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はじめに

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 「あの塔はここに落下傘部隊がいた記念のようなもの」。
川南町川南の梶原愛子さん(82)は、旧日本軍が太平洋戦争中に建てた給水塔を少女時代から眺めてきた。
「当時この辺は兵隊だらけ。新しい兵舎が何棟も並び皆エリートな感じだった」。
記憶には今と全く違う大地の姿が残る。高さ28メートルと周辺からも目立つ給水塔は、国立病院機構宮崎病院敷地内に現存し、軍都・川南を今に伝える数少ない戦争遺跡だ。


宮崎日日新聞「忘れない 戦後70年へ・戦争遺産」より 2014年

給水塔
帝國陸軍落下傘部隊・第2挺進團挺進第3聯隊兵舎の給水塔。全高27.3m
唐瀬原にて 2010年

日本陸軍落下傘部隊の本拠地であった、宮崎県児湯郡川南町唐瀬原(からせばる)。
この町には、現在も空挺兵舎の給水塔が保存されています。
しかし「陸軍の精鋭」「空の神兵」と落下傘部隊を讃える人々が、この遺構に目を向けたことはありません。
戦後半世紀以上の間、給水塔は地域の努力によって守られてきたのです。



日本陸軍がパラシュート部隊の研究を開始したのは昭和15年のこと。この空中挺進部隊(「挺身」ではなく「挺進」)は、静岡県の陸軍浜松飛行学校にて創設されます。
翌年5月には防諜上の理由で満州国の白城子飛行学校へ移転したものの、年の半分は雪に閉ざされて訓練不可能と判明。結局、わずか3ヶ月程で日本への帰還が決定されました。
間近に迫る南方作戦の「切り札」として、空挺部隊を一刻も早く実戦レベルへ錬成しなければなりません。
求められたのは、
・冬でも温暖な気候
・輸送機を運用できる軍用飛行場
・広大なパラシュート降下場
でした。

検討の結果、移転先には諸条件を満たした宮崎県児湯郡の軍用地が選ばれます。
対象地域となる新田村、富田村、高鍋町、川南村、都農町の各自治体には、陸軍第6師団から部隊の転入に伴う土地や宿舎の提供・建設作業や防諜への協力が要請されました。
昭和16年10月、新田村の新田原(にゅうたばる)陸軍飛行場へ移った空挺部隊は、北側の川南村にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩の放牧地をパラシュート降下場へ転換。
「挺進練習部」として、専従の空輸部隊である挺進飛行隊と共に猛訓練を開始しました。

この秘密部隊は、石油施設の奪取作戦で実戦デビューします。
昭和17年2月、ランゴアン飛行場を急襲した海軍落下傘部隊に続き、陸軍落下傘部隊はスマトラ島パレンバンの精油所占拠に投入されました。両作戦は大々的に報じられ、それまで落下傘部隊の存在を知らなかった国民を驚かせます。
地域住民が「〇〇(マルマル)」という隠語で秘匿してきた陸軍落下傘部隊は、この時から「空の神兵」と称されるようになりました。

パレンバン作戦以降も部隊の拡充は続き、新田原飛行場では手狭となります。そこで挺進飛行隊のみを新田原に残し、主力部隊はパラシュート降下場のある川南村へ移転するという計画が立てられました。
川南村を貫く国道10号線(当時は3号線)沿いに、唐瀬原飛行場を中心とする軍事施設群が完成したのは昭和18年のこと。
それまで軍馬の放牧地だった川南は、一転して巨大な空挺基地と化しました。

幹線道路沿いでハデな降下演習を繰り返す「秘密部隊」がパレンバン作戦まで存在を隠し通せた理由。それは、地元自治体と住民の献身的な協力のお蔭でした。
その事実をもって「宮崎県民は諸手をあげて空挺隊の転入を歓迎した」という解説も散見されますが、大きな誤りです。
空挺基地建設に伴う周辺農家の集団立ち退き、過酷な建設奉仕作業への大量動員、土地や宿舎の提供、住民や通勤通学者への防諜要請、林野資源や耕作地(および税収)の喪失、果ては県の動脈たる国道10号線の封鎖・迂回路建設といった負担の数々が、軍の都合で押し付けられたのですから。
それは、川南の戦後復興にも大きな傷跡を残しました。

一方で、「タンパク質補給のため牛乳を飲みたい」という空挺部隊からの要請により、川南に酪農が導入されたという妙な功績もあります。県外からは多数の乳牛が持ち込まれ、昭和19年には森永乳業のバター工場も完成。
この様にして、空挺部隊と地域社会は共存の道を歩んでいったのです。

川南の地において、挺進練習部は4個パラシュート連隊に規模を拡大しました。
更に、パラシュート降下では小火器しか携行できなかったパレンバンの戦訓から、重武装での空挺作戦を可能とする滑空班(グライダー部隊)の研究が開始されます。
パラシュート部隊は南方への切り札として川南に残し、新たなグライダー部隊は小笠原方面への備えとして茨城県に配置する事となりました。
昭和18年、茨城県西筑波飛行場に曳航機およびグライダーのパイロットを集めて「滑空飛行戦隊」が発足。
続いて挺進第5連隊も西筑波へ移動し、昭和19年秋に滑空歩兵2個連隊と挺進機関砲隊へ再編されます。川南でも、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊といったグライダー搭乗部隊が続々と誕生しました(挺進通信隊だけはパラシュート降下能力あり)。

しかし、空挺部隊を活用する機会はなかなか訪れず、戦局の推移、地理・気象条件、地上部隊との連携などの問題で、パレンバン以降は作戦中止と待機の日々が続きました。

昭和19年、陸軍空挺部隊の育成にあたってきた挺進練習部はその役目を終えます。
そして同年11月、唐瀬原のパラシュート部隊・西筑波のグライダー部隊・新田原の空輸部隊および支援部隊群は、「第1挺進集団」の傘下に纏められました。
1万4千名の準師団規模となった第1挺進集団ですが、実際は各個バラバラに運用されています。
制空権を奪われつつあった戦争末期、もはや大規模空挺作戦をおこなえる状況ではありませんでした。
レイテ島へ降下した挺進第3連隊と挺進第4連隊は米軍との交戦によって壊滅。ルソン島へ向かった滑空歩兵第1連隊は空母雲龍と共に撃沈され、残る滑空歩兵第2連隊や挺進工兵隊もルソン防衛戦で多数の将兵を失いました。
残存の空挺兵力はジャングルに立て籠もり、飢餓に苦しみながらフィリピン各地で抗戦を続けます。挺進通信隊や挺進機関砲隊は、全滅に近い損害を蒙りました。

降下作戦に従事した挺進飛行隊も多数を撃墜されてフィリピンから撤退、朝鮮半島での戦力回復に務めます。鈍足のグライダー飛行隊もフィリピン空域の米軍機に阻まれ、台湾で足止め。その特殊能力を一度も活かすことなく北朝鮮へ退避していきました。
本土防衛のため内地に温存されていた挺進第1連隊・挺進第2連隊・挺進戦車隊は、悲惨な特攻作戦へ投入される事となります。
昭和20年5月、義烈空挺隊(挺進第1連隊第4中隊)が沖縄の米軍飛行場へ突入。横芝へ移動した第1連隊主力からも、2個中隊がサイパン特攻を命じられます。都城市防衛についた挺進戦車隊では、挺進第2連隊の一部と共に沖縄へのグライダー特攻部隊が編成されました。

川南空挺基地に残されたのは挺進第2連隊主力と挺進整備隊のみ。彼らは児湯防衛にあたる陸軍第212師団と共に、予想される米軍の宮崎上陸に備えていました。

落下傘
川南町の空挺慰霊祭にて。

パレンバン降下作戦のイメージからか、単体のパラシュート部隊と誤解されがちな日本陸軍空挺部隊。
しかし、実態はグライダー部隊や飛行隊を含む様々な特別部隊の集合体でした。
そのうえ浜松~白城子~新田原・唐瀬原・西筑波の各飛行場へ移転・分散を続けていたので、全体像を掴み難いのでしょう。

陸軍空挺部隊を構成する諸部隊と拠点は下記のとおり。

・挺進練習部(宮崎県川南):陸軍空挺部隊の育成にあたり、後に第1挺進集団へ改編。
・第1挺進集團司令部(川南およびフィリピン):挺進練習部を前身とし、全ての陸軍空挺部隊を統括。

・第1挺進團司令部(川南):第1挺進団は挺進第1連隊と挺進第2連隊を指揮します。
・挺進第1聯隊(川南):最古参のパラシュート部隊。
・挺進第2聯隊(川南):パレンバン降下作戦に投入されたパラシュート部隊。

・第2挺進團司令部(川南):第2挺進団は挺進第3連隊と挺進第4連隊を指揮します。
・挺進第3聯隊(川南):高千穂空挺隊としてレイテ島防衛に投入されたパラシュート部隊。
・挺進第4聯隊(川南):高千穂空挺隊としてレイテ島防衛に投入されたパラシュート部隊。

・滑空歩兵第1聯隊(茨城県西筑波):グライダー部隊。ルソン島へ移動中に撃沈され、主力は一度も戦わずに全滅。
・滑空歩兵第2聯隊(西筑波):ルソン島防衛に投入されたグライダー部隊。

・第1挺進機関砲隊(西筑波):ルソン島防衛に投入された重火器部隊。
・第1挺進通信隊(川南):ルソン島防衛に投入された有線・無線部隊。
・第1挺進工兵隊(川南):ルソン島防衛に投入された工兵部隊。
・第1挺進戦車隊(川南):戦闘車両を有する装甲部隊。出撃の機会なく都城で待機。
・第1挺進整備隊(川南):パラシュートの補充管理を担当する部隊。

・第1挺進飛行團司令部(宮崎県新田原):空輸飛行隊を統括する司令部。
・第1挺進飛行團通信隊(新田原):挺進飛行團司令部の支援部隊。
・挺進飛行第1戦隊(新田原):落下傘兵を空輸する飛行隊。
・挺進飛行第2戦隊(新田原):落下傘兵を空輸する飛行隊。
・滑空飛行第1戦隊(西筑波):滑空歩兵を空輸するグライダー飛行隊。
・第101飛行場中隊(新田原):挺進飛行戦隊の支援部隊。
・第102飛行場中隊(新田原):挺進飛行戦隊の支援部隊。
・第103飛行場中隊(西筑波):滑空飛行戦隊の支援部隊。

幾つかの空挺作戦では、参加部隊に名前がつけられています。
・高千穂空挺隊:レイテ降下作戦に投入された第2挺進団の通称。
・義烈空挺隊:挺進第1連隊第4中隊から抽出され、第3独立飛行隊と合同で沖縄へ突入した特攻隊。
・第二剣作戦部隊:海軍空挺部隊と協同でサイパン特攻を計画していた挺進第1連隊の2個中隊。
・烈號部隊:グライダーによる沖縄特攻を計画していた、挺進戦車隊・挺進第2連隊・滑空飛行戦隊の混成部隊。名称は非公式のもの。

第1挺進集団とは無関係なのに「空挺隊」と名付けられた部隊もありました。
それが薫空挺隊(かおるくうていたい)です。
台湾軍に所属する薫空挺隊は、高砂族(台湾山岳民族)義勇兵で構成される遊撃部隊でした。昭和19年、この部隊は高千穂空挺隊に先んじてブラウエンへ突入するも失敗。隊員は全滅します。
攻撃目標が高千穂空挺隊と同じ米軍ブラウエン飛行場、作戦名が義烈空挺隊と同じ「義号作戦」だったことから、薫空挺隊が陸軍落下傘部隊の所属と勘違いされることもあるとか。
そのような混乱を避けるため、当ブログでは薫空挺隊を取り上げません。関東軍の気球作戦も同じです。

空挺
陸軍落下傘部隊のシンボルマーク。落下傘を簡略化した意匠となっています。

日本陸軍の空挺部隊は、それぞれの運命を辿りました。
戦機を逸した挙句に特攻隊として扱われた挺進第1連隊、パレンバンの栄光に輝いた挺進第2連隊。
空の降下作戦で、地上の遊撃戦で、海上の護衛任務で戦った挺進第3連隊と第4連隊。
戦う前に海へ沈んだ滑空歩兵第1連隊、クラーク防衛に奮闘した滑空歩兵第2連隊。
ルソンの戦いで全滅に近い損害を蒙った挺進機関砲隊、挺進通信隊、挺進工兵隊。
フィリピンで輸送機の大半を失った挺進飛行隊。
宮崎で待機を続けた挺進戦車隊や挺進整備隊。

創設から4年半。
昭和20年の敗戦によって、陸軍空挺部隊は消滅します。

8月15日の時点で、第1挺進集団と第2挺進団は終戦を知らないままフィリピンで戦闘を継続中。
北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行隊や滑空飛行戦隊は、潰走状態で朝鮮半島を南下します(途中でソ連軍に抑留)。
国内に残っていた第1挺進団は、軍の命令により敗戦処理に着手しました。
川南防衛にあたる挺進第2連隊の解散。出撃寸前だった挺進第1連隊や挺進戦車隊への特攻作戦中止命令。
宮崎県や民間への施設や物資の譲渡。分散秘匿していた武器の回収。故郷への復員手続や、川南へ帰農する空挺隊員への住居や耕作地の割り当て。
敗戦処理班の業務は多忙を極めました。

同年秋から宮崎県へ着任した進駐軍のマスマン少佐は、川南の空挺部隊を徹底的に解体。空挺出身者が集まっての起業計画も妨害し、とにかくバラバラに分散するよう仕向けました。
これまでの川南原開拓事業も、対象は民有地から軍用地へ変更されます。
塩付パラシュート降下地区、唐瀬原飛行場地区、高鍋軍馬補充部地区の三大軍用地は農地として開放。各空挺兵舎は学校や病院へ転用されました。

昭和20年12月、陸軍空挺部隊最後の秘密作戦がおこなわれます。
それが、挺進第3連隊跡地へ移転してきた国立宮崎療養所への要員派遣。
やがて戦地から復員してくるであろう傷病空挺兵を受入れるため、残務処理班を病院職員として潜入させたのです。
これをもって、陸軍空挺部隊はひっそりと活動を終えました。「軍都川南」は解体され、「開拓の町」として再出発したのです。
インフラ復旧が遅れる中での灌漑施設の整備や土壌改良など、苦難の連続だった川南開拓。
この地の開墾に取り組んだ入植者の中には、かつての「空の神兵」たちの姿もありました。

翌年の春、戦没空挺隊員を祀る川南挺進神社が進駐軍によって焼討ちされます。
挺進神社の焼失を機に、中村勇第1挺進団長と川南の人々は戦没者慰霊施設の再建に着手。
敗戦によって消える筈だった空挺部隊の記憶は、川南護国神社の完成を経て戦後の宮崎へと受け継がれることとなりました。

そのシンボルとなったのが、唐瀬原に残された挺進第3連隊兵舎の給水塔。
陸軍落下傘部隊に関する唯一にして最大の遺構です。

空挺部隊碑
川南護国神社の空挺部隊記念碑。

世の中に旧軍落下傘部隊を取り上げた本やサイトは色々ありますよね。
ただ、書籍やネットで目にする空挺部隊の話は戦場の勇ましい活躍ばかり。陸軍空挺部隊と川南開拓史の関わりというローカルネタは、我が国の軍事研究家から無視されてきました。
自国の陸軍空挺部隊が何処でどうやって準師団規模へ成長したのか、きちんと説明してある書籍やサイトはごく僅か。
その部分を疎かにすると、隣接する新田原飛行場と唐瀬原飛行場を混同したり、高野山の空挺慰霊碑や知覧特攻平和会館の展示を見て「和歌山県や知覧に空挺部隊の基地があったのか!」などと早トチリする危険があります。
「戦場の空挺隊史」ばかり注目していると、創設から戦後処理に到る「銃後の空挺隊史」の存在を忘れてしまうのでしょう。

いっぽうで、戦時の記憶を後世へ伝えようという努力は地域の人々や地元メディアによって続けられています。
証言を集めて郷土の歴史として語り継ぐ過程で、宮崎県には「空の神兵」に関する貴重な記録が残されました。

江戸時代に始まった川南原開拓
明治時代の西南戦争や軍馬補充部の設置
戦時中の空挺部隊の転入、空襲、米軍九州上陸の危機と敗戦
戦後の空挺部隊解体と軍用地の開放、米軍進駐と川南護国神社の建設、集団入植と戦後復興、農地整備事業への取組み
そして2010年の口蹄疫による大打撃。
幾度もの試練を乗り越えてきた川南の歴史を忘れない為に
当ブログでも、ミリタリーや歴史批評ではなく「地域史としての陸軍落下傘部隊」を取り上げました。

てな訳で、此処は宮崎県の近代史のブログです。
ミヤザキがカワミナミがとしつこく繰り返すのも、その部分を勘違いされない為です。
陸軍空挺部隊の戦術装備や武勇伝などを知りたい方には物足りない内容かもしれません。歴史には色々な見方がありますから、数ある資料のひとつとして御覧ください。

IMG_1509_R.jpg

しかし「川南の空挺隊史」とか言われても、宮崎県の場所すら知らない人が多い筈(九州の南の端っこです)。
当時の状況をや地理を大まかに把握する為、主要な軍事施設の配置図を載せておきますね。

「陸の孤島」と揶揄される宮崎に軍事施設が集中していた理由は、同県が鹿児島県の知覧や鹿屋に次ぐ沖縄特攻の出撃拠点であり、米軍本土上陸の第一目標と予測されていたからです。
戦時の記憶と正面から向き合ってきた知覧と違い、目を逸らせ続けてきた戦後の宮崎。
忘れられた特攻の地と化した現在、空挺給水塔の存在が知られないのも当然の結果なのでしょう。それを嘆いても仕方ないので、まずは情報発信から始めなければ。

それでは配置図の解説を。
・赤字が陸軍、青字が海軍の拠点。
・バツ印は軍用機の墜落地点(航空事故4件を含みます)。緑が日本軍機、オレンジが米軍機。
大まかな地点を示すもので、墜ちた機体数や機種とは無関係です。
・地名は現在のものを使用。

宮崎の軍事施設

A 海軍第48及び116震洋特攻隊(延岡市土々呂)
B 海軍第08回天特殊潜航艇及び第121震洋特攻隊(日向市細島及び梶木)
C 海軍富高飛行場(日向市財光寺)
D 海軍呉鎮守府平岩派遣隊通信基地(日向市平岩)
E 海軍第122震洋特攻隊(日向市美々津)
F 陸軍第212師団(児湯郡都農町)
G 陸軍落下傘部隊・唐瀬原飛行場(児湯郡川南町)
H 陸軍軍馬補充部高鍋支部(児湯郡高鍋町)
I 陸軍第154師団(西都市) 
J 陸軍新田原飛行場(児湯郡新富町) 
K 陸軍木脇飛行場および獨立戦車第五旅団(東諸県郡国富町及び綾町)
L 陸軍第156師団(宮崎市本庄) 
M 海軍赤江飛行場(宮崎市赤江) 
N 海軍第09回天特殊潜航艇隊(宮崎市内海)
O 海軍第03回天特殊潜航艇隊及び第126震洋特攻隊(日南市油津)
P 海軍第05回天特殊潜航艇隊及び第54・第117震洋特攻隊(日南市南郷) 
Q 海軍都井岬レーダー基地(串間市都井岬)
R 海軍崎田航空基地(串間市崎田)
S 陸軍第86師団(都城市~鹿児島県曽於郡) 
T 陸軍歩兵第23聯隊(都城市都原町)
U 陸軍都城西飛行場(都城市都原町)
V 陸軍都城東飛行場(都城市都北町・北諸県郡三股町)
W 海軍勝山通信所(北諸県郡三股町)
X 陸軍都城北飛行場(都城市野々美谷町)
Y 陸軍第25師団・陸軍小林飛行場・軍馬補充部小林分厩(小林市)
Z 陸軍えびの飛行場(えびの市)

高千穂
高千穂町B29及び一式戦闘機墜落事故:慰霊碑、案内板、機体の破片など

土々呂
海軍第48及び116震洋特攻隊:震洋格納庫跡3、実物大模型1隻

富高
海軍富高飛行場:滑走路の一部、掩体壕の一部、門柱、爆撃痕など

細島
海軍第08回天特攻隊:案内板のみ。回天が埋設処分してあるとの噂も。

細島
第121震洋特攻隊:記念碑2箇所と格納庫跡(細島・梶木に各1基残存)

美々津
日本海軍発祥の地碑:記念碑のみ。震洋美々津基地跡は消滅

川南
陸軍落下傘部隊唐瀬原飛行場:挺進第三聯隊給水塔、慰霊碑など

高鍋
陸軍軍馬補充部高鍋支部(現・宮崎農業大学校):軍馬慰霊碑のみ

新田原
陸軍新田原飛行場(現・航空自衛隊新田原基地):掩体壕4基、揚水場基礎跡、門柱、空挺歌碑など

六郷ヶ原
陸軍木脇飛行場:記念碑、弾薬庫、トーチカ4基

赤江
海軍赤江飛行場(現・宮崎空港):掩体壕7基、弾薬庫4基、地下壕数箇所、門柱、特攻慰霊碑など

油津
海軍第03回天特攻隊:基礎部分のみ

大堂津
海軍第126震洋特攻隊:記念碑のみ

榮松
海軍第05回天特攻隊及び第54・第117震洋特攻隊:回天格納トンネル1基

DSC00208_R.jpg
都井岬特設見張所:レーダー基地の電波塔基礎、地下発電室、地下指令室、貯水槽

崎田
海軍崎田航空基地:弾薬庫、給水塔など

都原
歩兵第23聯隊(現・陸上自衛隊第43普通科連隊駐屯地):記念碑及び資料館など

都城西
都城西飛行場:記念碑、トーチカ1基

都城東
都城東飛行場:記念碑のみ

都城北
都城北飛行場:案内板と記念碑のみ

椎八重
椎八重日本軍機墜落事故:慰霊碑及び墜落2地点の案内板、機体の破片(山中に残存)など

※串間・小林・えびのの軍事施設につきましては、福田鉄文氏の「宮崎の戦争遺跡」を参照しております
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落下傘塔からの初降下

Category : 空挺隊員の証言 |

長い〃血のにじむ様な地上猛訓練が終りに近づく頃には、練習員達は真黒に日焦けした皮膚にピチ〃と躍る弾力と黒ダイヤを見る様な光澤を呈し、四肢の筋肉がムク〃と盛上つて見るからに頼母しく健康そうで、而も自信満々の様子である。
この頃見学の為部隊を訪れる人々は、彼等の不敵の面魂、立派な体躯、栗鼠の様に敏捷な動作、キビ〃と節度正しい言語態度に驚異と陶酔とを感ずるに相違ない。

然しこの何物をも恐れぬげに見ゆる若者達の胸裏を覗いて見ると、其處には言語に絶した苦悶があることが判る。
それは未知の降下に對する(それはもう旬日の後に迫つている)興奮、不安、確信等の縺れ合つた混然として複雑なる精神状態である。
落下傘塔降下にさへ緊張と不安との伴つた大なる興奮を感ずる。
いくら平静を装つて見ても、純白の絹の落下傘と共にワイヤーによつて引上げられて行く練習員の顔からは潮の引く様に血の気が薄れて行くのが見られ、瞳孔が怪しく光つて時には顔面筋肉の痙攣さへ見えるのである。
試に脈搏を数へて見ると、二〇―三〇の増加を示すのがざらにある。

切放された傘が菊の花の様、多弁な圓周を見事に開き、降下兵は偉大なる奇蹟に遭遇したとでも言いたげな面持ちで、呆然と頭上に蔽ひかぶさつた純白の傘を見上げている。
平易な満足りた氣持である。
静寂と無我の一瞬が過ると、地上からの雑音が遠い奈落からの潮騒の様に迫つて来る。
我に返ると教官の種々の注意や要求が次々と頭に浮んでくる。急いで下を向いて距離目測をし、接地の準備をする。
地上教官のメガフオンが注意事項を叫ぶ。
一安心した氣持が再びグツと引締まる。

足をつけ膝を曲げ、よしと思ふ間もなく芝生の上にコロ〃と投げ出される。
ゴムマリの様に、そうだ上手にゴムマリの様に。
地上勤務員が駆け寄つて来る。「お芽出度う」「御苦労様」等叫び乍ら。

急に嬉しさが込上げて来る。押へても〃押へ切れぬ嬉しさである。
「大したことはないよ」とか「愉快!!愉快!!」等と言つて見たくなる。然し心臓は相変らず、ゴト〃と早鐘を打つているし脈搏はズー〃と流れる様に数を増してゐる。

落下傘塔降下でさへこんなである。
まして蒼空深く駆け上つて、宙に懸つた浮城から支へも手答へもない夢の様に頼りない空間に身を躍せて落込んで行く。
誠に無関心で居られる筈がない。
降下訓練を前にしての練習員の胸中を去来するものは、寝ても起きてもこの「降下」一事のみと言つても過言ではない。
この心的不安、興奮が肉体上に、又精神上にどんな反應を示すだらうか。
以下項を追つて説明する。

「降下の身心に及ぼす影響」より 第一挺進團司令部述

空挺給水塔 其の1 天降る神兵

Category : 第一部・空挺部隊誕生 |

DSC00664_R.jpg

昨夜の小雨も名残り無く、晴れ爽かな澄み切つた大氣を徹して遠く近く雲雀の鳴声を聞き、黒く湿つた大地は太陽の輻射熱を貪り吸つて芋蟲の様にふくれ、ギラ〃と真直に立つ陽炎が緑一色の降下場を蔽ふ。
地上勤務員達は呟く。
「アゝ、申分ない降下日和だなあー」と。
湿氣を含んだ風が松林の梢をギシ〃と軋ませ、附近の峰々にトグロを巻いてゐた黒雲がアメーバ様に裾を拡げ、あちらからもこちらからも無遠慮に大口開いて水陸両棲の足軽が「ゲコ〃」とやり始めると、地上勤務員達は呟く。
「アゝ、厭な天気になりやがつた」と。


日本陸軍第一挺進團司令部「落下傘部隊概説」 第五章より抜粋

降下兵
一式落下傘を背負った日本陸軍空挺隊員

南北に長い宮崎県の、ちょうど中央にあたる地域。
尾鈴山地から日向灘へと続くなだらかな台地に、川南(かわみなみ)という町があります。
地理的には国光原(こっこうばる)と唐瀬原(からせばる)で構成される洪積地帯で、人口は約1万7000名。広大な土地を利用した農業と畜産が盛んです。

2008年9月20日。
この日、川南の空に3つのパラシュートが開きました。フロンティア・デーの催しとして、陸上自衛隊の習志野空挺部隊が落下傘降下したのです。

空挺隊員がこの地へ舞い降りたのは、実に64年振りのこと。
昭和20年に陸軍落下傘部隊が去った後も、その記憶は川南で語り継がれてきました。

フロンティアデー

川南の町おこしイベントが「フロンティア・デイ」と名付けられたのは、此処が開拓者の町だからです。
川南は三本木原や矢吹開拓地と並ぶ日本三大開拓地のひとつであり、埼玉県を除く全国46都道府県から入植者を受け入れてきた場所でした。
ただ、その事以外には何の変哲も無い田舎町ですから
町の片隅にひっそりと聳え立つ巨大な塔のことを知る人は少ないのでしょう。

その塔の周囲は、ちいさな保育園があるだけの草生した空地になっています。偶に、近所のかたが散歩している姿を見かけるくらいでしょうか。普段は人影もまばらです。
夕方、静まり返った空地を眺めていると、かつて此処に一大軍事施設があった事など想像もできません。

【カラセバルの塔】

宮崎市で働いていた頃、同僚と一緒に日向市の客先へと出掛けた日の事です。
国道10号線は光ケーブル敷設工事で渋滞していた為、佐土原町から迂回して航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の前を抜け、尾鈴山添いの道を車で北上。
そこから暫く車を走らせたところで、川南町に入りました。
周囲にはポツポツと民家があるだけで、見渡す限り耕作地が広がっています。

信号

空挺給水塔

「唐瀬」と表示のある交差点を右折して10号線方向へ走っていると、道路左手にコンクリート製の巨大な塔が姿を現しました。
あの塔、何だか見覚えがあるような気が……。
原っぱの中に聳え立つその姿が余りにも異様だったので、助手席の同僚に「何ですかねアレは?」と訊ねると、「昔、パラシュートの練習をしていた建物らしいよ」との答え。
ははぁ、パラシュートって事は、新田原基地関係の施設なんだろうなと一人合点して、そのまま通り過ぎました。

K1

塔の事などすっかり忘れてしまったある日の事。
書店で戦史関係の本をパラパラ捲っていると、とある頁の「落下傘部隊の基地は日向の唐瀬原にあり……」という一文が目に留まりました。
へえ、戦時中は宮崎に空挺部隊がいたんですね。
唐瀬原といえば、先日車で通った町です。あそこには自衛隊の塔が……。

同僚は「自衛隊の施設」とはひと言も言っていませんでした。
ただ単に「パラシュートの練習をしていた建物」だと。

もしかすると、あの塔は「唐瀬原の落下傘部隊」と関係があるのでしょうか?
空挺部隊の基地が近くにあったのかもしれません。
で、早速調べてみようとしたのですが、以前のように神保町や国会図書館へ通う訳にもいかず、ネット上の情報も乏しい時代でしたから、地方在住の身では資料捜しに結構苦労しました。

清掃ボランティアなどで地域のお年寄りと話していると、「そういえば昔、近所に特攻隊の基地があった」などという話題がポコッと出てきます。
木脇飛行場のコトだと思いますが「うちの近くにもあった。赤トンボ(複葉の練習機)がよう飛んどった」などと他の人にも話が広がったりして、戦時中の宮崎に多数の軍事施設が存在していたことは知っていました。
※新田原の証言に関しては、陸軍新田原飛行場と自衛隊新田原基地の話がごっちゃになっている場合もありますけど。

グラウンド
野球グラウンド側から見た塔

宮崎に謎の空挺部隊が駐屯していた!
……などと一人コーフンしていたのですが、調べるうちに私が無知なだけだと判明。戦時中の宮崎県に空挺部隊が駐屯していた事は、様々な文献に記されていました。
こんなイナカに拠点を置いたのは「訓練場所に選んだ満州が寒過ぎたので、冬でも暖かい宮崎へ引っ越した」という、プロ野球の宮崎キャンプみたいな理由だったそうです。

しかし、あの「パラシュートの塔」についてだけは正体がさっぱり判りません。
空挺部隊や戦争遺構の本を手当たり次第に読んでも、一切出てこないのです。

空挺部隊といえば日本陸軍の誇る精鋭部隊。
それだけ有名な部隊の遺構ならば、プロの軍事研究家や写真家が無視する筈ありませんし。「日本の戦跡」とかいうタイトルの本を読んでも、南九州地域で取り上げられるのは鹿児島の知覧や鹿屋ばかりで宮崎は空白地帯。
……やっぱり関係ないのかな?

何度も唐瀬原へ通ってみたのですが、塔のある場所は病院施設や歩くのも困難な林、水没しかけた湿地帯(川南湿原)まであって、他の手がかりを探すのは難しそうです。
ただ、給水塔付近にある林の中には、人為的に掘られた壕や埋没しかけた素掘りのトンネルがそこかしこに散在していました。
もしかしたら、防空壕か演習地の痕跡かもしれません。

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朝靄たちこめる川南湿原。フェンスの先は水没しています。

林
野球グラウンド脇、川南湿原へ続く密生した林

壕
林の中にある壕のひとつ

穴

壕
幾つかの壕の突き当りには、埋没しかけた素掘りのトンネルがあります

取敢えず、塔を四方から観察してみました。
隣接する配電柱が高さ10m弱として、その3倍はあります。だとすると塔の高さは30m近くですね。形状は、支柱部の上に太い円筒を載せたようなコケシ型。側面には金属製の昇降用梯子とパイプ類が取り付けられています。
「頭」に当たる部分の東側には人が乗れる程の手摺付き金属製テラスが突き出していて、そこから天頂部へ登る階段が延びていました。てっぺんに立っているのは避雷針かな?
支柱部東側中央にも出入り口らしき開口部があります。そこから鳩の姿が見え隠れしていますので、現在は鳥の巣と化している様ですね。雨水でも溜っているのか、晴れているのに水滴がぱらぱらと降ってきます。
コンクリートの表面には無数のヒビが走っていて、旧い建物には間違いなさそう。

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塔の北側

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塔の南側

水栓
傍らにポツンとある水道栓

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井戸なのかポンプの跡なのか。

しかし高さも中途半端ですし、こんな所からパラシュート降下なんか出来そうもありません。
かつて二子玉川にあった読売落下傘塔の写真は、四本のアームが突き出したもっとメカメカしいデザインでした。
では、一体何なのでしょうか、コレは?

……何処かで見た記憶はあるのですが。

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国立病院4

ウロウロと無駄に歩き回るのに疲れ、何か空挺隊の手がかりが無いか地元の人に尋ねたところ、「護国神社へ行って見ればいい」と教えていただきました。
その神社に、川南の戦死者が祀られているのだそうです。

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トロントロンのバス停

川南護国神社は国道の反対側、川南町役場ちかくの「トロントロン」という奇妙な名前の場所にあります。
漢字ではなく、カタカナでトロントロン。もちろん正式な地名です。地名の由来は“泉から湧き出る水音を表現したもの”らしいのですが、最初は何かの冗談かと思いました。
川南護国神社は川南町の中心部、住宅地に囲まれた丘の上に建っていました。
生協から川南町役場へ向かって歩いていくと、道端に「陸軍落下傘部隊発祥の碑入口」という石碑を発見。

やはり此処だったのですね。

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その横道を登っていった所が川南護国神社でした。しかし、丘の上にあるのは神社の建物だけ。「落下傘部隊の碑」とやらは見当たりません。
とりあえず鳥居から梅園あたりをぐるっと一周。

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それから神社の裏手にある広場へ歩いていくと、ようやく目的の場所を見付けました。
野外ステージの奥にある広場が落下傘部隊の慰霊スペースとなっており、中央の大きな石碑には「空挺落下傘部隊発祥之地」と刻まれてあります。

石碑を見て、この地に空挺部隊が居た事をようやく実感。神社では、空挺部隊の慰霊祭も毎年執り行われているそうです。
ただ、塔の正体は解らないままでしたが。

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【塔の正体】

それから暫く経った5月24日の朝。
出勤前に新聞のTV欄を見ていると、ある番組が目に留まりました。

「塔は黙して語らず 特攻“義烈空挺隊”の真実」。

それは太平洋戦争末期、沖縄の米軍飛行場へ強行突入した「義烈空挺隊」に関する地元民放製作のドキュメンタリーでした。
義烈空挺隊が出撃したのは昭和20年5月24日ですから、同じ日に合わせて放映するのでしょう。
どうせお涙頂戴か説教臭い番組なんだろーな、と余り期待しないでタイマー録画をセット。
宮崎県は民放が2局しかないから予約もカンタンです。何の自慢にもなりませんけど。

落下傘部隊関連という事で、この義烈空挺隊について書かれた本も何冊か読んでいたのですが、
「97式重爆12機で沖縄に夜間着陸」とか
「北(読谷)・中(嘉手納)飛行場に6機着陸」とか
「北飛行場に1機のみ着陸成功」とか
「中飛行場にも50名着陸」とか
「一部は落下傘降下した」とか
「グライダーで着陸した」とか
「着陸後に再び飛び去った」とか
「沖縄へ突入したのは高千穂空挺隊である」等と諸説があって、是非とも詳細を知りたい部隊のひとつでした。

その夜、帰宅してからビデオを再生。さて、どんな内容だろう?
晩飯でも食いながらゆっくり観るか……、とリモコンの録画再生ボタンを押した途端
いきなり、あの川南の塔がTV画面に写りました。

何で義烈空挺隊の番組にあの塔が?
慌てて音声のボリュームを上げました。


番組は、沖縄で戦死した義烈空挺隊員の遺族と不時着帰還した義烈空挺隊の元曹長とが、あの塔の下で再会するシーンから始まりました。
元空挺隊員、遺族や報道関係者の証言を交えながら、川南出身の義烈空挺隊員が遺したノートを元に、出撃に至るまでの経緯が淡々と語られていきます。

その中では、あの塔の建設に従事した方々の証言も取り上げられていました。
番組の解説によると、あれは落下傘部隊兵舎の給水塔であり、図面を含めて現在に至るまで大切に保存されていたものなのだそうです。

DSC00669_R - コピー

川南給水塔の施工図より
地上高 27.37m
地耐力 1平米あたり20t
A 
・水槽 高さ 5.45m 直径 7.35m
B 
・梯子用踊り場 長さ 1.7m  幅 1.2m 手摺高さ 96cm 
・排水枡 實施ニ際シテハ踊場直下(塔内)ニ設ケルモノトス
C
・検査口 幅 75cm
・換気口 直径 60cm×7箇所
D
・筒部 水槽下端まで 高さ 21.75m
・筒上部 直径 5.8m コンクリート厚 15cm
E
・筒下部 直径 7m コンクリート厚 30cm
F
・地中基礎部 直径 13m 盛土 75cm


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給水塔横の道路に沿って、かつては挺進第3聯隊(高千穂空挺隊)の兵舎が4棟並んでいました。

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塔上部にある水槽。完全な円筒形ではなく、一部が妙に膨らんでいるのが分かります。

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塔東側上部。塔頂へ登る梯子と踊り場、点検口が設けられています。

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塔東側基部。排水枡が併設されています。

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地中に掘り下げられた排水枡内の様子。底部へ下りる手摺と給排水用のバルブが見えます。

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塔の周囲には、近年に設置された量水器ボックスなどがあります。

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塔西側上部。塔頂部と塔中部へ4本の鉄パイプが接続されています。

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塔の西側基部。給水管が地中へ延びています。

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塔基部に張り付けてある何かのメーターと、そこから頂上へ延びる電線。塔頂部にはアンテナらしき機器が設置してあるので、その関連機器でしょうか。

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成程。パラシュート降下訓練塔ではなく、給水塔ですか。
そういえば、あの辺は川南湿原があるくらいですから地下水も豊富でしょうね。台地の端からは、尾鈴山地から流れて来た大量の地下水が湧き出ていますし。
同じく台地の上に作られた新田原飛行場では、水源の確保に苦労したのか麓からポンプアップしていました(現在も揚水施設の跡が残っています)。

給水塔だと知って、あの塔に見覚えがあった理由が分かりました。
かつて私が府中で働いていた頃、航空自衛隊の横を毎日通勤していたのですが、その府中基地の給水塔が唐瀬原の塔とそっくりなのです。

府中
航空自衛隊府中基地の給水塔。半分くらいのサイズですが川南の塔と酷似しています。

番組で川南を数十年振りに訪れた元義烈空挺隊員は、「まさかこれが残ってるとは」と驚いていました。サイパン、硫黄島、沖縄と攻撃目標が変更される中、義烈空挺隊が待機していたのが唐瀬原にあった挺進第3連隊の兵舎。
やはり、あの塔は空挺部隊の施設だったのです。

番組は、準師団規模だった陸軍空挺部隊の僅か一個中隊にスポットを当てたに過ぎません。
それでも、川南が空挺部隊の拠点だったと確認するには十分な内容でした。

川南に保存されている空挺給水塔。川南で続けられている空挺慰霊祭。
それらを軍事専門家が取り上げない理由は、ただ単に知られていなかっただけ。
「空の神兵」の遺構が日本ミリタリー界から完全に忘れ去られていて、宮崎県側の情報発信も殆んどナシという事実はとてもショックでした。
まあ、私も知らなかったうちの一人なんですけど。

観光名所にもならない無名の塔など、とっくの昔に撤去されていても不思議ではありません。宮崎空港(海軍赤江飛行場)や日向(海軍冨高飛行場)の旧軍遺構なんか、開発によって次々に解体されていますし。
この半世紀、塔を解体して跡地を有効利用すべきとの意見もあった筈。しかし、幸運にも給水塔は残されたのです。
全国で戦跡が消えゆく中、「よくぞ保存してくれた」と地域の努力に頭が下がる思いでした。

その努力に僅かなりとも応える方法とは、川南町の歴史を広く知らしめること。
空挺部隊がどんな鉄砲を持っていたとか、その装備がどうこうといった話は、これまで通り軍事研究家が発表してくださるでしょう。
私が知るべきは、眼の前の唐瀬原に記された「川南の空挺隊史」です。
しかし、川南と空挺部隊の関係を知りたくても、本屋に並ぶミリタリー雑誌にはそんなローカルネタなど載っていません。
そんな話は載せても売れないのか、ただ単に編集者が知らないだけなのか。まあ、どうでもいいか。

これ以上期待するのは止めましょう。
かわりに県・市町村の郷土史を中心に調べようと、県北から県南までの図書館巡りを始めました。
冒頭で「宮崎は南北に長い」と書きましたが、コレが嫌になるほど長い上に交通網も貧弱なのです(高速道路が漸く西都ICまで開通した頃のこと)。
図書館の閉館時間までに資料を探し終える必要があるので、県北や県南方面は移動が結構大変でした。わざわざ前泊したりして、「せっかくの週末にナニやってんだ俺は?」と自問自答しながらの作業となりました。

何年か続ける内、自治体や地元新聞社や郷土史研究家などによる戦時レポートを幾つも発見。
その中には、川南で訓練していた空挺隊員たちのエピソードが残されていました。
パラシュート事故だけではなく、悲惨な水難事故で8名の空挺隊員が殉職したことも知りました。
その慰霊碑がひっそりと保存されていることや、高千穂空挺隊員と地元女学徒との交流、戦後処理にまつわる秘話まで、軍事書籍では見たこともない記録が多々ありました。

「軍隊視点の空挺隊史」だけではなく、「県政や町政から見た空挺隊史」「地域住民から見た空挺隊史」が存在する。恥ずかしい事に、私はそんな当たり前のことにすら気付かなかったのです。
しかし、その多くは地域史として記録されてオシマイ。
県外へ向けた情報発信は殆んどなされていません。

書籍やネット上では、「空の神兵」が盛んに讃えられています。
しかしあの人達は、浜松で誕生した「河島部隊」がどこでどうやって「第1挺進集団」へと成長したのかは知らないのでしょう。
パレンバンへ降下した部隊がどこで訓練していたのかも知らないのでしょう。
空挺給水塔の存在も含めて。
このまま、川南の空挺隊史は人知れず忘れ去られてしまうのかも……。

次の週末、車で川南へと出掛けました。
いつもと同じ姿で給水塔は草叢の中に聳え立っています。

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【パラシュートの歴史】

様々な資料によると、陸軍落下傘部隊の歴史はこのようなものだったそうです。

ナニが楽しいのか知りませんが、人類は昔から空を飛ぼうと試みてきました。日本人もそうです。
大凧や浮田幸吉の滑空飛行から始まり、明治の玉虫飛行器までイロイロありますよね。しかし近世の権力者は空への憧れを封殺してしまい、それ以上の技術発展は望めませんでした。
気球による日本初の有人飛行は、明治10年の島津源蔵(島津製作所の創始者)によるもの。
明治20年代には、小型気球飛行を披露する見世物興行が数多く現れます。見物料だけとって「気球は故障したから本日の興行は中止」と騙す「飛ばす飛ばす詐欺」が新聞沙汰になったのもこの頃から。
こうした航空技術の導入は、やがて明治43年の航空機日本初飛行へと繋がる訳です。

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レオナルド・ダ・ヴィンチによる落下傘のアイディア 1485年頃

飛ぶのはともかく、「飛び下りる」のが始まったのは何時でしょうか?
レオナルド・ダ・ヴィンチは既にパラシュートの概念図を残していますし、それ以前から様々な降下装置の記録はあります。
手っ取り早くコウモリ傘だの風呂敷だので飛び降りたチャレンジャーも数多くいた筈ですが、たぶん痛い目にあったのでしょう。
江戸時代の絵画にも、唐傘で飛んだり飛び下りたりする人を描いたものは幾つもありますよね。

パラシュートは気球と共に発達を遂げました。
最初は上空の気球から荷物や動物などをパラシュート投下するという見世物的なものでしたが、やがて人間による降下も始まります。
1783年に「パラシュート」と名付けた装置をを開発、実際に降下してみせたのがルノルマン(仏)。
この前後、1617年のベルナチオ(伊)や1793年のブランシャール(仏)などもパラシュート降下に成功していました。
ブランシャールは、事故を起こした気球からパラシュートで脱出した最初の人物でもあります。

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明治23年、スペンサーによる日本初の落下傘降下の図

やがて、パラシュートは日本にも伝わりました。
「落下傘は昭和になるまで日本に存在しなかった」などと言われていますが、これは間違い。
我が国に西洋式のパラシュートが持ち込まれたのは明治23年のこと。英国人スペンサーと米国人ボールドウィンによる気球からのパラシュート降下は見世物興行としておこなわれ、11月12日には明治天皇の前でも披露されています。

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上野公園で披露されたボールドウィンの落下傘降下を伝える絵 明治23年

そして大正11年、日本海軍はイギリス海軍のオードリー少佐を招聘。
霞ヶ浦にてパラシュートの実地訓練を受けました。
少佐の講習に参加したのは、陸軍から飯島工兵中尉、海軍から藤吉中尉、田中少尉、猪刈一等水兵、蓮見一等水兵、民間から日野俊雄飛行士の計6名。彼らによって、日本人初となる繋留気球からのパラシュート降下がおこなわれたのです。

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大正11年、日本海軍による落下傘実演の写真。

やがて航空機の時代が到来し、非常用脱出装備としてパラシュートが配備されるようになります。
昭和2年、立川での航空機事故において中尾純利氏がパラシュート脱出に初めて成功。その有効性が実証されました。パラシュート脱出したパイロットで構成されるキャタピラー倶楽部(キャタピラとは芋虫のこと。カイコが落下傘の絹を作ることから、墜ちても再び空へ飛ぶという意味が込められていました)の日本支部も戦前から存在しています。

ただし、我が国に民間のスカイダイビング愛好家は殆んどいませんでした。
グライダー愛好家は戦前からたくさん居たのに、その辺は不思議ですね。
反対に、民間スポーツとしてスカイダイビングが盛んだった国では、空挺部隊の創設にそれ程苦労しなかった訳です。
パラシュートを楽しむ人が多ければ、空挺部隊の人材確保には困りませんから。
そのような「パラシュート先進国」のひとつが、ソビエト連邦でした。

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ソ連のパラシュート訓練塔

ソ連では多数の民間パラシュート同好会が活動しており、世界に先駆けて空挺部隊も創設。
国内民族紛争鎮圧のため、後方攪乱部隊として実戦投入にも着手しています。
ソ連軍パラシュート部隊については、日本も早くから存在を知っていました。
昭和12年頃までに、ソ連空挺部隊の運用や戦術、降下器材、訓練法、長所と欠点、その対策などに関しては、かなり正確に分析されています。
それだけ仮想敵国の空挺部隊を警戒していたのでしょう。

但し、日本陸軍がこの種の部隊の實地研究に取り掛かるのはしばらく後の話です。

ソ連空挺部隊

一九三三年―世界列強國に率先してソヴイエツト聯邦國は落下傘降下中隊を組織した。
然して其の保有する大威力は全國の宣伝上手と共に少なからぬ驚異を中外の列強國に与へ、大いに新規兵備のために気を吐いたのである。
之を現代に於ける新時代の兵器を利用したる奇襲戦法の結晶に外ならないのは言ふ迄もない事である。
吾等は茲にソ聯國に於ける落下傘中隊の詳細を解剖して、其の真相を明らかにし、該中隊に對する正しき智識と理解を持ち、以て我國國防上の非常時到来を認識し、之に對する良策と國防力強化に努力すべき事を覚悟せねばならぬ。
扨、落下傘降下中隊とは極めて簡単なる説明を与ふるならば落下傘の積極利用に依る急速なる空中機動部隊を謂ひて、換言するならば即ち大型輸送機による兵器、糧食其他兵員の大量輸送を行ひ、一集團部隊を敵地後方地區又は優先地區の占拠―奇襲―等を行はしめ友軍の戦況を有利に導く機會を作る誘因部隊であると言ふ事が出来る。
(中略)
蘇聯國キエフ地方に於ける演習にては
降下高度 標準六〇〇米突
輸送機一台に依る人員 約三五名
降下総員数 九〇〇名
なりき。

蘇聯國に於ける降下中隊員の常備兵力は極めて僅少である。
然るに一朝有事に際しては降下適任証を有する在郷人を急募編成し、多数の強力なる同中隊を組織し得る如くなり居る。
降下適任証は落下傘降下学校、其他同國重要都市各地に設けられたる降下練習塔により、降下訓練を卒へたる後一定の検査試験を通過したる者に下付さるるものである。

降下中隊の優秀點と缺劣點
優秀點
イ 目的地迄の地勢に左右されず、随時運用可能なり。且つ機動性大なり。
ロ 日時を要せず迅速なる攻撃をなし、敵の防御攻撃の豫猶ならしめず。
ハ 決戦の機會を作る。
ニ 破壊力大にして徹底す。
ホ 敵の戦気士気の沮喪力顕著。
ヘ 敵後方地域の一般人民に對する威嚇的降下甚大。
ト 奇襲的降下亦大なり。
缺劣點
1.天候に制限を受くる事あり。
2.空中遠距離輸送による支障。
3.費用莫大
4.戦果を決定し得ず。
5.補給維持困難。
6.犠牲率多大。
7.反撃中心の集中性あり。
友廣宇内「ソヴィエットパラシュート中隊の正體」より抜粋 昭和12年

ソ連空挺隊に関する詳細な内容であり、当時の日本がソビエトの新戦術として警戒していた様子が窺えます。
続いて翌年の記事。

デサント
「大型輸送機の発達と共に空軍は部隊を空中輸送して、これを敵の背後に着陸せしめて活動せしめる重大なる任務を遂行するやうになつた。
赤軍ではこのために専用の空中降下部隊(デサント)といふものが編成された。
先年キエフでこの演習を行つて大成功を収めたと言はれる。敵味方が相對峰して戦ひが白熱化する頃、味方の後方より一空の大型飛行機が戦場の上空を三〇〇〇米以上の高度を保つて飛翔し、敵陣地の後方に至ると各飛行機から二、三名づつの機関銃や火砲を背にした兵士がパラシユートで飛び降り、このパラシユートには特殊の装置があつて地上三四百米まで開かずに急降下し、狙撃を封じつゝ地上に着陸するや携行の機銃砲で敵の背後を攻撃して、敵を一挙に潰滅せしめるといふのである」
写真と文「赤軍読本」より 昭和13年

【河島部隊の誕生】

昭和15年、日本の陸海軍は空中挺進部隊の創設を決定します。
電撃戦の緒戦におけるドイツ降下猟兵(ファルシルム・イェガー)の活躍に刺激されての事でした。
イタリアで誕生したパラシュート部隊は、まだドイツやソ連など僅かな国しか保有していませんでしたが、11月に欧州勤務から戻った井戸田中佐の報告によって軍首脳部はその有効性を認めたのです。

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訓練中のドイツ降下猟兵

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戦地における降下猟兵。膝上まである迷彩スモックは降下時に装具を覆い、パラシュートに絡まるのを防ぐためのモノです。日本陸軍落下傘部隊も似たような降下外被を採用しました。

同月30日には、早くも河島慶吾中佐以下十数名の空挺隊員からなる「浜松陸軍飛行場学校練習部」が誕生。
練習部では、翌年2月20日より降下テストに着手します。
1月に募集された第1次下士官及び将校練習員は市ヶ谷の予科士官学校及び所沢の陸軍航空整備学校で地上錬成、続いて4月に浜松の三方原へ移動して降下訓練を開始しました。

ただ、当初は教材や情報など殆んどありません。教官・練習員とも手探り状態からの出発でした。
ドイツ空挺部隊を視察してきた大島大使が「あの時はこういう格好をしていた」など手真似足真似で演じて見せ、それを元に研究していたと元空挺大尉浪花実氏の証言にあります。
戦局を挽回するための秘密部隊でしたから、当初は防諜上大っぴらに訓練することも出来ず、隊員は大学生に変装して二子玉川の読売落下傘塔で降下訓練していたとか。
海軍の空挺部隊でも同様だったらしく、「海軍落下傘部隊(山辺雅男著)」には、背広姿に変装して二子玉川に通っていた話が出てきます。

讀賣落下傘塔
当時の讀賣落下傘塔

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陸軍空挺隊員は、パラシュートの操作より先に体操を叩き込まれました。降下時の激しい衝撃から身を守るため、強靭かつ柔軟な身体が必要だったのです。

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降下後の戦闘訓練

さまざまな苦労を経て、日本独自の降下方法が確立されていきました。
まずは飛行中の輸送機から顔を出して強風と爆音に慣れる訓練。続いて単独降下、集団降下へとレベルを上げていきます。
当初、空挺部隊ではパイロット用の92式や97式落下傘を流用していました。
しかしこれらは使いにくかった為、予備傘を付属した1式落下傘を新たに採用。
其の他、特別部隊である空挺隊向けに専用の降下装備や武器が次々と開発されていきます。
空挺部隊に支給された降下ヘルメット、降下スモック、降下靴、降下手袋は、パラシュートの紐が絡まるのを防ぎ、着地時の怪我を防ぐ為の工夫が凝らされていました。

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屋内訓練中の陸軍空挺隊員。

テラ銃
前後に分解できる二式小銃。「挺進落下傘」の頭文字をとってテラ銃とも呼ばれていました。
写真は米軍が鹵獲したもの。

100式
分解した百式機関短銃を携行する降下隊員。こちらも戦時中のアメリカ陸軍資料より。
米軍は、戦時中から日本陸海軍空挺部隊に関する詳細な調査報告書を作成していました。戦争後期になると、挺進團の編成はおろか装備や戦術に到るまで把握されていたのです。

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昭和20年7月に米陸軍が公表した日本空挺部隊に関するレポート。

また、かさばる武器は別途コンテナに収納してパラシュート投下となりますが、広い戦場の何処かへ落ちているコンテナを探し出すのは一苦労。
身に付けた拳銃と手榴弾だけで戦わざるを得なくなったケースも多発しました。
それを解決する為、2つに分解する事で降下時にも携帯可能な二式小銃(テラ銃)も開発されています。
降下や物資投下の訓練は試行錯誤の連続であり、戦時を通じて降下技術の研究は続けられました。

降下
陸軍空挺隊員の降下訓練(陸軍航空本部)

6月1日、規模も拡大された河島部隊は東条英機陸軍大臣(当時)の薦めもあって、防諜上の理由から満州の白城子陸軍飛行学校へ移転。
7月8日に白城子へ着任した練習部員は、満州の広野で訓練を再開しました。
この地では最初の殉職事故も発生。
パラシュートの紐が靴に絡まり、初宿曹長が墜落死したのです。

【内地への帰還】

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移動先の白城子飛行場では、すぐさま大規模な訓練が始まりました。広大な満洲では思う存分に降下できるので、物料の投下および回収訓練、集団降下訓練などと、空挺部隊の基礎は急速に固められてゆきます。
しかしすぐに、「遠隔地で交通連絡に不便」「一年の半分は雪に閉ざされてしまう」という地理・気候的な問題が露呈。これでは迅速な出動はおろか訓練すらままなりません。更には三次、四次の新規要員受け入れも不可能となります。
9月になった白城子では、早くも冬の寒風が吹き始めていました。

一刻も早く実戦レベルへ育て上げる為、空挺部隊は内地への帰還を秘かに計画。必要とされたのは、冬でも温暖な気候、広大なパラシュート降下場、輸送機を運用できる飛行場でした。
そして、九州の片隅にある陸軍飛行場が候補地として挙げられます。

候補地は決まったものの、問題となるのが白城子への移転推進者である東条英機大臣の説得。
気難しい大臣が「やっぱりダメだったので内地へ戻ります」で納得してくれるとは思えません。
大陸の冬が来る前に、空挺部隊は内地への移転と大臣の説得に迫られました。

(第二部へ続く)

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空挺給水塔 其の2 〇〇がやって来た日

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太平洋戦争に突入した昭和16年、南方戦線での奇襲作戦に備えて空挺落下傘部隊が川南の唐瀬原地区に創設されました。
司令部は現・川南東小学校付近にあり、隣接して附属連隊(2個連隊)・車両連隊・戦車隊・通信隊・陸軍病院・飛行場格納庫(鉄筋1棟、木骨3棟)・1500m滑走路がありました。
また、現・唐瀬原中学校付近には第4聯隊、現・国立病院機構宮崎病院付近には第3聯隊が創設されました。
「空の神兵」と讃えられ将兵の降下猛訓練がこの唐瀬原で行われ、川南村は一瞬の間に軍都と化したのです。

川南町観光協会 観光ガイド「―宮崎県―かわみなみ」より

一般には「空の神兵」と称される陸軍落下傘部隊。
しかし宮崎県民は、川南に舞う落下傘を別の名で呼んでいました。南方作戦まで、この秘密部隊の存在を秘匿する必要があったからです。
その名称が〇〇(マルマル)。
今では知る人もいない、〇〇と地域住民の関係について解説します。

降下兵3
降下装備をまとった日本陸軍空挺隊員。前面に装着してあるのは予備のパラシュート(主傘は背面です)。
耳を保護するカバーが付いた降下ヘルメットは、邪魔な庇部分の出っ張りを無くしたドングリ型。
膝上まである降下スモックは、降下中に衣服や装具のバタつきを抑え、パラシュートに絡まりそうな箇所を覆うために着用します。このような特殊装備が空挺隊員向けに開発されました。



満洲国白城子で訓練を始めてから僅か3ヶ月後。
長期の積雪により冬季訓練がままならないことを知った空挺部隊は、内地へ帰還のため移転先を探し始めます。

「航空本部では那須とか宮崎県川南の唐瀬原を候補地に挙げて居ました。
そこで私は航空総監部の野中少佐と、宮崎県高鍋の軍馬補充部に飛んで、唐瀬原周辺をくまなく偵察しました。
近くに新田原飛行場が有り、唐瀬原は降下場として最適であると判断しました。
陸軍省に戻って、高鍋軍馬補充部川南分厩を廃止し、牧場を航空本部に移管する決済を貰いました」
藤野憲三著「川南開拓地に生きて」より 元陸軍落下傘部隊少佐田中賢一氏の証言

高鍋軍馬補充部
当時の軍馬補充部高鍋支部の様子。現在は宮崎県立農業大学校となっています。
騎兵部隊は10号線を挟んだ反対側、国光原中学校付近に駐屯していました。

ここで問題となったのが、部隊の満洲移転を決定した東条英機大臣の説得でした。

「その件はうまく運びましたが、移転に付いての大臣の決裁はなかなか貰えず、非常に苦労しました。
軍事課長、軍務局長、陸軍次官を通したのですが大臣が承認されない。
「お前が行け」と言われ、一大尉の身で官邸の大臣室に行き、その時は何か良い事があってご機嫌が良く、「まあ、しょうがない」という事で、やっと決済を貰いました。
南方作戦の準備が急がれていた時期でして、もうパレンバンという地名も出ていました。使うのは開戦直後でないにしても、早く其の準備に掛らねばならない。
使わない積もりなら白城子に放り出して置いても良いが、使うなら早く内地に返せと参謀本部からも強く主張して貰いました。
移転の決定を見たのが昭和十六年八月末で移転は九月初めでした。あれがもう少し遅れれば、パレンバンには使えなかったと思います(〃)」

早くも寒風が吹き始めた9月13日、東条大臣を説き伏せた練習部は宮崎県児湯郡新田村の陸軍新田原(にゅうたばる)飛行場へ移動した。
地域住民から歓呼の声で迎えられた空挺部隊は、北側の川南村にあった軍馬補充部高鍋支部の塩付分厩をパラシュート降下場へ転換。降下訓練を開始する。
やがて久米精一大佐が着任し、空挺部隊は本部、教育部、研究部、材料廠から成る航空総監部直属の「挺進練習部」と命名された。
11月5日には第1―3次の挺進練習部員による「教導挺進第1聯隊」と、降下兵を空輸する専従飛行隊として「教導挺進飛行隊」が発足したのである。

と、いうのがネットや軍事書籍で見かける陸軍空挺部隊史。
あくまで「軍隊側の視点」であって、受入れ先の自治体に与えた大混乱は見事に無視されていますね。
本当に、「地元の人々は諸手を挙げて空挺部隊の転入を歓迎した」のでしょうか?
突然やって来た秘密部隊に対し、宮崎の人々が献身的に協力してくれたのは事実です。
川南で続けられている空挺慰霊祭を見れば分かる通り、その厚意は現在も変っていません。
だからといって、軍の勝手な都合で地域に多大な負担を押し付けたことを無視されては困ります。

巷に溢れ返る「軍隊から見た空挺隊史」ばかりでは不公平ですから
今回は、日本ミリタリー界が見過ごしてきた「地域から見た空挺隊史」について取り上げましょう。

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現在の航空自衛隊新田原基地

宮崎県児湯郡新富町にある航空自衛隊新田原基地。
ニュータバルという珍妙な地名の語源ですが、この地は暲子内親王(八条女院・1137年~1211年)の御領となった800年前から「新田」と呼ばれてきました。
おそらく、「にった」が訛って「にゅうた」になったんでしょうね。
で、新田(にゅうた)の原っぱ(ばる)だから「ニュウタバル」。
近隣地域には古墳群で有名なサイトバルをはじめ、チャウスバルやコッコウバルやカラセバルといった地名もあります。
要するに珍しくもなんともない訳で、同じ児湯郡なら「トロントロン」とかの方がよっぽど変ですよ。

新田原基地の片隅には、「空挺歌碑」という碑が設置されています。
これは、同基地の前身である「陸軍新田原飛行場」に駐屯していた陸軍落下傘部隊を紀念するものです。

空挺歌碑

新田原の碑に題す

大東亜戦争の命運を分けた重大作戦毎に忽然と姿を現わす特攻覆面部隊があった
パレンバンにおける空の神兵奇襲隊 レイテの空に百千の花を咲かせた鹿島香取両空挺隊 ルソンの建武集団と高千穂部隊の悲壮敢斗 
そして沖縄における義烈空挺隊第三独立飛行隊の胴体着陸による全員玉砕等がこれである
列強に後れ昭和十五年に発足した我が空挺部隊は日米の風雲急を告ぐるや陸軍の総力を挙げ之が拡大増強に邁進した
その推進母体たる陸軍挺進練習部が此処新田原に創設されたのが昭和十六年夏で後川南に移る
全軍から簡抜された精兵は高千穂峯の落下傘筑波颪の滑空機と東西相呼応する猛訓練により皇軍随一に鍛え上げられた
その兵力は落下傘部隊四ケ聯隊 滑空歩兵二ケ聯隊 挺進通信 重火器 戦車 工兵 整備各一隊 挺進滑空一 飛行戦隊二で計二万弱に及んだ
空の神兵は次々に第一挺進団 第二挺進団 第一挺進集団となって南征し冒頭の戦歴を重ね 部隊感状六通個人感状五六四名という英霊史上未曾有の特攻玉砕部隊の武勲を樹てたのである
祖国の大事に若い花の命を捧げ盡すを昭和青年の本懐と覚悟した彼等が残し去った歌詩が心ある人の献身を集めて彼等の夢の跡に建ったこの碑に深々と刻まれている
若さは若さを血は血を魂は魂を呼んで久遠に響き伝えられるであろう
こよなく空の神兵を愛された元熊本師団長故菅島高将軍の歌に
勝を信じ海空万里征き果てし
君等の雄心紹がざらめやも
飛び起ちて帰りきませぬ将兵は
南溟に天降りて今も雄健ぶ
雄健びの声のひびきに真新しき独立の国々群り立ちぬ
とある
いみじくも空の神兵を讃え上げて余す所がない
併せ記して題辞となす

昭和四十三年十月秋
中村勇
(※元陸軍落下傘部隊第一挺進団長)

陸軍新田原飛行場は、昭和13年に建設が始まりました。

児湯郡新富町は、児湯郡新田村(にゅうたむら)と富田村(とんだむら)が昭和34年に合併して出来た町。
もともとは2つの自治体だったのです。
新田村の台地上に広がる平野が新田原(にゅうたばる)。長年に亘り、耕作地や養蚕用の桑畑として利用されてきました。
新田原への軍用飛行場建設計画は、昭和12年頃から地元自治体に打診されています。
しかし、その着工手続きは突然に通告されました。

新田村と富田村に宮崎県庁総務部から連絡が入ったのは、昭和13年4月11日のこと。
肝心の両村長が出張中だったことから、事前の調整すら無い「不意打ち」だったコトが分ります。
翌日、慌てて県庁へ駆け付けた両村役場関係者に対し、県総務部長、地方課長、特高課長および陸軍第6師団経理部長らは「新田原への陸軍飛行場建設計画」を通達。
この時から飛行場建設の大混乱が始まりました。

家や耕作地を失うのは村民の3分の1にあたる329名。そして計45戸の住民が立ち退きの対象となったのです。
問題は山積していました。
・土地を失う自作農民の救済
・地主が小作地を売却した場合、小作人の生活救済をどうするか
・該当地域内居住者の移転、移住の問題
・買収価格の決定
・村の中央に飛行場が出来ることで、地域の分断がおきるのでは
・飛行場建設に伴う工事人夫の確保
・軍関係の宿舎の確保
・飛行場の呼称の問題
それに加え、建設予定地には新田原古墳群に属する4基の古墳もありました。新田原は、西都原古墳群に隣接する遺跡だらけの場所なのです。
難航した土地買収料や離作料については、村役場を介する事で13年末には何とかカタが附きました。

飛行場予定地内にある40、42、43、44号古墳に関しては、宮内庁と文部省に申請のうえ、出土品を改葬する条件で史跡指定を解除。
発掘・移設の調査は、西都原古墳群の発掘にも携わった梅原末治京大助教授へ依頼されました。
呆れたことに、発掘作業に許されたのは僅か3日間。しかも、盗掘を避けるため発掘品の収蔵を訴える宮崎県側に対し、宮内庁は頑として改葬方式を譲りません。
発掘を指揮する梅原氏は、「半日に一基宛の調査をすませて、前後僅かに二日で全部を終へると云ふ日程の許に余に滞在三日間の主張を求められた。これは従来の乏しい自己の発掘に対する経験と、本遺跡の一般から推して、殆んど無謀に近い様に見えた」と記しています。
梅原氏が憂慮した通り、発掘作業は中途半端なまま終りました。
飛行場の南側には縮小版の古墳が再建され(現在のお大師山公園内)、出土品はそこへ改葬されます。
住民を立ち退かせ、古代の遺跡を潰し、新田原の飛行場建設は始まりました。

繰り返しますが、新田原は児湯郡新田村にあります。
しかし何故か、20世紀になっても旧高鍋藩のエリアで考えたがる不思議な思考回路の人がおりまして、新田原に完成した軍用飛行場に対しては「高鍋飛行場」の名称案が出されます。
児湯郡新田村と児湯郡高鍋町は、当時から別の自治体なんですけどね。
高鍋町にある軍事施設は、軍馬補充部高鍋支部だけです。

新田村・富田村は、「御国の為だから」と我慢して飛行場建設を受け入れました。
陸軍も立ち退きや勤労奉仕や宿舎の提供といった地域の協力を得て、飛行場建設に漕ぎ付けた訳です。
そうやってワガママ勝手を通して作った飛行場に、隣町である「高鍋」の名を付けるとは。
数々の厚意を踏みにじる、軍部の無神経さに新田住民は憤慨します。
「高鍋は隣町。ここは新田村だ!」という抗議の声が高まり、遂に新田村議会が動きました。
昭和14年11月24日、土屋重雄新田村長は陸軍航空本部長宛への抗議書「新田原飛行場名称ノ義ニ関スル件」を提出。

仰モ吾新田村ハ遠ク神代歴代ノ古跡ニ冨ミ、即チ新田原ニハ畏クモ神武大帝御東征ノ砌、御駐輦遊サレシ御浴湯ノ跡ヲ始メ幾多ノ聖蹟ヲ存シ、殊ニ無数ノ貴人ノ古墳群ヲナシ、隣邑妻町(※現在の西都市)西都原ニ亜ク著名ナル所ナリ。
事変下此ノ崇高尊厳極ナキ新田原ニ、今回陸軍飛行場ノ建設ヲ企画セラル之レ本村ハ素ヨリ我宮崎県トシテ無上ノ光栄トスル所ニシテ、此ノ歴史的且広袤数百町歩ノ高原新田原ノ台地ニ南九州ノ空ヲ護ル空軍ノ拠点トシテ枢要設備ヲ施行セラルゝハ国防上ヨリ解スルモ将又現時世界ノ状勢ヨリ見ルモ、実ニ絶好唯一ノ飛行場タルベク此ノ一大事業ニ関シテハ挙村一致ノ協力二依リ用地買収・家屋移転等円満裡ニ滅私奉公ノ誠ヲ致シ、今日ニ及ビタル次第ニ御座候。
今ヤ工事モ半ヲ過ギ、完成スルノ日近キニアラントス。
邦家ノ為メ洵ニ慶賀ニ堪ヘザル所ニ御座候。
然ルニ仄聞スル所ニ依レバ之レガ名称ニ就テハ地元ノ期待ニ反シ高鍋?又ハ宮崎?等ノ名称ヲ冠セラルトカ。
実ニ晴天ノ霹靂トシ驚愕仕候。
風説正ニ事実トスレバ幾多ノ伝説ト史実ニ富メル新田原ノ地名ハ永久ニ喪失サルゝニ至ルベク、誠ニ遺憾ニ禁ヘザル次第ニシテ、村民ノ失望落胆モ亦想像ニ余ルモノ有之候ニ附テハ新田原ノ光輝アル歴史ニ鑑ミ、是非共新田原ノ名称ヲ冠セラレンコトヲ本村会満場一致ノ議決ヲ経テ請願仕候也。

昭和十四年十一月二十四日
宮崎県児湯郡新田村会議長
新田村長 土屋重雄

陸軍航空本部長殿

しかし翌年1月22日に届いた陸軍航空本部からの回答は、
一、飛行場名ハ「新田原陸軍飛行場」ト命名スル如ク決定セラレタリ
二、分教場ナハ「高鍋分教場」ト命名セラル筈

という意味不明の折衷案でした。帝国陸軍は地図を読めないのでしょうか?

地元をナメ切った態度に新田村議会は猛反発。
26日には「文見た。分教場名称の件につき、緊急村会開会の結果、高鍋分教場の名称大反対あり。考慮請う」の電報を陸軍航空本部へ送りつけます。
28日、騒ぎを見かねた長谷川宮崎県知事も「新田原飛行場ニ附設セラルル飛行学校分教場ノ名称ニ関スル件」を陸軍航空本部へ極秘発送。
県を挙げて新田村への掩護に回りました。

陳者目下当県児湯郡新田村に新設工事中に係る貴管飛行場の名称は「新田原陸軍飛行場」と御命名相成ることに決定致したるやに及聞候処、右は其の所在地に因み洵に結構の次第と被存地元村民に於ても喜居候。
然る処、地元村長の申出に依れば、之に付設せらるる飛行学校分教場の名称は之と趣を異にし、他町村名たる「高鍋」の名を冠せらるる御予定なるやにて、同村民の驚きは一方ならざるもの有之候。
御承知の如く該飛行場は新田村の略中間部に位し、之が設置に依り同村南北間の交通は著しく不便となり、小学校児童の通学上の不便は固より一般村民の来往並物資運搬上不利を齎すこと甚大にして、村治上にも影響不尠処なるも、事国防に関する重要施設なるに因り、あらゆる犠牲を忍び、用地買収に当りては村当局は率先して之が円満解決に尽力し、村民亦一人の異議を称ゆる者なく、急速に解決致したるは全く村当局並村民の該施設に対する理解と努力の賜物と存する次第に有之候。
然るに、自村内に設置せらるゝ施設にてあり乍ら之に他の町村名を冠する名称を付せらるるは同村民として洵に面目なく遺憾の次第にて精神上堪へ難き処に有之目下村民間に憂慮心痛の模様相見に居候。
就ては貴部としても種々御都合も可有之と推察仕候へ共、前陳の事情御諒察相成今後分教場の所在村との関係をも考慮せられ、村民の衷情十分御汲取の上、該分教場の名称は「新田」の村名を御採用相成候様御考慮相煩度偏に御依頼申上候。

敬具

それでも埒が明かなかったのか、上京した土屋村長は軍部に直接訴え出ます。
思わぬ反応に、さすがの陸軍も驚いたのでしょう。
2月8日、第6師団経理部より「新田原飛行場ニ新設予定ノ分教場ハ、爾今「新田原分教場」ト称スルコトニ定メラレタルニ通牒ス」との回答が届き、一連の名称騒動はおさまりました。
このような苦難を経て「新田原」の地名は残されたのです。

(以上、「新富町史」より)

このブログでは、しつこい位に「新田原飛行場は高鍋ではなく新富にある」と繰り返しております。
その理由は、飛行場建設において上記のような経緯があったから。
新田原基地の歴史を語る者は、「高鍋の新田原」などという無神経な物言いを絶対に避けねばなりません。

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航空自衛隊新田原基地上空で編隊飛行中のT-4練習機

部隊の性格上、白城子から新田原への移転は秘密裡に行われます。
児湯郡の各町村は、事前の連絡調整すら拒否する軍の身勝手に振り回されました。

八月、第六師団の将校が児湯郡東部五カ町村長を高鍋の料亭に集め、川南に落下傘部隊を設置することを説明して、労力の提供と防諜に関する依頼をした。
九月、早くも四日には川南に落下傘部隊降下場建設のため、兵三〇〇名が都農駅に到着することとなった。高鍋に出張していた町長がこのことを知るのは、バスで帰る途中のことで「黒木浩日記」には「新名助役一行が軍用自動車にて下名貫甘漬神社鳥居前に来り、予(黒木)はバス上にて言葉を交し聞く」とある。すでに午後二時を回っていたが、三〇〇名分の夜食の依頼を受け、急遽、市街地の婦人会員を動員して準備した。
兵の到着は午前零時過ぎ、荷おろしが済んだのは同三時。
町長、婦人会員の帰宅は午前四時過ぎとなった。
町長はこの日行われる賃貸価格調査員の選挙立ち会いのため、睡眠をとる暇もなく午前七時半には出勤している。
何ごとも軍事優先で事を進めねばならなかった。

先に、軍から落下傘部隊降下場の建設のための町民の勤労奉仕は六日の区長会で配分が計られ、八日の第一日目は三日月原・名貫・篠別府の三地区民一〇〇名が参加した。
また、区長会では憲兵分隊長も来て防諜については厳しく呼び掛けた。
そのため、川南の軍事施設については実名を呼ばず〇〇(まるまる)と呼ぶようになる。

都農町史より

新田原へ到着した空挺隊員は、さっそく訓練の準備に取り掛かります。
九州の片隅へ移転した心境については、このように書き遺されていました。

八月三十一日 月曜 雨後晴
今日も朝から雨が降つてゐる。思ひ返せば丁度一年前、満洲から此の九州へ帰って来た日だ。
高鍋へ著いた時も今日と同じく雨が降って居た。著いた當時は淋しい所へ来たものだと思ったが、もう一年も経てば何とも無い。住めば都よ我里よ。
田畠は水も増してゐる。百姓は喜んでゐるだらう。午後から晴た。やっぱり雨より天気の方が良い。
母、妹より便りが来た。仲々面白い事を書いて来てゐる。今日は浪の音も聞えない。静かだ。

井上祐子編「誠心」より 挺進第1連隊第4中隊井上洋曹長の日記より

「浪の音」とありますが、宮崎へ来たばかりの空挺隊員は宮崎市住吉海岸のオンボロ兵舎を拠点としていました。
殆んどバラックに近い建物で、陸軍空挺部隊では「あの衛生環境で伝染病が発生しないのは不思議である」とまで記しています。

帰国した陸軍空挺部隊では各方面での技術習得や情報収集に注力。その中には、ライバルである海軍空挺部隊の演習視察まで含まれています。
予想される南方作戦まで、残された時間は僅かでした。

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海軍落下傘部隊の訓練風景

【川南の歩み】

やがて、部隊の拡充によって新田原飛行場は手狭となってきます。
昭和18年、挺進練習部はパラシュート降下場がある川南への移動を決定。
川南村一帯には1500メートルの滑走路や格納庫・病院を備えた空挺施設群が建設されることとなりました。
川南村での基地建設に当たっては、元々あった陸軍省用地などを転用します。
高鍋町から都農町にかけては軍馬補充部高鍋支部の用地が点在しており、用地確保は容易と思われたのでしょう。

当時、設置予定地の川南村は広大な松林で覆われていました。現在は開墾とマツクイムシ被害で消滅しましたが、むかしは相当に密生していたとか。
塩付分厩の牧場があったとはいえ建設作業は大変な重労働であり、松の伐採や切株の掘り起し、整地作業も地元にとって多大な負担となりました。

高鍋軍馬補充部3
高鍋軍馬補充部塩付分厩の川南放牧場。この一帯がパラシュート降下場へ転換されました。
現在でいうと、JA果汁工場の裏あたりです。

児湯郡は、古くから高鍋藩によって軍馬の蕃殖がおこなわれてきた地。
高鍋の馬も、明治の訪れと共に大きな変化を遂げることとなりました。

開国によって外国産馬の体格と従順さに驚愕した明治政府は、国を挙げての馬匹改良事業に着手。
陸軍も良質の軍馬を調達するため全国各地に軍馬補充部を設置、大規模な馬の買付け、放牧育成(訓練は行いません)を展開しました。
明治31年、霧島山麓の西諸県郡高原村(現・高原町)にも軍馬補充部福本支部高原派出所が開設されます。

高原派出所は、やがて高原支部へと規模を拡充。
しかしその後、霧島山系の噴火が立て続けに起きて高原支部も降灰被害を受けます。
そのため、明治43年には海沿いの児湯郡高鍋町に「軍馬補充部高鍋支部」として移転しました。

古くは「香田が原」と呼ばれた高鍋北方の台地には広大な原野が広がっており、馬の放牧地としては最適だったのです。
高鍋軍馬補充部は拡大を続け、北側の川南村塩付地区に分厩を増設しました。

川南は、上杉鷹山の出身で知られる高鍋藩の領地にあった村です。
明治4年、廃藩置県で高鍋藩が消滅したことによって川南村は高鍋県へ編入。
美々津県と都城県が合併して「宮崎県」が設置された明治6年に、同県第四大區の所属となります。
当時の川南は人口3000名弱の小さな村落でした。

明治9年8月21日に第一次宮崎県は消滅し、「鹿児島県宮崎支庁」の扱いとなりました。
行政整理を名目とする大政官達第百十二号によって、全国の16県に廃止・管轄替の処置が下されたのです。
「交通・港湾が未発達で一次産業が中心、向上心にも欠ける」と評されていた宮崎県は、大きく発展中の薩摩・大隅に吸収した方が合理的。
そして、薩摩の動きに同調する旧士族が割拠し続けていたことも明治政府が廃県対象とした一因でした。

翌年に勃発した西南戦争では、薩摩軍の転戦と政府軍の追撃によって宮崎も戦禍に巻き込まれました。
戦争が終わっても復興計画が進められたのは薩摩・大隅地方のみ。
戦乱で町や田畑は荒れ、濫発された「西郷札」も紙クズと化した経済困窮の末、行政からも見棄てられたのです。

日向の人々は、自分達の住む地が「陸の孤島」であることを痛いほど思い知りました。
あまりにも不公平な戦後復興策は、鹿児島県令への猛反発を生みます。
やがて、薩摩への親近感が薄い宮崎・延岡・小林方面を中心に独立運動が始まりました。反対に、薩摩との交流が深い都城・佐土原の人々は独立に否定的だったとか。
明治13年、徳島県が高知県から独立したのを見た独立派の有志たちは「日向懇親会」を発足。その規模を日向全域へ拡大していきます。

「県治雨露の恩は薩隅に偏降して、日州は常に涸池の瘠魚たるを免る能はざるなり(「分県の儀追申」 明治14年)」

彼等の請願を、鹿児島県令はにべもなく拒絶しました。
薩閥に占められていた政府や鹿児島県議員に頼る事は出来ません。独立派は上京して長州閥等への仲介依頼といった政治工作を展開。
度重なる請願の却下、鹿児島県会議員への根回し、そして「鹿児島県下日向国分離の建議」を経て分県案は可決されました。

太政大臣より、置県の令が公布されたのは明治16年5月9日のこと。

布達
今般其縣ヲ置キ、日向國諸縣郡ノ内、志布志郷、大崎郷、松山郷ヲ除キ同國一圓管轄セシメ候條、鹿児島縣ヨリ受取方可取計此旨相達候事。
明治十六年五月九日 太政大臣三條實美


こうして宮崎県は復活。
高鍋に児湯郡役所が再設置されたのもこの頃のことです。

鹿児島県とくっついたり離れたり、意外と混乱が続いたんですねえ。いまだに県北・県中央・県南が団結出来ないのも、これが一因なのでしょうか?
旧島津領だった都城市などは「あそこは鹿児島の植民地だ」とか言われたりしますし(言葉も鹿児島弁に近いそうです)。

町村制へ移行した明治22年には川南村と平田村が合併、現在の川南町を形成する地域が成立します。

そのような混乱の時代、川南の開拓は始まりました。
高鍋藩が士族を開拓者として送り込んだ明治初期から、段階を経て開拓は進みます。
唐瀬原の開墾に着手したのは明治14年のこと。
水利権のゴタゴタもあり、これは半年程で頓挫しています。

続いて明治20年には前田正名氏や松浦健太郎氏が川南村内の原野を購入、農場建設に着手しました。その際、四国からも入植者を受け入れていますが、この時も灌漑用水不足などに苦しんだ様です。
国営による大規模な川南開墾事業が始まったのは明治44年のことでした。大正14年には農林省への申請が行われ、昭和14年から5箇年計画で着手。
川南町史によりますと、陸軍の川南進出はこれより早く行われています。
前田氏購入の土地1063町4反7畝8歩は、明治41年に陸軍用地として112938圓15銭で買い上げが決定されます。
買上げは翌42年も続きました。

この陸軍用地が、塩付分厩を経て落下傘降下場となる訳ですね(説明が長くてスミマセン)。

【軍馬補充部と空挺部隊】

高鍋軍馬補充部4
軍馬補充部高鍋支部正門

高鍋と川南に進出した軍馬補充部では、九州産馬の欠点とされた「性格凶暴」「体格矮小」「歩様短切」を改善しつつ、高鍋と川南を優良な軍馬の産地へと変えていきました。
明治初期に来日した外国人から「猛獣」と揶揄され、義和団の乱で出兵した際には「隊伍を組めない」「気性が荒い」「牝馬を見ると暴走する」といった醜態を晒し、各国の騎兵隊から嘲笑された小柄で粗暴な日本の軍馬。
それを改善すべく去勢法の施行となる訳ですが、結局は日露戦争の勃発で頓挫してしまいます。

高鍋軍馬補充部では、去勢の徹底、体罰や大声による叱責の禁止、青草を食べ慣れない放牧転換期に栄養価の高い餌を併用する等の地道な努力を重ねました。
その努力は実を結び、明治末期には温順で体格も改善された良馬が揃い始めます。

周辺の農家から購入した仔馬を育て、第6師団の騎兵・輜重兵部隊に補充するのが高鍋軍馬補充部の役目。ですから、補充部周辺には馬の蕃殖や飼糧のトウモロコシ栽培に携わる多数の農家がありました。
長い間、軍馬補充部と地元農家は共存してきたのです。

その関係が崩れたのは日中戦争がはじまった頃。昭和12年、軍馬の不足から川南の農耕馬200頭が強制的に徴発されました。
戦争による人手不足に加えて馬まで奪われ、農業生産にも影響が出始めます。

