「川南原の大開拓地に全国からまた、海外からも入植し、八,一一三人に達しました。
開拓者は困苦欠乏に堪えています。
水と燃料に不自由し、また地力が低いために生産はあがらず苦労しております。水は国営開田を待っております。
開拓地の大部分は未だ電力が通じておりませんが、前方の落下傘降下場地区だけは近く電力導入の運びになっております。
入植者は一般に教養の高い人が多いので、三千町歩の旧軍用地も自然の恵みと開拓者自身の努力によりまして、全地域が沃土と化し、やがて日本の興隆に大きな役割を果たす日も遠くないと信じております」
昭和24年6月6日 昭和天皇川南訪問の際の岩切秋雄村長の挨拶
河野弥市「傘寿記念 懸命に生きる」より

川南町PR用の看板。落下傘部隊のことも記載されています。
(第六部からの続き)
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。
国家の総力を挙げた戦いは、無残な敗戦という結果に終わります。
日本が敗北した日のこと。
川南の挺進團司令部では「重大放送あり」との連絡を受けて挺進神社前に拡声器3台を設置、玉音放送に備えました。
しかし、電波妨害のせいで受信状態が悪かった為に放送内容は殆んど聴き取れず、中村挺進団長も「ソ連の参戦があっても我に神州不滅の信念さえあれば、そしてこの挺進神社の英霊に続かんとする意志変らざる限り必ず勝つ!」と訓示してその場は解散となります。
滑空挺進隊の山本春一少佐から停戦受諾との電話連絡を受けた中村団長の元に、「第一挺進団長は速やかに総軍司令部に出頭すべし」との航空総軍指令が届いたのは22時過ぎのこと。
翌朝、中村挺進団長は唐瀬原飛行場を出発。市ヶ谷にて13時より開催された会合にて、河辺正三郎大将らと敗戦処理が話し合われました。
その場に於いて、総軍司令官より
一、神州不滅の信念に徹し隠忍持久、百難を克服して國體の護持に邁進すること。
一、粛然として統制のある皇軍の特色を発揮し、堅確なる軍人精神を飽迄堅持して良民たるの基調たらしむること。
一、努めて農に帰し、一致團結永く皇國再興の基盤たらしむること。
の3つが示されます。
総参謀長からの通達は重要書類・物資の焼却と軍需資材の民需転換でした。
一、書類の整理
残地書類は死没者のみとし命令下達上必要最小限とすること。兵器保管原簿は焼却し、軍需資材の民間への転換メモは確實に。
職員長兵器、暗号書類の焼却は確實に。
二、人員の整理
下士官兵の除隊は即時在営人員の一割を目途とし、農業出身者で増産適任者を優先すること。除隊者の給与は金銭従来の通りとし、夏冬被服は一揃、毛布一、糧秣十日分以内、日用品若干、特に不軍紀を戒む。
三、通信連絡
概ね現在通りとし、つとめて有線電話を利用、防諜に努め暗号書は現用最小限を残置し他は確實に焼却すること。
四、資材関係
五、
六、諸施設
破壊焼却せず。現在実施中の工事は直ちに中止す。秘匿飛行場はそのまゝ民間に返還す。空地は民間関係へ。
この時点での陸軍空挺部隊は下記のような状況にありました。
挺進第一聯隊は、20年4月から千葉県横芝へ移動(千歳の剣號部隊を除く)。
挺進第二聯隊は、オリンピック作戦に備えて挺進司令部と共に川南空挺基地に残留。
挺進第三及び第四聯隊は、多大な犠牲を払いながらフィリピンの各地に展開中。
滑空歩兵第一聯隊の残余は、第23師団及び挺進工兵隊と共にルソン島で戦闘中。
滑空歩兵第二聯隊は、挺進通信隊、挺進機関砲隊と共に戦闘後、ピナツボ山中に籠城中。
第一挺進戦車隊は、オリンピック作戦に備えて宮崎県都城市近郊へ展開中(福生の烈號部隊を除く)。
第一挺進機関砲隊は、クラーク近辺で防空戦闘の末全滅。
第一挺進工兵隊残余は、滑空歩兵第一聯隊戸田中隊と共に第58旅団指揮下に入り、米軍と戦闘中。
第一挺進通信隊は、クラーク方面での通信任務にあたる中で壊滅。
挺進飛行第一及び第二戦隊は、レイテ作戦で受けた損害を北朝鮮で回復中。
