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海軍赤江飛行場掩体壕群(宮崎県宮崎市大字赤江)

Category : 宮崎市の戦跡 |

そこには、竹垣の中に、まだ木の香も匂ふやうな新しい墓標が立つてゐた。
海軍少尉以下十二名と墨書で書いてある。
何處の方なのか、などといろんなことを思ひながら、しつかりと手をあはせて御冥福を祈る。
此処も、かつては海軍特攻隊の基地であつたのだといふ。
この付近の部落のひとびとはもちろん、此處に訪れた占領軍の将校や、飛行機で着陸した兵隊達も必ずお詣り草花を忘れないのだといふ美談をきき、私はおもはず瞼が熱くなる。
その日も両端においてある二本のビールびんには、しきみがさゝれて、風にさらさらとかすかに葉がすれあつてゐるのであつた。


清水ゆき「新しき村を見る・赤江飛行場跡の巻」より 昭和20年

戦争遺跡
宮崎特攻基地慰霊碑
宮崎基地より出撃した銀河特攻機47機、搭乗員140名並びに陸海攻撃、雷撃作戦に出撃した605名が散華しました。
このゆかりの地に鎮魂の碑、墓銘碑を建立しております。
平成11年3月
宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会


九州では、福岡空港とならんでアクセスが良い宮崎空港。
利用された人は御存知かと思いますが、この空港の滑走路脇には奇妙な物体が並んでいます。
あれは、日本海軍が軍用機を守るために建設した「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる格納シェルター。陸軍の飛龍や海軍の銀河といった爆撃機を収容する大型のものと、零戦など戦闘機を収容する小型のものが確認できます。

宮崎空港の前身は、戦時中に建設された「海軍赤江飛行場」です。
現在のノンビリとした光景からは想像もできませんが、かつてはこの飛行場から数多くの陸海軍パイロットが沖縄海域の米艦隊へ向けて飛び立っていきました。

鹿児島県の知覧にある特攻平和会館は、「陸軍の特攻作戦」を展示対象とした施設。だから、宮崎県から出撃した都城東陸軍飛行場、都城西陸軍飛行場、陸軍落下傘部隊の特攻記録は展示してあっても、「海軍の特攻作戦」の拠点であった赤江飛行場や富高飛行場は取り上げられていません。
知覧を訪れる人も、宮崎空港の特攻史について知る事は出来ません。
それらの記録作業すら他県に丸投げしてきた結果、宮崎県は「忘れられた特攻の地」と化しました。
宮崎に関わる多数の犠牲者たちのことを、県外者どころか県民も忘れてしまったのです。

赤江飛行場の掩体壕は、有蓋(コンクリート製シェルター付)中型が7基、有蓋小型が7基、無蓋中型が37基建設されました。
その殆んどは戦後の開発で撤去されましたが、現在でも有蓋中型4基と有蓋小型3基が残っています。
コレだけ纏まった遺構が保存されているのは全国でも貴重なケースでしょう。しかし、宮崎県は長らくその歴史的価値を認めようとしませんでした。
県民がコレだから県外の人は尚更です。「日本の戦争遺跡」的な書籍は多々ありますが、宮崎方面は完全に無視されております。
対する宮崎県側からの情報発信も微々たるモノ。他県で見られるような「もしかしたら観光資源として活用できるかも」という貪欲さすら皆無です。

陸の孤島とは哀しいものですねえ。

「戦争の悲惨さを忘れないようにしましょう」という言葉が、ここ宮崎では空しく聞こえます。
戦争が終わって半世紀以上たちますが、特攻と正面から向き合ってきた知覧と違い、「観光宮崎」は忌わしい特攻の記憶から目を逸らせてきたのでしょう。
開発を免れた赤江、南郷、細島、木脇、崎田、新田原、唐瀬原の戦争遺構は地域に埋没し、都城の特攻基地3か所は完全に消滅。日向に残っていた最後の掩体壕も道路工事により破壊されました。
地域の歴史を伝えるべき県立博物館ですら、その辺に触れた展示は見事に皆無。終戦記念日に図書館の片隅で戦時史コーナーが開催される程度でしょうか。それら貴重な戦時史料も、住宅地にある小さな戦争記録継承館に「隔離」されたままです。
それ以外で宮崎県と特攻の関係についてキチンと取り上げた公的施設は、都城市立歴史資料館および陸上自衛隊都城駐屯地と航空自衛隊新田原基地にある資料館だけ。
地元メディアや地域の人々による、史跡保存への取り組みだけが救いです。

そうやって地域の歴史を粗末に扱いながら、天孫降臨がどうたらとかいうアピールだけは熱心なんですよね。
これ以上は愚痴になるのでハナシを赤江飛行場史に戻します。

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最近では、掩体壕を活用しようという動きも始まりました。赤江の2号掩体壕前広場で開催された地域イベントの様子。2016年撮影

宮崎県赤江町(人口14067名)の空に日本軍の飛行機が現れるようになったのは、昭和15年春頃のこと。
そして、昭和16年3月15日には海軍から飛行場建設計画が打診されます。真偽は不明ですが「かつて赤江沖に不時着した飛行機を、地元住民が救助してくれたことが選定理由」という説も。
説明会場に集合した町民150名は突然の話に騒然となります。しかし、用地買収の説明をおこなった海軍士官は「天皇陛下万歳」の斉唱を全員に強要。ウヤムヤのうちに「御国のため協力しろ」という空気が出来上がってしまいました。

立ち退きの期限は1年後という約束でしたが、工事は翌月10日から着工。土砂を運び込む軽便鉄道建設や河川の迂回改修がどんどん進捗して行きます。追い立てられるかのように、同年末までに全住民が退去させられました。
住民立ち退きと用地買収後、海軍および逓信省大淀川改修事務所の主導によって工事は本格化。
工事中も、赤江町に対する圧力は強まる一方でした。
昭和17年12月24日、こんどは長船克己宮崎県知事が杉田福一赤江町長らに対して宮崎市への合併を要請。
続いて26日、海軍呉鎮守府参謀長より重ねての合併要請が届きます。

呉鎮機密第五七八號
昭和十七年十二月二十六日 呉鎮守府参謀長
長船宮崎縣知事殿

宮崎縣赤江町ヲ宮崎市ニ合併希望ノ件照会
貴縣赤江町所在海軍施設近ク完成ノ運ビニ相可成候處、本施設開始後ハ勤務員ノ生活必需品配給、居住竝ニ慰安施設ノ實施其ノ他相當重要ナル問題有之到底赤江町ノミノ能力ニテハ萬全ヲ期待シ難ク就者曩ニ大分航空隊所在東大分村ガ大分市ニ合併シ、鹿屋航空隊所在鹿屋町ガ附近町村ヲ合併シテ鹿屋市トナリタル前例モ有之先般來赤江町ヲ宮崎市ヘ合併ノ内儀アルヤニ仄聞致居候間此際可成速ニ右實現方御取計相成様切望スル次第ニ候


飛行場建設によって耕作地300町歩とその分の税収を失った上、宮崎市への合併を強要された赤江町は当然ながら猛反発。
しかし軍の要請とあっては仕方ありません。
翌年2月12日の赤江町会にて「この秋に当たり、宮崎県知事長船克己閣下突如わが町に大宮崎建設の雄図を披瀝せられわが町の来たり投ずるの有利なるを具に懇説し、聖恩の萬分の一に答え奉り一は子孫永らく幸慶をともにせんことを」との意見書が出されました。
昭和18年4月1日、赤江町政は青木善祐宮崎市長へ引き継がれます。

同時期、大淀川右岸の津屋原一帯が飛行場建設の土砂採取場となり、ここでも住民の集団移転がおこなわれます。
建設会社、付近住民、朝鮮人労働者、少年祖国振興隊、勤労報国隊、婦人挺身隊などの人海戦術で飛行場の建設は進められました。
土砂に埋まっていく自分の田畑を見て、作業に参加する付近住民の気持ちは複雑だったとか。
そして昭和18年12月、宮崎市の赤江地区に総面積371万4800㎡もの海軍赤江飛行場が完成しました。
飛行士の兵舎は現在の月見が丘に、対空機関銃陣地は滑走路を取り囲むようにして、高射砲陣地は現在の稲荷山・赤江中学校付近・希望ヶ丘団地付近にそれぞれ設置されました。

昭和18年12月から海軍パイロットの訓練施設としてスタートした赤江飛行場ですが、戦況が激化した19年7月20日には実戦部隊の基地へ転換。海軍721航空隊および陸軍飛行第7戦隊の展開に続き、台湾方面に備えて第762航空隊の拠点となりました。
10月から始まった台湾沖航空戦では、赤江飛行場に集結した攻撃部隊148機が出撃。
そして昭和20年2月15日以降、赤江飛行場は陸海軍共用の特攻機出撃拠点と化しました。
3月11日、梓特別攻撃隊の特攻機が赤江飛行場から初出撃。それから3月27日までに、第1~第10銀河特別攻撃隊が続々と特攻へ飛び立ちます。
台湾沖航空戦から沖縄戦にかけて、赤江飛行場の特攻隊員140名および雷撃機(※敵艦を魚雷で攻撃する飛行機のこと)の隊員605名が沖縄の空で戦死します。飛行場への空襲などで、この地で犠牲となった人々も少なくありません。

時々、宮崎空港で戦時中の不発弾が発見されて騒ぎになりますよね。
こんな地方都市が猛烈な爆撃を受けた理由は、九州南部の飛行場群が沖縄へ侵攻する米軍にとって脅威だったからです。
赤江飛行場が最初の攻撃を受けたのは昭和20年3月18日。それ以降、赤江一帯は激しい空襲に晒され続けました。

入口

昭和20年3月18日、都井岬沖の空母を飛び立ったアメリカ軍艦載機が九州南部を奇襲攻撃。いわゆる九州沖航空戦が始まります。都井岬や細島のレーダー基地は敵機来襲を察知していたものの、赤江・新田原・都城の戦闘機が応戦した記録はありません。情報共有に欠けていた県内の各飛行場は為す術も無く破壊されました。
九州沖航空戦で宮崎を襲撃した米軍機は延740機。2日間の攻撃で宮崎県では123名が犠牲となりました。
初空襲の状況については、幾つもの証言が残されています。