そこへ、泣き面に蜂の如く(文字通り)降って湧いた落下傘部隊の移転問題。
大規模な陸軍施設と広大なパラシュート降下場の建設は、塩付・黒坂地区周辺に入植していた人々にとって深刻な問題でした。
地元が軍用地になることは、苦労して開墾した土地から追い出されることを意味していたのです。

この年の秋、軍馬補充部の牧場が整備されて(毎日の様に出没した)落下傘部隊の訓練が始まった頃、“陸軍部隊の兵舎が出来るげな”“飛行場が出来るげな”と、様々な噂が流れ始めた。
何をするともわからず、測量班が毎日の様に行動を始めた。
いよいよ噂は本物になるかと感じられ、次に打つ手を考えねばならぬ様になった。

二杉房次著「八十年を省みて」より 

同じ頃、菅原道大陸軍中将が川南を訪れます。
出迎えた財津吉男村長は「軍馬補充部の視察にきたのだろう」と呑気に考えていました。しかし、実際の目的は落下傘部隊転入予定地の下見だったそうです。
後に、落下傘部隊は菅原中将のもとで実戦デビューすることとなりました。

昭和16年8月27日、熊本師団司令部の経理部長が主任の原主計少佐を伴い高鍋小村第2四季亭に「高鍋町長・山内武玄、木城村長・矢野勝次、都農町長・黒木宏」の3氏と共に、川南村長・財津吉男を呼んで昼食を共にした。
この時、川南村地内に軍の有力なる部隊が設立される。一時的な施設ではなく永久的なもので、近々着工にかかるので協力をお願いする。
特に川南村長にはご苦労をかける事になるので、特別にお願いするとの言葉であった。
何の有力な部隊かとの質問には、今はまだ秘密故言えないとの事。
同9月1日、此地に派遣命令を受けた者ですと尉官級の方が見えられ、実は落下傘部隊が設置されます。
実に大部隊の設置であるとの事、さらに降下場を急いで整備し降下演習をやりたいから、、沢山の作業人員を必要とする。
初めの1週間余日は3百名位、更に1千名、2千名、5千名、1万名、それに第1回降下までは内容は秘しておいて、人員を急ぎ集めてくれとの事

川南観光協会「空挺落下傘部隊」より

余りにも勝手な言い分ですが、地方の小村が軍部の方針に逆らえる筈がありません。
結局、軍事施設の建設にあたって豊原地区24戸、甘付地区2戸、名貫地区20戸、黒坂地区5戸、塩付地区33戸、計84戸もの農家が立ち退きを余儀なくされます。



昭和16年9月。
川南村在郷軍人会川南岩切分会長を中心として、川南空挺基地の建設が開始されます。
延べ1万人を投入した降下場建設は50日で完了。
但し、鉄筋1、木造2の格納庫を備えた飛行場建設には1年半を費やし、しかも富高農学校生と地元住民の犠牲者2名をだしてしまいました。
地域住民も昼間は基地建設の奉仕作業に忙殺され、農作業は夕方から夜間にかけてという過酷な労働を強いられます。

十月 
前月に引き続き川南での作業は続き、最初の降下演習が十二日実施された。「黒木日記」には「〇〇演習挙行」とあり、落下傘降下の文字はない。
さらに、二十八日には、南方総司令官となる寺内寿一大将が来て、大規模な演習が行われている。
十一月
二十七日将校・下士官ら二六名の営外居住者が、町筋付近の民家に下宿を割当てられ、町内はさらに軍事色が強くなる。
三十日は日曜日であったが、町長はじめ役場・学校・銀行などに勤める町内俸給者七三名が、朝七時から午後五時まで降下場整備の奉仕作業に参加した。
この頃、新聞やラジオは日米関係の緊迫を毎日伝えている。

都農町史より

唐瀬原基地の建設にあたっては、戦時の人手不足から工業学校を卒業したばかりの若者達が設計・現場監督を担当しました。
建設作業に従事したのは、県内から勤労動員された人々や学生、建設会社や朝鮮人労働者(計673名)など延人数にして36万5千人。
唐瀬原飛行場が完成後、朝鮮人労働者は故郷へ戻るか、次の現場へと移動していきました。彼らの一部は赤江飛行場の工事にも従事しており、本郷の作業宿舎が空襲を受けた際は犠牲者も出たとのことです。

「戦時中、静かな農村だった川南の唐瀬原に、落下傘部隊飛行場建設のための請負工事に沢山の下請組がきていました。その一つの組に事務員として働いていた私は、一生忘れ得ぬ思い出があります。
私の勤めた事務室は韓国の人が多く、日本名になっている人は日本語も達者で達筆、若い私は優しくしてもらい仕事も楽しくしておりました。
ある日、韓国から都農へ慰問団が来ることになりました。韓国の人々はずっと前から楽しみにして仕事の合間には慰問団のことで話がはずむほどでした。私にも一緒に行こうとお招きがあり、見知らぬ国の唄と踊りを楽しみに待っていたものです」
「たかなべ戦中戦後の体験集」より 水町幸子さんの証言

部隊の水道施設として地下水を汲み上げる6基の給水塔が建てられ、これらは新田原飛行場から飛び立つ空挺隊員の降下目標にもなっていたそうです。

降下兵
輸送機の胴体を模した「機胴台」。

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機胴台からの跳下訓練をおこなう空挺隊員。

【軍都川南へ】

昭和17年、650haの降下場に加えて600haに及ぶ巨大な川南空挺基地が完成しました。
これに伴い、部隊の規模は4個連隊に増強されます。

「第1挺進團」に所属するのが挺進第1聯隊と挺進第2聯隊。
第一挺進團が出撃している間、練習員の課程を修了した追加の隊員で教導挺進第1聯隊及び教導挺進第2聯隊が編成されます。
この2コ聯隊は、「第2挺進團」に所属する挺進第3聯隊と第4聯隊に改編されました。

後から編成された第2挺進團は唐瀬原の仮兵舎に入りますが、やがて本格的な兵舎が完成。
その中の一つが、あの給水塔の場所に設置された挺進第3聯隊兵舎です。
また、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、そして空挺隊員を輸送する挺進飛行隊などの支援部隊も次々と創設されていきました。

空挺部隊が増強されるにつれ、川南に駐屯する部隊は2万人もの規模に拡大。
それまで軍馬の牧場と西部8051騎兵部隊しかなかった川南は「軍都と化した」と町史に記されています。

陸軍空挺部隊の中枢は睦地区、現在の東小学校付近にありました。
今の風景からは想像も出来ませんが、当時はあの場所一帯に挺進司令部及び第1挺進団兵舎、陸軍病院、通信所、格納庫、滑走路といった大規模軍事施設が設置されていたのです。
第2挺進団(挺進第3、第4連隊)は、挺進司令部から南下した10号線沿いに居を構えました。
現在の国立病院付近には第3連隊、唐瀬原中学校付近に第4連隊。
黒坂の交差点付近、10号線から海へ向かっては滑走路が伸びていました。

空挺慰霊碑

陸軍空挺部隊群の所在地および通称は下記の通り。

陸軍挺進練習部(西部第一一六部隊)・第一挺進集団司令部(鸞第一九〇三八部隊)
静岡県浜松陸軍飛行学校→満州国白城子陸軍飛行場→宮崎県新田原飛行場→川南・睦地区

第一挺進団司令部(帥第九九四四部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第一聯隊(帥第九九四五部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第二聯隊(帥第九九四六部隊) 宮崎県川南・睦地区

第二挺進団司令部(威一九〇四〇部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第三聯隊(西部第一一八部隊) 宮崎県川南・唐瀬原地区
挺進第四聯隊(西部第一一九部隊) 宮崎県川南・唐瀬原地区

第一挺進飛行団司令部(鸞第一九一五〇部隊) 宮崎県新田原
第一挺進飛行団通信隊(鸞一九一五一部隊) 宮崎県新田原
挺進飛行第一戦隊(威九九四七部隊) 宮崎県新田原
挺進飛行第二戦隊(鸞一九〇三九部隊) 宮崎県新田原
滑空飛行第一戦隊(鸞一九〇五二部隊) 茨城県西筑波
第百一飛行場中隊(不明) 宮崎県新田原
第百二飛行場中隊(不明) 宮崎県新田原
第百三飛行場中隊(鸞一九〇五三部隊) 茨城県西筑波

滑空歩兵第一聯隊(鸞一九四〇五部隊) 茨城県西筑波
滑空歩兵第二聯隊(鸞一九四〇六部隊) 茨城県西筑波

第一挺進通信隊(鸞一九〇四四部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進機関砲隊(鸞一九〇四七部隊) 茨城県西筑波
第一挺進工兵隊(鸞一九〇四八部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進戦車隊(帥第一九〇四九部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進整備隊(帥第一九〇五一部隊) 宮崎県川南・睦地区

唐瀬原飛行場 宮崎県川南・黒坂地区
落下傘降下場 宮崎県川南・塩付地区


落下傘整備
裏方の挺進整備隊は、命を託すパラシュートの管理を担当する重要な部隊でした。川南空挺慰霊祭にて

訓練
パラシュートの折り畳み方を学ぶ空挺隊員たち。

話を昭和16年に戻しましょう。
降下場が完成した昭和16年秋、先に編成された挺進第1連隊は猛訓練を開始。来るべき出撃へと備えます。
記念すべき唐瀬原への初降下は、下記のようなものだったのだとか。

彼は団本部付落下傘研究部の飛行歩兵少佐だった。武勲輝く勲五等正六位、功五級の旭日章を拝受している。
総司令部団長は最初が久米。次が河島、中村と団長が変った。
彼は茲に一年半駐留したが、新田原から唐瀬原へ飛んだ最初の落下傘訓練の試乗者であった。然も技術研究将校としての降下であった。
輸送搭乗者約十名、まづ彼自身指揮官として自から先頭に立って五名降下した。
背腹に軍装備同様な重さの石を背負い、美々津(みみつ)沖の海上へ降下する実戦訓練だったが、だが生憎台風のあとだけに波が高い。
予定の漁舟が一艘も出漁していなかった。
そこで彼は唐瀬原飛行場へ行き、次ぎ次ぎ降下した。
この時、彼は左手に二ヶ月の重傷。さっそく別府の陸軍病院へ入院治療した。

「川南開拓の記録」より、元陸軍落下傘部隊 谷文夫氏について


新田原にいた頃と違い、川南へ移動後は輸送機が離着陸する新田原飛行場まで通う必要がありました。
空輸担当の挺進飛行隊は新田原に留まっていましたからね。

悪天候時以外、川南の空挺隊員は列車で新田原へと「通勤」していました。
これは軍用列車ではなく、県北から宮崎市方面へ通勤通学する人々も一緒に乗り合わせる普通列車です。
空挺隊員は富田駅(現JR日豊線日向新富駅)で下車してからトラックで新田原飛行場へ。そこから航空機に乗って川南へと戻り、上空からパラシュート降下していたそうです。

縁のない丸い跳下帽をかぶつた兵隊たちは、いよいよ飛行機に乗る(私も跳下する兵といつしよに乗つた)。傘は十分に精密點検を終つてはゐるのだが、なんとなしに気になつて、傘嚢や、付属の金具などのあちこちを皮手袋をはめた手で触つてみる。跳下場がちかづいて來ると、無口になる。生あくびをする者もある。しかし、だまつてゐるとかへつて気分がうはずつて來るので、兵隊達はわざといろいろな雑談をやる。浪花節をうなる者もある。大声で笑つたりするが、その唇はどこか硬ばつてゐてほんとうの笑ひではない。
兵隊は渾身の勇をふるつて精神を統一し、静めようと努力する。跳下場が眼下に見えて來る。跳下用意の合圖のブザーが三つ鳴る。


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扉がひらかれる。自動索の茄子環が機體の内部に張られたワイアにかけられる。茄子環をかける手がこころもちふるえてゐる。
かけた索をなんども引つぱつてみる。眼が血走つてゐる。
「跳下用意」
兵隊ははげしい風圧のなかに両手をつきだし「一、二」と號令をかけて手すりを握る。


降下

「跳下」
叫んだ分隊長は兵隊の背中をたたいた(私の泊つた内務班のある曹長は、ぷつと手に唾をふつつけ「ようし」と大きな声をだして、どんと跳下兵の背なかをどやしつけることで有名である。その班長の動作で跳び下りる兵隊は力を得て空間にとびだすことができるといふ)。
躊躇することは禁物である。
「やあつ」
と掛け声をかけ、両手を高くあげ、四十五度の角度に身體をかたむけた姿勢で、兵隊はとびだす。
その「やあ」はかけ声といふよりも、兵隊の全身が叫び声にかはつてしまつたかと思はれるやうな気魄に溢れた絶叫である。


降下兵6

空間に出た瞬間は無我夢中である。
視力がなくなる。開傘と同時にうけるはげしい衝撃ではつと我にかへる。何回もとび降りると、この開傘までの数秒の時間をながいと思つたり、その短い時間に傘がひらくか知らんと思つたり、自動索の切れるぷつつといふ音が聞えたりするやうになる。
ああ傘がひらいたなと思ふとともに、生きてゐたといふ溢れるやうな生命感が胸によみがへる。
このときのうれしさと誇らしさといふものはたとへやうがない。大空を征服したやうな英雄的な気持になり、胸が張つてみたい。
知つてゐる誰かれに見せたい思ひに駆られるのはそのときである。
同時に空間にぽつんととりのこされたやうな寂寥感にとらはれるのもそのときである。叫びたい衝動に駆られる。


降下

はじめは落ちてゆくといふ感じはなく、浮いて流されてゐる気持。耳のそばでしゆうしゆうと音がする。
豫備傘をすてなければならぬ高さになつて來ると、にはかに大地がぐつとせりあがつて來る。着地の瞬間まで気をゆるめてはいけない。
地に足が着いたときには、ふたたび生きてゐたといふ氣持に心ものびやかになる。なんでもできないことはないといふやうな大きな氣持がわく。まだ飛んだことのない初年兵たちは、無事に降りて來るのを見ると拍手をする。


降下

疲れてゐて身體はだるい。汗がにじみ出てゐる。トラツクで兵営にかへるときには凱旋するやうな気持で、口笛を吹いたり、歌をうたつたりする。
生の圧迫感からにはかに解放された興奮である。


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さいしよはほとんど突きおとすやうにする分隊長と跳下兵とは、生命をあづかりあづける気持のうへに、とくべつの愛情が生ずる。一人前にするために分隊長はいかなる努力もおしまず、また一身上のことや、身のまはりのことまで細かく世話をやいてやるのである。
火野葦平「落下傘部隊」より 昭和18年

空挺部隊の存在を隠すため、付近を通過する列車はシャッターを下ろすなどの防諜措置もとられていました。
まあ、多くの宮崎県民にとっては「公然の秘密」だった事でしょう。
空から舞い降りるたくさんのパラシュートを隠すなんて、どう考えても不可能ですから。

唐瀬原台地の下を通る日豊線はいいとして、問題は台地の上を通る国道10号線(当時は3号線)。
陸軍の秘密部隊が幹線道路の真横で訓練をするという、訳のわからない状況が出現していたのです。
現在でいいますと、川南町役場から都農町方面へ国道を走っていくと、塩付のJA果汁工場裏あたりでパラシュートが舞っていた事になります。これでは軍事機密もヘッタクレもありません。

当然ながら、空挺部隊側では情報を秘匿する必要に迫られます。
なので、ハタ迷惑なことに国道は封鎖されてしまいました。
今も昔も、国道10号線と日豊線は宮崎県の動脈です。その生命線を陸軍の勝手な都合で切断されては堪りません。日向と延岡が孤立してしまいます。

で、苦肉の策として造られたのが、県北へ迂回する代用国道。
10号線からトロントロンの旧道へ入ると、唐瀬原台地をくだって海岸沿いを都農町方面へ抜ける道路がありますよね。アレが代用国道の名残りだったりします。
昭和17年6月1日に80万圓を投じて始まった「カテ一国道付替工事」は台風襲来などで予想外に難航し、全長9949mの迂回道路が完成したのは昭和19年3月11日のことでした。

宮崎縣公報
宮崎縣告示第七十五號農林省高鍋川南開拓建設事業

國道三號線中、左記區間ハ圖面ノ通區域ヲ変更シ、新道及之ヲ接續スル橋梁ノ使用ヲ開始スルト共ニ
舊道及之ヲ接續スル橋梁ノ使用ヲ廃止ス

昭和二十年三月十三日
宮崎縣知事 谷口明三


これと並行して、地域住民に対しては機密保持のための取組みが行われました。

練習部は全員降下者の主義の下に木下中佐以下全佐尉官は降下訓練を受け、降下金鵄章を腕に輝かせて其の英気を自ら振作すると共に、舞台の団結戦力の向上を計ったのである。
防諜のためには単に秘することは空から白傘が下りるので不可能であるから、地方地元の人には部隊を見学させ、好奇心を除いた后に地方外に漏れることを民衆の口から防止する政策を取った所、県外に落下傘部隊の駐屯を秘することに成功した。

空挺戦友会資料より

そりゃそうですよね。

さて、防諜の問題は置いといて。
「切り札」ゆえに、陸軍落下傘部隊の実戦投入は簡単におこなわれませんでした。
華々しい大規模空挺作戦から悲惨な結果に終った特攻作戦まで、戦局の所々でその姿を現す隠密部隊だったのです。軍上層部ですら空挺部隊が何をしているか実際に見た人は少なく、昭和16年10月28日には陸軍省をはじめとする軍高官らを招いて唐瀬原での降下演習が披露されました。
この演習によって、軍内部での陸軍落下傘部隊への評価は高まります。

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降下前、パラシュートの最終点検をおこなう陸軍空挺隊員

「永友有計子先生と生徒代表の五名は、陸軍病院に傷病兵の慰問に出かけることに決まり、私も行きました。
戦局もあまりせっぱつまってはおりませんでしたから、昭和十七年頃の初冬の頃ではなかったかと思います。
その病院がどこだったのかはよく覚えていませんが、たしか軍の車に乗って行ったと思います。
クラスで持ちよった花、はげましの手紙(名前は記入してはいけない。学校の方針でした)廃物利用で作ったお人形、などを持って行きました。
入院患者の殆んどは怪我の人でした(外科病棟に案内されたかもしれません。)
どの病室もいっぱいでした。クレゾールのきついにおいと、殺風景な病室、男の看護人に普通の病院との違いを見ました。
一番初めに入った病室には、足に大きな副木をして、動かないように天井から足が支えてありました。
あまりの痛々しさに驚きました。言葉も出ません。
先生が「お話していいですか。体にさわりませんか」と言われると、その人は嬉しそうにして、いろいろ話されました。
きっと永友先生を、お母さんのように思われたのでしょう。
落下傘部隊の軍人さんでした。降下時に引きずられて複雑骨折だったのでしょう。
飛行機から落下傘で下りるのを、遠くから見ているととても美しく、軽やかにファーッと地上に着くようですが、かなりのショックだそうで、風が強かったりすると予想出来ない事故もあると話されました。
落下傘は相当に厚みのある絹で、とても大きく重量もあるから、引きずられると恐かったことでしょう。
現在のは全く知りませんが、あんな落下傘ではないだろうと思います。
先生が「飛行機から飛び下りるのは、初めはとても心配もあるし、こわいでしょうが、慣れると平気になるのですか」と尋ねられると、「いいえ、落下傘だけは慣れる程、恐ろしさが加わります」と言われたのが忘れられませんでした。
家に帰ってこの事を話すと、母が「可哀想ね」と涙ぐんでいました。
高鍋では訓練時、落下傘が開かないことはなかったが、荷物用のが開かないことがあったそうです。
それだけ人が使用するのは真剣に慎重に、取扱ったのでしょう」
「いのち輝く」より

洋の東西を問わず空挺部隊の訓練は危険が多いもので、日本陸海軍空挺部隊でも負傷者や殉職者を出しています。
陸軍空挺部隊では、白城子での訓練中と宇都宮での天覧演習時に不開傘による墜落死亡事故が発生し、初宿曹長と松浦軍曹の2名が殉職。
使用する降下装備は何度も改修され、より安全性を高めたものとなりましたが、それでも空挺隊員はいつも死と隣り合わせでした。
昭和17年に製作された映画「空の神兵」では、普段より入念に落下傘を折り畳み、友人知人に手紙を書きまくったり、ドイツ空挺隊教本を読みふける者など、初降下を控えて不安げな隊員達の心情が描かれた場面が出てきます。


もし傘が開かなかつたら?
落下傘兵にとつて、それは犬死にひとしい。
落下傘兵は死んではならない。
失敗は成功の基、といふ諺がある。
しかし落下傘兵にとつては、失敗は永久の失敗でしかない。
落下傘兵は死んではならない。
少なくとも目的を貫徹するまでは、断じて死んではならない。
落下傘の降下はあくまで奇襲にある。
落下傘部隊が全滅した場合、特異なその奇襲作戦は根こそぎ覆滅されるからである。
従つて傘は何よりも大切な兵器であり、生命そのものといふよりも、
着地するまではむしろ生命以上のものなのである。

昭和17年2月讀賣新聞掲載「落下傘部隊長徳永中尉手記」より

その落下傘に命を託し、陸軍空挺部隊が最初に実戦投入されたのは、昭和17年に行われたスマトラのパレンバン精油所占領作戦でした。
南方石油資源確保の為、「切り札」が使われる事となったのです。

(第3部へ続く)

空挺給水塔 其の3 パレンバン降下作戦

Category : 第三部・パレンバン奇襲 |

道具小路でも、その他いっぱい若い将校さん方が家を借ておられ、町には偕交社も出来てそんな方々が出入りし、町中兵隊さんの帯剣の音が聞こえて来るような時代でした。

最後に私のうちで下宿したのは武田少佐殿でした。
落下傘部隊の隊長さんです。
口髭をはやして、小兵乍ら非常に磊落で豪胆細心といった武人の典型の様な方でした。うちの家族ともよく馴染まれ、殊に父と話が合いました。父も日露参戦の勇士でしたので通じ合うものが有ったかと思います。
余り長い間お世話しなかったように思いますけど、どれ位おられたのかやがて戦地の方に行かねばならぬ事になりました。奥様も名古屋からまだ乳離れしない小さい嬢ちゃんを一人連れて急いででてこられました。
ささやかな出立の宴をはって皆で賑やかくお送りしました。
どこかへ落下傘部隊として作戦に参加されるということでした。
ずっと後で分かったのですが、有名なパレンバンの落下傘部隊が武田さんの率いる部隊だったのだそうです。
もう戦況もだんだん落ち目になって居た頃のように思います。奥様は大柄でゆったりした方でしたが、慌てず騒がずに御主人を送り出されたあと、片付けが済むと静かに帰って行かれました。
新田原から川南の各地に訓練中の落下傘がパッパッと次々に開き、キラキラと輝いて降下して行ったあの光景が今も夢の様に思い出されます。
武田少佐が征かれたのが何時だったかははっきりしないのですけど、そのあと頃からだんだんと戦局も厳しくなり、防空頭巾を作ったり、防空壕を掘って貰ったり、そしてそれに入ったり出たりし乍ら終戦に向かって不安な日々を送って行ったように思います。

「たかなべ追憶」より 宮崎県児湯郡高鍋町 原郁さんの証言

宮崎県へ移転した陸軍落下傘部隊ですが、新田原飛行場の兵舎では足りず、一部の空挺隊員らは高鍋から都農にかけての地元住民宅に下宿しています。
この武田丈夫少佐もその一人でした。
武田少佐率いる挺進第1連隊は、太平洋戦争が始まると南方へ出動します。
しかし、陸軍初となる空挺作戦はトラブルの連続に見舞われるのでした。

空の神兵
パレンバンに降下する陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊

(第二部からの続き)

昭和16年9月13日。
こうして寒風が吹き始めた満州国から南国の宮崎県新田原飛行場へ移動し、陸軍空挺部隊は猛訓練を再開します。
9月1日に川南村の財津吉男村長へ通告された塩付パラシュート降下場の建設も、作業への住民動員や周辺農家の立ち退き、果ては宮崎県の動脈たる国道3号線(現10号線)の封鎖といった負担を地域へ押し付けながら急ピッチで進められました。
11月5日には教導挺進第1聯隊(後の第1挺進連隊)と教導挺進飛行隊(後の挺進飛行隊)の編成が完結。
「実戦部隊」の形はようやく整います。
そして12月8日、太平洋戦争が始まりました。

緒戦で華々しいデビューを飾った空挺部隊は、やがて劣勢を挽回するための切り札となり、戦争末期には悲惨な特攻作戦に投入されていきます。

今回取り上げるのはパレンバン降下作戦。
まるで楽勝だったかの様に語られるパレンバン作戦ですが、空挺部隊にとっては苦難の初陣となりました。

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新田原エアフェスタにて、航空自衛隊飛行教導群のF-15戦闘機
当初は新田原飛行場(現・児湯郡新富町)を拠点としていた陸軍落下傘部隊ですが、規模拡大に伴ってパラシュート降下場がある北側の唐瀬原飛行場(現・児湯郡川南町)へ移転しました。
陸軍新田原飛行場と唐瀬原飛行場は戦後に農地開放されて消滅。新富町に航空自衛隊新田原基地が設置されたのは、昭和30年代からです。

【第1連隊行動不能】

戦線の拡大により、泥沼の長期戦となった日中戦争。
もはや戦争の目的すら明確ではなくなり、和平交渉も失敗。両国は互いをノックアウトできないまま戦いを続けます。
蒋介石政府への支援を続ける米英に対し、物資輸送(援蒋ルート)を遮断したい日本軍はフランス領インドシナへ進駐しました。
更に南部仏印へと進駐が拡大された昭和16年8月、警戒感を募らせたアメリカは日本への経済制裁へ踏み切ります。周辺に植民地を持つイギリスとオランダもこれに追随しました。
アメリカの石油に頼って戦争をしていた日本は、その石油を断たれるという深刻な状況に陥ります。
そして計画されたのが、アメリカの干渉を退けるための対米戦と南方資源の奪取でした。強大な連合国に刃向かう無謀な行為ですが、中国からの撤退を呑めない日本は新たな戦争を選択したのです。
その戦争に、陸軍落下傘部隊も「切り札」として組込まれます。

日米開戦直前の昭和16年12月1日、陸軍空挺部隊は出撃態勢を整えました。
軍令陸甲第93號により、武田丈夫少佐指揮の挺進第1聯隊、および新原少佐指揮の挺進飛行戦隊に出撃命令が下されたのです。

攻撃目標は蘭印(オランダ領東インド)のスマトラ島パレンバン。
パレンバンにはオランダとアメリカの資本で作られた油田と精油所があり、スマトラ島における産油量の60%を占めていました。
蘭印作戦で南方資源の獲得を目指す日本軍にとっては、最優先で奪取すべき目標です。

対象となる施設は、BPM(バタフセ石油会社)およびNKPM(コロニアル石油会社)の2大精油所、そして12㎞離れたパレンバン飛行場でした。
しかし、地上部隊がパレンバンへ辿りつくには、時間をかけてムシ河を溯上しなければなりません。
その間に油田が破壊されれば全ては無駄に終わってしまいます。ボルネオ島のミリ油田が占拠前に爆破された様に、油田の奪取は侵攻スピードにかかっていました。

そこで発案されたのが、連合軍が破壊するより早く空挺部隊によって精油所を占拠し、後から侵攻した地上部隊が確保するという急襲作戦です。
案の定というか、ムシ河を遡上してパレンバンへ向かった日本軍の船団は、度重なる連合軍機の空襲や河底に仕掛けられた機雷の除去、更にはバンカ島燈台を見誤って反対方向へ針路を間違えたり、水上生活者のフローティング・ハウスに衝突するなど、様々なトラブルによって航行に大きな遅延が生じました。

第一部で田中賢一氏の証言にあった通り、南方油田の奪取に空挺部隊を投入する作戦は早くから計画されていました。
それ故、部隊の練成と増強を急ぐ必要があったのです。あのまま雪に閉ざされた満洲に残っていれば、パレンバンの空挺作戦は幻に終わったことでしょう。
内地への移転は、陸軍空挺部隊にとってまさにギリギリの決断でした。

パレンバン降下作戦2

作戦準備のため、挺進團の木下中佐と弘中大尉はサイゴンへ先発します。
12月9日に宮崎神宮で必勝祈願した挺進第1聯隊も列車で宮崎県を発ち、13日に明光丸へ乗船して門司を出港。挺進第1聯隊は秘匿のため「風九三一七部隊」を名乗り、海路プノンペンを目指しました。

翌年1月3日14時半、海南島沖を航行中の明光丸で火災が発生。
途中、大連で積み込んだ焼夷弾が発火したのでした。消火に失敗した明光丸は炎上沈没します。

「乗船して何回か非常呼集で避難訓練が実施されていた。
そして明けて一月三日の十四時頃、非常呼集のラッパが鳴る。また訓練かと皆は思っていた。
装具を身につけ甲板上に集合していると命令受領が帰って来て、弾薬庫に火災が発生したので各中隊から消火班を編成して本部に出せと言う。
しかしその消火班も間もなく帰って来た。
最早消火不能になったので各中隊は海に跳び込む準備をせよと言う。
火薬に火がつけば大爆発となるので、一刻の猶予も許されない。身につけた装具類は全部はずして軍靴も脱ぐ。
小銃等の兵器類も甲板上の一カ所に集められた」
斉藤正之氏の証言より

救命胴衣を身に着けた空挺隊員達は、突撃ラッパと共に落下傘降下よろしく荒れる海へと飛び降りていきました。
海上を数時間漂っていた挺進第1聯隊員は、幸いにも駆けつけた「香椎」「吹雪」「占守」「辰宮丸」に全員救助されます。
このとき遭難救助された第1聯隊員の中には、後に第2剣作戦部隊指揮官となる園田直中尉や義烈空挺隊指揮官となる奥山道郎中尉がいました。

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園田隊が日頃参拝し、隊旗を授かった住吉神社。フェニックス自然動物園の隣にあります。

蘭印作戦が開始された1月11日、巡洋艦香椎はタイに到着。
盤谷(バンコク)へ上陸した第1聯隊ですが、装備や降下機材一式が海没してしまった以上どうすることもできません。
何とか金辺(プノンペン)に辿り着いたものの、日用品にすら事欠く状況でした。
更には、船旅の途中でパラチフスに集団感染していた事が発覚。
プノンペンでは、延500名が入院するという惨憺たる有様となってしまいます。

パラチフスの被害は深刻で、挺進第1連隊は行動不能へ陥ります。
感染者には消毒剤が投与されたものの、1月12日には第2中隊の木下軍曹(25)が腹膜炎で亡くなり、続いて19日には第3中隊の伊藤伍長(24)も命を落としました。

7日に新田原飛行場を飛びたった挺進飛行隊は、各地を経由しつつ19日にプノンペンへ到着。
しかし、降下兵が動けない以上作戦実行は不可能でした。

訓練

「挺進第1聯隊行動不能」の電報に、宮崎の挺進練習部は大騒ぎとなりました。追加の降下器材を第1聯隊へ届けると共に、増援部隊の派遣が決定されます。
そこで急遽指名されたのが、1月1日に編成を完結した挺進第2聯隊でした。

【挺進第2連隊出動】

新たな連隊を作るため「機動部隊要員」の追加募集が始まったのは前年秋のことです。
陸軍の所沢整備学校で選抜・体力訓練を終えた新入隊員は12月8日に所沢から新田原へ移動。
こうして編成された挺進第2聯隊は、ようやく2週間のパラシュート降下訓練を完了したばかりでした。
そんな新米部隊へ出撃命令が下されたのです。

同期生の将校と映画を見に行つて、下宿に帰ると、おばさんが心配そうな顔をして待つていた。
「あなた方は、明日、はじめて降下されるのでしよう。どうか、これを体につけて行つてください」
差し出されたものを見ると、成田不動のお守りだつた。
「そうだ、明日は飛びおりるんだつたな」
私たちは、忘れていたのを思い出したように笑つたが、おばさんの温い心づくしは涙が出るほと嬉しかつた。
このおばさんは、ほんとうに心の優しい人だつた。これは、その後のことだが、猛訓練に疲れ帰ると「さあ、お風呂がわいていますよ。早くお入りなさい」そう言われて、風呂場へ行くとお湯には誰もまだ入らぬのか、あか一つ浮いていない。
「みなさんは、おすみになつたのですか」と聞くと
「いいえ、私たちが先に入つては勿体ないではありませんか。みなさんが、国家のためとはいえ、あんな危い訓練をうけておられますのに、何もしない家の者が先に入つては罰があたります」そういう返事だつた。
また、ある日は「今日も、お降りになりましたね。おかげでお部屋のお掃除に、朝から昼までかかりましたよ」
おばさんは笑いながら言つた。よく聞くと、座敷を掃いている時、家の上を九機編隊の飛行機が飛んできた。見ていると、たちまち空に白い花のように落下傘が散つた。
おばさんは、私たちの無事を祈りながら、箒を持つたまま、何時間も、その日の訓練を見ていたのである。
さて、そのようにして、最初の降下訓練を終えた私は、おばさんから頂いたお守りを身につけて、家を出たのであつた。

唐瀬原への初降下訓練にて、挺進第2聯隊小隊長 大島隆少尉「パレンバン大降下作戦」より

第2聯隊所属の各個人は軍隊経験があるとはいえ、所詮は他部隊からの寄せ集めに過ぎません。
まだ組織も固まっておらず、戦闘能力については未知数です。

幸いにも、前年末から徳永悦太郎中尉以下数十名の空挺隊員が保土ヶ谷精油所へ教育派遣されており、第2聯隊もパレンバン精油所確保に関する技術を得ていました。

この保土ヶ谷精油所での研修には、民間人の格好をした将校数名も参加しています。
彼等が何者なのか、誰一人として知る者はいませんでした。

「私たちは、まず内地の石油工場を見学して、どんな機械があるか、それが壊された時、どうしたら早く修繕できるかということなどを、詳しく勉強した。それから、蘭印から帰つて来た人について、向うの風俗や習慣や気候のことを聞いたり、また地理を調べたり、マレー語を学んだりして作戦の準備を進めたのである。なにしろ少い時間でそういうことを全部やらねばならなかつたので、体がいくつあつても足りない忙しさであつた(同上)」

降下兵1
攻撃訓練中の日本陸軍空挺部隊。手前の隊員は火炎放射器を携行しています。

1月9日、挺進第2聯隊が慌しく出撃準備中の新田原飛行場に、保土ヶ谷の研修に参加していた将校達が現れます。
彼等の正体は、スパイ養成機関である陸軍中野学校の出身者。
パレンバン精油所の安全確保や現地住民の宣撫工作の為、空挺部隊へ派遣された特務隊員だったのです。
軍人らしからぬ長髪の中野出身者は、空挺隊員から「あれで戦争ができるのか?」と不審がられたのだとか。

中野組は全員が落下傘降下を志願しましたが、未経験者ばかりという事で空挺部隊側は降下させないと決定。
予想外の展開に、中野学校の星野鉄一少尉は独断で行動に出ます。
保土谷精油所での演習で顔見知りだったBPM精油所占拠部隊班長の徳永悦太郎中尉に仲介を頼み、甲村連隊長に落下傘での降下を直訴したのでした。
その熱意に負けたのか、甲村少佐は星野少尉のみに降下を認めます。
残る米村中尉らは、後続着陸機に搭乗となりました。

昭和17年1月12日、挺進第2聯隊は宮崎を出發。
福岡の門司で機材の積込をおこない、15日には高岡丸とハーブル丸に乗って出港しました。
編成が完結してから僅か2週間での出動ですから、隊員がお互いの顔と名前を覚えたのも出港後のこと。
「新米部隊」は、こうして船旅の中で団結力を高めていきます。

ドラがなつた。
いよいよ出航である。輸送船ハーブル丸は、静かに動き始めた。
甲板の上では、兵隊たちが、ずらりと並んで、もうこれが国の見おさめになるかもしれないと、移り動く関門港やその背後の山々をむさぼり眺めている。
横浜や神戸のはなやかな出航とはちがつて、さびしいといえばいえたが、兵隊たちは元気一杯である。
戦場へ、戦場へと、心は飛んでいるが、しばし故国と別れるのだと思うと、目の前にあらわれる小さな漁船ひとつさえが、親しい人のように、別れが惜しまれるのである。玄界灘の潮風は、頬をそぐように冷たかつた。岬の燈台も白々として、一層冷たい感じで、近くには、海鳥一羽舞つていなかつた。
沖へ出るにしたがつて冬の海は荒れ、たくさんの白い羊がむれているように、白波がかけまわつていた。
征くは南―。船首はぐつと南を指している。
兵隊たちは甲板からだんだん姿を消し、それぞれ自分の船室へ入つた。船室といつても兵隊と兵器を積んだ船である、かいこ棚のようにしきつた狭い場所に、ゴザが敷いてあるだけだつた。
むつとした油臭い熱気が、機関室の中から流れてくる。しかし、兵隊たちは平気だつた。
「今度は支那さんと違つて、相手は手ごわい米英だ。思い切りのめしてやらなきや」
私は小隊長であつた。
船で初めて部下と対面した。
おかしなようだが、それまで、部下と逢う機会がなかつたのである。十二月八日、大東亜戦争が始まるとすぐ、私は動員され、部隊を編成したり、兵器を整えたりする仕事に当つた。そうして東京へ出張するように命じられたのである。
その留守中に、私の隊は編成され、帰つて来てから、それを引きついだので、船に乗るまで部下の顔も知らなかつたのである。
挺進第二連隊第四中隊の第一小隊、それが私の指揮することになつていた。だから、私は船が沖へ出て少し落ちつくと、部下とあつて身上調査を始めた。
まず、名前顔を見くらべて、よく覚える。それからそれぞれの特技を知るといつたように……。

大村隆少尉


臺湾を経由し、両船は1月28日にカムラン湾へ入港しました。
物資を揚陸した第2聯隊は2月2日にプノンペンヘ到着。現地の第1挺進團主力と合流し、パレンバンへの出撃準備に入ります。

こうして追加装備を受け取ったものの、挺進第1聯隊は依然として行動不能。
初陣へと向かう第2聯隊を、第1聯隊員は無念の思いで見送りました。

2月11日、マレーのスンゲイパタニ飛行場へ移動した第2聯隊は、最終の機材整備、偵察写真を元にした降下計画の立案、そして戦闘訓練を重ねます。
中野学校の星野少尉も、地上でパラシュート降下の基礎を叩き込まれました。

13日、準備を終えた空挺部隊は出撃基地であるカハン飛行場へ移動。
すべての装備を整えて出撃の時間を待ちました。

パレンバン降下作戦6
出撃前、2月11日の午後に開催された「開傘祭」。
パラシュートを積んだ祭壇を前に無事開傘を祈願する挺進第2連隊員。

大空に夢を託した川原正雄軍曹(児湯郡高鍋町 奈良県出身)はパレンバン攻撃に参加した生き残りの一人。
十七年一月三日、出撃命令が下った。
隊長は甲村武雄少佐。十二日高鍋駅を出発。門司港、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て二月十三日、前進基地のマレー半島ペナンへ。
隊員六百人のうち二百十人があす出撃と決まった。
その夜バラックの兵舎で神酒を飲み、食べられるだけ食べた。
のどがカラカラに乾き、胸がつまる。
翌十四日早朝、残留部隊の一人々々と握手、“遺品”を預けた。

毎日新聞「激動四十年」より

宿舎はそのゴム林の真中に建てられてあつたが、戦前はゴム園の苦力監督だの、支配人だの、おもだつた者が住んでいたのであろう。しやれた西洋建築の平家だつた。
「今夜は最後の酒宴だ。みんな飲んで大いに祝つてくれ」と私が言うと
もう部下たちは「はい、小隊長がそう言われるだろうと思つて、もうちやんと準備しておるんであります」
パイナツプルの罐詰だの、ミルク、コーヒー、マンゴー、パパイヤ、ウイスキーと、いろんなものが忽ち山と積まれ、それを取り囲んで祝宴が始まつた。部下たちはにぎやかに歌い、元気に語つた。
だれも、今日を限りの命であるかもしれない。武運がなければ、私だつて戦死するであろう。もとより、みんなはこの落下傘部隊に入つた時から一命を捧げている。今さら覚悟をきめる必要はない。
だが、いよいよ戦友と別れる日が来たかと思うと、何とも言えない気持ちが湧いてくるのである。
私は宴がすむと部下を一人一人自分の部屋に呼んだ。遺書を書かせるためである。
「自分は兵隊になつた時に、父母とも最後の別れをして来ましたから今さら遺書など必要ありません」
そんなに言う兵隊もあつたが、ともかく隊員全部の遺書を、自分の大学ノートに書かせた。それが終つたのはもう夜の十一時すぎであつた。
それから自分一人になり、所持品をきちんと始末して、蚊帳の中にもぐりこんで眠りについた。
四時起床。
まだ真暗である。マレー時間では、夜なかの二時なのだ。
ローソクの灯を外に洩れないようにして、私は拳銃に弾をこめた。安全装置をとればいつでも射てる。手榴弾も安全栓を取れるようにした。準備はできた。
部隊は飛行場へ出発した。そこは闇の中で、ごうごうとプロペラが唸つている。
整備兵は今日の歴史的出発に、一機でも故障があつてはならないと、夜の目も寝ずに手入をしてくれたのだ。
タタタタ!
飛行機の機関銃が火を吹いている。これも大事の場合に備えて試射をしているのである。
日中は焼けつくような暑さなのに、夜明け前の風は身に沁みるほど冷たい。南十字星は椰子の梢にかかり、懐かしい北斗七星も低くゴム林の上にある。宝石をちりばめたような美しい星空であつた。
部隊は集合を終つた。
全員宮城に向つて遥拝する
(大城隆少尉)

【パレンバンへ】

昭和17年2月14日午前7時。
カハン飛行場に終結した挺進第2聯隊員に対し、第1挺進團長の久米精一大佐から
「今や汝等は神兵である。
本作戦は南方蘭印作戦の天王山であると共に
この天王山なる作戦、日本最初の作戦に参加する最も光栄ある部隊である。
必ず目的を完遂しなければならぬ」
との訓示がありました。

日本陸軍初となる空挺作戦は、こうして始まったのです。

パレンバン2

パレンバン3

搭乗
挺進飛行戦隊の一〇〇式輸送機に乗り込む空挺隊員。尾翼には落下傘部隊のマークが描かれています。

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挺進飛行戦隊の1式貨物輸送機(ロ式)に乗り込む空挺隊員。ロ式はトラブルが多発していた為、陸軍空挺部隊では南方作戦中に使用を止めました。
しかし、ロ式を返納する最終フライトでも墜落事故が発生。挺進飛行戦隊のパイロット2名が殉職します。

落下傘を背負った空挺隊員らは次々と輸送機のタラップを上り、午前9時にはカハンを離陸します。
飛行第64戦隊の護衛の下、挺進飛行戦隊3個中隊及び第12獨立輸送中隊の空挺隊輸送機計36機、物資投下の重爆一個戦隊、援護の戦闘機2個戦隊27機の編隊はマラッカ海を越えてスマトラ島の海岸線沿いに南下。
陥落寸前のシンガポールからの黒煙立ち込めるバンカ島ムントク上空で11時前に変針します。

蘭印軍側も日本軍の動きを察知し、ムントクの無電塔からは「日本軍の大編隊来襲す」の放送がスマトラ全土に発されました。

パレンバンに駐屯する連合軍は、蘭印軍(オランダ兵および親オランダ派の現地兵)と英軍を合せた陸水空計約2000名。
飛行場には戦闘機や爆撃機も配備されていました。
空の上で迎撃を受けていれば、護衛があるとはいえ空挺部隊も大損害を蒙っていたことでしょう。
しかし、これらパレンバンの連合軍機は海路接近しつつある日本陸軍第38師団の迎撃に忙殺されていました。
14日も朝から爆撃任務のため出払っており、日本軍空挺部隊の接近時刻には攻撃を終えてパレンバン飛行場へ帰投中。
空挺部隊も眼下を飛ぶホーカー・ハリケーン戦闘機を目撃していますが、相手は敵に気付かないまま雲の中へ姿を消します。

パレンバンの連合軍が対空戦闘配置についた時、洋上爆撃を終えた味方戦闘機が次々と帰還。
そこへ、ほぼ同時に日本軍の編隊が現れます。
連合軍側にとっては余りにもタイミングが悪過ぎました。
敵味方の飛行機が一度に飛来した為、パレンバン飛行場は大混乱に陥ります。

日本軍の戦術を見誤り、航空機での迎撃にも失敗した事は連合軍にとって致命的でした。

パレンバン精油所
上空から見たパレンバン精油所の全景。手前から社宅街、BPM、NKPMの各施設となっています。
中尾中隊の各攻撃隊は、画面右手の湿地帯に降下。
精油所外周に配置されたオランダ軍と激しく交戦しました。
御覧の通り飛行場と精油所はムシ河の両岸に分かれている上、BPMとNKPMの両精油所もムシ河の支流で分断されています。
パレンバンへの攻撃は、複数目標に対する同時降下という困難な作戦。
降下地点は平坦な地形なのですが、部隊間の連携が阻害されることも予想されていました。

かういふ状態では各隊の統一ある戦闘が出来ない。
部隊長殿はこれを顧慮して三人組の戦闘を強調された。
どんな事があつても兎に角三人集まるまでは戦闘をするな。四十七士の三人組の制度で訓練をした。
これが半面において、敵に我が兵の企画行動を全く察知せしめなかつた。
少数の人員によつて五、六十名から二百名の敵に對して戦闘してゐる。
精油所付近の地形は路はアスフアルトだが、それ以外は膝まで没する湿地である。

讀賣新聞掲載「パレンバン攻略落下傘部隊 徳永部隊長談」より 

各目標に対しての降下編成は下記のとおりでした。

目標 パレンバン飛行場およびパレンバン精油所
【挺進飛行隊(降下部隊輸送)】
ロ式輸送機、百式輸送機 各18機

【重爆戦隊(物料投下)】
97式重爆 27機

【青木飛行團隷下(直掩)】
加藤・中尾戦闘機隊 2個戦隊
瀬戸軽爆戦隊 1個戦隊
中浜偵察隊 1個戦隊

【聯隊本部団長機(強行着陸)】
久米挺進団長 稲垣副官 斉藤通訳 通信係上田大尉 荒木カメラマン 第十六軍参謀井戸田中佐

【パレンバン飛行場攻撃隊(落下傘降下)】
飛行場南 聯隊本部 挺進第2聯隊長甲村少佐以下17名
       通信班 小牧中尉以下30名
       第4中隊 中隊長三谷中尉以下97名
       第2中隊第3小隊 水野中尉以下37名 
飛行場西 第2中隊 中隊長広瀬中尉以下60名

【精油所攻撃隊(落下傘降下)】
保土ヶ谷精油所で特殊訓練を積んだ第1中隊が担当。
NKPM精油所 第1中隊第3小隊長谷部少尉以下39名
BPM精油所 第1中隊 中隊長中尾中尉以下60名

【予備戦力】
第2次飛行場降下部隊 第3中隊 中隊長森沢中尉以下96名(第一派には参加せず)


日本軍の編隊は低く垂れ込める雲を潜るようにしてパレンバンへ侵入。
そして11時26分、空挺隊員は一斉に降下を開始します。
高度は通常の半分以下、僅か200mの低空でした。

最初の降下が実戦でのぶっつけ本番となる中野学校の星野少尉も、徳永中尉、中尾中隊長に続いて機体から飛び出しました。

徳永悦太郎中尉
「いざ降下する事になったが、これがなか〃むづかしい。
飛行機は、〇〇キロの速度で飛んでゐるのだから、少し早くてもおそくても、目的地點に降下出来ない。
それに、なるべく團つて降下しなければいけないですからね。
そこで私は、じーつと地上を睨んでゐたが、精油所の煙突の煙で風速を考へ、飛行機の速力と考へ合はせた上、日頃練習の勘で、よしツと思つた瞬間、扉を開けてビユーツとひどい風鳴りがする中を「俺に続け!」とばかり、真ツ先に降下した。第二番目は、全然未経験の工作班員(※星野少尉のこと)であつたが、なか〃剛胆の人で、少しの躊躇もなく降下しましたよ
秦みさを
「どれ位の高さからでございますか?」
徳永中尉
「はつきり云へないが、かなり低い所からですね」
小河原みゑ
「あの、私達が造つた落下傘が、一つでも開かなかつたり、破れたりしやしないかと、私達はとても気がかりでなりませんでしたが」
徳永中尉
「みんな完全に開きました。破けたのも一つもありません。いはゞ大成功したのも、一つは皆さんのお蔭です。みんなが感謝してをりますよ」

「まあ、うれしい」
山田キヨノ
「あの、降下された場所は、どんな所でございましたか」
徳永中尉
「ひどく草深い湿地で、私は土着民の家と家との間に降りて、胸ほども水に浸りましたが、泳ぐやうにして上り、ひどい所は船で助けに行つて、急速に一ケ所に集結しました。敵は、初めは爆撃だと思つて防空壕の中に入つたらしい。それが人間の爆弾だつたものですから、非常に慌てたのですな(笑声)。
向ふには四百人位の兵が居つたらしいが、高射砲でバンバン射ちまくつて来た。その中を我々は、悠々ふはり〃と降下したです」
「パレンバン落下傘部隊の奮戦談を聴く」より、挺進第二聯隊徳永中尉と藤倉航空工業女子工務員との座談会

連合軍兵士は、爆弾ではなく日本兵が降りて来るのを見て驚愕します。
慌てて降下兵を狙い撃ちますが、銃弾はパラシュートに風穴を開けただけでした。空挺隊員は大した損害も受けずに地上へ降り立ちます(降下中にハーネスの脱落で1名戦死)。

日本側にとって誤算だったのは、偵察写真で草原だと思っていた降下地点が深い湿原だったこと。
この湿地帯が最後まで空挺隊員の行く手を阻む事となります。

パラ

パレンバン

パレンバン降下作戦
パレンバンに降下する空挺部隊(陸軍航空本部)

パレンバンの上空は、空挺隊員を降下させる日本軍機、必死に退避を図る連合軍機、何も知らずにパレンバンへやってきたイギリス軍機で混乱の極にありました。
そこへ日本軍の戦闘機が襲いかかり、英軍はハリケーン2機を撃墜されます。組織だった反撃も出来ないまま、連合軍戦闘機はゲルンパン飛行場へ離脱していきました。

いっぽうの日本軍も無傷ではありませんでした。
パレンバン飛行場上空では、物資投下任務にあたっていた飛行第九十八戦隊の輸送機が対空砲に被弾。
エンジンから出火しながらも物資投下を終えた直後、失速して飛行場脇の墓地へと墜落しました。
その際、須藤直彦中尉以下搭乗員7名が戦死しています。

挺進飛行隊でも、空挺隊員を降下させた輸送機1機が被弾します。
この機体はなんとかカハン飛行場まで帰還しようとしました。しかしマラッカ海峡を越えたところで力尽き、センガラン付近のジャングルへ墜落。
操縦していた相澤准尉と安田伍長が戦死します。

降下兵
パラシュート投下されたコンテナから武器を取り出す空挺隊員。
降下時に所持できるのは拳銃と手榴弾くらいでしたから、大型の銃器は別に降ろす必要がありました。

戦闘の経緯については昭和17年2月の讀賣新聞掲載「パレンバン攻略落下傘部隊 徳永部隊長談」で詳細に述べられています。

軍の命令によると、なし得れば石油会社を取れといふ事になつてゐる。
吾々としては、特に若い者としては、なし得られぬ事はない、何とかしてやるといふ事で石油会社の攻撃に立つた譯だ。
この付近一面はジヤングルだ。
パレンバンの石油タンクが見えるこの付近に入つた。すると高射砲が十門近くあったが、胴體にカンカンと音がする。
曳光弾であるから光が見えて綺麗だ。下を見ると、猛烈な湿地で湖のやうに見える。
それを注意しつゝ飛行機が入つてゆく。降下をするのを見る暇もない。
三叉路があつた。これを見た瞬間に私は飛び降りた。
私は傘を開いた瞬間に、須藤中尉機が火を発して落ちるのを見た。あの操縦で見ると、先づ最後まで生きてゐたのでないかと思う。
家と家が非常に密集してをるので、下を見たり残りの者を見てゐる中にもう五メートル位になつた。
家を除ける暇も無く家の上に降りた。道路上に集結せよというので直ぐ集まつた。敵の直ぐ付近だから兵器を取りに行かうとした所が、眼の前に落ちてゐたから兵器(を)全部持つて来た。
十一時四十分、後の方に私の小隊が降りてゐる。
その時は人員の計算をする暇もなく、十一時四十五分直ちに走り道路上に行つた。


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パレンバン上空にて降下中の空挺部隊

広い湿地帯へ分散して降下した空挺隊員たちは、個人で、または少人数のグループに分かれて戦闘を開始します。
投下された武器のコンテナを見付けられず、拳銃と手榴弾だけで戦った兵士も少なくありませんでした。
途中で味方と合流しつつ、湿地帯を抜け出した隊員は目的地を目指します。

輸送機は脚を出し、速力を落としていた。時速二二〇~二五〇粁だ。
ビイ、ビイ、ビイー。ベルが鳴つた。
降下準備だ。いよいよ来たぞ。さつと殺気がみなの顔に走つた。
私は高さをはかつた。高度二五〇米、風の向きと早さを調べた。降下する場所に、焼けつくように目を向けた。
ゴム林の中に風呂敷を広げたような赤土が見える。
「(パレンバン)飛行場はあそこだ。みんないいか」大声で叫ぶと「ハイ、大丈夫です」みんなニツコリ笑つて答えた。
気強い。先を行く部隊長機と中隊長機は、密雲の中から出たかと思うとどんどん下つて行つた。
ビイ、ビイ(降下用意)
ビイ(降下)
目の前をパツト白いものが流れた。降下したのだ。私も戦頭に立つて降下口へ出た。
敵の高射砲と機関銃は物すごく射つてくる。彼方では味方の爆撃機がさかんに爆撃しているのであろう。黒煙がもうもうとあがつていた。
私は真先に飛びおりた。パツと傘はうまく開いて、ポカリと風をはらんだ。飛行機の爆音に慣れていた耳に、今まで聞えなかつた弾丸の炸裂する音が聞えてきた。
シユルシユルと、耳をかすめてゆく機関銃弾もある。
私が降下しているところは、密林の側の沼地であつた。密林の木々の枝にガサガサと傘がひつかかり、降りたと思うと、胸のへんまで水に浸かつてしまつた。
部下たちの目印のために色眼鏡をかけ、口に扇子を咥えて降りたが、それは捨てた。
水から上つて付近を見わたすが、部下は一人もいない。まず敵情を探らねばと思い、双眼鏡で偵察しているうちに、二人、三人と部下が集つてきた。
だれも物料投下機からおろした兵器を持つていない。探したが見つからなかつたのである。
「物料がなくては苦戦する。もう一度探してこい」
すでに友軍は戦闘を開始しているのであろう、銃声が盛んに聞こえてくる。私は、一刻も早く前進したいと思いながらも、兵器がなくては苦戦をするので、気を落ちつけるために、どつかり坐つて煙草をふかした。
しばらくすると部下が帰つてきた。ありがたいことに、兵器は機関銃をはじめ全部そろつていた。ただ私の軍刀は、むりをして箱につめていたので、先が少し曲がつている。
それを抜きはなつてサヤを捨て、先頭に立つた。
軍刀で密林を切りひらきながら進むと、敵の高射砲陣地があつて、いきなりダーン、ダーンと水兵射撃を浴びせてきた。
敵の姿はよくわからないが、高射砲だから横の方から攻撃しようと、密林を縫うようにして行くと、そこには本隊の奥村中尉が部下を指揮していた
(大城隆少尉)

日本兵が散り散りに降りてしまった為、オランダ軍側も敵の位置を把握できなくなっていました。
思わぬ場所から姿を現す日本兵に対し、効果的な反撃などもはや不可能。こうして、パレンバンの各所で激しい遭遇戦が展開されます。

強力な火器と兵力を備えた蘭印軍でしたが、奇襲を駆使する日本軍空挺隊員に苦戦を強いられました。
たった3名で襲撃してきた日本兵を大部隊と勘違いし、戦わずに退却した連合軍部隊まであったそうです。

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パレンバン飛行場での攻防。川南空挺慰霊祭にて

パラシュート降下に続いて久米挺進団長機も強行着陸を図りますが、上空を旋回するうち目標を外れていきます。何とか着陸できたのは、パレンバン飛行場から10km以上離れた湿地帯でした。
団長機の様子については、同乗していた荒木カメラマンの証言が残されています。

いよいよ目的地の上空に來た。
雲を割つて低空姿勢に移つた。忽然と姿を現はした奇襲。機はいよいよ高度を下げる。
こゝで編隊は分進をはじめた。一はパレンバン精油所へ。一はパレンバン飛行場へ。又一は……、それぞれの任務に向つて突き進んでゆく。
地上の地物一つ一つが手にとる様だ。
左前方に飛行場が見え出した。私は咄嗟にカメラを向ける。フアインダーを通して高射砲、高射機関砲の閃光がパツパツと鮮明に見える。何の恐怖も無い。
夢中でこの一瞬の記録を残さんことばかり。
あゝせめて二百呎アイモが欲しい。いまの百呎を一分間で撮影修了すれば萬事休すである。次のフイルムを入れかへてゐる間に戦闘が終つてしまふ。
はるか彼方に、一團の主力が、海月の様に降下してゐるではないか。
ぐつと機體が降下姿勢をとつた。力一杯縛帯にしがみついてゐる。グワツと緑の平坦地らしいものが迫つて來た。
降下ツ!
とたんに、ガーンと大きな衝撃が來て頭から冷たいものをかぶつた様に感じた。
「皆無事か」
「全員、異状は無いか」
部隊長が声をからす。全員無事だ。一人として微傷だも負ふてない。
「野崎、御苦労だつた」
太い力強い声と共に、軍刀をしつかと握つた部隊長の姿は機外に消えた。私も續いて飛び出した。
着陸した場所は?
一面の湿地帯である。丈なす萓が密生して先に降りた部隊長以下の姿もかくれてしまふ許り。ゆうに一丈以上もある。

陸軍報道班員映画班 荒木秀三郎「落下傘部隊急襲記」より

水没した機体から脱出した久米団長、井戸田参謀、荒木カメラマン、中野学校要員、野崎飛行士らは、敵と交戦しつつ甲村連隊長との合流地点であるパレンバン飛行場を目指しました。

この湿地帯を脱出する間に、アイモとフイルムを不覚にも水にぬらし、爾後の撮影不可能となつたことは遺憾の極みです。
これも天なり命なりと諦めてゐる次第です。カメラマンがキヤメラを取られては、武器の無い兵隊です。
然し、私はすぐに、この戦闘に参加出来た只一人の報道部員といふことを思ひ出しました。
文は拙くとも、字は下手であつても、この目で、この耳で、直接に見聞きしたことを、お送りするのが私の義務だと考へました。発表の折は加筆削除のお手数を御願ひします。

荒木報道班員から陸軍航空本部西原少佐にあてた手紙より

胸までつかる湿地帯、しかも密生した藪の中を掻き分けながら、久米団長らは味方をさがして進みました。
余りに深い藪のため、井戸田参謀が途中ではぐれてしまいます。完全に道を見失った彼は、丸一昼夜ジャングルを彷徨する派目になりました。

われわれの強行着陸した場所は、一面の湿地帯で、水深は一米二三十はあつただらう。
濁つた水は胸の上まっで來るし、水底は泥沼の様に靴が、ぐすつぐすつとめり込んでゆく。一歩一歩、足元に注意しながら、お互ひに連絡をとつて進まうとするが、行動は著しく制限をうける。
一丈以上もある萓が針の様に密生して、ともすると前の人を見失ひさうになる。こゝで一行とはぐれては、敵地の真只中だから、どうなるか位は判りきつてゐる。
前方のみに気をつけてゐると、いつの間にか、足の方が留守になつてのめらうとする。足元に氣を取られてゐる中に前の人はもう大分進んで、僅かにガサ、ガサツと萓を分ける音だけが残つてゐる。
「荒木、大丈夫か」
先頭を行く部隊長が、大きな声で叫んで下さつた。
「大丈夫です」
私も同じやうに大声で怒鳴り返した。
「荒木、キヤメラを水につけたら駄目だぞツ」
また違ふ声が聞えた。
「ハイツ」
幸ひにも水はだんだんと浅くなつて腰のあたりまでになつた。しかし、水底の泥は却つて深まつて來た。
その上に萓の根が足にからみついて一層歩き難い。
バサツ!
今、部隊長が注意して下さつた許りぢやないか。私は泥に足をとられて、不覚にもつんのめつてしまつた。
命よりも大切な筈のキヤメラもフイルムも完全に水浸しだ。素早く起きたつもりが、萬事休す。
私は實際大声をあげて泣きたかつた。
「馬鹿野郎!お前は何のためにこゝまで來たのだ。不注意なばつかりに最後のドタン場で……」
私は、私自身を叱りつけて見たが、そんな事でどうにもならない。水にぬれたアイモをぢいつと凝視めるより外に仕方がなかつた。
「どうした荒木、躓いたのか」
すぐ前の上田大尉が立ち上つてこちらを見てゐる。
「済みません。ぬらしちやいました」
と私はアイモを前につき出した。
「怪我はなかつたか。怪我さへなければそれで良い。心配するな、ほんとに怪我をしなかつたか」
部隊長がわざ〃立止つて親切にも声をかけて下さつた。
「済まない、済まない、みんなに済まない。銃後の人にも済まない」
一時は途方にくれたが、諦めるより外はなかつた。そして又一行の後に續いたのであつた。
われわれ部隊本部の一行は、パレンバン飛行場に向つて進んでゐる。
小銃の音、機関銃の音、それにまじつて大砲の音さへ聞えて來るが、われわれはまだ部隊の主力と連絡がとれない。丈なす萓に妨げられて右も左も皆目見えないのである。
「盛んにやつとるのう」
たゞ一言、部隊長の口から洩れた。しかしいまだに部隊の主力と連絡のとれてゐないその胸中はどうだらう。私にはそれがはつきりと判る気がする。

荒木報道班員


【パレンバン飛行場の戦い】

パレンバン飛行場攻撃部隊は、飛行場の周辺地域に降下しました。
「攻撃部隊はパレンバン飛行場に直接降下・占拠した」などという戦記物も見かけますが、飛行場へ増援部隊が降下したのは戦闘終了の翌日です。おそらくメナド降下作戦と混同したのでしょう。

甲村連隊長率いるパレンバン飛行場南側攻撃隊は、18機に分乗した180名。続いて、物資投下の第98戦隊の重爆15機が続きます。
飛行場西側に降下したのは、広瀬中尉率いる6機に分乗した60名。続いて重爆3機が物資を投下しました。
パレンバン飛行場の高射砲陣地は、日本軍機に対して激しく応戦します。

飛行場攻撃隊主力は森の中へ降下してしまい、お互いの連携がとれなくなりました。
甲村連隊長が掌握できたのは第4中隊のみ。既に地上での戦闘は始まっていました。最初に交戦したのは、機体ドア故障で降下が遅れた第4中隊の奥本小隊。パレンバン市郊外の街道に降下した彼等は、通りかかった敵装甲車部隊と遭遇したのです。
奥本小隊から敵が接近中と知らされた甲村連隊長ですが、何時間経っても通信班と水野小隊の67名は姿を現しません。
甲村連隊長は部隊集結を諦め、第4中隊長の三谷中尉に飛行場へ向かうよう命じます。
ジャングルを抜け出した第4中隊は敵の大部隊と遭遇し、激しく交戦。十数名の死傷者を出しながら第2中隊との合流をはかります。

パレンバン降下作戦3
密生した湿地帯の中を進む空挺隊員。

飛行場西側を攻撃する第2中隊60名が降下した場所は、背丈ほどに生い茂った草原の中でした。
ブッシュを掻き分けながら飛行場へ向かった彼等は、周囲に配置されていた高射砲陣地群と遭遇。戦闘の結果、蒲生中尉以下7名が戦死しました。
広瀬中隊長が集めた第2中隊の10数名は飛行場附近に到着、そこで第4中隊と合流します。

両中隊がパレンバン飛行場へ突入しようとした時、3名の連合軍将校が白いハンカチを振るのが見えました。
空挺部隊側も水野、奥本、和田中尉が進み出て、交渉が開始されます。

そのうちに事務所内から一人の英人将校がひよつこり顔を出して手招きするではないか。
それを認めた奥本隊長は、てつきり降伏の相談だと思つた。不思議に敵から一發も射たない。
「よしツ、俺が行つて來るから、合圖をするまで、射つちやいかんぞ!」
と云ひ置いて、鞘を拂つた日本刀をしつかと右手に握りしめ、悠然と事務所に近づいて行つた。緊張の一瞬である。
「無條件で降伏するのか」
英語は苦手であつた奥本隊長は、事務所まで歩く前にこの言葉を考へ考へ行つたのである。
「お前達こそ降伏したらどうだ。お前達は人数も尠ない。いくら頑張つても所詮は負けるんだ。早く手を挙げて捕虜になつたらどうだ」
と英人将校の答だ。
これを聞いた奥本隊長は
「何を云ふか。お前達こそ降参せい。シンガポールも陥ちてしまつた今、何を云つとるんだ。降参するなら今の中だ」
と捻じ込んだが、埒があかない。
「お前達が降参しろ!」
「いや、お前達こそ降参しろ」
痺を切らした奥本隊長は真赤な顔をして
「よし、それでは又攻撃だ。だが戦争は正々堂々で無ければならぬ。俺は又自分の陣地へ帰るから、この刀をかう云ふに振る。それまでは休戦だぞ。但し、卑怯に射つて來るならそれでもよろしい」
と云ひ切ると同時に、くるりつと背を向けてノツシ、ノツシと帰つて來た。しかもたゞの一回も振返りもせず、味方の陣地へ帰りつくと、大きく刀を頭の上で三四回振り廻した。
同時に、双方から銃撃が起つたのである。


こうして一度目の交渉は決裂します。
二度目の交渉も「戦力の少ない日本が降伏しろ」「援軍の船団がムシ河を溯上中だ。そちらこそ降伏しろ」と平行線を辿り、イギリス軍将校は三度目の打ち合わせのため飛行場へと戻っていきました。
しかし、次の交渉はなかなか始まりません。イギリス軍が戻ってこないのを不審に思った空挺隊員らがよく見ると、飛行場の敵は車列を組んで脱出の真っ最中。
敵は交渉で時間を稼ぎながら、ゲルンパン飛行場への脱出準備を整えていたのです。
日没まで睨み合っていた飛行場守備隊数十名も、空挺部隊が突入する前に撤退していきました。
19時、機関銃の猛射を加えながら空挺部隊は突撃を開始。飛行場の占領に成功しました。

「貴様の語学で、よくそこまで話が出來たのう。下手な英語で、身振り手振りで談判しとつた貴様の様子が目に見えるやうだぞ、アハ……」
部隊長は大きな声で笑つた。
傍で聞いてゐた私も、つい釣り込まれて笑つてしまつた。

荒木報道班員

第4中隊と別れた甲村連隊長らは、分散降下した部下を掌握しつつ飛行場を目指しました。
パレンバン飛行場を占拠した第2・第4中隊と甲村連隊長が合流したのは、21時を過ぎた頃のことです。通信班は投下された無線機を回収したものの、着地の衝撃で全てが故障。翌日10時過ぎに第15獨立飛行隊の偵察機が着陸するまで、後方基地はおろか精油所攻撃隊との通信も杜絶状態となってしまいます。

パレンバン降下作戦
パレンバンのBPM精油所を巡る戦闘。奥に見えるのがNKPM精油所。川南空挺慰霊祭にて

【BPM精油所の戦い】

飛行場攻撃隊が苦戦していた頃、BPM精油所へ降下した60名も激戦を展開していました。
中尾中隊長らは、精油所南側に投下された機関銃を回収。湿地帯を抜けて精油所への接近をはかりますが、精油所の外周に配置された敵トーチカは激しく応戦します。銃撃戦の影響か、貴重な石油タンクまで炎上し始めました。
一進一退の中、古小路小隊の掩護射撃を受けた徳永中尉の第1小隊が前進を開始。
徳永小隊と古小路小隊は、13時に精油所西南側の社宅街へと突入しました。社宅街でも連合軍守備隊が立ちふさがり、戦況は膠着状態に陥ります。
正面からの突入が無理だと判断した徳永中尉は、側面へ迂回して敵のトーチカを掃討していきました。

道路の角々にはトーチカがある。ここに入る時にトーチカから非常に射撃を受けた。
所がオランダ人といふ奴は○○○(自主規制です)、必ずトーチカの正面しか銃座をおいていない。
横からトーチカを手榴弾を発火させて投げて歩いた。撃つた瞬間に中が破裂した。
それから○○名位の人員で社宅に向かつて前進し、先づ事務所を取つた。
それから技師その他重要書類を没収して、中を清掃した。
社宅を前進している中に、大體一個小隊位の敵が逐次やつて来た。そこでこの付近を攻撃しながら前進した。何しろ社宅で敵がよく知つてゐる上に、社宅の家の長さが短いものだから、覗くと眼の前で撃たれて死んだといふのが非常に多い。


パレンバン
BPM精油所に掲げられた日章旗

14時頃に精油所を占拠した徳永中尉は、勝又曹長らに日章旗を掲げるよう命令します。トッピングへ登って行く日本兵を阻止する為、オランダ兵は猛射を加えました。
勝又曹長は脚に重傷を負ったものの、日章旗の掲揚には成功。
これによって日本軍の士気は上がりました。

この徳永中尉と一緒に無事地上に降り立った星野少尉は、マレー語を駆使して自分達が敵ではない事を精油所職員に伝え、日本軍への協力を呼びかけます。
精油所の技術者らは、突然始まった戦闘にパニック状態。しかし施設を急停止する事もできず、銃撃戦の中を右往左往していました。

これはいかぬと戦死者を社宅の中に安置して、負傷者を連れて前進を決心した。
この道路を下りこの附近に(中尾)中隊長と合し、このトツピングの所へ行つた。
所が彼等はここで(※日章旗を掲げた時点で)戦争が済んだものと思ひ、マレー人にコーヒーを貰つたり煙草なんか吸つて遊んでゐる。
それで「俺達は戦争しに来たんだ」、「これから戦争か」、「さうだ」といふ譯である。
中の精油所を見たら非常に完全で「お前達は破壊装置してゐるか」、「してをらん」、「それぢや安心だ」

空挺部隊は19時から突入を開始しますが、蘭印軍側の逆襲で撃退されます。
それから明け方まで、BPM精油所を巡る戦闘は一晩中続きました。

少数と見て逐次敵がやつて来るからそこで攻勢に転じ兵営の線まで敵を攻撃した。
この際戦死者一名を担架を提げながら敵を追払い又防空壕の中に入つたが、夜暗くなるに連れて又やつて来た。
これを攻撃してゐる間に敵は迫撃砲を撃ち出した。
それがこの附近のパイプに當りパイプから油がもつたのが、次の迫撃砲で火を吹き出して猛烈な煙が揚がる。
十八時頃から一寸顔を出して見ると、大體防空壕の周りを二百位の兵が取巻いてゐる。
所が彼等は統一ある戦闘をしてをらない。前の方を撃ってゐる時には後ろは決して撃たない。
安心して顔を出す事が出来る。
然し夜暗くなると同時にどんどん近寄つて来る。大きな聲で盛んに降参しろといつてゐる。
そこでむかつき何だこの野郎といふ譯で、又兵隊を一緒に連れて手榴弾を投げた。向ふも投げる。
大體こちらが二発投げると向ふは十発投げる。
九時頃から夜明の午前の三時頃まで手榴弾戦を繰返した。
所が防空壕に入ってゐたからこの戦闘では死傷者はない。
兵隊は前々日から飯を食つてゐないし水がなくなつた。
重油がこの前に浮んでゐたが、その重油の水を浄水器に入れて飲んだ。


翌朝4時頃には敵の銃火が衰え、対岸へと撤退し始めます。
午前8時、中尾中隊主力がBPM精油所へ突入して戦闘は終結しました。

パレンバン降下作戦5
分散降下した隊員らは、地上で次々と集結して行きます。後方は鹵獲したオランダ軍の大砲。

【NKPM精油所の戦い】

ムシ河の支流を挟んだ対岸では、NKPM精油所占拠部隊39名が苦境に陥っていました。

NKPMは湖のような湿地帯に囲まれており、長谷部隊はそこへ降下したのです。
水深は1~3mもあって身動きがとれず、投下された武器も大部分が水没。
しかも向う岸の精油所へ渡る唯一の道路には、連合軍の守備隊が陣取っていました。
何とか道路へ這い上がった長谷部小隊ですが、水上の一本道ゆえ身を隠す場所がありません。じりじりと匍匐前進を試みるも、敵の猛射がそれを阻みます。
更には、敵状を偵察していた長谷部小隊長が被弾戦死。指揮官を失ったことでNKPM攻撃隊の作戦は完全に頓挫しました。
双方が睨み合いを続ける中、明け方になって(「降下当日の夕刻」との説もあり)精油所のタンクが突如として爆発炎上。
対岸へと撤退する連合軍が、日本軍へ渡すまいと爆破したのでした。
これにより石油施設の80%が焼失してしまい、NKPM無傷占拠は失敗に終わります。

現代の日本で喧伝されるのは「パレンバン降下作戦は大成功」「ほぼ無傷で施設を占拠」という内容ばかりで、NKPM攻撃隊の苦戦はあまり知られていません。

火災がおさまった両精油所には、途方に暮れるオランダ人技師だけが残されていました。

【パレンバン制圧】

ひと晩中続いた戦闘の後、連合軍はパレンバンを放棄します。
飛行場を占拠した久米団長らは、連絡杜絶状態となった対岸の精油所占拠部隊を案じていました。パレンバンを目指して航行中の陸軍部隊も、降下した空挺部隊からの連絡が一向に入らない事で不安を募らせます。
飛行場には翌15日正午から友軍機が着陸し始め、偵察機の無線機を利用して後方との通信が回復。また、航空機による負傷者のピストン輸送も開始されました。
精油所上空を飛んできたパイロットの報告により、中尾中隊の戦闘が終結していることも判明しています。

十四日九時、我落下傘部隊がパレンバン飛行場に向つて○○基地を飛び立つた旨の入電があつたが、其の夕方には何か快方が無ければならない筈だが何も無い。
「無事到着」の入電のあつたのは、あの陰鬱なる気分の去つた十五日の二十時頃だつた。
此の通知の飛来するのを一時間千秋の思ひで待つて居たのである。と謂ふのは、若し飛行場が甘くとれなければ、勢ひ我々の上陸も困難が豫想せらるゝからである。
此の通信の遅くなつたのは無理からぬことで、落下傘の飛行場付近に着陸したのは十一時頃であつたが、周邊の〇〇〇〇に〇〇に降下したので、集結の終つたのは夕方であつたと云ふ。
場所は叢林地帯であり、剰へ湿地帯の為飛行服を着て胸迄ぬかるみに這入り込み、隊長は木に引懸る等、又は僚友相互に「オーイ」と呼んで「オーイ」と返事があつても泥田の様な湿地帯のぬかるみで声ばかり聞えても姿は見えぬ。三々五々集結するのにも言語に絶する困難があつたと云ふ。
十五日には先遣隊の一部が○○河々口の〇〇〇島に上陸成功の電報が十六日に到着したので、これでやれ〃一安堵する。
先遣隊の主力亦○○河口より〇〇に移乗し、敵爆撃機の掃射を冒しつゝ河口より〇〇粁のパレンバン河港に上陸成功したのは十六日であつた。其處に至る手前三十粁の要地には守備兵営や砲塁等の設備があつたが、既に我軍の大勢に抗し難く當日したのである。

陸軍獣医中佐 佐藤亮太郎「我が軍馬のスマトラ南進記」より

13時には増援の第3中隊96名が飛行場へ降下し、直ちに足立中尉以下3名の斥候をパレンバン市街地へ派遣。
市内の発電所と給水施設を確保した足立中尉らですが、既に連合軍の姿はありませんでした。残る第3中隊主力が前進を開始すると共に、第2、第4中隊も鹵獲したトラックに分乗して後に続きます。
こうしてパレンバン住民を巻き込む市街戦は回避され、無血占領に成功。18時には第3中隊の古土井少尉らが対岸へと渡り、精油所占拠部隊との連絡も回復しました。
20時過ぎにはムシ河を溯上して来た歩兵第229聯隊がパレンバンへ上陸し、空挺部隊と合流しています。

ムシ河々口から十粁も進行した頃からパレンバン方向には二箇所黒煙濛々として白中の天を焦がして居るのが見られた。
目的とした油が全部やられたかな等と心配し乍ら遡江したのであつたが、十七日の十五時頃世界に名のあるパレンバン製油所の前を通過したのであるが、タンクの諸所からは凄い火焔と共に黒煙を吹き上げて居たのである。
其の後も敵機の襲来により再び燃え上がったが、全く煙の無くなつたのは爪哇(ジャワ)の落ちた三月以降であつた。輸送船内の馬匹が揚陸したのは二月二十一日から二十五日迄の間で、特に遡江間は両岸の叢林の為船内の通風は全く無い。氷も残り尠なくなつて居るので一日も一時間も早く揚陸を渇望して居たのであるが、パレンバン河港には〇―○隻の輸送船が投錨することが出来るのみで、投錨した船の全部を揚陸する迄は次の船は揚陸することが出来無いので、意外の日数を要したのである。

陸軍獣医中佐 佐藤亮太郎「我が軍馬のスマトラ南進記」より

尚、まる一昼夜ジャングルをさ迷っていた井戸田参謀は、15日の昼前に飛行場へ辿り着きました。

パレンバン飛行場
15日、占拠した飛行場へ降下する増援の第3中隊。

中野学校の星野少尉は精油所へ潜入し、爆発物が無いことを確認。続いて後着の同僚たちと合流し、宣撫工作を展開します。
戦闘を恐れてジャングルに逃げ込んでいた地域住民は、連合軍の撤退を知ると同時にオランダ人住宅へ殺到。制止しようとする日本軍を押しのけ、手当たり次第に略奪します。威嚇射撃で追い散らそうとするも、「これまで受けた屈辱の鬱憤晴らしだ!何が悪い!」と抗弁される始末でした。

中野学校の特務隊員らは「協力する者には危害を加えない」「拾った武器は届出るように」と書かれたポスターを貼りまくり、その旨を地域の住民に説いて回りました。
もうひとつ役立ったのが、インドネシア各地に古くからある「白い馬に乗った天使が空から助けに来る」という伝承。
人々は、この予言を日本軍のパラシュート部隊のことだと思い込みました。
これらのお蔭で、突如空から降りて来た外国軍隊に対する住民の態度は友好的なものとなります。宣撫工作に成功したことで、無用な犠牲も出さずに済みました。
僅か数名ながら、中野学校の果たした役割は大きなものがあったのです。

ひととおりの宣撫活動を終えた星野少尉らは、別任務のためにパレンバンを去っていきました。
中野学校と空挺部隊は、これから3年後に再び協同作戦を行う事となります。

パレンバン降下作戦4
占拠した精油所で打ち合わせをする陸軍落下傘部隊員。暑さのためか軽装ですが、降下ヘルメットを被ったままの隊員もいます。

パレンバンを占拠した空挺部隊は、戦死者と行方不明者の捜索を始めました。
戦死者を荼毘に付したあとの20日には、現地で臨時慰霊祭を開催します。残る行方不明者は、輸送機から降下したまま消息を絶った上野軍曹と鴨志田曹長の2名のみ。
長い大陸勤務で中国語が話せる徳永中尉は、現地の華僑に日本兵戦死者のことを訊ねて廻ります。
23日、パレンバン市街で子供達と遊んでいた中尉に、ある中国人少年が「日本兵が墓に埋められているよ」と教えてくれました。
BPM精油所で運転手をしていたその子の親に案内させたところ、墓地に埋られた鴨志田曹長の遺体が見つかります。
鴨志田曹長はひとりで敵と交戦して重傷を負い、捕われる直前に拳銃で自決。
連合軍に遺体の処理を命じられた住民は、曹長を墓地に埋葬していたのでした。

残る行方不明者は上野軍曹ただ一人。
しかし、その後の捜索でも軍曹の發見には至りませんでした。

パレンバン作戦における空挺部隊の戦死者は下記の通り(※死因欄等は省略します)。

挺進飛行隊
・第1中隊
相澤茂男准尉(28)
安田秀司伍長(25)

挺進第2聯隊
・本部
椎屋鉄男准尉(26)
菊地喜代治曹長(27)
權代良二軍曹(25)

・通信隊
長谷川猛曹長(25)
佐藤大八郎軍曹(24)
杉浦榮二兵長(25)
山本繁雄兵長(21)
野村俊雄兵長(23)
岩土武兵長(23) ※名簿上の誤植により「岩上」兵長となっていたのをそのまま転記してしまいました。このたび関係者様のご指摘を受けて、御本名への訂正をしております。

・第1中隊
長谷部正義中尉(26)
曾根誠二曹長(26)
古川繁男軍曹(23)
今野六郎軍曹(24)
堀田義正兵長(23)
戸澤文夫兵長(23)

・第2中隊
蒲生淸治大尉(26)
行田佐久司曹長(27)
水田貞雄曹長(24)
佐々木義貞曹長(25)
日高繁美軍曹(23)
松岸信夫軍曹(23)
増淵輝夫兵長(24)
福澤弓雄兵長(24)
山本唯雄曹長(26)

・第4中隊
谷口直行曹長(25)
蓮佛基邦曹長(24)
淸水宗一曹長(25)
鴨志田耕作曹長(24)
岩満昇三伍長(24)
山田彦太郎伍長(24)
靑木茂伍長(24)
穂登原久登伍長(25)
守田久雄伍長(24)
和田孝吉兵長(23)
對島周介兵長(23)
馬場惟義兵長(25)
山中正明兵長(23)
渡邊淳兵長(23)
第一挺進團司令部「別冊 昭和十七年 自一月 至六月 戦没者名簿(昭和17年8月9日作成)」より抜粋 

占拠後のパレンバンでも、被害が続出しました。まずは蘭印軍兵舎に仕掛けられていたブービートラップで1名が爆死(氏名不詳)。また、不慣れなバイクを運転していた森山軍曹が貨物自動車と衝突、片脚切断の重傷を負って内地送還されています。
敵の営倉からは、準備空爆に参加して撃墜され、蘭印軍の捕虜となっていた日本軍パイロットが救出されました。このパイロットは後に婦女暴行事件を起こして軍法会議にかけられ、営倉へ逆戻りしたそうです。

第2聯隊は進出してきた第38師團へ引き継ぎをおこない、シンガポールを経由してプノンペンへ帰還しました。

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パレンバンに設置された記念碑

「われわれは落下傘部隊をもつてゐた!
米国において考へられ、ソ聯において組織され、ドイツにおいて実戦化されたこの空の突撃兵
最も近代化された落下傘部隊を、われわれは誰も知らぬうちに持つてゐたのだ!
しかも海軍独自の落下傘部隊を持つのは、わが国が初めてでさへある
皇軍が蘭印セレベスのメナドに展開した、わが海軍の特殊空中部隊の活躍
スマトラのパレンバンに輝かしい降下戦術を駆使した、陸軍落下傘部隊の活躍は
米英の予想しなかつた奇襲作戦であつただけに、その狼狽ぶりは想像に余りあるが
われわれは落下傘部隊の武勲を讃へるとともに、陰でにじむ皇軍独特の苦心談を聴かう」
大阪毎日新聞 昭和17年2月16日版より

パレンバン降下作戦の成功は大々的に報道されます。
この時から、日本軍の落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれるようになりました。


