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海軍第5特攻戦隊第35突撃隊第121震洋隊および第8回天隊特攻基地(宮崎県日向市細島)

Category : 日向市の戦跡 |

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第二次大戦中、日本の陸海軍は数々の特攻兵器を開発しました。
空の特攻兵器としては「桜花」や「剣」。
海の特攻兵器としては人間魚雷「回天」や「海龍」、爆雷を持った潜水士が海中で敵船を待ち受ける「伏龍」。
特攻モーターボートである、陸軍の「四式肉薄攻撃艇(マルレ)」と海軍の「震洋」も知られています。

昭和20年春、米軍の九州上陸に備えて宮崎県南北沿岸に「回天」や「震洋」が配備されました。

県北部に展開したのは、佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊(35突)。
北から延岡市土々呂の第48及び第116震洋隊、日向市細島港の第08回天隊(12隻)及び第121震洋隊、美々津の第122震洋隊、合せて回天12隻、震洋125隻、魚雷艇12隻でした。

県南部に展開したのは、特攻第5戦隊第33突撃隊(日南市油津の第03回天隊及び126震洋隊、南郷の第05回天隊及び第56・第117震洋隊、内海の第9回天隊。合計回天26隻、震洋100隻、魚雷艇12隻、特殊潜航艇海竜12隻)。

今回は、日向市に駐屯……というより市内各地を転々としていた第121震洋隊の遺構について取り上げます。


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夕刻の御鉾ケ浦

【佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第121震洋隊基地】


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満潮時の121震洋隊御鉾ケ浦基地。目の前に浮ぶのは「古島」です。

昭和20年春から沖縄戦が始まり、米軍の九州上陸は目前に迫ります。
米艦隊の接近に備え、5月から特攻艇が本土に展開。
福岡・大分を除く九州各県沿岸でも、複数の特攻艇部隊が待機を続けていました。
その中のひとつ、日向市に配備されたのが第121震洋部隊です。

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戦前の細島港

この部隊は藤岡宏太隊長以下将校7名、特攻隊員50名、整備員38名、基地隊78名、本部付15名、総員188名。
震洋26隻、3個艇隊および1個補充隊で編成され、各艇隊の内訳は3個小隊および1個遊撃隊でした。

121震洋隊は、昭和20年1月27日に長崎県の川棚で編成されます。
第一艇隊長は藤岡宏太、第二艇隊長は鈴木栄一、第三艇隊長は恩田一、補充艇隊長は金井利雄。
4月1日より第33突撃隊から第35突撃隊へ変更され、第48、54、122、126部隊と共に宮崎への配置が決まりました。先発隊の鈴木第2艇隊長と佐熊基地隊長は4月27日から宮崎県へ移動。続いて佐世保から特攻ボートの陸路搬入が始まります。
本隊が到着したのは5月で、部隊の司令部は日向市細島漁協2階に設置。特攻隊員の宿舎は、御鉾ケ浦の伊藤氏宅周辺に設営されました。

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現在の細島漁協

御鉾ケ浦では特攻ボートの格納トンネル建設も開始。
しかし、岩盤の固さに工事は難航し、遅々として進みませんでした。

悪いことに、三菱石油や九州造船の軍需工場が集まっていた細島港は米軍の集中攻撃を受けます。121部隊も、漁船に紛れて係留していた震洋艇1隻を空襲で撃沈されてしまうなど、訓練前から被害が出ていました。
このようなことから、特攻ボートは対岸にある第8回天隊基地へ一時避難しています。

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馬ケ背より眺めた御鉾ケ浦。夕刻、奥にある商用港から次々と漁船が出漁していきます。
細島港は商用港(漁港)と工業港(貨物港)、そして白浜港(国際港)の三つで構成されています。


【佐世保鎮守府第5特攻戦隊第35突撃隊第8回天隊基地】

第121震洋隊が一時期間借りしていたのが第8回天隊の細島基地。水上特攻の震洋とは違い、海中から敵艦目がけて突入する人間魚雷の部隊でした。
山口県で編成された08回天隊は、昭和20年に宮崎へ配備となります。
08回天隊の基地が設置されたのは細島漁港の北側。牧島山麓の海岸には全長30メートルほどの格納トンネルが6箇所掘られ、それぞれのトンネルに2隻、計12隻の回天が収容されていました。
12隻の人間魚雷に乗込む特攻隊員も12名。
その他、整備など支援要員を含めて数十名が駐屯していた様です。

第8回天隊員到着日
7月8日 井上、山崎、青柳、岩部、唐木田、真壁隊員
7月14日 赤松、浅井、落合、加藤、中島、野寄隊員

08回天

細島

細島2
牧島山麓から見下ろした細島漁港。

細島4
向う岸が第121震洋部隊の御鉾ケ浦基地です。

08回天2
「細島沿岸には今でも回天が埋まっている」との噂もありますね。

花
牧島山側は御鉾ケ浦と違って道が狭い上に地形が険しく、立ち入り禁止の私有地も散在しています。
海岸を辿って回天基地の痕跡を探すのはほぼ不可能。
「弾頭を除去しないまま回天を埋めた」という話もあり、危険防止のため行政も発掘作業を許可していません。