昭和20年3月18日、私は弟を連れて本家の庭で遊んでいました。すると突然警戒警報のサイレンが鳴りはじめ爆音が近づいてきました。
たちまち空襲警報のサイレンに変わり、すぐ前の山から飛行機が飛んできました。私は漠然と目前に飛んでくる飛行機の数を数えはじめて、25~6機数えた時、星☆をまる〇で囲んだ印に気付きました。
その時初めてこれは敵機だと言うことがわかったのです。
日本の飛行機は3機ずつ並んでいたのに、これは4機ずつ編隊を組んでいました。
これはたいへんだと思って弟を背負って蜜柑山の防空壕まで走りました。防空壕から飛行機の様子を見ていたら、横に広がりはじめ、東の方向に向かって飛んで行きました。近くの田圃にいた人たちや、道路を歩いていた人たちがつぎつぎに私の家の蜜柑山の防空壕に登ってきました。
私は恐かったけどみかんの木が大きかったので枝を掻き分けて見ていました。
上空で飛行機は回りはじめました。「あれは赤江飛行場に行くわ」と口々にいいながら見ていたら、我が軍が高射砲を射ちはじめました。だけど敵の飛行機にはなかなか当たらず、敵機の後の方で破裂するので、みんなが「まこち辛気なねー(訳:本当に歯痒いね)」と口々に悔しがっていました。
するとその時、我が軍の飛行機が一機、敵機のなかに突っ込んでいったのです。
みんなは思わず「行け、行け」といって声援を送りました。何十機といる敵機の中に向かっていったのを見てみんな喜びました。
敵の飛行機は見る見るうちに赤江飛行場めがけて爆撃をはじめました。
上空では敵の飛行機と上になり、下になりして戦闘が続けられ、何回か回っている時、その中の1機が黒いけむりを吐いてくるくると回りながら落ちていきました。
すると「今のはどっちの飛行機がやられたっか?」と口々にいいだしました。
岩見田方向の山の上には真っ黒な煙が空高くあがっていました。
回りは爆弾の破裂する音、爆撃のため急降下する飛行機の音等がしばらく続きました。
父達はこれじゃ赤江飛行場はだいぶやられたわといっていました。
次の日に大きな損害が出たこともわかりました。
そして落ちっていった飛行機も我が軍の戦闘機だったことも判明しました。
あのたくさんの敵機の中に一人で立ち向かって行かれた人の気持ちは死を覚悟の戦闘だったと思いました

「赤江飛行場の爆撃」より、串間イソヨさんの証言

やっと夜が明けたという時刻だった。私たちは早速家の東側の小さな日だまりになるであろうところに木の椅子を準備し、散髪を始めた。
「どら、先、おまえんとつんでやっが(先にあなたの髪を刈ってあげましょう)」
小学(国民学校)五年生であった私を、高等科二年生であった義ちゃんが先に散髪してくれると言った。
義ちゃんは私の頭にバリカンを入れる時は、いつも額の上の真ん中からだった。
そこに私はじゅじゅまき(頭髪の渦)があって、義ちゃんは
「こんげな人はめったにおらんとやっど。大将かなんかえれえ人になっとじゃが(大将かなにか偉い人になるのでしょう)」
と散髪の度に言っていた。
そのじゅじゅまきに二度か三度バリカンを入れた時だった。さっきからウン、ウン、ウンと唸っていた音がはっきり聞こえてきたのである。
義ちゃんがバリカンを頭のうえに載せたまま、「おい、飛行機じゃっど」と言った。
私は上目使いにに東の空を見上げた。
日向灘上空に影絵のように黒い物体が一塊になってまっすぐに突き進んで来る。
「へえ!まだあんご飛行機が日本にゃあっとじゃろかい(まだあれだけの飛行機が日本に在るのでしょうか)」と義ちゃんは言った。
私は状況を掴みかねて、ただ呆然と見つめていた。
やがて、その黒い編隊の周りをとんぼ程に見える飛行機が纏わり付くように飛んでいるのが見えた。
地上には届いていない太陽の光りにキラッキラッと光っていた。
「こめえ飛行機が飛んじょっど。あら、日本の飛行機じゃねっちゃろかい。あんおっけね飛行機は敵機かんしれんど(ちいさな飛行機が飛んでいますよ。あれは日本の飛行機ではないのでしょうか。あのおおきな飛行機は敵機かもしれませんよ)」と私は言った。
今までに見たことのない大きな飛行機編隊だったからである。
小さな飛行機が大編隊を攻撃していると私は思った。
義ちゃんは「うーん、じゃろかいね(うーん、そうでしょうか)」とだけ言った。
だけど状況を知る電撃的なことが起こった。
黒い編隊の周りで爆煙が次々と散り始めたからである。やがて耳をつんざくような破裂音も届き始めた。
赤江飛行場の日本軍が撃ち始めた高射砲だった。
「敵機じゃど。空襲じゃど」
二人は同時に家の中に向かって叫んだ。
義ちゃんはバリカンを持ったまま我が家に向かった。私は更に「空襲じゃど」を繰り返しながら家を南周りにして敵機の姿を追い続けた。
高射砲の弾は編隊の周りで空しく破裂するだけで、敵機は全く煙を吐く様子もない
(中略)
祖父が防空壕にまだ達しないうちだった。キューン、キューンというはらわたを抉るような爆音とともに爆撃機は旋回しながら急降下してきた。わたしの家を中心に旋回して日向灘に向かって出て行く感じだった。
実際は赤江飛行場を攻撃しているのだった。
爆撃音と地上からの機関砲の銃声で地上が埋まっていた。
防空壕から「なにしちょっとか、こら、はよ入らんか、こら」と父の声がした。わたしは映画や漫画でしか見たことのない状況が現実にあることの興奮で、死ぬときは死んでもいい、そんな気持ちだった。
とにかく見たかった。
爆撃機が何機だったのか覚えていない。
その時も何機だったか数えた記憶もない。
その爆撃機がすべて日向灘に去ってしまうと、わたしは赤江飛行場のよく見える青年学校の運動場の見晴らし台に走った。大人が五、六人も立つと一杯になる程の広さに、一米近く土を盛りあげた簡単なもので、家から二百米のところにあった。
走っている間にも赤江飛行場から幾条もの黒煙が上がるのが見えた。
見晴らし台に上がって飛行場を見た瞬間、なぜか初めて恐怖感に襲われた。もう見るも無残な姿をだった。格納庫やそれを取り巻くほとんどの施設から激しい火炎が上り、その上のは黒煙になっていた。
後で知ったことであるが、その爆発は時限爆弾によるものであった。恐怖感が一層つのった。
私はまた走って帰って防空壕に駆け込んだ

佐藤聿夫氏「敗戦前後」より

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宮崎海軍航空隊慰霊碑の全景

3月18日に宮崎へ飛来した米軍機に対し、空戦を挑んだのは日向の冨髙海軍飛行場307飛行隊(計64機)のみ。
空襲の間「本土決戦に備えて戦力温存」という命令で、赤江や都城西の戦闘機は掩体壕の奥へ隠されていたのです。
赤江飛行場周辺の対空砲陣地だけが激しく応戦したものの、撃墜できた敵機は僅か1機。都城、新田原、富高の対空砲もそれぞれ敵機を撃墜していますが、被害の方が甚大でした。
宮崎上空で孤軍奮闘する307飛行隊も2日間の防空戦で十数機を失い、鹿児島へと去っていきました。
赤江飛行場の地上施設も壊滅し、指揮所や魚雷格納庫は本郷、殿山、源藤の地下陣地に移されます。

3月18日の初空襲ですが、軍部が情報封鎖していたと思われる奇妙な証言が残されています。

三笠宮殿下が、紫明館においでになったのが十七日、その夜は宿泊されることになってたんだ。
ところがお付きの副官が「明日は赤江の基地が攻撃される」って云うんだね。それで家では防空壕を掘って、それも特別頑丈なのをね。ところが夜になって、ここでは危険だからと当時平和台の裏に久留米の第十二師団司令部があったんだが、そこの壕に移られた。
それからが大変でね、アメリカの機動部隊が去るまで、毎日毎日弁当づくりですわ。
作った弁当は運転手が車で運んだが……。三日ぐらい運んだと思うがね。
そういうことじゃから、十七日の夜は眠れんとよ。それで大淀川を眺めちょったら、明け方、照明弾が二発、赤江の上空に……。
南の空がパアッと明るくなってねえ。
米軍機は山の方から襲いかかって海に逃げるのよ。日本軍の高射砲を避けるためにね。
高射砲陣地は稲荷山にあってね。盛んに撃つんじゃけど当たろうか。
でもね、一機墜ちて。飛行士は死んじょったけど、靴とか遺留品があってね。後で山形屋に展示したりした。
戦後、米軍が進駐して来たでしょう。この時一騒動あったつよ。
米軍の将校が警察署長に拳銃突きつけて、死体は何処に葬ったかって。赤江の警防団が丁重に葬っていたため問題にならず、むしろ感謝されたという話じゃった。米軍はどこで飛行機が落ちたかぐらい分てるわけね。
粗末に扱ってたら誰かが戦犯に問われたね

三上謙一郎著「記録・宮崎の空襲」より 旅館「紫明館」川野満雄氏の証言

敵機動艦隊の接近を行政や住民に知らせ、警戒態勢をとらせるのが軍の役目の筈。しかし軍部はそれを隠し、第一撃を受けるまで無防備状態に置いていたのです。
陸軍と海軍の間でもレーダー情報が共有されていなかったらしく、沿岸部の海軍飛行場は18日早朝から警戒態勢に入っていたものの、都城の陸軍飛行場には敵機接近の情報すら伝達されていませんでした。
本土決戦の最前線となる宮崎の、これが防衛の実態でした。
前哨戦の段階でコレですから、もしも本土決戦になれば、さらに悲惨な状況になったことでしょう。

米軍の宮崎上陸を牽制する沿岸張り付けの陸軍154師団(西都)、156師団(宮崎市)等と、その背後から反撃を加える機動打撃部隊の212師団(都農)が展開していたものの、212師団の桜井師団長は「地形上、宮崎県での機動戦は不可能」と判断。各地に踏みとどまっての玉砕を覚悟していました。
本格的な上陸作戦が始まれば、宮崎県沿岸部は猛烈な艦砲射撃と空襲で壊滅し、大量の避難民を抱えた悲惨な撤退戦が演じられた筈。その住民避難計画も宮崎県警本部に丸投げされており、県内各自治体の首長へ通達されたのは昭和20年夏になってからでした。
住民を巻き込んだ沖縄戦の惨劇が、宮崎でも再現されようとしていたのです。

3月以降、パッタリと空襲は途絶えますが、米軍機は沖縄戦の航空支援に廻っていただけ。
沖縄の敗色が濃厚となった4月下旬に宮崎空襲は再開されました。他県から飛来する戦闘機がB29を迎え撃ちますが、宮崎県内の防空戦闘機は掩体壕の奥で沈黙し続けます。
執拗な空襲を受けた赤江・都城西・新田原の各飛行場は機能を失いつつあり、富高飛行場は特攻機の中継地と化し、唐瀬原飛行場の挺進飛行隊はフィリピンの降下作戦で消耗、都城北飛行場の特攻機は出撃に備えて秘匿され、新たに小林とえびのにも特攻基地が建設される中、都城東飛行場だけが細々と特攻機を送り出していました。

「我が軍の戦闘機はどこにいるんだ?」と歯ぎしりする宮崎市民を嘲笑うかの如く、米軍機は波状攻撃を繰返します。
宮崎県の軍用飛行場群は、台湾や沖縄を守るための後方拠点に過ぎません。戦略的にはそうだったのですが、土地や財産を提供し、飛行場の建設奉仕作業に協力した宮崎県民にとって、郷土の空を守ろうとしない軍の方針は理解しがたいものがありました。
いっぽう、沖縄の攻防戦には持てる特攻戦力が注ぎ込まれます。