滑空飛行第一戦隊は、挺進戦車隊の一部と共に福生で沖縄特攻準備中。
フィリピンに展開している徳永第二挺進団長指揮下の高千穂空挺隊と、塚田集団長率いる滑空歩兵部隊についてはどうしようもありません。
中村第一挺進団長は、内地に分散している配下部隊の掌握に急ぎます。
事態は一刻を争いました。
園田大尉のサイパン特攻部隊と田中少佐の沖縄特攻部隊は出撃寸前、挺進第一聯隊2個中隊と第二連隊は戦力を保持したまま国内で待機中。
まず、中村団長は停戦命令を伝えるために横芝の挺進第一聯隊の元へ駈けつけます。その日は第一聯隊の将校達と敗戦への対応を語り合いました。
剣號作戦の指揮により山田第一連隊長は不在だったので、以降の敗戦処理は同連隊の弓削少佐に托されます。
翌日には沖縄特攻に備えていた烈號部隊を慰撫するため福生飛行場へ飛び、そこから終戦処理のため唐瀬原飛行場へとんぼ返りしました。
敗戦により、国内に残留していた挺進団司令部と挺進第一及び挺進第二聯隊、挺進戦車隊、サイパン及び沖縄特攻部隊は行動を停止。
北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行団は組織崩壊、各個バラバラに朝鮮半島から撤退。ソ連軍に遭遇した隊員の多くは、収容所へ送られます。
フィリピンへ展開した挺進第3及び第四聯隊、滑空歩兵第一及び第二聯隊、挺進工兵隊の残存兵は、戦後しばらくして米軍に投降しました。
空挺部隊の主な犠牲者数は下記の通り
・第一挺進集團司令部
空母雲龍の撃沈及びクラーク付近の防空戦闘にて235名中174名が戦死。
・第二挺進團司令部
高千穂空挺隊指揮の為にレイテへ赴き、140名中戦死31名、行方不明52名。
・挺進第一聯隊
ラシオ降下作戦中止の際に2機が墜落、20数名が殉職・行方不明。
昭和20年5月には義烈空挺隊168名12機が沖縄北・中飛行場へ特攻、第三獨立飛行隊と中野学校出身者を含め8機の112名戦死。
機体不調で途中帰還した4機のうち、八代に不時着した機で飛行士1名が殉職。
・挺進第二聯隊
パレンバン降下作戦での戦死・行方不明者39名のみ。
・挺進第三聯隊
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。834名中白井連隊長をはじめ711名戦死。
・挺進第四聯隊
小丸川水難事故で8名殉職。
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。881名中斉田連隊長をはじめ792名戦死。
・第一挺進飛行團司令部
高千穂空挺隊の空輸任務の後に新田原へ帰還、北朝鮮で再編成中に終戦。100名中28名戦死。
・第一挺進飛行團通信隊
台湾にて挺進飛行隊の支援後帰国。更に北朝鮮に移動した時点で敗戦、ソ連軍に遭遇。189名中、49名死亡。
・挺進飛行第一及び第二戦隊
高千穂空挺隊レイテ降下作戦支援に従事。440名中71名戦死。
・滑空歩兵第一聯隊
主力はフィリピンへ向かう途中に空母雲龍撃沈により海没。生存者3名のみ。
残存の中隊は北サンフェルナンド及びバギオ防衛戦に従事。858名中727名戦死。
・滑空歩兵第二聯隊
滑空歩兵第一聯隊と共にフィリピンへ赴き、クラーク防衛戦に従事。862名中735名戦死。
・第一挺進機関砲隊
第一挺進集団としてクラーク防衛に参加、312名中301名戦死。
・滑空飛行第一戦隊
先発隊がフィリピンへ海路移動するも雲龍撃沈の際に全滅。残余は北朝鮮と福生で待機中に終戦。498名中77名戦死。
・第一挺進通信隊
第一挺進集団としてクラーク防衛に参加、416名中411名戦死。
・第一挺進工兵隊
フィリピンへ向かう途中、雲龍撃沈により海没。別動の残余は第一挺進集団としてクラーク及びバギオ防衛に参加、403名中357名戦死。
・第一挺進戦車隊
国内待機で実戦の機会なく戦死者もなし。
誕生から4年半。
こうして、帝国陸軍空挺部隊の闘いは終わります。
空挺隊員1万2千名のうち、約1万名の命が失われました。