細島3

細島5
車道の行き止まりから森を抜け、海岸へ降りてもそこは岩礁と丸石だらけ。波が打ち寄せるたびにガラゴロと音を立てて石が海中を転げ廻っています。
浮石が堆積している状態なのでバランスをとりにくく、浜を歩くのも大変でした。

細島6

細島周辺はリアス式海岸となっています。
潜航艇を隠すに適した岩礁地帯も多いのですが、こんなに足場が悪くてはマトモな運用など不可能でしょう。
回天隊はもっと湾の奥、造船所付近に展開していたのだと思われます。

08回天3

猪垣でしょうか、細島沿岸の森を歩いていると幾つもの石垣に出会いました。昔から港として栄えた細島には、色々な時代の史跡が残っています。

常石
常石2



第8回天隊に間借りするも、固い岩盤に阻まれて御鉾ケ浦基地の建設は進捗しませんでした。
御鉾ケ浦海岸に幾つかの格納トンネルが掘られたものの、6月中旬に完工は頓挫。121震洋隊は御鉾ケ浦からの移転を余儀なくされます。

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当時の御鉾ケ浦海水浴場。砂浜が縮小した位で、風景は現在と変わりませんね。

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御鉾ケ浦に残る特攻ボートの格納トンネル

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戦時中、この静かな入江が特攻隊の拠点となっていました。
画像の古島には干潮時に砂洲が現れ、歩いて渡ることができます。

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この古島には三名の攘夷志士が眠っています。
文久2年の寺田屋事件では、同じ薩摩藩士が攘夷派と鎮圧側に分れて斬り合う惨事となりました。その際、寺田屋の二階にいた浪士たちは薩摩藩士の説得に応じて投降します。しかし、脱藩者の田中河内介・磋磨介親子、海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎だけはどこの藩も引き取りを拒否。
薩摩行きを希望した五名ですが、攘夷派の扱いに困った薩摩藩では彼等の抹殺を図ります。

まず、瀬戸内海を航行中の船内で田中父子が殺害されました。
続いて細島へ到着した三名も、古島で斬殺されます。

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三名の遺体を発見したのが細島在住の黒木庄八。彼は処刑された志士たちの墓を古島に建立し、現在に至るまで黒木家の方々がその世話を続けています。

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寺田屋の惨劇から80余年。
121震洋隊は、三名が眠る古島の対岸で自爆訓練に備えていました。

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特攻第百二十一震洋隊細島基地跡

ここ、細島御鉾ヶ浦の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年五月、一死をもて祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、基地を設営し艇格納壕を掘削し、日夜訓練に精進し出撃待機をした第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。
震洋5型艇とは、長さ六・五メートルのベニア作りのモーターボートの頭部に二百五十瓩の炸薬を搭載、敵艦船に自ら高速で体当たり肉弾攻撃を敢行するものであった。
搭乗員は、部隊長・艇隊長ならびに年歯僅か十五~十八歳の三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身、計五十四名が配された。
ほかに基地隊、整備隊、本部付の各隊員がよくこれを支援した。
のち梶木基地に転進、時利あらずして悲願空しく、終戦を迎えた。
爾来半世紀に近い星霜を経た今、地元の方々の深甚なるご協力を得て、ここ平床鼻の往時の艇格納壕上の地に、戦跡を記念する標柱を建立して、悠久の平和を心から祈念するものである。
平成五年十一月吉日
元・部隊員有志


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121震洋隊細島基地の案内板

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この岩場に震洋の格納トンネルが掘られました

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細島の震洋格納壕

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格納トンネルの中から見た御鉾ケ浦

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斜面崩落により完全に埋没した格納庫

中には「御鉾ケ浦へ行ったけど震洋の格納庫なんか無かったぞ」という人もいる筈。
見付けられないのは、おそらく満潮時だったからでしょう。
潮が満ちている間、トンネルは水没していますよ。

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古島から見た細島港側
細島基地の対岸には人間魚雷の第8回天隊が設営していました。

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同じく古島から見た馬ケ背方面

馬ケ背というのはですね、簡単に説明すると巨大化した東尋坊です。断崖周辺に設けられているザイルの確保点も、事故に対処するためのものでしょう。
芥屋の大戸ほど見事ではありませんが、柱状節理が観察できます。
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馬の背というよりクジラかクラーケンみたいですねえ。

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馬ケ背の突端から眺めた日向灘。
ここに敵艦隊が出現したら、第121震洋隊と第8回天隊が迎撃する計画でした。


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駐車場にいたネコ。細島港一帯はネコだらけです。
あと、周囲の林の中には物凄い数のアカテガニが……。

