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はじめに

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給水塔
帝国陸軍落下傘部隊・挺進第3聯隊兵舎の給水塔(唐瀬原にて)

日本陸軍落下傘部隊の訓練拠点であった宮崎県児湯郡川南町唐瀬原。
此処には、現在も空挺部隊兵舎の遺構が保存されています。
陸軍の精鋭・空の神兵と讃えられながら、その遺構が注目されたことはありません。
解体や撤去の危機を迎える度、地域の人々の努力によって守られ続けて来たのです。
それら川南の軍事史跡を調べる中で、数多くの記録に出会いました。

浜松陸軍飛行学校にて陸軍空挺部隊が誕生したのは、昭和15年のことです。
防諜上の理由で満州国白城子へ訓練地を移転したものの、一年の半分は雪に閉ざされる為に僅か3ヶ月程で日本へ帰還。
新たな拠点として選ばれたのが、気候温暖で飛行場と広大な降下場を確保できる宮崎県でした。
先ず陸軍新田原飛行場へ入った挺進練習部(空挺部隊)は近隣の川南村にあった軍馬補充部高鍋支部塩付分厩の牧場をパラシュート降下場へ転換。
更には唐瀬原飛行場を中心とする施設群を増設し、本格的な訓練拠点とします。
それまで軍馬の牧場しかなかった川南は、一転して巨大な空挺基地と化しました。
「軍都川南」において陸軍空挺部隊は5個聯隊に規模を拡大し
その中で5番目の連隊は茨城県西筑波へ移動して滑空歩兵2個聯隊へ再編されます。
以降、宮崎県のパラシュート降下部隊と茨城県のグライダー降下部隊に飛行隊や支援部隊を加えた陸軍空挺部隊群は、師団規模の第一挺進集団へと成長。
パレンバンやレイテの降下作戦から沖縄への悲惨な特攻作戦まで、様々な戦場へ投入されていきました。

日本陸軍空挺部隊は単体のパラシュート部隊と誤解されていますが、実際は様々な特別部隊の集合体です。
そのうえ浜松~白城子~新田原・川南・西筑波と移転・分散を続けていたので全体像を掴み難いのでしょう。
陸軍空挺部隊を構成する諸部隊と拠点は下記のとおり。

・挺進練習部(宮崎県川南):陸軍空挺部隊の司令部で、後に第一挺進集団司令部へ改編。
・第一挺進集團司令部(川南):挺進練習部を前身とし、陸軍空挺部隊を統括する司令部です。

・第一挺進團司令部(川南):第一挺進団は挺進第一連隊と挺進第二連隊を指揮します。
・挺進第一聯隊(川南):最古参のパラシュート部隊。
・挺進第二聯隊(川南):パレンバン降下作戦に投入されたパラシュート部隊。

・第二挺進團司令部(川南):第二挺進団は挺進第三連隊と挺進第四連隊を指揮します。
・挺進第三聯隊(川南):高千穂空挺隊としてレイテ島防衛に投入されたパラシュート部隊。
・挺進第四聯隊(川南):高千穂空挺隊としてレイテ島防衛に投入されたパラシュート部隊。

・滑空歩兵第一聯隊(茨城県西筑波):ルソン島防衛に投入されたグライダー部隊。海路移動中に撃沈され、主力は一度も戦わずに全滅。
・滑空歩兵第二聯隊(西筑波):ルソン島防衛に投入されたグライダー部隊。

・第一挺進機関砲隊(西筑波):ルソン島防衛に投入された防空部隊。
・第一挺進通信隊(川南):ルソン島防衛に投入された通信部隊。
・第一挺進工兵隊(川南):ルソン島防衛に投入された工兵部隊。
・第一挺進戦車隊(川南):戦闘車両を有する装甲部隊でしたが、出撃の機会なく宮崎で待機を続けました。
・第一挺進整備隊(川南):パラシュートの整備・管理を担当する部隊。

・第一挺進飛行團司令部(宮崎県新田原):挺進飛行隊を統括する司令部。
・第一挺進飛行團通信隊(新田原):挺進飛行團司令部の支援部隊。
・挺進飛行第一戦隊(新田原):落下傘兵を空輸する飛行隊。
・挺進飛行第二戦隊(新田原):落下傘兵を空輸する飛行隊。
・滑空飛行第一戦隊(西筑波):滑空歩兵を空輸するグライダー飛行隊。
・第百一飛行場中隊(新田原):挺進飛行戦隊の支援部隊。
・第百二飛行場中隊(新田原):挺進飛行戦隊の支援部隊。
・第百三飛行場中隊(西筑波):滑空飛行戦隊の支援部隊。

・高千穂空挺隊:レイテ島降下作戦に投入された第二挺進団の通称。
・義烈空挺隊:挺進第一連隊第四中隊から抽出され、沖縄へ特攻したコマンド中隊。
・第二剣作戦部隊:挺進第一連隊から抽出され、海軍空挺部隊と協同でサイパン特攻を計画していた2個中隊。
・烈號部隊:挺進戦車隊から抽出され、グライダーによる沖縄特攻を計画していた特殊戦闘車両隊。

・薫空挺隊:陸軍空挺部隊とは無関係の台湾義勇兵コマンド部隊。高千穂空挺隊に先んじてレイテへ突入するも失敗、全滅します。




創設から4年半。
昭和20年の敗戦によって、陸軍空挺部隊の活動は終わります。
その日から川南空挺基地は農地へと解放され、軍都川南は開拓の町として再出発したのでした。
灌漑施設の整備や土壌改良など、苦難の連続だった川南開拓。
この地に入植した者の中には、かつての「空の神兵」たちの姿もありました。
敗戦によって消える筈だった陸軍空挺部隊の記憶は
挺進神社焼討事件と川南護国神社の建設を経て、現代に至るも受け継がれているのです。

空挺
陸軍落下傘部隊のシンボルマーク。落下傘を簡略化した意匠となっています。

落下傘部隊関係の本やサイトは色々ありますよね。
ただ、書籍やネットで目にする空挺部隊の記事はどれもこれも戦場の勇ましい活躍が中心。
陸軍空挺部隊と川南開拓史の関わりというローカルな話題なんて、軍事研究家からはずっと無視されてきました。
戦史だけに注目していると、創設から戦後処理に到る「銃後の空挺部隊史」が在ったことを忘れてしまうのかもしれません。
その一方で、川南の記録を後世へ残そうという努力は地元の方々によって続けられています。
川南原開拓から軍馬補充部の移転、空挺部隊の進駐、米軍本土上陸の危機、空挺部隊解体と川南護国神社の建設、集団入植、そして口蹄疫による大打撃。
あのちいさな町は、明治時代から現代に至るまで幾度もの試練を乗り越えてきたのです。
そのことを忘れない為にも、当ブログではミリタリーではなく地域史としての陸軍落下傘部隊を取り上げました。

と、いう訳で
陸軍空挺部隊の軍事面について知りたい人には物足りない内容かもしれませんが、
数ある参考資料の中のひとつとして御覧になってくだされば幸いです。



宮崎の地理がよく分らない方のために、主要な軍事施設の配置図を載せておきますね。
何で九州の片隅にこれだけ多くの軍事施設が集中していたのかというと、此処は鹿児島と同じく特攻の拠点であり、米軍九州上陸作戦の第一目標でもあったからです。
……宮崎県が何処にあるのかは日本地図で調べてください(南の端っこです)

・赤字が陸軍、青字が海軍の拠点。
・バツ印は軍用機の墜落地点(事故含)。緑が日本軍機、オレンジが米軍機。
大まかな地点を示すもので、墜ちた機体数とは無関係です。
・地名は現在のものを使用。

宮崎の軍事施設

A 海軍第48及び116震洋特攻隊(延岡市土々呂)
B 海軍第08回天特殊潜航艇及び第121震洋特攻隊・特設監視所(日向市細島)
C 海軍富高飛行場(日向市財光寺)
D 海軍特設監視所(日向市平岩)
E 海軍第122震洋特攻隊(日向市美々津)
F 陸軍第212師団(児湯郡都農町)
G 陸軍落下傘部隊・唐瀬原飛行場(児湯郡川南町)
H 陸軍軍馬補充部高鍋支部及び西部8051騎兵部隊(児湯郡高鍋町)
I 陸軍第154師団(西都市) 
J 陸軍新田原飛行場(児湯郡新富町) 
K 陸軍木脇飛行場・獨立戦車第五旅団(東諸県郡国富町及び綾町)
L 陸軍第156師団(宮崎市本庄) 
M 海軍赤江飛行場(宮崎市赤江) 
N 海軍第09回天特殊潜航艇隊(宮崎市内海)
O 海軍第03回天特殊潜航艇隊及び第126震洋特攻隊(日南市油津)
P 海軍第05回天特殊潜航艇隊及び第54・第117震洋特攻隊(日南市南郷) 
Q 海軍都井岬特設監視所(串間市都井岬)
R 海軍崎田航空基地(串間市崎田)
S 陸軍第86師団(都城市~鹿児島県曽於郡) 
T 陸軍歩兵第23聯隊(都城市都原町)
U 陸軍都城西飛行場(都城市都原町)
V 陸軍都城東飛行場(都城市都北町・北諸県郡三股町)
W 海軍勝山通信所(北諸県郡三股町)
X 陸軍都城北飛行場(都城市野々美谷町)
Y 陸軍第25師団・陸軍小林飛行場・軍馬補充部小林分厩(小林市)
Z 陸軍えびの飛行場(えびの市)

富高と新田原の防空戦では両軍とも多くの損害を出しました。
延岡から日南までの沿岸部と都城の市街地も激しい空襲に晒されています。
また、義烈空挺隊は昭和20年5月8日に川南から画像左上の熊本市・健軍飛行場へ移動。
24日に沖縄へ向けて出撃しています。

※串間・小林・えびのの施設につきましては、福田鉄文氏の「宮崎の戦争遺跡」を参照しております

空挺給水塔 其の1 天降る神兵

Category : 第一部・落下傘部隊誕生 |

南北に長い宮崎県の、ちょうど中央にあたる地域。
日向灘から尾鈴山地へと続くなだらかな丘陵地帯に、川南という町があります。

2008年9月20日。
この日、川南の空に3つのパラシュートが開きました。
フロンティア・デーの催しとして、陸上自衛隊の習志野空挺部隊が落下傘降下したのです。
空挺隊員がこの地へ舞い降りたのは、実に64年ぶりのこと。

フロンティアデー

川南の町おこしイベントが「フロンティア・デイ」と名付けられたのは、此処が開拓者の町だからです。
川南は三本木原や矢吹開拓地と並ぶ日本三大開拓地のひとつであり、全国からの入植者を受け入れてきた場所でした。
ただ、その事以外には、何の変哲も無い片田舎ですから
町の片隅にひっそりと聳え立つ巨大な塔のことを知る人は少ないのでしょう。

※2010年、宮崎県児湯郡の川南で家畜伝染病の口蹄疫が発生しました。あの川南町のお話です。

kawaminami


その塔の周囲は、ちいさな保育園があるだけの草生した空地になっており、近所にある国立療養所の入院患者さんが散歩している姿を見かけるくらいで、普段は人影もまばらです。
夕方、静まり返った空地を眺めていると、かつて此処に一大軍事施設があった事など想像もできません。

宮崎市で働いていた頃、同僚と一緒に日向市の客先へと出掛けた日の事。
国道10号線は工事で渋滞していた為、佐土原町から航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地の前を抜け、尾鈴山添いの道を車で北上。
そこから暫く車を走らせたところで、川南町に入りました。
周囲にはポツポツと民家があるだけで、見渡す限り田畑が広がっています。

信号

空挺給水塔

「唐瀬」と表示のある交差点を右折して10号線方向へ走っていると、突然道路左手にコンクリート製の巨大な塔が姿を現しました。
あの塔、何だか見覚えがあるような気が……。
原っぱの中に聳え立つその塔の姿が余りにも異様だったので、助手席の同僚に「何ですかねアレは?」と訊ねると、「昔、パラシュートの練習をしていた建物らしいよ」との答え。
ははあ、パラシュートって事は、さっき通り過ぎて来た航空自衛隊の施設なんだろうなと一人合点して、そのまま通り過ぎました。

K1

塔の事などすっかり忘れてしまったある日の事。
会社の帰りに古書店へ寄って、立ち読みついでに戦史関係の本を手にとってパラパラ捲っていると、とある頁の「落下傘部隊の基地は日向の唐瀬原にあり…」という一文が目に留まりました。
へえ、戦時中は宮崎に空挺部隊がいたんですね。
唐瀬原といえば、先日車で通った町です。
あそこには自衛隊の塔が……。

同僚は「自衛隊の施設」とはひと言も言ってませんでした。
ただ単に「パラシュートの練習をしていた建物」だと。

もしかすると、あの塔は「唐瀬原の落下傘部隊」と関係があるのでしょうか。
空挺部隊の基地が近くにあったのかもしれません。
で、早速調べてみようとしたのですが、以前のように神保町や国会図書館へ通う訳にもいかず、ネット上の情報も乏しい時期でしたから、地方在住の身では資料捜しに結構苦労しました。

グラウンド
野球グラウンド側から見た塔

実は、私が知らなかっただけで、戦時中の川南に空挺部隊の基地があった事は様々な文献に記載されていました。
但し、あの「パラシュートの塔」についてだけは正体がさっぱり判りません。
何度も唐瀬原へ通ってみたのですが、塔のある場所は病院の敷地内である上に、立入禁止区域や歩くのも困難な林、水没しかけた湿地帯(川南湿原)まであって、他の手がかりを探すのは難しそうでした。
ただ、給水塔付近にある林の中には、人為的に掘られた壕や埋没しかけた素掘りのトンネルがそこかしこに散在しており、軍事施設らしき痕跡は確認できます。

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●朝靄たちこめる川南湿原。フェンスの先は水没しています。

林
野球グラウンド脇、川南湿原へ続く密生した林
壕
林の中にある壕のひとつ
穴
埋没しかけた素掘りのトンネル


取敢えず、塔を四方から観察してみました。
高さ20数m程でしょうか?電柱以外周囲に比較する物が無いのでよく解りません。
形状は、支柱部の上に太い円筒を載せたようなコケシ型。
側面には、基礎部から天頂部まで金属製の梯子とパイプ類が取り付けられてられています。
「頭」に当たる部分の東側には、人が乗れる程の手摺付き金属製テラスが突き出していて、支柱部東側中央にも出入り口らしき開口部があります。
表面には無数のヒビが走っており、旧い建物には間違いなさそう。
しかし高さも中途半端ですし、こんな所からパラシュート降下なんか出来そうもありません。

国立病院4

国立病院3


二子玉川にあった読売落下傘塔の写真は、四本のアームが突き出したもっとメカメカしいデザインでした。
では、一体何なのでしょうか、コレは?
何処かで見た記憶はあるのですが。

ウロウロと無駄に歩き回るのに疲れ、何か空挺隊の手がかりが無いか地元の人に尋ねたところ、「護国神社へ行って見ればいい」と教えていただきました。
その神社に、空挺部隊の戦死者が祀られているのだそうです。

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川南護国神社は国道の反対側、川南町役場附近の「トロントロン」という奇妙な名前の場所にあります。
地名の由来は“泉から湧き出る水音を表現したもの”らしいのですが、最初は何かの冗談かと思いました。
川南護国神社は川南町の中心部、住宅地に囲まれた丘の上に建っています。
生協から川南町役場へ向かって歩いていくと、道端に「陸軍落下傘部隊発祥の碑入口」という石碑を発見。
矢張り此処だったのですね。

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その横道を上つていった所が川南護国神社でした。
しかし、丘の上にあるのは神社の建物だけ。「落下傘部隊の碑」とやらは見当たりません。
とりあえず鳥居から梅園あたりをぐるっと一周。
それから神社の裏手にある広場へ降りていくと、漸く目的の場所を見付けました。
広場自体が落下傘部隊の慰霊碑スペースとなっており、一番奥にある大きな石碑には「空挺落下傘部隊発祥之地」と刻まれてあります。

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石碑を見て、この地に空挺部隊が居た事を漸く実感。
ただ、塔の正体は解らないままでしたが。

それから半年程経った5月のこと。
出勤前に新聞のTV欄を見ていると、ある番組が目に留まりました。

「塔は黙して語らず 特攻“義烈空挺隊”の真実」。

それは太平洋戦争末期、沖縄の米軍飛行場へ強行着陸した空挺部隊に関する地元民放製作のドキュメンタリーでした。
どうせお涙頂戴か説教臭い番組なんだろーな、と余り期待しないでタイマー録画をセット。
宮崎県は民放が2局しかないから予約も簡単です。

落下傘部隊関連という事で、この義烈空挺隊について書かれた本も何冊か読んでいたのですが、
「97式重爆8機で沖縄に夜間着陸」とか
「北(読谷)・中(嘉手納)飛行場に6機着陸」とか
「北飛行場に1機のみ着陸成功」とか
「中飛行場にも50名着陸」とか
「一部は落下傘降下した」とか
「グライダーで着陸した」等と諸説があって、是非とも詳細を知りたい部隊のひとつでした。

その夜、帰宅してからビデオを再生。さて、どんな内容だろう。
晩飯でも食いながらゆっくり観るか…、とリモコンの録画再生ボタンを押した途端
いきなり、あの川南の塔がTV画面に写りました。

何で義烈空挺隊の番組にあの塔が?
慌てて音声のボリュームを上げました。

番組は、生き残った義烈空挺隊の元曹長と沖縄で戦死した隊員の遺族が、あの塔の下で再会するシーンから始まりました。
元空挺隊員、遺族や報道関係者の証言を交えながら、川南出身の義烈空挺隊員が遺したノートを元に、出撃に至るまでの経緯が語られていきます。
その中では、あの塔の建設に従事した方々の証言も取り上げられていました。
それによると、あれは落下傘部隊兵舎の給水塔であり、図面を含めて現在に至るまで大切に保存されていたものなのだそうです。

成程。
そういえば、あの辺は川南湿原があるくらいですから地下水も豊富でしょうね。台地の端からは、尾鈴山地から流れて来た大量の地下水が湧き出ていますし。
同じく台地の上に作られた新田原飛行場では、水源の確保に苦労したのか麓からポンプアップしていましたけれど(現在も揚水施設の跡が残っています)。

給水塔だと知って、あの塔に見覚えがあった理由が分かりました。
いぜん府中で働いていた頃に見かけた、航空自衛隊施設にある給水塔が唐瀬原の塔とそっくりなのです。

府中
航空自衛隊府中基地の給水塔。サイズは違いますが川南の塔と酷似しています。


番組で川南を数十年振りに訪れた元義烈空挺隊員は、「まさかこれが残ってるとは」と驚いていました。
サイパン、硫黄島、沖縄と攻撃目標が変更される中、義烈空挺隊が待機していたのが此処にあった挺進第3連隊の兵舎。
やはり、あの塔は空挺部隊の施設だったのですね。

次の週末、車で川南へと出掛けました。
いつもと同じ姿で、給水塔は草叢の中に聳え立っています。

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様々な資料によると、陸軍落下傘部隊の歴史はこのようなものだったそうです。

日本の陸海軍が空挺部隊(空中挺進部隊)の創設を決定したのは昭和15年、電撃戦の緒戦におけるドイツ降下猟兵(ファルシルム・イェガー)の活躍に刺激されての事でした。
イタリアで誕生したパラシュート部隊は、まだドイツやソ連など僅かな国しか保有していませんでしたが、11月に欧州勤務から戻った井戸田中佐の報告により、軍首脳部はその有効性を認めたのです。
同月30日には、早くも河島慶吾中佐以下十数名からなる浜松陸軍飛行場学校練習部(落下傘訓練部隊)が誕生、翌年2月20日より降下テストに着手。
1月に募集された第1次下士官及び将校練習員は市ヶ谷の予科士官学校及び所沢の陸軍航空整備学校で地上錬成、続いて4月に浜松の三方原へ移動して降下訓練を開始します。
ただ、当初は教材や情報に乏しく、教官・練習員とも手探り状態からの出発でした。
ドイツ空挺部隊を視察してきた大島大使が「あの時はこういう格好をしていた」など手真似足真似で演じて見せ、それを元に研究していたと元空挺大尉浪花実氏の証言にあります。
戦局を挽回するための秘密部隊でしたから、当初は防諜上大っぴらに訓練することも出来ず、隊員は大学生に変装して二子玉川の読売落下傘塔で降下訓練していたとか。
海軍の空挺部隊でも同様だったらしく、「海軍落下傘部隊(山辺雅男著)」には、背広姿に変装して二子玉川に通っていた話が出てきます。

讀賣落下傘塔
当時の讀賣落下傘塔。

さまざまな苦労を経て、日本独自の降下方法が確立されていきました。
まずは飛行中の輸送機から顔を出して強風と爆音に慣れる訓練。
続いて単独降下、集団降下へとレベルを上げていきます。
当初、空挺部隊ではパイロット用の92式や97式落下傘を流用していました。
しかし、これらは使いにくかった為に、予備傘を付属した1式落下傘を新たに採用。
其の他、特別部隊である空挺隊の為に、専用の降下装備や武器が次々と開発されていきます。
空挺部隊に支給された降下ヘルメット、降下スモック、降下靴、降下手袋は、パラシュートの紐が絡まるのを防ぎ、着地時の怪我を防ぐ為の工夫が凝らされていました。

テラ銃
前後に分解できる二式小銃。「挺進落下傘」の頭文字をとってテラ銃とも呼ばれていました。

100式
分解した百式機関短銃を携行する降下隊員。いずれも戦時中の米陸軍資料より。
米陸軍は、戦時中から日本陸海軍空挺部隊に関する詳細な調査報告書を作成していました。
戦争後期になると、挺進團の編成はおろか装備や戦術に到るまで把握されていたのです。

japanese parachute troops
昭和20年7月に米陸軍が公表した日本空挺部隊に関するレポート。


また、かさばる武器は別途コンテナに収納してパラシュート投下となりますが、広い戦場の何処かへ落ちているコンテナを探し出すのは一苦労であり、身に付けた拳銃と手榴弾だけで戦わざるを得なくなったケースも多発。
それを解決する為、2つに分解する事で降下時にも携帯可能な二式小銃(テラ銃)も配備されています。
降下や物資投下の訓練は試行錯誤の連続であり、以降も空挺技術の研究は続けられました。

落下傘降下

降下
陸軍空挺隊員の降下訓練(陸軍航空本部)

6月1日、規模も拡大された河島部隊は東条英機陸軍大臣(当時)の薦めもあって、防諜上の理由から満州の白城子陸軍飛行学校への移転が決定。
7月8日に白城子へ着任した練習部員は、満州の広野で訓練を再開しました。
しかし、遠隔地で交通連絡に不便なうえ、冬は雪に閉ざされる白城子では訓練への支障が出ることが懸念されはじめます。
一刻も早く部隊を実戦レベルへ育て上げる必要があった為、空挺部隊は内地への移転を秘かに計画しました。

「航空本部では那須とか宮崎県川南の唐瀬原を候補地に挙げて居ました。
そこで私は航空総監部の野中少佐と、宮崎県高鍋の軍馬補充部に飛んで、唐瀬原周辺をくまなく偵察しました。
近くに新田原飛行場が有り、唐瀬原は降下場として最適であると判断しました。
陸軍省に戻って、高鍋軍馬補充部川南分厩を廃止し、牧場を航空本部に移管する決済を貰いました」
藤野憲三著「川南開拓地に生きて」より 元陸軍落下傘部隊少佐田中賢一氏の証言

高鍋軍馬補充部4

高鍋軍馬補充部
当時の高鍋軍馬補充部の様子。現在は宮崎県立農業大学校となっています。
騎兵部隊は10号線を挟んだ反対側、国光原中学校付近に駐屯して居ました。


ここで問題となったのが、部隊の白城子移転を決定した東条英機大臣の説得でした。

「その件はうまく運びましたが、移転に付いての大臣の決裁はなかなか貰えず、非常に苦労しました。
軍事課長、軍務局長、陸軍次官を通したのですが大臣が承認されない。
「お前が行け」と言われ、一大尉の身で官邸の大臣室に行き、その時は何か良い事があってご機嫌が良く、「まあ、しょうがない」という事で、やっと決済を貰いました。
南方作戦の準備が急がれていた時期でして、もうパレンバンという地名も出ていました。使うのは開戦直後でないにしても、早く其の準備に掛らねばならない。
使わない積もりなら白城子に放り出して置いても良いが、使うなら早く内地に返せと参謀本部からも強く主張して貰いました。
移転の決定を見たのが昭和十六年八月末で移転は九月初めでした。あれがもう少し遅れれば、パレンバンには使えなかったと思います(〃)」

早くも冬の風が吹き始めた9月13日、東条大臣を説き伏せた練習部は温暖な宮崎県の陸軍新田原飛行場へ移動。
やがて、部隊は本部、教育部、研究部、材料廠から成る航空総監部直属の「挺進練習部」と命名、11月5日には第1―3次の挺進練習部員によって教導挺進第一聯隊が編成されました。
空挺隊員を空輸する専従の航空隊も、白城子飛行学校時代から大きく再編されて教導挺進飛行隊が発足します。

更に、部隊拡充で新田原飛行場が手狭となったとして、挺進練習部は新田原飛行場に近い川南村へ拠点を移動。
川南一帯には、1500メートルの滑走路や格納庫・病院を備えた空挺施設群が建設されることとなりました。

高鍋軍馬補充部3
高鍋軍馬補充部塩付分厩の川南放牧場。この一帯がパラシュート降下場へ転換されました。
現在でいうと、JA果汁工場の裏あたりです。

川南村での基地建設に当たっては、元々あった高鍋軍馬補充部塩付分厩の陸軍省用地を降下場として転用しています。

「荒れ馬こそが良馬」などと長年に亘って勘違いしてきた日本人は、開国によって外国産馬の体格と従順さに驚愕。
明治時代、良質の軍馬を大量に必要とする陸軍は全国各地に軍馬補充部を設置、大規模な馬の買付け、放牧育成(訓練は行いません)に着手しました。
明治31年、霧島山麓の西諸県郡高原村(現・高原町)にも軍馬補充部福本支部高原派出所が開設されます。
高原派出所は、やがて高原支部へと規模を拡充。
しかしその後、霧島山系の噴火が立て続けに起きて高原支部も降灰被害を受けます。
そのため、明治43年には海沿いの児湯郡高鍋町に軍馬補充部高鍋支部が設立され、高原支部はそちらへ移転しました。
古くは「香田が原」と呼ばれた高鍋北方の台地には広大な原野が広がっており、馬の放牧地としては最適だったのです。
高鍋軍馬補充部は拡大を続け、北側の川南村塩付地区に分厩を増設しました。

川南は、上杉鷹山の出身で知られる高鍋藩の領地にあった村です。
明治4年、廃藩置県で高鍋藩が消滅したことによって川南村は高鍋県へ編入。
宮崎県が設置された明治6年に同県第四大區の所属となります。当時の川南は人口3000名弱の小さな村落でした。
明治9年に宮崎県は消滅。
一旦は鹿児島県宮崎支庁の扱いとなりますが、翌年に勃発した西南戦争と薩摩軍の転戦によって宮崎も戦禍に巻き込まれました。
この戦乱および不公平な戦後処理への反発によって、日向の人々は鹿児島からの獨立運動を開始します。
「鹿児島県下日向国分離の建議」を経て宮崎県が復活したのは明治16年のことでした。高鍋に児湯郡役所が再設置されたのもこの頃。
鹿児島県とくっついたり離れたり、意外と混乱が続いたんですねー。県北・県中央・県南が団結出来ないのも、これが一因なのでしょうか?
旧島津領だった都城市などは「あそこは鹿児島だ」とか言われたりしますし(言葉も鹿児島弁に近いそうです)。

町村制へ移行した明治22年には川南村と平田村が合併、現在の川南町を形成する地域が成立します。

そのような混乱の中、川南の開拓は始まりました。
高鍋藩が士族を開拓者として送り込んだ明治初期から、段階を経て開拓は進みます。
唐瀬原の開墾に取り掛かったのは明治14年のこと。水利権のゴタゴタもあり、これは半年程で頓挫しています。
続いて明治20年には前田正名氏や松浦健太郎氏が川南村内の原野を購入、農場建設に着手しました。その際、四国からも入植者を受け入れていますが、この時も灌漑用水不足などに苦しんだ様です。
国営による大規模な川南開墾事業が始まったのは明治44年のことでした。大正14年には農林省への申請が行われ、昭和14年から5箇年計画で着手。
川南町史によりますと、陸軍の川南進出はこれより早く行われています。
前田氏購入の土地1063町4反7畝8歩は、明治41年に陸軍用地として112938圓15銭で買い上げが決定されます。
買上げは翌42年も続きました。
この陸軍用地が、塩付分厩を経て落下傘降下場となる訳ですね(説明が長くてスミマセン)。



高鍋と川南に進出した軍馬補充部では、九州産馬の欠点とされた「性格凶暴」「体格矮小」「歩様短切」を改善しつつ、高鍋と川南を優良な軍馬の産出地へと変えていきました。
明治初期に来日した外国人から「猛獣」と揶揄され、義和団の乱で出兵した際には「隊伍を組めない」「気性が荒い」「牝馬を見ると暴走する」といった醜態を晒し、各国の騎兵隊から嘲笑された小柄で粗暴な日本の軍馬。
それを改善すべく去勢法の施行となる訳ですが、結局は日露戦争の勃発で頓挫してしまいます。
高鍋軍馬補充部では、去勢の徹底、体罰や大声による叱責の禁止、青草を食べ慣れない放牧転換期に栄養価の高い餌を併用する等の地道な努力を重ねました。
その努力は実を結び、明治末期の記録では温順で体格も改善された良馬となっています。

周辺の農家から購入した仔馬を育て、第6師団の騎兵・輜重兵部隊に補充するのが高鍋軍馬補充部の役目。
ですから、補充部周辺には馬の蕃殖や飼糧のトウモロコシ栽培に携わる多数の農家がありました。
長い間、軍馬補充部と地元農家は共存してきたのです。
その関係が崩れ始めたのは日中戦争がはじまった昭和12年頃。
この年、軍馬の不足から川南の農耕馬200頭の強制徴発がおこなわれました。戦争による人手不足に加えて馬まで奪われ、農業生産にも影響が出始めます。
そこへ、泣き面に蜂の如く(文字通り)降って湧いた落下傘部隊の移転問題。
大規模な陸軍施設と広大なパラシュート降下場の建設は、塩付地区周辺に入植していた人々にとって深刻な問題でした。
地元が軍用地になることは、苦労して開墾した土地から追い出されることを意味していたのです。
川南の人々が諸手を挙げて空挺部隊の設置を歓迎したかのような資料も見られますが、実際は違いました。

「この年の秋、軍馬補充部の牧場が整備されて(毎日の様に出没した)落下傘部隊の訓練が始まった頃、“陸軍部隊の兵舎が出来るげな”“飛行場が出来るげな”と、様々な噂が流れ始めた。
何をするともわからず、測量班が毎日の様に行動を始めた。
いよいよ噂は本物になるかと感じられ、次に打つ手を考えねばならぬ様になった」
「八十年を省みて」より 二杉房次氏の証言

同時期、菅原道大陸軍中将が川南を訪れます。財津吉男村長は「軍馬補充部の視察にきたのだろう」と呑気に考えていましたが、実際は落下傘部隊転入の下見が目的だったそうです。
後に、落下傘部隊は菅原中将のもとで実戦デビューすることとなりました。

「昭和16年8月27日、熊本師団司令部の経理部長が主任の原主計少佐を伴い高鍋小村第2四季亭に「高鍋町長・山内武玄、木城村長・矢野勝次、都農町長・黒木宏」の3氏と共に、川南村長・財津吉男を呼んで昼食を共にした。
この時、川南村地内に軍の有力なる部隊が設立される。一時的な施設ではなく永久的なもので、近々着工にかかるので協力をお願いする。
特に川南村長にはご苦労をかける事になるので、特別にお願いするとの言葉であった。
何の有力な部隊かとの質問には、今はまだ秘密故言えないとの事。
同9月1日、此地に派遣命令を受けた者ですと尉官級の方が見えられ、実は落下傘部隊が設置されます。
実に大部隊の設置であるとの事、さらに降下場を急いで整備し降下演習をやりたいから、、沢山の作業人員を必要とする。
初めの1週間余日は3百名位、更に1千名、2千名、5千名、1万名、それに第1回降下までは内容は秘しておいて、人員を急ぎ集めてくれとの事」
川南観光協会「空挺落下傘部隊」より