本土決戦は免れたものの、空襲による宮崎県民の死者は646名、負傷者559名。
宮崎各地の飛行場から飛び立った神風特攻隊員、県上空での空中戦や対空砲火で戦死した日米両軍のパイロットも多数にのぼりました。
8月15日の後、更に13名の「戦死者」が追加されます。
8月30日には福岡の捕虜収容所へ物資投下に向ったB29が視界不良により高千穂町の祖母山へ激突、H・ベイカー機長以下12名が即死。
年末には、森源市氏がB29墜落現場から少し離れた小河内山中に不時着している日本軍戦闘機を発見します。
それは8月7日に夜間航法訓練で目達原飛行場を飛び立ったまま行方不明となった飛行第65戦隊の隼であり、操縦席からは徳義仁軍曹の遺体が回収されました。
終戦によって川南の広大な軍用地も農林省の管轄下へ置かれ、満州からの引揚者、戦災被害者、復員軍人のための入植用地へ転用されます。
その開拓計画面積は軍馬補充部高鍋支部跡地が768.89ha、塩付パラシュート降下場が990.21ha、唐瀬原空挺基地群で1,249.63haなど、計3008.73haにも及びました。
当面は既存の施設群を流用しながら、入植者の受け入れ事業が開始されます。
10月5日、進駐軍の先遣隊が宮崎市と延岡市に到着し始めます。
民政部長マスマン少佐の指揮下、進駐軍は海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や川南空挺基地を中心とする陸海軍施設の接収・解体に着手。
日南・日向・延岡に展開していた33突撃隊および35突撃隊の震洋や回天などの特攻艇は爆薬を抜かれた後に遺棄され、直後に襲来した枕崎台風によって海没していきました。
松根油製造、食糧増産、トーチカや防空壕の建設などと米軍との決戦に備えていた宮崎県は、進駐軍の受け入れと戦後復興へ移行。
次々と暴かれる大本営発表の嘘に戸惑いながら、やがて新しい時代に順応していきます。
戦争が終わったとはいえ、唐瀬原の空挺基地では山の様な戦後処理に忙殺されていました。
戦没者名簿、功績者名簿の整理や家族・遺族との処理連絡は鈴木副官と戸次准尉が担当します。
米軍への物資引渡し業務は上田少佐が指揮しました。
兵器は木下大尉、糧秣被服は竹田主計大尉、車輛・燃料・工場・施設は伊佐見少佐、医薬品は黒沢軍医中佐が担当。
空襲を避けて尾鈴山中から日向灘一帯の百箇所以上に分散秘匿していた武器弾薬・糧秣関係の収拾、集積、品目員数の整理も大変な作業でした。
トラックや荷馬車が何十台も動員され、秘匿物資を集めに川南一帯を走り回ります。その中ではトラブルも頻発しました。
11月にやって来た進駐軍側も、軍事物資の在り処を徹底的に調査しました。
「兵隊が使用した教室を掃除したり、山と積まれた残り物は燃やし、軍用トイレを埋めたり消毒したり、本当に沢山の仕事を残して消えてしまった部隊でした。
体育館の落下傘も置きざりです。とても数えられない程、沢山でした。
布類の無い時ですから、裁縫の先生は大よろこびで教材に使用され、ワイシャツ、ベビー服、絞りの風呂敷、クッション、テーブル掛けなど作りはじめられました。役場でも落下傘を引き取って家庭に配給があったようでした。
(中略)
進駐軍が初めて学校に来た時、教師全員廊下に出て最敬礼をしました。前日、学校中を大掃除してピカピカに光る板床を軍靴で上って来るのがなんとも情けなく、自分が踏まれるような気がしました。
高鍋高女は落下傘(武器なんだそうです)を置いていたので戦犯学校とマークされ、調査や事情聴取をされました。
落下傘を教材に使用したのは武器を勝手に持出したとの解釈です。
軍隊が勝手に置いたのだといくら説明しても、その理屈は通らないのです。もう一つ印象を悪くしたのは、体育用具倉庫の中に垣根を作る予定だった有刺鉄線がいっぱい積んであったのです。
「これは何に使用するのか」「なぜ、こんなものを隠しているのか」と厳しいものでした。
校長、教頭先生はとても心配され善後策に走り廻られていました。万策つきて、落下傘で作ったクッション、マフラ、ふろしき、ガウン等をおみやげに持参し「生徒が教材として使っている」と説明すると、すっかり上機嫌で「もっとほしい」とのことだったと、肩の荷を下した表情で教頭先生が帰って来られました。
次の日から、おおっぴらに、おみやげ品作りでした。職員も厳しい目でみられました。私は雑誌に「戦争と人口問題」と題して寄稿したのが調べられ、質問を受けたり、資料の提出を求められました。
当時はこんな事はとても恐ろしいことでした。
痛くもない腹をさぐられるのが嫌で、私はこの時、戦争中の貴重なメモや日記をことごとく焼きました。
本当に残念なことをしたものです。
進駐軍の人々から、人に接するには柔かいが、仕事となると、とても厳しく、いい加減なことは決して許さない姿勢を学びとりました。しかし習慣や考え方の相違は誤解を招き、いらだちや気苦労をしたものです。
