓練していた空挺隊員たちのエピソードが残されていました。
パラシュート事故だけではなく、悲惨な水難事故で8名の空挺隊員が殉職したことも知りました。
その慰霊碑がひっそりと保存されていることや、高千穂空挺隊員と地元女学徒との交流、戦後処理にまつわる秘話まで、軍事書籍では見たこともない記録が多々ありました。

「軍隊視点の空挺隊史」だけではなく、「県政や町政から見た空挺隊史」「地域住民から見た空挺隊史」が存在する。恥ずかしい事に、私はそんな当たり前のことにすら気付かなかったのです。
しかし、その多くは地域史として記録されてオシマイ。
県外へ向けた情報発信は殆んどなされていません。

書籍やネット上では、「空の神兵」が盛んに讃えられています。
しかしあの人達は、浜松で誕生した「河島部隊」がどこでどうやって「第1挺進集団」へと成長したのかは知らないのでしょう。
パレンバンへ降下した部隊がどこで訓練していたのかも知らないのでしょう。
空挺給水塔の存在も含めて。
このまま、川南の空挺隊史は人知れず忘れ去られてしまうのかも……。

次の週末、車で川南へと出掛けました。
いつもと同じ姿で給水塔は草叢の中に聳え立っています。

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【パラシュートの歴史】

様々な資料によると、陸軍落下傘部隊の歴史はこのようなものだったそうです。

ナニが楽しいのか知りませんが、人類は昔から空を飛ぼうと試みてきました。日本人もそうです。
大凧や浮田幸吉の滑空飛行から始まり、明治の玉虫飛行器までイロイロありますよね。しかし近世の権力者は空への憧れを封殺してしまい、それ以上の技術発展は望めませんでした。
気球による日本初の有人飛行は、明治10年の島津源蔵(島津製作所の創始者)によるもの。
明治20年代には、小型気球飛行を披露する見世物興行が数多く現れます。見物料だけとって「気球は故障したから本日の興行は中止」と騙す「飛ばす飛ばす詐欺」が新聞沙汰になったのもこの頃から。
こうした航空技術の導入は、やがて明治43年の航空機日本初飛行へと繋がる訳です。

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レオナルド・ダ・ヴィンチによる落下傘のアイディア 1485年頃

飛ぶのはともかく、「飛び下りる」のが始まったのは何時でしょうか?
レオナルド・ダ・ヴィンチは既にパラシュートの概念図を残していますし、それ以前から様々な降下装置の記録はあります。
手っ取り早くコウモリ傘だの風呂敷だので飛び降りたチャレンジャーも数多くいた筈ですが、たぶん痛い目にあったのでしょう。
江戸時代の絵画にも、唐傘で飛んだり飛び下りたりする人を描いたものは幾つもありますよね。

パラシュートは気球と共に発達を遂げました。
最初は上空の気球から荷物や動物などをパラシュート投下するという見世物的なものでしたが、やがて人間による降下も始まります。
1783年に「パラシュート」と名付けた装置をを開発、実際に降下してみせたのがルノルマン(仏)。
この前後、1617年のベルナチオ(伊)や1793年のブランシャール(仏)などもパラシュート降下に成功していました。
ブランシャールは、事故を起こした気球からパラシュートで脱出した最初の人物でもあります。

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明治23年、スペンサーによる日本初の落下傘降下の図

やがて、パラシュートは日本にも伝わりました。
「落下傘は昭和になるまで日本に存在しなかった」などと言われていますが、これは間違い。
我が国に西洋式のパラシュートが持ち込まれたのは明治23年のこと。英国人スペンサーと米国人ボールドウィンによる気球からのパラシュート降下は見世物興行としておこなわれ、11月12日には明治天皇の前でも披露されています。

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上野公園で披露されたボールドウィンの落下傘降下を伝える絵 明治23年

そして大正11年、日本海軍はイギリス海軍のオードリー少佐を招聘。
霞ヶ浦にてパラシュートの実地訓練を受けました。
少佐の講習に参加したのは、陸軍から飯島工兵中尉、海軍から藤吉中尉、田中少尉、猪刈一等水兵、蓮見一等水兵、民間から日野俊雄飛行士の計6名。彼らによって、日本人初となる繋留気球からのパラシュート降下がおこなわれたのです。

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大正11年、日本海軍による落下傘実演の写真。

やがて航空機の時代が到来し、非常用脱出装備としてパラシュートが配備されるようになります。
昭和2年、立川での航空機事故において中尾純利氏がパラシュート脱出に初めて成功。その有効性が実証されました。パラシュート脱出したパイロットで構成されるキャタピラー倶楽部(キャタピラとは芋虫のこと。カイコが落下傘の絹を作ることから、墜ちても再び空へ飛ぶという意味が込められていました)の日本支部も戦前から存在しています。

ただし、我が国に民間のスカイダイビング愛好家は殆んどいませんでした。
グライダー愛好家は戦前からたくさん居たのに、その辺は不思議ですね。
反対に、民間スポーツとしてスカイダイビングが盛んだった国では、空挺部隊の創設にそれ程苦労しなかった訳です。
パラシュートを楽しむ人が多ければ、空挺部隊の人材確保には困りませんから。
そのような「パラシュート先進国」のひとつが、ソビエト連邦でした。