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御鉾ケ浦基地を放棄した震洋部隊は、日向・門川の境にある梶木町へと再移転します。
新たな拠点は倉戸ケ鼻から向ケ浜にかけての一帯。梶木町には部隊本部、宿舎、弾薬庫、通信所などが設けられ、倉戸ケ鼻沿岸部には震洋格納トンネルが掘られました。
特攻ボートは御鉾ケ浦から岬伝いに回航し、梶木沿岸に揚陸秘匿されます。
特攻隊員は周辺の民家に宿泊し、待機の日々を送りました。

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特攻第百二十一震洋隊梶木基地跡

ここ、梶木の向ケ浜の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年六月、一死もって祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、細島基地から転進、地元の熱誠あふれる協力と理解のもとに新たに基地を設営し、神社境内周辺に艇を秘匿し、日夜訓練に精進し出撃待機をした、第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。
震洋5型艇とは、長さ六・五メートルのベニア作りのモーターボートの頭部に二百五十瓩の炸薬を搭載、敵艦船に自ら高速で体当たり肉弾攻撃を敢行するものであった。
搭乗員は、部隊長・艇隊長ならびに年歯僅か十五~十八歳の三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身、計五十四名が配された。
ほかに基地隊、整備隊、本部付の各隊員がよくこれを支援した。
この地に転進すること二ヶ月有余、時利あらずして悲願空しく、終戦を迎えた。
爾来半世紀に近い星霜を経た今、地元の方々の深甚なるご協力を得て、ここ霧島神社境内の往時の艇格納壕上の跡地に、戦跡を記念する標柱を建立して、悠久の平和を心から祈念するものである。
平成五年十一月吉日
元・部隊員有志


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震洋格納庫があった地域
これら内陸部のほか、海岸付近にもトンネルが掘られました。

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梶木基地の記念碑

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記念碑の先へ進むと、「金毘羅神社」の看板が立っています。右手は私道。

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海岸にある金毘羅神社。ここから向ケ浜を一望できます。

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御鉾ケ浦はアカテガニの楽園でしたが、向ケ浜の磯はフナムシ天国。
その数たるや、コレ系の生物に耐性がある私ですらゲンナリするほどです。海岸の景色はとても美しいのですが、足元に目をやるとフナムシの大群。
そしてタイドプールの中では、たくさんのアメフラシが巨大ナメクジの如く這い回っておりました。
産卵シーズンらしく、オレンジ色の海素麺が至るところに産み付けられています。

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大群だとキモチ悪いので単体のみ掲載。ゴキブリみたいに飛ばないだけマシですけど。

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アオサをモシャモシャたべているアメフラシ

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さて、気を取り直して震洋格納庫の探索に取り掛かりましょう。
御鉾ケ浦では海岸の地形を利用して格納トンネルを掘っていました。向ケ浜でも、敵機からのカモフラージュを兼ねて海岸の整地作業は最低限に留めていた筈。
おそらく、満ち潮を利用して震洋を海へと曳き出していたのでは?

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先へ進むと切り立った岩盤に阻まれます。震洋隊が展開していたのは手前の浜みたいですね。

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神社周辺のトンネルへ格納していた特攻ボートは此処から海へと曳き出されていました。
向ケ浜の磯にはこのような「道」が幾つか残っています。

細島同様、海岸付近にも格納トンネルはあった筈。
その辺を頭に入れて海岸線を眺めると、岩礁の間にボートが通れるくらいのルートが幾つか見えてきました。
「道」の先は海岸の奥にある茂みへと続いています。

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岩場を削ったような跡。因みに干潮時です。

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掘削跡から浜の奥を眺めたところ。

ここを辿って行った先、あの林の奥が怪しい。
そう思って茂みに分け入った途端、自分の準備不足を後悔しました。
行く手を遮るのは密生した雑草と灌木と蔦。まさか、海岸の調査で藪漕ぎをする派目になるとは思いませんでした。折り畳みノコと皮手袋を持って来ればよかった……。
厚く堆積した流木や漂着ゴミで足元も非常に不安定です。これでサンダル履きだったらアウトでした。

灌木の僅かな隙間を探し、意を決して茂みへと突入。
藪漕ぎというより、植物の壁に体当たりしてムリヤリ突破する感じです。トゲのあるイバラなんかがワサワサ生えていて、引っかき傷だらけになりました。

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密生した藪で視界ゼロ

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藪の奥はこんな感じなので、安易に踏み込むのはオススメしません。

藪の奥は……、土砂崩れで行き止まり。全くの徒労です。
しかし、崩落斜面には人為的に掘削したような跡が見られました。細島同様、格納トンネルが潰れた跡かもしれません。
ここで諦めたら終わりです。
めげずに、隣接する似たような藪へ飛び込んでみました。

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カーテンのように生い茂る枝を払いのけ、その先の視界が開けた瞬間。
目の前に、御鉾ケ浦と同じトンネルが現れました。
「あった!」
121震洋隊がこの地に存在した証は、茂みの奥にちゃんと残っていたのです。