国立病院4
唐瀬原に残る第2挺進団挺進第3連隊兵舎の給水塔。第2挺進團が発足したのは、第1挺進團が帰国した昭和17年6月のことです。

【空の神兵】

華々しいデビューを飾った落下傘部隊。
空の神兵を讃えるため、国内でも様々な記念行事が開催されました。
5月8日には読売落下傘塔での各種降下訓練実演、10日には日比谷公会堂での落下傘解説、戦談講話や、演劇「落下傘」、映画「落下傘部隊」の上映や「(陸・海軍)落下傘部隊の歌」の発表が行われ、銀座では17日まで街頭写真展が開催されています。

この頃、落下傘部隊の歌が数多く作られました。

藍より青き 大空に 大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

の歌詞で有名な「空の神兵(梅木三郎作詞 高木東六作曲)」は、現在も歌い継がれていますね。
他には「萬朶の桜散る姿こそ我等が降下の姿なれ」の「陸軍落下傘部隊の歌(山田耕筰作曲)」などが作られました。
この山田耕筰、藤田嗣治、火野葦平、坪田譲治ら一行が、体験入隊のため新田原を訪れたこともあります。

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地元の宮崎で公開された時の広告

6月に帰国した第1挺進団には各方面からの講演依頼が殺到。
「訓練に支障を来す」としてコレを拒んできた久米団長も、あまりの人気ぶりに対応せざるを得なくなります。
「広報担当」として選ばれたのが、奥本中尉と徳永中尉でした。
東京日日新聞(現在の毎日新聞)宮崎支社の仲介により、二人は県内各地で講演会を開催。更には新聞雑誌の取材対応にもあたりました。
上記の毎日新聞記者は「報道機関が戦争に加担してしまった」と回顧録で悔やんでいますが、当時はそういう時代だったので仕方ありません。他の新聞社でも同じことをやっていましたし。

陸軍落下傘部隊徳永悦太郎中尉
「この辺で、あなた方が落下傘を作る苦心を伺ひたいですね」
藤倉航空工業女子工務員小河原みゑ
「私達は一日置き位に、徹夜をいたしました」
若林わか
「何しろ、間に合はないやうなことがあつては申訳ないとお互ひに激ましあつて、作りました」
徳永中尉
「實に御苦労さんですね。どんなところに苦心しますか」
小河原
「やはり、自分達の作つたものが、破けでもしたらどうしよう。ミシンの糸が切れでもしたら兵隊さんに申訳がないといふ心配が、一つ胴の上に、いつも心から離れません。神様や佛様の前に立つときも、先づ第一にそのことを御祈りします」
徳永中尉
「なるほどね。前線にゐる落下傘部隊がきいたら喜ぶな」
諏訪村すぎ
「それから、しつけをする針で、よく指先きを刺して血を出すことがありますが、少しでも布に血の痕がつくと兵隊さんが厭がられると思ひまして、丁寧に斑點を抜くやうにして居ります」
徳永中尉
「そこまで気を使つてくれるのは、有難いですね」
記者
「落下傘部隊が成功したというふニユースを聞いたとき、どういふ氣持ちでした」
小河原
「私は十六日の朝の新聞で見ました。本當に声を立てて萬歳を叫んでしまひました。とても嬉しくて!」
若林
「工場では、作業中でしたが、ニユースをラジオで聞かしてくれました時は、みんな思はず萬歳を叫びました」
秦みさを
「早速全員が集つて萬歳を唱へましたが、所長さんも非常に喜ばれて「君達の努力が、いまこそはつきりとお國の為めに役立つたのだ」と、おほめ下さいましたが、私達もなんとも云へない嬉しさで、みんな涙ぐんで居りました。
なんだか、仕事に一層張り合ひが出まして、とても働くことが楽しみでございます」

「パレンバン落下傘部隊の奮戦談を聴く 落下傘を作る娘さん達が殊勲の徳永中尉を囲んで」より


これだけではなく、「落下傘部隊肚途編・戦闘編」「加藤隼戦闘隊」といった空挺部隊を描いた映画も制作されています。
最も有名なのが「空の神兵」でしょうか。

映画「空の神兵」のロケハンが唐瀬原飛行場でおこなわれたのは昭和17年7月18日のこと。川南町史では「昭和19年」と誤植されていますけど。
あの映画のラスト、機上からの空撮や降下後のシーンに写っているのが唐瀬原の塩付降下場。
短い場面ですが、当時の川南の様子を窺い知ることが出来る貴重な映像です。
機密の問題からか、撮影地が川南であることは一切宣伝されていません。

また「加藤隼戦闘隊」のパレンバン降下シーンも唐瀬原で撮影されました。こちらも撮影地の公表はナシ。
ただ、唐瀬陸軍病院が映画に参加する第2挺進団(挺進第3・第4聯隊)から詳細なアンケートを取っており
撮影に臨む空挺隊員らの心境を知る事ができます。

昭和17年10月には、川南の常盤座でも「空の神兵」が上映されました。
映画が終って常盤座を出ると、目の前で本物の「空の神兵」が空を舞っていた訳です。
なかなかシュールな光景ですね。

目を皿のようにして「空の神兵」の映像を確認したのですが、残念ながら川南給水塔は写っていませんでした。

しかし、陸軍落下傘部隊の勝ち戦はパレンバンが最初で最後となります。
ミッドウェーでの敗北を経て戦局は次第に悪化。「切り札」である空挺部隊の戦機は、なかなか訪れなかったのです。

(第四部へ続く)

空挺給水塔 其の4 ラシオ空挺作戦

Category : 第四部・ラシオ降下作戦 |

九月二日 水曜 晴
今日も朝から晴天だ。午後から慰問演芸を見に住吉八幡(※新名爪の島之内八幡神社と思われます)へ行く。
中々大掛りでほんとうに良くやって呉れた。隊からも出演し大いに笑はした。涙が出る位面白い事をやる。
今日一日中、大いに楽しかった。
道を歩いてゐても、地方の人々が頭を下げなさるが、只御苦労で有りますと云ふだけで、何とも云へないが、村人等の心中は吾々を何と思つてゐるかと思ふ。
吾々は南方(パレンバン)へ行っただけで、何にもやって帰ってゐないのに。
自分等は心苦しい。

井上祐子編「誠心」より 挺進第1連隊第4中隊 井上洋曹長の日誌

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C-1輸送機から台地上の航空自衛隊新田原基地へ降下する陸上自衛隊第一空挺団。
戦時中の陸軍落下傘部隊も、川南ではなく新田原飛行場一帯へ降下することがあったそうです。当時の人々が見たのは、おそらくこのような光景だったのでしょう。
スカイフェスタにて、日向新富駅付近

【海軍落下傘部隊のメナド降下作戦】

実は、「日本初の空挺作戦」はパレンバンではありません。
パレンバンよりも前に、海軍落下傘部隊が空挺作戦を行っています。

海軍落下傘部隊
セレベス(現在のスラウェシ)島北端のランゴアン飛行場へ降下する海軍横須賀鎮守府第1特別陸戦隊。ランゴアン飛行場とトンダノ湖カカス水上基地への攻撃は、メナド(現在の北スラウェシ州都マナド)に上陸する海軍陸戦隊を支援するための作戦でした。
「メナドに降下した」と誤解されやすいのですが、ランゴアン飛行場とメナド市街は全く別の場所にあります。
要するに「メナド攻略を支援するためのランゴアン・カカス降下作戦」なのですが、面倒なので「メナド降下作戦」と呼称します。
 
海軍の空挺作戦にも、パレンバンと同じくカメラマンが同行していました。
それが日本映画社の本間金資氏。
上海の司令部附として派遣されていた彼に、海軍報道班員の命が下ったのは日米開戦直後のことでした。従軍記者が続々と南方取材へ赴く中、本間カメラマンは内地に留め置かれたままとなります。
焦る本間さんに「南方行きの交通手段」として提示されたのが、いぜんハリウッド女優が来日した際、撮影会に赴いたことのある客船でした。航空機がダメなら、せめて駆逐艦で行きたいと願っていた彼は意気消沈します。
かつて煌びやかだった客船も、今は迷彩塗装を施され、兵士と兵器で溢れかえっていました。

その中で、異様な兵士の一群が本間さんの目を惹きました。
軍隊生活を見慣れた従軍記者たちにとって、輸送船上の兵士といえばノンビリ手紙を読んだり将棋をさしたりしているモノと決まっています。しかしその海軍兵らは、甲板上ですさまじい銃剣術の訓練に連日明け暮れているのです。

「Aさん、この部隊は不思議な部隊だと思はないか」
「さうなんだよ、毛色が違つてる」
「ちよつと變だらう」
「ちよつとぢやない。うんと違ふかも知れんよ」
「始めはね、僕は陸戦隊だと思つてたんだ。特別陸戦隊の精鋭部隊だとね。ところが、陸戦隊にしては○○が違ふだらう。第一、妙な梱包を持つてゐる」
「今日の夕食を済ませてからのことだ。僕が舷側のハンドレールにもたれてゐたとき、すぐそばに肩を並べてゐた兵隊が風速の話をしてゐるんだ。特別陸戦隊ではなく航空関係の部隊だつたのか。さう思つて僕は尋ねてみたのだ。―君たちは航空隊ですか―てね。さうしたら笑ひながらそれに似た部隊ですと言ふんだ。似た部隊だと言つただけで後は笑つてゐるんだ」

本間金資「カメラ従軍」より

本間カメラマンは、その中の一人に話しかけてみました。

「そんなに猛烈に見えますかね」
「全然猛烈ですよ。戦地へついたとき草臥(くたび)れはしませんか」
「輸送船の中でも、からだを休ませてゐると却つて駄目です。これでも自分たちとしては普通以下の訓練です。長期戦ですからね」
私は、「訓練に制限はあるまい」といふ東郷元帥の言葉を思ひ出した。
「特に自分たちの部隊は、どんな激しい戦闘をしても決して草臥れてはならない部隊です」
兵曹長は、ちょっと笑顔を見せてから私のそばを離れて行った。私はこの船に乗込んでからこのかた、見慣れない兵器類の多いことに加へて、この部隊の猛訓練に驚いてゐたが、驚きは尊敬に變つてこの部隊への親しみを急速度に増さしめた。
しかし、この部隊は何の目的を持つて猛訓練を輸送船の上でも續けてゐるのか、甲板できいた兵曹長の言葉の奥を考へても、この部隊の正體が私には不思議でならなかつた。


海軍体操に参加するなどして、本間さんと海軍兵らは次第に打ち解けていきます。
輸送船が戦地へ近づくと、海軍兵らは荷を解いて武器の手入れを始めました。いずれも特殊なカバンや梱包箱に詰め込まれたものばかりです。
そこでようやく、本間カメラマンはかつて観たドイツ空挺部隊のニュース映像を思い出します。

「わ、わかつた。僕は判つた。君たちは、落下傘兵でせう」
手入れの指揮をしてゐたK曹長は落着いて私を制した。
「普通の部隊ぢやありません」
さうか、やつぱり落下傘部隊だつたのか。ドイツやソ聯だけにあると思つてゐた落下傘部隊が日本にもあつたのだ。敵側米英でも落下傘兵が養成され、日本でも落下傘部隊が研究されてゐるといふ話はきいてゐた。しかしかうした船の上で落下傘兵と一緒にならうとは。出發前はもとより、今が今まで全く夢想だにしなかつたことだ。
私が眺めまはした部屋の隣には、棚の上に別種の鞄が整然と積まれ、その中央には注連が張られ御神酒までも供へられてゐる。鞄は、今はもう疑もない、確に白い絹傘を折畳んで納めたものである。


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現地へ到着した本間カメラマンは、空挺隊員らに別れを告げて前進基地へ向かいます。彼らを出迎えた少佐は、さっそく従軍取材を依頼。そして水筒と拳銃を渡しました。

「これは何發射てますか……」
「本間君、そんなにパチ〃射つことはないよ……。君、一發あればいいぢやないか」
T少佐は自分の人差し指をおもむろに顳顬に當てて微笑された。常に死地に身を曝す人だけが示すことのできる、誠に悠々とした微笑である。―成程さうか。
「申し譯ありません」
私は恐縮してしまつた。
「明日の戦闘では、君たちも敵前へ強行着陸することになる。覚悟はいいね」
決意も感情も顔に見せず、淡々として私達に接してゐるT少佐の底力を湛えた平静さは、報道班員と雖も生還を期し得ずといふ覚悟を私に固めさせてくれた。報道班員として君國に身を捧げる光榮を思ふとき、私は心ひそかに誇らずにはゐられない。ニュースに生きてニュースのために死ぬのだ。
しかも國家が與へた使命の前にアイモを抱いて散るのだ。私は渡された自決用の拳銃を握り締めた。
「君たちが従軍するのは落下傘部隊だ。目的地はセレベス島メナド。……メナド郊外にあるカカスといふオランダの飛行場だ」
私は自分の耳を疑つた。海軍落下傘部隊とは、今日○○島で訣れてきたばかりである。
「落下傘部隊ですか……」
T少佐は無言のまゝ大きく頷かれた。
この前進基地には、私たちが同船してゐた落下傘部隊とは別の部隊が既に待機してゐたのだ。こゝにも落下傘部隊がゐた―、まだ他にも居るかも知れない。よくもこんなに落下傘部隊を秘密のうちに日本は育てたものである。
私は落下傘部隊を撮影したかつたが、諦めてこの前進基地へ急遽着任したのであつた。ところが、よく〃私は落下傘部隊と縁があるのか、心を残しながら一旦諦めてしまつた落下傘部隊に、いよ〃従軍できるのだ。
しかもそれは、日本の歴史始まつて以來、最初に敵地に降下する落下傘兵である。


海軍によるメナド降下作戦は、1月11日に決行されました。

飛行艇に乗つてゐる兵士たちも、同じく落下傘兵であつた。この兵士たちは○○を持つて強行着水をする別種の任務を帯びてゐるため、降下する本隊を離れて飛行艇に乗りこんだのである。
耳に手を翳して兵士たちの方へ身を乗り出すと、しきりに―申譯ないなあ―といふ聲が聞きとれる。作戦の都合で降下しない役割に廻つたこれらの兵士が、降下兵に對して申譯ないと話してゐるのである。
更によく聞くと、今朝宿舎を出て水艇基地へ向かふとき、降下兵たちは飛行艇に乗りこむ兵と手を握り合つて、―済まない、申譯ない―と慰めてくれたのださうだ。降下兵から逆に慰められて飛行艇に乗りこんだ落下傘兵たちの氣持には、作戦の都合とは言へ、晴れの戦場へ降下できない無念さが残るのであらう。
私はもつとよく話を聞かうと、私の座席の後にゐる兵士に質問を書いた手帳を開いて鉛筆を差し出した。
―今朝、部隊進發當時の情況は―
―輸送機の出發前に別れた、不明―
前進基地の露に濡れた芝生の草を踏みしだいて行はれたであらう今朝の進發を、キヤメラに記録できなかつたのは心残りでならない。


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飛行機に乗込む海軍落下傘部隊員

幸運に恵まれたパレンバン作戦とは違い、メナド降下作戦は不運に見舞われます。
メナドへ向けた飛行中、敵編隊と誤認した味方偵察機から攻撃されて1機が墜落。空挺隊員は炎上する輸送機から脱出しますが、パラシュートに引火して飛行士と降下兵17名全員が墜落死しました。

「しばらくして敵機は一旋回、またも襲いかかってくる。
ダダダダダ、ダダダダダ……
敵味方の機銃音。
「アッ、味方機だ、同志討ちだ」
搭乗員が急に叫び出した。急いで機外を見れば、フロートを着けた味方零式観測機が、右下方に旋回していくところだ。
「馬鹿野郎!」
搭乗員と落下傘兵は、声を合わせて大声で怒鳴った。
「なんという青二才の、間抜け野郎だ」
危いところだった。
だが五番機は、すでに真黒な煙を吹きながら、次第に高度を下げて行く。
「陸地までの辛棒だ。五番機頑張れ」
味方の声援も甲斐なく、ついに両エンジン炎に包まれた。
さっと、五番機の跳出孔が開いて一人、二人、三人……落下傘兵が機外に脱出していく。瞬間、自動曳索が炎で焼切れて、開傘不能、そのまま落下傘兵は黒玉で落ちて行く。
高度六千メートルくらいか、次第に小さくなってやがて黒点となり、吸い込まれるように、下界に消えて行った。
「我れ自爆す―」
五番機は、無電を発して炎の尾を曳きながら、なおも海面に突っ込んでいく。
海上千メートルくらいか、五番機は遂に爆発した。
ぱっと白い落下傘が五ツ、空中に放り出された瞬間、たちまち火の傘となり、一ツ、ニツ……と焼け落ちて行く。
翼がキリキリ旋回しながらこれを追い越して海中に突っ込み、黒煙を上げている。
更に他の一機も、同じ状態で墜落した」
山辺雅男「海軍落下傘部隊 栄光と苦闘の戦歴」より

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濡れたやうに鮮明な芝生の緑が、ファインダーの窓の形のまゝに區切られ、直射光をうけた白雲がぽつかり右端いかゝつてゐる。褐灰色をした滑走路が左上隅からファインダーにせりこんできた。そこへ、輸送機編隊はカカス飛行場の北端から侵入して行った。三機、五機、滑走路をかすめる紫紺の機影。ファインダーにをさまる編隊の位置は絶好だ。
アイモのキーを押すばかりに待機してゐる私の耳許で、T少佐の大きな聲がした。
「落すぞ!準備はいいか」
よし來た。唇を噛んだ。いよ〃やるのか。私はぞくぞくツとした。
一瞬、二瞬。突然、敵の曳痕弾が白煙の尾をひいてファインダーの視界をかすめた。
今だ!
私は反射的にキーに触れてゐた指に力を入れた。爆音に掻き消されて聞えないが、待機の堰を切つたアイモは私の神経の中でジジゝゝゝゝゝと音を立てて廻りはじめた。
また一瞬、二瞬。一番機の尾翼の蔭に忽然と白いものが見えた。降下開始だ。
また一つ、續いてまた一つ―。機上から打出された砲煙かと見紛ふ白いかたまりは、風を孕んで圓形に膨んだ。開傘だ。見事な開傘だ。
二番機、三番機、四番機、五番機からも續いて白いものが一斉に現れ、雁行の列機は一群の白花を規則正しい瞬時の間隔をおいてふり撒きはじめた。小さな白圓が點々と列機の過ぎ去るあとに揺れて漂ふ。
細長い飛行場の緑を背景に、くつきりと小さく浮んだ白い豆菊のやうな花々である。
それは美しいと思ふよりか、居堪まれないほどの鮮烈な昂奮にかり立てられる白晝の戦場風景であつた。


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ランゴアンに降下する海軍落下傘部隊

降下寸前、二列縦隊になつて腰かけてゐる落下傘兵は、みんな顔に汗を滲ませてゐた。狭い機内が暑いからではなく、張り詰めるだけ張り詰めた緊張が、降下決行の瞬間を前にして冷たい汗を額に滲ませるのだ。
犇と肩を締めつけるやうな闘魂が、もり〃と五體にのたうち廻つてゐるのだ。爛と見開いた眼の光、全員の呼吸が一緒になつて吸はれ、一緒になつて吐かれる。
「おい、俺が歌を唱ふぞ」
振り返つたN曹長が唱ひ出したのは、今までの演習の際にも、降下直前になると必ず唱つた「海ゆかば」である。N曹長に伴れて全員が一斉に唱ひはじめた。
唱ひながらも、○番機の指揮をとるN曹長はこんないい兵隊をたとへ一人でも死なしてなるものかと思つた。
傘の點検は済ましたばかりだ。だが萬一にも不開傘で死なせたら、陛下に申譯けがない。―頼みはせじ……凄まじい氣魄を内にこめた合唱は終つた。
「いゝか、接地するまでは第一に死なないこと、第二にも死なないこと。それから、五番。前の者の曳索に氣をつけて跳べ。十○番、十○番、お前達は遅れてもいゝから、急ぐな」
偵察員の合圖によつて昇降口の扉が開けられた。そこから爆音がゴーッと吹き込んでくる。
高度○○メートル、合圖の號笛が鳴る。一番機の梱包卸下、續いて二番機の梱包。
「梱包卸せ」
「卸します」
梱包の傘が開くのを見つめてゐる横顔を、凄まじい勢で風がなぐりつけて行く。梱包につけた自動曳索がいつぱいに伸びてパツと白く傘が開いた。


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機窓に乗り出して顔を真正面に向けようとしても、風圧はぐい〃と押しまくつてくる。再び號笛が鳴つた。
「よし!」
N曹長は機窓を蹴つて身を躍らした。カカス飛行場の滑走路が焦點を外した視野でクラクラ―と揺れた。
全身の神経が背中に集中される。機窓にかけた吊輪の形がチラと頭に浮んだと思ふと、自動曳索が伸び切つて背中に着けた傘がたぐりだされてゐる音が感ぜられた。
あ、主傘體が出てゐる。身構へようとすると同時に、開傘だ。上から引き止められたやうな衝撃がドンと來て、思はず両腕を上に擧げた。鉄帽が頭にづしつとこたえる。
傘は完全に開いた。脚下に開いた傘がふはりと浮いてゐる。あれが自分達の梱包だ。その左の傘は○番機の隊長だ。續いてゐるのがT曹長の傘だ。一番左に浮いてゐるのが部隊長の傘だらう。N曹長はポケットを探つて拳銃を取り出し、安全装置をはづして右手に堅く握り締めたとき、ふと始めての落下傘降下を思ひ出した。


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海軍落下傘部隊のパラシュート降下

下から射ち出してゐる機銃の音が友軍機の爆音の中に聞える。もう五番も機窓を蹴つて跳び出した頃かと思つて上を見上げると、バサッと傘を貫く敵弾の音がした。
曳痕弾がシュル〃と伸びてきた。一條、二條、三條―、白煙の尾を曳いた曳痕弾は仰角を痙攣させたやうな弾道を描いて空へ伸びてきた。刻々と距離が縮まる地上を睨みつけると、走つてゐる敵兵が見える。滑走路の一角からパッと白い光が閃めいて濃い褐色煙がシュッと發射された。足裏がむづ痒いやうな感覚。頭の上で金属製の炸裂音がドーンと聞えた。N曹長はゆるい風圧を感じたと思ふと傘は左に流されはじめてゐた。
接地するまで死んでなるものか。こゝで死んではならないのだ。
第一に死なないこと、第二にも死なないこと、死んでは戦闘ができないのだ。僅か○○秒にすぎない接地までの降下が、かねて豫想してはゐたが實戦となるとこんなにも永く感ぜられるものであらうか。早く接地したい。氣ばかり焦るが、傘は今日に限つていつまでも空中に漂つてゐるやうにしか思はれない。
また敵弾が傘を貫いた。耳朶を突きさすやうな金属音をビューンと鳴らして敵弾がとほりすぎて行つた。早くも接地した傘がふんわりと形を崩すのが見える。敵の機銃音はますます激しさを増してゐる。敵は地上にバリケードを作つてゐる。拳銃を握り締めた掌をしつかり腰に當てた。だがまだ應射の時機でない。
地面の緑がにはかに速度を早めて盛り上がつてきた。よし、いよ〃接地だ。目の下に棘のやうに突き出たバリケートがある。ぐいと傘を操つてこれを避けた。膝を曲げて接地の姿勢をとつた。地上十メートル、うまい具合に傘は前に傾いて体は後に揺れた。この反動で接地の跳躍だ。


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演習中の帝国海軍落下傘部隊

危い、空に向けて削ぎ立てた竹槍がある。この竹槍で作られた槍襖の間に、巧みにN曹長は接地した。前のめりにちよつとよろめきながら、竹槍の根元を左手で掴まえた。
脱ぎ捨てた傘が風にふくらみかけてすぐ、傍のバリケートに引掛つた。敵弾はこの傘のあたりを目がけて集中してきた。間断なく射ちまくつてくる火網の中に顔を上げることもできない。
N曹長は草地にぴつたりと身を平にして伏せたまゝ、しばしはただ敵弾の錯綜した凄まじい音を聞くだけであつた。軽快な響を立てる敵の機銃がその中で數へられた。背中の上で友軍機の爆音を聞いたと思つた。應射してゐる味方の氣配はまだ感ぜられない。
傘はまだ續々と降下してゐるはずだ。
天と地の間、こゝでは今、最も激しい戦闘が火蓋を切られてゐるのに、銃聲だけが哮り狂つて、何物も生きて動いてゐないやうな錯覚の静寂があつた。


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飛行場の周囲からは敵の機銃が白煙の尾をひき、砲火が閃光を吐いて奔騰してくる。慌てふためいて落下傘を射ち捲つてゐる曳痕弾が憎らしい。先導の列機を追つて後續の列機が飛來し、後から後を追つて降下する落下傘の群落は、敵地の上空に熾烈な地上砲火を冒してかすかに北へ流されつゝ漂つてゐる。
壮烈といふよりはむしろ現實を超えて虚無と言ひたいほどの清冽な烈しさ。私はただ夢中になつてアイモを握り締めてゐた。
飛行艇は颯と翼端を白雲にかすめて旋回した。ぐいと横に押されて、私のからだは安定を失つた。
丸窓の枠に肘をついて立直りながら機内を見まはすと、兵士たちは窓に重なり合ふやうにして地上を凝視してゐる。互に額を丸窓のガラスに押し合ひ擦りつけ、大きな聲で喚いてゐるのだ。
私は今まで撮影に夢中になつてゐたため氣がつかなかつたのだが、兵士たちは本隊の降下を案じて、窓から見られない兵士に降下情況を教へようと叫び合つてゐるのであつた。
「第○編隊、○番機降下開始」
「開傘か」
「梱包卸下だ」
「○隊長は―」
「……開いた。○隊長開傘だ、……開いた」
「○番機は」
窓から覗けない兵士の一人は堪らなくなつたのだらう。私が撮影してゐる窓まで叫びながら駆け寄つてきて顔を擦りつけた。
「○番機には自分の隊長が乗つてゐる、見せて下さい」
いままで今日の日を期して、行動を共にしてきた戦友たちが、上官が、次々と降下挺身してゐるとき、飛行艇に乗りこんだ同じ落下傘兵であるこの兵士たちが、戦友の初陣を案じてゐる氣持の切なさ、それは大きく見開いた双の眼に涙を光らして、開傘だ、開傘だと叫んでゐる聲にも掬みとれる。


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ランゴアンに到達した空挺部隊は、遮蔽物の無い敵飛行場の真上に降りたことで凄まじい反撃を受けています。
敵トーチカからの激しい弾幕に阻まれ、投下した武器コンテナへ辿り着けずに拳銃だけで戦った者も少なくありませんでした。僅かな窪地を盾にしながらじりじりと前進するも、空挺部隊は20名の戦死者を出してしまいます。

接地した落下傘兵は、先づ火網の中を潜つて梱包を探し求めなくてはならない。敵は落下傘兵に梱包の兵器を握らせまいと掃射してくるのだ。
敵の機銃掃射の音にまじつて、断續的に友軍が狙ひ撃つてゐる拳銃の音が聞えてくる。タタタタッと響く友軍の機銃音はまだ聞かれない。誰もまだ梱包へ辿り着いた者が居ないのだ。
焦ら立つてくるとN兵曹長はぢつと身を伏せてゐられなくなつた。右足を引き寄せて身を起こすと、機銃音の僅かな隙を見つけて一散に駆け出した。膝に力がはいらない。七、八メートルも走つて草につまづいて転んだ。転ぶことには落下傘兵は馴れてゐる。転びながら腰を捻つて平に身を伏せると、尾を引いた曳痕弾が鉄帽の上を僅かに高くかすめ過ぎた。至近弾だ。
鉄帽一つが敵弾を遮蔽してくれるだけの草地に、顔を横向けにして擦りつけると、その視野に僅かに盛り上つた堆土が見えた。
N兵曹長はそこを目指して、また、野球の盗塁のやうな格好で頭からすべり込んだ。すべりこんでみると、すぐその近くには一人の兵が倒れてゐた、○番機に乗つてゐた○○の兵だ。口惜しさがこみ上げてくる。
武器が欲しい、機銃が欲しい。顔を横に擦りつけたまゝ、N兵曹長は兵器を納めた梱包を目で探し求めた。顎を支點にして腹這ひながら、からだをずらして梱包を探した。
だが視野の中には伏せてうごめいてゐる兵の姿は見えても、梱包らしい形は見出せない。
目をつむつてゆつくり息を吸ひこんだ。硝煙にまじつた草の香が埃つぽく匂つてきた。草の匂を嗅ぐ餘裕が自分にはあると思ふと、目をしやつきりと開けた。
日光がふりそゝいてゐるのだ。草の秀を小さな蟲がよぢ登つて行く。ふつと息を吐き出した途端に、蟲はぷいと飛び立つて行つた。

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「N兵曹長」
叫びながら跳びこんできたのは、N兵曹長に續いて降下したO兵曹の聲であつた。敵弾は激しく集中してきた。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
顔を左側に來て伏せたO兵曹の方へ振り向けると、曳痕弾の弾道が硝子のやうにチラリと光つて頭上を薙いで通つた。そのまゝ顔を伏せる。背中をかすめるやうな敵弾の擦過音が絶え間なしに續く。堆土に弾着した敵弾が、鉄帽にばら〃と土砂を降らしてきた。
「N兵曹長、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「梱包は―」
「まだだ―」
早く兵器を握らないと、このまゝでは全滅だ。もどかしく思つて見廻しても近くに梱包は落ちてゐない。友軍はまだ一つの梱包も手に入れてゐないのだ。
味方の銃聲といへば、鋭く刺すやうに鳴る拳銃の音だけである。N兵曹長は拳銃の弾倉を詰め替えた。
跳び出してどうしても兵器の梱包を掴まねばならない。敵機銃の連續音が僅か断たれる間隙を顎を地に擦りつけて待つた。
その間隙をねらつて跳び出すのだ。呼吸を止めて耳を澄ました。
突然、耳を劈くやうな急降下の翼音が響いてきたかと思ふと、颯と機影が芝生をかすめて通り過ぎた。思はず顔を起すと機翼に日の丸だ。友軍機の地上掩護射撃だ。
一機が上昇すると、すぐそのあとから次の一機が地上すれ〃に突つ込んでくる。連續する急降下音に敵の射撃がちよつとたじろいだ。
今だ。N兵曹長は梱包の落ちた方角を狙つてまた駆け出して行つた。敵の火點を目がけて突込んで行く兵の姿が右手に見えた。再び機銃弾は唸つてきた。
N兵曹長は転がつて身を伏せた。火網の中、そこに身じろぎもできない。


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第○部隊の突入だ。編隊の列機からたぐり出されるやうに、間隙正しく飛び出す白い絹傘は、何の躊躇もなく紺青の空に静々と舞ひ降りてゐる。敵の機銃は銃口を空に向けて、曳痕弾の弾道が落下する傘を狙つて交叉し、その弾幕の中を第○部隊の兵士が續々と降下をつづけてゐる。
敵の地上火器が慌てて空へ向けられた隙をねらつて、接地してゐた友軍は梱包に向つて駆けて行つた。友軍の喊聲が起つた。
滑走路前面のトーチカへ突撃して行く友軍の喊聲だ。隊長の振上げた拳銃がキラリと光る。友軍の擲弾筒の弾丸が敵のトーチカの掩體に炸裂した。友軍は漸く兵器を握つたのだ。
N曹長は跳ね起きると共に駆け出した。駆け出した途端に激しく横なぐりに突きのめされ、芝生に叩きつけられながらころ〃と転がつた。草を噛んで転つた眼の前に、左肩を血潮に染めた戦友が倒れてゐた。
ビューンと音を立てて敵弾が芝生の草を薙いで過ぎる。N曹長は倒れてゐる戦友のそばへ身を匍つて近づいた。倒れてゐる兵士はもく〃と身を動かしたかと思ふと、眼をぱつと見開いてN曹長を凝視した。
「しつかりしろ!」
倒れた兵は胸においた右手を拳銃の引金にかけたまゝ、一度瞬いたかと思ふとそのまゝ息は絶えてしまつた。N曹長は鐡帽をぬがせて戦死した兵の顔の上に置いた。その時初めて、自分の右手が敵弾にやられてゐるのを知つた。右手の拳銃を左手へ掴みとつた。
椰子林の中のトーチカは左前方へ約三十メートル。N曹長は拳銃を握つた左腕で草の中を泳ぎながら、匍匐して右へ右へと迂廻した。単身トーチカを攻撃するため、前面トーチカの死角に入るのだ。


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本間カメラマンらは、落下傘部隊の速射砲部隊や医療班と共に飛行艇に搭乗。敵機との遭遇や激しいスコールによる機内の雨漏りなどに苦しみつつメナドを通過、ランゴアン上空へ到達します。
そして攻撃部隊のパラシュート降下を撮影しながらトンダノ湖へ着水しました。

飛行艇はなほ旋回飛行をつづけた。無電員が何を受信したのか紙片をT少佐へ差出した。漸く顔を和げて頷いたT少佐は、その紙片をO機長に示して機窓を指さした。機窓にはトンダノ湖が見えた。
右へ旋回して高度を下げた飛行艇は、カカスの民家の屋根と湖畔の樹木の梢を爆風圏にかすめて、すべるやうな着水姿勢をとつた。いよ〃強行着水を決行するのだ。
白い水脈を曳いて飛行艇はトンダノ湖に着水した。機首をカカスの部落にめぐらせてプロペラの回転が次第に止まると、しいんとした静寂が一瞬あつた。
と思ふのも束の間であつた。湖を縁どつた椰子林にこだまして砲聲が耳朶をゆすつた。敵味方の機銃音が入り乱れて響いてくる。
これは激戦だ―、さう思ひながら、私は雑嚢と水筒を肩にかけ、アイモとフィルムを背に着けて少佐の指揮を待つた。こだまする砲聲は熾烈である。ピュン、ピュンと敵弾が飛行艇を狙つて集中してきた。
「應射だ!」
機銃を握つたS一水が機窓から出て機翼の上へよぢ登つて行つた。その後を弾倉を持つた兵士が續く。敵の射ち出す機銃は飛行艇に向つて注がれ、曳痕弾は背後の湖面に乱れた。


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トンダノ湖に着水した2機の飛行艇は、敵の銃撃をかわしながら30分ほど水の上をグルグル回っていました。
本間カメラマンらは速射砲部隊と共に上陸し、飛行場での戦闘を終えた空挺隊員らと合流します。

漸々機関銃の音は近付いて來る。さうするとたツた二人の兵隊が極く小さなボートですが、其のボートを敵の中から探して持つて來た。急いで直ぐに上陸しなければならぬ。もう其の時は益々銃聲が近くに聞えまして、心配で堪りませぬ。私もキヤメラマンとして恥かしいやうですが、これは撮るどころぢやない。お手傳をしなければならぬ。
それで私と報道班員は二人居りました、手傳はうぢやないか。それから一生懸命ボートに乗りまして、さうすると只今参りましたと言つて、見ると兵隊はどの位居りますか、ゴチヤ〃になつて來て居ります。色々話をしまして、どうも申譯ありませぬ、イヤどうしたとか言つて居りましたが、兎に角急ぎませう。ぢア急げと云ふので、小さいボートで又何遍も兵器を運びました。私も一緒にやつて、大きいものがありますから、安達君担がうぢやないか、ウン俺もさう思つて居たと言つて、担ぐとなか〃重い。中腰になつて、背が高いから片方を担ぐ。私も色々のものを持つて中腰になつてやる。中々難かしいです。さう斯うして居る中に道路に出まして、それ組立てろと云ふことで一生懸命組立てて飛行場に急ぎました。


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ランゴアン飛行場を占拠後、カカス水上基地へ進撃する海軍落下傘部隊

トンダノ湖の水上基地の占領に向かつたK兵曹長の一隊は、カカスの部落へ通ずる牧場の三叉路で、椰子林から遁走した敵の装甲自動車に遭遇した。道を曲つた途端に、僅か二十メートルの接近距離で出合頭に相對したのだ。
咄嗟に道の上に伏せた落下傘兵は、機先を制して軽機の引金に當てた指を引き、真正面から敵の装甲車に掃射を喰らはせた。敵も不意の遭遇に進退を失ひ、停止したまゝ装甲を恃んで應射の雨を降らして來た。
砲塔から突き出た砲口から、ガンと閃光が煌いた刹那、道に伏せた軽機は砂煙に包まれてしまつた。しかし、その砂煙の中から猛然と落下傘兵の○○式軽機は火を吐きつづけた。
撃ち負けた装甲車はたじろいで後退しかけた。その機會を捉へたK兵曹長は、咄嗟に砂煙の中を猛然と敵前へ殺到して行つた。軽の射手も駆けた。
装甲車に乗つてゐた敵兵は、道路をはさんだ林の中へ転がるやうに這入した。装甲車に飛附いた軽機射手は、砲塔にかけ上つて軍艦旗を翻した。K兵曹長が拳銃を發射して車内へ躍り込むと、胸を貫かれた青い軍服の運転兵がくづ折れて倒れてゐた。

夕方までにランゴアン飛行場とカカス基地を攻略した空挺部隊は、そのままメナド市街へ長距離移動。こちらでの抵抗は殆どなく、無事占領に成功しました。

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メナド市街での戦闘

占領されたランゴアン飛行場には、次々と輸送機が着陸し始めます。そこで取材していた本間カメラマンは、地上から第2次増援部隊のパラシュート降下を撮影。
さらに取材を続ける本間カメラマンは、2月14日に陸軍落下傘部隊もパレンバンに降下したこと、メナド降下作戦に同行したのが横須賀鎮守府第1特別陸戦隊であり、輸送船で同乗した部隊は2月20日のクーパン降下作戦に投入された横須賀鎮守府第3特別陸戦隊であったことを知りました。

セレベスへ海軍落下傘部隊が降下してから、シンガポール陥落前日の二月十四日、この日陸軍落下傘部隊がスマトラ島パレンバンへ突如として降下し、こゝにはじめてわが落下傘部隊の活躍が國民の前に報道された。
○○基地の司令部へ帰還した私は、その後主として比島方面の航空作戦に従軍してゐたのであるが、海軍落下傘部隊戦況記録のニュース映畫が發表されるまでには、その間一ケ月以上の日子があつた。昂奮のあまり撮影は失敗に終わつたかと思ひつづけてゐた私に、大本営報道部から撮影良好なり―といふ知らせが届くまで、絶えず撮影の結果を心配してゐたのだ。
それと、も一つ私には氣になることがあつた。それは私が輸送船で一緒に乗り合はした落下傘部隊の消息であつた。烈しい負け抜き剣術を甲板で闘つてゐた落下傘兵たちが、いつ何處で降下作戦を決行するかといふことであつた。
二月二十日、チモール島クーパンへ奇襲降下した海軍落下傘部隊こそ、私が輸送船の中で猛訓練に眼をみはつた部隊であつた。

海軍空挺部隊の不運は続きます。初陣であるメナド降下作戦の報道は、陸軍のパレンバン作戦が終った2月16日まで差し止めとなってしまったのです。
この報道管制はパレンバン作戦まで空挺部隊の動きを秘匿する為のもの。
しかし、先にメナドを襲撃された連合軍側は日本軍空挺部隊の脅威を理解していた訳です。意味があったのでしょうか?

一番槍の栄光を、陸軍落下傘部隊に横取りされてしまった感のある海軍落下傘部隊。しかし面白いことに、陸軍落下傘部隊の拠点である宮崎では「逆転現象」が起きています。
地方ではシンガポール陥落やメナド降下作戦のニュースが先に報道された為、地元部隊である陸軍落下傘部隊の記事は後回しになってしまったのです。

新聞発表は2月22日までズレ込みましたが、それより早くパレンバン降下作戦の噂は広まります。新田原飛行場のある富田村(現新富町)では祝賀パレードまで行われました。

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一里に亘る旗の大行列
富田村では全村民一人残らず、午前八時半に集合整列、揃つて神社に皇軍の武運加護の感謝禮拝をなし、戦勝を報告し、午前九時全員富田小学校に集合して富田小学校のブラスバンド部を先頭に校旗、在郷軍人分會旗、振興隊旗是に続き、在郷軍人を先頭に消防團、青年團、婦人團、学校、役場、組合の職員、國民学校生徒等、手には大小とりどりの旗を打振り蜿蜒一里にわたる大行列の旗の波は富田校庭を出発し西部〇〇部隊に堂ゝ行進し、中越村長祝賀挨拶あり、〇〇部隊長の祝賀挨拶並に銃後國民の進む可き途を指示し、自覚を要請せらるるところあり、村民堂々職域に邁進するの決意をなし、十二時東条首相の発声によるラヂオを通じての萬歳に唱和し解散した。
いずれも日向日日新聞より 昭和17年2月18日

【ラシオ降下作戦】

さて、ここで作戦実施直後のパレンバンに話を戻します。
プノンペンで挺進第2聯隊の出撃を見送った挺進第1聯隊は、2月22日にスンゲーパタニーへ移動。そこでバンカランプランタンやサバンへの次期空挺作戦に備えていました。

武田丈夫第1聯隊長は懸命に部下を鼓舞します。
第二聯隊はパレンバンに降下して大戦果を挙げた。我々は先を越されたのだ。こんな残念なことはない。しかし、まだ戦は続いている。今度こそは我々の番だ。しっかりやろう(斉藤正之氏)」

しかし、緒戦における日本軍の進撃は予想外の順調さであり、空挺部隊の出番はなかなか巡ってきませんでした。

パレンバンに続く「ラシオ降下作戦」は、ビルマ(現在のミャンマー)への侵攻に伴って計画されました。
マレー攻略作戦に関連し、問題となったのが「援蒋ルート」の南端であるビルマへの対処。
日本軍を中国へ釘付けにするため、連合国は蒋介石政府への援助を強めていました。ラングーン(現在のヤンゴン)に荷揚げされた大量の支援物資は、鉄道とトラックにより雲南省へと送り込まれていたのです。
これを遮断すべく、第15軍(第33師団および第55師団)とビルマ独立義勇軍は険しい山脈を踏破。英印軍第17インド師団を撃退して3月8日にラングーンを占領しました。

更に増強された日本軍は、第18、33、55、56の各師団をもってビルマ内の中国軍を包囲殲滅する作戦に出ます。3月30日に第55師団がトングーを占拠したのに続き、4月2日には第33師団がプロームも占領。
第18、56師団が到着するのを待って作戦が開始されました。
包囲作戦の目標とされたのが、援蒋ルート上の要衝ラシオ。
そして、陸軍空挺部隊はラシオを目指す第56師団の支援を命令されました。

パレンバン降下作戦終了後、第1挺進団はプノンペンで次期作戦の準備に取り掛かっていました。
そこへ届いたのがラシオの制圧命令です。パレンバンから戻ったばかりの挺進第2聯隊は作戦から除外され、ビルマへ進出するのは第1挺進団の残存兵力となりました。
4月3日、木下中佐率いる先発隊がミンガラトン飛行場ヘ到着。続いて、パラチフス感染から恢復した挺進第1聯隊と、パレンバン作戦に参加しなかった挺進第2聯隊の足立中隊および川畑小隊が海路でラングーンヘ向かいました。
4月12日に到着した両聯隊は、17日から第5飛行集団の指揮下に入ります。

第15軍と第5飛行集団の立てたラシオ攻撃計画は、まず4月中旬から第56師団でシャン高原を攻略。続いてビルマ駐留中国軍の撤退と雲南からの援軍を妨害する為に、雲南~マンダレー間にあるラシオを空挺部隊で占拠。第56師団と合流し、第15軍の総力を以て中国軍を包囲殲滅するというものでした。

作戦に備え、第15軍の飯田司令官と第5飛行集団の小畑中将はトングーへ進出。ラングーンで演習中の空挺部隊も連絡担当の木下中佐をトングーへ派遣します。

このとき立案されたラシオ空挺作戦は下記のとおり。

・第一次挺進部隊
挺進第1聯隊主力の450名は、ラシオにパラシュート降下して中国軍兵営を急襲。続いて南方の高地を占領して敵の退路を遮断。

・第二次挺進部隊
挺進第1聯隊の壺井中隊および挺進第2聯隊の足立中隊・川畑小隊の計450名は飛行場を急襲。まず田中賢一中尉指揮の機関銃小隊24名(重機関銃1、軽機関銃7)を飛行機で強行着陸させ、その援護射撃を受けながら壺井・足立・川畑の各隊がパラシュート降下して飛行場を占拠。
続いて駅を占拠し、列車で救援に駆けつけようとする中国軍新編第66軍を阻止。

・久米団長機
パレンバン同様、久米団長も飛行場へ強行着陸してラシオ占拠の指揮にあたる。
・挺進飛行隊
新原少佐率いる挺進飛行隊は4月26日にラングーンヘ進出、筒井中隊(ロ式輸送機)、板野中隊(ロ式)、松渕中隊(MC輸送機)、飯渕中隊(MC)、新海中隊(MC)の5個中隊で空挺隊を輸送。
物資投下、直掩、地上攻撃の各支援飛行隊も参加。

ビルマ攻略は激戦となりました。
連合軍航空部隊の奮闘に苦しめられたものの、遂に日本軍は制空権を確保。地上では中国新編第38師との攻防が展開される中、第56師団はシャン高原への快進撃を続けました。
戦況は目まぐるしく変化し、空挺部隊投入のタイミングはなかなか掴めません。
久米団長は4月26日の作戦決行を具申するも、小畑中将は56師団の進撃を見守り続けます。降下作戦が早過ぎると、56師団のラシオ到達前に空挺部隊が敵中に孤立し、全滅する可能性がありました。

そして、作戦決行日とされたのは4月29日。
挺進飛行隊は26日、空挺部隊は28日にトングーへと進出しました。

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機内の陸軍空挺隊員

昭和17年4月29日朝、挺進飛行隊は計1000名の空挺隊員を載せてトングー飛行場を離陸します。
シャン高原を越え、大編隊はラシオを目指しました。

ラシオは目前に見えて、あと数分行程に迫った。降下準備のブザーの合図があって機内は緊張の極に達し、第1聯隊先頭降下者副官神田中尉は飛行機の扉を開いて跳下姿勢を以て待機し、2番降下の聯隊長武田少佐も満面緊張させて時機遅しと待っている。窓を通じてラシオを望めば、ラシオ周辺の高地は何たる事か、黒雲に掩われて進入の余地は寸分もない。
強いて進入せば山腹に衝突する以外考えられない。新原戦隊長は決心して回頭、基地に帰還を決し、大編隊はこれに従って旋回した。帰還途中第1聯隊第1中隊新保曹長以下の搭乗機が故障の為ジャングル内に墜落し(実際は雲の中で行方不明に)、又トングウ飛行場着陸直前片発で帰航中の副島中尉以下搭乗の飛行機が、戦友衆視の前で墜落炎上。飛行機と併せて30余名の戦死者を出したのは返す返すも残念であった。
帰還后、第56師団が本日昼頃ラシオ市に突入したことが判り、挺進作戦の中止を命ぜられた。
久米大佐は支那軍の退路ラシオは我第56師団で押えたので、マンダレーよりイラワヂ河右岸平地を経て北部ビルマ及西部ビルマに退却する要衝シユエボ市(城壁のある都市)に挺進して退路を遮断すべく意見具申したが、遂に実現の運に恵まれず、挺進第1聯隊は又もや不幸無念の歯ぎしりを禁じ得なかった

空挺戦友会資料より

昭和十七年四月二十九日(天長節)
トングー飛行場を発進した百機を越す大編隊の中に身を置き、もういつ死んでも悔いはないと思ったのは、あに奥山一人ではなかった。ところが、戦の神は、何故この連隊に酷なのか。
ラシオの手前十分行程のところを、厚く閉ざす密雲は、大編隊の進入を許さず、遂に途中で引返す運命となった。
傷心の落下傘兵を乗せた輸送機は、発進したトング―飛行場に次々と帰来したが、片発故障し辛じて飛行していた一機は、飛行場目前にして失速墜落してしまった。
これに搭乗していたのが、副島中尉以下第四中隊の将兵であった。敵の戦車と渡り合うため、全員地雷を胸に装着していたから、物凄い火柱が上った。
奥山は真先に現場に駆けつけた。機体の破片は広い範囲に散乱しているが、人員は形を留めていない。
「副島、金田、中島……」
と死んだ将兵の名前を呼びながら、奥山はまだくすぶり続けている破片の間をふみ分けて、肉片の一つ一つを拾い集めていった。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

2機の損害と30名以上の死者・行方不明者を出してラシオ降下作戦は中止となりました。
この作戦における殉職者は下記のとおり。

挺進飛行隊
・第4中隊
古川武大尉(24)
岡部貞男准尉(27)
四元泰憲曹長(24)
戸澤一曹長(24)

挺進第1聯隊
副島馨大尉(24)
大江忠准尉(27)
伊藤植太准尉(26)
大倉光隆准尉(27)
金田庄助曹長(25)
鹽里傳曹長(26)
小林秀圓曹長(27)
羽藤笹一曹長(25)
高野淸曹長(23)
小澤活曹長(24)
福王子秀一軍曹(24)
中島三郎上等兵(24)

神保機搭乗員
機体未発見につき全員の生死不明(氏名略)

パレンバンとラシオの降下作戦以外に、南方作戦中の空挺隊では少なからぬ事故死・病死者を出しました。

昭和17年
3月25日 挺進第2聯隊第4中隊の大谷俊夫曹長(26)が台湾にて事故死
5月17日 プノンペン兵站病院にて挺進飛行隊第3中隊の星野儀作兵長が病死
5月24日 輸送船上で挺進第1聯隊の岡本光雄軍曹(22)が病死
5月31日 プノンペンで挺進飛行隊第1中隊の筒井四郎少佐(27)が事故死
6月1日 プノンペンで治療中だった挺進飛行第1中隊の奥村修准尉(28)が死亡
6月2日 昭南島にて第2聯隊臨時第5中隊の來野來兵長(24)が病死
6月5日 ラングーンにて第2聯隊臨時第5中隊の松本周二上等兵(23)が病死
第一挺進團司令部「別冊 昭和十七年 自一月 至六月 戦没者名簿(昭和17年8月9日作成)」より抜粋

この中で、写真などの詳細が残されているのは筒井・奥村両名の殉職事故のみ。
「プノンペンを発ってサイゴンまで、ロ式(※ロ式輸送機)による最後の飛行を行った際、戦隊の第1中隊長筒井四郎中尉は、いつもの通り先頭で離陸した。
高度五〇メートル位のとき、エンジンの故障だったろうか、飛行場の端から二、三百メートル程の所に不時着し焔に包まれた。
一名が機外に投出されて助かったが、筒井中尉以下数名は焼死した(※実際の死者は二名のみ)。
パレンバン作戦でもラシオ作戦でも、筒井機は副操縦席に新原戦隊長を載せ、編隊群の先頭に在った。
最後の飛行では新原少佐は乗っていなかったが、中隊長と運命を共にしたのは栄あるクルーだった」
全日本空挺同志会の資料より

【宮崎への帰還】

5月23日、戦況が落ち付いたことで第1挺進團に撤収命令が出されます。空挺隊員はラングーンから出港し、7月4日に宮崎へ帰還しました。
6月6日に挺進飛行隊も西貢(サイクン)を離陸し、11日に新田原飛行場へ戻っています。

輸送船の沈没、馴れぬ気候風土、激しい戦闘、頻繁な移動、不足する休養。
出撃した第1挺進團の疲弊は甚だしく、東南アジアに展開していた半年間に延1808名もの死傷・戦病者(パレンバンとラシオの戦死・行方不明者57名、戦傷死1名、病死8名を含む)を出してしまいました。
出征部隊の帰還により、新田原飛行場では南方作戦で命を落とした空挺隊員の慰霊祭が開催されています。

同時に、戦力回復と共にパレンバンとラシオで得られた戦訓の評価も進められました。特に問題視されたのが、空挺作戦における制空権と火力です。
理想的なのは、ラシオのように制空権が確保されていたケース。
しかし、パレンバンのように敵戦闘機が跳梁する中での作戦強行もあり得ます。たまたま敵機が出払っていたパレンバン降下作戦は、運が良かっただけのお話。
空の上で本格的な迎撃を受ければ、直掩機だけで挺進飛行隊を護り切れる保証はありません。敵機との遭遇を避け、奇襲の効果を高める為の手段として夜間挺進・夜間降下訓練が導入されました。

もうひとつの問題が、パレンバンで露呈した貧弱な火力。
輸送機で運んだり、パラシュート降下時に携行できる武器には限界があります。
パレンバンでは輸送機から投下された物資の捜索に貴重な時間を浪費し、更にはジャングルや湿地帯に阻まれて投下コンテナを発見できないケースも多発。携行の拳銃と手榴弾だけで戦う派目になった隊員もいました。
空挺作戦に重火器や車両まで投入する手段として、グライダー部隊の新設が提唱されます。

挺進第1連隊と挺進第2連隊、そして挺進飛行隊が帰国したことで、新田原飛行場周辺は空挺隊員で溢れかえります。
彼らが南方へ出撃中に挺進第3連隊と挺進第4連隊が新設され、陸軍落下傘部隊の規模は倍になっていたのです。

戦場から戻った挺進第1連隊員はというと、日々の演習や新規入隊者の指導、銃剣術の練習などに打ち込んでいました。
休日には宮崎市内で映画を楽しんでいたことも記されています。ただし、沈没事故で戦機を逸したことへの鬱憤がケンカ沙汰へ発展する事も珍しくなかったとか。

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挺進第1連隊の兵舎があった日向住吉は、農家が点在する海岸の砂丘地帯でした。現在も広大な防風林と耕作地が広がっています。画像は当時の高等農林学校住吉牧場(現在の宮崎大学農学部住吉フィールド)。

十月二十三日 金曜
今日は例大祭である。宮崎神宮に参拝。足も軽く宮崎市に出た。もう汗も出ないので兵舎から歩いた。氣持良い。映畫館の前はスピーカーが大きな声で人を呼んでゐる。二十時頃はもう町は淋しくなる。満洲かビルマの方に行きたくなる様な氣がする。内地も厭になった。久し振りに酒をやったが参った。

十月二十四日 土曜
朝は中々寒くなった。寒くなれば暖かくなれば良いと思ふ。去年は冬知らずであった(※パレンバン出撃のため)が、今年は此の不完全な兵舎で冬を過ごさねばならぬ。夏はぼやっとするが冬は氣がしゃんとする。九州はあたたかいと聞くが判らない。午前中は手榴弾の競技會だ。銃眼の方は自身が無い。それでも練習が第一だ。第一内務班は一番であった。割に平均良い点を取る。

十月二十五日 日曜
今日は日曜日。皆外出したが井上等は消防隊で残留だ。一日外出しないと四、五円は異ふからなあ。もう外出しても十円も十五円も使はない。何時になったら子供の様な氣が無くなるのだろうか。

十月二十六日 月曜
本日から宮崎神宮の御祭だ。九州へ來て初めて見る。部隊の参拝は二度目、南方から無事帰った御礼に参拝した。行事中は静かな事。心の底迄清められた様に思ふ。思ふのでは無い。清められたのだ。あの心境で何時も居れば悪い事は出來ない。永い間立ってゐるので腰の痛い事。二千六百年の観兵式の時はもっと痛かった。忘れられない。

井上祐子編「誠心」より 挺進第1連隊第4中隊 井上洋曹長の日誌


(第五部へ続く)

空挺給水塔 其の5 ベナベナ降下作戦計画

Category : 第五部・ベナベナ降下作戦 |

畏くも、大元帥閣下におかせられましては、本廿一日宇都宮陸軍飛行場に行幸遊ばされ、空地連合演習の天覧を賜はりましたことは、帝國陸軍の無上の光榮とする所でありまして、洵に恐懼感激に堪へませぬ。
大元帥閣下におかれましては、炎暑の折にも拘はりませず長時間に亘り親しく航空、地上両部隊の連合演習を臠せられ、天機殊の外御麗しく拝し奉り、参加将兵一同は申すに及ばず、職を陸軍に奉ずる者の齋しく感激措く能はざる所でありまして、遠く外地に在る将兵もために士氣一入昂揚することと確信致すものであります。
本日の光榮を辱う致しましたにつきましても、吾々は愈々奉公の志を固くし、粉骨砕身あらん限りの力を盡し、大東亜戦争の完遂に邁進し、以て聖旨に副ひ奉らんことを深く期する次第であります。

宇都宮天覧演習について、東條英機陸相謹話より 昭和17年7月22日

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昭和17年7月21日、宇都宮陸軍飛行場でおこなわれた降下演習。天皇および三笠宮が天覧しました。この際、隊員1名が事故で殉職しています。
川南空挺慰霊祭にて

【第2挺進団創設】

第1挺進団が帰還した新田原飛行場では、第2挺進団(挺進第3聯隊と編成中の挺進第4聯隊)、グライダー滑空班(後の滑空歩兵聯隊)などが続々と新設されていました。
そこへ戦地から2個連隊が帰国して来たので、新田原や川南の兵舎は4個空挺連隊と挺進飛行隊の将兵でごった返しとなります。
川南には唐瀬原飛行場を中心とする空挺基地も建設中でしたが、まだ第2挺進団以外を受け入れる余裕はありません。

「中三時代(一九四四)、一学期で授業はおわり、二学期より川南の落下傘部隊へ動員。爆弾はこびなどやらされた。その時の兵士たちは、その後レイテ島の戦いで全滅したと聞いた。
十月より都城の川崎航空(キ六一・飛燕という陸軍の戦闘機を製作していた)へ動員。基礎訓練後。翼の製作へ配属」
山口直昭「自転車好きの少年」より

帰国した第1挺進団は日向住吉の演習廠舎に入り、戦場の疲れを癒そうとします。しかしこの住吉兵舎、2個連隊が入るには狭すぎたとか。
しかも季節は夏。空挺隊員を詰め込んだ南国宮崎の兵舎はサウナ状態と化します。

住吉兵舎は金吹山(現在のシーガイア~阿波岐原森林公園附近)の海岸に建てられていました。粗末な建物のうえに交通の便が悪過ぎたそうで、碌でもない証言ばかり残されています。
挺進第1連隊および戦後に入居した宮崎中学校の記録を見ても
「なぜ伝染病が発生しないのか不思議なくらいの不衛生さ(第1挺進団)」
「狭い・暑い・ボロい(挺進第1・第2聯隊)」
「バラック並みの建物(宮中)」
「花ヶ島バス停から遠すぎて通学に不便(宮中)」
「遠すぎて遅刻する生徒続出(宮中)」
「遠すぎて登校できない生徒続出(宮中)」
「遠すぎて赴任した教師が2日で辞表を出した(宮中)」
「遠すぎるので花ヶ島駅と日向住吉駅の間に蓮ヶ池駅を新設して欲しいと直訴するも無視された(宮中)」
「堪忍袋の緒が切れた宮中生の父兄が進駐軍に直訴、住吉兵舎からの転居命令を出してもらった(宮中)」

と散々なものばかり。

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現在の金吹山。道路の反対側は市民の森公園(阿波岐原公園)です。

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金吹山の海岸側はシーガイアやフェニックスカントリークラブになっています。住吉兵舎はこの辺にあったのでしょうか。

日向住吉廠舎で夏の暑さに苦しんでいた挺進第2聯隊は、避暑のため熊本県の菊池飛行場へ一時移動。
川南村東地区に兵舎が完成すると、宇都宮で天覧演習を終えた第1聯隊と共に川南へ移動します。

川南空挺基地の建設は、国道10号線の遮断や土地からの立ち退き以外にも地域住民に大きな影響を及ぼしました。
唐瀬原飛行場の滑走路は、黒坂地区から東地区にかけて設置されます。滑走路建設時には表土を掘り返してから転圧。この工程で元々乏しかった地力が完全に失われ、戦後の飛行場開放時に「滑走路跡は不毛の地」「農業は無理なので工場を誘致するほかない」と呼ばれる惨状へと至ります。
また、川南空挺基地の建設により、地域住民は資源の入手場所を失う結果となりました。
空挺基地の敷地内に存在した周辺農家の所有林は18町分。
それらの林野は、日々の暮らしに必要な薪や牧草や木材の供給地だったのです。

「戦前にはなおかなりの林野があり、又更に軍用の囲込地に入り込んで採取を行うことも出来たので給源には事欠かなかつたようである。しかるに戦時体制に突入するや農家の所有林は搬出に便利なために艦船用材として伐採され又食糧増産の下にかなりの林野が開墾されて焼失したのに加えて、一方さきの特殊な用益関係は飛行場や降下場の建設と共に立入り禁止となり、一挙に給源を失つた。そしてこの期間は専ら残存した私有林の掠奪的な使用によつて切り抜けてきた」
九州大学農学部教授 塩谷勉 「林野と林業の展望」より

川南に大部隊が展開するにつれ、その胃袋を支える食糧生産も問題となりました。
いかなる精鋭部隊であろうと、兵站(補給)無くして組織を維持する事はできません。
演習にはもってこいの唐瀬原も、「台地上の川南空挺基地」と「海岸部にある日豊線川南駅」という地理的な断絶によって物資補給には手間がかかります。あの傾斜地に伊倉ヶ浜から唐瀬原までの引き込み線を敷設するのはどう考えても不可能。
仕方ないので隣の高鍋駅を物資集積地とし、トラックによる台地上とのピストン輸送で対応することとなります。

おもしろい事に、畜産中心の川南で酪農が始まったのは陸軍空挺部隊の功績(?)でした。

「川南に乳牛が導入されたのは昭和十八年のことである。昭和十六年に川南村は県の酪農指定村となつたが、指定村たるに相応しい活動は何ら行われることもなく十八年に至つたようである。
所で、川南村には陸軍落下傘部隊が駐屯していたが、この部隊の栄養不足―特に蛋白質缺乏―の進行が激しくなつて、これが対策として軍の要求の下に乳牛導入が企てられ、実施されたのである。
これが昭和十八年のことであり、この時千葉県より十八頭が移入された。村でも指導的立場にある農民、乃至財政や農会と関係の深い農家が担当者となった。
当時販路は、軍の要求によつて導入されたにも拘らず、どうしてかその牛乳は軍に納入されることなく、輸送の困難を背負い乍らも延岡方面に搬出されていたそうである。
更に同年暮れ、森永乳業株式会社が資金を援助して一〇頭の乳牛を天草より移入(この時の援助総額一ニ、〇〇〇円)、引続き森永の援助(一頭につき一、〇〇〇円)の下に数回にわたり北海道、天草等より導入した。乳牛導入を進める傍ら、森永乳業は牛乳処理場(※バター製造工場)の設立も進めた。昭和十九年に初めての処理場が現れ、川南農業協同組合(当時は川南農会)の建物の一隅に据えられた」
九州大学経済学部教官 花田仁伍「農作物の流通構造」より

落下傘部隊が飲む筈だった牛乳を、わざわざ県北へ売っていた理由は何だったのでしょうか?

森永乳業資本の独占は続きますが、戦後には元陸軍落下傘部隊の軍医が明治乳業の支援を受けて九州酪農株式会社を設立。川南への酪農進出を図るも、森永vs.明治の戦いは森永に軍配が上がりました。
森永乳業の資金援助が終ると、地元農協が酪農支援事業を引き継ぎます。しかし、農協が北海道から移入した乳牛100頭のうち川南で売れたのは21頭のみ。残る69頭は地元農家へ貸付となりますが、結局は380万円もの負債を抱えて終了しました。
しかし、この失敗も無駄とは言えません。戦後しばらく経つと、乳牛の飼育頭数は急速に増加。昭和18年に僅か31戸だった川南の酪農家は、20年に79戸、23年には261戸、25年には377戸となっています。
陸軍落下傘部隊の要請から森永乳業・明治乳業・農協の競合を経て、ようやく川南の酪農は定着したのです。

戦時から現代に至る積み重ねを破壊したのが、2010年の口蹄疫でした。

【待機と訓練の日々】

さて、牛乳から空挺部隊のハナシへ戻ります。
陸軍空挺部隊の演習は、「パラシュート降下してその場で戦闘訓練」というイメージがあるかと思います。実際は、そんな生やさしいものではありませんでした。

規模の拡大に伴い、空挺部隊は訓練地域を宮崎県全域へ広げます。
当時の空挺隊員が使っていた演習地図を調べると、宮崎市の大淀川流域やえびのの霧島連山付近での行軍ルートが書き込まれていました。
霧島ルートの場合、霧島神宮参拝後に高千穂峰へ登頂、烏帽子嶽を一周して神宮へ戻る行程だった模様。
大淀ルートの一例を挙げると、新田原飛行場を離陸した空挺隊は川南の塩付降下場へパラシュート降下。そこから二手に分かれ、一隊は県道40号線を木城町役場まで南下して小丸川から県道312号線を茶臼原へ登り、もう一隊は国道10号線を南下して高鍋町役場から県道24号線を三財原へ登り、東都原台地の端に在る大口川交差点で合流(ここまでは普通)。
そこから目の前の新田原飛行場へ戻ると思いきや、2隊は大口川から台地を下り始め、一ツ瀬川を渡って妻町(現在の西都市)を通過し延々と24号線を南下、東諸県郡へ入って高岡町の小学校で一泊。
翌日、木城チームは大淀川沿いに国道10号線を宮崎市方面へ進み、八紘台(現在の平和台公園)へ寄り道したあと県道9号線を東進してゴールの日豊線大淀驛(現在の南宮崎駅)へ到着。
高鍋チームは大淀川から県道13号線を延々と宮崎郡へ南下し、ゴールの日豊線清武驛へ到着。
そこから列車で川南へ帰るという長距離行軍でした。ルート上には補給ポイントや仮設敵らしきマークも記されており、体力錬成というより実戦を想定した行程であったことがわかります。
第1連隊第2中隊などは、宮崎市住吉の海岸から高岡~野尻~小林を経由し京町温泉(えびの市)まで行軍していました。自動車で走っても遠い距離です。証言によると相当にキツかったとか。

空挺同志会の資料では、宮崎県内各地どころか満洲まで遠征していたことが記されています。

「訓練は唐瀬原で行われたが、当時のことであったから演習場以外の道路や山林などはどこでも演習に使うことができた。
我々は敵地に降下したならば地上機動は脚力によるほかなかった。歩兵のように連日行軍を続けるようなことはないにしても、ある距離を至短時間に機動する必要性は大きいものと考えていた。
そこで北は延岡、南は本庄、高岡あたりまでは縦横に使ってこの種の訓練を行った。
訓練で流す汗は戦場で流す血に代るものだった。
熟地ばかりで降下していては訓練にならぬというので、霧島山麓にある軍馬補充部(※軍馬補充部高鍋支部小林派出部)の牧場を借りて降下訓練を行ったこともあった。
また、予想戦場は南方だけではないと、十八年二月及び十九年一月の二回、満洲に渡り白城子で寒地研究演習を行った」
「空挺部隊写真集」より

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宇都宮天覧演習の解説。因みに、実際の宇都宮演習は7月21日開催で、一般報道されたのが22日です。
川南空挺慰霊祭にて

【宇都宮の天覧演習】

宮崎で次の作戦に備える第1挺進団でしたが、栃木県宇都宮で昭和17年7月21日に開催された天覧演習「特別空地協同演習」にも参加しています。
演習の内容は、宇都宮飛行場を防衛する「赤軍」に対し、「藍軍」が航空攻撃をかけるというもの。落下傘部隊はもちろん藍軍です。

大元帥閣下には、廿一日親しく聖駕を栃木縣宇都宮陸軍飛行場に進めさせ給ひ、教育総監山田乙三大将の下、世界に冠たる帝國軍航空部隊の「特別空地協同演習」は藍軍(攻撃軍)、赤軍(防衛軍)攻防の大立體戦闘演習であり、去る二月十四日突如として蘭印スマトラの要衝パレンバンに降下し世界を驚倒せしめたわが空の神兵、陸軍落下傘部隊の激闘を彷彿せしめる降下攻撃軍(藍軍)と、これを邀撃する宇都宮守備隊(赤軍)の演習である。
大東亜戦争下殉忠の誓ひも固く、極暑瘴癘頑敵の障碍を克服して聖戦完遂に邁進する皇軍将兵の赫々たる武勲を御嘉尚あらせ給ひ、またその労苦を偲ばせ給ふと共に、戦時下将兵の士氣を御鼓舞遊ばさるゝ特別の思召による意義深き陸軍演習への行幸、その訓練を天覧あらせられたが、重ねての畏き大御心の程拝察するだに誠に畏き極みである。


8時30分に日光田母澤御用邸を出発した天皇一行の自動車は、9時50分に宇都宮飛行場へ到着。先着の三笠宮(実弟・陸軍将校)と合流し、山田演習統監、寺田幕僚長、後藤少将、宇都宮師団長、東條陸相、杉山参謀総長、土肥原航空総監、四尾軍参議官、安藤軍参議官、木村陸軍次官ら軍高官の挨拶を受けます。
その後は山田演習統監、寺田幕僚長の案内で、開戦後に鹵獲した連合軍のホーカー・ハリケーン戦闘機、ロッキード・ハドソン爆撃機、マーチン爆撃機などを見学。
続いて落下傘部隊の武器や装備に関する解説の後、演習開始に臨みました。

10時20分、青吊星の信号弾2発が打ちあがると同時に、藍軍の爆撃隊が南方から宇都宮上空へ侵攻。「彼我不明の大飛行部隊は○時○分富嶽を通過、東北進中なり」の連絡を受けた赤軍は直ちに迎撃機と対空砲火で邀撃態勢に入り、模擬空中戦が展開されます。

「彼我弾幕の寸隙を縫ふこの大決戦は、マレー、ビルマの航空撃滅戦もかくやと偲ばれて凄愴の極。この戦闘の経過は統監山田大将より逐次、陛下に奏上されたが、陛下には親しく双眼鏡を御手に天覧あらせ給ふた。
かくて戦機いよ〃熟し、一度退避した攻撃郡爆撃部隊は再度襲來、地上對空火器に對し猛烈な制圧攻撃を開始した。攻防決死一如、戦ひ正に酣なる時、天地を圧する爆音轟々と飛來するは空の大艦隊藍軍新型大型輸送機の大部隊である。
忽ち鵬翼大空を覆うたと思ふ瞬間、飛び散るは空の精鋭落下傘兵の一群である。黒きつぶての如く兵は落下する。背後に白百合の如き傘を負うて……。
ついで、南方作戦に威力を發揮した火炎放射器、弾薬等新鋭兵器も續々投下される。
地上守備兵はどうか。落下傘部隊に協力する攻撃軍戦闘機の銃撃を物ともせず、降下兵を殲滅すべく抵抗線の砂嚢より前進邀撃し、既に終結を終つた落下傘兵との大決戦に移つたが、この時戦車等機械化部隊の宇都宮警備隊の一隊が救援に到着。
場内は血闘につぐ血闘の修羅場と化し、こゝに攻防戦は最高潮に達し、カリジャチの遠藤部隊戦車殲滅戦もかくやとばかりの大激闘を展開し、正に落下傘部隊の攻略成らんとする時、黒龍の信號弾(黒龍のやうな黒煙のあがる信號弾)發せられて、演習は中止された。時に午前十一時卅分。終始天機殊のほか御麗はしくこの演習を臠せられられた。
大元帥閣下は一旦便殿に入御、御少憩の御後午前十一時四十分統監、幕僚御先導、蓮沼侍従武官陪乗の無蓋自動車に御乗、整理された演習場戦線を御巡視、戦ひ終つて汗、埃、硝煙にまみれた我衣のまゝ直立してこの日の光榮に感泣する演習部隊勇士の奉送裡に再び玉座に着御。
御少憩の御後、正午君が代吹奏、諸員各隊奉送裡に飛行場發御。午後零時廿五分、宇都宮驛發車、午後一時廿九分御用邸に還幸遊ばされた。
なほこの日、演習に参加した勇士一同に御煙草を、又特に陪観を許された幼年學校生徒一同に御菓子を御下賜あらせられ、重ね重ねの光榮に一同感泣した」
東京日日新聞「陸軍落下傘部隊攻防演習を天覧」より

僅か1時間とはいえ、天皇と軍高官の前でその能力を披露したことは、鬱憤を溜め込んだ挺進第1連隊にとってガス抜きとなりました。
但し、この演習では松浦軍曹が墜落死するという痛ましい不開傘事故も起きています。

当時の落下傘の降下は未だ九七式の傘で、総べて降下演習は降下場のみで行われていた。ただ昭和十七年の夏、宇都宮練兵場に於て、第一聯隊が天覧降下演習の光栄に浴したが、一人傘が開かぬ儘落下、天皇の眼前にて殉職したのは誠に痛ましい限りであった。
当日は雲が低く、普通降下開始が通常高さ六〇〇米位から行うのが、四〇〇米位から開始されたらしく、後尾の降下者は高さ二〇〇余米位から降下することになった為、主傘が開かず、前部につけた予備傘を開いたが完開する以前に着地して仕舞つたというわけである。
落下傘部隊の初の生地降下演習は、或る意味では日本陸軍の戦力増強確認の為の大きな前進的実力判定の試金石とも考えられたろう

挺進第3聯隊 中園健一氏「落下傘部隊の思い出」より 昭和40年

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宮崎県小林市「まきばの桜」にある陸軍軍馬補充部高鍋支部小林派出部記念碑。現在ものどかな牧場ですが、かつて日本最大の空挺演習が行われた地でもあります。

【小林の大降下演習】

十月十八日 日曜
十時より聯隊長殿の離任式が有り、後落下傘の装帯点検。一式落下傘は大丈夫と信じ切った。一式で降下するのは初めてで、不開傘と云ふのは無いと云ふ。
二十日は生地降下演習。午後からは、降下準備訓練。機胴体の飛降り、体操、傘を両方付けてゐるので、機体の中は仲々せまい。飛出しにくく思ふ。空中寫眞地図等を見ても、大した不生地でも無いらしい。

十月十九日 月曜
午前中は住吉神社に参拝。体操服を久し振りに着た。浜松、東京時代を思い出す。上空を見上げれば、ATが七機、見事な編隊で飛んでゐる。明日の今頃は、井上も乗ってゐるのだ。千米以上は有る。風が少しもない。降下は楽だろう。不生地だから困るだろう。

十月二十日 火曜
今日は待ちに待った降下も終わった。思ったより楽だ。不生地と思ったがそうでもない。しかし木に掛った者も多くゐる。自分は平たい草の上に着地した。一式の傘は初めてだったが、何とも思はず飛出た。二番降下者は一番が離脱したらすぐ出るので一寸びっくりする。三番が良い。講評は中々良い。しかし無鉄砲な者ばっかり居るらしい。今迄ノ中で一番風が強い相だ。其で一番集結したと云ふからうまいものだ。

十月二十一日 水曜
今日は侍従武官の巡視。無事終了。営内はきれいになつた。冬服を着用したが重い。もう早く夏服が着たい。

十月二十二日 木曜
今日は射撃。三百射ったがスコ0だ。どうして當らないかと思ふ位である。午後から落下傘の点検。虫が喰った所は大きな穴が明いてゐる。絹に防虫薬でも付けて置けば虫も食はないと思ふ。明日は例大祭だ。延刻外出。今月と来月は休みが多いぞ。ちと本を見なければならない。まだ遊びたい氣持が多くて困る。

井上祐子著・陸軍落下傘部隊挺進第1聯隊第4中隊 井上洋曹長の日誌「誠心」より、小林大降下演習前後の様子

宇都宮演習を上回る規模となったのが、同年10月19、20日に小林町(現在の宮崎県小林市)でおこなわれたパラシュート降下演習でした。
場所は小林町細野にあった軍馬補充部高鍋支部小林派出部の軍用地。現在では「まきばの桜」として知られるお花見スポットでもあります。
こちらは全てのパラシュート連隊が参加した記念すべき演習だったものの、空挺部隊関連の資料ではごく簡単に触れた記述ばかり。天覧演習の陰に隠れて、全くといってよい程知られていません。
幸いにも、参加者の貴重な証言が残されているので引用してみましょう。

「たしか巣の浦台地一帯の夷守(ひなもり)岳北側高原は某仮想敵国の地形に相似の点があったかのかもわからない。
とにかく空挺部隊の初の生地降下演習であり、挺一、挺二、挺三、挺四と当時の日本の全陸軍落下傘部隊の総力が結集されたわけで、昭和十七年十月十九、二十日の両日、各聯隊毎、午前十時、午後二時に分れた演習は相当計画も周到に、又大掛りな事前準備もされたらしいのである。
当時はぼつ〃補充兵の召集も頻繁になり、既に平時の日本陸軍の姿はデサント(※ロシア語で「空挺部隊」の意味)部隊にしかないと云われて居た事実の通り、日本陸軍の虎の子の精鋭だったわけである。
それだけ防諜関係もきびしく、そのころ、新田、川南附近は、日豊本線の列車の窓さえ、とざして通過させ、降下訓練の実態を望見させなかった頃だけに、小林附近の人々は、夷守岳の緑をバックに空に浮いた“空の神兵”の唄の一節、真白きバラの花模様そのまゝの情景は今尚、印象深く残って居ることと思っている。
憲兵や警官の警戒態勢も厳を極めたらしい。然し土台見るなというのが無理なはなし、南の空を見てさえおれば、いやでも応でも目に入って来るわけで、その上見るなといえば余計に見たいのが人情の常。警戒の眼をかすめ、ひそかに、夫々降下地点付近に忍び寄る人には正に甲賀、伊賀の忍者の情感が沸いたかもわからない」
挺進第3聯隊 中園健一氏「落下傘部隊の思い出」より

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小林降下演習がおこなわれた軍馬補充部高鍋支部小林派出部跡地(現在の独立行政法人家畜改良センター宮崎牧場)。
奥に聳えるのは夷守岳と霧島連峰。

この中園氏は、降下地である宮崎県小林町(現在の小林市)の出身。
野砲第6聯隊から千葉の野戦砲兵学校職員を経て、中支派遣第11軍司令部参謀部付特務機関員として大陸へ赴任。揚子江流域の交通事情・外国人資産の調査に当っていた時期に「中支戦線より機動部隊要員として三名採用」の文書を目にします。
調査任務に退屈していた中園氏は、この募集に飛び付きました。

「上海に越年、長崎港に上陸、新田原基地に入ったのは昭和十七年の新春であった。パレンバン出撃歓送の直後、挺三部隊の編成を担当、R本部人事係として半才、仮兵舎から新装の営舎に移転を完了したのは既に尾鈴の山に秋の気配が漂いはじめる頃であった。
挺進部隊は聯隊長以下全員が落下傘降下して戦斗に参加する為、隊長は勿論、軍医も、主計も、とにかく部隊員全員が落下傘の降下訓練は一律である。
無論、私もその通りで、創設事務のをり〃、単独降下から集団降下、夜間降下と一通りの基本降下の試練を終へた。落下傘降下は降下の度毎に生死の間を一度は彷徨することになるわけだが、それ故にか、降下手当があった。
当時のお金で月給の半分に近い高額が月のうち三度以上の降下者に支給された。その為に兵など血の気が多い連中は日曜日の小遣いかせぎと、降下訓練志望者も多かった様である。
武者小路実篤の日向の新しき村、木城村(※現在の木城町)から高鍋町の北を流れる小丸川に秋はぜ釣りの一日、右足首に護岸用蛇籠の針金を刺したのが化膿し、小林の生地降下には参加せぬと連絡したら、親父が高鍋迄やって来た。
故郷の空で降下せぬとは何たる親不孝か。
足の一本位折れても跳べということらしいのである。そこで足の痛みはおして跳ぶということになり、ニコ〃して帰って行った父も逝いて十二年、今は懐かしい追憶の一こまである(中園氏)」

あまりに大規模な演習のため、降下部隊は2手に分れて発進します。
10月19日、第1挺進団は熊本の黒石原から、第2挺進団は新田原から離陸。それぞれ小林上空を目指しました。

「一片の雲もない清澄な晩秋の故郷、小林の空であった。
新田原飛行場を飛び立った数十機のAT輸送機は太平洋上で大きく旋回、整然と編隊を組み、白波砕け散る青島上空から一路高千穂峯(※西臼杵郡高千穂町ではなく霧島連峰の高千穂峰です)北側をかすめ、小林上空に進入して来た……高度一二〇〇米……。
(中略)
私の知悉する範囲に於ては、小林附近の生地降下演習が最初であり、又最終の生地の降下演習であった様である。
時速二〇〇キロの輸送機は高度一二〇〇米(地上よりの高さは約六五〇米位でしたろうか)附近より逐次降下が開始され、一機の降下人員十二名の数十機故、一こ聯隊の降下人員は大体数百人だったろう。ちなみに当時の聯隊総員は約一、〇〇〇名前後であった。
勿論、憲兵も警官も、とにかく日本人にとっては初めて公開の大空中ショウ。パッ〃〃と落下傘が開いた瞬間、かしこの草むら、こちらの山かげから、見物人の顔〃〃でしたろう。
そして憲兵も警官も空を見上げるのが精一杯、叱るどころぢゃない。開いた〃で共に顔見合せて感激をわかったというところぢゃなかったろうか。
その例に洩れず、永田平公園の丘も待機して居る人で一杯だったらしい。私の縁つづきのJ叔父は、予め父から私の搭乗機と降下時間と降下の順番を聞いていたらしい。
“ひれた、ひれた。健一どんが傘がひれた(訳:開いた、開いた。健一さんの傘が開いた)。もうつかやねー(※解読不能)”と吾しらず叫んで仕舞ったとか。無論私が確認出来たわけぢゃないだろうが。
強い衝撃を両肩に覚え、巨人の手で首をつかまれて振り廻される様な状態の末、傘が全開、漸次降下し乍らの故郷小林の眺望。
山や川、森や田畑の黄金の穂波。部落のたたずまい。矢張し何処の地よりも美しく感じられたのも、空よりの郷土訪問が出来たよろこびと、さゝやかな誇りの情が胸中を去来したのでしょうか。
柿の豊作の年で、真紅の冨有柿を籠で一杯、大満悦のM家の義父から貰い、帰路の車中、皆と一緒に舌づゝみをうったこと。
町役場の二階で大歓待をうけたこと、たしか兵事係は今はなき大坪さんでした。私の在熊時代、大変お世話になった現海老原市議の御尊父や、現市議種子田さんも当時の役場で、軍関係の担当で、いろ〃御厄介になり、又喜んでいただいたことが思い出されます。
生家にも一寸寄り、近所の人々に対しいさゝか得意の様でした。東方の大久津市議の令弟、敬二君が挺三聯隊に在隊、小林の出身として、地上勤務で来られる様手配も致しました。
大久津君はやがて良成績で累進、中堅下士官として精励、十九年高千穂特別挺進攻撃部隊員として共に比島に出動、凄烈なルソン島攻防戦に参加、幾度か死線を越す戦斗を闘ひ抜き、重傷を負われながらも生還。今元気で農業を自営されて居ります。
挺一、挺二は熊本黒石原基地から、挺三、挺四は宮崎新田原から搭乗、連日二日の降下演習は小林附近の人々に強い皇軍信頼と戦意発揚の念を更に昂め、金色の鳶のマークを胸部につけた空挺部隊員の人気もとみにあがりました」

小林の演習でも、空中投下される予備傘を見て「落下傘が開かなかった殉職事故」と勘違いする人が続出したそうです。
この辺の見間違いは、川南住民と同じですね。

「今に尚、当日物料投下の染色の木綿の落下傘が隊長用だったとか、胸部に装着していた予備傘の着地前投下を見て、傘が開かず殉死した者が幾人か居たとか、などの思い出を四方山ばなしの時をり聞くことがあります(中園氏)」

その後の落下傘部隊は、宮崎で訓練と待機を続けながら冬を越します。陸軍落下傘部隊史においてはエアポケットのように平穏な時期であり、空挺兵舎の市民見学会やスポーツ大会などのイベントが開催されたり、正月には休暇をとって久々の帰省をする隊員もいました。
下記は空挺兵舎一般開放の様子。大勢の宮崎市民が見物に押し掛ける様子や時期・場所的に、現在の新田原基地航空ショー(毎年末開催)を彷彿させます。