地方の村が軍部の方針に逆らえる訳がありません。
結局、落下傘降下場建設にあたって豊原地区24戸、甘付地区2戸、名貫地区20戸、黒坂地区5戸、塩付地区33戸の農家が立ち退きを余儀なくされたそうです。
空挺部隊基地は国道10号線沿いに設置された為、ハタ迷惑なことに国道まで一時閉鎖。
県北へ向かう代用国道として作られたのが、川南から都農駅へと至る海岸沿いの道路だったりします。

昭和16年9月より、川南村在郷軍人会川南岩切分会長を中心として、川南空挺部隊基地の建設が開始されます。
延べ1万人を投入した降下場建設は50日で完了。
但し、鉄筋1、木造2の格納庫を備えた飛行場建設には1年半を費やし、しかも富高農学校生と地元住民の犠牲者2名をだしてしまいました。
周辺の農家も昼間は空挺基地の建設作業奉仕に忙殺され、農作業は夕方から夜間にかけてという過酷な労働を強いられます。

唐瀬原基地の建設にあたっては、戦時の人手不足から工業学校を卒業したばかりの若者達が設計・現場監督を行いました。
建設作業員としては、県内から勤労動員された人々や朝鮮人労働者(計673名)など延人数にして36万5千人が従事。
部隊の水道施設として地下水を汲み上げる6基の給水塔が建てられ、これらは新田原飛行場から飛び立つ空挺隊員の降下目標にもなっていたそうです。

昭和17年、宮崎県児湯郡川南村唐瀬原に巨大な空挺基地が完成しました。
川南移転後に部隊の規模は4個挺進連隊に増強されます。
「第一挺進團」に所属するのが挺進第1聯隊と挺進第2聯隊。
第一挺進團が出撃している間、練習員の課程を修了した隊員で教導挺進第1聯隊及び教導挺進第2聯隊が編成されます。
この2コ聯隊は、「第二挺進團」に所属する挺進第3聯隊と第4聯隊に改編されました。

後から編成された第二挺進團は唐瀬原の仮兵舎に入りますが、やがて本格的な兵舎が完成。
その中の一つが、あの給水塔の場所に設置された挺進第3聯隊兵舎です。
また、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊、そして空挺隊員を輸送する挺進飛行隊などの支援部隊も次々と創設されていきました。

空挺部隊が増強されるにつれ、川南に駐屯する部隊は2万人もの規模に拡大。
それまで軍馬の牧場と西部8051騎兵部隊しかなかった川南は「軍都と化した」と町史に記されています。

陸軍空挺部隊の中枢は睦地区、現在の東小学校付近にありました。
今の風景からは想像も出来ませんが、当時はあの場所一帯に挺進司令部及び第2連隊兵舎、陸軍病院、通信所、格納庫、滑走路といった大規模軍事施設が設置されていたのです。
第1、3、4連隊は、挺進司令部から南下した10号線沿いに居を構えました。
第1連隊はちょっと離れて通山地区に、現在の国立病院付近には第3連隊、唐瀬原中学校付近に第4連隊。

今では当時の面影すら無く、僅かに空挺司令部や挺進第4連隊の門柱や兵舎の基礎部分、そして挺進第3連隊兵舎で使用していた1基の給水塔が保存されているだけです。

空挺慰霊碑

陸軍空挺部隊群の所在地および通称は下記の通り。

陸軍挺進練習部(西部第一一六部隊)・第一挺進集団司令部(鸞第一九〇三八部隊)
静岡県浜松陸軍飛行学校→満州国白城子陸軍飛行場→宮崎県新田原飛行場→川南・睦地区

第一挺進団司令部(帥第九九四四部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第一聯隊(帥第九九四五部隊) 宮崎県川南・通山地区
挺進第二聯隊(帥第九九四六部隊) 宮崎県川南・睦地区

第二挺進団司令部(威一九〇四〇部隊) 宮崎県川南・睦地区
挺進第三聯隊(西部第一一八部隊) 宮崎県川南・唐瀬原地区
挺進第四聯隊(西部第一一九部隊) 宮崎県川南・唐瀬原地区

第一挺進飛行団司令部(鸞第一九一五〇部隊) 宮崎県新田原
第一挺進飛行団通信隊(鸞一九一五一部隊) 宮崎県新田原
挺進飛行第一戦隊(威九九四七部隊) 宮崎県新田原
挺進飛行第二戦隊(鸞一九〇三九部隊) 宮崎県新田原
滑空飛行第一戦隊(鸞一九〇五二部隊) 茨城県西筑波
第百一飛行場中隊(不明) 宮崎県新田原
第百二飛行場中隊(不明) 宮崎県新田原
第百三飛行場中隊(鸞一九〇五三部隊) 茨城県西筑波

滑空歩兵第一聯隊(鸞一九四〇五部隊) 茨城県西筑波
滑空歩兵第二聯隊(鸞一九四〇六部隊) 茨城県西筑波

第一挺進通信隊(鸞一九〇四四部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進機関砲隊(鸞一九〇四七部隊) 茨城県西筑波
第一挺進工兵隊(鸞一九〇四八部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進戦車隊(帥第一九〇四九部隊) 宮崎県川南・睦地区
第一挺進整備隊(帥第一九〇五一部隊) 宮崎県川南・睦地区

唐瀬原飛行場 宮崎県川南・黒坂地区
落下傘降下場 宮崎県川南・塩付地区

落下傘整備
裏方の挺進整備隊は、命を託すパラシュートの管理を担当する重要な部隊でした。川南空挺慰霊祭にて

降下場が完成した昭和16年9月、先に編成された挺進第1連隊は猛訓練を開始。来るべき出撃へと備えます。
記念すべき唐瀬原への初降下は、下記のようなものだったのだとか。

「彼は団本部付落下傘研究部の飛行歩兵少佐だった。武勲輝く勲五等正六位、功五級の旭日章を拝受している。
総司令部団長は最初が久米。次が河島、中村と団長が変った。
彼は茲に一年半駐留したが、新田原から唐瀬原へ飛んだ最初の落下傘訓練の試乗者であった。
然も技術研究将校としての降下であった。
輸送搭乗者約十名、まづ彼自身指揮官として自から先頭に立って五名降下した。
背腹に軍装備同様な重さの石を背負い、美々津(みみつ)沖の海上へ降下する実戦訓練だったが、だが生憎台風のあとだけに波が高い。
予定の漁舟が一艘も出漁していなかった。
そこで彼は唐瀬原飛行場へ行き、次ぎ次ぎ降下した。
この時、彼は左手に二ヶ月の重傷。さっそく別府の陸軍病院へ入院治療した」
「川南開拓の記録」より、元陸軍落下傘部隊 谷文夫氏について

降下兵6


悪天候時以外、川南の空挺隊員は列車で新田原へと通っていました。
これは軍用列車ではなく、県北から宮崎市方面へ通勤通学する人々も一緒に乗り合わせる普通列車です。
空挺隊員は富田駅(現JR日豊線日向新富駅)で下車してからトラックで新田原飛行場へ。そこから航空機に乗って川南へと戻り、上空からパラシュート降下していたそうです。

当時の空挺隊員が使っていた地図を見ていたら、霧島連山付近での訓練についての書き込みを見付けました。
霧島神宮に参拝後に高千穂峰へ登頂、烏帽子嶽を一周して神社へ戻る行軍ルートだった様ですが
空挺部隊の訓練地域は、宮崎県全体に広がっていたのかもしれませんね。

空挺部隊の存在を隠すため、付近を通過する列車はシャッターを下ろすなどの防諜措置もとられていましたが、まあ、多くの宮崎県民にとっては「公然の秘密」だった事でしょう。
国道沿いに舞い降りるたくさんのパラシュートを隠すなんて、どう考えても不可能ですから。

当時の宮崎県はですね、宮崎市から国道10号線を北上すると左手には新田原飛行場から飛立つ軍用機、さらに進むと右手には高鍋で草を食む軍馬、その先の川南には空から舞い降りる(一応は秘密部隊だった)落下傘部隊、日向まで行ったら右手に富高海軍飛行場。
正に、軍事基地群を串団子の如く県の動脈が貫いていたのです。
「軍事機密」や「防諜」などと言うのがバカバカしくなる程の布陣でした。

さて、防諜の問題は置いといて。
「切り札」ゆえに、陸軍落下傘部隊の実戦投入は簡単におこなわれませんでした。
華々しい大規模空挺作戦から悲惨な結果に終った特攻作戦まで、戦局の所々でその姿を現す隠密部隊だったのです。
軍上層部ですら空挺部隊が何をしているか実際に見た人は少なく、昭和16年10月28日には陸軍省をはじめとする軍高官らを前に唐瀬原での降下演習が披露されました。

降下兵3
落下傘を装着した日本陸軍空挺隊員。独特の形状をした降下ヘルメットと降下スモックを着用しています。

川南から戦場へと向い、帰還することの無かった者もいれば、この地で命を落とした者もいました。
昭和18年6月18日には、隣の高鍋町を流れる小丸川で挺進第4連隊員200名が渡河訓練中、伊藤中尉以下8名の空挺隊員が殉職する水難事故が発生。
演習直前、上流域に大雨が降っていた事に気付かなかったのが原因でした。
みるみる増水した川の勢いでロープが切れ、隊員は重い装備を身につけたまま濁流に投げ出されます。
当時事故を目撃した人の証言には
「岸から見ていたら、中央付近で黄色い流れに吸い込まれるように川の中へ消えていった(宮崎日日新聞「空の神兵の悲話」より)」とありました。
付近住民や高鍋中学の生徒も駆けつけて救助にあたりますが、8名は変わり果てた姿で発見されます。
事故後、殉職者の慰霊碑が小丸川の岸辺に建てられました。
※現在、碑は小丸川近くの高台にある高鍋大師へ移設されています。

「忠烈 八勇士殉職之地」の碑文より

陸軍大尉 伊藤成一
陸軍中尉 鈴木寛
陸軍准尉 河原田津留吉
陸軍曹長 平方國三郎
陸軍兵長 池本治登
陸軍上等兵 杉村博
陸軍上等兵 山崎茂男
陸軍上等兵 大森良市

昭和十八年六月十八日挺進第四聯隊では新に所属となった将校の実兵指揮の訓練を実施し、その中に小丸川を渡渉する場面があった。
前日山間部に降った雨で河川が増水しており、押流されて八名が殉職した。
この演習を計画した榊原達哉中尉(当時)は責任を負って自決しようとしたが、聯隊長に諭され思い止まった。
翌十九年聯隊がレイテに降下するとき、榊原大尉は地上部隊と連携できる見込みの全く無いタクロバン降下部隊指揮官を志願し、八名の位牌を抱いて飛行機に乗り込んだがその後の状況は詳かでない。
殉職八柱の魂魄もレイテ作戦に参加したのである。
碑の裏面に刻まれている歌
何日行くか
何日散るかは知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
この碑は初め小丸川の堤防上に建てられたが、堤防改修工事の為昭和四十年に現在地に移された



渡河訓練責任者の榊原達哉大尉はこの事を悔やみ、何度か自殺を試みるも周囲に制止されます。
この時、彼は戦場で死ぬと心に決めたのでしょう。
1年半後の高千穂空挺隊によるレイテ降下作戦で、大尉は生還の見込み薄いタクロバン飛行場攻撃隊の指揮官に志願しました。

omarugawa
宮崎県高鍋町にある、小丸川で殉職した空挺隊員たちの慰霊碑。
風化が激しかったため、戦後に碑文を記し直した銅板が取り付けられています。
後方に見える古墳と奇妙な石像群については、別途記事にて解説。

「永友有計子先生と生徒代表の五名は、陸軍病院に傷病兵の慰問に出かけることに決まり、私も行きました。
戦局もあまりせっぱつまってはおりませんでしたから、昭和十七年頃の初冬の頃ではなかったかと思います。
その病院がどこだったのかはよく覚えていませんが、たしか軍の車に乗って行ったと思います。
クラスで持ちよった花、はげましの手紙(名前は記入してはいけない。学校の方針でした)廃物利用で作ったお人形、などを持って行きました。
入院患者の殆んどは怪我の人でした(外科病棟に案内されたかもしれません。)
どの病室もいっぱいでした。クレゾールのきついにおいと、殺風景な病室、男の看護人に普通の病院との違いを見ました。
一番初めに入った病室には、足に大きな副木をして、動かないように天井から足が支えてありました。
あまりの痛々しさに驚きました。言葉も出ません。
先生が「お話していいですか。体にさわりませんか」と言われると、その人は嬉しそうにして、いろいろ話されました。
きっと永友先生を、お母さんのように思われたのでしょう。
落下傘部隊の軍人さんでした。降下時に引きずられて複雑骨折だったのでしょう。
飛行機から落下傘で下りるのを、遠くから見ているととても美しく、軽やかにファーッと地上に着くようですが、かなりのショックだそうで、風が強かったりすると予想出来ない事故もあると話されました。
落下傘は相当に厚みのある絹で、とても大きく重量もあるから、引きずられると恐かったことでしょう。
現在のは全く知りませんが、あんな落下傘ではないだろうと思います。
先生が「飛行機から飛び下りるのは、初めはとても心配もあるし、こわいでしょうが、慣れると平気になるのですか」と尋ねられると、「いいえ、落下傘だけは慣れる程、恐ろしさが加わります」と言われたのが忘れられませんでした。
家に帰ってこの事を話すと、母が「可哀想ね」と涙ぐんでいました。
高鍋では訓練時、落下傘が開かないことはなかったが、荷物用のが開かないことがあったそうです。
それだけ人が使用するのは真剣に慎重に、取扱ったのでしょう」

洋の東西を問わず空挺部隊の訓練というのは危険が多いもので、日本陸海軍空挺部隊でも殉職者を出しています。
陸軍空挺部隊では、白城子での訓練中と宇都宮での天覧演習時に不開傘による墜落死亡事故が発生し、初宿曹長と松浦軍曹の2名が殉職。
使用する降下装備は何度も改修され、より安全性を高めたものとなりましたが、それでも空挺隊員はいつも死と隣り合わせでした。
昭和17年に製作された映画「空の神兵」では、普段より入念に落下傘を折り畳み、友人知人に手紙を書きまくったり、ドイツ空挺隊教本を読みふける者など、初降下を控えて不安げな隊員達の心情が描かれた場面が出てきます。

「もし傘が開かなかつたら?
落下傘兵にとつて、それは犬死にひとしい。
落下傘兵は死んではならない。
失敗は成功の基、といふ諺がある。
しかし落下傘兵にとつては、失敗は永久の失敗でしかない。
落下傘兵は死んではならない。
少なくとも目的を貫徹するまでは、断じて死んではならない。
落下傘の降下はあくまで奇襲にある。
落下傘部隊が全滅した場合、特異なその奇襲作戦は根こそぎ覆滅されるからである。
従つて傘は何よりも大切な兵器であり、生命そのものといふよりも、
着地するまではむしろ生命以上のものなのである(昭和17年2月讀賣新聞掲載「落下傘部隊長徳永中尉手記」より)」

その落下傘に命を託し、陸軍空挺部隊が最初に実戦投入されたのは、昭和17年に行われたスマトラのパレンバン精油所占領作戦でした。
南方石油資源確保の為、「切り札」が使われる事となったのです。

(第二部へ続く)

空挺給水塔 其の2 パレンバン降下作戦

Category : 第二部・空の神兵 |

パレンバン降下作戦2

(第一部からの続き)

こうして雪の満州国から南国宮崎へと移り、規模を拡大し始めた陸軍空挺部隊。

昭和16年12月1日、軍令陸甲第93號により武田丈夫少佐指揮の挺進第一聯隊と新原少佐指揮の挺進飛行隊に出撃命令が出されました。
作戦準備のため、挺進團の木下中佐と弘中大尉はサイゴンへ先発。
12月9日に宮崎神宮で必勝祈願した挺進第一聯隊は列車で宮崎を発ち、13日に明光丸へ乗船して門司を出港。
武田丈夫挺進第一連隊長以下4コ中隊は秘匿のため「風九三一七部隊」を名乗り、海路プノンペンを目指しました。
翌年1月3日14時半、海南島沖にて明光丸が火災を起こします。途中、大連で積み込んだ焼夷弾が発火したのでした。
消火に失敗した明光丸は炎上沈没します。
「乗船して何回か非常呼集で避難訓練が実施されていた。
そして明けて一月三日の十四時頃、非常呼集のラッパが鳴る。また訓練かと皆は思っていた。
装具を身につけ甲板上に集合していると命令受領が帰って来て、弾薬庫に火災が発生したので各中隊から消火班を編成して本部に出せと言う。
しかしその消火班も間もなく帰って来た。最早消火不能になったので各中隊は海に跳び込む準備をせよと言う。
火薬に火がつけば大爆発となるので、一刻の猶予も許されない。身につけた装具類は全部はずして軍靴も脱ぐ。
小銃等の兵器類も甲板上の一カ所に集められた(斉藤正之氏)」

救命胴衣を身に着けた空挺隊員達は、突撃ラッパと共に落下傘降下よろしく荒れる海へと飛び降りていきました。
海上を数時間漂っていた挺進第一聯隊員は、幸いにも駆けつけた「香椎」「吹雪」「占守」「辰宮丸」に全員救助されます。
尚、遭難救助された第1連隊員の中には、後に天雷特攻隊指揮官となる園田直中尉や義烈空挺隊指揮官となる奥山道郎中尉がいました。
1月11日、巡洋艦香椎からバンコクへ上陸した第一聯隊ですが、装備や降下機材一式が海没してしまった以上どうすることもできません。
何とかプノンペンに辿り着いたものの、日用品にすら事欠く状況。更にはパラチフスの流行で半数の500名が入院するという惨憺たる有様となってしまいます。
7日に新田原を飛びたった挺進飛行隊もプノンペンで合流しますが、作戦実行は不可能でした。

そこで急遽、新規編成中だった挺進第2連隊が派遣される事となります。

降下兵
パラシュート投下されたコンテナから武器を取り出す空挺隊員。
降下時に所持できるのは拳銃と手榴弾くらいでしたから、大型の銃器は別に降ろす必要がありました。

降下兵1
攻撃訓練中の日本陸軍空挺部隊。手前の隊員は火炎放射器を携行しています。

1月9日、挺進第2連隊が慌しく出撃準備中の川南に、6名の陸軍中野学校関係者が到着します。
彼等は精油所の安全確保や現地住民の宣撫工作等の為、空挺隊と共に作戦に参加する特務隊員でした。
軍人らしからぬ長髪の中野隊員達は、空挺隊員から「あれで戦争ができるのか」と不審がられたそうです。
6名全員が落下傘降下を志願しましたが、未経験者ばかりという事で空挺部隊側は降下させない積りでした。
予想外の展開に、中野学校の星野鉄一少尉は独断で行動に出ます。
保土谷精油所での事前演習で顔見知りだったBPM精油所占拠部隊班長の徳永悦太郎中尉に仲介を頼み、甲村少佐に落下傘での降下を直訴。
その熱意に負けたのか、甲村少佐は星野少尉のみに降下を認め、米村中尉ら残り5名は後続着陸機に搭乗となりました。

挺進第2連隊は2月2日にプノンペンヘ到着、パレンバンへの出撃準備を整えます。
挺進第1聯隊は、無念の思いでその出撃を見送りました。

11日、マレーのスンゲイパタニ飛行場に展開した第2連隊は、最終の機材整備、偵察写真を元にした降下計画の立案、攻撃訓練に入ります。
13日、準備を終えた空挺部隊は出撃基地であるカハン飛行場へ移動。
すべての装備を整えて出撃の時間を待ちます。

パレンバン降下作戦6
出撃前夜、パラシュートを積んだ祭壇を前に無事開傘を祈願する挺進第2連隊員。


昭和17年2月14日午前7時、カハン飛行場に終結した挺進第2連隊員に対し、部隊長久米精一大佐からの
「今や汝等は神兵である。
本作戦は南方蘭印作戦の天王山であると共に
この天王山なる作戦、日本最初の作戦に参加する最も光栄ある部隊である。
必ず目的を完遂しなければならぬ」
との訓示がありました。

日本陸軍初となる空挺作戦は、こうして始まったのです。

パレンバン2

パレンバン3

搭乗


落下傘を背負った空挺隊員らは次々と輸送機のタラップを上り、午前9時にはカハンを離陸します。
飛行第64戦隊の護衛の下、挺進飛行戦隊3個中隊及び第12獨立輸送中隊の空挺隊輸送機計36機、物資投下の重爆27機の編隊はマラッカ海を越えてスマトラの海岸線沿いに南下。
陥落寸前のシンガポールからの黒煙立ち込めるバンカ島ムントク上空で11時前に変針します。
オランダ軍側も日本軍の動きを察知し、ムントクの無電塔からは「日本軍の大編隊来襲す」の放送がスマトラ全土に発せられました。

パレンバン製油所
上空から見たパレンバン精油所の全景。

飛行場と精油所は別の場所にある上、製油所は川で2箇所に分断されています。
パレンバンへの攻撃は、複数目標に対する同時降下と言う複雑な作戦でした。
降下地点は平坦な地形なのですが、飛行場と精油所の間にある険しい谷地で部隊間の連携が阻害される恐れもあったのです。

「かういふ状態では各隊の統一ある戦闘が出来ない。
部隊長殿はこれを顧慮して三人組の戦闘を強調された。
どんな事があつても兎に角三人集まるまでは戦闘をするな。
四十七士の三人組の制度で訓練をした。
これが半面において、敵に我が兵の企画行動を全く察知せしめなかつた。
少数の人員によつて五、六十名から二百名の敵に對して戦闘してゐる。
製油所付近の地形は路はアスフアルトだが、それ以外は膝まで没する湿地である(讀賣新聞掲載 徳永中尉の談話より)」


パレンバン降下作戦1
降下作戦を練る久米団長と飛行隊の新原隊長。

各目標に対しての降下編成は下記のとおりでした。
目標 パレンバン飛行場およびパレンバン製油所
強行着陸 団長機 久米団長 稲垣副官 斉藤通訳 通信係上田大尉 荒木カメラマン 井戸田参謀
飛行場南 聯隊本部 挺進第2聯隊長甲村少佐以下17名
       通信班 小牧中尉以下30名
       第4中隊 中隊長三谷中尉以下97名
       第2中隊第3小隊 水野中尉以下37名 
飛行場西 第2中隊 中隊長広瀬中尉以下60名
精油所西 第1中隊第3小隊長 谷部少尉以下39名
精油所南 第1中隊 中隊長中尾中尉以下60名
予備戦力 第2次飛行場降下部隊 第三中隊 中隊長森沢中尉以下96名

11時27分、編隊はパレンバン上空に到達、空挺隊員は一斉に降下を開始します。

パラ

パレンバン

パレンバン降下作戦
パレンバンに降下する空挺部隊(陸軍航空本部)


最初の降下が実戦でのぶっつけ本番となる中野学校の星野少尉も、徳永中尉、中尾中隊長に続いて機体から飛び出しました。
上空では隼戦闘機とオランダ軍機の空中戦も展開され、オランダ側はハリケーン3機が撃墜されています。
日本側は物資投下部隊の須藤中尉機を対空砲火で喪いました。

パレンバン降下作戦3
敵飛行場へ向けて湿地帯の中を進む空挺隊員。
パレンバン飛行場
占拠した飛行場へ降下する増援部隊。

戦闘の経緯については昭和17年2月の讀賣新聞掲載「パレンバン攻略落下傘部隊 徳永部隊長談」で詳細に述べられています。

「軍の命令によると、なし得れば石油会社を取れといふ事になつてゐる。
吾々としては、特に若い者としては、なし得られぬ事はない、何とかしてやるといふ事で石油会社の攻撃に立つた譯だ。
この付近一面はジヤングルだ。
パレンバンの石油タンクが見えるこの付近に入つた。
すると高射砲が十門近くあったが、胴體にカンカンと音がする。
曳光弾であるから光が見えて綺麗だ。下を見ると、猛烈な湿地で湖のやうに見える。
それを注意しつゝ飛行機が入つてゆく。降下をするのを見る暇もない。
三叉路があつた。これを見た瞬間に私は飛び降りた。
私は傘を開いた瞬間に、須藤中尉機が火を発して落ちるのを見た。あの操縦で見ると、先づ最後まで生きてゐたのでないかと思う。
家と家が非常に密集してをるので、下を見たり残りの者を見てゐる中にもう五メートル位になつた。
家を除ける暇も無く家の上に降りた。道路上に集結せよというので直ぐ集まつた。
敵の直ぐ付近だから兵器を取りに行かうとした所が、眼の前に落ちてゐたから兵器(を)全部持つて来た。
十一時四十分、後の方に私の小隊が降りてゐる。
その時は人員の計算をする暇もなく、十一時四十五分直ちに走り道路上に行つた。
道路の角々にはトーチカがある。ここに入る時にトーチカから非常に射撃を受けた。
所がオランダ人といふ○は○○○(自主規制です)、必ずトーチカの正面しか銃座をおいていない。
横からトーチカを手榴弾を発火させて投げて歩いた。撃つた瞬間に中が破裂した。
それから○○名位(検閲による伏字)の人員で社宅に向かつて前進し、先づ事務所を取つた。
それから技師その他重要書類を没収して、中を清掃した。
社宅を前進している中に、大體一個小隊位の敵が逐次やつて来た。そこでこの付近を攻撃しながら前進した。
何しろ社宅で敵がよく知つてゐる上に、社宅の家の長さが短いものだから、覗くと眼の前で撃たれて死んだといふのが非常に多い。
(中略)
少数と見て逐次敵がやつて来るからそこで攻勢に転じ兵営の線まで敵を攻撃した。
この際戦死者一名を担架を提げながら敵を追払い又防空壕の中に入つたが、夜暗くなるに連れて又やつて来た。
これを攻撃してゐる間に敵は迫撃砲を撃ち出した。
それがこの附近のパイプに當りパイプから油がもつたのが、次の迫撃砲で火を吹き出して猛烈な煙が揚がる。
十八時頃から一寸顔を出して見ると、大體防空壕の周りを二百位の兵が取巻いてゐる。
所が彼等は統一ある戦闘をしてをらない。前の方を撃ってゐる時には後ろは決して撃たない。
安心して顔を出す事が出来る。
然し夜暗くなると同時にどんどん近寄つて来る。大きな聲で盛んに降参しろといつてゐる。
そこでむかつき何だこの野郎といふ譯で、又兵隊を一緒に連れて手榴弾を投げた。向ふも投げる。
大體こちらが二発投げると向ふは十発投げる。
九時頃から夜明の午前の三時頃まで手榴弾戦を繰返した。所が防空壕に入ってゐたからこの戦闘では死傷者はない。
兵隊は前々日から飯を食つてゐないし水がなくなつた。
重油がこの前に浮んでゐたが、その重油の水を浄水器に入れて飲んだ(後略)」

パレンバン降下作戦5
分散降下した隊員らは、地上で次々と集結して行きます。後方は鹵獲したオランダ軍の大砲。

この徳永中尉と一緒に無事地上に降り立った星野少尉は、マレー語を駆使して自分達が敵ではない事を住民に伝え、日本軍への協力を呼びかけました。
徳永中尉の証言でも、中野関係者の事は伏せているものの、それらしき遣り取りが述べられています。

「これはいかぬと戦死者を社宅の中に安置して、負傷者を連れて前進を決心した。
この道路を下りこの附近に(中尾)中隊長と合し、このトツピングの所へ行つた。
所が彼等はここで戦争が済んだものと思ひ、マレー人にコーヒーを貰つたり煙草なんか吸つて遊んでゐる。
それで『俺達は戦争しに来たんだ』、『これから戦争か』、『さうだ』といふ譯である。
中の精油所を見たら非常に完全で『お前達は破壊装置してゐるか』、『してをらん』、『それぢや安心だ』」

星野少尉は製油所に潜入して爆発物が無いことを確認、後着の5名と合流して宣撫工作を行った後、別任務の為移動しました。

パレンバン降下作戦4
占拠した精油所で打ち合わせをする空挺隊員たち。

落下傘部隊は、オランダ軍との戦闘で蒲生中尉以下戦死・行方不明者39名を出しましたが、
進出してきた地上部隊と合流して精油所と飛行場の確保に成功します。

kawaminami

●パレンバン降下作戦の絵。川南護国神社慰霊祭にて。

「われわれは落下傘部隊をもつてゐた!
米国において考へられ、ソ聯において組織され、ドイツにおいて実戦化されたこの空の突撃兵
最も近代化された落下傘部隊を、われわれは誰も知らぬうちに持つてゐたのだ!
しかも海軍独自の落下傘部隊を持つのは、わが国が初めてでさへある
皇軍が蘭印セレベスのメナドに展開した、わが海軍の特殊空中部隊の活躍
スマトラのパレンバンに輝かしい降下戦術を駆使した、陸軍落下傘部隊の活躍は
米英の予想しなかつた奇襲作戦であつただけに、その狼狽ぶりは想像に余りあるが
われわれは落下傘部隊の武勲を讃へるとともに、陰でにじむ皇軍独特の苦心談を聴かう(大阪毎日新聞:昭和17年2月16日版より)」

パレンバン降下作戦
パレンバンの精油所を巡る戦闘。川南空挺慰霊祭にて

華々しいデビューを飾った落下傘部隊は「空の神兵」と称され、国内でもさまざまな記念行事が開催されました。
5月8日には読売落下傘塔での各種降下訓練実演、10日には日比谷公会堂での落下傘解説、戦談講話や、演劇「落下傘」、映画「落下傘部隊」の上映や「(陸・海軍)落下傘部隊の歌」の発表が行われ、銀座では17日迄街頭写真展を開催、川南では提灯行列まであったそうです。

この頃、落下傘部隊を讃える歌が数多く作られました。

藍より青き 大空に 大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

の歌詞で有名な「空の神兵(梅木三郎作詞 高木東六作曲)」は、現在も歌い継がれていますね。
他には「萬朶の桜散る姿こそ我等が降下の姿なれ」の「陸軍落下傘部隊の歌(山田耕筰作曲)」などが作られました。
また、空挺部隊を描いた映画も上映されています。
川南町史によりますと、昭和17年7月18日には映画「空の神兵」のロケハンが唐瀬原でおこなわれたとか。
あの映画のラスト、機上からの空撮や降下後のシーンに写っているのが唐瀬原の塩付降下場。
短い場面ですが、当時の川南の様子を窺い知ることが出来る貴重な映像です。
他の映画としては、「落下傘部隊肚途編・戦闘編」「加藤隼戦闘隊」等もありました。

空の神兵
パレンバンに降下する「空の神兵」。

海軍落下傘部隊
セレベス島のメナドに降下した日本海軍横須賀鎮守府第一特別陸戦隊。
 

実は1月11日に海軍落下傘部隊がメナド降下作戦を行っているのですが、新聞発表は陸軍のパレンバン降下発表の2月16日まで待たされる事となってしまいました。
「『空の特別攻撃隊』陸軍落下傘部隊のパレンバン急襲は、去る一月十一日海軍落下傘部隊によつて決行されたメナド攻略とともに、初陣のわが落下傘戦史に勝利の第一頁を記録したものであり、つゞいて二月廿日には海軍落下傘部隊のチモール島クーパン作戦が敢行され、精強日本落下傘部隊の存在を世界に示した。
(讀賣新聞「征空萬里、落下傘隊」より)」

プノンペンで挺進第2連隊のパレンバン出撃を見送った挺進第1連隊は、2月22日にスンゲーパタニーへ移動。そこでバンカランプランタンやサバンへの空挺作戦に備えました。
武田挺進第1連隊長は「第二聯隊はパレンバンに降下して大戦果を挙げた。我々は先を越されたのだ。こんな残念なことはない。
しかし、まだ戦は続いている。今度こそは我々の番だ。しっかりやろう(斉藤正之氏)」と部下を鼓舞します。
しかし、日本軍の進撃は予想外の順調さであり、空挺部隊の出番はありませんでした。
この後もラシオやベナベナ・ハーゲンへの降下作戦が計画されましたが、気象条件が悪く途中で引返したり、決行のタイミングを逸して中止となっています。