昭和十九年から二十年にかけて、第一宮崎国民学校の六年生だった。
勤労奉仕なるもので、赤江飛行場に駆りたてられたのは、軍用飛行場の増設、延長の工事であったのだろうか。
我々には、そんなことは分からないが、とにかく軍用トラックに積み込まれた六年生、約百八十名が赤江の飛行場へ向かう。
飛行場では作業の責任者の説明を受けて作業にかかる。赤子の頭ほどの石を埋め込む。その道具は直径一メートル位の、コンクリート円筒形のローラーである。真ん中に穴があり、それに鉄棒が通してあって、その両端に長い綱がかけてあり、これを両方に分かれて引っ張るのである。
ローラーは静かに回り始め、並べられた石は次々に地下に埋まっていく。この石が、どのような効果があるかわかるはずはない。
炎天下、汗にまみれて、ただ黙々と綱を引っ張るだけである。やがて石が埋められたあとは、作業員たちがコンクリートを流し込んで平らに、ならしていく。
この過程からわれわれは、飛行機のえんたい壕堀りの場所に移動する。
滑走路には、呑龍、銀河、靖国という爆撃機や何機かの戦闘機を見た。今おもえば、これらの飛行機は、鹿児島の知覧や沖縄方面に飛んだのだろうと思う。
移動する際に何人かの飛行兵に会った。若くりりしい、あこがれの飛行機乗りの兵隊さん、羨望の目で見たものだった。
その時の年令推定が十七、八才だろうか。
「今からどこへ行くと?」と問うても黙として語らず、静かに笑みを浮かべながら、ポケットから携帯口糧の乾パンを出してくれた。一口大の固いものだったが、当時は食糧も逼迫しており、珍しくありがたく、とてもうまかった。
飛行帽の下に日の丸の鉢巻が見えた。特攻隊員であったろう、そう思った。
彼も戦闘機もろとも、若い生命をささげた一人であったかもしれない。「コノシロ」少尉といった。その姓は忘れない。
乾パンの味と、童顔だった隊員のことを思うと、あれからどうなったのか、胸が痛む。
やがて戦局もきびしくなり、B29や艦載機のグラマン、カーチスなどの爆撃を受けるようになる。
特に赤江の飛行場は、艦載機の波状攻撃が連日であった。赤江の飛行場には、二度と行くことはなかった。その後、どうなったのだろうと気にする前に、我々の身辺にも危険が迫ってきた。
住んでいた瀬頭町は、赤江の対岸でもある。戦闘機、グラマン、カーチスは頭上すれすれに宮崎駅方面に舞い上がり、旋回しては一ツ葉方面に出て、ふたたび赤江に爆弾投下。そして機銃掃射を繰り返す。
日本の飛行機は何をしているんだと、歯をかんだ。
六年生の卒業式も、どうであったかよく覚えていない。

平川亘氏「戦後五十年」より

台湾と沖縄へ迫る米軍に対し、日本の陸海軍は特攻作戦と通常攻撃を織り交ぜて対抗。赤江飛行場からも、特攻隊と雷撃隊が続々と出撃しました。
しかし、米艦隊はレーダーと迎撃機を組み合わせた堅固な防空システムを構築しており、それを突破するのは容易ではありません。迎撃をかいくぐって肉迫する特攻機には、熾烈な対空砲火網が待ち構えていました。
こうして、宮崎を飛び立った多数のパイロットが沖縄近海に散ります。
特攻隊と同じく、雷撃部隊も大きな損害を被りました。
5月7日には被弾した雷撃機が赤江への帰還中に炎上、日豊線青井岳駅附近の天神山に墜落します。都城市近郊へ墜ちたというのに、彼らの遺骨が故郷へ戻ったのは戦後20年も経ってからのことでした。
軍による箝口令と戦争末期の混乱で、事故のことが忘れ去られてしまったのです。日向や日南の海上で撃墜され、今なお遺骨が回収されていないパイロットも少なくないのでしょう。

必死の特攻作戦もむなしく、米軍の宮崎空襲は激しさを増します。
当初は赤江飛行場に集中していた米軍艦載機の空襲も、B29戦略爆撃機による住宅地や農村への無差別爆撃へと移行。市民は次々と疎開し、宮崎市街はゴーストタウンの如き様相を呈し始めます。
梅雨が訪れても、B29は雨雲の上から爆弾を投下しました。やがて、袋叩きに遭った赤江飛行場は機能を停止。宮崎市街も灰燼と化します。

戦争末期まで激しい空襲が続きますが、幸いにも宮崎の海岸に米軍が上陸する事はありませんでした。
昭和20年10月、進駐軍のマスマン少佐一行は日豊線に乗って宮崎駅へと降り立ったのです。

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機影
旅客機の合間を縫って、宮崎航空大学の練習機が飛行訓練をおこなっています。

昭和20年の敗戦によって、赤江飛行場は進駐軍に接収されます。周辺地域の多くは民有地として開放されました。
飛行場として再建されるきっかけは、昭和25年の空港誘致運動から。
昭和29年11月、赤江飛行場は航空大学校の訓練場「宮崎飛行場」として復活します。年末には旅客機の発着も始まりました。
軍用飛行場時代に比べて敷地面積は半分となりましたが、中心市街地に近いという利便性から宮崎飛行場はその機能を拡充。第二種空港に指定されたのは昭和36年で、以降は「宮崎空港」として空の玄関口となりました。
周囲に残された掩体壕だけが、民間空港となった現在も戦時の記憶を伝え続けているのです。

赤江

 海軍赤江飛行場、傷痍軍人療養所、対空陣地7群(20ミリ機関砲×11他)
 赤江飛行場建設土砂採取場および哨戒機滑走路
 第5~7号戦闘機用掩体壕および第8・9号弾薬庫、および名無しの弾薬庫
 第1~4号爆撃機用掩体壕および誘導路
 本郷地区地下指揮所および魚雷調整所、霧島高射砲陣地および探照灯
 殿山地下司令部および海軍呉施設部事務所・戦闘指揮所、高射砲陣地
 稲荷山および峰(赤江中学校附近)の高射砲陣地
 飛行場要員兵舎(現在の月見が丘~柳籠)、パイロット用宿舎は本郷に設置。
※青線は陸軍落下傘部隊の宮崎市行軍演習ルート。
画像は川南の落下傘部隊が使っていた演習用地図です。戦時中の地図では、軍事施設が意図的に削除されていました。

それでは宮崎空港周辺の軍事遺構について解説します。

【滑走路および誘導路】

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海軍赤江飛行場の滑走路は、現在の宮崎空港滑走路となっています。

河川緑地
山内川河川緑地。向かいに見える一ッ葉有料道路の反対側が宮崎空港。
旧軍の赤江飛行場には、現在の宮崎空港と同じ海岸と直角の滑走路1本に加え、もう1本の滑走路がX状に交差、他に1本の短距離滑走路も設置されていました。
山内川緑地は、戦後に放置されていた廃滑走路の端の部分を掘り下げ、山内川の増水・氾濫対策用の調整池としたもの。
普段は水が無いので運動場として使われていますが、豪雨の際は手前のコンクリート構造部から氾濫した川の水が流れ込む仕組みです。

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空港敷地内に残る、現滑走路と交差する旧滑走路の一部。現在は掘り下げられ、調整池となっています。
ここから手前側に延びる部分が山内川河川緑地として開発されました。

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滑走路から延びる誘導路跡。

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誘導路跡を横切るJR宮崎空港線と日南線。地方の小さな空港ですが、直通線路があるなどアクセスだけはやたらと便利です。

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本郷団地方面へ続く狭い道。かつての爆撃機用誘導路を流用したもので、戦後に宅地化される前は道幅もはるかに広かったとか。

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誘導路から殿山地下陣地(奥に見える林)への分岐路

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本郷団地へ続く誘導路跡。宅地開発前は、この附近にも多数の掩体壕が存在しました。バイパスの陸橋を潜ると掩体壕群があります。

【1~4号爆撃機用掩体壕群】

掩体壕
バイパス脇に残る1号掩体壕

宮崎空港周辺に散在している掩体壕群は、昭和19年に建設されたもの。有蓋無蓋併せて多数の掩体壕が建設されました。
戦後の宅地開発で大部分が消滅し、残存しているのは7基のみ。
いや「7基も残っている」と表現した方がよいでしょうか。それだけ貴重な遺構なのです。

空港からバイパスを挟んだ住宅地内に4基の中型機用有蓋掩体壕(通称1~4号掩体壕)、空港滑走路脇に3基の戦闘機用有蓋掩体壕(通称5~7号掩体壕)、空港から一ツ葉有料道路を挟んで4基の弾薬庫(通称8号及び9号、2基は番号なし)が確認できます。
いずれも国土交通省、個人、企業の所有物であり、敷地内への立ち入りは出来ません。

近年は経年劣化による崩壊が目立って心配していましたが、ようやく保存活動が開始されるとのこと。
宮崎の歴史資産として、末永く残して貰いたいものです。日向や都城の掩体壕はアッサリと壊されてしまいましたし。

まずは「銀河」や「飛龍」といった中型爆撃機を格納していた掩体壕について。
敵機から秘匿する為、これら爆撃機用掩体壕は滑走路からかなり離れた丘陵地帯に設置されています。
爆撃機用の有蓋掩体壕は9基が残存していましたが、その後の宅地開発によって5基が撤去。
現在保存されているのは4基だけです(完全なものが3基、1基は半改築状態)。
宮崎市の資料では一号~四号と番号が振られており、すべて民間及び企業の所有物。これらは爆撃機用のシェルターだけあって、幅・奥行・高さとも大型ダンプが2、3台並んで入れる程の大きさです。
掩体壕の建設中に崩壊事故があり、赤江飛行場に勤務していた安田郁子氏の証言では犠牲者も出たとのこと。

【一号掩体壕】(企業所有)

掩体壕

掩体壕
バイパス寄りにあるのが「一号掩体壕」。現在は民間企業の車庫として利用されています。

道路
空港から随分と離れたこの道路沿いに、爆撃機用の有蓋掩体壕が並んでいます。この道路はかつて、赤江飛行場滑走路へ爆撃機を移動させる誘導路でした。車ではなく飛行機が走っていたんですね。

【二号掩体壕】(民間所有)

2号
一号から坂を下ったところにある「二号掩体壕」。民家の車庫として利用されており、車と比較するとその大きさが分ります。

最近では「宮崎空港の戦時遺構を活用しよう」という動きもありまして、イベントなども開催されるようになりました。
鎮魂や反戦平和という枠を取り払い、地域の歴史的モニュメントとしてPRするのも喜ばしいことです。人知れず消滅していくより、保存運動につながるかもしれませんし。国有地(防衛省)にある新田原掩体壕と違い、赤江掩体壕7基のうち国有地は2基のみ。残る5基は私有地にあるので、保存の取り組みは大変重要なのです。

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イベントでライトアップされた二号掩体壕。

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地域の行事などと統合すれば、掩体壕でのイベントは継続化できるかもしれませんね。ただ、ここは静かな住宅街の私有地です。周辺への配慮など、クリアすべき問題はたくさんあります。

【三号掩体壕】(企業所有)

3号

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二号に隣接しており、資材置き場として利用されていました。最近になって企業の看板が外されてしまい、今後が気になるところです(2016年撮影)