三月の雛節句の時、おひな様を飾り進駐軍の人に見せてあげたら、それを見て「神様か」と険しい表情で聞くので「日本の人形で、女の子がとても大切にして、三月には家庭で飾って楽しむのだ」と言うと「オーケ、カワイイ。キレイ」の連発でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言
パラシュートとは別に、トラック十数台分にもなる軍衣類は宮崎県へ寄贈されました。しかし、この際も挺進団長の許可書類が無いと受け取れないとの回答で宮崎県庁と川南空挺基地の間を担当者が往復する羽目になっています。
空挺部隊の保有する武器弾薬は唐瀬原飛行場へ集められ、米兵監視の下で破壊処理されました。
空挺部隊が保有していた施設や200台ほどのトラックについては、整備隊長の伊佐見少佐が官公庁や宮崎交通株式会社への移譲を進めます。
それでも捌ききれなかったので、田中挺進戦車隊長により50台規模の運送会社設立が計画されました。
傷ついた高千穂空挺隊員の療養もかねて、会社の拠点は温泉地の霧島にすることまで決まります。
しかし、進駐軍のマスマン中佐は「一企業あたりの将校数は3名が限度」とこの計画を認めてくれません。
軍人が、しかも空挺隊員が何十人もの集団を結成するなどもっての他だったのです。
この決定で空挺隊員の集団帰農も否決。各個人が帰農手続することとなりました。
既に終戦直後には一割の空挺隊員、8月28日には在営人員の半数がそれぞれの故郷に復員していましたが、進駐軍はそれを加速するよう要求。
つまり、一刻も早く目障りな空挺部隊を解体したかったのです。
農地として解放された川南の落下傘降下場には、満州から引き揚げてきた開拓団が入植し始めました。取敢えず、この入植グループには挺進第四聯隊の施設が宿舎として宛がわれます(後の川南開拓協同組合)。
翌年春には戦地からも次々と高千穂空挺隊の生存者が帰国してきます。
空挺隊の帰還者については、戦闘と病、そして飢餓による身心への影響が予想されました。
その為、療養を兼ねての営農宿営施設の設置も着手されます。
空挺隊員の中には帰る家や家族を空襲で失ったケースもありました。彼等のうち、川南への帰農希望グループについては滑空歩兵部隊の山本春一少佐が指導にあたり、被服、寝具、糧秣が配当されます。
また、建築資材や耕作適地、高鍋軍馬補充部からは百数十頭の軍馬も川南への入植団へ渡されました。
※軍の焼印が記された馬は、進駐軍から睨まれるのを怖れて当初引取り手がいなかったという話もあります。
その頃、山本少佐は高千穂空挺隊員の帰国に備えて農地と住居確保に奔走していました。
当初は百名程度だった川南の入植者も、暫くたつと全国から続々と押し寄せ始めたのです。
宮崎に展開していた菊池兵団や護路兵団からも帰農希望者が続出。遂には過剰入植ともいえる様相を呈し始めます。
開拓は苦難の連続となりました。
入植者は全国から集まっているので、そもそもお互いの方言が通じません。
福岡県から転入してきた人でさえ「同じ九州なのに言葉が通じない」「福岡に比べて十数年遅れた世界だ」と驚くほど、戦後の川南は大混乱に陥っていたのです。
一大農業地帯でありながら、各農家では開拓が軌道に乗るまでは深刻な食糧不足に苦しみました。
更に、空挺兵舎の取り壊しが始まると間借りしていた入植者は追い出され(モチロン転居先の手配は無し)、廃材を集めて掘立小屋を作る派目になります。
水源地付近を割り当てられた人が、「水源の開墾は認めない」と押しかけた地元農家と一触即発の状態になったこともありました。
川南入植者の中には、あまりの過酷さに離農したケースも少なくありません。
それでも残った人々は兵舎を撤去し、突き固められた地面を掘り返し、酸性土壌を改良し、灌漑施設を建設するなど忍耐強く努力を続け、この地を豊かな農業地帯へと変えていったのです。
再び開拓の地となった川南は、後に「川南合衆国」と呼ばれるようになりました。
10月1日、挺進司令部は各部隊の状況説明者、監視および経理要員のみを残して在営隊員の復員を完了。
同月中旬に挺進司令部は解散、残務整理班の編成が認可されます。
第一挺進團司令部残務整理班は、下記の業務にあたりました。
一、比島出動部隊主力の帰還を予想する一月中旬を目途とし、当面的支援の達成。
一、復員者の援護
一、経費
一、帰還者の受入要領
一、補導事務所開設の促進
一、川南国立療養所(復員兵療養目的)設置への協力と連携
この残務整理班も、12月31日には解散。個別の復員支援業務へと移行して行きました。
川南国立療養所(現在の国立病院機構宮崎病院)は、義烈空挺隊が待機を続けていた挺進第三聯隊兵舎に入居します。
国立療養所長には、幸いにも空挺部隊と関係の深い唐瀬原陸軍病院の水上軍医大佐が就任していました。
水上所長の計らいで、残務整理班の竹田主計大尉らは病院の庶務担当として採用されます。こうして、戦地から復員してくる高千穂空挺隊員の療養体制が確立したのでした。
この川南国立療養所設置を最後に、陸軍空挺部隊の活動は終わります。