ラシオ空挺作戦に参加したのは挺進第1連隊全部(4個中隊)と挺進第2連隊の一部(2個中隊)計1000名及び輸送機45機。
これは、第56軍に押されてラシオ方面へ向かう重慶軍の退路を空挺部隊が遮断するという挟撃作戦でした。
落下傘降下と強行着陸を組み合わせてラシオの中国軍施設を制圧する予定だったものの、昭和17年4月29日、トングー飛行場を離陸した第1波降下部隊は厚い雲に阻まれて全機が反転帰還します。
引き返す途中に神保曹長の機が行方不明となり、トングーへ着陸寸前の副島中尉機も失速墜落して乗員全員が死亡。
2機の損害と20名以上の死者・行方不明者を出してラシオ降下作戦は中止となりました。

昭和18年6月には、ニューギニアのベナベナ及びハーゲンに建設されつつある敵飛行場の制圧作戦が立案されます。
7月にペリリュー島まで移動した第一挺進團でしたが、現地の第18軍は「例え空挺部隊が現地を占拠しても、険しい地形を踏破してベナベナ・ハーゲンへ地上部隊が進出するのは補給を含めて困難」と判断。空挺部隊の作戦案には消極的でした。
空挺部隊単独での攻撃も検討されますが、そうこうしているうちに敵の大空襲に晒されるようになり、降下作戦は9月25日に中止が決定されます。

一旦ペリリュー島へ戻った両連隊は11月12日に帰国の途につきます。
しかし、日本へ上陸する暇もなく、部隊は門司到着と共にすぐさま反転してスマトラへと向かいました。
その後、団司令部と飛行隊はメダン、挺進第1連隊はペマンタルシヤンタル、挺進第2連隊はシボロンボロンに待機、挺進飛行隊と合流して次なる出撃に備えた訓練を続けます。
※この時の任務には、インド国民軍兵士への落下傘降下指導も含まれていました。

しかし、敵の航空攻撃が激しさを増していった為、空挺部隊は昭和19年8月に内地へ帰還します。
ただ、新設の2個聯隊が訓練中だった川南に帰還部隊の居場所は無く、第1連隊は宮崎の住吉地区で、第2連隊は熊本の菊池飛行場で待機となりました。

空しく帰国した挺進第1連隊及び第2連隊と交代するように、挺進第3連隊及び第4連隊は新たな空挺作戦へ投入されることとなります。

因みに本家であるドイツでは、クレタ島降下作戦(昭和16年)における空挺部隊の犠牲の多さに驚愕し、以降大規模な落下傘降下作戦を行っていません。
ノルマンディーやマーケット・ガーデンといった大作戦に投入された連合国側空挺部隊に比べ、日独伊の枢軸国側空挺部隊は敗色が濃くなるにつれ、いずれも地上部隊として、または小規模な特殊作戦で使用されるに止まっています。
戦局の暗転と共に、日本陸軍落下傘部隊も悲劇的な運命を辿ることとなりました。

kawaminami

(第三部へ続く)

空挺給水塔 其の3 高千穂空挺隊

Category : 第三部・レイテ島の戦い |

軍服姿ではあったが、その日の榊原中尉は珍しく大きなふろしき包みを手に提げて、威勢よく院長宅へ顔を出した。
「あら、いらっしゃい。今日は大きな荷物を持って、何かご用でも?」と明るく迎える母の声。
「今日は。
今日は高鍋の叔母からことずかって、鍋女挺進隊でレーヨン工場に来て居る従妹に是を届けるんですよ」
「榊原さん、レーヨンの場所ご存じ?」
「いや、初めてだけど大きな煙突のある工場だからすぐ分かりますよ」
「それじゃ、お昼休みに合わせて会いにいらしたらどう……。公子、ご案内して上げたらいいわ」
気軽く言い残して、母は台所へ入って行った。
かぼちゃ、あんのお菓子パン、大豆と野菜のご汁、たくあん大根葉の漬物と、戦時食としてはボリュームの有る昼食を済ますと、延女(宮崎県立延岡高等女学校)の制服に着替え、私は家から400メートル先のレーヨン工場へ彼を案内した。
兄弟といえども、男女一緒に行動する事のはばかられた戦争中に、若い将校と肩を並べて歩いた気恥ずかしさと、近所や道歩く人の視線がすごく気になった少女時代のほのかな感傷が思い出される。
正門を入ると、ツーンと鼻をつく酸性の臭いが立ち込め、胸がムカムカして来たが、内で働く人達は空気の悪さに慣れて居るのか、平気な顔をして昼休みをくつろいて居た。
事務所で面会の手続きをしてから程なく、三つ編みに白鉢巻のほっそりした女学生が小走りに私達の前に立った。
白いへちま襟の上衣と縦縞のモンペ、黒いズックに高鍋高女(宮崎県立高鍋高等女学校)の名札をつけた少女は、二人の突然の訪問に面喰らい、戸惑って居る様に見えた。
「やあ、幸子暫くだったね。元気に頑張って居ますか」と声を掛けてから
「こちらの女学生は駅前の林病院のお嬢さんで、延岡高女一年生の林公子さん。部下と一緒に時々伺って、大変お世話に成って居るんだよ。
さあ二人とも向かい合って挨拶しなさい」
紹介に続いての号令に、二人の女学生は弾かれた様に最敬礼。
彼女のお母様が娘の無事を祈り、愛情を込めて一つ一つ詰めた衣類や食料品の慰問品で有ったと思うが……。
包みを手渡された時の彼女のうるんだ目、「有難う御座います」がやっとの小さな声を忘れる事が出来ない。
同時に“幸子さんは榊原中尉のお嫁さんになる人かも知れない”とふっと思ったりした。

北国公子(旧姓林)氏 「高千穂降下部隊と延岡高女」より

高千穂空挺隊

●「空挺落下傘部隊発祥之碑」の基礎部分にある高千穂空挺部隊の碑文。
レイテ出撃時に遺した「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」が刻まれています。
宮崎県川南町護国神社にて。

(第二部からの続き)

こうして華々しいデビューを飾った陸軍空挺部隊。
しかし、挺進第2連隊によるパレンバン降下作戦の後は待機を続ける日々が続きました。
計画されていたラシオやベナベナ・ハーゲンへの降下作戦は天候悪化や戦況の変化により中止。
漸く巡ってきた陸軍空挺部隊の次なる戦場は、フィリピンのレイテ島となります。
この作戦へ投入されたのは、挺進第3連隊と挺進第4連隊及び挺進飛行隊で編成された第2挺進團。
通称「高千穂空挺隊」でした。

昭和19年10月20日、ダグラス・マッカーサー率いる米軍の大部隊がレイテ島に上陸。
既に制空権を失っていた日本軍は奥地へと撤退しつつ、米軍との戦闘を開始しました。しかし、増援に向かう輸送船は米軍機の攻撃によって次々と撃沈され、レイテ島の日本軍部隊は飢餓状態に陥ります。
補給を回復するには、米軍に占拠されたレイテの飛行場群を1日でも早く破壊しなければなりませんでした。

10月24日、宮崎県川南で訓練中の挺進第3連隊に出動命令が下されます。
これが、第2挺進団(秘匿名「高千穂」)による、レイテ島の米軍飛行場群を制圧する「テ号」作戦の始まりでした。

第2挺進團の編成は下記の通り。
第2挺進團(高千穂) 団長 徳永賢治大佐
挺進第3連隊(香取) 連隊長 白井恒春少佐
挺進第4連隊(鹿島) 連隊長 斉田治作少佐
挺進飛行第1戦隊(霧島) 戦隊長 新原季人中佐
挺進飛行第2戦隊第1中隊(阿蘇) 中隊長 三浦浩大尉

1.高千穂は意図を秘匿しつつX-1日夕までに「アンヘレス」地区及び「リパ」地区に集中し、X日薄暮、戦爆主力の掩護の下レイテ島に進航、跳下(落下傘降下の事)す。
2.跳下部隊は主力を以て「ブラウエン」北、各一部を以て「ブラウエン」南及「サンパブロ」飛行場に跳下し まず敵飛行機、飛行場施設及資材を破壊焼却したる後「ブラウエン」北飛行場に集結し、尚武の斬込部隊と提携して為し得る限り同飛行場を確保す
3.着陸部隊はタクロバン及ドラッグ飛行場に強行着陸し 敵飛行機、飛行場施設、特に滑走路を破壊し、あるいは障碍を設け、まず夜間戦闘機の活動を封殺したる後、所在航空資材の覆滅に勉む

10月24日、第3連隊は唐瀬原を出発。
佐世保からはルソンへ向け空母隼鷹で出航します。
続いて25日には第4聯隊も動員発令を受け、赤城山丸にて出発。
新田原の挺進団司令部と挺進飛行第1戦隊は11月5日に後を追いました。

給水塔

●夜明け前の挺進第三聯隊兵舎給水塔。宮崎県川南町唐瀬原にて

高千穂空挺隊は、ブラウエン北(ブリ)、ブラウエン南(バユグ)、ブラウエン中(サンパブロ)、ドラグ、タクロバン各飛行場群への落下傘降下及び輸送機ごとの着陸強襲を行い、現地第16及び第26師団の斬り込み部隊と連携して飛行場を制圧する計画でした。
第一波降下部隊の編成は下記のようになっています。

ブラウエン北飛行場 第3連隊 白井恒春少佐 輸送機17 降下 
ブラウエン南飛行場 第3連隊 桂善彦大尉  輸送機6 降下 南北合計330名
サンパプロ飛行場  第4連隊 龝田大尉 輸送機3 降下 24名
ドラッグ飛行場   第3連隊 竹本中尉 重爆2 胴体着陸 26名
          第4連隊 宮田嘉孝中尉 輸送機7 降下  50名?
タクロバン飛行場  第3連隊 佐藤中尉 重爆2 胴体着陸 13名
          第4連隊 榊原大尉 輸送機2 降下 13名

11月14日、挺進團司令部と第3連隊が南サンフェルナンドの製糖工場倉庫(宿舎)に到着。
12月3日には第4連隊も合流しました。
高千穂隊がブラウエン降下作戦を準備する中、別の部隊がブラウエンに空挺攻撃をかけたというニュースが伝えられます。


給水塔

高千穂隊に先んじてブラウエンへの空挺強襲を図ったのは、中野学校出身の中重男中尉以下、台湾高砂族義勇兵ら48名の遊撃兵で編成された「薫空挺隊」でした。
11月26日夕刻、薫空挺隊員を乗せた飛行第208戦隊のダグラス輸送機4機はリパ飛行場から出撃。
結果は、ブリ飛行場に突入した1機が着陸直前に対空砲火で撃墜され、他の3機がドラグやバレンシアの海岸に不時着というものでした。
ドラグのリーサル附近海上に不時着した機では、味方と間違えて救助に来た米兵と交戦して2名が戦死、その他十数名は海岸の沼地に撤退。
アブヨグのバト河口に不時着した機でも1名が戦死、他の乗員は密林に姿を消しました。
バレンシアに不時着した機の隊員は、第26師団と一緒に行動しているところを目撃されています。
しかし、彼等がその後どのような最期を遂げたのか、誰一人として生還した者がいない為何もわかりません。

給水塔

この事が高千穂空挺隊に伝わるや、隊内で激論が交わされました。
薫空挺隊への称賛と「落下傘兵以外の者にブラウエン攻撃の先を越された」という反感がない交ぜだったようですが、生還の見込み薄いドラグ、タクロバン飛行場への突入が追加されたのは、薫空挺隊への対抗心が一因ともされています。

空挺部隊が露払いをしてから主力部隊が侵攻するという、一応は空挺作戦のセオリーに則ったブラウエン攻撃作戦の中で、ドラグ及びタクロバン飛行場攻撃は無謀としか言いようの無い計画でした。
ブラウエンから離れた地点にある両飛行場は、例え空挺部隊が制圧に成功したとしても、友軍がそこ迄進出する予定は無かったのです。
上層部は何を考えていたのか、この片道作戦を認可してしまいました。

両飛行場攻撃部隊とも玉砕は覚悟の上でした。
タクロバン攻撃隊指揮官に志願した榊原大尉は、第1部で取り上げた小丸川水難事故で殉職した8名の位牌を持って出撃したとあります。
水難事故への償いに苦しみ続けた彼にとって、漸く見つけた死地がタクロバンだったのでしょう。

ここで、話を同年4月に戻します。

ある日の昼下がり、宮崎県延岡市にある林病院へ一人の男性が訪ねてきました。
酒に酔った男は、長女の林公子さんが見守るなか「初めてお目に掛かります。自殺の方法を教えて頂き度く伺いました」と林牧太郎院長へ自殺用の薬剤を処方するよう強要します。
水難事故で部下を死なせてしまった自分は死んで償うしかないのだ、と語る彼を林院長は諭し、自殺を思い止まらせました。
やがて落ち着きを取戻したその軍人は、「生きて部下の分まで国の為に尽しなさい」という院長の言葉に頷きます。
これが、榊原中尉と北国公子(旧姓林)さんの出会いでした。

「荻町から三軒屋に続く七間道路では、荷物を積んだ馬車や大八車が、時折カラカラ音を立てながら通って行く。
其の中を、午前十時過ぎの上り列車で延岡駅に下りた一団の兵士が上官に連れられ林医院の方へ歩いて行くのを、近所の人は興味深げに眺めていた。
「御免ん下さい」
前庭から垣根越しに男性の声。
日頃客の多い院長宅では、人数の多さは余り気にしない方なのだが、いきなり、くぐり戸から中庭に入って来た10人近くの兵隊さんに、又しても驚かされた。
一体何事かと、勉強部屋に居た兄が真っ先に飛び出して来た。
「お早う御座います。榊原です。
今日は落下傘部隊の部下を連れて遊びに来ました。
おい、皆様へご挨拶申し上げろ」
中尉の号令で直立不動の姿勢を取った彼らは、院長家族に対して挙手の礼。
「良くいらっしゃいました。さあさあ、お上がりなさい」
院長一家も心和んで彼らを温かく座敷へ招いた。
海兵志願だった兄は、18才くらいの若者と気が合ったのか、時々大声で笑ったり、肩を叩き合って話が弾んで居た。
榊原中尉は酒が好物と見えて、たくあんとおろしなますを摘まみに、部下たちと気炎を上げて居た。
「公子さん、女学校一年生でしたね。此のピアノで歌を聞かせてほしいな!」
突然彼は座敷に置いて有ったピアノを指差し、何か歌って!と私に所望した。
まだ場慣れしない私は、恥ずかしさ一杯で隣の部屋へ逃げ込み、今の話を早口で告げた。
座敷へ行った父と榊原中尉の間で何の話が有ったのか、暫くして父が「延女の綾校長にお願いして、兵隊さん達に女子学生の清らかな歌声を聞かせて挙げたいものだ」と、誰に言うとは無しにつぶやいて居たのを思い出す。
午後二時頃、母の心尽くしのおにぎりやふかし芋で、お腹が一杯に成った兵士達は、満足した顔で高鍋へ帰って行った」
藤野憲三編「川南町開拓地に生きて」より 北国公子氏の証言

大尉は、それからも林医院をたびたび訪れます。
一度などは、榊原中尉の母が息子の非礼を詫びる為に同行してきたこともあったのだとか。

給水塔

翌月初旬。
部下を連れた榊原大尉は、放課後の宮崎県延岡高等女学校にトラックで乗り付けます。
男子禁制の女学校でしたが、綾哲一校長は彼らを快く迎え入れました。
「校内にいる生徒はすぐ講堂に集まってください」との放送で、まだ学校に残っていた藤原美々子さんら女生徒10名ほどが講堂へ向かうと、そこには空挺隊員たちが待っていました。
「戦地へ赴く部下の為、思い出を作ってやりたい」という榊原大尉の希望を叶える為、林院長が知人の綾校長に女生徒との交流を依頼しておいたのです。
「きみ、何年生?」「はい、四年生です」
藤原さんと短い会話を交わしたあと、「勇ましい歌がいいですか?」と尋ねる同校の池田先生に、大尉は女学生たちの好きな歌を聴きたいと希望します。
先生は、彼等の心に残る歌を選びました。
♪眠れ 眠れ 母の胸に…
空挺隊員達は静かに目を閉じ、女生徒の合唱するシューベルトの子守歌に耳を傾けました。

一週間後、大尉はメンバーを入れ替えて再び来校します。
前回同様、ひととおり合唱が終った時のこと。
「大変陽気で、茶目っ気の多い此の都会的な青年将校は、悪戯っぽい目でにこにこしながら、今度はバスケットの交歓試合を申し出られた。
「ええっー、私たちとバスケット?」
榊原中尉の此の突然な申し出に私たちは驚いた。
然し、そこは「うん、やろう」と言う事に成って、即席チームが出来上がり、雨天体操場のゆか板をきしませながら、早速バスケットが始まった。
「こっちへ投げて」「ハイ、回して、回して」
互いに大きな声を掛け合って生徒達は走り回ったが、中々ボールが入らない。
然し背の高い彼らは、ちょっとジャンプしては簡単にシュートを決め、その度に、生徒たちはキャアキャア言って口惜しがった。
若くたくましい彼らは、巧みなパスでボールを回し、防御しようと必死で腕を広げる生徒と派手にぶつかっては、あちこちで笑い声が絶えなかった。
もう、皆汗びっしょり……。裏の堤防を越えて吹き込む五ヶ瀬の川風が、ぬれた肌に何とも心地良かった。
別室で、素早く軍服に着替えた彼達が、私たちの前に直立不動で並んだが、微動だにせず、正面を見据えた顔のなんとさわやかで頼もしかった事か……。
「皆様にお礼を申し上げろ」
榊原中尉の張りの有る声が響いた。
「有難う御座いました」
彼等は一斉に挙手でお礼を言い、私達もはにかみながら是に答えた。
此の時、彼らが半年後には「大東亜戦争」の天王山となるフイリッピン・レイテ島に特効隊として出撃、帰らぬ人に成られるとは、私達には知る由も無かった。
出撃を前に、死を覚悟した榊原中尉が、自分自身に青春の証を刻みつけ、死地に赴く部下たちにも女学生との淡い思い出を作って上げようと、あえて禁男の女学校に、部下のメンバーを替えて、二度来られたのだろう」
藤野憲三編「川南町開拓地に生きて」より 藤原美々子氏の証言

後年、宮崎日日新聞の取材に対し「彼らはとても明るく、死が間近に迫っているようには見えなかった」と藤原さんは語っています。

その帰りに林医院へ立ち寄った榊原中尉達は、林公子さんに女生徒とのひと時を嬉しそうに報告していったそうです。
満足したように川南へ帰っていった空挺隊員は、二度と延岡高女を訪れることはありませんでした。
訪れたとしても同じことだったでしょう。
延岡高女の生徒たちも、翌月から軍需工場への学徒動員により次々と学び舎を去っていったのです。

高千穂空挺隊がレイテへ出撃する、半年前の出来事でした。

水難事故
「何日征くか 何日散るかは知らねども 今日のつとめに 吾ははげまん」
小丸川水難事故慰霊碑の拓本。詠んだのが小丸川で殉職した伊藤大尉なのか、それともレイテへ赴いた榊原大尉なのかは不明。
宮崎県児湯郡高鍋町にて。

なかなか到着しない挺進飛行隊を待ちながら、高千穂空挺隊はレイテ出撃準備を整えます。
しかし、空挺作戦と連携して地上侵攻する筈の現地軍は、武器はおろか食糧すら欠乏している状態でした。
作戦前に現地を視察した第14軍の田中参謀は、痩せ衰えた将兵達の姿にショックを受けたといいます。
山地に立て篭もる第16師団は、僅か4個大隊程度にまで戦力が減っていました。
陽陸前の火器・食糧を空襲で失った第26師団も、乏しい装備のまま険しい脊梁山脈を越えてブラウエンに辿り着かなければなりません。

第16師団からは2千名が出撃したものの、途中で食糧が尽きて行動不能に陥りました。
神谷大佐の第9連隊400名のみが何とかブラウエンに到達、附近に潜んで空挺部隊の降下を待ちます。
第26師団も同様で、ブラウエンに辿り着けたのは重松大隊だけでした。
12月5日の降下作戦は挺進飛行隊の到着遅延で6日に延期されます。
しかし、ブラウエン付近に潜む地上部隊へそれを伝える術はありませんでした。

机上の空挺作戦と、戦地の現実は悲惨な程に乖離していたのです。

台湾で再編成を終えた挺進飛行戦隊はアンフェレスに到着、5日になって漸く降下部隊と合流しました。
1日遅れでテ號作戦は開始されます。

「花負いて 空射ち征かん 雲染めん 屍悔なく 吾等散るなり」
南サンフェルナンド倉庫の壁にこう書き残し、昭和19年12月6日16時40分、高千穂空挺隊第一波降下部隊470名は36機に分乗してクラークを飛び立ちました。
編隊はバゴロドで護衛戦闘機隊と合流し、一路ブラウエンを目指します。

この時、日本機大編隊襲来の報により、米軍は迎撃体制を整えつつありました。

空挺


自軍の損害を含めて詳しく報道されたパレンバンの時とは違い、高千穂空挺隊の作戦は国民に対して表面的な内容しか発表されていません。
昭和19年12月、読売新聞掲載の「紅蓮の敵基地へ 天降る純白の華」には、挺進飛行隊空輸隊長新原季人中佐の談話として次の様な話が載っています。
「六日の午後、基地を進発したわが輸送機隊は、直掩戦闘機の護衛のもと大編隊を組んで一路ブラウエン飛行場へ向かつた。
前方に生じた悪気流と東北風の風雨に悩まされつゝも一路敵飛行場へと速度を早めた。
天佑か、敵戦闘機の邀撃もなく悠々敵地上空を進むわが編隊の高度は、左方の雲間から見え隠れするレイテ脊梁山脈と正に同じ位だつた。
瞬間、左方の山稜から敵機関砲の物凄い砲火が真横から水平に注がれて来た。
ブラウエン飛行場の二本の滑走路が眼下に見えた。
そのとき周邊の地上砲火の火網が火のスコールとなつて機の周囲に炸裂して来た。
敵飛行場ははや真下だ。
この周邊には友軍機の先制猛爆撃による敵燃料集積所の火焔と思はれる火柱が数本、四邊一帯は火の海だ。
敵は周章狼狽、高角砲、高射機関砲を総動員する火網陣に加ふるに、レイテ湾内に碇泊する数十隻の敵艦艇よりもわが編隊めがけて一斉に降り注ぐ弾雨は、さすがに物量を誇る敵だけに、自分も今まであれほどの火網に包まれた(こ)とは生まれてはじめてであつた。
わが神兵達は悠々自若機内で携行の夜食のあと、必勝の信念を眉宇に敵飛行場の真只中に一兵また一兵、美しい花と開いて降下して行つた。
時正に○時○○分(検閲による伏字)、薄暮迫るブラウエン飛行場上空で自分は神兵達の健闘を祈念しつゝ、次の任務のために高度をぐつと上げて基地へと向かつたのである」

パレンバン1



作戦の結果については、下記のように発表されました。
「白い傘が一列にパツと咲き、一瞬敵基地上空は白蓮が満開する。
低空降下のため敵は応射する遑もなく瞬時にして地上に落下だ。
地に下った空の神兵達はかねてよりの猛訓練により直ちに行動、忽ち組立を終つた○砲(検閲による伏字)まで交へて猛射開始、敵地上施設、飛行場の爆破に向かふ。
一時は飛行場の草原を疾風のやうに突進する。
忽ち敵の基地群は爆音に包まれ朦々たる黒煙があがつた。
わが奇襲は大成功を収めたのだ。
時に○時○分(検閲による伏字)報告第一報が降下地上部隊より基地に打電された。
『われ攻撃に成功せり』(〃)」

新聞記者が一緒に降下した訳ではないので、戦闘の描写は想像で描かれたもの。
この勇ましい発表と違い、実際の高千穂空挺隊は悲惨な末路を辿っています。

レイテ降下作戦

●煙幕立込めるブラウエンへ降下する高千穂空挺隊と炎上しながら突入するタクロバン・ドラグ攻撃隊。
川南護国神社の空挺慰霊祭にて。

ブラウエン上空に現れた日本軍の大編隊に対し、米軍は地上及び艦艇群からの猛烈な対空砲火で迎え撃ちました。
先行の爆撃機が煙幕を展開していたものの、日本機は兵を降下させる前に次々と撃墜されていきます。

集中砲火を浴びながらタクロバンとドラグ飛行場へ向かった13機の編隊は、1機も戻って来ませんでした。
タクロバン攻撃隊の大部分は突入前にレイテ湾上空で撃墜されます。1機のみが目標に到達し、駐機中の米軍機5機を巻き込んで墜落炎上。
ドラグ攻撃隊も、目標到達前に全機撃墜されたと推定されています。

8名の位牌を入れた図嚢を抱いてタクロバンへ向かったあの榊原大尉は、どのような最期を遂げたのでしょう。
それを知る人はいません。

高千穂空挺隊
夕暮れのブラウエン飛行場へ降下する高千穂空挺隊。 川南空挺慰霊祭にて

いっぽう、挺進第3連隊を中心とするブラウエン北・南及びサンパブロ攻撃隊279名は、18時50分に高度300メートルから一斉に降下を開始しました。
ある機体では、降下開始直後にアンカーケーブルが破損、数名が不開傘のまま飛び降りてしまうという死亡事故も発生しています(大量の装備携行の為、予備傘を装着していませんでした)。
地上に降り立った各攻撃隊は、混乱状態のまま戦闘へ突入しました。
ブラウエン南に降下した筈の第2中隊からは連絡が途絶え、そのまま桂中尉以下全隊員が行方不明となります。
目標のバユグ飛行場が攻撃を受けたという米軍の記録はありませんので、第2中隊は目標を誤り、サンパブロに降りてしまったのかもしれません。
一方、300名(実際は124名)もの日本兵が降下したと記録されているサンパブロ飛行場では、激しい攻防戦が展開されました。
穐田中隊はサンパブロ飛行場施設の破壊に成功した後、ブリ飛行場方面に移動して戦闘を続けた模様です。
当夜の飛行場には少数の偵察機しかおらず、残念ながら米軍航空戦力に与えた打撃は大きくありませんでした。

翌日以降、体勢を整えた米軍は3個大隊でこれを包囲、袋の鼠となった日本空挺隊の殲滅を開始しました。
12月10日19時30分、米軍第5航空司令部に突撃を試みた20数名の日本兵が全滅。
これを最後にブラウエン南・サンパブロでの戦闘は終了します。

給水塔

残るブラウエン北に降下した第4中隊は、白井恒春挺進第3連隊長の掌握した60名と土屋少佐の70名に分断されながらブリ飛行場の占拠に成功しました。
「23:00 本部の一部集結す。
此の間、一部兵力を以て滑走路上観測機約十機を発見、爆砕焼却し全機を破壊すると共に幕舎、弾薬集積所位置等を焼却し、第2次挺進隊に飛行場標示のため、所在ガソリン缶を天明まで引続き焼却す。
約60名集結するや滑走路北側、森林内の飛行機格納掩体等を利用し、陣地を占拠し黎明迄に工事を命ずると共に目標となるべき樹木に国旗を掲揚し、占領確保を明示せり。
此の間垣兵団の斬込隊も、重松大隊の斬込隊と共に不明なり。天明と共に南方並に西方に銃声しきりなり」
昭和19年12月6日の白井連隊長の手記より

白井隊は、夜通しかがり火を焚いて第16師団の突入と後続部隊の到着を待ちました。
しかし、第一波降下隊の空輸機39機のうち、帰還できたのは僅か17機。
それも被弾損傷機多数で、後続降下部隊の出撃は不可能でした。
23時、第2次降下部隊を載せてリパを飛び立った4機と支援の重爆2機中、河村機が離陸直後失速して墜落。他機も雨雲に阻まれて引き返します。
また、レイテ上空に達した1機からは空挺隊員が制止を振り切って降下、そのまま全員が行方不明に。
続いて修理を終えた4機も降下チームを載せて離陸していますが、こちらも悪天候で引き返す途中に鈴木機以外の3機が墜落。
遂に、第2波の降下は中止となりました。

そのような状況とは知らないまま、ブラウエンを占拠した白井隊は空と地上からの援軍を待ち続けます。
しかし、第二派の降下はおろか付近に潜んでいる筈の地上部隊も姿を見せません。
実は、予定日になっても一向に始まらない空挺作戦にしびれを切らした地上部隊は、一旦ブラウエンから撤退しつつありました。
その途中にいきなり高千穂空挺隊の降下が始まったので慌てて反転、第16師団と第26師団の斬込隊はブラウエンへ突入します。

その頃、土屋隊は白井隊の反対側に陣取って戦い続けていました。
「土屋少佐の指揮する兵力16名の行動。
跳下と共に敵飛行場内飛行機、幕舎、ドラム缶、弾薬置場を焼却し、破壊を続行し、7日、天明後、北飛行場北方地区に位置しありしが、160歩兵第20連隊斬込隊約200名と連絡なり。爾後、其の指揮下に入り、挺進部隊は主として飛行機、ドラム缶に目標を指向し、7日夜、8日夜、9日夜と斬込みを継続し、敵飛行機諸資材施設を破壊焼却し続けたる後、10日垣兵団命令により西方高地方向に転進す。爾後跳下者逐次垣兵団に集結し、士気旺盛1月2日73名の兵力に達す」
と白井連隊長が書いているとおりに、第16師団斬り込み隊との合流にも成功。

いっぽうの白井連隊長は翌朝8時半から始まった米軍戦車2両による反撃により、半数の隊員を失います。

「08:30頃、戦車(MG)2、MG5を有する敵約350名迫撃砲支援の下、南方及東方より逐次包囲態勢をとりつゝ攻撃し来り。
東方より集結兵力を以て反撃するも、銃砲火の集中により遂に北方約1000米密林内に遮蔽す」

18時頃、白井隊の生存者約30名はブリ飛行場から撤退し、ブラウエン南攻撃隊と合流しようとしますが、バユグ飛行場に降下した筈の桂中隊は影も形もありませんでした。

「18:00 飛行場夜襲により奪還を企画し南進せるも、飛行場北側と判断せられる方向より射撃を受けしを以て西方より迂回せんとせしに、深さ腰を没する湿地帯に陥り、行動不能なり。
進路南方により前進中。
8日05:30 南飛行場滑走路西端に達す。天明の近迫と現在位置との関係に鑑み、天明迄にダコタン河南側に潜入し、垣・泉両兵団の攻撃進捗を待つべく決意し南進中。
ブラウエン―ドラッグ道上に約20輛の自動貨車並に一部敵陣地等を発見、之を全車破壊撃滅し、道路上南下せしが敵幕舎左右に林立し、黎明となり、敵兵2、3名幕舎前に我等を見るも傍観せるを以て、前進を開始し河岸に至るに、敵監視兵2名の誰何を受くるに会い、之等を刺殺すると共に天明の初期ダコタン河を渡河し、潜伏前進し敵作戦道路(自動車)側方約50米、敵砲兵陣地1、迫撃砲地2の後方に潜伏し、飛行場方向の戦況の進展を待機観察するに決す」

白井隊は米軍と交戦しつつ、18日に第26師団の重松大隊と合流。漸く後続部隊が来ない事を知らされます。

「8日終日ダコタン河を攻撃する。
敵兵力300、迫撃砲4門、射撃猛烈を極む。時に1400(7文字不明)、飛行場に対する我が攻撃の進展せしを観察し、更に状況の進展を待機するに決し、日没と共に位置を移動し、転々10日迄現地付近にありしも、10日夜遂に泉兵団と合致し、後図を策する目的を以て西進を開始す。
途中、敵の攻撃を受け、逐次戦力消耗し、18日重松大隊とマタグワ東方4粁附近ジャングル中に遭遇せし時の兵力聯隊長以下12名となる。
其後重松大隊と共に行動し、22日287高地に於て野中大隊と合致す」