【四号掩体壕(民間所有)】

4号
戦後、資材置き場として利用されています。
入り口部分が削り取られているのは、敗戦直後に内部の鉄筋を盗まれた跡だとか。

道路の反対側にあった有蓋・無蓋の掩体壕は、全て撤去されました。


【本郷地区地下陣地】


トンネル1

隘道

トンネル4

地下壕2

「四号掩体壕」の先、現在の希望が丘団地付近には海軍の司令壕とされる地下トンネルが3本ほど設置されていました。戦後は「コウモリ道路」と呼ばれていたとか。
昭和20年3月18日の空襲によって赤江飛行場の地上施設は壊滅。司令部や魚雷格納庫などは希望ヶ丘や源藤地区の地下トンネル内に移設されました。
「空襲で怪我をした兵士をここで治療していた」という証言もあり、詳しい用途はわかりません。

現在、希望ヶ丘には丘陵地を通り抜ける隧道として数十メートルの海軍トンネル1本だけが残されています。
先年、隠されていた枝道が陥没事故によって現れたことで、全長200メートル以上に及ぶ地下陣地の存在が判明しました。※そちらは危険防止の為に埋設処分されています。

地下壕3

地下壕4

地下壕5

地下壕6

トンネル3

出口

【殿山地下壕】

もうこの頃の爆撃や機銃攻撃はまったく無差別と言ってよかった。村の小さな川に架かる橋も攻撃された。市街地や集落だけでなく、農村に点在する住家も納屋も焼夷弾や機銃攻撃を受けた。
既に機能しなくなっていると思っていた赤江飛行場も執拗に攻撃を受けていた。
やはり、この前後であったと思う。いつもとは違う激しい攻撃が赤江飛行場に加えらえて、私は最初の空襲の時に見に行った青年学校の見晴らし台に、この時は数人の大人たちと一緒に行った。
滑走路付近から煙は見えなかったが、今は住宅地となっている山手の方から数条の煙が上がっていた。
「なんで、あんげぎょっさん飛行機が来たっちゃろかいね(なんで、あんなにたくさんの飛行機がきたのでしょうかね)」
と一人が言った。
さっきから繰り返されている疑問であったが、他の人達も、わからんねえ、という顔でなおも立ち上る黒煙を見つめていた。
その時「ア、ア、アッ」と、みんな一斉に声を上げた。
数十米あろうかと思われる火柱が、そして黒煙が噴き上がったのである。ドーンというまさに天地を揺るがすような爆発音、続いて爆風が丘の斜面の木々をざわざわと揺すって押し寄せて来た。
狭い見晴らし台に立っていた私たちはなぎ倒されるように平地に飛び降りた。
私はとっさに、訓練で受けた両手で目と耳を覆う行動をとった。訓練では何回もやっていたが、実際に本気でやったのは初めてだった。
しばらくすると周囲でゲラゲラ笑う声が聞こえた。
「今かいしてん、間に合わんわよ」と誰かが言った。私の真剣なしぐさが一層おかしさをつのらせたのであろう。
後で、この時の大爆発は人間魚雷によるものであることを知った

佐藤聿夫「敗戦前後」より

人間魚雷「回天」部隊である海軍第5特攻戦隊は、延岡から日南までの宮崎県沿岸部に潜んでいました。しかし大淀川からの土砂堆積で水深が浅い宮崎市の海岸に潜水艇を収容できる場所はなく、一番近い回天基地も内海港に建設されています。
要するに赤江飛行場と回天は無関係なので、佐藤氏が目撃したのは通常魚雷地下格納施設の誘爆だったのでしょう。

殿山1

希望ヶ丘地下トンネルからバイパスを挟んだ反対側、津和田地区に殿山と呼ばれる森があります。
この殿山も丘全体が地下要塞化されていました。現在は4つのトンネルだけが森の中に残っています。

殿山2

殿山のトンネルも、空襲を避けて設置された赤江飛行場地下施設のひとつでした。
ここには、雷撃機搭載用の魚雷が格納されていたとの事です。

殿山7

殿山トンネル1

殿山3

殿山トンネル2

殿山トンネル3

殿山トンネル4

殿山トンネル5

危険防止の為、各壕は奥行数メートルで埋設処理されています。

殿山4

殿山トンネル6

上の壕から分岐する道を辿ると、もうひとつの壕があります。こちらは掘りかけで放置されています。

陥没1

陥没2

陥没3

陥没4
壕の周辺には、人間がすっぽり入るような陥没跡が幾つもあります。
この丘が開発されないのは、地下トンネルによる崩落の危険があるからでしょうか?

森の中にある殿山地下壕は、生い茂った藪と急斜面に囲まれています。訪れる際は転落や怪我に十分注意してください。
宮崎空港周辺に散在する丘陵地には、今なお未知の地下施設が眠っているのかもしれませんね。

地下壕1


【5~7号戦闘機用掩体壕】


着陸

宮崎空港の近くには掩体壕3基が残されています。滑走路の脇にあるため、旅客機の窓からも見ることが可能。
これらは戦闘機用で、爆撃機用と較べてサイズも小さ目です。

赤江
5号および6号掩体壕。

「五号掩体壕」(国土交通省所有)

戦争遺跡

5N

5号内部1

5号内部2
5号掩体壕内部

「六号掩体壕」(民間所有)

6号5

4号1

新燃岳
六号掩体壕の上空にある「雲」は、遠く新燃岳から流れてきた噴煙。
噴火中、宮崎空港の離発着は中断されます。

6n

D6

a6

b6

c6

ヒビ
6号も経年劣化が進んでおり、ヒビや剥落部分が目立ちますね。

山内川
宮崎空港の脇を流れる山内川。戦闘機用掩体壕があるのはこの川の両岸。

takeoff1

takeoff2

takeoff3

takeoff4

takeoff5

takeoff6六号掩体壕の横を離陸していくスカイネットアジア機。

「七号掩体壕」(国土交通省所有)

国交省

7d

7a

7b

7e

7号C
こちらも風化が酷く、コンクリートの剥落で鉄筋が露出しています。

日航
七号掩体壕と離陸態勢に入った日航機。

着陸1

着陸2

着陸3

着陸4

着陸5

着陸6

着陸7

着陸8

【8・9号弾薬庫】

89号c

一ツ葉有料道路の両側に4基残る弾薬庫(民間所有)。通称「八号」及び「九号」で、残る二つは名称無し。
戦時中には飛行場を護る対空機銃陣地が付近に設置されおり、その弾薬庫だったとのことです。

近寄ろうとして畑を踏み荒らす人もいる様ですが、ここは農作物を作っている私有地なので沿道からの観察のみにしましょう。

89号a

89号b

89号d

掩体壕

掩体壕

8号9号
8号と9号弾薬庫。

弾薬庫は計4基あるものの、8号と9号以外は宮崎市の資料にすら記載されていません。
残るひとつは一ッ葉有料道路を挟んだ反対側、もうひとつは海岸北側にあります。

10号1
8,9号とバイパスを挟んで残存する名無しの弾薬庫。

10号2
他の2基よりひと回り小さく、銃眼らしきものはありません。

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宮崎空港滑走路北側にも弾薬庫が残されています。

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大淀下水処理場方面から広い砂浜をテクテク歩いていくと、滑走路にぶつかります

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海岸から防風林の遊歩道へ

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段々と茂みが深くなっていきます

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こちらが滑走路北側に残る弾薬庫。海岸付近には対空機銃陣地とデコイ(囮の偽飛行機)が設置されていました。
敵機からの攻撃を逸らすためのデコイでしたが、米軍側は偵察写真の分析で見破っていたとのこと。

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この弾薬庫は天井部分が崩落しており、現在は伐採木の廃棄場所になっています。

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崩落により露出した断面。掩体部分のコンクリートの分厚さがわかりますね。
内部は人の背丈ほどに掘り下げられ、半地下式の壕となっています。

【稲荷山対空陣地】

宮崎空港近くの宮崎県警南警察署の裏には、稲荷山公園という小高い丘があります。
稲荷山と赤江中学校付近には高射砲が設置され、赤江飛行場を護っていました。

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稲荷山の頂上より眺める宮崎空港と、着陸態勢にはいったANAの旅客機。
戦時中には、ここから赤江飛行場へ飛来する米軍機に激しい対空砲火を浴びせていました。

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稲荷山山頂にある忠魂碑。明治以降に出征・戦死した地元出身の軍人を祀ってあります。
また、稲荷山公園一帯に広がる月見ケ丘住宅地は、かつて赤江飛行場勤務者の宿舎となっていました(パイロットの宿舎は本郷北方附近)。
隣接する宮崎農業高校グラウンドには、敗戦後に武器弾薬類が集積・破棄されています。

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稲荷山公園へ続く道

【飛行場用土砂採掘跡】

タンポリ

八重川河口付近にある単堀(タンポリ。水溜りの意味)。正式名称は津屋原沼。
現在はレジャーボートの係留池ですが、元は海軍赤江飛行場建設時に土砂を採掘した場所です。飛行場建設後に採掘跡が八重川と繋がり、津屋田沼となりました。
タンポリとは津屋田沼の固有名ではありません。
激しい爆撃を受けた赤江飛行場周辺には大型爆弾の爆発孔が幾つもあり、それに雨水や地下水が溜るとタンポリと化しました。
戦時下の子供達にとって、タンポリは格好の遊び場だったとか。

「日豊線には直撃弾が当たり、鉄道は切断され、布設してあったレールは飴のようにまがったり1メートルぐらいに寸断されて5メートルも10メートルも高く遠く飛ばされ、農家の田畑や山の中等に落ちていた。
線路の脇の田圃に出来た単堀は、直径は一回り小さかったが、たいへん深い掘が出来ていた。確か故・石山清さんの田圃だったと思うが、そこの単堀はかなり深かったので、水は青く澄み底の魚まで見えていた。
その単堀の周辺には土はなく、殆ど田圃と同じ高さになっており、溝や八重川からあがってきた魚は単堀の深みを住み場所にしていた。鮒や鯰、時には鰻や鯉等も泳いでいるのがはっきり見えていた。
当時単堀では魚を釣るといったことはあまりしなかった。釣るよりも単堀や堤にダイナマイトをしかけて水中で破裂させショック死させて掬い取るという漁法があった。
ダイナマイトや導火線は中野の兵舎跡にいくらでもあったので、それを堂々と拾って来て使っていた」
「単堀の思い出」より 石川秀雅氏の証言

水路
チョッパー
大淀川河口からタンポリへ繋がる水路と、その脇にあったトニートニー・チョッパー。

津屋田沼の脇にも軍用滑走路が建設されました。哨戒機用に予定していたのだとか。
敗戦後、津屋田沼は不要兵器の投棄場所と化しています。

【傷痍軍人宮崎療養所】

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現在の国立宮崎東病院

宮崎空港の近所に宮崎カントリークラブというゴルフ場があります。
ゴルフと言えば早起きして車を何時間も運転して辿り着くイメージもありますが、ここは宮崎空港・高速道路の宮崎IC・宮崎空港駅から車で5分程度の距離。やたらと交通の便が良いので、県外からプレーに来る人も少なくありません。
で、このゴルフ場の近所にあるのが国立宮崎東病院。
此処はかつて、傷痍軍人宮崎療養所でした。