現在の国立病院機構宮崎病院(もと挺進第三聯隊駐屯地)
そのころ中村勇挺進団長は川南の竹山地区に残り、農作業をしつつ空挺隊員の帰農支援、戦死者を祀る挺進神社の世話を行っていました。
進駐軍は中村団長以下空挺隊員らの動向に監視の目を光らせており、妨害行為もあったといいます。
農地へ転用された川南空挺基地跡には、全国から集った開拓団に混じって菊池兵団や元空挺隊員らが入植していきます。
酸性土壌の改良、施肥、灌漑設備の整備。
軍用地を農地へ転換するには、その後20年もの月日がかかります。それでも、入植者の努力によって軍都川南の解体と戦後復興は着実に進んでいきました。
その頃の様子について書かれたレポートがあります。
「会議室の一隅に、わたしもチヨコンと坐つて傍聴さしてもらつた。
県農政課の赤木氏をはじめ、約四十名の人達によつてはじめられた会議は、實に生き生きと血が通つたものであつた。
開拓、帰農といふことは、趣味や道楽ではなく「食べること。生きること」に對する切実な「國と個」の要請に立脚したものであるからであらう。
“落下傘の降下場であつた八百町歩の土地は、どの様な人々によつて拓かれるのであらうか”
視線を落せば、机の下に居ならんだ脚にはかれた履物は、軍靴が大部分、次に地下足袋、役場関係の人の短靴。
履物によつて示される通り、菊池兵団の残留者が、有力なグループの一つを形づくつてゐる。
剣を鍬に代へて、作戦図ならぬ土地図付の青写真のまはりで、誰も彼もが、真剣なひとみで、村長のむちの先を追つてゐる。
菊池五部隊はここを、七部隊はここをとかつての参謀長は、部下の将来をおもんばかつて、村長の計画と兵隊の現實の間にたつてテキパキと交渉をすゝめていく。
「何でもいゝからつくれ、つくれ」
といふ国家の掛声はあまりにも非現實的である。考へて見ても、折角土台石を据ゑ、一片の土地を耕した後、そこが民間へ払下げになる土地だなんと言ふことにならぬとも限らず、現に、他図に引かれた境界線からはみ出してゐる数戸があり、村長さんを悩ましてゐる。
これは、元の土地の所有者と諒解がつけばよい問題である。
ひるが来ても誰も弁當をひらくものもなく、鍬を下す土地の決定へと強引に議事をすすめて行く……。
「實際皆、グラグラしてますからなあ」
終戦になつてから、今日まで流れた月日の中での、これ等若い帰農者の心境が、大塊のやうに私の心にもひびいてくる。
實際に作づけするまでには何と知られざる多くの日数と経費と精神の消耗があることであらう。
菊池兵団の他に挺進団とよばれるいはゆる落下傘部隊であつた組と、北川村、南郷村から三年前満州へ開拓団として移住して行つた人達と、まづこの三つの團體によつて、唐瀬原の八百町歩の原つぱは拓かれて行くのである。
県の方から斡旋する戦災者や帰農希望者の数を入れれば、地図の上ではもはや目白押の感がある位である。
「ここは芋村だから、芋位はでるぢやろ」
と誰かの預言が的中して、もろぶたに湯気立のぼる唐芋が運ばれ、二時前会議終了とともに遅いひるが始まつた。
やがて現地へ、参謀長殿のくるまへ皆のりこんで、空の神兵を生んだ土地へ今の分割図をひろげるべく出かけるのである。
現地が一望にをさめられる高台ではじめられた。何にもない草原、これで八百町歩もあるのかしら、右手にさへぎるものもなく海が見える。
「ここは立派な松林ぢやつた。それを毎日毎日振興隊で松を引つこぬいて大急ぎ降下場をつくつた。
えらいもんで七千人の人がここに入ると、どけいつたか(※何処へ行ったのか、の意)と言ふ位でなあ」
村長の言葉に、いまになれば感嘆とも悲哀ともとれない沈黙が答へるばかりであつた。
「すみません」
もはや地方人である元の落下傘部隊の一将校がぽつんといひ
「いやあ」
と皆の口辺に、ほろ苦い微苦笑がのぼつたけれど
「この傾斜地は防風林薪炭地として残す」
「あの松の下の所へ道路が通じる」
といはれて見て、この落莫とした秋枯の野は、豊かな畑地に、骨組ばかりのチラホラと立ちかけた家は、質朴な部落へと、私達の眼前で変貌して行く思ひであつた」
森千枝「新しき村を見る・川南村開拓地の巻」より 昭和20年
「開拓地の配分も家の近くに決まり、毎日荒地の開拓に努めましたが、耕作されていく畑地が全ての苦労を忘れさせて呉れました。
甘藷を主とした食料が、物資欠乏の時代でありましたから、これ程有り難いものは有りませんでした。
其の後、落下傘部隊本部裏に雨天体操場が有りました。鉄柱が林立した様な土地ですが、伊倉の矢野助役さん、登り口の永友美義さん、其の他の方々が、男の子供が三人も居る事だからと言う事で配分して頂きました。
現在は手の施し様もできなかったコンクリート鉄柱の跡も無くなり、美田と成りました。その当時頂いた温情は、年と共に感謝の念を深くして居りますし、又、家族一同折にふれて、話して居ります」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 鍋倉サダ氏の証言
「十一月の中旬に、やっと長野恵組合長にお遭いをして、私の入植目的を話して、唐瀬原開拓地の降下場に配分地をお願いした。
組合運営上の組織として小組合長会が有り、組合長から私の入植の話を出して頂き、菊友小組合の坂上清一小組合長が、菊友地区の一人分の配分地を世話して貰い、初めて開拓者として入植が決定致しました。十二月三日に川南に移って来て、屯田僧としての生活が開始されました。
高鍋管財局から兵舎の一部を借り受けて、一先ず其処に入りました。
大きな空屋の旧兵舎の南向きの部屋に、破れた窓ガラスを修理して何とか生活できる様にして生活が始まりました。
配分地の降下場までは4km近く有り、それから毎日通い開墾に取り掛かりました。
降下場の原野に木一本無く、見渡す限りの草原で、ニ~三入植者の家が有っただけでした」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 僧侶 菊友三蔵氏の証言
川南一帯に散在する空挺部隊の兵舎は、まずは入植者の仮宿舎、やがては公共施設に再利用されていきました。