第26師団の集結地である287高地で残存部隊の掌握を図ろうとした白井連隊長は、第16師団と同行している土屋隊と連絡を取るために6名を派遣。しかし、敵の襲撃を受けたのか戻ってきたのは1名だけでした。
「時に先行せる通信下士官外1名と追及者6名増加せるも、副官以下6名25日第16師団との連絡のため派遣せるも、遂に1名脱出帰還せるのみ。
爾後、野中大隊と行動を共にし、28日夜、287高地初、12月31日(文字不明)に進出、1月19日リモン南方地区にて本道突破、1月25日星兵団着、26日尚軍司令部に到着せり」
12月28日より飢餓とマラリアに苦しみながらジャングルを踏破し、翌年1月26日に第35軍のいるカンキポット迄辿り着いた白井連隊長も、2月4日には栄養失調で亡くなりました。
第16師団と一緒に退却中だった土屋隊の消息も途絶え、ブラウエン北攻撃隊も全滅します。
白井・土屋両隊の最後を記した白井連隊長の手記だけが人の手から手へ渡され、カンキポットから日本へと持ち帰られました。

總合戦果(ブラウエン南北飛行場、サンパブロ飛行場)
以上各部隊の残存集結者の戦果を綜合すれば左の如し。
但し本戦果は残存者82名の戦果に過ぎず、爾今の約300名は戦闘行動並に生死不明にして戦果を確認し得ず。

戦果表
1、飛行機 
P38 41機
戦闘機 24機
ダグラス輸送機 6機
観測機 27機

2、戦車
戦車 12両
自動貨車 42両
自動車 5両
兵器弾薬 多数
高射機関銃 3門
〃弾薬 多数
幕舎 55
遺棄死体 100~150
其他航空材料・被服・物件 多数
(以上、白井連隊長の手記より)

こうして、白井連隊長以下ブラウエン第一波降下部隊は文字通り消滅します。
生存者は、レイテ湾上で撃墜されて海上漂流中に捕虜となったタクロバン・ドラグ攻撃隊の飛行士1名、空挺隊員3名だけでした。

空挺部隊1


ブラウエン降下作戦の翌7日、米軍はレイテ島西のオルモック湾から上陸を開始しました。
これによりテ號作戦は中断となり、出撃待機中の高千穂第三次降下部隊はこの防御支援に回されます。
輸送機が足りない為、斉田少佐率いる挺進第4連隊481名は12月8~14日にかけて6回に分かれパレンシアへ降下しました。
味方勢力圏への降下でしたが、12日には降下を終えた輸送機4機が敵機に遭遇、全機撃墜されています。
降下部隊のうち、斉田連隊長の部隊はオルモック防衛に、大村大尉らは第1師団が守るリモン峠へ展開しました。
8日午前7時に降下した第1中隊90名はオルモックへ辿り着いたところで米軍歩兵部隊と遭遇、交戦中に砲撃を受けて半数の隊員を失います。
10日に降下した斉田少佐以下84名は、挺進團司令部から35軍司令部に派遣されていた稲本少佐の伝達によりオルモック東北方面へ展開しました。
以降14日までに降下を終えた斉田部隊は陸軍や海軍陸戦隊と合流、米軍と激しく交戦。
当初は白昼の強襲を行っていたのですが、米軍の反撃で大損害を受けた部隊は夜襲へと方針を切り替えます。
高千穂空挺隊は数名単位の班に分散し、夜間敵陣地に侵入しては破壊工作を繰り返しました。
しかし、彼我の差は圧倒的であり、12月16日には米軍が防衛線を突破。斉田隊は戦力をすり減らしながらカンキポットへ撤退します。
輸送機の不足により、オルモック降下作戦も14日で打ち切られました。

パラシュート

此の際、もうひとつの空挺作戦がおこなわれました。
13日にネグロス島近海に敵船団が出現したため、警備の手薄なバゴロド地区へ高千穂隊残余500名の空輸が計画されたのです(こちらは降下作戦ではありませんでした)。
17日に5機、18日に3機で本村大尉率いる第3連隊がネグロス島シライ飛行場へ向かいますが、途中で2機が撃墜された為にバゴロド空輸作戦も中止されます。
ネグロス島へ空輸できたのは本村大尉以下60名のみ。現地警備隊の訓練を担当した本村隊ですが、3月29日に上陸を開始した敵と交戦、生存者は30名程でした。

その後、オルモックへ降下した斉田隊は各地で激戦を続けます。
14日に降下した重火器中隊の大村隊は第3中隊と合流、総勢57名がリモン峠へ赴きました。
第1師団に加わった高千穂隊は迫撃砲を用いて米軍と交戦、10名の隊員を失って12月21日に撤退。
第1師団と共にカンキポットへ到着した大村隊は軍司令部直轄部隊に組み込まれました。
斉田挺進第4連隊長も、白井挺進第3連隊長死去の翌日にカンキポットへ到着しています。

カンキポットで斉田少佐が掌握した高千穂空挺隊の残存兵力は、指揮下の第4連隊員百数十名に加えて白井連隊長を失った第3連隊員十数名。
これらの高千穂空挺隊員は、地上及び海上の戦いに投入されました。

昭和20年3月10日、挺進第4連隊長斉田少佐以下76名は第35軍司令部直衛のためにセブ島への転進を命じられます。
大発2隻に分乗してタコボンヘ上陸した部隊は、20日よりセブ市内で軍司令部警備の傍ら戦力回復と糧秣確保に努めました。
25日には米軍がセブ島へ上陸したため、第35軍司令部は4月10日にミンダナオ島への海路退避を決定。
高千穂空挺隊から選抜された22名が、この警備チームとして同行することとなります。別途、大村隊56名はセブ島に残りました。
転進にあたって軍司令部要員と空挺隊員は5隻に分乗、10日20時よりミンダナオ島メデリンを目指して島伝いに進みました。
抗日ゲリラ側もこれを察知し、追撃に移ります。

11日18時、ネグロス島に寄港中の5番艇がゲリラの襲撃を受けて軍司令部の藤尾大尉が戦死。
12日15時、3番艇がレフジオ島での炊事中にゲリラと交戦。
14日6時頃、1番艇と2番艇がレフジオ島でゲリラと交戦。軍司令部大曽根参謀以下3名が戦死します。
15時頃、5番艇はズマゲテ付近の無人島へ上陸。船体修理中に敵の攻撃を受けて直ちに出港するも、ゲリラ側はボートでこれを包囲。
高千穂隊も向少尉以下奮戦しますが、戦死・負傷者続出の末に弾丸も尽きて海へと没しました。
16日14時半、1、2番艇はタモイ岬から迫撃砲攻撃を受けるもこれを撃退。この際に空挺隊の辻井・山根曹長が戦死しました。
19日、ミンダナオへの帆走が不可能と判断した1番艇はネグロス南端への帰着を決定します。
此の日、米軍哨戒機の攻撃で軍司令官鈴木中将が戦死、2度目の空襲で高千穂隊の玉井大尉、富田軍曹が戦死、3度目の攻撃で軍司令部龍崎参謀が戦死。1番艇乗員も海没しました。
2番艇だけは斉田少佐以下団結してミンダナオへ辿り着きました。しかし、其の後の戦闘で斉田連隊長は行方不明となっています。
4番艇の乗員はネグロス島ズマゲテで船が故障した為にカガヤン海峡突破困難と判断、同地警備部隊の指揮下に入りました。
セブ島の大村隊は第57連隊と共にイリハンで戦います。生存者は僅か十数名でした。
木下大尉率いるカンキポット残留の空挺隊員達はどうなったのか、生還者がいないので何も分かりません。

高千穂空挺隊
バレテ峠における高千穂空挺隊と米軍の攻防戦。 川南空挺慰霊祭より

各地に展開した高千穂空挺隊が損耗していく中、レイテ降下作戦、オルモック降下作戦、バゴロド空輸作戦に参加しなかった兵員が残されていました。
その数400名。
徳永第2挺進団長の掌握するこれら高千穂空挺隊残存兵力は、南サンフェルナンドで待機を続けていました。

マニラの第4航空軍司令部警備を命じられた徳永団長の部隊は、リンガエンへの米軍上陸によって戦闘態勢に入ります。
第一挺進集團への復帰具申も交通不能の為に断念。
1月16日には第4航空軍の富永司令官が現地部隊を見棄てて台湾へ逃亡した為、徳永隊はルソン島に残って第4飛行師団長の指揮下で戦うこととなりました。
山下軍司令官の予備隊としてゲリラ戦を命じられた徳永団長は、昭和20年3月12日より空挺隊を遊撃隊本部と8コ遊撃中隊に再編成。13日よりバレテ峠北方7キロにある鈴鹿峠の西方高地(徳永隊は「高千穂山」と呼称)へ展開します。
州境突破を図る米軍2コ師団に対し、徳永遊撃隊は後方撹乱戦術でこれに抵抗。悪天候に乗じて切込隊30組で米軍の背後へ浸透襲撃し、正面に展開する敵砲兵陣地を破壊・潰走させます。
次いで徳永隊から抽出された遊撃チームがバレテ方面の攻防戦に投入されますが、5月27日には米軍の突破成功によって全滅。
6月16日、鉄兵団の撤退によって徳永遊撃隊は敵中に孤立してしまいました。
山下軍司令官との連絡も途絶、飢餓による死者も続出した高千穂空挺隊員は自活行動をとりつつ8月23日にピナパガンへと退却。
アンフェレエスにいた挺進飛行隊地上要員120名も高千穂隊残存兵力と合流、輸送機での台湾脱出に失敗したため徳永団長らと共に地上戦力として戦います。
彼らが軍使の報告によって8月15日の終戦を知ったのは、9月10日のことでした。
18日、徳永団長は陸海軍残余兵900を合流して武装解除に応じ、バタンガス収容所へ送られます。

挺進第3連隊と第4連隊は白井・斉田の両連隊長まで失い、激しい戦いと飢餓によって多数の将兵が犠牲となりました。
フィリピンへ赴いた高千穂空挺隊員のうち、日本に生還できた人は僅かだったそうです。

比島作戦で散った陸軍空挺部隊は、高千穂空挺隊だけではありません。
もうひとつの空挺部隊、挺進第一集団の滑空歩兵たちもフィリピンへと向かっていたのです。

(第四部へ続く)

落下傘部隊

空挺給水塔 其の4 滑空歩兵部隊

Category : 第四部・ルソン島の戦い |

ヒルメシヲドッサリ喰ッタ。
喰ッテ、ブラブラ帰ッテクルト、イママデ何ヲシトッタ、スグ用意ヲセイ、グライダァニ乗ルンジャ。
生レテ、ハジメテノ、ボクノ空中飛行ガ始マル。
ゴチャゴチャト、緑色ノベルトノツイテイル落下傘ヲ着ケタ。
勇マシイ気ニナッタ。
同乗者十三人アマリ。
ヨイ数デハナイ。
赤イ旗ガフラレタ。
ガツント、ショックガアッタ
スルト、枯草ガ、モノスゴイ速サデ流レハジメタ。
ウレシクナッテ、ゲラゲラ笑ッタ
枯草ガ沈ンデ行ッタ
コノ、カワイラシイ、ウツクシイ日本ノ風土ノ空ヲアメリカノ飛行機ハ飛ンデハナラヌ

竹内浩三「筑波日記」三月一日より


滑空
筑波上空でク―8滑空機を曳航する滑空飛行戦隊。川南空挺慰霊祭にて。

(第三部からの続き)

高千穂隊とは別の空挺部隊として、挺進第1集団もフィリピン防衛へと派遣されています。
こちらは落下傘降下部隊ではなく、挺進第五連隊を茨城の西筑波で再編成した滑空歩兵部隊を中核としていました。
滑空歩兵部隊は、滑空機(グライダー)での着陸強襲をおこなう空挺部隊。
ヘリコプターが実用化されていない第2次大戦当時、各国の空挺部隊では重装備の空輸手段としてグライダーを多用しています。

日本陸軍の空挺部隊には、宮崎県のパラシュート降下部隊と茨城県のグライダー降下部隊が存在していた訳ですね。

川南の挺進練習部でグライダー運用の研究が開始されたのは昭和17年のこと。
軽火器しか携行できない落下傘部隊と違い、重火器もろとも着陸強襲する滑空部隊はこうして誕生しました。
挺進第1~4聯隊はパラシュート部隊としての機能を残し、グライダー部隊は追加での編成となります。
また、空挺作戦能力を強化する為に装甲・工兵・対空・通信といった支援部隊も必要でした。
昭和18年8月10日、挺進第5連隊、挺進戦車隊、挺進工兵隊、挺進通信隊が続々と新設されます。
これらのうち、挺進第5聯隊だけは宮崎県から茨城県の西筑波へ移動。
更に一般部隊からの転属者数百名を加えて滑空歩兵第1聯隊と第2聯隊、及び対空部隊である挺進機関砲隊へと改編されました。

11月21日、先に創設された第一挺進團と第二挺進團を含めた陸軍空挺部隊群は、挺進練習部から再編された「挺進第一集団」の下に纏められます。

建前上は師団規模となった挺進第一集団ですが、実際は各個バラバラに戦地へと投入されていきました。
既に挺進第三聯隊および第四聯隊を中心とする第二挺進團は「高千穂空挺隊」としてフィリピンへ派遣されており、挺進第一聯隊および第二聯隊を中心とする第一挺進團は国内で戦力を温存中。
残る挺進集団で戦力の中核となったのが、滑空歩兵連隊だったのです。

しかし、日本初のグライダー空挺部隊はその特殊能力を発揮することなく消耗していきました。

第二挺進團の高千穂空挺隊に続き、挺進第一集団の各部隊もフィリピンへ向けて出撃します。
昭和19年11月27日、同集団に属する第一挺進機関砲隊、滑空歩兵第一聯隊、第二聯隊、滑空飛行第一戦隊が筑波で
第一挺進工兵隊、第一挺進通信隊、第一挺進飛行團司令部、第一挺進飛行團通信隊が川南で動員編成を開始。
これらの司令部として第一挺進集団は設置され、集団長には塚田理喜智少将が着任しました。

全部隊の動員が完結した翌日のこと。
12月6日、挺進集団司令部に「高千穂空挺隊がレイテへ降下した」とのニュースが飛び込んできました。
7日にはオルモックへの米軍上陸が伝えられ、塚田中将も比島作戦への参加を急ぎます。
しかし、制空権を奪われたフィリピンでは空挺作戦など最早不可能。
輸送機やグライダー自体も足りなかったので、重武装の挺進戦車隊は内地への残留が決定します。
苦労して育て上げたグライダー部隊は、軽歩兵部隊として地上で戦う事となったのでした。

既にフィリピンで戦っている第二挺進團の後を追って、第一挺進集団は門司港と宇治港へ集結しました。

・空路派遣
第一挺進飛行團司令部

・空母雲龍乗艦
第一挺進集団司令部の一部
滑空歩兵第一聯隊の主力
第一挺進通信隊の主力
滑空飛行第一戦隊の先発チーム
第一挺進工兵隊の1コ中隊
第一挺進機関砲隊の一部

・輸送艦青葉丸・日向丸乗艦
滑空歩兵第一聯隊の一部
滑空歩兵第二聯隊
第一挺進機関砲隊の主力
第一挺進通信隊の一部
第一挺進工兵隊

彼等が目指すはフィリピンのルソン島。
防御の手薄なこの島の守備に、空挺部隊が投入されたのです。

12月17日、空挺部隊の主力を載せた空母「雲龍」は、ルソン島へ向けて宇治を出港。
残る各隊は輸送船日向丸、青葉丸に乗込みました。
台湾沖を航行中の19日夕刻、米潜水艦レッドフィッシュから放たれた魚雷が雲龍に命中します。
必死で回避運動を続ける雲龍に2発目の魚雷が命中、これに積載していた特攻兵器が誘爆し始め、ダメージは回復不能となりました。
魚雷の第一撃から僅か20分、16時57分に雲龍は沈没。乗員は真冬の海へ投げ出されます。
脱出した者も冷たい海を漂う中で次々と命を落とし、救助された空挺隊員は僅か5名でした。

日本陸軍が誇る精鋭グライダー部隊の主力は、戦場を目の前にして海へと沈んだのです。

滑空
●空母と共に海没する滑空歩兵第1連隊。

「空母雲龍沈没」の報に、塚田集団長は愕然としました。
残存兵力は滑空歩兵第2聯隊を中心とする部隊だけとなってしまったのです。
12月29日、滑空歩兵第二聯隊、滑空歩兵第一聯隊の残余(舘中隊)、第一挺進工兵隊、第一挺進機関砲隊、第一挺進通信隊の400名が次々とルソン島に上陸。
これらの空挺部隊群は北サンフェルナンドから列車でクラーク地区の占拠防衛に向かいました。
しかし、挺進工兵隊と滑歩一の舘中隊は米軍の空襲で揚陸資材を喪失した上にリンガエンに取り残され、以降バギオ方面で別行動をとる事となります。

1月6日に新田原を発った塚田集団長も8日に現地へ到着、12月に先発していた司令部と合流。
そこで塚田集団長の指揮下に入ったのが、クラーク防衛にあたる「建武集団」です。
しかし、名前は勇ましい建武集団の実態は、数十に及ぶ陸海軍の雑多な部隊を集めただけの組織。その大部分は支援部隊であり、戦闘能力は期待できません。
塚田集団長はクラークに集結した空挺部隊を建武集団の中核へ組み込み、米軍への迎撃態勢を整えます。
但し、現地に複郭陣地は構築してあったものの、備蓄の食糧弾薬は二、三ヶ月分のみ。
建武集団は、乏しい戦力と僅かな物資だけで強大な米軍と戦わざるを得なかったのです。

1月9日、米軍はルソン島のリンガエン湾に上陸。
レイテ島に続き、ルソン島の攻防戦が開始されます。
その頃、マニラの防衛にあたっていた高千穂空挺隊残存兵も第四航空軍司令部の警護を命じられてルソン島を北上していました(エチアゲ到着直後、冨永恭次航空司令官は台湾へ逃亡)。

米軍がクラークへ侵攻したのは1月25日のこと。緒戦において建武集団の重火器や戦車は忽ち粉砕されます。
防衛線の正面で奮戦していた滑空歩兵第二聯隊ですが、僅かな兵力で米軍の大部隊に抵抗するのは不可能でした。

「ヤレヤレと息つく暇もなく敵の大群来挙、激戦日夜を通した状況で、編成直后で自分は将校の名前を覚えること、中隊幹部は兵の名前を覚えることに精力の大半を使い、甚だ不本意悪条件の下に戦斗に臨んだ。
部隊はクラーク地区に配されたが、該地区は陸海の混合部隊で名こそ建武集団と勇ましいが、実質は烏合の衆に近く、且つ兵器も竹槍を用いる状況で、残念乍ら戦えば必ず敗れると云う具合。
滑空歩兵第2聯隊はこのような泥池に咲いた蓮の花のような存在で、常に第一線重点方面に使用され、死守よく陣地を確保していると、何時の間にか左右の友軍行方不明となり、左右は勿論甚だしい時は後方迄敵の侵入する所となり、全くの袋叩きといった状況であった。
部隊は久しく内地で待機を命ぜられ、徒に挺進部隊の花々しい話のみ聞かされて切歯扼腕していたときであったので、石のような困難極まりない戦況下でも克く命令に服し、自ら進んで死地に飛び込んで行った。
部隊は空腹飢餓で死んだ人よりも戦死、戦傷死者が大半を占めたのを見ても、奮戦の様子がわかる。
全然無傷の者は800名中せいぜい5人以下と記憶している」
滑空歩兵第二連隊 高屋三郎中佐の証言より

30日、建武集団は平野部の防衛線を捨てます。
敵の攻勢下では、弾薬食糧の大部分を残したまま後方陣地へ撤退せざるを得ませんでした。
それ以降は補給はおろか山下司令官との連絡も絶たれ、飢餓に苦しみながらの抵抗が続けられます。

クラーク防衛戦
クラーク西方を防衛する滑空歩兵第二聯隊。 川南空挺慰霊祭より

一方、1月13日にバギオへ到着した第一挺進工兵隊は、南方総軍工兵隊の指揮下に入ります。
出発時は418名いた挺進工兵隊員ですが、12月19日には空母雲龍の撃沈で145名が戦死(生存者2名のみ)。
残存部隊はルソン島へ上陸しますが、12月30日には停泊中の青葉丸が空襲を受けて爆薬や車両など多くの物資もろとも沈没。
戦闘前から多くのものを失った工兵隊は、その状態のままバギオ防衛に投入されました。
先ずはアリタオとを結ぶ補給道路建設が命じられたのですが、29日までは抗日ゲリラの掃討作戦へ回されます。
道路建設に移ってからもゲリラの襲撃は続き、2月12日には米軍機の空襲で橋梁建設作業中の渡辺中尉以下24名が戦死。
渡辺小隊を失った挺進工兵隊は一旦撤収へ追い込まれます。
以降は飢えに苦しみつつ作業に当たっていましたが、3月になると補給は完全に断たれ、戦闘も激化していきました。

挺進工兵隊と共にバギオで戦う滑空歩兵第1連隊第1中隊員の中には、「骨のうたう」の詩で有名な竹内浩三兵長の姿もありました。
映画監督を夢見るこの青年が、凡そ不釣合いな空挺部隊に配属された経緯は不明ですが
自ら空挺部隊を志願した隊員のみで構成される川南の落下傘部隊と違い、筑波の滑空歩兵部隊は空挺志願の兵に一般部隊からの転属者を追加した混成部隊。
竹内浩三も、意図せずしてこの「斬り込み部隊」へ転属させられたのかもしれません。
昭和19年1月1日~7月27日の間手帳に記された「筑波日記」や数々の手紙で、彼の出撃前の心情を知る事は出来ます。

「戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や」

宮沢賢治の本に忍ばせた筑波日記と、「僕が死んだら豆腐のような白い小さなお墓を立てて下さい」という言葉を姉に残した彼は、昭和20年4月2日、バギオ北方1052高地の戦闘で散ります。
23歳でした。

挺進通信隊
演習中の挺進通信隊。クラーク防衛に参加、ほぼ全滅します。川南空挺慰霊祭にて


3月10日、挺進工兵隊は米軍接近に備えてバギオ北方ウグ山に陣地構築。
3月18日、ウグ山陣地の挺進工兵隊にバギオへの帰還が命令されました。
3月20日、バギオからツゲガラオ飛行場へ退避する村田大使、大使館員、ラウレル大統領、アキノ氏らの防衛の為、挺進工兵隊は北サンフェルナンドへ展開。米軍との激戦で第2中隊長以下多数を失います。
3月25日、要人退避まで米軍の足止めに成功した挺進工兵隊は、バギオに撤退。
4月14日、バギオへの侵攻を開始した米軍に対し、挺進工兵隊はイリサンに防衛線を張りました。イリサン到着後休む間もなく久米川参謀より米軍戦車隊の阻止を命じられ、紙一重の差で戦車進路上の橋梁爆破に成功。

挺進工兵隊
米軍戦車隊の進撃を阻止する挺進工兵隊。川南空挺慰霊祭にて

4月17日まで米軍戦車隊との攻防を続けた挺進工兵隊ですが、18日には指揮官である中井隊長が戦死。
「副官、安田大尉は中井少佐に対して「此の戦斗は私が引受ける。貴方の身体には部隊の全責任が懸っているから、私が死んでからでなくては決して出て来て貰い度くない」旨言い残して、花輪准尉と共に片野大尉の指揮所に前進する時に、10:00敵の猛攻は更に加わり、陣地の確保困難の状態となる。
10:30中井少佐は米田少尉を伴い突如第一中隊指揮所に現われた。
中井少佐以下各級幹部将兵一体の奮戦は、目前の敵を撃退すべく死斗数回、少佐の指揮適切且将兵の奮戦目覚ましく、流石の頑敵も撃退するやに見えた瞬時、中迫撃砲の1弾は中井少佐、米田少尉の中間に炸裂、両名は全弾を受けて壮烈な戦死を遂げる。
惜しい哉、中井少佐、若冠26才陸士第54期。比島上陸以来常に率先難に会して臆せず事を処するに果断、真に純性な青年将校であった。
この頃、右翼隊山本大隊は敵の攻撃餘りに激しき為、我が隊に何等の連絡なしに戦場を離脱する。
そのため我右翼に敵溢出して益々戦斗不利に陥った」
4月20日、第一挺進工兵隊の指揮を継いだ安田大尉の手記にはこうあります。
「4月20日、早朝から敵の攻撃熾烈、稜線の反対斜面一帯に敵の攻撃陣地が構築され、敵の人相迄明らかに識別できるように接近した。
隊員一同、「今日限りの命」としみじみ感じ、全員玉砕を覚悟せざるを得なくなった。
だがどうせ永くない命と思うと、案外坦々たる心境に入って戦斗することが出来た。
此の日全員自決用の1発を残して、今日迄節約に節約を重ねて来た弾薬を殆んど撃ち尽くしてしまい、余すものは肉弾のみとなった。
本部の下士官以下を中隊に補充し戦力の低下を防いだが、敵の無限の鋼鉄の力の前には陣地はじりじりと押し潰されてゆく。
この日、葛井原曹長、梅村、須田、小林、桜井、河本軍曹をはじめ多くの勇士を失った。
しかし挺進工兵隊はまだイリサンの一角を占領して、大敵をしてバギオへの突進を釘付けにしているのだ」
安田大尉からの兵力増援要請は受け入れられず、孤軍奮闘のまま戦死者は続出。
戦闘終了後、安田隊の人数は20数名となっていました。
イリサン防衛戦に於いて、挺進工兵隊は中井少佐以下戦死47名、行方不明35名の犠牲を出します。

kawaminami
訓練中の挺進機関砲隊。ルソンの戦いで全滅に近い損害を蒙りました。

4月24日、米軍がバギオ市への突入を開始します。

この頃になると、武器食糧の尽きた建武集団では餓死者が続出。
4月20日、塚田中将は遂に建武集団を解散し、以降は各自で自活行動に入るよう通達しました。
1月には3万の兵力だった建武集団は、戦闘と飢えと病によって1500名程度にまで減っていたのです。
「この日、戦区本部は十四戦区を解散し、以後各科毎に行動する事を命じた。主計科は米その他の食糧を分けた。武器弾薬もすべて分配した。
医務科も二〇一航空隊本来の隊員と、後から入ってきた一式陸攻隊の隊員と分離、別行動をとることになって、衛生資材、武器弾薬、天幕まで細かく切り裂いて個人用にと配布した。ただ当時の期日が、四月二十日クラーク防衛隊を解き、各戦区指揮官に委ねられた日であったかどうかは知らない。
(中略)
今はもう組織としての軍隊ではない。命令もなくなり、通報、伝達など無縁となった。ただ自分のグループについて行くだけである。
暦の上の日付など忘れている。今何月何日なのか、そんな事はどうでもよかった。夜になって丸い月を見ると、故郷の十五夜を思い出して語り明かすのである。この頃まではどのグループも糧食を持ち、体力も幾らかあった。目的とてなくも、西海岸へ出るのだと張り切った姿も見られた。
どのグループを見ても部隊を解散された兵士達であり、特に海軍グループが多く目につく。毎日多くのグループが続くためか、ネグリート族の襲撃にも遭わない。
見つけた焼畑の芋を掘り、食べながら、他のグループがすることに従うことが大部分であった。
こうしたグループの中に、何時からか完全武装に近い一個中隊ほどの陸軍兵がいた。食糧よりも武器を多く持っている。重たい機銃を担ぎ、迫撃砲を持っていた。指揮官らしい将校が「これから米軍にひと泡ふかせてやるんだ」と、意気まいていた。
間もなく他のグループを置いて先に進んでいったが、米軍の襲撃に遭って応戦の末、全滅に近い被害を受けた、と何人かの兵士が生き残って帰って来た」
二木滉著「クラーク戦線」より

挺進工兵隊
イリサン付近における第一挺進工兵隊の手榴弾戦。 川南空挺慰霊祭より

5月4日、挺進工兵隊は獨立混成第58旅団工兵隊の指揮下に入り、ボンドックへ向けて侵攻する米軍を迎撃。
此の頃から食糧事情は更に悪化し、5月末には殆んど飢餓状態に陥ります。
6月は敵への夜襲を続けながらボンドッグ道をジリジリと後退。この撤退戦で加藤准尉ら27名が戦死します。
7月20日、第一挺進工兵隊残存兵力はバギオ北方アキサンムの山岳陣地に展開しました。
高橋中尉以下17名を失いながら、ここを最後の拠点として敵への斬り込み攻撃を繰り返します。

これ以後、フィリピン各地に展開した滑空部隊は、現地軍と合流、または独立部隊として激しい地上戦を闘い続けました。
彼等が投降したのは終戦後、9月4日になってからの事です。

「軍使は米軍基地に向かって進んでいきました。私は市田少尉と安田上整を伴って長い森の中を歩いていきますと、途中、敵の歩哨線近くで数名の米兵に機銃と銃剣を突きつけられて包囲されてしまいました。
私は早く何とか言わなければならないと思うのですが、胸は早鐘のように鼓動がうち、それに戦争ボケで英語が思うように出てきません。
「軍使、最高指揮官からの軍使だ」
私は必死になって叫ぶと、続けて言いました。
「鉛筆をくれ」
うまく話せない英語を筆談で知らせたいと思ったからでした。それからは口から出まかせの英語と筆談とで、やっと我々を理解したのでしょうか、コチコチの米軍中尉がやってきて、拳銃を突きつけながら我々を救急車に乗せました。
途中米軍の戦車がひっくりかえっている急造の道を走っていますと、突然私達を載せた車はエンジンが火を噴き出しました。
急停車、あわや火災かと思っていますと、コチコチ中尉は急いで出口の扉を開けてくれました。恐ろしい顔をしていますが、なかなかしっかりしていて親切なところもあります。
更に森の中を走って広場に出ました。そこには見憶えのある黄山がありました。そうすると今車から降りた所が五の谷でしょうか。
何という変わりようでしょうか。
今ではすっかり整地がされて、ここには幾つもの天幕が建てられ、金網の囲いができていました」
七六三海軍航空隊 出田大尉の証言より

米軍と軍使の交渉により、建武集団の投降手続きが進められます。
辛うじて組織を維持していた十六戦區など一部の海軍部隊を除き、投降は簡単には行きません。バラバラに分散していた兵士の集結と武装解除、傷病兵の搬送も必要でした。
日本側の申しでた降伏条件は意外にも受け入れられ、山中に残る日本兵に対して米軍機による食糧投下が開始されます。

「九月十日頃、指揮官は塚田陸軍中将(挺進集団長)に諮られて、戦没者の慰霊祭を第二深山の塚田中将幕舎近くで行われた。
その日の夕方、私は非常用に蓄えていた約三・五リットルの米を出して、安田上整に炊事をさせていた。
ちょうどそこに塚田中将から連絡を受けた陸軍参謀山田少佐が岡本伍長とやって来た。米飯の炊事を見て驚いたようにのぞき込んで思わず言った。
「一口でよいからその米の飯を食べさしてくれないか。是非お願いしたい」
どこの誰だって、ずいぶん長い間米の粒なんて拝んだことはなかったはずである。この陸軍の参謀にしたって、草を噛み、木の根をかじって生き延びてきたに違いなかった。私はこの人達の気持ちがわかるだけに、その申し入れを快く受け入れた。
「もっと水を入れておかゆにしろ」
私は、安田上整に促した。
「いや、おかゆではなくて、固いものを食べさせてくださらないか」
山口少佐は懇願するように言った。だが、栄養失調者にいきなり固めの飯を食べさせたら、命とりになりかねない。
「いやいけません。固いものをいきなり食べたら、貴方達は死んでしまいますよ」
私は諭すように言って聞かせた。やがて、おかゆと米飯との中間位の軟らかめのものが出来あがり、海軍食器中椀一杯ずつ盛って二人に差し出した。
「岡本伍長、俺等はもう何時死んでも、思い残すことはないな。米の飯を食べられてよかったな」
目を潤ませながら、少佐は何回ともなくつぶやいていた」
「十六戦区本部転戦の記」より 七六三海軍航空隊 鳥井芳春少尉の証言

こうして塚田集団長以下の建武集団は投降。
生還できた空挺隊員は、クラーク防衛隊で約100名、バギオの挺進工兵隊では僅か40名だったそうです。
高千穂空挺隊や滑空歩兵部隊にとって、フィリピンの戦いは無残な結果に終わりました。