十月二十八日 水曜
今日は一日ポスターをはりに佐渡原(原文ママ。佐土原の誤り)から大淀(川)へ、全部で一五○枚位はった。三十、四十枚位すぐはると思ってゐたが、中々場所を考へてやると時間が掛るものだ。井上は宮崎の南部及び大淀を受持ったが、二十二時迄掛った。其でもはって帰らない訳には行かない。一人でも多くの人が来る様にやるのだ。記念祭が楽しみである。

十月二十九日 木曜
五時起床、射撃、一發命中、珍らしい。新聯隊長殿の着任式、後模型の飛行機を製作。明日は手榴弾投擲の競技會だ。

十月三十日 金曜
明後日は創立記念日第一回。うれしい氣がする。子供だ。何人位來るかしらんと思ふ。少ししか來なかったらがっかりするぞ。午後から(挺進)練習部の手榴弾の競技會。日常の練習が口を利いて今度は聯隊で一番。他の聯隊にも負けない位の点数だ。うれしい。自分もめったに入らない銃眼に三發入った。珍しい。記念日の準備に多忙だ。何やらかんやらやったやった。

十月三十一日 土曜
今日は終日準備だ。明日の一日だけの事であるが、中々大事。博物館も出來るし、面白いぞ。假装行列には面白く笑はしてやろう。

十一月一日 日曜
朝から來た來た。えらい人間の浪。式に出たが、早くすめばよいと思ふばっかり。次次の行事に忙しい。思ってゐたより人の多い事。自分等の起居してゐる兵舎にわんわん入って來ると、子供の様に嬉しい。皆張切ってゐる。兵隊さんは兵営に居る時は知らぬ顔をしてゐるが、良い人を知ってゐるものだ。びっくりする。まあ天下御免だから、色々な面會だ。

十一月二日 月曜
朝起きたが氣が抜けた様だ。しかし昨日の事は何もわすれて又演習だ。午後は聯隊長殿の初度巡視。今度の隊長は良い人だ。聯隊の為に大いにやるぞ。今の調子でやればものすごい中隊になる。

十一月三日 火曜
今日は四大節の一つ、明治節である。聯隊長殿は、挺進隊の戦人は世界で一番優秀でなければならぬと云はれた。何時もそうなければならぬとは思ってゐるが、其が中々なれない。平常はどうか判らないが、一つ事が起れば判るのだと思ふ。外出もあるが、何か良い事を一つしよと思ひ乍ら外出したが、一つも良い事をしないで終ってしまった。二十三時二十分営門を入った。

十一月四日 水曜
休日の翌日は、ぼやっとして飛行機も落ちると云はれるが、成程もさっとする。其はまだ頭の中に昨日の事が残ってゐるからだ。からりと忘れて、又演習をやるのだ。此で良いのだ。遊ぶ時には大いに遊ぶ。やる時には大いにやるのだ。

井上洋曹長の日誌「誠心」より

こうして宮崎に4個パラシュート連隊が勢揃いしたものの、翌18年、第1挺進団は再び南方へと出撃しました。
そして、僅か1年間のうちに、前線の情況が悪化していることを目の当たりにします。

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投下された火炎放射器を組み立てる陸軍空挺隊員。パラシュート降下の場合、かさばる武器は別途降ろす必要がありました。こうした問題点を克服する手段としてグライダーの導入が始まります。

【アッツ島救援作戦】

空挺部隊を片道特攻に使おうとした最初の事例が、アッツ島の戦いでした。

昭和17年6月、日本陸海軍はアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を電撃占拠。これはミッドウェーと連動した陽動作戦であり、戦略的な価値や長期化させる必要などありません。
しかし、ミッドウェーの大敗北を隠したい軍上層部は両島の占領をハデに宣伝。そしてズルズルと占領を引延ばします。同年11月に報告された「早期の撤退か、もしくは両島全体をベトンで固めた要塞化が必要(「戦史叢書」より)」という現地レポートも無視されてしまいます。
守備隊が北の孤島で越冬している間に、米軍はアムチトカ島へ飛行場を建設。アッツ・キスカ奪回作戦の準備を整えてしまいました。
昭和18年5月、米軍はアッツ島への上陸を開始。激しい空襲を受けていたキスカ島に、アッツ島を支援する力はありません。南太平洋へ戦力を投じていた海軍にも、北の果てに回す余力はナシ。
軍部が全くの無能無策だったという訳ではなく、幾つかの救援作戦も立案されました。
孤立無援となったアッツ守備隊への支援策が、陸海軍合同による空挺作戦。アッツ降下作戦は陸軍空挺部隊500名、海軍空挺部隊300名から成る「白菊部隊」を投入する大規模なもの。無論、米軍に包囲されたアッツ守備隊を救うのは不可能でした。
それでも味方の到着を信じて戦い続けるアッツ島に対し、「せめて空挺部隊による増援を」という意見が出たのでしょう。
しかし5月29日、木更津基地で準備を整えた白菊部隊が出撃拠点の北海道へ進出する前にアッツ守備隊は壊滅。
アッツ島降下作戦は幻に終わりました。

空挺部隊の戦場は東南アジアから北太平洋のアッツ島へ、そして南太平洋の島々に移ります。

【ベナベナ空挺作戦】

米軍の反攻が始まった昭和18年、ニューギニアの山岳地帯ベナベナ及びハーゲンには連合軍の飛行場が建設されつつありました。ここから飛び立つ連合軍機は、日本の輸送船団にとって脅威と化します。

アッツ救援作戦が中止となった直後の6月19日、ベナベナの飛行場群を制圧するため、第1挺進団に出動命令が下されました。

昭和十八年七月二日 雨後曇り 住吉発十九時
中隊全員舎前に整列し御旗を奉じ必捷の確信に燃え勇躍兵衛出門、花ヶ島駅(※現在の宮崎神宮駅)に向ふ。途中部隊を留め隊長訓示を行ふ。聖地阿波岐原頭を出でて今正に征途に就かんとす。神武の御東征を偲び光栄一入なり。阿波岐原頭に浄雨降り注ぎ、妖雲空を覆ふと雖も、東南の空を望めば瑞兆なるかな紺碧の空光を放ち……

森上起男氏の証言「園田隊長を偲んで」より、ニューギニア出撃時の様子。

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現在の日豊線宮崎神宮駅(旧花ケ島驛)。第1連隊は、ここからニューギニアへ出撃しました。

第1挺進団は6月28日に動員完了。宇品港へ向かった挺進第1連隊は青葉丸と有馬丸に、挺進第2連隊は焼津丸に乗船して7月6日に宇治を出港。翌月12日にはパラオ諸島のコロール島へ上陸後、船舶に分乗してペリリュー島の松島飛行場へと移動します。

破竹の進撃を続けていた前年とうって変わって、ガダルカナルの敗退、山本五十六連合艦隊長官の戦死など、南方戦線は劣勢に転じつつありました。
そのような状況を認識していなかった空挺部隊側は、現地部隊との齟齬をきたしてしまいます。

ペリリュー島まで進出した第1挺進団でしたが、現地の第18軍は「例え空挺部隊が現地を占拠しても、1000m級の険しい山脈を踏破してベナベナ・ハーゲンへ地上部隊が進出するのは極めて困難」と判断。現状を認識できず、机上の空論に終始する陸軍上層部とは反対に、空挺部隊の投入案には否定的でした。
第18軍の理性的な判断とは違い、血気に逸る空挺部隊では戦略的思考すら失われていた様です。
近視眼的な自己満足か自暴自棄か、呆れたことに片道特攻に等しい空挺部隊単独での攻撃も検討されました。しかし、米軍の空襲激化によってすべての計画は頓挫。更にはペリリューも敵の空襲に晒されるようになり、降下作戦は9月25日に中止となります。

昭和18年11月19日、第1挺進団は帰国の途につきました。
しかし、日本に上陸する暇もなく南方への再出撃が命じられます。

29日、部隊は門司港到着と共にすぐさま反転。台湾・シンガポールを経由して再びスマトラへと向かいます。
スマトラ島ベラワンへ上陸後、団司令部と飛行隊はメダン、挺進第1聯隊はペマタンシャンタル、挺進第2聯隊はシボロンボロンに展開。
ビルマ方面軍と連携しながら、ビルマやアンダマン諸島方面の連合軍反攻に備えました。

南方総軍司令部では、インド国内の情報を収集するため、チャンドラボースの指揮するインド独立義勇軍の兵士を、インドに空路潜入させることになった。このインド兵は、初めイギリス軍に属し、日本と戦い捕虜になった連中で、後にインド独立義勇軍に編入され、日本軍に協力していたのである。
陸軍挺進練習部では、南方総軍からの要請を受け、松宗中尉以下数名を派遣し、スンゲーパタニ―で、インド兵に降下訓練を実施した。今度は、パレンバン降下に加った中野学校出身者とは違い、日本の練習員と同じ時間をかけ、しっかり教育した。降下は数回実施し、無線機を携行して夜間降下ができるまでになった。ここで教育を受けたインド兵は、三〇名ばかりだったという。
次で訓練場を、スマトラのメダンに移し、ここでは、インド兵の諜報員だけでなく、チャンドラボースの親衛隊に対しても、降下訓練を実施した。当時メダンにはわが第一挺進団が駐留しており、この教育を担当した。
さて、降下訓練の終わったインド兵の諜報員は、ビルマの最前線キャンプに移動し、ここから月明の番に飛び立って、インド国内に降下潜入した。
その後どうなったか、現存資料では明確でない。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

スマトラ滞在中の挺進団は、外国軍兵士に対するパラシュート降下教育も担当しています。これはチャンドラ・ボースのインド国民軍兵士に対するもので、将来のインド侵攻へ向けた支援として行われたのでした。
同時に、空挺部隊では敵勢力下へ降下潜入する諜報要員の育成も計画していた様です。

「当時、万に近い大部隊が中部日向の平地に屯し、高鍋近郊は一躍軍都の観を呈したのである。
この間、私も静岡の航空情報聯隊に、印緬作戦に呼応、印度領に降下、後方攪乱要員として欧文無線、語学を専攻。熱心に努力したせいか、数カ月後は、ホノルル、ダッチハーバー、エスピリットサントetc、直接米軍の生電文を傍受することが出来る様になって居た。卒業をまたず、次で豊岡陸軍航空士官学校、水戸航空通信学校将校学生として全く寧日なく、きたえらえどおし。今考へると口笑しいようですが、三十才前でしたかが自ら老骨とオンヂョぶって大難儀の様でありました(中園氏)」

昭和19年3月、ビルマ方面軍はインパール作戦を開始。
山脈と密林を踏破して英軍との戦いに臨んだ第15軍ですが、峻嶮な地形と悪天候によって杜撰な補給計画はすぐに破綻します。その結果、飢餓と病で膨大な数の将兵が犠牲となりました。
無能な上層部によって惹き起されたインパールの悲劇を、あえてここで解説する必要はないでしょう。この大敗北において、もはや空挺部隊の出番などありませんでした。

1年間を棒に振った第1挺進団は、南方作戦を諦めて昭和19年8月14日に川南へ帰還。
空しく帰国した第1挺進団と交代するように、挺進第3連隊及び第4連隊で構成される「第2挺進團」は新たな空挺作戦へ投入される事となります。

第2挺進団、通称「高千穂空挺隊」によるレイテ降下作戦の始まりでした。

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クレタ島を強襲したドイツ降下猟兵は、連合軍の反撃によって大損害を被ります。

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負傷した仲間を野戦病院へ後送するドイツ空挺隊員。東部戦線にて 1943年

因みに本家であるドイツでは、クレタ島降下作戦(昭和16年)における空挺部隊の犠牲の多さに驚愕し、以降大規模な降下作戦を行っていません。
ノルマンディーやマーケット・ガーデンといった大作戦に投入された連合国側空挺部隊に比べ、日独伊の枢軸国側空挺部隊は敗色が濃くなるにつれ、いずれも地上部隊として、または小規模な特殊作戦で使用されるに止まっています。

戦局の暗転と共に、日本陸軍落下傘部隊も悲劇的な運命を辿ることとなりました。

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そのうち、市内にたくさんの兵士達が来るようになり、土曜日曜は、兵隊さんばかりで、市内が賑やかになり驚くばかり。話によれば、川南と新田原の基地駐屯兵士達という事でした。上官に会うごとに直立不動の姿勢で、階級下となる兵は手を降す事なく敬礼ばかりしていた。
私は、その様子を見て、階級社会とは厳しい定めがある事を知り、上官に対し絶対服従とは見た通りの姿であろうと思い、主人も牡丹江ではさぞ油を絞られる兵隊のろまの一人に近いないと思うのでした。
店には川南に駐屯していた千葉県の方で、鴇矢(ときや)という軍曹が公用で見えた。丼、茶器類等よく買って下さる。
時には私に見立てて下さい、丈夫なのがよいですと言う。私がこの品がよいでしょうと言うと、すぐ買い求めて帰って行く。ときどき立ち寄り暫く世間話、自分の故郷の事を懐かしそうに話しておりました。
僅かな時間に楽しそうに話して隊へ帰って行く姿は、明日の事も知れないお国に捧げた体、覚悟の精神で満ちあふれていたように見えました。宮崎市内に来たら必ず店へ来て下さっていた鴇矢軍曹は、少しですが皆さんで分けて下さいと、かん詰類、チョコレートを持って来て下さる。皆なで二十分ほど雑談しては、ジープで隊へ帰っていた。
しばしの休憩でも楽しそうでした。
一週間過ぎた頃、市内に外出してくる兵士達がだんだん少なくなるように見えていた。突然、違う兵が見えて、鴇矢軍曹より小包を頼まれましたと私に差し出した。何だろうと皆と開けて見たところ、板チョコ菓子がたくさん入っていた。
走り書きで「自分は隊を立ちます。体に気をつけて下さい」という内容が書いてあった。
日が経つごとに市内での兵隊さんの姿は見られなくなり、淋しい町になっていきました。


藤川ツユコ著「道をひらく わが半生の記」より

空挺給水塔 其の6 高千穂空挺隊

Category : 第六部・レイテ降下作戦 |

軍服姿ではあったが、その日の榊原中尉(※落下傘部隊挺進第4聯隊所属)は珍しく大きなふろしき包みを手に提げて、威勢よく院長宅へ顔を出した。
「あら、いらっしゃい。今日は大きな荷物を持って、何かご用でも?」と明るく迎える母の声。
「こんにちは。今日は高鍋の叔母からことずかって、鍋女挺身隊(※宮崎県立高鍋高等女学校の勤労奉仕団体)でレーヨン工場(※日窒化学工業株式会社の延岡人絹工場・現在の旭化成)に来て居る従妹に是を届けるんですよ」
「榊原さん、レーヨンの場所ご存じ?」
「いや、初めてだけど大きな煙突のある工場だからすぐ分かりますよ」
「それじゃ、お昼休みに合わせて会いにいらしたらどう……。公子、ご案内して上げたらいいわ」
気軽く言い残して、母は台所へ入って行った。
かぼちゃ、あんのお菓子パン、大豆と野菜のご汁、たくあん大根葉の漬物と、戦時食としてはボリュームの有る昼食を済ますと、延女(※宮崎県立延岡高等女学校)の制服に着替え、私は家から400メートル先のレーヨン工場へ彼を案内した。
兄弟といえども、男女一緒に行動する事のはばかられた戦争中に、若い将校と肩を並べて歩いた気恥ずかしさと、近所や道歩く人の視線がすごく気になった少女時代のほのかな感傷が思い出される。
正門を入ると、ツーンと鼻をつく酸性の臭いが立ち込め、胸がムカムカして来たが、内で働く人達は空気の悪さに慣れて居るのか、平気な顔をして昼休みをくつろいて居た。
事務所で面会の手続きをしてから程なく、三つ編みに白鉢巻のほっそりした女学生が小走りに私達の前に立った。
白いへちま襟の上衣と縦縞のモンペ、黒いズックに高鍋高女の名札をつけた少女は、二人の突然の訪問に面喰らい、戸惑って居る様に見えた。
「やあ、幸子暫くだったね。元気に頑張って居ますか」と声を掛けてから
「こちらの女学生は駅前の林病院のお嬢さんで、延岡高女一年生の林公子さん。部下と一緒に時々伺って、大変お世話に成って居るんだよ。
さあ二人とも向かい合って挨拶しなさい」
紹介に続いての号令に、二人の女学生は弾かれた様に最敬礼。
彼女のお母様が娘の無事を祈り、愛情を込めて一つ一つ詰めた衣類や食料品の慰問品で有ったと思うが……。
包みを手渡された時の彼女のうるんだ目、「有難う御座います」がやっとの小さな声を忘れる事が出来ない。
同時に“幸子さんは榊原中尉のお嫁さんになる人かも知れない”とふっと思ったりした。

北国公子(旧姓林)氏 「高千穂降下部隊と延岡高女」より

陸軍落下傘部隊はずっと戦地にいた訳ではありません。
地域社会と共存しながら、4個連隊にまで規模を拡大したのです。その過程で、地元には幾つもの記録や証言が残されました。
戦史上は地味な扱いの挺進第4聯隊ですが、宮崎県の郷土史において最も多くのエピソードで知られる部隊。
今回はそれらを絡めながら、高千穂空挺隊について取り上げましょう。

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「空挺落下傘部隊発祥之碑」の基礎部分にある高千穂空挺部隊の碑文。
レイテ出撃前に隊員が書き遺した「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」が刻まれています。
宮崎県川南町護国神社にて。

(第5部からの続き)

こうして華々しいデビューを飾った陸軍空挺部隊。
しかし、挺進第2連隊によるパレンバン降下作戦の後は待機を続ける日々が続きました。計画されていたラシオやベナベナ・ハーゲンへの降下作戦は天候悪化や戦況の変化により中止。
漸く巡ってきた陸軍空挺部隊の次なる戦場は、フィリピンのレイテ島となります。この作戦へ投入されたのは、挺進第3連隊と挺進第4連隊及び挺進飛行隊で編成された第2挺進團。
通称「高千穂空挺隊」でした。

この高千穂空挺隊に関して、地元宮崎ではひとつの悲話が残されています。

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現在の国立病院機構宮崎病院。戦時中は挺進第3聯隊の兵舎が並んでいた場所です。

【小丸川水難事故】

川南から戦場へと向い、帰還することの無かった空挺隊員は大勢います。
いっぽう、この地で命を落とした者もいました。

昭和18年6月18日、隣の高鍋町で渡河訓練中、挺進第4聯隊の伊藤中尉以下8名が溺死する水難事故が発生。
陸軍落下傘部隊の演習において、最悪の殉職事故となってしまいました。

雨上がりの18日、川南から高鍋へ南下した第4聯隊員200名は小丸川の北岸へ到着。
「敵が小丸橋を占拠している為、渡河して対岸へ上陸」との想定で、川を渡り始めます。
演習責任者の榊原達哉中尉は事前調査で安全だと判断していましたが、上流域の尾鈴山地で大雨が降っていた事には気付きませんでした。
渡河の最中、小丸川の水位は見る間に上昇。
増水の勢いでロープが切れ、将兵は重い装備を身につけたまま濁流に投げ出されました。
当時事故を目撃した人は「岸から見ていたら、中央付近で黄色い流れに吸い込まれるように川の中へ消えていった(宮崎日日新聞「空の神兵の悲話」より)」と証言しています。
何とか岸に這い上がった教育隊ですが、そこに補助教官の鈴木少尉や演習小隊長の伊藤中尉ら8名の姿はありませんでした。

「兵隊さんが溺れちょる」と叫ぶ声が聞こえました。川のあちこちに死体が流れ着いて町じゅうが大騒ぎでした
事故発生時現場付近にいた、陸軍落下傘部隊挺進第2聯隊 川原正雄曹長の証言より

付近住民や高鍋中学の生徒も駆けつけ、小丸川の河口まで含めた捜索が開始されます。
その中には、高鍋中学に通っていた榊原中尉の実弟もいました。

「周囲はやがて暮れなずみ、岸辺ではたき火がたかれた。水死状態の兵士を裸にして体を温めた。人工呼吸をしながら横たわる兵士の名を大きな声で呼ぶ声が聞こえた。担架に乗せられ、毛布をかぶせられた死者の足が、たき火の明かりに異様に白く見えた。その印象は鮮やかに残っている」
元旧制高鍋中学 押川国秋氏の証言より

3日間の捜索によって、8名の遺体が川の中から引き揚げられました。ある遺体は、しっかりと小銃を握り締めていたそうです。
箝口令でも布かれたのか、この大事故は一切報道されていません。
事故後、殉職者の慰霊碑が小丸川の岸辺に建てられました。

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宮崎県高鍋町にある、小丸川で殉職した空挺隊員たちの慰霊碑。碑が向けられているのは事故現場の方向でしょう。
風化が激しかったため、戦後に碑文を記し直した銅板が取り付けられています。

「忠烈 八勇士殉職之地」の碑文より

陸軍大尉 伊藤成一
陸軍中尉 鈴木寛
陸軍准尉 河原田津留吉
陸軍曹長 平方國三郎
陸軍兵長 池本治登
陸軍上等兵 杉村博
陸軍上等兵 山崎茂男
陸軍上等兵 大森良市


昭和十八年六月十八日挺進第四聯隊では新に所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。
前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押流されて八名が殉職した。
この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思い止まった。
翌十九年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と連携できる見込みの全く無いタクロバン降下部隊指揮官を志願し、八名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。
殉職八柱の魂魄もレイテ作戦に参加したのである。
碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか
何日散るかは知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事の為昭和四十年に現在地に移された


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殉職空挺隊員の慰霊碑が設置された高鍋大師

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高台から小丸川を見下ろす異形の巨大石像群。

戦後の護岸工事により、行き場を失った碑は高鍋大師へ移設されます。
異色の宗教施設として有名な「お大師様」ですが、その厚意によって慰霊碑は失われずに済みました。

碑文にあるとおり、この挺進第4聯隊は事故の翌年に出撃。
フィリピンを巡る攻防に、陸軍落下傘部隊が大規模投入されたのです。

【テ號作戦のはじまり】

給水塔
●夜明け前の挺進第3聯隊兵舎給水塔。宮崎県川南町唐瀬原にて

昭和19年10月20日、ダグラス・マッカーサー率いる米軍の大部隊がレイテ島に上陸。
既に制空権を失っていた日本軍は奥地へと撤退しつつ、米軍との戦闘を開始しました。しかし、増援に向かう輸送船は米軍機の攻撃によって次々と撃沈され、フィリピンの日本軍は深刻な事態に陥ります。
海上補給を回復するには、米軍に占拠されたレイテの飛行場群を1日でも早く破壊しなければなりませんでした。

10月24日、宮崎県川南で訓練中の挺進第3連隊にフィリピンへの出撃命令が下されます。
これが、第2挺進団(秘匿名「高千穂」)による、レイテ島の米軍飛行場群を制圧する「テ号」作戦の始まりでした。

「欧州戦線の独伊の敗退に伴い、極東の戦局もいよ〃膠着状態に入り、米英の反撃は物量に物を言わせ、日に日に激化を極め、愈々大詰め、比島の攻防戦が展開された。
“敵軍が腹中に入る”勇将山下奉文司令官の豪語は隷下部隊員に大きな心強さを覚えさしたが、戦局の見透しは必ずしも楽観を許さず、嘗て航士校在学中、戦術講義の際、教官から「この戦いはよくいって長期百年戦争になる」という、当時としては思いきった言葉がしきりと思い出された。
レイテの攻防が天王山と目された昭和十九年十月、尾鈴山に秋のかすみが流れ、すゝき穂ゆする風が、ようやく冷涼を覚える日、突如嚠喨と鳴り響くラッパは緊急動員下令の報せであった。
挺進集団の全力をあげて比島進攻の大命は降った。下令の翌日、挺三、挺四の主力は川南の駅から、一死君国に報ぜんの決意も固く、従容として征途についた。壮士往きて再び還らず、真実峻厳な慌しい訣別の一幕であった。
当時私は水戸航空通信学校の教育(※後方攪乱要員としての無線・英語教育)を終へて帰隊、宿所のないまゝ家族は小林に居住させ、高鍋の町にひとり下宿住いをしていた。動員下令は丁度夕食前であった。
食事には少し早いなーと、ラッパが鳴ったときフッと思ったからである。
聯隊本部に将校全員を集合、白井聯隊長は緊急動員下令明正午出立の旨を下達された。諸般の指示を終へたのち当夜確か二十二時迄、外泊者は家事整理の為、帰宿が許された。私は残務整理後、部隊主力に追及する様指令を受けて居たので、出立日迄に両三日の余裕があり、小林の方へ電話連絡、宿の荷物整理も簡単で、同宿のO大尉の支度などを手伝い、集合点の十字路に出向いた。
空挺隊は隊務の関係から若い将校が多く、従って新婚の家庭が多かった。
それ故にか別離が切実で、真剣な訣別の情景が秋冷の闇の中に展開され居た。
征く者一万有余人、生還せる者僅かに数百人。特に川南部隊の挺三、挺四聯隊は主力は殆んど全滅、私の属した挺三部隊の生存者はたった数十人足らずで、誠に惨、惨の極であった。当夜高鍋の四ツ角で愛別の紅涙にむせんだ若妻達の夫君は殆んど、比島戦線に散華し遺品だに還って来なかったのである」
挺進第3聯隊 中園健一氏「落下傘部隊の思い出」より 

このとき動員された第2挺進團の編成は下記の通り。
第2挺進團(高千穂) 団長 徳永賢治大佐
挺進第3連隊(香取) 連隊長 白井恒春少佐
挺進第4連隊(鹿島) 連隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島) 戦隊長 新原季人中佐
挺進飛行第2戦隊第1中隊(阿蘇) 中隊長 三浦浩大尉


1.高千穂は意図を秘匿しつつX-1日夕までに「アンヘレス」地区及び「リパ」地区に集中し、X日薄暮、戦爆主力の掩護の下レイテ島に進航、跳下(落下傘降下の事)す。
2.跳下部隊は主力を以て「ブラウエン」北、各一部を以て「ブラウエン」南及「サンパブロ」飛行場に跳下し まず敵飛行機、飛行場施設及資材を破壊焼却したる後「ブラウエン」北飛行場に集結し、尚武の斬込部隊と提携して為し得る限り同飛行場を確保す
3.着陸部隊はタクロバン及ドラッグ飛行場に強行着陸し 敵飛行機、飛行場施設、特に滑走路を破壊し、あるいは障碍を設け、まず夜間戦闘機の活動を封殺したる後、所在航空資材の覆滅に勉む

10月24日、第3連隊は唐瀬原を出発。
佐世保からルソンへ向け空母隼鷹に乗込みます。
続いて25日には第4聯隊も動員発令を受け、赤城山丸にて出発。
新田原の挺進団司令部と挺進飛行第1戦隊は11月6日に後を追いました。

高千穂空挺隊は、ブラウエン北(ブリ)、ブラウエン南(バユグ)、ブラウエン中(サンパブロ)、ドラグ、タクロバン各飛行場群への落下傘降下及び輸送機ごとの着陸強襲を行い、現地第16及び第26師団の斬り込み部隊と連携して飛行場を制圧する計画でした。

第1波レイテ降下部隊

ブラウエン北飛行場攻撃隊 
挺進第3連隊 連隊長白井恒春少佐 挺進飛行隊17機 パラシュート降下 
ブラウエン南飛行場攻撃隊 
挺進第3連隊 桂善彦大尉 挺進飛行隊6機 パラシュート降下 南・北合計330名
サンパプロ飛行場攻撃隊  
挺進第4連隊 龝田大尉 挺進飛行隊3機 パラシュート降下 24名
この3飛行場には、予備部隊を反復降下の予定

ドラッグ飛行場攻撃隊  
挺進第3連隊 竹本中尉 第95戦隊重爆2機 26名
挺進第4連隊 宮田嘉孝中尉 挺進飛行隊第2戦隊7機 パラシュート降下 1個中隊(50名?)
タクロバン飛行場攻撃隊 
第2挺進団司令部 佐藤中尉 第74戦隊重爆2機 強行着陸 13名
挺進第4連隊 榊原大尉 挺進飛行隊第2戦隊2機 パラシュート降下 13名
第5飛行團 13機が煙幕構成、4機がタクロバンとドラグへの強行着陸に協力。

第2派レイテ降下部隊(予備部隊)
挺進第3連隊残余 輸送機の航続距離を考え、リパ飛行場にて待機
挺進第4連隊残余 アンフェレス飛行場にて待機


11月14日、挺進團司令部と第3連隊が南サンフェルナンドの製糖工場倉庫(宿舎)に到着。
12月3日には第4連隊も合流しました。

高千穂隊がブラウエン降下作戦を準備する中、別の部隊がブラウエンに空挺攻撃をかけたというニュースが伝えられます。

給水塔

高千穂隊に先んじてブラウエンへの空挺強襲を図ったのは、中野学校出身の中重男中尉以下、台湾高砂族義勇兵ら48名の遊撃兵で編成された「薫空挺隊」でした。

【薫空挺隊と高千穂空挺隊】

台湾軍に遊撃第1および第2中隊(各192名)が編成されたのは昭和18年12月24日のこと。
両中隊とも、指揮官・通信・衛生担当者は中野学校出身者。他の140名ほどが台湾山岳民族で占められた、ジャングルでのゲリラ戦専門部隊でした。山岳地帯に適応した彼等は、かつてゲリラ戦をもって台湾総督府の統治に激しく抵抗したことで知られています。その特性を活用したのが台湾軍の遊撃中隊でした。
湖口で半年間の訓練を受けた2個中隊は、19年5月28日にニューギニアへ向け出撃。しかし途中で目的地が変更となってマニラへ上陸しました。
第2中隊はモロタイ島へ移動し、米軍相手のゲリラ戦を展開します。ルソンに残留した第1中隊へ、第4航空軍からブラウエン特攻部隊を差出すよう命令が下ったのは11月22日のこと。
第1中隊から選抜されたのは、中重夫中尉率いる40名の遊撃隊員でした。
彼等は「薫空挺隊」と命名され、ブラウエン特攻「義号作戦」はスタートします。

11月26日夕刻、薫空挺隊員を乗せた飛行第208戦隊のダグラス輸送機4機はリパ飛行場から出撃。
結果は、ブリ飛行場に突入した1機が着陸直前に対空砲火で撃墜され、他の3機がドラグやバレンシアの海岸に不時着というものでした。
ドラグのリーサル附近海上に不時着した機では、味方と間違えて救助に来た米兵と交戦して2名が戦死、その他十数名は海岸の沼地に撤退。
アブヨグのバト河口に不時着した機でも1名が戦死、他の乗員は密林に姿を消しました。
バレンシアに不時着した機の隊員は、第26師団と一緒に行動しているところを目撃されています。
しかし、彼等がその後どのような最期を遂げたのか、誰一人として生還した者がいない為何もわかりません。

同じ目標に対し、それぞれ所属の違う部隊が互いの存在を知らないまま空挺攻撃をかける。
そこには情報共有や連携の意思も見られません。このようにチグハグな作戦計画で、軍上層部が何の戦果を期待したのかは不明です。
薫空挺隊の犠牲にも拘らず米軍側の被害は皆無であり、日本軍の空挺攻撃へ警戒を高めるだけの結果に終わりました。

遊撃第1中隊主力も海路でレイテへ向かう途中で撃沈され、尾山中隊長以下100名が戦死。レイテへ辿り着いた50名も大部分が戦死を遂げました。

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ブラウエンへ出撃する薫空挺隊。高千穂空挺隊とは違い、台湾義勇兵を中心とする特攻隊でした。

この事が高千穂空挺隊に伝わるや、隊内で激論が交わされました。
薫空挺隊への称賛と「落下傘兵以外の者にブラウエン攻撃の先を越された」という反感がない交ぜだったようですが、生還の見込み薄いタクロバン飛行場への突入が追加されたのは、薫空挺隊への対抗心が一因ともされています。

空挺部隊が露払いをしてから主力部隊が侵攻するという、一応は空挺作戦のセオリーに則ったブラウエン攻撃作戦の中で、タクロバン飛行場攻撃は無謀としか表現できない計画でした。
ブラウエンから離れた地点にあるタクロバン飛行場は、例え空挺部隊が制圧に成功したとしても、友軍がそこ迄進出する予定は無かったのです。
同行するドラッグ攻撃隊は突入後にサンパブロ攻撃隊と合流することになっていました。しかし、タクロバン攻撃隊については脱出ルートすら無く、降下しても米軍に包囲されるだけです。

上層部は何を考えていたのか、この片道作戦を認可してしまいました。
遂に、精鋭の空挺部隊までもが特攻に使われ始めたのです。

急遽追加された「玉砕攻撃」は、空挺部隊とは無関係のパイロットたちまで巻き込む結果となりました。
タクロバンおよびドラグ攻撃隊の空輸には、挺進飛行隊に加えて第5飛行団の第74戦隊(海藤稔軍曹以下5名)及び第95戦隊(佐藤嘉男曹長以下5名)から計4機の重爆が参加しています。
第5飛行団は両飛行場への攻撃ルートを熟知していた為、わざわざ選ばれたのかもしれません。

両飛行場攻撃部隊とも玉砕は覚悟の上。
タクロバン攻撃隊指揮官に志願した挺進第4聯隊の榊原達哉大尉は、第1部で取り上げた小丸川水難事故で殉職した8名の位牌を持って出撃したとあります。
水難事故への償いに苦しみ続けた彼にとって、漸く見つけた死地がタクロバンだったのでしょう。

給水塔

【延岡高女と空挺隊員】

ここで、話を同年4月に戻します。

ある日の昼下がり、宮崎県延岡市にある林病院へ一人の男性が訪ねてきました。
酒に酔った男は、長女の林公子さんが見守るなか「初めてお目に掛かります。自殺の方法を教えて頂き度く伺いました」と林牧太郎院長へ自殺用の薬剤を処方するよう強要します。
水難事故で部下を死なせてしまった自分は死んで償うしかないのだ、と語る彼を林院長は諭し、自殺を思い止まらせました。
やがて落ち着きを取戻したその軍人は、「生きて部下の分まで国の為に尽しなさい」という院長の言葉に頷きます。
これが、榊原中尉と北国公子(旧姓林)さんの出会いでした。

「荻町から三軒屋に続く七間道路では、荷物を積んだ馬車や大八車が、時折カラカラ音を立てながら通って行く。
其の中を、午前十時過ぎの上り列車で延岡駅に下りた一団の兵士が上官に連れられ林医院の方へ歩いて行くのを、近所の人は興味深げに眺めていた。
「御免ん下さい」
前庭から垣根越しに男性の声。
日頃客の多い院長宅では、人数の多さは余り気にしない方なのだが、いきなり、くぐり戸から中庭に入って来た10人近くの兵隊さんに、又しても驚かされた。
一体何事かと、勉強部屋に居た兄が真っ先に飛び出して来た。
「お早う御座います。榊原です。
今日は落下傘部隊の部下を連れて遊びに来ました。
おい、皆様へご挨拶申し上げろ」
中尉の号令で直立不動の姿勢を取った彼らは、院長家族に対して挙手の礼。
「良くいらっしゃいました。さあさあ、お上がりなさい」
院長一家も心和んで彼らを温かく座敷へ招いた。
海兵志願だった兄は、18才くらいの若者と気が合ったのか、時々大声で笑ったり、肩を叩き合って話が弾んで居た。
榊原中尉は酒が好物と見えて、たくあんとおろしなますを摘まみに、部下たちと気炎を上げて居た。
「公子さん、女学校一年生でしたね。此のピアノで歌を聞かせてほしいな!」
突然彼は座敷に置いて有ったピアノを指差し、何か歌って!と私に所望した。
まだ場慣れしない私は、恥ずかしさ一杯で隣の部屋へ逃げ込み、今の話を早口で告げた。
座敷へ行った父と榊原中尉の間で何の話が有ったのか、暫くして父が「延女の綾校長にお願いして、兵隊さん達に女子学生の清らかな歌声を聞かせて挙げたいものだ」と、誰に言うとは無しにつぶやいて居たのを思い出す。
午後二時頃、母の心尽くしのおにぎりやふかし芋で、お腹が一杯に成った兵士達は、満足した顔で高鍋へ帰って行った」
藤野憲三編「川南町開拓地に生きて」より 北国公子氏の証言

大尉は、それからも林医院をたびたび訪れます。
一度などは、榊原中尉の母が息子の非礼を詫びる為に同行してきたこともあったのだとか。

給水塔

翌月初旬。
部下を連れた榊原大尉は、放課後の宮崎県延岡高等女学校にトラックで乗り付けます。
男子禁制の女学校でしたが、綾哲一校長は彼らを快く迎え入れました。
「校内にいる生徒はすぐ講堂に集まってください」との放送で、まだ学校に残っていた藤原美々子さんら女生徒10名ほどが講堂へ向かうと、そこには空挺隊員たちが待っていました。
「戦地へ赴く部下の為、思い出を作ってやりたい」という榊原大尉の希望を叶える為、林院長が知人の綾校長に女生徒との交流を依頼しておいたのです。
「きみ、何年生?」「はい、四年生です」
藤原さんと短い会話を交わしたあと、「勇ましい歌がいいですか?」と尋ねる同校の池田先生に、大尉は女学生たちの好きな歌を聴きたいと希望します。
先生は、彼等の心に残る歌を選びました。
♪眠れ 眠れ 母の胸に…
空挺隊員達は静かに目を閉じ、女生徒の合唱するシューベルトの子守歌に耳を傾けました。

一週間後、大尉はメンバーを入れ替えて再び来校します。
前回同様、ひととおり合唱が終った時のこと。
「大変陽気で、茶目っ気の多い此の都会的な青年将校は、悪戯っぽい目でにこにこしながら、今度はバスケットの交歓試合を申し出られた。
「ええっー、私たちとバスケット?」
榊原中尉の此の突然な申し出に私たちは驚いた。
然し、そこは「うん、やろう」と言う事に成って、即席チームが出来上がり、雨天体操場のゆか板をきしませながら、早速バスケットが始まった。
「こっちへ投げて」「ハイ、回して、回して」
互いに大きな声を掛け合って生徒達は走り回ったが、中々ボールが入らない。
然し背の高い彼らは、ちょっとジャンプしては簡単にシュートを決め、その度に、生徒たちはキャアキャア言って口惜しがった。
若くたくましい彼らは、巧みなパスでボールを回し、防御しようと必死で腕を広げる生徒と派手にぶつかっては、あちこちで笑い声が絶えなかった。
もう、皆汗びっしょり……。裏の堤防を越えて吹き込む五ヶ瀬の川風が、ぬれた肌に何とも心地良かった。
別室で、素早く軍服に着替えた彼達が、私たちの前に直立不動で並んだが、微動だにせず、正面を見据えた顔のなんとさわやかで頼もしかった事か……。
「皆様にお礼を申し上げろ」
榊原中尉の張りの有る声が響いた。
「有難う御座いました」
彼等は一斉に挙手でお礼を言い、私達もはにかみながら是に答えた。
此の時、彼らが半年後には「大東亜戦争」の天王山となるフイリッピン・レイテ島に特効隊として出撃、帰らぬ人に成られるとは、私達には知る由も無かった。
出撃を前に、死を覚悟した榊原中尉が、自分自身に青春の証を刻みつけ、死地に赴く部下たちにも女学生との淡い思い出を作って上げようと、あえて禁男の女学校に、部下のメンバーを替えて、二度来られたのだろう」
藤野憲三編「川南町開拓地に生きて」より 藤原美々子氏の証言

後年、宮崎日日新聞の取材に対し「彼らはとても明るく、死が間近に迫っているようには見えなかった」と藤原さんは語っています。

その帰りに林医院へ立ち寄った榊原中尉達は、林公子さんに女生徒とのひと時を嬉しそうに報告していったそうです。
満足したように川南へ帰っていった空挺隊員は、二度と延岡高女を訪れることはありませんでした。
訪れたとしても同じことだったでしょう。
延岡高女の生徒たちも、翌月から軍需工場への学徒動員により次々と学び舎を去っていったのです。

高千穂空挺隊がレイテへ出撃する、半年前の出来事でした。

水難事故
「何日征くか 何日散るかは知らねども 今日のつとめに 吾ははげまん」
小丸川水難事故慰霊碑の拓本。詠んだのが小丸川で殉職した伊藤大尉なのか、それともレイテへ赴いた榊原大尉なのかは不明。
宮崎県児湯郡高鍋町にて。

【ブラウエンの攻防】

12月1日にはフィリピンヘ到着していた挺進飛行隊ですが、爆薬や飛行士の空輸を命じられて降下部隊との合流を果せませんでした。
5日には搭乗予定者が丸一日遅刻したりで、更に時間を浪費してしまいます。
ようやく挺進飛行隊が勢揃いしたのは作戦当日のことでした。

なかなか到着しない挺進飛行隊を待ちながら、高千穂空挺隊はレイテ出撃準備を整えます。
しかし、空挺作戦と連携して地上侵攻する筈の現地軍は、武器はおろか食糧すら欠乏している状態でした。作戦前に現地を視察した第14軍の田中参謀は、痩せ衰えた将兵達の姿にショックを受けたといいます。
山地に立て篭もる第16師団は、4個大隊程度にまで戦力が減っていました。
陽陸前の武器・食糧を空襲で失った第26師団も、補給を期待出来ないまま険しい脊梁山脈を越えてブラウエンに辿り着かなければなりません。

第16師団からは2千名が出撃したものの、当然ながら途中で食糧が尽きて行動不能に陥りました。
飢餓に苦しみつつジャングルを切り開き、神谷大佐の第9連隊400名のみが何とかブラウエンに到達。附近に潜んで空挺部隊の降下を待ちます。
第26師団も同じく飢餓に苦しみ、ブラウエンに辿り着けたのは重松大隊だけでした。
敵の飛行場群を攻撃するには余りにも少ない戦力ですが、第4航空軍では「両師団が合流した」と判断。高千穂空挺隊へ出撃命令を下します。

12月5日の出撃予定は挺進飛行隊の到着遅延で6日に延期。
しかし、ブラウエン付近に潜む地上部隊へそれを伝える術はありませんでした。
「連日の爆撃で目標周辺の対空砲は損害を受けている」という報告も、全て希望的観測。米軍の強力な防空網は健在でした。

机上の計画と、戦地の現実は悲惨な程に乖離していたのです。

台湾で再編成を終えた挺進飛行戦隊本隊はアンフェレスに到着、5日になって漸く降下部隊と合流しました。
残る機も翌日に到着し、1日遅れでテ號作戦は開始されます。

「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」
南サンフェルナンド倉庫の壁にこう書き残し、昭和19年12月6日16時40分、高千穂空挺隊第一波降下部隊470名は挺進飛行隊36機に分乗してルソン島クラーク飛行場を飛び立ちました。
続いて煙幕構成任務の第5飛行團重爆13機とタクロバン・ドラグ攻撃機4機が離陸。
編隊はバゴロド上空で護衛戦闘機30機と合流し、一路レイテ島を目指します。

ブラウエン攻撃隊の先頭を行くのは煙幕を展開する第5飛行団第95戦隊の重爆7機、その後を同74戦隊の6機が進み、3分航程遅れて空挺隊員を乗せた霧島隊(挺進飛行隊)が続きました。

日没が迫り、護衛戦闘機は基地へ帰還。中古機を寄せ集めた編隊は、一路レイテ島を目指します。
18時過ぎにいったんレイテ島沿岸を通過した編隊は、スリガオ海峡上空でレイテへ向け反転。
二手に分かれてブラウエンへの突入を開始しました。

この時、日本機大編隊襲来の報により、米軍は迎撃態勢を整えつつあったのです。

空挺


自軍の損害を含めて詳しく報道されたパレンバンの時とは違い、高千穂空挺隊の作戦は国民に対して表面的な内容しか発表されていません。

昭和19年12月、読売新聞掲載の「紅蓮の敵基地へ 天降る純白の華」には、挺進飛行隊空輸隊長新原季人中佐の談話として次の様な話が載っています。
「六日の午後、基地を進発したわが輸送機隊は、直掩戦闘機の護衛のもと大編隊を組んで一路ブラウエン飛行場へ向かつた。
前方に生じた悪気流と東北風の風雨に悩まされつゝも一路敵飛行場へと速度を早めた。
天佑か、敵戦闘機の邀撃もなく悠々敵地上空を進むわが編隊の高度は、左方の雲間から見え隠れするレイテ脊梁山脈と正に同じ位だつた。
瞬間、左方の山稜から敵機関砲の物凄い砲火が真横から水平に注がれて来た。
ブラウエン飛行場の二本の滑走路が眼下に見えた。
そのとき周邊の地上砲火の火網が火のスコールとなつて機の周囲に炸裂して来た。
敵飛行場ははや真下だ。
この周邊には友軍機の先制猛爆撃による敵燃料集積所の火焔と思はれる火柱が数本、四邊一帯は火の海だ。
敵は周章狼狽、高角砲、高射機関砲を総動員する火網陣に加ふるに、レイテ湾内に碇泊する数十隻の敵艦艇よりもわが編隊めがけて一斉に降り注ぐ弾雨は、さすがに物量を誇る敵だけに、自分も今まであれほどの火網に包まれた(こ)とは生まれてはじめてであつた。
わが神兵達は悠々自若機内で携行の夜食のあと、必勝の信念を眉宇に敵飛行場の真只中に一兵また一兵、美しい花と開いて降下して行つた。
時正に○時○○分(検閲による伏字)、薄暮迫るブラウエン飛行場上空で自分は神兵達の健闘を祈念しつゝ、次の任務のために高度をぐつと上げて基地へと向かつたのである」

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ブラウエンに降下する高千穂空挺隊員。
陸軍航空隊本部陸軍中尉 原文哉「ビイ二十九をおとすには」より 昭和20年

作戦の結果については、下記のように発表されました。
「白い傘が一列にパツと咲き、一瞬敵基地上空は白蓮が満開する。
低空降下のため敵は応射する遑もなく瞬時にして地上に落下だ。
地に下った空の神兵達はかねてよりの猛訓練により直ちに行動、忽ち組立を終つた○砲(検閲による伏字)まで交へて猛射開始、敵地上施設、飛行場の爆破に向かふ。
一時は飛行場の草原を疾風のやうに突進する。
忽ち敵の基地群は爆音に包まれ朦々たる黒煙があがつた。
わが奇襲は大成功を収めたのだ。
時に○時○分(検閲による伏字)報告第一報が降下地上部隊より基地に打電された。
『われ攻撃に成功せり』(〃)」

新聞記者が一緒に降下した訳ではないので、戦闘の描写は想像で描かれたもの。
この勇ましい発表と違い、実際の高千穂空挺隊は悲惨な末路を辿っています。

レイテ降下作戦
●煙幕立込めるブラウエンへ降下する高千穂空挺隊と炎上しながら突入するタクロバン・ドラグ攻撃隊。
川南護国神社の空挺慰霊祭にて。

18時30分、ブラウエン上空に日本軍の大編隊が現れます。
先行の第5飛行団13機は攻撃高度3000m、速度270㎞/hで目標上空へ侵入。この煙幕展開部隊は大した抵抗も受けず、飛行場風上地点への煙幕弾投下に成功しました。
続いて300mまで高度を下げた挺進飛行隊が目標上空へ到達。
しかし、待ち構えていた米軍は地上及び艦艇群からの猛烈な対空砲火で迎え撃ちました。せっかくの煙幕も役には立たず、集中射撃を浴びた挺進飛行隊は次々と撃墜されていきます。

ブラウエンへ向かう編隊からスリガオ海峡上空で別れ、レイテ湾を目指す輸送機の一群がありました。
タクロバン飛行場へ向かう第95戦隊2機とドラグ飛行場へ向かう第74戦隊2機、挺進飛行隊9機の計13機です。ブラウエン攻撃隊パイロットが最後に見たのは、米艦隊からの猛射に晒されながら飛んでゆく13機の姿。
彼等は1機も戻ってきませんでした。
タクロバン攻撃隊の大部分は突入前にレイテ湾上空で撃墜されます。1機のみが目標に到達し、駐機中の米軍機5機を巻き込んで墜落炎上。ドラグ攻撃隊も、目標到達前に全機撃墜されたと推定されています。
米軍の通信を傍受していた日本側も、「敵に多少の動揺があったらしい」ことしか聴き取れませんでした。

8名の位牌を入れた図嚢を抱いてタクロバンへ向かったあの榊原大尉は、どのような最期を遂げたのでしょう。
それを知る人はいません。

高千穂空挺隊
夕暮れのブラウエン飛行場へ降下する高千穂空挺隊。 川南空挺慰霊祭にて

挺進第3連隊を中心とするブラウエン北・南及びサンパブロ攻撃隊は、18時50分に高度300mから一斉に降下を開始しました。

「大きな機体を数百米まで高度を下げ、速度200粁迄落した編隊は、地上砲火には全く好餌食である。立ち所に、次々に被弾したが、その時は既に目的地上空にあった。
「皆、現でやって呉れよ」
「お世話になりました。必ずやります」
生別死別の間、操縦者達とかく応答を交した。降下将兵はやがて敵頭上を目指して勇躍跳び降りて行った。
兵員を降した飛行機は、それこそ地獄の中を通り抜ける様なものであった。その間の被弾状況を「丁度、連続バケツを叩いている様であった」と搭乗員は報告している。
跳下の前には、各自は輸送機の天井にとりつけてある、一本の鋼索に、落下傘を袋から引き出す役目をする紐(※スタティックラインのこと)をとり付ける。落下傘兵が機外へ飛びだせば、その紐が傘を開き、落下傘の頂点の所でその紐が身体の重みで切れて、紐は機内に残り、人は開いた傘を背負って降下するのである。
若しこの鋼索が切れれば、飛行機の支点が無いから、紐が落下傘を引き出さなくなる。
この鋼索が、時折落下傘兵の降下の衝撃で切れたり、鋼索を天井に取付けた金具がはずれたりする。
平常はそんな場合は飛び降りた落下傘兵は予備傘を開いて降下し、次の者は降下中止をするのである。
戦場の真只中で、弾薬を多量に持つ時、予備傘を持っていない時、この故障が起きた時は、兵員は如何に処置すべきだろうか。
梨つぶての様になって、地上へ叩きつけられるべき運命の兵の後を追って、もはや取りつける鋼索もないまゝ、落下傘の開かない事を充分承知の上で、敵を目指して一途に、次々と飛び降りて行った一機の十数名の挺進兵の姿を、その機の操縦者達は皮膚に粟を生じながら、基地で報告を行っていた」
空挺同志会資料より

地上に降り立った各攻撃隊は、混乱状態のまま戦闘へ突入しました。
ブラウエン南に降下した筈の第2中隊からは連絡が途絶え、そのまま桂中尉以下全隊員が行方不明となります。
目標のバユグ飛行場が攻撃を受けたという米軍の記録はありませんので、第2中隊は目標を誤り、サンパブロに降りてしまったのかもしれません。
一方、300名(実際は124名)もの日本兵が降下したと記録されているサンパブロ飛行場では、激しい攻防戦が展開されました。
穐田中隊はサンパブロ飛行場施設の破壊に成功した後、ブリ飛行場方面に移動して戦闘を続けた模様です。

高千穂空挺隊の奇襲攻撃によって、ブラウエン飛行場群は混乱の極にありました。
飛行場の周囲にいた米軍の整備兵らは、何が起きたかも分からぬうちに日本軍降下兵の銃弾を浴びます。
ブラウエンには米軍の第11空挺師団も駐屯していたのですが、大部分は司令部要員だったので戦闘には寄与しませんでした。
これを「日米空挺部隊同士の激戦!」などと大袈裟に語る向きもありますが、実際は現地部隊の一部に空挺隊員が含まれて居た程度だった様です。
米軍側が態勢を整える前に夜となり、戦況は膠着状態に。
飛行場周辺に潜む高千穂空挺隊との睨み合いは、翌朝まで続きました。

サンパブロ飛行場の戦いについては、米軍側の証言が残されています。

「少佐ジヨージ・マーフイの談
日本軍落下傘部隊がサンパブロ基地に降下した當時、この基地には比島人を除き、三四名の米國兵が居たが、脱出の出来たのは僅か十二名で飛行士四名、通信将校一名、兵十七名は行方不明である。
余の数へたところによると、飛来した日本軍の輸送機は〇〇台だつたが、六日夜にまだ夕の残光を残してゐる頃、突然これらの輸送機が極めて低空で飛来した。
忽ち米軍の高射砲が咆えはじめたが、落下傘降下の状況は暗らすぎて見る事が出来なかつた。
更に生存者の一名、伍長トーマス・バーゼデツトも次の通り報じ、當時の戦慄を語つてゐる。
日本軍は森林地帯に降下した。
われわれは手許に小火器しかなかつたが、落下傘部隊を目がけて力の限り射ちまくつた。
日本軍の降下作戦は極めて巧妙だつた。飛行場をたゞちに襲撃する代りにその周辺の森林地帯に音も無くかくれて仕舞つた。
七日の午前二時頃だつたと思ふが、同僚の一衛生兵が遠くで射撃の音を聞いたやうだと云つた。
彼等はその事を直ちに上官の中尉に報告したが、中尉は日本兵が来たら目に物見せてやると景気のよいことをいつてゐた。
日本兵の攻撃のはじまつたのは六時卅分頃で、そのころわれわれは食堂に集まつて食事中であつたが、すぐ傍らの稲田を横切つて突進して来る日本兵の部隊が認められた。
我々は自動小銃で応戦しつつ穴の中に逃げ込んだ。すると〇〇名ばかりの日本兵が突込んで来て、忽ちこの食堂を占領した。
それから全くの混戦状態となり、敵味方一つの狐穴(フォックスフォール:散兵壕の英名)で死闘を演ずるといふやうな激烈な場面も随所で展開された」
AP通信より リスボン十一日同盟 昭和19年12月13日

給水塔

残るブラウエン北に降下した第4中隊は、白井恒春挺進第3連隊長の掌握した60名と土屋少佐の70名に分断されながらブリ飛行場の占拠に成功しました。

「23:00 本部の一部集結す。
此の間、一部兵力を以て滑走路上観測機約十機を発見、爆砕焼却し全機を破壊すると共に幕舎、弾薬集積所位置等を焼却し、第2次挺進隊に飛行場標示のため、所在ガソリン缶を天明まで引続き焼却す。
約60名集結するや滑走路北側、森林内の飛行機格納掩体等を利用し、陣地を占拠し黎明迄に工事を命ずると共に目標となるべき樹木に国旗を掲揚し、占領確保を明示せり。
此の間垣兵団の斬込隊も、重松大隊の斬込隊と共に不明なり。天明と共に南方並に西方に銃声しきりなり」
昭和19年12月6日の白井連隊長の手記より

白井隊は、夜通しかがり火を焚いて第16師団の突入と後続部隊の到着を待ちました。
しかし、第一波降下隊の空輸機39機のうち、帰還できたのは僅か17機。
挺進飛行隊はルソン島のクラーク飛行場、第5飛行団の第74戦隊は同じくデルカルメン飛行場へ、第95戦隊はレイテ島上空を旋回してミンダナオ島のカガヤンへ着陸します。

辛うじて帰還した機はいずれも被弾損傷が酷く、後続降下部隊の出撃は不可能でした。

同日23時、鈴木大尉以下40名の降下兵を乗せ、応急修理を終えた挺進飛行隊の4機と支援の重爆2機がリパを飛び立ちます。
しかし、村川機が離陸直後失速して墜落。他機も雨雲に阻まれて次々と消息を絶ち、帰還したのは3機のみでした。
レイテ上空に達した1機からは空挺隊員が制止を振り切って降下、そのまま全員が行方不明になったという話も伝えられています。
遂に、第2波の降下は中止となりました。

高千穂空挺隊の支援にあたった第5飛行團の13機も大きな損害を蒙ります。
74戦隊の中田編隊3機は帰還途中に悪天候でマニラ湾へ不時着、生存者は井森・須藤軍曹の2名のみ。
内田編隊の3機は翌7日深夜に空挺部隊の支援爆撃へ再出撃するも、悪天候で不時着。
ビラリン島へ降りた機体はすぐ救出され、ミンドロ島へ不時着した7名中4名も年末に自力生還を果たします。ただ、ゲリラとの交戦で2名が戦死、負傷によりボートで脱出した1名が行方不明となりました。
95戦隊もデルモンテから空挺部隊の支援爆撃へ再出撃。4機がタクロバン飛行場を爆撃して帰還します。
マバラカットから再出撃した3機中1機は離陸直後に墜落して搭載爆弾が誘爆。脱出できなかった1名が死亡しました。
第5飛行團は強行着陸機4機と支援の重爆6機を失い、25名の飛行士が戦死または行方不明となっています。

続くはずだった第二次降下部隊は、焦りを募らせながらブラウエンの方向を眺めていました。

「六日の第一次攻撃は一応は成功したが、敵地上火器が激烈で、輸送機の大半が損傷をうけたらしく、該輸送機により反復出撃を用意し待機したリパ飛行場に帰着した機数は僅かで、その機も弾痕だらけで到底再撃の用に立つべくもなく、事実上第二次進攻は一頓挫した。帰還せぬ機を待ちつゝ、七日朝をまんじりともせず迎え、張りきった弦が切断された様に、何打か一度に疲れが出て来た。
私達は十二月八日を待った。あらゆる苦しさを一挙に解決してくれる日を待った。十二月七日夕刻、陽が沈んで間もなく脊梁山脈の向こう側、米軍陣地のある方向に爆音がかすかにうなっているのが聞えた。夜間飛んでいるのは日本機に違いない。
忽ちブラウエン飛行場のあたりに線香花火のような火箭があがった。赤黄い曳光弾はまるでふき上るスコールだ。
米軍の高角砲、高射砲がこゝをせんどと打ちまくっているのだ。
しかし、三十分も経つとまた静かな暗闇に返って爆音はひとつもしなくなった。夜中の十一時頃、また弱弱しい爆音が聞こえた。黄色い曳光弾が前よりも激しくあがった。そのあたりだけは脊梁山脈の稜線がほんのりと夜空に浮いて見えた。
こんどは探照灯も三、四條ほど暗い空を探しまわり、必死になって日本機をつかまえ様とした。約一時間たつとまた漆黒の深夜に返った……。
“ブラウエン作戦は思わしくないな”と、僕達は語り合った。
ブラウエン作戦を日本軍の地上陣地に従軍して居た毎日の記者はこの様に記している。
“台湾高砂族の特性を生かし、飛行機の胴体着陸による敵陣攻撃は薫空挺隊でレイテ緒戦に米軍の心胆を寒からしめたが、それ故に、高千穂降下部隊の落下傘攻撃には米軍側も充分邀撃態勢が準備されて居たらしい……。米軍電報によると、ブラウエン附近の一飛行場は一時日本軍に占領せられたと報じていたが、レイテ飛行場群の奪回はならず、敵中降下獅子奮迅の激闘も大勢を挽回すること能わず、戦斗はレイテよりルソン島へ移ることとなった(挺進第3聯隊 中園健一氏)」

【生存者たちの運命】

そのような状況とは知らないまま、ブラウエンを占拠した白井連隊長は空と地上からの援軍を待ち続けます。
しかし、第二派の降下はおろか付近に潜んでいる筈の地上部隊も姿を見せません。実は、予定日になっても一向に始まらない空挺作戦にしびれを切らした地上部隊は、一旦ブラウエンから撤退しつつありました。
その途中にいきなり高千穂空挺隊の降下が始まったので慌てて反転、第16師団と第26師団の斬込隊はブラウエンへ突入します。

その頃、土屋隊は白井隊の反対側に陣取って戦い続けていました。
「土屋少佐の指揮する兵力16名の行動。
跳下と共に敵飛行場内飛行機、幕舎、ドラム缶、弾薬置場を焼却し、破壊を続行し、7日、天明後、北飛行場北方地区に位置しありしが、160歩兵第20連隊斬込隊約200名と連絡なり。爾後、其の指揮下に入り、挺進部隊は主として飛行機、ドラム缶に目標を指向し、7日夜、8日夜、9日夜と斬込みを継続し、敵飛行機諸資材施設を破壊焼却し続けたる後、10日垣兵団命令により西方高地方向に転進す。爾後跳下者逐次垣兵団に集結し、士気旺盛1月2日73名の兵力に達す」
と白井連隊長が書いているとおりに、第16師団斬り込み隊との合流にも成功します。

翌日、体勢を立て直した米軍側は反撃を開始。
白井連隊長率いる部隊は翌朝8時半から始まった米軍戦車2両との交戦で、半数の隊員を失いました。

「08:30頃、戦車(MG)2、MG5を有する敵約350名迫撃砲支援の下、南方及東方より逐次包囲態勢をとりつゝ攻撃し来り。東方より集結兵力を以て反撃するも、銃砲火の集中により遂に北方約1000米密林内に遮蔽す」

18時頃、白井隊の生存者約30名はブリ飛行場から撤退し、ブラウエン南攻撃隊と合流しようとしますが、バユグ飛行場に降下した筈の桂中隊は影も形もありませんでした。

「18:00 飛行場夜襲により奪還を企画し南進せるも、飛行場北側と判断せられる方向より射撃を受けしを以て西方より迂回せんとせしに、深さ腰を没する湿地帯に陥り、行動不能なり。
進路南方により前進中。
8日05:30 南飛行場滑走路西端に達す。天明の近迫と現在位置との関係に鑑み、天明迄にダコタン河南側に潜入し、垣・泉両兵団の攻撃進捗を待つべく決意し南進中。
ブラウエン―ドラッグ道上に約20輛の自動貨車並に一部敵陣地等を発見、之を全車破壊撃滅し、道路上南下せしが敵幕舎左右に林立し、黎明となり、敵兵2、3名幕舎前に我等を見るも傍観せるを以て、前進を開始し河岸に至るに、敵監視兵2名の誰何を受くるに会い、之等を刺殺すると共に天明の初期ダコタン河を渡河し、潜伏前進し敵作戦道路(自動車)側方約50米、敵砲兵陣地1、迫撃砲地2の後方に潜伏し、飛行場方向の戦況の進展を待機観察するに決す」

白井隊は米軍と交戦しつつ、18日に第26師団の重松大隊と合流。頼みの地上部隊が師団どころか大隊規模で、しかも後続部隊が降下しない事を知らされます。
第16師団、第26師団にも転戦命令が出ており、ブラウエンへの追加兵力投入は絶望となっていました。

「8日終日ダコタン河を攻撃する。
敵兵力300、迫撃砲4門、射撃猛烈を極む。時に1400(7文字不明)、飛行場に対する我が攻撃の進展せしを観察し、更に状況の進展を待機するに決し、日没と共に位置を移動し、転々10日迄現地付近にありしも、10日夜遂に泉兵団と合致し、後図を策する目的を以て西進を開始す。
途中、敵の攻撃を受け、逐次戦力消耗し、18日重松大隊とマタグワ東方4粁附近ジャングル中に遭遇せし時の兵力聯隊長以下12名となる。
其後重松大隊と共に行動し、22日287高地に於て野中大隊と合致す」

第26師団の集結地である287高地で残存部隊の掌握を図ろうとした白井連隊長は、第16師団と同行している土屋隊と連絡を取るために6名を派遣。しかし、敵の襲撃を受けたのか戻ってきたのは1名だけでした。

「時に先行せる通信下士官外1名と追及者6名増加せるも、副官以下6名25日第16師団との連絡のため派遣せるも、遂に1名脱出帰還せるのみ。
爾後、野中大隊と行動を共にし、28日夜、287高地初、12月31日(文字不明)に進出、1月19日リモン南方地区にて本道突破、1月25日星兵団着、26日尚軍司令部に到着せり」
12月28日より飢餓とマラリアに苦しみながらジャングルを踏破し、翌年1月26日に第35軍のいるカンキポット迄辿り着いた白井連隊長も、2月4日には栄養失調で亡くなりました。
第16師団と一緒に退却中だった土屋隊の消息も途絶え、ブラウエン北攻撃隊も全滅します。
白井・土屋両隊の最後を記した白井連隊長の手記だけが人の手から手へ渡され、カンキポットから日本へと持ち帰られました。

總合戦果(ブラウエン南北飛行場、サンパブロ飛行場)
以上各部隊の残存集結者の戦果を綜合すれば左の如し。
但し本戦果は残存者82名の戦果に過ぎず、爾今の約300名は戦闘行動並に生死不明にして戦果を確認し得ず。

戦果表
1、飛行機 
P38 41機
戦闘機 24機
ダグラス輸送機 6機
観測機 27機

2、戦車
戦車 12両
自動貨車 42両
自動車 5両
兵器弾薬 多数
高射機関銃 3門
〃弾薬 多数
幕舎 55
遺棄死体 100~150
其他航空材料・被服・物件 多数

(以上、白井連隊長の手記より)

白井聯隊長とは別行動をとった空挺隊員は、ブラウエンで4日間に亘って戦い続けます。
飛行場附近の各所へ陣取った空挺部隊に対し、体勢を整えた米軍は3個大隊でこれを包囲。飛行場の奪回作戦を開始しました。高千穂空挺隊と26師団斬込隊は激しく抵抗し、米軍を何度も撃退したものの、12月10日に力尽きます。
同日19時30分、日本軍の残存兵20数名が米軍第5航空司令部に突撃を敢行。
これを最後にブラウエン南・サンパブロでの戦闘は終了します。

こうして、白井連隊長以下ブラウエン第一波降下部隊は文字通り消滅。
生存者は、レイテ湾上で撃墜されて海上漂流中に捕虜となったタクロバン・ドラグ両攻撃隊の飛行士1名、空挺隊員3名だけでした。タクロバンの捕虜収容所へ送られた彼等は、攻撃目標が健在なのを見て作戦失敗を知ります。

「パラオン島北部分進点を通過し、逐次高度を下げ、島の最狭部付近に達した頃、海上と陸上から物凄い対空射撃を受けた。地上にある対空火器は1メートル間隔に配列してあるのかと思うほどの密度だった。海上には無数の艦船が浮んでおり、その船が真赤く見えるほど打ち上げてくる。
夕暮れが迫っていたが飛行機の四周に炸裂する砲弾は、目がくらむほどだった。そのうちに右翼を射ち抜かれて海上に墜落した。輸送機から放り出されて海上を漂っていたが、肩と背中を負傷していたので精神朦朧とし眠ったり醒めたりしていうrうちに、翌日の午後敵の上陸用舟艇に引上げられた。僚機のことは何もわからない(ドラッグ攻撃隊生存者の証言)」

「落下傘は着けずに救命胴衣だけで、全員が拳銃と手榴弾を持って重爆に乗り込んだ。座った場所からは天蓋を通して上空だけしか見えなかったが、目的地近くまで来たかと思う頃、上空を見ると敵の対空砲火の曳光が物凄く、まるで打上げ花火を見るようだった。何発か機体に命中したような感じがし、そのうちに海上に着水した。
操縦者の指示で全員無事脱出し、飛行機は数分後に沈んだ。
あたりは薄暗く、どの方向が陸か判明しなかった。水は温く救命胴衣のおかげで浮いているのは楽だった。よく泳げる者は勝手に泳いで行き、最後は四人になった。闇をすかしてみると、遠くに山があるようにも見え、大きな船のようにも見え、潮で流されていることは判った。
そのうちに夜が明けてみると、四方八方敵の軍艦ばかりで、上陸用舟艇らしいもので走って来て、自動小銃で撃たれ、もはやこれまでと観念していると、鉤で舟の中に引き上げられた。殺せ殺せと叫んだが殺されなかった。
軍艦の船倉に入れられ、その後タクロバンの収容所に入れられた。
通訳にそれとなく尋ねてみると、そのとき会場で捉えられた者は三人で、二人は豪州に送られたということだった。
タクロバンの収容所には高千穂空挺部隊の者は誰もいなかったし、終戦後も入って来なかった(タクロバン攻撃隊生存者の証言)」
特別攻撃隊全史より

高千穂空挺隊の活躍は勇ましく宣伝されたものの、もはやレイテ島の戦況を変えるのは不可能でした。

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アル夕方、日ノマルノ シルシモ アザヤカナ ユソウキノ ヘンタイガ ブラウエンノ テキヒカウヂャウヘ トツゼン ヒクク
マヒサガリマシタ。
「アッ ラッカサンブタイ ダ」
テキガ オドロキアハテテ カウシャハウヲ ウチハジメタ時、ヒカウヂャウノ 空イチメンニ シロイ 花ノヤウナ ラクカサンガ ヒラキマシタ。
イフマデモナク テキ ヒカウヂャウノ センリャウヲ メザス、 ワガ リクグンノ ユウシタチノ勇シイ スガタ デス。
タチマチ ゲキセンハ ハジマリ ヒカウヂャウハ ワガ ユウシタチガ センリャウスル トコロト ナリマシタ。
大杉清「チカラノカギリ」より、ブラウエン飛行場を襲撃する高千穂空挺隊 昭和20年

【オルモック降下作戦】

ブラウエン降下作戦の翌7日、米軍はレイテ島西のオルモック湾から上陸を開始しました。
これによりテ號作戦は中断となり、出撃待機中の高千穂第三次降下部隊はこの防御支援に回されます。
輸送機が足りない為、斉田少佐率いる挺進第4連隊481名は12月8~14日にかけて6回に分かれパレンシアへ降下しました。

オルモックは味方勢力圏への降下だったものの、米軍機との遭遇は避けられませんでした。
12日には降下を終えた輸送機4機が敵機に遭遇、全機撃墜されています。
パラシュート降下した部隊のうち、斉田連隊長の部隊はオルモック防衛に、大村大尉らは第1師団が守るリモン峠へ展開しました。
8日午前7時に降下した第1中隊90名はオルモックへ辿り着いたところで米軍歩兵部隊と遭遇、交戦中に砲撃を受けて半数の隊員を失います。
10日に降下した斉田少佐以下84名は、挺進團司令部から35軍司令部に派遣されていた稲本少佐の伝達によりオルモック東北方面へ展開しました。
以降14日までに降下を終えた斉田部隊は現地の陸軍や海軍陸戦隊と合流し、米軍と激しく交戦。
白昼に強襲をかけたところ大損害を蒙った為、夜襲へと方針を切り替えます。
高千穂空挺隊は数名単位の班に分散し、夜の闇に紛れて敵陣地へ侵入しては破壊工作を繰り返しました。
しかし、彼我の戦力差は圧倒的であり、12月16日には米軍が防衛線を突破。斉田隊は戦力をすり減らしながらカンギポットへ撤退します。
輸送機の不足により、オルモック降下作戦も14日で打ち切られました。

パラシュート

【バゴロド空輸作戦】

レイテの敗北が決定的となった頃、もうひとつの空挺作戦がおこなわれました。
12月13日にネグロス島近海に敵船団が出現したため、第4航空軍は警備の手薄なバゴロド地区へ高千穂隊残余500名の空輸を命じたのです(こちらは降下作戦ではありませんでした)。
挺進飛行隊は残存の機体をフル活用して高千穂空挺隊を空輸しました。
17日に5機、18日に3機で本村大尉率いる挺進第3連隊がネグロス島シライ飛行場へ向かいますが、途中で2機が撃墜された為に僅か2回でバゴロド空輸作戦も中止されます。

この作戦でネグロス島へ空輸できたのは本村大尉以下60名のみ。
後続部隊の投入が中止となり、本村隊は置き去り同然でバゴロド防衛にあたりました。

昭和19年12月18日
MC輸送機5機、97式重爆撃機1機を以て、ルソン島アンヘレス飛行場離陸。18時40分ネグロス島シライ飛行場に着陸。途中、西沢中尉搭乗機2帰、ビサヤン海に不時着した模様なるも詳細不明。
飛行場着陸は本村大尉機及堺中尉機のみ。
12月19日
MC輸送機3機を以て、挺3本部及重火器中隊の一部搭乗、アンヘレス飛行場発進、19時飛行場着陸、即日仝島バゴロード市河野兵団(102旅団)の指揮下に入り、仝隷下部隊山口部隊に配属せられる。
自 昭和19年12月20日
至 昭和19年12月28日
河野兵団隷下部隊将兵に対する対戦車戦斗法の教育を実施す。
自 昭和19年12月29日
至 昭和20年1月1日
バコロド市周辺地区に発動する米比軍遊撃隊を求め、討伐のため出動。
自 昭和20年1月8日
至 昭和20年1月9日
仝島ムルシヤ町南方バコン附近米比軍を求めて討伐を実施す。
昭和20年2月1日(推定)
兵団命令に依り、高千穂部隊本村隊41名、野瀬部隊に転属を命ぜられ、仝部隊主陣地帯に宿舎を移転。専ら仝部隊戦力増強(陣地構築)に努む。
同日部隊命令により、新たに野瀬部隊鉄砲隊編成あり。藤井中尉、高木中尉と交代、仝中隊長拝命。
仝日より中隊陣地の補強に努む。
兵力、藤井中尉以下86名
昭和20年3月28日
夜20時頃、突然敵駆逐艦3、巡洋艦1よりバコロド市周辺飛行場に対し艦砲射撃を受く。直ちに戦斗配備に就くと共に事前の計画により、一部兵力を仝市本部に残置し、主要陣地に就く。
予期した敵の見参なるも、友軍の混乱致し方なし。

現地警備隊の訓練を担当した本村隊ですが、3月29日に上陸を開始した敵と交戦、生存者は30名程でした。

その後、オルモックへ降下した斉田隊は各地で激戦を続けます。
14日に降下した重火器中隊の大村隊は第3中隊と合流、総勢57名がリモン峠へ赴きました。
第1師団に加わった高千穂隊は迫撃砲を用いて米軍と交戦、10名の隊員を失って12月21日に撤退。
第1師団と共にカンキポットへ到着した大村隊は軍司令部直轄部隊に組み込まれました。
斉田挺進第4連隊長も、白井挺進第3連隊長死去の翌日にカンキポットへ到着しています。

カンキポットで斉田少佐が掌握した高千穂空挺隊の残存兵力は、指揮下の第4連隊員百数十名に加えて白井連隊長を失った第3連隊員十数名。
これらの高千穂空挺隊員も戦闘に投入されました。

【海上の戦い】

昭和20年3月10日、挺進第4連隊長斉田少佐以下76名は第35軍司令部直衛のためにセブ島への転進を命じられます。
大発(※陸軍の上陸用舟艇)2隻に分乗してルソン島を離れた斉田少佐一行はセブ島タボゴンヘ上陸。そのまま北方12㎞にある93道標一帯の警備に就きました。
20日、セブ市内へ南下した斉田隊は軍司令部警備に着任し、その傍ら戦力回復と糧秣確保に努めます。
25日には米軍がセブ島へ上陸したため、第35軍司令部はミンダナオ島への海路撤退を決定。
高千穂空挺隊から選抜された22名が、司令部護衛チームとして同行することとなります。残る56名は大村隊としてセブ島に残りました。
転進にあたって軍司令部要員はタボゴンヘ移動。空挺部隊はセブ上陸当夜に展開した93道標付近に陣取り、軍司令部をガードしました。
目指すミンダナオ島のバコロドは米軍との交戦中であり、止む無く目標をネグロス島のカガヤンへ変更します。
4月10日夜、35軍司令部員と空挺隊員は帆船5隻に分乗してメデリンを出港。リパインラン島、マルカポック島とミンダナオ沿岸伝いに南下を始めました。
米軍と抗日ゲリラ側もこれを察知し、追撃に移ります。

高千穂空挺隊海上護衛チーム
1番艇 
玉井豊大尉、伊東邦親少尉、山根乙吉曹長、富田勝軍曹、鳴海静雄軍曹
2番艇 
斉田治作第4連隊長、塩崎正夫大尉、落合茂夫准尉、辻井亘曹長(亘は人偏)、田村貢軍曹
3番艇 
斎藤斉之輔中尉、曾根崇少尉、渡辺文蔵曹長、木下・神野軍曹(両名は第3聯隊員)
4番艇 
香月秀輝大尉、松元政徳中尉、井上房行准尉、溝口大介兵長
5番艇 
向豊少尉以下、全滅のため氏名不詳

4月10日
20時半、5隻でセブ島メデリン発。
4月11日
敵状悪化のため、5番艇は無停泊で航行。
9時、1、2番艇がリパインラン島着。
18時、5番艇がネグロス島に到着。
19時半、5番艇がゲリラの襲撃を受け、軍司令部の藤尾大尉が戦死。
4月12日
5時、1、2番艇がマルカポック島着。
15時、3番艇がレフジオ島着。
16時、炊事中の3番艇がゲリラと交戦。急遽出航。
4月14日
6時頃、1、2番艇がレフジオ島でゲリラと交戦。軍司令部大曽根参謀以下3名が戦死。
15時頃、5番艇はドゥマゲテ付近の無人島へ上陸。船体修理中に敵の攻撃を受けて直ちに出航、ゲリラ側はボートでこれを包囲。高千穂隊は向少尉以下奮戦するも、戦死・負傷者続出の末に弾丸も尽きて海没。
18時、3番艇がノースバイス湾北方の無人島着。
4月16日
13時、3番艇がドゥマゲテ北方の無人島着。
14時、航行準備中の3番艇が敵ゲリラの襲撃を受け交戦。
14時半、1、2番艇はドゥマゲテ北方タモイ岬から迫撃砲攻撃を受けるもこれを撃退。この際に空挺隊の辻井・山根曹長が戦死。
17時、敵と交戦していた3番艇が脱出成功。猪瀬大尉以下3名戦死。
4番艇チームは「これ以上の帆走は不可能」と判断、ドゥマゲテに上陸し現地部隊と合流。
4月17日
17時、ドゥマゲテ南方で敵観測機を交えた襲撃を受け、3番艇チームは船を放棄。
1、2番艇がシキホル島西方通過。
4月19日
12時、1、2番艇がネグロス島タゴロ岬着。ミンダナオ島への海峡突破が不可能と判断した1番艇はネグロス南端への帰還を決定。
15時、米軍哨戒機の攻撃で35軍司令官鈴木宗作中将が戦死。2度目の空襲で高千穂隊の玉井大尉、富田軍曹が戦死。3度目の攻撃で軍司令部龍崎参謀が戦死。犠牲者続出により、1番艇チームの生存者は船を放棄。

結局、35軍司令部の脱出行は司令官を失って失敗。
5隻中、2番艇だけがミンダナオ島へ辿り着きました。しかし、其の後の戦闘で斉田連隊長も行方不明となっています。

セブ島に残された大村隊は、第57連隊と共にイリハンで戦います。生存者は僅か十数名でした。
木下大尉率いるカンギポット残留の空挺隊員達はどうなったのか。生還者がいない為、彼等の最期は誰も知りません。

こうして、挺進第4聯隊も壊滅状態に陥ります。

高千穂空挺隊
バレテ峠における高千穂空挺隊と米軍の攻防戦。 川南空挺慰霊祭より

各地に展開した高千穂空挺隊が損耗していく中、一連の作戦に参加しなかった予備戦力が温存されていました。
その数400名。
徳永第2挺進団長の掌握するこれら高千穂空挺隊員は、南サンフェルナンドで待機を続けていました。

「私はリパ出撃基地に待機一両日、十二月中旬挺三残置部隊と共に本部通信隊を引具、再度南サンフェルナンドの主力出撃基地に引かえした。挺三残存兵力約四〇〇名。久富少佐部隊長職をとり、私は副官職をとることになった。
一日百余機のロッキードとグラマンの大空襲を受けた。当時比島はゲリラが多く、日本軍の行動は秘密無線機により手にとる様に米軍に洩れて居たらしいのである。日本陸軍落下傘部隊の出撃基地の壊滅的粉砕を図ったものらしく、連日波状的な爆撃、銃撃をくりかえし、少なからぬ死傷者が出た。
二十年の新春はマニラ市芙蓉台の外人の別荘地帯で迎えた。
米軍の上陸を邀撃し、海軍部隊と共にマニラ死守を命ぜられたわけで、事実上の玉砕部隊として戦機到来の日を待ちつゝ、必死の前の閑日月を悠々英気を養って居たわけである。も早や何の不安も焦燥もなかった。
十二月六日の出撃を前に、リパ基地に於て、遺髪と爪を遺書に入れ、従軍画家が挺進出撃のたむけと描いてくれた似顔絵を毎日の記者に託してあり、今更思い残す事は無かった(これらの品は東京田園調布の記者の自宅の方から転送されて届いて居た。しかしその親切な記者が果して生還されたか否か。この紙面の上で心から感謝を致したい)。
世界の名勝と聞くマニラ湾上の夕映えも、絶対生還の期せられない竿頭に立った将兵の胸のうち、鑑賞する人や幾人ありや(中園氏)」

【徳永遊撃隊の戦い】

マニラの第4航空軍司令部警備を命じられた徳永団長の部隊は、リンガエンへの米軍上陸によって戦闘態勢に入ります。
第1挺進集團への復帰具申も交通不能の為に断念。
1月16日には第4航空軍司令富永恭次が台湾へ敵前逃亡した為、護衛対象を失った徳永隊は第4飛行師団長の指揮下で戦うこととなりました。

「一月九日作戦変更、マニラは無防備都市を宣言、北部ルソン、エチアゲに転進することになった。第四航空軍の直轄親衛隊として延々一〇〇〇キロの北上が開始された。街道荒しの異名を持つ米機グラマンが完全制空で、日中は暴虐無尽に大空に跳梁し、為に山陰や部落にひそみ、遅々とした夜行軍のくやしさ。日本機がせめて一機でもと切歯扼腕したものだった。
一月末、米軍は愈々リンガ沿岸に上陸して来た。
二月上旬団司令部及挺三挺四部隊集結完了、遊撃八コ中隊を編成。三月第十四軍司令官山下奉文大将の直轄となり、トバックに進出する。
三月中旬鈴鹿峠(ルソン、スエパピスカヤ州五七九高地)附近に陣地を占領した。
軍馬の桜(※中園氏の故郷小林にあった軍馬補充部小林派出所の桜並木のこと。現在の名称は「まきばの桜」)が酣なる頃、俗称牛山米軍基地攻撃中、部隊本部附近に米迫撃砲の集中射をうけた。砂塵朦々たるなか、部隊長は肩部重傷、そして私も破片創に倒れた。
四月十一日、斬込攻撃隊十組が編成され、主として敵砲兵陣地を攻撃した。
一日、航士校以来の親友、坂上中尉が敵陣地斬込隊長として出撃の途次、負傷療養中の私の部屋(洞窟)に一泊した。傷の痛みも忘れ、一夜語り明かした。
とっておきの鰹節を贈り健斗を祈ったが、とう〃還って来なかった(中園氏)」

山下軍司令官の予備隊としてゲリラ戦を命じられた徳永団長は、昭和20年3月12日より空挺隊を遊撃隊本部と8コ遊撃中隊に再編成。13日よりバレテ峠北方7キロにある鈴鹿峠の西方高地(徳永隊は「高千穂山」と呼称)へ布陣します。
州境突破を図る米軍2コ師団に対し、空挺部隊は後方攪乱戦術でこれに抵抗しました。
少人数の斬り込み隊に分散した徳永遊撃隊は米軍の背後に浸透、高千穂山正面に展開する敵砲兵陣地を繰り返し襲撃します。

「北部ルソン深く進攻して来た六月も半ばを過ぎた頃だったろうか、負傷癒えた私も参加、久富部隊、挺三残留組の全力を挙げて、高千穂山正面の米第一線陣地を闇にまぎれて突破、通称一の字森林のジャングル地帯を進み、敵背後より必死の夜襲を敢行した。しかし乍ら数時間の決死の攻撃も成功せず、天明と共に再び森林中に退避するの止むなきに至った。
私は中央正面攻撃の指揮をとったが、全く頭を上げる事の出来ない位の曳光弾の雨飛で、更に鉄条網を隔てての手榴弾の投げ合いは、戦歴数年幾度か戦火の中に斗ったが、とにかく生涯を通じての一番はげしい凄烈な戦斗だった。
右側攻撃の高橋小隊長は今、都城自衛隊本部付幹部として健在だが、左側より攻撃の中原小隊長は遂に集結地点に現れなかった。戦死者二十余名、私もまた胸部その他に破片創をうけたが、幸い総て軽傷だった。前述の大久津軍曹が敵弾に倒れたのもその前後の事だった。結論的にはこの戦斗が高千穂部隊最後の死斗だった様である(挺進第3聯隊 中園健一氏)」