挺進司令部、挺進第二聯隊、唐瀬原飛行場などが集中していた川南町睦地区。
現在は県の畜産試験場や東小学校となっています。

軍馬補充部や挺進第一聯隊兵舎のあった川南町通山地区。画像は通山小学校の門柱。

川南町唐瀬原の国立宮崎病院裏に残された、挺進第三聯隊兵舎給水塔。
川南湿原を挟んで、唐瀬原中学校付近に挺進第四聯隊の兵舎がありました。

挺進飛行團が拠点としていた、新富町の航空自衛隊新田原基地周辺に4基残されている旧軍掩体壕。
終戦直後の話。
5月11日の空襲で焼け出された宮崎市の師範学校が空挺兵舎跡に間借りする事となりました(空襲の際、生徒6名が死亡)。
中村団長は、兵舎の提供ついでに挺進神社の世話を彼等に委託します。
突如進駐軍が川南に現れ、師範学校生達の抗議も聞き入れずに神社を焼き払ったのは、それから暫く後の事でした。
この頃、「空挺兵舎の師範学校生が、夜な夜な周囲を駆け回る白衣の集団や進軍ラッパの音に怯えて眠れない」という記事が地元新聞に載ったこともあります。
地元の人から「新聞に神社が焼き払われたと書いてある」と知らされた中村団長が急いで神社へ駆けつけた時、全ては終わった後でした。
団長が神社の焼け跡から拾い集めた釘は、御神体として地元の石川富士之助氏宅の祭壇に祀られます。石川氏は三男を戦争で亡くしており、地元戦死者を祀るトロントロンの招魂堂復興を願っていました。挺進神社の釘も、その気持ちから預かったのでしょう。
ただ、いつまでも個人の厚意に頼る訳にもいかず、中村団長は慰霊施設の建設に取り掛かります。
団長とは別に、かつての降下場付近に集団入植した空挺隊員たちも挺進神社復興を計画していました。
独自に農地の一部を整備しつつありましたが、正式な神社建設手続きを経ていないとして用地を没収されてしまいます。
中村団長は挺進神社の復興を断念、新たな慰霊施設の建設を目指しました。
遺族会の協力も得て、招魂堂を改装した神社建設の募金集めに奔走。
川南村民もその熱意に動かされ、トロントロン地区で護国神社の建設が開始されました。
進駐軍に怯えながらの建築作業でしたが、妨害行為は無かったといいます。
ルソン島の飢餓地獄を体験した挺進集団長の塚田理喜智中将は、千葉県へ戻ったあと農業の研究に没頭していました。
各方面で戦没空挺隊員の慰霊施設の動きが始まると、そちらの支援もおこなっています。
新たに建設される護国神社には、川南から出征し、戦没した空挺隊員や地元出身兵士らの御霊1万2千柱が祀られる予定でした。
戦没空挺隊員の名簿は挺進神社と共に灰になってしまった為、中村団長は復員局へ出向いて空挺部隊の名簿を書き写しています。
川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である
平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同
川南護国神社の空挺碑文より

理不尽な焼き討ちから4年後の昭和24年、遂に川南護国神社が完成します。
3月21日、第1回の慰霊祭には2千人を超える川南住民が詰めかけました。あまりの多さに、付近の道路が通行止めになるほどだったといいます。
以降、川南の慰霊祭は毎年開催されることとなりました。
川南護国神社例祭の日は毎年11月23日。
全国から集まった元空挺隊員、宮崎県や川南町、地元遺族会、航空自衛隊や陸上自衛隊の関係者も参列しています。
慰霊祭は川南町のお祭りの一環として開催されており、町の人々が大勢神社に集まっていました。
普段とは違い、参道には屋台も並んでいます。
その日の朝から川南護国神社の周囲を歩いてみて分りました。
会場の設営作業や受付を含め、川南の人々が一体となってこの慰霊祭を支えているのですね。
地元の学校からも生徒さんが参加されており、三脚を据えて慰霊祭の様子をビデオ撮影して居ました。
慰霊祭はモノモノしい雰囲気や派手な催しなど無く、静かに進行されます。
式典会場を取囲むように空挺部隊の活躍を描いた油絵17点(松本武仁画)が並べられ、それらを熱心に見ている人もいました。
慰霊祭は1時間ほどで終了します。
参列者が退去すると同時に式場や絵画は撤去され、すぐさまお祭りのイベント会場へ早変わり。
自衛隊関係者は隣の広場へ移動し、落下傘部隊碑の前で記念写真なんかを撮っていました。
慰霊祭後の護国神社は、お祭りを楽しむ家族連れで夕方まで賑わいます。
※陸軍空挺部隊の慰霊行事としては、他に熊本などでも義烈空挺隊慰霊祭がおこなわれています。