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ソ連のパラシュート訓練塔

ソ連では多数の民間パラシュート同好会が活動しており、世界に先駆けて空挺部隊も創設。
国内民族紛争鎮圧のため、後方攪乱部隊として実戦投入にも着手しています。
ソ連軍パラシュート部隊については、日本も早くから存在を知っていました。
昭和12年頃までに、ソ連空挺部隊の運用や戦術、降下器材、訓練法、長所と欠点、その対策などに関しては、かなり正確に分析されています。
それだけ仮想敵国の空挺部隊を警戒していたのでしょう。

但し、日本陸軍がこの種の部隊の實地研究に取り掛かるのはしばらく後の話です。

ソ連空挺部隊

一九三三年―世界列強國に率先してソヴイエツト聯邦國は落下傘降下中隊を組織した。
然して其の保有する大威力は全國の宣伝上手と共に少なからぬ驚異を中外の列強國に与へ、大いに新規兵備のために気を吐いたのである。
之を現代に於ける新時代の兵器を利用したる奇襲戦法の結晶に外ならないのは言ふ迄もない事である。
吾等は茲にソ聯國に於ける落下傘中隊の詳細を解剖して、其の真相を明らかにし、該中隊に對する正しき智識と理解を持ち、以て我國國防上の非常時到来を認識し、之に對する良策と國防力強化に努力すべき事を覚悟せねばならぬ。
扨、落下傘降下中隊とは極めて簡単なる説明を与ふるならば落下傘の積極利用に依る急速なる空中機動部隊を謂ひて、換言するならば即ち大型輸送機による兵器、糧食其他兵員の大量輸送を行ひ、一集團部隊を敵地後方地區又は優先地區の占拠―奇襲―等を行はしめ友軍の戦況を有利に導く機會を作る誘因部隊であると言ふ事が出来る。
(中略)
蘇聯國キエフ地方に於ける演習にては
降下高度 標準六〇〇米突
輸送機一台に依る人員 約三五名
降下総員数 九〇〇名
なりき。

蘇聯國に於ける降下中隊員の常備兵力は極めて僅少である。
然るに一朝有事に際しては降下適任証を有する在郷人を急募編成し、多数の強力なる同中隊を組織し得る如くなり居る。
降下適任証は落下傘降下学校、其他同國重要都市各地に設けられたる降下練習塔により、降下訓練を卒へたる後一定の検査試験を通過したる者に下付さるるものである。

降下中隊の優秀點と缺劣點
優秀點
イ 目的地迄の地勢に左右されず、随時運用可能なり。且つ機動性大なり。
ロ 日時を要せず迅速なる攻撃をなし、敵の防御攻撃の豫猶ならしめず。
ハ 決戦の機會を作る。
ニ 破壊力大にして徹底す。
ホ 敵の戦気士気の沮喪力顕著。
ヘ 敵後方地域の一般人民に對する威嚇的降下甚大。
ト 奇襲的降下亦大なり。
缺劣點
1.天候に制限を受くる事あり。
2.空中遠距離輸送による支障。
3.費用莫大
4.戦果を決定し得ず。
5.補給維持困難。
6.犠牲率多大。
7.反撃中心の集中性あり。
友廣宇内「ソヴィエットパラシュート中隊の正體」より抜粋 昭和12年

ソ連空挺隊に関する詳細な内容であり、当時の日本がソビエトの新戦術として警戒していた様子が窺えます。
続いて翌年の記事。

デサント
「大型輸送機の発達と共に空軍は部隊を空中輸送して、これを敵の背後に着陸せしめて活動せしめる重大なる任務を遂行するやうになつた。
赤軍ではこのために専用の空中降下部隊(デサント)といふものが編成された。
先年キエフでこの演習を行つて大成功を収めたと言はれる。敵味方が相對峰して戦ひが白熱化する頃、味方の後方より一空の大型飛行機が戦場の上空を三〇〇〇米以上の高度を保つて飛翔し、敵陣地の後方に至ると各飛行機から二、三名づつの機関銃や火砲を背にした兵士がパラシユートで飛び降り、このパラシユートには特殊の装置があつて地上三四百米まで開かずに急降下し、狙撃を封じつゝ地上に着陸するや携行の機銃砲で敵の背後を攻撃して、敵を一挙に潰滅せしめるといふのである」
写真と文「赤軍読本」より 昭和13年

【河島部隊の誕生】

昭和15年、日本の陸海軍は空中挺進部隊の創設を決定します。
電撃戦の緒戦におけるドイツ降下猟兵(ファルシルム・イェガー)の活躍に刺激されての事でした。
イタリアで誕生したパラシュート部隊は、まだドイツやソ連など僅かな国しか保有していませんでしたが、11月に欧州勤務から戻った井戸田中佐の報告によって軍首脳部はその有効性を認めたのです。