次いで鉄兵団(第10師団)の支援へ差し向けられた森脇、増田、佐々木の各遊撃中隊がバレテ方面の防衛戦に投入されますが、5月27日には米軍の突破を受けて全滅。
6月16日、鉄兵団の撤退によって徳永遊撃隊は敵中に孤立してしまいました。

「支隊は食糧なく、補給線は完全に絶たれ、餓死する者も続出しだした。
敵は既に遠くエチアゲ方面迄進出したらしく、部隊に対する直接の攻撃はなくなった。
六月末、支隊は鈴鹿峠を最右翼とし、高千穂陣地を後退した。既に軍の通信網は切断され、無線機も破損、完全に通信は断絶した。今や鈴鹿峠付近も軍の後退作戦に影響なき状況となり、全く四分五裂、部隊夫々の行動にて転進ではない退却であった。少量の食糧と弾薬を持ち、連日空腹と病魔と斗いながら、山又山、地図と磁石を頼りに東海岸への希望は、殆んど無くなった食塩への限りない絶対的な欲求だった。
カガヤン河谷をピナパガン地区へと、全く目的のない放浪の旅であったが、そんな誌的情感など全然ない苦難の行軍であった。
ただ軍人としての統制と規律は保たれて居た。というより少なく共、兵独自の行動より部隊の行動についてゆかなくては死を意味することが判然として居たからである(挺進第3聯隊 中園健一氏)」

山下軍司令官との連絡も途絶し、生き残った徳永遊撃隊員らは自活行動をとりつつ8月23日にピナパガンへと退却。台湾撤退に失敗してアンフェレエスに残留、フィリピン各地を彷徨していた挺進飛行隊の地上要員120名らも合流しました。
そこで漸く食糧を確保し、飢餓と抗日ゲリラの襲撃に苦しんだ逃避行は終ります。


他部隊の通った跡がある。後続したら食糧は見つけ得べくもない。
元気の比較的よい下士官兵を選抜、河辺の孟宗竹を切つて筏をつくり濁流のカガヤン河を下つたが、それは球磨川下りどころの比ではなく、岩をかむ奔流は矢の如く、それも大淀川を数倍した様な大河。
結局遭難、兵二人と獰猛イグリツト族が出没する対岸にはい上つた。
一夜を空腹の儘明かし、翌朝食糧探しに出掛けた兵が二三発の銃声と共にどつと跳おりて来た。
右腕に矢がさゝつて居る。毒矢と思つたがとつさに引抜き、血をしぼり出したせいか、傷は大したことはなかつた。
しかし勇敢だつた彼はとたんに臆病になり、反対岸への渡河を切望する様になつた。その彼は泳げない金づちという始末、全く笑えぬ悲喜劇であつた。
その日一日河沿いに下流へと辿るうち友軍、さきに支隊命令で食糧確保の為に先行した郷中尉の一行十数名と出逢ひ、行を共にするうち、自隊の兵員が逐次集結河沿ひに行軍する。
勿論、手榴弾による魚族の捕獲、ササガニ、こひな、食べられるものは全部平らげた。とかげの数米に及ぶ大きいのが居たが、之は鶏肉に似て美味であつたが、割合と行動は敏捷でなか〃とらえることは出来なかつた。
ときたま部落の甘藷、野稲がみつかり、ほそ〃東へ東への行軍はつづけられた。
成瀬兵長は紅顔の青年だった。入隊前プロ野球の選手だったとかで、手榴弾の投擲は抜群だった。
八月も中旬を過ぎて居た。後一日の行程で平地ピナパガンにつくというとき、どうしても歩けぬ、追及するということですわりこんで仕舞った。こゝで置いたらおしまいとはっきりわかっていた。怒ったりすかしたりしたが、どうしても立たない。
止むなくなけなしの皆の食糧を集め、残して来たが、永別であった。
その翌日一行はピナパガン平野に出ることが出来た。そこは米こそはなかったが、とうもろこしと野生の水牛が豊富にあった。
しかしこの地迄たどりつけたのは部隊の五分の一。
五分の一は戦死であり、五分の三は病死、餓死だった様である(中園健一氏)」

徳永隊が軍使の報告によって敗戦を知ったのは、9月10日のことでした。
18日、徳永団長は高千穂空挺隊および陸海軍残存兵900を率いて武装解除に応じ、バタンガス収容所へ送られます。
バラバラに散っていた空挺隊員らも、友軍と合流する中で戦争終結を知りました。

「ピナパガン平地に出た日、先着の友軍兵士より終戦の言葉を聞いたのは八月も既に二十日を過ぎて居た。
その夕も月の明るい晩でした。
全く久しぶり玉蜀黍の主食をふんだんに食べ、河原で仮泊した一行はようやく故国生還の希望が湧き出して来たのだろう。“誰か故郷を思わざる”の唄ごえのコーラスが起った。皆の顔に明るさが戻り、矢を右腕に受けたY兵長はいつのまにかどじょうすくいを踊り出していた。
当時の憶い出日記を繰ると、八月二十三日ピナパガンに兵員集結、自活態勢に入る。九月十日、軍使来り終戦を告ぐ。九月十八日マサヤにて対岸の米軍を前に、東方遥拝、万歳三唱の後、武装解除(愛用の歯こぼれしたなみのひらの軍刀も、拳銃、双眼鏡も、自決用の短刀も)。
米ゴムボートにて渡河、米軍に収容。エチアゲより翌十九日バタンガス収容所に送らる。万感胸に迫り涙禁ずる能はず……(中園健一氏)」

挺進第3連隊と第4連隊は白井・斉田の両連隊長まで失い、激戦と飢餓によって多数の将兵が犠牲となりました。
フィリピンへ赴いた高千穂空挺隊員のうち、日本に生還できた人は僅かだったそうです。

「PW。比島戦線で収容された日本軍の、あちらさんの呼び名だったが、日常の生活は割合と自由だった。
但し終戦前後のニュースが風の便りに流れて来た。広島、長崎原爆投下のこと、収容将校は米本土に送られるとか、戦犯容疑者もぽつ〃出だしはじめて居た。
その様な一日、スピーカーから次に呼ぶ者は集合とのこと。吉か凶か。集合してみたら第一復員船乗船要員とか。
比島戦線よりの収容人員十有余万人、そのうちより二〇〇人だけが乗船決定。
各幕舎から二、三名のうち私は入って居た。
仲間よりの依頼、部下たちよりの家郷への伝言を一杯引きうけて、残者羨望裡に出立した。昭和二十年の秋深く(但し内地)、バシーの海は荒天だったが、リバ艇の大ゆれも大して苦にもならなかった。艦上で宮崎県人会を開いたら、船員三名と高原町、遍照寺の湧水住職(旧制小林中学四回卒、柔道マンで戦後青少年柔道の普及に大いに貢献されたが、先年胃を病まれて早逝されたのは心残り)と二人だけだった。
鹿児島県加治木上陸、乗船時貰った海軍作業服に風呂敷の小包さげて、小林駅に降り夕闇のなか高千穂の峯を見たとき、吾しらずジーンと来るものがありました。
何十分かゝりましたろうか、とにかくとぼ〃歩くのが精一杯でした。隣のM家に立寄ったら、丁度親父が出て来てびっくりしました。
小林地区に警備について居た大阪部隊が復員、放出軍需品の競売があり、その後祝の小宴が開かれたところで、実のところ、口にこそ出さぬが、落下傘部隊員で、然かも高千穂特攻隊員として比島進攻の私は当然第一番目の戦死と思っており、それが戦地よりは誰よりも早い一番目の復員故本当に皆大喜びでした(中園健一氏)」

比島作戦で散った陸軍空挺部隊は、高千穂空挺隊だけではありません。
もうひとつの空挺部隊、挺進第1集団の滑空歩兵たちもフィリピンへと向かっていたのです。

(第7部へ続く)

落下傘部隊

空挺給水塔 其の7 滑空歩兵連隊

Category : 第七部・ルソン島の攻防 |

十一屋の女中部屋で、古い「新女苑」を見つけた。
ああ、昔。
「ヴォーグ」に出て来るきれいなおんなの人よ。ボクのたましいは、きみたちがすんでいた昔に、しきりとかえりたくなる。
十一屋から帰ると、裁縫室で、酒とすき焼きであった。ボクはほかのことを考えていて、ことば少なであった。
戦争のはなし。戦争のはなし。
マッチ箱の大きさのもので、軍艦を吹っ飛ばす発明がなされたはなし。
いいか。いいか。
みたみわれ。いいか。いけるしるしあり。あめつちの。さかえるときにあえらくおもえば(※御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に 会へらく思へば)。
いいか。いいか。いいか。
ボクが汗をかいて、ボクが銃を持って。
ボクが、グライダァで、敵の中へ降りて、ボクが戦う。草に花に、むすめさんに、白い雲に、みれんもなく。
ちからのかぎり、こんかぎり。
それはそれでよいのだが。それはそれで、ボクものぞむのだが。
わけもなく、かなしくなる。白いきれいな粉ぐすりがあって、それをばら撒くと、人が、みんなたのしくならないものか。


滑空歩兵第1聯隊 竹内浩三兵長 「筑波日記」昭和19年4月14日より抜粋

滑空
西筑波上空で、ク―8滑空機を曳航している滑空飛行戦隊。
このグライダー部隊は、空輸部隊の「滑空飛行戦隊」と戦闘部隊の「滑空歩兵部隊」で構成されていました。
川南空挺慰霊祭にて。

パレンバン作戦の後、パラシュート降下の問題点を再検討した陸軍は、グライダー部隊を新たに編成しました。
パラシュート部隊の陰に隠れて地味な存在ではありましたが、このグライダー部隊にも著名な人物がいます。
それが、第1挺進戦車隊指揮官だった田中賢一と、滑空歩兵第1連隊員だった竹内浩三。
田中さんには陸軍空挺隊史に関する多数の著作がありますし、詩人としての竹内さんについても評論が多数出版されていますね。
ただし、巷の竹内浩三論が取り上げるのは、せいぜい滑空歩兵第1連隊くらい。背景となるグライダー部隊の全容を知るには全く参考になりません。
竹内浩三の研究者が注目するのは、当然ながら竹内さん個人です。
しかし、「その他大勢の滑空隊員」の運命に興味すら示さないのは何なんでしょう。彼らは一体何者で、なぜフィリピンへ向かい、竹内浩三の戦死後どうなったのかは一切無視。
名も無き死者たちに冷淡な“竹内浩三評論家”の態度は、まさに竹内さんが「戦死やあわれ」で皮肉った日本人の姿そのものですね。
いっぽうで旧軍を礼賛する人々はといいますと、こちらも下調べをしないことにかけては同レベルの状況です。

そういう訳で、竹内さんが所属した滑空歩兵第1連隊に加えて、滑空歩兵第2連隊や第1挺進工兵隊や第1挺進戦車隊や第1挺進通信隊や第1挺進機関砲隊や滑空飛行戦隊も含めた、日本陸軍グライダー部隊のお話を。

(第6部からの続き)

陸軍空挺部隊が華々しく活躍できたのはパレンバン降下作戦のみ。
続くラシオ、ベナベナ、インパールと第1挺進団(挺進第1連隊および挺進第2連隊)の南方作戦計画は空振りに終り、唐瀬原の陸軍空挺部隊は次の作戦に備えて部隊拡充へ取りかかります。
昭和19年秋、米軍がフィリピンに上陸。
陸軍空挺部隊は即座に対応し、隷下部隊を続々とフィリピンヘ派遣しました。
レイテ島降下作戦に投入された第2挺進団(挺進第3連隊および挺進第4連隊)に続いて、ルソン島防衛のため出撃したのは、「第1挺進集団」。
こちらはパラシュート部隊ではなく、挺進第5聯隊を茨城県の西筑波飛行場で再編成したグライダー部隊を中核としていました。
滑空機(グライダー)で着陸強襲をおこなうことから、この部隊は「滑空歩兵」と呼ばれています。
日本陸軍の空挺部隊には、宮崎県を拠点とするパラシュート降下部隊と茨城県を拠点としたグライダー降下部隊があった訳ですね。

軍用輸送ヘリコプターが実用化されていない第2次大戦当時、各国の空挺部隊では重装備の空輸手段としてグライダーを多用していました。
我が国もその時流に倣い始めたのです。

【第1挺進集団の誕生】

挺進第2聯隊によるパレンバン作戦で発覚したのが
「パラシュート降下時には拳銃と手榴弾しか携行できない」
「別途投下した武器コンテナが密林や湿地帯に阻まれ発見できない」
といった問題点でした。
実際、パレンバンでは拳銃のみで戦う破目になった兵士もいたそうです。また、パラシュート投下した全ての無線機が着地の衝撃で故障し、丸一日後方との連絡が途絶する状況に陥りました。

パレンバンの直後から、空挺部隊ではこれらの問題に取り組みました。
パラシュート降下時に携帯できる「テラ銃」や収納具の開発と共に、「手っ取り早い解決策」として提案されたのが、兵士を乗せた輸送機ごと敵地へ着陸してしまうこと。
この着陸強襲は、ラシオ空挺作戦で実際に計画されています。ラシオの場合、機関銃部隊を送り込んで敵飛行場を迅速に制圧する必要がありました。そこで、挺進第1連隊ではパラシュート降下と並行した輸送機による敵飛行場への着陸強襲を立案。
しかし、作戦中止によって実行はされていません。

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パラシュート投下した物料箱から武器を取り出す日本海軍落下傘部隊員。実際の戦闘中には投下したコンテナを探し出すのも一苦労であり、陸海軍とも降下作戦での武器携行法に頭を悩ませていました。

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演習にて、速射砲を操作する海軍落下傘部隊。各種兵器の扱いには習熟していましたが、実戦投入できなければ意味がありません。戦況の激化により、このような重火器を用いる空挺作戦が模索されます。

最終的な解決案となったのが、グライダーで重火器や車両を前線に投入する戦法でした。
ドイツ降下猟兵によるエバン・エマール要塞奇襲作戦のように、各国の空挺部隊では第二次大戦の緒戦からグライダーを運用していました。

川南の挺進練習部でグライダーの導入が始まったのは、第1挺進団がパレンバンから帰還した昭和17年6月のこと。
ヘリコプター自体は1930年代に登場していますが、あくまで海外のお話でした。
意外なことに、戦時中の日本航空界でもヘリコプターの存在は常識であり、当時の航空雑誌でも関連記事をよく見かけます。
しかし、我が国の技術で実用化できるのはオートジャイロが精一杯でした。空輸法の選択肢はグライダー以外になかった訳です。

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グライダーに乗り込むイギリス軍空挺部隊

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不時着したイギリス軍のエアスピード・ホルサ滑空機を調査するドイツ兵。

戦時中の日本では、青少年に向けてグライダーの趣味を奨励していました。将来のパイロット候補を育てる意味もあったのでしょう。
やがて全国各地に同好会が設立され、誰もが滑空飛行を体験できるようになったのです。
当時の宮崎県でも、グライダーは珍しいモノではありません。昭和17年頃だと、県内の学校では13もの滑空機倶楽部が活動し、宮崎市の生目村(現在の東九州自動車道宮崎PA附近)で開催される滑空機教室では、大日本滑空聯盟宮崎支部のグライダー愛好家たちが年中飛び回っていましたから。

諸君が模型グライダーに童心を羽ばたかせた空への憧れは、きつといつか「グライダーにのつてみたい」に変つてくるでせう。
澄む秋空を載つてヒユーツと軽快な音を響かせながら旋回するソアラーの美しい姿を見たら、諸君はもう矢も楯もたまらなくなるにきまつてゐます。
空の護りがいよ〃重大になる時、日本の青少年が一人残らず相當の航空知識を身につけてゐるとしたらどれほど日本は心強いかしれません。
そこで文部省でも全國の中等学校に滑空訓練を正課として、積極的に指導しようと着々準備をすゝめてゐるのです。

内閣情報局 昭和16年

そのような状況下、新田原飛行場でも「滑空班」が発足し、グライダー空挺作戦の研究がスタートします。グライダー飛行隊のパイロットだけではなく、それに載せるグライダー歩兵の編成も必要です。
パラシュート部隊として創設された陸軍空挺部隊は、この時から次の成長段階へ移行していきました。



昭和18年、第1挺進団(挺進第1および第2聯隊)は南方作戦に忙殺されていました。この2個連隊を使い回すだけでは戦況の激化に対応できず、陸軍空挺部隊は拡充強化に迫られます。
そこで、将来的には2個空挺師団へ発展させることを念頭に、パラシュート部隊とグライダー部隊への分離が始まります。
南方への切り札として、パラシュート部隊と挺進飛行隊は宮崎県唐瀬原飛行場および新田原飛行場への配置を継続。
重武装のグライダー部隊はサイパン・小笠原方面への出動に備え、中央に近い茨城県西筑波飛行場へ移動する事となりました。
当初は2個パラシュート連隊・1個飛行戦隊だった陸軍空挺部隊も、拡充後は下記の規模になります。

唐瀬原 4個パラシュート連隊、通信・工兵・戦車のグライダー搭乗部隊、パラシュート整備隊
新田原 挺進飛行2個戦隊と支援部隊
西筑波 2個グライダー歩兵連隊、機関砲隊、滑空飛行戦隊と支援部隊

単なる戦闘的落下傘部隊では任務の達成が容易ではないし、其の労果に相伴わぬものがあり、又戦術的使命も僅少であるから、強大な戦力として一つの戦略的単位をなす部隊を作って、我勢の進展に応ずるを企図した。
その主要問題は滑空部隊の編成であり、重火器や戦車等戦力補給力の増強、挺進戦隊の増援にある。

空挺戦友会資料より

錬成を急がれたのが、グライダー兵を空輸するパイロットです。空挺部隊は空を飛べなければどうしようもありません。
挺進練習部内に設置された「滑空班」と「重火器班」は、新田原飛行場でグライダー空輸作戦の研究を開始。
曳航機およびグライダーのパイロットを編入した滑空班は「滑空飛行戦隊」に再編され、所沢や西筑波で実機を使った飛行訓練に着手しました。

この滑空飛行戦隊は本部および3個中隊編成。曳航機とグライダーのパイロットで構成されていました。
各中隊が運用するのは曳航機の97式重爆9機と50機弱のク―8滑空機でした。一部では97式軽爆撃機やク―1滑空機も使っていたそうです。
飛行に専念する挺進飛行戦隊と違い、滑空飛行戦隊は敵地への着陸が前提。つまり、パイロットも滑空兵と共に戦う訳です。
その為、グライダーのパイロットには地上での戦闘訓練も課せられました。
こうして、パラシュート部隊を運ぶ「挺進飛行隊」とグライダー部隊を運ぶ「滑空飛行戦隊」が、それぞれ専門の作戦に従事可能となったのでした。

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着陸したDFS230グライダーの操縦席から突撃するドイツ降下猟兵。

滑空飛行戦隊に続き、昭和18年10月からはグライダー搭乗部隊の編成が始まります。

昭和18年秋には、滑空機搭乗部隊として挺進第5聯隊(聯隊長伊集院大佐)、挺進戦車隊(隊長 面高少佐)、挺進工兵隊(隊長 福本少佐)、挺進通信隊(隊長 坂上大尉)と、これ等部隊を空輸する滑空飛行戦隊(隊長 北浦中佐、後 古林少佐)が作られた。
その頃はク8と称する滑空機が出来ていた。ク8は搭載量約2トンで、山砲、47粍対戦車砲、高射機関砲、小型自動貨物車等が搭載出来、97式重爆撃機で曳航した。
これ等新設部隊は既設の挺進第3聯隊、第4聯隊、挺進飛行戦隊と共に挺進練習部長の隷下にあった。
当時第1挺進団(第1聯隊、第2聯隊及挺進飛行第1戦隊)は第2次出動中で、尚南方総軍司令官の隷下にあった

空挺戦友会資料より

これらのうち、挺進第5聯隊は唐瀬原から西筑波へ移動。滑空飛行戦隊と合流し、実際にグライダーを使った訓練に入ります。
挺進第5聯隊は歩兵と重火器の各中隊で構成されており、いずれは滑空歩兵および重火器中隊として独立させる計画でした。
難儀なパラシュート訓練が不要だった為、滑空歩兵の戦力化は比較的容易だったとの事です。

西筑波飛行場ではありませんが、茨城県におけるグライダー訓練所の練習風景を。

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こゝは茨城縣石岡、筑波の山裾につらなる三十萬坪の空の道場、石岡中央滑空訓練所です。
こゝでは将来青少年の滑空訓練指導者となる中学校の先生や青年学校の指導者たちが、軍隊式の日課に従つて朝から晩までプライマリーからセコンダリーへと猛烈に訓練をつゞけてゐます。

新設された陸軍グライダー部隊では、立て続けに事故が発生しています。
昭和17年秋、所沢で訓練中の無人グライダーが突風に煽られて墜落。曳航機を操縦していた滑空班の高山中尉も墜落に巻き込まれ、事故状況を報告後に息を引き取りました。
滑空班が滑空飛行戦隊に再編された後、西筑波でも死亡事故が発生しています。
ク―8滑空機が、切離しの手順ミスで曳航用ワイヤーを着けたまま降下を開始したのが事故の原因でした。
地表近くで垂れ下がったワイヤーを樹木に引っ掛けてしまい、滑空機は地面に激突。この際、搭乗していた滑空飛行戦隊員が殉職したとのことです。

二月二日
〇時四十分に出發した。
ねむりこんだ村を歩いた。
夜ふけ、ふとんの中でふと眼がさめて、おや、いまごろ兵隊が歩いてゆく。さむいことだろうと、寝がえりをうつと云う身分になりたいものだと考えていた。
五時ごろ乗車。車中、寝ていた。
筑波は、うんと暖い。
一一七部隊(※滑空飛行第1戦隊)のグライダーが空中分解して、田におちて、六人の兵隊が命をなくしたと云う。
地中へ一米も入りこんでたと云う。

竹内浩三「筑波日記」昭和19年2月2日より

入隊以来の飛行訓練で幾つかの事故があった。
なかでも曳航中の「クー八」の一機が空中分解した事故は無残であった。
機首は土中にめり込み、その中には五名の矮小された遺体が折り重なっていた。

谷元臣「一一七部隊回顧記」より

昭和19年秋、挺進第5聯隊は一般部隊からの転属者数百名を加えて「滑空歩兵第1聯隊」と「滑空歩兵第2聯隊」へ、更に重火器中隊を独立させた「挺進機関砲隊」の三部隊へ再編されました。

これら部隊の新設に当っては今迄の志願制を廃して強制的転属制にした。
一部は練習部や挺進聯隊との人員の交流を行ったが、志願訓練の第1~4聯隊に比すれば見劣りするは止むを得ない所であった。但し、他部隊に比すれば遙かに優良部隊であった。
特に将校は中央で意を用いたので現役が多く、約1年の訓練で落下傘部隊に劣らぬ精鋭部隊に育て上がって比島戦場に向ったのである。
滑空機搭乗各部隊の地上部隊としての練成は数ケ月で一応完成。挺進第5聯隊は滑空飛行戦隊と仝一地に在ったため度々統合訓練を受けたが、其の他の部隊は唐瀬原にあったので将校が体験飛行を行った程度で統合訓練は中々実現しなかった。
各隊は営庭に模擬胴体を作り搭載卸下の訓練を行った。
昭和19年7月朝香宮殿下の特命検閲には在西筑波部隊を川南に招致し、落下傘部隊との統合演習を実施し、待望の滑空機・落下傘統合の訓練を優秀な成績を以て遂行し、空挺戦力の運用に画期的な発展充実を加えたのであった。

空挺戦友会資料より

宮崎県の各自治体に多大な負担を押し付けたものの、川南のパラシュート部隊では地域住民に対して最大限の配慮を払っていました。川南の空挺隊員は食事や下宿先を地域社会に頼っていましたし、挺進司令部や挺進整備隊の業務も民間人職員がサポートしていましたから。
部隊内での喧嘩沙汰はしょっちゅうでしたが、地方人(軍隊における民間人の呼称)に迷惑をかける行為だけは避けていたのです。
しかし、西筑波に新設されたグライダー部隊ではその辺が徹底していなかったのでしょう。地元とのトラブルも多発していました。
関係者の証言だけでも
・グライダーの離着陸時に西筑波飛行場周辺の住宅を破損
・グライダーが引きずってきた曳航ワイヤの直撃で、農作業中の女性が両腕切断の重傷
・「自分達の勤務中に民間人が楽しんでいるのは許さん」との理由で、滑空飛行戦隊が地元の盆踊り大会を中止に追い込む
・「行軍する部隊の前を横切ったのがケシカラン」と、中隊長が軍刀を抜いて小学生を追い廻す
等が伝えられています。

滑空歩兵隊員の記録として有名なのが、竹内浩三の「筑波日記」。
彼が三重県の歩兵第33聯隊へ入営したのは昭和17年のことでした。そして翌年秋、空挺部隊の挺進第5聯隊へ転属となります。

この日記は、19年の元旦からはじまる。しかしながら、ぼくがこの筑波へきたのは、18年の9月20日であったから、約3月の記録がぬけているわけである.。この3月がぬけていると云うことは、どうも映画を途中からみるようで、たよりない気もする。と云って、今さらその日々のことをかくこともできない。
ざっとかく。
9月19日、夕方土浦は雨であった。北條の伊勢屋旅館へとまった。とおいところへきたと思った。
20日朝この部隊へきた。兵舎が建っているだけで、なんにもなかった。毎日、117(※滑空飛行戦隊)へ飛行機がとんでいた。毎日、いろんな設備が出来て行った。3中隊へかわったけれども、1週間で2中隊へもどった。毎日、演習であった。1月ほどたつと、重きかん銃へまわった。
分解はん送で閉口した。西風が吹きはじめて、冬であった。
敏之助応召の電報がきた。3泊もらって帰った

「筑波日記」より

映画監督を夢見たこの青年が、凡そ不釣合いな空挺部隊に配属された経緯は不明です。
志願者のみで構成される川南のパラシュート部隊とは違い、西筑波のグライダー部隊は一般部隊を編入した混成チーム。
竹内さんも、意図せずしてこの「斬り込み部隊」へ転属させられたのかもしれません。
昭和19年1月1日~7月27日の間手帳に記された「筑波日記」や数々の手紙で、彼の出撃前の心情を知る事は出来ます。
西筑波での日常が繊細かつユル~く綴られた(軍隊生活の不愉快な部分は書かなかったそうですが)日記を読むと、第5連隊は一種独特の雰囲気だった様ですね。
「夜、本部のうらの車庫で映画があった。まず、パラマウントのマークが写し出されたのでびっくりした。ポパイであった。I AM WHAT I YAMと云うのであった。その次が暖流であった(「筑波日記」」昭和20年7月18日より)」とあるように、敵国のハリウッド映画やアニメ作品「くもとちゅうりっぷ」まで娯楽の時間に上映されていました。

この部隊に関する記録はとても少ないので、「筑波日記」から読み取れることは沢山あります。
しかし彼の作品に注目するのは詩壇や文学界だけで、ミリタリー界の反応はイマイチというか何というか。

ヒルメシヲドッサリ喰ッタ。
喰ッテ、ブラブラ帰ッテクルト、イママデ何ヲシトッタ、スグ用意ヲセイ、グライダァニ乗ルンジャ。
生レテ、ハジメテノ、ボクノ空中飛行ガ始マル。
ゴチャゴチャト、緑色ノベルトノツイテイル落下傘ヲ着ケタ。
勇マシイ気ニナッタ。
同乗者十三人アマリ。
ヨイ数デハナイ。
赤イ旗ガフラレタ。
ガツント、ショックガアッタ
スルト、枯草ガ、モノスゴイ速サデ流レハジメタ。
ウレシクナッテ、ゲラゲラ笑ッタ
枯草ガ沈ンデ行ッタ
コノ、カワイラシイ、ウツクシイ日本ノ風土ノ空ヲアメリカノ飛行機ハ飛ンデハナラヌ

竹内浩三 「筑波日記」昭和19年3月1日より抜粋

平和だった日々を懐かしみつつ、「滑空歩兵」という特異な精鋭部隊に身を置いている、そのような自分の境遇を諦観していた詩人。
この記事では、ありがちな「反戦詩人」ではなく「グライダー空挺隊員」としての竹内浩三を取り上げましょう。



昭和19年11月、創設期から陸軍落下傘部隊を育て上げた挺進練習部は解散。
同月21日、第1挺進團、第2挺進團、挺進飛行団、滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊、挺進戦車隊は、全ての陸軍空挺部隊を統括する「第1挺進集団」の傘下に入ります。

軍部が夢見た2個空挺師団への発展計画も、戦況が悪化した昭和19年には頓挫していました。
日本陸軍が保有できる空挺戦力は、準師団規模の「集団」が精一杯だったのです。

建前上は集団化された陸軍空挺部隊ですが、実際は各個バラバラに戦地へと投入されていきました。
既に挺進第3聯隊および第4聯隊を中心とする第2挺進團は「高千穂空挺隊」としてフィリピン防衛へ派遣されており、挺進第1聯隊および第2聯隊を中心とする第1挺進團は宮崎県で戦力を温存中。
残る部隊で第1挺進集団の中核となったのが、滑空歩兵連隊だったのです。

しかし、日本初のグライダー空挺部隊はその特殊能力を発揮することなく消耗していきました。

第2挺進団を追って、第1挺進集団の各部隊もフィリピンへ出撃します。
昭和19年11月27日、同集団に属する第1挺進機関砲隊、滑空歩兵第1聯隊、第2聯隊、滑空飛行第1戦隊が西筑波で、
第1挺進工兵隊、第1挺進通信隊、第1挺進飛行團司令部、第1挺進飛行團通信隊が川南で動員編成を開始。
これらの司令部として第1挺進集団は設置され、集団長には塚田理喜智少将が着任しました。

全部隊の動員が完結したのは12月5日のこと。
翌6日、挺進集団司令部に「高千穂空挺隊がレイテのブラウエン米軍飛行場群へ降下した」とのニュースが飛び込んできました。
7日にはオルモックへの米軍上陸が伝えられ、高千穂空挺隊の第二派降下チームはそちらへ差し向けられます。第2挺進団の奮戦を聞いた塚田中将も比島作戦への参加を急ぎました。
しかし、制空権を奪われたフィリピンで、鈍足のグライダーによる空挺作戦など最早不可能。輸送機やグライダー自体も足りなかったので、重武装の挺進戦車隊は内地への残留が決定します。
苦労して育て上げたグライダー部隊は翼を奪われ、軽歩兵として地上で戦う事となったのでした。

【空母雲龍の海没】

既にフィリピンで戦っている高千穂空挺隊の後を追って、第1挺進集団は門司港と宇治港へ集結しました。

・空路派遣
第1挺進飛行團司令部

・空母雲龍乗艦
第1挺進集団司令部の一部(輸送指揮官・面高俊秀少佐)
滑空歩兵第1聯隊の主力(多田仁三少佐指揮)
第1挺進通信隊有線中隊(村川中尉指揮)
滑空飛行第1戦隊の先発チーム
第1挺進工兵隊第1中隊(高屋圭三郎大尉指揮)
第1挺進機関砲隊の一部

・輸送艦青葉丸および日向丸乗艦
滑空歩兵第1聯隊第2中隊および作業中隊
滑空歩兵第2聯隊(高屋三郎少佐指揮)
第1挺進機関砲隊の主力(田村和雄大尉指揮)
第1挺進通信隊無線中隊(坂上久義大尉指揮)
第1挺進工兵隊の主力(福本隆一少佐指揮)


彼等が目指すはフィリピンのルソン島。
防御の手薄なこの島の守備に、空挺部隊が投入されたのです。

12月17日、第1挺進集団の主力を載せた空母「雲龍」は、ルソン島へ向けて宇治を出港。残る各隊は輸送船日向丸、青葉丸に乗込みました。
台湾沖を航行中の19日夕刻、米潜水艦レッドフィッシュから放たれた魚雷が雲龍に命中します。
「巨大な空母が1発の魚雷で沈む筈がない」
雲龍の乗員は誰もがそう思い、中にはトランプに興じ続ける空挺隊員もいました。
しかし、必死で回避運動を続ける雲龍に2発目の魚雷が命中。これに積載していた特攻兵器が誘爆し始め、ダメージは回復不能となりました。
魚雷の第一撃から僅か20分後、16時57分に雲龍は沈没。乗員は真冬の海へ投げ出されます。
脱出した者も冷たい夜の海を漂う中で次々と命を落としていきました。

沈没時に生き残った滑空飛行戦隊パイロットは、台湾で後発チームと合流。器材一式が海没したことでグライダー作戦を諦め、西筑波へとUターンします。
雲龍に乗っていた挺進集団司令部、挺進機関砲隊、挺進通信隊の生存者数は不明。
滑空歩兵第1聯隊は多田仁三聯隊長以下ほぼ全滅し、生存者は坂井大尉ら僅か3名のみ。挺進工兵隊でも福本大尉が生き残りました。
救助された彼等はフィリピンへ向かいますが、その後の消息は杳として知れません。
滑空歩兵第1聯隊の残存兵力は、他の船に乗っていた舘中隊と作業中隊だけとなりました。

日本陸軍が誇る精鋭グライダー部隊は、戦場を目の前にして海へと沈んだのです。

滑空
●空母と共に海没する滑空歩兵第1連隊。川南空挺慰霊祭にて

「空母雲龍沈没」の報を聞いて、塚田集団長は言葉を失いました。
彼が頼るべき兵力は、滑空歩兵第2聯隊を中心とする部隊だけとなってしまったのです。
12月29日、滑空歩兵第2聯隊、滑空歩兵第1聯隊の残余(舘および作業中隊)、第1挺進工兵隊、第1挺進機関砲隊、第1挺進通信隊の400名がルソン島に上陸。
これらの空挺部隊群は北サンフェルナンドから列車でクラーク地区の占拠防衛に向かいました。
しかし、挺進工兵隊と滑歩一は米軍の空襲で揚陸資材を喪失。リンガエンに取り残された為、その後はバギオ方面で別行動をとる事となります。
舘大尉率いる滑空歩兵第1連隊の残存中隊は、米軍リンガエン上陸を迎え撃つ陸軍第23師團の傘下に入りました。

当時、私は滑空歩兵第2聯隊(聯隊長高屋三郎少佐)第2中隊(中隊長黒江祺一郎大尉)の機関銃小隊長を拝命しておりました。聯隊はレイテ島に降下した高千穂部隊増強の目的をもって、昭和19年12月29日、比島サンフェルナンドに上陸。開けて1月9日にクラークフィルド、ストッチェンバーグ旧米軍兵舎に到着しましたが、既にわが航空兵力は壊滅し、空挺作戦の遂行など思いもよらぬ状態でした。
三島与四治「我等クラークに死せず」より

1月6日に新田原を発った塚田集団長も8日にフィリピンへ到着。前年末に先発していた司令部と合流しました。
そこで塚田集団長の指揮下に入ったのが、12に及ぶクラーク飛行場群の防衛にあたる「建武集団」です。
名前は勇ましい建武集団ですが、その実態は数十に及ぶ陸海軍部隊の雑多な寄せ集め。しかも大部分は支援部隊であり、機動歩兵第2聯隊高山部隊と一部の海軍部隊以外の戦闘能力は期待できません。航空支援を頼もうにも、クラーク飛行場の戦闘機はとっくの昔に姿を消していました。
塚田集団長はクラークに集結した空挺部隊を建武集団の中核へ組み入れ、米軍への迎撃態勢を整えます。
但し、現地に複郭陣地は構築してあったものの、備蓄の食糧弾薬は二、三ヶ月分のみ。
建武集団は、乏しい戦力と僅かな物資だけで強大な米軍と対峙する事となりました。

1月8日飛来された挺進集団長塚田理喜智中将は、現地の高山支隊(機動歩兵第2聯隊)、江口支隊(飛行場大隊の集成)、高屋支隊(滑空歩兵第2聯隊を主体とする挺進集団の諸隊)及び海軍部隊を併せた約3万の兵力によって「建武集団」を編成、クラーク地区の防衛に任ずることになり、わが聯隊はその中核として松山地区の防衛に当ることになりました(同上)

【クラークの攻防】

1月9日、アメリカ軍は旭兵団が守るリンガエン湾に上陸。
レイテ島に続き、ルソン島の攻防戦が開始されます。
その頃、マニラの防衛にあたっていた高千穂空挺隊残存兵力も第4航空軍司令部の警護を命じられてルソン島を北上していました(エチアゲ到着直後、冨永恭次航空司令官は台湾へ逃亡)。

リンガエン方向から南下した敵は1月26日より空陸呼応して猛烈な砲爆撃を繰り返し、又多数の戦車を伴って、突如第二線のわが陣地に迫り、29日遂に松山主陣地に殺到して参りました。前方に位置していた第一線部隊が連絡することなく後退してしまったからです。
私は28日夜、急遽聯隊の最前線の配置についた黒江中隊の防御陣地から更に突出した「二の台」の防御に当りました。ここは永さ120―130米の帯状の岩山で、頂上には約30米ほどの平坦地があり、遮蔽物とてなく、止むなく前面に岩を積み上げ、兵を伏せ、その上を携帯天幕で蔽い、土砂をかけて偽装しました。
わが聯隊は上陸時敵の空襲により乗船が海没、為に多くの兵器、弾薬、糧秣、車両等を失いましたが、幸いにも携行兵器は無瑕であり、私と共に伏せた兵は陣地の関係上人員こそ17名ながら選りすぐった精鋭であり、重機2、軽機2、小銃、手榴弾等武器も充分にあり、気力またみちみちていました
(〃)

米軍第14軍団がクラークへ侵攻したのは1月26日のこと。緒戦において建武集団の重火器や戦車は忽ち粉砕されます。
踏みとどまって孤軍奮闘した滑空歩兵第2聯隊ですが、僅かな兵力で米軍の大部隊に抵抗するのは不可能でした。

ヤレヤレと息つく暇もなく敵の大群来挙、激戦日夜を通した状況で、編成直后で自分は将校の名前を覚えること、中隊幹部は兵の名前を覚えることに精力の大半を使い、甚だ不本意悪条件の下に戦斗に臨んだ。
部隊はクラーク地区に配されたが、該地区は陸海の混合部隊で名こそ建武集団と勇ましいが、実質は烏合の衆に近く、且つ兵器も竹槍を用いる状況で、残念乍ら戦えば必ず敗れると云う具合。
滑空歩兵第2聯隊はこのような泥池に咲いた蓮の花のような存在で、常に第一線重点方面に使用され、死守よく陣地を確保していると、何時の間にか左右の友軍行方不明となり、左右は勿論甚だしい時は後方迄敵の侵入する所となり、全くの袋叩きといった状況であった。
部隊は久しく内地で待機を命ぜられ、徒に挺進部隊の花々しい話のみ聞かされて切歯扼腕していたときであったので、石のような困難極まりない戦況下でも克く命令に服し、自ら進んで死地に飛び込んで行った。
部隊は空腹飢餓で死んだ人よりも戦死、戦傷死者が大半を占めたのを見ても、奮戦の様子がわかる。
全然無傷の者は800名中せいぜい5人以下と記憶している。

滑空歩兵第2連隊長 高屋三郎中佐の証言より

30日、大損害を蒙った建武集団は平野部の防衛線を捨てます。
敵の攻勢下では、弾薬食糧の大部分を残したまま後方陣地へ撤退せざるを得ませんでした。挺進通信隊の努力にも拘らず、やがて方面軍司令部山下大将との連絡も途絶。
食糧も尽き果て、飢餓に苦しみながらの抵抗が続けられます。

29日の敵の総攻撃は凄まじく、観測機の誘導による砲撃は頭を上げられぬ程の猛烈さでした。敵は砲撃に付随して前進し、わが陣地前方の斜面を凡そ200名あまり、近くは5、6米先を中隊前面に接近して来ました。
満を持していた小隊は、敵の先頭をやり過ごし充分に引きつけておいて一斉射撃を開始しました。側面からの猛射を浴びて不意をつかれた敵は、多数の遺棄死体を残し散を乱して敗走いたしました。
午後になると敵は再び体勢を立て直し、今度は二の台を目標に再三再四攻撃をかけてきました。4時頃には重機、軽機悉く被弾破壊され、重火器の掩護をうけて接近する敵兵との間に壮烈な手榴弾戦が展開されました。
数度にわたる敵の強襲を撃退出来たのは、高地から手榴弾を投擲出来るという地の利と兵の勇敢さでした。
漸く陽が落ちて、敵は退きました。
この日の戦闘による犠牲は大きく、部下の生存者は僅かに3名を数えるのみでした。
夜を徹して戦死者を収容、陣地を補強して、前日と同じく17名の部下を率い、重機その他兵器も前日と同様に補充し、再び陣地につきました。
翌30日、日の出と共に隣中隊が布陣していた前方高地から12.7ミリ機銃、側面から迫撃砲、そして後方からは多数の戦車からの猛射を浴びましたが、敵は前日の失敗にこりたのか慎重そのもので、文字通りの射撃戦になったのです。
午後になると、敵は大型戦車2両を伴う歩兵を以て攻撃してきました。
地形に制約されてあまり自由に行動出来ぬ戦車の間隙に乗じ、付随する歩兵を掃射し、追落せば戦車が退き、新手を伴った敵が優勢になればこちらが落されそうになり、必死の一進一退が繰り返されました。
何とか持ち耐えることが出来たのは、弾雨をついて中隊から二度も増援を得たからです。

「我等クラークに死せず」より

クラーク防衛戦
クラーク西方を防衛する滑空歩兵第2聯隊。 川南空挺慰霊祭にて

【挺進工兵隊の奮戦】

一方、1月13日にバギオへ到着した第1挺進工兵隊は、南方総軍工兵隊の指揮下に入ります。
出発時は418名いた挺進工兵隊員ですが、12月19日には空母雲龍の撃沈で145名が戦死(生存者2名のみ)。
残存部隊はルソン島へ上陸しますが、12月30日には停泊中の青葉丸が空襲を受けて爆薬や車両など多くの物資もろとも沈没。辛うじて揚陸できた車両も、器材中隊と共にクラーク方面へ行ってしまいました。
戦闘前から多くのものを失った工兵隊は、その状態のままバギオ防衛に投入されます。
先ず命じられたのは、アリタオとを結ぶ補給道路建設。そして1月29日までは抗日武装勢力「ユサッフェ・ゲリラ」の掃討作戦へ回されます。

道路建設に移ってからも抗日ゲリラの襲撃は続き、2月12日には米軍機の空襲で橋梁建設作業中の渡辺中尉以下24名が戦死。
渡辺小隊を失った挺進工兵隊は一時撤収へ追い込まれます。
以降は飢えに苦しみつつ作業に当たっていましたが、3月になると補給は完全に断たれ、戦闘も激化していきました。

3月10日、挺進工兵隊は米軍接近に備えてバギオ北方ウグ山に陣地構築。
3月18日、ウグ山陣地の挺進工兵隊にバギオへの帰還命令。
3月20日、バギオからツゲガラオ飛行場へ退避する村田大使、日本大使館員、ホセ・ラウレル大統領、アキノ氏らの防衛の為、挺進工兵隊は北サンフェルナンドへ展開。米軍との激戦で第2中隊長以下多数を失います。
3月25日、フィリピン要人の台湾脱出まで米軍の足止めに成功した挺進工兵隊は、バギオに撤退しました。

3月26日、挺進工兵隊と滑歩一はバギオ北方のベンゲット州アトック郡一帯に展開するアメリカ・フィリピン混成軍の討伐作戦を命じられました。
28日、旭兵団と共に行動していた滑空歩兵第1連隊の残余は、第1挺進工兵隊と再び合流します。
その中には竹内浩三兵長の姿もありました。
雲龍撃沈の難からは逃れたものの、上陸したフィリピンでは絶望的な戦いが彼を待っていたのです。

30日20時に出発した空挺部隊は24時にポントック道34km地點へ到着。アトック攻撃隊長吉岡少佐の指揮下に入りました。日中は敵偵察機から身を隠しつつ、31日夕刻に薄暮攻撃準備を完了します。

アトック攻撃隊編成
攻撃隊長 吉岡砲兵大佐
附 宇土少佐
第1挺進工兵隊長 中井少佐
副官 安田大尉
附 西垣大尉
附 長谷川少尉
軍医 丸山大尉
第2中隊長代理 片野大尉
第1小隊長 鎌田中尉
第2小隊長 高橋中尉
第3小隊長 伊藤中尉
滑空歩兵第1連隊作業隊長 戸沢大尉
滑空歩兵第1連隊歩兵砲小隊長 鈴木中尉

4月1日、薄暮攻撃再開。吉岡部隊長は前日に引続き主力を以て敵主陣地正面を攻撃、一部(中西中尉の1ヶ中隊)を以て敵左側背を攻撃、工兵隊は全力をあげて敵右側背の攻撃を開始した。
企図を秘して前進、約1時間後に敵右陣地附近に進出、俄然迫撃砲を伴う重大量の集中に遭ったが、敵の不意の攻撃に奮然となった工兵隊の精鋭は前進又前進、遂に敵の第1隊陣地突破に成功した。
曳光弾がヒュンヒュン唸る中を兵は鉄帽を目深に被って、ワッショイ、ワッショイ掛声勇しく意気天を衝いて突進した。
4月1日夜半に至るも更に攻撃奏功せず、各隊指揮官より果敢な突撃により一挙に敵を蹴散らす以外に方法なしとの声が各所に起こった。
2日0200遂に突撃敢行、各隊は敵弾雨飛の中を揉みに揉んで遂に敵の本拠たるアトック完全占領、時に0300であった。敵は戦死者を若干残して西方山中に退却、他のゲリラと合流したらしい。
吉岡部隊及び工兵隊は全部隊に休養を採り、更に敵のゲリラ部隊の本拠1文字山を攻撃すべく捜索及戦斗準備を行い、又数組の斬込隊を放ち、敵司令部及砲兵陣地を攻撃した。この戦斗で武田兵長以下5名戦死を遂げた


アトック戦を終えた空挺部隊に対し、第14方面軍はイリサン方面での米軍進攻阻止を命じました。
4月14日深夜1時、イリサンへ移動した挺進工兵隊と滑空歩兵第1連隊は防衛陣地を構築。米軍の攻撃に備えます。
同日、米軍はイリサンへの攻撃を開始しました。大砲と迫撃砲の猛射に続き、米軍戦車隊が侵攻。23師團を中核とする日本軍も激しく応戦しました。
19日に防衛ラインは突破され、戦線は崩壊。大混戦の中、互いを味方と勘違いした米軍と滑空歩兵が並んで布陣する珍事も起きています。
大損害を被った空挺部隊に対し、前線から3kmの後退命令が出たのは20時のことでした。
19師團の増援中隊と合流した空挺部隊は、24時に後方陣地へと退きます。その後は米軍への奇襲攻撃を繰返しますが、24日にバギオは陥落。
25日に撤退を命じられた時、空挺部隊は敵中深く取り残されていました。ナギリアン道からバギオへと雪崩れ込む米軍を迂回しつつ、生存者20名は何とかトリンダッド村まで辿りつきます。
4月30日、ボンドック道24km地点に陣地を構築した空挺部隊は、敵の進撃阻止にあたりました。
以降は補給も途絶え、飢えと病に苦しみながらの斬り込み作戦が続きます。

滑空歩兵第1聯隊858名中、雲龍撃沈を含めた戦死者は実に727名。
宮沢賢治の本に忍ばせた筑波日記と、「僕が死んだら豆腐のような白い小さなお墓を立てて下さい」という言葉を姉に残した竹内浩三も、昭和20年4月9日、バギオ北方1052高地附近の戦闘で散ります。
23歳でした。


戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女の身だしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し

なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

竹内浩三「骨のうたう」より

4月14日、バギオへの侵攻を開始した米軍に対し、挺進工兵隊はイリサンに防衛線を張りました。イリサン到着後休む間もなく久米川参謀より米軍戦車隊の阻止を命じられ、紙一重の差で戦車進路上の橋梁爆破に成功。

挺進工兵隊
4月14日のイリサン攻防戦にて、米軍戦車隊の進撃を阻止する挺進工兵隊と滑空歩兵第1連隊の混成部隊。
川南空挺慰霊祭にて

(4月14日)0600過ぎ部隊の第1線陣地附近に帰ると、軍参謀久米大佐以下が工兵隊の若い将校を掴えてあれこれ言っている。
何事ならんと傍に寄ると「オー!丁度好い所に来た。見ろ、あすこを!!戦車だ、戦車が出て来たんだ。約4粁、あいつを押えにゃならん。この下の橋を爆破して呉れ。俺も一緒に行くからすぐ準備をして呉れ」
吾々は昨夜一睡もせず空腹を抱えて走り廻り、漸く待望の朝食にありつけたと喜んだのも束の間、又又重大任務である。
橋梁に最も近い作業隊長、戸沢大尉に橋梁爆破の伝令を飛ばし、吾々も携帯口糧を口に放り込んで橋梁に向かって突進した。
戦車はすぐ近くに来ている。これを阻止せねばならぬ。これをバギオに通したら、我等も戦わずして敵中に孤立することになる。
危機一髪だ。
漸く橋梁に到着、戸沢大尉は極めて段取りよく既に破壊準備を実施中であった。賢明なる戸沢大尉は、我々が命令受領中、敵情を偵察し破壊命令が下ることを予期して待っていたのだろう。
橋の長さは約20米、高さは約12、3米。両岸は断崖で灌木が岩の間に茂っている。この破壊に成功すれば、約1週間は敵戦車の前進を阻止することが出来るだろう。
此の間にも、敵戦車砲の発射音は近付いて来る。
12、3分位経った頃、所沢大尉の準備完了報告がある。中井少佐はにっこり笑って「ヨシ!!点火」の命令。轟然たる音響と共に橋の1部が吹き飛び、鉄片が周囲の断崖に突き刺さった。
物の見事に工兵隊はイリサン戦場最初の重任を果したのだ。
「ヨーシ!!良くやった。貴公等の健闘は軍司令官閣下によくお伝えするぞ」
久米大佐は感謝しながら吾々の手を固く握った。
斯くて、挺進工兵隊が全滅を賭して敢闘したイリサンの戦場の幕は切って落とされた


4月17日まで米軍戦車隊との攻防を続けた挺進工兵隊ですが、18日には指揮官である中井隊長が戦死。

副官、安田大尉は中井少佐に対して「此の戦斗は私が引受ける。貴方の身体には部隊の全責任が懸っているから、私が死んでからでなくては決して出て来て貰い度くない」旨言い残して、花輪准尉と共に片野大尉の指揮所に前進する時に、10:00敵の猛攻は更に加わり、陣地の確保困難の状態となる。
10:30中井少佐は米田少尉を伴い突如第一中隊指揮所に現われた。
中井少佐以下各級幹部将兵一体の奮戦は、目前の敵を撃退すべく死斗数回、少佐の指揮適切且将兵の奮戦目覚ましく、流石の頑敵も撃退するやに見えた瞬時、中迫撃砲の1弾は中井少佐、米田少尉の中間に炸裂、両名は全弾を受けて壮烈な戦死を遂げる。惜しい哉、中井少佐、若冠26才陸士第54期。比島上陸以来常に率先難に会して臆せず事を処するに果断、真に純性な青年将校であった。
この頃、右翼隊山本大隊は敵の攻撃餘りに激しき為、我が隊に何等の連絡なしに戦場を離脱する。
そのため我右翼に敵溢出して益々戦斗不利に陥った


4月20日、第1挺進工兵隊の指揮を継いだ安田大尉の手記にはこうあります。

4月20日、早朝から敵の攻撃熾烈、稜線の反対斜面一帯に敵の攻撃陣地が構築され、敵の人相迄明らかに識別できるように接近した。
隊員一同、「今日限りの命」としみじみ感じ、全員玉砕を覚悟せざるを得なくなった。
だがどうせ永くない命と思うと、案外坦々たる心境に入って戦斗することが出来た。
此の日全員自決用の1発を残して、今日迄節約に節約を重ねて来た弾薬を殆んど撃ち尽くしてしまい、余すものは肉弾のみとなった。
本部の下士官以下を中隊に補充し戦力の低下を防いだが、敵の無限の鋼鉄の力の前には陣地はじりじりと押し潰されてゆく。
この日、葛井原曹長、梅村、須田、小林、桜井、河本軍曹をはじめ多くの勇士を失った。
しかし挺進工兵隊はまだイリサンの一角を占領して、大敵をしてバギオへの突進を釘付けにしているのだ


兵力増援要請は受け入れられず、孤軍奮闘のまま戦死者は続出。
戦闘終了後、安田隊の人数は20数名となっていました。
イリサン防衛戦に於いて、挺進工兵隊は中井少佐以下戦死47名、行方不明35名の犠牲を出します。

挺進通信隊
演習中の挺進通信隊(有線中隊および無線中隊で構成)。雲龍撃沈で半数を失い、残存部隊もクラーク防衛に参加、ほぼ全滅します。
川南空挺慰霊祭にて

挺進工兵隊が戦っている頃、クラークの滑空歩兵は建武集団退却のため抵抗を続けていました。

重傷者は逐次後退せよとの命令があり、藤本大尉と私は兵2名と互に力を合わせて遙か後方の応急野戦病院まで後退いたしました。しかしながら、その後の戦況は日増しに悪化し、常に第一線にあった聯隊は戦闘に次ぐ戦闘で著しく兵員の損傷を受け悪戦苦闘中との報に接し、「聯隊長と一緒に死のう」との藤本大尉の一言で、2月中旬、下士官兵5名と共に第一線に復帰いたしました。
1ケ月、小戦闘を繰り返し、その間聯隊は再編成され、私は2ケ小隊からなる三嶋隊の隊長を命ぜられました。
3月20日頃、敵はのちに上田山と名付けられた無名高地を占領、そこに観測所を設け昼夜をわかたず猛砲撃を加えてきたため、集団の転進が不可能に近い状態となり、わが聯隊に上田山奪還の命が下りました。
高屋聯隊長は直ちに攻撃命令を下し、三嶋隊は上田山西方400米ほど離れた台地上から、厳しい転進の間にも辛うじて保持していた重機2銃を以て、薄暮寸前、奇襲射撃を敢行いたしました。
上田山の斜面に立ち観測中であった敵は将棋倒しに倒れ、大混乱に陥ち入りました。その隙に乗じ前夜より隠密裡に敵陣に接近していた上田隊は、三嶋隊に呼応して突入、奪還に成功し、数日間これを確保して集団の転進を可能ならしめました。
この戦闘に於て、60余名の上田隊は隊長以下殆んど戦死を遂げました。のちにこの無名高地を誰云うとなく上田山と呼ぶようになりました。
集団及び聯隊の大きな戦闘はこれを以て終り、再び転進が始まりました。


4月になると、武器食糧の尽きた建武集団では餓死者が続出。1月には3万の兵力だった建武集団は、戦闘と飢えと病によって1500名程度にまで減ってしまいます。
4月20日、塚田中将は遂に集団を解散し、以降は各自で自活行動に入るよう通達しました。
4月24日、日本軍の抵抗を排除した米軍はバギオ市への突入を開始します。

この日、戦区本部は十四戦区を解散し、以後各科毎に行動する事を命じた。主計科は米その他の食糧を分けた。武器弾薬もすべて分配した。
医務科も二〇一航空隊本来の隊員と、後から入ってきた一式陸攻隊の隊員と分離、別行動をとることになって、衛生資材、武器弾薬、天幕まで細かく切り裂いて個人用にと配布した。ただ当時の期日が、四月二十日クラーク防衛隊を解き、各戦区指揮官に委ねられた日であったかどうかは知らない。
(中略)
今はもう組織としての軍隊ではない。命令もなくなり、通報、伝達など無縁となった。ただ自分のグループについて行くだけである。
暦の上の日付など忘れている。今何月何日なのか、そんな事はどうでもよかった。夜になって丸い月を見ると、故郷の十五夜を思い出して語り明かすのである。この頃まではどのグループも糧食を持ち、体力も幾らかあった。目的とてなくも、西海岸へ出るのだと張り切った姿も見られた。
どのグループを見ても部隊を解散された兵士達であり、特に海軍グループが多く目につく。毎日多くのグループが続くためか、ネグリート族の襲撃にも遭わない。
見つけた焼畑の芋を掘り、食べながら、他のグループがすることに従うことが大部分であった。
こうしたグループの中に、何時からか完全武装に近い一個中隊ほどの陸軍兵がいた。食糧よりも武器を多く持っている。重たい機銃を担ぎ、迫撃砲を持っていた。指揮官らしい将校が「これから米軍にひと泡ふかせてやるんだ」と、意気まいていた。
間もなく他のグループを置いて先に進んでいったが、米軍の襲撃に遭って応戦の末、全滅に近い被害を受けた、と何人かの兵士が生き残って帰って来た

二木滉著「クラーク戦線」より

挺進工兵隊
イリサン付近における第1挺進工兵隊の手榴弾戦。 川南空挺慰霊祭より

5月4日、挺進工兵隊は獨立混成第58旅団工兵隊の指揮下に入り、ボンドックへ向けて侵攻する米軍を迎撃。
此の頃から食糧事情は更に悪化し、5月末には殆んど飢餓状態に陥ります。
6月は敵への夜襲を続けながらボンドッグ道をジリジリと後退。この撤退戦で加藤准尉ら27名が戦死します。
7月20日、第1挺進工兵隊残存兵力はバギオ北方アキサンムの山岳陣地に展開しました。高橋中尉以下17名を失いながら、ここを最後の拠点として敵への斬り込み攻撃を繰り返します。

【第1挺進集団の最後】

これ以後、フィリピン各地に展開した第1挺進集団は、現地軍と合流、または独立部隊として闘い続けました。
8月15日以降もジャングルに立て籠もっていた彼等ですが、8月29日、米軍が散布した伝単で日本の敗戦を知ります。
そこで塚田団長は、軍使の出田海軍大尉をアメリカ軍へ派遣しました。

軍使は米軍基地に向かって進んでいきました。私は市田少尉と安田上整を伴って長い森の中を歩いていきますと、途中、敵の歩哨線近くで数名の米兵に機銃と銃剣を突きつけられて包囲されてしまいました。
私は早く何とか言わなければならないと思うのですが、胸は早鐘のように鼓動がうち、それに戦争ボケで英語が思うように出てきません。
「軍使、最高指揮官からの軍使だ」
私は必死になって叫ぶと、続けて言いました。
「鉛筆をくれ」
うまく話せない英語を筆談で知らせたいと思ったからでした。それからは口から出まかせの英語と筆談とで、やっと我々を理解したのでしょうか、コチコチの米軍中尉がやってきて、拳銃を突きつけながら我々を救急車に乗せました。
途中米軍の戦車がひっくりかえっている急造の道を走っていますと、突然私達を載せた車はエンジンが火を噴き出しました。
急停車、あわや火災かと思っていますと、コチコチ中尉は急いで出口の扉を開けてくれました。恐ろしい顔をしていますが、なかなかしっかりしていて親切なところもあります。
更に森の中を走って広場に出ました。そこには見憶えのある黄山がありました。そうすると今車から降りた所が五の谷でしょうか。
何という変わりようでしょうか。
今ではすっかり整地がされて、ここには幾つもの天幕が建てられ、金網の囲いができていました。

七六三海軍航空隊 出田大尉の証言より

9月4日、方面軍司令部の命令により建武集団の投降が決定。
以降、米軍と軍使の間で投降手続きが進められます。
辛うじて組織を維持していた十六戦區など一部の海軍部隊を除き、そう簡単に投降はできません。バラバラに分散していた兵士の集結と武装解除、傷病兵の搬送も必要でした。
日本軍の要請した投降条件は意外にも受け入れられ、山中に残る日本兵に対して米軍機による食糧投下が開始されます。

敵の戦車道路が海岸に通じたため、退路を絶たれた集団は遂に4月5日、組織的戦闘体勢を解き、文字通り不毛の地で部隊ごとに自活態勢を確立し、抗戦を続行することになりました。
700有余の精強を誇った高屋支隊も相次ぐ激戦でもはや40数名を数えるのみでした。
8月末、私達は飛行機よりの伝単によって日本の無条件降伏を知りました。
集団長は直ちに各支隊長を集合させ、軍使を出してその事実を確認し、更に山下軍司令部の命を確認した上で、9月中旬、私達は思い出多き山を降りたのです。

滑空歩兵第2聯隊三嶋与四治氏「我等クラークに死せず」より

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ルソン島の日本兵に投降を呼びかける米軍の伝単

9月10~14日にかけて、建武集団の1500名は米軍に投降。
投降時に生存していた空挺隊員は、建武集団で約100名、バギオの挺進工兵隊では僅か40名だったそうです。挺進通信隊、挺進機関砲隊、滑空歩兵第1連隊の損害は更に酷く、全滅に近い状態でした。
これより先に徳永第2挺進団長率いる高千穂空挺隊残存兵も投降しましたが、その悲惨さは滑空歩兵と同じです。
高千穂空挺隊や滑空歩兵部隊が奮闘したところで、負け戦になってからの空挺作戦が戦局に寄与するのは不可能。
フィリピンの戦いは、陸軍空挺部隊にとって無残な敗北に終わりました。

九月十日頃、指揮官は塚田陸軍中将(挺進集団長)に諮られて、戦没者の慰霊祭を第二深山の塚田中将幕舎近くで行われた。
その日の夕方、私は非常用に蓄えていた約三・五リットルの米を出して、安田上整に炊事をさせていた。
ちょうどそこに塚田中将から連絡を受けた陸軍参謀山田少佐が岡本伍長とやって来た。米飯の炊事を見て驚いたようにのぞき込んで思わず言った。
「一口でよいからその米の飯を食べさしてくれないか。是非お願いしたい」
どこの誰だって、ずいぶん長い間米の粒なんて拝んだことはなかったはずである。この陸軍の参謀にしたって、草を噛み、木の根をかじって生き延びてきたに違いなかった。私はこの人達の気持ちがわかるだけに、その申し入れを快く受け入れた。
「もっと水を入れておかゆにしろ」
私は、安田上整に促した。
「いや、おかゆではなくて、固いものを食べさせてくださらないか」
山口少佐は懇願するように言った。だが、栄養失調者にいきなり固めの飯を食べさせたら、命とりになりかねない。
「いやいけません。固いものをいきなり食べたら、貴方達は死んでしまいますよ」
私は諭すように言って聞かせた。やがて、おかゆと米飯との中間位の軟らかめのものが出来あがり、海軍食器中椀一杯ずつ盛って二人に差し出した。
「岡本伍長、俺等はもう何時死んでも、思い残すことはないな。米の飯を食べられてよかったな」
目を潤ませながら、少佐は何回ともなくつぶやいていた。

「十六戦区本部転戦の記」より 七六三海軍航空隊 鳥井芳春少尉の証言

高千穂空挺隊と滑空歩兵がフィリピンへ向かった後、日本陸軍空挺部隊による捨身の特攻作戦が決行されます。
挺進第1連隊第4中隊による、「義号作戦」の始まりでした。

(第8部へ続く)

空挺給水塔 其の8 義烈空挺隊

Category : 第八部・義号作戦 |

作戦命令などの重要命令は私達の無線電話によらず、直接軍司令部へ受領或は都城へ持参だったと思います。
従って当時の最重要機密電報である軍機電報(ライ)や作戦急電報(サキ)等は受信した覚えはなく、至急官報(ウナ)が多かったようです。
また福岡の軍司令部と都城の作戦室を結ぶ有線電話は、あまり良く通じなかったようで、将校が「六航軍、六航軍」と何回も続けて大声で呼出しているのをよく聞きました。
五月の末だったか、義烈空挺隊の沖縄北・中飛行場強行着陸の報は、一時的に私達の士気を高めたが、間もなくまた重苦しい気持ちになってしまいました。
もうこの頃は日本が降伏するとは思わなかったが、戦の前途に勝利の希望は持てず、いずれこの南九州も戦場になるだろうと思っておりました。
なお空挺隊といえば新田原にいた時、唐瀬原の空挺隊の降下訓練をよく見ており、また外出先の高鍋や妻(※現在の西都市)でよく彼等に逢って訓練の苦しさをグチられた事を思い出します。

「埋もれた青春」より 都城西飛行場陸軍少年飛行通信隊 中島昭次氏の証言

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読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆(この機体は予備機でした)。

(第7部からの続き)

こうして台湾軍の薫空挺隊(陸軍落下傘部隊とは無関係)、第1挺進集団の高千穂空挺隊が相次いで実施したレイテ島への空挺作戦は、双方の突入部隊が全滅するという結果に終わりました。
12月6日におこなわれた高千穂空挺隊のレイテ島降下作戦に続いて、12月24日には別の部隊がサイパン島への空挺作戦を計画しています。
その名は「義烈空挺隊」。
米軍制圧下のアスリート飛行場へ強行突入する為に編成された、事実上の特攻部隊です。

それぞれの運命を辿った陸軍空挺部隊群の中でも、「二転三転する命令に翻弄され続けた悲劇の中隊」として知られる義烈空挺隊。
パレンバンの栄光は輸送船沈没事故の為に挺進第2連隊へ譲り、挺進第3、第4連隊はレイテ降下作戦へと赴く中、最古参の挺進第1連隊だけはラシオ、ベナベナと戦機を逸し続けていました。
義烈空挺隊は、その第1聯隊から選ばれたコマンド部隊だったのです。

サイパン特攻を命じられた筈の168名は、一体どのような経緯で沖縄への突入に至ったのか。
唐瀬原→豊岡→浜松→唐瀬原→西筑波→唐瀬原→健軍と、部隊が短期間に国内移動を繰り返した理由は何だったのか。

第七部では義号部隊の発足から出撃までの半年間について記します。

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【唐瀬原への帰還】

昭和18年の出撃計画は、アッツ島救援作戦、ベナベナ降下作戦と立て続けに中止されました。
1年間を棒に振ったものの、空挺部隊を「片道特攻」の犠牲とする愚行は避けられたのです(この時点では)。
昭和19年8月14日、第1挺進団は唐瀬原へ帰還。出撃を逸した第1挺進団挺進第1連隊も、再び宮崎で待機の日々を過ごすこととなりました。

一年振りに唐瀬原に帰ってきた第一挺進団に対し、近郷の町村は温かく迎えた。内地に帰ると、将校と古参の下士官は営外に居住する。大部分は独身者なので、下宿するが、田舎のことで専門の下宿屋はない。
周辺の町村は、殆んど軒なみに若い将兵を受け入れて、家族の一員にしてくれる。
「小父さん、また帰ったよ」
「オオ、よく無事に帰んなすった」
わが子を迎えたように、心から喜んでくれる。しかし本当のわが子は、戦地に出ていつ帰れるか見当もつかない。
都会は既に食料が極度に逼迫していたが、ここは海の幸、山の幸が豊富にある。いも焼酎ならいくらでも飲める。北九州は、既に数回中国大陸を発進したB–29に爆撃されているが、この片田舎には、まだ戦火の気配はない。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

「空の神兵」が華々しく活躍できたのはパレンバンまで。やがて始まった米軍の反攻に伴い、空挺部隊は劣勢を(一時的に)挽回する為の切り札となっていきます。

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訓練中の帝国海軍落下傘部隊。サイパンでは地上部隊として投入され、壊滅的な損害を蒙りました。

【サイパンの空挺部隊】

義烈空挺隊について語るならば、昭和19年のサイパン陥落から説明する必要があります。ここを省略すると、同部隊が編成された経緯が分らなくなるので。
サイパンを巡る日本空挺部隊の戦いは、海軍落下傘部隊の壊滅から義烈空挺隊の突入計画を経て、昭和20年の剣作戦まで続く事となりました。

昭和17年8月、米軍はガダルカナル島へ上陸。ソロモン諸島を巡る戦いが始まりました。
その翌月、海軍空挺部隊(横須賀鎮守府第1特別陸戦隊)900名は南洋防衛のためマリアナ諸島のサイパン島へ派遣されます。
しかし、彼等の翼である輸送機は島々への輸送任務に忙殺され、落下傘訓練に使う余裕などありません。折角サイパンまで運んできたパラシュートも仕舞い込まれたまま。
空を飛べない空挺部隊は、タラワやマキンが次々と陥落していくのを傍観するしかなかったのです。

空がダメなら海中から奇襲しようという訳で、横一特は一個中隊を「佐世保鎮守府第101特別陸戦隊」へ改編。
これは海軍内で「S特部隊(Sはサブマリンの意味)」と呼ばれていた、米軍の勢力下へ潜水艦を使って侵入する特殊部隊でした。
佐鎮101特以外のS特部隊としては、呉鎮守府第101特別陸戦隊や佐世保鎮守府第102特別陸戦隊が知られています。

「敵の来ないところで、守備ともつかず、また、輸送機を奪われては攻撃ともつかず、中ぶらりんの恰好となってしまった我々は、悶々の情に耐え兼ねて、軍司令部に陳情に行くことになった。
その結果、落下傘兵約一個中隊の兵力を以て潜水艦奇襲部隊を編成することになり、私がその任を引き受けた。私の中隊を主力として、これに若干の落下傘兵を加え、早速編成を完了した。
昭和十九年一月上旬、佐世保鎮守府第一〇一特別陸戦隊として、落下傘部隊より分離して独立、潜水艦と共同して、サイパン島に於て訓練を開始した。
これは、潜水艦が浮上すると同時に、これに搭載された特殊大発に移乗し、夜闇に乗じて敵地に隠密上陸をし、敵の後方攪乱を行うものである。
落下傘部隊装備の外に、時限爆弾、時限焼夷弾、南方作戦地の鳥の啼き声を発する特殊の笛等が追加された。
特殊任務を遂行するため、当時海軍の慣習を破って、士官以下兵に至るまで、全員頭髪を伸ばして長髪とし、これを七三に分けた(※米兵に変装するため)。
昼間は寝て、夜間訓練を行い、日課は昼夜を正反対に入れ換えた。
当初、大分変な感じで、身体も疲労したが、二十日目頃には全く慣れて、これが当り前のことに感ずるようになった。習慣は恐ろしいものだ」
元海軍少佐山辺雅男「大降下作戦」より

このS特部隊は南方方面艦隊の指揮下に入り、ソロモン諸島での後方攪乱任務を命じられました。
出撃地のラバウルへ到着した先遣チームに続き、2月13日には川内少尉指揮の59名が伊四三潜水艦でサイパンを出港。
しかし、S特隊員を乗せた伊四三はそのまま消息を絶ちます。2月15日、パラオ近海で米潜水艦アスプロに撃沈されたのでした。
残る兵力も激しい空襲でラバウルとトラックに分断され、S特部隊のソロモン奇襲作戦は頓挫しました。

昭和19年2月にマーシャル諸島を攻略した米軍は、続いてマリアナ諸島へ侵攻します。



サイパンに米海兵隊が上陸した6月15日。
その夜、島内に駐屯していた海軍空挺部隊の主力は米軍への反撃を試みました。
夜陰に乗じて奇襲を図った横一特ですが、砲爆撃で掘り返された地形を突破するのに手間取った挙句、他の斬込部隊との連携もとれないまま交戦状態に突入。米軍の戦車や艦砲射撃を前に、唐島司令をはじめ海軍空挺隊員は次々と戦死していきます。
後送された負傷者数十名もその後の戦いで命を落とし、捕虜となった横一特の生存者は僅か数名でした。

トラックとラバウルのS特部隊はサイパンへの逆上陸を計りますが、島に近づく潜水艦は悉く撃沈されていると知って作戦を断念。
以降も戦機を失ったまま、この特殊部隊は現地部隊へ吸収されてしまいました。

サイパン島守備隊は、昭和19年7月7日の総攻撃を最後に玉砕します。
米軍は奪取したアスリート飛行場にB29を配備し、本土爆撃の前進基地としつつありました。

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米軍が作成したサイパンのイラスト。画面下にアスリート飛行場を示すB29のマークが描かれていますね。
右上に記されているのはスーサイド・クリフ。バンザイ・クリフと同様、多くの在留邦人が命を絶った場所です。

これを阻止しようと、陸海軍はサイパンへの長距離爆撃を繰り返します。
しかし満足な戦果を上げることはできず、B29の配備は刻々と増強されていきました。
このような状況の中で持ち上がったのが、陸軍落下傘部隊によるサイパンへの突入案。計画されたのは、クリスマスの夜に輸送機ごとアスリート飛行場へ胴体着陸(滑走距離を短くする為)し、駐機中のB29を爆砕しようという作戦でした。
クリスマスを選んだのは米軍が油断していると思われた為。
パラシュート降下ではなく機体もろともの強行着陸にした理由は下記の様なものでした。

「攻撃要領については色々論議された。落下傘によるべきか、強行着陸か、使用機は九七重爆に限定されている。航続距離も帰航を考えなければ二倍になる。
途中硫黄島で給油することは必至である。落下傘で降下して戦力分散は不利であり、又爆薬の携行品が少なく、あわよくばB29を土産にしたい等の理由で強行着陸に決定された。飛行機数の関係上、実行部隊は150名程度に制限された」

「特攻」という言葉には神風や回天のような自爆攻撃のイメージがあります。
しかし、生還を期待しないという意味ではサイパンへの空挺作戦も特攻と同じ。
地上部隊との連携が前提だった高千穂空挺隊とは違い、敵の制圧下にある島へ空挺部隊単独で突入するのです。
余りにも無謀な作戦でした。

フィリピンの戦いに赴いた挺進第3、第4聯隊および滑空歩兵第1、第2聯隊とは別に、無傷で川南に温存されていた第1挺進團(挺進第1および第2聯隊)を中心とする空挺部隊群。
しかし、その2コ空挺連隊を活用する術など守勢に転じた軍部にはありませんでした。
せっかく育て上げた精鋭部隊はコマ切れにされ、悲惨な特攻作戦に使われ始めたのです。

サイパン特攻部隊は、その先駆けとなる筈でした。

給水塔
宮崎県川南町唐瀬原に残る挺進第3連隊兵舎給水塔。
義烈空挺隊は原隊の第1聯隊兵舎ではなく、レイテ出撃中で空いていた第3聯隊兵舎で待機を続けていました。

【ブラウエン強襲・薫空挺隊と高千穂空挺隊】

ニューギニア方面における連合軍の反攻は激しさを増し、空挺部隊が戦機を伺っていた南方作戦は空振りに終ります。
第1挺進団が唐瀬原に帰還したのは昭和19年8月14日のこと。
1年振りとなる川南空挺基地では、第3聯隊・第4聯隊・挺進整備隊に加えて挺進戦車隊・挺進通信隊・挺進工兵隊といった新設部隊が訓練に励んでいました。
茨城県西筑波飛行場のグライダー空挺部隊を含め、陸軍の全空挺戦力が初めて勢揃いしたのです。

同年10月20日、レイテ島に米軍が上陸。
これに対する陸軍空挺部隊の反応は迅速でした。5日後には挺進第3聯隊が、続いて第4聯隊や挺進飛行隊もフィリピンへ向けて出動します。
これが、第2挺進團「高千穂空挺隊」によるテ號作戦の始まりでした。

11月11日、高千穂空挺隊はマニラへ到着。レイテ島ブラウエン飛行場群への攻撃準備を整えます。
11月26日、それまで空挺部隊の育成にあたってきた挺進練習部はその役目を終え、「第1挺進集團」へ再編されました。
集団長には挺進練習部長の塚田理喜智少将が着任し、司令部はこれまで通り川南村の東地区に置かれます。
体裁上は準師團規模の兵力となった陸軍空挺部隊群ですが、既に高千穂空挺隊はフィリピンへ展開中。各部隊はバラバラに運用される事となりました。
第1挺進集団への再編に伴って河島大佐は挺進飛行団長となり、新たな第1挺進団長には中村勇大佐を迎えます。

同じ日、高千穂空挺隊の元へ思わぬニュースが飛び込んできました。11月26日、高砂族義勇兵で構成される台湾軍所属「薫空挺隊」がブラウエンの米軍飛行場へ突入したのです。
まだブラウエンへの出撃準備中だった高千穂空挺隊は、無関係の部隊に抜け駆けされた(陸軍空挺部隊側から見るとそうなります)ことを知って騒然となりました。
奇襲作戦として情報封鎖していた以上、薫空挺隊と高千穂空挺隊が互いの存在を知らなかったのは仕方ありません。しかし、軍司令部は台湾軍と落下傘部隊の作戦を把握していた筈。
それなのに、同一目標へ向かう2部隊間の情報共有や調整すらしようとしない、全くの無能無策ぶりを発揮していたのです。

薫空挺隊によるブラウエン特攻、「義号作戦」。
この作戦名は後になって甦りました。

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フィリピンにて、薫空挺隊の中重夫中尉を激励する第四航空軍の富永恭次司令官。「空挺隊」と名はつくも、薫空挺隊は陸軍落下傘部隊とは無関係の部隊です。
ちなみに戦況が悪化した翌年1月6日、富永司令官は隷下部隊を見棄てて台湾へと敵前逃亡しました。

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滅敵の闘魂を沸らせつゝ、聖壽の萬歳を奉唱し、決死敵飛行場を急襲せんとする、陸軍特別攻撃隊「薫」空挺隊の出撃直前(胸の雑嚢には爆薬が入つてゐる) 。
内閣情報局 昭和19年

4機の輸送機で出撃した薫空挺隊ですが、そのうち2機が海岸へ不時着して米軍と交戦、1機は日本軍飛行場へ不時着、残る1機は行方不明という結果となりました。生還者は一人もいません。
薫空挺隊にブラウエン攻撃の先を越された高千穂空挺隊でも、全滅必至の特攻チームを編成していました。地上部隊が進出する予定の無い、タクロバン飛行場攻撃隊がそれです。

軍部は、フィリピンに続いてサイパンへの空挺作戦も実行に移しました。

【アスリート飛行場突入命令】

薫空挺隊がブラウエンへ突入した翌日、11月27日。
教導航空軍司令部から第1挺進集団に対し、「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されます。
第2挺進団がフィリピン出撃中のため、サイパン攻撃隊は第1挺進団から選ばれる事となりました。
作戦命令は第1挺進集団司令部から河島第1挺進団長(※この時点で中村大佐は着任前)へ、そして山田秀雄第1聯隊長へと伝えられます。
山田聯隊長から特攻部隊の指揮官に指名されたのが、挺進第1聯隊第4中隊長の奥山道郎(みちお)大尉。
各挺進連隊の第4中隊は、破壊工作を目的に工兵出身者を集めていました。B29を爆破する為、サイパン特攻部隊として爆薬の扱いに長けた第1連隊第4中隊が選ばれたのです。

「そこで充当部隊の問題が重要課題として登場した。挺進第一聯隊、第二聯隊共に兄たり難く弟たり難き精鋭である。先にパレンバン出動時、南支那海で明光丸遭難で戦運を逸し、又ラシオ挺進では降下寸前密雲のため長恨を呑み、ニューギニア、スマトラ作戦でも共に戦局の急変にて空しく好機を逸して帰国した挺進部隊の嫡男、第一聯隊に白羽の矢をたてるのは何人と雖も異論のない所である。
しかも爆薬でB29を挫する為には当然工兵科たる大尉奥山道郎(陸士五十三期)を中隊長とする作業中隊であるのが至当である」
空挺戦友会資料より

奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
人員を補充再編した第4中隊残留組は「作業中隊」へ改称され、指揮は浪花実大尉が引継ぎました。

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挺進第1聯隊第4中隊長 奥山道郎大尉

「特攻隊員は全員志願のうえで出撃して行った」
などという“美談”は、義烈空挺隊のケースでは通用しません。
この「特攻隊」は志願制の体裁すらとっていなかったのです。

編成時に第4中隊で真相を知っていたのは、奥山中隊長、浪花大尉(後任中隊長)、宇津木、菅田、渡部、村上、山田の各小隊長のみ。
情報を秘匿するため、作戦の詳細は伏せられました。
高鍋から美々津あたりまでに分宿していた第4中隊員に対しては、出撃先も伝えられぬまま身辺整理が命じられます。
以前の南方出撃時には「散れや散れ 阿波岐原の若櫻 散るこそ汝の生命なりけれ」と詠んだ奥山隊長ですが、今回の出発地点は宮崎市阿波岐原の住吉兵舎ではなく、川南の空挺基地からとなりました。

「部隊の強味は選抜して編成したのではなく、私の部隊そのまゝが挺進部隊として成長したことである。
隊員はすべて十分に訓練を積んだ若武者ばかりですが、各隊長をはじめ隊員同志は直に家族のやうな愛情と團結のうちに苦労してゐたのが何と言つても心強いです」
日向日々新聞より奥山隊長の談話 昭和20年

「要するにまあ、何かやらにゃあいかん、という考えでしょうね。
あそこ(サイパン)へ行ってね、
誰が考えても、百名足らず飛行場に降ろしてパンパンやったってね、一週間経ちゃあまた元に戻るんですから。
後続部隊も行かんですしね」
「塔は黙して語らず」より、挺進第1連隊第4中隊長(後任) 浪花実氏の証言

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現在のJR日豊本線川南駅。奥山隊はここから豊岡へ向かいました。

第4中隊の指揮を浪花大尉に引き継ぎ、「特別演習参加」名目で奥山隊が川南を発ったのは12月5日夜の事です。

「昭和十九年十二月七日六時三分 大阪着
マダ薄暗イ。大阪、大阪ノ声ヲナツカシイ。両親ハ俺ガ大阪駅ニ居ルコトハユメニモ知ルマイ。
大坂ハ思ツタヨリ寒カッタ。窓カラ駅、三國ノ方ヲ見タガ名残リ惜シカッタ。出發六時十五分、御両親様ドウカ任務達成ガ出来マス様ニ、只此ダケニ力ヲアタヘテ下サイト御願ヒシタ。
生ヲウケテ二十余年、生キテ大阪駅ヲ見ルノハ此デ終リダ。今度見ル時ハ親ニ抱イテ見セテモラウノダ。大大阪モ此デサヨウナラ。
御両親様サヨウナラ」
井上祐子「誠心」より 奥山隊井上洋曹長(大阪府出身)の日誌

途中、東海地方で発生した地震の影響で汽車の運行が停止。路線を迂回したこともあって埼玉県豊岡への到着は8日となります。
奥山隊には山田連隊長も同行し、教導航空軍の下で特攻へ向かう部下をサポートしていました。

埼玉への移動前には、奥山隊全員が「血判状」を書いています。衛生隊員に注射器で採血させられた隊員達も、只の演習ではない事に気付いていました。
隊内では「おそらく高千穂空挺隊の後を追って南方へ向かうのだろう」等と噂が飛び交っていたものの
豊岡の航空士官学校(現在の航空自衛隊入間基地)で作戦内容を聞かされるまでは、まさか特攻隊に選ばれたとは思いもよらなかった筈。

空挺部隊は危険を承知の上で任務に就きます。しかし、彼らは死を目的に訓練してきたのではありません。
死ぬことを命じられた隊員の間には動揺が広がりました。
その直後、11月に結婚したばかりの曹長が自分の右足を撃ち抜きます。
思い悩んだ末の行為だったのでしょう。

部下を指揮すべき分隊長の自傷事件。
それを知った同僚の曹長達は激怒しました。

「私ら同年兵ですからね。
ほんで、私ら怒ったんですよ。
我々より下の13年、14年、15年兵が居るやないかと。それに貴様がね、そんな事をするんだったらね、俺達はね、言いたくないんやけど貴様を飛行場で殺す、と。
死体を飛行機積んで向う(サイパン)行くっちゅうたんですよ」
「塔は黙して語らず」より、義烈空挺隊第3小隊第2分隊長・和田伍朗曹長の証言