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トンネルは奥行3メートル程で埋没しています。
壕の中から海を眺めると、震洋の出撃ルートがハッキリ浮かび上がりました。
海岸の地形を巧みに利用して海まで辿り着くようになっていたんですね。

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最近は空振り続きだった戦跡調査ですが、この発見で全ての苦労が報われました。

御鉾ケ浦と向ケ浜。
静かなこの海辺で、かつて自爆ボートに乗組んでいた特攻隊員たちは何を思っていたのでしょうか。
格納トンネルから日向灘を眺めてみても、私にはその心情を推し量ることはできません。
だって、目の前には余りにも平和でのどかな風景が広がっているのですから。

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ボロボロになって藪から這い出したら、既に時間は正午過ぎ。
太陽に炙られ、生き物で賑わっていたタイドプールは死んだように静まり返っています。
水温の低い午前中は旺盛な食欲を見せいていたアメフラシたちも、強烈な日光を避けて海藻の間に潜りこんでいました。フナムシの数も、心なしか減ったように見えます。
さっき見た震洋のトンネルが白日夢だったような気がして、慌てて撮影したカメラを確認してみました。

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向ケ浜の沖合で、121震洋隊は敵艦への接近・散開・突撃の訓練をおこないます。空襲を避け、35突各隊の合同訓練ができたのは1回だけ。
もしも米艦隊が日向灘へ出現すれば、梶木基地の震洋隊も夜陰に乗じて突入する筈でした。

このように小さな特攻ボートが米艦隊に対抗できたのか。
先例となるのが、沖縄へ展開していた震洋部隊です。
彼等は沖合を遊弋する米艦隊へ突入したものの、高速で航行する敵艦に追いつけなかったり、夜の海で会敵できず引返したり、訓練中に空襲を受けて大損害を蒙ったり、ボートを失って結局は地上部隊として戦ったケースが多く、戦果は敵上陸用舟艇の撃沈など僅かなものでした。
もし本土決戦となった場合もそれが再現されただけです。
初期段階で宮崎沿岸の特攻戦力は失われ、沿岸張り付けの陸軍3個師団も空襲と艦砲射撃で壊滅。
山間部へ向けて、避難民を巻き込んだ悲惨な撤退戦が展開されたことでしょう。

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門川町の五十鈴川河口から見た向ケ浜。倉戸ケ鼻の向うに見えるのが細島港。

しかし、出撃の機会は無いまま昭和20年8月15日を迎えます。
35突撃隊本部に呼び出された各特攻隊の指揮官には、敗戦処理が通告されました(いっぽう、県南部の33突撃隊本部では「攻撃続行」が命令されたとか)。
同日夕刻、121震洋隊の士官は五十鈴川の岸で決別式を開催。隊員も特攻艇の弾頭除去と海洋投棄作業にあたります。部隊の震洋は延岡市土々呂の日高桟橋へ集めらました。

第121部隊188名のうち、幸いにも戦死者は無し。
8月25日、撤去作業を終えた特攻隊員達はそれぞれの故郷へと復員して行きました。
最初に細島へ乗り込んだ鈴木第2艇隊長は、9月6日まで保安要員として残留。最後に宮崎を去った121部隊員となりました。

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五十鈴川河口。

土々呂に繋留されていた特攻ボートですが、直後の暴風雨と枕崎台風の襲来によって流失・座礁。
秋になって進駐軍が宮崎へやって来た時、特攻ボート群は海の藻屑と消えた後でした。

その歴史を伝えるのは、現代の日向市に残された二つの格納トンネルだけなのです。

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ひゅうが
オマケで、日向に寄港した護衛艦ひゅうが。




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海軍富高飛行場(宮崎県日向市財光寺)

Category : 日向市の戦跡 |

突如としてグワラグワラガラガラッと凄い低空らしい爆音に異常なものを感じ、壕から怖々と顔を出して見ると今屋根から屋根の上空100メートル位を黒煙を噴きながら一機の双発機が南東へ去っていく。
思わず「やられている!」「友軍機だ!!」と叫ぶ。
機体の日の丸が目に焼きつき、午後の太陽が尾を引く一筋の太い煙を焦げ茶に染めて、愛宕山上方をすれすれによぎって消えた。
やがて10分も飛行すれば富高の海軍航空隊の基地がある。
「落ちるなよ。もうすぐだ。ガンバレ!」と心で祈るのだった。


渡木真之著「我が故郷に戦火燃ゆ」より 昭和20年3月18日、延岡市上空での空中戦目撃談

富高
富高飛行場司令部の門柱跡。

富高

富高
この門柱は、現在も富島中学校の校門として保存されています

現在の街並みからは想像も出来ませんが、戦時中の日向市には海軍の飛行場がありました。

海軍呉鎮守府による富高海軍飛行場の建設が始まったのは、昭和4年4月のこと。
用地買収は宮崎県への委託でおこなわれ、まず24万㎡、2回目に約53万㎡、3回目の買収により132万㎡まで用地を拡大。
拡張工事は昭和10年まで続きます。
当初は常駐の飛行隊など無く、管理人が置かれた程度でした。近くで艦載機の演習や訓練がある時だけ飛行隊が間借りする形をとっていたそうです。