そして昭和20年5月、日本陸軍空挺部隊最後となる空挺作戦が決行されます。

(第五部へ続く)。



空挺給水塔 其の5 義烈空挺隊

Category : 第五部・義号作戦 |

五月の末だったか、義烈空挺隊の沖縄北中飛行場強行着陸の報は、一時的に私達の士気を高めたが、間もなくまた重苦しい気持ちになってしまいました。
もうこの頃は日本が降伏するとは思わなかったが、戦の前途に勝利の希望は持てず、いずれこの南九州も戦場になるだろうと思っておりました。
なお空挺隊といえば新田原にいた時、唐瀬原の空挺隊の降下訓練をよく見ており、また外出先の高鍋や妻(※現在の西都市)でよく彼等に逢って訓練の苦しさをグチられた事を思い出します。
「埋もれた青春」より 陸軍少年飛行通信隊 中島昭次氏の証言

義烈空挺隊機

●読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊突入機(この機体は予備機でした)。

(第四部からの続き)
12月6日からおこなわれた高千穂空挺隊レイテ島降下作戦は、このようにして無残な結果に終わりました。
高千穂隊に続いて、12月24日には別の部隊が空挺作戦を計画しています。
その名は「義烈空挺隊」。
米軍制圧下のサイパンへ強行突入する為に編成された、事実上の特攻部隊です。

パレンバンの栄光は輸送船沈没事故の為に挺進第2聯隊へ譲り、挺進第3、第4聯隊はレイテ降下作戦へと赴く中、ラシオ、ベナベナ・ハーゲンと戦機を逸し続けた挺進第1聯隊。
義烈空挺隊は、その第1聯隊から抽出されたコマンド部隊だったのです。

昭和19年6月15日、サイパン島に米海兵隊が上陸を開始。
その夜、島内に駐屯していた海軍空挺部隊の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊は反撃を試みました。
しかし、砲爆撃で掘り返された地形を突破するのに手間取った挙句、米軍の阻止線に引っ掛かって一夜で壊滅。
サイパン島守備隊も、昭和19年7月7日の総攻撃を最後に全滅しています。
日本軍守備隊玉砕後、サイパン島アスリート飛行場にはB29が配備され、本土爆撃の前進基地となりつつありました。
陸海軍はサイパンへの長距離爆撃を繰り返したものの、満足な戦果を上げることができなかった為に空挺部隊による敵飛行場への突入案が検討されます。
立案されたのは、夜間に輸送機ごとアスリート飛行場へ強行着陸し、駐機中のB29を爆砕しようという作戦でした。
クリスマスを選んだのは米軍が油断していると思われた為。
落下傘降下させてから引き返すと帰りの燃料搭載分空輸できる兵員が減るので、飛行機もろとも着陸したほうが良いという考えだった様です。
調達可能な輸送機の数から、部隊規模は150名前後が適当と判断されました。

「特攻」といえば神風や回天のような自爆攻撃のイメージがありますけれど、生還を期待しないという意味ではサイパンへの空挺作戦も特攻と同じ。
地上部隊との連携が前提だった高千穂空挺隊とは違い、敵の制圧下にある島へ空挺部隊単独で突入するのです。
余りにも無謀な作戦でした。
レイテとルソンの戦いに赴いた挺進第3、第4聯隊および滑空歩兵第1、第2連隊とは別に、無傷で川南に温存されていた挺進第1および第2連隊を中心とする空挺部隊群。
しかし、その2コ空挺連隊を活用する術など守勢に転じた軍部にはありませんでした。
せっかく育て上げた精鋭部隊はコマ切れにされ、悲惨な特攻作戦に使われ始めたのです。
サイパン特攻部隊は、その先駆けとなる筈でした。

給水塔
●宮崎県川南町唐瀬原に残る挺進第3連隊兵舎給水塔。
義烈空挺隊は、レイテ出撃中の第3連隊空兵舎を拠点としていました。

薫空挺隊のブラウエン突入が失敗に終わった翌日、昭和19年11月27日。
教導航空司令官から宮崎県川南の挺進練習部に対し「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されました。
この攻撃隊の指揮官には、挺進第1聯隊第4中隊長の奥山道郎(みちお)大尉が指名されます。
各挺進連隊の第4中隊は、破壊工作を目的に工兵出身者を集めていました。
B29を爆破する為、サイパン特攻部隊として爆薬の扱いに長けた第4中隊が選ばれたのです。
奥山隊長は、中隊から選抜した126名から成る攻撃隊を編成。
人員を補充再編した第4中隊残留組の指揮は浪花実大尉に引継ぎます。

「特攻隊員は全員志願のうえで出撃して行った」
などという“美談”は、義烈空挺隊のケースでは通用しません。
この「特攻隊」は、神風隊員のような志願制の体裁すらとっていなかったのです。

編成時に第4中隊で真相を知っていたのは、奥山中隊長、浪花大尉(後任中隊長)、宇津木、菅田、渡部、村上、山田の各小隊長のみ。
情報を秘匿するため、隊員らは自分たちが何処へ出撃するかを教えられませんでした。

「部隊の強味は選抜して編成したのではなく、私の部隊そのまゝが挺進部隊として成長したことである。
隊員はすべて十分に訓練を積んだ若武者ばかりですが、各隊長をはじめ隊員同志は直に家族のやうな愛情と團結のうちに苦労してゐたのが何と言つても心強いです」
日向日々新聞より奥山隊長の談話 昭和20年

「要するにまあ、何かやらにゃあいかん、という考えでしょうね。
あそこ(サイパン)へ行ってね、
誰が考えても、百名足らず飛行場に降ろしてパンパンやったってね、
一週間経ちゃあまた元に戻るんですから。
後続部隊も行かんですしね」
MRT宮崎放送「塔は黙して語らず」より、挺進第1連隊第4中隊長(後任) 浪花実氏の証言

給水塔

第4中隊の指揮を浪花大尉に引き継ぎ、「特別演習参加」名目で奥山隊が宮崎県から埼玉県豊岡へ移動したのは12月5日の事でした。
移動前には衛生隊員が全員から注射器で抜いた血で「血判状」を取った為、隊員達も只の演習ではない事に気付いていたそうです。
しかし、豊岡の航空士官学校で作戦内容を知らされるまでは、まさか特攻隊に選ばれたとは思いもよらなかったのでしょう。
空挺部隊は危険を承知の上で任務に就きますが、死を目的に訓練してきたのではありません。
死ぬことを命じられた隊員の間には動揺が広がりました。
その直後、11月に結婚したばかりの曹長が、思い悩んだ末に自分の右足を銃で撃ち抜くという事件を起こします。
部下を指揮すべき分隊長の自傷行為に、同僚の曹長達は激怒しました。

「私ら同年兵ですからね。
ほんで、私ら怒ったんですよ。
我々より下の13年、14年、15年兵が居るやないかと。
それに貴様がね、そんな事をするんだったらね、
俺達はね、言いたくないんやけど貴様を飛行場で殺す、と。
死体を飛行機積んで向う(サイパン)行くっちゅうたんですよ」
「塔は黙して語らず」より、和田伍朗曹長の証言

和田曹長らは彼の行為を諫める一方で、10名程いた妻帯者を隊から外すよう意見具申しました。

「“奥山隊長、少数精鋭でいきましょう”と。
そうせんとやね、奥さんや子供のある人はね、可哀想だと。
だから、もう(妻帯者は)外せと言うたんですけどね。
“でもなあ和田、お前はそう言うけどね、そう言う訳にはいかんぞ”と(〃)」

この件については奥山隊長も最後まで悩んでいたそうですが、却下せざるを得ませんでした。
小隊長・分隊長クラスに既婚者が多かった為、指揮系統を保持できなくなる恐れがあったのです。

結果として、奥山隊からは1人の隊員も脱落していません。
しかし、奥山隊全員が平然と特攻を受け入れた訳ではないのです。
鍛え抜かれた精鋭であっても、彼等は感情を持つ人間なのですから。

埼玉県では、サイパン出撃に向けてB29の実物大模型を使った爆破訓練が開始されました。
この特攻部隊は1個指揮班及び5個小隊で編成され、各小隊は2個分隊(各4個班)構成となっています。
胴体着陸した飛行機から飛び出すと、爆破担当1名、援護2名で構成される各組は敵に構わず滑走路を疾走し、B29に帯状爆薬や吸着爆雷を取り付けて点火。
点火を確認したら30m程後退して伏せ、爆破に備えるという訓練をひたすら繰り返しました。

「『爆破するとなると、爆薬を持っていくわけですね』
『吸着爆雷っていいまして、機体に吸いつくようになっているわけです』
『何か磁気で』
『いや、磁気ではなく、今、自動車なんかによくピシャッとこう、ひっつけるゴム(吸盤)で
それが二つ付いているわけです。
そうしてですね、これに1㌔の爆薬を仕込んどるわけで、それに柄がございまして、それが導火線なんです。
ずっと下の方に口火があるわけです。
で、引っ張ると20秒の間燃えまして、これをB29の翼の下にパチッとひっつけるわけです。
そしてB29を爆破すると……。
このほかに帯状爆薬といいまして、それをB29の胴体に巻きつけると。
その訓練を毎日やったんです。一か月間ですね』
「証言・私の昭和史」より、和田曹長の証言

爆破に確実を期す為、B29諸共自爆するという案も第1小隊長の宇津木伍郎中尉から出されたそうですが、渡部大尉から「一人で3機はやらにゃあ、日本男子があんなもの1機と心中しちゃあ、つまらん(「帰らぬ空挺部隊」より)」と却下されたとか。

自爆案は却下されましたが、全員の意思を統一する必要がありました。
奥山隊長は作戦遂行上の心構えとして、十箇条の攻撃訓を作成しています。
「一つ、一斉溌剌と 
二つ、任務絶対俺がやる 
三つ、三人三世ぞ戦友ぞ 
四つ、よくみよ敵を準備を早く 
五つ、剛胆沈着腹を据え 
六つ、無駄弾撃つな大事な弾ぞ
七つ、七生報国早まるな 
八つ、早くしっかり装着点火 
九つ、ここが墓場ぞ潮時ぞ 
十で尊き任務ぞあくまで頑張れ」
この頃、奥山隊は「神兵皇隊(しんぺいすめらたい)」と呼ばれていました。

豊岡では、奥山隊を空輸する第3独立飛行隊の諏訪部忠一隊長以下32名の飛行士と、「各小隊付の特別任務将校」として陸軍中野学校本校及び二俣分校から辻岡創少尉ら遊撃隊員10名が合流します。
総勢168名となった部隊は、12月17日「義烈空挺隊」と命名されました。

第3独立飛行隊は猛訓練に励んでいたものの、海軍航空隊と違って夜間の長距離洋上飛行には不慣れでした。
しかも、使用する97式重爆は浜松飛行場に野晒しにしてあった中古機ばかりです。
「今頃の若い人にあんな飛行機に乗れ言うたら怒りまっせ。怖い言うて」と和田曹長が述懐していますが、割れた風防や脱落したドアを、ベニヤ板やブリキで塞いで応急修理していた機体もあったそうです。

諏訪部隊はサイパン着陸後、奥山隊と行動を共にする計画となっています。
しかし、地上で戦う事に対し、パイロット達の心境は複雑でした。
後日、撃墜したB29から操縦マニュアルを入手した事で、B29を奪って帰還するという案も出されたそうです。
「最初はですね、サイパンのB29を焼くと。
そしてわれわれが戦闘しとる間にですね、飛行士が奪って帰るというような計画をしたんでございます(「証言・私の昭和史」より)」
荒唐無稽な案に聞こえますが、これにより飛行隊の士気は高まりました。

玉砕覚悟の空挺隊や飛行隊と違い、中野学校の10名は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏、残置諜者として遊撃戦を展開する任務を帯びていました。
「生き残る事」が目的の彼等は、空挺隊員にそれを悟られぬ様、苦労して作戦計画を立てていたそうです。

部隊結成から作戦予定日までの時間は、あまりにも短過ぎました。
出撃直前の12月22日に修武台で行われた空挺隊と飛行隊の夜間合同演習では、着陸地点を見失ったり高度が低すぎて灯火管制下の市街地に突っ込みそうになった機が続出。飛行隊の技量不足が露呈します。
第5小隊長の山田中尉に「本当のところ何機(サイパンへ)行き着くとお考えですか?」と訊かれた諏訪部飛行隊長は「上手くいって半数、下手すると零だな」と正直に答えたとか。

結局、途中給油地の硫黄島への空襲が激化した為にクリスマスの出撃は延期となりました。

豊岡で出撃待機状態のまま年は明けます。
「昭和二十年一月一日
今年の新年は靖国神社の樹の下と覚悟致していたのに
また馬齢を加えた訳です。
今度行くからには決して生きては帰れません。
また、遺骨も帰らない事を覚悟していて下さい。
それ程に、我々の責務は重大なんです」
義烈空挺隊 S曹長

“特攻せよ”と死ぬ事を命令しておきながら、出撃は何度も延期されました。
大本営側には、一度に168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇いがあったとされています。
しかし。
死を覚悟した隊員達にとって、それは残酷な仕打ちでした。

「“まだ死なせんとか”って言いよった位ですけん。
“まーだ死なせんか、もう死なせてくれ”って言いよったですね」
「塔は黙して語らず」より 元義烈空挺隊員酒井一義氏の証言

kawaminami

1月13日、奥山隊は出撃基地である浜松へ移動。諏訪部隊と合流しますが、出撃命令は一向に下されませんでした。
「ある寒い日、某下士官が所要あって隊長室に入った。その頃は薪炭の使用が極度に制限され、ストーブも短時間しか焚けない。
奥山は底冷えのする室内で、窓際に置いてある金魚鉢を、ジーッと見つめていた。
「オイ、当番室に湯が沸いていたら持って来てくれ」
「お茶ですか」
「いや、湯だ。この金魚も寒かろう」
金魚鉢に湯を入れてやろうというのだった。
奥山の顔には、いつもの明朗さはなく、深い悩が読みとれた(「帰らぬ空挺部隊」より)」

サイパン突入中止が決定された昭和20年1月27日。
死を覚悟していた隊員達は、空しく宮崎へと戻りました。

因みに、川南への帰還が「里帰り」となる宮崎県出身の隊員に、阿部忠秋少尉(中野学校)、蟹田茂曹長、新藤勝曹長、谷川鉄男曹長、森井徳満曹長、津隈庄蔵伍長、堀添綴伍長らがいました。
彼らの一人は、家族に対してこのような手紙を書き送っています。

「昭和二十年一月二十四日
前略
何たる神様のお引き合わせか。
再び生きて踏まずと覚悟した故郷に。
ただ、天にも昇る心地。
状況の急変により一応川南に引き上げ、川南にて訓練する事になりました。
三度目の正直で、また生きて帰るなんて」

川南に戻った義烈空挺隊は、レイテへ赴いた挺進第3連隊の空き兵舎に入って訓練を続けます。
挺進第3連隊の兵舎。そう、あの空挺給水塔が残されている場所ですね。
第4中隊の指揮は浪花大尉に移っていた為、挺進第1連隊に奥山隊の戻る場所は無くなっていたのです。
九州の片隅で宙ぶらりん状態となったまま、奥山隊長は部隊の士気を下げないよう苦慮していました。

しかし、次の攻撃目標はなかなか決まらないまま、時間ばかりが過ぎていきます。
この頃、副隊長格の渡部大尉ら5名を第六航空司令部に派遣したのも、部隊の存在をアピールする為だったのでしょう。

「昭和二十年二月七日
目と鼻の所に居りながら、毎日家に帰れないなんて本当に残念ですが、全てお国の為と諦めねばなりません。
楽しかりしあの日々。
幸せに浸りしあの頃。
しかし、余りにも短い幸せだった。
再びあの日が来るかしら。
それは神ならぬ身の知る由も無く、毎日君の写真を抱き
楽しかりしあの頃を思い浮かべて居ります。
ではまたお便り致します。
愛しき妻へ」
前出のS曹長

やがて渡部大尉らに伝えられたのは、3月19、20日を希望日とした硫黄島千鳥飛行場への突入命令でした。
偵察情報によると、そのころ硫黄島に不時着しているB29は第一飛行場に4機、第二飛行場に3機のみ。B24及びB25爆撃機11機以外の58機は全て戦闘機でした。
この為め、空挺隊の訓練内容は小型機の破壊に切り替えられます。
しかし、遊撃戦不可能な小島への突入命令に中野学校組は困惑。
諏訪部飛行隊長も、“爆撃で充分だ”と不満を漏らしていたそうです。

硫黄島空挺作戦計画
空挺隊地上移動:3月11日6時川南発、12日23時28分土浦着、3月12日に西筑波へ集結。
空挺隊空中移動:10~12日に出発(無線機は15日)。
飛行隊移動:11日西筑波着。
準備期間:筑波終結後1週間
連合訓練:13日から20日までに3日間。


3月12日23時28分、奥山隊は土浦に到着。
11日には諏訪部隊も西筑波飛行場に集結し、1週間の準備期間と3日間の連合訓練を経て出撃に備えました。

しかし、まるで思い付きのように発案されたこの硫黄島突入作戦も、日本軍守備隊玉砕により中止となります。
渡部大尉は「1個中隊だと思って軽々しく取扱うな!(「帰らぬ空挺部隊」より)」と激怒したそうですが、失意のうちに奥山隊は再び川南へと戻りました。
隊員たちが、ギレツクウテイタイをもじって「愚劣喰ウ放題」という自虐的なニックネームを付けたのもこの頃の話。

「硫黄島の作戦が又も中止された。いよいよもって生恥ばかりかくことになった。
兵隊の中にはこの様を自嘲してか、「グレツ喰イホウダイ」というニックネームまで飛び出し、吾々の憐れさを自ら嘆いていた。
あまりに長年月に亘り道草ばかり食っている特攻隊である。
ホームシックにかゝるものも若干出てきたのも仕方のないことであった。
「こんどこそどうしたらいいのか」
流石の奥山隊長も少しやせたようだ。吾々百数十名は隊長のいうまゝであったが、これからどうなることかと心配になる。
皇軍の精鋭を誇ったものの、あわれさは益々つのるばかりである。
副隊長の渡部大尉は専ら航空総軍との連絡に当っていたが、中止ときまってがっかりしていられるようだ。
恥をしのんで帰るのはいやであった……。
3月末再び川南に帰還した。
ここでは無茶苦茶に訓練で気をまぎらしているだけである。
日曜は他隊と出遭うのが厭だったので、月曜日を休日にしてもらって……
奥山隊長の苦しみも、この頃では顔に現れて来ていた」
空挺戦友会誌より、和田曹長の証言


唐瀬原で待機を続ける義烈空挺隊員は、夕方に起床し、暗闇の中で夜間戦闘訓練や爆破訓練を繰り返しました。
中には、他部隊の兵舎へ忍び込んでイタズラを仕掛ける隊員もいたのだとか。
深夜の川南一帯に出没する義烈空挺隊を気味悪がって、空挺部隊の歩哨は彼等の動向に神経を尖らせていたそうです。

春を迎えた頃、戦況は絶望的となっていました。
4月になると、軍部は本土決戦を見据えた「決號作戦」の準備に着手。
陸軍空挺部隊は航空総軍の隷下に入り、本土決戦の予備兵力として扱われるようになりました。
沖縄が陥落した場合、南九州が次の標的となるのは目に見えています。
そのため、軍部は第154、156、212の各師団を宮崎各地に展開。
5月になると、米艦隊接近に備えて日向の細島、延岡の赤水、日南の油津などで第33及び第35突撃隊による震洋特攻艇や人間魚雷回天の夜間突入訓練も開始されます。
宮崎県内にある海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や陸軍新田原飛行場、都城東及び西飛行場からも多数の特攻機が飛び立っていきました。
九州南部は、特攻と本土決戦の最前線となっていたのです。
その中に、川南の空挺部隊も組み込まれていました。
空挺作戦をしようにも輸送機は足りず、地上部隊として戦う外なかったのです。
川南の空に舞っていたパラシュートは、既に姿を消していました。

児湯郡都農には第212師団(通称菊池兵団)が配置され、隣接する川南の防衛も同兵団の担当となります。

「第212師団作戦計画
第1 方針
1 師団は第154師団(護路)と密に連絡し、都農北方畜台端を前縁として主抵抗陣地を占領し、敵上陸部隊を前方水際地帯に撃滅する。
唐瀬原地区に予期する敵空挺攻撃に対しては、所在航空部隊を併せ区処しこれを撃滅する。
富高、延岡方面には一部の兵力を配置し、海軍陸戦部隊を統合し細島水上(中)特攻基地及び富高航空基地の確保を重点として同要域を堅固に占領するとともに、所在特設警備部隊を併用し、敵の空海基地設定ならびに熊本平地に向う突進を阻止する。
2 状況によりその主力または一部をもって志布志方面、薩摩半島方面もしくは宮崎平地小丸川以南南地区に機動し、軍の決戦に参与しうるよう準備する」
藤野憲三「激動期の日本・川南開拓地に生きて」より

日本陸軍空挺部隊の本拠地である川南に対し、米軍側も空挺部隊で攻略してくると思われていたのですね。

しかし、「米軍上陸を迎え撃つ精鋭部隊」と称された菊池兵団の実状は酷いものでした。
物資・人材の不足により迎撃用陣地の構築は全く進捗せず、食糧や弾薬をチェックしたら1人当たり雀の涙ほどの備蓄しかない事が判明。
つまり、敵に第一撃を加えた後は撃つ砲弾が無くなるのです。
このような状態で菊池兵団がどうやって戦うつもりだったのか。
桜井徳太郎師団長は延岡から志布志をカバーする機動戦を考えていた様ですが、現地を見てそれが不可能だと知ったのでしょう。
下記のような証言が残されています。

「我々が現地着任早々に、第7部隊の結団式が商店街の竹乃屋で取り行はれ、永田聯隊長・中村平八郎大隊長・室積大隊長以下、将校以上全員の会合が開かれた。
当日の桜井師団長の作戦会議では下記内容の軍議で
方針
1 本土決戦に備え、持久作戦の準備として物心両面の充足を図らねば成らぬ。又敵の上陸作戦地は日向灘と予想される。
2 決戦兵団としての任務は、予想される敵上陸作戦に備えての陣地構築、迎撃準備は勿論長期交戦に備え、農家の援農は勿論、軍と言えども食糧増産、自給自足態勢の確立とともに、優秀種族保持の為、未婚兵員は結婚、人的資源の維持、増進も図らねば成らぬ。殊に独身将校は早期に伴侶を求めよ。
3 戦闘準備の為に目立つ物・光る物・音の出る物の調達の為の配慮をし、都農轟のトロ線を利用し、昼間は目立つ物、音の出る物、夜間は光る物、音の出る物を併用し、あだかも軍の大移動との欺瞞作戦を取り、敵の砲爆撃を促し、弾薬消耗作戦の準備に配慮すべし。
4 若し、敵が予想の如く日向灘都農に上陸作戦を開始し、橋頭堡を築かんとして上陸せし場合には、歩兵部隊をして名貫川を下向して、敵上陸部隊の後方より友軍の斬り込み再上陸をなさしむるが、迎撃作戦が失敗に終つても、第二次攻撃の弾薬の補給困難と思考されるので、歩兵部隊には言えぬが、其の折りには、迫撃部隊は彼我諸共に砲撃すべし。
であった」
「川南開拓の記録」より 元菊池兵団藤野憲三氏の証言

現在でも「陸の孤島」と揶揄される宮崎県平野部は、海岸線を制圧されただけで動脈たる国道10号線、日豊本線、港湾施設が機能しなくなります。海岸近くにある赤江や富高の飛行場も簡単に奪取された事でしょう。
オリンピック作戦が実行された場合、当初計画された水際撃滅や護路兵団との連携、ましてや機動戦など到底不可能。
兵站を絶たれ、制空権を奪われては、背後の山間部へ逃げ込んでのゲリラ戦しか抵抗の術はありません。
長期の抵抗は不可能と悟った菊池兵団では、米軍上陸部隊へ玉砕覚悟の側面迂回攻撃を仕掛ける積りでした。

宮崎県知事は米軍上陸作戦に県民が巻き込まれることを危惧しており
宮崎県警察本部の白川武夫警部を中心とした県民の大規模避難計画立案に取り掛かります。

「昭和二十年、終戦間際のこと。
私は県警察本部警防課勤務を命じられ、分室にスタッフ五名と共に通称「作戦室」を構成していた。
戦況が敗色濃くなった六月初旬には宮崎海岸に敵が上陸する公算大ということから、県民をいかに無事避難させるかが緊急課題となり、連日その計画案に頭を悩ませていた。
その腹案は、県内を交戦地区(米軍の艦砲射程圏)、臨戦地区(交戦地区の周辺)、避難地区(山間部)の三つに分け、交戦地区住民の住所氏名年齢を調査しておくこと。
また、避難地区については、畳の枚数、収容能力、輸送方法および順路などの青写真をつくっておかねばならない。
当時は自動車が軍に徴発されているため、荷馬車を使わねばならず、持ち出す荷物も一戸三十キロと制限する計画だった」
「平和の鐘」より 元宮崎警察署長白川武夫氏の証言

県庁地下室で練り上げられたこの計画も、軍部の二転三転する防衛方針に振り回されます。
漸く完成した避難計画が県内各市町村長へ公表されたのは、昭和20年7月30日のことでした。

住民避難計画のいっぽうで、地域住民で構成された郷土防衛民兵組織「国民義勇戦闘隊(20年6月制定)」の編成も着々と進められます。
ただし、民間人義勇部隊への武器弾薬の支給はナシ。
猟銃を所持していた人はマシな方で、手許にある農具や工具、果ては台所の包丁で戦えという無惨なものでした。
米軍が県北から熊本方面へ突破を試みた場合、西臼杵郡の住民が猟銃・竹槍やブービートラップで山岳ゲリラ戦を展開するという計画も本気で立案されています。
実際のオリンピック作戦計画だと、宮崎に上陸した米軍は延岡の手前で侵攻をストップ。鹿児島・宮崎を占領するだけで、九州北部への地上部隊進撃は行われない予定でしたけれど。

「本土決戦が行われたら米軍に多くの出血を強いた筈」という大層勇ましい論調もありますが、それでは日本側の「出血」はどうなるのでしょうか。
資源も枯渇し、制空権や制海権も奪われ、挙句は本土決戦の最前線ですらこのような有様だったというのに。



「三月十八日、私はいつものように、モンペを着て防空頭巾と救急袋を肩から下げ、鞄を持って七時過に家を出ました。
玄関から五十メートルも歩いたでしょうか。ふと見上げると、海の方から鳥の集団のように飛行機がこちらに向けて来ます。
その時、山の方(※新田原飛行場)からも戦闘機がワァーッとたくさん飛んで来て、私の頭上のすぐ近くで空中戦が始まりました。
初めて近くで見る米軍の飛行機です。
急なことで空襲警報も出ていません。恐ろしいとか、危険だ、とかそんなものではありません。家に向って飛ぶようにして走るつもりですが、足はもつれて、なかなか動きません。帰りついた時には、何がどうなっているのか、何が始まったのか分らないのです。近所の人も、あわててウロウロしていました。
私の父は鉄道職員で駅に勤務でした。家には出産で里帰りしている姉と新生児が寝ていて、母は思案にくれていました。姉は起きることも防空壕に入ることも出来ません。母は姉の傍らにいるので私も部屋にいました。
その時、敵機の一編隊が町を攻撃し始めました。家屋に向けての機銃の乱射です。もうこうなったら敵機は飛行場も軍隊も民家も何の見さかいもありません。
ひどい機銃の音がしたので、母は大きなふとんをかぶって姉の上に覆いかぶさりました。私も同じようにふとんをあぶって、赤ちゃんの上にかぶさりました。
その時、パンパンと二発の音がして、私の家に当り、その一発が居間の鴨居をつき通し、かぶっている蒲団の周りをシューッと通って僅かにはみ出している私の足を貫通したのです。
まるで大きな鉄の棒で殴ぐられたようなショックで、足がちょっとピクッと縮まったみたいで、何とも変で妙な気持でした。
「アッ」と思って足もとを見ると、白っぽい、やわらかそうな、固いような妙なものが足の側に飛び散っていました。
その瞬間よく分らなかったのですが、私の足の肉片だったのです。血はそんなに流れていません」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校生 亀井麻子氏の証言

昭和20年3月18日早朝、九州南部に突如として米軍機1400機が襲来します。
都井岬や日向に設置されていた電波探知機は役に立たず、攻撃を受けた新田原飛行場が警報を発した頃には内陸部の都城西飛行場にも米軍機が殺到していました。
沖縄侵攻への露払いとしておこなわれたこの奇襲攻撃を皮切りに、赤江、新田原、富高、都城西の宮崎県内各飛行場は凄まじい空襲に晒され続けます。無傷だったのは、草原と見間違えられて爆撃を受けなかった都城東飛行場のみ。
輸送機がいないので見過ごされていた唐瀬原飛行場も、遂に米軍機の標的となりました。
唐瀬原の給水塔にも、米軍機の機銃掃射による弾痕が刻まれています。

弾痕
空挺給水塔に刻まれた機銃掃射の跡


空襲の激化と共に米軍の上陸作戦への備えが叫ばれ始め、陸軍省教育総監部ではアメリカ空挺部隊対処マニュアルも公布しています。
一、敵の空挺隊に對しては、全員一致して迅速に撃滅せよ。
一、監視は敵の爆撃を恐れぬこと、敵の降下を観たら人をやつて確めること(夜は人形でだます場合がある)。
一、連絡はお互に任務を定めて漏れのないやう、知らぬふりをせぬこと、騒ぎ立てぬこと。
一、報告は迅速なること、ありのまゝに地點と数を報告すること、豫行訓練を行ふこと。居合すものは直ちに猛烈に攻撃せよ。敵は着地前が最も弱點なり。果敢拙速なれ。
一、障碍は敵の降りさうなところに何でも利用して手軽に造れ。軍の工事に全員協力せよ。
一、要點=橋、倉庫、工場、駅などを護れ。郷土を護れ、これが國を救ふ途なり。

対空挺マニュアル

アメリカ空挺部隊本土侵攻への恐怖を記した証言が残されています。
「緊張した中、二〇年の四月の終り頃だったと思う。
可愛岳の上空の方から落下傘でアメリカ兵が降りてきた。
体調をくずして、午前中学校を休んでいたが、午後は行かねばと用意している時、空襲警報。
急いで近くの壕に飛びこむと「落下傘だ、落下傘だ」と、みんなが騒ぎ出した。「出るな出るな」と男の人達が叫び出した。
てっきり落下傘部隊が降りてきたものと思い「ああ、これまでか」と、悲壮な覚悟をした。
アメリカ機が空中戦でやられたのか煙をはいて海の方にむかっていく時、落下傘でおりてきたらしかった。
川坂の岩戸の田んぼの中に一人降り、村人につかまった。
仁瀬の消防倉庫の前に連れてきていた。
その時、はじめてナイロンという布地を見た(落下傘がナイロン製)。
ポケットに櫛や鏡、写真等入れていた。村の男の人達は伐採鎌やフォーク(農業用)、日本刀、とび口に鎌等持ってかけつけた。
「わんどん(お前達)が家の息子を殺したのだ」と、口々に肉親が戦死した悲しみを叩きつけていたが、傷つける人は一人もいなかった」
宮崎県北川町編「あの日あの時」より 矢野ウメノさんの証言

※この北九州爆撃途中に捕虜となったB29搭乗員達の通訳は、日系二世だった安賀多国民学校教師の栗田彰子氏が担当しています。
結局、彼女が切望していたカナダへの帰国は叶いませんでした。
延岡市が空襲に晒された6月29日。
校舎の消火活動にあたっていた栗田先生は、米軍の投下した焼夷弾の直撃を受けて亡くなられます。