赤江飛行場の南側にある宮崎療養所では、傷痍軍人の治療をおこなっていました。
しかし此処も空襲に巻き込まれたため、入院していた傷痍軍人の転院・退院措置がとられます。
昭和20年4月28日の赤江空襲で、療養所も遂に炎上。事前の避難にもかかわらず、残っていた職員1名、入院中の海軍軍人1名が爆死しました。この日をもって療養所は閉鎖されます。

【武器集積所】
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稲荷山対空陣地裏にあった農業高校グラウンド。

戦後、赤江飛行場一帯の武器弾薬類は宮崎農業高校のグラウンドへ集められ、解体・破壊処理されました。
一部の弾薬などはタンポリなどへ投棄されたと伝えられています。
進駐軍は徹底的に日本軍の兵器類を探し出し、無力化へ努めました。


【戦没者慰霊施設】

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忠魂碑C

忠魂

興味本位で史跡を見て廻るのも良いのですが、赤江飛行場から飛び立って行った特攻隊員を悼む気持ちがあるならば、この場所にも立ち寄ってみては如何でしょうか。

空港正面

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戦争遺跡

戦争遺跡
特攻花と称されるオオキンケイギクですが、実際の特攻とは関係ありません。後世に語り継がれる中で、なぜかこの花が特攻花として誤解されてしまったのです。
赤江飛行場に勤務していた安田郁子氏が述懐しているように、特攻隊員を見送る女学生が手折ったのは桜の花でした。

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この地から出撃した陸海軍パイロット達の名が刻まれています。

特攻花


赤江門3

赤江門2

赤江門1

赤江門4
慰霊碑から用水路を挟んだ滑走路側に残されている赤江飛行場の門柱。

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宮崎空港

宮崎空港

宮崎空港

宮崎空港
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八紘之基柱・平和の塔(宮崎県宮崎市)

Category : 宮崎市の戦跡 |

紀元二千六百年の行事として、宮崎県では「八紘一宇」の塔を建てることとなり、男女学生は毎日のように下北の現場でモッコの土運びに励みました。
現在の平和の塔です。
東京では有名な写真家だという人が来ました。後日、その写真家が土門拳氏であったことがわかりました。
さっそく写真を撮ることになりました。
各学校入り乱れての作業でしたので、すぐ近くにいた者が、土手の上から下へと並びました。私は上の方です。
立っていると、土の中に足がうまるので、日向乙女の心意気を見せようと、手前にスコップを突っ立てて撮ってもらいました。


安田郁子著「モスグリーンの青春」より

八紘一宇

【紀元2600年奉祝事業】

宮崎市にある広大な平和台公園。その一角には、御幣を象った巨大な石塔が聳え立っています。
現在は「平和の塔」と呼ばれていますが、正式名称は八紘之基柱(あめつちのもとはしら)。完成したのは、神武天皇即位紀元2600年を迎えた昭和15年のことです。



なんでこんな田舎に立派な塔を建てる必要があったのでしょうか?
それは、宮崎県に天孫降臨の地(かもしれない)というプライドがあったからに他なりません。
他に自慢できるものがないと、極端な自虐か背伸びへ走ってしまいがちですからね。

先日のこと。軍馬補充部の史料を調べていたら「日向八郡人口僅か十四萬餘、九州の北海道といふ異名ある此國に於て(宮崎縣獣医會 「宮崎通信」 明治27年)」などと書いてあるのを見つけてホゲーとなりました。
「猿と人とが半々に住んでいるような気がする山の中(延岡は海辺の街ですけどね)」などと某文豪に揶揄されるまでもなく、自虐をかまし続けて120余年。そんなに卑屈にならんでもいいと思うのですが。

深い山地に囲まれて大きな港湾も無い宮崎は、昔から発展が遅れていました。それを象徴するのが西南戦争で、薩摩軍の退却戦に巻き込まれて戦場と化した挙句、戦後復興は鹿児島優先。ばら撒かれた西郷札も紙切れ同然という踏んだり蹴ったりの扱いに。
旧島津領だった都城・西諸県・佐土原地域を除く日向人は鹿児島偏重の行政へ反感を募らせ、後の宮崎県独立運動に繋がってゆくのです。まあ、鹿児島から独立したところで陸の孤島状態は変わらなかった訳ですが。

戦前の大きな転換点となったのが、岩切章太郎による宮崎の観光開発です。
しかし、観光宮崎の知名度といえば九州地域が精一杯。全国へアピールするには今ひとつでした。
更に、日本の観光業界は戦争によって大打撃を受けます。
昭和12年から近衛内閣が推進した国民精神総動員運動により、観光旅行が自粛されるようになったのです。反面、国家の成り立ちを訪ねる史跡巡りなどは盛んになりました。
これを機に、鹿児島県と宮崎県の間で争いが勃発します。
その主たる原因は観光客誘致。両県は、「天孫降臨の地」の称号を巡って(考古学的考証そっちのけで)熾烈な競争を続けてきました。それが戦時下に再燃したのです。
自粛ムードの中でも「皇祖ゆかりの地を訪問する」という大義名分があれば、堂々と観光客を呼び込めるとあって両県は必死。
昭和13年、鹿児島は与謝野晶子や斉藤茂吉、宮崎は井伏鱒二や地元出身の中村地平ら有名作家を招待し、彼等のお墨付きを得ようと懸命のPR活動を開始します。作家らが両県の意図を知ったのは来訪後のことだった様ですが、発表された旅行記では敢えてその部分には触れていません。
日向路の旅情を筆で広めたのが、先程の中村地平だったとのこと(渡辺一弘氏「中村地平の日向への旅と国策旅行ブーム」の受け売りですけど)
競争の結果、両県を訪れる観光客……じゃなかった参拝客も増加。直後の紀元2600年記念行事が拍車をかけ、「観光宮崎」の知名度は全国へ広がります。
宮崎が鹿児島よりも有利だったのは、西都原古墳群に陵墓参考地(埋葬者は特定できないものの、宮内庁が皇族の墳墓としているもの)である男狭穂塚と女狭穂塚があったことです。
「陵墓参考地の発掘は無理でも、周囲の古墳ならば……」と、有川忠一知事が大正時代におこなった西都原古墳群の発掘調査も決定打に欠け、「天孫降臨の地」の根拠はウヤムヤに。
他にソレっぽいモノといえば、坂本龍馬が引っこ抜いた天逆鉾くらいですか。両県ともその程度の根拠しか示せないので、イメージ戦略に打って出るしかありませんでした。

アレやコレやの取組みによって、神話を掲げた宮崎県の観光誘致は大成功。戦後には島津貴子夫妻や皇太子夫妻の新婚旅行、川端康成原作のドラマ「たまゆら」などの影響も加わって、「宮崎への新婚旅行ブーム」として結実しました。
観光客が沖縄やハワイへ流れると共に、それも廃れちゃったんですけどね。マジで「どげんかせんといかん」のですが、歴史ある街並みも空襲と開発で消えてしまったし(美々津、高鍋、飫肥あたりを除いて)、温泉も霧島附近でしか出ないし、オーシャンドームは廃墟と化しているし。

「天孫降臨の地」の濫用は困った状況も生み出しまして、観光面での宮崎県史が神話からスタートするというムーな展開も見受けられます。旧石器人や縄文人涙目。
それもこれも、宮崎を焼き尽くした姶良カルデラと鬼界カルデラが悪いのです。

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完成当時の八紘之基柱

以上が当時の時代背景。
追いすがる鹿児島にトドメを刺す意味……ではなかろうと思いますが、相川宮崎県知事を会長とする宮崎県奉公会は「紀元2600年奉祝事業」として宮崎県民あげての記念施設建設を発案しました。
昭和14年に36万円の国家予算がつけられたことで、「世界中から石を集めて、八紘一宇(はっこういちう)の精神を表現した日本一高い塔を建てる」ことが決定します。
ナゼに宮崎神宮の整備から塔の建設となったのかよく分かりません。大阪万博における太陽の塔みたいなノリだったのでしょうか?
建設地は皇宮屋(神武天皇が東遷前に居住していたとされる場所。現在の平和台病院裏手)附近を予定していましたが、そこからちょっと登った丘の上に変更。建設の宣伝には東京日日新聞と大阪日日新聞が協力してくれました。
高さ37メートルは当時の建造物としては日本一で、これは当時日本一高かった丸ビルより数メートル高くしようとした結果なのだとか。

塔のデザインは御幣を象ったものとなりました。
発案者の相川知事によると、「基柱は罪穢を祓ふ御幣なのです。この国民の総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ、世界の罪穢を祓ひ、真に八紘一宇の正しき平和を確立する。之れ即ち建国の大理想実現のため御幣のかたちを採つた所以であります(黒岩明彦「北原白秋と八紘之基柱」より)」という考えからこのデザインにしたのだとか。

塔の設計について自ら名乗り出たのは、彫刻家の日名子實三でした。世間一般では、日本サッカー協会の八咫烏をデザインしたことで有名な人です。
なお、鹿児島県も皇紀2600年記念事業として、霧島神宮の「宮址の顕彰竝びに参道の改修」をおこなっております。

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塔の建設にあたり、縦45センチ、横60センチ、幅15センチの石材1789個が東洋、欧州、南米各地の日本人会から「寄贈」されます。県内産の石材を使えばのちのち問題なかったのにね。
地元住民や学生ら「祖国振興隊」による勤労奉仕もあり、塔の建設は順調に進みました。写真家の土門拳も現場を訪れ、建設の様子を撮影しています。
しかし、工事に動員された学生にとって、この建設作業は大変な重荷となっていました。
学業に専念させるべき学生(女生徒も含みます)を、こんな記念碑の建設なんかに従事させる必要があったのでしょうか。
勤労奉仕なので重労働の割にバイト代も出ず、モノがモノだけに文句を言える雰囲気でもありませんし。

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【八紘一宇と日本】

塔に刻む八紘一宇の文字ですが、「天皇陛下では畏れ多い」との理由から、相川宮崎県知事が欧州留学中に知り合った秩父宮に御真筆を仰ぐこととなります。

「当時非常にお元気で、英気さっそうとしたご様子の殿下はだまってお聞きの後、開口一番「もっと大きくならないか」と言われた。私は「日本一の高さでございます」と申し上げると殿下は「なるだけ大きくしよう」と仰言った。
そして「いつまでに書いたらよいか」と聞かれたので、私はたしか秋ごろまでにとお答えしたように覚えている。
殿下は「ゆっくりしてほしい。私は手習いせねばならぬから」と仰言られた。殿下は聞き届けてくださるご意思であることがわかり、私は感激しつつ宮邸をさがった」
三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

建設に奔走した相川知事は完成前に広島へ赴任した為、長谷川知事が御真筆を宮邸で賜っています。宮崎への帰路、長谷川知事は廣島に立ち寄って相川知事に面会したのだとか。
八紘之基柱が完成したのは昭和15年11月25日。前夜には500名が参列して、秩父宮御染筆を塔内の祭壇に納める「奉安式」が執り行われます。
このときより、塔に刻まれた「八紘一宇」の文字が人々の目に触れることとなりました。