昭和16年10月、富高飛行場に連合艦隊空母「赤城」「加賀」艦載の99式艦上爆撃機が集結。沖合にある岩礁「トドロバエ」などを標的とした急降下爆撃訓練を開始しました。
その訓練の意味はやがて判明します。彼等は、真珠湾攻撃を想定した訓練をおこなっていたのでした。

昭和18年から飛行場の規模は更に拡大され、昭和19年4月には築城航空隊富高分遣隊として赤トンボが飛び立つ訓練部隊へ改編。予科練の少年航空兵300名が配置されました。
7月からは勤労学生を動員して掩体壕の建設がスタートし、11月には岡村徳長中佐を長とする富髙航空隊が発足しました。
戦争末期の昭和20年になると零戦隊が集結、富高飛行場は特攻作戦の中継拠点へと変貌します。

昭和二十年三月、当時の県立富高農学校の入学試験の日でありました。
学校の上空をバリバリと轟音を響かせて零戦が編隊で飛行していました。財光寺からお倉ケ浜にかけて海軍の飛行場が在ったのです。
低空飛行の零戦の勇姿は頼もしく見えてなりませんでした。
四月六日が入学式で、翌七日に父は召集で都城連隊に入営しました。この日農学校の運動場から見えた父の乗っている下列車の汽笛と黒い煙を今でも覚えています。

盛武義美氏「戦後五十年に思う」より

神風

神風2

神風3

神風4
向洋会協和病院敷地内に建立された特攻隊慰霊碑。

爆撃

爆撃2
富高飛行場が爆撃された際、地面に残された爆発孔。

昭和20年3月18日早朝、南九州各地に突如として米軍艦載機の大編隊が襲来します。
襲撃を受けた新田原飛行場が県内の飛行場へ警報を発した時は既に遅く、赤江、都城西、富高飛行場にも敵機が殺到していました。
「本土決戦に備えて戦力温存」の命令によって県内各飛行場が戦闘機を隠す中、富高飛行場からは第721航空隊戦闘307飛行隊の64機が迎撃に飛び立ちました。
307飛行隊は、高鍋から延岡にかけた空域で米軍機と激しい空中戦を展開します。
この日、米軍が4機、冨髙航空隊も多数を喪失。
翌日にも百機近い米軍機が襲来、富高の飛行隊は再び迎撃し、双方あわせて20機以上の損害を出しました。

沖縄侵攻への露払いとして始まった九州沖航空戦により、宮崎県内の航空隊は(草原と見間違えられた)都城東および北飛行場を除いて大打撃を受けます。
沖縄戦の勝敗が決する頃から米軍はB29戦略爆撃機を投入、宮崎県の各飛行場へ凄まじい爆撃を加えました。
袋叩きに遭った赤江、新田原、唐瀬原、富高、都城西の各飛行場は、迎撃機の温存どころか機能停止に追い込まれます。

孤軍奮闘するも、緒戦で力尽きた富高の307飛行隊は特攻隊護衛任務のため鹿児島へと去っていきます。
防空戦力を失った冨髙飛行場は、鹿屋基地への移動を待つ特攻隊の中継地点と化しました。
※誤解されやすいのですが、富高から特攻機が直接出撃した訳ではありません。

宮崎の空は米軍が支配するようになり、市街地は為す術もなく焼失していきました。
米軍上陸に備え、県内には陸軍3個師団が送り込まれたものの、梅雨時の悪天候と資材不足で陣地構築は停滞。延岡~串間までの沿岸に展開する特攻艇や人間魚雷部隊も、空襲を避けてトンネルに潜むしかありません。
大本営の本土決戦計画など机上の空論。二転三転する防衛計画のためベトンで固めた砲兵陣地も完成が遅れ、立てこもる地下壕掘りに兵力が注ぎ込まれます。宮崎県警本部に丸投げされた住民避難計画も、敗戦1ヵ月前に県内各自治体へ通達される有様でした。
これが「本土決戦の最前線」である宮崎の現実だったのです。