慰霊祭の設営風景



川南護国神社が完成してから6年後、和歌山県の高野山に「陸軍空挺落下傘部隊英霊碑」の建立計画が持ち上がりました。
戦没空挺隊員の慰霊に奔走する中村勇挺進団長と元挺進第三聯隊付軍医の中村秀雄氏(旧姓深田)により、聖地である高野山に建墓しようという事で意見が纏まったのです。
「高野山でなくてもとの意見は、当然あると存じます。
日向の地を離れることについては釈然としない方もあるようで、他の地につていも色々と考えましたが、東京駅頭も、銀座の真中も人目にはつくでしょうが、やはり霊は霊地にあるべきで、日本全国から霊が集っていて、全国の人の参拝の絶間ない処で、最も幽玄な地と思って高野山を選びました(中村秀雄氏「唐瀬原」より 昭和31年)」
高野山本山の近藤本玄大僧正もこの申出に賛同、墓域の付与を許可します。
墓はあっても、空挺隊員の遺骨はありません。代わりに戦没空挺隊員の名簿が収められました。
昭和31年9月21日、川南護国神社から高野山への英霊奉遷式典がおこなわれます。
戦没空挺隊員の名簿作成に協力した防衛庁は、赤江飛行場(宮崎空港)に航空自衛隊のC46輸送機を派遣。
川南町から宮崎市までの位牌1万2千柱の輸送は都城駐屯地の陸上自衛隊が担当しました。
「美しい川南を英霊を先頭にして、日の丸の小旗を振って送ってくれる町の人達と別れ、つわもの共の夢の跡を辿りながら、十三里の日向路を赤江飛行場に向う。
昭和十八年の渡河演習で、一瞬にして八名を呑んだ恨みの思出を持つ小丸川。それを渡れば高鍋である。
英霊にも懐しい町並を抜け、更に南下して、最近竣工した一ツ瀬川橋梁を渡る。
右後方に紫色に霞むのが新田原の台である。
こゝで降下訓練を行うとき、日向灘から進入すればこの国道の上では既に扉を開いて降下姿勢をとっている。
“まなじり高きつわものの、いづくか見ゆる幼な顔”。決死の訓練が反復されたのである。
川は昔のまゝに流れ、台上は変ることなく紫色につゝまれているが、紅顔の若人達は今何処。
万感交々迫り来る。
一時四十分赤江飛行場を離陸、思出の日向の山野にもう一度別れを惜しみ、C-46輸送機は伊丹に向う
(全日本空挺同志会「高野山建墓の由来 英霊ここに眠る」より)」
関西へ到着した位牌は、翌日に陸上自衛隊太山演習場へ移動。
その目の前で、習志野から派遣された陸自空挺教育隊40名がパラシュート降下を披露しました。
新旧の「空の神兵」は、こうして相見えたのです。
9月23日午前10時、高野山に建墓された空挺落下傘部隊将兵之墓にて納霊・除幕式典は開催されました。

川南空挺慰霊祭にて
“祖國日本の彌栄を願い 後に續く者を信じ 空挺落下傘部隊将兵の霊は此處に静かに眠る”
副碑に刻まれた碑文を読んで「慰霊碑があるということは、和歌山県に空挺部隊がいたのだろう」と勘違いする人もいる様ですが、あの慰霊碑が高野山に建てられた経緯は以上のようなものです。

戦後の川南は、こうして再出発します。
広大な落下傘降下場や飛行場は農地となり、挺進第一聯隊兵舎は通山小学校、挺進第二聯隊兵舎は東小学校、挺進第三聯隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第四聯隊兵舎は唐瀬原中学校へ姿を変えました。
軍事施設が解体されていく中で、挺進第三聯隊兵舎の給水塔だけが地元の保存要望を受け入れて残されます。
そして、戦時の記憶は次第に忘れ去られていきました。
戦後暫くの間、特攻隊は軍国主義の象徴と見られ、元空挺隊員やその遺族達も周囲からの非難や無理解に苦しみました。
片方のエンジンが停止して乗機が不時着、生還した義烈空挺隊の和田曹長は当時の状況をこう回想しています。
「“特攻隊か、馬鹿の寄せ集めか”と思たんと違いますか。
“特攻隊にいたからというて戦争に勝てる訳でもなし”と」
人々が日々の暮らしに追われていた、復興の時代の話です。
そんな中で忘れ去られていた義烈空挺隊の存在に、再び光を当てる機会が訪れます。
それは、戦後20年目の節目としてカメラ雑誌で戦争特集をする企画が持ち上がり、小柳次一氏の撮影した写真が使われる事となったのが発端でした。
終戦時には報道写真の多くが廃棄処分されたのですが、小柳氏は撮影した写真を自宅に保管しており、貴重な記録が失われずに済んだのです。
結局この企画は流れましたが、かわりに昭和40年8月、写真展「軍靴の音」が開催されます。
義烈空挺隊出撃の写真も展示され、元隊員や「ここに夫がいます」と涙する遺族達が会場を埋め尽くしました。
小柳氏の写真は一躍有名となったものの、これらを借りていく出版社の対応は酷いものだったそうです。
「載せたのを送ってきたのを読んでみたら、日本軍はこういう悪いことをしておったという使い方ばっかりでしょ。
ひどいのになったら、写真を載せましたから本を買えですからね。
情けなくなったですね」
小柳次一「従軍カメラマンの戦争」より
小柳氏は目を悪くした事もあり、写真の世界から離れます。