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八紘之基柱の歴史を辿る時、その名称に関わる「八紘一宇」の問題を避けて通ることはできません。

八紘一宇とは、日本書紀を元に作られた大正時代の造語。
「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、もともとは「人類みな兄弟」とか「世界村」などと似たような言葉です。
中国大陸へ渡った日本人が「八紘一宇」を口にするようになったのは、満洲事変あたりから。内地では数年遅れて昭和12年前後です。
伝統ある言葉と思いきや、意外と歴史は浅いんですね。
で、勢力拡大を目論んだ当時の日本が「大東亜共栄圏」とセットで使用しまくった結果、八紘一宇は戦後になって叩かれている訳です。
経緯が経緯だけに仕方ないのでしょう。

八紘一宇とか大東亜共栄圏といったスローガンは、海外へ活路を見出そうとする近代日本の大義名分となりました。
ただし結果からいうと、「理想と現実が乖離していた」と言わざるを得ません。
理想の実現に取り組んだ個人や組織は確かに存在しました。
しかし、いくら現地住民の宣撫工作に努めたところで、後からやって来た兵士や入植者の横暴極まる行動が反感を買いまくるという悪循環の繰り返し。東亜の大黒柱どころかDV親父状態だった訳です。
勘違いされやすいのですが、これは戦後の反省に立っての話ではなく、戦前から問題化していたコト。
五族協和を掲げる満洲國ですら、当時から民族差別が問題視されていました。内地では余り目立たなかった日本人の差別意識が、多民族国家満洲で露呈したのです。
満洲事変直後の証言を例に挙げましょう。

「満洲國といふ民族協和の自意識の強いところでさへ、日本人かくの如しとすれば、支那だの南洋だのでは思ひやられるのではなからうか。
私は支那事変の始る一年半ほど前に北支に遊びに行つた時、天津の南開大学校長 張伯岑にあつたことがある。この人は「日支親善といふことはよくわかるけれど、日本人の不愉快な事件を毎日ニ三度見てゐると、そんなことはどうにも考へられないくなる」といつてゐた。張伯岑は支那教育界の大元老で、今は重慶に居る。
その時にはわたしも目にあまる日本人を数多く見た。
無賃乗車をとがめられて車掌をなぐる日本人。三等切符で二等に乗りこみ梃子でも動かぬ日本人。人絹や銀の密輸を手傳ふ日本人の女。どてらを着て北京や天津の驛ホームをのしあるく日本人。阿h密賣をやつてゐる半島人、等々である。
奉天に帰つて當時の特務機関長D将軍に「あなたがたがいくら理想を描いて居られても、あれではすべてぶちこはしではありませんか」と話したら「いや、あまり多いので閉口して居るのです」とこぼして居られた。
わたしはそれ以後の北支を知らない。中支・南支も知らぬ。たゞ現在では、いかがはしい日本人にビシ〃退去命令をくはせて居ることも承知してゐる。だから、時代の進歩をもあはせ考へて、その當時よりははるかに日本人本來の姿にかへつてゐるだろうことを確信する。それとともに在満日本人がこの際、弊風打破に一奮發することを要請したいのである」
満洲國民政部簡任編審官 寺田喜治郎「日本人心得帳」より 昭和8年

熱心な教育者であっただけに、寺田先生は相当の危機感を抱いていた様です。
現地他民族に對して多少の蔑視観をもつてゐることは、文化度の差異から生じやすい弱點ではあるが、“八紘一宇”の手前もある。気をつけなければならない(同上)」という彼の警告は、しかしどこまで通じたのでしょうか。
後年には今田荘一大佐などの軍人も満洲の状況を憂う始末でしたから、改善は困難だった筈。
「八紘一宇」を巡る議論が噛み合わないのは、対立する双方の主張が当時の理想と現実を論拠にしているからです。

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八紘之基柱の四隅には「大篝火台」が設置されています。これは戦時中、塔建設記念日「八紘祭」の夜に篝火を焚いていた名残り。闇のなか炎に浮かび上がる塔の姿は、神秘性を増すのにも効果があったことでしょう。

話を宮崎県に戻します。
完成した八紘之基柱は、大東亜共栄圏のシンボルとしてPRされました。
宗教施設ではなくでっかい記念碑に過ぎないのですが、ここを“参拝”する人々も増えて新たな観光スポットと化します。誘致作戦大成功。
正式名称の「あめつちのもとはしら」では面倒だったのか、いつしかこの場所は「八紘台」と呼ばれるようになりました。

平和台公園

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塔の右側面

基柱の設計構造は一切純日本式とし、斯界の泰斗日名子実三が精魂を傾け、全知全能を打込み、畢生の心血を注いで造られたもので、わが国近代芸術作品の最高峰をなすものである。

苑地
総設計 林学博士 田村剛
総面積 実測一二,〇五四坪
塔を含む広場面積 二,六〇〇坪

基柱
設計 彫刻界の泰斗日名子実三、昭和十四年三月二十三日模型完成。
この模型により建築界の権威日本大学講師南省吾仕様設計書作製。
施行 株式会社大林組
着工 昭和十四年五月二十日
定礎 昭和十五年四月三日
竣功 昭和十五年十一月十五日

三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

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塔前面のテラス部分。現在とは景色も違いますね。

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八紘一宇の名のもとにアジアでの勢力拡大をはかった日本。
戦争の時代、八紘之基柱が軍国主義に利用されたのも当然の流れでしょう。
面白いのは、八紘台が陸軍の行軍演習コースにも組み入れられていたこと。ここは川南空挺史のブログなので、私の手許にある落下傘部隊の演習地図を例に挙げましょう。
新富町の新田原飛行場を飛び立って川南町の塩付降下場へパラシュート降下した空挺隊員は、そのまま新田原飛行場方面へUターンを開始。飛行場手前で西都市へ進路変更し、国富町方面へ山中を行軍突破。そこで一泊の後、大淀川沿いにゴールの宮崎駅を目指す……途中でわざわざ八紘台へ立ち寄るルートが記入されております(地名は現在のもの)。
八紘一宇の精神訓示だったのか、単なる観光だったのか、目的は不明。まあ、地元の部隊はそれなりに塔を有効利用していたのでしょう。

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【宮崎空襲と八紘台】


沖縄に米軍が迫りつつあった昭和20年。
米軍上陸が予想された宮崎県沿岸部には、上陸牽制部隊の第154師団(西都市)と156師団(国富町)、それを側面支援する第212師団(都農町)、霧島山麓には後衛の第25師団(小林市)が展開。八紘台にも地下陣地が構築されました。
昭和20年3月には陸軍落下傘部隊の第1挺進戦車隊が川南空挺基地から宮崎市へ南下します。これは、宮崎を訪問中の三笠宮へ演習を披露するのが目的でした。
偶然にも、演習予定日の18日は米軍機の宮崎初空襲と重なってしまいます。
同じ日、米機動艦隊が都井岬沖へ出現。空母から飛び立った艦載機群は、夜明けと共に九州南部へ奇襲攻撃を仕掛けました。
沖縄進攻作戦の前に、特攻隊の出撃拠点であるこのエリアを「露払い」しておく必要があったのです。

空襲を受けた宮崎県内の赤江、新田原、富高、都城西の各飛行場は多大な損害を蒙り、当然ながら空挺部隊の演習も延期されました。
三笠宮は八紘台の地下壕へ避難しており、空襲の被害を免れます。日本側も、アメリカ機動部隊の接近を察知していたのでしょう。三笠宮が宿泊する筈だった旅館の御主人は、「前夜のうちに宮崎が攻撃される可能性ありと極秘の警報が届き、宿泊先を八紘台へ変更された」と証言しています。
18日3時20分には警戒警報が発令されたものの、内陸部の都城西飛行場は米軍の第一撃を受けるまで完全に油断していました。事前に迎撃機を上げていたのは富高飛行場のみで、他は一方的に爆撃を受けています。

その後も激しい空襲に晒された宮崎県ですが、ぺったんこな宮崎平野で目立ちまくっていた八紘之基柱自体は爆撃を受けることもなく、不思議と破壊を免れました。
宮崎を空襲する米軍機にとっては、便利なランドマークだったのかもしれません。

しばし止んでいた宮崎空襲も、沖縄戦の終結と共に再開されました。更に、艦載機による軍事目標限定の空襲から、B29爆撃機による無差別爆撃へと激化していきます。
沖縄の次は、九州南部が戦場になると予想されていました。宮崎県警本部は沿岸部住民の山間部疎開計画(艦砲射撃の射程圏外)を練っていましたが、米軍上陸が決行されたならば、沖縄と同じ凄惨な地上戦が再現されたことでしょう。
米軍が大淀川沿いに侵攻した場合、八紘台を間に挟んで国富町の陸軍第156師団と激突する構図になります。そうなれば、塔も破壊を免れなかった筈。

幸いにも、8月15日の敗戦によって本土決戦は回避されます。
B29の空襲で叩きのめされた宮崎平野には、八紘之基柱が空しく聳え立っていました。
「基柱は罪穢を祓ふ御幣なのです。この国民の総力による御幣を以て吾々自分の罪穢を祓ひ、日本の罪穢を祓ひ……」という相川知事の言葉が、皮肉にもこのような形で帰結してしまったのです。

平和台公園

【戦後の八紘台】

戦後、八紘台を撤去しようとする動きがありました。
昭和20年10月から宮崎に進駐したアメリカ軍は、マスマン少佐の指揮下で民政化に着手。残存兵器の破壊や教育改革など、軍事色の排除に動きました。
当然ながら八紘之基柱も問題視され、宮崎市民に塔撤去の是非を問います。しかし、周囲の目を怖れて誰も関わろうとしませんでした。
困り果てた進駐軍が西村楽器店の池田鋼士郎社長に相談したところ、「建設の経緯から考え、安易にミリタリズムと直結すべきではない」との答えを得て保存が決定。
昭和21年8月、「塔に軍国主義の色を留める「八紘一宇」の文字が刻まれ、また背面には穏当ならざる碑文がある」との理由で八紘一宇の文字と武人像は削り取られ、塔は進駐軍の監視下に置かれました。
また、塔内に収められていた秩父宮の御真筆にも進駐軍から焼却命令が出されます。
これだけは何としても回避したい宮崎県知事と宮崎神宮は極秘会談を重ねました。その結果、遂に御真筆奪回作戦が決定されます。


「当時の谷口明三知事は心配してどうするか、ということで関係者は毎日のように県庁に集まって協議しました。
ある日、宮崎神宮から片岡常男宮司、吉野房見官房主事、赤星寛秘書課長らを交えて協議した結果、吉野主事の「御真筆」を焼くわけにはいかない、隠そう」という提案に皆が賛同しました」

「メンバーの中にいた宮崎神宮の菅原喜一禰宜が「それでは私が命をかけてやってみましょう」ということになりましたが、菅原禰宜には二人の子供がいました。
万一の場合、切腹する覚悟であった菅原禰宜の胸中を察してか、吉野官房主事が「後の面倒は自分が見る」との最終協議でことが運ばれました」

「ナッパ服を着て浮浪者を装った菅原禰宜は、占領軍がテントを張って見張っている塔の周辺を、スキあらば塔の中に入ろうと、毎日出掛けていたという。そして遂にそのチャンスがやってきた」