雨の朝でも空襲はありました。
学校と飛行場は塩見川を挟んで二kmぐらいしか離れていないのに、良くも正確に投下できるものだと変に感心もしていました。
雨曇りの上空を旋回するB29の独特のエンジン音がうなる様に聞こえる間に、ザーザーと大雨の様な音がしたかと思っていると
ズドドドン、バババンと強烈な爆弾が炸裂し、ユサッと地揺れがあり、砂がパラパラと落ちる。
やはり爆撃は恐ろしいものでありました。
ようやく学校に慣れてきた五月頃の晴れた日でした。
西畑の農場に実習に出ていると、細島の上空を低い機影が数機、キラキラと門川の方に飛んで行った様に思っていました。
味方機かとも思えたのでした。
ところが突如北の方からグラマンが襲いかかってきたのです。
バリバリ、ダダダダと機銃掃射を浴びせてきました。誰かの指図で杉と孟宗竹の山中に逃げ込んで、杉の木を盾にかくれていると又やってくる。杉の枝がボキッと折れ、竹にカチッカチッと弾が当たりました。
両主翼の先が角ばっているグラマン機と、搭乗兵の姿を横に見たのでありました。
近くに海軍の兵たん壕があったので、おそらく私達は海軍兵と間違われたのであります。だが学校もやられ、機銃弾がたくさん落ちていました。
また青空にくっきりとB29の編隊が西の方向に横切って行く下を、ミカン山の裏に全生徒が避難したことがありました。
空襲警報解除のあと山を降りる頃、飛行場の周辺からボンと音がしては黒煙が上っていました。
時限爆弾が破裂していたのです。
富高の海軍航空隊は特攻基地になっているとの噂でありました。同期の桜の軍歌の一節に、同じ神雷の庭に咲くと云う風に私達も歌っていた記憶があります。
上り汽車の帰り時刻は午後五時四十分でした。
ホームに男子生徒だけ並ばされ、先輩の説教を毎日の様に聞かされていました。
そんな折に、上空を赤トンボ(※練習機)に乗った特攻兵が白いマフラーをなびかせて旋回し、飛び立って行く光景が幾度かありました。
鹿屋の基地を経て、南海に還らぬ出陣をされたのに相違ありません。

盛武義美氏「戦後五十年に思う」より

やがて8月15日を迎え、日本は降伏。幸いにも九州の地上戦は回避されました。
もしも本土決戦がおこなわれたら、沖縄戦の惨状がこの地でも展開された筈です。
沿岸部の陸軍師団は空襲と艦砲射撃で壊滅、大量の避難民を巻き込んだ山間部への撤退戦が演じられたことでしょう。

死を覚悟していた冨髙の特攻隊員達にも、やがて復員命令が出されました。その心境は複雑だった筈。
終戦時の冨高飛行場の様子が記録されています。

終戦の翌日、旭化成に動員されていた私達は、延岡市から宮崎市まで徒歩で帰校する事となった。国道十号線も未だ砂利道で、真夏の太陽の下、ほこりまみれの行軍で、時間がたつにつれ隊列は乱れ、他校の学徒や、女子挺身隊も加わって、無気力に只歩を運ぶだけと云った状態だった。
ちょうど昼頃に富高(現日向市)に着き、小学校の校庭の木蔭で久し振りの白い握り飯をただき、生き返るおもいがした。こちらにおられた先輩方の御厚意であった様だった。
折しも財光寺にあった海軍飛行場では、敗戦の情報に反抗するかの如く戦闘機が垂直に急降下をくり返していた。耳をつんざく様なその金属音が敗戦のむなしさと悲しみを感じさせたのを記憶している。
ほこりと汗にまみれながら、無言で歩いているうちに、佐土原(?)で夜となった。広いお寺のお堂の中で、全員ゴロ寝をした様な記憶がある。
翌朝、又歩くのかと思っていたら、なつかしい宮交のバスが迎えに来ており、宮崎まで送ってくれるとの事。万歳と云った想いであった。今考えると大先輩の故岩切章太郎氏(※宮崎交通グループ創業者)の御厚意であったと思われる

「八月十五日前後」より 渡辺三郎氏の証言

価値観を180度変えた戦後日本に対し、生き残った特攻隊員の心は荒れました。彼等は「特攻崩れ」と呼ばれるようになります。
宮崎の学校でも、復学した少年特攻兵が授業に乱入。後輩たちへの狼藉行為に及んだという証言が残されています。
かつて彼等に軍国教育を施した教師たちは、黙ってそれに耐えるしかありませんでした。



敗戦により、日向・延岡方面に備蓄されていた砲弾類は細島へと集められ、警察の管理下で沖合へと投棄されます。あまりの多さに、爆破処分する余裕が無かったのでしょう。
細島や梶木に展開していた特攻艇は延岡の海岸に集められ、直後の枕崎台風によって海の藻屑と消えました。

戦後、日向市は復興に向けて動き始めます。富高飛行場も解体され、軍用地も民間へと開放されました。
住宅地となった現在では、ごく僅かな飛行場の痕跡だけが残されています。

滑走路跡

滑走路跡2

協和記念病院の駐車場に残る当時の駐機場滑走路跡。
これら戦時遺構は、昭和32年に同病院が置かれた時から保存措置がとられています。
昭和52年、初代理事長である掘彰夫氏(学徒動員で同飛行場の建設に参加)の厚意によって記念碑などを追加、末永く伝えてゆく事が決定されました。

富高4

富高3

富高2

富高1

塩見川にかかる大瀛橋(たいえいばし)の袂、しらさぎ公園に展示してある軍用機のプロペラ。
日本海軍のものではなく、海上自衛隊が寄贈したKM-2練習機のプロペラです。傾いた写真しか撮れないのか俺は。