震洋
日向市細島港に残る、第121震洋隊の特攻ボート格納庫跡。岩盤が硬すぎて掘削に失敗したため対岸の回天基地へ移動後、出撃前に終戦を迎えました。

掩体壕
宮崎空港周辺に7基残されている海軍赤江飛行場の掩体壕群(写真のものは、宮崎市の資料で「六号掩体壕」と呼ばれています)。

宮崎県沿岸部に対する米軍の攻撃は、空挺部隊にとっても深刻な影響を与えていました。
挺進司令部では、物資を川南や高鍋一帯の施設や防空壕へ分散秘匿。
更に分厚い鉄板を蓋にした地下壕を司令部の真下に掘って米軍の空襲に備えます。
装甲部隊の挺進戦車隊は都城市防衛のため三股町へ移動、各支援部隊も比島作戦へ出払っており、川南の空挺戦力は貧弱なものとなっていました。
空襲警報が発令される度、女性事務員や出入り業者と共に防空壕に逃げ込む日々。
いかに精鋭の空挺部隊であろうと、空を飛べなければ小規模の軽歩兵部隊に過ぎません。
フィリピンへ赴いた挺進飛行隊のうち、日本に戻ってきたのは僅か3機の輸送機だけだったのです。

「矢継早に言われる看護の先生に、わたしはウロウロするばかりでした。
「体育館がもえる。すぐ行って。早く早く」と大きな声。
「此所はいいから、行って」と看護の先生の声で我に返って、用水桶の水を汲んで走りました。
体育館の中には落下傘が山と積まれていて、その中がくすぶっています。水をかけたり、外に運んでいたら兵隊が来て「大切な品を水でぬらした」と怒るので、「自分達で管理して下さい。学校が火事になる所でした」と言い返しました。
この時は先生方もひどく殺気だった雰囲気でした。
相変らず、雲の中から敵機のにぶい音が不気味に聞え、生きた気持ちもありませんでした。
その夜は亡くなった生徒のお通夜に行きましたが、とても悲しく、淋しく、わけのわからない腹立ちさでした。
朝からグラマンがうるさい日でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言

決號作戦(本土決戦)に備え、川南の第一挺進團も本土防衛の必要に迫られます。
本土侵攻に先立ち、米軍は本州の九十九里浜と九州の志布志湾に空挺攻撃をかけると予測されていました。
それに対処するため、挺進團は挺進第一聯隊を千葉県の横芝へ派遣、挺進戦車隊を要衝の都城盆地へ差し向けます。
4個空挺聯隊のうち、川南に残されたのは挺進第二聯隊、そして出撃待機中の義烈空挺隊のみとなりました。

空挺部隊による唐瀬原飛行場の防衛計画は下記のような内容となっています。

一、方針
第一挺進團は飽く迄も挺進作戦決行の自由を確保しつつ、菊池兵團沿岸守備隊と密に協力し、一部を以て飛行場直接守備に主力を持って敵核心戦力を剔択蹂躙し、菊池兵團主力と呼応し、敵を唐瀬原地區に撃滅す。
二、指導要領
1、第一挺進團は最後迄挺進作戦決行の自由を確保するため所要の兵力を上陸防御に充つることなくこれを保持す。
その兵力はMC20機分、「クハ」20機分と概定す。
2、飛行場直接防御のため直接守備隊を編成す。飛行場破壊後に於いてもその要部を確保す。
3、團主力は挺進部隊の特色を発揮し、あくまでも敵上陸軍の核心戦力の剔択蹂躙に任ず。状況により1の部隊をも之を使用する事を予期す。
4、飛行場守備陣地、遊撃拠点、對空挺隊陣地、待機訓練位置等の配置を適切にすると共に、特に相互の関連性に着意す。

三、兵力部署の大要
1、飛行場守備隊
長挺進整備隊長
挺進整備隊
獨立飛行隊第一〇一部隊
軽戦車、重火器通信の一部
2、挺進特攻部隊
跳下部隊 1又は2中隊(挺進第二聯隊)
滑空部隊 約二分の一(滑空聯隊より)
3、對空部隊
挺進第二聯隊の一中隊
挺進戦車隊残置隊
滑空聯隊の一中隊

四、主力
概ね現駐地にて待機訓練に当るものとす。

挺進團の指揮を離れ、第六航空軍の隷下となっていた義烈空挺隊は、米軍上陸に備える川南でも浮いた存在となっていました。

米軍の九州侵攻が現実味を帯びてきたこの頃、中野学校関係者が義烈空挺隊兵舎を秘かに訪問し、同期の辻岡少尉に、本土決戦に備えた地区特設警備隊の編成計画を伝えたと「帰らぬ空挺部隊」にあります。
この本土防衛計画へ組み込まれる前に、激化する沖縄戦への義烈空挺隊投入が検討され始めました。

4月1日から沖縄に上陸した米軍によって早々に制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場は、米軍迎撃機の発進拠点となり、多数の神風特攻機が撃墜されていきました。
両飛行場を破壊制圧すれば、特攻機が途中撃墜される危険もそれだけ少なくなります。
そこで、義烈空挺隊が北・中飛行場を制圧している間に、陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立てられました。
あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。

「お手のものの出動準備はまたたくまに終った。
川南駅から水前寺駅を経て熊本健軍飛行場へ向かった。ここで第一挺進団の隷下を脱し、菅原第六航空司令官の直轄となった。
攻撃目標は北及び中飛行場とのことだ。こんどこそ決行間違いない。毎日毎日飛行場攻撃の訓練が、真っ黒になって繰り返えされた。
突撃!突撃!
走れるだけ走って1機でも多く焼いてやるんだ。
此頃では熊本も毎日グラマンの銃撃を受けていた。吾々営外者は旅館の1室を借りて毎日部隊に通った。館主は吾々を見ると「兵隊さん、日本に飛行機があるんですか」「この戦争は一体どうなるんですか」との質問攻めである。
まさか「この飛行機をやっつけに征くのだ」とも云えず閉口した。
毎日新しい空中写真での研究である。
沖縄の地形は日を追って変ってゆく。
米軍の物量のほどを物語っている。
海上は沖の方が軍艦、その手前が輸送船、その又手前に海上トラック、上陸用舟艇と、海面余す処なく、沖縄は全く米軍の真中にある。夏の虫といった方が当っているかも知れぬ!
しかし一寸の虫には五分の魂があるという。
何が何でも今度こそは決行だ(義烈空挺隊第3小隊第2分隊長 和田曹長の証言より)」

「昭和二十年四月十日
愈々お別れの日が参りました。
何もかも、あの時のあの固い覚悟で……。
すべては神様のみ御存じの明日の運命。
人間、欲には限りありません。
上を見れば上には限りなく、また、下を見れば下にも限りありません。
僕達としては、今日迄生活できた事を感謝せねばなりません。
今こそ国家危急存亡の時。
わたくし事にばかり走っては居られません。
錦旗の元に馳せ参ずるは今です。
無理な事を申す様ですが、小生の心中もお察し下さい(義烈空挺隊第4小隊 S曹長)」

5月8日、奥山隊は日豊線で川南を発ち、熊本の健軍基地で第6軍菅原航空司令官の指揮下に入ります。
19日には第3独立飛行隊が浜松から到着。
この頃になると、猛訓練の成果によって飛行隊の技量も大幅に向上していました。
「私は毎日、隊長の操縦する九七重に同乗した。
海上五メートルという超低空で訓練するので、波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸したとき鴎の死骸が入っていることも度々だった。
(別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦後史別巻4より、日本映画社藤波カメラマンの証言)」

「昼は暗幕の室に寝、夜になると飛び起きて飛行場に走つた。
飛行機や戦車、物資集積所の模型に對し暗がりの中で夜の明けるまで猛訓練を続けた。
後にはわが偵察機の航空写真により敵航空基地そつくりのものが作られ、従つて一つの目標に對する訓練の程度は白昼行動するに等しいほどの正確さをもつてなされた。
また飛行機のどこを爆破すれば一番効果があるか、戦車のどの辺に爆薬を噛ませればよいか、周到綿密な訓練が何百編何千編となく行はれた。
暗闇の中で隊員同士がお互ひの気配を分別するはおろか、一人々々の気配まで区別して闇の向うから歩いて来るのに「おい○○」と呼び掛ける。
敵の真只中に強行着陸し、味方討ちせぬためにはこれまで徹底した魂の交流が必要であつた。
空挺部隊の特色は敵の腹中に飛び込んで、心臓を掻き回す戦術を続けねばならない。
このためには敵の砲の操作までも覚え込むといふ廣範囲の訓練が別途になされた。
空挺部隊を讃へる「空の神兵」といふ言葉があるが、隊員は之をにやけた言葉だといつて嫌つた。
「空の神兵等をこがましい。おれたちは當り前のことをやつて當り前の人間らしく死ぬのだ」といつてゐた隊長奥山大尉は豪放磊落な強者、典型的な空挺隊員で、日頃から生死を超越した明朗さだつた。
「俺達は永生きせねばならぬ。
みんな身體だけは大事にせよ。敵中においても出来るだけ頑張つて一人でも多く一機でも多くやつゝける」
何時も隊員にかう訓示した」
「義烈隊勇士の神技」より 昭和20年

5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。
同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。
20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。

1.義号部隊を以て沖縄(北)(中)両飛行場に挺進し 敵航空基地を制圧し、其の機に乗じ陸海航空兵力を以て沖縄附近敵艦船に対し総攻撃を実施す。
2.北飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて敵司令部及同地周辺地区の軍需品集積所を攻撃す。
3.着陸後有力なる一部を以って敵司令部及通信所を急襲し、高級将校指揮中枢を崩壊せしむ。
4.爾後海岸方向に戦果を拡張し、揚陸地点附近の物資集積所を攻撃す。
5.中飛行場攻撃部隊は強行着陸に膚接し、重点を在地飛行機の破壊に置き、併せて同地周辺地区・物資集積所を攻撃し、爾後海岸方向に戦果を拡張せしむ。
6.予定滑走路以外に着陸せる場合に於いても、速に担任地域に至り任務完遂に努むべし。
7.目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。離脱時期はX日Y時と予定し青吊星を併用す。
8.3Fsは搭乗機毎に一組となり、各部隊と共に戦闘せしむ。

部隊は離脱潜伏後、力の続く限り北飛行場への斬り込みを繰り返す計画となっていました。
つまり、沖縄にいる第32軍との連携や合流は一切考慮されていません。
奥山隊長は飛行隊に対して友軍の占領地まで脱出してみるようにと勧めてみましたが、諏訪部飛行隊長はそれを断ったと伝えられているそうです。

沖縄出撃予定日の昭和20年5月23日、兵舎廊下の黒板には画像のように書いてあったそうです。

義号作戦


午睡のあとは報道取材があり、隊員達は記者に対して思い思いの言葉を残しました。
彼等の様子について、当時の新聞記事より。

「私達は兵舎の一隅で最後の撮影プランに入る。
午睡の時間か、静かなひととき。
チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。
奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がピシッ、ピシッと響いてくる。
木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。
あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった」
日本映画社演出担当 大峯淑生氏

「私は任官後内地の勤務ばかりで弾丸の下を一回も潜つたことがない。
今度が初陣、任務が任務ですから日本男子としての光栄これに過ぐるものはありません」
中飛行場攻撃部隊指揮官 渡部利夫大尉(秋田県)

「やりますよ、きつとやりますよ。沖縄は自分の郷里ですから何とかして敵を斬り倒して敵を殲滅して県民を安心させたいと思ひます。
(中略)
徴兵検査の時までこの土地で成長した。妻にも軍刀を一口呉れました。敵が来たらやるんだと。妻も元気で頑張つてくれてゐます。
これほど武運に恵まれた喜びはありません。私は立派に死ぬことが出来ます。
まあ沖縄に行つたら私が道案内といふ所ですね」
山城金栄准尉(沖縄県国頭郡。沖縄出身の義烈空挺隊員は、他に比嘉春弘伍長がいました)

「医学を勉強した私が何故軍人になつたかとよく聞かれますが、私は唯御国のために御役に立ちたいと思つてゐます。
恩師岡山勝博士は長岡の山本五十六閣下の隣の家で育つたさうです。この恩師は教育も医学も御国のために役立たせねば意味がないといつてゐる。
私はこの薫陶の御蔭だと思つて何時も感謝してゐる」
北飛行場敵司令部攻撃隊指揮 中野学校原田宣章少尉(満州國ハルピン市)

第○部隊
分隊長三浦歳一郎曹長(宇和島市)が地図を展げて部下に注意を与へてゐる。
「みなはぐれるな。着陸場所はこゝだ、分かつとるなあ。
着陸したら天蓋をはづしてすぐ外に飛び出る。飛び出たらペラ(※機体のプロペラ)に注意しろ。いゝか、疎開することを決して忘れてはいかんぞ。
この辺まで進んで手榴弾戦をやる。いゝな、もういはんでも皆分かつとるな。
ようし最後まで頑張るぞ」

奥山隊長室
幼年学校時代からの親友だといふ武井盆夫大尉(群馬県)が坐りこんでゐた。
武井大尉は爆撃隊としてこの日沖縄へ進攻したのである。
奥山大尉「きさまとは長い間の交際だな」
武井大尉「これが腐れ縁といふやつか。幼年学校の時からずつと同じ釜の飯を食つて来たのだから」
奥山大尉「同期生にもよろしくいつてくれ、元気で突込んだとな」
武井大尉「うん!」
奥山大尉「どころできさま、おれたちが突込むところをよく見て帰れよ、頼むぞ」
武井大尉「そいつだけは引受けた。おれに任せておけ。この次はきさまの骨を拾つて来てやるよ(爆笑)」
隊長はむしや〃するめを齧つてゐる。
武井大尉「きさまがさうしてするめを齧つてゐる図はどう見ても〃ヨイコ〃としか思へんわい、あはゝゝ…」
奥山大尉「こいつつまらぬことをいふな……」
武井大尉「きさま少し痩せたな」
奥山大尉「昔は二十二貫を軽く突破してゐたがなあ、だがこいつだけは確かだ」腕を撫して昂然!

編隊長諏訪部忠一大尉(横須賀市)は手紙を読んでゐる。
宇津木中尉「誰から来た手紙ですか」
諏訪部大尉「見たこともない御嬢さんだが、女子挺身隊の女学生らしいなあ。東京都多摩郡吉野村四八八、久保富子さんだ」
宇津木中尉「綺麗な字ですなあ」
諏訪部大尉「うん」(読む)
航空隊の勇士様達に負けないやうに生産に頑張ります。御安心下さい。
私達は勇士様達の飛行機を一生懸命に造ります。どうか私達の造つた飛行機で仇敵を撃砕して下さい。
そしてこの美しい皇土を護り抜きませう。
勇士様の武運長久を祈ります。

日向日日新聞「悠々たりし義烈隊勇士」より 昭和20年

義烈空挺隊
出撃前夜、突入作戦の打ち合わせをする奥山隊長と義烈空挺隊幹部。

空挺戦友会の資料や残された編隊図等を見ると、義烈空挺隊は下記のような編成になっていました。
沖縄出撃の際は一部が変更されていたそうです。

北飛行場攻撃部隊(奥山道郎大尉指揮)
編成:指揮班、第1、第2及び第5小隊 
全12機中の8機で突入予定

隊長機:奥山隊長以下指揮班搭乗 
操縦担当:諏訪部忠一飛行隊長、川守田少尉
航法及び通信担当:小林少尉、長瀬軍曹
無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹
空挺隊員:尾身曹長、北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長

2番機:宇津木五郎中尉指揮(第1小隊長)
操縦担当:酒井少尉、長谷川曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:宮越准尉、谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長、

3番機:石山俊雄少尉指揮 (中野学校) 
操縦担当:新妻少尉、藤田曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:蟹田曹長、三浦曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長

4番機:原田宣章少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:町田中尉、岡本曹長
航法及び通信担当:瀬立少尉、石川伍長
空挺隊員:石丸曹長、松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長

5番機:菅田寿美中尉指揮 (第2小隊長)
操縦担当:菊谷軍曹、茂木軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:大浦曹長、佐藤曹長、藤村曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長

6番機:梶原哲巳少尉指揮 (中野学校) 
操縦担当:松尾曹長、岡本軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:今村曹長、大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長

7番機:棟方哲三少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:中原准尉、宮岡曹長
航法及び通信担当:青井少尉、今田兵長
空挺隊員:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長

8番機:山田満寿雄中尉指揮 (第5小隊長)
操縦担当:山本曹長、小川軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:伊藤准尉、高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長

中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮)
編成:第3及び第4小隊 
全12機中の4機で突入予定 

9番機:渡部大尉指揮 (第3小隊長)
操縦担当:久野中尉、荒谷少尉
航法及び通信担当:酒井少尉、簑島曹長
空挺隊員:山城准尉、池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長

10番機:熊倉順策少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:高橋少尉、小野曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:南曹長、森山曹長、和田曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長

11番機:村上信行中尉指揮 (第4小隊長)
操縦担当:吉沢曹長、水上曹長
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、道上曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長

12番機:渡辺祐輔少尉指揮 (中野学校)
操縦担当:木村曹長、小林軍曹
航法及び通信担当:なし
空挺隊員:稲津曹長、新藤曹長(旧姓東郷)、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長

※11番機が渡辺少尉指揮、12番機が村上中尉指揮と記載されている資料もあります

中隊は五個小隊、小隊は二個分隊、分隊は三個班、班は三名編成。
飛行機1機につき正副パイロット各1名。
各小隊に特別任務将校各1名配属。
爆薬・帯状爆薬各班2名、其の他手榴弾、破甲爆雷。
各分隊に軽機関銃1、小銃5、擲弾筒1。沖縄にはハブがいる為、毒蛇の血清も携行しています。

義烈空挺隊
出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原中将。


夕刻、出陣式を終えた部隊が飛行機に搭乗しようとしたとき、思わぬ事態が起きました。
予報によると23日は沖縄方面の天候回復とされていたのですが、先行する爆撃隊からは現地天候不良の報告が入り、続いて海軍の杉浦参謀からは「現地悪天候により総攻撃を一日繰り延べにする」との連絡があったのです。
第六航空軍は海軍から突然入った作戦延期の報に慌てます。
菅原軍司令官は急遽爆撃隊へ反転命令を打電し、出撃寸前だった義烈空挺隊は兵舎へと引き上げました。

翌5月24日。
先行の爆撃隊より現地天候良好の報告が入り、出撃は決定されました。
墨で迷彩を施した降下服をまとい、体中に弾帯や爆薬を装着した168名は再び健軍飛行場に集結します。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず、海軍は敵機動部隊発見の報が入った12時40分から菊水第7号作戦を発動、特攻機は次々と飛び立って行きました。
奥山隊の犠牲は、本命の航空攻撃を成功させる為のものだった筈です。
しかし、結局陸軍と海軍の歯車は噛みあわないままでした。

kawaminami
●出撃前、それぞれ自分の故郷の方向に頭を下げる義烈隊員たち。川南空挺慰霊祭にて。

隊員達は出撃前、家族や世話になった人々に宛てて遺書を残しています。
奥山隊長の手紙は、母に別れを告げるものでした。
「昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様」

諏訪部飛行隊長は兄宛の手紙に「部下多数あり 宜敷く御願い致します」と飛行士32名の名簿を添えて送りました。

宮崎出身の隊員達が遺した手紙も記載しておきます。

「拝啓 御両親様 
忠秋ハ本日敵飛行場ニ斬込ミマス
生前何一ツモ出来ズ申訳アリマセン
リツ、高坊ニハ呉々モ宜シク御伝ヘ下サイ
祖父母様ニモ宜シク御伝ヘ下サイ
其レカラ私物梱包一個軍刀一個送リマス
承知下サイ
二十四歳デ玉砕シマス
任官以来御世話ニナッタ方モ沢山アリマスガ略シマス
面白イ話モ沢山アリマスガ略シマス
附記 
死後ノ処置ニツイテ
イ 金銭ノ貸借ナシ
ロ 婦人関係ナシ」
阿部忠秋少尉(宮崎県高岡町出身)

「おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。
私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。
私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。
どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。
最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。
愛機南へ飛ぶ。
乱筆にてさようなら(熊本で世話になった銭湯「極楽湯」の堤ハツさんに宛てて)」
谷川鉄男曹長(宮崎県日之影町出身)

「(妻の)写真と共に敵地にと思い居りましたが、
余りにも可哀想だから送りますれば、決して変に取らない様。  
では、いつまでも元気でね。
僕も元気で行きます。
皆様にも宜しくお伝え下さい。
五月二十一日夜」
新藤勝曹長(宮崎県川南町出身)

「作戦計画が決まり、奥山隊は最後の仕上げの猛訓練を続ける。
暗夜の誘導路を息の続くかぎり走る。
一人が敵機に爆薬を装着する。
妨害する敵を二人が攻撃する。
爆破手が倒れれば次の者がかわる。
合図は呼子で自由自在に進退する。
数名が一団となり他の部隊の兵舎に忍び込んだり、急に出現したり忍者そのもので気味が悪い。
私は陸海軍の訓練や演習をいく度となく取材してきたが、
こんな荒っぽい、しかも厳しい部隊は初めてだった」
「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」より、日本映画社 大峯淑生氏

出撃に至る3日間、報道関係者は義烈空挺隊と寝食を共にして密着取材を行いました。
日本映画社時事製作局からは、7名の撮影スタッフが健軍に派遣されています。

「隊員達と起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。
窪塚カメラマンは“ひげのおっちゃん”と、親父くらいの年齢なので親しまれていた。
一番身体の小さい村瀬伍長は『韋駄天村瀬』の異名をとる二十歳の青年で、サントリーの12年ものを我々にすすめてくれたりした。
村上中尉は将棋盤を持って『一番願います』と私の好敵手だった。
飛行隊の長谷川曹長は、ひとなつっこい写真好きな青年で、撮影機を覗いて『見える見える、撮りますよ』と無邪気だった」

この長谷川道明曹長は民間パイロット出身で、出撃前に第3独立飛行隊の2番機機長に指名された人でした。

「妻子にも親にも秘密でしたからね。
『どちらへ行った?』『某飛行場、まあ九州方面』って言うだけでね。
何処へ行ったか判んなかったんですよ」
「塔は黙して語らず」より、長谷川曹長の遺族の証言

日本映画社の取材陣とは別に、健軍には従軍カメラマンの小柳次一氏も滞在していました。
数々の最前線で写真を撮り続けてきた小柳氏も、特攻隊の取材は辛かったと述懐しています。
出撃前夜、奥山隊長は“挺進殉国”と書いた色紙を「自分の心境です」と小柳氏に渡しました。
彼が撮影した写真には、笑顔で乾杯する宮越准尉や部隊最年長で沖縄出身の山城准尉、機内に乗込んだ新藤分隊長、小寺軍曹、宍戸伍長ら東郷分隊の面々、煙草を喫う熊倉少尉や和田曹長、お互いの階級章を外したり、整備兵に携行食料を分ける隊員達の姿が写っています。

中でも有名なのが、渡辺、町田、小林、新島、荒谷、川守田、酒井隊員らに囲まれ、隊長機前で奥山隊長と諏訪部飛行隊長が握手を交わしている写真ですが
「私は取材のとき、ノン・フィクションを建前にしていたが、奥山隊長の出撃機搭乗直前、諏訪部飛行隊長との握手を頼んだ(「別冊1億人の昭和史」より)」
と小柳氏が書いているように、これは最初撮り逃してしまったので再度ポーズを頼んだものだそうです。

奥山隊長
●当時の写真より、出撃直前に握手を交わす奥山隊長と諏訪部飛行隊長。

「隊長同士……、
奥山さんが乗る寸前にですね、“すいません、そこで握手して下さい”って言ったら
奥山さんが“千両役者ですねえ”って言って握手してくれたもんだから
周りの兵隊さん、笑ってる訳です」
MRT宮崎放送「塔は黙して語らず」より 小柳次一氏晩年の証言

義烈空挺隊員たちは、出撃前の短い待機時間を思い思いに過ごします。
陸軍予科士官学校教官だった中村勇挺進団長の周りには同校出身の隊員が集まり、母校の校歌を合唱。
他の小隊でも、負けじと義烈空挺隊の隊歌「君は御空の特攻隊」を唄いました。
これは軍歌「さくら進軍」の歌詞を空挺隊向けにした替え歌で、隊員達によって愛唱されていたそうです。

1番(「さくら進軍」では5番)
咲いた桜が男なら 
慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け 桜花 
八紘一宇の八重一重

2番(同3番)
明日は初陣軍刀を 
月にかざせば散る桜 
意気で咲け 桜花 
俺も散ろうぜ花やかに

3番(同1番)
日本ざくらの枝伸びて 
花は亜細亜に乱れ咲く 
意気で咲け 桜花 
揚る凱歌の朝ぼらけ

4番(同2番)
天下無敵の神兵の
姿頼もし花の空 
意気で咲け 桜花 
君は御空の特攻隊
君は御空の特攻隊

「我々一同、最後の一兵となるも任務に向かって邁進、もって重大責務を果たす覚悟であります。全員喜び勇んでいきます」
奥山隊長の号令の下、18時50分、12機の97式重爆に分乗した部隊は次々と健軍飛行場を離陸していきました。
しかし、9番機はエンジンが不調。急遽、渡部大尉らは予備機に乗り換えて出撃します。
10番機もエンジンが動かず、熊倉隊は渡部隊が乗り捨てていったエンジン不調機で1時間遅れて出撃しました。

出撃の様子については、当時の新聞でこのように書かれています。

「義烈空挺隊出撃の日は快晴であつた。
柔かい風がピスト前の吹流しを弄んでゐた。
いま勇士達にとつて、一番心配なことは沖縄上空の天気であつた。
だが、沖縄上空快晴に向かひつつあり、の嬉しい情報がピストに飛び込んだ時、基地はさつと殺気を孕んだのである。
今次作戦に際し奏上の際、陛下には畏くも本作戦に特に御嘉尚の御言葉があつた、との参謀総長から部隊長への傳達を部隊長から各部隊へ傳達され、勇士達の感激は極度に達した。皇軍はもう戦はずして敵を呑んだ。
『義烈空挺隊を中核とする航空総攻撃の壮挙にあたり、切にその成功を祈る』
部隊長の訓示は、後に続く義烈空挺隊を主力とする海空陸が一丸、一挙に沖縄の敵戦力を殲滅しようとする豪快放胆な総攻撃をいま決行しようといふのだ。
空挺隊の誘導隊として同基地を発進する爆撃隊の轟音が地を揺すぶつた。 
空輸機の整備が完了した。
空挺隊の乗組みを待つばかりだ。 
軍衣に淡緑色の迷彩を施し、重い装具をつけた空挺隊勇士は、静かに壮行の式場に車から降り立つた。
現地航空部隊長が勇士たちの前に立つた。
荘重な声で
『今はもう何もいふ事はない。
諸子の気持ちを察し、皇国の彌栄を讃へんが為に乾杯をする。
東方を向いて、大元帥閣下の万歳を奉唱する。唱和して貰ひたい』
杯を上げて万歳を奉唱する声の集団は、既に敵中に踊り込んでゐた。
隊長奥山大尉の杯になみなみと注ぐ、部隊長の笑顔は勇士達の『父親』の表情であつた。
『自分は余りいけないのですが』はにかむ奥山隊長は堂々たる体躯の隊長であつた。
『しつかり頼むぞ』『必ずやります』じつと見つめる部隊長と隊長。
空輸機の発動機も快調の轟音を響かし、砂塵は基地を吹き捲くつた。
出撃は迫つた。
『いいか俺について来い、最後の一兵まで任務に邁進せよ』
奥山隊長の凛烈の声が軍刀にきらりと光つた。
いよいよ出発だ。
『各分隊ごとに搭乗』
隊長奥山大尉の凛烈、火を吐く号令が轟々たる空気をかき消すやうに響き渡つた。
一機、二機、三機、爆撃隊が進発して行く。
続いて空挺隊を乗せた空輸機が―敵中に強行着陸、敵陣に斬込み、敵陣を引掻き回さうといふ空挺隊。壮烈鬼人も泣く―
言葉の彼方にある世界を何と表現し得られよう。
空輸機の機影も夜空に見えなくなつた。
飛行場にいつまでも機影を求めて空を仰ぐ部隊長、参謀長、隊長らの後姿……」
讀賣新聞「火を吐く号令 今ぞ義烈空挺隊は征く」より 昭和20年5月

「折からの夕日は翼を染めて一機また一機と飛び立つて行つた後、部隊長は奥山道郎大尉から手渡された小さな紙包を抱き抱へる様にしてピストへ帰つて来ると机の上にそれを置いて言葉もなくじつと見詰めた。
人々は隊長に倣ひほの暗い燈の下で同じ様にそれを見守り続けてゐた。
やがて沖縄本島の北、中飛行場に對する奇襲決行着陸に成功したとの報告が入り、更に北飛行場で敵の基地空軍力を根こそぎゆすり上げ、また中飛行場に對してもその特別攻撃が着々功を収めつつあるとの報告が矢継ぎ早に齎されるに至つて、紙の白さは見詰めるものの瞳に愈よまぶしく拡つて行つた。
部隊長が衝動的に立ち上つてそれを額に押しあてた。
中身はお金である。
義烈空挺隊の奥山隊長以下全員が、淡々たる別れの中に銃後に残して行つたのだ。
それは百円札からばら銭までがごつたに混つてゐた。
義烈空挺部隊は元々落下傘部隊としての降下訓練を永年受けて来た精兵中の精兵である。
沖縄決戦場にその機を迎へ、この基地に推進して来た。
しかし落下傘による降下でなくて空挺部隊として出撃するときまつた。
勿論それに何不足はないのであるが、敵飛行場に飛行機ごと殴り込むこの作戦には當然大切な輸送機を台なしにしなければならない、非常な残念さがあつた。
そこで一人重爆一機以上と突入訓練が開始された。一人一人が重爆一機の攻撃力以上の戦果をあげることによつてこの輸送機を失ふ痛手をとりかへさうと言ふのである。
十何種類の兵器を身につけて隊員達は基地を疾風の様に駆けめぐる訓練が熾烈を極めた。
最もめぐまれた条件の下に五月二十四日の夜を迎へた。
この日の朝、思ひがけなく義烈空挺部隊の原隊である落下傘部隊から部隊長がこの基地に訪れて来た。
そして出撃の直前まで行はれた部下達の烈しい訓練を観察してその成功を嬉しく信じたのであつた。
ずらりと居並んだ輸送機の傍まで来るとその翼をなでさする様にして「これを失ふのはたまらんなあ」と奥山部隊長を振りかへつた。
パレンバン、レイテ、そして今度の義烈空挺部隊と難局にその都度大きな石を投じて来た陸軍落下傘部隊には今や陸続として後輩が続き、来るべき日に備へてゐるのではあるが、ともすれば輸送機が不足し勝ちで訓練が十分に進まないのだ、輸送機が欲しいと部隊長の話を聞いて奥山隊長は唇をかんだ。
「さうだ自分が今度の作戦で敵は勿論味方まで圧倒させるほどの奮闘をするので、それが後輩たちの道を開いてやることになる」
と居合せた航空本部の某将校に語つたと言ふが、それでもなほ奥山隊長の気持はすまされなかつたのであらう」
日向日日新聞「空挺隊の尊いお金」より 昭和20年

中村挺進団長は、機体に乗込む奥山隊長を呼び止めました。
大尉の階級章はもう不要だろうから残していくように、と。
「そうですな!沖縄に行けば一躍軍司令官ですから」
階級章を外しにかかる奥山隊長に、団長は「何かお母さんに」と更に引き止めます。
奥山隊長はズボンのポケットを探り、取り出した印鑑と襟から外した階級章を中村団長へ手渡しました。
これが、奥山隊長の形見となったのです。

12機は米軍のレーダー探知を避けるため、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指しました。
しかし、中古機をかき集めた編隊では限界があります。
沖縄へ辿り着く前に5、8、10、11番機がエンジン不調や航法ミスにより脱落、これら4機は九州へ反転しました。
渡部大尉が乗り捨てて行った機で出撃した熊倉少尉達は、案の定エンジントラブルに見舞われます。
この10番機は何とか隅の庄飛行場に滑り込みましたが、その他の反転した機体は福岡県大牟田の海岸、熊本県三角の畠、八代の水田地帯にそれぞれ不時着しました。
八代郊外を流れる川への着水を試みた村上中尉の11番機は、水面で減速できないまま橋脚に激突して炎上。
操縦していた水上清孝曹長が殉職します。