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訓練中のドイツ降下猟兵

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戦地における降下猟兵。膝上まである迷彩スモックは降下時に装具を覆い、パラシュートに絡まるのを防ぐためのモノです。日本陸軍落下傘部隊も似たような降下外被を採用しました。

同月30日には、早くも河島慶吾中佐以下十数名の空挺隊員からなる「浜松陸軍飛行場学校練習部」が誕生。
練習部では、翌年2月20日より降下テストに着手します。
1月に募集された第1次下士官及び将校練習員は市ヶ谷の予科士官学校及び所沢の陸軍航空整備学校で地上錬成、続いて4月に浜松の三方原へ移動して降下訓練を開始しました。

ただ、当初は教材や情報など殆んどありません。教官・練習員とも手探り状態からの出発でした。
ドイツ空挺部隊を視察してきた大島大使が「あの時はこういう格好をしていた」など手真似足真似で演じて見せ、それを元に研究していたと元空挺大尉浪花実氏の証言にあります。
戦局を挽回するための秘密部隊でしたから、当初は防諜上大っぴらに訓練することも出来ず、隊員は大学生に変装して二子玉川の読売落下傘塔で降下訓練していたとか。
海軍の空挺部隊でも同様だったらしく、「海軍落下傘部隊(山辺雅男著)」には、背広姿に変装して二子玉川に通っていた話が出てきます。

讀賣落下傘塔
当時の讀賣落下傘塔

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陸軍空挺隊員は、パラシュートの操作より先に体操を叩き込まれました。降下時の激しい衝撃から身を守るため、強靭かつ柔軟な身体が必要だったのです。

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降下後の戦闘訓練

さまざまな苦労を経て、日本独自の降下方法が確立されていきました。
まずは飛行中の輸送機から顔を出して強風と爆音に慣れる訓練。続いて単独降下、集団降下へとレベルを上げていきます。
当初、空挺部隊ではパイロット用の92式や97式落下傘を流用していました。
しかしこれらは使いにくかった為、予備傘を付属した1式落下傘を新たに採用。
其の他、特別部隊である空挺隊向けに専用の降下装備や武器が次々と開発されていきます。
空挺部隊に支給された降下ヘルメット、降下スモック、降下靴、降下手袋は、パラシュートの紐が絡まるのを防ぎ、着地時の怪我を防ぐ為の工夫が凝らされていました。

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屋内訓練中の陸軍空挺隊員。

テラ銃
前後に分解できる二式小銃。「挺進落下傘」の頭文字をとってテラ銃とも呼ばれていました。
写真は米軍が鹵獲したもの。

100式
分解した百式機関短銃を携行する降下隊員。こちらも戦時中のアメリカ陸軍資料より。
米軍は、戦時中から日本陸海軍空挺部隊に関する詳細な調査報告書を作成していました。戦争後期になると、挺進團の編成はおろか装備や戦術に到るまで把握されていたのです。

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japanese parachute troops
昭和20年7月に米陸軍が公表した日本空挺部隊に関するレポート。

また、かさばる武器は別途コンテナに収納してパラシュート投下となりますが、広い戦場の何処かへ落ちているコンテナを探し出すのは一苦労。
身に付けた拳銃と手榴弾だけで戦わざるを得なくなったケースも多発しました。
それを解決する為、2つに分解する事で降下時にも携帯可能な二式小銃(テラ銃)も開発されています。
降下や物資投下の訓練は試行錯誤の連続であり、戦時を通じて降下技術の研究は続けられました。

降下
陸軍空挺隊員の降下訓練(陸軍航空本部)

6月1日、規模も拡大された河島部隊は東条英機陸軍大臣(当時)の薦めもあって、防諜上の理由から満州の白城子陸軍飛行学校へ移転。
7月8日に白城子へ着任した練習部員は、満州の広野で訓練を再開しました。
この地では最初の殉職事故も発生。
パラシュートの紐が靴に絡まり、初宿曹長が墜落死したのです。

【内地への帰還】

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移動先の白城子飛行場では、すぐさま大規模な訓練が始まりました。広大な満洲では思う存分に降下できるので、物料の投下および回収訓練、集団降下訓練などと、空挺部隊の基礎は急速に固められてゆきます。
しかしすぐに、「遠隔地で交通連絡に不便」「一年の半分は雪に閉ざされてしまう」という地理・気候的な問題が露呈。これでは迅速な出動はおろか訓練すらままなりません。更には三次、四次の新規要員受け入れも不可能となります。
9月になった白城子では、早くも冬の寒風が吹き始めていました。

一刻も早く実戦レベルへ育て上げる為、空挺部隊は内地への帰還を秘かに計画。必要とされたのは、冬でも温暖な気候、広大なパラシュート降下場、輸送機を運用できる飛行場でした。
そして、九州の片隅にある陸軍飛行場が候補地として挙げられます。

候補地は決まったものの、問題となるのが白城子への移転推進者である東条英機大臣の説得。
気難しい大臣が「やっぱりダメだったので内地へ戻ります」で納得してくれるとは思えません。
大陸の冬が来る前に、空挺部隊は内地への移転と大臣の説得に迫られました。

(第二部へ続く)

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