富高飛行場の滑走路や格納庫は塩見川の南岸に、兵舎群は北岸に設置されており、海軍将兵は大瀛橋を渡って飛行場へ通っていました。
当時の大瀛橋は木造だったそうです。

富高
現在の大瀛橋

富高
しらさぎ公園の対岸より。煙突のあたりにかけて滑走路がありました

お倉ヶ浜

トドロバエ

お倉が浜(小倉ヶ浜)海水浴場、塩見川河口沖に浮かぶ岩礁「トドロバエ」。
戦時中、富高の飛行隊はこの岩を目標に対艦攻撃訓練をしていたと伝えられています。

富高5

小倉ヶ浜有料道路の料金所脇にも記念碑が建っています。こちらは海側へ離陸する滑走路が設置されていました。
有料道路を進んだ先にある細島港には、戦争末期に回天特殊潜航艇と震洋特攻艇の部隊が展開。
米艦隊の九州接近に備え、夜間突入訓練を繰返していました。

富高6

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富高8

日向市往還地区には掩体壕も残されていたのですが、道路拡張工事で一部(というか破片ですね)を残して撤去されてしまいました。
記念プレート脇にある、コンクリート製の物体が掩体壕のカケラです。

まあ、掩体壕など古くて何の役にも立たない物体に過ぎません。道路建設で生活も便利になりましたし、やむを得ない措置なのでしょう。
日向市の貴重な歴史遺産がひとつ消えただけの話です。二度と取り戻すことはできませんけどね。

我が国は、近代化遺産や戦跡の價値を軽視する向きがあります。保存するお金も足りませんし。
宮崎も歴史を強調した観光PRをしていますが、地域の遺構を破壊しておいて観光資源の確保もヘッタクレもないと思うのですが。

富高飛行場の遺構は破壊されてしまいましたが、せめて、赤江飛行場と新田原飛行場の掩体壕11基は後世に伝えていただきたいです。
それが特攻の地・宮崎としての責任なのですから。


国土地理院細島験潮場(宮崎県日向市細島)

Category : 日向市の戦跡 |

現存する日本最古の験潮場。
細島港から御鉾ケ浦へ向かう途中にあり、レトロな建屋に現代的な送信設備を組み合わせた、何だか妙な佇まいを見せております。

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茶色い柱はデータ送信設備

この施設が設置されたのは明治25年。日本の験潮は明治24年に始まりましたから、初期の姿を残す貴重な史跡です。
そして何と、この施設は現在でも国土地理院へ潮汐データを送信し続けているとのこと。

国土地理院の「験潮場」、気象庁の「検潮所」、海上保安庁の「験潮所」は、各地の潮位を観測する施設。
リアルタイムで送信されるデータを蓄積・分析する事で、より精確な予測を可能としています。

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細島の験潮場ですが、元々は日本陸軍の施設でした。
その証拠に、入口の上には陸軍の星マークが付いています。私は海軍水路部の施設かと勘違いしていました。
国土地理院の所有ということは、陸軍の陸地測量部から内務省地理調査所(国土地理院の前身)へ引き継がれたモノでしょうか?

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検潮場の真上、朝日公園(大御神社付近)から眺めた戦前の細島港。

静かな港町である細島。
一見、軍事との関わりは験潮場だけのように見えます。
しかし、戦時中の日向市は本土決戦の最前線と化していました。
昭和20年3月18日から始まった宮崎空襲にも関わらず、県内各地の軍用飛行場は「本土決戦に備えて戦力温存」の命令によって戦闘機をシェルター内に隠し通します。
しかし、冨高の海軍飛行場の第721航空隊戦闘307飛行隊だけは来襲する米軍機に空中戦を挑みました。一連の攻防で多大な損害を蒙った戦闘307飛行隊は、特攻機直掩任務のため鹿屋へと移動。
以降、富高飛行場は鹿屋方面へ移動する特攻機の中継地点と化し、日向市は激しい空襲に晒され続けます。
三菱石油や九州造船の軍需工場が集中していた細島港も攻撃目標となりました。

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第8回天隊がいた細島漁港方面

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第121震洋隊がいた御鉾ケ浦方面

戦争末期、御鉾ケ浦には海軍佐世保鎮守府第35突撃隊の第121震洋特攻艇部隊が展開。
また、験潮場の対岸では同突撃隊の第8回天潜航艇部隊が基地を構築していました。
これら特攻ボートや人間魚雷は夜間突入訓練を繰り返しながら米艦隊の接近に備えます。
震洋格納トンネルの岩盤掘削工事に失敗した121部隊は、御鉾ケ浦を放棄して対岸の第8回天隊基地へ移動。
北側の梶木町向ケ浜へ再移転し、出撃準備中に終戦を迎えました。

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戦後、細島港沖には宮崎県防衛のため備蓄されていた砲弾類が大量に集積され、進駐軍の監視下で沖合に海中投棄処分となります。
121震洋隊の特攻ボートは延岡市の土々呂へ回航されて爆発物処理の後に放棄。
08回天隊の人間魚雷は今なお細島港沿岸に埋められているとか。
こうして細島の戦争は終りました。