三又たかし著「ある塔の物語―日名子実三の世界―」より

ある日、八紘台の警備兵たちが青島キャンプへ出かけることになりました。
菅原氏から「アメリカ兵不在」との通報を受けた県職員たちは塔へ急行、御真筆を運びだして地中に隠します。戻ってきたアメリカ兵には別に燃やした紙を示し「さっき焼却処分したところだ」と騙しました。
アメリカ側も特に追及せず、奪回された御真筆は6年半に亘って秘匿され続けます。

この御真筆ですが、秩父宮が亡くなった昭和28年1月4日に存在が公表されました。

八紘一宇

戦後はロッククライミングの練習台と化し、荒れ果てていた八紘台。しばらく後になってから歴史的価値を再評価され、公園としての整備が進みました。
現在は「県立平和台公園」と名を変えて、森林散策コースを備えた宮崎市民憩いの場となっています。

その過程で、武人像と八紘一宇の文字も昭和37年と40年にそれぞれ復旧が決定。ただし、前述の「穏当ならざる碑文」は削られたままとなりました。
八紘一宇の文字復旧には反対意見も強く、シンポジウムなどで激しい議論が重ねられたものの「いまさら軍国主義もないだろう」との結論により再建へと至りました。
「八紘一宇復活」を巡る当時の記録もたくさん残っていますから、興味がある人は調べてみましょう。
で、「八紘一宇の文字を復元すべき」「復活反対!戦争への反省がないのか!」「文字を復元しないのは侵略戦争の隠蔽だ」などと、削ったまま案も復元案も両派からの非難ゴーゴー。
そのような意見の対立を経て、現在の歪な平和台がある訳です。

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塔の裏側

このブログでご紹介した宮崎県内の戦時遺構は、大部分が「貴重な歴史的資産」という捉え方をされていますが、平和の塔だけは違います。
「八紘一宇」への賛美や反発からか、個人レベルでの主義・思想を振りかざす人ばっかり。派手なアジテーションばかり目立って、地道に塔の歴史を掘り下げた資料を探すのは難しいですね。
論点が塔限定ならまだしも、興奮のあまりアサッテの方向へ暴走している主張もすくなくありません。
塔の話をしていた筈が、いきなり現代アメリカの政策を罵り始めたり、軍事慰霊碑か何かと勘違いしたのか矢鱈と美化してみたりね。
そうやって選挙カーみたいに自説をがなり立てられると、読んでいるこちらは鼻白むだけです。
単純に地域の歴史を調べたい人にとっては、誠に困った状況ですねえ。

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【平和台公園へ】

賛成・反対の両派が真剣な調査と議論を重ね、(渋々ながら)折り合いをつけた姿が現在の平和台公園。
その辺の経緯すら知らず、ネット検索程度で調べた気になった人々が、走り幅跳びの批判や賛美をしてもナニがナニやらですよ。
極めつけは「平和台公園の名前は欺瞞だ!」とか喚く人までいて、だったら八紘台に戻せばいいのかと。戻したら戻したで激怒するんでしょうね、あの手の人は。

「平和の塔」に関する議論のうちで、実物を見た上での主張が幾つあるのか怪しいものです。
見た事がないモノの批評に対しては、得てして個人の妄想や先入観が混じりがちですからねえ。私も気を付けなければ。

まあアレですよ。
まずは宮崎まで来て、己が批評している対象物を実見して、ハニワ園から新池をぐるっと一周しつつ展望台まで足を伸ばし(途中で迷子にならないようにね)、広大な自然の中でアレコレ思索されては如何でしょうか。ネットに閉じこもっているとヒートアップしやすいですからね。

広場のベンチでボーッと眺めていると、駐車場に乗り付けて、10分くらい塔の写真を撮っただけで、そそくさと去って行かれる人もお見受けします。忙しいのは分かりますが、入り口でUターンするとは勿体無い。
そのような方々のため、平和台公園内をご案内しましょう。

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まずは塔の広場からハニワ園へ下ります。

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更に下ると池の畔公園が見えてきます。

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新池沿いに歩くとアスレチック広場が

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新池では水中からにょきにょき樹が生えていますが、水没したのではなくそういう種類です。

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対岸に塔が見えてきました。

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昔はこんな感じ

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一周二キロ位。運動するには丁度良いコースです。

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やっと半分位歩きました。ここにも水中林が。

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紅葉の季節は綺麗なんだろうな

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元の場所へ戻ってきました。

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ここを登ればゴール。といっても、平和台公園を半周しただけですが。

まあ、公園で散策を楽しむ皆さんは「単なる記念碑」みたいな捉え方でいいと思います。
ネットの中とは違い、公園には目を血走らせて70年前のことを罵り合う人もいませんしね。それよりも、平和台公園の美しい自然とハニワちゃんを楽しんだ方が百万倍マシ。
八紘之基柱自体、広大な公園の入り口にあるモニュメントに過ぎませんし。
知るにしても、塔の由来くらいで充分です(あくまで国内向けの見解ですが)。

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そういう訳で、平和台公園の歴史を論じたければ塔をその目で見て、色々な資料を読み比べて、複雑な経緯があることを知りましょう。
くれぐれも、敵味方識別装置全開でハッコーイチウだ何だと議論している人達には近寄らないように。地域の歴史を知りたいワケではなく、手前が主張する歴史観のネタとして八紘台を持ち出す人に対しては尚更です。
迂闊に近寄ると「お前はどっち側だ!」とイキナリ踏み絵を強要されたりしますよ。
怖いですねえ。

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県立平和台公園全体図。因みに、塔があるのは赤丸部分。

海軍第5特攻戦隊第33突撃隊・第9回天隊特殊潜航艇基地(宮崎市内海)

Category : 宮崎市の戦跡 |


 宮崎市内海に旧日本海軍の特攻隊が着任したのは、終戦直前の1945(昭和20)年7月。戦況悪化の中、じきに配備される人間魚雷「回天」で、迫る米軍の本土上陸作戦に対抗するためだった。軍事用輸送船の造船所があり、軍隊と住民が共存していた。
「白い軍服でマフラーをまとい、女の子たちの憧れの的だった。みんなが毛糸でこしらえた人形を隊員は腰から何個もぶら下げていた」。小学6年だった近くの黒木ツヤ子さん(80)は、特別だった特攻隊員の様子を思い出す。
 隊員から女学生だった姉やいとこへラブレターを託されたのは森田義孝さん(78)=同市神宮西1丁目。「恋の行方は分からないけど、はちまきを長髪の頭に巻いて海を眺める姿が凜(りん)として心に残っている」と語った。
 特攻隊員のほか、森田さんは海軍の兵隊とも交流し、近くの山でメジロ捕りをしたことも覚えている。「おおらかな人たちばかりで、『大きくなったら軍人になれよ』と言ってかわいがってくれた」と振り返る。しかし、森田さんはその後から終戦までの記憶をほぼ失っている。「空襲の恐怖と極限状態のストレスにさいなまれた」という。7月16日に回天6基が内海に配備。それが標的になり、翌日から空襲が激化した。

宮崎日日新聞「特攻隊のいたまち」より 2013年

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戦争末期、宮崎県沿岸には本土決戦に備えた特攻艇部隊「第5特攻戦隊」が配置されました。
第5特攻戦隊のうち、県南部には「第33突撃隊」、県北部には「第35突撃隊」が展開します。
33突の所属は日南市油津の第3回天隊(9隻)及び126震洋隊、南郷の第5回天隊(観音崎7隻、大堂津4隻)及び第54・第117震洋隊、内海の第9回天隊(6隻)、合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻でした。

今回は、内海港の第9回天隊についてご紹介します。

【内海の歴史】

青島神社の南側、堀切峠の先にある内海(うちうみ)。
ひっきりなしに車が通過する220号線を除き、とても静かな漁港です。
しかし中世には外国との交易港として栄え、河野水軍の拠点ともなった場所でした。適切な港湾がなく、大淀川から運ばれる土砂の堆積に悩まされた宮崎市周辺には、内海しか良港がなかったのです。
大正3年には大阪・鹿児島方面への定期航路誘致に成功し、内海港は宮崎の海運拠点となりました。物資と人の運搬のため、内海駅までの軽便鉄道も開通しています。

しかし戦後に宮崎港が完成すると、内海港はその役目を終えました。

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戦前の内海駅~宮崎駅間の路線図。当時の鉄道はこの区間しか開通していませんでした。
画像のAが第9回天隊基地、Bが海軍赤江飛行場です。

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堀切峠から眺める内海港。戦後の新婚旅行ブームの頃でしょうか?晴れた日に堀切峠沿いの旧道を下ると、まるで80メートル上空から太平洋を一望しているような絶景を楽しめます。
現在は堀切峠を貫通するバイパスとトンネルの新設により、大幅なショートカットができるようになりました(そのかわり絶景は見られませんが)。かつては新婚旅行で賑わった堀切峠フェニックスドライブインも、現在は道の駅となっています。

【第9回天隊内海基地について】

戦争末期、宮崎県沿岸部には日本海軍の特殊潜航艇部隊が展開していました。
それが、海軍第5特攻戦隊の第33突撃隊(県南部)および第35突撃隊(県北部)。33突所属部隊のうち、内海に配備されたのが第9回天隊です。
日向灘に米艦隊が出現した場合、これら宮崎沿岸に潜む特殊潜航艇と特攻ボート群が迎撃。自爆攻撃を仕掛ける計画でした。

内海特攻基地の建設が始まったのは、沖縄戦が激化した昭和20年5月のこと。当初は、油津特攻基地の第33突撃隊第3回天隊の要員が内海に派遣されていたそうです。
配備される回天は潜水艦で海中輸送され、宮崎沖で切り離されて海面へ浮上。そのまま港へ曳航されてから格納トンネル内へ揚陸されます。一連の作業は深夜ひそかに行われ、地元住民ですら気付かなかった程でした。

下記は第3回天隊員の証言。
第9回天隊は編成が遅れたのか、第3回天隊による内海基地建設着工から2ヶ月後に到着しました。

私は人間魚雷「回天」搭乗員として、徳山港口の大津島訓練基地で九ヶ月間猛訓練を受けました。それまでは飛行機乗りとしての訓練を受けていたわけですが、新型兵器搭乗員の募集がありましたので応募したところ、合格でした。
着任してはじめて、飛行機乗りが海を潜る魚雷乗りとは夢想だにしなかったので驚きでしたが、戦局急を告げる国難に立ち向かい、昼夜も分かたずの猛訓練に耐え、戦意旺盛なるものがありました。
上官から、この回天は八万円の高価な新型兵器である。国は貴重な財政の中から、お前一人に託すのだから必死必殺で敵艦を撃沈せよ。もしエンジントラブルでもおきた場合は浮遊機雷となり、敵艦が近づいてきた時に自爆し敵艦を道づれにせよ、と訓示を受けたものです。
昭和二十年五月、宮崎県の油津港大節に第三三突撃隊第三回天隊員として着任したのですが、この時私は十九歳でした。隊長は歴戦の勇士、帖佐大尉でした。
近づく米軍上陸に備え、必殺の体当りを期して、秘かに訓練を重ねておりました。近郊の南郷栄松、大堂津、内海にも基地作りを急いでおりましたので、我々は先遣隊として七月に入り、内海に隊長以下数名の搭乗員が出向き、作業にあたっておりました。