「やっぱり妻帯者は、あまり……、誰も同じですが、特に喜んでいなかったですね」
義烈空挺隊酒井曹長の証言

和田曹長らは彼の行為を諫める一方で、10名程いた妻帯者を任務から外すよう意見具申しました。

「“奥山隊長、少数精鋭でいきましょう”と。
そうせんとやね、奥さんや子供のある人はね、可哀想だと。だから、もう(妻帯者は)外せと言うたんですけどね。
“でもなあ和田、お前はそう言うけどね、そう言う訳にはいかんぞ”と(〃)」

この件については奥山隊長も最後まで悩んでいたそうですが、却下せざるを得ませんでした。
小隊長・分隊長クラスに既婚者が多かった為、指揮系統を保持できなくなる恐れがあったのです。

結果として、奥山隊からは1人の隊員も脱落していません。
しかし、その全員が平然と特攻を受け入れた訳ではないのです。鍛え抜かれた精鋭であっても、彼等は感情を持つ人間なのですから。

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整列した奥山隊。弾帯などはレイテ作戦時の高千穂空挺隊と共通ですが、降下装備を省いた分、各隊員は敵機破壊用の爆薬を大量に携行しています(それ故、両部隊は随分と違った姿に見えます)。手前の隊員が胸に提げているのは帯状爆薬などを収納する雑嚢で、中央の隊員が抱える吸盤付きの黒い円筒は「吸着爆雷」。竹竿の束は吸着爆雷の柄です。
他の隊員も破甲爆雷のケースを腰に装着していますね。

豊岡では、サイパン出撃に向けてB29の実物大模型を使った爆破訓練が開始されました。
この特攻部隊は1個指揮班及び5個小隊で編成され、各小隊は2個分隊(各4個班)構成。各班のメンバーは、敵機の爆破担当1名、援護2名でした。

胴体着陸した飛行機から飛び出すと、各組は敵に構わず滑走路を疾走し、B29に帯状爆薬や吸着爆雷を取り付けて点火。点火を確認したら30m程後退して伏せ、爆破に備えるという訓練をひたすら繰り返しました。

―爆破するとなりますと、爆薬を持っていくわけですね。
和田
吸着爆雷っていいまして、機体に吸いつくようになっているわけです。
―なにか磁気で。
和田
いや、磁気でなく、今、自動車なんかによくピシャッとこう、ひっつけるゴム(※吸盤)で、それが二つ着いているわけです。
そうしてですね、これに1キロの爆薬を仕込んどるわけで、それに柄がございまして、それが導火線なんです。ずっと下の方に口火があるわけです。
で、引っ張ると一〇秒の間燃えまして、これをB29の翼の下にパチッとひっつけるわけです。そしてB29を爆破すると……。
このほかに帯状爆薬といいまして、それをB29の胴体に巻きつけると。
その訓練を毎日やったんです。一か月間ですね。
―B29に巻きつけるって、その実物模型でもあったんですか。
和田
ええ、実物模型はですね、私たちちょうど豊岡の航空士官学校で、その実際に大きな実物大の模型を作りまして、毎日毎日朝から晩まで、B29の攻撃の訓練を積んできたわけなんです。
―そのB29なるものは、今のみなさんはなんて旧式な飛行機だとお思いになると思いますけれども、これがわれわれを悩ましたわけですね。
和田
そうですね。
―その実物模型の飛行機のどこへ爆薬をつけるということだったのですか。
和田
翼の下と、それから胴体の後ろの方に巻きつけるのです。

三國一朗「証言・私の昭和史」より、和田曹長の証言

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敵機の爆破訓練をおこなう奥山隊。胴体や主翼に取り付けた爆薬に点火した後、急いで機体から離れます。
本物のB29は手に入らないので、訓練では丸太とトタンで造った実物大模型や日本軍機のスクラップを標的にしていました。

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「かうして鍛へあげられた隊員たちの敵機爆破演習は実戦さながらの敏捷さと、壮絶さをもつて行はれた。使ひ古した飛行機を仮設敵機と見たてゝ、隠密に忍び寄り、爆雷を仕掛けて退避するその素早さは神業に近かつた。
しかも仕掛けた爆雷は一発の不発も、仕損じもないまでに技倆はめき〃と上達した」
「燦たり義烈空挺部隊」より

爆破に確実を期す為、B29諸共自爆するという案も第1小隊長の宇津木伍郎中尉から出されたそうです。
しかし、副隊長の渡部大尉から「一人で3機はやらにゃあ、日本男子があんなもの1機と心中しちゃあ、つまらん(「帰らぬ空挺部隊」より)」と却下されたとか。

自爆案はともかく、出撃に備えて全員の意思を統一する必要がありました。
奥山隊長は作戦遂行上の心構えとして、十箇条の攻撃訓を作成しています。

一つ、一斉溌剌と 
二つ、任務絶対俺がやる 
三つ、三人三世ぞ戦友ぞ 
四つ、よくみよ敵を準備を早く 
五つ、剛胆沈着腹を据え 
六つ、無駄弾撃つな大事な弾ぞ
七つ、七生報国早まるな 
八つ、早くしっかり装着点火 
九つ、ここが墓場ぞ潮時ぞ 
十で尊き任務ぞあくまで頑張れ


この頃、奥山隊は「神兵皇隊(しんぺいすめらたい)」、もしくは単に「皇隊」と呼ばれていました。

「俺ハ〇〇飛行場ヘB29ヲ爆破シニ行クノダ。大君ノ御身辺ニ爆弾ヲ落シニ来ル、ウドノ大木、オ化ケノ様ナ飛行機ヲ亡ボシニ行ク。此ンナ名誉ナ事ガ外ニ有ルカ。嬉シイ。嬉シイ。
敵地ニ着陸スレバ命ハナイノダ。シカシ敵機ヲ全部爆破スル迄ハ死ンデモ死ニ切レンゾ。敵機ヲ一機残ラズ爆破シタ後ハ、斬込ミダ。皆殺シダ。斬ッテ、斬ッテ、突イテ、突イテ、奴等ノ血ヲ蚊ノ涙程モ残サズ流シテヤル。

俺ハ神兵皇(スメラ)隊ダ。皇隊、今迄ニ皇ト云フ字ヲ戴イタ攻撃隊ガ何所ニ有ルカ。名前ダケデモ有難イ。
ヤルゾ、ヤルゾ、必ズヤルゾ、ヤラズニ居ルモノカ。
御両親様、俺ハ死ニマス。大君ノ為ニ死ニマス。喜ンデ死ニマス。喜ンデ下サイ。泣カズニ喜ンデ下サイ。俺ハ大東亜建設ノ柱ニナリマス。
B29ハ金高六十六萬ドル。七萬時間ヲ要ス。何人ノ職工デ造ルカ知ラナイガ、約八年間掛ルノダ。此ヲタッタ十秒間デ吹飛バスノダカラ、此ンナ気持ノ良イ事ガ何所ニアロウ。
俺等ガ帝都ニ爆撃ニ來ナイ様ニ必ズ致シマス」
井上洋曹長「つはもの手帖」より

12月6日、挺進第3聯隊と第4聯隊(の一部)で構成される「高千穂空挺隊」が米軍のブラウエン飛行場群に降下。
アメリカ軍と日本陸軍空挺部隊の戦いはこうして幕を開けます。
幾つかの飛行場を占拠した高千穂空挺隊は、夜通しかがり火を焚いて増援の降下を待ちました。
しかし、後続部隊はブラウエンへの降下を中止します。降下作戦の翌日になって、米軍はオルモック湾への上陸を開始。これを迎撃するため、第二派降下部隊はバレンシアへ急派されたのです。
頼みの綱だった第16師団と第26師団も、飢餓によって脊梁山脈を越える前に大部分が脱落。ブラウエンに辿りつけたのは僅かな大隊のみでした。

増援を絶たれた第一波降下部隊は米軍の反撃によって壊滅。タクロバン攻撃へ向かった片道特攻チームも、レイテ湾上空で全機撃墜されています。
第26師団の斬込み部隊と合流した白井第3聯隊長は、僅かな生き残りを率いてカンギポットへ撤退しました。

作戦上の連携もなく、情報共有もされないまま、同一目標へバラバラに空挺攻撃をかけた薫空挺隊と高千穂空挺隊。結局、二つの空挺作戦がレイテの戦局に寄与することはありませんでした。

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「パレンバンに天降つた神兵が決戦のレイテ島に再び出陣だ。體重より重い傘嚢のほかに機関銃を携へ、意気軒昂と乗込む高千穂降下部隊の勇士」 内閣情報局・写真週報より 昭和19年
勇ましく宣伝されたレイテ降下作戦も、挺進第3聯隊長以下が全滅という結果に終ります。高千穂空挺隊の予備兵力は第2挺進団長と挺進第4聯隊長の指揮下に分れ、フィリピン各地で戦い続けました。

【出撃中止】

高千穂空挺隊に続くため、奥山隊も着々と出撃準備を整えます。
12月10日、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流。
中野学校の10名はゲリラ戦・通信・語学・医療の専門家で、米軍占領下におけるサイパンの偵察や残存日本軍部隊との接触を図るため奥山隊に加わったのです。

総勢168名となった部隊は、12月17日に「義烈空挺隊」と命名されました。

同じ日、挺進第1集団司令部、滑空歩兵2コ聯隊、滑空飛行戦隊先遣チーム、挺進工兵隊、挺進機関砲隊、挺進通信隊がフィリピンへ向けて日本を出航しています。
米軍機に制空権を奪われつつあったフィリピンで、鈍足のグライダーを飛ばすなど最早不可能。グライダー部隊である滑空歩兵や挺進工兵隊は、その特技を活かすことなく地上部隊として戦うこととなります。
空母雲龍撃沈によって滑空歩兵第1聯隊の主力を失うも、ルソン島へ上陸した第1挺進集団は「建武集団」に組込まれてクラーク防衛の準備に取り掛かりました。
名前だけは勇ましい建武集団。しかしその実態は、様々な陸海支援部隊の寄せ集めでした。

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奥山隊長と諏訪部編隊長

茨城県の鉾田飛行場にて第3独立飛行隊が編成されたのは、昭和19年8月のこと。彼等はサイパン爆撃の専門部隊でした。
11月末には奥山隊との協同作戦が命じられたものの、経験に乏しい若手飛行士が多い上、燃料不足で充分な訓練もままならない状態でした。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。
「今頃の若い人にあんな飛行機に乗れ言うたら怒りまっせ。怖い言うて」と和田曹長が述懐している通り、爆弾倉は板を敷いて兵員室へ改装され、脱落した窓やドアはベニヤ板やブリキで塞いであったとか。
敵飛行場へ着陸したら、これらの修理箇所を蹴破って外へ飛び出すことになっていました。

このような中古機で浜松飛行場を飛び立ってから1200キロ先の硫黄島(秘匿名つばめ)で途中給油し、そこから先の1200キロは海面すれすれの夜間低空飛行でサイパン(秘匿名とび)を目指し、レーダーと迎撃機と対空砲火を潜り抜けて深夜の敵飛行場へ着陸する。
あまりにも困難な作戦です。

第3独立飛行隊のパイロットたちは、サイパン着陸後に奥山隊と行動を共にする予定でした。
しかし、飛行士にとって地上で戦うなど納得できる筈がありません。
歩兵として鍛え上げられた空挺隊員と、空を飛ぶパイロットでは基礎体力も違いすぎます。地上訓練では、両者が一緒に駈け廻るのすら難事だったとか。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で「B29を奪って帰還する」という案も出されたそうです。

「最初はですね、サイパンのB29を焼くと。
そしてわれわれが戦闘しとる間にですね、飛行士が奪って帰るというような計画をしたんでございます」
「証言・私の昭和史」より

荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。

玉砕覚悟の空挺隊員やパイロットとは違い、中野学校の10名は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏、残置諜者として遊撃戦を展開する任務を帯びていました。
同じ中野学校出身者がパレンバン降下作戦に参加した時とは違い、今回は特攻作戦への同行。
「生き残る事」が目的の彼等は、空挺隊員にそれを悟られぬ様、苦労して作戦計画を立てていたそうです。

初顔合わせを終えた三者は、出撃に向けた準備を開始します。
しかし、義烈空挺隊の編成から作戦予定日までの時間はあまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。

結局、技倆不足を理由にクリスマスの出撃は延期となりました。飛行隊は浜松へと引き揚げ、更なる訓練に励みます。12月26日、教導航空軍は第6航空軍へ改編。義烈空挺隊もその指揮下に入りました。
出撃命令に備えていた12月20日頃には、陸軍省報道部が義烈空挺隊の宣伝映画を撮影しています。

全員が一言づつ国民に言い残す言葉を録画することになった。端の者から順にカメラを向けられるが、咄嗟のことで、豪の者も言葉がつまって、うまく言えない。
「よし、俺がやってやる」
進み出たのは先任小隊長渡部大尉。
「国民に告げる言葉!」
余りの大音声に、マイクを手にした録音係が、一歩後へ退った。
“俺が死んだら三途の川原でヨ、鬼を集めて角力取るヨ”
終り!
皆、呆気に取られている。
何だ、歌を歌えばよいのか。
「和田曹長やります」
渡部小隊長の傍に控えていた和田分隊長が進み出た。
“咲いた桜が男なら 
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け桜花
八紘一宇の八重一重”
特攻隊に指定されてから、この歌が自分達のために作られたものと思われ、事あるごとに口づさんでいた。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

この映画はサイパン出撃後に公開される予定だったらしく、同部隊の井上洋曹長はこのように書き送っています。

「洋は此度選ばれて大御心を安んじ奉る為大東亜戦争戦勝の端を開く為我大和島根を爆撃に来るB29爆砕に・・・・島へ行きます。
行く道は知っておりますが帰る道は知りません。
洋は此の通り元気旺盛です。御安心下さい。後はよろしく御願ひします。
規は必ず立派な軍人にして兄の仇を討って呉れる様云ひ聞せて下さい。
後れまして新年御目出度う御座居ます。昭和二十年は戦勝の年です。益々團結強固にし大いにやりませう。
洋は一足先に敵機を爆砕又爆砕、斬って斬って斬りまくり奴等の血を蚊の涙程も残さず流してやります。どうぞ御期待下さい。
何時頃着くか不明ですが、大きな荷物一小包一が行きますから使へる物は皆使つて下さい。
一寸参考に申上げますが二、三ケ月後に我々の映畫が出ると思ひますから見に行って下さい。洋にも和田曹長にも會へますよ。
和田曹長は眼鏡をかけてゐます。洋と一緒です。
奥山大尉の元気なお顔も出て来ます。洋の手形を同封して置きますから置いといて下さい。
皆様御元気で」
井上祐子編「誠心」より

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整列した義烈空挺隊。軍服や装具の各所にポケットを増設しているのが分りますね。

豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。

「昭和二十年一月一日
今年の新年は靖国神社の樹の下と覚悟致していたのに、また馬齢を加えた訳です。
今度行くからには決して生きては帰れません。また、遺骨も帰らない事を覚悟しておいてください。
それ程に、我々の責務は重大なんです」

義烈空挺隊 S曹長

“特攻せよ”と死ぬ事を命令しておきながら、年が明けても出撃命令は一向に下されません。
1月10日の再演習でも飛行隊の技倆不足は改善されておらず、途中給油地の硫黄島も状況が逼迫。このような状態で、大本営には168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇いがあったと伝えられています。
しかし。
死を覚悟した隊員達にとって、それは残酷な仕打ちでした。

「“まだ死なせんとか”って言いよった位ですけん。
“まーだ死なせんか、もう死なせてくれ”って言いよったですね」
「塔は黙して語らず」より 義烈空挺隊第4小隊 酒井一義曹長の証言

1月13日、豊岡で盛大な見送りを受けた奥山隊は出撃基地である浜松飛行場へ移動。諏訪部隊と合流したものの、作戦決行日は未定のままでした。
陸軍落下傘部隊が発足した浜松の地で、義烈空挺隊は待機を続けます。

「ある寒い日、某下士官が所要あって隊長室に入った。その頃は薪炭の使用が極度に制限され、ストーブも短時間しか焚けない。
奥山は底冷えのする室内で、窓際に置いてある金魚鉢を、ジーッと見つめていた。
「オイ、当番室に湯が沸いていたら持って来てくれ」
「お茶ですか」
「いや、湯だ。この金魚も寒かろう」
金魚鉢に湯を入れてやろうというのだった。
奥山の顔には、いつもの明朗さはなく、深い悩が読みとれた」
田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

サイパン突入の中止が決定された昭和20年1月27日。
奥山隊は、空しく宮崎へと戻りました。

因みに、川南への帰還が「里帰り」となる宮崎県出身の隊員に、阿部忠秋少尉(中野学校・東諸県郡高岡町出身)、蟹田茂曹長(東臼杵郡南郷村)、新藤勝曹長(児湯郡川南村)、谷川鉄男曹長(日影局區内日之影町)、森井徳満曹長(児湯郡妻町)、津隈庄蔵伍長(西臼杵郡七折村)、堀添綴伍長(西諸県郡須木村)らがいました。※出身地名は当時のものです。
彼らの一人は家族に対してこのような手紙を書き送っています。

昭和二十年一月二十四日
前略
何たる神様のお引き合わせか。
再び生きて踏まずと覚悟した故郷に。
ただ、天にも昇る心地。
状況の急変により一応川南に引き上げ、川南にて訓練する事になりました。
三度目の正直で、また生きて帰るなんて。


kawaminami

【硫黄島への突入命令】

奥山隊が古巣へと帰還した頃、フィリピンの闘いは熾烈を極めていました。

1月21日、ルソン島でクラーク防衛にあたる建武集団は米軍との交戦状態に突入します。同集団はあっという間に蹴散らされ、戦線に踏みとどまって戦うのは空挺部隊や海軍部隊のみとなりました。
2月4日、飢餓と病に苦しみながらカンギポットへ撤退した白井挺進第3連隊長が亡くなり、高千穂空挺隊の第一波降下部隊は文字通り全滅。
フィリピン各地に展開する陸軍空挺部隊は、塚田集団長率いる第1挺進集団・徳永第2挺進團長が指揮する高千穂空挺隊予備兵力・斉田挺進第4聯隊長が掌握する同聯隊残存兵力、その他の小集団に分れて激戦を繰り広げました。

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ルソン攻略後の侵攻ルートを見せつけるために散布された、アメリカ軍の伝単(心理戦用ビラ)

川南へ戻った奥山隊は唐瀬原地区の挺進第3聯隊兵舎に入り、次の出撃命令に備えて訓練を続けます。
そう、あの空挺給水塔が残されている場所ですね。第4中隊の指揮は浪花大尉に移っていた為、挺進第1聯隊に奥山隊の戻る場所は無くなっていたのです。
九州の片隅で宙ぶらりん状態となったまま、奥山隊長は部隊の士気を下げないよう苦慮していました。
彼等は他部隊との交流を絶ち、外出も控えて訓練に集中します。

しかし、次の攻撃目標はなかなか決まらないまま時間ばかりが過ぎていきました。
この頃、渡部大尉ら5名を第六航空司令部に派遣したのも、部隊の存在をアピールする為だったのでしょう。

「昭和二十年二月七日
目と鼻の所に居りながら、毎日家に帰れないなんて本当に残念ですが、全てお国の為と諦めねばなりません。
楽しかりしあの日々。
幸せに浸りしあの頃。
しかし、余りにも短い幸せだった。
再びあの日が来るかしら。
それは神ならぬ身の知る由も無く、毎日君の写真を抱き、楽しかりしあの頃を思い浮かべて居ります。
ではまたお便り致します。
愛しき妻へ」
義烈空挺隊 S曹長

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二月二十一日(水)くもり
米軍は遂に十九日に硫黄島に上陸した。一久(※小笠原へ出征中の実弟)もここにいたのならもう駄目である。日本軍には降伏ということは許されぬから全滅するまでやるのだ。
それであちらこちらで既に度々全滅している。勝つ見込みの全くない戦争を始め、多数の生命を失はしめつつある軍部のもの共は戦争が済んだら皆処分すべきである。
戦争を起し強権を振り廻していた連中は皆殺されても当り前である。明夫、一久、八郎三人共生きて帰る見込みは先づない。油津の兄も南支に行ったというのが本当なら大抵もうだめである。
在郷軍人会で一頃暁天動員なる愚にもつかぬことをやっていたが、それが取止めになったかと思うと、今度は防衛隊編成で竹槍の稽古だ。
竹槍などで戦えるつもりでいるからひどい目に遭わされるのだ。バカ気ている。
今日から五日間教育召集だという。こんなバカ気たことで時間をつぶしておれば、敵はさぞ喜ぶことであろう。
「戦争と人間」より 谷口善美医師の日誌

やがて渡部大尉らに伝えられたのは、3月19、20日を希望日とした硫黄島千鳥飛行場への突入命令でした。
偵察情報によると、そのころ硫黄島に不時着していた米軍機は下記のとおり。

第一飛行場
B29 4機
B24 5機
B25 1機
P61 28機
F6F 3機
P51 12機

第二飛行場
B29 3機
B24 5機
F6F 14機
P47 1機

硫黄島にいる爆撃機は少数であり、大部分は戦闘機でした。奥山隊の訓練内容は小型機の破壊へ切り替えられます。
しかし、遊撃戦不可能な小島への突入命令に中野学校組は困惑。
諏訪部編隊長も“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていたそうです。

硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。


3月12日の夜、奥山隊は土浦に到着。
11日に西筑波飛行場へ集結していた諏訪部隊と合流し、連合訓練を経て出撃に備えました。

しかし、まるで思い付きのように発案されたこの硫黄島突入作戦も、日本軍守備隊玉砕により中止となります。
渡部大尉は「1個中隊だと思って軽々しく取扱うな!(「帰らぬ空挺部隊」より)」と激怒したそうですが、失意のうちに奥山隊は再び川南へと戻りました。
なお、硫黄島守備隊では川南村から出征した兵士12名が戦死しています。

隊員たちが、ギレツクウテイタイをもじって「愚劣喰ウ放題」という自虐的なニックネームを付けたのもこの頃の話。

「硫黄島の作戦が又も中止された。いよいよもって生恥ばかりかくことになった。
兵隊の中にはこの様を自嘲してか、「グレツ喰イホウダイ」というニックネームまで飛び出し、吾々の憐れさを自ら嘆いていた。
あまりに長年月に亘り道草ばかり食っている特攻隊である。ホームシックにかゝるものも若干出てきたのも仕方のないことであった。
「こんどこそどうしたらいいのか」
流石の奥山隊長も少しやせたようだ。吾々百数十名は隊長のいうまゝであったが、これからどうなることかと心配になる。
皇軍の精鋭を誇ったものの、あわれさは益々つのるばかりである。
副隊長の渡部大尉は専ら航空総軍との連絡に当っていたが、中止ときまってがっかりしていられるようだ。
恥をしのんで帰るのはいやであった……。
3月末再び川南に帰還した。ここでは無茶苦茶に訓練で気をまぎらしているだけである。
日曜は他隊と出遭うのが厭だったので、月曜日を休日にしてもらって……
奥山隊長の苦しみも、この頃では顔に現れて来ていた」
空挺戦友会誌より、和田曹長の証言

給水塔

【九州本土決戦と義烈空挺隊】

唐瀬原で待機を続ける義烈空挺隊員は、夕方に起床し、暗闇の中で夜間戦闘訓練を繰り返しました。中には、ぐっすり眠り込んでゐる他の空挺連隊兵舎へ忍び込んでイタズラを仕掛ける隊員もいたのだとか。
深夜の川南一帯に出没する義烈空挺隊を気味悪がって、第一挺進団の歩哨は彼等の動向に神経を尖らせていたそうです。

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軍衣に迷彩塗装を施す空挺隊員。特攻作戦へ向けて、奥山隊では装具に改造を施しました。画像のような、両腕部への袖袋(肩ポケット)追加もその一つ。
義烈空挺隊の装具に関しては何だかんだと諸説が飛び交っている状態ですね。

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硫黄島守備隊が決別の打電を発した翌日、昭和20年3月18日早朝。西日本各地に突如として米軍艦載機の大編隊が襲来します。沖縄侵攻へ向けた露払いである、九州沖航空戦の始まりでした。

「この日空襲警報を知らせる都城警察署の、サイレンが鳴ったかどうか忘れたが、私がこの早朝に勤務についていた事は、或は鳴ったのかも知れない。
なぜかといえば、私達の対空通信は警報が発令されると、部隊の在空機に警報を知らせ着陸させる事になっていた。
異変はまず作戦室壕の隣りの、地下通信所の中で起こった。
この異変の第一線をキャッチした私の同期の奥村君(堺市在住)の話を総合すると次のようであったらしい。
彼は新田原との通信を担当していた通信手で、昨夜より徹夜の勤務が終ろうとしたこの日の早朝(多分六時から七時頃)、突然新田原より都城の呼出しが行われ、6という緊急略号信の連送が行われ始めた。
が彼にはこの6という略号の意味が解せなかったという。
しかし狂ったように連送してくる新田原の666に、何かただならぬものを感じた彼は当直の将校に連絡した所、この将校にも即座に6の意味がわかならかった。
やむを得ず新田原に6ウホ(6とは何のことか)の問合せを行った所、何と新田原より当時厳重に禁じられていた生文で「グラマンF6F」の事であり、従ってこの略号の意味する所は「都城に告ぐ、現在新田原飛行場は敵艦載機グラマンの攻撃を受けつつあり」という事であり、「直ちに全飛行場を呼出せ」という将校の命令も時既に遅く、南九州の各飛行場からは、危急を告げる緊急呼出しが一斉に始まったという。
おそらく前後の事情からして、この事件の直後であったと思うが、一人の将校が血相変えて私の居た地下壕へ入ってきて「艦載機の来襲だ。直ちに戦隊に通報しろ」と怒鳴りつけるように指示して又飛び出して行った。
私は突然の事に情況の判断が出来ず、仮定の訓練だか本物だかよくわからなかった。
それというもの都城へ展開以来、空襲警報は度々発せられたが、いつもきまって北九州へのB29の来襲で、空襲といえば北九州という先入観があったからである。
それでも一応命ぜられたように、戦隊に通報しようと壕を飛び出したが、ものの十米も走らぬ内に、突然連続した大爆発音が起り、はっとして立止ると、何と目の前の明野隊の格納庫附近が次々と爆発して、火柱と黒煙を噴き上げていた。
同時に付近で「空襲だ」「敵機だ」「退避しろ」という叫び声があり、上空を見ると濃紺のズングリした見なれぬ単発の編隊が、翼からロケット弾の白い煙を前後に引きながら降下しており、私は驚いて指揮所の中へ飛び込んでいった」
「埋もれた青春」より

上記の通り、南九州沿岸に設置されていたレーダー群や警戒システムは殆んど役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到。この奇襲を皮切りに、赤江、新田原、富高、都城西の宮崎県内各飛行場は凄まじい空襲に晒され続けます。
無傷だったのは、草原と見間違えられて爆撃を受けなかった都城東飛行場と都城北飛行場のみ。輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、空襲から逃れるのは不可能でした。
唐瀬原飛行場から第1挺進集団司令部にかけては、激しい爆撃が加えられます。建物への直撃弾が少なかった事は幸いでした。

日向市の冨髙飛行場を飛び立った戦闘306および戦闘307飛行隊は米軍機に空戦を挑みますが、赤江や都城の戦闘機は「本土決戦に備えて戦力温存」の命令で掩体壕の奥へ隠されました。
孤軍奮闘する富高飛行隊も2日間で18機を失い、残存機は鹿児島の笠之原飛行場へ撤退。以降、富高飛行場は防空ではなく特攻の中継地と化します。
「我が軍の戦闘機はどこにいるのだ?」と悔しがる住民を嘲笑うかの如く、米軍機の波状攻撃は続きました。

豊岡や西筑波で待機中、義烈空挺隊員らは本土空襲の惨禍を目にしていました。覚悟はしていましたが、遂に平穏だった宮崎も敵機の標的となったのです。再び唐瀬原へ戻ってきた奥山隊も川南空襲に遭遇。被害はなかったものの、逼迫する戦況の中で待機を続ける心境は如何ばかりだったでしょうか。

九州南部にひと通りの打撃を与えた米軍は、沖縄へ航空戦力を注ぎ込みました。宮崎への空襲も、4月中旬までぱったりと止んでいます。

昭和20年4月1日、米軍が沖縄へ上陸。いよいよ戦況は絶望的となります。
この頃になると、軍部は本土決戦を見据えた「決號作戦」の準備に着手。陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われる事になりました。
沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
米軍上陸に備え、第57軍は第154、156、212の各師団を宮崎沿岸部に展開し、霧島山麓には第25師団を配置。海軍も延岡の赤水、日向の細島、日南の油津などに第33及び第35突撃隊の人間魚雷陣地を建設します。
海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東飛行場からも、続々と特攻機が飛び立っていきました。
宮崎は、特攻と本土決戦の最前線と化したのです。

やがて沖縄戦の勝敗が見えてくると、米軍機は再び九州南部へ襲いかかりました。
戦災を逃れるために沖縄から疎開していた児童にも、宮崎空襲による犠牲者が出てしまいます。
郷土を護ってくれると思い、広大な土地を提供し、過酷な建設作業に協力した軍用飛行場。それらが迎撃機すら上げず、反対に敵機の攻撃を誘引しているとは。
想定外の状況に、地域住民は愕然となりました。

当初は軍事基地や鉄道施設ばかり攻撃されていたので「空襲慣れ」していた宮崎県民も、無差別爆撃が始まると同時に内陸部へ一斉疎開し、焼夷弾延焼防止のため家屋疎開も始まります。
ゴーストタウンと化しつつある宮崎市街では、陸軍第154師団による疎開家屋からの物資徴発も行われました。要するに、無断で留守宅へ入り込んで家財道具を持ち出したのです。空き巣まがいの「徴発」に市民は憤りますが、本土防衛のためには耐え忍ぶしかありませんでした。
季節は梅雨へと移行しつつあり、資材不足と連日の雨で陣地構築は遅滞。二転三転する防衛計画もそれに拍車をかけました。
沿岸部張付けの3個師団は山間部へ立て籠もるための防空壕掘削にとりかかります。後方支援基地の霧島山麓一帯には膨大な軍需物資が集積されつつありました。



そして宮崎県の防衛戦には、川南の空挺部隊も組み込まれていました。空挺作戦をしようにも輸送機は足りず、地上部隊として戦うしかなかったのです。
空襲警報が発令される度、空挺隊員らも防空壕へ逃げ込む日々が続きました。いかに精鋭部隊であろうと、空を飛べなければ歩兵の集団に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行隊のうち、日本に戻ってきたのは僅か2機でした。
大損害を蒙った挺進飛行隊は、西筑波の滑空飛行戦隊と共に北朝鮮で戦力回復に努めます。敗戦時、この措置が裏目に出てしまうのですが。

決號作戦に備え、第1挺進団と第1挺進戦車隊は部隊の移動を開始します。
予想される米軍の上陸地点は、本州の九十九里浜と九州の鹿児島・宮崎沿岸部。南九州の戦いで全滅するのを避ける為、空挺部隊を関東にも分散配置することが決定されました。

まず、挺進第1聯隊は千葉県の横芝へ移動。第1挺進戦車隊は大隅方面の要衝・都城盆地へ差し向けられます。
第1挺進集団のうち、川南に残されたのは挺進第2聯隊と第1挺進整備隊。そして、次の出撃命令を待つ義烈空挺隊のみとなりました。

第1挺進集団の指揮を離れ、第6航空軍の隷下となっていた義烈空挺隊。彼等は、仲間たちが本土決戦に備える川南で浮いた存在となっていました。

米軍の九州侵攻が現実味を帯びてきたこの頃、中野学校関係者が義烈空挺隊を秘かに訪問。同期の辻岡少尉へ本土決戦に備えた「地区特設警備隊」の編成計画を伝えたと「帰らぬ空挺部隊」にあります。
まるでスパイ小説のようなエピソードですが、同時期の宮崎県に中野学校出身者が集結していたのは事実です。この九州ゲリラ戦計画は、最近のNHKによる取材によって明らかとなりました。

沖縄戦が始まるおよそ3ヶ月前のことだ。高橋さん(※中野二俣分校出身・高橋章氏)ら見習士官は、福岡に先に赴任していた中野出身の上官から、本土決戦に向けた具体的な任務を言い渡されていたという。
「沖縄が危なくなったら必ず九州(鹿児島の)志布志湾が上陸の最前線で、(宮崎県の)川南、高鍋の地帯は、敵の艦砲射撃の元に落下傘が下りてくるぞと。いかにしてそれを守るかというのが、私たちに与えられた参謀本部からの指令で、中野式の遊撃戦を展開するためにどうすべきかということを、お前らそこで勉強せいと言われて、二十何名、飫肥(現・日南市)の振徳堂(※飫肥藩の藩校跡)に皆集めて、いわゆる見習士官ばっかり集めて訓練をし始めたんです」
―飫肥には何があったんですか?
「教育隊。幹部だけだから、兵隊はおらんわけですから。皆、予備士官学校出の、バリバリの中野学校出身者を集めて」
―みんな中野の人ですか。
「皆、中野出身です。九州に(アメリカ軍が)揚がったときに、どういうふうに戦うかということを、それだけを専門に勉強したんですよ。トンネルがどれくらいある。洞穴がどれくらいある、どこにどういう隠れ場所がある。陣地はこういうふうにする、何々部隊が何百メートルの隧道を掘る。そういうのを全部調べ上げた。米がだいたい何百俵、麦がなんぼ、とうもろこし、さつまいもなんぼで、何ヶ月間、兵隊を養えるか。そういうことまで全部、「兵要地誌調査」というのを、我々が専門的にやったもんですわ」

NHKスペシャル取材班「僕は少年ゲリラ兵だった」より

辻岡少尉のエピソードは真偽不明ですが、日南における中野学校ゲリラ戦義勇部隊「霧島部隊」発足と、その近くの川南に義烈空挺隊が待機していた時期は奇妙に重なります。
この本土防衛計画が実現する前に、激化する沖縄戦への義烈空挺隊投入が検討され始めました。

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整列する義烈空挺隊員。中央の兵士が手に提げているのは火炎壜でしょうか?

【健軍へ】

米軍上陸以降、沖縄の第32軍は戦略持久の方針を採っていました。これに対し、軍上層部からの「消極的」「米軍に制圧された飛行場を奪回してほしい」との圧力が強まります。
上陸初日に制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、あっという間に米軍の防空拠点へ早変わり。
ここから飛び立つ米軍機により、多数の特攻機が撃墜されていきました。沖縄方面への特攻作戦支援として、両飛行場の機能停止が要請されたのです。
5月4日、第32軍は反転攻勢を開始。しかし、全戦力の半分を失うという最悪の結果に終わりました。

以降も両飛行場への航空攻撃は続けられますが、米軍側も迎撃機と対空砲火で激しく応戦。目立った空襲の成果はありませんでした。
そこで、義烈空挺隊が北・中飛行場へ強行着陸、制圧している間に陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立案されたのです。
あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。

お手のものの出動準備はまたたくまに終った。
川南駅から水前寺駅を経て熊本健軍飛行場へ向かった。ここで第一挺進団の隷下を脱し、菅原第六航空司令官の直轄となった。
攻撃目標は北及び中飛行場とのことだ。こんどこそ決行間違いない。毎日毎日飛行場攻撃の訓練が、真っ黒になって繰り返えされた。
突撃!突撃!
走れるだけ走って1機でも多く焼いてやるんだ。
此頃では熊本も毎日グラマンの銃撃を受けていた。吾々営外者は旅館の1室を借りて毎日部隊に通った。
館主は吾々を見ると「兵隊さん、日本に飛行機があるんですか」「この戦争は一体どうなるんですか」との質問攻めである。まさか「この飛行機をやっつけに征くのだ」とも云えず閉口した。
毎日新しい空中写真での研究である。
沖縄の地形は日を追って変ってゆく。米軍の物量のほどを物語っている。
海上は沖の方が軍艦、その手前が輸送船、その又手前に海上トラック、上陸用舟艇と、海面余す処なく、沖縄は全く米軍の真中にある。夏の虫といった方が当っているかも知れぬ!
しかし一寸の虫には五分の魂があるという。
何が何でも今度こそは決行だ

義烈空挺隊第3小隊 和田曹長の証言より

昭和二十年四月十日
愈々お別れの日が参りました。
何もかも、あの時のあの固い覚悟で……。
すべては神様のみ御存じの明日の運命。
人間、欲には限りありません。
上を見れば上には限りなく、また、下を見れば下にも限りありません。
僕達としては、今日迄生活できた事を感謝せねばなりません。
今こそ国家危急存亡の時。私事にばかり走っては居られません。
錦旗の元に馳せ参ずるは今です。
無理な事を申す様ですが、小生の心中もお察しください

義烈空挺隊第4小隊 新藤曹長の手紙より

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健軍の三角兵舎前で、軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員。兵舎の屋根は木の枝で擬装されています。

5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入りました。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着し、出撃までの僅かな日々を合同訓練に費やします。

空挺部隊の訓練は戦闘訓練とともに、いやむしろそれ以上にこれらの訓練を重視して連日連夜あらゆる方法で、火の出るやうな訓練が課せられた。
踊り出すには〇秒の時間がきめられ、その基準に達するまでは何千回でも繰り返された。
もちろんこれと並行して輸送機の改造にもなみ〃ならぬ苦心が拂はれた。風防ガラスや天蓋がある装置で一度ぱつと開くやうな創意工夫も施されたが、これは訓練又訓練の血のにじむ努力の中から生まれた貴重な所産だつた。
また重い装具をつけてゐながらすばやい行動をとるためには脚力の養成が絶対必要なところから、隊員達は四十キロ以上の重荷を背負ひ、毎日何里となく駈歩を行つた。
駈歩は訓練中ばかりでなく、洗面に行くにも、便所に行くにも、入浴の往復にもすべてそれだつた

「燦たり義烈空挺隊」より

この頃になると、猛訓練の成果とパイロットの入れ換えによって諏訪部隊の技量も大幅に向上していました。

「私は毎日、隊長の操縦する九七重に同乗した。
海上五メートルという超低空で訓練するので、波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸したとき鴎の死骸が入っていることも度々だった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦後史別巻4」より、日本映画社藤波カメラマンの証言

昼は暗幕の室に寝、夜になると飛び起きて飛行場に走つた。
飛行機や戦車、物資集積所の模型に對し暗がりの中で夜の明けるまで猛訓練を続けた。
後にはわが偵察機の航空写真により敵航空基地そつくりのものが作られ、従つて一つの目標に對する訓練の程度は白昼行動するに等しいほどの正確さをもつてなされた。
また飛行機のどこを爆破すれば一番効果があるか、戦車のどの辺に爆薬を噛ませればよいか、周到綿密な訓練が何百編何千編となく行はれた。
暗闇の中で隊員同士がお互ひの気配を分別するはおろか、一人々々の気配まで区別して闇の向うから歩いて来るのに「おい○○」と呼び掛ける。
敵の真只中に強行着陸し、味方討ちせぬためにはこれまで徹底した魂の交流が必要であつた。
空挺部隊の特色は敵の腹中に飛び込んで、心臓を掻き回す戦術を続けねばならない。
このためには敵の砲の操作までも覚え込むといふ廣範囲の訓練が別途になされた。
空挺部隊を讃へる「空の神兵」といふ言葉があるが、隊員は之をにやけた言葉だといつて嫌つた。
「空の神兵等をこがましい。おれたちは當り前のことをやつて當り前の人間らしく死ぬのだ」といつてゐた隊長奥山大尉は豪放磊落な強者、典型的な空挺隊員で、日頃から生死を超越した明朗さだつた。
「俺達は永生きせねばならぬ。
みんな身體だけは大事にせよ。敵中においても出来るだけ頑張つて一人でも多く一機でも多くやつゝける」
何時も隊員にかう訓示した

「義烈隊勇士の神技」より 昭和20年

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健軍を訪れた上官に、作戦内容を解説する奥山隊長ら義烈空挺隊幹部。

5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。
同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。
20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。


1.義号部隊を以て沖縄(北)(中)両飛行場に挺進し 敵航空基地を制圧し、其の機に乗じ陸海航空兵力を以て沖縄附近敵艦船に対し総攻撃を実施す。
2.北飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及同地周辺地区の軍需品集積所を攻撃す。
3.着陸後有力なる一部を以って敵司令部及通信所を急襲し、高級将校指揮中枢を崩壊せしむ。
4.爾後海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点附近の物資集積所を攻撃す。
5.中飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて同地周辺地区・物資集積所を攻撃し、爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
6.予定滑走路以外に着陸せる場合に於いても、速に担任地域に至り任務完遂に努むべし。
7.目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期はX日Y時と予定し青吊星を併用す。
8.3Fsは搭乗機毎に一組となり、各部隊と共に戦闘せしむ。


奥山隊は離脱潜伏後、力の続く限り北飛行場への斬り込みを繰り返す計画となっていました。第1小隊関軍曹が遺した作戦計画書には、攻撃目標の地図に「我が墓場予定地ナリ」と書き込まれています。
つまり、飛行場の機能を一日でも長く妨害することに専念し、現地第32軍との連携や合流は一切考慮されていません。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部飛行隊長はそれを断ったと伝えられているそうです。

沖縄の敵飛行場に強行着陸に成功すれば、その晩のうちに敵飛行場爆砕の仕事を片づけてしまひます。隊員全部敵飛行場を自分の墓場と心得て手當り次第敵機をやつつけるつもりだから、自分は必ず成功する自信があります。
空挺部隊の目的を遂げたその後もなほ、もし万一生残ることが出来れば山中にもぐりて敵飛行場の周囲や戦果の報告など、最後の一兵となるまでゲリラ戦を續けて敵を殲滅する覚悟です

「最後の一兵迄 奥山隊長の決意」より 昭和20年

いっぽうの中野学校の10名はどのような作戦を立てていたのか。
中飛行場突入を予定していた熊倉順策少尉は、下記の様な証言を残されています。

一つは、無線班があります。無線機一台に二人がついて、これが二組あった(1.辻岡創少尉・酒井武行軍曹、2.阿部忠秋少尉・菅野敏蔵軍曹)。
着陸後は地上戦に参加しないで、すぐジャングルに駆けこみ、通信を確保する。
とくかく彼らは生かさねばならない。それで、技倆の一番確かな一番機に四人とも乗せているんです。
攻撃のあと、支援班が彼らに協力する。
英語に堪能な者(石山俊雄少尉)が、敵の兵舎などに潜入して、情報を得る。もう一人は医大を卒業した者(原田宣章少尉)で、負傷者らの治療にあたることになっていた」(熊倉氏)
熊倉少尉らを含む四人は、遊撃班である(梶原哲巳、棟方哲三、渡辺裕輔少尉)。地上機や兵舎、物資集積所を攻撃した後は、ゲリラ戦・謀略戦を縦横に行う手筈であった

嘉瀬秀彦「義烈空挺隊・読谷飛行場を急襲」より

地上戦が始まる前、沖縄各地には民間人や教師に変装した中野出身者らが潜入していました。空挺隊から離脱した彼等は、現地工作員や残存部隊との連携を図っていたのでしょう。

【沖縄への出撃】

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かつては健軍飛行場だった熊本赤十字病院の裏通り。
滑走路は、この道と103号線の間を東西方向に伸びていました。

義烈空挺隊が健軍へ移動した後、隊員は地元の陸軍指定銭湯「健康湯(後の観音湯)」へ通うようになりました。
出征によって若者の姿が少なくなっていた時期ですから、彼らの姿は餘計に目立った様です。
湯上りに二階の休憩室で寛ぐ彼らを、銭湯の堤ハツさんは乏しくなっていた茶菓子などを手配してもてなしました。

熊本驛前向入ル 藤江旅館内 井上洋
永らく御無音に打過ぎ失礼致しましたが御両親様御変り御座居ませんか、御伺ひ申上げます。
洋はまだ此の通り生きて居ります。
荷物着きましたでせう。あまり早く着き過ぎて驚かれたでせう。荷物は開けましたでせう。中も見られたでせう。
ノート手帖手紙も見られたでせう。
實はあの通りの仕事をやるのですが、今度は仕事をする所が異なっただけです。
洋は営外者で有りますので只今旅館生活をして居ります。此が生れて初めてで終りです。有難い事です。
父上様も毎日御元気でせう。まだまだ頑張って下さいよ。
母上様も相変らず面白い事を云って居られるでせう。家はしっかり守って下さい。たのみましたよ。
それから今居る家をかわらぬことにして下さい。何故ならば洋が死んでから軍隊の方から色々な連絡が有りますからです。
洋にはもう金は不用になりましたので五百七十円送る様にして居りましたから受取って下さい。小包の小さいのが行きますから此もたのみます。
行けば洋の人生は終りです。死んでも泣かずに喜んで下さい。後は必ず規が続く様に教育して下さいよ。一枝はまだ朝鮮に居るのでせう。元気でせうか。康も元気ですか。大きな体ですね。
洋は家の事は何一つ心配は有りません。元気一杯走り廻ります。家にこの手紙が着いた頃には……。
御父上様も御母上様も此の戦争に勝つ迄は生きて居て下さい。必ず勝ちます。
母上様に申上げますが貯金通帖あれは勘弁して下さいね。洋は小さい時から体が弱くて親に相當心配を掛けました。大きくなっても此と云ふ孝行をしてゐない。全く御両親様にはすまないと思って居ります。どうか御勘弁を願ひます。
此度は孝行を一束にして致しますから泣かずに喜んで下さい。
洋の軍刀は規にやります。荷物の中の使へる物は使って下さい。食物は不服は無かったが丁度今頃たけのこのでんがくが食べたかった。あれは洋が好きでねえ。
熊本でいちごを食べた。生梅も木から千切って食べた。うまかった。
此でもう良い元気で行くよ。
御両親様御元気で。弟妹達によろしく。返事は絶對不用。 

御両親様
昭和二十年五月二十二日

井上祐子「誠心」より 義烈空挺隊第3小隊 井上曹長

義烈空挺隊が健軍へ移動して2週間後。
出撃予定日の5月23日がやって来ます。

この日は午睡のあと報道取材があり、隊員達は記者に対して思い思いの言葉を語りました。
彼等の様子については、幾つか記録も残されています。

「私達は兵舎の一隅で最後の撮影プランに入る。
午睡の時間か、静かなひととき。
チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。
奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がピシッ、ピシッと響いてくる。木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。
あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった」
「別冊一億人の昭和史」より 日本映画社演出担当大峯淑生氏の証言

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突入後に自分達が攻撃する目標を確認中の義烈空挺隊員。この分隊ではヘルメットを携行していますね。

私は任官後内地の勤務ばかりで弾丸の下を一回も潜つたことがない。
今度が初陣、任務が任務ですから日本男子としての光栄これに過ぐるものはありません。

中飛行場攻撃部隊指揮官 渡部利夫大尉(秋田県)



やりますよ、きつとやりますよ。沖縄は自分の郷里ですから何とかして敵を斬り倒して敵を殲滅して県民を安心させたいと思ひます。
(中略)
徴兵検査の時までこの土地で成長した。妻にも軍刀を一口呉れました。敵が來たらやるんだと。妻も元気で頑張つてくれてゐます。
故山に帰る、これほど武運に恵まれた喜びはありません。私は立派に死ぬことが出来ます。
まあ沖縄に行つたら私が道案内といふ所ですね。

山城金栄准尉(沖縄県国頭郡。沖縄出身の義烈空挺隊員は、他に比嘉春弘伍長がいました)



三角兵舎の陰に國民学校六年生の女子の書いた「祈必勝」の書き方を貼つて、熱心に眺めてゐる将校は東京外語出身の石山俊雄少尉だつた。
園芸が好きである。子供が好きであると語る少尉は、非常に優しい人。
「子供つて可愛い。子供がこれを書いて送つてくれたんです。これを持つて行く積りです」
少尉は何日も宿舎の表で数人の子供を相手に遊んでゐた。
一方の壁を見ると、女生徒の「霊忠」の書き方にまゝごとの人形がぶら下がつてゐた。




医学を勉強した私が何故軍人になつたかとよく聞かれますが、私は唯御國のために御役に立ちたいと思つてゐます。
恩師岡山勝博士は長岡の山本五十六閣下の隣の家で育つたさうです。この恩師は教育も医学も御国のために役立たせねば意味がないといつてゐる。
私はこの薫陶の御蔭だと思つて何時も感謝してゐる。

北飛行場敵司令部攻撃隊指揮 原田宣章少尉(満州國ハルピン市。石山・原田両名は中野学校隊員)



第○部隊
分隊長三浦歳一郎曹長(宇和島市)が地図を展げて部下に注意を与へてゐる。
「みなはぐれるな。着陸場所はこゝだ、分かつとるなあ。
着陸したら天蓋をはづしてすぐ外に飛び出る。飛び出たらペラ(※機体のプロペラ)に注意しろ。いゝか、疎開することを決して忘れてはいかんぞ。
この辺まで進んで手榴弾戦をやる。いゝな、もういはんでも皆分かつとるな。
ようし最後まで頑張るぞ」




奥山隊長室
幼年学校時代からの親友だといふ武井盆夫大尉(群馬県)が坐りこんでゐた。
武井大尉は爆撃隊としてこの日沖縄へ進攻したのである。
奥山大尉「きさまとは長い間の交際だな」
武井大尉「これが腐れ縁といふやつか。幼年学校の時からずつと同じ釜の飯を食つて來たのだから」
奥山大尉「同期生にもよろしくいつてくれ、元気で突込んだとな」
武井大尉「うん!」
奥山大尉「どころできさま、おれたちが突込むところをよく見て帰れよ、頼むぞ」
武井大尉「そいつだけは引受けた。おれに任せておけ。この次はきさまの骨を拾つて來てやるよ(爆笑)」
隊長はむしや〃するめを齧つてゐる。
武井大尉「きさまがさうしてするめを齧つてゐる圖はどう見ても〃ヨイコ〃としか思へんわい、あはゝゝ…」
奥山大尉「こいつつまらぬことをいふな……」
武井大尉「きさま少し痩せたな」
奥山大尉「昔は二十二貫を軽く突破してゐたがなあ、だがこいつだけは確かだ」
腕を撫して昂然!




編隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)は手紙を讀んでゐる。
宇津木中尉「誰から來た手紙ですか」
諏訪部大尉「見たこともない御嬢さんだが、女子挺身隊の女学生らしいなあ。東京都多摩郡吉野村四八八、久保富子さんだ」
宇津木中尉「綺麗な字ですなあ」
諏訪部大尉「うん」(讀む)
航空隊の勇士様達に負けないやうに生産に頑張ります。御安心下さい。
私達は勇士様達の飛行機を一生懸命に造ります。どうか私達の造つた飛行機で仇敵を撃砕して下さい。
そしてこの美しい皇土を護り抜きませう。
勇士様の武運長久を祈ります。

日向日日新聞「悠々たりし義烈隊勇士」より 昭和20年

この日、兵舎廊下の黒板にはこのような図が描いてあったそうです。
沖縄本島には伊江島方向から突入する予定でした。当初は反対側の伊計島方向から突入する案も検討されていた模様です。

義号作戦

空挺戦友会の資料や残された編隊図等を見ると、義烈空挺隊は下記のような編成になっていました。
サイパンから沖縄出撃までの間に、一部が変更されていたそうです。

熊本~沖縄までの誘導機
飛行第60戦隊 杉森大尉以下乗員7名(四式重爆)

北飛行場攻撃部隊(奥山道郎大尉指揮)
編成:指揮班、第1、第2及び第5小隊 
全12機中の8機で突入予定

隊長機
機番:4484
隊長:奥山大尉指揮 
正操縦士:川守田少尉
副操縦士:諏訪部忠一編隊長、
航法士:小林少尉
通信士:長瀬軍曹
無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹
第1小隊第2分隊長・尾身曹長
北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長

2番機
機番4132
第1小隊長:宇津木五郎中尉指揮
正操縦士:長谷川曹長
副操縦士:酒井少尉
航法及び通信担当:なし
第1小隊第1分隊長:宮越准尉
谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長

3番機
機番:4156
中野学校:石山俊雄少尉指揮
正操縦士:藤田曹長
副操縦士:新妻少尉
航法及び通信担当:なし
第5小隊第2分隊長:三浦曹長
蟹田曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長

4番機
機番:6540
中野学校:原田宣章少尉指揮
正操縦士:岡本曹長
副操縦士:町田中尉
航法士:瀬立少尉
通信士:石川伍長
指揮班長:石丸曹長
松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長

5番機
機番:4082
第2小隊長・菅田寿美中尉指揮
正操縦士:茂木軍曹
副操縦士:菊谷軍曹
航法及び通信担当:なし
第2小隊第1分隊長・藤村曹長
大浦曹長、佐藤曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長

6番機
機番:4138
中野学校:梶原哲巳少尉指揮 
正操縦士:岡本軍曹
副操縦士:松尾曹長
航法及び通信担当:なし
第2小隊第2分隊長・今村曹長
大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長

7番機
機番:6156
中野学校:棟方哲三少尉指揮
正操縦士:宮岡曹長
副操縦士:中原准尉
航法士:青井少尉
通信士:今田兵長
独立分隊:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長

8番機
機番:4475
第5小隊長:山田満寿雄中尉指揮
正操縦士:山本曹長
副操縦士:小川軍曹
航法及び通信担当:なし
第5小隊第1分隊長・伊藤准尉
高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長

中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮)
編成:第3及び第4小隊 
全12機中の4機で突入予定 

9番機
機番:6547
第3小隊長:渡部利夫大尉指揮
正操縦士:荒谷少尉
副操縦士:久野中尉
航法士:酒井少尉
通信士:簑島曹長
第3小隊第1分隊長:山城准尉
池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長

10番機
機番:6001
中野学校:熊倉順策少尉指揮
正操縦士:高橋少尉
副操縦士:小野曹長
航法及び通信担当:なし
第3小隊第2分隊長:和田曹長
南曹長、森山曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長

11番機
機番:4161
第4小隊長:村上信行中尉指揮
正操縦士:水上曹長
副操縦士:吉沢曹長
航法及び通信担当:なし
第4小隊第1分隊長・道上曹長
酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長

12番機
機番:4307
中野学校:渡辺祐輔少尉指揮
正操縦士:小林軍曹
副操縦士:木村曹長
航法及び通信担当:なし
第4小隊第2分隊長・新藤曹長(旧姓東郷)
稲津曹長、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長

予備機
4062、6680、6546、4170

※11番機が渡辺少尉指揮、12番機が村上中尉指揮と記載されている資料もあります

中隊は5個小隊、小隊は2個分隊、分隊は3個班、班は3名編成。
指揮隊1と攻撃隊9から成り、各攻撃隊は爆破・軽機関銃・擲弾筒チーム編成。
飛行機1機につき正副パイロット各1名。
各小隊に特別任務将校各1名配属。
爆薬・帯状爆薬各班2名、其の他手榴弾、破甲爆雷。
各分隊に軽機関銃1、小銃5、擲弾筒1。
沖縄にはハブがいる為、毒蛇の血清も携行しています。

義烈空挺隊に関して注目の的となっているのが、手製の迷彩服。
その色や染料に関しては所説紛々状態となっております。

挺進部隊の迷彩服について解説したテキストが、高橋昇氏による「日本陸軍軍装史」。真贋については知る由もありませんが、興味深い内容ですから、ちょっと引用してみましょう。
「義烈空挺隊は全員、軍衣を墨や草木の汁などで染色、または吹きつけ、ハケ塗りを施した迷彩服を着用した。服は各人により手榴弾を入れるポケットも追加され、当時の写真を見るとその改造も一定していない。カラー写真で紹介する服は現存する義烈空挺隊の軍衣で(※当ブログでは画像は載せておりません)、昭和19年製の本廠検定のある濃緑色防暑服である。
曹長の襟章がつき、全体に墨を吹きつけた迷彩が施されている。おそらく飛行場のコンプレッサーなどを使って施したものと推測される。
墨は墨汁ではなく、通常の擦る墨である。左右の上腕部には小さなポケットが各1個つき、右腕はボタンつきで左腕は斜めにやや大きめで紐がついている。右肩には2本の紐が縫いつけられているが、これは装具の固定用であろう。
また、服の内側には地図などを収納できる大きさの29.5×19cm(右側)の2つの内ポケットがある。
私の見たところでは、仕上げがきれいなところから、この服の改造は個人の自作ではなく、修理工場で行ったものと思われる(高橋昇氏)」

義烈空挺隊の迷彩色について記した目撃談はこちら。カーキ地に黒模様かと思っていたら、いずれも「濃緑色」「緑青」とか書いてありますね。出撃の様子は映像や隊員の証言とも合致しているので、信頼性は高いと思うのですが。

防空情報が戦局の危急を傳へ、まだ明けて間もないこの基地に何かはげしい動きがあつた。木立に囲まれた基地には、まだ見たことのない姿の兵士が美しく整列してゐる。
これぞ廿四日出撃の命下つた神兵、義烈空挺部隊の集合であつた。
全員の注目を浴び、一段高い堤に立つ現地航空部隊指揮官が最後の訓示を行つてゐる。隊伍の右翼に堂々たる隊長奥山道郎大尉、隣りは痩形の操縦隊長諏訪部忠一大尉、續いて各搭乗空挺機毎に一班一班とづらりと並び、けふを晴れの装束は下着から全部濃緑色の軍服もまだらな手製染抜きである。
軍服の上には胴体をぐるりと取巻くやうに各種兵器が装備され、全身武装でふくれてゐた。
汗が勇士の額に流れてゐた。しかし顔だけは明るくほころんでゐる。死線を越えた神の笑いがその表情にあつた。
先頭勇士の肩に靡く「義烈空挺部隊」の旗印、軍帽の下から日の丸の染抜きの鉢巻の端が古武士出陣の晴れ姿にも似てきりゝち締まつてゐた

「莞爾と征く義烈空挺部隊」より 昭和20年5月28日

飛行場に並んだ飛行機は、輸送隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)の指揮する隊員搭乗の精鋭機だ。
出撃前十時半、部隊長の服装検査が行はれた。隊員は隊長以下何れも緑青の染色にまばらの偽装を施した制服を着用し、手にする兵器は爆雷を始め十数種の新鋭兵器など。
それに三食分の圧搾食糧、航空食などその重量兵一人約××キロ、普通の×人分に近い装備である。

静岡新聞「倒るを已まず」より 昭和20年5月29日
義烈空挺隊

奥山隊長の訓示に先立つて、航空部隊長が軍装検査を行つた。巡視する同部隊長は装具の装着や兵器の点検等を行ひながら、一人一人に対して慈父の情のこもつた問を発した。
「お前がたゞ一人負傷して戦闘に堪へぬ時の決意如何」
「自決」
「自決法如何」
「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」

「燦たり義烈空挺部隊」より

中野学校出身者は、この遣り取りをどういう思いで聞いていたのでしょうか。

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5月23日、陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。かつて川南空挺基地の建設に関わった菅原中将が、空挺部隊最後の出撃に立ち会う巡り合せとなったのです。


閲兵を終えた菅原道大中将は、死地へ向かう空挺隊員たちへ訓示を述べます。

隊員の一人一人に対して慈父の如く前を見後を見て、隊長の顔は凛烈の闘魂に燃え盛る。これ等勇士の姿に感に堪へぬ面持ちである。
そして部隊長は出陣前に当つてつぎの訓辞を行つた。
「本職親しくその軍容を検視、諸士の意気愈々高潮、既に敵を呑むの慨あるを認め、真に意を強うするものがある。いま皇国の危急に対し精鋭無比の諸士の決戦の焦点に突入せんとするその意義特に重大にして、その機を得たる今日より大なるはない。
今は沖縄の死闘将に酎にしてこの一挙が友軍今後の作戦に及ぼす所極めて大なるものにして、現地はもとより、全軍の括目凝視する所、諸士よく思ひ起ひをこゝに致し、縦横奮戦余す所なく奮つて任務の達成を図り以て聖慮を安んじ奉らんことを期すべし」


特攻隊員たちを送り出す際に「自分も後に続く」と公言していたこの司令官が、約束を果す事は遂にありませんでした。

「今やこの壮挙は天機震撼の神機なり。諸士こゝに思ひを致し永へに皇國を万代の安きに置き、以て聖慮を安んじ奉らんことを期せよ」
指揮官の訓示に續き、奥山隊長は隊員に代り
「有難き訓示を賜はり、感激に堪へません。最後の一兵となるも誓つて任務に邁進します。全員喜んで征きます」
と決然といひ放つた。
指揮官は更に「こゝに一女性が赤誠の純血で染めた國旗のほか、〇〇高女生徒の手になる鉢巻、人形などの数々がある。荷物になるかもしれないが持つて行つて戴きたい。更に、この短刀は〇〇の有志から贈られたものである」と奥山隊長、諏訪部隊長に一振が渡された。指揮官と最後の對面を終へた勇士達は、晝食後二時間の午睡をとるやう命ぜられた。
晝食を終ると隊員は手帳や手紙など私物を焼却したり、装具の点検などで多忙であつた。
「おい、死ぬ前は何と忙しいもんぢやな」
壕舎に天井が裂けるやうな哄笑が沸く。数棟の壕舎がゆれるやうに賑やかだ。今夜沖縄の北、中両飛行場に敵中着陸、殴込みをかけようといふ勇士達がわく〃する喜びを顔一杯に示してゐるのである。
午睡の時間が來た。
今夜の活動に備へてぐつすり寝て置かうといふのだ。雲雀が鳴く。静かだ。
敵艦上機が〇〇〇に侵入した、との報が入り、戦局はかうした中にも刻々危急の度を増して行く。
がつちり二時間を寝て起きた勇士達は素早く軍装を整へた。
最後の晩餐は肉汁であつた。粗末な晩餐でも勇士達は満足して一粒も残さなかつた。

「莞爾と征く義烈空挺部隊」より

「我々一同、最後の一兵となるも任務に向かって邁進、もって重大責務を果たす覚悟であります。全員喜び勇んでいきます」

夕刻、出陣式を終えた部隊が飛行機に搭乗しようとしたとき、思わぬ事態が起きます。
予報によると「23日の沖縄方面は天候が回復」とされていました。
しかし、先行する爆撃隊からは現地天候不良の報告が入ります。続いて海軍の杉浦参謀からは「現地悪天候により総攻撃を一日繰り延べにする」との連絡がありました。
海軍の作戦延期を聞いた第6航空軍は大混乱に陥ります。

菅原軍司令官は、沖縄へ向かう爆撃隊へ反転命令を打電。
出撃寸前だった義烈空挺隊員は静かに兵舎へと引き上げました。

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翌5月24日。
先行の爆撃隊より「現地天候良好」の報告が入り、出撃は決定されました。
迷彩を施した軍服をまとい、体中に弾帯や爆薬を装着した168名は再び健軍飛行場に集結します(この日、菅原道大司令官は参列せず)。

隊長の訓示を一語も聞き漏らすまいと全身を耳にして聞き入る隊員たちの眼は爛々と必殺に燃え、食ひしばつた口もとに殺気がたゞよつてゐる。
左右の肩から交叉して掛けた爆雷や手榴弾、擲弾筒などをはじめ十数種の新鋭兵器、それに携帯口糧、航空糧食などで体全体が異様にふくれあがり、その上からだんだら模様塗つた草汁の偽装が更に物々しい感じを與へるいでたちである。
大和をみなの純情と敵必滅の猛き血願をこめて全國各地から贈られた白鉢巻をきりりとしめた隊員たちの顔、顔、顔……


しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は次々と飛び立って行きました。

奥山隊の犠牲は、本命の航空攻撃を成功させる為のものだった筈。
しかし、陸軍と海軍の歯車は最後まで噛みあわないままでした。

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出撃前、それぞれ自分の故郷の方向に頭を下げる義烈隊員たち。川南空挺慰霊祭にて。
これらの油絵は同じものが2部製作され、陸上自衛隊と川南町が各1セット保管しています。

「捧げ銃!」
奥山隊長の号令一声、全員は宮城に対し奉り、最後の遥拝を行つた。時まさに〇時、遥拝を終つた隊員たちは、思ひ〃の方向に向ひてふるさとの父母兄弟に決別の挨拶をし終り、三々五々各自の搭乗機に向つて歩き出した

「燦たり義烈空挺部隊」より 昭和20年

隊員達は出撃前、家族や世話になった人々に宛てて遺書を残しています。
奥山隊長の手紙は、母に別れを告げるものでした。

昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様


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諏訪部編隊長は、兄宛の手紙に「部下多数あり 宜敷く御願い致します」と短く記し、飛行士32名の名簿を添えて送りました。

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「川南の空挺隊史」のブログですから、宮崎県出身の隊員が遺した手紙も載せておきます。

拝啓 御両親様 
忠秋ハ本日敵飛行場ニ斬込ミマス
生前何一ツモ出来ズ申訳アリマセン
リツ、高坊ニハ呉々モ宜シク御伝ヘ下サイ
祖父母様ニモ宜シク御伝ヘ下サイ
其レカラ私物梱包一個軍刀一個送リマス
承知下サイ
二十四歳デ玉砕シマス
任官以来御世話ニナッタ方モ沢山アリマスガ略シマス
面白イ話モ沢山アリマスガ略シマス
附記 
死後ノ処置ニツイテ
イ 金銭ノ貸借ナシ
ロ 婦人関係ナシ

隊長機搭乗 阿部忠秋少尉(東諸県郡高岡町出身。現在は宮崎市に合併)
第2小隊の前原曹長も似たような文面の遺書を残していますので、隊員同士で添削し合っていたのでしょう。

あの「健康湯」には正装した空挺隊員らが訪れ、出迎えた堤さんへ出撃を報告します。
もう必要ないからと100円ばかりの金を手渡した彼らは、今まで世話になったお礼を述べて去ってゆきました。
後日、健康湯へこのような手紙が届きます。

おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。
私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。
私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。
どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。
最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。
愛機南へ飛ぶ。
乱筆にてさようなら

2番機搭乗 谷川鉄男曹長(日之影區内日之影町出身。現在の西臼杵郡日之影町)

(妻の)写真と共に敵地にと思い居りましたが、
余りにも可哀想だから送りますれば、決して変に取らない様。  
では、いつまでも元気でね。
僕も元気で行きます。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
五月二十一日夜

12番機搭乗 新藤勝曹長(児湯郡川南村出身。現在の川南町)

「作戦計画が決まり、奥山隊は最後の仕上げの猛訓練を続ける。
暗夜の誘導路を息の続くかぎり走る。
一人が敵機に爆薬を装着する。
妨害する敵を二人が攻撃する。
爆破手が倒れれば次の者がかわる。
合図は呼子で自由自在に進退する。
数名が一団となり他の部隊の兵舎に忍び込んだり、急に出現したり忍者そのもので気味が悪い。
私は陸海軍の訓練や演習をいく度となく取材してきたが、こんな荒っぽい、しかも厳しい部隊は初めてだった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」より、日本映画社 大峯淑生氏

出撃に至る3日間、報道関係者は義烈空挺隊と寝食を共にして密着取材を行いました。
日本映画社時事製作局からは、7名の撮影スタッフが健軍に派遣されています。

「隊員達と起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。
窪塚カメラマンは“ひげのおっちゃん”と、親父くらいの年齢なので親しまれていた。
一番身体の小さい村瀬伍長は『韋駄天村瀬』の異名をとる二十歳の青年で、サントリーの12年ものを我々にすすめてくれたりした。
村上中尉は将棋盤を持って『一番願います』と私の好敵手だった。
飛行隊の長谷川曹長は、ひとなつっこい写真好きな青年で、撮影機を覗いて『見える見える、撮りますよ』と無邪気だった」

この長谷川道郎曹長(京都府)は民間パイロット出身で、出撃前に第3独立飛行隊の2番機機長に指名された人でした。

「妻子にも親にも秘密でしたからね。
『どちらへ行った?』『某飛行場、まあ九州方面』って言うだけでね。
何処へ行ったか判んなかったんですよ」
「塔は黙して語らず」より、長谷川曹長の遺族の証言

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出發!
あゝ遂に時こそ來た。廣場のトラツクに分乗、基地を横切つて出發。整備兵、修理班の兵隊はもう神兵を送らうとして大國旗を打ち振り〃「頼むぞ」と叫び、「お世話になりました」と神兵は答へる。
太陽が斜に、もう夕刻が間近である。赤く照り映える勇士達の顔は更に紅潮してゐた。美しい。これほど美しい顔はない。
基地の一隅に速製の板テーブルが設けられてゐた。
紅白の餅、小匙一杯の赤飯、勝栗の代りの豆、するめ、一切が一人々々の前に決死の門出を祝うてゐた。
現地航空軍指揮官は「もう何もいふことはない。皇國の彌栄を讃へんため最後の万歳を三唱する」
戦史を飾る航空総攻撃が始まらうといふ寸前、万歳の叫びが基地をゆすぶつた


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義烈隊員が帽子の後ろに付けている白いマークは夜光標識でしょうか?

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健軍飛行場にて、最後の宴

日本映画社の取材陣とは別に、健軍には従軍カメラマンの小柳次一氏も滞在していました。
義烈空挺隊を語る上で、彼の名を知らぬ者はいないでしょう。
数々の最前線で写真を撮り続けてきた小柳氏も、特攻隊の取材は辛かったと述懐しています。

私は十二月末からの中国、比島の前線従軍から、二月末に帰国していた。そして四月より、沖縄へ出撃する陸軍特攻隊基地の鹿児島・知覧飛行場と、同爆撃基地の熊本・健軍の両基地の取材に当っていた。
五月下旬早朝、二五〇キロ爆弾を抱いて数少ない隊員に見送られて発進して征った数機の特攻機を取材して帰った宿舎へ、至急もう一度健軍へ行けと連絡があった。
第六航空軍司令部に着いて初めて義号作戦を知った。「特攻機が敵の艦船に突入できるように敵飛行場をしばらくの間でもつかえぬよう」にする任務だった。
私は市内から通うのをやめて、基地の宿舎に泊ることにした。義烈の隊員は前線、あるいは国内の部隊からの志願者の中から撰び抜かれた下士官以上の強者で、訓練ももっぱら夜間訓練ばかりで、ある兵士が「われわれは落下傘兵ですが、作戦上夜間訓練ばかりで、飛ぶのではなく犬か猫と同じ夜行動物となりましたよ」と笑っていた。
また、ある兵士は「現在第一線に戦っているものよりうまいものを喰わしてもらい、たびたびの作戦中止になって申訳なく、いつ死なしてくれるかとそればかり考えていたが、今度死場所を得て幸せです」とも語った。
何か家族の方に伝言でも、と聞けば「国を護るということは、国民を護り、家族を護るということですから、家族のものも喜んでくれますよ」と答えるものもいた。
出撃前夜、奥山隊長を訪ねると「散る桜、残る桜も散る桜」の句をよみ、私に「挺進殉国」と色紙に書き、「自分の心境です」といって渡してくれた。

「義烈空挺隊を撮る」より 小柳次一

彼が撮影した写真には、笑顔で乾杯する宮越准尉や部隊最年長で沖縄出身の山城准尉、機内に乗込んだ新藤分隊長、小寺軍曹、宍戸伍長ら東郷分隊の面々、煙草を喫う熊倉少尉や和田曹長、お互いの階級章を外したり、整備兵に携行食料を分ける隊員達の姿が写っています。

中でも有名なのが、飛行機の前で握手を交わす奥山隊長と諏訪部飛行隊長の写真です。
2人を囲むのは、渡部利夫、町田一郎、小林真吾、新島幸雄、荒谷猛、川守田哲志、酒井義男らの各隊員。

「私は取材のとき、ノン・フィクションを建前にしていたが、奥山隊長の出撃機搭乗直前、諏訪部飛行隊長との握手を頼んだ(「義烈空挺隊を撮る」より)」
と小柳氏が書いているように、これは最初撮り逃してしまったので再度ポーズを頼んだものです。

奥山隊長
当時の写真より、搭乗直前に握手を交わす奥山隊長と諏訪部編隊長。

このエピソードは戦史家や軍事オタクによって好き勝手に脚色されていますが、撮影したご本人による説明は下記のとおり。

「隊長同士……、
奥山さんが乗る寸前にですね、“すいません、そこで握手してください”って言ったら
奥山さんが“千両役者ですねえ”って言って握手してくれたもんだから
周りの兵隊さん、笑ってる訳です」

「塔は黙して語らず」より 小柳次一氏晩年の証言

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義烈空挺隊員たちは、出撃前の短い待機時間を思い思いに過ごします。
陸軍予科士官学校教官だった中村勇挺進団長の周りには同校出身の隊員が集まり、母校の校歌を合唱。
他の小隊でも、負けじと義烈空挺隊の隊歌を唄いました。

頭上には早くも直掩する戦闘機が数十機旋回してゐる。すでに敵艦船群をはじめ飛行場を爆砕する陸海特攻機は他の基地から飛び立つてゐるのだ。
指揮官は一人々々の隊員に杯を運び、酒を汲んだ。向ひ側の爆撃機が始動を開始する。乾杯がすむとそれ〃隊員は各搭乗機の前に整列した。
ある班では最後に歌でも歌はうと腕を組み、顔を突き合せて「咲いた櫻が男子なら……」の特攻隊の歌を歌つてゐた。
神兵達の眼にも涙が、感傷ではない、嬉しいのだ。


記事中に出て来る歌とは、軍歌「さくら進軍」の歌詞を空挺隊向けにした替え歌「君は御空の特攻隊」のこと。隊員達によって愛唱されていたそうです。
※ほぼ同じ特攻隊向けの替え歌もありました。こちらは昭和20年公開の映画「最後の帰郷」の宴会シーンで特攻隊員達が合唱していますね。

1番(「さくら進軍」では5番)
咲いた櫻が男子なら 
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け 桜花 
八紘一宇の八重一重

2番(同3番)
明日は初陣軍刀を 
月にかざせば散る桜 
意気で咲け 桜花 
俺も散ろうぜ花やかに

3番(同1番)
日本ざくらの枝伸びて 
花は亜細亜に乱れ咲く 
意気で咲け 桜花 
揚る凱歌の朝ぼらけ

4番(同2番)
天下無敵の神兵の
姿頼もし花の空 
意気で咲け 桜花 
君は御空の特攻隊
君は御空の特攻隊

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健軍飛行場から出撃する義烈空挺隊。
最前列にはアンテナ用のポールを携えた無線班らが並びました。

爆撃機は滑走路に整列した。
一番機を先頭に空挺部隊員の前を離陸する。太陽がすつかり没して夕焼に染つた。
「北飛行場の西側攻撃だぞ、遅れるな」「いゝか、合言葉は」「二突きで殺すやうな下手はするな。一突きでやるんだ」
各班に気忙しく注意する。
爆撃機はすでに全機離陸してゐる。


18時50分。
奥山隊長の「搭乗」の号令の下、隊員を乗せた97式重爆は次々と健軍飛行場を離陸していきました。
しかし、8番機、9番機、10番機はエンジンが不調。渡部大尉らは9番機を棄て、予備機に乗り換えて出撃します。
山田隊の8番機、熊倉隊の10番機も離陸できず、焦燥感を募らせながら修理完了を待っていました。

出撃の様子については、当時の新聞でこのように書かれています。
勿論、故障機が離陸できなかったトラブルには触れられていません。

義烈空挺隊出撃の日は快晴であつた。
柔かい風がピスト前の吹流しを弄んでゐた。いま勇士達にとつて、一番心配なことは沖縄上空の天気であつた。
だが、沖縄上空快晴に向かひつつあり、の嬉しい情報がピストに飛び込んだ時、基地はさつと殺気を孕んだのである。
今次作戦に際し奏上の際、陛下には畏くも本作戦に特に御嘉尚の御言葉があつた、との参謀総長から部隊長への傳達を部隊長から各部隊へ傳達され、勇士達の感激は極度に達した。皇軍はもう戦はずして敵を呑んだ。
「義烈空挺隊を中核とする航空総攻撃の壮挙にあたり、切にその成功を祈る」
部隊長の訓示は、後に続く義烈空挺隊を主力とする海空陸が一丸、一挙に沖縄の敵戦力を殲滅しようとする豪快放胆な総攻撃をいま決行しようといふのだ。
空挺隊の誘導隊として同基地を発進する爆撃隊の轟音が地を揺すぶつた。 空輸機の整備が完了した。空挺隊の乗組みを待つばかりだ。 
軍衣に淡緑色の迷彩を施し、重い装具をつけた空挺隊勇士は、静かに壮行の式場に車から降り立つた。
現地航空部隊長が勇士たちの前に立つた。
荘重な声で
「今はもう何もいふ事はない。
諸子の気持ちを察し、皇国の彌栄を讃へんが為に乾杯をする。東方を向いて、大元帥閣下の万歳を奉唱する。唱和して貰ひたい」
杯を上げて万歳を奉唱する声の集団は、既に敵中に踊り込んでゐた。
隊長奥山大尉の杯になみなみと注ぐ、部隊長の笑顔は勇士達の『父親』の表情であつた。
「自分は余りいけないのですが」
はにかむ奥山隊長は堂々たる体躯の隊長であつた。
「しつかり頼むぞ」「必ずやります」
じつと見つめる部隊長と隊長。空輸機の発動機も快調の轟音を響かし、砂塵は基地を吹き捲くつた。
出撃は迫つた。
「いいか俺について来い、最後の一兵まで任務に邁進せよ」
奥山隊長の凛烈の声が軍刀にきらりと光つた。いよいよ出発だ。
「各分隊ごとに搭乗」
隊長奥山大尉の凛烈、火を吐く号令が轟々たる空気をかき消すやうに響き渡つた。
一機、二機、三機、爆撃隊が進発して行く。続いて空挺隊を乗せた空輸機が―敵中に強行着陸、敵陣に斬込み、敵陣を引掻き回さうといふ空挺隊。壮烈鬼人も泣く―言葉の彼方にある世界を何と表現し得られよう。
空輸機の機影も夜空に見えなくなつた。
飛行場にいつまでも機影を求めて空を仰ぐ部隊長、参謀長、隊長らの後姿……

讀賣新聞「火を吐く号令 今ぞ義烈空挺隊は征く」より 昭和20年5月

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「鉄帽・白襷も凛々しく手に手に武器を執り、輸送機に乗り込む空挺隊員」 内閣情報局

中村第1挺進団長は、機体に乗込む奥山隊長を呼び止めました。

十八時十分搭乗開始。
全員の搭乗を見きわめて奥山隊長が機上の人となった。錦の袋に入れた小刀が腹部のバンドに右から斜に差しているのが目にしみる。
ふと見ると大尉の襟章がついている。已に少佐に進級していることを通報してあった筈だが!と思いながら
「奥山、その襟章はもういるまい」
「そうですな!沖縄へゆくと軍司令官ですから」
と右の襟章ととりにかゝる。
そのとき思はず機上にのぼって左の襟章をとりながら
「なにかお母さんに?」
「なにもありません」
と右の軍袴の物入れから出したものは印鑑である。
十八時四十分離陸!機一ぱいに乗り込んだ九七式重爆機の前方のガラス張にも腹ばいになつて軽機を抱いて、片手を振りながら笑っているつはものたちは、これから三時間も山を越え海面をはいながら、沖縄の敵中に向うのである。

中村勇「建墓に至る道」より 昭和32年

このとき渡された襟章と印鑑が、奥山隊長の形見となったのです。

やがて基地をゆるがす轟々たる発動機の爆音砂塵が飛行場に渦巻いた。一番機に登場した奥山隊長が天蓋をあけて手を振つてゐる。ロイド眼鏡の底に光る眼を細くして、微笑んでゐるやうだ。
輸送隊長諏訪部忠一大尉も天蓋をあけて、日の丸を大きく振つてゐる。基地界隈の古老から贈られたといふ両隊長の腰の短刀が、天空に浮き出てくつきり見える。
二番機、三番機、四番機……。
全機が列線上に並んだと見るや滑走、離陸。ついで起る萬歳の怒涛、滑走路を挟んで並んだ部隊長も将校も整備員も、日の丸を振り、手を振つてこの壮途を見送る中を、全機は翼を接して離陸し、見事な編隊を沖縄の空目指して没して行つた。

「燦たり義烈空挺部隊」より 昭和20年

飛行場にとり残された8番機と10番機は、繰り返し離陸を試みました。
しかし機体の出力は一向に上がらず、山田隊は予備機に、熊倉隊も渡部隊が捨てていった機体に乗替えます。
「飛行は無理だ」と反対する整備員を押し切って、両隊は離陸を強行。エンジン不調機で1時間遅れて出撃します。
もともと8番機と10番機に航法士は乗っておらず、渡部隊の9番機に追随して沖縄へ向かう計画でした。
何とか飛び立ったものの、誘導する9番機がいない彼等が沖縄へ辿り着くことは不可能だったのです。
自分の位置も分らず、いつ停止してもおかしくないエンジンで、遅延の2機はとにかく南へ向かって飛び始めました。

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洋上飛行訓練中の諏訪部隊

健軍を離陸した12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に8番機と10番機がエンジン不調で、5番機と11番機が航法ミスにより脱落。
これら4機は九州へ反転しました。

渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。この10番機は何とか九州へ辿り着き、運よく隈庄飛行場附近へ不時着しました(パイロット1名が負傷)。
その他の3機は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着します。

八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、充分に減速できないまま橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職します。
※この不時着機に搭乗していた酒井曹長は「あちら(下流側)から降りて来て橋桁に当てた」と証言しています。

【突入成功】

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北飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機を調べる米兵。着地の衝撃で左翼側のエンジンがもぎ取られています。

「折からの夕日は翼を染めて一機また一機と飛び立つて行つた後、部隊長は奥山道郎大尉から手渡された小さな紙包を抱き抱へる様にしてピストへ帰つて来ると机の上にそれを置いて言葉もなくじつと見詰めた。
人々は隊長に倣ひほの暗い燈の下で同じ様にそれを見守り続けてゐた。
やがて沖縄本島の北、中飛行場に對する奇襲決行着陸に成功したとの報告が入り、更に北飛行場で敵の基地空軍力を根こそぎゆすり上げ、また中飛行場に對してもその特別攻撃が着々功を収めつつあるとの報告が矢継ぎ早に齎されるに至つて、紙の白さは見詰めるものの瞳に愈よまぶしく拡つて行つた。
部隊長が衝動的に立ち上つてそれを額に押しあてた。
中身はお金である。
義烈空挺隊の奥山隊長以下全員が、淡々たる別れの中に銃後に残して行つたのだ。それは百円札からばら銭までがごつたに混つてゐた。
義烈空挺部隊は元々落下傘部隊としての降下訓練を永年受けて来た精兵中の精兵である。沖縄決戦場にその機を迎へ、この基地に推進して来た。
しかし落下傘による降下でなくて空挺部隊として出撃するときまつた。勿論それに何不足はないのであるが、敵飛行場に飛行機ごと殴り込むこの作戦には當然大切な輸送機を台なしにしなければならない、非常な残念さがあつた。
そこで一人重爆一機以上と突入訓練が開始された。一人一人が重爆一機の攻撃力以上の戦果をあげることによつてこの輸送機を失ふ痛手をとりかへさうと言ふのである。十何種類の兵器を身につけて隊員達は基地を疾風の様に駆けめぐる訓練が熾烈を極めた。
最もめぐまれた条件の下に五月二十四日の夜を迎へた。
この日の朝、思ひがけなく義烈空挺部隊の原隊である落下傘部隊から部隊長がこの基地に訪れて来た。
そして出撃の直前まで行はれた部下達の烈しい訓練を観察してその成功を嬉しく信じたのであつた。ずらりと居並んだ輸送機の傍まで来るとその翼をなでさする様にして「これを失ふのはたまらんなあ」と奥山部隊長を振りかへつた。
パレンバン、レイテ、そして今度の義烈空挺部隊と難局にその都度大きな石を投じて来た陸軍落下傘部隊には今や陸続として後輩が続き、来るべき日に備へてゐるのではあるが、ともすれば輸送機が不足し勝ちで訓練が十分に進まないのだ、輸送機が欲しいと部隊長の話を聞いて奥山隊長は唇をかんだ。
「さうだ自分が今度の作戦で敵は勿論味方まで圧倒させるほどの奮闘をするので、それが後輩たちの道を開いてやることになる」と居合せた航空本部の某将校に語つたと言ふが、それでもなほ奥山隊長の気持はすまされなかつたのであらう」
日向日日新聞「空挺隊の尊いお金」より 昭和20年