沖縄へ向かった残る8機からも、途中で発信される筈の「変針」「本島到着」の無線連絡はありません。
焦燥感を募らせる健軍基地無線室に「只今突入」の入電があったのは、予定時刻を過ぎた22時11分の事でした。

同時刻、沖縄上空では飛行第60戦隊の杉森大尉機(乗員7名)が残波岬上空の着陸コースに沿って照明弾2発を投下。
それらを目印に、義烈空挺隊は突入を開始します。

待ちに待った知らせに健軍基地は沸き返りますが、この入電を最後に義烈空挺隊からの連絡は途絶えました。
ただ、着陸体勢に入った6機の赤信号は戦果確認機の第110戦隊長草刈少佐が22時25分に視認。
同機が「諏訪部隊成功」を報告した事と、22時45分から健軍と知覧で傍受され始めた、パニック状態で緊急事態を告げる米軍無線によって作戦は成功したと判断されます。

「沖縄の戦況情報が流れる。米二世を交えた特情傍受班が敵方の無線電話を邦訳して放送しているとの事であった。
「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」
次々と敵飛行場の混乱が報ぜられた。
その時「大牟田近郊に不時着せる特攻機1炎上中」「隈府に特攻機1大破」「三角附近不時着1機あり」と矢継ぎ早の連絡だ。
流石の菅原将軍も一寸当惑された様であった。
「引返機の処理は私の方でやります」との中村大佐の申し出に「よろしく頼む」との返事。
木下大尉の東奔西走で手際よく処理が進められた。事故機は後で判明したのであるが
1859(熊倉少尉高橋少尉機)1922(山田中尉機)1840(村上中尉機)後で更に1機が追加せられた。
引返機の原因は二機器材、二機航法と航空軍は調査報告している」
空挺戦友会資料より

この夜、義烈空挺隊の着陸を誘導した杉森機も北飛行場付近で消息を絶ち、未帰還となりました。
「特に直掩隊の杉森大尉機は、敵機の攻撃をうけつゝ空挺隊を誘導し、その目標に照明弾を投下した後、従容として自爆を遂げ、空挺隊の地上戦闘に多大な貢献をなした」
と当時の新聞記事にあります。

着陸後の通信を担当する筈だった一番機搭乗の辻岡少尉ら無線班が全滅したことで連絡は途絶。
以降、義烈空挺隊の戦果については航空偵察と海外報道から得た情報から推測するしかありませんでした。

一、空挺部隊は進航途上における哨戒、目標周辺における敵夜間戦闘機の邀撃ならびに飛行場付近における熾烈な對空砲火を突破して北、中飛行場に敢然着陸成功したのは午後十時半であつた。
二、着陸と同時に全員勇躍まづ在地敵機を焼却破壊、同行爆撃機は空挺部隊の着陸ならびについで続々敵機の炎上する光景を確認して帰還した。
三、敵は大混乱に陥りその在空戦闘機は飛行場着陸不能なため或は母艦に着陸を企て海中に墜落し、或は不時着するなど自滅したもののやうである。
四、在地敵機を焼却した挺進部隊はついで所在の司令部、集積所に突入しこれが尽滅を期し敢闘中である。
五、空挺部隊並に爆撃機により沖縄基地航空力を撃破制圧せる機会に乗じわが特攻隊はどし〃沖縄周辺の敵艦隊に突入中であり、すでに二十五日午前中に體當りを報告した特攻機は次の四十機に達してゐるが、無電装置のない特攻機の體當りは報告に含まれてゐないので敵に与へた損害は甚大なものがあると思はれる。
「空挺部隊 敵司令部へ突入」より 昭和20年5月

廿四、五日の特別総攻撃が最高潮に達するころ、沖縄付近の天候はふたゝび急変した。二十五日朝の沖縄は雲高五百、視程十キロで、徳之島以南は小雨が降つてゐた。さうしてところによつては雨雲が海面すれ〃にまで垂れ下り、雲状況は八千四五百に達する厚い密集の壁を作つてゐた。
義烈空挺隊と特別攻撃隊を主軸とするわが航空部隊の主作戦がこの悪天候を冒して強烈につゞけられた。
雲の壁に阻まれて戦果の確認は困難を極めてゐるが、同日夕地上友軍部隊から入つた情報によると、二十五日は本島上空には終日敵機影を認めず、強行着陸を敢行した義烈空挺部隊の肉弾攻撃が熾烈拘束の目的を完全に達成したことを物語つてゐる。
現在なほ義烈空挺部隊と敵軍との間に砲戦が交へられてゐる模様である。
わが空挺強襲の際、本島北飛行場八箇所に大爆発を起して使用不能に陥つてゐた。
當時この飛行場にはP51、P47を主力にグラマンと少数の大型機を含む約三百機の敵機があり、義烈部隊の着陸當時、そのうち相當数が旋回に上つてゐたとしても地上において爆砕されたものが多数に達したものと判断される。
また中飛行場はその後なほ暫らく活動してゐたが、やがて滑走路に大爆発が起り、北飛行場よりやゝ遅れて機能を停止した。
陸海軍爆撃隊によつて行はれた伊江島に對する夜間爆撃も同飛行場の八箇所を炎上させ、若干の誘発を起したことも認められた。
一方振武神風特攻隊の大挙出撃は、前記の作戦より数時間をずらして實施された。徳之島以南の天候急変にぶつかり、一部攻撃を阻害されたものもあるやうだが、大部分は密雲を突切り雨の中を匐つて海面すれ〃に目標上空に到達、同日午前中に判明したものだけでも空母一、戦艦二、巡洋艦一、駆逐艦一、輸送船一、艦種不詳四に體當りを敢行してゐる。
悪天候に海上捜索が困難なために戦果はなほ確認されてないものが多いが、最終的にはなほ正確な偵察の結果を待たねばならぬ。
朝日新聞「義烈空挺隊、敵と砲戦」より 5月29日

このように義号作戦については各方面で発表されましたが、そのうちのひとつ、讀賣新聞掲載の「月光下、天降る神兵」では下記のような内容になっています。
勿論、記者が沖縄特攻に同行取材した訳ではありませんので、突入後の描写は大本営発表等を元にした創作です。

「すなはち悪天候の間、満を持して待機してゐた各飛行部隊は晴天の訪れと共に一斉に襲撃を開始、沖縄戦場に猛然と殺到して行つた。
二十四日前夜半戦闘隊の掩護の下に、まず飛龍爆撃隊が出撃、伊江島基地を主目標として北、中飛行場の三飛行場を急襲。
同夜は一晩中少数機による波状攻撃を繰行し、敵三基地を拘束した。
敵基地空軍の制圧成るとみるや、突如奥山隊長の指揮する義烈空挺隊が行動を起し、北、中両飛行場に強行着陸を敢行した。
輸送機から踊り出した義烈隊員は直ちに在地敵機を求めて散開した。
偽装も遮蔽も無い敵機の位置はすぐにわかつた。
義烈隊員は脱兎のごとく身軽に敵機にかけつけるや、携行の新兵器を素早く駆使して敵機をもたゝく間(原文ママ)に破壊または炎上させてしまつた。
阿修羅の如く縦横無尽に暴れ回る義烈隊員の姿は、折柄十三夜の皎々たる月光に照し出されて凄愴を極めた。
忽然と出現した義烈隊員の奮闘ぶりに敵は茫然自失、一時は射撃も忘れてしまつたほどで、義烈空挺隊および飛龍爆撃隊は月光下に思ふ存分敵基地を蹂躙し、その機能を死滅させ、北、中飛行場はつひに使用不可能となつた。
この敵基地航空殲滅作戦に引続き、二十五日黎明には飛龍特攻隊が勇躍進発した。
飛龍特攻隊は昇る朝日にその両翼を輝かせて嘉手納沖に進撃、我が地上軍に砲撃を加へてゐる敵戦艦に対し猛烈な体當り攻撃を敢行した。
如何に戦艦といへども飛龍の抱く大型爆弾の必中を食つてはひとたまりもなかつた。
戦艦護衛の駆逐艦は慌てゝ逃げ惑ひ、右往左往する輸送船と衝突するものさへあつた。
飛龍特攻隊の進入とほゞ時を同じくして各その基地からは飛燕、破邪、山吹、九段、葉隠、悠久、降魔、天誅、櫻花など、振武特攻隊の各隊は一斉に発進した。
前線基地に待機中の振武隊はこの好機を掴んで全機敵艦船目がけて突入した。
○○梯団(検閲による伏字)に分れた振武特攻隊は各梯団、各距離、間隔、高度差を効果的に保持しながら
厖大な幅と厚みと深さとを持つ立体的構成をもつて肉薄した。
未だかつてみない多数機の堂々たる立体翼陣の波状進撃である。
邀撃に舞ひ上つたわづかの敵戦闘機群はその威容に圧倒され施す術もなかつた。
振武隊は敵戦闘機の抵抗を受けなかつた。また敵艦からの対空射撃もなかつた。
このやうに振武隊が敵の妨害なしに目標上空まで進入することが出来たのは初めてのことであつた。
飛龍爆撃隊ならび飛龍特攻隊さらに義烈空挺隊の事前空襲の効果は十分であつた。
たゞ海面だけがぎらぎらまぶしく光つてゐた。
そして嘉手納沖から糸満、湊川にかけておびたゞしい敵輸送船が死んだやうに横たはつてゐた。
二、三日前に到着した敵船は軍需品を満載してゐた。
振武隊にとつて絶好の目標である。
絶好の機会であつた。
振武隊から発進する突入信号は、雀躍りするやうにこの基地の無電室にはづんで来た。
(中略)
この特別総攻撃の結果、物量依存の敵が絶対不可欠とする海と物の必需限度以上を瞬時に失つたに相違ない。
混乱と狼狽の壁にぶちつけられた敵陣営の悲嘆こそいかばかりであらう」

これが発表されたのは昭和20年5月27日。
同じ日の14時10分、米軍の放送は下記のように伝えています。

「強行着陸した日本軍全滅。本日10時以降北飛行場の使用支障なし」



奥山隊がどのような最期を遂げたのか。
翻訳した外国の報道によって、日本側も大まかな状況を把握していました。

リスボン二十六日発同盟
グアム島からのエーピー電は二十六日に至り右事實を初めて確認すると共に攻撃の模様を次の通り傳へてゐる。
「日本航空部隊が超低空から機銃掃射を加へる間に、日本軍の双発機は飛行場に強行着陸した。
飛行機の中からは日本兵が月光を浴び、相次いで飛出し爆筒と手榴弾をひつさげて飛行場に並んだ米軍飛行機を次々に攻撃して火を放つた」
一方ニミツツ司令部は二十七日公報で
「日本軍は空陸呼応して過去数週間中最も熾烈な攻撃を沖縄本島の米軍に加へて来た。
日本特攻隊の攻撃は今次戦争開始以来最も強烈なものであつた」と述べ、日本特攻隊並に航空部隊の奮闘を裏書してゐる。 
昭和20年5月29日

チユーリツヒ三十一日発同盟
沖縄本島の北、中飛行場に挺進強行着陸したわが義烈空挺隊は米軍の空軍基地を大混乱に陥れ、多大の戦果をあげたが、パリ来電によれば、ヘラルド・トリビユーン紙パリ版は五月二十六日沖縄発同紙特電としてわが空挺部隊の敵飛行場着陸刹那の凄肝な情景を次の通り打電してゐる。

二十五日夜日本軍の空挺部隊は突如として沖縄の米軍飛行場に強引に着陸を強行した。
折柄飛行場の滑走路には数百機の飛行機がおかれてゐた。この群る飛行機の真只中に双発の爆撃機に分乗した日本軍空挺部隊が着陸したのだ。
基地司令官の一人スミム中佐の推定によると、日本兵は飛行機一台に十二名乃至十五づつ分乗、この飛行場に着陸した彼らは何れも手榴弾、爆弾その他放火兵器を所持し、更に数日分の食糧を携へて来たらしい。
一台の日本軍爆撃機は米軍の輸送機と戦闘機が群り集まつてゐる真只中に見事着陸、間髪をいれずその中から十五名の日本兵が躍り出した。
着陸地から百ヤードと離れてゐない司令塔にあつた當直の一将校は直ちに日本兵に對して急射撃を加へ、塔の下まで迫つた日本兵を打ち殺したが、彼自身も胸に貫通銃創を受けて逃げた。
日本軍航空部隊はこの空挺部隊の攻撃と相呼応して同夜米軍飛行場を猛烈に爆撃したが、その爆撃は沖縄作戦開始以来最も長時間に亘り実に八時間続行された。
昭和20年6月2日


義烈空挺隊機
米軍撮影の写真(焼き増し)より、読谷飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。

その詳細は長い間不明だったそうですが、戦後発表された米軍の記録によってようやく明らかとなりました。
「日米最後の戦闘」等には、概略下記のように述べられています。

「5月24日は海岸及び沖合いの艦船に対する日本軍の来襲は頻繁となった。
24日の晩、天空は澄み渡り、満月で爆撃には最適であった。
20時に発令された空襲警報が解除になった24時迄の間、日本軍の来襲を重ねること7回に及んだ。
第1回目に来襲した数機は読谷・嘉手納の両飛行場を爆撃し、第3、4及び6回目の来襲群も飛行場に対する投弾に成功した。

第7回目の来襲群は双発爆撃機5機から成り、22時30分頃伊江島方向から読谷飛行場に低空で侵入してきた。
対空中隊は直ちにこれを邀撃し、うち4機は炎上しながら読谷飛行場付近に墜落した。
しかし、5番目の飛行機は指揮塔から約250フィート東北から西南に伸びた滑走路に胴体着陸した。
滑走を終えないうちに約10名の完全武装兵がこの機から躍り出て、滑走路に沿って配置してある飛行機に向かって手榴弾及び焼夷弾を投げ、更にその一帯を小火器で掃射し始めた。
この為、コルセア2機、C-54輸送機4機、プライバティア1機が破壊され、その他26機が損傷を被った。
日本軍の挺進攻撃によって想像を絶するような混乱が基地内に惹き起こされ、小銃機関銃火が乱れ飛び、米軍に多数の死傷者を出した。

日本兵は損傷した輸送機に隠れて手榴弾を投げ、これにより足を吹き飛ばされた海兵隊員を含め18名が負傷し、管制塔勤務のケーレー中尉は負傷後死亡した。
この攻撃により、総計33機の破壊損傷機を出した他、7万ガロンのガソリンが炎上した。
23時38分には増援部隊が読谷飛行場に到着、飛行場勤務部隊を支援し、更に来襲を予想される日本軍空挺部隊に対する配置についた。

調査の結果によれば、胴体着陸機の日本兵10名が読谷飛行場で戦死し、他の3名は飛行機内に於いて対空砲火の為戦死を遂げていた。
撃墜された4機には各々14名の兵士が搭乗していたが、遺体は何れも墜落炎上した飛行機内に散乱して発見された。
海軍設営隊によって埋葬されたこれらの日本軍戦死者は69名を数えたが、捕虜になったものは1名もなく、ある者は自決した。
25日0時55分、残波岬で1名の日本兵が道路から藪に這い込もうとしたところを射殺されたが、おそらく空挺部隊最後の1兵士であったのだろう。

読谷飛行場は、滑走路上に散乱した破壊物の破片の為、25日8時まで使用できない状態であった。
空挺部隊の攻撃と同時に日本軍機が伊江島飛行場に来襲した。
この爆撃は飛行場に対し直接大損害を与えなかったが、米軍は60名の死傷者を出した。
この夜、空中攻撃によって日本軍機11機を沖縄で、16機を伊江島上空で撃墜した」

北飛行場へ向かった8機中、1機が着陸に成功、被撃墜4機、不明1機、途中帰還2機。
中飛行場に向かった4機中、途中帰還2機、残る2機は不明。
12機中僅か1機しか着陸できなかったにせよ、その1機の為に北飛行場は大混乱に陥りました。
それだけ見れば、ある程度の戦果はあったと言えるのかもしれません。
しかし、奥山隊の死闘空しく、主目的の航空攻撃は梅雨時の悪天候により失敗します。
こうして義号作戦は終了。
1名の飛行士が敵中を突破、6月12日頃に第32軍と合流したとも伝えられていますが、真偽の程は不明です。


いずれにせよ、沖縄へ突入した8機112名の中に生還者はいません。


義烈空挺隊
同じくアメリカの絵葉書より、上と同じ義烈空挺隊機の写真(別角度より撮影)。胴体側面に空いた搭乗口から、空挺隊員たちが飛び出していったのでしょう。

現地第32軍の八原博通作戦参謀は、義号作戦について戦後このような感想を述べています。
「五月二十四日夜の義烈空挺隊の北・中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防衛戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。
むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北・中飛行場ではなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遥か北、中飛行場の方向にあたって、火の手が揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して、感動を久しくした」

……。

突入後、米軍が撮影した映像や写真には、着陸・撃墜された97式重爆と破壊された米軍機の残骸、そして死闘の末に斃れた義烈隊員達が写っています。

出撃直前に撮影された、妙に和やかな雰囲気の隊員達と
それから数時間後の無残な結末の映像は
ひと繋がりの出来事だと理解はしていても、見比べて言葉を失います。



突入した8機の隊員は全滅しましたが、途中帰還した残る4機の隊員の中にも、再度の出撃を命じられた者達がいました。

まず、山本金保曹長ら不時着機のパイロット全7名が物資輸送任務に指名されます。
彼等は5月28日と6月3日、再び沖縄へ飛び立ち、全員が戦死していきました。
一方、奥山隊の不時着組48名は第1挺進團の各隊に復帰しますが、そのうち熊倉順策少尉(隅之庄不時着)や、酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは再度サイパン特攻作戦に関わることとなります。
これは海軍特別陸戦隊(S特部隊)と協同で行う「剣号作戦」と呼ばれるものでした。

義烈空挺隊の母体である挺進第1聯隊は、米軍の九十九里浜上陸に備えて4月に千葉の横芝へ移動。

その挺進第1聯隊に、二度目の特攻作戦が命じられたのでした。
山田挺進第一連隊長により、園田直大尉(後の外務大臣)を隊長とする「第2剣作戦部隊」が編成されます。
園田隊として、挺進第1連隊第1中隊(山本章太郎大尉指揮)及び第2中隊(大屋稔大尉指揮)の305名が海軍総隊司令長官の指揮下に入りました。
サイパン特攻部隊は、空襲を避けるため千歳に移動して訓練を開始。
これらの陸海軍混成特攻部隊は「天雷特別攻撃隊」と命名されます。


天雷特攻隊は、義烈空挺隊同様に敵飛行場への着陸強襲部隊として編成されていました。
「剣号作戦に参加した義烈空挺隊出身者は、海軍S特部隊のB29爆破訓練指導に当たった」とも言われていますが、詳細は不明です。

剣号作戦について、当初の海軍の計画は下記のようなものでした。
「海軍総隊に於て目下計画中の特殊作戦は次の通なり。
(イ)マリアナ基地攻撃作戦
「剣作戦」 
予てより潜水艦を以てする上陸作戦に備へて準備せし特別陸戦隊約250名を
中型攻撃機約25機に依りマリアナB29 基地に強行着陸を敢行し、
B29を基地に於て破摧せんとする挺進攻撃にして
目下七月中旬以降月明期の夜間実施のことに計画中なり

「烈作戦」 
銀河胴体下方に多数の機銃(15ミリ機銃20挺)を装備し、硫黄島及マリアナのB29基地を強襲する作戦なるも
目下機材準備等の関係にて使用機数等未定なり(「特攻」より)」

海軍グァム島攻撃隊
指揮官 平田海軍少佐
攻撃隊員 300名
陸軍攻撃隊
指揮官 園田直陸軍大尉
サイパン攻撃隊 大屋稔大尉以下第2中隊136名
テニアン攻撃隊 山本章大尉以下第1中隊150名


陸軍園田隊が参加後には、下記のような作戦内容に変更されます。
まず、爆装及びガンシップ化した銀河で編成された烈作戦部隊が飛行場に空襲を加えた後、「第1剣作戦部隊」の海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊はグァム(20機)とテニアン(10機)に、「第2剣作戦部隊」の陸軍落下傘部隊はサイパン(20機)とテニアン(10機)に1式陸攻でそれぞれ着陸攻撃。
当初はグァムとサイパンのみを攻撃する予定でしたが、広島への原爆投下後は、原爆搭載機の出撃拠点であったテニアンが目標に追加されています。

情報収集の為、敵飛行場への偵察飛行が繰り返され、撃墜された米軍飛行士を千歳に移送して、各飛行場の詳細な状況の訊問も行われました。
広大な飛行場に素早く展開する為、オートバイ数台と自転車が掻き集められ(オートバイは重過ぎて使用中止)、入手した米軍パイロットのサバイバルベストを参考に、爆薬携行用のチョッキも作製されたとか。

其の頃、義烈空挺隊の出撃を撮影した小柳次一氏も、軍報道部から作戦への同行取材を強要されてこれを拒否。怒鳴り合いの喧嘩になっています。
民間人カメラマンを特攻に出そうとする方がどうかと思うのですが、しかし、追い詰められていた軍部ではそんな事に構っていられなかったのでしょう。
徴兵してやるぞと息巻く相手を知り合いの軍人がなだめ、小柳氏には大陸へ身を隠すよう進言してくれたそうです。

この頃、天雷特攻隊とは別に、挺進第2連隊と挺進戦車隊から選抜された滑空飛行戦隊48名による、沖縄へのグライダー着陸攻撃「烈號作戦」も計画されていました。

挺進團の他部隊が戦地へ赴く中、実戦の機会が巡ってこなかった挺進戦車隊。
川南で待機を続ける挺進戦車隊は、3月18日に宮崎を訪れた三笠宮殿下の巡察を受ける予定でした。
しかし、当日朝から始まった米軍機の奇襲攻撃によって三笠宮一行は紫明館から八紘台(現・平和台公園)の重砲兵隊地下陣地へ避難。
ようやく空襲が終った20日夜に挺進戦車隊と空挺隊員は宮崎神宮へ移動、三日間地下に籠っていた三笠宮の前で、遭遇戦における協同演習を披露しました。
この頃の挺進戦車隊の戦力は
95式軽戦車 5両
98式軽戦車 19両(うち18両実働)
装甲車 12両(うち8両実働)
でした。
これ等の中から何台かの戦闘車両が再度の沖縄特攻作戦に抽出されます。

義烈空挺隊に続く沖縄襲撃作戦の指揮官は田中賢一少佐。
まずは広田敏夫大尉以下20名が選抜され、曳航機20機とクー8滑空機20機編隊で敵飛行場に夜間着陸後、37粍機関砲と12糎迫撃砲を搭載した軽装甲車で米軍機を破壊して回る訓練が行われています。

烈號部隊の空輸チームは北朝鮮の宣徳で訓練を行い、出撃に備えて福生へ移動。
グライダーの配備が遅れたため、作戦決行は8月20日頃の計画でした。

kawaminami
訓練中の挺進戦車隊。川南空挺慰霊祭にて。

高千穂空挺隊や義烈空挺隊の悲惨な前例を見るまでも無く、天雷特攻隊や滑空飛行戦隊の強襲作戦も、余りに無謀なものでした。

7月14日に予定されていた剣号作戦は、輸送機を空襲で失って延期となります。
「かくして八月十三日の朝、出撃の期日が決定した。八月十五日厚木、木更津に集結し、八月十七日の月明を利用して現地に十一時ごろすべり込むという寸法である」
小林孝裕著 「続・海軍よもやま物語」より

しかし、剣號部隊も烈號部隊も遂に出撃することはありませんでした。
作戦決行直前の8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

第3空挺連隊

陸軍空挺部隊の終焉。
それは、軍都川南が開拓地へ再生するための第一歩でもありました。

(第六部へ続く)

空挺給水塔 其の6 唐瀬原にて

Category : 第七部・空挺部隊の戦後史 |

「川南原の大開拓地に全国からまた、海外からも入植し、八,一一三人に達しました。
開拓者は困苦欠乏に堪えています。
水と燃料に不自由し、また地力が低いために生産はあがらず苦労しております。水は国営開田を待っております。
開拓地の大部分は未だ電力が通じておりませんが、前方の落下傘降下場地区だけは近く電力導入の運びになっております。
入植者は一般に教養の高い人が多いので、三千町歩の旧軍用地も自然の恵みと開拓者自身の努力によりまして、全地域が沃土と化し、やがて日本の興隆に大きな役割を果たす日も遠くないと信じております」
昭和24年6月6日 昭和天皇川南訪問の際の岩切秋雄村長の挨拶

河野弥市「傘寿記念 懸命に生きる」より 

陸軍落下傘部隊
川南町PR用の看板。落下傘部隊のことも記載されています。

(第六部からの続き)

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。
国家の総力を挙げた戦いは、無残な敗戦という結果に終わります。

日本が敗北した日のこと。
川南の挺進團司令部では「重大放送あり」との連絡を受けて挺進神社前に拡声器3台を設置、玉音放送に備えました。
しかし、電波妨害のせいで受信状態が悪かった為に放送内容は殆んど聴き取れず、中村挺進団長も「ソ連の参戦があっても我に神州不滅の信念さえあれば、そしてこの挺進神社の英霊に続かんとする意志変らざる限り必ず勝つ!」と訓示してその場は解散となります。

滑空挺進隊の山本春一少佐から停戦受諾との電話連絡を受けた中村団長の元に、「第一挺進団長は速やかに総軍司令部に出頭すべし」との航空総軍指令が届いたのは22時過ぎのこと。

翌朝、中村挺進団長は唐瀬原飛行場を出発。市ヶ谷にて13時より開催された会合にて、河辺正三郎大将らと敗戦処理が話し合われました。
その場に於いて、総軍司令官より
一、神州不滅の信念に徹し隠忍持久、百難を克服して國體の護持に邁進すること。
一、粛然として統制のある皇軍の特色を発揮し、堅確なる軍人精神を飽迄堅持して良民たるの基調たらしむること。
一、努めて農に帰し、一致團結永く皇國再興の基盤たらしむること。
の3つが示されます。

総参謀長からの通達は重要書類・物資の焼却と軍需資材の民需転換でした。

一、書類の整理
残地書類は死没者のみとし命令下達上必要最小限とすること。兵器保管原簿は焼却し、軍需資材の民間への転換メモは確實に。
職員長兵器、暗号書類の焼却は確實に。
二、人員の整理
下士官兵の除隊は即時在営人員の一割を目途とし、農業出身者で増産適任者を優先すること。除隊者の給与は金銭従来の通りとし、夏冬被服は一揃、毛布一、糧秣十日分以内、日用品若干、特に不軍紀を戒む。
三、通信連絡
概ね現在通りとし、つとめて有線電話を利用、防諜に努め暗号書は現用最小限を残置し他は確實に焼却すること。
四、資材関係
五、
六、諸施設
破壊焼却せず。現在実施中の工事は直ちに中止す。秘匿飛行場はそのまゝ民間に返還す。空地は民間関係へ。


この時点での陸軍空挺部隊は下記のような状況にありました。
挺進第一聯隊は、20年4月から千葉県横芝へ移動(千歳の剣號部隊を除く)。
挺進第二聯隊は、オリンピック作戦に備えて挺進司令部と共に川南空挺基地に残留。
挺進第三及び第四聯隊は、多大な犠牲を払いながらフィリピンの各地に展開中。
滑空歩兵第一聯隊の残余は、第23師団及び挺進工兵隊と共にルソン島で戦闘中。
滑空歩兵第二聯隊は、挺進通信隊、挺進機関砲隊と共に戦闘後、ピナツボ山中に籠城中。
第一挺進戦車隊は、オリンピック作戦に備えて宮崎県都城市近郊へ展開中(福生の烈號部隊を除く)。
第一挺進機関砲隊は、クラーク近辺で防空戦闘の末全滅。
第一挺進工兵隊残余は、滑空歩兵第一聯隊戸田中隊と共に第58旅団指揮下に入り、米軍と戦闘中。
第一挺進通信隊は、クラーク方面での通信任務にあたる中で壊滅。
挺進飛行第一及び第二戦隊は、レイテ作戦で受けた損害を北朝鮮で回復中。
滑空飛行第一戦隊は、挺進戦車隊の一部と共に福生で沖縄特攻準備中。

フィリピンに展開している徳永第二挺進団長指揮下の高千穂空挺隊と、塚田集団長率いる滑空歩兵部隊についてはどうしようもありません。
中村第一挺進団長は、内地に分散している配下部隊の掌握に急ぎます。

事態は一刻を争いました。
園田大尉のサイパン特攻部隊と田中少佐の沖縄特攻部隊は出撃寸前、挺進第一聯隊2個中隊と第二連隊は戦力を保持したまま国内で待機中。
まず、中村団長は停戦命令を伝えるために横芝の挺進第一聯隊の元へ駈けつけます。その日は第一聯隊の将校達と敗戦への対応を語り合いました。
剣號作戦の指揮により山田第一連隊長は不在だったので、以降の敗戦処理は同連隊の弓削少佐に托されます。

翌日には沖縄特攻に備えていた烈號部隊を慰撫するため福生飛行場へ飛び、そこから終戦処理のため唐瀬原飛行場へとんぼ返りしました。

敗戦により、国内に残留していた挺進団司令部と挺進第一及び挺進第二聯隊、挺進戦車隊、サイパン及び沖縄特攻部隊は行動を停止。
北朝鮮で戦力回復中だった挺進飛行団は組織崩壊、各個バラバラに朝鮮半島から撤退。ソ連軍に遭遇した隊員の多くは、収容所へ送られます。
フィリピンへ展開した挺進第3及び第四聯隊、滑空歩兵第一及び第二聯隊、挺進工兵隊の残存兵は、戦後しばらくして米軍に投降しました。

空挺部隊の主な犠牲者数は下記の通り

・第一挺進集團司令部
空母雲龍の撃沈及びクラーク付近の防空戦闘にて235名中174名が戦死。

・第二挺進團司令部
高千穂空挺隊指揮の為にレイテへ赴き、140名中戦死31名、行方不明52名。

・挺進第一聯隊
ラシオ降下作戦中止の際に2機が墜落、20数名が殉職・行方不明。
昭和20年5月には義烈空挺隊168名12機が沖縄北・中飛行場へ特攻、第三獨立飛行隊と中野学校出身者を含め8機の112名戦死。
機体不調で途中帰還した4機のうち、八代に不時着した機で飛行士1名が殉職。

・挺進第二聯隊
パレンバン降下作戦での戦死・行方不明者39名のみ。

・挺進第三聯隊
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。834名中白井連隊長をはじめ711名戦死。

・挺進第四聯隊
小丸川水難事故で8名殉職。
高千穂空挺隊としてレイテへ赴き、各地で戦闘。881名中斉田連隊長をはじめ792名戦死。

・第一挺進飛行團司令部
高千穂空挺隊の空輸任務の後に新田原へ帰還、北朝鮮で再編成中に終戦。100名中28名戦死。

・第一挺進飛行團通信隊
台湾にて挺進飛行隊の支援後帰国。更に北朝鮮に移動した時点で敗戦、ソ連軍に遭遇。189名中、49名死亡。

・挺進飛行第一及び第二戦隊
高千穂空挺隊レイテ降下作戦支援に従事。440名中71名戦死。

・滑空歩兵第一聯隊
主力はフィリピンへ向かう途中に空母雲龍撃沈により海没。生存者3名のみ。
残存の中隊は北サンフェルナンド及びバギオ防衛戦に従事。858名中727名戦死。