第3回天隊 佐藤登氏の証言より

【内海沿岸部】

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格納トンネル付近から眺める内海港。

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回天格納トンネル前の海岸。青島から小内海一帯にかけては、「鬼の洗濯岩・鬼の洗濯板」と呼ばれる特徴的な地層(油津層群)が見られます。長年に亘って砂岩と泥岩の層が波に侵食され、奇妙な地形と化しました。
鬼の洗濯岩が露出しているエリアは、北端の青島から南端のイルカ崎(画面奥側)あたりまでとなります。

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外洋と内海を隔てる防波堤。回天格納庫前の海岸から港口へ伸びており、戦時中から同じ場所にありました。
戦後にコンクリート製護岸や船溜りといった施設が整備されたものの、内海港の基本的な地形は戦時中から変わっていません。
それゆえ、当時の様子は容易に想像できます。

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海底まで広がる鬼の洗濯岩。満潮時でも水深が浅いので潜航艇の運用はムリそうです。
この一帯で潜水艇が動けるのは、鬼の洗濯岩が河口の水流で削られた内海港だけでした。

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内海の防潮堤から眺める回天基地方向。白い塔は港導灯台。

【内海港口部】

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沖合の防波堤から見る内海港

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鬼の洗濯岩の上に造られた防波堤。その上を歩くと、まるでガメラの甲羅の上にいるような錯覚に陥ります。
画面奥の海岸には、油津の第3回天隊と126震洋隊、栄松の第5回天隊及び第54・第117震洋隊などが展開していました。

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内海港の入り口

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彼方に見えるは、かつて新婚旅行ブームで賑わった堀切峠。

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沖合から見た第9回天隊基地の位置図(赤いラインが回天曳出し軌道のルート)。宮崎沿岸部の格納トンネルに潜んでいた特攻第5戦隊ですが、細島や美々津のような「岩盤が硬すぎてトンネル掘削に失敗」「そもそもトンネルを掘る場所がない」など、地理的条件に恵まれない部隊もありました。

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第9回天隊の受け入れ準備のため、内海には油津の第3回天隊から設営要員が派遣されていました。
特殊潜航艇は人目につかぬよう深夜に運び込まれたものの、それを察知した米軍は内海港を急襲します。

七月十六日、内海港入口に輸送用潜水艦が着艦。運ばれてきた回天六基を小型船で収容、近くの山あいに築かれた掩体壕に搬入と、昼夜兼行の作業を続け、翌十七日早朝二時頃完了、そして眠りにつきました。
五時半起床、夏堀、井手籠の両君がいない。内海港防波堤に好きな釣りに出かけたらしい。朝食をとっていた七時三十分頃、突然P51戦闘機二機による銃爆撃の急襲を受ける。
約二十分後、基地隊員より搭乗服の一名が防波堤電柱の陰に倒れているとの通報があり、二手に別れて捜索しました。
防波堤に倒れていたのは井手籠君で、頭部、腹部に十三粍機銃貫通で即死。
夏堀君は走り込んだ二階建住宅への爆撃による倒壊の下敷となっていた。遺体は軽爆弾の直撃を受けたとみえ、頭髪と骨の一部を残し、肉片は残していなかった。
納棺、軍艦旗につつみ、トラックで油津基地に帰還。翌十八日、ガソリンの補給を受け荼毘に付した。海軍葬を近くの正行寺で行い、遺骨の分骨は隊舎に安置された。
両君はともに北海道の釧路中出身で中学、海軍生活、出撃先も一緒と、兄弟以上の親友でした。
回天を搬入した内海基地には、光訓練基地より六名の特攻搭乗員が正式に七月二十二日に着任しました。両君の無念をはらさんと、米軍上陸を待ちかまえておりましたが、まさか一ヶ月にもならないうちに終戦になろうとは、予想もしませんでした。追いたてられるようにようにそれぞれの故郷へ帰されました

第3回天隊 佐藤登氏の証言より

米軍機の襲撃により、第3回天隊以外に地域住民も被害にあったそうです。

 「誰か助けて」。自宅前で米軍機による機銃を受けた当時9歳の大澤ヒロ子さん(77)は叫んでいた。銃弾が肩から右腕にかけて貫通していたが、山へ逃げようとする兵隊は誰も振り返らなかった。
 地鳴りのような空襲が続く中、逃げ場所を求めてさまよい歩き、神社にたどり着いた。駆けつけた医者は大澤さんに「向こう向いとけ」と叫び右腕を切断した。不思議と痛みは感じなかった記憶がある。負傷して横たわっていた近所の男性は「みずー」とうなっていた。誰かが水を少し飲ませると息を引き取った。
 いまだ銃弾のかけらは大澤さんの体に残り、失った右腕を思えば空襲の惨劇を忘れることはできない。「召集令状が来ても腕を返してもらわんと子供は戦争には行かせない」が口癖になったという。
 空襲による犠牲者は約30人に上り多くの住民も巻き込まれた。終戦を迎え、出撃することがなかった特攻隊員や兵士たちは姿を消した。

宮崎日日新聞「特攻隊のいたまち」より

その他、日向市細島港や日南市油津の特攻艇基地も米軍機の襲撃を受けています。宮崎沿岸部での不審な動きは、米軍側も監視していたのでしょう。

それでは橋を渡り、港の対岸へ。

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河口付近の岸辺には、旧い桟橋の跡が幾つも見られます。おそらく漁船用のもので、回天とは関係ありません。

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【内海港全景】

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港を見下ろす山中にも港導灯台が設置されています

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丘の上から見下ろす内海の街並み。

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JR内海駅。現在は日南・串間まで全線開通していますが、当時の鉄道は宮崎市~内海までの区間のみでした。
第9回天隊とこの駅は、特に関係ありません。

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内海駅舎。駅裏の山の向こう側に、回天格納トンネルが掘られていました。わざわざ山登りをせずとも、内海駅より先の道路沿いに回天基地への入り口があるんですけどね。

【海軍桟橋】

記録によると、内海港には「海軍桟橋」なる揚陸拠点があったそうです。
回天隊用の物資を揚陸したのだと思われますが、詳細は不明。

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海軍桟橋があった場所(茂みの向こう側)を対岸より眺めたところ。

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かつて海軍桟橋があった場所。

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現在は、その痕跡すら残っていません。

第3回天隊先遣隊が空襲を受けた後、7月22日には重岡、小川、片岡、金子、真部、山口ら第9回天隊員が内海に到着しました。

山口県の光訓練基地から、内海の人間魚雷発進基地に、第九回天隊員として六名の仲間と共に着任したのは七月二十二日でした。宿舎は民家でした。港近くの山の谷あいに掩体壕があり、そこに回天六基が厳重に保管されておりました。
各自、自分の操縦する回天を整備兵と共に整備点検したり、掩体壕から港の海底まで回天を発進する為の線路が敷設されておりましたので、その線路を敵機に察知されないように砂でおおい隠す仕事が主な日課でした。
敵機による内海空襲でも回天には異状がなく、米軍上陸近しと待ちかまえていましたが、一ヶ月もたたない八月十五日が終戦となり、茫然となりました。
早々に故郷に帰るよう指示があり、十八日頃内海を発ちましたので、回天や掩体壕はどのようになったのかわかりません

山口仁之氏の証言より

【回天曳出し軌道】

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赤い線が回天曳出し軌道のルート。

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山中から曳き出された回天は、この対岸から海中へ降ろされていました。

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現在の曳出しレール跡は、港へ続く道路となっています。

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回天格納トンネルから内海港へ続く道路。かつて、この道沿いに特殊潜航艇の曳出しレールが設置されていました。
当時は鉄道も開通しておらず、自動車の通行量も少なかったので、220号線を横切る「回天レール」の存在も問題なかったのでしょう。

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レールは海岸の燈台あたりから右手にカーブし、220号線方向へ。
回天格納トンネルは、突き当りの丘の向う側に掘られていました。この道を直進すると崖に阻まれるので、当時の軌道はやや南寄りに敷かれていたと思われます。

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曳出しレール跡より、格納庫側から内海港を眺めたところ

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海軍桟橋跡の隣にある、スリップウェイ式の船揚場(漁船の修理施設)。戦時中は近くの護岸に木製の斜路が設置され、鵜山格納庫からレールで曳いてきた回天を海中へ下ろせるようになっていました。
「いざ出撃」となっても、出航までにはかなりの手間と時間を要したわけです。

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回天を海に降ろす木製斜路は、ここから数十メートルほど海寄りの場所にありました。

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かつて、回天の斜路もこのように設置されていたのでしょうか。

【回天格納庫跡】

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回天格納庫の案内板

人間魚雷を格納する掩体壕は、私の所有する鵜山という山の谷あいに、二本ほどトンネルを掘って築かれていました。
幅三メートル、長さ五十メートルでした。掩体壕の中まで線路が敷かれ、ほぼ一直線に港に出動できるようになっておりました。
終戦後、処分する為に警防団が回天を壕から搬出する様子を見ていましたが、錆びついていて手間どっていたようです。
掩体壕の入口は埋め立てられましたが、奥の方は空洞のままです。

河野為一氏の証言より

他の33突基地は爽やかな潮風の吹く海岸線にあるのですが、第9回天隊のみ山の裏側の谷間に基地が造られました。部隊が展開した夏場には、湿気や暑気、蚊やブヨにも悩まされたことでしょう。
山の中にある潜水艇の基地というのも、考えてみればシュールですね。
回天格納トンネルは埋設処理されたので、外部からの確認は不可能。山中には痕跡すら残っていません。

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回天を鵜山から内海港へ曳出していた場所。戦後に敷設された日南線の線路が横切っています。

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曳出しレールの跡は消え、自然に還りつつあります。

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特殊潜航艇を運び込めそうな地形はこの辺まで。

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谷間の奥は幅も狭く、トンネルを掘れそうな場所もありません。

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回天格納庫があったと思しき場所。当時の痕跡は全く無し。踏み込んだところで、行く手には生い茂った藪、重なり合う風倒木、地下水がジクジクと滲みだす湿地と川が立ちふさがり、トドメとばかりにスギ花粉が充満しております。
風倒木に蹴躓き、藪に絡まり、ぬかるみに足をとられ、クシャミと鼻水は止まらず、這う這うの体で退散しました。

かつて、自爆攻撃のために特攻隊員が待機していた内海港。
そのような過去がウソみたいに、現在はのどかな風景が広がっています。
もしも本土決戦になれば、内海の回天隊も一矢報いることができた筈……などというのは、米軍のオリンピック作戦計画を知らない者によるタワゴトに過ぎません。
人間魚雷は、空から襲いかかる敵機に対しては無力です。
米軍の宮崎上陸計画では、「露払い」として沿岸部の特攻艇基地を徹底的に爆撃する予定でした。そうなれば、この小さな漁港も灰燼に帰したことでしょう。

基地設営時に派遣された第3回天隊から2名の戦死者を出してしまったものの、第9回天隊は損害を受けることなく敗戦の日を迎えています。

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