義号部隊を送り出した健軍基地では、突入の報告を待ち続けました。
しかし、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線は一向に入りません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今到着」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。

同時刻、飛行第60戦隊の杉森大尉機(四式重爆・乗員7名)が伊江島方向から沖縄上空へ侵入。残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下しました。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。

待ちに待った知らせに健軍基地は沸き返りました。しかし、この入電を最後に義烈空挺隊からの連絡は途絶えます。
22時25分、着陸体勢に入った6機の赤信号を戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、パニック状態で緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。

沖縄の戦況情報が流れる。米二世を交えた特情傍受班が敵方の無線電話を邦訳して放送しているとの事であった。
「在空機は着陸するな」
「島外飛行場を利用せよ」
次々と敵飛行場の混乱が報ぜられた。
その時「大牟田近郊に不時着せる特攻機1炎上中」「隈府に特攻機1大破」「三角附近不時着1機あり」と矢継ぎ早の連絡だ。流石の菅原将軍も一寸当惑された様であった。
「引返機の処理は私の方でやります」との中村大佐の申し出に「よろしく頼む」との返事。
木下大尉の東奔西走で手際よく処理が進められた。事故機は後で判明したのであるが、1859(熊倉少尉高橋少尉機)1922(山田中尉機)1840(村上中尉機)後で更に1機が追加せられた。
引返機の原因は二機器材、二機航法と航空軍は調査報告している

空挺戦友会資料より

この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。

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現在の在日米軍嘉手納基地。もう一つの目標である読谷飛行場は写真の背後側に位置していました。嘉手納へ向かった義烈空挺隊機はいずれも突入に至っていません。

着陸後の通信を担当する筈だったのは、一番機搭乗の辻岡少尉ら無線班。
彼等が全滅したことで沖縄からの連絡は途絶えます。以降、義烈空挺隊の戦果については航空偵察と海外報道から得た情報から推測するしかありませんでした。

一、空挺部隊は進航途上における哨戒、目標周辺における敵夜間戦闘機の邀撃ならびに飛行場付近における熾烈な對空砲火を突破して北、中飛行場に敢然着陸成功したのは午後十時半であつた。
二、着陸と同時に全員勇躍まづ在地敵機を焼却破壊、同行爆撃機は空挺部隊の着陸ならびについで続々敵機の炎上する光景を確認して帰還した。
三、敵は大混乱に陥りその在空戦闘機は飛行場着陸不能なため或は母艦に着陸を企て海中に墜落し、或は不時着するなど自滅したもののやうである。
四、在地敵機を焼却した挺進部隊はついで所在の司令部、集積所に突入しこれが尽滅を期し敢闘中である。
五、空挺部隊並に爆撃機により沖縄基地航空力を撃破制圧せる機会に乗じわが特攻隊はどし〃沖縄周辺の敵艦隊に突入中であり、すでに二十五日午前中に體當りを報告した特攻機は次の四十機に達してゐるが、無電装置のない特攻機の體當りは報告に含まれてゐないので敵に与へた損害は甚大なものがあると思はれる。

「空挺部隊 敵司令部へ突入」より 昭和20年5月

廿四、五日の特別総攻撃が最高潮に達するころ、沖縄付近の天候はふたゝび急変した。二十五日朝の沖縄は雲高五百、視程十キロで、徳之島以南は小雨が降つてゐた。さうしてところによつては雨雲が海面すれ〃にまで垂れ下り、雲状況は八千四五百に達する厚い密集の壁を作つてゐた。
義烈空挺隊と特別攻撃隊を主軸とするわが航空部隊の主作戦がこの悪天候を冒して強烈につゞけられた。
雲の壁に阻まれて戦果の確認は困難を極めてゐるが、同日夕地上友軍部隊から入つた情報によると、二十五日は本島上空には終日敵機影を認めず、強行着陸を敢行した義烈空挺部隊の肉弾攻撃が熾烈拘束の目的を完全に達成したことを物語つてゐる。
現在なほ義烈空挺部隊と敵軍との間に砲戦が交へられてゐる模様である。
わが空挺強襲の際、本島北飛行場八箇所に大爆発を起して使用不能に陥つてゐた。
當時この飛行場にはP51、P47を主力にグラマンと少数の大型機を含む約三百機の敵機があり、義烈部隊の着陸當時、そのうち相當数が旋回に上つてゐたとしても地上において爆砕されたものが多数に達したものと判断される。
また中飛行場はその後なほ暫らく活動してゐたが、やがて滑走路に大爆発が起り、北飛行場よりやゝ遅れて機能を停止した。
陸海軍爆撃隊によつて行はれた伊江島に對する夜間爆撃も同飛行場の八箇所を炎上させ、若干の誘発を起したことも認められた。
一方振武神風特攻隊の大挙出撃は、前記の作戦より数時間をずらして實施された。徳之島以南の天候急変にぶつかり、一部攻撃を阻害されたものもあるやうだが、大部分は密雲を突切り雨の中を匐つて海面すれ〃に目標上空に到達、同日午前中に判明したものだけでも空母一、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、輸送船一、艦種不詳四に體當りを敢行してゐる。
悪天候に海上捜索が困難なために戦果はなほ確認されてないものが多いが、最終的にはなほ正確な偵察の結果を待たねばならぬ。

朝日新聞「義烈空挺隊、敵と砲戦」より 5月29日

義号作戦については各方面で報道されました。
そのうちのひとつ、讀賣新聞掲載の「月光下、天降る神兵」では下記のような内容になっています。
勿論、記者が沖縄特攻に同行取材した訳ではありません。突入後の描写は大本営発表を元にした創作。
要するにウソ記事です。

すなはち悪天候の間、満を持して待機してゐた各飛行部隊は晴天の訪れと共に一斉に襲撃を開始、沖縄戦場に猛然と殺到して行つた。
二十四日前夜半戦闘隊の掩護の下に、まず飛龍爆撃隊が出撃、伊江島基地を主目標として北、中飛行場の三飛行場を急襲。同夜は一晩中少数機による波状攻撃を繰行し、敵三基地を拘束した。敵基地空軍の制圧成るとみるや、突如奥山隊長の指揮する義烈空挺隊が行動を起し、北、中両飛行場に強行着陸を敢行した。
輸送機から踊り出した義烈隊員は直ちに在地敵機を求めて散開した。
偽装も遮蔽も無い敵機の位置はすぐにわかつた。
義烈隊員は脱兎のごとく身軽に敵機にかけつけるや、携行の新兵器を素早く駆使して敵機をもたゝく間(原文ママ)に破壊または炎上させてしまつた。
阿修羅の如く縦横無尽に暴れ回る義烈隊員の姿は、折柄十三夜の皎々たる月光に照し出されて凄愴を極めた。
忽然と出現した義烈隊員の奮闘ぶりに敵は茫然自失、一時は射撃も忘れてしまつたほどで、義烈空挺隊および飛龍爆撃隊は月光下に思ふ存分敵基地を蹂躙し、その機能を死滅させ、北、中飛行場はつひに使用不可能となつた。
この敵基地航空殲滅作戦に引続き、二十五日黎明には飛龍特攻隊が勇躍進発した。
飛龍特攻隊は昇る朝日にその両翼を輝かせて嘉手納沖に進撃、我が地上軍に砲撃を加へてゐる敵戦艦に対し猛烈な体當り攻撃を敢行した。如何に戦艦といへども飛龍の抱く大型爆弾の必中を食つてはひとたまりもなかつた。戦艦護衛の駆逐艦は慌てゝ逃げ惑ひ、右往左往する輸送船と衝突するものさへあつた。
飛龍特攻隊の進入とほゞ時を同じくして各その基地からは飛燕、破邪、山吹、九段、葉隠、悠久、降魔、天誅、櫻花など、振武特攻隊の各隊は一斉に発進した。
前線基地に待機中の振武隊はこの好機を掴んで全機敵艦船目がけて突入した。○○梯団(検閲による伏字)に分れた振武特攻隊は各梯団、各距離、間隔、高度差を効果的に保持しながら、厖大な幅と厚みと深さとを持つ立体的構成をもつて肉薄した。未だかつてみない多数機の堂々たる立体翼陣の波状進撃である。
邀撃に舞ひ上つたわづかの敵戦闘機群はその威容に圧倒され施す術もなかつた。振武隊は敵戦闘機の抵抗を受けなかつた。また敵艦からの対空射撃もなかつた。
このやうに振武隊が敵の妨害なしに目標上空まで進入することが出来たのは初めてのことであつた。飛龍爆撃隊ならび飛龍特攻隊さらに義烈空挺隊の事前空襲の効果は十分であつた。
たゞ海面だけがぎらぎらまぶしく光つてゐた。
そして嘉手納沖から糸満、湊川にかけておびたゞしい敵輸送船が死んだやうに横たはつてゐた。二、三日前に到着した敵船は軍需品を満載してゐた。振武隊にとつて絶好の目標である。絶好の機会であつた。
振武隊から発進する突入信号は、雀躍りするやうにこの基地の無電室にはづんで来た。
(中略)
この特別総攻撃の結果、物量依存の敵が絶対不可欠とする海と物の必需限度以上を瞬時に失つたに相違ない。混乱と狼狽の壁にぶちつけられた敵陣営の悲嘆こそいかばかりであらう


脚色された「大本営発表」をもう一つ。

新司偵は今日こそはグラマンもサンダーボルトも恐れぬ超低空だ。そして北飛行場に降下した神兵達が敵機をぶちこはしてあるのを確認することが出来た。これらの破壊班を護つて降下、直ちに転展して敵兵を邀へ撃つ勇士達も見た。
それは阿修羅の如き沖縄戦場の様相である。かく戦ふ勇士達の働きは一つ〃この基地無線班にぶつ續けに入つて來た。両飛行場では必死に戦ふ友軍も發見したし、右往左往する敵兵の醜態振りを見つけたのである。あゝ沖縄周辺で散華した特攻隊勇士、北、中両飛行場に天下つた天兵、これらの人々の沖縄総攻撃はみごとに成功。敵機動部隊の飛行機も徹底的に叩いたのである

合同新聞「義烈空挺隊出撃す 強行上陸成功せり」より

これらの記事が発表されたのは昭和20年5月27日。
同じ日の14時10分、米軍の放送は下記のように伝えています。

「強行着陸した日本軍全滅。本日10時以降北飛行場の使用支障なし」

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義烈空挺隊に破壊された米軍機

沖縄へ突入した義烈空挺隊はそのまま消息を絶ちます。
しかし、翻訳した外国の報道によって日本側も大まかな状況を把握していました。

リスボン二十六日発同盟
グアム島からのエーピー電は二十六日に至り右事實を初めて確認すると共に攻撃の模様を次の通り傳へてゐる。
「日本航空部隊が超低空から機銃掃射を加へる間に、日本軍の双発機は飛行場に強行着陸した。
飛行機の中からは日本兵が月光を浴び、相次いで飛出し爆筒と手榴弾をひつさげて飛行場に並んだ米軍飛行機を次々に攻撃して火を放つた」
一方ニミツツ司令部は二十七日公報で
「日本軍は空陸呼応して過去数週間中最も熾烈な攻撃を沖縄本島の米軍に加へて来た。
日本特攻隊の攻撃は今次戦争開始以来最も強烈なものであつた」と述べ、日本特攻隊並に航空部隊の奮闘を裏書してゐる。 

昭和20年5月29日

チユーリツヒ三十一日発同盟
沖縄本島の北、中飛行場に挺進強行着陸したわが義烈空挺隊は米軍の空軍基地を大混乱に陥れ、多大の戦果をあげたが、パリ来電によれば、ヘラルド・トリビユーン紙パリ版は五月二十六日沖縄発同紙特電としてわが空挺部隊の敵飛行場着陸刹那の凄肝な情景を次の通り打電してゐる。

二十五日夜日本軍の空挺部隊は突如として沖縄の米軍飛行場に強引に着陸を強行した。
折柄飛行場の滑走路には数百機の飛行機がおかれてゐた。この群る飛行機の真只中に双発の爆撃機に分乗した日本軍空挺部隊が着陸したのだ。
基地司令官の一人スミム中佐の推定によると、日本兵は飛行機一台に十二名乃至十五づつ分乗、この飛行場に着陸した彼らは何れも手榴弾、爆弾その他放火兵器を所持し、更に数日分の食糧を携へて来たらしい。
一台の日本軍爆撃機は米軍の輸送機と戦闘機が群り集まつてゐる真只中に見事着陸、間髪をいれずその中から十五名の日本兵が躍り出した。
着陸地から百ヤードと離れてゐない司令塔にあつた當直の一将校は直ちに日本兵に對して急射撃を加へ、塔の下まで迫つた日本兵を打ち殺したが、彼自身も胸に貫通銃創を受けて逃げた。
日本軍航空部隊はこの空挺部隊の攻撃と相呼応して同夜米軍飛行場を猛烈に爆撃したが、その爆撃は沖縄作戦開始以来最も長時間に亘り実に八時間続行された。

昭和20年6月2日

一連の外国報道を大袈裟に脚色し、日本側は義烈空挺隊の武勇伝を新聞雑誌で報道します。
このニュースも、国民にとっては米軍に一矢報いた程度の「朗報」に過ぎませんでした。
勇ましい大本営発表とは反対に、連日の空襲によって市街地は次々と炎上。
目の前の現実は余りにも絶望的だったのです。

五月二十五日(金)
二~三日静かなりしに、昨日は午後突如として艦上機の来襲あり。赤江より黒煙上れり。
昨日は帝都に零時半頃より二時間ばかりB29、二五〇機が来た。度々の空襲にて焼け野原なる如し。名古屋など全く焦土となったらしい。
宮崎も市内から逃げ出すものが多く、空家多し。その代り安全地帯とみられる地域はどこも満員なりと。
高岡と清武へ疎開荷物を昨日送り出した。主として衛生材料なり。
五月二十七日(日)
ここ二~三日は警報も出ず。静かなり。
東京には一昨夜半より昨暁にかけB29、二五〇機来り。火災を各所に生じて宮城や大宮御所も焼失せるものの如し。
米軍占領下の沖縄飛行場に日本の空挺部隊降下せる由なるも、どうせ一時的の孤立無援のもの故、これでどうなるというものに非ず。

谷口二郎「戦争と人間」より 谷口善実医師の日誌抜粋



奥山隊はどのような最期を遂げたのか。
それが明らかとなったのは、米軍の記録が公表された戦後のこと。「日米最後の戦闘」などを総合すると、概略は下記のようなものでした。

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美ら海水族館から望む伊江島。義号部隊は、この上空を読谷・嘉手納へ向け突入していきました。

5月24日は海岸及び沖合いの艦船に対する日本軍の来襲は頻繁となった。
24日の晩、天空は澄み渡り、満月で爆撃には最適であった。
20時に発令された空襲警報が解除になった24時迄の間、日本軍の来襲を重ねること7回に及んだ。第1回目に来襲した数機は読谷・嘉手納の両飛行場を爆撃し、第3、4及び6回目の来襲群も飛行場に対する投弾に成功した。
空襲警報は夜の早いうちから発令されました。しかし、暫くの間は何も起きませんでした。
頭上のどこかにジャップがいて、私達から数マイル北に照明弾を投下しました。これは通常、私たちにとってすぐにでも空襲が始まるという警告です。
最初の攻撃は21時頃、対空砲の遙か上空からベティ(一式陸攻のコードネーム)らしき双発爆撃機によっておこなわれました。
投下された白燐弾が飛散しました。私が数えた爆発は3回です。我々のサーチライトを浴びた爆撃機は、飛行場を旋回して姿を消しました。私達は激しい攻撃を加えました
(管制塔勤務の海兵隊軍曹による証言・意訳)」

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対空砲により、突入寸前で撃墜された義烈空挺隊機の尾部。

第7回目の来襲群は双発爆撃機5機から成り、22時30分頃伊江島方向から読谷飛行場に低空で侵入してきた。
対空中隊は直ちにこれを邀撃し、うち4機は炎上しながら読谷飛行場付近に墜落した。
私は対空砲火にも拘らず眺めていたのですが、管制塔から約500ヤード附近でそれが火を噴いた時はじめて爆撃機を視認しました。
その日本軍機は南―北滑走路の上を飛んでおり、約50フィートの管制塔ほどの高さで急速に接近して来ました。
敵機は炎上していて、どんどん高度を失いつつありました。
そして管制塔から約300ヤード離れた地上附近で爆発しました。
何機かの味方戦闘機が近くに駐機していましたが、被害はありませんでした


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読谷飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機。

しかし、5番目の飛行機は指揮塔から約250フィートの北東から南西に伸びる滑走路に胴体着陸した。
私は、炎上する墜落機の向うに、北東―南西滑走路に侵入しようと旋回している二番目の爆撃機を見ました。
私は、対空砲が敵機を破壊したと思って叫びました。
敵機がいつ炎上するかと見ていたのですが、それは管制塔を通り過ぎて完璧な胴体着陸をし、約100ヤード離れた地点に停止しました。
エンジンが切られ、静かに滑走したその爆撃機は影に隠れました


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読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機(別角度より撮影)。胴体側面に空いた搭乗口から、空挺隊員たちが飛び出していったのでしょう。
和田曹長の証言にあったように、天蓋部分は板で塞がれていますね。

滑走を終えないうちに約10名の完全武装兵がこの機から躍り出て、滑走路に沿って配置してある飛行機に向かって手榴弾及び焼夷弾を投げ、更にその一帯を小火器で掃射し始めた。
敵のパイロットが生存しているだろうと思った私は、双眼鏡を掴みました。
日本軍機のドアはこちらから見えない側にありました。2、3人の男が機体の廻りにいて、影の中に蹲りました。
それを炎上している爆撃機と月明りが照らしていました。
私は、彼等がパイロットと爆撃手だろうと考えました。38口径のピストルで武装した当直将校が、管制塔の階段を下りてジープへ向かいました。
彼がそうする前に、私は数人以上の男が飛行機の周囲へ来るのを見ました。私が注意するよう叫んだので、将校は戻ってきました。私達は「滑走路にいるのは日本兵だ」と叫び、周囲に警戒を促しました


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読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機の内部を調べる米兵。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
米軍撮影の写真より

この為、コルセア2機、C-54輸送機4機、プライバティア1機が破壊され、その他26機が損傷を被った。
日本軍の挺進攻撃によって想像を絶するような混乱が基地内に惹き起こされ、小銃機関銃火が乱れ飛び、米軍に多数の死傷者を出した。
海兵隊は、飛行場の端にあるカーチスC-46コマンド輸送機前の小さなテント区画に素早く陣取り、日本兵が銃撃を始めたので、低くかがんでC-46の方へ注意深く通路を横切りました

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義烈空挺隊に破壊された米軍機

日本兵は損傷した輸送機に隠れて手榴弾を投げ、これにより足を吹き飛ばされた海兵隊員を含め18名が負傷し、管制塔勤務のケリー中尉は負傷後死亡した。
この攻撃により、総計33機の破壊損傷機を出した他、7万ガロンのガソリンが炎上した。
23時38分には増援部隊が読谷飛行場に到着、飛行場勤務部隊を支援し、更に来襲を予想される日本軍空挺部隊に対する配置についた。
日本兵が管制塔を銃撃し始めたので、私達は急いで下に降りました。そして彼等を撃って、輸送機の方へ駈けて行く一人を倒しました。
他の日本兵が手榴弾を投げつけたので、塹壕の無い私達は後退せざるを得ませんでした。
日本兵はこの機を利用して、自分達の飛行機の方向へ駆け戻りました。
まるで行く先を探しているかのように、彼等は滑走路の真ん中で立ち止まりました。その中の2人は我々の銃撃で倒れました。我々の小型対空砲も彼等に向けられました。残りは影の中へ姿を消しました


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義烈空挺隊に破壊された米軍機。

調査の結果によれば、胴体着陸機の日本兵10名が読谷飛行場で戦死し、他の3名は飛行機内に於いて対空砲火の為戦死を遂げていた。
撃墜された4機には各々14名の兵士が搭乗していたが、遺体は何れも墜落炎上した飛行機内に散乱して発見された。海軍設営隊によって埋葬されたこれらの日本軍戦死者は69名を数えたが、捕虜になったものは1名もなく、ある者は自決した。
25日0時55分、残波岬で1名の日本兵が道路から藪に這い込もうとしたところを射殺されたが、おそらく空挺部隊最後の1兵士であったのだろう。
これが起こっていた間、更に2機の爆撃機を撃墜しました。
散発的な爆発をのぞいて、すべての区域の銃撃戦はじきに終りました


読谷飛行場は、滑走路上に散乱した破壊物の破片の為、25日8時まで使用できない状態であった。
空挺部隊の攻撃と同時に日本軍機が伊江島飛行場に来襲した。
この爆撃は飛行場に対し直接大損害を与えなかったが、米軍は60名の死傷者を出した。
この夜、空中攻撃によって日本軍機11機を沖縄で、16機を伊江島上空で撃墜した。



北飛行場へ向かった8機中、1機が着陸に成功、被撃墜4機、不明1機、途中帰還2機。
中飛行場に向かった4機中、途中帰還2機、残る2機は不明。
12機中僅か1機しか着陸できなかったにせよ、その1機の為に北飛行場は大混乱に陥りました。
それだけ見れば、ある程度の戦果はあったと言えるでしょう。

しかし、奥山隊の死闘空しく、主目的の航空攻撃は梅雨時の悪天候により失敗します。
こうして義号作戦は終了。「1名の飛行士が敵中を突破、6月12日頃に第32軍と合流した」とも伝えられていますが、真偽の程は不明です。
いずれにせよ、沖縄へ突入した8機112名の中に生還者はいません。


現地第32軍の八原博通作戦参謀は、義号作戦について戦後このような感想を述べています。

五月二十四日夜の義烈空挺隊の北・中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防衛戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。
むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北・中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遥か北、中飛行場の方向にあたって、火の手が揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して、感動を久しくした


……。

翌朝になって米軍が撮影した写真には、着陸・撃墜された97式重爆と破壊された米軍機の残骸、そして死闘の末に斃れた義烈隊員達が写っています。
空挺隊員の遺体は一人ひとり所持品や携行弾薬を調べられた後、重機で掘った穴へロープで牽引。地中深く埋葬されました(米軍の写真を見る限りでは、複数個所へ埋葬した様です)。

出撃直前に撮影された妙に和やかな雰囲気の隊員達と、それから数時間後の無残な結末の映像は
ひと繋がりの出来事だと理解はしていても、見比べて言葉を失います。

【知られざる戦死者たち】

こうして、沖縄へ突入した8機の隊員は全滅しました。
義号作戦の結末を「尻切れトンボ」と表現した菅原道大中将ですが、5月24日で全てが終わった訳ではありません。あまり知られていないのですが、作戦終了後に7名の義烈隊員が戦死しています。
エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機。
その搭乗員にも再出撃が命じられたのです。

沖縄への物資投下任務に指名されたのは、山本金保曹長ら7名の不時着機パイロット達。義号作戦から僅か4日後の出撃命令でした。
5月28日と6月3日、飛行60戦隊に組み込まれた義烈空挺隊の飛行士は再び沖縄へ飛び立ちます。
そして、二度と還ってきませんでした。

一方、奥山隊の不時着組48名は母体である挺進第1聯隊に吸収されます。
そのうち熊倉順策少尉(隈庄不時着)や酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは、再び特攻作戦への参加を命じられました。

義号作戦の後も、陸軍は空挺特攻を重ねようとします。
次の目標として選ばれたのは、義烈空挺隊が散華した沖縄と、半年前に突入する筈だったサイパン。
海軍空挺部隊と協同で行う「第二剣作戦」、そしてグライダーによる沖縄特攻「烈號作戦」はこうして始まりました。

米軍との死闘を繰り広げるレイテの高千穂空挺隊。
崩壊した戦線に踏みとどまる、ルソンの滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊。
大損害を蒙って戦力回復中の挺進飛行隊。
沖縄で散華した義烈空挺隊。

彼等に続いて、内地に温存されていた挺進第1聯隊及び第2聯隊、挺進戦車隊や挺進整備隊も戦いの準備に取り掛かります。

陸軍最後の空挺作戦。
それは、空挺戦力の壊滅を意味していました。

(第9部へ続く)

空挺給水塔 其の9 第2剣作戦部隊

Category : 第九部・幻の空挺作戦 |

第一挺進団が唐瀬原に帰って間もない頃、九月十五日、敵はペリリュー島に上陸作戦を行った。昨年の秋まで、第一挺進団が待機していた基地である。
あのときはニューギニアのベナベナハーゲンに空挺作戦を計画し、ここからでは遠過ぎて、途中に中継給油の前進基地を設けるはずであった。ペリリュー島は、その第一線から二千キロも後方で、戦闘の圏外にあった。それが、この一年足らずの間に、サイパン、グアム、テニアン陥ち、かつてのわが基地ペリリューも侵されるに至った。第一挺進団の将兵にとって、ペリリュー島に戦火が及んだことは深刻だった。
あの平和に暮らしていた島民たちはどうなったであろうか。この島は、第一次世界大戦の結果わが国の領土となったところで、島のカナカ族も当時は日本国民であった。
「この戦争、これからどうなッとぢゃろうか」
下宿の小母さんが心配そうに聞く。心なしか、その顔がペリリュー島で、炊事場の雑用を手伝っていた島民の婦人に似ている。
日向の秋は雨が多い。
「マコチ雨ばかし降ってノサン(本当に雨ばかり降って辛い)」
土地の人は言う。
兵営の近くを古い街道が通じている。五抱え余もあろうか、両側の松並木は道を覆って昼なお暗い。その街道から遠慮したように少し退って、藁葺きの農家が点在し、総てが水を含んだ刷毛で掃いたように、雨に煙っている。
トロントロンと言う妙な名前の部落が、街道筋にある。名前の由来はよく判らない。神代の時代からそう呼ばれていたのかも知れない。大和民族のふる里だから。
この民族の血も汗も雨と共に浸み込んでいる土地を、どうして敵の侵攻に委ねることが出来ようか。ペリリュー島までは致し方なしとしても。

田中賢一「帰らぬ空挺部隊」より

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訓練中の海軍落下傘部隊員。

(第8部からの続き)

高千穂空挺隊と第1挺進集團がフィリピンで死闘を繰り広げ、義烈空挺隊が沖縄で散華する中
まだ国内には第1挺進團(挺進第1および第2聯隊)と挺進戦車隊が温存されていました。
彼等は、来るべき本土決戦に備えていたのです。
九州防衛戦で全滅を避けるため、陸軍空挺部隊は宮崎の川南と三股、千葉の横芝、東京の福生、北海道の千歳へ分散配置されました。

いっぽうの海軍落下傘部隊も、メナドやクーパン降下作戦以降は待機の日々を続けます。横須賀鎮守府第1特別陸戦隊は、再び降下することのないままサイパンの地上戦で壊滅。呉鎮守府第101特別陸戦隊と横須賀鎮守府第105特別陸戦隊が残る空挺戦力として抽出されました。

そして昭和20年の夏、日本軍最後の空挺作戦が始動。
サイパンへの特攻隊として選ばれたのが、千歳で待機していた挺進第1連隊「第2剣作戦部隊」でした。

【川南の防衛作戦】

昭和20年の春を迎えた頃、戦況は絶望的となっていました。
4月になると、軍部は本土への米軍上陸を見据えた「決號作戦」の準備に着手。
陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われるようになりました。

沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
そのため、軍部は第154、156、212の各師団を宮崎各地に展開。
5月になると、米艦隊接近に備えて日向の細島、延岡の赤水、日南の油津などで第33及び第35突撃隊による震洋特攻艇や人間魚雷回天の夜間突入訓練も開始されます。
鹿児島県の知覧や鹿屋と共に、宮崎県の海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東・都城西・都城北の各飛行場も特攻基地と化していきました。
九州南部は、特攻と本土決戦の最前線となっていたのです。

しかし、昭和19年夏の段階で本土決戦は先の話であり、軍上層部は九州北部と熊本県の軍備増強を最優先。鹿児島と宮崎は第二次計画へ後回しされていました。
まあ、当初はそういう扱いだった訳です。

西部軍に於て既設飛行場の強化順位左の如し
第一次 熊本
第二次 知覧 萬世 川南 新田原 木脇
飛行場周辺に敵空輸挺進部隊の奇襲に備ふる為所要の防禦施設を準備す
之が為の陣地は歩兵一中隊分(重機二分隊属)とす
陣地構築の時期は沿岸防御陣地完成後とし、十九年秋季以降とし、別に定む


昭和40年代の防衛庁による研究でも、下記のように分析しております。

「なお注目される事は、南九州の防衛を担任する熊本師団の沿岸防御重点を種子島、有明湾(志布志湾)口部、油津附近としており、この時期より既に西部軍は一貫して志布志沿岸の防衛を重視していることがうかゞわれる。
又宮崎、薩摩半島沿岸はとり上げられておらず、油津附近を重点としているのも後口の築城兵力配置から見て注目される事である。何れにしろ軍が志布志沿岸正面を一早くより着目重視していた事は結果的ではあるが卓見であったと思われる」
安部亀夫三等陸佐「九州方面本土陸上防衛戦史」より 昭和42年

なお、沿岸防衛計画において陸軍と海軍が全く統合されていなかった事実を知った自衛隊の研究班では「陸海統合の機能と云い切るには抵抗のあるものであって、その作戦準備も陸海個別に遂行されており、隔靴掻痒の感を免れないものがある」と記しています。

宮崎の防衛が強化されたのは昭和20年に入ってからのこと。五十七軍の戦力として、大規模な部隊が投入されます。
その計画には、川南の空挺部隊も組み込まれていました。

司会者(第一挺進戦車隊長田中賢一)
「第一聯隊が何故関東地区に移ったか、そのときどのような説明を受けましたか」
玉生(挺進第一聯隊曹長)
「内容はわかりませんけど、私の同僚同士の話で聞いた範囲では、落下傘部隊というのは日本では非常に重要な精鋭部隊なんだと。
いつまでも宮崎の方に置いておいたのではだめなんで、千葉県の横芝へ行って向こうの固めをやるというような話をしていました」
司会者 
「これは秋には敵が南九州に上陸してあの辺が戦場になると。その戦闘の渦中に全部が巻き込まれてしまうということは困るということと、あなた方が最後に行こうとしたサイパン行きのああいうような作戦も予期されたので、関東地方に一部を残すという命令は記録にちゃんと残っています」

全日本空挺同志会編「空挺隊員園田直」より

本土決戦に備え、川南の空挺基地も臨戦態勢へと移行します。本土侵攻の第一撃として、米軍は南九州沿岸に上陸すると予測されていました。
九州の戦いで虎の子の空挺部隊が全滅するのを防ぐ為、第1挺進團は挺進第1聯隊を千葉県の横芝へ移動。
また、挺進戦車隊の主力を要衝の都城盆地へ差し向けます。

司会者(第一挺進戦車隊長田中賢一)
「ちょっと時点が飛びますが奥山隊の話が出た序に、五月二十四日沖縄に突入しましたね。そのときにあなた方は既に横芝に移っていたんでしょう」
森上(挺進第一聯隊准尉)
「ええ、行ってました」
司会者
「横芝におるときに義烈空挺隊が沖縄に向かって、出撃をしたという話を聞いたでしょう」
細村(挺進第一聯隊少尉)
「ええ聞きました」
星野(挺進第一聯隊軍曹)
「兵舎の廊下でラジオで聞きました。やったなァという感じがしました。横芝に来たときは関東地方は戦場のようなものですから我々も当然これに続くんだという氣持ちでした」
渡辺((挺進第一聯隊中尉・紙上参加)
「二十年三月、唐瀬原にいるとき聯隊の改編があり、園田大尉は聯隊本部へ、後任として大屋稔大尉が第二中隊長となった。聯隊は次期作戦に備え、二十年四月二十五日に千葉県横芝へ移動した」
森上
「私は第二陣ということで五月一日に横芝に着きました。その頃は空襲も激化し鉄道の運行にも日数がかかりました。
唐瀬原はまだ空襲を受けておりませんので、戦局の深刻さをさほど認識していませんでしたが、途中の都市が大きな被害を受けているのに驚きました」
星野
「汽車の窓から見る東京は爆撃の跡生々しく、これから日本はどうなるのか、我々もこの国を守るため命を棄てねばならないとつくづく思いました」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直」より

春になって川南に残されたのは挺進第2聯隊と挺進整備隊、そして出撃待機中の義烈空挺隊のみとなりました。
いかに精鋭の空挺部隊であろうと、空を飛べなければ小規模の軽歩兵部隊に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行戦隊のうち、新田原に戻ってきたのは僅か2機の輸送機だけだったのです。
川南の空に舞っていたパラシュートは、既に姿を消していました。
挺進飛行戦隊は北朝鮮の連浦飛行場へと移動。航空機とパイロットの戦力再建へ取組みます。

昭和20年2月17日未明、在比島の戦友と別れて台湾に飛び、嘉義に於て前任者新原戦隊長よりバトンを受け継いだ時は、飛行機僅かに3機、レイテ作戦に続く比島台湾南の輸送業務に流石偉容を誇った航空機も惨憺たる有様。而も嘉義を発って基地新田原に降り立った時は、途中基隆上空で1機を失った為、遂に2機人員18名という淋しさ。
其の後海路搬還せるもの百余名を合しても僅かに百20名足らず。
是が挺飛1戦の状態で、本来の作戦任務に就くことは到底不可能の為体。そこで、先ず人員器材の整備、教育訓練をやらねばならず、といって部隊は此の有様。而も敵機は頻々と新田原付近に出没、遂に兵営は空襲の犠牲となって炎上焼失せる為、佐土原の小学校舎に居たり、飛行場裏の谷間に穴居したり……。毎日空を眺めては複雑極まる気持で過ごすこと月余。
かかる状態では到底態勢の立ち直りは不可能なので、当時比較的平穏であった朝鮮連浦に移動して、そこで専心教育訓練することになり、4月25日新田原出發、連浦飛行場に転進す。
次で5月中旬、挺進2戦を併せ僅かの飛行機と少数の基幹人員を日夜連続訓練に励む。この間、MC機の製造会社工場の移転等の為、月産零の時もあり、1機出来れば直ちに之が受領の為人員を派遣するも、1週間乃至10日余も整備して初めて跳べるという代物。一方各地よりMCというMCを片っ端よりかき集めて漸く40機を整へて戦隊らしい態勢が出来上り、訓練亦漸く軌道に乗り、往年の挺飛戦の面目に近づく。
この頃、南方方面への輸送の為、航空輸送部に飛行機材20機を貸与せよとの命あり、1時訓練に支障を来したが、然し将兵一同の涙ぐましい努力によって訓練整備共に進捗し、何時作戦任務を受くるも直ちに応じ得る状態になる

空挺同志会資料より

第1挺進團では空挺作戦能力を維持するため、挺進飛行戦隊の戦力回復に期待していました。
乏しい戦力の中でたてられた、唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。


第一挺進団唐瀬原飛行場防御計画

一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため、所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す

三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長 挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、対空挺部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊
4、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。


日南海岸

日南海岸
米軍が上陸すると予想されていた川南町の海岸。上が高鍋方面、下が都農方面。ここから川南空挺基地までは、車で10分程度の距離しかありません。



いっぽう、米軍上陸に備えて軍部も南九州へ防衛戦力を集中し始めました。
宮崎市には二重三重の防衛ラインが構築される筈でしたが、不十分な計画によって陣地の場所も二転三転。
迫り来る米軍を前に、大混乱が続きます。

「高橋参謀長の兵員配置は宮崎郡広瀬町から宮崎市青島までが第一線、その間の住吉、蓮ヶ池、平和台、小松、山城、長峰、鏡洲の七拠点に三個連隊、佐土原町から高岡町までの第二線に一個連隊、海岸線には一グループ五十人(小隊)ぐらいの監視員を点々と置いた。一個連隊の装備は速射砲、野砲、十五センチカノン砲、爆撰(爆薬を打ちあげる筒)、噴進砲、師團通信、防空壕までざっと三千人」

川南空挺基地の北側、児湯郡都農町に配置されたのは第212師団(通称菊池兵団)。他の沿岸張り付け師団が米軍上陸部隊を喰いとめている間に、背後から攻撃を加える機動打撃師団でした。
隣接する川南の防衛も同兵団の担当となります。

「第212師団作戦計画
第1 方針
1 師団は第154師団(護路)と密に連絡し、都農北方畜台端を前縁として主抵抗陣地を占領し、敵上陸部隊を前方水際地帯に撃滅する。
唐瀬原地区に予期する敵空挺攻撃に対しては、所在航空部隊を併せ区処しこれを撃滅する。
富高、延岡方面には一部の兵力を配置し、海軍陸戦部隊を統合し細島水上(中)特攻基地及び富高航空基地の確保を重点として同要域を堅固に占領するとともに、所在特設警備部隊を併用し、敵の空海基地設定ならびに熊本平地に向う突進を阻止する。
2 状況によりその主力または一部をもって志布志方面、薩摩半島方面もしくは宮崎平地小丸川以南南地区に機動し、軍の決戦に参与しうるよう準備する」
藤野憲三「激動期の日本・川南開拓地に生きて」より

日本陸軍空挺部隊の本拠地である川南に対し、米軍側も空挺部隊で攻略してくると思われていたのですね。

しかし、「米軍上陸を迎え撃つ精鋭部隊」と称された菊池兵団の実状は酷いものでした。
物資・人材の不足により迎撃用陣地の構築は全く進捗せず、食糧や弾薬をチェックしたら1人当たり雀の涙ほどの備蓄しかない事が判明。つまり、敵に第一撃を加えた後は撃つ砲弾が無くなるのです。
このような状態で菊池兵団がどうやって戦うつもりだったのか。
桜井徳太郎師団長は延岡から志布志をカバーする機動戦を考えていた様ですが、現地を見てそれが不可能だと知ったのでしょう。
下記のような証言が残されています。

我々が現地着任早々に、第7部隊の結団式が商店街の竹乃屋で取り行はれ、永田聯隊長・中村平八郎大隊長・室積大隊長以下、将校以上全員の会合が開かれた。
当日の桜井師団長の作戦会議では下記内容の軍議で
方針
1 本土決戦に備え、持久作戦の準備として物心両面の充足を図らねば成らぬ。又敵の上陸作戦地は日向灘と予想される。
2 決戦兵団としての任務は、予想される敵上陸作戦に備えての陣地構築、迎撃準備は勿論長期交戦に備え、農家の援農は勿論、軍と言えども食糧増産、自給自足態勢の確立とともに、優秀種族保持の為、未婚兵員は結婚、人的資源の維持、増進も図らねば成らぬ。殊に独身将校は早期に伴侶を求めよ。
3 戦闘準備の為に目立つ物・光る物・音の出る物の調達の為の配慮をし、都農轟のトロ線を利用し、昼間は目立つ物、音の出る物、夜間は光る物、音の出る物を併用し、あだかも軍の大移動との欺瞞作戦を取り、敵の砲爆撃を促し、弾薬消耗作戦の準備に配慮すべし。
4 若し、敵が予想の如く日向灘都農に上陸作戦を開始し、橋頭堡を築かんとして上陸せし場合には、歩兵部隊をして名貫川を下向して、敵上陸部隊の後方より友軍の斬り込み再上陸をなさしむるが、迎撃作戦が失敗に終つても、第二次攻撃の弾薬の補給困難と思考されるので、歩兵部隊には言えぬが、其の折りには、迫撃部隊は彼我諸共に砲撃すべし。
であった

「川南開拓の記録」より 元菊池兵団藤野憲三氏の証言

現在でも「陸の孤島」と揶揄される宮崎県平野部は、海岸線を制圧されただけで動脈たる国道10号線、日豊本線、港湾施設が機能しなくなります。海岸近くにある赤江や富高の飛行場も簡単に奪取された事でしょう。
オリンピック作戦が実行された場合、当初計画された水際撃滅や護路兵団との連携、ましてや機動戦など到底不可能。
兵站を絶たれ、制空権を奪われては、避難民を連れて背後の山間部へ逃げ込んでのゲリラ戦しか抵抗の術はありません。

都農
菊池兵団が防衛する筈だった都農町の海岸線

昭和19年あたりから、農業地帯である宮崎県でも食糧や物資の不足は深刻になりつつありました。
あらゆる資源は戦争優先。
菊池兵団の隊員たちも、雨漏りがするような急造兵舎で寝泊まりしていました。
軍需工場へ勤労奉仕に出ていた人々には竹製食器が支給されていたそうです(「洗ってもすぐにカビが生えて困った」との事)。

消火活動中に夜が明けてしまった。今日は通常作業は中止し、トラックで機銃弾工場の復旧作業に行く。
焼け落ちた倉庫の屋根に登って、壊れ残ったスレートを落とす。
下から薬品の悪臭が鼻をつく。機銃弾保管箱が裂け四方の壁に弾痕が残っている。不発の焼夷弾が工場内樹木の根の地中にささったまま。一寸不気味。
麦飯の握りが二つ配給される。市内焼跡に「我れに菊池兵団あり。延岡市民よ奮起せよ」の立札が目立つ。
銃も銃剣もなくゲートル裸足の栄養失調気味の痩せた補充兵の警邏を見ると、日本ももう駄目だと思う

「学徒動員の日記から」より 伊藤利夫氏の証言

このような状況下、上陸してきた米軍との長期戦を展開できるのかどうか。
それを不可能と悟った菊池兵団では、米軍上陸部隊へ玉砕覚悟の側面迂回攻撃を仕掛ける積りでした。
また、志布志湾を護る串間の部隊は水際防衛を諦めて山中に防衛ラインを構築します。残された配置図を見ると小さな拠点が集まっていた程度で、敵の進撃を食い止めるには余りにも脆弱でした。
米軍側の作戦では日南・串間を無視して宮崎市と鹿屋市から内陸へ侵攻。都城市で合流して大隅半島を包囲する計画となっています。
袋の鼠となった南九州の日本軍は、山奥に潜んで抵抗を続けた挙句、各個撃破されたことでしょう。住民を巻き込んだ沖縄地上戦の惨事が、本土でも繰返されようとしていました。

油津、内海の島影には、人間魚雷回天がひそみ、陸軍は宮崎平野を放棄して山岳戦に持ち込むべく、穴掘りに余念がなかった。
海岸沿いの国道は占拠されるものとして、山間部の県下縦貫道路の工事が始まり、北諸地方(都城市周辺)にはおびただしい食糧が用意された。
当時、配給米さえ二割減になっていたが、北諸県(きたもろかた)では約五百のどうくつ、農業会、学校、民家までに食糧があふれ、コーリヤンや、大豆は、野ざらしのまま朽ちはてる状態だったという
(宮崎縣政史より)

高鍋から西都にかけても大量の物資が秘匿されます。
貴重な遺跡である西都原古墳群も秘匿場所となり、古墳の中にまで物資が詰め込まれました。

もともと宮崎県は、戦火を避ける疎開地の筈でした。
それが本土決戦の最前線と化しつつあったのです。

昭和19年7月、沖縄県民10万人(女性・児童・高齢者が対象)の九州三県および台湾への集団疎開が始まります。
直後に疎開船対馬丸が撃沈されたこと、また易々と故郷を離れる訳にはいかないことで疎開を躊躇する人が続出。対馬丸以外の船は無事でしたが、疎開に応じたのは6万人のみです。
鹿児島県は奄美方面の疎開者を受け入れたため、沖縄県の最大疎開地となったのが宮崎県でした。
宮崎県には4回に亘って、沖縄・奄美方面から児童と父兄の2643名が上陸。宮崎県側では県内各地の学校に彼等を受け入れています。
受け入れ側も可能な限り食料配給などに配慮しましたが、戦時下では充分な量が確保できません。やがて訪れた本土の冬の寒さ(宮崎でも山間部は雪が降ったりします)と空腹に耐えながら、沖縄へ戻る日を待ち望んだ子供たち。しかし、春の到来とともに彼等の故郷は激しい地上戦に晒されたのです。

特攻花
宮崎空港の特攻慰霊碑にて。
※実は、オオキンケイギクと特攻花は無関係です。実際の「特攻花」は桜でした。

宮崎上空に米軍の偵察機が姿を現したのは昭和19年末のこと。
正月には、宮崎県内の工場が疎開を始めました。

アンモニア合成工場(現在の旭化成)を九重山のふもとにつくる。手りゅう弾地下工場へ移せという軍命令もきた。米軍の艦砲撃から守るため、二百メートル以内の社宅は強制的にとりこわされ、社員たちは疎開した。まさに本土決戦が近づくかと思われた(宮崎縣政史より)」

宮崎と都城の川崎航空機工場、南郷の外之浦造船、細島の三菱石油や九州造船の軍需工場は稼働を続けますが、後の米軍空襲で集中攻撃を浴びることとなります。
工場への空襲で航空機生産はストップし、造船所の貨物船は進水すると同時に撃沈されていきました。

昭和20年3月18日早朝、九州南部に突如として米軍機1400機が襲来します。
都井岬や日向に設置されていたレーダーは役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到していました。
こうして、九州沖航空戦が始まります。
宮崎各地へ飛来した米軍機のうち6機が空中戦や対空砲火で撃墜されるも、日本軍機の損害は倍以上でした。

軍上層部は米軍の動きを察知しており、紫明館(大淀川河畔にあった旅館)に宿泊していた三笠宮殿下は前夜のうちに八紘台の地下壕へと避難しています。
三笠宮の副官から米軍空襲の情報を伝えられた紫明館の御主人は「心配の余り眠れずに空を眺めていたところ、18日の明け方になって赤江飛行場方面で戦闘が始まった」と証言しています。
不可解な事に、これらの空襲情報は県内の各部隊に一切伝えられていません。

沖縄進攻への露払いとして、九州南部は徹底的に爆撃されます。
赤江、新田原、都城西の各軍用飛行場は次々と機能を停止。特攻機を送り出すのは、都城東飛行場と富高飛行場だけとなりました。
これらの飛行場が郷土を護ってくれると思い込み、建設に協力した宮崎県民は困惑します。
空襲があっても、軍部は迎撃機すら上げようとしないのです。宮崎上空には米軍機が我物顔で飛び回るようになりました。空母から飛び立つ艦載機に加え、遂にB29戦略爆撃機も姿を現します。

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アメリカ軍が散布した伝単より、B29爆撃機の影に覆われる日本の街並。

海軍赤江飛行場
「今日も亦、B29九州各地に来襲。宮崎にも二〇機ばかり来て赤江飛行場で爆弾を投下せり。連続三日間の宮崎地方来襲にて仕事も手につかず。
看護婦の田中のうちより牡どりを持って来てくれたので、懸案のニワトリ小屋を造れり。
今は飛行場丈けをねらって来ているのだからいいが、これが大都市のように市街地を目的に来るようになれば、宮崎市など忽ち全滅なり。何時までの生命か分らぬようなものなり」
谷口善美医師の日記 昭和20年4月28日

陸軍新田原飛行場
「新田原飛行場に対する艦載機の急降下爆撃は、日向灘の上空から飛行場へぶつかるように急降下し、爆弾を落としたあとは低空飛行して、西の九州山脈の方から上昇するパターンであった。
黒煙がもうもうと上がる。日本機による迎撃は一度見たきりであとは爆撃を受けるばかりであった。
高射砲で打たないのかと話題はあったが、一度だけ高射砲の爆発破片が防空壕の入り口に落ちてきたことがあった。竹やぶの中の防空壕なので竹をかさかさと激しく音を立てて落ちてきたのを覚えている。破片は七cmぐらいの縦長の鋭利な破片であった。防空頭巾を被るよう指導されていたが、このときに始めてその必要を感じた
(中略)
町から1kmはなれた田中、田島の方には時限爆弾が絨毯爆撃のように落とされた。何日間も立ち入り禁止となり、毎日のように爆発があった。
時限爆弾は遠くから見ていると先ず土煙が数十m上昇した後、数秒後に爆発音が鳴り響いた。雷は稲妻から数秒後に大きな音が炸裂するが、それ以上に爆弾は何処に落ちているか解らず、恐さ一〇〇倍であった。夜は見えないので尚更に恐かった。
防空壕の中では爆発すると、壁の砂がさらさらと落ちた。生きた心地がしなかった。
この爆撃は、新田原飛行場を狙った夜間爆撃であったが、数キロメートル南の誤爆になったものである。
全ては、新田原飛行場に原因があった。大阪から疎開するときは、その存在の恐ろしさを知る由もなかった。縁故疎開がとんでもない敵の攻撃目標の地だったのである。
町史によると空爆場所三カ所、死者四五名、負傷者、家屋の倒半壊多数とされている」
杉本信也「一ツ瀬川ものがたり」より

陸軍都城西飛行場
「戦後発行された某誌によれば、戦時中日本の主要都市が受けた空襲回数の中で、東京は別として都城は鹿屋に次いで全国第二位にランクされており、そのほとんどは西飛行場空襲であるわけで、私にとっては余り有難くない記録順位でした。
B29は三十日も来襲しましたが、一応四月末をもってようやく峠を越し、五月に入るとほとんど来襲しなくなりました。
この頃執拗に来襲するB29に対し、都城の疾風戦闘機隊に邀撃命令が出たそうですが、その詳細は知りません。多分、「座して死を待つよりは」の気持ちから出た命令だったのでしょう。
邀撃といえば、当時私は都城市民の方から「飛行場には飛行機が沢山匿されているというのに、なぜあれだけやられても味方の戦闘機が飛び立って敵機をやっつけないのだ」となじられるように質問された事がありますが、私は答える立場ではなく返答に困りました。
飛行場の穴は埋め切る事が出来ず、確か南北方向に飛行機が一台やっと離着出来る道路の様な線の滑走路を作り、目印に犬小屋の屋根のような三角の標示板がその両側に並べられ、南方第一線基地のようでした。
いずれにしても都城西飛行場は、四月二十九日の空襲をもって、重要施設のほとんどを破壊され、また飛行場内至る所に投下された時限爆弾の為に完全に使用不能となり、特攻隊や制空隊の出動が出来なくなりました」
「埋れた青春」より

「九州南部は米軍の上陸目標になっている」という情報は、既に地元で噂されていました。

空襲がこんなに激化し不安がましているとき、一つのうわさが流れた。「鴨野(児湯郡高鍋町)の海岸は遠浅で、敵が上陸地点として想定している」(戦後、南九州海岸は沖縄に次いで上陸地点に予定されていたとわかった)と。それで、鴨野の病人や子供は木城方面に疎開するという事態になっていった。沖縄は完全に占領され、いよいよアメリカと本土決戦だといわれ、私達も覚悟を決めていった
「戦争中の鴨野」より 岩下チドリ・森アサエ両氏の証言

昭和二十年六月二十三日、沖縄守備隊ついに玉砕。七月になると殆んど連日B29かB24、又は艦載機の空襲。宮崎や都城も焼夷弾で焼き払われ、軍施設も破壊され、飛行場はすぐにでも米軍に使われる。
次はいよいよ宮崎県海岸上陸が必至であると予想された。
私は学校長によばれた。「県知事の命令一下、国民学校児童は直ちに難をさける為小丸川沿いの山路づたいに神門・渡川方面に緊急避難疎開することになる。内密裏に準備を進めてくれ」との密命があった。
いよいよ来るものが来た。遠足や旅行とは違う。
早速岩切・児島両訓導は現地と経路の実地調査に急行した。
私は食糧等の運搬用リヤカー・手車・炊飯用大釜、鍋等の借用計画を立て、児童には内密に背負袋を用意させた。出發は地区単位に夜間行動を予定した。
敵の上陸作戦が開始されたら、艦砲射撃は奥地までものすごく、敵機の銃爆撃とで橋も山路も爆破され、重い荷物を背負って谷川を渡り崖をよじ登って難行軍となる。
幼い児童達に傷病者が出るのは必至。医薬品は用意して行くが、きっと地獄の沙汰であろう。
対策を考えては夜もろくに眠れなくなった。
私は母に事情を述べて、「神門にはいくらか知りべもあるから孫達三人を連れて一足先に疎開していたらどうでしょう」と相談したところ、母は即座に「お前は生徒を守る責任があるから一しょに行きなさい。
私はアメリカ兵がきたらきっと殺される。
先祖のお墓の前で立派に死んでみせる。心配しなくていいよ」と決然と言いはなった。
この一言で私の決意は益々固まった

「母の一言」より 永友千秋氏の証言

宮崎県知事は米軍上陸作戦に県民が巻き込まれることを危惧しており、宮崎県警察本部の白川武夫警部を中心とした県民の大規模避難計画立案に取り掛かります。

昭和二十年、終戦間際のこと。私は県警察本部警防課勤務を命じられ、分室にスタッフ五名と共に通称「作戦室」を構成していた。戦況が敗色濃くなった六月初旬には宮崎海岸に敵が上陸する公算大ということから、県民をいかに無事避難させるかが緊急課題となり、連日その計画案に頭を悩ませていた。
その腹案は、県内を交戦地区(米軍の艦砲射程圏)、臨戦地区(交戦地区の周辺)、避難地区(山間部)の三つに分け、交戦地区住民の住所氏名年齢を調査しておくこと。また、避難地区については、畳の枚数、収容能力、輸送方法および順路などの青写真をつくっておかねばならない。
当時は自動車が軍に徴発されているため、荷馬車を使わねばならず、持ち出す荷物も一戸三十キロと制限する計画だった

「平和の鐘」より 元宮崎警察署長白川武夫氏の証言

県庁地下室で練り上げられたこの計画も、軍部の二転三転する防衛方針に振り回されます。
漸く完成した避難計画が県内各市町村長へ公表されたのは、昭和20年7月30日のことでした。

二十年七月、県庁三階の会議室。じっと聞き入っていた市町村長のあいだから一瞬どよめきが起こった。
谷口知事の極秘命令で、ひそかに練っていた避難作戦がやっと公開されたのである。
その年の五月、縣警察部警防課分室に県下各署から警部補五人が作戦要員としてひきぬかれた。避難オペレーション・センターは県庁地下一階の一室。ここなら空襲の心配もない。
まず全県図をタテに三本の線がひかれた。艦砲射撃の射程距離―砲弾がとどく二十キロ以内は交戦区。避難地区は椎葉、高千穂、真幸、米良、西諸の山岳地帯。その中間が臨戦地区。
県民八十六万人。うち、交、臨戦地区はそれぞれ三十万人を避難させようとする移動作戦。
基本構想がまとまると、白川以下五人の作戦スタッフは県下へ散った。
交戦地区にどれだけの人が残っているか。これを受け入れる避難地区の家族構成は?避難者の荷物は一個三十キロ、二個まで。輸送は荷馬車か手ひき車と決め、輸送ルートをつくるため、各兵団の幹部と何度も折衝した。
引率警官の割り当てまですんだのに、相次ぐ空襲でプランはメチャメチャ。米軍に渡しては悪いと、膨大な作戦資料も終戦と同時に焼いた


住民避難計画のいっぽうで、地域住民で構成された郷土防衛民兵組織「国民義勇戦闘隊(20年6月制定)」の編成も着々と進められます。
ただし、民間人義勇部隊への武器弾薬の支給はナシ。
猟銃を所持していた人はマシな方で、手許にある農具や工具、果ては台所の包丁で戦えというものでした。
竹槍訓練(男女別に開催)に参加していた宮崎市民は「これで勝てる筈がない」と記していますが、かといって他の防衛手段はありませんでした。
米軍が県北から熊本方面へ突破を試みた場合、西臼杵郡の住民が猟銃・竹槍やブービートラップで山岳ゲリラ戦を展開するという計画も本気で立案されています。
実際のオリンピック作戦計画では、宮崎沿岸に上陸した米海兵隊は北上しつつ延岡の手前で侵攻をストップ。鹿児島・宮崎を占領するだけで、九州北部への地上部隊進撃は行われない予定でした。

「本土決戦が行われたら米軍に多くの出血を強いた筈」という大層勇ましい論調もあります。
しかし、日本側の「出血」はどうなるのでしょうか。
資源も枯渇し、食糧は不足し、制空権や制海権も奪われ、挙句は本土決戦の最前線ですらこのような有様だったというのに。

【米軍機襲来】

沖縄戦が始まると、輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、遂に米軍機の標的となりました。
唐瀬原の給水塔にも、米軍機の機銃掃射による弾痕が刻まれています。

皆さん(挺進第1聯隊)が唐瀬原を去った直後だと思いますが、唐瀬原も数回艦載機の攻撃を受けましたよ。あの頃は沖縄戦の真っ最中でしたから、唐瀬原に残った第二聯隊、それに私の挺進戦車隊も対空射撃で奮戦しました
「空挺隊員園田直」より 挺進戦車隊長田中賢一氏の証言

弾痕
空挺給水塔に刻まれた機銃掃射の跡

空襲の激化と共に米軍の上陸作戦への備えが叫ばれ始め、陸軍省教育総監部ではアメリカ空挺部隊対処マニュアルも公布しています。
一、敵の空挺隊に對しては、全員一致して迅速に撃滅せよ。
一、監視は敵の爆撃を恐れぬこと、敵の降下を観たら人をやつて確めること(夜は人形でだます場合がある)。
一、連絡はお互に任務を定めて漏れのないやう、知らぬふりをせぬこと、騒ぎ立てぬこと。
一、報告は迅速なること、ありのまゝに地點と数を報告すること、豫行訓練を行ふこと。居合すものは直ちに猛烈に攻撃せよ。敵は着地前が最も弱點なり。果敢拙速なれ。
一、障碍は敵の降りさうなところに何でも利用して手軽に造れ。軍の工事に全員協力せよ。
一、要點=橋、倉庫、工場、駅などを護れ。郷土を護れ、これが國を救ふ途なり。


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対空挺マニュアル
米軍グライダーの解説と、敵空挺部隊による本土攻撃への対処法。 いずれも昭和20年

この頃の、米軍パラシュート部隊九州侵攻への恐怖を記した証言が残されています。

父は近頃、先祖伝来の日本刀を背中に括り付けて、敵が落下傘で降りて来たら切り殺すと、いつも家の裏山から覗いて、敵機がどの方角から来るぞと知らせた。
グラマン艦載機、B29の爆音である。爆弾の落ちる音が近い。
飛行場や連隊周辺が機銃掃射と爆弾でやられた。蓑原地区と後田地区が大分やられたと兄が言いながら帰ってきた。近くのT君F君と四人で見に行くと、爆弾やロケット弾、機銃掃射でその辺りは無惨にやられている。
集落の人たちはそこらには見当たらない。爆弾のあとは十米四方に草も木も二センチ位の長さに刈払機で刈った様にきれいになぎ払われている。約ニ、三米位の深さである。
被爆にあった家屋は爆風で無惨に傾き、家財道具は倒れ柱は二つに折れ、破片が柱に食い込んでいる。人間の体にでも当ったら即死である。
戦争の無惨さを見て恐ろしさを感じ「戦争は嫌だ、早く終ればいいが」と話しながら帰途についた

都城市 曽原義正氏「戦火の渦中」より

緊張した中、二〇年の四月の終り頃だったと思う(※実際の記録では5月5日)。
可愛岳の上空の方から落下傘でアメリカ兵が降りてきた。
体調をくずして、午前中学校を休んでいたが、午後は行かねばと用意している時、空襲警報。
急いで近くの壕に飛びこむと「落下傘だ、落下傘だ」と、みんなが騒ぎ出した。「出るな出るな」と男の人達が叫び出した。
てっきり落下傘部隊が降りてきたものと思い「ああ、これまでか」と、悲壮な覚悟をした。
アメリカ機が空中戦でやられたのか煙をはいて海の方にむかっていく時、落下傘でおりてきたらしかった。
川坂の岩戸の田んぼの中に一人降り、村人につかまった。
仁瀬の消防倉庫の前に連れてきていた。
その時、はじめてナイロンという布地を見た(落下傘がナイロン製)。
ポケットに櫛や鏡、写真等入れていた。村の男の人達は伐採鎌やフォーク(農業用)、日本刀、とび口に鎌等持ってかけつけた。
「わんどん(お前達)が家の息子を殺したのだ」と、口々に肉親が戦死した悲しみを叩きつけていたが、傷つける人は一人もいなかった

北川町編「あの日あの時」より 矢野ウメノさんの証言

このB29は、長崎県から飛び立った日本軍機の迎撃を受け撃墜されました。乗員6名は機体と共に墜落死、パラシュートで脱出した5名のうち重傷を負っていた1名も死亡。捕虜となった米軍飛行士4名(福岡県へ移送後に処刑)の通訳は、日系カナダ人だった安賀多国民学校教師の栗田彰子氏が担当しています。
結局、彼女が切望していたカナダへの帰国は叶いませんでした。
延岡市が空襲に晒された6月29日。
校舎の消火活動にあたっていた栗田先生は、米軍の投下した焼夷弾の直撃を受けて亡くなられます。

震洋
日向市細島港に残る、第121震洋隊の特攻ボート格納庫跡。岩盤が硬すぎて掘削に失敗したため北側の向ケ浜へ移動後、出撃前に終戦を迎えました。

掩体壕
宮崎空港周辺に7基残されている海軍赤江飛行場の掩体壕群(写真のものは、宮崎市の資料で「六号掩体壕」と呼ばれています)。

ある日の午後、グラマンとB29が入り混って波状攻撃がありました。
相当長時間経過したので「もう大丈夫だろう」と校舎に戻った職員と生徒がいました。その時、大空襲になりました。
やや落着いて壕から出ると、校舎の所々から煙が出ています。
“消火だ”とかけ出して行くと、「生徒がやられた」との声。走って行くと、小使室の井戸の前で、機銃の弾で生徒が即死です。
「どうして?なぜ?どうしたらいいの?」と震える私に、「先生、しっかりして。手伝って」と看護の先生の叱声。
「痛かったでしょう。一人で。どうしてこんな所に居たの?お水がほしかったの?」
とめどなく流れる涙で眼鏡が曇り、何も見えません。戦争の非情さ、冷酷さ、無意味さをいやという程思い知らされました。
「先生、担架の用意」「ガーゼ、ホータイ」
矢継早に言われる看護の先生に、わたしはウロウロするばかりでした。
「体育館がもえる。すぐ行って。早く早く」と大きな声。
「此所はいいから、行って」と看護の先生の声で我に返って、用水桶の水を汲んで走りました。
体育館の中には落下傘が山と積まれていて、その中がくすぶっています。水をかけたり、外に運んでいたら兵隊が来て「大切な品を水でぬらした」と怒るので、「自分達で管理して下さい。学校が火事になる所でした」と言い返しました。
この時は先生方もひどく殺気だった雰囲気でした。
相変らず、雲の中から敵機のにぶい音が不気味に聞え、生きた気持ちもありませんでした。
その夜は亡くなった生徒のお通夜に行きましたが、とても悲しく、淋しく、わけのわからない腹立ちさでした。
朝からグラマンがうるさい日でした。

「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言

昭和20年春には冨髙飛行場の戦闘307飛行隊も力尽き、宮崎上空は米軍機が支配するようになります。
宮崎県沿岸部に対する米軍の攻撃は、空挺部隊にとっても深刻な影響を与えていました。
挺進司令部では、物資を川南や高鍋一帯の施設や防空壕へ分散秘匿。唐瀬原陸軍病院も新富の半地下陣地への移転が計画されます。
上記のように、高鍋の女学校までもがパラシュートの隠し場所となっていたのです(因みにこのパラシュート、敗戦後に同校生徒たちの家庭科用教材と化しました)。

その頃、川南の挺進集団司令部には大勢の民間人職員も勤務していました。

当時、師団本部に事務員として勤務していたのが森田さん妻ゆり子さん(四九)で、団本部に勤務「選考された本部付女子だけで、二、三十名もいたでせうか。
研究部、庶務、人事、経理の四班に分かれていたが、落下傘をたゝむ女子挺身隊員を加えると、大変な人員でした。
団には下士官以上の将校だけでした」と語る


他の民間人に対し、機密保持の点から空挺部隊では入場制限をかけていました。
但し、財津村長の斡旋によって農作物軍用納入組合員20名ほどは比較的自由に挺進団司令部へ入ることができたそうです。
その中のひとり、安部富士夫氏の証言を。

出陣前に貰った百枚ほどの毛布を、(空襲を受けた)延岡の戦災者へ贈ったことがあるが、落下傘部隊の予算は普通予算の四倍程であった。
終戦間際になると、飛行場の空襲が烈しくなった。主計科には四十名ほどいた。
その事務所の下部は厚い鉄板で、防空壕がつくられており、師団長(正しくは第1挺進団長)は「早く君らから先に這入れ」とまづ私ら御用商人まで気をくばり、最後に由々と自分が這入ったというのだ。
かくして若くして優位な多数の百十八(第3連隊)、百十九(第4連隊)両部隊員は高千穂降下部隊を編成して
フィリッピンのレイテー島に集中、敵の上陸地に直撃的に降下して失敗、悪戦苦斗の末、その大部分は戦死した

河野助著「川南開拓の記録」より

その後も県内各地は激しい空襲に晒され続けました。必死の防空戦で米軍機にも少なからぬ被害は出ましたが、物量の差によって日本側は次第に圧倒されていきます。
4月中旬まではぱたりと止んでいた空襲も、沖縄戦の勝敗が見えて来ると同時に再開されました。
当初は軍事施設に集中していた空襲も、途中から無差別爆撃に方針転換されると、宮崎・延岡・都城の市街地は次々と炎上。灰燼に帰します。

こうして挺進第2聯隊が川南防衛に当っていた頃、千葉の横芝へ移動していた挺進第1聯隊も激しい空襲に晒されていました。

司会者
「それで横芝に行って、横芝飛行場の傍の廠舎みたいなところへ入ったわけですな。そこでは何か訓練しましたか。サイパン行きが決まるより以前の段階で。そこに二ヶ月ぐらいいましたね」
細村
「ええ、おりました。松林の中で半分は傾斜の砂の中で」
司会者
「三角兵舎で半分が地面の中にもぐっているようなものですね」
細村
「あそこではそれほど訓練に従事するということはなかったと思います」
星野
「実際には敵の飛行機が……」
森上
「B29が。それから艦載機のグラマンとかに相当やられましたから」
玉生
「飛行機の移動くらいじゃないですか」
細村
「隠すためにね」
玉生
「それから飛行場に爆撃機の模型を作ったり擬装をしてね」
司会者
「そういう仕事をしておったのですね」
玉生
「だから訓練らしい訓練というのはなかったですね」
司会者
「対空戦闘とか遮蔽とかそういうことをやってたんですね」
星野
「あれは実戦だったのですね。一機敵の飛行機を落としたものね」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直」より

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海軍落下傘部隊員

【剣作戦始動】

川南で挺進第2聯隊が米軍上陸に備える中、サイパン、硫黄島と出撃機会を逸した義烈空挺隊はフィリピン出撃中の挺進第3連隊兵舎に入って待機を続けていました。

その義烈空挺隊に沖縄への特攻が命令されたのは4月のことです。
5月8日に川南を発った空挺隊は、熊本県の健軍基地で飛行隊と合流。17日には沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されました。
サイパン特攻を命じられてから半年後の5月24日、義烈空挺隊168名は12機の97式重爆に搭乗して健軍を出撃します。
その夜、機体トラブルで途中帰還した4機を除く8機112名が読谷および嘉手納飛行場へ突入。これら8機の義烈隊員は全滅しましたが、途中帰還した4機の隊員には再度の出撃を命じられた者達がいました。

まず、山本金保曹長ら不時着機のパイロット全7名が物資輸送任務に指名されます。
5月28日と6月3日、彼等は再び沖縄へ飛び立ち、次々と戦死していきました。

一方、奥山隊の不時着組48名は挺進第1聯隊や挺進戦車隊へ吸収されますが、そのうち熊倉順策少尉(隅之庄不時着)や、酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは再度サイパン特攻作戦に関わることとなります。
これは海軍空挺部隊(呉鎮守府101特別陸戦隊および横須賀鎮守府第105特別陸戦隊)と協同で行う「剣作戦」と呼ばれるものでした。

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訓練中の日本海軍空挺部隊

待機を続けていた挺進第1聯隊に、再びサイパン特攻が命じられたのは初夏を迎えた頃のこと。
これが、陸軍落下傘部隊最後となる空挺作戦のはじまりでした。

剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。

海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」 
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり

「烈作戦」 
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり
(「特攻」より)」


剣作戦参加部隊は、義烈空挺隊と同じく敵飛行場への着陸強襲を計画しています。
しかし、実戦経験のある海軍横須賀鎮守府特別陸戦隊はサイパン陥落時に全滅。この特攻作戦に際し、海軍空挺部隊は地上戦闘の指導を陸軍空挺部隊に要請しました。

陸軍空挺部隊にはB29の破壊訓練を積んだ義烈空挺隊員の不時着組が吸収されていたので「元義烈空挺隊員の中には、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった者もいた」との証言もあります。
こうして、海軍の空挺作戦は陸軍空挺部隊との協同作戦へと変更されました。

義烈空挺隊が果たせなかったサイパン特攻は、こうして再び挺進第1聯隊に命じられたのです。
サイパン特攻を命じられた山田聯隊長は、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」を編成しました。

山田聯隊長は陸軍部隊指揮官に園田直大尉を任命した。攻撃隊には山本章大尉を長とする第1中隊と、大屋稔大尉を長とする第2中隊が命ぜられ、両中隊は限りなき光栄と、しびれるばかりの感激とを以て出發準備に着手した。
八月初め、横芝基地に中村勇挺進団長を迎えて出陣式を行った。陸軍戸山学校の軍楽隊は「突撃」その他の曲を演奏して、かつて同校にあって準備体操訓練をしたゆかりの強者達の特攻攻撃を心から祝った。
東陽の村人達も亦役場に送別会場を設けて成功を祈ってくれた。
8月6日、横芝を出發。紅白の神旗を先頭にした両中隊は青森県の三沢を経て北海道の千歳に向かった。
青森県三沢駅で将校全員下車、海軍と図上戦術を実施、攻撃部署を左の通り決定した

海軍攻撃部隊 
指揮官 平田海軍少佐
グァム島攻撃隊 平田海軍少佐以下300名

陸軍攻撃部隊
指揮官 園田陸軍大尉
サイパン・アスリート飛行場攻撃部隊 大屋稔大尉以下、第2中隊の136名
テニアン飛行場攻撃部隊 山本章大尉以下、第1中隊の150名


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降下後の戦闘訓練をおこなう海軍落下傘部隊。剣作戦は、陸海軍とも輸送機ごとの着陸強襲となる計画でした。

園田隊305名は、空襲を避けるため北海道の千歳に移動して訓練を開始。
これらの陸海軍混成特攻部隊は「天雷特別攻撃隊」と呼ばれていました。

陸軍園田隊が参加後、作戦内容は下記のように変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。

渡辺
「私はサイパン攻撃の命令が出たときは、結婚のため帰省中でして、八月五日休暇が終って帰隊すると、横芝駅から隊長以下青森県の三沢に向い出発するところだった。私は八月十一日後発を率いて千歳に向った」
司会者
「一旦三沢に集結してそれから千歳に行ったのですか」
細村
「三沢へ行ったのは、各中隊の先遣隊というか幹部だけです。あと大部分は直接千歳へ行ったんです」
司会者
「それで、千歳に行ってどんな準備をしましたか」
細村
「千歳へ行ってからは主として帯状爆薬の操作ですね。子供をおぶうような帯の爆薬でB29の胴体模型に引っかける訓練とか、あとは吸着っていうんですね。横に棒のついた爆薬で吸い着ける訓練とか、まあ、大体そんな程度の訓練だけだったですね」
司会者
「一週間くらいなもんでしょう」
細村
「そうなんです。行って二回か三回くらいしかうちの小隊ではやれなかったのです。私はその頃は小隊長で行きましたので訓練の方に参加してました」
司会者
「海軍の飛行隊とは顔合せをやりましたか」
細村
「特別に全部の顔合せはございませんでした」
星野
「兵舎は一緒でしたよ。自分達は一緒にいたからね。整備員か何かと一緒に同じ内務班で」
細村
「そう?あのとき私らは待遇を良くして頂きまして、海軍の士官の招待を受けましたので、どうせ兵隊になるんなら海軍が良かったとつくづく感じました(笑声)」
森上
「だって連合作戦を計画したのは海軍だから。我々は加勢に行ったのだから」
司会者
「一式陸攻には乗ったんですか」
細村
「一式陸攻には乗りません。止ているところへ乗っただけで飛ばなかったのです。一式陸攻の改造したやつの地上にいるのに乗って兵隊の配置とか跳出す要領とか、一応の訓練はしましたが飛ぶことはしません」

「空挺隊員園田直」より

情報収集の為、サイパンへの偵察飛行が繰り返されます。撃墜された米軍捕虜を千歳に移送して、各飛行場の詳細な状況の訊問も行われました。
広大な飛行場に素早く展開する為、オートバイ数台と自転車が掻き集められ(オートバイは重過ぎて使用中止)、入手した米軍パイロットのサバイバルベストを参考に、爆薬携行用のチョッキも作製されたとか。

其の頃、義烈空挺隊の出撃を撮影した小柳次一氏も、軍報道部からサイパンへの同行取材を強要されてこれを拒否。怒鳴り合いの喧嘩になっています。

七月の中ごろだったと思うんですが、報道部から来てくれと電話がありまして。それで報道部に行きましたら、今度、日本の全爆撃機を挙げてサイパンを空襲するからそれに乗り組んでくれと言われたんです」
「それは命令ですか?」
「そうだ」
「いくら私でもそれはできません」
このときだけです。軍の命令を断ったのは。
「いままで付き合ってきたのに貴様は逃げるのか」
と言うから
「逃げるんじゃないです。あんた方は本土決戦て言ってるでしょ。本土決戦ということだったら、私だって手伝えることはありますが、今度の作戦は百機行って何機帰れます。百機行って五十機帰れるのなら行きます。でも、百行って九十九機帰れるわけのない作戦でしょうが。それに乗れというのはどういう命令ですか。もし、そういうことだったら辞めさせてください」
と返事をしまして、そうしたら、その将校が
「辞めたきゃ辞めてもいいぞ。こっちは一銭五厘で呼びつけるだけだから」と脅かしまして。
もう喧嘩です。一銭五厘というのは徴用の葉書代のことですね。召集でも徴用でも命令が来たら、いやでも拒否できませんからね。
大声で怒鳴り合っていたもんだから、沖縄出身の親泊さんという将校が心配して、どうしたんだとわけを聞いてくれまして。
「あんたは嘱託だよな。おまけに無給嘱託だ。正式に軍籍にある軍属だったらそんな事は言わさねえが、そりゃあ、あんたが怒るのが当たり前だ」

「従軍カメラマンの戦争」より、小柳氏の証言

民間人カメラマンを特攻に出そうとする方がどうかと思うのですが、しかし、追い詰められていた軍部ではそんな事に構っていられなかったのでしょう。
親泊さんの御蔭で、小柳氏は大陸へ身を隠すことが出来ました。

【烈号作戦始動】

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都城盆地防衛のため、挺進戦車隊の主力が駐屯していた三股中学校付近。

同時期、天雷特攻隊とは別の空挺作戦も計画されていました。
挺進第2連隊・第1挺進戦車隊・滑空飛行戦隊の混成48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」です。
これより先の昭和20年春、唐瀬原の空挺隊と北朝鮮の滑空飛行戦隊が合同演習を開催。
フィリピンへ赴いた滑空歩兵に代り、グライダーによる特攻作戦が始まろうとしていたのです。

挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
川南で待機を続ける挺進戦車隊は、3月18日に宮崎を訪れた三笠宮殿下の巡察を受ける予定でした。しかし前述のとおり、当日の米軍空襲を「予告」されていた三笠宮一行は紫明館から八紘台(現・平和台公園)の重砲兵隊地下陣地へ避難。
ようやく空襲が終った20日夜に挺進戦車隊と空挺隊員は宮崎神宮へ移動、三日間地下に籠っていた三笠宮の前で、遭遇戦における協同演習を披露しました。

そして義烈空挺隊が沖縄へ突入した5月。
滑空飛行戦隊のグライダーが唐瀬原へ飛来します。

下旬岩佐、宮本准尉以下十一名に挺進団合同演習に参加するよう下命があり、早々に唐瀬原に向って出発した。次の日挺進団で演習の合同会議があり、三日間午前一回午後一回の慣熟飛行を行なうことになった。
挺進団の人々はわが「クー八」を不安げに見ながら搭乗した。
中には「クー八」の羽布を撫でながら大丈夫ですかと洩らす人もいた。が着陸すると異口同音に飛び降りなくてすむの一言で評判はまずまずであった。
三日目には戦闘指揮所を攻撃目標とし出来るだけ近くに接地し、操縦席横のピン二本を落し、操縦席を横開きにして接地板を二本引き出して此所からも人員を降ろした。
目標近くに接地、直ちに攻撃態勢に入れるということで頗る好評であった。
同日夕刻より団長の招宴が将集で行なわれ、お褒めの言葉を頂いた。宮本准尉以下の人々の協力の賜物であり、特に操縦者の身でありながら索張り滑空機の撤収迄苦労を惜しまず努力してくれた吉田栄次さんには改めて感謝を表したい。
演習終了直後梅雨入りしたため帰還が大幅に遅れ六月下旬宣徳に帰還した。
帰還し間もなく挺進団より安井少尉が派遣され執銃地上戦闘が一週間に亘り午前・午後行なわれた。
連日の夜間訓練―午後十一時起床、十二時より払暁に至る訓練、翌日九時より一一時三〇分迄の少飛の人達の滑空訓練など―により、疲労の累積による大事故が六月二十八日惹おこし、吉村・杉田少尉、梅戸准尉が殉職し、山田少尉他一、二名の人が重傷した。

岩佐陽太郎氏「一一七部隊追憶記」より

6月中旬頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
歩兵中隊

でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。

司会者(田中賢一)
「それでサイパン行きになるちょっと前に、沖縄行きのグライダーで行く特攻隊の要員を中隊から(挺進第1聯隊)も出したでしょう。今日来てない木谷さんもそれに出たのでしょう」
細村
「ええ、木谷君です。あのときは階級と特に優秀者をという聯隊の方から付箋が付いておって。それで選考したわけです。
そういう選考要領というかそういう指示があったのはあのときだけだったと思います。それで中隊からも木谷君らが何名か出たのです」
司会者
「聯隊からは十二、三名出てるでしょうか。二聯隊からも、両方併せて二十四名」
細村
「中隊からは木谷君ともう一人誰か出たでしょう」

全日本空挺同志会「空挺隊員園田直より」


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訓練中の第1挺進戦車隊。川南空挺慰霊祭の展示より

義烈空挺隊に続く沖縄特攻作戦の指揮官は田中賢一少佐。ラシオ空挺作戦で敵飛行場への着陸強襲を担当していたあの人です。
作戦名は、非公式に「烈號作戦」と呼ばれていました。

剣号作戦と同時に準備を命ぜられたのは烈号作戦である。それは挺進戦車隊待望の滑空機による37粍砲装備の軽装甲車及12糎迫撃砲を以てする沖縄北飛行場への急襲作戦である。
挺進戦車隊は田中賢一少佐を隊長とする滑空機による挺進部隊である。西筑波に於ける古林少佐等の懸命の努力にも拘らず、実働滑空機の整備が遅々として進まず、その間に次々と落下傘部隊、そして滑空諸部隊を南方に送りながら、一日千秋で時機到来を待ったのである。
滑空飛行戦隊は7月20日迄に滑空機20機、曳航機20機の到達目標であった。ともすると焦燥感の若者を指導する田中少佐の苦心も並大抵ではなかった。
挺進後の歩戦一体を強調し、歩兵中隊の充実を期したのも隊長自ら指導する幹部の落下傘訓練の実施などは、その鎮撫策の一つであった

「会報特攻」より

七月初旬、戦隊長・山本副官・片山中尉・加畑少尉が航本に出張した。何か作戦があるのではないかと一抹の懸念が脳裏を掠めた。訓練は何事もないかのように連日続いた。
中旬に入り特攻志望の調査があった。
一中隊においては熱烈望・熱望・志望の三項目で志望せずの項目はなかった。全員熱烈望であったとのことで、中隊長は喜んでいられたとのことであった。
訓練は相変らず深夜より早朝迄と午後少飛の人達の訓練が続いた。七月の北朝鮮は気候も良く快適そのものの生活が続いた。
七月二十三日(その日は私の誕生日)登庁すると、週番下士官より全員舎前に集合の命令が下達され、八時何かあるなの気配を感じつつ集合した。
北村大尉より次の者は一歩前に出よで、神吉・佐波・岩佐・阿部・石津少尉、黒木・今西曹長、秋庭・竹中・古郡軍曹の一〇名。
二中隊では竹内・大里・藤井少尉他三名の六名が指命特攻を命ずると下命された。
直ちに戦隊長室に集合し、神吉少尉が、代表申告し神吉・佐波・秋庭組は北飛行場、岩佐・今西・阿部・竹中は中飛行場、石津・古郡組は予備とし一応金武飛行場と指命された。
又竹中・金子組をはじめ夫々攻撃目標を指命され、二万五〇〇〇分の一の地図と各飛行場のB29の繋留状況の航空写真が提示された。
攻撃方法としては九五式四輪駆動車に二〇ミリ及び一二・七ミリの航空機関砲を固定し、射手としては挺進戦車隊及び挺進第二連隊将兵一六名を充て、吾々滑操(※滑空機操縦者)は自動車の操縦に当ることとなった。
携行武器としては一〇〇式短機関銃と手榴弾とのことであった。色々の思いが脳裏を掠める裡に兵舎に戻った。
中隊長に申告して後、特攻要員は一軒の宿舎に移り出發の日迄起居を共にすることとなった。神の家と称されたように記憶している。
二十四日より三日間、矢部少尉を教官とし今西曹長を助教とし、一日二時間の自動車の教習を受け、三日目は長距離行軍が行われた。
再度来隊した安井少尉より発破掛け及び奪取武器による攻撃等の訓練を受けた。
七月終りに最後の仕上げとして無灯火(尾赤灯のみ)の編隊着陸を行なった。
八月五日連浦の挺進飛行団へ全員で申告に赴いた。
川島大佐(飛行団長)に申告、全員の健闘を祈るの激励を受け神吉・岩佐・今西・黒木の四名の外は即刻挺進飛行第一戦隊の一〇〇式輸送機(MC20)で福生へ移動した。神吉少尉他三名は帰隊後「ク―八」に携行品を搭載し、翌日の出發に備えた。六日早朝残留者の見送りを受け宣徳を後にした。
敦賀に進入して間もなく特殊爆弾投下のため広島が壊滅した旨の電報に接した。
折から東海地方は空襲を受けていたので北アルプス方面に退避したが、燃料の都合により小牧飛行場に着陸した。
再度の空襲のため薄暮小牧を離陸し浜松に滑り込んだ。
闇の浜名湖畔に一泊。翌七日早朝離陸の予定が空襲のため三時過ぎ漸く離陸、薄暮の福生に到着した

岩佐陽太郎氏「一一七部隊追憶記」より

烈號部隊を空輸する滑空飛行第1戦隊は、本土空襲を避けて西筑波から朝鮮半島へ退避中。
特攻に選ばれた8組のグライダーは北朝鮮を飛び立ち、空襲を避けつつ福生へ到着しました。
しかしグライダーの配備が遅れた為、烈號作戦の決行予定は8月20日頃となります。

この部隊を代表して第1陣として烈号作戦要員に選ばれたのが、広田敏夫大尉以下20名であり、東京近郊福生飛行場に転進したのが8月1日であった。
そして義烈空挺隊を偲びながら、沖縄北飛行場への急襲を準備したのであった