毎年11月23日に開催される、川南護国神社の空挺慰霊祭。宮崎県、川南町、遺族会、空挺同志会、陸上及び航空自衛隊関係者などが参列されます。
空挺隊戦没者だけではなく、地元川南から出征し、戦死された方々も含めた慰霊行事です。
昭和49年、小柳氏は空挺同志会員からの招きで、長年暮らしていた鎌倉から川南へ転居して晩年まで過ごしました。
川南護国神社の慰霊祭には毎年出席していたとの事です。
そういえば、慰霊祭に参加される元空挺隊員のかたがたも年々少なくなってきていますね。
空挺部隊の基地から農業・畜産の町として復興を遂げた川南。
その川南に、再び試練が訪れたのは平成22年の春でした。
同年3月、川南町で発生した口蹄疫は瞬く間に町全体へと広がっていきます。
至る所で農道が封鎖され、大量の消毒用石灰が散布されました。
給水塔の周囲も進入禁止措置がとられ、近寄る事もできません。
傍から見て不思議だったのは、川南の真中を突っ切る国道10号線での全面消毒措置が取られなかったこと。
「まあ、前回の発生でも大した事なかったし」「農業関係の車だけ消毒すれば大丈夫なんだろう」
県民が呑気な事を囁き合っているうちに、口蹄疫ウィルスは県内各地へ爆発的に拡散。
たかが家畜伝染病といえど、その影響は想像の域を越えていました。
川南はおろか宮崎県の畜産は壊滅の危機に陥り、県内全域で人やモノの移動も大幅に制限。
それに伴って地域経済は悪化し、家畜の伝染病でひとつの県が身動きできなくなってしまったのです。
高速道路や県境では徹底的な消毒態勢が敷かれ、農場はおろか企業や店舗の入口にも消石灰が散布され、「次はどこへ飛び火するんだろう」と息が詰まるような日々が続きました。
ようやく口蹄疫の終息宣言が出された時、川南から牛や豚の姿は消えていました。
かつてこの地に空挺部隊がやって来た時とは比較にならない、まさに大打撃となったのです。

やがて、全国からの支援を受けて、川南は再び復活への道を歩み始めます。
その年の11月23日、護国神社での空挺慰霊祭も例年通り開催されました。

2012年より、国立病院機構宮崎病院では大規模な病棟改修工事が着工。
給水塔の隣にあった保育所は新築移転し、給水塔の周囲でも工事用の整地作業が進められています。
このさき老朽化が進む給水塔はどうなるのでしょうか。
川南町側は貴重な歴史的遺産として保存したい筈ですが、所詮は国の所有物ですからね。
川南給水塔のある風景も、いずれは大きく変化していくのでしょう。

移転が決まった保育所。このような文字が掲げてありました。
川南が空挺部隊の拠点であったことは殆んど知られていない。
私がそう確信したのは口蹄疫パニックの時でした。
様々な掲示板で口蹄疫の話題を眺めていても、ニュースになっている川南が空挺部隊の拠点だったと知っている人はほぼ皆無。
「知られていないならば、こちらから情報発信していく必要があるんだな」と実感した事が
もしかしたら、このブログを作った理由のひとつかもしれません。
地元宮崎でさえ、川南に空挺部隊が存在していたことなど遠い過去の話となってしまいました。
平成10年に宮崎日日新聞が連載した「空の神兵の悲話」あたりで、初めて知ったという人も多いのではないでしょうか。
いっぽうで、その記憶を消すまいと努力された方々もいらっしゃいます。
小丸川水難事故を目撃した高鍋町の黒木三夫さんは、殉職空挺隊員慰霊碑の供養を欠かしませんでした。
古代の人々の霊を慰めるために巨大な石像を刻み続けた岩岡保吉氏は、工事で撤去される殉職八勇士の碑を高鍋大師に受け入れてくれました。
高千穂空挺隊の無残な最期を知った林公子さんと藤原美々子さんは、少女時代に延岡で出会った榊原大尉の話を紙芝居にし、地元の子供たちに伝え続けました。
小柳・藤波カメラマンをはじめとする義号作戦を取材した報道関係者達、健軍で隊員の世話をしてた堤ハツさんも、元義烈空挺隊員や遺族と関わり続けました。
そして、川南町の人々によって空挺慰霊祭は受け継がれていきます。
その想いは、下記の一文に集約されているのでしょう。
「国の護りに征った彼等の心情を、厚く厚く汲んでやらなければ、その遺志を踏みにじることになると、私は思えてならない」
「義烈空挺隊を撮る 小柳次一」より
小柳氏は平成6年8月に他界されます。享年87歳。
晩年のインタビューで義号作戦について訊かれ、病の床でこう答えていました。
「考えてみると、馬鹿馬鹿しい、ですね。
今になって考えて、馬鹿馬鹿しいなあと思いますね……」
◆
西の地平へ沈んでいく夕陽に照らされ、唐瀬原の給水塔はオレンジ色に染まっています。
半世紀前の夕刻にも、ここで塔を眺めていた兵士がいたのでしょうか。
昔の出来事など、いつかは人々の記憶から忘れ去られてゆくのかもしれません。
ただ、かつて「空の神兵」と謳われた者達が此処に存在していた証として
異形の塔は、今も静かに聳え立っているのです。