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細島は何処へ行っても猫がたくさんいますね

空襲に晒された細島港ですが、験潮場は幸いにも被害を免れました。
この先も貴重な史跡として、そして現役の観測施設として残していって欲しいものです。

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海軍呉鎮守府電波探知機平岩分遣隊(宮崎県日向市平岩)

Category : 日向市の戦跡 |

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【米ノ山見張所】
県南部の都井岬と共に、県北部の日向岬にもレーダー基地がありました。
その場所が日向市細島の米ノ山です。
米ノ山にいた部隊の所属や詳細については不明。現在は「軍の監視所があった」という話だけが伝わっています。

米ノ山があるのは日向岬。121震洋隊基地跡の近くです。
御鉢ヶ浦から馬ケ背方面、もしくは伊勢が浜方面から日向グリーンパーク(公園)へ車で登り、その脇の米ノ山登山道から山頂へ。
突き当りの駐車場から米ノ山頂上までは徒歩となります。

日向灘を一望できるため、現在の米ノ山山頂にも各種通信施設のアンテナが林立しています。
軍の通信所としても好立地だったのでしょう。
すでに監視所の痕跡すらなく、頂上にはコンクリート製の三階建て展望台が新設されていました。

【平岩電探基地】
日向市には、米ノ山の他にもうひとつレーダー基地がありました。
それが細島の南にある平岩地区。JR南日向駅の裏、平岩地蔵尊がある辺りです。
平岩のレーダー基地に駐屯していたのは、関野勲少尉率いる海軍呉鎮守府の電波探知機平岩分遣隊の総員100名。
このレーダー基地は、鹿屋基地へ探知情報を送っていたそうです。
レーダー施設は山頂付近に設置され、麓の発電機から送られる電力で稼働。
平岩のレーダー要員は、国道10号線を挟んだ海辺の中学校に駐屯していました。

この部隊については、住民による証言も残されています。

「学徒出陣によって平岩のレーダー基地にきていた早稲田・中央・法政・日本大学在籍の学徒兵が毎週土・日曜日に我が家に宿泊して数学などを教えてくれたり、東京での学生生活を話してくれました。
そして日本敗戦の日が近いことを極秘ながら知らせた上、戦争が終ったら再び大学へ復学することを話し、将来進学するなら東京の大学へとすすめてくれました。そのことが私の向学心を喚起したのでしょう」
宮越利明氏「ほしがりません勝つまでは 戦時中の学校は」より

敗戦の予言はともかく、各種の噂や情報は秘密裡に飛び交っていたのでしょう。
3月18日の空襲でも、前日に宮崎を訪問していた三笠宮一行に対して「明日は敵の空襲があるので地下壕へ退避を」との予告がなされていたとの証言もあります。
その情報が肝心の県内飛行場に伝わっていなかった理由は不明。
結果だけ見ますと、宮崎県内の防空戦にレーダー情報は活かされませんでした。
赤江、新田原、唐瀬原、富高、都城西の陸海軍飛行場は、米軍の猛攻撃を受けて機能を停止します。

さて、平岩レーダー基地の跡は現在どうなっているのでしょうか?
平岩地蔵尊までは自動車で登れるのですが、アホな私は麓の南日向駅から歩いて登りました。都井岬の経験からナニも学んでいません。

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南日向駅の裏から平岩地蔵尊へと続く階段。途中で引き返したくなります。

ひいひい言いながら長い階段を登って行くと、トドメとばかりに急勾配の階段が待ち構えていました。
平岩地蔵尊からの「登れるものなら登ってみろ」という挑戦状つきで。

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「さあ頑張って わが体力のためし坂」

当然、平坦な脇道へ迂回しましたけどね。

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ためし坂の横にある迂回路。

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平岩地蔵尊からの景色は素晴しく、日向灘が一望できます。
レーダー基地としてはうってつけだったのでしょう。

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眼下の町に、レーダー要員が駐屯していました。

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平岩には通信塔の基礎部分や発電機用の壕が残されているとのこと。
しかし、山頂付近は運動場として大規模開削されており、当時の様子を窺い知ることは出来ません。
せっかくなので山頂へ続く参道を登ってみました。登ってばかりで足がつりそうです。

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裏参道への入口。

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参道には幾つもの石仏が設置されていました。

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グラウンド脇を歩いていくと、突き当りにまた階段。

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第二のためし坂があるとは……。

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坂の上には、小さな社がありました。この裏が山頂です。

試しに山中へ分け入って見たのですが、藪と蜘蛛の巣に阻まれてなかなか進めません。山頂を一周しましたが、裏側の斜面は崩落していて危険です。
人為的に掘られた箇所も見つけましたが、レーダー基地とは関係ない様です。落ち葉が厚く堆積していて基礎を探すどころではありません。
必死に藪を抜け出し、這う這うの体で下山しました。

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山頂からの眺め




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