広田敏夫大尉ら烈号部隊員は、曳航機およびクー8滑空機20機編隊で読谷および嘉手納飛行場の手前に夜間着陸後、パイロットが運転する軽車両で両飛行場へ突入。
車載機銃で駐機中の米軍機を破壊して回る作戦でした。
しかし、訓練開始直後にとんでもないトラブルが発生します。

沖縄特攻を真近かにして、敵飛行場に滑空機で強行着陸をして、敵機爆砕のために走り廻る四輪駆動車の操縦訓練や二十ミリ機関砲の射撃訓練をしていた。
機関砲の扱いにも習熟し、夢中になって標的に向かって射撃していたところ、突然砲声が鳴り止んだ。
はて故障かと砲身を見ると何と砲身の先端が二十糎程真っ赤になって垂れ下がっているではないか。それは飛行機に搭載して高高度で射撃する云わば空冷の機関砲を無謀にも炎暑の地上で連続発射したのが原因であった。
この報告を受けた部隊幹部は愕然とした。予定していた沖縄の敵飛行場では全く役に立たないということだからである

滑空飛行第1戦隊 石津正昌夫少尉 「国破山河在」より

九七式重爆で出撃した義烈空挺隊ですら機体トラブルでの脱落や撃墜される機が相次いだというのに、更に鈍足のグライダー部隊が沖縄へ突入できたかどうか。
運よく迎撃機の目を逃れたグライダーが沖縄へ着陸できたとしても、そこから夜道を何キロも走破し、米軍が防御する飛行場へ辿り着けるのか。
しかも車載機銃は地上で使い物にならない航空用です。義烈空挺隊よりも成功の可能性は低かった事でしょう。

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訓練中の挺進戦車隊。画像の大型グライダーは試験飛行段階で終戦を迎えた為、あくまで「こうなる筈だった」的な願望図です。
川南空挺慰霊祭にて

高千穂空挺隊や義烈空挺隊の悲惨な前例を見るまでも無く、天雷特攻隊や挺進戦車隊の特攻作戦も、余りに無謀でした。

月明かりを頼りに太平洋の真ん中へ夜間飛行で辿り着き、厳重な防空網を突破し、敵の飛行場へ果して何機が着陸できたのか。
義烈空挺隊の諏訪部編隊長がサイパン出撃計画で漏らしたように「上手くいって半分、下手するとゼロ」だったかもしれません。

沖縄へのグライダー攻撃も、義烈空挺隊と同じ結果に終わったことでしょう。
しかも、此等の作戦が実行されたとしても後続部隊の投入や連動する友軍の攻撃はナシ。敵に一時的な打撃を与えるだけの単発作戦でした。
結果として日本の空挺戦力は陸海軍共ほぼ壊滅し、残る挺進第2聯隊と僅かな中隊だけで本土決戦に臨むしかなかったのです。

千歳の剣作戦部隊と福生の烈號部隊が特攻の準備を整える中、川南に残った空挺部隊でも犠牲者を出してしまいました。

当時私は高鍋駅で二〇歳の青年駅員として空襲下の駅に勤務していました。
昭和二十年七月十二日、米軍艦載機約三〇機は高鍋駅や蚊口地区を中心に、猛烈な銃爆撃を行いました。
防空壕に避難していた私たちは、敵機の爆音が遠のいたので、駅の被害状況の見回りを始めました。と、一両の貨車から煙が出ている。
早速扉を押し開いて見ると、赤茶けた煙と炎が吹き出した。
先刻撃ち込まれた機銃弾の焼夷実包の発火である。
青年駅員十余名、駅北側の井戸水をくんで、バケツ注水消火に努めていると、突然「ドーン」と貨車内が爆発。
「あぶない、待避しよ」だれ言うとなく一斉に待避。次の瞬間、あの大爆発。
百雷が一時に落ちたようなものすごい地響き、「やられたっ」と思って見回したが、しばらくは何も見えず何も分らなかった。
貨物倉庫、農会の出荷場や倉庫、日本通運社屋など完全に倒壊、駅舎も傾いて倒壊寸前。
線路上に将校が一人、少し離れた所に保線区員の古川さん(古川尊氏)が倒れている。
将校は川南落下傘部隊の三浦少尉(年齢ほか不詳)だったとのこと。
頭の骨が割れ真っ赤に血に染っているのを、いっしょに来ていた曹長(氏名不詳)が背負って秋月医院に走ったが助からなかった由。
古川さんは胸からおびただしい出血、私は腰のタオルで出血を止めようとしたところ、タオルは傷の中にすっぽり入った。
その古川さんもついに―。
重傷者は幾人もいたとのことだった。鵜戸神社鳥居前大木の下にも兵隊が一人死んでいた

西村敏春氏の証言より

その2日後。
7月14日に予定されていたサイパン特攻作戦は、必死で集めた輸送機を空襲で失って延期となります。

かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より

しかし、剣部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

第3空挺連隊

陸軍空挺部隊の終焉。
それは、軍都川南が開拓地へ再生するための第一歩でもありました。

(第10部へ続く)

空挺給水塔 其の10 挺進飛行戦隊と滑空飛行戦隊

Category : 第十部・挺進部隊の翼 |

ある夜のこと。
「先生、起きて下さい」
生徒の声と、舎監室の戸をひどく叩く音に目がさめました。
「兵隊さんが『非常事態だ。開けろ』というので戸を開けました。すぐ来て下さい」
何のことやらさっぱりわからず、あわてて飛び出すと憲兵が二人、拳銃を手にして廊下に立っています。
「何ですか」
「脱走兵がこの付近に逃げたらしい。調べさせてもらう」
「誰も来ません。此所は外から人が入ることは出来ません。調べるなどとんでもない」と、制止するのもかまわず、部屋を全部のぞき、便所の中まで戸を開けるのです。
寮は男人禁制です。舎監長(男の先生)だって一人で見えることはありません。軍隊とは、常識の通らない全くむちゃな所です。だんだん腹が立って来ましたが、おしのけることも、文句も言えず、じっと嵐の去るのを待つばかりでした。
そのあと、また兵隊が来ました。今度は憲兵ではありません。
「兵隊は来ませんでしたか?」
「誰も来ません。先程、憲兵の方が、脱走兵を探しに来られました」
「そうですか。部隊の兵隊が居なくなって探しているのです。我々で早く見つけたいのです」
しばらくして
「失礼しました。帰ります。夜明けに飛行機が飛びますよ」
そう言い残して帰られました。
早暁、ようやく東の空が白みかけた頃、ものすごい数の飛行機が爆音を残して、海の方に次々に飛び去りました。戦闘機の出撃だったのでしょう。
勇ましい戦いのかげに、前夜のようなことがあるのを知り、どうにもならない、やるせなさを感じました。
生徒も爆音で目をさまし、窓から手を振って見送っていました


高鍋高等女学校杉田樹子教諭「いのち輝く」より 昭和17年の新田原飛行場にて

落下傘降下
97式輸送機(AT)から降下する陸軍空挺隊員

陸軍空挺部隊は、降下作戦をサポートする専従の飛行隊を保有していました。
それが下記の部隊です。

【新田原飛行場】
第1挺進飛行団司令部 
第1挺進飛行団通信隊 
挺進飛行第1戦隊 
挺進飛行第2戦隊 
第101飛行場中隊(整備隊)
第102飛行場中隊(整備隊)

【西筑波飛行場】
滑空飛行第1戦隊
第103飛行場中隊(整備隊)


降下兵たちの武勇伝に隠れ、空挺作戦を支えた飛行隊の実情は余り知られていません。
今回は、挺進集団の翼であった飛行士たちを取り上げます。

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現在の航空自衛隊新田原基地。陸自の74式戦車と並ぶ飛行教導隊のF-15。

潜水艦を使った挺進作戦まで計画していた海軍空挺部隊とは違い、陸軍空挺部隊は空からの奇襲攻撃が基本です。
陸軍空挺部隊の実戦化には、パラシュート兵の空輸部隊が必要でした。
昭和16年春、専従の飛行隊が満州国の白城子飛行学校で訓練を開始。
空挺隊員と共に各種降下訓練を積んだ後、9月になって宮崎県の新田原飛行場へ移転します。

新田原において、陸軍空挺部隊は本部、教育部、研究部、材料廠から成る航空総監部直属の「挺進練習部」となりました。
そして昭和16年11月5日、「教導挺進飛行隊(後の挺進飛行第1戦隊)」の編成が完結。
太平洋戦争の直前になって、実戦部隊の形はようやく整います。

挺進飛行隊の訓練は、新田原飛行場(児湯郡新田村)と塩付降下場(児湯郡川南村)を利用しておこなわれました。
まず新田原飛行場から海へと飛び立った輸送機は、日向灘上空を廻り込んで北側の川南村へ進入。
軍馬補充部高鍋支部塩付分厩跡のパラシュート降下場へ空挺隊員を降下させていました。
時間が無い場合は、離陸後Uターンして新田原飛行場へパラシュート降下する事もあったそうです。

その挺進飛行戦隊が初めて実戦に参加したのは、昭和17年のパレンバン降下作戦。
昭和17年1月7日、新田原を離陸した挺進飛行隊は、台湾を経由してプノンペンを目指しました。

【パレンバン降下作戦】

パレンバン降下作戦1
パレンバン作戦を打ち合せ中の久米挺進団長と新原飛行戦隊長

日米開戦直前の昭和16年12月1日。
軍令陸甲第93號により、武田丈夫少佐指揮の挺進第1聯隊、および新原少佐指揮の挺進飛行隊に出撃命令が下されました。
目標はスマトラ島のパレンバン。蘭印軍が護る飛行場と精油所2箇所への同時降下という、複雑な作戦でした。
挺進飛行隊の3個中隊では数が足りず、更に物資投下と護衛にあたる飛行隊が支援につきます。

第81戦隊(先行偵察、誘導)
第59戦隊(戦闘・空中援護)
第64戦隊(〃)
第90戦隊(事前爆撃)
第98戦隊(物資投下)


挺進飛行隊がプノンペンへ到着したのは昭和17年1月19日のこと。
しかし、先着の挺進第1聯隊は輸送船の沈没事故で降下器材一式を喪失していました。
そこで急遽、編成されたばかりの挺進第2聯隊が南方へ向かうこととなります。

新田原を発った第2聯隊は2月2日にプノンペンヘ到着し、現地の第1挺進團主力と合流。パレンバンへの出撃準備に入ります。
2月11日、マレーのスンゲイパタニ飛行場へ移動した空挺部隊は、最終の機材整備、偵察写真を元にした降下計画の立案、そして戦闘訓練を重ねます。
13日、準備を終えた空挺部隊は出撃基地であるカハン飛行場へ移動。
翌14日午前7時、日本陸軍初となる空挺作戦が開始されます。

IMG_0001_R_201507050320308af.jpg
輸送機に乗り込む陸軍落下傘部隊員。機体の尾翼には落下傘を象ったマークが描かれています。


飛行第64戦隊の護衛の下、挺進飛行戦隊3個中隊及び第12獨立輸送中隊の空挺隊輸送機計36機、
物資投下の重爆一個戦隊、援護の戦闘機2個戦隊27機の編隊はマラッカ海を越えてスマトラ島の海岸線沿いに南下。
バンカ島ムントク上空で11時前に変針します。

その日、パレンバン上空は低い雲に覆われていました。
日本軍の編隊は、それを潜るようにしてパレンバンへ侵入。11時26分、空挺隊員は一斉に降下を開始します。
高度は通常の半分以下、僅か200mの低空でした。

突然空から舞い降りてきた日本兵を見て、パレンバン守備隊はパニック状態に陥ります。
滞空していた連合軍機も、組織だった反撃すら出来ずに近隣の飛行場へ撤退していきました。

いっぽうの日本軍も無傷ではありませんでした。
パレンバン飛行場上空では、物資投下任務にあたっていた飛行第98戦隊の輸送機が対空砲に被弾。
エンジンから出火しながらも物資投下を終えた直後、失速して飛行場脇の墓地へと墜落しました。
その際、須藤直彦中尉以下搭乗員7名が戦死しています。

空挺隊員を降下させた挺進飛行隊でも輸送機1機が被弾します。
カハン飛行場まで帰還しようとするもマラッカ海峡を越えたところで力尽き、センガラン付近のジャングルへ墜落。
操縦していた相澤茂男准尉(28)と安田秀司伍長(25)が戦死しました。

パラシュート降下に続いて久米挺進団長機も強行着陸を図りますが、着陸地点を探して旋回を続けるうちに飛行場から離れてしまいます。
漸く着陸できたのはパレンバン飛行場から10km以上離れた湿地帯。
水没した機体から脱出した久米団長一行は、ようやくのことでパレンバン飛行場占拠部隊と合流します。

カハンへ引返した挺進飛行隊は、翌日に増援中隊を乗せて再度飛来。
前夜にNKPM精油所を破壊されたものの、パレンバン市街、パレンバン飛行場、BPM精油所は完全に確保されました。

パレンバン降下作戦の成功を、マスコミは大々的に報道。
この時から、日本軍の落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれるようになりました。

【ラシオ降下作戦】
空挺部隊2
挺進飛行戦隊の100式輸送機に乗込む降下隊員。

続くラシオ降下作戦は、ビルマ(現在のミャンマー)への侵攻に伴って計画されました。
日本軍は、第18、33、55、56の各師団をもってビルマ内の中国軍包囲殲滅作戦を開始。
作戦の目標とされたのが、「援蒋ルート」上にある要衝ラシオでした。
陸軍空挺部隊は、このラシオ攻略へ向かう第56師団の支援を命令されます。

パレンバン降下作戦終了後、第1挺進団はプノンペンで次期作戦の準備に取り掛かっていました。
そこへ届いたのがラシオの制圧命令。
パレンバンから戻ったばかりの挺進第2聯隊は作戦から除外され、ビルマには挺進第1聯隊が進出する事となりました。
4月3日、木下中佐率いる先発隊がミンガラトン飛行場ヘ到着。
続いて、パラチフス感染から恢復した挺進第1聯隊と、パレンバン作戦に参加しなかった挺進第2聯隊の足立中隊および川畑小隊が海路ラングーンヘ向かいました。
4月12日に到着した両聯隊は、17日から第5飛行集団の指揮下に入ります。

このとき立案されたラシオ空挺作戦は下記のとおり。

・第1次挺進部隊
挺進第1聯隊主力の450名は、ラシオにパラシュート降下して中国軍兵営を急襲。続いて南方の高地を占領して敵の退路を遮断。
・第2次挺進部隊
挺進第1聯隊の壺井中隊および挺進第2聯隊の足立中隊・川畑小隊の計450名は飛行場を急襲。
まず田中賢一中尉指揮の機関銃小隊24名(重機関銃1、軽機関銃7)を飛行機で強行着陸させ、
その援護射撃を受けながら壺井・足立・川畑の各隊がパラシュート降下して飛行場を占拠。
続いて駅を占拠し、列車で救援に駆けつけようとする中国軍新編第66軍を阻止。
・久米団長機
パレンバン同様、久米団長も飛行場へ強行着陸してラシオ占拠の指揮にあたる。
・挺進飛行隊
新原少佐率いる挺進飛行隊は4月26日にラングーンヘ進出、筒井中隊(ロ式輸送機)、板野中隊(ロ式)、松渕中隊(MC輸送機)、飯渕中隊(MC)、新海中隊(MC)の5個中隊で空挺隊を輸送。
物資投下、直掩、地上攻撃の各支援飛行隊も参加。


作戦決行日とされたのは4月29日。
挺進飛行隊は26日、空挺部隊は28日にトングーへと進出しました。



昭和17年4月29日朝、挺進飛行隊は計1000名の空挺隊員を載せてトングー飛行場を離陸します。
しかし、到着したラシオ上空は厚い雨雲に覆われていて降下は不可能。新原戦隊長は突入を断念し、トングーへ帰還します。

帰還途中、第1聯隊第1中隊神保曹長以下の搭乗機が行方不明となり、片方のエンジンが故障したままトングー飛行場へ辿り着いた古川大尉機も着陸直前に墜落炎上しました。
結局、30余名の戦死者を出してラシオ降下作戦は中止されます。
ラシオには56師団が突入し、占拠に成功しました。

この作戦における挺進飛行隊パイロットの殉職者は下記のとおり。

挺進飛行隊第4中隊
古川武大尉(24)
岡部貞男准尉(27)
四元泰憲曹長(24)
戸澤一曹長(24)

このように、墜落事故で犠牲となったパイロットも少なくありません。
パレンバン作戦時の挺進飛行戦隊は4個中隊で編成され、使用していた機体は第1、第2中隊がロッキードL14スーパーエレクトラ(ロ式輸送機)、第3、第4中隊は百式輸送機。
このロ式は故障が多い上に失速癖があり、事故の際にも炎上し易いとしてパイロットから嫌われていました。
挺進飛行隊のロ式も沖縄近海で1機、プノンペンで1機が不時着。沖縄の事故では乗っていた整備員1名が溺死しています。
プノンペンでは、滑走路上でパンクしたロ式が炎上するというトラブルもありました。
ラシオ空挺作戦が中止になった際、挺進飛行戦隊ではロ式を廃止し、百式への機種統一を決定。
5月31日、サイゴン航空廠へ移管されることになったロ式はプノンペンを飛び立ちます。しかし、ここで最後の事故に見舞われました。
離陸直後に機体が失速し、第1中隊長の筒井四郎中尉機が墜落。操縦していた筒井中隊長と奥村修准尉が殉職したのです。

プノンペンを発ってサイゴンまで、ロ式(※ロ式輸送機)による最後の飛行を行った際、戦隊の第1中隊長筒井四郎中尉は、いつもの通り先頭で離陸した。
高度五〇メートル位のとき、エンジンの故障だったろうか、飛行場の端から二、三百メートル程の所に不時着し焔に包まれた。
一名が機外に投出されて助かったが、筒井中尉以下数名は焼死した(※実際の死者は二名のみ)。
パレンバン作戦でもラシオ作戦でも、筒井機は副操縦席に新原戦隊長を載せ、編隊群の先頭に在った。
最後の飛行では新原少佐は乗っていなかったが、中隊長と運命を共にしたのは栄あるクルーだった。

全日本空挺同志会資料より

5月23日、戦況が落ち付いたことで第1挺進團に撤収命令が出されます。
空挺隊員はラングーンから出港し、7月4日に宮崎へ帰還しました。
6月6日に挺進飛行隊も西貢(サイクン)を離陸し、11日に新田原飛行場へ戻っています。

第1挺進団が帰還した新田原飛行場では、挺進第3聯隊と挺進第4聯隊、グライダー滑空班(後の滑空歩兵聯隊)などが続々と新設されていました。
そこへ戦地から2個聯隊が帰国して来たので、新田原飛行場は4個空挺聯隊と挺進飛行隊の将兵でごった返しとなります。
収容能力の問題から挺進飛行隊のみを新田原に残し、降下部隊は川南村へ移転することが決定。
唐瀬原飛行場を中心とする川南空挺基地の建設も始まりました。

パレンバンの戦果は大々的に報じられ、新田原飛行場の挺進司令部には取材要請が殺到します。
作家の火野葦平もその一人。
泊まりがけで取材に訪れた火野は、降下兵とパイロットの関係についてこう記しています。

深夜、状袋にはいつて寝についてゐる私の耳の傍でけたたましく叫ぶものがあつた。
「第二十一編隊長、心配すんな」
まつ暗なのでだれであるかわからない。向ふ側の寝台かららしかつたが、そのあとはしんとなつたので、寝言の主をたしかめることもできない。兵隊が寝言をいふといふことは晝間から聞いてゐた。
跳下して帰つた晩など、機體をはなれる「やあつ」といふ掛け声が方々から起るといふことであつた。また、前日、夢を見る兵隊も多く、その姿が無意識の言葉になつて口をついて出る。
それにしても、編隊長心配するなといふやうなこみいつた寝言をいふのは誰であらうか。恐らく下士官にちがひない。
ここには各兵科からすでに教育を受けた兵隊たちが集まつて來てゐるので、下士官の多いのにはおどろくばかりである。
軍曹が歩哨に立つやうな部隊はあまりあるまい。寝言の直接の意味はよくわからないが、落下傘部隊と飛行機部隊との協力についての感想であることはうなづかれる。なかなかよろしき寝言である。
見学に來て實際を見るまでは、私にはこのことはよくわかつてゐなかつた。
飛行機と落下傘兵とをなんとなく一つのものに考へてゐたのである。ところが、實際はさうではなく、飛行機と落下傘部隊といふものはまつたく別なので、この二つの部隊の緊密な協力によつて、はじめて落下傘作戦が決行されるといふことを知つた。
落下傘によつて降下し戦闘する兵隊の花々しさばかりに私たちの眼はうばわれてゐたやうである。
落下傘部隊は飛行機から跳下するだけが目的ではない。跳下はいはば歩兵の行軍にあたる部分であつて、降りてからの地上戦闘が主任務なのである。
したがつて、所期の地點にうまく降りる降りないとかといふことで、すでに成功の可否を決せられる。重量品であればその自らの重さによつて割合に正確に思つたところに降ろすことができるが、軽い布の傘にささへられた人間を、あやまりなく所期の地點に降ろすことはそんなに容易のことではない。
まづ風向風速を的確に知ることがなにより大切だ。操縦者の技倆が立派でなくては落下傘作戦は成功しないといふことになるのである。
跳下地點の選定と、降下時期の決定とは、跳びおりる落下傘兵自身がやるのではなくて、戦隊の方でやるのである。それだけ責任も重く、慎重の注意と決断力を要する。
出発前には、諸準備をととのへ、着地點などの豫備知識をあたへ、落下傘兵をして空中勤務者の技倆に全幅の信頼を置かせる。
この空中勤務者と降下者とが心意一體になることが絶對に必要だ。

火野葦平「落下傘部隊」より 昭和18年


【ベナベナ空挺作戦】


翌18年、第1挺進団は再び南方へと出撃します。
反攻を開始した米軍は、ニューギニアのベナベナ及びハーゲンに飛行場を建設しつつありました。
ここから飛び立つ連合軍機は、日本の輸送船にとって脅威と化します。
6月19日、ベナベナの飛行場群を制圧するため、空挺部隊に出動命令が下されました。
第1挺進団は28日に動員完了。挺進第1聯隊は青葉丸と有馬丸に、挺進第2聯隊は焼津丸に乗船して7月6日に宇治を出港。
翌月12日にはパラオ諸島のコロール島へ上陸後、ペリリュー島の松島飛行場へと海路移動します。

ペリリュー島まで進出した第1挺進團でしたが、現地の第18軍は「例え空挺部隊が現地を占拠しても、険しい山脈を踏破してベナベナ・ハーゲンへ地上部隊が進出するのは極めて困難」と判断。
作戦案には消極的でした。
空挺部隊単独での攻撃も検討されますが、米軍の反攻によって計画は延期。そのうちペリリューも敵の空襲に晒されるようになり、ベナベナ降下作戦は9月25日に中止となります。

昭和18年11月19日、第1挺進団は帰国の途につきました。
しかし、日本に上陸する暇もなく南方への再出撃が命じられます。

29日、部隊は門司港到着と共にすぐさま反転。台湾・シンガポールを経由して再びスマトラへと向かいます。
スマトラ島ベラワンへ上陸後、団司令部と飛行隊はメダン、挺進第1聯隊はペマタンシャンタル、挺進第2聯隊はシボロンボロンに展開。ビルマ方面軍と連携しながら、ビルマやアンダマン諸島方面の連合軍反攻に備えました。

昭和19年3月、ビルマ方面軍はインパール作戦を開始。
補給を無視した杜撰な作戦の無惨な結末は御存知のとおりです。この大惨敗において、もはや空挺部隊の出番などありません。
南方作戦を諦めた第1挺進團は、昭和19年8月14日に川南へ帰還しました。

【グライダー部隊創設】

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クレタ島強襲におけるドイツ軍グライダーを報じた記事

下志津は偵察機の学校だというので、別に行きたいとは思わなかったが、滑空飛行第一戦隊というのは聞き馴れない名前なので、何に乗るのか判らず、聊か不安であった。
唯、滑空という名前がついているのだから、もしかしたらグライダーを使っているのかも知れないと思った。
行き先が決まると、戦隊より我々を迎えに来られた松本中尉殿より各人に切符を渡され、中尉の引率のもとに研究所を出て、青梅線の昭和駅に向かって出発した。
駅より中央線に乗り、新宿で山手線に乗り換えて上野駅へ来た。ここで三〇分待って常磐線に乗り、取手で常総鉄道と云う私鉄に乗り換えた。
丁度、小学校の遠足の時に乗った秩父鉄道の様な感じの、極く田舎びた鉄道であった。
目的地の下妻駅まで暇なので、地方人(※「民間人」を意味する軍隊用語)に声を掛けてみた。
「この辺に飛行場があるでしょう。」
「ええ、ありますよ。」
当時はこう云うことは軍事機密なので話してはいけないのであるが、相手が軍人なので教えてくれた。
「どんな飛行機が飛んでいます?」
「そうですね。重爆や軽爆や色々です。」
「グライダーは飛んでいませんか?」
「ええ、飛んでいますよ。大きいのや小さいのが。」
これで判った。どうやらグライダー部隊らしい。
でも待てよ。何故、我々がグライダーに乗らなくてはならないのだろう。既に練習機課程を終了しようとしているのに。
それが、グライダーに逆戻りとは、どうしても理解出来なかった。

佐藤澄久氏「滑空飛行第一戦隊に入る」より

これより先、ラシオ作戦からの帰国後には、戦力の回復と共にパレンバンとラシオで得られた戦訓の評価も進められます。
特に問題視されたのが制空権と火力でした。

理想的なのは、ラシオのように制空権が確保されていた空挺作戦。
しかし、パレンバンのように敵戦闘機が跳梁する中での作戦強行もあり得ます。
たまたま敵機が出払っていたパレンバン降下作戦は、あくまで運が良かっただけ。空の上で本格的な迎撃を受ければ、直掩機だけで挺進飛行隊を護り切れる保証はありません。
敵機との遭遇を避け、奇襲の効果を高める為の手段として夜間挺進・夜間降下訓練が導入されました。

もうひとつの問題が、パレンバンで露呈した貧弱な火力。
輸送機で運んだり、パラシュート降下時に携行できる武器には限界があります。
パレンバンでは輸送機から投下された物資の捜索に貴重な時間を浪費し、更にはジャングルや湿地帯に阻まれて投下コンテナを発見できないケースも多発。携行の拳銃と手榴弾だけで戦う派目になった隊員もいました。
これら諸問題を解決し、重火器や車両まで空輸する方法として発案されたのがグライダーの導入です。

同年には、ドイツが軍用ヘリコプター「Fa223ドラッヘ」を量産化していました。
しかし、当時の日本にヘリコプターを製造する能力は無く(ヘリコプターの情報は知られていましたが)、各国に倣いグライダーを選んだのです。

単なる戦闘的落下傘部隊では任務の達成が容易ではないし、其の労果に相伴わぬものがあり、又戦術的使命も僅少であるから、強大な戦力として一つの戦略的単位をなす部隊を作って、我勢の進展に応ずるを企図した。
その主要問題は滑空部隊の編成であり、重火器や戦車等戦力補給力の増強、挺進戦隊の増援にある。

空挺戦友会資料より

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昭和17年、挺進練習部内に設置された「滑空班」と「重火器班」は、新田原飛行場でグライダーによる空輸作戦の研究を開始。
更に、滑空班を「滑空飛行第1戦隊」に再編し、所沢や西筑波で実機を使った飛行訓練に着手しました。
滑空飛行戦隊は本部および3個中隊で構成され、各中隊が運用するのは曳航機の97式重爆9機と50機弱のク―8滑空機(一部では97式軽爆撃機やク―1滑空機も使用)。
こうして、パラシュート部隊を運ぶ「挺進飛行隊」とグライダー部隊を運ぶ「滑空飛行戦隊」が、それぞれ専門とする作戦に従事可能となりました。

滑空飛行戦隊のパイロットは、曳航機とグライダーの操縦者に分れます。
曳航機のパイロットは空を飛ぶだけ。
しかし、降下兵と共に着陸するグライダー操縦者はそのまま地上戦闘要員へ組み込まれ、搭乗部隊と共に戦う事となっていました。
空輸のみに専念する挺進飛行隊とは異質の部隊だったのです。

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曳航中のドイツ軍Go242グライダー

同時期にはク―8滑空機の配備も始まり、滑空飛行戦隊の戦力は拡大。
更に、グライダーへ搭乗する空挺部隊の編成も開始されました。

昭和18年秋には、滑空機搭乗部隊として挺進第5聯隊(聯隊長伊集院大佐)、挺進戦車隊(隊長 面高少佐)、挺進工兵隊(隊長 福本少佐)、挺進通信隊(隊長 坂上大尉)と、これ等部隊を空輸する滑空飛行戦隊(隊長 北浦中佐、後 古林少佐)が作られた。
その頃はク8と称する滑空機が出来ていた。ク8は搭載量約2トンで、山砲、47粍対戦車砲、高射機関砲、小型自動貨物車等が搭載出来、97式重爆撃機で曳航した。
これ等新設部隊は既設の挺進第3聯隊、第4聯隊、挺進飛行戦隊と共に挺進練習部長の隷下にあった。
当時第1挺進団(第1聯隊、第2聯隊及挺進飛行第1戦隊)は第2次出動中で、尚南方総軍司令官の隷下にあった。

空挺戦友会資料より

これらのうち、挺進第5聯隊だけは宮崎県から茨城県の西筑波飛行場へ移動。
更に一般部隊からの転属者数百名を加え、昭和19年秋には滑空歩兵第1聯隊と第2聯隊、及び対空部隊である挺進機関砲隊へと改編されました。

これら部隊の新設に当っては今迄の志願制を廃して強制的転属制にした。
一部は練習部や挺進聯隊との人員の交流を行ったが、志願訓練の第1~4聯隊に比すれば見劣りするは止むを得ない所であった。但し、他部隊に比すれば遙かに優良部隊であった。
特に将校は中央で意を用いたので現役が多く、約1年の訓練で落下傘部隊に劣らぬ精鋭部隊に育て上がって比島戦場に向ったのである。
滑空機搭乗各部隊の地上部隊としての練成は数ケ月で一応完成。
挺進第5聯隊は滑空飛行戦隊と仝一地に在ったため度々統合訓練を受けたが、其の他の部隊は唐瀬原にあったので将校が体験飛行を行った程度で統合訓練は中々実現しなかった。
各隊は営庭に模擬胴体を作り搭載卸下の訓練を行った。
昭和19年7月朝香宮殿下の特命検閲には在西筑波部隊を川南に招致し、落下傘部隊との統合演習を実施し、待望の滑空機・落下傘統合の訓練を優秀な成績を以て遂行し、空挺戦力の運用に画期的な発展充実を加えたのであった。

空挺戦友会資料より

グライダー空挺部隊は複数編成されたものの、実際にグライダー搭乗訓練をおこなっていたのは西筑波の第5聯隊のみ。
グライダーがいない唐瀬原の部隊は、地上訓練に専念していました。

創設期の滑空飛行戦隊では、立て続けに事故が発生しています。
昭和17年秋、所沢で訓練中の無人グライダーが突風に煽られて墜落。曳航機を操縦していた滑空班の高山中尉も墜落に巻き込まれ、事故状況を報告後に息を引き取りました。
滑空班が滑空飛行戦隊に再編された後、西筑波でも死亡事故が発生しています。
ク―8滑空機が、切離しの手順ミスで曳航用ワイヤーを着けたまま降下を開始。
地表近くで垂れ下がったワイヤーを樹木に引っ掛けてしまい、滑空機は地面に激突しました。この際、搭乗していた滑空飛行戦隊員が殉職したとのことです。

【無線器空輸作戦】

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インド・ビルマ方面のイギリス軍は、ジャングル地帯へのパラシュート投下やグライダーによる物資輸送で日本軍に対抗しました。いっぽうの日本軍は補給を軽視し、インパール作戦を強行。餓死者続出の無惨な敗北を喫します。

帰国した挺進飛行戦隊と入れ替わるように、10月10日には滑空飛行第1戦隊の曳航機3機とグライダー3機が西筑波を飛び立ちます。
これはフィリピンへ無線装置を輸送する任務でした。
浜松で物資を積んだ飛行隊は翌日に新田原へ到着。次の給油地である沖縄には台風が接近中だった為、九州から済州島飛行場へ迂回します。
そこから上海の大場鎮を経由して台湾の嘉義へ着陸しました。

しかし、グライダーを曳航した97式重爆の前線投入は自殺行為。
米軍機が跳梁する南方の空域で、ノロノロ飛行するグライダーの編隊など標的に過ぎません。
実際、飛行中の滑空飛行戦隊がグラマンの編隊と擦れ違うという危機一髪の状況も発生していました。
幸いにも敵機には気付かれませんでしたが、台湾から先の物資輸送任務は97式重爆のみと決定されます。

九月十三日(※10月の誤り)午前八時、済州島飛行場を飛び立ち、上海の大場鎮飛行場を目指す。高度七〇〇〇メートルを飛び続ける。
翼下を見れば、ミルクコーヒーを流したような黄海がゆったりとさざ波に太陽の光を受け、きらきらと輝いている。
外部を監視中、翼下二、三〇〇〇メートルの処を逆方向にグラマンが三機、銀翼をきらつかせて飛び去るのを発見した。
それを見た瞬間、急に胸が早鐘を打つように、どきどきする思いで一杯であった。
もし万一、先に彼らが我が編隊を発見したとすれば、一堪りもなかっただろうと考えると冷汗が出て余計にいらいらする思いであった。
徐々に高度が下がるにつれて、屋根の庇が上に向って跳ね上がった家々が見えて来た。
中国独特の風景に接して中国大陸を実感した。
夕方、大場鎮飛行場に着陸。

粟屋晃氏「無線機輸送作戦」より

10月18日、滑空飛行戦隊の97式重爆はグライダーを残して嘉義を出発。辿り着いたフィリピンでは、恐れていたとおり米軍機の脅威に晒されます。
空襲警報が鳴り響く中、無線機を降ろした滑空飛行戦隊は急いで台湾へと撤退していきました。
しかし、エンジン不調で離陸が遅れた中隊長機はバターン半島上空で消息を絶ちます。
「米軍機に追われて積乱雲へ飛び込んでいった」「炎上する爆撃機が墜ちて行った」という目撃談はあるものの、その最期は判りませんでした。
残存機は20日に台湾へ着陸。沖縄・新田原を経由して23日に西筑波へ帰還しました。

【テ號作戦】
高千穂空挺隊
ブラウエンに高千穂空挺隊を降下させる挺進飛行戦隊。川南空挺慰霊祭にて

空しく帰国した第1挺進團と交代するように、挺進第3聯隊及び第4聯隊で構成される「第2挺進團」は新たな空挺作戦へ投入される事となります。

昭和19年10月20日、米軍がレイテ島に上陸。
10月24日、宮崎県川南で訓練中の挺進第3聯隊に出動命令が下されます。
これが、第2挺進団(秘匿名「高千穂」)による、レイテ島の米軍飛行場群を制圧する「テ号」作戦の始まりでした。

第2挺進團の編成は下記の通り。
第2挺進團(高千穂) 団長 徳永賢治大佐
挺進第3聯隊(香取) 聯隊長 白井恒春少佐
挺進第4聯隊(鹿島) 聯隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島) 戦隊長 新原季人中佐
挺進飛行第2戦隊第1中隊(阿蘇) 中隊長 三浦浩大尉

1.高千穂は意図を秘匿しつつX-1日夕までに「アンヘレス」地区及び「リパ」地区に集中し、X日薄暮、戦爆主力の掩護の下レイテ島に進航、跳下(落下傘降下の事)す。
2.跳下部隊は主力を以て「ブラウエン」北、各一部を以て「ブラウエン」南及「サンパブロ」飛行場に跳下し まず敵飛行機、飛行場施設及資材を破壊焼却したる後「ブラウエン」北飛行場に集結し、尚武の斬込部隊と提携して為し得る限り同飛行場を確保す
3.着陸部隊はタクロバン及ドラッグ飛行場に強行着陸し 敵飛行機、飛行場施設、特に滑走路を破壊し、あるいは障碍を設け、まず夜間戦闘機の活動を封殺したる後、所在航空資材の覆滅に勉む

10月24日、第3聯隊は唐瀬原を出発。
佐世保からルソンへ向け空母隼鷹に乗込みます。
続いて25日には第4聯隊も動員発令を受け、赤城山丸にて出発。
新田原の挺進団司令部と挺進飛行第1戦隊は11月6日に後を追いました。

昭和19年11月6日 
動員下令
14日
新田原離陸、台湾義嘉着陸。第2編隊1番機、単機縦。
全コース殆んど晴、6時間半の長時間1人で操縦でグッタリ。途中排尿で苦労する。
再三、再四飛んだコースなれば悠々たるものあり。
編成=4ケ中隊、1中隊12~13機(この間義嘉市内元料亭を宿舎として整備)
12月1日
先発隊として義嘉離陸。比島アンヘレス(クラーク南方)
師走と言うにこの暑さ。比島へ向う機上にて、操縦交代して手帖を開く。今10時半、雲上を飛ぶ。
台湾の連山左後方に。
今朝4時起床、宿舎發5時、霧発生。未だ十分晴れざる中を離陸。
12月2日
ネグロス島バゴロドに向う。高度2000。以上殆んど雲に蔽われ、我々には良好な飛行し得る(敵機からの攻撃を受けるに)

挺進飛行隊 渡部一郎軍曹の日誌より

高千穂空挺隊は、ブラウエン北(ブリ)、ブラウエン南(バユグ)、ブラウエン中(サンパブロ)、ドラグ、タクロバン各飛行場群への落下傘降下及び輸送機ごとの着陸強襲を行い、現地第16及び第26師団の斬り込み部隊と連携して飛行場を制圧する計画でした。


第1波レイテ降下部隊
ブラウエン北飛行場攻撃隊 
挺進第3聯隊 聯隊長白井恒春少佐 挺進飛行隊17機 パラシュート降下 
ブラウエン南飛行場攻撃隊 
挺進第3聯隊 桂善彦大尉 挺進飛行隊6機 パラシュート降下 南・北合計330名
サンパプロ飛行場攻撃隊  
挺進第4聯隊 龝田大尉 挺進飛行隊3機 パラシュート降下 24名
ドラッグ飛行場攻撃隊  
挺進第3聯隊 竹本中尉 第95戦隊重爆2機 26名
挺進第4聯隊 宮田嘉孝中尉 挺進飛行隊7機 パラシュート降下  50名?
タクロバン飛行場攻撃隊 
挺進第3聯隊 佐藤中尉 第74戦隊重爆2機 強行着陸 13名
挺進第4聯隊 榊原大尉 挺進飛行隊2機 パラシュート降下 13名
第5飛行團 13機が煙幕構成、4機がタクロバンとドラグへの強行着陸に協力。

第2派レイテ降下部隊(予備部隊)
挺進第3聯隊残余 輸送機の航続距離を考え、リパ飛行場にて待機
挺進第4聯隊残余 アンフェレス飛行場にて待機


11月14日、挺進團司令部と第3聯隊が南サンフェルナンドの製糖工場倉庫(宿舎)に到着。
12月3日には第4聯隊も合流しました。

出撃準備中の高千穂空挺隊に、「台湾軍の薫空挺隊がブラウエンへの強行着陸を計った」というニュースが飛び込んできます。
落下傘兵以外の者にブラウエン攻撃の先を越され、高千穂空挺隊は騒然となりました。
生還の見込み薄いタクロバン飛行場への突入が追加されたのは、薫空挺隊への対抗心が一因ともされています。

空挺部隊が露払いをしてから主力部隊が侵攻するという、一応は空挺作戦のセオリーに則ったブラウエン攻撃作戦の中で、タクロバン飛行場攻撃は無謀としか言いようの無い計画でした。
ブラウエンから離れた地点にあるタクロバン飛行場は、例え空挺部隊が制圧に成功したとしても、友軍がそこ迄進出する予定は無かったのです。

急遽追加された「玉砕攻撃」は、挺進飛行隊とは無関係のパイロットたちまで巻き込む結果となりました。
タクロバンおよびドラグ攻撃隊の空輸には、挺進飛行隊に加えて第5飛行団の第74戦隊(海藤稔軍曹以下5名)及び第95戦隊(佐藤嘉男曹長以下5名)から計4機の重爆が参加しています。
第5飛行団は両飛行場への攻撃ルートを熟知していた為、わざわざ選ばれたのかもしれません。

第四航空軍特別秘密命令(十一月廿八日発令)
テ號作戦實施要領に基いて第十表の人員、器材を降下部隊である高千穂部隊の指揮下に入れた。
本機の搭乗区分は各機操縦者一、整備係一、及び二機につき通信者一とし、その任務は高千穂部隊強行着陸要員四十名と一体となり、各機には各々その要員十名を搭乗せしめ、四機の中、二機はタクロバンに他の二機はドウラグ飛行場滑走路上に胴体着陸し、除去を困難にする処置を講じて障碍となし
高千穂部隊の降下間、敵戦斗機の活動を封鎖した後、敵飛行機、飛行場施設等を破壊して所在航空資材を覆滅するにあった。
所要の任務を終了すれば、敵の機動艇を奪い夜暗に乗じて帰来する意図をもってはいたが、實行は不可能に近いとされていた。
軍司令官(※富永恭二司令)は本人員は任務遂行後、少尉に任官せしむといわれていた。

※この約束は、富永司令の逃亡劇もあって有耶無耶にされたそうです。

タクロバン攻撃を続けてきた第5飛行団にとっても、テ號作戦参加者の見送りは辛いものがありました。

テ號作戦に方り、タクロバン飛行場とドウラグ飛行場とに高千穂部隊の強行着陸隊員と共に坐り込み・斬り込み戦斗に参加した佐藤曹長以下十勇士の行動は、特別攻撃隊とどこにも差異はない。
高千穂部隊にはこれに策応すべき霧島飛行部隊(※挺進飛行隊の秘匿名)がついているのであるが、それが俄かに第五飛行団に、天下りの命令では隊員には心の余裕を与える暇もなく、この任務を強要したのである。
私は堪え難い焦慮に襲われながら宿舎に十勇士を招いて会食を共にした。
全員は悠久の大義に生きんとする決意も堅く、頬を輝かせている。
中には金城敏盛という紅顔可憐の年少伍長がいた。父母はこの時、既にサイパンの孤島に国難に殉じている。
その仇討をするんだと嬉々としはしゃいでいた美しい光景はいまだに私の眼底から去ることが出来ない。
私は個室に鍵をかけて慟哭した。
七十四戦隊の五名の伍長は新しい軍装に身を固め、新しい軍曹の肩章を付け、拳銃を欲せず、軍刀を要求して之を
佩ぎ、舎前に整列して見送る戦隊長以下の隊員に挨拶を交わし、胸をふくらませて降下部隊へ出発していった。

第五飛行団長小川小二郎「第五飛行団比島戦斗史」より


12月1日にはフィリピンヘ到着していた挺進飛行戦隊ですが、爆薬や飛行士の空輸を命じられて降下部隊との合流を果せませんでした。
5日には搭乗予定者が丸一日遅刻したりで、更に時間を浪費。
ようやく挺進飛行隊が勢揃いしたのは作戦当日のことでした。

12月5日
夕刻より空中勤務者空輸の為、リパ飛行場に向う。日没に入るも来らず、兵舎にて宿泊する。
12月6日(降下作戦決行日)
早朝重爆2機来る。その人員をアンヘレスに空輸する。台湾から本隊すでに到着。夜の攻撃準備もあり。

挺進飛行隊 渡部一郎軍曹の日記より

12月5日の出撃予定は挺進飛行隊の到着遅延で6日に延期。
しかし、ブラウエン付近に潜む地上部隊へそれを伝える術はありませんでした。
「連日の爆撃で目標周辺の対空砲は損害を受けている」という報告も、全て希望的観測。米軍の強力な防空網は健在でした。
机上の計画と、戦地の現実は悲惨な程に乖離していたのです。

台湾で再編成を終えた挺進飛行戦隊本隊はアンフェレスに到着、5日になって漸く降下部隊と合流しました。
残る機も翌日に到着し、1日遅れでテ號作戦は開始されます。

「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」
南サンフェルナンド倉庫の壁にこう書き残し、昭和19年12月6日16時40分、高千穂空挺隊第一波降下部隊470名は挺進飛行隊36機に分乗してルソン島クラーク飛行場を飛び立ちました。
続いて煙幕構成任務の第5飛行團重爆13機とタクロバン・ドラグ攻撃機4機が離陸。
編隊はバゴロド上空で護衛戦闘機30機と合流し、一路レイテ島を目指します。

待望の時機到来。勇躍進発。御下賜の御酒にて乾杯。目的達成を祈って(搭乗者に遺留品出せの指示あり、印鑑を出した記憶あり。台湾で財布を空にして、「三途の川を渡る渡し銭もない」と笑わせた戦友がおったが、その戦友も戦死)。
第2編成2番機(1238号)操縦。
機関係に泉田君とただ2人(完全武装の落下者10数名搭乗。重く離陸に大へん苦労する)、離陸後第2編隊長機(吉岡准尉)故障か編隊中に組めず。ついに長機離脱。
その為長機となり南下。前上方、後方に戦闘機護衛、正に勇そう。

挺進飛行戦隊 渡部一郎軍曹の日記より

ブラウエン攻撃隊の先頭を行くのは煙幕を展開する第5飛行団第95戦隊の重爆7機、その後を同74戦隊の6機が進み、3分航程遅れて空挺隊員を乗せた霧島隊(挺進飛行隊)が続きました。

日没が迫り、護衛戦闘機は基地へ帰還。中古機を寄せ集めた編隊は、一路レイテ島を目指します。
18時過ぎにいったんレイテ島沿岸を通過した編隊は、スリガオ海峡上空でレイテへ向け反転。
二手に分かれてブラウエンへの突入を開始しました。
この時、日本機大編隊襲来の報により、米軍は迎撃態勢を整えつつあったのです。

18時30分、ブラウエン上空に日本軍の大編隊が出現しました。
先行の第5飛行団13機は攻撃高度3000メートル、速度270㎞/hで目標上空へ侵入。
煙幕展開部隊は大した抵抗も受けず、飛行場風上地点への煙幕弾投下に成功しました。
続いて300メートルまで高度を下げた挺進飛行隊が目標上空へ到達。
しかし、待ち構えていた米軍は地上及び艦艇群からの猛烈な対空砲火で迎え撃ちました。
せっかくの煙幕も役には立たず、集中射撃を浴びた挺進飛行隊は次々と撃墜されていきます。

レイテ島西側を飛び南端より迂回進入、南端岬旋回中、早や対空火器の射撃を浴びる。曳光弾眼前を飛ぶ。
海岸線に沿って目的地に向かって北方。湾内の敵艦も我等を発見。くれゆく海上より火を吐く。
進攻線に沿って炸裂する黒煙をみる。唯一心に正しい編隊を保つ。間もなく地上よりの対空火器そう烈、前後左右より飛来、曳光弾の光美しい位。又その為僚我よく見える。
その中を飛ぶ飛ぶ。敵弾何ものぞ。

挺進飛行第1戦隊 渡部一郎軍曹の日記より

ブラウエンへ向かう編隊からスリガオ海峡上空で別れ、レイテ湾を目指す輸送機の一群がありました。
タクロバン飛行場へ向かう第95戦隊2機とドラグ飛行場へ向かう第74戦隊2機、挺進飛行隊9機の計13機です。
ブラウエン攻撃隊パイロットが最後に見たのは、米艦隊からの猛射に晒されながら飛んでゆく13機の姿。
彼等は1機も戻ってきませんでした。

タクロバン攻撃隊の大部分は突入前にレイテ湾上空で撃墜されます。1機のみが目標に到達し、駐機中の米軍機5機を巻き込んで墜落炎上。
ドラグ攻撃隊も、目標到達前に全機撃墜されたと推定されています。
生き残ったのは、撃墜されて海上漂流中に捕虜となったパイロット1名と空挺隊員3名のみ。タクロバンの捕虜収容所へ送られた彼等は、攻撃目標が無傷なのを知って落胆します。
米軍無線を傍受していた日本側も、「タクロバン方面の敵に多少の動揺があったらしい」ことしか聴き取れませんでした。

いっぽう、ブラウエン北・南及びサンパブロ攻撃隊は、18時50分に高度300メートルから一斉に降下を開始しました。

全員降下まではどうしても被弾なきよう祈る。やがて長機からの第一降下を合図に続々と降下。1人1人の降下が操縦桿にひびく。地上まで無事であれ。
降下後の対空砲愈々凄烈となる。我が機にも被弾数發。
その度毎に、発動機か、操縦系統でないか、瞬時に点検。第1編隊の三番機(新山准尉)に次いで2番機(山下中尉)も離脱する。被弾らし。無事不時着水を祈って、戦場を脱す。
完全に戦場を脱して水筒の水、存分に飲み機関の泉田君と目的達成を喜びあう。
リパ飛行場に着陸。中隊長(河合大尉)に状況報告。
帰った戦友とそのそう烈さを語り合う。
ひと休み。
再度明早朝攻撃の命出る。

渡部一郎軍曹

白井隊は、夜通しかがり火を焚いて第16師団の突入と後続部隊の到着を待ちました。
しかし、第一波降下隊の輸送機39機のうち、帰還できたのは僅か17機。
挺進飛行隊はルソン島のクラーク飛行場、第5飛行団の第74戦隊は同じくデルカルメン飛行場へ、第95戦隊はレイテ島上空を旋回してミンダナオ島のカガヤンへ着陸します。

帰還機はいずれも被弾損傷機多数であり、後続降下部隊の出撃は不可能でした。
同日23時、何とか応急修理を済ませた挺進飛行隊の4機と支援の重爆2機は、第2次降下部隊を載せてリパを飛び立ちます。
しかし、村川機が離陸直後失速して墜落。他機も雨雲に阻まれて引き返しました。

暗夜の中を離陸、払暁を期すも天候不良の為引返すの止むなく、アンヘレスに着陸。
未だ帰還せざるもの3機―山下機、吉岡機、新山機―。
村川機(永井准尉、山崎曹長)第2撃離陸直後、墜落炎上するを編隊構成中に見る。

渡部一郎軍曹

レイテ上空に達した1機からは空挺隊員が制止を振り切って降下、そのまま全員が行方不明に。
続いて修理を終えた4機も降下チームを載せて離陸していますが、こちらも悪天候で引き返す途中に鈴木機以外の3機が墜落。
遂に、第2波の降下は中止となりました。

高千穂空挺隊の支援にあたった第5飛行團の13機も、大きな損害を蒙ります。
74戦隊の中田編隊3機は花岡中尉からの「天候不良の為不時着す」の連絡を最後にマニラ湾へ不時着し、生存者は井森・須藤軍曹の2名のみ。
内田編隊の3機は翌7日深夜2時30分に空挺部隊の支援爆撃へ再出撃するも、天候不良により現在位置をロスト。
マニラやクラークの方向探知機へ呼びかけるも通信状態が悪く、「ビラリン島に不時着す」と発信して消息を絶ちました。
ビラリン島へ降りた本間准尉機はすぐ救出され、ミンドロ島へ不時着した7名中内田大尉以下4名も12月30日に奇跡の生還を遂げます。
ただ、足を怪我してボートでの脱出を選んだ小松原曹長はそのまま行方不明に。市川・中山の両曹長はゲリラとの交戦で命を落としました。

95戦隊もデルモンテから空挺部隊の支援爆撃へ再出撃。山本大尉率いる4機はタクロバン飛行場を爆撃して帰還します。
マバラカットから再出撃した丸山大尉率いる3機は、うち1機が離陸直後に墜落して搭載爆弾が誘爆。
搭乗員の大部分は脱出したものの、失神して機内にとり残された神宮秀信軍曹が爆死します。
丸山大尉らも天候不良により攻撃を中止して引返しました。
第5飛行團は強行着陸機4機と支援の重爆6機を失い、25名の飛行士が戦死または行方不明となっています。

【オルモック降下作戦】
落下傘
演習中の挺進飛行戦隊 川南町空挺慰霊祭にて

ブラウエン降下作戦の翌7日、米軍はレイテ島西のオルモック湾から上陸を開始しました。
これによりテ號作戦は中断となり、出撃待機中の高千穂第三次降下部隊はこの防御支援に回されます。
しかし前日の作戦で大損害を蒙った為、飛行機が足りません。斉田少佐率いる挺進第4聯隊481名は12月8~14日にかけて6回に分かれパレンシアへ降下しました。

12月8日 
オルモック方面に敵上陸せる為に増兵を要し、薄暮を以て攻撃に出發。成功帰還する。
途中天候不良、再三雲中に入り長機を見失う。疲労のためか。
搭乗者 竹内曹長、渡部、江副軍曹(機関)
12月9日
次の攻撃は明夜明けを期して、ゆっくりと休息する。
12月10日
1320号に搭乗、地上滑走にて車輪を側溝に落とし離陸遅れる。単機にて離陸、心配し乍ら本隊を追う。幸いレイテ島北方にて発見、編隊に入り、18時過攻撃に成功。
レイテ島上空に敵機あり。そろそろ敵機も活発に動いているらし。
操縦 渡部、黒石伍長、機関 福森准尉
12月11日
第1中隊應援、2番機操縦、相当に天候悪し。
暮れゆくレイテ島に侵入、オルモックに降下成功。ネグロス島シライに着陸、一泊する。
12月12日
早朝シライ飛行場離陸し、アンヘレスに帰還する。ひと休み後、再度第1中隊機にて出勤。
14時半離陸、もうれつな低空にてレイテに進入。島上空に敵機を見る。発見されれば強行着陸と決するも発見されず。無事落下完了。
海上すれすれに飛び帰還。
操縦 渡部、機関 鬼頭曹長
中隊長機未だ帰らず。
12月13日
3時30分離陸、処々薄き雲あり。5時少し前利鎌の如き月出る。レイテ島上層雲なし、快晴、低空にて進入、山あいに霧あり、オルモックも。
その上から降下。白雲上に出て帰還。昨日出発したる中隊長機未だ還らず。
宿舎にて、寝不足の筈なれど、午前も中食後も中々寝つかれず、ごろりとなって、身体も相当に疲労して来たようだ。
今朝の2時過ぎの起床つらし。又、体も何となくだるし。色々と給養のことには心がけているんだが、衛生兵を呼んで栄養剤の注射を行う。
又明朝から働こう、働こう。体どこまでつづくか。
12月14日
昨日同様2時起床して朝食、飛行場へ。3時半離陸し雲上を飛びレイテ島オルモック飛行場を攻撃。
昨日重爆が敵の夜間戦闘機に再度出合ったの話あり。充分警戒して飛ぶ。
上空薄明るく星輝いて美しい。夜明けの空も、ここでは実に不気味だ。
変った星野きらめきにも注意せねばならぬ。2つ並んだ星にもひやりさせられる。帰りは低空、雲下を飛ぶ。
ルソン島見え始め、操縦交代し副席に居れば、疲労のためか、ついトロリ。
マニラ市を斜前方に見る頃、市上空に敵戦闘機群を発見。「これは!!」と想い超低空に高度をさげて山の蔭を利用して飛ぶ。編隊を分解して単縦順に。アンヘレス着陸を避けて、リンガイン飛行場に着陸。ひと休みした頃空襲され乗っていた飛行機再三の銃撃により炎上する。
スマトラのサバン島での空襲、台湾義嘉にての空襲、敵も中々やってくれる。
操縦桿に掛けておいた御守り、我が身に代ってか……。
中食して宿舎にて休息、海岸ゆえ波の音も敵機の爆音に聞える始末。夕刻まで7、8回空襲あり。
18時過に残った1機に搭乗して離陸。この飛行機も合計30数發の弾痕あり。飛行中クラーク地域にも未だ空襲。敵執拗にねばっている。
発見されたら最後だと思う。超低空にて飛びようよう基地アンヘレスに着陸する。
宿舎にも数發の弾痕あり。掛けていた両外波の頚根にも手ぬぐいにも被弾している有様。

挺進飛行隊 渡部軍曹の日記より

オルモックは味方勢力圏への降下だったものの、米軍機との遭遇は避けられませんでした。
12日には降下を終えた輸送機4機が敵機の攻撃を受け、全機撃墜されています。
輸送機の不足により、オルモック降下作戦も14日で打ち切られました。

【バゴロド空輸作戦】


レイテの敗北が決定的となった頃、もうひとつの空挺作戦がおこなわれました。
13日にネグロス島近海に敵船団が出現したため、第4航空軍は警備の手薄なバゴロド地区へ高千穂隊残余500名の空輸を命じたのです(こちらは降下作戦ではありませんでした)。
挺進飛行戦隊は残存機体をフル活用して高千穂空挺隊を空輸しました。
17日に5機、18日に3機で本村大尉率いる挺進第3聯隊がネグロス島シライ飛行場へ向かいます。しかし、途中で2機が撃墜された為に僅か2回でバゴロド空輸作戦も中止されました。

12月16日
快晴、終日空襲さる。
疲労つのったか、左胸部の肋骨へんが痛む。神経痛か。
バコロド地区へ行けの命あるも、途中天候不良とのことで中止さる。
灯を消し早く休む。
12月17日 曇
昨夜より敵機の来襲なし。時々自動車、友軍機の爆音に驚かされる。朝から防空ごうつくり。そよ風吹き涼し。
雲出で小雨降るも程なく止む。
バコロド地区への空輸、小野大尉副席の長機操縦し、1中隊機に乗るも、途中右発動機息をつき不調の為引きかへす。
夕刻台湾からの補給機が大群雲間よりあらわる。心強し。
12月18日
MC輸送機5機、97式重爆撃機1機を以て、ルソン島アンヘレス飛行場離陸。18時40分ネグロス島シライ飛行場に着陸。途中、西沢中尉搭乗機2帰、ビサヤン海に不時着した模様なるも詳細不明。
飛行場着陸は本村大尉機及堺中尉機のみ(挺進飛行隊記録)

午前中宿舎にてゆっくりと休務。何処へ移動するのか〇砲隊の自動車が列を成して通る。昼食後飛行場に出る。
1中隊機にてバコロド地区に向う。海岸線に沿って低空飛行、暗れゆくネグロス島に着く。
丁度シライ飛行場附近にて警報入り、びっくり。急旋回、高度をさげる。狭い飛行場乍らもきれいに着陸。
宿舎への自動車の便悪く、ついに飛行機の中に寝る。
12月19日
MC輸送機3機を以て、挺3本部及重火器中隊の一部搭乗、アンヘレス飛行場発進、19時飛行場着陸、即日仝島バゴロード市河野兵団(102旅団)の指揮下に入り、仝隷下部隊山口部隊に配属せられる(挺進飛行隊記録)
3時起床、少しも熟睡できず。天候あまり良好ならず。帰りは1機となる。
昨日3番機、リパに不時着。今朝は2番機発動機不調のため離陸不能。
離陸後間もなく雲の中に入る。高度3千近くまで。ここへ来ても未だ暗し。
夜間灯に依って着陸。ひる飯も忘れて寝る。小野大尉の指揮で、1中隊機に搭乗、リパへ飛行機受領に行く命あり、準備したるところリパ上空に敵戦闘機あるの報で中止。
夜そよ風吹き氣持ち良し。加給品の葡萄酒飲む。みかんの缶詰も又うまし。

挺進飛行隊 渡部軍曹の日記より

この作戦でネグロス島へ空輸できたのは本村大尉以下60名のみ。
後続部隊の投入中止により、本村隊は置き去り同然でバゴロド防衛にあたりました。

【第1挺進集団の創設】

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西筑波飛行場にて、滑空飛行戦隊のクー8グライダーで地上展開する第1挺進機関砲隊。
同部隊はルソンの戦いで全滅に近い損害を蒙ります。川南空挺慰霊祭にて

ボクは空をとんだ
バスのようなグライダァでとんだ
ボクのからだが空をとんだ
枯草や鶏小屋や半鐘がちいさくちいさく見える高いところをとんだ
川や林や畑の上をとんだ
あの白い烟は軽便だ
ボクは空をとんだ
思いがけないところに、富士山が現れた。グッと廻ったかと思ったら、霧の中から、筑波山が湧いてきた。
飛行機のロープを切った。高度八百米。
夜、演芸会。演芸会にはいつも出る。わい談長講一席。酒が上って、いささか呑んだので、きげんもよい。

挺進第5聯隊 竹内浩三兵長「筑波日記」より

米軍が上陸したフィリピンには、陸軍空挺部隊が続々と投入されました。
高千穂空挺隊に続いて出撃したのは、「第1挺進集団」。
こちらは落下傘降下部隊ではなく、挺進第5聯隊を茨城県の西筑波飛行場で再編成した滑空歩兵部隊を中核としていました。

昭和19年11月、陸軍落下傘部隊を育て上げた挺進練習部は解散。
11月21日、第1挺進團、第2挺進團、挺進飛行団、滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、挺進整備隊、挺進戦車隊を傘下に置く、「第1挺進集団」へ再編されます。

しかし、日本初のグライダー空挺部隊はその特殊能力を発揮することなく消耗していきました。

第2挺進團の高千穂空挺隊に続き、挺進第1集団の各部隊もフィリピンへ向けて出撃します。
昭和19年11月27日、第1挺進機関砲隊、滑空歩兵第1聯隊、第2聯隊、滑空飛行第1戦隊が筑波で
第1挺進工兵隊、第1挺進通信隊、第1挺進飛行團司令部、第1挺進飛行團通信隊が川南で動員編成を開始。
これらの司令部として第1挺進集団は設置され、集団長には塚田理喜智少将が着任しました。

全部隊の動員が完結した翌日のこと。
12月6日、挺進集団司令部に「高千穂空挺隊がレイテへ降下した」とのニュースが飛び込んできました。
7日にはオルモックへの米軍上陸が伝えられ、塚田中将も比島作戦への参加を急ぎます。
しかし輸送機やグライダーの不足により、重武装の挺進戦車隊は内地への残留が決定。第1挺進団も国内で戦力温存となります。
既にフィリピンで戦っている第2挺進團の後を追って、第1挺進集団は門司港と宇治港へ集結しました。

第1挺進飛行團司令部要員は新田原から空路で移動しましたが、滑空飛行第1戦隊の先発チームは空母雲龍に搭乗。
12月17日、ルソン島を目指し宇治を出港します。

しかし、台湾沖を航行中の19日16時半、米潜水艦レッドフィッシュから放たれた魚雷が雲龍に命中。
積載していた特攻兵器の誘爆によって雲龍は沈没し、空挺隊員らは冬の海へと投げ出されます。救助された滑空飛行第1戦隊パイロットは鄭中尉ら僅か3名のみ。残りの飛行士は海へと沈みました。
台湾で生存者と合流した後続チームは、損害の大きさに作戦継続を断念。そのまま西筑波へUターンしていきました。

せっかく育て上げた滑空歩兵も、パイロットとグライダー無しに空挺作戦は出来ません。
日本陸軍の誇るグライダー空挺部隊は、地上部隊としてレイテ島防衛にあたりました。

【アスリート飛行場突入命令】
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義烈空挺隊は熊本県の健軍飛行場から出撃しました。
残念ながら、健軍飛行場を偲ばせる遺構は残っていません。最近まで保存されていた無蓋掩体壕も2012年に撤去され、現在は更地状態。
史跡が消えた空地には、「ここは史跡保護のため、関係者以外の立入を禁止します」の看板だけが残っています。

昭和19年末、米軍による本土空襲は激しさを増していました。
B29爆撃機の出撃拠点となったアスリート飛行場を叩くため、軍部はサイパンへの空挺作戦を計画します。

昭和19年11月27日。
教導航空司令官から宮崎県川南の第1挺進集団司令部に対し「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されました。
第2挺進団がフィリピン出撃中のため、サイパン特攻部隊として選ばれたのが第1挺進団挺進第1聯隊第4中隊。

第4中隊の奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
12月5日に川南を発ち、8日には埼玉県豊岡へ到着しました。
挺進飛行隊がフィリピンへ展開中のため、奥山隊の空輸は第3独立飛行隊が担当となります。
10日、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流。
総勢168名となった部隊は、12月17日に「義烈空挺隊」と命名されました。

もともと、第3独立飛行隊はサイパン爆撃のため編成された専門部隊でした。
ただし、経験不足の若手飛行士が多い上、燃料不足で充分な訓練もままならない状態。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。

―ただ飛行機はなんだかずいぶんボロボロだったようですね。
和田
あれはですね、だいたい浜松に置いときました飛行機で、それで雨ざらにになっとったわけなんです。それでエンジンだけを取りかえまして、どうせ沖縄とかサイパンへいけばですね、帰らない飛行だと。
だからりっぱな飛行機に載って行くのは、もったいないと。一機でもですね、戦力になるようなものは、置いとかなきゃあならん、ということで、ボロ飛行機といわれると語弊があるんですけども、そういう飛行機を用いたわけなんですよ。
三國一朗「証言 私の昭和史」より 和田伍朗氏の証言

このような状態で浜松飛行場を飛び立ってから1200キロ先の硫黄島(秘匿名つばめ)で途中給油し、そこから先の1200キロは海面すれすれの夜間低空飛行でサイパン(秘匿名とび)を目指し、レーダーと対空砲火を潜り抜けて深夜の敵飛行場へ着陸するのです。

第3独立飛行隊のパイロットたちは、サイパン着陸後に奥山隊と行動を共にする予定でした。
しかし、飛行士たちにとって地上で戦うなど納得できる訳がありません。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で「B29を奪って帰還する」という案も出されたそうです。
荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。

初顔合わせを終えた三者は、出撃に向けた準備を開始します。
しかし、義烈空挺隊の編成から作戦予定日までの時間はあまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。

結局、技量不足を理由にクリスマスの出撃は延期となり、豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。
1月10日の再演習でも飛行隊の技倆不足は改善されておらず、途中給油地の硫黄島も状況が逼迫。
13日、浜松へ移動した奥山隊は諏訪部隊と合流したものの、27日になってサイパン特攻は中止となりました。

義烈空挺隊に与えられた新たな攻撃目標は、米軍に占拠された硫黄島の千鳥飛行場。
故障したB29の緊急着陸先となっていた硫黄島へ突入し、使用不能にしようというものでした。
しかし、諏訪部編隊長は“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていました。

硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。


3月12日の夜、奥山隊は土浦に到着。
11日に西筑波飛行場へ集結していた諏訪部隊と合流し、連合訓練を経て出撃に備えました。
しかし、日本軍守備隊玉砕により硫黄島突入作戦も中止となります。

出撃延期が繰り返される中、飛行士たちの心境はどのようなものだったのか。
義烈空挺隊パイロット、長谷川道明曹長の家族の証言があります。

―結婚の式をおあげになって、すぐ飛びたっていらしたわけなんですか。
長谷川
いいえ。その当時はまだ主人は立川の輸送隊におりまして、それが輸送隊は第一、第二、第三飛行隊と分れていまして、で、第二飛行隊の方へ所属していまして、群馬県の太田の飛行場の方へ配属されました。
―いま和田さんからも、小柳さんからも義烈空挺隊隊員は悲壮な任務を受けて、しかも毎日訓練を激しくやっていながら、非常に表情は明るかったということを伺ったんですが、奥さまがお感じになったところでは、いかがでしたか。
長谷川
私は最後、浜松の基地で別れたんですけれども、ちょうど一か月、操縦士にだけ妻帯が許されまして、それで私、一緒にずっと暮らしておりましたんですけれども、毎日毎日出撃を待っておりまして、毎日が別れでございました。
朝出るときには、ご無事を祈りますとお別れして、夕方また今日も出撃できなかったって残念な顔をして帰ってくるような始末で、それがずうっと連続で、ちょうど一か月になりましたから、最後のほんとうのお別れのときにも、また戻ってくるんじゃあないかなあっていう気持ちで……。
で、主人も義烈作戦部隊ですから、絶対に妻にも親にも、自分の出撃の日すら申しませんし……。
―じゃあ、どういう作戦かということも、もちろん知っていらっしゃらなかった……。
長谷川
はい。詳しくは全然聞いておりません。

三國一朗「証言 私の昭和史」より 

続いて命じられたのは、沖縄への突入作戦。
米軍に奪取された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場を義烈空挺隊が制圧し、米軍の迎撃機を足止めしている間に特攻機が米艦隊へ突入する作戦でした。

5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入ります。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着。
義烈空挺隊は、出撃までの僅かな日々を合同訓練に費やします。この頃になると、猛訓練の成果とパイロットの入れ替えによって諏訪部隊の技量も大幅に向上していました。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部編隊長はそれを断ったと伝えられています。

義烈空挺隊が健軍へ移動して2週間後。
出撃日の5月23日がやって来ます。しかし、先行の爆撃隊からは「現地天候不良」の報告が入り、海軍も総攻撃を一日繰り延べにすると決定。
健軍飛行場で出撃準備を整えていた義烈空挺隊は、兵舎へと引き上げました。

翌5月24日。
先行の爆撃隊より「現地天候良好」の報告が入り、出撃は決定されました。
義烈空挺隊168名は再び健軍飛行場に集結します。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は次々と飛び立って行きました。

18時50分。
奥山隊長の号令の下、義烈空挺隊は12機の97式重爆に分乗して健軍飛行場を離陸していきました。
しかし9番機はエンジンが不調で、渡部大尉らは予備機に乗り換えて出撃。
10番機も出力が足りず、熊倉隊は渡部隊が乗り捨てていった機体に乗込みます。
整備員は離陸を反対しましたが、熊倉隊はエンジン不調機で1時間遅れて飛び立ちました。

やがて基地をゆるがす轟々たる発動機の爆音砂塵が飛行場に渦巻いた。一番機に登場した奥山隊長が天蓋をあけて手を振つてゐる。ロイド眼鏡の底に光る眼を細くして、微笑んでゐるやうだ。
輸送隊長諏訪部忠一大尉も天蓋をあけて、日の丸を大きく振つてゐる。
基地界隈の古老から贈られたといふ両隊長の腰の短刀が、天空に浮き出てくつきり見える。二番機、三番機、四番機……。
全機が列線上に並んだと見るや滑走、離陸。ついで起る萬歳の怒涛、滑走路を挟んで並んだ部隊長も将校も整備員も、日の丸を振り、手を振つてこの壮途を見送る中を、全機は翼を接して離陸し、見事な編隊を沖縄の空目指して没して行つた。

「燦たり義烈空挺部隊」より 昭和20年

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飛行訓練中の諏訪部隊機

12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に5、8、10、11番機がエンジン不調や航法ミスにより脱落。
これら4機は九州へ反転しました。

渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。
この10番機は何とか九州へ辿り着き、運よく隅の庄飛行場附近へ不時着しました(パイロット1名が重傷)。
その他の3機は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着します。

八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職しています。

義号部隊を送り出した健軍基地では、突入の報告を待ち続けました。
しかし、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線は一向に入りません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今到着」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。

同時刻、飛行第60戦隊の杉森大尉機(四式重爆・乗員7名)が伊江島方向から沖縄上空へ侵入。
残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下しました。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。

22時25分、着陸体勢に入った6機の赤信号を戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。

この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。

日本側は「北飛行場と中飛行場へ突入した義烈空挺隊は、引続き奮戦中」と報道。
しかし、米軍側の記録では「突入機の大部分が撃墜され、北飛行場へ1機のみが着陸成功」とされています。
この1機のために多数の米軍機が破壊され、北飛行場は大混乱に陥りました。しかし、米軍と交戦した義烈空挺隊員はその夜のうちに全滅。
本来の目的であった航空特攻も、梅雨時の悪天候に阻まれて戦果を挙げるには至りませんでした。
沖縄へ突入した義烈空挺隊、8機112名の中に生還者はいません。

そして、作戦終了後にも7名の義烈空挺隊員が戦死しています。
エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機。その搭乗員に沖縄への物資投下任務が命じられたのは、不時着から4日後のことでした。

山本金保曹長ら7名の不時着機パイロット達は、5月28日と6月3日に沖縄へ向け飛び立ちます。
そして、二度と還ってきませんでした。



義烈空挺隊の突入後、川南に残されたのは挺進第2聯隊と挺進整備隊のみとなりました。
フィリピンへ赴いた挺進飛行戦隊のうち、新田原に戻ってきたのは僅か2機のみ。
挺進飛行戦隊は北朝鮮の連浦飛行場へと移動。西筑波で空襲に晒されていた滑空飛行戦隊も同じく北朝鮮へ向かい、戦力再建へ取組みます。

昭和20年2月17日未明、在比島の戦友と別れて台湾に飛び、嘉義に於て前任者新原戦隊長よりバトンを受け継いだ時は、飛行機僅かに3機、レイテ作戦に続く比島台湾南の輸送業務に流石偉容を誇った航空機も惨憺たる有様。
而も嘉義を発って基地新田原に降り立った時は、途中基隆上空で1機を失った為、遂に2機人員18名という淋しさ。
其の後海路搬還せるもの百余名を合しても僅かに百20名足らず。
是が挺飛1戦の状態で、本来の作戦任務に就くことは到底不可能の為体。
そこで、先ず人員器材の整備、教育訓練をやらねばならず、といって部隊は此の有様。而も敵機は頻々と新田原付近に出没、遂に兵営は空襲の犠牲となって炎上焼失せる為、佐土原の小学校舎に居たり、飛行場裏の谷間に穴居したり……。毎日空を眺めては複雑極まる気持で過ごすこと月余。
かかる状態では到底態勢の立ち直りは不可能なので、当時比較的平穏であった朝鮮連浦に移動して、そこで専心教育訓練することになり、4月25日新田原出發、連浦飛行場に転進す。
次で5月中旬、挺進2戦を併せ僅かの飛行機と少数の基幹人員を日夜連続訓練に励む。
この間、MC機の製造会社工場の移転等の為、月産零の時もあり、1機出来れば直ちに之が受領の為人員を派遣するも、1週間乃至10日余も整備して初めて跳べるという代物。
一方各地よりMCというMCを片っ端よりかき集めて漸く40機を整へて戦隊らしい態勢が出来上り、訓練亦漸く軌道に乗り、往年の挺飛戦の面目に近づく。
この頃、南方方面への輸送の為、航空輸送部に飛行機材20機を貸与せよとの命あり、1時訓練に支障を来したが、然し将兵一同の涙ぐましい努力によって訓練整備共に進捗し、何時作戦任務を受くるも直ちに応じ得る状態になる。

空挺同志会資料より

第1挺進團では空挺作戦能力を維持するため、挺進飛行戦隊や滑空飛行戦隊の戦力回復に期待していました。但し、川南防衛部隊への航空機配備は不可能。
乏しい戦力の中でたてられた、唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。

第一挺進団唐瀬原飛行場防御計画

一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため、所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す

三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長 挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、対空挺部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊
4、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。


【剣作戦始動】

千葉県横芝で待機を続けていた挺進第1聯隊に、再びサイパン特攻が命じられたのは初夏を迎えた頃のこと。
これが、陸軍落下傘部隊最後となる空挺作戦のはじまりでした。

剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。

海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」 
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり

「烈作戦」 
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり(「特攻」より)」


剣作戦参加部隊は、義烈空挺隊と同じく敵飛行場への着陸強襲を計画しています。
しかし、実戦経験のある海軍横須賀鎮守府特別陸戦隊はサイパン陥落時に全滅。
この特攻作戦に際し、海軍空挺部隊は地上戦闘の指導を陸軍空挺部隊に要請しました。

陸軍空挺部隊にはB29の破壊訓練を積んだ義烈空挺隊員の不時着組が吸収されていたので「元義烈空挺隊員の中には、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった者もいた」との証言もあります。
こうして、海軍の空挺作戦は陸軍空挺部隊との協同作戦へと変更されました。

義烈空挺隊が果たせなかったサイパン特攻は、こうして再び挺進第1聯隊に命じられたのです。
サイパン特攻を命じられた山田聯隊長は、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」を編成しました。

海軍攻撃部隊 
指揮官 平田海軍少佐
グァム島攻撃隊 平田海軍少佐以下300名

陸軍攻撃部隊
指揮官 園田陸軍大尉
サイパン・アスリート飛行場攻撃部隊 大屋稔大尉以下、第2中隊の136名
テニアン飛行場攻撃部隊 山本章大尉以下、第1中隊の150名


園田隊305名は、空襲を避けるため千歳に移動して訓練を開始。
陸軍園田隊が参加後、作戦内容は下記のように変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。

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パラシュート降下演習にて、九六式輸送機に搭乗する海軍落下傘部隊。
剣作戦はこのような落下傘降下ではなく、着陸強襲となる計画でした。

【烈号作戦】
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ドイツ軍は超大型グライダーMe 321ギガントを運用しており、更に自力飛行が可能なMe 323へ発展させました。
日本軍も大型グライダー「ク‐7」を開発していましたが、終戦までに試作機2機が完成したのみ。挺進戦車隊は軽車両で戦うしかありませんでした。

剣作戦とは別に、挺進第2聯隊・挺進戦車隊・滑空飛行戦隊の混成48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」も計画されていました。

挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
6月中旬頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
歩兵中隊
でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。

剣号作戦と同時に準備を命ぜられたのは烈号作戦である。それは挺進戦車隊待望の滑空機による37粍砲装備の軽装甲車及12糎迫撃砲を以てする沖縄北飛行場への急襲作戦である。
挺進戦車隊は田中賢一少佐を隊長とする滑空機による挺進部隊である。
西筑波に於ける古林少佐等の懸命の努力にも拘らず、実働滑空機の整備が遅々として進まず、その間に次々と落下傘部隊、そして滑空諸部隊を南方に送りながら、一日千秋で時機到来を待ったのである。

滑空飛行戦隊は7月20日迄に滑空機20機、曳航機20機の到達目標であった。
ともすると焦燥感の若者を指導する田中少佐の苦心も並大抵ではなかった。
挺進後の歩戦一体を強調し、歩兵中隊の充実を期したのも隊長自ら指導する幹部の落下傘訓練の実施などは、その鎮撫策の一つであった。


烈號部隊を空輸する滑空飛行戦隊は、西筑波空襲を避けて北朝鮮の宣徳飛行場へ退避中。
その一部から沖縄特攻に選ばれたパイロットは、福生飛行場(現在の在日米軍横田基地)へ再移動しました。
しかしグライダーの配備が遅れた為、烈號作戦の決行予定は8月20日頃となります。

この部隊を代表して第1陣として烈号作戦要員に選ばれたのが、広田敏夫大尉以下20名であり、東京近郊福生飛行場に転進したのが8月1日であった。
そして義烈空挺隊を偲びながら、沖縄北飛行場への急襲を準備したのであった。


広田敏夫大尉ら烈号部隊員は、曳航機およびクー8滑空機20機編隊で沖縄へ夜間着陸。そこから読谷飛行場へ突入し、機関砲と迫撃砲を搭載した軽装甲車で米軍機を破壊して回る訓練を行います。
しかし、訓練開始直後にとんでもないトラブルが発生しました。

沖縄特攻を真近かにして、敵飛行場に滑空機で強行着陸をして、敵機爆砕のために走り廻る四輪駆動車の操縦訓練や二十ミリ機関砲の射撃訓練をしていた。
機関砲の扱いにも習熟し、夢中になって標的に向かって射撃していたところ、突然砲声が鳴り止んだ。
はて故障かと砲身を見ると何と砲身の先端が二十糎程真っ赤になって垂れ下がっているではないか。それは飛行機に搭載して高高度で射撃する云わば空冷の機関砲を無謀にも炎暑の地上で連続発射したのが原因であった。
この報告を受けた部隊幹部は愕然とした。予定していた沖縄の敵飛行場では全く役に立たないということだからである。

滑空飛行第1戦隊 石津正昌夫少尉 「国破山河在」より

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月明かりを頼りに太平洋の真ん中へ夜間飛行で辿り着き、厳重な防空網を突破し、敵の飛行場へ果して何機が着陸できたのか。
義烈空挺隊の諏訪部編隊長がサイパン出撃計画で漏らしたように「上手くいって半分、下手するとゼロ」だったかもしれません。
沖縄へのグライダー攻撃も、義烈空挺隊と同じ結果に終わったことでしょう。

7月14日に予定されていたサイパン特攻作戦は、必死で集めた輸送機を空襲で失って延期となります。

かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である。
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より

しかし、剣部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

【飛行隊の最期】

日本が敗北した日のこと。
川南の挺進團司令部では「重大放送あり」との連絡を受けて挺進神社前に拡声器3台を設置、玉音放送に備えました。
しかし、電波妨害のせいで受信状態が悪かった為に放送内容は殆んど聴き取れず、中村挺進団長も「ソ連の参戦があっても我に神州不滅の信念さえあれば、そしてこの挺進神社の英霊に続かんとする意志変らざる限り必ず勝つ!」と訓示してその場は解散となります。

玉音放送の真意を知った各部隊では、大混乱が始まります。
徹底抗戦を叫ぶ者、責任を取って自決を図る者、軍需物資を奪って姿を消す者、故郷を目指す者、ただ呆然と立ちすくむ者。
滑空挺進隊の山本春一少佐から停戦受諾との電話連絡を受けた中村団長の元に、「第1挺進団長は速やかに総軍司令部に出頭すべし」との航空総軍指令が届いたのは22時過ぎのこと。
唐瀬原飛行場を飛び立った中村団長は、東京で敗戦処理の命令を受けます。

横芝の挺進第1聯隊の元へ出向いた中村挺進団長は、翌日には沖縄特攻に備えていた烈號部隊を慰撫するため福生飛行場へ飛びます。
福生飛行場では戦争継続を叫ぶ軍用機が檄文を投下していきましたが、烈號部隊の大部分はそのまま解散。
苦労して揃えたグライダー群は、翌週の暴風雨で破壊されてしまいました。
各挺進部隊は解体され、施設・装備の廃棄と復員業務が始められました。

いっぽうで悲惨を極めたのは、北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行団です。
現地にいた挺進飛行隊と滑空飛行戦隊は状況の急変と共に南下を開始。しかし多数がソ連軍の捕虜となり、シベリアへ送られました。
また、内地にいた滑空飛行戦隊の塩田少尉が自ら命を絶つという悲劇も起きてしまいます。

8月9日、ソ聯の卑怯な参戦により北鮮も俄かに騒々しく、悲しむべく8月15日のあの日
当時、空中部隊(※挺進飛行隊)は新義州に、地上部隊は鉄路新義州に向け移動中。聯隊本部若干は連浦に在り。
地上部隊は新義州に到着するも、下車することなく直ちに先づ平壌に引返へし待機、空中部隊の大邱移動と共に平壌出發。
途中沙里院北偶にてソ軍に掴まり、1部は脱出して大邱に於て収容せるも少数の者は直路内地に向いたるものゝ如く。
一方、大邱に在りては輸送任務の為立川に向った1ケ中隊は内地航空兵団の命令を受けてそのまゝ立川に留まり、この間塩田少尉、米子飛行場に於て自刃……。

空挺同志会資料より

滑空飛行戦隊の塩田少尉は北朝鮮から立川飛行場へ向かったのですが、悪天候により鳥取の米子飛行場へ一時退避。
挺進団から孤立した状況で敗戦の報せに接したため、独り自決の道を選んでしまったのでした。

各個バラバラに朝鮮半島から撤退中、ソ連軍に遭遇した挺進飛行戦隊員の多くは収容所へ送られます。シベリアで重労働に従事させられた彼らのうち、祖国の土を踏めなかった者もいました。

飛行隊の主な犠牲者数は下記の通り

第1挺進飛行團司令部100名中、28名戦死。
第1挺進飛行團通信隊189名中、49名戦死。
挺進飛行第1及び第2戦隊440名中、71名戦死。
滑空飛行第1戦隊498名中、77名戦死。


誕生から4年半。
こうして、挺進飛行隊は無惨な終焉を迎えました。

(第11部へ続く)


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