・滑空歩兵第二聯隊
滑空歩兵第一聯隊と共にフィリピンへ赴き、クラーク防衛戦に従事。862名中735名戦死。

・第一挺進機関砲隊
第一挺進集団としてクラーク防衛に参加、312名中301名戦死。

・滑空飛行第一戦隊
先発隊がフィリピンへ海路移動するも雲龍撃沈の際に全滅。残余は北朝鮮と福生で待機中に終戦。498名中77名戦死。

・第一挺進通信隊
第一挺進集団としてクラーク防衛に参加、416名中411名戦死。

・第一挺進工兵隊
フィリピンへ向かう途中、雲龍撃沈により海没。別動の残余は第一挺進集団としてクラーク及びバギオ防衛に参加、403名中357名戦死。

・第一挺進戦車隊
国内待機で実戦の機会なく戦死者もなし。

誕生から4年半。
こうして、帝国陸軍空挺部隊の闘いは終わります。
空挺隊員1万2千名のうち、約1万名の命が失われました。

落下傘

本土決戦は免れたものの、空襲による宮崎県民の死者は646名、負傷者559名。
宮崎各地の飛行場から飛び立った神風特攻隊員、県上空での空中戦や対空砲火で戦死した日米両軍のパイロットも多数にのぼりました。
8月15日の後、更に13名の「戦死者」が追加されます。
8月30日には福岡の捕虜収容所へ物資投下に向ったB29が視界不良により高千穂町の祖母山へ激突、H・ベイカー機長以下12名が即死。
年末には、森源市氏がB29墜落現場から少し離れた小河内山中に不時着している日本軍戦闘機を発見します。
それは8月7日に夜間航法訓練で目達原飛行場を飛び立ったまま行方不明となった飛行第65戦隊の隼であり、操縦席からは徳義仁軍曹の遺体が回収されました。

終戦によって川南の広大な軍用地も農林省の管轄下へ置かれ、満州からの引揚者、戦災被害者、復員軍人のための入植用地へ転用されます。
その開拓計画面積は軍馬補充部高鍋支部跡地が768.89ha、塩付パラシュート降下場が990.21ha、唐瀬原空挺基地群で1,249.63haなど、計3008.73haにも及びました。
当面は既存の施設群を流用しながら、入植者の受け入れ事業が開始されます。

10月5日、進駐軍の先遣隊が宮崎市と延岡市に到着し始めます。
民政部長マスマン少佐の指揮下、進駐軍は海軍赤江飛行場(今の宮崎空港)や川南空挺基地を中心とする陸海軍施設の接収・解体に着手。
日南・日向・延岡に展開していた33突撃隊および35突撃隊の震洋や回天などの特攻艇は爆薬を抜かれた後に遺棄され、直後に襲来した枕崎台風によって海没していきました。
松根油製造、食糧増産、トーチカや防空壕の建設などと米軍との決戦に備えていた宮崎県は、進駐軍の受け入れと戦後復興へ移行。
次々と暴かれる大本営発表の嘘に戸惑いながら、やがて新しい時代に順応していきます。

戦争が終わったとはいえ、唐瀬原の空挺基地では山の様な戦後処理に忙殺されていました。
戦没者名簿、功績者名簿の整理や家族・遺族との処理連絡は鈴木副官と戸次准尉が担当します。
米軍への物資引渡し業務は上田少佐が指揮しました。
兵器は木下大尉、糧秣被服は竹田主計大尉、車輛・燃料・工場・施設は伊佐見少佐、医薬品は黒沢軍医中佐が担当。
空襲を避けて尾鈴山中から日向灘一帯の百箇所以上に分散秘匿していた武器弾薬・糧秣関係の収拾、集積、品目員数の整理も大変な作業でした。
トラックや荷馬車が何十台も動員され、秘匿物資を集めに川南一帯を走り回ります。その中ではトラブルも頻発しました。
11月にやって来た進駐軍側も、軍事物資の在り処を徹底的に調査しました。

「兵隊が使用した教室を掃除したり、山と積まれた残り物は燃やし、軍用トイレを埋めたり消毒したり、本当に沢山の仕事を残して消えてしまった部隊でした。
体育館の落下傘も置きざりです。とても数えられない程、沢山でした。
布類の無い時ですから、裁縫の先生は大よろこびで教材に使用され、ワイシャツ、ベビー服、絞りの風呂敷、クッション、テーブル掛けなど作りはじめられました。役場でも落下傘を引き取って家庭に配給があったようでした。
(中略)
進駐軍が初めて学校に来た時、教師全員廊下に出て最敬礼をしました。前日、学校中を大掃除してピカピカに光る板床を軍靴で上って来るのがなんとも情けなく、自分が踏まれるような気がしました。
高鍋高女は落下傘(武器なんだそうです)を置いていたので戦犯学校とマークされ、調査や事情聴取をされました。
落下傘を教材に使用したのは武器を勝手に持出したとの解釈です。
軍隊が勝手に置いたのだといくら説明しても、その理屈は通らないのです。もう一つ印象を悪くしたのは、体育用具倉庫の中に垣根を作る予定だった有刺鉄線がいっぱい積んであったのです。
「これは何に使用するのか」「なぜ、こんなものを隠しているのか」と厳しいものでした。
校長、教頭先生はとても心配され善後策に走り廻られていました。万策つきて、落下傘で作ったクッション、マフラ、ふろしき、ガウン等をおみやげに持参し「生徒が教材として使っている」と説明すると、すっかり上機嫌で「もっとほしい」とのことだったと、肩の荷を下した表情で教頭先生が帰って来られました。
次の日から、おおっぴらに、おみやげ品作りでした。職員も厳しい目でみられました。私は雑誌に「戦争と人口問題」と題して寄稿したのが調べられ、質問を受けたり、資料の提出を求められました。
当時はこんな事はとても恐ろしいことでした。
痛くもない腹をさぐられるのが嫌で、私はこの時、戦争中の貴重なメモや日記をことごとく焼きました。
本当に残念なことをしたものです。
進駐軍の人々から、人に接するには柔かいが、仕事となると、とても厳しく、いい加減なことは決して許さない姿勢を学びとりました。しかし習慣や考え方の相違は誤解を招き、いらだちや気苦労をしたものです。
三月の雛節句の時、おひな様を飾り進駐軍の人に見せてあげたら、それを見て「神様か」と険しい表情で聞くので「日本の人形で、女の子がとても大切にして、三月には家庭で飾って楽しむのだ」と言うと「オーケ、カワイイ。キレイ」の連発でした」
「いのち輝く」より 高鍋高等女学校教諭 杉田樹子氏の証言


パラシュートとは別に、トラック十数台分にもなる軍衣類は宮崎県へ寄贈されました。しかし、この際も挺進団長の許可書類が無いと受け取れないとの回答で宮崎県庁と川南空挺基地の間を担当者が往復する羽目になっています。
空挺部隊の保有する武器弾薬は唐瀬原飛行場へ集められ、米兵監視の下で破壊処理されました。

空挺部隊が保有していた施設や200台ほどのトラックについては、整備隊長の伊佐見少佐が官公庁や宮崎交通株式会社への移譲を進めます。
それでも捌ききれなかったので、田中挺進戦車隊長により50台規模の運送会社設立が計画されました。
傷ついた高千穂空挺隊員の療養もかねて、会社の拠点は温泉地の霧島にすることまで決まります。
しかし、進駐軍のマスマン中佐は「一企業あたりの将校数は3名が限度」とこの計画を認めてくれません。
軍人が、しかも空挺隊員が何十人もの集団を結成するなどもっての他だったのです。
この決定で空挺隊員の集団帰農も否決。各個人が帰農手続することとなりました。
既に終戦直後には一割の空挺隊員、8月28日には在営人員の半数がそれぞれの故郷に復員していましたが、進駐軍はそれを加速するよう要求。
つまり、一刻も早く目障りな空挺部隊を解体したかったのです。

農地として解放された川南の落下傘降下場には、満州から引き揚げてきた開拓団が入植し始めました。取敢えず、この入植グループには挺進第四聯隊の施設が宿舎として宛がわれます(後の川南開拓協同組合)。
翌年春には戦地からも次々と高千穂空挺隊の生存者が帰国してきます。
空挺隊の帰還者については、戦闘と病、そして飢餓による身心への影響が予想されました。
その為、療養を兼ねての営農宿営施設の設置も着手されます。
空挺隊員の中には帰る家や家族を空襲で失ったケースもありました。彼等のうち、川南への帰農希望グループについては滑空歩兵部隊の山本春一少佐が指導にあたり、被服、寝具、糧秣が配当されます。
また、建築資材や耕作適地、高鍋軍馬補充部からは百数十頭の軍馬も川南への入植団へ渡されました。
※軍の焼印が記された馬は、進駐軍から睨まれるのを怖れて当初引取り手がいなかったという話もあります。

その頃、山本少佐は高千穂空挺隊員の帰国に備えて農地と住居確保に奔走していました。
当初は百名程度だった川南の入植者も、暫くたつと全国から続々と押し寄せ始めたのです。
宮崎に展開していた菊池兵団や護路兵団からも帰農希望者が続出。遂には過剰入植ともいえる様相を呈し始めます。
開拓は苦難の連続となりました。
入植者は全国から集まっているので、そもそもお互いの方言が通じません。
福岡県から転入してきた人でさえ「同じ九州なのに言葉が通じない」「福岡に比べて十数年遅れた世界だ」と驚くほど、戦後の川南は大混乱に陥っていたのです。
一大農業地帯でありながら、各農家では開拓が軌道に乗るまでは深刻な食糧不足に苦しみました。
更に、空挺兵舎の取り壊しが始まると間借りしていた入植者は追い出され(モチロン転居先の手配は無し)、廃材を集めて掘立小屋を作る派目になります。
水源地付近を割り当てられた人が、「水源の開墾は認めない」と押しかけた地元農家と一触即発の状態になったこともありました。
川南入植者の中には、あまりの過酷さに離農したケースも少なくありません。
それでも残った人々は兵舎を撤去し、突き固められた地面を掘り返し、酸性土壌を改良し、灌漑施設を建設するなど忍耐強く努力を続け、この地を豊かな農業地帯へと変えていったのです。

再び開拓の地となった川南は、後に「川南合衆国」と呼ばれるようになりました。



10月1日、挺進司令部は各部隊の状況説明者、監視および経理要員のみを残して在営隊員の復員を完了。
同月中旬に挺進司令部は解散、残務整理班の編成が認可されます。
第一挺進團司令部残務整理班は、下記の業務にあたりました。
一、比島出動部隊主力の帰還を予想する一月中旬を目途とし、当面的支援の達成。
一、復員者の援護
一、経費
一、帰還者の受入要領
一、補導事務所開設の促進
一、川南国立療養所(復員兵療養目的)設置への協力と連携
この残務整理班も、12月31日には解散。個別の復員支援業務へと移行して行きました。

川南国立療養所(現在の国立病院機構宮崎病院)は、義烈空挺隊が待機を続けていた挺進第三聯隊兵舎に入居します。
国立療養所長には、幸いにも空挺部隊と関係の深い唐瀬原陸軍病院の水上軍医大佐が就任していました。
水上所長の計らいで、残務整理班の竹田主計大尉らは病院の庶務担当として採用されます。こうして、戦地から復員してくる高千穂空挺隊員の療養体制が確立したのでした。

この川南国立療養所設置を最後に、陸軍空挺部隊の活動は終わります。

挺進第三聯隊
現在の国立病院機構宮崎病院(もと挺進第三聯隊駐屯地)


そのころ中村勇挺進団長は川南の竹山地区に残り、農作業をしつつ空挺隊員の帰農支援、戦死者を祀る挺進神社の世話を行っていました。
進駐軍は中村団長以下空挺隊員らの動向に監視の目を光らせており、妨害行為もあったといいます。

農地へ転用された川南空挺基地跡には、全国から集った開拓団に混じって菊池兵団や元空挺隊員らが入植していきます。
酸性土壌の改良、施肥、灌漑設備の整備。
軍用地を農地へ転換するには、その後20年もの月日がかかります。それでも、入植者の努力によって軍都川南の解体と戦後復興は着実に進んでいきました。
その頃の様子について書かれたレポートがあります。

「会議室の一隅に、わたしもチヨコンと坐つて傍聴さしてもらつた。
県農政課の赤木氏をはじめ、約四十名の人達によつてはじめられた会議は、實に生き生きと血が通つたものであつた。
開拓、帰農といふことは、趣味や道楽ではなく「食べること。生きること」に對する切実な「國と個」の要請に立脚したものであるからであらう。
“落下傘の降下場であつた八百町歩の土地は、どの様な人々によつて拓かれるのであらうか”
視線を落せば、机の下に居ならんだ脚にはかれた履物は、軍靴が大部分、次に地下足袋、役場関係の人の短靴。
履物によつて示される通り、菊池兵団の残留者が、有力なグループの一つを形づくつてゐる。
剣を鍬に代へて、作戦図ならぬ土地図付の青写真のまはりで、誰も彼もが、真剣なひとみで、村長のむちの先を追つてゐる。
菊池五部隊はここを、七部隊はここをとかつての参謀長は、部下の将来をおもんばかつて、村長の計画と兵隊の現實の間にたつてテキパキと交渉をすゝめていく。
「何でもいゝからつくれ、つくれ」
といふ国家の掛声はあまりにも非現實的である。考へて見ても、折角土台石を据ゑ、一片の土地を耕した後、そこが民間へ払下げになる土地だなんと言ふことにならぬとも限らず、現に、他図に引かれた境界線からはみ出してゐる数戸があり、村長さんを悩ましてゐる。
これは、元の土地の所有者と諒解がつけばよい問題である。
ひるが来ても誰も弁當をひらくものもなく、鍬を下す土地の決定へと強引に議事をすすめて行く……。
「實際皆、グラグラしてますからなあ」
終戦になつてから、今日まで流れた月日の中での、これ等若い帰農者の心境が、大塊のやうに私の心にもひびいてくる。
實際に作づけするまでには何と知られざる多くの日数と経費と精神の消耗があることであらう。
菊池兵団の他に挺進団とよばれるいはゆる落下傘部隊であつた組と、北川村、南郷村から三年前満州へ開拓団として移住して行つた人達と、まづこの三つの團體によつて、唐瀬原の八百町歩の原つぱは拓かれて行くのである。
県の方から斡旋する戦災者や帰農希望者の数を入れれば、地図の上ではもはや目白押の感がある位である。
「ここは芋村だから、芋位はでるぢやろ」
と誰かの預言が的中して、もろぶたに湯気立のぼる唐芋が運ばれ、二時前会議終了とともに遅いひるが始まつた。
やがて現地へ、参謀長殿のくるまへ皆のりこんで、空の神兵を生んだ土地へ今の分割図をひろげるべく出かけるのである。
現地が一望にをさめられる高台ではじめられた。何にもない草原、これで八百町歩もあるのかしら、右手にさへぎるものもなく海が見える。
「ここは立派な松林ぢやつた。それを毎日毎日振興隊で松を引つこぬいて大急ぎ降下場をつくつた。
えらいもんで七千人の人がここに入ると、どけいつたか(※何処へ行ったのか、の意)と言ふ位でなあ」
村長の言葉に、いまになれば感嘆とも悲哀ともとれない沈黙が答へるばかりであつた。
「すみません」
もはや地方人である元の落下傘部隊の一将校がぽつんといひ
「いやあ」
と皆の口辺に、ほろ苦い微苦笑がのぼつたけれど
「この傾斜地は防風林薪炭地として残す」
「あの松の下の所へ道路が通じる」
といはれて見て、この落莫とした秋枯の野は、豊かな畑地に、骨組ばかりのチラホラと立ちかけた家は、質朴な部落へと、私達の眼前で変貌して行く思ひであつた」
森千枝「新しき村を見る・川南村開拓地の巻」より 昭和20年

「開拓地の配分も家の近くに決まり、毎日荒地の開拓に努めましたが、耕作されていく畑地が全ての苦労を忘れさせて呉れました。
甘藷を主とした食料が、物資欠乏の時代でありましたから、これ程有り難いものは有りませんでした。
其の後、落下傘部隊本部裏に雨天体操場が有りました。鉄柱が林立した様な土地ですが、伊倉の矢野助役さん、登り口の永友美義さん、其の他の方々が、男の子供が三人も居る事だからと言う事で配分して頂きました。
現在は手の施し様もできなかったコンクリート鉄柱の跡も無くなり、美田と成りました。その当時頂いた温情は、年と共に感謝の念を深くして居りますし、又、家族一同折にふれて、話して居ります」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 鍋倉サダ氏の証言

「十一月の中旬に、やっと長野恵組合長にお遭いをして、私の入植目的を話して、唐瀬原開拓地の降下場に配分地をお願いした。
組合運営上の組織として小組合長会が有り、組合長から私の入植の話を出して頂き、菊友小組合の坂上清一小組合長が、菊友地区の一人分の配分地を世話して貰い、初めて開拓者として入植が決定致しました。十二月三日に川南に移って来て、屯田僧としての生活が開始されました。
高鍋管財局から兵舎の一部を借り受けて、一先ず其処に入りました。
大きな空屋の旧兵舎の南向きの部屋に、破れた窓ガラスを修理して何とか生活できる様にして生活が始まりました。
配分地の降下場までは4km近く有り、それから毎日通い開墾に取り掛かりました。
降下場の原野に木一本無く、見渡す限りの草原で、ニ~三入植者の家が有っただけでした」
藤野憲三著「川南町開拓地に生きて」より 僧侶 菊友三蔵氏の証言

川南一帯に散在する空挺部隊の兵舎は、まずは入植者の仮宿舎、やがては公共施設に再利用されていきました。

挺進第二聯隊
挺進司令部、挺進第二聯隊、唐瀬原飛行場などが集中していた川南町睦地区。
現在は県の畜産試験場や東小学校となっています。

挺進第一聯隊

軍馬補充部や挺進第一聯隊兵舎のあった川南町通山地区。画像は通山小学校の門柱。

給水塔
川南町唐瀬原の国立宮崎病院裏に残された、挺進第三聯隊兵舎給水塔。
川南湿原を挟んで、唐瀬原中学校付近に挺進第四聯隊の兵舎がありました。

挺進飛行隊
挺進飛行團が拠点としていた、新富町の航空自衛隊新田原基地周辺に4基残されている旧軍掩体壕。

終戦直後の話。
5月11日の空襲で焼け出された宮崎市の師範学校が空挺兵舎跡に間借りする事となりました(空襲の際、生徒6名が死亡)。
中村団長は、兵舎の提供ついでに挺進神社の世話を彼等に委託します。
突如進駐軍が川南に現れ、師範学校生達の抗議も聞き入れずに神社を焼き払ったのは、それから暫く後の事でした。
この頃、「空挺兵舎の師範学校生が、夜な夜な周囲を駆け回る白衣の集団や進軍ラッパの音に怯えて眠れない」という記事が地元新聞に載ったこともあります。

地元の人から「新聞に神社が焼き払われたと書いてある」と知らされた中村団長が急いで神社へ駆けつけた時、全ては終わった後でした。
団長が神社の焼け跡から拾い集めた釘は、御神体として地元の石川富士之助氏宅の祭壇に祀られます。石川氏は三男を戦争で亡くしており、地元戦死者を祀るトロントロンの招魂堂復興を願っていました。挺進神社の釘も、その気持ちから預かったのでしょう。
ただ、いつまでも個人の厚意に頼る訳にもいかず、中村団長は慰霊施設の建設に取り掛かります。
団長とは別に、かつての降下場付近に集団入植した空挺隊員たちも挺進神社復興を計画していました。
独自に農地の一部を整備しつつありましたが、正式な神社建設手続きを経ていないとして用地を没収されてしまいます。

中村団長は挺進神社の復興を断念、新たな慰霊施設の建設を目指しました。
遺族会の協力も得て、招魂堂を改装した神社建設の募金集めに奔走。
川南村民もその熱意に動かされ、トロントロン地区で護国神社の建設が開始されました。
進駐軍に怯えながらの建築作業でしたが、妨害行為は無かったといいます。 

ルソン島の飢餓地獄を体験した挺進集団長の塚田理喜智中将は、千葉県へ戻ったあと農業の研究に没頭していました。
各方面で戦没空挺隊員の慰霊施設の動きが始まると、そちらの支援もおこなっています。

新たに建設される護国神社には、川南から出征し、戦没した空挺隊員や地元出身兵士らの御霊1万2千柱が祀られる予定でした。
戦没空挺隊員の名簿は挺進神社と共に灰になってしまった為、中村団長は復員局へ出向いて空挺部隊の名簿を書き写しています。

川南護国神社に空挺部隊 一万有余の英霊合祀の由来

昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 
翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ
天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦い敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである
ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼き払ってしまった 
拠り所を失った英霊は 当時 旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である

平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同

川南護国神社の空挺碑文より

空挺慰霊碑

理不尽な焼き討ちから4年後の昭和24年、遂に川南護国神社が完成します。
3月21日、第1回の慰霊祭には2千人を超える川南住民が詰めかけました。あまりの多さに、付近の道路が通行止めになるほどだったといいます。
以降、川南の慰霊祭は毎年開催されることとなりました。

川南護国神社例祭の日は毎年11月23日。
全国から集まった元空挺隊員、宮崎県や川南町、地元遺族会、航空自衛隊や陸上自衛隊の関係者も参列しています。
慰霊祭は川南町のお祭りの一環として開催されており、町の人々が大勢神社に集まっていました。
普段とは違い、参道には屋台も並んでいます。
その日の朝から川南護国神社の周囲を歩いてみて分りました。
会場の設営作業や受付を含め、川南の人々が一体となってこの慰霊祭を支えているのですね。
地元の学校からも生徒さんが参加されており、三脚を据えて慰霊祭の様子をビデオ撮影して居ました。

慰霊祭はモノモノしい雰囲気や派手な催しなど無く、静かに進行されます。
式典会場を取囲むように空挺部隊の活躍を描いた油絵17点(松本武仁画)が並べられ、それらを熱心に見ている人もいました。
慰霊祭は1時間ほどで終了します。
参列者が退去すると同時に式場や絵画は撤去され、すぐさまお祭りのイベント会場へ早変わり。
自衛隊関係者は隣の広場へ移動し、落下傘部隊碑の前で記念写真なんかを撮っていました。
慰霊祭後の護国神社は、お祭りを楽しむ家族連れで夕方まで賑わいます。
※陸軍空挺部隊の慰霊行事としては、他に熊本などでも義烈空挺隊慰霊祭がおこなわれています。

設営
慰霊祭の設営風景

慰霊祭

慰霊祭

川南神社

川南護国神社が完成してから6年後、和歌山県の高野山に「陸軍空挺落下傘部隊英霊碑」の建立計画が持ち上がりました。
戦没空挺隊員の慰霊に奔走する中村勇挺進団長と元挺進第三聯隊付軍医の中村秀雄氏(旧姓深田)により、聖地である高野山に建墓しようという事で意見が纏まったのです。

「高野山でなくてもとの意見は、当然あると存じます。
日向の地を離れることについては釈然としない方もあるようで、他の地につていも色々と考えましたが、東京駅頭も、銀座の真中も人目にはつくでしょうが、やはり霊は霊地にあるべきで、日本全国から霊が集っていて、全国の人の参拝の絶間ない処で、最も幽玄な地と思って高野山を選びました(中村秀雄氏「唐瀬原」より 昭和31年)」

高野山本山の近藤本玄大僧正もこの申出に賛同、墓域の付与を許可します。
墓はあっても、空挺隊員の遺骨はありません。代わりに戦没空挺隊員の名簿が収められました。

昭和31年9月21日、川南護国神社から高野山への英霊奉遷式典がおこなわれます。
戦没空挺隊員の名簿作成に協力した防衛庁は、赤江飛行場(宮崎空港)に航空自衛隊のC46輸送機を派遣。
川南町から宮崎市までの位牌1万2千柱の輸送は都城駐屯地の陸上自衛隊が担当しました。

「美しい川南を英霊を先頭にして、日の丸の小旗を振って送ってくれる町の人達と別れ、つわもの共の夢の跡を辿りながら、十三里の日向路を赤江飛行場に向う。
昭和十八年の渡河演習で、一瞬にして八名を呑んだ恨みの思出を持つ小丸川。それを渡れば高鍋である。
英霊にも懐しい町並を抜け、更に南下して、最近竣工した一ツ瀬川橋梁を渡る。
右後方に紫色に霞むのが新田原の台である。
こゝで降下訓練を行うとき、日向灘から進入すればこの国道の上では既に扉を開いて降下姿勢をとっている。
“まなじり高きつわものの、いづくか見ゆる幼な顔”。決死の訓練が反復されたのである。
川は昔のまゝに流れ、台上は変ることなく紫色につゝまれているが、紅顔の若人達は今何処。
万感交々迫り来る。
一時四十分赤江飛行場を離陸、思出の日向の山野にもう一度別れを惜しみ、C-46輸送機は伊丹に向う
(全日本空挺同志会「高野山建墓の由来 英霊ここに眠る」より)」

関西へ到着した位牌は、翌日に陸上自衛隊太山演習場へ移動。
その目の前で、習志野から派遣された陸自空挺教育隊40名がパラシュート降下を披露しました。
新旧の「空の神兵」は、こうして相見えたのです。
9月23日午前10時、高野山に建墓された空挺落下傘部隊将兵之墓にて納霊・除幕式典は開催されました。

空挺落下傘部隊
川南空挺慰霊祭にて

“祖國日本の彌栄を願い 後に續く者を信じ 空挺落下傘部隊将兵の霊は此處に静かに眠る”

副碑に刻まれた碑文を読んで「慰霊碑があるということは、和歌山県に空挺部隊がいたのだろう」と勘違いする人もいる様ですが、あの慰霊碑が高野山に建てられた経緯は以上のようなものです。

給水塔

戦後の川南は、こうして再出発します。
広大な落下傘降下場や飛行場は農地となり、挺進第一聯隊兵舎は通山小学校、挺進第二聯隊兵舎は東小学校、挺進第三聯隊兵舎は国立病院機構宮崎病院、挺進第四聯隊兵舎は唐瀬原中学校へ姿を変えました。
軍事施設が解体されていく中で、挺進第三聯隊兵舎の給水塔だけが地元の保存要望を受け入れて残されます。
そして、戦時の記憶は次第に忘れ去られていきました。

戦後暫くの間、特攻隊は軍国主義の象徴と見られ、元空挺隊員やその遺族達も周囲からの非難や無理解に苦しみました。
片方のエンジンが停止して乗機が不時着、生還した義烈空挺隊の和田曹長は当時の状況をこう回想しています。

「“特攻隊か、馬鹿の寄せ集めか”と思たんと違いますか。
“特攻隊にいたからというて戦争に勝てる訳でもなし”と」

人々が日々の暮らしに追われていた、復興の時代の話です。

そんな中で忘れ去られていた義烈空挺隊の存在に、再び光を当てる機会が訪れます。
それは、戦後20年目の節目としてカメラ雑誌で戦争特集をする企画が持ち上がり、小柳次一氏の撮影した写真が使われる事となったのが発端でした。
終戦時には報道写真の多くが廃棄処分されたのですが、小柳氏は撮影した写真を自宅に保管しており、貴重な記録が失われずに済んだのです。
結局この企画は流れましたが、かわりに昭和40年8月、写真展「軍靴の音」が開催されます。
義烈空挺隊出撃の写真も展示され、元隊員や「ここに夫がいます」と涙する遺族達が会場を埋め尽くしました。

小柳氏の写真は一躍有名となったものの、これらを借りていく出版社の対応は酷いものだったそうです。
「載せたのを送ってきたのを読んでみたら、日本軍はこういう悪いことをしておったという使い方ばっかりでしょ。
ひどいのになったら、写真を載せましたから本を買えですからね。
情けなくなったですね」
小柳次一「従軍カメラマンの戦争」より

小柳氏は目を悪くした事もあり、写真の世界から離れます。


義烈空挺隊
毎年11月23日に開催される、川南護国神社の空挺慰霊祭。宮崎県、川南町、遺族会、空挺同志会、陸上及び航空自衛隊関係者などが参列されます。
空挺隊戦没者だけではなく、地元川南から出征し、戦死された方々も含めた慰霊行事です。

昭和49年、小柳氏は空挺同志会員からの招きで、長年暮らしていた鎌倉から川南へ転居して晩年まで過ごしました。
川南護国神社の慰霊祭には毎年出席していたとの事です。
そういえば、慰霊祭に参加される元空挺隊員のかたがたも年々少なくなってきていますね。


空挺部隊の基地から農業・畜産の町として復興を遂げた川南。
その川南に、再び試練が訪れたのは平成22年の春でした。

同年3月、川南町で発生した口蹄疫は瞬く間に町全体へと広がっていきます。
至る所で農道が封鎖され、大量の消毒用石灰が散布されました。
給水塔の周囲も進入禁止措置がとられ、近寄る事もできません。
傍から見て不思議だったのは、川南の真中を突っ切る国道10号線での全面消毒措置が取られなかったこと。
「まあ、前回の発生でも大した事なかったし」「農業関係の車だけ消毒すれば大丈夫なんだろう」
県民が呑気な事を囁き合っているうちに、口蹄疫ウィルスは県内各地へ爆発的に拡散。
たかが家畜伝染病といえど、その影響は想像の域を越えていました。
川南はおろか宮崎県の畜産は壊滅の危機に陥り、県内全域で人やモノの移動も大幅に制限。
それに伴って地域経済は悪化し、家畜の伝染病でひとつの県が身動きできなくなってしまったのです。
高速道路や県境では徹底的な消毒態勢が敷かれ、農場はおろか企業や店舗の入口にも消石灰が散布され、「次はどこへ飛び火するんだろう」と息が詰まるような日々が続きました。

ようやく口蹄疫の終息宣言が出された時、川南から牛や豚の姿は消えていました。
かつてこの地に空挺部隊がやって来た時とは比較にならない、まさに大打撃となったのです。

口蹄疫


やがて、全国からの支援を受けて、川南は再び復活への道を歩み始めます。
その年の11月23日、護国神社での空挺慰霊祭も例年通り開催されました。

塔は黙して語らず

2012年より、国立病院機構宮崎病院では大規模な病棟改修工事が着工。
給水塔の隣にあった保育所は新築移転し、給水塔の周囲でも工事用の整地作業が進められています。
このさき老朽化が進む給水塔はどうなるのでしょうか。
川南町側は貴重な歴史的遺産として保存したい筈ですが、所詮は国の所有物ですからね。
川南給水塔のある風景も、いずれは大きく変化していくのでしょう。

塔は黙して語らず
移転が決まった保育所。このような文字が掲げてありました。



川南が空挺部隊の拠点であったことは殆んど知られていない。
私がそう確信したのは口蹄疫パニックの時でした。
様々な掲示板で口蹄疫の話題を眺めていても、ニュースになっている川南が空挺部隊の拠点だったと知っている人はほぼ皆無。
「知られていないならば、こちらから情報発信していく必要があるんだな」と実感した事が
もしかしたら、このブログを作った理由のひとつかもしれません。

地元宮崎でさえ、川南に空挺部隊が存在していたことなど遠い過去の話となってしまいました。
平成10年に宮崎日日新聞が連載した「空の神兵の悲話」あたりで、初めて知ったという人も多いのではないでしょうか。
いっぽうで、その記憶を消すまいと努力された方々もいらっしゃいます。

小丸川水難事故を目撃した高鍋町の黒木三夫さんは、殉職空挺隊員慰霊碑の供養を欠かしませんでした。
古代の人々の霊を慰めるために巨大な石像を刻み続けた岩岡保吉氏は、工事で撤去される殉職八勇士の碑を高鍋大師に受け入れてくれました。
高千穂空挺隊の無残な最期を知った林公子さんと藤原美々子さんは、少女時代に延岡で出会った榊原大尉の話を紙芝居にし、地元の子供たちに伝え続けました。
小柳・藤波カメラマンをはじめとする義号作戦を取材した報道関係者達、健軍で隊員の世話をしてた堤ハツさんも、元義烈空挺隊員や遺族と関わり続けました。
そして、川南町の人々によって空挺慰霊祭は受け継がれていきます。

その想いは、下記の一文に集約されているのでしょう。
「国の護りに征った彼等の心情を、厚く厚く汲んでやらなければ、その遺志を踏みにじることになると、私は思えてならない」
「義烈空挺隊を撮る 小柳次一」より

小柳氏は平成6年8月に他界されます。享年87歳。
晩年のインタビューで義号作戦について訊かれ、病の床でこう答えていました。

「考えてみると、馬鹿馬鹿しい、ですね。
今になって考えて、馬鹿馬鹿しいなあと思いますね……」



西の地平へ沈んでいく夕陽に照らされ、唐瀬原の給水塔はオレンジ色に染まっています。
半世紀前の夕刻にも、ここで塔を眺めていた兵士がいたのでしょうか。
昔の出来事など、いつかは人々の記憶から忘れ去られてゆくのかもしれません。
ただ、かつて「空の神兵」と謳われた者達が此処に存在していた証として
異形の塔は、今も静かに聳え立っているのです。

国立病院2